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ヘルベルト・ブロムシュテット指揮 NHK 交響楽団 2018年10月14日 NHK ホール

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今年の 4月に来日して、自らが名誉指揮者を務める NHK 交響楽団 (通称「N 響」) と名演奏を聴かせてくれたスウェーデンの巨匠、ヘルベルト・ブロムシュテットが、早くも再来日である。その間に 91歳の誕生日を迎えたこの指揮者、このブログで何度も採り上げてきた通り、矍鑠という言葉さえ不要なほど活発な活動を展開中である。少し前まで、80を超えた巨匠指揮者と言えば、ヨボヨボと歩いてようやく指揮台に辿り着くと、椅子に座って別人のように精力的に指揮をするというイメージであったが、このブロムシュテットだけは、ごく普通にステージの袖から指揮台まで歩いて登場し、ごく普通に全曲立って指揮をする。そしてまた、彼の指揮のもとに鳴り響く音楽には、加齢による硬直化は微塵も見られず、テンポはキビキビとして爽快だし、音のドラマ性も充分。少々大げさに言ってしまうと、これまで人類が持ち得なかったほど異例に (笑)、その年齢を感じさせないヴァイタリティを保った、奇跡的な存在である。
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そんなブロムシュテットがこのような頻度で東京で演奏会を開いてくれることは、実に有難いことなのであるが、今回も意欲的な 3つのプログラムが並んでいる。そのうち最初のものは以下のような内容。
 モーツァルト : 交響曲第 38番ニ長調K.504「プラハ」
 ブルックナー : 交響曲第 9番ニ短調 (コールス改訂版)

なるほどこれは、モーツァルトとブルックナーの代表的な作品を並べた、ブロムシュテットとしても自家薬籠中のレパートリーである。東京の音楽ファンとしては、とても冷静ではいられないほどの内容である。そしてまた実際に耳にしてみて、とても冷静ではいられないほどの感動を覚える素晴らしい名演奏になったことを、最初に述べておこう。

まずモーツァルトの「プラハ」であるが、ヴァイオリンの左右対抗配置を採り、指揮棒を使わないのは最近のこの指揮者の通例通りであり、コントラバス 3本という編成も、今日ではスタンダードと言ってよいだろう。小さめで堅い音のティンパニを使っていたほかは、いわゆる古楽的な奏法ではない。だが驚くべきことに今回の演奏、すべての反復を実行していた。プログラムには演奏時間「28分」とあるし、手元にある 1982年のシュターツカペレ・ドレスデンとの録音も 29分程度。だが今日の演奏は、40分ほどはかかっていただろう。譜面台にスコアを閉じたまま置いたブロムシュテットは、全く老いのかけらさえ見せない暗譜による指揮ぶりである。その愚直な指揮姿から立ち昇ってくる清冽な音の流れを聴くのは、まさに至福の時間。この曲では第 1、第 2のヴァイオリン群の間でも楽しい掛け合いがあり、モーツァルトの愉悦感ここに極まれりである。N 響の高い演奏能力が巨匠の要求に見事に応えていたと思う。なお、思い立って、この指揮者が 2014年に同じ N 響でモーツァルトの 39番を演奏した録画を見てみたが、そこでは、譜面台はあるものの、スコアは置いていない。細かいこととは言え、人間長らく同じ仕事を続けていると、同じ方法を踏襲したいものである。4年前に置いていなかったスコアを今回置いていたことには、何か新たな意味があるのだろうか。

