川沿いのラプソディ


川沿いの住まいから、音楽、美術、映画その他文化一般を語りつくします。
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メモ帳

細川俊夫 : 歌劇「松風」(指揮 : デヴィッド・ロバート・コールマン / 演出 : サシャ・ヴァルツ) 2018年 2月18日 新国立劇場

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細川俊夫は、このブログでも何度もその名に言及している、現代日本を代表する作曲家であるが、この作品はその細川の 2011年の作品であり、今回が日本初演となる。細川は 1955年広島生まれの 62歳。ドイツで学んだ人であり、その作品は広く世界で演奏されている。この「松風」はもともと、ブリュッセルのモネ劇場、ベルリン国立歌劇場、ポーランド国立歌劇場、ルクセンブルク歌劇場の共同依頼によって書かれたもので、初演はモネ劇場でなされている。
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細川の精力的な作曲活動において、オペラはひとつの柱をなしているように思われる。というのも、この「松風」は彼の 3作目のオペラであるが、その後も既に 3本を作曲、そして現在は 7作目のオペラに取り掛かっており、今年の 7月にシュトゥットガルトで初演予定であるとのこと。これらはいずれも例外なく海外からの委嘱作であり、海外で初演されている。ということはもちろん歌詞は日本語ではなく、確認したわけではないが、恐らくはいずれも今回の「松風」同様、ドイツ語によるものであろうか。
1. リアの物語 (1997-98)
2. 斑女 (2003 - 04)
3. 松風 (2010)
4. 大鴉 (2011 - 12)
5. 海、静かな海 (2015)
6. 二人静 - 海から来た少女 (2017)
7. 地震・夢 (2017 - 18)

芸術音楽の作曲はグローバルな活動であり、海外でのオペラ公演が多いことは誠に結構なのであるが、やはり日本の作曲家の作品を日本の聴衆が聴くチャンスもあるべきであろう。なので今回の「松風」の日本初演は、私としては大変に楽しみなものであった。上記の通り、もともと 4つのオペラハウスからの委嘱であるので、それらの劇場では既に上演されているのはもちろん、ベルリンやブリュッセルやワルシャワでは初演後に何度も再演されているし、同じプロダクションが香港やフランスのリールでも上演されているのに加え、違うプロダクションが既に 2つあって、ひとつは米国ニューヨークとチャールストンで、もうひとつはドイツのキールで上演されている。初演後 7年でこれほど多く上演されている現代オペラも、ほかにそうそうあるものではないと思う。そのひとつの理由は、題材が極めて日本的で、外国人から見てエキゾチックだということもあるだろう。この作品は、題名の通り、能の演目「松風」の翻案なのである。これが能の「松風」の舞台写真。在原行平を恋い慕う亡霊の姉妹、松風と村雨の姿だが、手前にあるのは、海から汐を汲むための車であるようだ。
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私は残念ながら能でこの演目を見たことはないのだが、世阿弥が父、観阿弥のオリジナルに手を入れて完成したと言われているらしい。つまりは 600年ほど前の作品ということになる。オペラはちょうど歌舞伎と同じ頃、17世紀初頭に発生した舞台芸術であるが、能はさらにそれより 200年も先立つものであり、その幽玄さには、世界中の人たちが魅せられるのもよくわかる。だが細川はこの「松風」の初演時に、能に関してこのようなことを言っている。

QUOTE
私は能の根本的な思想に深く興味を持っている。しかし現在日本で上演されている能は、そうした深い思想を隠し持っているにもかかわらず、かなり硬直した伝統の様々な習慣のなかで、その深い「いのち」が実現されていないのではないか。今般、世阿弥の最も優れた作品のひとつである「松風」を原点に持ち、新しくその台本を再構築し、音楽を作曲し、また新しい演出によって、現代に生きる能を基盤とした新しいオペラを創りあげてみたい。
UNQUOTE

正直なところ、これはかなり大胆な発言だと思う。日本での能の上演が、伝統のせいで硬直的になっているという指摘が正しいか否かは、私にはよく分からない。もちろん、伝統芸能であるから柔軟性のない要素もそれはあるだろうし、既に昭和の時代から、観世栄夫のような人が能の外の世界で暴れる (?) ようなことがあったのは、能の閉鎖性を逆に証明する事柄であろうかとも思われる。だが、能の上演自体には古式ゆかしい様式が維持されているので、きっとその点では室町時代以降、その上演方式はあまり変わっていないのではないか。もしそうなら、現代人の時間感覚と合わないことはむしろ当然だろうし、能という特殊な様式美を持つ芸能には、例えば西洋音楽に比べれば、普遍性がないということは言えるだろう。それゆえ、西洋音楽のスタイルで、現代に能の翻案による新たな作品を世に問うという意欲は、理解はできるのである。日本で生まれた芸能をもとに日本人が作曲したドイツ語のオペラが、この日本の地で、外国人指揮者、外国人演出家、外国人歌手たちによって上演されたわけである。休憩なし、上演時間 1時間半の公演であった。

