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テオドール・クルレンツィス指揮 ムジカエテルナ 2019年 2月13日 サントリーホール

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ギリシャ生まれの指揮者、テオドール・クルレンツィス率いるオーケストラ、ムジカエテルナの演奏会も、今回が東京での 3回 (それぞれに異なる会場で開かれた) の最後のもの。私は初日、2/10 (日) の Bunkamura オーチャードホールでの演奏を聴き、既に記事に書いた。初来日となるこのコンビの想像以上の表現力に圧倒され、様々なことを考えさせられたわけであるが、今回は少し余談から始めたい。会場のサントリーホールに着くと、入り口に向かって右側にある 2本のポールに、ロシアと日本の国旗が高々と掲げられているではないか。はて、確かにここに銀色のポールがあることは認識していたが、二国の国旗が掲げられているのを見たことがあったろうか。あまり覚えがない。これはもちろん、ロシアのペルミという都市に本拠地を置くこのオケを日本に歓迎する意図であろう。また今回の演奏会、ホール内のアナウンスが、いつものサントリーホールのそれではなく、まずロシア語、ついで英語、そして日本語で、ごく簡潔に述べられていた。明らかに同じ女性 (日本人ではない) の声で 3ヶ国語がアナウンスされていたのである。これにより、今回来日しているこのオーケストラがロシアの楽団であるということを再認識した。そう、このオケの本拠地、ロシアのペルミという都市はどこにあるかというと、ウラル山脈の西側だ。そして私は思い出す。以前何かの記事で書いたことがあるが、私はその近くを出張で訪れたことがあるのだ。その都市の名は、ウファ。今調べてみると、ペルミとウファは、ほぼ南北一直線に位置していて、地図で見ると結構近い・・・ま、距離は 370kmなんですがね (笑)。そういえば、モスクワからウファまでは確か、飛行機で 2時間くらいだったが、その程度の距離でありながら、時差が 2時間もあるのである。モスクワの現地社員は、このあたりの地域とのビジネスはそこが不便だと嘆いていた。ペルミとはそういった地域に位置する場所なのである。ただ、人口 100万を持つ工業都市であり、過去の文化人としては、あの 20世紀初頭のパリを騒がせたロシア・バレエ団の創設者、セルゲイ・ディアギレフがこの街の出身である。これがムジカエテルナの本拠地、ペルミ国立オペラ劇場。
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さて、クルレンツィスとムジカエテルナであるが、既にクラシックファンの間では世界的に極めて高い評価を勝ち得ていて、このブログでも、前回の記事へのアクセス数の驚くような多さから推しても、彼らの演奏会に関心を持つ方が相当多いということのようだ。そのような人気は、ヨーロッパ主要都市でも同じ状況であるらしく、昨年の夏にはなんとこのコンビは、ザルツブルク音楽祭でベートーヴェン・ツィクルスを行っている。設立後わずか 14年でそんな実績を挙げたオケは、恐らく史上初ではないだろうか。この加熱ぶりには何か理由があるに違いない。もちろんそれは、クルレンツィスのカリスマという要素は間違いないだろうが、今回私がふと思ったことがある。前回の記事で彼のギリシャ演劇風の肖像写真を掲載したが、その写真に彼の持ち味が象徴されていないであろうか。つまり、ギリシャとロシアは、地理的に隣接はしていないものの、正教会というくくり、つまりは、西欧に対する東欧、というまとまりに入る。シュペングラーが「西洋の没落」を書いてから既に 100年を経過しているわけであるが、ヨーロッパの中心を担っていた西欧の人たち (音楽面でも長らく西欧が中心であったわけだが) から見て、現在の音楽界に様々な行き詰まり感があるがゆえに、クルレンツィスとムジカエテルナの新鮮な音楽に、東方からやってきたクラシック音楽の新たな旗手という感覚があるのかもしれない。そして才人クルレンツィスは、自らのイメージ作りにも長けていて、ただロシアの楽団というだけなら目新しくないところ、自分が欧州の揺籃の地であるギリシャ出身であることをうまくアピールして、人々の「東方」感覚をくすぐっているのかもしれない。
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そんなクルレンツィスとムジカエテルナは今回、すべての演奏会をチャイコフスキーの作品で埋めた。今回の曲目は以下のようなもの。
 チャイコフスキー : 組曲第 3番ト長調作品55
 チャイコフスキー : 幻想序曲「ロメオとジュリエット」
 チャイコフスキー : 幻想曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」作品32

