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ヨコハマトリエンナーレ 2017 島と星座とガラパゴス 横浜美術館ほか

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2001年に最初に開かれて以来、3年に一度開かれている現代美術の祭典、横浜トリエンナーレが、今年その 6回目を迎えた。と、物事をまず疑ってかかる癖のある私は、のっけからここでひっかかる。3年に一度の開催なら、6回目は 2016年になるのではないか。そして調べてみて判明したことには、第 2回は 2005年で、初回からは 4年後だったわけだ。その後は予定通り 3年に一度の開催となり、2008年、2011年、2014年、そして今回 2017年である。初回の 2001年は、物珍しさも手伝って足を運んだ記憶が明確にある。それ以降も、少なくとも一度は行ったことがあるはずだが、書庫を調べてみると、図録は 2001年の初回のものしかない。因みに 2001年開催時には、イヴェント名は「横浜トリエンナーレ」と、漢字表記の地名になっているが、今回は「ヨコハマ」とカタカナになっている。どこかで方針変更があったのだろうか。なお、ここで常識的なおさらいであるが、世界のいくつかの場所で開かれる現代美術展で、2年に一回の開催のものをビエンナーレ、3年に一回の開催のものをトリエンナーレと呼ぶ。昨今のアート作品においては、非常に大掛かりなものや映像を駆使したものなど、様々に奇抜な作品もあり、海外から日本に運搬して展示するだけでも、それはそれは大変な手間とコストがかかるであろう。なので、横浜の地でトリエンナーレが継続開催されていることだけでも大きな意義があり、横浜市をはじめとする主催者の皆さんやスポンサー各社には、改めて敬意を表したい。

私は美術と名の付くものなら、古代文明の所産から現代アートまで、古今東西なんでも興味のある方であるが、実はひとつの素朴な理念がある。それは、アーティストたるもの、真のプロフェッショナルたれということだ。近世以降のヨーロッパ絵画であれ、近代の日本画であれ、画家はそもそも職人性に立脚したプロフェッショナリズムを素質として要求される職業。ピカソはいかにヘタクソに見える絵を描いても、その本来の超絶的なデッサン力があればこそ、あの方法が許されたということは、既に歴史的事実として、多くの人々が知っている。実は私の長年に亘る現代アートへの疑問には、その意識が根底にあって、もちろん人並みに現代アートに興味はあれど、本当に心揺さぶられる作品に出会う機会は、さほど多いとは思っていない。私がクラシック音楽や伝統芸能を尊敬し愛するのは、演じたり奏したりする人たちの、不断の鍛錬に裏打ちされた真のプロフェッショナリズムに第一の理由があると言ってもよいのだが、現代アートの場合、さてそこはいかがであろうか。人類が有史以来、いや、先史時代から行ってきた芸術活動の未来を考えるためにも、このような現代アートの祭典には、足を運ぶ意味があろう。

