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クシシュトフ・ウルバンスキ指揮 東京交響楽団 (ヴァイオリン : ヴェロニカ・エーベルレ) 2019年 3月25日 サントリーホール

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クシシュトフ・ウルバンスキは 1982年生まれのポーランドの若手指揮者。彼が、以前首席客演指揮者を務めた東京交響楽団 (通称「東響」) の指揮台に戻ってくる。私は過去に何度か彼の指揮を経験しているが、なかなかに硬派な指揮者であって、強烈な表現力を伴う能力の高さは疑いがないゆえ、このコンサートを楽しみにしていた。彼の過去のコンサートで忘れられないのは、ポーランドの作曲家キラールの「クシェサニ」という交響詩。未知の作曲家の未知の曲を、それはもう快刀乱麻の遠慮のない (?) 指揮ぶりで、聴衆を圧倒した。そのあとには庄司紗矢香のソロでドヴォルザークのコンチェルトが演奏されたのだが、ドヴォルザークの地味なコンチェルトが吹っ飛んでしまうような、そんな強烈なキラールの演奏であった。それをきっかけとして私は、映画音楽 (例えばコッポラ監督の「ドラキュラ」など) を含むキラールの CD を何枚か購入したものだった。あれは 2014年 10月のことであったから、既に 4年半も経っているわけで、その間にウルバンスキ自身の活躍の場も広がっている。2017年には首席客演指揮者を務める NDR エルプフィルとともに来日したが、残念ながらそれは聴けなかったので、今回は特に楽しみだ。
クシシュトフ・ウルバンスキ指揮 東京交響楽団 (ヴァイオリン : ヴェロニカ・エーベルレ) 2019年 3月25日 サントリーホール_e0345320_08401774.jpg
彼は一見端正でスマートな佇まいを持ちながらも、上の写真でもその片鱗が見えているが、音楽の根源的な力を引き出す底知れぬヴァイタリティこそが持ち味である。現在のポストは、上記の NDR エルプフィルの首席客演指揮者のほか、インディアナポリス交響楽団の音楽監督であるが、既にベルリン・フィル、シュターツカペレ・ドレスデン、ロンドン響等と共演していて、今シーズンはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管とパリ管にデビューするというから、まさに世界の一線で活躍の場を広げているわけである。そのうちメジャーオケのシェフの地位に就くに違いないと私は思う。そんな彼の指揮するプログラム、これがまた今回の大きな期待を抱かせるもの。
 モーツァルト : ヴァイオリン協奏曲第 5番イ長調K.219「トルコ風」(ヴァイオリン : ヴェロニカ・エーベルレ)
 ショスタコーヴィチ : 交響曲第 4番ハ短調作品43

ショスタコーヴィチの問題作、交響曲第 4番は、演奏に 1時間を要する大作で、彼の 15曲のシンフォニーの中でも、最も狂乱的な強音が暴れまくる曲。自宅で CD を聴くときには、近所迷惑にならぬよう、ヴォリュームには気を付ける必要があるので (笑)、コンサートホールでオケが渾身の力で演奏するのを実体験することこそ、この曲を楽しむ最上の方法である。過去の経験から、この曲はウルバンスキの持ち味にぴったりであると思うので、これはやはり、この春の東京における音楽イヴェントとして大いなる注目に値する演奏会なのである。

だが、前半に置かれたのは、そのような大シンフォニーとは対照的な古典、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲だ。ここでソロを弾いたのは、1988年生まれのドイツの女流、ヴェロニカ・エーベルレ。私が彼女を聴くのは多分これが初めてだが、16歳の頃、2006年のザルツブルク復活祭音楽祭で、サイモン・ラトル / ベルリン・フィルとベートーヴェンのコンチェルトを弾いたという輝かしい経歴を持つ。その後もロンドン響やニューヨーク・フィル、バンベルク響等と共演し、日本でも N 響とは既に 2度共演しているし、リサイタルも何度も開いているようだ。
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今回彼女の演奏を聴いて、その美音には感心したが、正直なところ、もう少し自分の色があってもいいような気がした。モーツァルトであるから、オケとの自然な呼吸が大事であり、即興性すら欲しいところ。その点今回の演奏は、上手く歌ってはいたものの、聴いていて楽しくて仕方がないというところには至らなかったように思う。冒頭部分は弱音を非常に抑えて始まったこともあって、主部では対照的に疾走する感覚が心地よかったが、勢い余ってということだろうか、フレージングの着地がほんの僅か乱れたように聴こえた箇所が何度かあり、細かい点ではあるものの、絶美の音楽であるがゆえに、少し気になった。その点、アンコールで弾いたプロコフィエフの無伴奏ソナタの第 2楽章の一部は、エーベルレの技巧の冴えから、独特の孤独感のようなものも響いてきて、素晴らしいと思った。このエーベルレ、9月には大野和士 / 東京都響とともに、ベルクのコンチェルトを演奏するので、そちらがまた楽しみである。尚このモーツァルトの演奏において、オケはコントラバス 2本の極小編成 (より詳細には、第 1ヴァイオリン 8 : 第 2ヴァイオリン 6 : ヴィオラ 4 : チェロ 3 : コントラバス 2) であり、ウルバンスキも、長い指揮棒を持ちながらも指揮台を使わず、床にそのまま立っての指揮であった。ここでは牙を隠した (?) 模範的指揮ぶり。

