川沿いのラプソディ


川沿いの住まいから、音楽、美術、映画その他文化一般を語りつくします。
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メモ帳

ベルリン・コーミッシェ・オーパー来日公演 モーツァルト : 歌劇「魔笛」 (指揮 : ジョーダン・デ・スーザ / 演出 : バリー・コスキー等) 2018年 4月 7日 オーチャードホール

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ドイツの首都ベルリンには、3つのオペラハウスがある。その起源が 18世紀の宮廷歌劇場にまで遡る旧東ベルリンのベルリン国立歌劇場 (州立歌劇場とも)、旧西ベルリンに存在したベルリン・ドイツ・オペラ、そしてこの、旧東ベルリンのベルリン・コーミッシェ・オーパーである。コーミッシェ・オーパーは戦後に設立されたオペラハウス (その歴史は 1764年に遡るという説明もあるが、手元で調べた限り、詳細は不明) で、通常の歌劇場と比べて大きな特色があって、それは設立者ワルター・フェルゼンシュタイン (1901 - 1975) の唱えた「ムジーク・テアター」という基本思想を維持していることである。つまり、オペラの演劇性を重視し、伝統的な演出ではない、聴衆に新たな問題提起を行うような、そんな先鋭的な上演を行っている。また、もともと貴族の娯楽であったオペラを、民衆のものとして再創造するため、上演言語はすべてドイツ語である。このフェルゼンシュタインの名前はオペラ・ファンの間では既に伝説となっていて、1970年代頃から現在に至る先鋭的なオペラ演出家、ゲッツ・フリードリヒ、ハリー・クプファー、ペーター・コンヴィチュニーらはすべて、このフェルゼンシュタインの直接の弟子であるか、または大きな影響下にある人たちなのである。つまり、このコーミッシェ・オーパーとフェルゼンシュタインの名前は密接に関連していて、現在に至るも、その状況は変わっていない。私は、残念ながらベルリンでは、ほかの 2つの歌劇場と異なり、コーミッシェ・オーパー現地を訪れたことはないし、随分以前の来日公演での「ホフマン物語」は、チケットを買ってあったのに、出張のために見ることができなかた。だがその代わり、以前「フェルゼンシュタインの芸術」という本 (寺崎裕則著) を読んだことがある。これはドイツ統一前の古い本ではあるが、オペラ演出についての様々な示唆に富んだ面白い本である。
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さて、今回のこのコーミッシェ・オーパーの来日公演は、そのような能書きは一切不要。なぜなら、これはフェルゼンシュタインの、今となっては古臭いところもあるかもしれない演出ではなく、現代の最先端の技術を駆使した、別の意味での先鋭的な演出であるからだ。チラシにも「世界中で連日完売!」とあるが、もともと 2012年にベルリンで初演されて以来、既に 21都市で約 300回上演、40万人もの動員を達成しているというから驚きだ。今回は読売テレビ開局 60周年記念での来日で、ほかのスポンサーとしては竹中工務店の名前が大きく取り上げられている。そして上演されるのは、モーツァルト晩年の名作オペラ「魔笛」である。東京での 3公演を皮切りに、広島 2公演、西宮 3公演で、合計 8公演が開かれるが、興味深いのは、いずれの都市でも、同じ日の中で 14時と 19時という 2回の上演がなされ、東京と西宮では、それに加えてもう一公演あるという構成。ステージの設営の手間に鑑みると、その方法は資金効率の観点からよいのであろうが、スタッフやキャストの負担はなかなかのものではないか。これについては後述。

