シルヴァン・カンブルラン指揮 読売日本交響楽団 2018年 4月20日 サントリーホール

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フランスの名指揮者、シルヴァン・カンブルランが読売日本交響楽団 (通称「読響」) の常任指揮者として臨む最後のシーズン、この演奏会が今シーズン初の定期演奏会になる。曲目が大変意欲的である。
 アイヴズ : ニューイングランドの 3つの場所
 マーラー : 交響曲第9番ニ長調

言うまでもなくマーラーの 9番は、この作曲者が完成させた最後の交響曲で、その内容は極めて重い。また、演奏時間も 80分に及ぶため、この曲がコンサートの曲目になる場合には、単独でその日のプログラムを占めることも多い。だがもちろん、そうばかりではなく、15分程度の曲を前座に持ってくることもある。ただそれにしても、前座に演奏するのが、例えばモーツァルトの短い交響曲などではなく、アイヴズだという点にまず、カンブルランの指向する音楽のイメージが沸いてこようというものだ。つまり、20世紀初頭にあって、それから過去に向かうロマン的なマーラーではなく、未来につながる現代性を纏ったマーラーであるということだ。これはカンブルランという指揮者の特性を考えると充分理解できること。読響との最後のシーズンにノスタルジーに浸るのではなく、複雑な音の錯綜を捌いて、このオケと築き上げてきたものを聴衆に問うものとなるだろうと思って、期待を持って出掛けたのである。
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マーラーのファンなら、彼がニューヨークでアイヴズの作品のことを知り、自ら演奏することを希望したという話を聞いたことがあるだろう。チャールズ・アイヴズ (1874 - 1954) はニューヨークに暮らした極めてユニークな作曲家で、現代音楽の先駆者であるが、その作品の特徴は、ひとつは米国の民衆音楽の断片をその素材として使っていること。もうひとつは、全く異なる要素の音楽を意想外な方法で組み合わせることである。これらの点に、マーラーの交響曲との共通点 (民俗的な要素を使ったり、神聖さと俗っぽさが瞬時に入れ替わったりという意味で) があるとは言えるであろうから、晩年に活動の場をニューヨークに移したマーラーが、このアイヴズに興味を持ったことは理解できるのである。そのアイヴズ、保険会社に勤務する傍らで作曲を行い、また作風があまりに前衛的であったせいで、ある時期までは全く音楽界から無視される存在であったようだが、レオポルド・ストコフスキーやユージン・オーマンディ、またレナード・バーンスタインらが積極的に採り上げ、今では米国の音楽史になくてはならない存在になっている。だが、日本ではその管弦楽作品が演奏される機会はそれほど多くない。恐らくは、技術的には難易度が高い割に、曲の内容にはとりとめのなさが残るので、演奏効果の点に難があるということだろうか。今回演奏された「ニューイングランドの 3つの場所」は彼の代表作のひとつで、文字通り米国東海岸のニューイングランド地方の 3つの場所を題材にしている。演奏時間は 20分弱で、作曲には 1908年から 1923年までという長い年月を要している (3曲別々に作曲されたようだが)。様々な音が混淆するその音響は、まさにアイヴズの世界。今回のカンブルランと読響の演奏は、予想通り大変にクリアな音像を提供してくれたが、ただこうして生演奏で聴いてみると、そのごった煮感を楽しめるか否かで、随分と聴き手側の受け止め方が変わってくるという思いを抱いてしまう。つまり、マーラーのような、様々な要素が組み合わさっていても聴き手を飽きさせないプロフェッショナルな音楽とは、少し違うということだろう。私は第 2曲「コネティカット州レディングのパトナム将軍の兵営」が好きで、時々冒頭部分などを無意識に口ずさむことがあるが、今回面白かったのは第 3曲「ストックブリッジのフーサトニック川」である。ここではなんと、オルガンまで使われていて、イングリッシュホルンが抒情的な旋律を吹くかと思うと、いつの間にか、まるでメシアンのように浮遊感のある音楽に変容して行く。豊かな自然に恵まれたニューイングランドの夕焼けのような音楽であり、郷愁すら覚えたのであった。ところで、ニューヨークで作曲され、やはりイングリッシュホルンで有名な曲がなかったか。そう、ドヴォルザークの「新世界から」である。この曲の初演は 1893年。アイヴズがこの曲を作曲し始める、ほんの 15年前なのである。ドヴォルザーク - アイヴズ - メシアンの系譜は、なんとも面白いではないか。そうそう、そう言えば、アイヴズと同じく、保険屋でありながら創作活動に勤しんだ芸術家がもうひとりいる。それは言うまでもなくフランツ・カフカ。アイヴズより 9歳下で、両者に交流があったとは思えないが、カフカは奇しくもドヴォルザークと同じチェコの人。それから、マーラーも、現在のチェコの地で生まれている。奇妙な連鎖を思う。これは老年に至ってからのアイヴズのカラー写真。
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さて、メインのマーラー 9番であるが、これもある意味では予想通りの演奏スタイルであったと言えようか。つまり、感傷を排し、冷徹なまでにリアリティを持つ音響世界である。激しい箇所での燃焼度に不満があるわけではなく、終結部の静寂にも聴くべきものは大いにあったと思う。決して凡庸な演奏ではない。だが、全体を通して、もっと深い呼吸で音楽が息づけば、もっとよかったのにと思う。冒頭部分から、管楽器の弱音にはいつもながら課題を感じ、激しい不協和音で音楽が大きく展開する箇所では、弦にもさらに深い表現力を求めたいと思ったのだが、結局その印象が多かれ少なかれ、最後までつきまとってしまった感がある。多分、あと何度かこのコンビでこの曲を演奏すれば、呼吸が深まってくるのかもしれないが、今回のプログラムは 1回のみである。その点は多少残念な気がした。思い返してみると、このオケは以前に、ハインツ・レークナー、ゲルト・アルブレヒトという指揮者とこの曲を演奏し、録音も残っているが、いずれも似たようなタイプの演奏であったように記憶する。このスタイル自体を否定するつもりは毛頭ないが、このような底知れぬ深い世界を抱える曲の演奏には、いかに一流の指揮者と一流のオケであっても、様々な試行錯誤の繰り返しが必要なのかもしれない。恐ろしい曲なのである。

