川沿いのラプソディ


川沿いの住まいから、音楽、美術、映画その他文化一般を語りつくします。
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メモ帳

高松・丸亀旅行 その 1 正花寺、願興寺、讃岐国分寺、平賀源内記念館・旧居、志度寺、屋島寺、高松城跡

今回と次回でご紹介するのは、私と家人が 6/30 (土) - 7/1 (日) という 1泊 2日で出掛けた旅行である。この週末には予定されたコンサートもなく、ちょっとどこかに出掛けようかと思って決めた行き先は、四国・香川県の高松と丸亀である。なぜという大した理由はないのだが、強いて言えばひとつのきっかけは、以前このブログでも採り上げた、Bunkamura ザ・ミュージアムで見た洋画家猪熊弦一郎の展覧会だ。彼の生地丸亀に、その名を冠した美術館があることは知っていて、ちょっと興味があった。それから丸亀といえば、現存 12天守閣のひとつ、重要文化財丸亀城もあるではないか、ということ。さらには、たまたま調べてみたら、成田から飛んでいる LCC の就航先に高松があったということだろうか。私は高松は過去に 2度訪ねたことがあり、有名な栗林公園はその 2度とも行っているので、今回はちょっと違った歴史探訪をしようと思って調べてみると、大変古い仏像が何体かこの地にあることが分かった。そして、実際に現地を訪れてみると、駆け足とはいえ、この地の歴史に思いを馳せることとなったのである。

まず、高松到着前に、飛行機の中で家人から出た鋭い指摘から始めよう。彼女いわく、上空から見ていると、何やらため池のように見えるものがやたらと多いという。それは歴史を学ぶ者にとっては結構重要な課題であることを私は知っていたので、その観察眼を一応誉めておいてから、香川にはため池が多いのだよと説明すると、例によって疑わし気な目で私を見るのである。ではここで、公的機関が発表しているデータを引用させてもらおう。
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これはため池の密度。なんと香川は、全国 No. 1 なのである!! もちろん香川県、つまり讃岐の国はうどんで有名であり、灌漑によってうどんの原料である小麦の栽培が盛んであったことからも、この地の特性は理解できる。だが、それだけではない。端的な例を挙げると、ここ香川県には、日本で有数の古さと大きさを誇る、あるため池が現存しているのである。その名は満濃池 (まんのういけ)。今から 1300年前に開かれたと伝わる。今回は残念ながらその場所に足を運ぶことはできなかったが、ここが有名であるのは、西暦 821年に (ということは、このため池が作られてから 100年ほど後のことだ)、ある人がこのため池を改修しているからである。この人だ。
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そう、日本仏教界最大最高の存在のひとりである、弘法大師空海である。彼はここ讃岐の出身であり、全国の多くの場所で、杖で地面を叩くと水が沸き出したという霊力を発揮したという伝説を持っている。もちろん水とは人間の生活になくてはならないものであり、空海が尊い聖者として崇拝されることで、そのような伝説が生まれたという事情はあると思うが、それだけではなくて空海は、実際に灌漑の知識を持っていたのではないかと思う。それは取りも直さず、彼がこの讃岐平野に生を受けたことと関係があるであろう。この地は四国の中で、最も畿内に近い。そんなこともあってであろう。古くから仏教文化が花開いた土地でもあるのだ。それを証明する素晴らしい仏像 2体と対面することが今回叶ったので、まずはそれをご紹介しよう。尚、いずれもメールや電話で訪問日時を伝えてあった。大規模観光寺院ではないので、それは必要なことなのである。まず最初に訪れたのは、正花寺 (しょうけじ) である。
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ここには、重要文化財の菩薩立像が伝わっている。このような素木の一木造りで、天平時代後期から平安時代初期頃の仏像である。その力強く、またどこか異国的な風貌は、明らかにその時代の特徴を備えている。唐招提寺に伝わる、いわゆる「講堂諸仏」と呼ばれる木造仏を連想させるようなところもある。これは、私がお寺の方の許可を頂いてその場で撮影した写真。
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実際この地には、古くから東大寺や唐招提寺の所領があったらしく、当時の都とは交流のあった地であったらしい。そうなのだ。空海を輩出したこの讃岐という土地柄には、そのような文脈があったのである。この正花寺も往時はかなりの大寺院であったろう。ある本には、空海もこの仏像を仰ぎ見たかもしれないと書いてあったが、そう思うとなんとも夢が広がって行くではないか。収蔵庫の様子や、衣文の流れ、蓮の花を象った台座など、細部も間近で拝観できて、貴重な体験であった。
