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ベートーヴェン : 歌劇「フィデリオ」 (指揮 : 飯守泰次郎 / 演出 : カタリーナ・ワーグナー) 2018年 5月20日 新国立劇場

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今日が、東京・初台の新国立劇場における新演出の「フィデリオ」の初日で、未だ上演終了から 2時間も経過していないので、SNS は別として、この上演の評価をネット上で詳しく行っている人は未だそれほどいないかもしれない。これから 6/2 までの間に残り 4公演あって、それらを見る方も多いだろうし、また、今回はテレビ収録していたので、いずれ放送もされるのであろうから、ここで詳細を語ることはしない。だが一言だけ述べておくと、私はこの演出を支持しない。正直なところ、こんなものにつきあっている暇はないし、思い出すだけで胸が悪くなる。ワーグナーの曾孫で、現在バイロイト音楽祭の総監督を務める女流演出家、カタリーナ・ワーグナーには、2015年にバイロイトでの「トリスタンとイゾルデ」でひどい目に遭わされたが、今回はそれよりもひどい。もちろん、私にもそれなりに様々な芸術に触れてきた経験もあり、前衛的なものや既存概念にとらわれない芸術は大好きだし、芸術家は信念があって活動を行っているわけだろうから、私ごときがここで吠えても何がどうなるわけでもないだろう。だが、実際にこの日の舞台に接した人たちのほとんどがこの演出に拒否反応を示したことは、歌手や指揮者には温かい拍手とブラヴォーで労をねぎらう一方で、演出家が出て来た瞬間に大ブーイングを浴びせたことで、明らかだろう。以前も書いたことだが、オペラは所詮は様式美の世界であり、音楽こそが最も大事な要素であるべきだ。そこに過激な演劇的要素を加える試みによって、作品の今日的意義とか、隠れた魅力を、観客に発見せしめることは当然あるだろう。だが、オペラには既に音楽がありストーリーがあり、それに応じた歌詞がありト書きがあり、場合によっては (この作品もそうだが) セリフもある。従って、オペラの演出とは、なんとも窮屈な制限の中での創作活動であることは、宿命的な大前提なのだ。その意味で今回の演出は、その窮屈さから脱しようとして、あろうことか、音楽の冒瀆に至ったと言ってもよいと思う。これは許容できない。何より、作曲者ベートーヴェンがもしこれを見たら、どう思うだろう。怒りのあまり卒倒してしまうのではないだろうか。もしカタリーナ・ワーグナーが、見る者を驚かせるどんでん返しのストーリーを語りたいなら、何もオペラの演出などという窮屈な分野ではなく、演劇か映画を、ゼロから自分で作ればよいではないか。なぜに音楽を冒瀆してまで普通と違ったことをしたいのか、私には皆目理解できない。

実際のところ、第 1幕と、第 2幕の真ん中までは、あれこれ記事に書くべきことを考えて聴いていた。また紗幕を使っていて気に入らないとか、常に歌手を動かしていないと気が済まない演出だとか、なんで第 1幕からフロレスタンが姿を見せているのだろうとか、あるいは、レオノーレの男装と本来の女性としてのいで立ちとを使い分けるところはなかなか面白いな、セリフを少しカットしているようだが、その分テンポはよいな、とか。また、今回の「フィデリオ」が、この劇場のオペラ部門の芸術監督として指揮する最後の演目である飯守泰次郎は、開始部分から気合十分であり、彼に応える東京交響楽団も、細部のニュアンス表現から力強い推進力まで、素晴らしい熱演であった。それがゆえに、第 2幕のあるシーンをきっかけに、もう音楽を聴く意欲すらなくなり、その後幕切れに向けて、ますます嫌悪感が増していったことが、本当に残念でならない。歌手も、題名訳のリカルダ・メルベート、フロレスタンのステファン・グールドに加え、ロッコの妻屋秀和とか、マルツェリーネの石橋栄実とか、大変印象に残る出来であったのだが。

歌手陣や指揮者には大変申し訳ないが、この公演には、本当に胸の悪い思いをした。それが私の正直な感想である。

by yokohama7474 | 2018-05-20 18:34 | 音楽 (Live)