さて、ここで一枚の写真をご紹介したい。不鮮明な古い写真だが、どうやら広い公園のようなところを、男性とその幼い娘が歩いているようだ。
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これは、グスタフ・マーラーその人と、その次女アンナ・ユスティーネ。歩いているのはニューヨークのセントラル・パークであり、1910年に撮影されたものである。彼の交響曲第 9番はまさにその 1910年、ニューヨークで浄書が完成したというから、ちょうどこの写真は、その頃に撮られたものであろう。マーラーはこの写真の 1年ほど後にこの世を去っている。第 9交響曲は彼の死後、ブルーノ・ワルターによって初演されているから、マーラー自身は実際にそれが音になったものを聴いていない。ということは、あの壮絶な音世界は、この時点では、この世界において唯一、マーラーの頭の中でしか鳴っていなかったことになる。一方、この頃アイヴズは保険稼業のかたわら作曲を続ける 36歳。時間はどの一瞬も停まることなく進み続けるが、もしかしたらこの写真が撮られたその瞬間、マーラーの頭の中には第 9番の音響が渦巻いており、同じニューヨークのその近隣では、アイヴズの頭の中で、「ニューイングランドの 3つの場所」が鳴り響いていたかもしれない。100年以上前の音響の混淆に思いを馳せると、この何気ない写真も、どこか切なく、だが高揚感のあるものに見えてくるのである・・・。

# by yokohama7474 | 2018-04-21 01:57 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

マリア・ジョアン・ピリス ピアノ・リサイタル 2018年 4月17日 サントリーホール

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前回のリサイタルを既に採り上げた、現代最高のピアニストのひとりでポルトガル出身のマリア・ジョアン・ピリスの 2回目のリサイタルである。日本でのソロ・リサイタルとしては最後になるであろう今回の曲目は以下の通り。
 モーツァルト : ピアノ・ソナタ第12番ヘ長調K.332
 モーツァルト : ピアノ・ソナタ第13番変ロ長調K.333
 シューベルト : 4つの即興曲D.935

