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東京 目黒 大円寺

今年の正月は遠出の予定がなかったので、元旦は、普段不足しがちな睡眠という奴をひたすらむさぼった。2日は近場で映画を 1本見た。そして 3日。朝、寝床からゴソゴソと起き出した私は、今のうちに見ておこうと思ったメジャーな展覧会 2つと、それほどメジャーではないが素晴らしい展覧会を 1つ見て、さて帰宅前にどこかに初詣にでも行こうかいなと思い立ち、行くことに決めたのは、目黒の大円寺 (本来は「大圓寺」と旧字で書くべきなのだろうか)。ここでは、普段は拝観できないが、正月ならそれが叶う貴重な仏像があるからである。以前も正月に訪れたことがあるが、何度見ても素晴らしい仏像であるので、再会が楽しみだ。この大円寺に行くには、目黒駅から雅叙園の方に向かう、このような急な坂を下って行くことになる。
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何年か前の正月の記事で、この坂の上で撮影した、夕闇に映える富士山の写真を掲載した記憶があるが、この日は、天気はよかったものの、残念ながら昼間の時間に富士山を見ることはできなかった。さてこの坂、その名を行人 (ぎょうにん) 坂という。江戸時代から、江戸の中心と目黒不動を結ぶ道であり、富士山が見える場所であることも関係してか、多くの往来で賑わった様子である。またこの坂の名前は、このあたりに湯殿山の行者たちが多く住んだことによるらしい。坂の途中の左手にこの表示が見えてくれば、もう大円寺は近い。いや実は、坂道の上の方まで、お香のかおりが漂っていた。この「行人坂」の表示のすぐ横にある祠には、1704年に目黒川に橋を架けた西運という僧を記念した作られた勢至菩薩石像が祀られている。この西運についてはまたあとで。
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そのすぐ横に見える大円寺の門。「大黒天」とあるが、実はこの寺、江戸時代最初の七福神巡り (元祖山手七福神) の参拝地のひとつである。
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その大黒天には、正月ということもあって、多くの参拝客がお参りする。
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だが私の今回のお目当ては、重要文化財、鎌倉時代初期 (1193年) に作られた釈迦如来立像である。これはお寺のパンフレットからお借りしてきた写真。
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この仏様は秘仏で、通常は非公開。だが、正月 7日までと、花祭りの 4月 8日、大黒天のお祭である甲子 (きのえね) 祭にはそのお姿を見ることができる。仏像に詳しい人には一見して自明であるが、これは「清凉寺式釈迦如来」と呼ばれる形式の釈迦像である。京都嵯峨野・清凉寺にある神秘的な中国伝来の釈迦像 (985年作、国宝) の姿を模して作られているのであるが、全国に沢山ある清凉寺式釈迦如来のなかでも、今私がぱっと思いつく、奈良西大寺や鎌倉極楽寺のそれと並んで、大変美しい作品である。清凉寺の釈迦如来像の特徴は、胎内に臓物を模した納入品があったことであるが、この大円寺像も、胎内に鏡や女性の髪が収められているという。「生身 (しょうじん) の釈迦如来」と呼ばれるゆえんである。だが、興味深いことに、本家の清凉寺の本尊の胎内納入品が発見されたのは 1954年のこと。この像が作られた鎌倉時代初期には、それはきっと伝説になっていたに違いない。ガラス越しの対面しか叶わないものの、やはり何度見ても素晴らしい仏像である。
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実はこの寺には、ほかにも大変興味深い仏像が何体もある。まず、阿弥陀堂におわします阿弥陀三尊。
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江戸時代 (1712年) の作で、堂々たる丈六 (立つと一丈六尺 = 4.8mになる大きさ) の仏様である。お堂の外から覗くとこんな感じで、お顔を拝むことができずに残念。
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それのみならず、お堂の外に立っている説明板は、このような状態になっている。これは、お堂に車椅子で上るためのスロープが設置されたためであるが、うーん。手すりによって文章を読めないとは、なんとも惜しい。説明板を別の場所に移転するということは、できなかったのだろうか。
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実は、外からはよく見えないが、このお堂にはほかにも二体、貴重な彫刻があるらしい。ひとつは、上の三尊像の写真にも写っているが、ちょっと身をひねったユニークな地蔵菩薩、もうひとつはこの阿弥陀三尊を発願した僧侶の像。
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この地蔵は通称「お七地蔵」。そう、あの歌舞伎などで知られる八百屋お七 (1682年、恋人に会いたい一心で火事を起こし、処刑された悲劇の少女) が地蔵の姿となったもの。駒込生まれのお七の像がなぜここにあるかというと、それは西運という僧に関係がある。この西運こそ、お七の恋人、吉三 (きちざ) の出家した姿であるからだ。この吉三はお七の死後出家して全国を行脚し、そして目黒の、今の雅叙園のあるあたりに明王院という寺を構えて念仏行を始めたという。浅草寺までの道を、雨の日も風の日も休まず毎日念仏を唱えながら往復し、27年 5ヶ月後にお七が夢枕に立って、成仏したことを西運に告げたという。その姿を表したのがお七地蔵であるとのこと。阿弥陀堂の前には、このような石碑もあって、西運という人の深い思いが伝わってくるようだ。上に書いた通り、目黒川に橋を架けたのもこの僧であったというから、立派な人だったのだろう。
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この寺にもう一体興味深い仏像がある。本堂に祀られている十一面観音立像である。この古様のお姿は、明らかに平安時代にまで遡るものであろう。この土地は、それほどまでに古い歴史を刻んでいるのである。
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それから忘れてはならないのは、境内の一角に所狭しと並ぶ石仏群である。
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実はこの大円寺、江戸の三大火災のひとつと言われる明和の大火 (1772年) の火元であるという。上の八百屋お七といい、この場所は火事に縁があるが、それこそ江戸らしいということかもしれない。ともあれ、この大円寺が灰塵に帰した際、仏像は隣の明王院に避難させていたものの、建物はなかなか復興されなかったところ、その間に、明和の大火の犠牲者たちを偲ぶための、夥しい数の石仏が境内に作られたとのこと。釈迦三尊 (台座に 1781年の銘あり) に十六羅漢、十大弟子、そしてずらっと並んだ五百羅漢である。これは実に壮観。
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そして境内には、行人坂の往来の安全のために石を敷き詰めたというこの地の行者たちを称える供養碑や、見ざる言わざる聞かざるを彫り込んだ庚申塔などもあり、人々の信仰が現代にまで息づいていることが分かる。
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都会のど真ん中にあって、境内も決して広いとは言えない大円寺に、これだけの歴史があることを知るのは感動的だ。今年は機会を見て、東京の寺院巡りも少しやってみたいものだと決意した、正月 3日でありました。

by yokohama7474 | 2019-01-03 22:25 | 美術・旅行