今回の「魔笛」、私が見に行くことにしたのは、何もフェルゼンシュタインの教えが今も生きているか否かを知りたかったからではなく、ごく単純に、面白そうであったからだ。ちょうど BS 日テレで、女優の松下奈緒が現地での上演をレポートしている番組を見て、大いに興味を引かれたからである。いくつかのシーンをお目にかけよう。
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アニメーションを含むプロジェクション・マッピングで、メルヘンの世界を自由自在に表現している。そしてここでは、バスター・キートン、ルイズ・ブルックス、そして「カリガリ博士」「ノスフェラトゥ」といったドイツ表現主義の、サイレント映画の世界からのイメージの引用が多く、どこかノスタルジックであり、また時にキッチュであったりポップであったりという多様なイメージで、普段オペラになじみのない人でも楽しめるような内容であることに、もしかするとオペラの未来があるのかも、と興味を持ったのであった。

今回の 8公演には 3人の指揮者が登場する。そのうち 2人は外国人で、東京の昼公演と西宮の昼公演は、それなりに知られた名前の指揮者、ガブリエル・フェルツ。東京の夜公演と西宮の夜公演は、これが私も聴いた指揮者だが、今年 30歳という若手カナダ人、ジョーダン・デ・スーザ。そしてなんと、広島では、1日 2公演を 1人の指揮者が振る。それは山田和樹。「魔笛」を 1日で 2回指揮するのはなかなか大変な作業であろう。だが、実は上演時間は通常より少し短い。それはなぜかと言うと、セリフをバッサリとカットしているからだ。例えば、最初のシーンで (上に写真を掲げた通り) 怪物に追われて走って逃げるタミーノは、目覚めたとき、「夢を見ているのだろうか」と、スクリーンに映し出される字幕で語るのであり、実際に声を出すことはないのである。
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なるほど、これはうまく無声映画のイメージを使いながら、上演時間を短縮し、ドイツ人以外の歌手がドイツ語で芝居をするという手間を省くという意味で、効率的な方法であろう。だが、この「魔笛」においてはストーリー展開はかなり曲折のあるものであり、セリフ部分の時間は、いかに字幕にするにせよ、かなりの時間を要することは確か。そしてここでは、なんとも面白い解決策が示されていた。それは、フォルテピアノ (チェンバロよりも音色が多彩で、モーツァルト時代の楽器) の使用である。ここでは、オケが陣取るピットの中で、オケよりも一段高いところにしつらえられたフォルテピアノが、字幕によるセリフ部分の伴奏を務める。そして、これはよく考えられていると思ったのだが、そこでフォルテピアノが切れ切れに演奏するのは、モーツァルトの作曲になる幻想曲 2曲 (ニ短調K.397 とハ短調K.475) なのである。深刻な語りには短調がよく似合う。