前回のリサイタルはオール・ベートーヴェン・プロであったが、今回は前半にモーツァルトの (中期の、と呼んでよいのだろうか、彼の作品につけられた K (=ケッヘル) 番号では真ん中あたり) ソナタ 2曲、そして後半にシューベルト晩年の作品を置いたもの。前回のベートーヴェン・プロでも、後半に置かれたのは彼の最後のソナタであったので、その意味では、お互いに類似点のあるプログラムであったと言えるであろう。名ピアニストが引退を控えて行うコンサートで、しかもドイツ・オーストリアの作曲家の晩年の作を演奏するとなると、聴く方もそれなりに身構えてしまうもの。だが、前回も書いたことだが、今回もピリスの演奏には感傷はなく、ただ音楽の純粋な美を追求した演奏に、静かな感動を覚えたものである。
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実は、前回のリサイタルを聴いたのは、ステージに向かって右上の RA ブロック。もちろんステージに近いのでよく聴こえたと思ったものの、今回違うブロックで聴いてみると、ピリスのピアノは意外と音量がある。やはり RA だと、ちょうどピアノに蓋がかぶさった状態で聴くことになるせいだろうか。ともあれ今回は前回以上に細かいニュアンスを聴き取ることができて、音楽を堪能することができた。モーツァルトのソナタは、耳には平易に響くものの、本当に美しく喜悦感をもって演奏するのは、それはそれは難しいことだろうと思うのであるが、ピリスの手によって、力みも気負いもなく、だが細心の注意を伴いつつもテンポ感よく流れる音楽は、やはり尋常のものではない。そしてそこには機械的なものは一切なく、ほんのわずかなミスタッチやテンポの乱れですら、耳につくことは全くないどころか、却って音楽における人間性を自然に感じさせる、そんな演奏であったと思う。ピュアなピアノの音は、人の心まで澄んだものにしてくれると思う。本当に、終わってしまうのがもったいなく、いつまでも響き続けて欲しいモーツァルトであった。

後半のシューベルトの「4つの即興曲D.935」は、死の前年、1827年に書かれたもので、文字通り 4つの曲からなる 40分ほどの曲。即興曲とは、シューベルトに何曲かの曲集がある以外は、ショパンにも少しはあるものの、それほどポピュラーな曲の形態ではない。文字通り即興的に自由に作曲されているという意味での命名だろうが、ピアニストが即興で演奏する曲ではない。4曲セットで、まるで 1曲のソナタとみなせるという説もあるようだが、自由に書かれた曲だから、聴く方も自由でよいのではないか。第 3曲が、有名な「ロザムンデ」の間奏曲がテーマとなった変奏曲であることもあり、親しみやすさが随所に聴かれる曲集であるが、そこはやはり晩年のシューベルトのこと。不思議な音響空間が現出する瞬間もあり、自由な感性を持つピアニストでないと、なかなか成功しない曲ではないだろうか。その点ピリスの演奏にはこの上ない自由さがあり、ここでもピュアな音が、説得力を持って響いていた。もっと輝かしい音を聴かせる人や、粒立ちにおいても、さらに繊細なものを持っている人はいるだろう。だが、ピリスという音楽家がそこにいてピアノを弾くだけで、音楽の純粋な美が立ち現れるという点に、彼女の非凡さがある。これを実演で耳にすることができた聴衆は幸せであった。今回もアンコールが演奏されたが、それは、同じシューベルトの「3つのピアノ曲 D.946」の第 2曲変ホ長調。これは、シューベルトの作品番号である D (= ドイチュ) 番号では「4つの即興曲」より少しあと、死の半年前の作品であって、これもまた即興曲を集めたものなのである。実は今回ピリスは、4/12 (水) の演奏会では、「テンペスト」の代わりにこの「3つのピアノ曲 D.946」を弾くと発表されていたが、曲目変更になったもの。当然ピリスのレパートリーには入っているのであろう。コンサート・プログラム本体に続いて同じシューベルトの即興曲が演奏されたわけで、大変に座りのよいアンコールであった。

こうしてピリスの日本でのソロ・リサイタルは終了した。残すは、ブロムシュテット / N 響と共演するベートーヴェンの 4番のコンチェルトと、弟子であるリリット・グレゴリアンとのデュオ・リサイタルのみである。私は幸いなことにコンチェルトを聴くことができるので、是非楽しみにしたい。ところで、これほどの名ピアニストが引退するに際し、何かコメントの発表はないのだろうか。会場では有料プログラムは販売されておらず、薄く小さな配布プログラムのみで、そこにはインタビューの類は掲載されていない。今年 1月の「音楽の友」誌で彼女の引退について特集が載っていたようだが、それは読んでおらず、ネットで情報を取ろうとしても無駄であった。そこで英語で探してみると、ひとつだけ、極めて簡略だが興味深いピリスの発言が見つかった。これは今年の 4月 4日付だから、かなり最近の、Rhinegold Publishing という、英国の音楽関連出版社のサイトに出ているものだが、もともとは Platea というスペイン語の雑誌に掲載されたインタビューのようである。"Platea Magazine" で検索すると、その雑誌のサイトが見つかり、ピリスのインタビューも読むことができる。・・・但しスペイン語が分かればだが。
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ここでは、上記 Rhinegold Publising のサイトにおける英語での一部引用から、私が勝手に訳してご紹介しよう。衝撃的発言である。

