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顔真卿 王羲之を超えた名筆 東京国立博物館

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このブログでは、既に終わった展覧会の記事を書いて、ご覧になる方をイラッとさせている (もしくは記事そのものを読んで頂けない) 場合が多いと認識しているので、今回は、たまには会期中の展覧会をご紹介したい。とは言っても、そもそもこの展覧会の会期は 1ヶ月と少し。まだ残り期間があるとは言っても、今週末まで。残る期間はほんの数日だ。だが、このブログで私ごときが何を書こうとも、この展覧会の混雑具合には全く影響ないだろう。というのも、この展覧会は既に連日大混雑であるからだ。ただ、もしご存じない方がおられるといけないので書いておくと、これは美術ではなく、書の展覧会。私としても、書の展覧会に出掛けることはあまりなく、今すぐに思い出せるのは、中学生の頃に同じ東京国立博物館で見た「日本の書」という大規模な展覧会。それからもちろん、空海の国宝「風信帖」などは何度か見たことがあるし、あるいは身内に書家がいるので、その会の発表会には足を運んだこともある。だが、このような歴史的名品が揃う書の展覧会は、私としてはかなり珍しい体験なのである。

そもそも私は泣く子も黙る悪筆で、特に書道ともなると、よしんば筆ペンであっても、それはもう、見るに耐えない字しか書くことができない (笑)。小学生の頃の習字の授業では、墨を硯で擦って、残った墨が斜めになると心が歪んでいる証拠だと聞いて、わざと斜めに墨を擦っていたような (そして墨をズボンにボトリとこぼしていた) ひねくれ者である。そんな私でも、中国の伝説的な書家として、王羲之 (おうぎし) と顔真卿 (がんしんけい) の名前くらいは、高校時代の世界史の教科書で習って知っている。なので、この展覧会に興味を持って出掛けて行ったのであるが、実はこの展覧会、顔真卿の展覧会では全くなく、さらに広く深く、中国の書の歴史から日本の書までを広範に網羅し、実に多くの名品をずらりと揃えた、ちょっとないほど充実した、驚きの内容の展覧会なのである。ただ、この展覧会を「中国の書の歴史」とか、「書 - 波濤を超えて」とか、「愛と哀しみと青春の書」とかにするよりも、ズバリ、教科書に載っている顔真卿の名前を使う方が効果的である、という判断がなされたものと思う。そして、どの展示物も紹介する前にまず書いてしまうが、この展覧会が大混雑する理由は、上に掲げたポスターにもその写真が載っている、何やら書き間違いを訂正した作品、「祭姪文稿」(さいてつぶんこう) である。これは、台湾の故宮博物院所蔵の名だたる名品のひとつで、唐時代の末期、いわゆる安史の乱で戦死した甥を悼んで顔真卿が書いた草稿である。そこにはなりふり構わぬ哀しみが迸っていて、実に感動的。これを見るために人々はこの展覧会に押し寄せるのだ。但し、私がこの展覧会に行ったときには、開館後さほど時間を経ずして入場したはずだが、この「祭姪文稿」の展示場所に辿り着いたときには、既に 90分待ちという状況であったので、今回は残念ながら実物を見るのは諦めた。私は以前、台北の故宮博物院現地で、この書と対面しているはずであるし (恥ずかしながら記憶は不明瞭だが)、いずれまた現地を再訪する機会を持ちたいと思う。「祭姪文稿」についてはまた後で簡単に触れるとしよう。

さて、ここで私たちが見るのは、一言でまとめてしまえば、漢字の歴史である。漢字は、世界四大文明のひとつである黄河文明において成立したとされ、その時代に使われた文字として現在でも残る唯一の文字である。この展覧会で見ることのできる最初の展示物は、紀元前 13世紀、殷時代の甲骨文である。殷墟から出土した現存最古の漢字資料である由。文字通り牛革に書かれているもので、その拓本で見ると形もはっきり分かる。
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これは紀元前 10世紀、西周時代の青銅器。展示品名が難しすぎて PC で漢字変換できないので、それは諦めることとするが、ある家に嫁いできた女性が姑のために作った青銅器であるという。上の展示品とこれは、台東区立書道博物館の所蔵になり、この展覧会ではほかにも多くこの博物館から出品されていた。これほど由緒正しい名品を多く所蔵しているとは知らなかった。
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さてこれは、後漢時代、西暦 66年のもので、「開通褒斜道刻石」(かいつうほうやどうこくせき)。東京国立博物館所蔵。褒斜道という要路の修理開通を記念した銘文の拓本であるとのこと。いやしかしこれ、モダンアートと言っても通用すると思いませんか。
