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ベートーヴェンは凄い! 全交響曲連続演奏会 小林研一郎指揮 岩城宏之メモリアル・オーケストラ 2018年12月31日 東京文化会館

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新年あけましておめでとうございます。2019年もよい年になりますように。このブログでは、相変わらず文化関連の様々な話題を、徒然に語って参りますので、何卒よろしくお願い申し上げます。

と書いてから、いきなり時計の針を 24時間戻して、昨年の演奏会についての記事から始めることをご容赦頂きたいのだが、それには理由があって、大晦日の 13時に始まったこの演奏会、終了は深夜 0時。実に 11時間に及ぶ大音楽イヴェントであったのだ。演奏終了後、カーテンコールの間に年が替わり、帰宅すると既に深夜 1時ということで、平成最後の紅白歌合戦にユーミンやサザンが出るのを、残念ながら見ることはできなかった。だが、それはやむないことだろう。なにせこの演奏会、ベートーヴェンの 9曲の交響曲を、通しで連続演奏するという大胆な試みであるのだから。2003年に始まった大晦日恒例のこの演奏会、主要な企画者は作曲家の三枝成彰であり、今年で 16回目である。私は、最初の 2003年に物珍しさで聴きに行き、翌 2004年、そしてその後は 2010年に聴いていて、今回が 4度目の体験となる。最初の回は 2つのオケ (東京交響楽団と東京シティ・フィル)、3人の指揮者 (岩城宏之、大友直人、金聖響) が登場したが、「どうしても一人で振りたい」と切望した岩城宏之が 2年目にすべて一人で指揮 (岩城は 2006年 6月に死去しているから、2004年末の時点では、既に様々な病気と闘っていた)。以来、篠崎史紀をコンサートマスターとし、彼の同僚である N 響の奏者たちをメインとする臨時編成オケが演奏を担当し、現在では岩城宏之メモリアル・オーケストラと名乗っている。小林研一郎が岩城の遺志を継ぎ、単独で 9曲を指揮するようになったのは 2007年。それ以来、2010年にロリン・マゼール (もともと、確かロンドンで、一日でベートーヴェンの交響曲 9曲を連続指揮した実績があったはず) が振ったとき以外は、すべて小林が指揮台に立っているのである。そのコバケン、このブログでは、日本フィルとの第九を先日ご紹介したばかりだが、78歳とは思えない精力的な活動ぶりであり、私としても、このあたりで一度この大イヴェントを聴いてみたいと思った次第。会場に着くと、チケット完売の表示が。
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さて、ベートーヴェンの 9曲の交響曲は、演奏家にとっても聴衆にとっても、ツィクルス演奏というものが意味を持つレパートリーである。日本でも、しばしば海外の有力オケがベートーヴェン・ツィクルスを開催している。最近では昨年のフランツ・ウェルザー=メストとクリーヴランド管も、数年前のマリス・ヤンソンスとバイエルン放送響も記憶に新しく、またベルリン・フィルやウィーン・フィルも、過去に何度も日本でベートーヴェン・ツィクルスを演奏している。もともとベートーヴェンの 9曲のシンフォニーには、セットで演奏する意味があると認識されているからだと思うが、それはひとえに、その 9曲がそれぞれ全く異なる個性を持っているからということであろう。一晩で演奏するのは大変なエネルギーが必要だが、ただ考えてみれば、ハイドンやモーツァルトのような曲数の多さでは、そもそも一晩での演奏は無理。ブルックナー、マーラーやショスタコーヴィチでは、演奏時間の長さだけでも到底無理だし、曲の内容や編成から見ても、全く実現可能性なし。かといって、ブラームスやシューマンなら、これはちょっと短すぎる。ドヴォルザークは、初期作品の知名度が低すぎるし、チャイコフスキーは、その点は幾分ましだとしても、最後の最後が「悲愴」の終楽章では、大晦日の華やかさにはふさわしくない(笑)。シベリウスも同様。そう考えると、シンフォニーのセットとして、それぞれの曲の知名度、個性、そして年越しにもふわさしいとくれば、もうベートーヴェンをおいてほかにないのである。

