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ロレンツォ・ヴィオッティ指揮 東京交響楽団 2019年 1月12日 サントリーホール

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東京交響楽団 (通称「東響」) が、本年初の定期演奏会で採り上げるのは、イタリアの偉大なるオペラ作曲家、ジュゼッペ・ヴェルディの名曲、レクイエムである。レクイエムとは当然、死者のためのミサ曲のこと。おめでたいはずの新年早々の演奏会で、死者のためのミサ曲とは、あまり聞いたことはないように思うが、この曲は、レクイエムとはいうものの、まるでオペラのようなドラマティックな音楽に満ちている。その意味では、決してしんねりむっつりした曲目ではないゆえ、前向きに生きて行こうという思いを鼓舞する面もあるとも言える。と、一応こじつけてはみるものの (笑)、選曲としてはかなり大胆であるとは言えるだろう。そんな東響の定期を今回指揮するのは、この指揮者である。
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髭を蓄えてはいるものの、明らかに未だ若いこの指揮者の名前は、ロレンツォ・ヴィオッティ。1990年生まれというから、現在弱冠 28歳。この指揮者に関しては、東京フィルとの共演の様子を、2018年 7月20日の記事に書いた。オペラ指揮者として活躍していたところを急逝したマルチェッロ・ヴィオッティを父として持ち、この東響の指揮台には今回が 3度目の登場である。未だ 20代とは言え、世界で大活躍を始めているこのような俊英指揮者を、いながらにして聴くことのできる我々東京の聴衆は、実に恵まれていると思う。

さて、今回のヴェルディのレクイエムの演奏は、前回のヴィオッティの東フィルとの共演において、実に丁寧に曲想を描き出す手腕を体験した者としては、大変期待の募るものであったのだが、その期待は充分に満たされたと思う。私の印象を簡潔にまとめると、ドラマテッィクな部分を力強く描き出すと同時に、曲の中に様々に織り込まれた音楽の起伏を、強い説得力を持って表現した、というものになるだろうか。今回の演奏では、合唱団 (いつもの東響コーラス) は新年から黒づくめの衣装で、サントリーホールのステージ奥にずらりと 4列に並び、全員暗譜。4人の独唱者は、舞台の最も前、指揮者よりもさらに前に陣取っての歌唱であった。合唱団のために P ブロックを使わずに、これだけの規模の合唱曲を演奏すると、さすがにステージがちょっと窮屈ではあったものの、ヴィオッティが若さに似ず、オケを煽り過ぎることはないので、スペースの狭さが逆に、奏者が一丸となるのを助けたという印象である。この曲の冒頭は、静寂の中からまず低弦が歌い始め、合唱が漂う霧のように「レクイエム」という言葉を発するのであるが、実演で聴くには、やはり完全な静寂が必要である。今回の演奏では、あろうことか、音楽が始まろうかというところで、2階の右側 (RB あたり?) の客席で、誰かが走って出て行く足音が聞こえた。指揮棒を構えていたヴィオッティは、それを聞いて一旦指揮棒を下ろしてしばらく静止し、足音が止んでから音楽を始めたのであった。この呼吸からして、なんとも絶妙。そして、客席を見渡した私は、あることに気がついた。この曲における最もドラマテッィクな「怒りの日」では、金管のバンダ (別動隊) がホール客席の左右に陣取り、最後の審判の壮絶な光景を音で描くのであるが、普通なら見えるはずのバンダ用の譜面台が、客席のどこにもない。どうなるのか思っていたところ、その箇所に辿り着くと、最初のトランペットは、姿は見えないのに、左右それぞれから、弱々しく響いてきた。おや、これはホール内の左右の通路での演奏か? と思ったら、その後ファンファーレが高らかに鳴り響く箇所では、左右の扉 (RB / LB) がさっと開かれて、その向こうに楽員の姿が見えるが、飽くまで廊下での演奏である。そうして、ホール全体が鳴り響くこの曲独特の恐ろしい音楽が奏されたあと、左右の扉はゆっくりと閉められた。つまり、奏者は一貫して客席の外で演奏し、客席内にその姿を現わすことなく、音響だけは極めて鮮烈に構成されたのである。このような演出は初めて体験したが、なかなかに効果的であった。

