川沿いのラプソディ


川沿いの住まいから、音楽、美術、映画その他文化一般を語りつくします。
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メモ帳

戦後美術の現在形 池田龍雄展 楕円幻想 練馬区立美術館

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これは 2ヶ月ほど前まで練馬区立美術館で開かれていた展覧会。私も会期ぎりぎりになってこの展覧会のことを知り、なんとか最終日に見に行くことができたもの。この美術館では日本の近現代美術の面白い展覧会がよく開かれていて、いつも要注意なのであるが、今回もなんとかギリギリで間に合ってよかった。どこかの美術館で、上に掲げたようなチラシを見て、その異様な雰囲気に一目で (あ、この絵自体は一目ではなく、さながら百目だが) 魅せられたのである。これは、洋画家池田龍雄 (1928 - ) の展覧会。生年を見て分かる通り、今年 90歳になる。いや、彼の誕生日は奇しくも終戦記念日の 8月15日。もうすぐ 90歳ということであるが、では彼は終戦の日、17歳の誕生日はいかにして迎えたのであろうか。その頃の写真がこれである。
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そう、佐賀県伊万里市に生を受けた彼が 17歳になった日に終戦を迎えたのは、特攻隊員としての訓練中。このような事態に対して、後の世に生まれた我々が一体何を言えるというのだろう。彼がこの終戦の日に背負った十字架が、きっと彼の生きる原動力になってきたとは思うのだが、この展覧会の最初に展示されていた 1991年作の「友に捧ぐ」という作品に対して、何か語れる言葉があるだろうか。1945年 4月27日、岩国で特攻隊の訓練を受けていた池田は、親友の訓練中の死に遭遇する。これはその後事故現場近くの海岸で拾った流木を、戦闘機の操縦席を思わせる金属製の枠に収めた作品である。終戦後半世紀近く経っても、彼の中には訓練中の親友の死が深く刻まれていたわけである。
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経歴を見てみると、彼は 1948年、20歳で現在の多摩美術大学に入学しているが、学費を払えなくなり、その後学校には行かなくなる。つまり彼の画業は、ほぼ独学ということになる。そして池田は現在まで、既成の美術団体とは距離を置き、コンクールに出展することもなく、アンデパンダン展 (フランスに起源を持ち、無審査で出展できる展覧会) を主な発表の場としてきた。戦争に憑りついた死神から間一髪逃れることのできた池田はしかし、それから 70年以上、戦争を生き残った罪悪感に苛まれながら、様々な画業を展開してきているのである。これは 1951年作の「無風地帯 - 壊された風景」。もちろん戦後の占領期の混乱から生まれた作品であるが、ここには、池田が感銘を受けたという岡本太郎の影響も見て取れるものの、私が思い出すのは、チリの画家、ロベルト・マッタである。
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戦争の記憶は増殖する。これは 1954年作の「僕らを傷つけたもの 1945年の記憶」。これも同様の画風であるが、戦後 9年を経て人々の記憶の中から戦争の影が薄れつつあった頃、リアリズムを離れたところで戦争の悲惨さを訴える試みであったのだろう。
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これも同じ 1954年作の「にんげん」。帽子を取って挨拶する男にかぶさっているのは、菊のご紋と日章旗である。そうするとこの題名は、昭和天皇の「人間宣言」を表しているのであろうか。その人のために死を覚悟したまま終戦を迎えた池田の心境は、後世が慮るには重すぎる。
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同様の趣向は 1955年作の「勲章」でも見ることができる。この仮借なくもグロテスクな戦争批判は、あのゲオルゲ・グロッスにも匹敵しよう。
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その後の池田の画業の広がりはあとで見るとして、展覧会では、彼と戦争との関わりが最初に明らかにされていた。これは実に終戦後 65年後を経た 2010年作の「散りそこねた桜の碑」。ドクロと日の丸の下に見えるのは 2つの辞世の句。ひとつは良寛の作とされる「散る桜 のこる桜も 散る桜」。もうひとつは、池田自身が特攻隊の訓練を受けているときに両親に送った「君のため花と散りしと 東風よ いさをつたへよ 父母のもとに」である。
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1951年 9月から池田は、生活のため、進駐軍相手のアルバイトとしてポートレートを描き始める。時あたかも朝鮮戦争の頃。故国を離れて遠いアジアにやってきた進駐軍兵士たちは、写真をもとに彼らの家族や恋人の顔を描いてもらうことを所望した。ところが、この 1952年の作品は、依頼主が戦死したのか、戻って来なかったので、画家の手元に残った作品であるようだ。この金髪碧眼の美女が誰であるのか、今では調べる術もないだろう。戻らぬ恋人を待ち続けたかもしれない彼女は、その後彼女が辿った運命とは全く別の人生として、これからも永遠に微笑を浮かべたまま、恋人を待ち続ける。
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さてここで改めて池田の画業を辿ってみよう。これは、画家を目指し始めた頃、1947年の「自画像」。うーん、少し色使いが単純すぎるもの、これは当時の洋画家として、見事な作品ではないか。あの重要文化財に指定されている中村彝の「エロシェンコ氏の肖像」(1920年作) を念頭において作成されたという。
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戦後の池田の創作活動は、上で見たような反戦という基本姿勢がありながら、一方では近代化の進む人間社会への警鐘というテーマも並行して走っている。これは 1952年作の「鉄骨」。
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そして彼は、社会の低部で苦しむ人たちの姿も様々に描くようになる。これは 1954年作の「内灘」という版画シリーズの中の「収穫」という作品。ピカソばりに顔のゆがんだ漁師が、彼が釣り上げたとおぼしき巨大な魚を背負って歩いているが、その魚は既に骨になっている。恐ろしい皮肉がここにある。