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また、向かって左端に見える女性の彫像は、霊照女像。唐の時代の人で、禅の逸話に登場するらしく、彫像は珍しい。あたかも明治時代の生人形のような雰囲気だが、桃山時代の作とのことであった。
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このお寺の境内は決して広くはないが、収蔵庫の横にあるこのような小堂を取り巻く土塀には、なんとも風情がある。屋根の上に、きか猿といわ猿がいて、み猿がいないのには、何か意味があるのだろうか。
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実はこのお寺に隣接して、結構立派な天満宮があって、その名は綱敷天満宮。この名前の天満宮は、調べてみると福岡や神戸にもあるようで、その由来は、大宰府に左遷される途中で嵐に見舞われた菅原道真がここ高松の地に停泊した際、久利長門守という人が、船の綱を敷いてその上に道真を招いたという逸話らしい。であれば、この地にある綱敷神社こそ、本家本元ということなのだろうか。だがこの神社のある場所は港ではなく、道真が讃岐国司を務めていたときに、よく詩歌を詠んだというゆかりの場所である由。そうすると正花寺の菩薩像は、空海だけでなく道真も拝んだ仏像かもしれないではないか!!
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そしてこの神社の前には、道真がよく腰かけたという腰掛岩や、上記の久利長門守が大宰府に道真を見舞った際にもらった梅の種から育ったという木がある。
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さて、ここで高松を代表するもう 1体の重要文化財の仏像をご紹介しよう。それは願興寺という、やはり小さなお寺に伝わっている。
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この寺の収蔵庫に 1体だけ収まっておられるのは、聖観音坐像。これは天平時代の作で、やはり大変に古いものであるが、実は乾漆造りという手法で作られているのだが、麻布を漆で塗り固めて作るこの手法は、大変な手間がかかるため、天平時代にしか作例がない。また、奈良を中心とする近畿圏内以外の作例は極めて珍しく、私が今ほかに思いつく例は、岐阜県の美江寺の十一面観音くらいである。ここでは写真撮影の許可を求めることはしなかったので、この仏像の写真をお借りして来よう。興味深いのは胸を飾る瓔珞で、見ての通りこれは、別に作ったものを掛けているのではなく、本体と一体化している。もと東京でサラリーマンをされていたというご住職によると、先般東京藝大の手でこの像の複製が作られた際、きっちり像の上から瓔珞を造形していたとのこと。それにしても美しい仏さまである。
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さて実はこの 2つの寺の間にもう 1つ、お寺を訪れている。それは讃岐国分寺である。言うまでもなく国分寺とは、奈良の東大寺をその総本山として、聖武天皇の命によって全国に建てられた諸寺のこと。全国各地で、全く場所が分からないところ、地名だけにその名残りを留めているところ、その後を継いだ寺が後世に復興されて現存しているところと様々だ。ここ讃岐国分寺は、その最後の範疇に属する。四国八十八か所の札所でもある。
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この寺の佇まいは、それはそれでなかなか森閑たるものであるが、境内には「讃岐国分寺跡」と、現存しているこの「讃岐国分寺」は違うのであるとの表示もあって、少々戸惑うことも確か。だがこの寺がすべて近代のものかというとさにあらず。境内には、奈良時代鋳造の銅鐘が、今でも下がっている。重要文化財である。また、本堂はもともと鎌倉時代の建造で、やはり重要文化財。
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訪れる人もまばらなこの寺の境内を歩いていると、何やら水がチャプチャプする音が聞こえてきた。何かと思うと、池の亀が、人の足跡を聞きつけて、クロールで競泳しながら橋に寄ってきたのである (笑)。いやー、これはすごかった。ゆったりのんびりのイメージがある亀の世界でも、クロールの競泳が存在しているとは。命を賭けて (ではないことを祈るが) 私たちを頼って寄ってくる亀たち。
