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第九 秋山和慶指揮 東京交響楽団 (ヴァイオリン : 辻彩奈) 2018年12月29日 サントリーホール

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このブログではおなじみの名指揮者秋山和慶が、東京交響楽団 (通称「東響」) とともに、今年も暮れの押し詰まった日程で、ベートーヴェンの第九を演奏する。いつもの通り、ポスターやチラシはクリムトをあしらったものであり、そしていつもの通り、演奏会は「第九と四季」と名付けられている。このブログでも、2015年の開設以来毎年このコンサートを採り上げてきている。何もかも例年通り。・・・と思いきや、実は今回の演奏には、ひとつの大きな意味がある。というのも、秋山がこの年末恒例の第九を指揮するのは今回が最後で、来年からは音楽監督ジョナサン・ノットに指揮を委ねることになるからだ。それでは、秋山と東響がこの「第九と四季」をいつから続けてきたかというと、なんと、1978年。今年がちょうど 40年の節目である。1978年と言えば、私自身の歴史を振り返ってみると、中学 1年で東京に暮らし始めた年。そう思うと、その頃から今まで毎年毎年この演奏会が続いてきたというのは、本当にすごいことである。ギネスブックに認定してもらってもよいのではないだろうか (「第九と四季」自体は、秋山が指揮し始めるさらに 2年前の 1976年から続いている)。マエストロ秋山は今年 77歳だから、37歳から毎年このコンサートを振り続けてきたことになる。これは 1973年の写真。
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今回の第九シートは以下の通り。

・第九以外の演奏曲
  ヴィヴァルディ : ヴァイオリン協奏曲「四季」からホ長調「春」、ヘ短調「冬」
・コントラバス本数
  8本
・ヴァイオリン左右対抗配置
  なし
・譜面使用の有無
  指揮者 : ありと見えて、実はなし
  独唱者 : なし
  合唱団 : なし
・指揮棒の有無
  あり
・独唱者たちの入場
  第 2楽章と第 3楽章の間
・独唱者たちの位置
  合唱団の最前列中央 (ステージ奥、オケの後ろ)
・第 2楽章提示部反復
  あり
・第 3楽章と第 4楽章の間のアタッカ
  あり

最初の「四季」には例年若手女性ヴァイオリニストが登場するが、今年は辻彩奈。今年 21歳である。
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彼女の名前は最近耳にする機会が急増している。なにより、今年の 5月から 6月にかけて予定された、ズービン・メータ指揮イスラエル・フィルの来日公演のソリスト抜擢は、指揮者メータによるオーディションを通っての快挙とのことであったが、メータの病気によって、残念ながらキャンセルとなってしまった。そして今度は、来年 4月のジョナサン・ノット指揮スイス・ロマンド管の来日公演に同行し、メンデルスゾーンを弾く (その前には本拠地ジュネーヴでも演奏会があるようだ)。その経歴を見ると、11歳で名古屋フィルと共演、12歳で初リサイタルという早熟ぶりを示しているが、教育は一貫して日本で受けてきており、現在は東京音楽大学の特別特待奨学生であるという。2016年にモントリオール国際コンクールで優勝したことがその後の活躍のきっかけであるようだ。どのようなヴァイオリニストであるのか大変楽しみであったのだが、その音色には実にしっかりした芯があり、なんとも自己主張のはっきりした演奏である。「春」の爽やかさはもちろん、「冬」の冒頭の北風吹きすさぶ様子における鬼気迫ると言ってもよい鋭さにも、思わず身を乗り出して聴き入るべきものがあった。正直、これだけのヴァイオリンであれば、「春」と「冬」だけではもったいない。ステージマナーも既に堂々としたものであり、今後が楽しみなヴァイオリニストであると思う。尚彼女は、東京フィルの大みそかコンサート (アンドレア・バッティストーニ指揮) にも出演予定で、そのコンサートは生中継されるはずなので、ご興味おありの向きは、視聴されてはいかがだろうか。

