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リッカルド・ムーティ指揮 シカゴ交響楽団 2019年 1月31日 東京文化会館

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よくオーケストラの首席指揮者や音楽監督のことを、シェフという。これは実はかなり便利な言葉であって、それは、オケによって主たる指揮者の名称が異なることがあるからだ。上記以外にも、芸術監督とか常任指揮者、ある場合にはカペルマイスターという古い言葉が使われたりする。ところで、シェフと聞いて一般の人が連想するのは、もちろん料理人であろう。料理人としてのシェフには必ず、シグネチャーと呼ばれる料理がある。この人と言えばこれ、という得意料理のことである。実は音楽界にもそれに似た事情があって、名指揮者にはそれぞれ、多かれ少なかれ、シグネチャーと呼ぶべきレパートリーがある。今回、シカゴ交響楽団の音楽監督として来日中のリッカルド・ムーティにとっては、さしずめこの曲目こそがシグネチャーであろう。それは、ヴェルディのレクイエム (死者のためのミサ曲) である。

実際ムーティは、世界各地でこの曲を演奏しており、過去の来日においても何度もこの曲を採り上げている。長年音楽監督を務めたオペラの殿堂、ミラノ・スカラ座との来日では、オペラ公演の合間を縫って、このヴェルディのレクイエムを演奏することが多かった。今調べてみると、スカラ座との来日公演でこの曲を採り上げたのは、1988年、1995年、2000年。それ以外に 2006年には、東京のオペラの森という音楽祭でも演奏している。その中で私が聴いたのは、1988年と 1995年。そう思うと、前回聴いてからでも既に 20年以上の歳月が経過している。と、ここで新たな発見があって、前回の記事で、私がムーティにサインをもらったのは 1981年のみと書いてしまったが、それは誤りで、実は1988年にも、もらっていました。今となっては懐かしい、昭和女子大学人見記念講堂での演奏であった。懐かしいついでに書いてしまうと、そのときに急遽代役で歌ったテノールは山路芳久。その 3ヶ月後、この期待のテノールは、わずか 38歳の若さで夭折した。ムーティと日本との関わりは多々あるだろうが、そのような一期一会の出会いを、たまに思い出してみるのもよいだろう。これが 31年前のムーティのサイン。
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さて、今回久しぶりにそのムーティの「シグネチャー」を体験したわけであるが、もちろんこれは、期待に違わぬ見事な演奏であり、聴く人すべてに強い力で訴えかけるものであったと思う。一言で言えば、曲の隅から隅まで完全に指揮者が掌握しきった演奏で、ここでは合唱もオーケストラも、指揮者が導く巨大な音響体になっていた。今回の合唱団は東京オペラシンガーズ (合唱指揮 : 宮松重紀)。ソリスト陣は、ソプラノがヴィットリア・イェオ (韓国)、メゾ・ソプラノがダニエラ・バルチェッローナ (イタリア)、テノールがフランチェスコ・メーリ (イタリア)、バスがディミトリ・ベロセルスキー (ロシア)。ムーティの指揮ということで、事前に予想したことには、指揮者はもちろん、独唱者たちも合唱団も、きっと譜面を見ながらの演奏であろうということであったが、果たしてその通り。日本では大規模な宗教曲でも合唱団は暗譜で歌うことが多いが、ヨーロッパにおいては、神に捧げる言葉を歌うには、やはり譜面を見るという習慣がある。そのあたりのムーティのこだわりには納得である。それにしても、日本の合唱団がこのオペラの巨匠のもとで、あれだけ堂々と歌ったことは、なかなかに素晴らしいことだと思う。東京オペラシンガーズの持ち味はその力強さだと私は思っているが、この曲にはもちろん壮絶な場面もあるものの、繊細であったり崇高であったりする部分もまた多い。ムーティは実に丁寧に合唱団に指示を送っていて、上記の通り、完全に指揮者の主導権による音楽になっていた。まさに、一点一画をも疎かにしないとはこのことか、と思わせた。独唱者 4名のうち、私がその名を知っていたのはテノールのメーリだけだが、ある意味では粒より、ちょっと言い方を変えれば、突出することのない歌手たちだったのではないだろうか。その意味ではムーティ好みの歌手たちだったのかなとも思う。
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そして今回も、オーケストラの見事であったこと。冒頭の、闇の奥から浮かび上がってくるような低弦からして、なかなか聴くことのできない明晰さと強靭さを持っていたと思うし、「レクイエム・エテルナム」と歌う合唱の深い声も見事なら、テノール独唱とともに動き出す音楽の流れも確信に満ちていて、もうそこからして、聴衆はこの美しくも劇的な宗教曲の世界に入って行くこととなった。それ以降も聴き所が随所にあったが、私が印象に残ったのは、例えば「サンクトゥス」の勢い (と、ここでまた思い出したが、ムーティとスカラによる 1995年の演奏では、確かこの「サンクトゥス」に入る箇所で聴衆が咳をしたので、ムーティが客席に向かって後ろ手に拳を握りしめ、聴衆までも「指揮」していたことだ)。シカゴの金管の素晴らしさが活きていた。かと思うと、「アニュス・デイ」での女声二重唱を伴奏するヴァイオリンの流れの、実に安定していたこと。今思い出しても、身震いするようだ。もちろん、「ディエス・イレエ」の音響には痺れるものがあったのだが、若干惜しいと思ったのは、この箇所でまさに最後の審判の情景を描き出すバンダ (別動隊) の位置である。通常なら、コンサートホールの上層階の左右に陣取り、会場全体が鳴り響くような大音響になるのであるが、今回はどうしたことか、舞台袖の左右に陣取っての演奏であった。これは、左右から音がぶつかり合うという効果はあったかもしれないが、「あぁ、世界の終わりだぁ」と言いたくなるような壮絶さには、今一歩不足していたような気がする。だがもちろん、オケがシカゴであるから、それでも大変よく鳴っていたとは思うのであるが。それから、これは私の誤解である可能性もあるかもしれないし、音楽全体の流れとは関係ないが、前日のブラームスでは 2曲とも、何度数えてもチェロがなぜか 9本だったと思うのだが、今回は 10本 (コントラバス 8本の通常編成) であった。もしこれが正しければ、ちょっと不思議な現象であったと思う。