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つまるところ、ピアノ自体が、私が引退する主な原因です。私はこれまで、決してピアノ ("him" と表現) とよい関係を築けたためしがありません。いや、もちろん、引退には複数の要因があります。自分自身のためにもっと時間が必要だし、コンサート活動に追われることのない人生も欲しい。でもやはり、ピアノという楽器自体が、決して私になじもうとはしてくれなかったことが、最大の理由なのです。
UNQUOTE

これは一体どういうことだろう。世界が称賛するピアニストが、ピアノになじむ (原文では "adapt") ことができなかったとは・・・。私が上で記した感動は、一体なんだったのか (笑)。多分、全文を読んでみるともう少しピリスの意図が分かるのではないかと思うのだが。いつかピリスの引退を巡る発言がもう少し日本にも紹介されることを祈って、ここは一旦〆ることとしましょう。

# by yokohama7474 | 2018-04-18 01:22 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

ヘルベルト・ブロムシュテット指揮 NHK 交響楽団 2018年 4月15日 NHK ホール

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NHK 交響楽団 (通称「N 響」) の定期公演である。あれ、そういえば先月は N 響の定期って聴いたっけな、と疑問に思って調べてみると、やはり 3月には定期公演はなく、月のはじめには、このブログでも採り上げた、パーヴォ・ヤルヴィ指揮による「ウェストサイド・ストーリー」の演奏会形式上演を済ませ、月の半ばと後半には、中国地方と東北地方に演奏旅行に出かけている。前者では、なんと先日読響を代役として指揮したステファン・ブルニエが 4公演で指揮を採り (N 響との地方公演終演後にちょうど読響の演奏会があるというグッドタイミングであった模様)、後者の指揮は尾高忠明であった。そうして N 響は、東京・春・音楽祭でワーグナーの「ローエングリン」を 2回演奏。定期公演はなくとも、充分すぎるほど多忙な日々であったわけである。どうやら近年の N 響の 3月は、毎年そのように、定期公演のない活動ぶりであるようだ。そして今月、2ヶ月ぶりの定期公演の指揮台に立つのは、桂冠名誉指揮者のヘルベルト・ブロムシュテット。あと 3ヶ月で実に 91歳 (!!) になる、文字通り現代指揮界の最長老である。
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このブログでは過去何度も彼の演奏会を採り上げてきたが、今回もこうして元気な姿を東京の聴衆の前に現してくれて、本当に嬉しいことである。今でも彼は、ステージの袖から指揮台まで何度も往復するし、何より、終始立ったまま精力的に指揮するのである。これは実に驚異的なこと。だが私は、演奏家の年が何歳であれ、よい音楽を聴かせてくれるかのみが、その演奏家を聴きたいと思う唯一絶対の理由なのだ。私がブロムシュテットのコンサートに行きたいと思うのは、そこでは素晴らしい音楽を聴くことができるだろうという期待があるからにほかならない。今回の N 響定期の 3つのプログラムは、指揮者いわく、ベートーヴェンをテーマにしたものらしい。だが待て。ほかの 2つのプログラムは文字通りベートーヴェンの曲ばかりだが、今回はそうではなく、以下のようなもの。
 ベルワルド : 交響曲第 3番ハ長調「風変わりな交響曲」
 ベルリオーズ : 幻想交響曲作品14a

