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ダンシング・ベートーヴェン (アランチャ・アギーレ監督 / 原題 : Beethoven par Bejart)

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ブログも記事が増えてくると、以前書いたことを全く忘れてしまっていることがよくある。以前書いたことと違うことを書くというのも、できれば避けたいことなのであるが、私の場合は多分それよりも、同じことを繰り返して書くことを避けた方がよいなといつも思っているのである。実生活で「もう分かったよ。聞いた聞いた」と言われることは結構厳しい体験であり、しかも、熱意を込めて何かを語ろうとしていた矢先にこの言葉を聞くと、かなりこたえると言ってよい。と、こんなことを冒頭から言い訳するには理由があって、私がここで言いたいことは、「クラシックバレエにはほとんど興味なし。だが前衛性を含むダンス・パフォーマンスは大好き」という私の指向を書きたかったからである。ええっと、以前も書きましたよね (笑)。そんな私にとって、天才振付師モーリス・ベジャール (1927 - 2007) は、その悪魔的な容貌も相まって、かなり尊敬する人物なのである。おっとベジャール、ネコ派だったか。
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私が彼の名を知ったのは、中学生の頃。当時論評活動も積極的に行っていた作曲家の諸井誠の気楽なクラシック関係の本の中で、何度もその名が言及されていたのがきっかけであった。そこでは特に「春の祭典」の振付についての高い評価が印象的であった。そして、映画「愛と哀しみのボレロ」(クロード・ルルーシュ監督、1981年) においてジョルジュ・ドンの踊るボレロを見て、強烈な印象を受けた。だが実のところ、ベジャールの振付による実際の舞台上演を見た経験は、今に至るも、多分一度もないように思う。最もチャンスがありそうだったのは、1990年にパリの旧オペラ座 (ガルニエ宮) でかかっていたワーグナーの「ニーベルングの指環」の抜粋であったが、一週間ほどのパリの滞在中、何度も物欲しげに会場の前を行ったり来たりしたが、すべての公演が Sold Out。1枚たりともチケットが手に入る様子はなかったのである。もちろんその前後には日本の東京バレエ団で、三島由紀夫をテーマとした「M」とか、忠臣蔵をテーマにして黛敏郎の音楽に振り付けた「ザ・カブキ」などが上演されたのは知っていたが、会場に見に行くことはせず、ただテレビで見たのみだ。思えば当時は未だベジャールその人が生きていた時代。それらの舞台に接することができなかったことを今更悔やんでも遅いのである。これは、ジョルジュ・ドンの踊る「ボレロ」。
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さて、前置きが長くなったが、この映画は、そのベジャールが振り付けた、西洋音楽畢生の大作、ベートーヴェンの第 9交響曲の上演に関するドキュメンタリーなのである。これはつい最近、つまりはベジャールの死後、東京で上演され、あのズービン・メータ指揮イスラエル・フィルが舞台に合わせて第 9の生演奏を行ったことも記憶に新しい。スイスのローザンヌに本拠地を置くモーリス・ベジャール・バレエ団と、東京バレエ団の共同企画として 2014年に上演された。だがやはりこのときも私は、実演を見ることはなかった。メータは私にとっては大変になじみのある指揮者だし、このときのイスラエル・フィルとの日本での別の演奏会には 2度足を運んだにもかかわらず、である。そんなことなので、この映画はちょっと見てみたいと思ったのだ。前項で採り上げたヴェンダースの「アランフエスの麗しき日々」の翌日、同じ恵比寿ガーデンシネマでの鑑賞であった。
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解説によると、もともとベジャールが第 9に振付をしたのは 1964年、ブリュッセルでのこと。その後世界各地でステージにかかり、日本でも 1999年に上演された。だが、ベジャールの死後、再演すら危ぶまれる状態であったものを、上記の通りベジャール自身とも縁の深かった東京バレエ団の創立 50周年の記念シリーズの一環として、ダンサー、オーケストラ、合唱団総勢 350名で上演された。そのときの写真を見ると、オケは、オーケストラピットではなく、ステージ奥に陣取っている。これはつまり、音楽がダンスに合わせるのではなく、ダンスが音楽に合わせるという方式で上演されたということだろう。因みに歌手のうちメゾ・ソプラノは藤村実穂子、テノールは福井敬である。
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この映画の面白さは、もちろん、この大作に挑む人々の挑戦が描かれていることにあると言ってもよいのだが、より正確に表現すると、人類の共和を歌ったこの作品の精神を表現するために努力する人々の、まさに「人間」としての営みとでも言おうか。準備過程における成功もあれば失敗もあり、戸惑っての試行錯誤あり、思わぬハプニングあり、また一流のプロもあればアマチュアも入っているという混成部隊に沸き起こる微妙な空気まで、極めてヴィヴィッドにとらえられている。この第 9という作品の持つとてつもないスケールは、これまでもこのブログでこの曲の演奏を採り上げる度に言及して来ているので、「もう分かったよ。聞いた聞いた」と言われないためにここでは繰り返さないが、それはもう、これだけ多くの人々が汗をかいて表現するだけの価値があるものなのである。