このヴィオッティ、譜面を見ながらの指揮であったのだが、実は、ほとんど譜面を見ていなかった。ある時など、左手で譜面をめくろうとして、それをやめてしまったほどだ。しばらく音楽が進んだり、ある場合には曲間のときもあったと思うが、パラパラとまとめてページを繰るが、その後もやはり譜面を見ている気配はない。その場で鳴っている音をよく聴きながら、明確な身体表現で音楽を作って行くようなタイプであると思うので、譜面を見ることに囚われない方法は、大変に興味深い。彼がリードするオーケストラは、本当にこの曲の持ち味の細部に至るまで、よく表現しきっていたと思うし、合唱団もまた、大変立派であったと思う。ソリストは二期会所属の歌手たちで、ソプラノが森谷真理、メゾソプラノが清水華澄、テノールが福井敬、そしてバスは、予定されていたリアン・リから、急遽ジョン・ハオに変更された。それぞれに実力のある人たちなので、素晴らしい表現を聴くことになったが、ただ、ジョン・ハオは、前半は若干安定度を欠く面もあったように聴こえ、ちょっと気の毒に感じた。メゾの清水は、体を斜めにしてほかのソリストを呼吸を合わせたり、指揮者に視線を送ったりと、かなりの気遣い。テノールの福井は、長年第一人者として活躍して来ているだけあって、深みのある歌唱。ソプラノの森谷は、かつてメトロポリタン・オペラで夜の女王を歌ったことがあるとご紹介した記憶があるが、宗教曲にしては大きな身振りで、深い感情を込めて歌っていた。全体を通して素晴らしい出来であったと思う。イタリアを遠く離れた日本でこんな演奏がなされていることを知ったら、作曲者ヴェルディも喜ぶのではないか。
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さて、今回私は、上記のバンダ以外にももうひとつ、大変珍しいシーンを目撃した。それは、「ラクリモサ」に入る前に「怒りの日」の強烈な主題が返ってくるところで、大太鼓がドンドン鳴っていたのだが、最後の一撃で、何か「ドスッ」という異音がした。見ると、なんと太鼓に張った革が、破れているではないか!! どうなるかと思って見ていると、袖からスタッフが現れ、慌てず騒がず、太鼓を抱えて持って行った。そして、奏者が金属の台を入れ替えているうちに、スタッフが別の大太鼓を持って戻ってきて、それをステージに設置したのである!! その間音楽は継続していたが、ちょうど大太鼓の入る箇所がなかったようで、しばらく経った次の出番から、新しい太鼓が叩かれることとなった。大太鼓奏者は、その後ネジを一通り締めたり、楽器の状態をチェックするのになかなか大変であったようだが、特に不都合もなく演奏は続けられた。ステージ裏には、このような予備の楽器が置いてあるのであろうか。トラブルに遭遇したときに、慌てず騒がず対処する。これは人生において大事なことだと思いますよ (笑)。ヴィオッティも、演奏終了後、袖に戻るときに、大太鼓奏者の肩をポンと叩き、その労をねぎらっていた。大太鼓は、この曲においては大事ですからね。
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さて、今回のプログラム冊子に、音楽評論家がヴィオッティの指揮するヴェルディのレクイエムへの期待を書いているのだが、そこには、この極めて劇的でオペラ風の宗教曲であるレクイエムを、作曲者自身は実は、オペラ風には演奏して欲しくなかったと発言している、とある。そして、偉大なオペラ指揮者を父に持ちながら、父とは異なる方法で音楽をしているこのヴィオッティの指揮は、イタリアの伝統によるオペラティックなレクイエムの演奏とは、違ったものになるだろうと書いてある。今回演奏を聴いてみて私の思うところは、ヴィオッティらしい緻密な音響設計は聴かれたし、それは、必ずしもイタリアの伝統に縛られたものではなかったかもしれない。だが、オペラ的かと訊かれれば、やはりこの曲はオペラ的であって (上記のヴェルディ発言の真意は、私なりに考えるところはあるものの)、その持ち味を活かすべく、オペラ的 = 人間的な感情が、随所に込められた演奏であったと思う。正直なところ、プログラム冊子に演奏家自身のインタビューを掲載するならともかく、評論家が「こういう演奏になるだろう」と書いてしまうのは、聴き手に先入観を与えてしまうという点で、あまり好ましいことではないのではないだろうか。聴き手それぞれが自由に楽しむのが、音楽のよいところ。あまり解説に囚われない、自由な聴き方を心掛けたいものである。

by yokohama7474 | 2019-01-13 02:10 | 音楽 (Live)