まず結論を急いでしまうと、この作品をオペラと呼ぶ必要があるのだろうかというのが、私の最初の感想。歌手は 4人で、それは、旅の僧と、彼が宿を借りようとする須磨の漁師 (行平と二人の姉妹の悲しい過去を説明する)、そして、松風・村雨の姉妹である。だがそこに、7人の合唱団 (ギリシャ神話のコロス的役割を担う) と 14人のダンサーが舞台で入り混じる。つまり、総勢 25名が舞台でパフォーマンスを繰り広げるのだが、ストーリー展開が遅いので、そのパフォーマンスの密度は非常に濃くなってくる。まず驚きは、松風 (ベルギー人ソプラノ、イルゼ・エーレンス) と村雨 (スウェーデン人メゾ・ソプラノ、シャルロッテ・ヘッレカント) の二人は、粗い紗幕を張った向こうで、空中からゆっくりと下りてきて、かなり長い間、その状態で歌いながら、体を動かすのである。このシーンは、誰もがはっとするほど見事。
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オペラであるから、歌手たちの歌唱はある。だがそれは、予想通り陰鬱な語りに近いもので、優美でも甘美でもなく、聴かせどころのアリアなど、あるわけもない。では詩的なものは? ある。平安時代の歌人、在原行平 (ゆきひら。在原業平の兄) の、「立ち別れ いなばの山の みねにおふる まつとし聞かば 今帰り来む」。これは百人一首にも入っている有名な歌で、「まつ」は「松」と「待つ」をかけてあるのだろう。つまり、因幡の山に生える松に託して、あなたが待っているならまた帰って来ようという意味だ。こんな歌を、いにしえの時代にとっくにこの世から姿を消してしまったはずの若い姉妹が口にすると、それはもう不気味なことこの上ないことは事実だが (笑)、そこにはなんとも言えない深い情緒があることも確か。これは能の本質に通じる性質だ。だが能と違うのは、群舞である。舞台装置 (美術はドイツ人のピア・マイヤー=シュリーヴァーと塩田千春) はシンプルながら、歌手を含め、舞台に最大 25名が乗ることになるので、その動きはかなり複雑。視覚的な刺激は充分だ。
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上の写真でも分かる通り、能と違うところは、舞台に出ている人の数だけではなく、人の動きの多様性とその速度という点にもある。常に緩慢な能の動きとは全く異なり、ここでは、何組かのダンサーや歌手たちが、あるときはドッペルゲンガーのように他人の姿勢を模倣して分身し、またあるときにはいとしい恋人の姿を取り、そしてまたあるときには、恋い焦がれる感情を抽象的に表現する。このパフォーマンスは、例えば山海塾や大駱駝艦の暗黒舞踏 (私は大好きなのである) を思わせる面もあり、そこには、日本古来の土俗的なものすら感じさせる。だがこのオペラの演出家は日本人ではない。ドイツ人振付家のサシャ・ヴァルツ。現在 54歳で、ピナ・バウシュ亡きあとのドイツ・コンテンポラリー・ダンスを背負う人材であるらしい。
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このヴァルツの振付の面白さに目を取られると、音楽をじっくり聴くのが難しくなってくるほどだ。それだけ、ダンスとして面白いのである。そう思うと、冒頭や最後の海鳴りや風の音は、明らかに録音であった (ピチャピチャ鳴る水の音は、実際の音を PA で拡大?)。正直なところ、これはオペラの生演奏では反則であると思う。なぜなら、それは効果音にほかならず、作曲家の創作ではない以上、ダンスの雰囲気作りのみに貢献するものであるからである。私が上で書いた、この作品をオペラと呼ぶ必要があるのかという感想は、この点にもよっている。結局 1時間半の上演中、歌手たちの延々続く歌唱と、小編成のオケ (英国のデヴィッド・ロバート・コールマン指揮の東京交響楽団) の奏する暗い音たちの点描をバックとしたコンテンポラリー・ダンスによって、古来日本文化によくある死者と生者の交わりの感覚、それから、後半の方では、多少抽象化されてはいるものの、男女の性愛も、テーマとして描かれていたと思う。これはこれで、美的には優れているし、見ていて退屈することはなかったが、オペラならではの感興はほとんど感じられず、その点には少し違和感があったと正直に書いておこう。

だが、いずれにしても、この作品の日本初演は画期的な出来事。是非ほかの細川オペラも見てみたいものである。今回の作品のように、能をテーマとして、その本質の再現と新たな手法を模索することは大いに結構だが、西洋音楽としてグローバルに意義を持つ作品が、7作品のうちにはあるはずだ。次回はそのようなものを期待したいと思う。

by yokohama7474 | 2018-02-19 22:31 | 音楽 (Live) | Comments(2)
Commented by 吉村 at 2018-02-21 23:55 x
私もこれは、ダンスと歌唱のコラボレーションパフォーマンスだと思いましたら。もちろん見事なものでしたが、それ以上でもそれ以下でもないのもでした。緊張感と、上演の見事さは特筆すべきものでしたので、テミルカーノフ読売響を譲って観て後悔はありませんでしたが、楽しかったかと言われると良くわかりません。
Commented by yokohama7474 at 2018-02-22 01:14
> 吉村さん
全くおっしゃる通りですよね。また違った細川作品を見てみたいものだと思います。
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