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米国の名門オケ、ロサンゼルス・フィルハーモニックは今年創立 100周年を迎える。それを記念して、音楽監督グスターボ・ドゥダメルとともにアジアツアーを行っており、東京ではサントリーホールで 2公演、加えて NHK ホールでの NHK 音楽祭の一環としてのコンサート、さらには、前回の記事で触れた通り、このオケの奏者たちとピアニストのユジャ・ワンとの共演で、室内楽公演がある。実は日本に来る前にはソウルで (室内楽を含む) 3公演をこなしてからの来日であり、日本国内では地方公演はない。ベネズエラ出身で、20歳そこそこの若い頃から天才の誉れ高いドゥダメルは、今では頭に霜を置くようになってはいるものの、未だ 38歳。やはり指揮者としては依然として若手と呼ぶべき年齢である。このロス・フィルの音楽監督の地位は 2009年から務めているが、前回の来日公演でのマーラー 6番や、いくつかの録音・録画で知る限り、この両者の相性はかなりよいものであると私は思っている。
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だがその一方で、正直なところ、若き日に鳴り物入りでマーケットに出てきた天才が、いつまでも天才であり続けることは、存外に難しい。例えば最近私は、レコード芸術誌の海外レポートの欄で、彼の演奏に対する驚くほど厳しい評価を目にした。要するに、音は鳴っているけれども、作曲家が曲に託した内容をまるで理解できていない、という論調であった。きっと世界中のドゥダメル・ファンはこのような評価に異を唱えるであろうが、天才とても人の子。当然スランプもあれば、芸術上のスタイルの変化もあることだろう。このタイミングでこのドゥダメルとロス・フィルを生で聴けるという貴重な機会に、自分なりにそのあたりを考えてみたい。というわけで、今回の曲目は以下の通り。
 ジョン・アダムズ : Must the Devil Have All the Good Tunes? (ピアノ : ユジャ・ワン 日本初演)
 マーラー : 交響曲第 1番ニ長調「巨人」