この組み合わせの興味深さは、前半に、比較的演奏頻度は低いが、抒情性が勝った純音楽を置き、後半には、それぞれシェイクスピアとダンテという西洋文学史の偉人たちの作品に基づく劇的な音楽を置いている、という点にある。これがもし、前半がチャイコフスキーのほかの 30 - 40分程度の曲、例えば弦楽セレナードとか、あるいは「くるみ割り人形」組曲だったらどうだろう。ちょっと中心のない並びになってしまうように思う。あるいは、ほかの日にチャイコフスキーの 4番・6番を演奏しているのだから、三大交響曲の残るひとつである 5番を入れてみたくもなるが、そうすると、全体的にポピュラーコンサート的なツアーになってしまうかもしれない。そう思うと、この組み合わせはなかなかに巧妙だ。

組曲 3番は、私は結構好きな曲で、時々スヴェトラーノフの CD で聴いてみたりするのだが、何がよいかと言うと、その始まり方のさりげなく、また懐かしいこと。そしてその最後の盛り上がりの、意外な熱狂。4楽章のこの音楽には、ロシア情緒 (と限定せずともよいかもしれないが) を醸し出すノスタルジアも溢れている一方で、最後の華麗なるポロネーズで燃え上がる万感の思いにつながる音のドラマ性も、充分にある。終楽章の変奏曲には、ラフマニノフばりの「怒りの日」の引用もある。決して彼のシンフォニーのようなポピュラリティはないが、これは味わい深い、素晴らしい名曲だと思うのだ (なお、1885年の初演は、あのハンス・フォン・ビューローが指揮している)。今回の演奏では、やはりオケの各パートが大変きれいに鳴っていて、しかもお互いを尊重しあうように響く中、クルレンツィスが、時にけれんみたっぷりに流れを停めてみたり、ガサガサいう音を出してみたり、終始強力なリードを見せ、大きなダイナミックレンジを持って曲の個性を演出してみせた。面白いことこの上ない演奏だったと思う。さて、ここでひとつ異変が起こった。終楽章ではコンサートマスター (私が前回聴いた時とは異なる人で、アレイン・プリッチンという若い人) がソロを弾く場面があるのだが、終演後の拍手で指揮者がそのコンマスを称えたと思ったら、いきなりアンコールが始まった。なんとそれは、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の第 3楽章ではないか!! もちろん、コンマスのプリッチンがソロを弾いたわけであるが、先日のコパチンスカヤの奔放さはないものの、華麗なるテクニックで、しかもオケの一員としての節度も感じさせる演奏を行った。このような奇抜な仕掛けこそ、クルレンツィスの本領発揮であろう。普通、こんなこと誰もしませんよ!! (笑) 演奏後のクルレンツィスは、まさにしてやったりの会心の笑顔。そうしてコンマスはもう 1曲、ソロでのアンコールとして、イザイの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第 2番の第 1楽章を演奏した。バッハの引用が歪み、目くるめく音の渦からやはり「怒りの日」が浮かび上がる、あの幻想的な名曲である。奇しくも、先日のコパチンスカヤも、ソロのアンコールはイザイであった。同じ無伴奏でも、ここでバッハとなると、ちょっと正統的過ぎるので、イザイとは妥当な選択だろう。

ここで、例によって弦楽器編成に触れておこう。これがまた面白くて、前半の「組曲」では、第 1ヴァイオリン : 17、第 2ヴァイオリン : 15、ヴィオラ : 14、チェロ : 14、コントラバス : 9。前回の演奏会と近いが、前回はチェロが 13本であった。あ、そして今回も、後半ではなぜか第 2ヴァイオリンだけ 1人増えて、16となっていた。この細かい差異には、何か意図があるのだろうか。