その「四季」ではいつものようにチェンバロを担当した秋山であるが、第九においてもその指揮ぶりは、まさにいつものもの。40年間の万感の思いを込めて、とは聴く側の勝手な思い入れであり、演奏者は毎年毎年、この偉大な作品に全身全霊で取り組んできているわけだから、今年もそれは変わらないだろう。今回のプログラム冊子に、10月25日の読売新聞に掲載された秋山のインタビューが転載されているが、これだけ振ってきた第九でも、嫌になることはないとして、「あれだけの大曲になれば、いろいろアプローチがある。富士山の登山口が一つでなく、吉田口、須走口、富士宮口といろいろあるように。目指すところは一つでも、演奏の仕方はいろいろ」と語っている。もともとこの指揮者には、手堅い職人性がある一方で、状況に応じて臨機応変に対応する柔軟性もあるわけで、常に最初から最後まで最高の演奏を達成するのが難しいこのような曲においても、本当にオケをドライブするのが巧い。だが今回の場合は、冒頭からオケはかなり好調であった気がする。なんというか、音の流れに最初からしっかりしたものがあり、それだけでもなかなかに大変なことであると思うのである。プロであるから、気合がどうのということを論じるのは適当ではないと思いながら、東響の楽員たちの中にはやはり、有終の美を飾ろうという意識はあったものだろうと推測する。全員で描き出す終楽章の熱気には、鳥肌立つものがあった。今回の合唱はいつもと同じ東響コーラス、そして独唱者は今回はすべて日本人で、ソプラノの中村恵理、メゾ・ソプラノの藤村実穂子、テノールの西村悟、バスの妻屋秀和という盤石のメンバー。まさに有終の美はここに飾られた。そしてマエストロ秋山は、譜面台にスコアを置きながら、最初のページを開いた状態のまま、一度たりとも指を触れることなく、全曲暗譜で指揮をしたのである。

聴衆の拍手に応えて、このコンサートでは恒例のアンコール、「蛍の光」。この、照明が落とされ、合唱団が客席に入ってペンライトを揺らし (聴衆の中にはペンライトでお返しする人も)、聴衆にも歌うことが促され、そして最後はハミングとなるアンコールには、誰しも胸が熱くなるであろう。だがこれは、あえて言ってしまうと、どこか昭和へのノスタルジーを感じさせるものではないだろうか。究極の柔軟性を持つ秋山だからこそできるが、ノットがこれを引き継ぐようには、どうも私には思えないのである。この予想は外れることになるかもしれないが、ともあれ日本はあと 4ヶ月で新たな元号の時代に入るわけで、何事にも移り変わる歴史というものがあることを思うと、我々聴衆としては、この音楽を楽しんだという思い出をしっかりと刻みながら、また新たな演奏に期待したいと思うのである。40年間、誠にお疲れ様でした、マエストロ。そして今後も様々な演奏に触れることを楽しみにしております!!

さて最後に余談。この第九の初演は 1824年だが、ベートーヴェンが交響曲に声楽を取り入れようと考え始めたのは、1818年のことらしい。つまり、今終わろうとしている今年は、それからちょうど 200年。ベートーヴェンがその前に書いた 7番と 8番は、ともに 1814年に初演されていて、9番の初演までには 10年の時間があったことになる。今から 200年前に何があったかというと、もちろん時代はウィーン会議後。フランス革命の反動で、体制側が言論に目を光らせていた頃である。そんな中、シラーの自由思想は過激なものと思われたはずだが、ベートーヴェンは堅い決意をもってその詞に作曲した。そして、ベートーヴェンが交響曲への声楽導入という破天荒な発想を得たその 1818年に、やはりかなりの決意を持って書かれたと思われる 1冊の小説が、世に出ている。私は最近その小説と、それに因む映画を見たので、なんとか 2018年中にそれらの記事を書きたいものであるが、もしかすると来年にずれ込んでしまうかもしれない。ともあれ、音楽であれ文学であれ絵画であれ、創作された時代のイメージを持つことで、楽しみは何倍でも広がるし、このブログではそのような点に留意して、これからも記事を書いて行きたいと思っているのであります。

by yokohama7474 | 2018-12-30 00:54 | 音楽 (Live)