ここでひとつ興味深いのは、ちょうど前日同じサントリーホールで行われたファビオ・ルイージ指揮デンマーク国立響の演奏会では、デンマークのソレンセンという作曲家の近作が日本初演された。その翌日のこのコンサートでは、今度は米国を代表する作曲家であるジョン・アダムズのやはり近作の、日本初演である。これは、演奏する側も企画する側も、東京ではこのような曲目を採り上げても集客が期待できると見込んでのことだろう。生まれたての現代音楽を耳にすることは、既成名曲を繰り返し聴くだけでは得られない新鮮な喜びと意義があり、私としては大賛成だ。しかもそこでソロを弾くのが、あのユジャ・ワンとなると、やはりこれは聴き物である。
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ジョン・アダムズは 1947年生まれなので、現在 72歳。いわゆるミニマル・ミュージックの作曲家と目されることもあるが、そのスタイルをミニマルに決めつける必要はもはやなく、米国を代表する作曲家である。日本でも彼の作品に接する機会は、存命の作曲家としては異例に多い。彼の音楽は平明さを持ち、充分に美しいがゆえに、支持されているのだろう。今回演奏された曲は、原題のまま表記されているが、直訳すると「悪魔はすべての名曲を手にしなければならないか?」というもの。アダムズ自身の言によると、以前雑誌「ザ・ニューヨーカー」に載っていた、社会活動家ドロシー・デイに関する記事にあったフレーズであるとのこと。このドロシー・デイ (1897 - 1980) については私も全く知識がなかったが、調べてみると、Wiki にも詳しい日本語の記事がある。キリスト教社会主義の立場を取った、ブルックリン出身の女性活動家。アダムズはこの題名から、ヨーロッパ中世以来のイメージである「死の舞踏」を思い浮かべたが、それを米国風にファンキーにする (原語では、"a funk-invested American style") ことにしたとのこと。なるほど、面白いイメージである。もともとヨーロッパでは、音楽は人間を誘惑するものとされていたので、つまり、悪魔が人間を誘惑するには音楽を使うわけだが、悪魔にしてみれば、そんなにあれこれ名曲を手元に用意しておかずとも、人間なんて簡単に誘惑される存在だ、と、そんな意味のフレーズなのだと解釈した。これは、ハンス・ホルバイン描くところの「死の舞踏」(Totentanz)。
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この曲はアダムズにとって 3曲目のピアノ協奏曲で、ロサンゼルス・フィルの委嘱によって書かれており、このユジャ・ワンとドゥダメル / ロス・フィルによって、今年の 3月 7日に世界初演がなされたばかり。ということは、この演奏会から遡ること、ほんの 2週間弱である。まさに出来立てホヤホヤのコンチェルトなのである。曲は切れ目なしに演奏される 3楽章からなり、全曲 30分ほど。構成は伝統的な急 - 緩 - 急で、アダムズらしく聴きやすい音楽である。最初の部分はピアノを打楽器風に使っていて、ちょっとストラヴィンスキーの 3楽章の交響曲を思わせる。オケの編成を見てみると、金管にチューバを欠いているが、その代わりにベースギターがよく低音を響かせていて、ユニークな響きになっていた (解説には、途中で「ピーター・ガン」のテーマが出て来るとあったが、いかにもそんな感じの曲調)。ユジャ・ワンについてはこのブログでも過去何度も採り上げてきたが、最近聴いたブラームスの 2曲のコンチェルトでは、もうひとつ圧倒的な迫力を感じない物足りなさがあった。その点このような曲では、実に自由奔放な演奏を展開していて、抒情的な部分も含め、さすがと思わせるものがあった。面白かったのは、彼女はいつもの通りタブレットを (今回はピアノの中ではなく譜面台に) 置いていたが、手を触れることなくそのページがめくられていた。演奏開始前に係の人が、何やら足元に置いていたので、ペダルを使ったということだろうか。ついにピアニストも、通常のピアノのペダル以外のペダルを操作しないといけない時代になったのか ? (笑) そして驚いたことには、(客席からステージに上がる階段が設置されていたので最初から予想はできたが) 作曲者ジョン・アダムズ自身がステージに登場し、拍手を受けていた。私は日本だけでなくニューヨークでも、彼の新作・旧作を聴いたことが何度かあるが、本人がステージに出て来たのを見た記憶はない。実はアダムズは 2009年からこのロス・フィルの Creative Chair というポジションを持っているようで、つまりは楽団関係者ということもあって、今回はツアーに同行しているということだろうか。それにしても、前日のソレンセンに続き、2日連続の日本初演には、ともに作曲家が臨席するという事態は、なんと素晴らしいことか。尚、今回ユジャはアンコールを弾かなかったが、ロスでの初演の際には、同じアダムズの旧作 "China Gates" を弾いたようだ。これは少し残念だが、コンチェルトの演奏には作曲者も満足そうではあった。
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そしてメインの「巨人」である。昨年からこの曲を聴く機会が多く、正直少し食傷気味ではあるのだが、やはりこのコンビで聴いてみると、引き込まれて聴いてしまう。もともとロス・フィルは以前からクリアでパワフルな音を出すオケであるが、その点においてドゥダメルとの相性もしっかりしている。ドゥダメルの解釈は非常にメリハリを強調するもので、冒頭の朝の霧のような音楽は繊細かつ持続力を持って表現し、そして音響の盛り上がりと感情の盛り上がりが、しっかりとリンクしている。第 2楽章のテーマは過剰なほどにデフォルメされており、低音が唸る。これによって中間部との対照が強烈となる。第 3楽章でも、葬送行進曲の荘重さと、後半に出て来る飛び跳ねるような諧謔の音楽との対比は、実に残酷なほど。そしてもちろん、終楽章の長い長い嵐も、ひたすら次を目指す音楽の推進力に支えられて続いて行き、ついにあの熱狂の終結部へ。最後はもちろんホルン奏者 (8人!!) が起立していたが、時折あるようなトランペットとトロンボーンの一部を伴うようなことはなく、起立はホルンだけで、そして、一度起立したら途中で座ることなく、最後まで立って演奏した。私はこの方法が好きである。それにしてもドゥダメルという指揮者、聴き手を熱狂に導く特別な力を持っていると以前から感じているが、その点ではやはり疑いなく第一級の才能である。上で述べたような「音楽の内容」云々についての彼への疑問の声は、かつてもいろんな指揮者についてあったし (カラヤンなどその最たるもの)、指揮者の持ち味も、経験と年齢によって変わって行くもの。これからも毀誉褒貶があるだろう。その時々の演奏内容がよくないことがたとえあったとしても、聴き手としては、これからも真摯に彼の活動に向かい合って行くだけの価値を持つ偉大な才能であると、私は思う。