ここでインタビュアーを務めるマリヤ・ロマンがなかなかよい。
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そう、この写真にある通り、この映画の中で彼女はしばしばガラスの向こうから、ダンサーたちの練習を見つめている。彼女は女優であるため、自身踊りはしないのだが、そのダンサーたちを見つめる表情の澄んだこと。それもそのはず、映画が進むうちに、彼女の両親もやはりダンサーであり、しかも、このベジャールの第 9とも深く関わっていることが明らかになるのである。これはちょっとした演出なのであるが、冒頭から彼女の表情が大変によいことから、真相が分かったときに何か解放されたような気になるという印象。ドキュメンタリー映画とは、このような気の利いた演出の積み重ねが結構大事な分野だと思い当たる。これによって、たとえ第 9にあまりイメージのない人、あるいはベジャールのことをよく知らない人 (まあ、そんな人がこの映画を見るのか否かという問題はあるが 笑) でも、心地よい映画としての流れを感じることができるであろうから、この映画は一般的な意味でもお薦めであると思うのだ。監督のアランチャ・アギーレはスペインの女流監督で、ペドロ・アルモドバル、カルロス・サウラという同国の巨匠たちのもとで助監督を務めたという経歴を持ち、以前にもベジャール・バレエ団のドキュメンタリーを手がけているようだ。
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と、ここまで映画自体を称賛して来たが、では、音楽ファンの目から見た、本作におけるベジャールの振付自体はどうだろう。この映画ではその一部しか見ることができず、この断片のつなぎ合わせの印象だけで判断するのは危険かもしれないが、ある意味で、この曲の聴き手が抱くヴィジュアルなイメージを明確に辿って行くので、かなり納得して見ることができるように思う。そして、曲の細部を知っていればいるほど、「なるほど、ここでこうくるか」という楽しみもある。劇中で指揮者のメータも、そのような評価を口にしていたと記憶する。だが、ではベートーヴェンの破天荒なシンフォニーの本質に迫りたいと思った場合、ベジャールのバレエを見ることで、舞踊ならではのなにか新しい発見があるだろうか。視覚は常に最も強烈な感覚であり、聴覚を圧倒するのが通例だ。その意味で、もしこのバレエを見ることで、「なるほど、第 9ってそういう曲ね」と分かったような気になるとすると、それはあまりよいことではないかもしれない。要するにポイントは、音楽と舞踊という異なった、だが隣接する分野の芸術活動において、鑑賞者が一体どこに真価を見出すかということだろうと思うわけである。私は、やはり音楽を虚心坦懐に味わうことこそが、価値あることなのだと考えてしまうのだが、音楽に過度に毒されてしまっているのだろうか。

また、もうひとつ、どうしても書いておきたいことがある。本作において、評論家の三浦雅士がインタビューを受け、この第 9の振付に見られるベジャールの美学について、禅などを引き合いに出しながら大いに語るシーンがある。これは別のところから引っ張ってきた三浦の写真。
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この人は、私が若い頃から、主として舞踊分野のハードな批評活動で知られている有名な評論家である。だが、この映画では、彼を巡って若干不思議なシーンを目にすることになる。それは、英語で自らの思いを語っていた三浦が、インタビュアーのマリア・ロマンから、「日本語でどうぞ。あとで字幕をつけますから」と言われて、何十秒かの間、目を白黒させて沈黙し、最後にガハハと笑うシーンである。「急に日本語でと言われても、困ったなぁ」と彼はそこで英語でコメントするのであるが、これを見た人は誰しも、奇異な感覚を持つものと思う。ここでの彼の心情は分からないものの、正直な感想を言うと、鳩が豆鉄砲を食らったような顔を見せずに、是非堂々と英語で、もしくは日本語で、語って欲しかった。要するに使用言語などはどうでもよく、自らの思考を、言語という論理に基づく形態で相手に伝えることこそ、評論家の役目であると思うからだ。実は、これは評論家だけではなくて、ビジネスマンも同じである。相手と面と向かって喋っている間に数十秒間目を白黒させてしまうと、ビジネスチャンスはしぼんでしまうのではないか。我々日本人は、コミュニケーションにおける道具としての言葉の意義をもっと認識すべきであると、私はいつも思っているのだが、このシーンによってその思いを新たにしたのであった。

そのように、見ていて飽きることのない映画であると言えると思う。原題はフランス語であるが、"par" は英語でいう "by" のようであるから、「ベジャールによるベートーヴェン」という意味であろうか。なるほど、ベジャールは振付師であったがゆえに、言語で語ることが本職ではなかったが、彼の解釈するところのベートーヴェンを、ここでは舞踊によって表現しているということであろう。もちろんそれぞれの振付師には好みもあるので、ほかの作品と似た箇所もあるだろう。だが、上で書いた我々通常人の言葉による表現の場合に比べて、身体表現の場合は、たとえ似た動作が出てきても、「もう分かったよ。見た見た」と言われることは、ないであろう。従って、他者との言葉によるコミュニケーションの際に、「あれ? これ、前も言ったかな」と思った場合には、言葉だけではなく身振り手振りを交えてみると、もしかすると相手も、以前その話を聞いたことを思い出せずに、コミュニケーションが円滑になるかもしれない。そうか、その結果が、このような群舞による全人類の賛歌になるなら、ダンスというのも、平和の手段として、なかなかよいものかもしれませんね (笑)。
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言葉が必要なところでは言葉で。言葉が届かないところはそれ以外の手段で。人間のコミュニケーションは実に複雑なのである。ええっと、前に同じこと言っていませんよね?

by yokohama7474 | 2018-01-30 23:46 | 映画