さて、そんな公演であったのだが、私の感想を一言で述べるとするなら、正直なところ、一度見ればもうそれでよい、ということになろうか。確かにこのプロジェクト・マッピングには、無声映画以外にも様々なイメージが散りばめられている。夜の女王は、ベルリンの至宝であるネフェルティティ像を思わせるし、空飛ぶ象は、この街の古い動物園の入り口を思わせるし、それから、再び夜の女王であるが、上で見たような巨大な蜘蛛のイメージは、彫刻家ルイーズ・ブルジョワ (六本木ヒルズにも彼女が制作した蜘蛛がある) を思わせる。よく知られていることだと思うが、ブルジョワの蜘蛛は、母性愛の象徴である。
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だが、これだけ慌ただしく映像を見せられると、どうしても音楽が疎かになる。プロジェクト・マッピングがせめて全体の半分であったならまた違っていたであろうが、これはどう見てもやりすぎ。そして、そのような設定の中で、歌手の動きはほとんどない (なにせ、背景が勝手に動くのだから) ということになる。あのパパゲーノすら、パンの笛を自分で吹くことはない。ここには、オペラ芸術の何か大切なものが抜け落ちていないだろうか。総合芸術であるからこそ面白いオペラでは、歌手たちは同時に役者でもあり、自らの感興に応じて自由な演技があるべきではないだろうか。ましてや、ドイツ語のジングシュピール (つまりは「歌芝居」だ) であるこの「魔笛」には、大衆演劇さながらのキッチュな要素があるのが基本であろう。初演時に自らパパゲーノを演じた、テアター・アン・デア・ウィーンの劇場主、シカネーダーが狙ったのは、洗練されたスマートな流れよりも、「シカネーダーがやるなら仕方ねーだー」というような、大衆芝居の逞しさではなかったろうか。これは、初演時にパパゲーノを演じるシカネーダーの肖像。
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ひとつ端的な例がある。それは、3都市で昼・夜の興行があるがゆえに、歌手陣はほとんどダブルキャストなのであるが、1人だけ昼夜兼業で舞台に立つ人がいる。それは、パパゲーナ役。それも当然で、ここでは役者としてのシーンはないので、老婆の格好で出てきてパパゲーノをからかう場面はなく、ただ「パパパのアリア」を歌うだけなので、大した負担はかからないのである。なるほど、このように時間を短縮し、若い歌手を回して、限られた舞台装置とともに日に 2度の公演を打ちながら世界を巡回すれば、資金効率的にはかなりのもの。さすが、現代オペラ界の風雲児である、コーミッシェ・オーパーの総監督、バリー・コスキーの手になる舞台である。
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このコスキーはオーストラリア出身のユダヤ系の演出家。今回の上演では、開演前にピチピチの Tシャツにチノパンというラフないで立ちで現れ、紙を見ながら以下のようにスピーチした。「ミナサン、コンバンワ。ワタシワ、バリー・コスキー、デス (ここで拍手を促す)。ワタシタチワ、トウキョウニヤッテクルノヲ、タノシミニシテイマシタ。コノ『マテキ』ヲ、サイゴマデ、オタノシミ、クダサイ」・・・なるほど、サービス精神旺盛であること分かった。実はこのコスキー、昨年のバイロイト音楽祭で、フィリップ・ジョルダン指揮による「ニュルンベルクのマイスタジンガー」を演出した人である。バイロイトの歴史における初のユダヤ人演出家の手になる舞台であったらしく、登場人物をワーグナーを取り巻く実在の人たちになぞらえ、しかも舞台がニュルンベルク裁判になるという過激な演出であったと聞く。だがこの「魔笛」は、彼の名前はクレジットにはあるものの、ロンドンを本拠とする「1927」という劇団の、スザン・アンドレイドという演出家と、ポール・バリットというアニメーターによるところ大。この 1927 という劇団名は、世界で初めてのトーキー映画「ジャズ・シンガー」が制作された年に因んでいる。
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あれこれ、なるほどと思うことはあるのだが、ここで繰り返すと、私はこの演出は、一度見れば充分だ。総合芸術たるオペラから、歌手の動きをほとんど削ぎ取ってしまい、歌芝居にあるべき即興性を封印してしまったこのような演出を、そう何度も見たいと思わないのは、むしろ普通ではないだろうか。そして歌手陣も、パミーナ役のヴェラ=ロッテ・ベッカーと、ザラストロ役のリアン・リ以外にめぼしい人がいなかったのは残念。そんな中、デ・スーザ率いるオケはなかなかに洗練された流れのよい演奏を披露して、なかなかのクオリティであった。実はこのオケの歴代の音楽監督の中には、その後大出世をした人がいる。その人の名はキリル・ペトレンコ。言うまでもなく、ベルリン・フィルの次期音楽監督である。彼はこのコーミッシェ・オーパーのオケを指揮して、チェコの作曲家スークの交響曲と交響詩を集めた録音を残している。やはり指揮者の資質はオケの音に影響を与えるものなのであろう。これがその CD だ。
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ちょっと厳しいことを書いたかもしれないが、オペラという芸術の将来には、不安が一杯である。そんな中、誰もが親しむことのできるこのような演出は、それはそれで貴重であるとは思っている。フェルゼンシュタインの理想を維持しながら、現代と切り結ぶ演出により、ベルリン・コーミッシェ・オーパーの活動がますます面白いものになることを願っている。

by yokohama7474 | 2018-04-08 23:53 | 音楽 (Live) | Comments(0)
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