結局この日は、オケによるアンコールもなし。だが、コンサート本体が充実したものであれば、それでも大いに結構ではないか。

# by yokohama7474 | 2019-03-21 11:27 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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この日、3/19 (水) は、サントリーホールは大賑わいだ。同じ 19時開演で、大ホールではこのコンサートが、小ホールであるブルーローズでは、これもまた来日中のロサンゼルス・フィルの奏者とピアニストのユジャ・ワンによる室内楽のコンサートが開かれていた。実は私は、ろくに日程も確認せずに両方のチケットを買っていたのであるが、よくよく考えた上で、こちらのコンサートを選択した。それにはいくつか理由があるが、やはり最大の理由は、イタリアの名指揮者ファビオ・ルイージが首席指揮者を務めるデンマーク国立交響楽団の初来日という点である。デンマークと言えば、たまたまつい最近、「THE GUILTY ギルティ」というデンマーク映画をご紹介したし、その記事の中で、同国の神秘的な画家、ハンマースホイにも言及した。また音楽に関しては、これも最近の記事で採り上げたシェーンベルクの「グレの歌」の舞台がデンマークであるし、また、カール・ニールセンという近代の作曲家がこの国の誇りである。そうそう、ニールセンと言えば、昔バーンスタインがこの作曲家の交響曲第 3番をデンマークのオケと録音していたが、それは別の団体で、デンマーク王立管弦楽団。この王立管弦楽団はその後、フィンランドの巨匠パーヴォ・ベルグルンドとともにニールセン全集を録音していたりもするわけだが、調べてみるとそちらは、コペンハーゲンのオペラハウスのオーケストラで、その母体の設立は実に 1448年に遡る、世界最古のオケであるという。一方、今回ルイージとともに初来日を果たしたこの団体は 1925年設立で、デンマーク放送協会のオーケストラ。国内ではデンマーク放送 (DR) 交響楽団として知られているらしい。ルイージは 2016年から今の地位にあるが、前任者は日本でもおなじみだったラファエル・フリューベック・デ・ブルゴス。その前はトーマス・ダウスゴーだ。また、楽団にとっての「中興の祖」はブロムシュテットであるらしい。そもそも放送局のオーケストラは、その多くが戦後の設立であるので、1925年というこのオケの設立は、放送曲のオケとしては非常に古い。初期の薫陶は、フリッツ・ブッシュとニコライ・マルコに受けたというから、その歴史も分かろうというものだ。これは、2009年にオープンした彼らの本拠地、DR コンサートホールの内部の様子。素晴らしいホールであるようだ。
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今回、ルイージとこのオケは、ちょうど一週間前、3/12 (水) にも一度サントリーホールで公演を開いている。その後どこに行っていたかというと、金沢、名古屋。福岡、広島。そしてこの後は、西宮、仙台を回る。用意されたプログラムは 2種類で、それぞれが 4回ずつ。東京でだけ 2種類のプログラムが両方演奏されるという、ツアーの内容である。今回私が聴いたのは、以下のようなもの。
 ソレンセン : Evening Land (日本初演)
 ブルッフ : ヴァイオリン協奏曲第 1番ト短調作品26 (ヴァイオリン : アラベラ・美歩・シュタインバッハー)
 ベートーヴェン : 交響曲第 7番イ長調作品92

現代曲、ロマン派の協奏曲、古典派の交響曲と、なかなかにバランスのよい内容である。そして、私はこの演奏会、大変楽しんだということを、最初に申し上げておこう。まず最初の曲は、1958年生まれのベント・ソレンセンというデンマークの作曲家の "Evening Land" という曲。題名が和訳されていないのは返ってよいことかと思うが、もちろん意味は「暮れなずむ場所」ということであり、作曲者が幼い頃に見たデンマークの田舎町の風景と、現在のニューヨークの街並みを重ね合わせたイメージであるそうだ。この曲はデンマーク国立響とニューヨーク・フィルの共同委嘱によって 2017年に初演されているので、曲のイメージとして、デンマークとニューヨークを重ねてあるということだろう。15分程度の美しい曲で、コンサートマスターのソロが繊細な冒頭部を奏で始め、棚引く夕闇のようなイメージが表出され、管楽器が盛り上がる部分もあるが、最後にはまた静かに収束していく。ここではルイージは譜面を見ながら指揮棒を持たない指揮で、柔らかな音と強い音をうまく使い分けていた。会場には作曲者も来ており、この日本初演に満足げな様子であった。尚この曲、ニールセン 5番をメインとしたこのオケの来日記念盤 (会場で先行発売されていたので購入した) に収録されている。
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2曲目はブルッフの 1番のコンチェルト。マックス・ブルッフはドイツ・ロマン派の作曲家であり、交響曲もヴァイオリン協奏曲も 3曲ずつ書いているし、オペラも書いているようだが、通常演奏されるのはこの 1番のコンチェルトと、いくつかの小品だけである。だがこの 25分ほどの協奏曲、それはもうロマン性たっぷりの名曲なのだ。ソロを弾いたアラベラ・美歩・シュタインバッハーは、ドイツ人の父と日本人の母の間に生まれた人で、世界のトップクラスで活躍する女流であるが、もちろんこの曲などは手慣れたもので、大変に美しい演奏を聴かせてくれた。この曲、第 1楽章や第 3楽章の序奏と、オケが激しく高揚する箇所以外では、ヴァイオリンはほとんど休むことなく演奏し続ける必要あり、その代わりに、カデンツァを欠いている。なので、力の配分も大事であろうと思うのだが、シュタインバッハーにはそれだけの技術と表現力がある。もっとワイルドに弾きこなす演奏家もいるかもしれないが、私はこの美しい演奏を大変に楽しんだ。また、ルイージはここでは譜面を見ながら、指揮棒を持っての指揮であったが、彼は協奏曲の伴奏も実に巧い。ソロとオケの呼吸を指揮者が取り持つ、理想的な伴奏であったと思う。シュタインバッハーはアンコールとして、クライスラーのレチタティーヴォとスケルツォ・カプリース作品 6を演奏したが、これもまたよく歌う演奏であった。そのアンコールをルイージがステージの袖で、壁にもたれかかりながら聴いていたのも印象的であった。これは終演後にもらったシュタインバッハーのサイン。
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ところでこのオケのメンバーは、ざっと見渡してみると、結構若い奏者も多く、その表情はリラックスしており、楽団全体の士気が高いと見受けられる。ルイージとの相性もよいようだし、そのような組み合わせなら、ベートーヴェン 7番の演奏が悪かろうわけがない。少し驚いたことには、今回の編成では、弦はコントラバス 8本という、近代物のレパートリーにおける通常編成であるのに対し、管楽器はオリジナル通り 2本ずつ (ホルンのみ 4本) だ。恐らくこれは、このオケの弦には透明感があるので、このような編成でも弦が管を埋もれさせることはないという、指揮者の判断であったのではなかろうか。実際に聴いてみても、そのような印象を持った。今回は譜面も置かず、暗譜での指揮であったが、やはりルイージという人は、音楽の緩急のつけ方が非常にうまい。冒頭は結構風格ある雰囲気で始まり、序奏はゆったりめだったが、主部に入るところでは、フルートがしっかりと気合を入れて速いテンポ設定を行い、そして疾走が始まった。そして第 2楽章との間はアタッカで続け (これが最近のはやりなのだろうか)、そこでは緩やかなテンポ。第 3楽章はさほど速くなかったが、第 4楽章でギアアップして快速調と、非常にメリハリのきいた演奏になっていた。このオケは、決してスーパーオーケストラという感じではないものの、合奏する喜びに溢れているように思われる。重厚さに寄り過ぎず、だが音楽の充実感をしっかり感じさせてくれる名演であったと思う。