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これは 1953年作の「腕」。日本の産業発展を支えた炭坑労働者の叫びを代弁するような作品である。私がこれを見て思い出すのは、やはり戦後の日本美術で重きをなした鶴岡政男の「重い手」という 1949年の有名な作品である。調べた限りでは鶴岡と池田の接点は見つからなかったが、影響関係があってもおかしくないと思う。比較して頂きたい。
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この1955年作の「坑口」もテーマは似通っているが、こちらは河原温の同じ年の作品「黒人兵」を思わせる。池田と河原は、数々の展覧会のメンバーとして作品発表の舞台をともにしているので、ここでも影響関係があっても不思議ではない。ここでは、その河原の「黒人兵」を表紙として使用した興味深い書物、「チュビズム宣言」の表紙を掲げておこう。
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さて次は、1956年作の「ストリップ・ミル」。池田が見学した小倉の八幡製鉄所の連続式圧延機 (ストリップ・ミル) にヒントを得たものらしい。反戦の暗い題材からは抜け出し、レジェ風の作品に仕上がっている。そう、上で掲げた「チュビスム宣言」は、人間は一本の管 (チューブ) でできていることを切り口としているが、ここでの池田の感性もそれに近いのではないか。
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池田の脱戦争の動きのひとつとして、本の装丁や絵本の挿絵という活動も挙げられるのではないか。この「ないたあかおに」は 1965年の初版で、私も子供の頃、図書館で見かけた絵本である。
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だがやはり池田にとっては、戦争を離れても、近代化、工業化の進展に対する抵抗感があったことが、制作活動の原動力になったことは、この展覧会で何度も実感することとなった。例えばこれは、1955年作の「化物の系譜」というシリーズの「谷間」。ここに横たわる巨大な管は、京浜工業地帯の大企業を表しているらしい。
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これも同じく「化物の系譜」から「行列」、そしてチラシにもなっている「巨人」。このブラックな感性は、私の琴線にかなり触れるものである。
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これは 1967年作の「米」。一粒の米の中に、農民の手や口元など、様々な写真がコラージュされている。高度成長時代に存在した、社会の矛盾への警鐘であろう。
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池田の真骨頂は、このようなモノクロ作品のみにあるのかと思うとさにあらず。この 1967年作の「玩具世界」というシリーズの「アンドロイド♂」は、なかなかにポップな雰囲気である。だがその風刺している内容は、人間と機械の葛藤であり、なかなか一筋縄ではいかないと思われる。
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展覧会では池田のその他の活動 (パフォーマンス系あり、インスタレーションあり) が紹介されていた。その中には日本のシュールの生みの親とも言うべき瀧口修造との親交も明らかとなり、大変に興味深かったのである。そしてこれは、1973年に始まった「梵天の塔」というプロジェクト。
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インドのベナレスに、1枚の真鍮版が安置されていて、そこには 3本のダイヤモンドの棒が立てられ、そのうちの 1本に 64枚の純金の穴あき円盤が積み重ねられている。僧侶は厳格なルールのもと、日夜絶え間なく、ある棒から別の棒に円盤を移す勤行を行っている。すべての円盤が移されたとき、塔も寺も粉々に砕け、世界は消滅するという。そしてこの円盤の移動には 2の 64乗の動作が必要らしく (このあたりはよく理解できないが)、不眠不休で行っても 5800億年を要するという。池田はそれに倣って 1973年から円盤を移す行為を始めたという。そこには多くの人たちが関わっていて、署名を集めたノートが展覧会で展示されていた。ここには、野中ユリ、谷川晃一、巖谷國士、李禹煥 (リ・ウーファン)、麿赤児などの名前が見える。大変なプロジェクトなのである。
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さて、この展覧会の副題は「楕円幻想」であるが、池田はある時期から様々な楕円を描くようになった。それは、何やら有機的な突起であったり球形であったりするのだが、それはこの画家の中に、人間の身体が解体される瞬間の情景というトラウマがあるからではないかと、私は思う。そこにはまた、生命の根源を思わせたり、上記で見た「梵天」プロジェクトのような、仏教的な悠久の時間を感じさせる要素もある。これは 1974年頃作の「BRAHMAN 梵天 第 1章」という連作から。
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展覧会の最後には、池田の近作のあれこれが展示されていた。これは 2009年頃作の「場の位相」というシリーズから「虚時空山水」。抽象性は増しているものの、ここで描かれた物体はどこか、最初の方で見た「友に捧ぐ」という作品で使われている木片を思い出させるものはないだろうか。
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この 2012年作の「八十三年の距離」は、ちょっと異色作である。1歳の自分と 84歳の自分の肖像を並置している。やはり彼は、自分が生きて来た過去と無縁ではいられないタイプの芸術家なのである。
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高齢となった今でも創作活動を継続していることには本当に敬意を表したいが、これはやはり「場の位相」シリーズから、2017年作の「放射する線」。鮮やかな色彩は、とても老人のものとは思えない。
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かくして、かつての特攻隊員は、その後昭和・平成と生き抜き、仮借なく人間の姿を追い求め続けているのである。
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by yokohama7474 | 2018-08-12 00:29 | 美術・旅行 | Comments(0)
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