人気ブログランキング | 話題のタグを見る

ペトル・アルトリヒテル指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団 2018年 9月23日 サントリーホール

ペトル・アルトリヒテル指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団 2018年 9月23日 サントリーホール_e0345320_23041427.jpg
先に音楽監督上岡敏之の指揮で聴いた新日本フィルハーモニー交響楽団 (通称「新日本フィル」) が、またまた意欲的な演奏会を開いた。今回指揮台に登場したのは、チェコの名指揮者ペトル・アルトリヒテル。今年 67歳で、これから指揮者としての円熟期を迎えるであろう人である。例えば今、Googleでこの人の名前を検索すると、音楽事務所ジャパン・アーツのホームページの次に出て来るのが、このブログの昨年 10月 1日付の記事である。それはこのアルトリヒテルが名門チェコ・フィルを率いて行った来日公演から、チェコの代名詞のような曲、スメタナの連作交響詩「わが祖国」の演奏会であった。そして今回そのアルトリヒテルが新日本フィルとの顔合わせで振るのも、やはり同じ「わが祖国」。チェコの指揮者にとって聖典のようなこの作品を、今度は日本のオケを指揮して披露するにあたり、アルトリヒテルにはいかなる期待や疑念があったものだろうか。
ペトル・アルトリヒテル指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団 2018年 9月23日 サントリーホール_e0345320_23213277.jpg
この曲に関して、上で「チェコの代名詞のような曲」とか、「チェコの指揮者にとって聖典のような曲」と書いたが、それは決して誇張ではない。ドヴォルザークやヤナーチェクやマルティヌーに先んじてチェコに現れたベドルジハ・スメタナ (1824 - 1884) は、まさにチェコ音楽の父と呼ばれるにふさわしい存在。中でも、6曲の交響詩を連ね、演奏時間 70分を要するこの「わが祖国」は、文字通り彼の晩年の代表作である。この曲がいかにチェコの人たちに大事にされているかということは、同国の首都プラハで毎年開かれているプラハの春国際音楽祭で、そのオープニングとして、スメタナの命日である 5月12日には必ずこの「わが祖国」が演奏されるという事実でも明らかだろう。もともとチェコ人は音楽を愛する人たちであり、また大国 (ハプスブルク帝国、ドイツ、ロシア=ソ連) によって度々領土を占領・侵略されて来たという苦難の歴史にあって、その燃えるような愛国心には凄まじいものがある。その意味で、愛国心の塊であるようなこの曲が、チェコの人たちの深い愛と尊敬の対象になっていることは、必然であると思われるのだ。これがスメタナの肖像。
ペトル・アルトリヒテル指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団 2018年 9月23日 サントリーホール_e0345320_23365192.jpg
そして私は思うのだが、演奏を終えたときに指揮者アルトリヒテルの胸中を駆け巡った思いは、恐らく、「師であるヴァーツラフ・ノイマンからも話を聞いていた日本の聴衆の音楽の理解度と、日本のオケの水準の高さは、本当だった!!」といったものではなかったか。というのも、今回の演奏で前半 3曲を終えて休憩に入る際、聴衆の拍手が起こるよりも先に指揮者が譜面台をピシッと叩いて、何やら叫んだからである。そして、全曲を演奏し終えたあとは、コンサートマスターの崔文洙を力いっぱい抱きしめていたからである。実際にこの日の演奏は、最近の新日本フィルが有している高度な演奏能力がフルに発揮された素晴らしい名演であり、世界のどこに出しても恥ずかしくないようなものであったからだ。私は最近のこのオケの演奏を、とりわけ本拠地であるすみだトリフォニーホールで聴くときに、実に美しく響くと表現することが多いが、今回の会場であるサントリーホールでもその美感は同等であり、ただ単にきれいな音とか、迫力のある音ということではなくて、なんというか、曲の本質に切り込むような深い音が最初から最後まで聴かれたと思うのである。今回の演奏で印象的なシーンがある。この曲の冒頭、「ヴィシェフラド (高い城)」は、ハープ 2台によって始まるが、今回アルトリヒテルはそこで、全く指揮棒を振ることなく奏者たちに音の進行を任せたのである。決して気心が知れたとは言えないオケ (今回が初顔合わせ?) を相手に、このように思い切った任せ方ができるとは驚きだが、恐らくはリハーサルを通じて、彼にはそのような確信ができていたのかと思う。どんな人間でも、誰かに指示されてただ従うというのはあまり嬉しいことではない。冒頭のハープが自由に音楽を奏でたことが、今回の演奏の自発性につながったのかもしれない。そういえばアルトリヒテルは、昨年のチェコ・フィルとの演奏の際と同じく、今回も青い表紙の楽譜 (2分冊になっていて、恐らくは前半と後半で分かれているのか) を指揮台に置きながら、全く開くことなしに暗譜で振り抜いた。多分その楽譜は彼にとって文字通りの聖典なのであろう。前回も書いたことだが、一見学者風にも見えるこの指揮者、内部にたぎる情熱はすさまじく、またオケの推進力を自在に操るだけの技量を持った人なのである。
ペトル・アルトリヒテル指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団 2018年 9月23日 サントリーホール_e0345320_00081171.jpg
ところで、この曲には有名な「モルダウ」も含まれていて、なかなかに起伏に富んだドラマティックな連作なのであるが、今回改めて思ったのは、ワーグナーを思わせる響きである。スメタナはワーグナーよりも 11歳下で、チェコ国外、例えばスウェーデンでも活動しており、その際にリストの交響詩から、標題音楽というヒントを得たという。だが、ただ標題性ということではなく、音響自体に、リストよりもさらに先鋭的であったであろうワーグナーの影響が聴こえるような気がする。例えば終曲の「ブラニーク」の冒頭間もない箇所は、まるで「ワルキューレ」第 1幕の前奏曲のようだ。ワーグナーの「指環」の初演は 1874年。この「わが祖国」の初演は 1882年だから、これらはほとんど同時代音楽と呼んでよい。だがここで注目すべきは、スメタナは「指環」初演の年である 1874年頃には聴覚をほぼ完全に失ってしまったという事実である。これは何を意味するかというと、あの西洋音楽において間違いなく最高の旋律のひとつである「モルダウ」も、そして、今日我々が耳にしてワーグナー風だと思う響きも、どうやら作曲者の内部で響いていたものだということだ。たまたま前項ではベートーヴェンのことを例に挙げたが、人間の能力は、何かハンディがあった方が先鋭化するのかもしれない。また、前々項ではフィンランドの人たちの誇りたるシベリウスの音楽について触れたが、この「わが祖国」はそれと同様に、チェコの人たちにとっての大いなる誇りである。そのような音楽を、ヨーロッパから遠く離れた日本のオケが実に見事に演奏するということも、少し大げさに言えば、人間の能力の素晴らしさを具現してるのではないだろうか。いや実際、しょっちゅうこのブログで唱えていることであるが、こんな音楽に日常的に接することのできる我々東京の聴衆は、本当に恵まれていると思うのである。

by yokohama7474 | 2018-09-24 00:09 | 音楽 (Live)