アンコールで何をやるかと思って見ていると、トロンボーンとチューバ、それに打楽器奏者が出て来て、演奏され始めたのは何やら聞き慣れない曲で、コンサートマスターのソロが思わせぶりに歌う。そして主旋律が出て来てビックリしたことには、これはなんと、タンゴの「ジェラシー」ではないか。純然たるポピュラー音楽である。なかなか雰囲気のある演奏で、楽しいアンコールにはなったが、なぜにベートーヴェンのあとに「ジェラシー」??? プログラム冊子に沢山載っているルイージや楽団のマネージャーのインタビューを読んでもヒントがない。だが、自宅に帰ってからの発見がふたつ。ひとつは、昨年出版されたヘルベルト・ブロムシュテットの自伝「音楽こそわが天命」の中にあった。上記の通りこの老巨匠はかつて (1967 - 77年) このオケの首席指揮者であったが、自伝において語ることには、デンマークの放送局はオーケストラを 2つ持っていて、ひとつはこの放送交響楽団、そしてもうひとつ、「洗練された娯楽音楽のために総勢 50人の少し小さいオーケストラがありました」と。時に応じてこの 2つのオケが合同して、マーラー 8番や「グレの歌」を演奏したという。つまり、この「ジェラシー」の演奏は、そのようなオケの活動と関係しているのだろう。だがもうひとつの発見はさらに興味深い。実はこの「ジェラシー」の作曲者はヤコブ・ゲーゼという人で、デンマーク人なのである!! そしてこの「ジェラシー」の初演はもちろんコペンハーゲンで行われているが、それが 1925年。これは、ちょうどこの放送オーケストラが設立された年。つまりこの有名なポピュラー音楽は、このオケと同じ年にデンマークで生まれて、世界に知られるようになったということである。なるほど、ニールセンだけではなく、ルイージは広くデンマーク音楽に目が届いているわけですな (笑)。このように、自らの働く環境に応じてレパートリーを増やし、表現の幅を広げて行く指揮者は信用できる。終演後のサインも、ひとりひとりに "Thank you" と言いながら、実に丁寧な応対ぶりで、大変好感を持つことができた。
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このように、大変充実した内容の初来日公演であった。気持ちのよい演奏であったし、また、ルイージの今後の活動を考える上でも、これは重要なコンビであると思うのである。注目したい。

# by yokohama7474 | 2019-03-20 22:08 | 音楽 (Live) | Comments(0)

井上章一著 : 南蛮幻想

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前の記事に引き続き、歴史を扱った書物である。ただ実際のところ、この本と、前回ご紹介した本との間にはいくつかの相違点がある。まず、前回のものが、書店で購入した比較的最近の本であったのに対し、こちらの方は、1998年発行の本を、最近古本屋で見つけて購入したものであること。もうひとつの違いは、前回は歴史を独学で学んだ著述家の書物であったのに対し、こちらは学者による書物であるということだ。それから、扱っている時代が違う。この書物は古代史ではなく、題名と、上に掲げた表紙写真からも明らかである通り、南蛮文化、すなわち近世になってから日本に入ってきたヨーロッパ文化を主たるテーマにしたものであるからだ。この南蛮文化は、私としては以前から大いに興味のある分野であり、また、著者があの井上章一ともなると、これはやはり読みたくなる。このブログでも、2016年 7月28日の記事で、彼の「京都ぎらい」という本を採り上げ、またその記事の中で、そもそもこの井上という人の名を知ったきっかけとして、桂離宮を美しいという思い込みは、ドイツ人建築家ブルーノ・タウトが創り出したものであるという書物を著していることだと書いた。そんな彼が今から 20年前にこんな本を出していたとは知らなかった。Wiki で調べるとこの本は出版当時、芸術選奨文部大臣賞なるものを受賞している由。

