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月岡芳年 月百姿 太田記念美術館

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月岡芳年 (1839 - 1892) は、歌川国芳の弟子であり、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師。私はこの画家を昔から大好きなのだが、それは (悪趣味と言われることを承知で申し上げると)、「血まみれ芳年」の異名を取った彼の残酷画によってなのである。そもそもそれは、今では海外でも名の知れた師の国芳についてもろくに知らない頃、つまりは 30年前の学生時代に、「英名二十八衆句」という作品集 (落合芳幾との合作) を知ったことがきっかけであった。この「英名二十八衆句」、あの手この手の殺しの場面ばかり 28シーンを集めた、極めて強烈なもの。芥川龍之介は自殺当日この作品を眺めていたとか、江戸川乱歩はこの作品から多くのヒントを得たとか、三島由紀夫が自決前にこの作品の一揃いを入手しようと奔走したとか、これらの作家をこよなく愛する私のような人間にとっては、まさに無関心ではいられないエピソードが目白押しだ。だが実は、この作品集を知ったのは、その当時発表された「新英名二十八衆句」という作品集によってであった。こちらは、当時私がよく読んでいた、かなりドロドロ系で時には究極的に下品だが、極めてアーティスティックな内容のマンガを描いていた、花輪和一と丸尾末広の合作になるもの。この新旧の「英名二十八衆句」を一冊に収めた本がリブロポートから出版され、原画展も開催されたので、私はそこで花輪と丸尾のサイン入りの本画集 (新旧「英名二十八衆句」をすべて掲載したもの) を購入し、今も手元にある。そのサインや、掲載されている作品の写真を掲載しようかと思ったが、漫画家たちのサインはこの記事に関係ないし、作品の画像はちょっと刺激が強すぎるので、ここでは文字での紹介にとどめておこう。因みに、花輪も丸尾も、それはそれはもうエグい過激な絵を描く人なのだが、実はあの「ちびまる子ちゃん」に出て来る花輪君と丸尾君は、この 2人に因んだ名前なのである。ほのぼの系に見えるあの「ちびまる子ちゃん」に、そのような設定が潜んでいようとは、気づかない人が多いのではないか。というわけで、グロテスクを受容できる文化ファンの方で、もしこの 2人の漫画家をよく知らない方がおられれば、ちょっと作品をご覧になることをお薦めする。但し、しつこいようだが相当にエグい内容なので、「悪趣味ではないか」との非難はお受けできません。悪しからず (笑)。せめてここでは、その新旧「英名二十八衆句」の画集の表紙だけ、控えめに載せておこう。今では絶版のようだが、中古ならアマゾンでも容易に手に入る。
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さて、芳年のこの展覧会に話題を戻そう。これは、9月に東京・原宿の太田記念美術館で開かれていたもの。たまたま近くを通ったときにその展覧会を知り、これは是非見たいと思って覗いたものである。実はこの美術館では、この展覧会に先立って、同じ芳年による妖怪を題材とした浮世絵展も開かれていたようで、そちらを見逃したことを深く後悔して、図録だけは 2冊とも購入したのである。

この芳年、没年は明治 25年と、明治も中頃なのであるが、私の知る限り、彼の創作はもっぱら版画の浮世絵であって、肉筆画があるとは聞いたことがない。近代明治の世に活躍した浮世絵師といえば、これも私が大好きな小林清親などもいるが、彼の場合には抒情的な都市風景が中心であるところ、芳年は劇画調のドラマティックなもの、おどろおどろしいもの、怪しい雰囲気のものが多い点、大いに個性が異なっている。大病を患ってそこから復活したゆえ、「大蘇芳年」と自称した。これは門人の手になるいわゆる死絵、つまりは死後に追悼のために出版された肖像画。
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今回展示されていた「月百姿」は、芳年最晩年、1885年から死の年である 1892年にかけて制作されたもので、その題名の通り、月を題材にした百点のシリーズである。ここではそのうちのほんの一部しかご紹介できないが、常に月の怪しさ、懐かしさ、神々しさを絡めながら、様々な構図とテーマを使ったこの作品集は、まさに芳年ワールドそのもの。私は圧倒されながら館内で作品を見ながら歩を進めたが、段々に、なんとも形容しようのない、腹の底からの感動に襲われた (こういうのを内臓感覚というのだろうか?)。この驚くべき多様性、この細かい気配り、この高い技術、この豊かな想像力、この激しいドラマトゥルギー。これぞ絵画芸術の醍醐味である。図録から撮影した写真ではどの程度そのリアリティが伝わるか判らぬが、ともかく一部をご紹介しよう。1ヶ月弱の短期間しか展示されなかったこの展覧会を実際に見ることができた私は、大変にラッキーであった。