今回のトリエンナーレは、8/4 (金) から 11/5 (日) までの約 3ヶ月間に亘って開かれ、そのメイン会場は横浜美術館。それ以外にも、横浜赤レンガ倉庫や開港記念会館を使って展示が行われた。私が現地に足を運んだのは、ちょうど横浜みなとみらいホールでチェコ・フィルの演奏会があった日で、その前後に横浜美術館と赤レンガ倉庫を回ってみた。興味深かったのは、会場のどこでも写真撮影が可能であったこと。過去の文化遺産としての美術であれば、作品は写真撮影が禁止されることが多く、その根底には、美は唯一無二のものであって、複製は卑しいものという発想があるように思う。それに対し、現代のネット社会においては、どのみち情報も映像も評価も、瞬時にして世界中に拡散するわけで、そういうことなら最初から複製を禁止するよりも、積極的に拡散させる方向に持って行った方がよい。それは開かれたアートにつながる発想であり、大変結構ではないだろうか。ということで、この記事の写真は、すべて私がスマホで撮影したものである。メイン会場の入り口にはいきなりこんな装飾が。
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これは、中国の艾 未未 (アイ・ウェイウェイ) という人の作品で、壁面に掛かったゴムボートは「Reframe」、入り口左右の柱に見えるのは夥しい数の救命胴衣で、これは「安全な通行」という作品。いずれも難民問題に関係しており、後者は、実際にギリシャのレスボス島に漂着した難民たちが着用したもの。また、建物手前に並んでいるのはマレー系のシュシ・スライマンの「サンガ・ペタラ (9層) の神話」。東南アジア的な雰囲気だ。
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会場に入った誰もの目を驚かせるのは、インドネシアのジョコ・アヴィアントの「善と悪の境界はひどく縮れている」。竹を使った全長 13mの作品で、これは日本語では縮れているというよりも、捻じれているというべきではないか (笑)。
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実は、ここから先はさほど多くの写真を撮ったわけでもなく、逐一作品についての感想を述べるつもりはない。少し戻って、今回の展覧会のテーマを考えてみよう。キャッチフレーズは、「島と星座とガラパゴス」。「接続」と「孤立」をテーマに、世界のいまを考える催しであるとのこと。いわく、世界はグローバル化が進む一方で、紛争や難民・移民の問題、英国の EU 離脱、ポピュリズムの台頭などで大きく揺れている。この相反する価値観が複雑に絡み合う世界の状況を踏まえ、接続や孤立、想像力や創造力、独自性や多様性を示す「島」「星座」「ガラパゴス」というキーワードを手掛かりに、人間の勇気と想像力や創造力がどのような可能性を拓くかについて、開港の地・横浜から発信する、という趣旨である。上記の 3作品を見ただけでも、そのようなテーマについて考えるヒントは得られただろう。だが、ここで私はよくよく考えてみた。世界の諸相を知るためにはいかなる手段があって、日々その世界で生を営んでいる我々は、アートからどのように勇気をもらえるだろう。ひとつ気になるのは、展示されたアート作品には、「これこれの素材を使っています」「これは一見すると○○だけど、本当は△△です」「作者はこれこれこういう人です」という説明なしには理解不能のものも多い。これは何もこのイヴェントに限ったことではなく、現代アートにはその種のものが多いことは事実であると思う。だが、例えば難民のボートや救命胴衣を、アートとして見る必要は、本当にあるのだろうか。現実の厳しさや恐ろしさを人々に伝えるために、そのようなモノをかき集めることが、アーティストの想像力と創造力を発揮することになるのだろうか。端的に言えば私の疑問はそこである。その一方で、奇妙にとぼけた味わいの作品も多く、その場合には、厳しく恐ろしい現実世界を皮肉っているとも思われる。もう笑うしかない諦念ということだ。それはそれで面白いものもある。でも、それで我々が勇気づけられ、明日に向かって頑張って生きて行こうと思えるだろうか? もちろんここには、そもそもアートの定義とか、人それぞれにアートに求めるものの違いは関係してこよう。だが、どの人も目の前の現実に対処して生きていて、それぞれに世界とつながっている。本来人間の生活を豊かにするためのアートが、現代社会の真実を突きつけることがあってもよいが、多少抽象的でもよい、不断の鍛錬によるプロフェッショナルなものを見せてくれないと、やはり説得力を持たないのではないだろうか。私はここでそれほど大げさな芸術論を展開する意図はないが、そもそもの素朴な疑問として、現代においてアートはいかにあるべきか、その問題については、強い関心を持たないわけにはいかないのである。