後半の 2曲も、言ってみればクルレンツィス節が炸裂である。やはりチャイコフスキーの管弦楽曲はよく書けているので、うまく鳴らせば面白いことこの上ない。実はこの 2曲、当初発表では、「フランチェスカ・ダ・リミニ」「ロメオとジュリエット」の順であったものが、当日会場では、その逆になるとの告知があった (プログラム冊子は既に逆の順番で掲載されている)。これは「演奏者の強い希望による」ものとのことであったのだが、「ロメオ」が始まる前、コンサートマスターが指揮者に何やらささやき、指揮者は笑いながら譜面台の楽譜の上下を入れ替えていたように見えた (笑)。ともあれ、「ロメオ」の冒頭、クラリネットとファゴット 2本ずつのハモり方は万全で、楽員たちの呼吸が合っている。この冒頭部分は速いテンポで走り出したが、低弦が腹をえぐり、高弦が抒情的に伸びると、情緒たっぷりの音のドラマである。そして音楽は盛り上がり、ティンパニは炸裂、金管は咆哮する。見事である。これは、ラファエル前派のフランク・ディックシーという画家が描く「ロメオとジュリエット」。
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それにしてもこの地方オケは、なぜにこんなに巧いのか。楽員は 12ヶ国から集まってきている国際的なメンバーで、多くはコンクールで優勝歴があるそうだが、私が思うに、やはりこれだけのクオリティを維持しているのは、練習を重ねているからだろう。プログラム冊子に載っている日本人楽員の文章によると、今回の来日公演の曲目 6曲は、1月20日頃からまる一週間ですべて練習し、本拠地ペルミ、エカテリンブルク、サンクトペテルブルグ、モスクワというロシア諸都市でコンサートを開いてから、日本にやってきたらしい。つまり、ある期間は、寝ても覚めてもこれらの曲ばかりということか。短いリハーサルで様々な指揮者と顔合わせをする多忙なオケとは、練習方法が異なるようである。なお、クルレンツィスの長くて執拗なリハーサルには、メンバーも怒り気味だとか (笑)。その一方でクレメンツィス自身は、「このオケは常に一緒にいる家族のようなものです。ともに生活し、湖畔でたき火や釣りをする。仕事をするためではなく、友情でつながっています」と嘯いているのだが、ま、それもまた本当のことだろうと思う。オケに一体感があるからこそ、指揮者が濃厚な表情づけをしても崩壊せずに音が流れて行くのだろう。「フランチェスカ・ダ・リミニ」は、以前も書いたことがあるが、チャイコフスキーの書いた最も激しい曲で、冒頭部分は本当に、地の底から地獄の風が吹いているような不気味さだ。激烈な部分の後には愛のシーンがあって、そこでの抒情性も極めて美しい。強弱のメリハリを大胆につけたこの演奏は、ある意味でチャイコフスキーの本質を十全に表現していたと思うし、聴きごたえは十二分であった。これは、上と同じくフランク・ディックシーの「パオロとフランチェスカ」。
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この演奏会、アンコールは前半に済ませてあるので (笑)、最後にはアンコールは演奏されなかった。例によって起立したまま演奏した奏者たちは、立っているから体も動かしやすいのだろう、それぞれのセクションで握手を交わしている。皆立っているので、通常のように個々の奏者が指揮者の合図で起立することもない (指揮者が差していない楽員が間違って起立することもない。笑)。指揮者がそのセクションにまで入って行って、握手をし、ハグをし、肩を抱き合う。そんなシーンが見られた。なるほどこれは、世界のほかのどのオケにもない個性を持ったオケである。そして、東方からやってきたクルレンツィスは、これからどんな活動を展開して行くのであろうか。ムジカエテルナは上記の通り、大変恵まれた環境で活動しているようだが、ほかの指揮者を迎えることもあるのだろうか。クルレンツィスの方は昨年秋から、南西ドイツ放送交響楽団の首席指揮者に就任している。このオケの本拠地はシュトゥットガルトであり、名門シュトゥットガルト放送響と、もともと現代音楽で有名だった旧南西ドイツ放送響 (その後バーデン=バーデン・フライブルク SWR 響と改称) との合併によって、2016年にできたばかりである。母体の歴史は戦後すぐからあるわけだが、組織としては新しいこのオケと組んで、この鬼才指揮者がどのように面白い音楽を聴かせてくれるのか、そちらも楽しみである。

by yokohama7474 | 2019-02-14 01:17 | 音楽 (Live)