この書物においては、日本に存在している、あるいはかつて存在していた建築や演劇、あるいは伝説などの中に、ヨーロッパ起源のものがあるのではないかという言説に対して、そのような論の発生や、それへの反論の歴史的経緯を探ることで、日本における西洋文明との対峙方法の推移が考察される。主として取り上げられる東西文明の交流は以下の通り。
・織田信長が作った安土城は、日本の城郭建築として初めて本格的な高層建築であったが、その設計にはキリスト教の教会に倣う部分が多く、つまりは日本の城郭建築はヨーロッパにその起源がある。一般の城で天守と呼ばれるメインの部分は安土城では「天主」と呼ばれ、これはそのままキリスト教の神のことである点、その証左である。
・日本庭園に時折見られる織部灯籠と呼ばれるスタイルの灯籠には、キリスト教のモチーフが見られる。これは禁教時代にキリシタンがカモフラージュとして作ったものである。
・幸若舞の演目に「百合若大臣 (ゆりわかだいじん)」というものがあるが、その内容は古代ギリシャのホメロスによる「ユリシーズ」と、題名を含めて細部まで類似点があり、これは近世にヨーロッパから日本にもたらされたものである。
・聖徳太子に重用された渡来人、秦河勝 (はたのかわかつ) はネストリウス派キリスト教 (景教) を信仰していたユダヤ人であり、秦氏が住んだ京都の太秦 (うずまさ) にはその痕跡がある。

これら以外にも、聖徳太子が馬小屋に生まれていることはキリストの伝記に由来するものであること、あるいは法隆寺などに見られるエンタシスという中間部の膨らんだ柱の形態が古代ギリシャ由来であること、また、毛利元就が死ぬ前に息子たちに諭した三本の矢の逸話は、実はヨーロッパ起源であること、などの説も言及されている。要するに、ユーラシア大陸の東の端と西の端に遠く離れて存在する日本とヨーロッパに、様々な共通点が見られるということである。ここで井上は、特に安土城の天主の話と百合若大臣の話に多くのページを割いて、それらの論がいついかなるかたちで登場し、また時勢に応じて変貌して行ったかということを詳しく述べている。

このブログでは既に、安土城も太秦も採り上げている (2016年 7月22日の記事と、2018年 2月 4日の記事)。せっかくなので、それぞれの記事から、安土城の想像復元模型 (吹き抜け構造がヨーロッパの教会の模倣か?!) と、太秦の蚕の社にある三柱の鳥居 (三位一体を表すのか?!) の写真を再録しておこう。
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私自身は、以前もどこかの記事で書いたことがあるが、日本とヨーロッパは遠く隔たってはいても、ユーラシア大陸という巨大な土地でつながっていて (まぁ、厳密には日本に来るにはどのみち最後は船が必要だが)、実は文明の根底のところで共通するところがあってもおかしくない、どころか、その方が自然であると思っている。ただ、時代が下るにつれ、キリスト教ならキリスト教、仏教なら仏教が、それぞれに巨大宗教としての発展を遂げたことに加え、社会の成り立ちや気候風土によって、東西の違いがより大きくなって行ったわけであろう。この「南蛮幻想」においては、20世紀初頭の頃、つまり日本が近代国家として先進国に追いつこうとしていた頃に、安土城や百合若大臣という題目を通して、日本とヨーロッパとの過去の交流についての論説が盛んになったことが、詳細に述べられている。つまり、ユーラシア大陸の東の果ての島国である日本にも、ちゃんとヨーロッパの文明がもたらされていたという事実を認識したいという欲求があったということだろう。これは私の大好きな (?) 日ユ同祖論 (日本人の祖先がユダヤ人であるという説) などと同様の心情によるものだろう。日本は遅れた三流国ではなく、ちゃんと先進地域であるヨーロッパと根幹でつながっているのだという思いである。この書物においては、柳田邦男や折口信夫、坪内逍遥や新村出といった、よく知られた名前から、歴史学の専門家なら知っているであろう学者の名前、あるいは無名な地方の歴史研究者の著作まで、様々な人たちの名前が出て来る。そして、日本の近代化時代から戦争に向かう時代、敗戦、復興という歴史の中で、この種の議論の主流が移り変わって行ったことが述べられている。そこから学ぶことができるのは、学者とても人間であり、時流におもねて忖度する人もいれば、「こうあるべし」という自分のイメージから逃れられない人もいる一方で、学問的真実を探求する気概の人もいる、ということだ。私がそれを読んで感じたのは、学問であってもやはり、何らかのファンタジーとかイマジネーションが研究の動機づけになる場合もある、ということだ。だが、真実の探求には厳密さが求められ、そこには果たしてロマンが必要か、という観点も重要であり、この書物における井上は、あちこちに目線を飛ばして、様々な論者たちの立場を慮っているのである。そのロジックの運びはかなり目まぐるしいが、考えさせられる点は多い。ところでこれが、織部灯籠と言われるもの。果たしてキリシタンの手になるものだろうか?
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この本に書いてあることから少し離れるが、東西の文明の影響関係について、私が知識として知っている例を挙げておこう。例えば仏像の起源。ガンダーラ地方で仏像が初めて作られたという説をよく聞くが、ここで作られた仏像は、明らかにギリシャ彫刻の影響を受けたもの。その一方で、マトゥーラという土地こそ仏像発祥の地だという説もあり、そこでの作風は純粋にアジア的だ。ヨーロッパの学者は前者の説を、アジアの学者は後者の説を支持するのが通例だという。あるいは、こんな話はどうだろう。なぜ中国にラーメンがあり、イタリアにスパゲティがあるのか。中国人は、自分たちが発明した麺がヨーロッパに伝播したのだと言い、イタリア人は、もちろんイタリア人が麺を中国に伝えた (具体的にマルコ・ポーロの名前が出るときもある) のだと言う。自国の文明の正当性や優位性を唱えたいのは、どの国民も同じということだろう。これらを通じて私が面白いと感じるのはやはり、この巨大なユーラシア大陸における文明の広がりという点、そこに尽きる。実際の伝播の時期や手段については謎はつきまとうし、類似はただの偶然ということもあるだろう。だが、重要なのは、人間の営みには、時代も場所も越えた共通性があるということではないだろうか。ここに歴史のロマンがあり、文明のダイナミズムがある。この本によって、そのようなことを考えさせられた。