さてここで少しだけ、個人的な思い出を記すことをお許し頂きたい。私がこのヴェルディのレクイエムを初めて聴いたのは、確か高校 1年生のとき (1981年、つまり私が最初にムーティにサインをもらった年)。図書館で借りて来たアナログレコードで、演奏は何を隠そう、リッカルド・ムーティ指揮フィルハーモニア管弦楽団であった (1979年の録音)。私はその時、初めて耳にする「ディエス・イレエ」に、椅子から転がり落ちそうな驚愕を覚えたものである。この曲は今でこそ、よくテレビなどでも使われていて、音楽ファンでなくても聴いたことがあるという状況だと思うが、私は全く何の予備知識もなくこの壮絶な音楽を聴いて、レクイエムというが、これでは死者もビックリして甦るのではないかと思ったものだ (笑)。当時のムーティは、EMI の録音の特性もあったのか、実に鮮烈な音楽を聴かせていた。「カルミナ・ブラーナ」や「春の祭典」なども、それは凄まじいものだった。もちろん、それから時を経て、ムーティの音楽自体も変わって来ていると思うのだが、また、変わらない部分もあるだろう。今でも時々、あの壮絶さを思い出すことがある。こんなジャケットであった。
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そのように考えると、この現代最高の指揮者の一人が、若い頃から歩んできた道のりを、折に触れて体験することができている東京の聴衆は、やはり恵まれていると思うのである。ムーティはこれまで日本で、旭日重光章の叙勲を受けているし (2016年)、また、高松宮殿下記念世界文化賞 (2018年) も受賞している。そんなマエストロと日本の関係が、これからさらに深まって行くことを願いたいと思う。

by yokohama7474 | 2019-02-01 01:29 | 音楽 (Live)