さて、ショスタコーヴィチ 4番である。このブログでは、2017年 9月にヤツェク・カスプシク指揮読売日本響による演奏を採り上げたことがある。奇しくもそのときも今回も、ポーランドの指揮者による演奏なのであるが、そのカスプシクの演奏会も大変よかったが、今回のウルバンスキもそれにひけを取らないばかりか、その表現力の強烈さではさらに上を行ったかもしれない、大変な熱演であった。上記の通り、そもそもこの曲、いびつな 3楽章からなる 1時間ほどのシンフォニーだが、とりとめない音響が随所で炸裂するようなタイプの曲であり、ショスタコーヴィチは当時ソ連当局から睨まれていたために、1936年に完成したこの曲の初演は、スターリンの死後である 1961年まで実現しなかったという経緯がある。実際に今聴いても、決してなじみやすい曲ではなく、一般的にあまり人気がないのも理解できようというものだ。だが今回のウルバンスキと東響の演奏では、特に木管の各楽器がその持ち場持ち場で、曲想に合わせた多彩な音をクリアに発していて、聴いていて退屈するということには全くならなかった。ウルバンスキの指揮ぶりは今回もかなりハードなもので、曲を分かりやすく聴かせるというよりも、弱点まですべてそのまま再現するという態度であったように思う。そのフォルテシモの骨太で強烈なことは言うまでもないが、それだけではなく、多彩な音楽的情景に隅々まで光を当てるような印象であった。終結部で弦が執拗にリズムを刻みながらチェレスタが霧の中に消えて行くような場面では、そら恐ろしいような静寂がホールを満たした。ウルバンスキ、実に恐るべき若手指揮者である。東響との相性もよいと思うし、音楽監督ジョナサン・ノットとは異なる個性の持ち主であるので、彼との共演は、オケにとっても大きな刺激になるものと思う。今後も是非招聘を続けて欲しいものだ。

ところで、ショスタコーヴィチという作曲家、世界的に演奏頻度は増していることは確かではあっても、政治に翻弄されたその人生には、やはり見えにくい部分が依然として多々あり、その評価は今後も変わりうるだろう。今回の演奏会のプログラム冊子にはこの 4番のことを、ショスタコーヴィチなりにソヴィエトにふさわしいシンフォニーを真摯に模索した結果であると書かれていて、興味深い。つまり、マーラー的な音楽言語の多層性に加え、民衆的な音楽イディオムを取り入れることで、同時代的な社会性や美学的パトスを内包した「民主的シンフォニズム」が実現するという発想である由。この曲は、当局の非難を恐れてお蔵入りになった (リハーサルまで行われたが、当局の圧力もあって演奏会はキャンセルされた) という理解が一般的だが、実は音楽界はこの曲に期待していたし、作曲者にも期するところ大であったというわけである。これを読んで、ふと思い立って、随分以前に読んだ「ショスタコーヴィチの証言」(ソロモン・ヴォルコフ編) に何かヒントはないかと思って、久しぶりに書棚から引っ張り出してきた。この有名な書物の真贋については未だ曖昧な点が多いが、読んでいて面白いということでは無類である。私が持っているのはこの中公文庫 (1986年発行)。
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この本の第 4章「非難と呪詛と恐怖のなかで」の中に、第 4交響曲への言及がある。当局の非難を受け、自殺まで考えるほど追い込まれていた彼はしかし、ゾーシチェンコという、友人のユーモア作家の考えに救われ、「以前よりももっと強くなり、自分の力をもっと確信できる人間として危機をくぐり抜けることができた。敵対する勢力が、わたしにはもうそれほど全能とは思われなくなり、友人や知人たちの恥ずべき裏切行為も、以前ほど大きな悲しみを与えなくなった」。そして、「このような考えのいくつかは、もし望むなら、私の第四交響曲のなかに見いだせよう。正確にいえば、最後の部分で、このようなものがすべてはっきり表現されている」とある。そして、初演が遅れたことについて、「およそ、音楽作品を地面に埋め、時のくるのを待つという意見にわたしはあまり賛成できない。まったく、交響曲というのは中国の卵ではないのだから」と、ピータンを例に出したユーモアのある表現を使って、初演が作曲から 25年も遅れてしまったことへの不快感を表明している (笑)。うーん、このトーンからは確かに、同時代性を反映した交響曲を作曲したという意思が見える。ソ連の権力者たちが喜ぶような「社会主義的リアリズム」の作品とはとても思えないこの 4番だが、そもそもそのナンチャラリアリズムの定義自体が曖昧であったので、ショスタコーヴィチなりの表現を模索したということは言えるのだろう。ところで、そのショスタコーヴィチを勇気づけたというミハイル・ゾーシチェンコ (1895 - 1958) のユーモア小説は、日本でも翻訳が出ているようだ。今度、この 4番を BGM に、ちょっと読んでみるかな。霧の彼方に消えて行く神秘的エンディングは、敵対勢力を恐れない境地を表していると、感じることができるだろうか・・・。
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by yokohama7474 | 2019-03-26 23:09 | 音楽 (Live)