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コルネリウス・マイスター指揮 読売日本交響楽団 2017年12月12日 サントリーホール

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最初にお断りしておくと、読売日本交響楽団 (通称「読響」) の定期演奏会には、きれいな色刷りのチラシが作成される。今回の演奏会もきっとそうであったのだろうが、手元に保管してあるチラシの束をいくら探しても、出て来たのは上記のものだけだ。いや、もちろんこれも色刷りではあるのだが、薄っぺらい紙に印刷された簡素なもの。この手のチラシは、本格的なものができる前に予告的に配られるものなのだが、私の記憶では、本格的なチラシを見た記憶があまりない。実は今回の演奏会、早々にチケットが完売となったという事情があり、きれいなチラシはあまり多く印刷される必要がなかったのかもしれない。この人気の演奏会は、読響の首席客演指揮者であるドイツの俊英、コルネリウス・マイスターが指揮するマーラーの大作、交響曲第 3番ニ短調であったのだ。これは確かに楽しみな演奏会である。以下は今年 9月14日に開かれた、来年からもうひとりの首席客演指揮者に山田和樹が就任することを発表した読響の記者会見から、山田とマイスターの握手という貴重なショットである。山田は 1979年生まれ、マイスターは 1980年生まれ。世界で活躍する 30代の 2人の指揮者をゲットした読響は、なんと恵まれていることか。
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マイスターがこの記者会見の 2日後、9月16日に指揮した、首席客演指揮者就任後初の読響とのコンサートについては、このブログでも採り上げ、絶賛したのであるが、それから 3ヶ月を経て再び読響の指揮台に登場してこの大曲を指揮した。前後の予定を調べてもほかに彼のコンサートはなく、この 1回のコンサートのために来日したようである。夏の交響曲であるこの曲を、あえて冬に聴くというのも面白い。だがその内容たるや、この指揮者とこのオケの相性のよさを実感させる素晴らしいものとなった。