ただ、この本にも難点はある。2段組構成で 400ページを超える本だが、実のところ、大変に読みにくいところがあるのだ。それは、安土城なり百合若大臣なりについて、過去の言説をあれこれ紹介してくれるのはよいのだが、同じ説明が何度も何度も出て来るし、時間軸もかなり柔軟に前後する (上記で「目まぐるしい」と書いたのはこの意味だ)。同じ名前、同じ論説、同じ背景説明が何度も繰り返されるが、その先の続き方が違っている、そんな箇所が実に多く出て来るのだ。これでは、読者は混乱してしまう。正直、この本に書いてある内容は、さらに切り詰めて、時間軸を明確にし、反復を取り除いて記述することができるだろう。そうすると、こんな立派な本ではなく、新書 1冊に収まるくらいの分量になるのではないか。その方が、読む方としては有難い。それから、ここで紹介されているのは過去の言説の流れであり、著者の井上はそれに対する評価を都度書いてはいるのだが、その書き方に遠慮があったり、「〇〇と取れなくもない」とか「〇〇ではないかもしれないが△△かもしれない」という、なんとも曖昧な表現が多くて、正直その点には、読んでいるうちに苛立ちを覚えてくる。また、他人の考えを評価してはいても、自分自身の考えを書いていないケースがほとんどである点も、その苛立ちを助長するケースがある。もっとも最後の点については、この本は他者の考えの評価が主眼であるので、自分の考えを書いていないという批判は甘んじて受ける、という内容のことを明確に記載している。

こんな具合に、その表現方法にはいろいろと疑問もあるものの、ユーラシア大陸の雄大さを思い、人間の営みの歴史を感じる材料を沢山含む本であることは確かであると思う。ロマンなしには、学問の発達もないと、やはり考えてしまう私であった。

# by yokohama7474 | 2019-03-19 22:52 | 書物 | Comments(2)

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文化に興味を持つと、自然な流れで、歴史にも興味が出て来るものである。というのも、連綿と続いてきた人間の営みの結晶が文化であるならば、その文化を生み出した歴史的背景を知ることで、理解が深まり、そのことによってまた一層、文化への興味が増すからである。なので、私もこれまで、硬軟取り混ぜて、歴史に関するあれこれの書物を読んできたものである。だが、私はもちろん歴史の専門家ではないし、あまり小難しい書物を読む根気も時間もないので、書店 (最近では数は減ってしまったが、それでも大型書店で書物との偶然の出会いを持つことは未だ可能である) で目についた面白そうな歴史についての本を、興味の赴くままに購入するというのが、せいぜいである。あるいは、時には古本屋で、それまで存在を知らなかった同種の本との出会いを持つというのも、学生時代から今に至るも変わらぬ、私の大きな喜びなのである。ここでご紹介するのは、2016年に発行された比較的新しい本である。

