人気ブログランキング | 話題のタグを見る

亜人 (本広克行監督)

亜人 (本広克行監督)_e0345320_20474945.jpg
またもや、という言葉が何度目か分からぬほどだが、マンガを原作とする邦画である。マンガが悪いと十把一絡げに乱暴な議論を展開するつもりは毛頭なく、原作が何であれ、面白い映画でありさえすればよいのである。予告編を見て、これは何やら面白そうだぞという気がしたので、見に行くことにしたのである。上のポスターも結構よくできている。というのも、この黄金色をバックにして空気中を黒いものが漂っているこの浮遊感、どこかで見たことはないか。そう、これである。
亜人 (本広克行監督)_e0345320_21323489.jpg
俵屋宗達の「風神雷神図屏風」。では、主演の佐藤健と綾野剛は、風神雷神であるのか。あながち的外れでもない・・・かどうかは別として、この 2人、人間にはない特殊な能力を持っていて、それこそ彼らが、フウジンやライジンさながら、アジン (亜人) と呼ばれる理由なのである。つまり、人に似て人にあらず。人間の生命は一度きりなのだが、この亜人たちは、一旦生命を終えても、すぐにまた再生するのである。であるから、闘いで傷つき、絶体絶命のピンチに陥ったときにすることは簡単。一度自分を殺すのだ。そうするとリセットされ、傷のない新たな自分として再度敵に攻撃を仕掛けることができるのである。なるほど、この設定はなかなかにユニークだ。不死身の体を持っていれば、かなり大胆なこともできるはずであるからだ。それゆえ、こんな状態であったものが、
亜人 (本広克行監督)_e0345320_21432130.jpg
切羽詰まると、こんな感じになってしまうのである。
亜人 (本広克行監督)_e0345320_21434421.jpg
なるほどこれは、普通にはない設定である。だが、映画の中でこれが散々繰り返されてみると、正直なところ、ちょっと辟易としてくる。君たち、もっと命を大事にしろよと言いたくもなってくるのだ (笑)。真面目な話、人間とは弱いものなのだ。このような便利な能力があれば、真剣に自分の身を守ろうとは考えないゆえ、敵と戦う意欲を維持することは極めて困難になってくるものだと思う。それゆえ、この映画では、彼ら亜人、とりわけその道のベテラン (?) である佐藤を演じる綾野剛は、ある想像を絶する耐え難い目に遭ったことへの復讐として人間社会を恐怖に陥れるという設定になっているのである。
亜人 (本広克行監督)_e0345320_21512095.jpg
この役者の持つ一種独特の危なさには、なかなかのものがある。最近では、(劇場で見なかったのでこのブログの対象とはしないが) 剣道に魅入られた男を演じた「武曲 MUKOKU」など、その狂気を孕んだ危ない要素のみならず、主人公の内面のナイーブさや、若き日のうぶな外見まで、実に幅広く演じていて素晴らしかった。そしてこの映画でも、ムキムキ筋肉の披露を含め、なんとも楽しんで悪役を演じていることが明らかで、こういうことができる役者がそうそういるとは思えない。それに対する佐藤健 (たける) は、この作品の本広監督とは既に「るろうに剣心」シリーズで組んでいる (綾野も 1作目に出演している)。これもまたマンガを原作にするシリーズであるが、私はこの「るろうに剣心」シリーズには、明治の日本の毒がうまく表現されていると思っていて、結構好きなのである。佐藤健という俳優はそのシリーズと、NHK BS あたりの遺跡の旅のドキュメンタリーで見たくらいであるが、その身のこなしには非凡なものがあることは明らかで、これから多くの映画で様々な役柄を演じて、演技の幅を広げて欲しいと期待している。なんだかお父さんのようなコメントですが (笑)。さすが本広監督、佐藤の持ち味を充分分かっているのだろう、この映画は、拘束された彼の瞳のアップに始まり、自由を得た彼の瞳のアップで終わるのである。あ、それから、これは女性ファンサービスであろうか、彼も綾野に負けじとムキムキ筋肉を披露している。ムキムキ同士の死闘。
亜人 (本広克行監督)_e0345320_22051619.jpg
この映画、このように主役 2人の肉弾戦をはじめ、見どころはあれこれあって、まあこれはネタバレとは言わないだろうから書いてしまうと、大林宣彦と大森一樹が出演しているのが面白い。以前からどこかで、「大林」と「大森」の違いについてちょっと書いてみたいと思っていたが、ここではその暇はないので飛ばしましょう。とにかくこの映画にはあれこれ工夫があって、面白いと言えば面白い。だが一方で、課題も多いと言わざるを得ない。ひとつは、脇役の存在感。申し訳ないが、善玉悪玉、男性女性を問わず、ここでの主役 2人以外の役者陣には、私は感心しなかった。よい映画を作るには、よい脇役が必要である。私が感じたように、脇役の水準に限界があることが、もし今の邦画の状況であるなら、ちょっと残念なことである。それから、リセットを繰り返す亜人たちの戦いぶりにも、映画としての手に汗握るほどのサスペンスを感じることはなかった。例えばこういう分身たちが戦うシーンが多く出てきて、その CG には見るものはあったものの、設定にちょっと無理があるだろう。こんな便利なものがあるなら、自分がどこかに出掛けずとも、あるいはムキムキ同士の肉弾戦を展開せずとも、常にこの分身を使って戦わせていればよい。「ウルトラセブン」のカプセル怪獣の時代ならいざしらず、現代では、荒唐無稽な中にも説明可能なストーリー作りの必要があると思うのである。
亜人 (本広克行監督)_e0345320_22215824.jpg
それから、例のリセットである。この映画の設定の最大のウリであるこの点が、様々なシーンで緊張感をそいでいる。そして、特殊部隊をひとりで軽々とやっつけるという設定もナンセンス。人生は決して、決して、リセットできないし、本当のプロフェッショナルな訓練を受けた特殊部隊には、いかに亜人と言えども、そうそう簡単にかなうわけはないのである。我々が現実社会で見ている厳しさとか絶望感には、このような設定ではどうしても届くわけがない。もちろん、映画であるから、荒唐無稽な設定自体は大いに結構であるが、この時代にこのような映画を世に出すことの必然性は、感じてみたいものだ。あ、その点について、ひとつ思うことがある。最近の邦画には、「人に見えるけれど本当は人ではないものが、人間世界に紛れて生活している」という設定のものが多くはないか。「寄生獣」「東京喰種」がそうであったし、「進撃の巨人」にもその要素がある。こうして並べてみると、本作を含めてすべてマンガが原作である。もちろん、洋画でも、ちょっと古いが「メン・イン・ブラック」などの同種の作品があるが、もともと多様な人たちが集まっている米国では、そのような設定にはユーモアをまぶさないと、シャレにならない。その点日本は、均一性は比較にならないほど高いがゆえに、このような設定のマンガや映画が、結構シリアスな設定として描かれるのだろうか。自分が人と違った存在であることへの恐怖が、日本の社会には存在していて、それがマンガに反映されているのだろうか。ここで現代マンガ文化論をぶつつもりはなく、私にはそんな資格はないが、ふとそんなことを思ったものであった。

フウジンライジンアジン、日本独自の文化として認定されるには、まだまだ課題が多いと考えるべきだろう。こらこら、リセットしても、状況はすぐには変わりませんよ!!
亜人 (本広克行監督)_e0345320_22360483.jpg

by yokohama7474 | 2017-11-18 22:36 | 映画