会場は 4つのコーナーに分かれており、それは 1. 麗しき女性たち、2. 妖怪・幽霊・神仏、3. 勇ましき男性たち、4. 風雅・郷愁・悲哀。まず最初の「麗しき女性たち」から「月宮迎 竹とり」。文字通りかぐや姫であるが、翁はその背中だけを見せており、悲しみや驚きの表情を描くことなく、その姿勢や指の開きで感情を表現している点、実に秀逸だ。
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これは「石山月」。紫式部が「源氏物語」を執筆した場所と伝えられ、現在でも月の名所として知られる滋賀県の石山寺 (以前このブログでも記事を書いた) の抒情的な光景。登場人物の前を無遠慮に通る柱が、いかにも浮世絵である。西洋にはないこの大胆な構図が、ゴッホらヨーロッパの画家たちに影響を与えたことは、よく知られている。
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これは「月のものぐるひ 文ひろげ」。天正年間、京都に出没した、一人で嘆き悲しみながら手紙を声高に読み上げる千代という女性を描いている。これは五条橋での姿だが、本来のテーマである月そのものが描かれていないにもかかわらず、ハラハラと舞い上がる長い手紙は、狂気を引き起こす月に向かって昇って行くようだ。
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これは、「明月や畳の上に松の影 其角」。芭蕉の門人、宝井其角の俳句を絵画化したもの。ここでも月は描かれていないが、畳の上に松の影を映し出しているのが、秋の月なのであろう。明治の作品ということが信じられないような古風な表現でありながら、なんとも心憎い演出だ。
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「廓の月」。吉原のメインストリートには、春になると一時的に桜が植えられたらしいが、その桜がハラハラと散る中を、花魁が歩いている。さりげなさも纏いながら、日本人の心に懐かしさを呼び覚ます風景である。
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次からは、「妖怪・幽霊・神仏」。芳年得意の分野である。これは、「孤家月」。浅草の浅茅ヶ原の鬼婆である。画面上部を斜めに横切っているのは、寝込んだ旅人の上に落とすべく吊るされている石につながっているのだろう。
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「朱雀門の月 博雅三位 (はくがのさんみ)」。源博雅 (ひろまさ) は笛の名手であったが、夜、朱雀門で笛を吹いていると、同じように笛を吹く見知らぬ人物に出会った。その後何度も、お互い口をきくこともなくこのように向かい合った笛の名人は、実は門に住む鬼であったという話。夢か誠か、月が映し出す幻想的な場面。
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「大物海上月 弁慶」。大物浦 (おおものうら) から船出をした義経主従の前に現れた平家の亡霊である。私も能の「船弁慶」を見たことがあるが、それと同じ題材である。生き物のような波が、夜の海をうねっているという表現の斬新さはどうだろう。
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一転してこれは「南海月」。白衣観音を描いている。題名にある「南海」とは、南方にあるという観音の補陀落浄土を表すものだろう。古典的な白衣観音の描き方とは異なり、鋭い線による近代性を感じさせる。
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これは「破窓月」。もちろん、禅宗の祖である達磨を描いている。達磨が悟りを求めて長い年月座禅をするうち、建物の壁は崩れ落ち、そこから満月が覗いている。月のせいだろうか、題材の割には、厳しさよりは何か和やかな落ち着きを感じるように思う。