私がこの本に興味を持った理由はふたつ。まずひとつは、この関裕二 (1959年生まれ) という著者。私は過去にも、この人の書物を何冊か読んでいる。それについてはあとでまた触れるとして、もうひとつの理由を書いておくと、表紙や帯に踊るコピーを見る限り、この本は、どうしても西日本中心に考えられがちな日本の古代史において、東日本にスポットを当てているようであること。たまたま自分が東京に暮らしていて、東京の文化イヴェントに日々触れる中で、東日本にある歴史的な場所の探訪も、私の大きな興味の対象である。それゆえ、古代における東日本の位置づけには、最近ちょっと敏感なのである。だが、どうだろう。一般的に言って、日本の古代史の舞台はもっぱら近畿か北九州、あるいは出雲といった西日本というイメージがあることは確かである。もちろん、ヤマト政権は現在の奈良県にあったわけだし、邪馬台国だって、伝統的に近畿説か北九州説のいずれかと相場が決まっている。だが、関東をはじめ東日本には、実は大変多くの古墳があって、古代において既に大きな勢力があったことを示している。そして、これは以前も書いたことがあるが (2017年 3月 4日の、東京国立博物館における春日大社の展覧会の記事において)、藤原氏の氏神として大変に古い歴史を誇るあの春日大社の祭神は、なんと、現在の茨城県にある鹿島から、奈良の地に降り立ったというのである。これはつまり、奈良よりも茨城の方が、歴史が古いということを意味しているのでは? なんと意外なことだろう。そもそも茨城県が日本史に出て来るのは、あの平将門が 940年に反乱を起こすのが最初ではなかったのか。これは国貞描くところの将門。
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さて、この関裕二の「闇に葬られた古代史」も、まさに将門のことから話は始まる。なぜに将門は乱を起こし、そしてその祟りが今でも恐れられているのか、といった点から、古代の歴史において「東」は、「西」に対する恨みがあるのだと、著者は話を進めて行く。その内容をここで要約するのは容易ではないし、それこそこのブログがいつも避けているネタバレになってしまうので (笑)、それはしないこととするが、要するに、「東」はヤマト政権確立に貢献があったが、何らかの事情でその存在を歴史から抹殺されてしまった。それゆえに将門に象徴される「東」の復讐を「西」は非常に恐れたのである、というのが関の主張である。本書の中においては、邪馬台国ではないかという説もあながち信憑性がないではない纏向遺跡の発掘における発見や、以前は明確であった縄文時代と弥生時代の区別が曖昧になってきていること、あるいは日本人の祖先を探る DNA 調査など、最近の研究成果も取り入れられていて、その点はなかなか面白い。そもそも日本の古代史には謎が多すぎて、最近でこそ上記のような研究が進んできたとはいえ、やはり古代史の闇は依然として深いと思うのである。それゆえ、様々な仮説が (たとえそれが荒唐無稽なものであっても) 成り立つ余地があるのではないか。よく日本の歴史学は文献偏重であり、書かれていることを妄信していて、イマジネーションを欠いているという批判を耳にするが、確かに伝統的な歴史研究は、「古事記」「日本書紀」等の書物に書いてあることをまず正として行われてきた、というイメージがある。関裕二という人はその点、独学で歴史を学んだ人だけあって、非常に豊かなイマジネーションを駆使して、自由な発想で古代史の闇に斬り込んでいる印象だ。実はこの人の著作は、1991年の「聖徳太子は蘇我入鹿である」というデビュー作以来、大変に多い。実は私もそのデビュー作を、発表後 10年以上を経てから、その題名のインパクト (笑) におおっと思って、買ってしまった口なのだが、古代史についての著作ばかりこれだけ多く執筆しているということは、結構な数の読者に支持されているということだろう。それにしても、聖徳太子の正体やいかにいう疑問は、確かに古代史における大きな検討ポイントではあるだろう。
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ネット上でこの著者の名前を検索すると、かなり否定的なトーンの言説も多く目にすることになる。だが私が面白いと思うのは、きっと専門の歴史学者からは相手にされないであろう大胆な仮説を、これだけ手を変え品を変えて世に問うという度胸である。もちろん学問の世界になれば、仮説の論拠にはかなりの厳密性が求められるので、我々が文庫や新書で気楽に読む本とは、それは別次元の厳しい目にさらされるであろう。だがその一方で、我々一般人にとっては、古代史の闇が深ければ深いほど、この関裕二のように、平易な言葉で面白い仮説を立ててくれる人の本に興味を抱くことになるのである。いやもちろん、その私とて、例えばこの本を読んでいて、すべて納得、目から鱗、全部信じます!! ということには正直ならないが、それでも、「なるほど、そういうことがあったら面白いなぁ。意外とそれが真相かも」と感じる瞬間が沢山ある。だからこそ私は、この人の本を何冊も読んでいるのである。専門の歴史家の方々は、彼の説を荒唐無稽と否定する、あるいは無視するのではなく、是非、古代史の闇を取り払って真実を明らかにすることで、本格的な学問の意義を主張して頂きたい。

そういえば、日本有数のパワースポットとして有名な将門の首塚は大手町にあるが、隣接する三井物産本社のビルが現在建て替え中である。首塚はどうなっているのだろうと思って調べてみると、やはりこの地区の再開発の対象外となっている。つまりは、そのまま維持されるということであろう。というわけで、これは芳年描くところの将門。「東」を代表する荒ぶる魂は、神田明神の祭神でもある。これからも東京を守護してくれるであろうか。
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# by yokohama7474 | 2019-03-18 21:46 | 書物 | Comments(0)