さてここで、近年のベートーヴェン演奏について少し触れておきたい。このブログでも様々な実例をレポートして来ている通り、過去 30年くらいの間に、もともとバロックから始まったオリジナル尊重の風潮が、古典派でありなからロマン派の萌芽がそこここに見られるベートーヴェンの音楽の演奏にも、大きく影響して来ている。楽譜の校訂も新たなものが出て、指揮者は常にその動向に目を配る必要が生じている。つまり、事大主義的なベートーヴェン、エラい指揮者が重々しく深刻に表現するかつてのベートーヴェンから、過剰な表現を排除し、古典的規律を持ち、キビキビとしたキレのよい演奏が主流に変わってきている。現実にはそれほど単純ではないとは言え、ここではあえて単純化して、現代的なベートーヴェン演奏のスタイルを考えてみたい。
・第1、第 2ヴァイオリンは左右対抗配置 (20世紀の事大主義が、派手な効果を狙い、鍵盤楽器同様に、右から左に高音→低音と並べたことへの反省)
・指揮棒なし (指揮者の権威の象徴である指揮棒の排除。また技術的にも、ヴァイオリンが左右に分かれれば、両手で指揮した方がよい場面もあるだろう)
・譜面を見ながら指揮 (暗譜は、指揮者の能力誇示。よく知っている曲でも、謙虚にきっちり譜面を見て指揮する方が、オケの共感を得られやすい)
・反復指示の励行 (原典主義の立場では、作曲家が反復を指定する箇所は、ことごとくそれを遵守すべし)
・ヴィブラートの最小化 (ヴィブラートは演歌のコブシと同じで、過剰な表情づけ。古雅な音楽には不要)
・年代、曲想によるオケの編成の柔軟性 (同じベートーヴェンでも、初期の作品と後記の作品で、弦楽器の規模は異なるべき)

よいとか悪いということではなくて、多少なりとも上記のようなポイントを無視できないのが昨今のベートーヴェン演奏なのであるが、さて今回のコバケンはどうだったか。それはもう気持ちのよいほど、すべての点において「昨今の潮流」とは異なるもの。
・ヴァイオリンは第 1の奥が第 2。つまり、対抗配置ではない。
・指揮棒はいつもの、グリップのしっかりした短めのものを使用。
・全曲完全暗譜。譜面台もない。
・一切反復なし (第 5番では、20世紀時点ですら、かなり異例)
・通常のヴィブラートを適用
・1番から 9番まで、弦楽器は同じ編成 (= 第 1ヴァオイリン 14、第 2ヴァイオリン 12、ヴィオラ 10、チェロ 8、コントラバス 7)

