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没後 160年記念 歌川広重 太田記念美術館

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前項に続いて、浮世絵の展覧会に関する記事である。だがこれも、1ヶ月以上前に終了してしまっている展覧会。前回の芳年展が 2ヶ月前の終了であったことを思うと、1ヶ月ならまだまし (?) という考え方もできるものの、それでも、私がここで書く内容に触発されて、実物を見たいと思う方が一人でもおらられば、その方に私は不義理をしたことになってしまう。その点にはあらかじめ深くお詫びするとして、この著名な浮世絵師の世界を覗くこととしてみたい。まずこの歌川広重 (1797 - 1858) であるが、美術ファンのみならず、一般にもその名を知らない人は、ほとんどいないに違いない。それはひとえに代表作「東海道五十三次」の成功によるものであろう。私がそのシリーズの実物をすべて見たのはかなり最近のことではあっても、実はその作品名は子供の頃から知っていた。それは永谷園のお茶漬けのおかげなのかもしれないが (笑)、いずせにせよ、その「東海道五十三次」を見て、感嘆し感動した経験は大変に多い。広重没後 160年を記念して、日本を代表する浮世絵専門美術館である太田記念美術館で開かれた館蔵品展においては、その「東海道五十三次」からの出展はごく一部で、いわゆる広重のイメージとはちょっと異なる作品も多く見ることができた、貴重な機会であった。因みに彼の名前であるが、以前は本名の苗字を使って、安藤広重という呼称が一般的であったかと思うが、広重は号であるため、この呼称には根拠がないらしく、今では歌川姓で呼ぶのが通例になっているようだ。ではせっかくなので、その「東海道五十三次」から行こう。この 2枚はいずれも出発地点の日本橋を描いたものだが、ひとつは人気のまばらな「朝之景」、もうひとつは賑やかな「行烈振出」。前者が 1833年頃の初版、後者は 1835年頃の変わり図。シリーズ冒頭の雰囲気を変えてみた広重の狙いは、一体何だったのだろうか。
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展覧会の最初では、大変珍しい作品を見ることができた。それは、「琉球人来貢図巻」という作品で、その題名の通り、琉球からの使者を描いた絵巻物。署名によると 1803年の作。これが本当だとすると、広重 9歳の作ということになるが、さて、どうだろう。昔の記録でもそのような広重幼少時の作品の存在を伝えるものがあるというが、さすがに学者の間でも、これが本当に 9歳の広重の筆になるものだとする説は少ないようだ。ただ、そうであっても、後世の人たちの広重への尊敬を感じることができる逸話である。
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もちろんどんな画家も、修業時代を経て自らのスタイルを確立していくわけであるが、天才広重とても例外ではなく、特に、風景画に本領を発揮するまでの道のりには、一種の意外性もある。これは「初代中村大吉の清盛の乳人八条局 初代中村芝翫の安芸守平清盛」(1818年作)。21歳の時の作ということになるが、要するに芝居絵であり、天才性を感じさせるようなものではない。
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若い頃は様々な仕事を請け負ったものであろう。これは「浅草奥山貝細工 猿に鶏」(1820年作)。浅草で開かれた貝細工の見世物を記録したものであるらしい。
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これらはむしろ稚拙と言いたくなるもの。「武蔵坊弁慶 土佐坊正俊」と「五郎時宗 小林義秀」(1818 - 30年頃作)。図録の解説でも、これらがいかなる場面であるかの説明はあっても、作品の出来についての言及はない (笑)。
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人々の姿と風景のコンビネーションから、来るべき傑作「東海道五十三次」の片鱗を見たいものだが・・・。この「浅草観世音千二百年開帳」(1827年作) からは、未だあまりそれが感じられないのである。
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一方、このように女性だけを描いた作品は、広重としては意外なことに、結構よく出来ている。「外と内姿八景 桟橋の秋月 九あけの妓はん」(1818 - 30年頃作) という作品。情緒がある。
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広重が風景画を描き出したのは、上の絵と同じ文政年間の末期、彼が 30代前半の頃らしい。これは「東都名所拾景 日本橋」で、彼の最初期の風景画と見られている。上で見た「東海道五十三次」の日本橋とは異なり、人の気配のない静かな雪景色である。広重らしい抒情があると言えばあるような。
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同じシリーズから「道灌山」。はいはい、知っていますよ。今でも西日暮里近辺から山手線を見下ろすとこんな感じ。あ、田んぼや茅葺の民家はありませんけどね (笑)。
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これは「東都名所 高輪之明月」(1831年頃作)。これまでの作品にない思い切った構図であり、この後広重の才能が一気に開花することを予感させる。
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そして奇跡の連作「東海道五十三次」(1833年) を経て、様々な風景画が発表されることとなる。これは「京都名所之内 祇園社雪中」(1834年頃作)。素晴らしい情緒が画面からしんしんと伝わってくるではないか。
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同じシリーズの「四条河原夕涼」。本質的には今も変わらぬ、鴨川の夏の情緒である。
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これはまた見事な作品で、「木曽海道六十九次之内 須原」(1836 - 37年頃作)。さすがスバラという地名だけあって素晴らしいなどと言っている場合ではない (笑)。突然降り始めた雨の中、雨宿りする人たち。先を急ぐ人たち。遠景のシルエットは最高のセンスであると思う。
