さてここで突然話題が変わるのだが、私の好きな英語のフレーズに、"ring a bell" というものがある。文字通り「鐘を鳴らす」ということなのだが、この使い方が面白い。例えば誰かの名前を引き合いに出して、その人を知っているかと問うと、"That name rings a bell." などという返事をもらうことがある。頭の奥でリンリンとベルが鳴っている、つまり、何か聞き覚えがあるのだけれどはっきり思い出せない状態を指して言うのである。私のように 50を超えてしまうと、昨日の出来事ですら "ring a bell" 状態で思い出ないこともしばしばであるが (笑)、でも、遠い昔の記憶が ring a bell という状態は、結構日常の中にあるのではないか。実は私は正月に宇治平等院を訪れたとき、そのような感覚を持ったものであった。そのときの紀行文は今年 2月 4日付の記事に書いていて、平等院のあとに橋寺放生院を訪れたのだが、実はその間、ring a bell 状態だったのである。確か小学生の頃、つまりは 40年ほども前のことだが、平等院からそれほど遠くない小さな寺を訪ねたことがある。そしてそのとき、舗装された道に古い門が残されていて、そこは何か姫にまつわる逸話があったはず・・・。だが 1月の時点では、既に夕刻に近づいていたこともあって、それ以上思い出したり、その場でネット検索できなかったのだ。そこで今回私が宇治に出掛けたのは、その ring a bell 状態の解消がひとつの目的であったのだ。それについては追って述べることとしよう。というのも、もちろんもうひとつの宇治訪問の目的は、1月に果たせなかった、平等院鳳凰堂の内部の拝観であったからだ。
実は事前に分かっていたことなのだが、私が 40年前に対面することのできた上記の阿閦如来像を含む 3体の重要文化財の仏像は、1991年にこの寺から盗み出されていて、以来その行方が分かっていないらしい。・・・なんと痛ましいことであろうか。確かに一時期、各地の寺から仏像が盗まれる事態が相次いだが、この阿閦如来のように小ぶりな仏像は、卑劣な窃盗犯の手によって、どこかに持ち去られてしまったわけである。40年前の思い出が ring a bell した結果がこれだったか。本当にやるせない思いに囚われてしまう。実は私が上記の阿閦如来の写真を拝借したのは、とある古い本からなのであるが、その本におけるこの仏像の紹介記事には、お寺の人は収蔵庫を開けて、訪問客を残したまま庫裏に戻ってしまったとある。私も経験があるが、のどかな時代には、それが当たり前であった。そこに窃盗犯がつけ込むことになろうとは、人を疑うことのない善意に満ちた寺の人たちは、全く予想しなかったに違いない。現在は堅く扉を閉ざしたこの寺の小さな収蔵庫の前で、なんとかこの貴重な仏像が無事返還される日が来ますようにと、祈りを捧げることしかできなかった。