熱くなるのはこのくらいにして、あといくつか作品を紹介しよう。これは、ザ・プロペラ・グループ (トゥアン・アンドリュー・グエンという米国とヴェトナムの 3人組) による作品。描かれているのはレーニンか? だが、髪がある (笑)。もしかして、レオナルド・ディ・カプリオか? そう、これはディ・カプリオが過去の作品で扮した役に扮するレーニンだそうだ。この二人、実はちょっと顔が似ている、と笑ってしまうが、ここには共産主義と資本主義のイデオロギー対決を読み取らねばならないのか?!
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これはマウリツィオ・カテランの「スペルミニ」と「無題」。
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この多くの顔と、首を吊っているように見える人物は、同じ人物のようであり、どうやらそれは、アーティスト自身の肖像であるようだ。これらは別々の作品であり、展示も、ちょっと距離を隔てた表と裏であり、その関連性は定かではない。だが、これらを見る誰もが、ドキッとすることは確かであろう。そうすると問題は、そのドキッと感が、アート作品によって示される必要があるか否かということではないだろうか。例えば高校の学園祭で同じようなアイデアを抱いた高校生がいて、遊び心で同じような作品を作ることは、ありそうなことではないか。そうすると、アート活動でメシを食っているアーティストの存在意義は、一体どこにあるのだろうか。似たような例は沢山あって、これはブルームバーグとチャナリンというコンビによる「ロンドン自爆テロ犯 (L-R)」。題名の通り、ロンドンで発生した自爆テロ犯をとらえた防犯カメラの映像を分析して、写真と立方体のオブジェに変換したもの。カラフルで、なんの先入観もなしに見れば美しいが、では、テロ犯人云々の情報は、一体いかなる意味があるのだろうか。テロへの嫌悪感やつらい思いは、何もアートの力を借りずとも、ニュースを見るだけで充分ではないだろうか。
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また、現代アートの特徴のひとつとして、映像を作品とする例が多い。だが私に言わせれば、美術とは空間表現であり、映像につきあう鑑賞者にその時間の消費を強いるのはいかがなものであろうか。時間を構成要素とする文化分野には、音楽と映画がある。これらの分野だけで、我々には尽きせぬ豊穣の泉が与えられている。そこに美術家がいかなる新たな価値を付与できるかこそが、大きな課題であろう。これはワエル・シャウスキーによる「十字軍芝居 聖地カルバラーの秘密」。これを見て「可愛いー」と呟くのは簡単だが、このパペット芝居はでは、ブラザーズクエイの映画に太刀打ちできるだろうか。
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もちろん、アーティストにとっての手段としての映像が、独自の価値を持つケースもある。私が面白いと思ったのは、まず照沼敦朗の「ミエテルノゾムとミエナイノゾミ」。これは映画にはならないだろうし、表現力としては強烈なものがある。
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それから、私が信奉するタイプの、プロフェッショナルな技術を持つアーティストの存在も、もちろんある。これは、木下晋の「生命 (いのち) の賛歌 In Praise of Life」。シンプルだが巨大な作品で、これが難病を患う人の手の写生であることを知らずとも、何やら心を打たれるのである。アイデアだけではなく、技術が重要であることの一例であろう。
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それから、小西紀行による「孤独の集団」という一連の作品。ここで連想されるのはフランシス・ベーコンであるかロベルト・マッタであるか河原温であるか。生々しい生と死の混淆に感動を覚える。NHK の「日曜美術館」で、このトリエンナーレのレポーターを務めた壇蜜が眩暈を覚えていたのも、この作品群の前であった。鋭い感受性を持つ女優さんであると思う。
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さて、ここでご紹介した作品は展示物のごく一部であり、それぞれについての私の評価は極めて個人的なものである。実際、アートを見に来る人たちが覚える感情は千差万別で、それこそがアートの面白みである。つまり私は私なりに、感じるところを上で書いてみたに過ぎない。芸術作品は時代によって淘汰されるべきもの。上述の通り、正直なところ私は、現代アートの意義について多々疑問を持つことが多く、そうであるからこそ、自分なりに優れたアーティストの作品を発見したいと切望しているのである。既に評価の固まった芸術の鑑賞だけではつまらない。素晴らしい才能を持ったアーティストが、血のにじむような努力をして初めて辿り着く水準の芸術作品であれば、ほかの誰かがどのように評価しようが関係なく、私個人の思いで支持したいと、いつも思っているのである。その意味で、いろいろ文句を言いながらも、このトリエンナーレのようなイヴェントには、極力足を運びたいと思うのである。

by yokohama7474 | 2017-11-15 00:17 | 美術・旅行