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次も後漢時代、153年のもので、「乙瑛碑」(いつえいひ)。魯の国の前大臣である乙瑛という人が、孔子廟内の器物を管理する役人を採用したことを述べる石碑の拓本。えっ、魯という国は、確か孔子の生まれた国ではないか。ではこれは、孔子の時代のすぐ後のものか!! と思って調べてみると、孔子が亡くなったのは紀元前 479年とのことなので、何のことはない、この石碑はそれから 600年以上経てからのもの。それにしても、この写真の左から 3行目に「孔子廟」とあるのを見ると、何やら興奮する。因みにこの書体は隷書という。この書体なら、ひとつひとつの漢字は今でも読める。
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これはあの王羲之の書の拓本。4世紀、東晋時代のもので、「十七帖 - 上野本」と呼ばれる。確かに冒頭に「十七」と見える。上野本と呼ばれるのは、朝日新聞社社主であった上野理一という人が所蔵していたかららしい (現在は京都国立博物館所蔵)。王羲之は数々の書体を使い分けたとのことだが、この字には得も言われぬ気品が漂っていることは、悪筆の私でも感じることができるのである。さすが書聖。
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これも王羲之で、「定部蘭亭序 - 犬養本」。353年という年代が分かっているが、それは冒頭の「永和 9年」らしい。ここでの犬養とは、あの犬養毅のことで、この拓本は 11世紀半ばに発見され、以来中国歴代の収集家の手を経て、彼の所蔵になったものという。同じ王羲之でも、これはかっちりとした楷書である。4世紀のものとは信じられない。
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さてこれは、拓本ではなく自筆である。所有者の記載はないが、国宝。実に、7世紀、隋の時代のもので、智永という僧侶による「真草千字分」。梁の武帝は、王羲之の筆跡から重複しない一千字を選び、それを並び替えて韻文を作らせたという。その作業に当たって一日で事を成し遂げた周興嗣という人は、その一日で、髭も髪も真っ白になったという。その千字文を、隋の時代に楷書と草書で書写したものがこの作品。それにしても、考えてみれば、こんな古代に既に、同じ字を幾通りもの書体で表すことのできた漢字とは、なんという特殊な文字であろうか。
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これは唐時代の虞世南という人の手になる「孔子廟堂碑 - 唐拓孤本」(628 - 630年)。長安に造営された孔子廟の完成を記念する碑の拓本である。実は今回の展覧会のひとつのウリは、「李氏の四宝」という、清の李宗瀚という人が集めたお宝の集結であるが、これはそのひとつ。
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この展覧会には、ごくわずかだが絵画作品も展示されている。見事だと思ったのでここに掲げておきたいのは、14世紀、元時代の郭忠恕 (かくちゅうじょ) の「明皇避暑宮図」。明皇とは玄宗皇帝のことらしい。玄宗が楊貴妃とともに遊んだのは、このような場所だったのか。私が興味深く思ったのは、このような夢想の中の建物を、あたかも見て来たかのように精緻に描く感性である。
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隋・唐の時代に活躍した書家、欧陽詢 (おうようじゅん、557 - 641) は、書の歴史において大きな功績を残した人らしい。これは 631年に書かれた「九成宮醴泉銘 (きゅうせいきゅうれいせんめい)- 官拓本」。 九成宮とは、隋の文帝が造営した宮殿を、唐の太宗が修復して与えた名前。避暑のための宮殿であったらしく、杖で地面をつつくと甘い水が湧き出てきたので、それを醴泉 (れいせん) と称し、太宗が記念碑の建立を命じたとのこと。欧陽詢は楷書で知られたらしいが、この 76歳のときの書は、「楷書の極則」と呼ばれているという。確かに、凛とした字である。
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次も有名な書家で、褚遂良 (ちょすいりょう、596 - 658) の「孟法師碑 - 唐拓孤本」(642年)。唐の太宗が王羲之に入れあげ、様々な彼の書を収集した際に、その真贋を見極めたのがこの人だという。
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これも同じ褚遂良の「雁塔聖教序」(653年)。長安に今も残る大雁塔内に建立された石碑の拓本だが、この冒頭部分には、あの三蔵法師の名がある。そう、「西遊記」で有名なあの玄奘三蔵が、インドから仏典を持ち帰ってきたことを記念する石碑なのである。恐るべし、歴史の生き証人!!