もちろん後者はフランス・ロマン主義を代表する破天荒な作曲家の破天荒な曲で、かつ大人気のシンフォニー。今年に入ってからの東京でも、既に何度も熱演、名演、爆演が鳴り響いている曲である。そして前者、フランツ・アドルフ・ベルワルドは、もしかすると一般にはなじみのない名前かもしれないが、ブロムシュテットの祖国スウェーデンの作曲家 (1796 - 1868)。いわゆる初期ロマン派に属する作曲家で、ベルリオーズの 7歳上。つまりこの 2人は、国や作風は異なれど、ベートーヴェン (1770 - 1827) の影響下に創作活動を展開した人たちなのである。ベルリオーズもそうだが、ベルワルドも写真での肖像を残している。
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ベルワルドのシンフォニーは 4曲あるのだが、私は学生時代に、ネーメ・ヤルヴィ指揮エーテボリ交響楽団による 2枚組の全集で、ある程度親しんだものだ。「ある程度」と書いたのは、特に夢中になって入れ込んだということでもなかったからであるが (笑)、それでも、この第 3番 (今回は「風変わりな交響曲」となっているが、この CD では原題をカタカナで表記した「サンギュリエール」になっている) は、最初に収録されているので、何度かは聴いたものだ。それから、鬼才イーゴリ・マルケヴィチがベルリン・フィルと録音した 3番・4番もその後聴いているが、それが私の知っているベルワルドのすべてである。N・ヤルヴィの録音は、こんなジャケットだった。
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今回の第 3番の演奏は、ブロムシュテット自身が校訂した版による演奏であり、祖国の作曲家への彼の尊敬の念がよく分かる。今回の演奏では、後半の「幻想」も同じであったが、譜面台に小さなスコア (だと思う。まさかバイブルではないだろう 笑) を置いてありながら、全くそこに手をつけることもなく全曲暗譜で指揮した。そしてその音楽のなんと活き活きしていること!! 冒頭のウネウネする主題は、耳には残るがそれほど魅力あるものではない。だがブロムシュテットは、その冒頭部分から極めて真摯に音楽を解きほぐし始め、すがすがしい規律とでも言える流れを、巧まずして生み出していた。先日の「ローエングリン」に続いてライナー・キュッヒルをコンサートマスターに迎えた N 響は、今回も力強さと美しさを兼ね備えた素晴らしい演奏で、ブロムシュテットの期待に応えた。この曲の第 2楽章ではアダージョとスケルツォを組み合わせるというユニークな方法が取られているが、慣れない曲とは思われないような堂に入った進み方である。そして、終楽章である第 3楽章の、冒頭の力強さには驚かされた。そうそう、初期ロマン派の曲なのに、コントラバス 8本を使い、存分にオケを鳴らしているのである。ティンパニの打ち込みも強烈。このような演奏で聴くと、曲そのものが偉大に響く。これは得難い経験であった。

後半の「幻想」は、ブロムシュテットのレパートリーの中核をなすものとは思えないが、既にシュターツカペレ・ドレスデンを指揮したライヴ盤もあり、それは1978年と、40年も前の録音だし、2014年にベルリン・フィルでも指揮している (ちなみにベルリン・フィルとは、ベルワルドの 3番も、2016年に演奏している)。上記の通り暗譜で振り通したブロムシュテットの「幻想」、決して爆演ではなく、あえて言えば古典的な交響曲の様相を呈した、折り目正しい演奏であったと言えようか。そのひとつの証左は、第 1楽章はもちろん、第 4楽章でも、反復を励行していたことである。ここでの第 4楽章の反復とは、断頭台への行進曲が二度あるということだ (笑)。この曲のおどろおどろしい標題性を重視するなら、ここの反復は省略するであろうし、そのような演奏が多い。だが、この破天荒な曲にも古典派からロマン派への移行を読むとすると、楽譜の指定通り、反復を行うことに根拠はあるわけだ。このようなブロムシュテットの手にかかると、異端の作品である「幻想」ですら、純粋な音のドラマとなる。もちろん迫力に不足することもなく、聴いていて胸がスカッとするようであった。ここでもオケは大健闘。第 1楽章のラスト手前で木管にほんの少し乱れがあった以外は、自信に満ち、老巨匠の音楽の忠実なしもべたらんとする演奏態度に終始して、感動的であった。素晴らしい充実感であったのである。

そんなブロムシュテットは、動きを見ていると体調は全く万全であろうから、残る 2つのベートーヴェン・プログラムも楽しみなのである。さてここで、ひとつオマケネタ。今回の演奏を聴いているときに、何やら私の記憶の中で、以前ブロムシュテットが N 響でベルワルドの曲を指揮したことがあるのではないか、という思いが疼き出した。そこで帰宅して手元のアーカイブを調べて判明したことには、やはりあった。演奏したのは第 4番変ホ長調であり、1991年 3月20日の演奏が、当時生放送された。以下がその映像である。
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なるほど、ブロムシュテットは今でも異様に若いと思うが、これを見ると、27年前はやはり、もっと若い!! それから、今と違うのは、ヴァイオリンの左右対抗配置を取っていないことと、指揮棒を使っていること。そして、上の写真で明らかな通り、この時も暗譜による指揮であるが、今回と違って譜面台すら置いていない!! あ、それから、これは 3月に行われた定期公演だから、当時の N 響は 3月にも定期を行っていたことも分かりますな。うーん、東京の音楽シーンが侮れないのは、今に始まったことではないと、改めて感じる次第であります。

