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京都 大徳寺 本坊、興臨院、黄梅院、総見院

京都というところは、もちろんいつ行っても歴史を実感できる素晴らしい場所なのであるが、顕著な難点は、盆地であるために夏は暑く冬は寒いことだ。それゆえ、春と秋に多くの人々がこの街を訪れる。特に秋には、京都に数多くある紅葉の名所はどこも大賑わいだが、寺社の特別公開もあちこちで行われる。もちろん、冬に観光客を呼ぼうという試みである「京の冬の旅」にも面白い企画があるが、やはりなんと言っても秋がよい。というわけで、この秋、タイトなスケジュールながら 2度京都を日帰りで訪れている私である (もちろん近年の「秋」とはいつからかという議論はあって、気温から言えば、9月は完全に夏に含まれるような感覚になってしまっているのだが)。前回の記事でご紹介した近代美術館における絹谷幸二展を見たあと、東山エリアの近代美術館からほど近くに位置し、これまで特別公開時に行ったことのない聖護院 (しょうごいん。生八つ橋で有名だが、それはこの寺の近くの店で作られている) に行ったのだが、あいにくこの日は、特別公開期間中であっても寺の法要の都合か何かで、境内には入れたものの、堂内や庭園の拝観ができないとのことであった。残念だが致し方ない。残りの時間を計算に入れながら、代わりにどこに行こうかと思案して決めたのは、北山、紫野にある名刹、有名な大徳寺である。これがその大徳寺の正門である山門。「金毛閣」の額がかかっているが、千利休がここに自らの肖像を安置し、秀吉の逆鱗に触れて切腹を命じられたという史上有名な事件の発端になった場所である。
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日本の禅寺として有数の規模と歴史を誇るこの大徳寺の名前を知らない人は、あまりいないであろう。また、もしこの寺にイメージがなくとも、あの一休禅師が再興した寺であると言えば、へぇそうなのかと思う人がほとんどであろうと思う。あの有名な一休さんがいて、千利休だの秀吉だのという人たちが関わった大きな寺院であるから、例の京都五山という、禅寺 (より正確には臨済宗の寺のみで、禅のもう一派である曹洞宗は、五山制度の対象ではない) の格式を決めた制度においては、きっと一位を争うほどのステイタスがあるはず、と考えるのが人情というもの。だが驚くなかれ、大徳寺ほどの寺が、実は京都五山には入っていないのである!! ここで確認しておくと、京都五山とは、南禅寺、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺。このうち 5位の万寿寺は、4位の東福寺の塔頭 (たっちゅう。大寺院の子院のこと) である。大寺院が沢山ある京都にあっても、禅寺として代表的な存在であるこの大徳寺と、それから妙心寺の名前が、五山のリストから落ちているわけだ。これには明確な理由があって、京都五山制度を整備した室町幕府と関係の悪かったところは、五山には入っていないということなのである。五山制度自体は中国から取り入れられ、鎌倉時代から既に日本にあったが (鎌倉五山というものもある)、その後室町時代になってから整備された。この大徳寺は後醍醐天皇の厚い庇護を受けたということで、室町幕府の意向によって五山から外されたということらしい。21世紀の現在、寺の格式は、実際にその場に身を置いて感じるという自由を我々は享受しているが、人間のやっていることであるから、長い歴史の中にはそのような確執もあったということである。