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これはその褚遂良が王羲之を書写した「黄絹本蘭亭序」。拓本ではなく直筆であるだけに、極めて貴重である。これも台北の故宮博物院に寄託されているもの。後でも見るが、今回は故宮博物院から、数々の名品が来ているのである。
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さあこれは珍しい。あの悪名高い (と我々は習う) 女帝、則天武后の書である。699年に建立された「昇仙太子碑」。周の霊王の王子であった晋という人が、鶴に乗って昇天したという逸話に基づき、その晋の廟を改築してこの碑を建てたらしい。王羲之に倣った字体とのことだが、堂々としていて鷹揚な印象を受ける。実際にはどのような人だったのだろうか。
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これもすごい。あの唐の玄宗の筆になる「紀泰山銘」(726年)。
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これだけではどのくらいの規模か分からないが、実は会場ではこの作品だけ、写真を撮ってよいようになっている。その長さ (碑の高さ) 13m。実はこの石碑は、泰山 (道教の聖地であり、世界遺産に登録されている) に現存しているらしい。以下は、私が会場でスマホ撮影した写真。
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このあと、日本にある唐時代の書がいくつも展示されていて、国宝また国宝なのだが、私好みの変化球で次に進もう (笑)。これも唐時代、9世紀の作品で、「説文口部残巻」。見ての通り、漢字辞典である。面白すぎる。
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さて、ここでようやく顔真卿 (709 - 785) の登場だ。これは「王琳墓誌 - 天宝本」(742年)。顔真卿にとっては友人の母にあたる王琳という人の墓に寄せられたもので、この墓誌は 2003年に出土したという。顔真卿 33歳、現在発見されている中で最も若いときの筆であるらしい。しかしそれにしても、なんという折り目正しい楷書体だろうか。惚れ惚れするとはこのことだろう。
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せっかくなので、ここからいくつか顔真卿作品をご紹介する。これは「千福寺多宝塔碑」(752年)。素晴らしい字であるが、会場で説明されていたことをここで記憶に従って述べると、右手に筆を持つ人は、字を書くときにどうしても右上がりになってしまう。顔真卿はそれを是正し、字の横線が水平になるように書いた。その結果、字はきっちり四角の範囲に収まり、整然とした印象となる上、同じスペースに多くの字数を入れることが可能になった。そして彼の書体が、今日ポピュラーな明朝体のもとになった、ということらしい。
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さてここで、本展覧会の目玉でありながら、上で書いた通り、私が実物に相対することが叶わなかった「祭姪文稿」(758年) から。上にも書いた通り、殺された甥への追悼文の草稿であり、ここで見る顔真卿の字は、上の 2作品に見るような明朝体のお手本とは、随分と違っていて、そこには人間の感情が迸っている。書き直しも実に生々しい。
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そしてこの部分、「嗚呼哀哉」(ああ、かなしいかな)。胸が張り裂けそうな哀しみが、文字として永遠に紙の上に残っている。
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これは「臧懐恪碑」(ぞうかいかくひ、768 - 770年頃)。唐時代の将軍の功績を称えた碑であるらしい。60代前半の顔真卿の書には、なんとも言えない清冽さがある。
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これは 771年の「大唐中興頌」。安史の乱を乗り切った唐王朝を称えるべく、岩に彫られたものらしい。顔真卿は忠臣として知られ、書をたしなむのみならず、官僚でもあり軍人でもあって、大変立派な人であったようだ (最後は奸計によって戦乱地方に派遣され、戦死したとか。但し 77歳は当時としてはかなり長生きであったろうが)。そのような人柄を忍ばせる字である。
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これは 780年に書かれた顔真卿の「自書告身帖」。官僚としての配置換えの辞令を、自分で書いているらしい。確かに真ん中あたりに「顔真卿」とあって、そのあとに「立徳」であるので、自分で自分を推薦しているのであろうか。興味深い。
