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東京二期会公演 ワーグナー : 歌劇「ローエングリン」 (指揮 : 準・メルクル / 演出 : 深作健太) 2018年 2月24日 東京文化会館

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日系ドイツ人の名指揮者、準・メルクルは、先に東京都交響楽団 (通称「都響」) を初めて指揮したコンサートにおいて、大変充実の演奏を聴かせたことは以前の記事でも採り上げた。そしてこのコンビは、二期会の「ローエングリン」の上演に登場したのである。日本におけるワーグナー上演の歴史を刻んできた二期会であるから、「ローエングリン」も何度も上演しているのかと思いきや、なんと、今回が 2度め。しかも、前回は 1979年の若杉弘の指揮での上演というから、ほぼ 40年のブランクがあったことになる。今回の上演は 4公演で、私が聴いたのはその 3回目。二期会は、同会に所属している日本人歌手たちが出演するのであるが、今回もいつもの通り、キャストには 2組ある。実際のところ、2組の独唱者たちも合唱団も、オーケストラも、もちろん演出をはじめとするスタッフも全員日本人。指揮は半分日本人 (笑)。そこで示された演奏の水準には驚くべきものがあり、これは二期会のワーグナー上演の中でも記憶すべき名演奏になったのではないだろうか。

そうそう、演出の紹介を忘れていた。深作健太である。実は、メルクルの指揮、深作の演出の二期会上演というと、2015年10月に上演されたリヒャルト・シュトラウスの「ダナエの愛」がそうであり、このブログでもかなりの好感を持ってご紹介した記憶がある。今回はそれに続くこの指揮・演出コンビでの第 2弾ということになるわけである。今年 45歳の深作は、父欣二のイメージとはちょっと異なる、このように温和な外見の人で、今回会場でお見かけした印象も、こんな感じだった。
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それから、この上演と前回の「ダナエの愛」で共通するもうひとつの重要な要素は、双方で私の見た上演においては、テノールの福井敬とソプラノの林正子が共演したこと。前回はミダスとダナエ、今回はローエングリンとエルザである。そうそう、考えてみれば福井敬は、1997年の新国立劇場のオープニングシリーズでも、この「ローエングリン」を歌っていた (指揮 : 若杉弘 / 演出 : ウォルフガンク・ワーグナー)。それから 20年が経過しているわけであるが、55歳の福井の今回の歌唱は、記憶の中の以前の歌唱と比べても、全く衰えがないどころか、さらに進化したものであったと思う。惚れ惚れする美声に加え、ワーグナーのテノールに必要な劇性もあり、あれこれ必要とされる演技も堂に入ったもの。改めてこの人が日本を代表するテノールであることを思い知った次第。
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一方の林正子も、いつも通り幅広い表現力で、このエルザという単純そうでなかなか難しい役を説得力をもって演じていた。上背もあり、容姿も舞台映えするが、それだけではなくて、役柄の意味を充分理解しての演技であり歌唱であることがはっきりと伝わってくるようであった。
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歌手でもうひとり印象に残ったのは、オルトルートを歌ったソプラノの中村真紀。ハンガリーのリスト音楽院で学んだり、ボローニャに留学した経験もあるようだが、今回が二期会デビューとのこと。オルトルートは普通はメゾの役だと思うが、彼女の声の質なら、確かにこの役にも適性がありそうだ。片目に眼帯をして、悪役らしい悪役 (?) を素晴らしく演じていた。
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と、歌手陣も充実であったのが、私は本当に今回の上演のオーケストラパートには酔いしれてしまった。いつも書いている都響の芯のある音がここでも音のドラマに、筆舌に尽くしがたい迫真性を与えていることを聴くのはこの上ない喜びだったし、そのサウンドクオリティは、ドイツの本場の名門歌劇場のオケさながらのレヴェルである。何度も現れるバンダによるファンファーレも安定していて、この作品の個性の表出に大きく貢献した。加えて、冒頭の前奏曲に顕著に聴かれるキラキラした音での緩やかな起伏ある流れも、実に見事だったとしか言いようがない。もちろん、それを引き出すメルクルの手腕も大変鮮烈だ。メルクルと都響は、コンサートでもオペラでも、これから共演を増やして行ってくれないものであろうか。