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次からは「勇ましき男性たち」のコーナー。まずこれは、「賊巣の月 小碓皇子 (おうすのみこ)」。題名の小碓皇子とは、ヤマトタケルのこと。九州の熊襲の宴会に女装して忍び込んだヤマトタケルが、まさに熊襲に攻撃を仕掛けんと、中の様子を伺っているところである。確かに髪は異様に長いし、着物も女性もののようだ。ヤマトタケルの猛々しいイメージとのギャップを、僅かに覗いた月が演出している。
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これは「五條橋の月」。言わずと知れた牛若丸である。宙にひらりと舞い、弁慶に向かってハッシと扇を投げたところであるが、あ、これも女装ではないか。倒錯を彩る月の光ということか (笑)。
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これは「稲葉山の月」。1567年、美濃の斎藤龍興を、織田信長が攻めあぐねていたが、木下藤吉郎が少人数の家臣たちとともに、稲葉山城の裏側から奇襲をかけた。これは、巨大な瓢箪を担いで懸命に岩を登る、蜂須賀又十郎 (小六の弟)。異様に大きい月が、静けさと緊張感をもたらしている。
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これは「山城 小栗栖月」。本能寺の変のあと、山崎の戦いで秀吉に敗れて落ち延びた明智光秀が、小栗栖 (おぐるす) という場所で農民の竹槍で殺害される場面。月が照らし出す馬上の光秀を見つけ、ありえないくらいに (笑) 体をひねって待ち構える農民の姿である。槍を握る手の震えや汗まで感じられるような緊張感だ。
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残りは「風雅・郷愁・悲哀」のコーナーから。これは「あまの原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」。言うまでもなく、遣唐使として唐に渡り、かの地で没した阿倍仲麻呂の歌である。故郷でも見ることのできる、朧な満月が郷愁をそそっているのだろうが、右の仲麻呂と、左にいる王維かと思われる人物の間に、細い柱が通っているのが暗示的だ。
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「足柄山月 義光」。平安時代後期の武将、源義光は、後三年の役の助太刀のために奥州に向かう途中、笙の師匠の息子に対し、足柄山で笙の秘曲を伝授したという話。教えを受ける少年を描かず、代わりに対角線をなす木を大胆に配置している。月は見えていないが、地面が暗いのは夜ということなのであろうか。
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最後に異色の作品を。「月夜釜 小鮒 (こふな) の源吾 嶋矢伴蔵 (しまや ばんぞう)」。石川五右衛門の子分たちが豆腐屋の巨釜を盗み出す場面であるらしい。だがそれにしても、この戯画調のタッチはどうだろう。寄らば斬るぞといわんばかりの緊張感のある構図とは全く異なる、これも芳年の持っているセンスなのであろう。凸凹コンビについ笑みが漏れてしまう。
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このように、ごく一部のみのご紹介しかできないが、私が当日味わった感動を少しでも分かち合えれば幸いである。冒頭では、芳年の無惨絵に焦点を当ててしまったが、ある場合には繊細に、ある場合には大胆に、ある場合には不気味に、ある場合にはユーモラスに、様々に筆致を使い分ける彼の素晴らしい作品群から、ただ単に血みどろの絵だけを描いた人ではなく、本当に類稀なる芸術家であったことがお分かり頂けよう。・・・でも、最後の〆に、ちょっとご披露しようかな。「英名二十八衆句」から、とっておきの血みどろの一枚を。そう、「直助権兵衛」である。「東海道四谷怪談」のシーンであるが、おぉなんということ、男がもうひとりの男の顔の皮を剥いでいる!! 衝撃的な場面だが、ここで「イテテ、イテテ」と呟いてみよう。この残酷なシーンの裏にあるユーモラスな要素が、少しは感じられようというものではないか。・・・でも実際、極限的に痛いと思います、これ (笑)。
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by yokohama7474 | 2017-11-15 23:50 | 美術・旅行