# by yokohama7474 | 2018-04-16 01:00 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団 2018年 4月14日 サントリーホール

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東京交響楽団 (通称「東響」) も、今月新たなシーズンを迎える。今回指揮台に立つのはもちろんこの人、英国の名指揮者であるジョナサン・ノットである。
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今回の曲目は、なかなかにハードなもので、以下の通り。両曲とも譜面台も置かない暗譜での指揮で、しかも指揮台には手すりもない。まさに指揮者のすべてがさらけ出されるような演奏会である。
 マーラー : 交響曲第 10番嬰ヘ長調から第 1楽章アダージョ
 ブルックナー : 交響曲第 9番ニ短調

クラシックファンなら一目瞭然であるが、この 2曲の共通点は、ともに未完成であること。しかも、作曲者の死がその完成を阻んだという点も同じである。シーズン最初の演奏会で、死によって中断された重い内容の未完成作を並べてくるとは、ノットの並々ならぬ意欲を感じることができるではないか。因みにブルックナーとマーラーは36歳違いと、親子ほども年が離れているが、この 2人は師弟関係にある。だが、ブルックナーの死は 1896年、マーラーの死は 1911年である。その差僅かに 15年。よって、今回の 2曲は、実は、ほとんど同時代音楽と言ってもよいほど作曲年代は近いわけである。このことは意外と認識されていないのではないか。だが時代はまさに大きな転換期。後期ロマン派の終焉、世紀末文化の終焉、大国ハプスブルクの終焉。そしてその後には、モダニズムと戦争の時代が迫っていたのであった。これは現在リンクと呼ばれるウィーンの環状道路 (もともとあった城壁を壊して造営された) の整備途中の写真。国会議事堂や、そのむこうに市庁舎が見える。現在ではリンクを彩る様々なスタイルの建物群の一部としてよく知られたこれらの建物は、ともに完成は 1883年だから、ブルックナーもマーラーも、このような光景を見たはずだ。
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さて、マーラーの 10番は、作曲者が生への憧憬と告別を壮絶な音のドラマに仕立てた第 9番の次に来るべき作品であった。私の以前からの解釈では、第 9番で現世に対する惜別を果たしたマーラーは、この第 10番ではついに、死後の世界に足を踏み入れようとしたのではないか。残されたかなりの量のスケッチをもとに全曲を復元した版もあれこれあり、それらはマーラーの手で完成されたものではないと分かっていても、この曲に憑りつかれた作曲家の姿が浮き彫りになっているので、本当に感動的なのである。それに対し、10番については、補完された完成版ではなく、作曲家自身の手になる第 1楽章アダージョだけしか採り上げない指揮者も多くいる。それは、この楽章だけでも充分コンサートでの演奏に耐える内容を持っているからだ。さて今回の演奏を聴きながら舞台を見渡していて気づいたことがある。この 30分弱の極めて美しい楽章においては、ティンパニは使われていない。それどころか、ホルンを除く金管楽器は、後半のクライマックスである強烈な不協和音が鳴り響く箇所にのみ参加。ということはこの音楽、その多くの場所において、拍節感もないまま、弦楽器が延々と音を紡いで行くという種類のものなのである。もちろん、木管楽器が死の舞踏のようなシニカルな情景を描き出す箇所もあって、それは実にマーラーらしい。そんな複雑な内容の曲であるが、ノットと東響の今回の演奏は、ロマン派の残滓というイメージよりも、20世紀の音楽につながるような先鋭的な要素を強調したものであったように思う。それだけに、例えば冒頭のヴィオラの諦観などにはもう少し暗い情念があってもよいように思ったし、全体的に、絶望による音の進みの力感はあまり感じられなかった。もちろん、音楽の表情の陰影の濃い点にはさすがのものはあったが、この曲の持つ本当の怖さには、今一歩肉薄しきれないもどかしさも感じた点は否めない。