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そして深作の演出は、今回もかなり凝ったもので、オペラの専門の演出家ではないにもかかわらず、オペラ演出としてはっきりメッセージのあるものであった点、評価したい。この演出のコンセプトは、ローエングリンを、彼に憧れたバイエルンのルートヴィヒ 2世 (もちろん、ワーグナーの大パトロンである) その人と重ね合わせるというもの。これが彼の青年の頃の肖像で、今回の演出でも小道具として使われている。
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冒頭の前奏曲の途中から、ローエングリン = 中年になったルートヴィヒとおぼしき人物が舞台におり、過去の思い出に耽っているのか、ドイツの神話に思いを馳せているのか、とにかく心ここにあらずで、敵の攻撃に立ち向かうためにドイツの諸国が団結しようという呼びかけにも反応しない。因みに、ここでドイツ王ハインリヒは、ちょうどルートヴィヒ 2世の治世の頃に頭角を現し、その後ドイツ統一の中心となるプロイセンのビスマルクの姿のようである。どこで分かるかというと、この兜を手に持っていることから分かるのである。
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ルートヴィヒは長じるに及んで容姿が崩れて行ったことは有名で、この演出では、この写真のような中年の (実年齢では死去したのはわずか 40歳のときなのだが) ルートヴィヒがローエングリンであるという設定だ。
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そして、少年 (これは魔法によって白鳥に姿を変えられていて、最後に人間の姿で戻ってくるゴットフリートである)、それから、銀の甲冑を身に着けた若き日のローエングリンも、ともに歌が (もちろんセリフも) ない演技だけの役として頻繁に登場する。つまり、ここではローエングリン = ルートヴィヒの若き日の姿が、現在の姿と循環しているのである。そう思うと、冒頭では舞台奥に設置されたデジタル時計が、0時00分から遡って行くのに対し、ラストでは時計が進み始めるのだ。現実世界では、時には不可逆性があり、時計は先にしか進まないのだが、ロマン主義の世界、伝説の世界、そしてルートヴィヒが住んでいて、そのことが現実としてワーグナーをして数々の偉大な作品を書かせしめるに至った、空想の世界では、時計は逆にも進むのである。このあたりのイメージは、なかなかに冴えたものがあった。但し、この設定には課題もいろいろあって、まずひとつは、禁忌をテーマとするローエングリンの聖性はあまり強調されず、ローエングリンをルートヴィヒに重ねることの意味に、多少こじつけめいたものが見えてしまったこと。もうひとつは、少年ゴットフリートをかなりの時間舞台に乗せていることの意味が明確ではなかったこと。それから、これは我々日本人には感覚的に理解しにくい国と国 (具体的にはバイエルンとプロイセン) との間の歴史的関係性を素材にすることに、ヨーロッパ人が持つであろう切実さが見られなかったこと。つまり、21世紀の東京で、なぜに 19世紀ドイツの状況を舞台に乗せる意味があるのか、ということになる。もっとも、ヨーロッパの演出家によるワーグナーには、うんざりするほど理屈っぽい演出や、過度に政治的な色合いを持つ演出なども多くあるので、それらに比べれば、今回の演出には、イメージ創出の点では見るものがあったと評価することは可能であると思う。もちろん、どのような演出であっても、オケと歌手陣 (あ、言い忘れていたが、合唱も出色の出来) の熱演が、すべてを飲み込んでいったことだろうと思うのであるが。

最近の東京では、たまたまなのか理由があるのか、同じ大作が違う演奏者で演奏されるケースがままある。この「ローエングリン」も、ほんの 1ヶ月少し後に、東京・春・音楽祭で、こちらは演奏会形式であるが、全曲の演奏がなされる。海外有名歌手を含むその演奏と、今回の純 (いや、指揮者に因んで「準」かな。笑)・日本プロジェクトとの違いを楽しみにしたい。

by yokohama7474 | 2018-02-25 02:17 | 音楽 (Live)