それから、これも音楽ファンなら誰しもご存じの、第 3番「エロイカ」の第 1楽章の終盤でトランペットが高らかに吹く英雄のテーマが途中で切れるのが最近の演奏のほとんどのケース (それが作曲者の意図との観点から) であるにもかかわらず、今回は堂々と最後まで吹いていた。これらから分かる通り、コバケンのベートーヴェンは、ペダンティックでもなければ最先端でもない。換言すれば、頭デッカチでもなければ教養主義的でもない、自らの信念に依拠したものだということだろう。そうそう、編成に関して言えば、管楽器はほぼ作曲者の指定通りで、木管は 2本ずつで通していた。ただ、曲によってホルンを 2つから 3つに補強したり、あるいは 7番や 8番では、トランペット 4本 (!) という大胆なことも行っていた。この点もやはり、彼の信念によるところなのであろう。
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私たちのよく知っている炎のコバケン、やはり、3、5、7、9番の迫力には素晴らしいものがあったが、意外というと失礼ながら、6番「田園」も大変に美しい演奏で、最後の最後まで細部に目の行き届いた名演だった。1、2、4番は、一般的な曲の評価を覆すような表現ではなかったかもしれないが、それでも、1番に常に潜む時代の制約を超えたエネルギー、2番において優美さと同居する鋭い音の動き、4番において神秘性を凌駕する喜悦性といった聴きどころは、充分に聴き取ることができた。8番は、開始早々のテーマの晴朗さに目を見張ったが、演奏が終了したときに拍手をさえぎって指揮者が客席に向かって語ったことには、「この曲は上空 3,000mで防護服 (注 : これは「防護ネット」と言いたかったのだろう) なしで綱渡りするような難しい曲なので、今回の演奏者の皆さんのように超一流の演奏者でないと、こんな風には鳴りません!!」と絶賛。確かにこの 8番では、楽章の間にも指揮棒を下ろすことなく緊張感を維持していたので、奏者の好調さを感じていたのであろう。最後の 9番については、基本的に先の日フィルとの演奏と同様スタイルでありながら、第 1楽章などはさらに激しかったと思う。そういえば、その第 1楽章の盛り上がり部分と、終楽章でのクライマックスでは、ホルンにベルアップさせていたが、これもやはり指揮者の意向であろうか。マーラーならともかく、ベートーヴェンで作曲者がその指示をしているとはちょっと思われず、視覚的な効果を狙ったものかと思われた。これがベルアップ。楽器を持ち上げるのは、奏者にとっても結構負担ではないだろうか。
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第九のソロは、ソプラノが市原愛、メゾ・ソプラノが山下牧子、テノールが笛田博昭、バリトンが青戸知。合唱は、コバケンが 1967年から指導を続けるという武蔵野合唱団。それにしても、今回のような長丁場で、最後まで客席が埋まりっぱなしというのは大変なことだ。これは第九の演奏開始前、22時過ぎの東京文化会館のロビーの様子。演奏会開始から既に 9時間。途中、最長 90分の休憩が何度は入るとはいえ、この時刻になっても普通に混雑しているのは異例の事態ではないか。お子さんの姿も見えるが、将来有望な音楽ファンだろう (笑)。
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今回は館内放送でも、グッディーズというレコード・ショップが厳選した第九の CD を並べているとのことだったので、CD コーナーを除いてみると、確かに様々なタイプの演奏を並べていた。その中で私は、SP 盤の復刻で、オスカー・フリート (マーラーの「復活」の世界初録音で知られる) のものを購入した。また、企画者三枝成彰 (途中休憩時間に登壇して、日本の米文化 = 変化が不要 = と、ヨーロッパの麦文化 = 常に変化が必要 = について説いていて、その中で自分がオペラ「忠臣蔵」で美しいメロディを書いたら非難されたと言っていたが、私はその「忠臣蔵」の美しいメロディが大好きなので) に敬意を表し、久しぶりに彼の作品集を 1枚、購入した。

さて、第九が終了したのは、23時50分過ぎ。その後拍手が続き、多分マエストロが何か喋るだろうと思って見ていると、案の定発言した。「また来年も早々にチケットを確保して頂いて (というのも、その前の 8番終了時のスピーチで、チケットが早々に売り切れたことへの謝意表明あったので)、是非おいで下さい」と挨拶があり、舞台横の柱にかかった時計を見て、「もう年も明けますね。皆様、あけましておめでとうございます!!」と言ったが、正直なところそれは 23時58分か 59分頃。ごくわずか新年開始より早かった (笑)。アナウンサーなどのスマートな司会がいてカウントダウンするようなこともなく、極めて自然な流れであったので、その瞬間が 23時59分であろうが 0時 1分であろうが、大きな違いはない。その場に集った人々の 1年の頑張りを労い、また新たな 1年を頑張りましょうというコバケンの力強いメッセージには、厳密に12月31日であろうが 1月 1日であろうが、関係はないのである。

こうして 2019年が始まりました。改めまして、今年もよろしくお願い申し上げます。

by yokohama7474 | 2019-01-01 12:54 | 音楽 (Live)