その点、後半のブルックナーの方が、強い説得力のある演奏だったのではないだろうか。ノットの演奏スタイル自体がもともとブルックナーに合っているというイメージはあまりないものの、ここでは隅々までクリアに音が鳴り渡り、音の進みに大変な切実感が感じられた。特に木管楽器の細かいニュアンスが随所において抜群であり、そこに弦や金管の深くかつ輝かしい音が相まって立ち昇る音楽の神々しさには、実に瞠目すべきものがあった。これは、スタイルがロマン的とか現代的とかいう問題を超えて、とにかく音楽それ自体に語らせたような演奏であり、それゆえに深く人々の心に残ったことであろう。ノットと東響も、いよいよ関係が深まってきて、お互いの呼吸がよく合ってきたということだと解釈したい。ここでふと思い立って、このコンビによる同じブルックナーの 8番 (ライヴ盤もリリースされている) を以前聴いたことを思い出し、自分の記事 (2016年 7月11日付) を読み返してみた。そこで私は、演奏の流れのよさには賛辞を捧げながら、いわゆるブルックナーらしい壮絶な神秘性には留保を残している。そう思うと、それから 2年弱の間にこのコンビはやはり関係を深めてきたからこそ、今回の 9番の名演を成し遂げたということであろう。演奏が終わったあとの静寂と、そこから嵐のような拍手が起こる間の、今度は聴衆の側の呼吸も素晴らしかった。今回の演奏は NHK が収録していたので、今回実演で聴けなかった方には是非放送で味わってほしいものである。

こうして東響の新シーズンが始まったわけであるが、今シーズンのプログラムを見てみると、例年にも増して意欲的な曲目が並んでいる。ノット自身は、エルガーのオラトリオ「ゲロンディアスの夢」や、ヴァレーズの「アメリカ」、シュトラウスの「英雄の生涯」などを採り上げ、その他、飯森範親、秋山和慶、ユベール・スダーン、ダン・エッティンガー、クシシュトフ・ウルバンスキらがそれぞれに個性的なレパートリーを演奏するので、どれも楽しみだ。音楽監督として 5年目を迎えたノットの言葉をご紹介しよう。

QUOTE
世界はデジタル化が進み、テクノロジーは進歩していますが、演奏会での実体験はホールでしか味わうことができません。我々の演奏をもっと身近に感じて頂き、たくさんの音楽体験をより多くの皆様と分かち合いたいと考えています。演奏会でお会いできることを楽しみにしています。
UNQUOTE

おっと、NHK の放送だけでは充分でないと、マエストロご本人が言っておられます (笑)。では是非この冊子で、今シーズンの東響の充実ぶりを予感して頂き、ホールに足を運んで頂ければと思います。東京の音楽文化の重要な部分をここに聴くことができるのは、間違いない。
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# by yokohama7474 | 2018-04-15 23:20 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

オッコ・カム指揮 新日本フィル (フルート : 白尾彰) 2018年 4月14日 すみだトリフォニーホール

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まあこれは偶然と言えば偶然なのであるが、この記事の内容と直接関係のない前項の記事、つまり映画「トゥームレイダー ファースト・ミッション」に続いてここでも私が語り始めるのは、北欧についてなのである。そう、この日の新日本フィルハーモニー交響楽団 (通称「新日本フィル」) の演奏会では、指揮者も北欧の人なら、作品もすべて北欧のもの。まさに北欧スペシャルのこのコンサートを指揮したのは、フィンランド生まれの名指揮者、オッコ・カムである。
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1946年生まれなので今年 72歳になる。私の世代のクラシック・ファンにとっては、1969年の第 1回カラヤン指揮者コンクールの優勝者として認識されている指揮者である。だが彼のその後のほぼ半世紀に亘る活躍は、客演では様々な世界トップクラスのオケを指揮していながらも、現在のラハティ交響楽団の首席指揮者というポジションに至るまで、そのポストのほぼすべてが、母国フィンランドまたはスカンディナヴィア三国のいずれか、つまりは北欧内に留まっているのである。このブログでも、2015年11月にその手兵ラハティ響を指揮した驚くべき演奏会をご紹介した。その後カムは、神奈川フィルに客演した機会もあったが、私はそれを聴けなかった。なので今回、新日本フィルの定期に登場すると知って、これはなんとしても聴きたいと思ったのである。その曲目は以下の通り。
 サッリネン : 歌劇「宮殿」序曲
 ニールセン : フルート協奏曲 (フルート : 白尾彰)
 シベリウス : 交響曲第 2番ニ長調作品43