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そして前述の通り、現存する讃岐国分寺ではない、そのすぐ裏手にある讃岐国分寺「跡」へ。なんでも、四国唯一の特別史跡なのだそうだ。うーん、「空海生誕地」でも発見されない限りはそうなのだろうか。
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ここはかなり広大な空き地になっているのだが、それでも当時の国分寺の敷地の一部であるようだ。このような復元された築地塀や、使用目的のよく分からない建物の柱の跡、疎石などがあって興味深い。
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だがとりわけ興味深いのは、上の写真の奥、右端に見える復元された建物である。大変細長い敷地を持つこの場所は、昔の僧房 (僧侶の住まい) の跡であるらしい。今その発掘現場は覆いで保護され、当時の僧侶たちの生活をイメージできるような一部の復元がなされている。ここで経典を勉強していた僧侶は、一体どのようなユートピアを頭の中に描いていたのだろうか。タイムマシンがあれば訊いてみたい。
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さらにこの場所には、当時の国分寺の伽藍が縮小サイズで復元されている。なるほど、回廊も塔もあったわけですな。
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さて、高松市に生まれた、また一風変わった偉人がもうひとりいるのだが、ご存じであろうか。それは、江戸時代のマルチタレント、平賀源内 (1728 - 1780) である。
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彼の業績について逐一ここで述べることはしないが、私の場合、住んでいる場所の近くの新田神社というところで破魔矢を発明したり、我が家の近くを舞台にした「神霊矢口渡」という歌舞伎の台本を書いている (以前このブログで採り上げたこともある) ことで、本当に、他人とは思えない親しみを覚えているのである。なので、この場所で思いもかけず彼の旧居や墓所に遭遇して、感激もひとしお。まずは彼の業績を辿る資料館に行ってみよう。
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彼が発明した有名な静電気発生装置は、「エレキテル」と名付けられていて、この記念館に行けばその原理を学ぶことができるだけでなく、復元した装置を体験することもできる。やはりこの人、自由なようでいて窮屈な江戸時代の文化を突き抜けた人であったようだ。そして彼の旧居の横に立っている銅像には、そのエレキテルも刻まれているのである。
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旧居の中にはさして見るべきものも多くないが、さすがに年季の入った家であり、また庭園には様々な実用性ある薬草類が植えられていて、面白い。
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この旧居からほど遠からぬ場所に、彼の墓所がある。この地域の名刹であり、四国八十八番の札所である志度寺の塔頭、自性院にそれはあるのである。苔むした小さな墓であるが、地元の人たちの未だ変わらぬ篤い尊敬を実感できる場所であった。享年 52歳と聞いてびっくり。因みに私はつい先日 53歳になったので、既に源内の人生を越えてしまっているわけだ。うーむ。
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そして志度寺自体も、大層古くて格式のあるお寺である。仁王門とそこにある金剛力士、そして本堂が重要文化財。
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さて、ここまで来ればもうひとつ、日本の歴史上有名な場所がほど近い。それは屋島なのであるが、そこに向かう途中で見えた特殊な地形は、こんな感じである。
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また、次の写真は、私たちがこの日泊まったホテルの部屋から見た屋島。恥ずかしながら知らなかったことには (屋島には以前も訪れたことがあったにも関わらず)、この屋島は「島」ではなく、陸続きの台地なのである。だが、これは遠くから見るとやはり島のように見えるではないか。源平の合戦の中でドラマティックな舞台設定をするにはもってこいの場所である。
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この屋島の頂上 (?) に登る途中には、このような眺望のよい場所も用意されている。今は静かなこの場所で、いかなる血みどろの戦いが展開したのであろうか。