ともあれこの大徳寺、寺の資料に掲載されている境内の地図で数えていると、本坊以外に 24の塔頭寺院がある。だが、普段一般公開しているのは、大仙院 (歴史の教科書にも出て来る庭が有名) を含む 4つの塔頭のみで、ほとんどが非公開なのである。だが秋の時期には特別公開がある。今年は本坊以下、3つの塔頭が特別公開された。
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以下、ざっとご紹介するが、本坊やぞれぞれの塔頭では、門を入ると庭ですら写真撮影禁止とのことだったので、その回りの写真しかない。従い、一部はほかから拝借してここに掲載することをお許し頂きたい。さて、まずは本坊である。ここではなんと言っても、国宝の方丈に入ることができ、やはり国宝の唐門を拝観できるのが嬉しい。方丈の襖絵 80余面は狩野探幽筆の重要文化財、前庭は小堀遠州の作庭とされ、特別名勝である。特に唐門は、秀吉の聚楽第の遺構と言われ、華やかな彫刻の数々が見られる。日光東照宮の原型となったと言われているらしい。
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その後、法堂 (はっとう) で鳴き龍を体験できるのも楽しい。この天井画の下で手を打つと、本当に龍が鳴いておりましたよ。
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また本坊においては、豊臣秀吉とその母の肖像画を見ることができた。実は、特別公開期間の前半には、近年狩野永徳の筆と認定された織田信長画像が展示されていたそうで、これも興味深いものであったが、またの機会を狙いたい。秀吉と大徳寺の関係は、例の千利休事件以外にも面白い話があるので、後述。次に塔頭の興臨院に移ろう。この寺は能登の守護、畠山義総によって 1520年代に創建され、後に前田利家によって再興されている。表門、本堂、唐門が重要文化財に指定されている。落ち着いた雰囲気のよい寺である。
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次は黄梅院。この寺は、1562年に織田信長が父、信秀の菩提を弔うために創建した庵がその始まり。その後、信長の死後に秀吉によって改築されている。ここでも唐門や本堂が重要文化財に指定されている。以下は私が撮った写真で、それは 1ヶ月以上前のことなので、きっと今頃はきれいに紅葉しているのではないだろうか。
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そして、今回の中で最も興味深かったのは、総見院である。ここはなんと、本能寺の変で信長が亡くなった後、その菩提を弔うため、一周忌に際して 1583年に秀吉が創建したという寺なのである。以前、安土城址の記事の中で、同地にある総見寺 (結局訪問できなかったが) について触れたと記憶するが、やはりこの名称は信長に因むもの。実はもうひとつ、やはりこれも信長ゆかりの愛知県清須市にも、総見院という寺があるようだ。「総見院」は信長の戒名の一部にも使われている。
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この寺で興味深いのはなんと言っても、創建時に秀吉の命によって作成された、等身大の織田信長坐像である。これももちろん借用してきた写真だが、この像の雰囲気がお分かり頂けよう。繰り返しだが、信長の一周忌に秀吉が作らせた像ということは、実際の信長の容貌を伝えているものではないだろうか。
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この寺にはまた、織田一族の墓碑がある。真ん中の五輪塔が信長のものだ。
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実は秀吉はこの総見院を創建した際に、一大パフォーマンスを行っている。それは、信長の葬儀である。本能寺の焼け跡からは信長の遺体は発見されなかったのであるが、ポスト信長の勢力争いを有利に運んだ秀吉は、信長ゆかりのこの大徳寺 (その塔頭のひとつ、上で触れた黄梅院は信長自身が父を弔うために創設している) において、大々的に信長の葬儀を行った。その際、上記の現存する信長像に加えてもう 1体、香木をもって信長像を刻み、それを遺体の代わりに荼毘に付したという。そのとき、京都中にこの香木の香りが漂ったという。これは秀吉という人の天才を示すよい例ではないか。つまり、人間の中でも非常に敏感な感覚である嗅覚を刺激することで、信長の葬儀が行われていること、それを取り仕切っているのが秀吉であることを、都の人々に認識させるという作戦だったのであろう。ここで私が (どの本にも書いていないが勝手に) 思うことが二つ。まずひとつは、このような嗅覚の活用は、あらゆる感覚を研ぎ澄まさせる茶の湯と関係があるのではないかということ。きっと秀吉には動物的な感覚が備わっていて、本能的に嗅覚の活用を思い立ったが、実は同時代に、総合的に人間の感覚を研ぎ澄ますことに長けた千利休という名人がいて、秀吉はそのことに恐怖を抱いたため、利休を死に至らしめたのではないか。ふたつめは、信長から秀吉に至る、当時の新勢力による地位の誇示が、京都五山ではなくこの大徳寺で行われたことの背景は、既に滅びたりとはいえ旧秩序であった室町幕府から距離を取りたいという意向であったのではないか。そう思うと、様々な歴史の曲折が、この寺には未だに影を落としているようにも思われる。そうそう、歴史の曲折と言えば、以前彦根を訪問した際の記事に書いた石田三成の菩提寺であるが、それはやはりここ大徳寺の塔頭、三弦院なのである。たまたま今回、前を通りかかったときの写真がこれだ。「拝観謝絶」の札も厳めしい。室町幕府と距離を置いた大徳寺は、関ヶ原で家康に敗れた三成の菩提が祀られていることから、実は江戸幕府とも疎遠であったのであろうか。
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拝観謝絶といえばもうひとつの塔頭、龍光院を思い出す。数々の国宝・重要文化財を所蔵しながらも、頑なにその扉を閉ざしているこの寺には、日本に 3つしかない国宝茶室のひとつ、蜜庵が存在するが非公開。そして、これも日本に 3つしかない国宝曜変天目茶碗のうちの 1つを所蔵しているのである。ちなみに後者は、あっと驚く特別公開が先般あったのだが、私としては一生の不覚、それを見逃してしまった。そのことについてはまた追って記事を書くこととしよう。

このように大徳寺には、一筋縄では行かない奥深い歴史が息づいているのである。上記でご紹介した特別公開のうち、大徳寺本体の方丈は既に終了しているが、塔頭 3軒は未だ継続中であるので、ご興味おありの方は、是非お出かけになってみてはいかが。

by yokohama7474 | 2017-11-23 22:36 | 美術・旅行