なるほど。サッリネンとシベリウスは、指揮者カムと同じフィンランド人。ニールセンはデンマーク人。因みに前項の「トゥームレイダー ファースト・ミッション」では、監督がノルウェイ、主演がスウェーデンだから、前回・今回の 2回の記事で、北欧の主要な国は揃ったことになる (バルト三国はここには登場しない)。だが、今回のようなコンサートを聴いていると、とにかくどの国で生まれた音楽であろうと、現代の日本に住む我々を感動させてくれるだけで、本当に素晴らしいことだ。まず最初のアウリス・サッリネン (1935年 - ) は、既に 80歳を超えているが、未だ現役の、現代フィンランドを代表する作曲家である。
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私は彼のシンフォニーや管弦楽曲を過去に聴いたことがあり、オペラも、「赤い線」という作品の映像を以前録画したことがある。その作風は大変穏健で、誰が聴いても楽しめるようなもの。今回演奏された曲は、1995年にフンランドの湖上の音楽祭として知られるサヴォリンナ音楽祭において、今回の指揮者オッコ・カムによって世界初演されたオペラの序曲。エチオピア皇帝とその周りの人々を描いたものというから、およそ北欧とは縁遠い物語であるが (笑)、音楽は大変平易であり、かつクリア。大変楽しめるものであった。それにしても、本拠地すみだトリフォニーホールで聴く新日本フィルの響きは、いつもながらに素晴らしい。このオケの発展において、このホールは欠かせないものであると再度実感するのである。
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2曲目は、このオケの首席フルート奏者であり、長年に亘って楽団の顔であり続ける白尾彰を独奏に迎えての、ニールセンのフルート協奏曲。
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カール・ニールセン (1865 - 1931) は、5曲の交響曲を中心として、私も大変好きな作曲家であるが、このフルート協奏曲は 1926年という晩年の作。2楽章からなり、第 1楽章ではフルートとオケの掛け合いに、果てしなくクリアな北欧の空を思わせる、ニールセン独特の音空間が広がる。さすがにこのオケの首席、白尾のフルートはオケとの調和は抜群で、真面目でありながらかつ自在なものであったと思う。実に素晴らしい演奏であった。

そして後半は、これぞ北欧作品の最高峰で、シベリウスの文字通りの代表作のひとつである交響曲第 2番だ。上で書いた通り、カムが活躍しているのは主に母国フィンランドとその周辺であるが、そんな彼が一歩国外に出れば、宿命的に演奏しなければならないのが、フィンランドの国民的作曲家であるシベリウスである。これまでのキャリアで彼は、何度この第 2交響曲を演奏して来たことであろう。だがそこはさすがにカムである。聴衆も既に馴染みがありすぎ、指揮者自身もうんざりするほど演奏した曲でありながら、北欧の澄んだ空と、作曲当時のロシアのフィンランドへの圧政という社会情勢を、ともに感じさせる要素のある演奏であったのではないか。ここで新日本フィルは、徒らに激することなく、極めてプロフェッショナルにカムの要請に応え、美しい演奏を成し遂げた。弦楽器の味わいもさることながら、緊密な木管、細かいニュアンスから延々と続くクライマックスでの炸裂まで、見事に演奏した金管も素晴らしかった。ただ、何度かの瞬間には音の美感に課題が残ることもあったのも事実。日本のオケがこれから本当に世界のトップクラスを目指すのであれば、このようなほんの些細な課題をひとつひとつクリアしていかなければなるまい。そんなことを思ったのも、この演奏の高いクオリティには、さらに高まる余地があることを思ったからである。そのためには、このカムのような優れた手腕を持つ指揮者との共演は、極めて意義深いことである。

さて、終演後にサイン会が開かれたので参加した。会場で販売していたカムの CD のうち、エーテボリ交響楽団を指揮したグリークの交響曲を購入したが、CD の解説にはサインをもらうのに適当な場所がなかったので、プログラムにサインをしてもらった。このときカムは、終演後さほど時間をかけずに登場し、係の人が慌ててテーブルと椅子を用意することになった。これがサイン会の様子と、私がもらったサイン。ちゃんと目を見ながら、"Great performance, Maestro!!" と声をかけると、"Thank you!!" と嬉しそうであったが、何人もの人たちが写真を撮り始めると、「パパラッチ!!」と冗談を言っていた。
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このように素晴らしい演奏会であったのだが、もし新日本フィルがまたこの指揮者を招聘するようなことがあれば、シベリウスではない、何か違ったレパートリーを指揮してくれないものだろうか。例えば、ブルックナーなんて面白そうではないですか。フィンランドの指揮者だからシベリウス、という看板はあってもよいだろうが、そこから外れたレパートリーに、実はカムの実力が発揮されるということもあるかもしれない。そのような演奏会を聴いてみたいものだ。

# by yokohama7474 | 2018-04-15 00:23 | 音楽 (Live) | Comments(2)