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そしてこの屋島の頂上には、山の上にあるという極めて珍しいロケーションの水族館のほか、古くからの名刹、屋島寺がある。鎌倉時代の部材を使って江戸時代初期に再建された本堂は、かなり装飾的な建物で、重要文化財に指定されている。
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この寺の創建は奈良時代まで遡るらしく、源平の時代より遥か以前からこの地に存在しているのである。ここには宝物館があって、天平建築 (というより、要するに唐招提寺金堂) のような屋根の造形でありながら、真ん中で分断されたそのモダンな設計が面白い。展示物の中で注目されるのは、この寺の本尊の十一面観音坐像。どっしりとしたモデリングの重要文化財で、私は既に何度目かの対面になるが、比較的最近では、このブログでも採り上げて絶賛した、仁和寺と御室派の展覧会にもおでましになっていた。造像は間違いなく平安時代であろうから、この地で行われた源平の争いを目撃された仏さまであるということになる。
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この宝物館でもうひとつ見逃せないのは、建物の裏側にある地形の様子。これは雪ノ庭と呼ばれている。その名の通り雪景色のようなのであるが、そのように見える理由は、この土地の表面は基本的に安山岩なのに、ここだけ凝灰岩であるからだという。四季折々の景色が楽しめるようだ。
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屋島寺を辞して、次の目的地に向かうために駐車場に戻ろうとしたところ、家人があらぬ方向にスタスタと歩き出した。一体何かと訊いてみると、彼女は子供の頃、岡山に住んでいて、そこから対岸にあるこの屋島に、家族でフェリーに乗って、しょっちゅう来ていたという。そして、子供の頃に見て忘れられない怖い場所があるというのだ。それは池であり、瑠璃宝の池と呼ばれている。その名は空海伝説に由来するのだが、この池の別名は「血の池」。なんでも、壇ノ浦の戦いに参加した兵士たちがこの池で刀を洗ったところ、真っ赤に染まったという伝承によるらしい。うーん、そう言われてみると、ジヴェルニーのモネの邸宅の庭みたいじゃない、という軽いノリのコメントも通じないほど、おどろおどろしい。しかも身長の低い子供の視線から見ると、相当不気味であったことは間違いないだろう。
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さて、既に充分長い一日になっているが (笑)、この日最後の目的地として私たちが向かったのは、高松城址である。ここには既に天守閣はないことは承知であったが、現存する建物にいくつか重要文化財が含まれていることから、是非訪ねてみたいと思ったのである。現在では、玉藻 (たまも) 公園という名称になっている。
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結論から述べれば、歴史好きなら、高松の中でこの場所に行かないのはもったいない。歴史に思いを馳せ、時間の流れを実感できる場所である。この、堀に面して残るのは、艮 (うしとら) 櫓。重要文化財である。
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この城、様々な箇所にユニークさがあって面白いのだが、これは埋門 (うずみもん) という、石垣をくり抜いて作られた門。使用目的には諸説あるらしい。
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そして進んで行くと、今はなき天守閣の土台が見える。その奥に見える近代的なビルとの対照もあって、時間の不可逆性に思いを致すことができるのである。
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さらに進んで行くと、このような建物が見えてくる。
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これは 1917年に完成したというから、今を去ること 100年以上前の建物で、その名を披雲閣 (ひうんかく) と言って、重要文化財である。既に大正時代に至っていたが、旧藩主松平家 12代で、貴族院議長も務めた松平頼壽 (よりなが) によって造営された、高松松平家の別邸である。実に 142畳敷の大書院があるなど、非常に豪壮な施設である。現在では市の施設として、広く市民に使用されているらしい。後ろの空に見える飛行機雲が、なにやら懐かしい思いを抱かせる。