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さて次は張旭 (ちょうきょく、7 - 8世紀) の書から、「肚痛帖 (とつうちょう)」。顔真卿の師にあたり、草書の聖人と呼ばれているが、酒に酔うと大声を上げて走り回り、髪を墨に濡らして書くなど、奇行が多かったという。この文には、急な腹痛に襲われたときに大黄湯 (だいおうとう) なる薬を服用したら治ったということが書いてあるらしい。うーん、変わっている (笑)。
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もっと変わった書家がいる。その名は懐素 (かいそ、8世紀後半)。顔真卿とも知り合いで、草書の神髄を彼から学んだという。また、その書は李白にも絶賛されたらしい。だが彼も、酒を飲んでは寺院の壁や塀、食器や着物などに手当たり次第に書いたので、現存作品が少ないようだ。そんな中、これも台北の故宮博物院から今回やってきた「自叙帖」(777年) は大変貴重であり、これはもう破天荒な作品である。私としては今回の出品物の中で最も面白いと思ったのがこれである。これは自らの経歴を述べるところから始まる。確かに狂草という感じだが、しかし達筆だ。
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このあたりでかなり興に乗ってきている。素晴らしい筆の運び。
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ところが最後の方では、「人は誉めてくれるけど、いやいやそんな。そんなそんな。そんなー!!!!」ってな具合で、謙遜なのだか自負なのだか分からないが、とにかく感情が炸裂してしまう。面白過ぎる。
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さて、これでもかなり端折りながら中国歴代の名筆をご紹介してきたわけだが、この展覧会で意義深いのは、日本の書の名品もずらりと並んでいることである。最後にいくつか日本の作品をご紹介したい。これはなんと飛鳥時代の国宝、「金剛場陀羅尼教巻第一」(686年)。日本で書写された最古の経典。中国の一流書家たちに比べると癖があるが、極めて貴重な遺品であることは間違いない。
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これはなんと、伝聖武天皇筆、「賢愚教残決」。もちろん国宝である。
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これは最澄の「久隔帖」(813年)。これまた国宝。最澄が残した唯一の書状である由。当時空海のもとで修業中であった泰範という自らの弟子にあてたもので、空海への質問が書いてあるらしい。日本の密教の両巨頭の交流を示す貴重な資料である。
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一方の空海は、言わずと知れた三筆のひとりと称えられる書の大家。これは「崔子玉座右銘」。重要文化財である。後漢の人、崔子玉という人の座右銘を写したもの。さすが、達筆ですなぁ。
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これも三筆のひとり、嵯峨天皇筆と伝わる「李嶠雑詠断簡」(りきょうだつえいだんかん)。国宝。初唐の政治家・詩人の詩を書写したもので、欧陽詢の字体に酷似しているそうだ。
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ついでに三筆のもうひとり、橘逸勢筆と伝わる「伊都内親王願文」(833年)。実は橘逸勢の真筆と確認できる遺品はひとつもないそうであるが、この書の場合、王羲之の字体に似ているところもあり、相当な技術をもって鍛錬された手ということで、逸勢の筆と目されてきたとのこと。
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そのほかにも、日本における王羲之や顔真卿の影響が伺われるような作品も展示されているが、かなり長い記事になってしまったので、このあたりでやめておこう。ひとつ思ったのは、日本の古い書というと、まずは経典が中心というイメージであるが、中国の場合、拓本として残っているものに、もちろん仏教寺院のものもあるとはいえ、あるいは道教であったり、または宗教と関係のない個人の業績を称えるものであったり、必ずしも宗教色の強くないものが多い。日本は中国と韓国から仏教文化を取り入れたわけであるが、その受容自体は、古代からして少し違っていたように思う。東アジアの文化は、単一なようでいて実はそうではない。ただ、漢字を取り入れた我が国においては、書というものが重要になり、そのお手本を中国の古い時代に求めたということは、何か大変に歴史のロマン溢れることのように思われる。なので、たとえ「祭姪文稿」の実物を見られなくても、この展覧会には、ほかにお宝がぎっしりである。残る 5日間の会期で、ひとりでも多くの方に、是非アジアのロマンに触れて頂きたい。

by yokohama7474 | 2019-02-20 01:46 | 美術・旅行