そして、ブルックナーの深遠なる最後の交響曲、第 9番。先の記事でも述べた通り、今月の東京では 3つの指揮者とオケの組み合わせでこの曲が鳴り響くわけであり、もちろんそれぞれの演奏にそれぞれの個性があることになろうが、それにしてもこのブロムシュテットと N 響の組み合わせは、期待通りというべきか、それはもう凄まじい演奏となったのである。ここでもブロムシュテットは、譜面台にスコアを置きながら、それには全く手を触れず、自らの感興の赴くままに指揮をした。そこには感傷性は皆無。旧来のドイツ的な重厚感一点張りのブルックナーとは異なって、細部のニュアンスに富み、その音の鮮烈さは、喩えてみれば、洗い立ての、生地の強い布のようなもの。90歳だろうが何歳だろうが、こんな音をオーケストラから引き出すだけでも大変なことである。ブルックナー特有の神秘性と俗っぽさの交錯もそのままに提示することで、そこには人間のドラマが立ち昇っていた。今回のゲスト・コンサートマスターは、もとウィーン・フィルのライナー・キュッヒルであり、彼のつややかなヴァイオリンが N 響を引っ張っていたことも間違いないだろう。キュッヘルは 2010年にフランツ・ウェルザー=メストとウィーン・フィルが日本でこのブルックナー 9番を演奏したときにもコンマスであり、スケルツォで何度も戻ってくる主要主題のうち一回で、前のめりになるあまり一人だけ飛び出してしまうというハプニングがあったのを思い出したが、それだけ情熱をもって演奏に取り組んでいるということだろう。それから今回の演奏で改めて気づいたことには、この曲において弦楽器は、実は 7番や 8番ほど滔々と歌うわけではなく、かなりピツィカートの部分も多いということだ。上記のスケルツォでは、弦の各部はピツィカートで始まり、ほとんどの奏者は弓を膝に置いての演奏であったが、唯一第 2ヴァイリンだけは弓を持ちながらピツィカートを奏しており、その理由は、このパートだけ、主要主題に入る直前までピツィカートで演奏しているからだ。ヴァイオリンの左右対抗配置によってそのことが視覚的に分かったわけだが、あの神々しいアダージョにおいても、時にピツィカートが耳に強く響いてくる。この未完の交響曲は、終楽章を欠いており、アダージョで終わるのだが、このアダージョ、実は 7番や 8番のそれほど、大河のような流れや、(ノヴァーク版で打楽器が鳴る) 明らかな頂点があるわけではないのである。神のために作曲していたブルックナーが夢見ていた音楽の行く末は、一体どんなものであったのだろう。そういえば今回の演奏楽譜には「コールス改訂版」とあって、プログラム冊子には特に解説はないが、耳で聴いて何か特殊な音響があるわけでもない (ブロムシュテットは、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管との録音でもこの版を使用している)。ただこのコールスという人は、ほかの何人かの音楽学者とともにブルックナー 9番の第 4楽章を補筆完成させた人。そのような観点でこの演奏を思い返してみると、特別なことは何もしていないにもかかわらず、天に召される直前のブルックナーがいかなる音を夢想していたのか、考えさせられる点もあったように思う。だが、第 3楽章における激しい葛藤がついには穏やかな境地に至り、ホルンとワーグナーチューバの歌 (7番の冒頭のテーマに似ているとよく言われるが、私にとってそれはあまり意味のない話) が、まるで青空に溶け込む雲のように消えて行ったとき、理屈ではない、ただ重い感動が胸を満たしたのであった。気の早い聴衆が何人か拍手をしたが、指揮者もオケも微動だにせず、数十秒の沈黙。そして指揮者が半分客席を振り返って、「もう拍手してもよいですよ」と促すような仕草をすると、金縛りが解けたように大喝采が沸き起こった。

ふと思い立って、N 響が過去にどんな指揮者とブルックナー 9番を演奏しているか、調べてみた。完全なデータはないが、一部だけでも興味深いので、判明しただけここに掲載しておく。
 1950年 尾高尚忠
 1968年 ロヴロ・フォン・マタチッチ
 1971年 ウォルフガンク・サヴァリッシュ
 1978年 外山雄三
 1981年 ホルスト・シュタイン
 1986年 フェルディナント・ライトナー
 1989年 若杉弘
 1996年 ハインツ・ワルベルク
 1998年 若杉弘
 2000年 朝比奈隆
 2014年 ファビオ・ルイージ

なるほど、なかなか厳選されたメンバーである。この中で、2000年の朝比奈隆は当時 92歳。今回のブロムシュテットよりもさらに上なのである!!

また、今回の会場で、ブロムシュテット初の自伝なるものが先行発売されていたので、購入した (その場にあった冊数は完売していた)。宣伝を見ると、20世紀の音楽家で交流のあった音楽家として、マルケヴィチ、バーンスタインと並んで、ジョン・ケージの名があるのが面白い。ブロムシュテットとケージの名前は全く結びつかないが、一体何が書いてあるのか、楽しみにしたい。
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by yokohama7474 | 2018-10-14 23:55 | 音楽 (Live)