まずこのマイスターの指揮の特徴であるが、これは思い返してみれば 9月に聴いた「田園」でもそうだったのだが、どの楽章の間にも緊張感を解くことがなく、音楽が終わったあとしばらく静止して、ゆっくりと指揮棒を下ろし、そのまま虚空を見つめてじっと佇んでいるのである。楽員に笑みを投げることもしないし、熱演をたたえることもなく、次の楽章のテンポを示唆することもない。ただ静かに指揮台で佇むのだ。これによって客席の咳も自然と少なくなり、会場の空気が引き締まる。そしてマイスターは絶妙のタイミングで次の楽章に入って行く。その呼吸が毎回毎回、大変によいのである。指揮ぶりは決して大仰なものではなく、その若さにしては随分と落ち着いて見える。オケが白熱する場面でも、大汗をかいて指揮棒を振り回すのではなく、的確に冷静にオケを導き、それでいて、大変によくオケが鳴るのである。これはやはり、指揮者としての天性の素質があるということだろう。指揮者という職業は、一般的に 30代はまだまだ駆け出しということになるわけだが、このマイスターといい、上で写真を掲げた山田といい、前日に聴いたフルシャといい、それぞれが既に明確な個性を持った優れた音楽家なのである。今回のマーラーに関して言うと、求める音像が明確で迷いがなく、もったいぶる箇所は皆無。冒頭のホルン 8本による開始部分も、地に足のついたテンポで、しかも音の張りは充分であったが、この曲は冒頭でうまくいかないと成功しないと思っている私としては、「うん、これだ!!」と心の中でポンと膝を打っていたものである (笑)。行進曲のテンポもしっかりしたもので、弦楽器の各声部のクリアさは際立っており、木管の絡み合いや金管の狂騒も、浮足立ったところがない。このブログでは時折、マーラーの演奏会においては、いわゆるマーラー演奏としての違和感の有無に言及していて、その内容はなかなか説明しにくいのだが、さしずめ今回の演奏は (以前このオケで同じ曲を演奏した巨匠テミルカーノフの演奏と比較しても)、全く違和感を感じることなく、完全にマーラーの語法を手の内にした指揮者の音楽であったと思う。ヴァイオリンは左右対抗配置で、最初は確か譜面を見ながらの指揮であったはずだが、ふと第 3楽章の途中で気がついたことには、いつの間にかマイスターが譜面をめくるのをやめているではないか。途中から暗譜となり、自らの中に沸き起こった感興に身を任せたという印象であった。実際、第 2楽章も第 3楽章も、くっきりと音を描き出してみごとであったが、冷静なようでいながらかなりの集中力を見せていて、そこには音楽への純粋な没頭があったと思う。それゆえの、暗譜への切り替えだったのだろう。第 4楽章では、今やこの曲を歌わせたら世界有数であろうと思われるメゾ・ソプラノの藤村実穂子が深々とした感動的な歌を聴かせ、第 5楽章の女声合唱 (新国立劇場合唱団) と少年合唱 (TOKYO FM 少年合唱団とフレーベル少年合唱団) も安定感抜群。そうしてあの絶美の終楽章では、読響の機能を最大限に引き出して、深い呼吸が生まれていた。これは言葉にすると陳腐になってしまうが、心に響く感動的な音楽であったと思う。終楽章の演奏中、オケの中、ヴィオラとチェロの間に置かれた椅子に座っていた藤村実穂子は、終演後に涙を拭いているようにも見えた。もしそうであっても不思議でないほど、感動的な音楽であったのである。
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いくつか気がついた演奏上の工夫を記すと、まず、35分を要する長い第 1楽章はオケだけがステージで演奏し、合唱団と独唱者は、その終了後に登場した。だが、上記の通り指揮者が指揮台で身動きせずに立っているものだから、客席からも拍手はなく、あたかも宗教行事のように演奏が進行することとなった。藤村は上記の通り、オケの中に埋もれるような位置に座り、第 4楽章の歌唱のあとはまた目立たぬようにそこに座ったが、対照的に児童合唱は、第 5楽章の「ビム・バム」の歌と同時に席からさっと立ち上がって勢いよく歌い始めたのである。それから、終楽章大詰めでのティンパニについて。調べてみるとちょうど 2年前、2015年12月12日に聴いたシャルル・デュトワ指揮の NHK 交響楽団による同じマーラー 3番の演奏で、最後に堂々と鳴る 2対のティンパニがずれるのを防ぐために、ひとりのティンパニ奏者が、指揮者ではなくもうひとりのティンパニ奏者を見ながら叩いていたことに触れた。今回はどうするかと思って見ていると、双方のティンパニ奏者がともに指揮者の方を見ていて、ほんのわずかのタイミングのずれが生じていた。だが私は、不思議とそれが気にならなかったのである。マイスターの指揮には作為的な要素が少なく、鳴っている音は美麗でも、そこには常に大きな流れと、どこかしら人間的な要素がある。だから最後のティンパニの音が 0.何秒かずれることは大した問題ではなく、奏者が指揮者からのインスピレーションを受けて叩くことで、本当に感動的な音楽になるのかもしれないな、と思ったものであった。読響はこのようなマイスターの要求に応える技量を持っているが、欲を言えば、金管の弱音部にさらに磨きがかかればよいと思う。

そんなわけで、東京にまた楽しみな指揮者とオケのコンビが誕生した。マイスターは読響でマーラーをシリーズで採り上げて行くと明言しており、来年 6月には第 2番「復活」を指揮する。これは必聴である。そんな思いを抱いて、帰宅後に CD 棚をゴソゴソ漁り、取り出してきたのは、このマイスターの手兵であるウィーン放送響の 1970年から 2012年までのライヴ録音を集めた 24枚組のアンソロジーだ。
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ここにはマタチッチやバーンスタインやギーレンや大野和士や、マイスターの前任者であるド・ビリーの演奏など、興味深い録音が様々だが、当然のようにマイスターの演奏を沢山聴くことができる。中には有名なジョン・ケージの「4分33秒」(録音で聴く意味あるのか?!) もあるが、ちょっと聴いてみたのは、マルティヌーの第 1交響曲。というのも、週末にまたヤクブ・フルシャ指揮東京都響の演奏会で聴くことになるからだ。マイスターは既にマルティヌーの交響曲全集を完成させていて、その音色のセンスはさすがである。同世代のフルシャとの比較は、今後とも楽しみになって行くことは間違いない。

by yokohama7474 | 2017-12-13 01:14 | 音楽 (Live)