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これは「金沢八景 内川暮雪」(1835 - 37年作)。やはり広重の天才は、雨や雪という気象現象によってより発揮されるのではないだろうか。
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あっ、これは我が家から通らぬ池上の地にある本門寺ではないか。「江戸近郊八景之内 池上晩鐘」(1836 - 37年頃作)。今でこそ東京 23区内だが、当時は「江戸近郊」であったことがよく分かる (笑)。
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これも江戸を代表する大寺院のひとつ、増上寺である。「江都名所 芝増上寺ノ図」(1835 - 37年作)。
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これは「東都名所 両国橋花火之図」(1839 - 42年頃作)。ここにはあまり天才的な情緒表現はないものの、花火の描き方に工夫が見えて面白い。
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展覧会にはいわゆる浮世絵という範疇とは異なる版画も展示されていて、興味尽きないのであるが、これは「江戸近郊名所 多摩川ノ里」(1830 - 44年頃作)。まさしく我が家のあたりの川沿いの風景だが、もちろん「江戸近郊」である (笑)。うっすらとした色合いが美しく、広重の違った一面を見る思いである。
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これは貴重な広重の肉筆画で、「日光山華厳ノ滝」(1849 - 51年頃)。天童広重と呼ばれる範疇であるらしいが、その理由は、天童藩 (今の山形県天童市) から依頼された作品であるかららしい。これはまた浮世絵と違って迫力を感じさせるもの。こんな広重があるとは知らなかった。
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肉筆画をもうひとつ。「御殿山の月」(1854 - 58年作)。人為的だがのどかに見える風景だ。
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これは有名な「名所江戸百景 亀戸梅屋舗」(1857年作)。
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なぜに有名かというと、かのゴッホが模写しているからである。この展覧会には出品されていないが、ご参考までに図像を掲げておこう。私は本物を見たことがあるが、この、前景ど真ん中に枝を持ってくるという大胆な構図にゴッホが感激した様子が伝わってきて、それはまた、左右に頑張って漢字を書いている点にも認めることができる。
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これは「富士三十六景 駿河湾夕之海上」(1858年作)。広重没年の作であるが、富士山を描いた 36枚シリーズといえば、当然葛飾北斎 (1760年生まれなので、広重よりも 37歳上) の「富嶽三十六景」があって、これもその影響下にあることは間違いないだろうが、迫力ある思い切った構図のはずのこの作品が、その思い切りという点で北斎に及ばないのは、致し方ないように思う。広重はやはり、抒情の人なのだろう。
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これは「獅子の児落し」(1832 - 35年頃作)。大胆な筆致で描かれた岩のデフォルメが、未知の広重を教えてくれる。肉筆画と思いきや、版画なのである。
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広重の花鳥風月も、なかなか捨てたものではない。これは「雪中芦に鴨」(1832 - 35年作)。これも肉筆画ではなく版画である。
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美人画も。「江戸むらさき名所源氏 見立て浮ふね 隅田川の渡」(1844 - 46年頃作)。おぉ、これは粋である。
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芝居絵。「忠臣蔵 夜討」(1843 - 46年頃作)。現実の再現ではなく、芝居の中の情景であることがよく分かる。
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森閑とした情緒をその身上とする広重と言えども、ユーモラスな作品を沢山残している。これなどは、見ただけで笑ってしまうのだが、「道中膝栗毛 四日市泊り」(1836 - 37年作)。もちろん「東海道中膝栗毛」を題材にしていて、宿で夜這いをかけようとした弥次喜多が、落ちてきそうになった棚を支える羽目になって失敗するという話 (笑)。
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これなども私は好きである。「童戯武者尽 酒呑童子 武蔵坊弁慶」(1854年作)。戯画のシリーズであるが、上では源頼光と渡辺綱が、彼らが退治した酒呑童子と、羅生門の鬼の切り落とされた腕を、見世物にしているところ。下は、弁慶が自らのゆかりの品を売りに出していて、その売り物を義経が冷やかしているところ。なんと、広重はこんなものまで描いていたのだ!!
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これは無款なので作者は分からないようだが、当時の清元の演奏を描いた「蓮台高名大一座」(1858年頃)。当時の雰囲気を知るために興味深い史料だが、ここで清元を聴いているのは著名人 29名で、その多くがこの年にコレラで亡くなったという。やはりこの年に亡くなった広重の死因は不明らしいが、この絵の右下に彼も描かれている。これは、亡くなった著名人たちの追善供養の作品らしい。
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その広重の「死絵」、つまり亡くなった際に追悼のために刊行された肖像画がこれだ。彼の死の年、1858年の作品で、作者は歌川国貞 (三代豊国)。当時の広重の人気がよく分かる。
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このように、ただ創意に満ちた街道の風景だけでない、広重の多彩な画業を触れることのできる展覧会であった。前項の芳年とは全く異なる個性ではあれ、共通点も多々見出すことができたのは収穫であった。

by yokohama7474 | 2018-12-05 01:02 | 美術・旅行