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さらに歩いて行くと、もうひとつの重要文化財の建物が見えてくる。これは月見櫓。毎週日曜には内部を観覧できるらしいが、この日はあいにく土曜日。中に入るのはまた次回に持ち越したのである。
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さて、上の写真で何か気づくことはないだろうか。そう、この櫓の向こうはすぐ海になっている。現在道路になっている部分は埋め立て地であり、もともとは城自体がすぐ海に面していたらしい。実はこの高松城、日本三大水城のひとつと言われている (ほかの二つは、今治城と中津城)。なんとこの城の堀には海水が引き込まれており、それは日本でも唯一であるらしい。なるほど、海からの水の出入りを調整する、このような水門もある。
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そして、あっ、この海水を引き入れた堀を、船に乗って回遊できるという。朝 9時から夕方 17時までであるが、私たちがここに辿り着いたのはちょうど 17時少し前。ギリギリであるが、乗船できる。しかも、ほかには人影もなく、貸し切り状態で乗ることができたのである。
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この乗船体験で面白いのは、このような魚のエサを渡されること。
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これは鯉や、ましてやクロールで寄ってくる亀のエサではない。なんと、エサをやるのは鯛なのである!! ここの堀は海とつながっているゆえに、チヌ (クロダイ) や、マダイも棲息している。この魚たちは、船について泳ぐと、エサにありつけることをよく知っているのであろう。こんな感じでぴったりついてきて、エサを撒こうものなら、その場で仁義なき争奪戦が繰り広げられるのである。なお、あとで堀を覗いて確認したことには、ここにはフグもいるのである。本当に海の一部だ。
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この乗船体験で面白かったのは、天守閣の土台に、堀の側から近づけること。近くで見ると仰ぎ見るような高さなのである。
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このように乗船体験を堪能し、最後に、鞘橋という堀に架かる橋を渡って天守閣の跡地に向かった。その場所に立ってみると、屋島を見晴るかすことができる。
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実はこの時の船頭さんに聞いた話だが、この高松城の天守閣を復元しようというプランがあるという。だが、今回初めて知ったことには、この高松城跡のように史跡に指定されている場所で昔の建物を再建する場合には、鉄筋コンクリートではなく、木造で建てる必要があるという。いつからそのような規制があるのか知らないが、なるほど、歴史的な場所の景観を維持・保管するための施策ということだろう。そうなると問題は、建物の強度を知るためにも、内部の構造が分かるような当初の建造物の設計資料がないといけない。同様のケースでさらに規模の大きい例は、名古屋城天守閣であるが、こちらは戦後再建された現在の鉄筋コンクリート作りの天守閣が充分な耐震構造を持っていないことから、建て替えの必要があるという事情による。恐らく名古屋の場合には、トヨタなどの地元企業からの支援があれば、木造での再建という壮大な案も実現性がそれなりにあるかもしれないし、何より、戦災で焼けるまではそこに堂々と立っていたわけで、内部構造に関する資料もあるらしい。ところがこの高松城の場合、1884年に取り壊されているために、内部設計についての充分な資料がないらしい。うーん、そんな事情があるとは知らなかった。現地にはこのような復元イメージが掲げられているのであるが・・・。
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そんなわけで、ため池に始まり、空海や菅原道真や平賀源内や源平の合戦を経て、最後はまた水に関係する高松城で、この日の観光を終えることとした。実に豊かな歴史を身をもって経験したわけであり、ここでは書かなかったが、もちろん讃岐うどんも堪能した (笑)。讃岐の歴史には、まだまだ尽きせぬ魅力があるのである。

by yokohama7474 | 2018-08-15 23:13 | 美術・旅行 | Comments(0)
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