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さて、しばらくぶりに、既に終了してしまった展覧会の記事である。年を越えて、去る 1月20日 (日) まで上野の東京都美術館で開催されていた「ムンク展」。この展覧会は大変な人気で、私がわざわざこのブログで紹介せずとも、美術に関心のある人たちのみならず、幅広い層の人たちが会場に足を運んだことであろう。なにせムンクの「叫び」と言えば、知らない人がいないほど有名だ。上のポスターにある通り、その「叫び」(いくつかある同名・同テーマの作品のうちのひとつ) が来日するとあれば、大人気も無理はない。ノルウェーのオスロにあるムンク美術館がちょうど現在、新たな施設への移転を進めていることから、「叫び」を含むこの展覧会の出品作品 (油彩画 60点、版画など 40点の、合計約 100点) のほとんどは、そのムンク美術館からまとまって来日したわけである。この画家の内面に迫るという意味において、これはなかなかに貴重な機会であったことは確かだろう。

エドヴァルド・ムンク (1863 - 1944) は、一般的な分類では、象徴主義とか表現主義の画家とされることも多い。そのような分類は、画家のタイプを知るという点で意味はあるが、だが、私としてはムンクはやはり、世紀末の画家であると表現したい。もちろん、第二次大戦中まで生き永らえた彼には、いわゆる 19世紀末の文化の爛熟期からも長くこの世にいたわけであるが、近代社会の発展の中で傷ついた自我をさらけ出し、人間の生と死の真実を見つめたこの画家の感性は、やはり世紀末に培われたものであると思うのである。彼は生涯に亘って多くの自画像を描き、この展覧会にもそのうちのいくつかが並んでいたので、少し見てみよう。1895年に制作されたこのリトグラフの「自画像」においては、下部に白骨化した腕が描かれており、32歳にして早くも、死の影を背負った自分を描いているわけである。
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この「地獄の自画像」(1903年作) は、さらに強烈に、不吉なものを背負う自分を描いている。この頃のムンクは、精神的にかなり疲弊した状態であったらしい。ただ、その精神の疲弊を、このような芸術作品として表現できる点に、彼の偉大なる才能がある。それにしても、地獄の自画像とは・・・。
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この「スペイン風邪の後の自画像」(1919年作) は、色使いこそ強烈さはないものの、当時人々に恐れられた (例えばエゴン・シーレはその病で命を落とした) スペイン風邪の不気味な広がりを感じさせる。だが実際には、ムンクがスペイン風邪にかかった否かは、はっきりしていないそうだ。
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次の「家壁の前の自画像」(1926年作) は、いわゆる表現主義調の作品だが、画家は一体何を表現したかったのか。手前の植物も緑なら、頭が溶け込んでいるようにも見える背景にも緑色が漂っている。ここには直接の死への思いはあまり感じられないが、自分の存在そのものの危うさを感じることは、できるように思う。だが、この色調の明るさに、救われる思いもするのである。
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さて、ムンクという人は、幼くして母や姉という家族の何人かを失っていて、それが彼の死生観に影響を与えたことは大いに考えられる。この「死と春」(1893年作) は、モデルは特定する必要のない作品のようで、ただ横たわる女性の亡骸と、それを柔らかく包む春の日差しがテーマである。その対照に、一種の穏やかな諦観を感じることができる。彼の描く題材には陰鬱なものが多い一方で、「叫び」もそうだが、どこかに諧謔的なユーモアも潜んでいることがあると思う。この作品にもそのような感性を感じる。
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この「死せる母とその子」(1901年作) も、物言わぬ横たわる女性は、上とは左右反対であるが、その姿はよく似ている。ただここでは、子供の様子がただならぬ雰囲気である。極度の哀しみであるはずだが、奇妙なユーモアすらも感じさせる点、やはり「叫び」と共通する感性もあるように思う。
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この「病める子」(1894年作) は、いくつかのパターンがあり、油彩画もあるが、有名なテーマである。ここには明らかに姉ソフィエ (15歳で結核で死亡) の影があるだろう。ユーモアは感じられないが、痛切な哀しみというより、何か神秘的なものを感じさせるように思う。下の方は野の風景なのだろうか、未完成に見える。
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これは面白い。「クリスチャニアのボヘミアンたち II」(1895年作)。クリスチャニアとは、現在のオスロのこと。ムンクはこの街でいわゆるボヘミアンとしての生活を送り、画家や作家たちの溜まり場に顔を出していたらしい。この絵の左手前がムンクの自画像だが、これはまたなんと表情のない、仮面のような描き方か。それに比べると、右側の卵型の顔 (笑) をした人物の強烈な存在感はどうだろう。それ以外にも、ここで集まっているのは、一癖も二癖もありそうな人ばっかりですなぁ。
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上の作品などを見ていると、ボヘミアン・ムンクは何やら自分の殻に閉じこもって、他人との干渉を持たなかったようにも思いたくなるが、実はそうでもなく、様々な文化人とつきあいがあったようだ。面白いのは、この時代を代表する感性であったフランスの象徴派詩人、ステファヌ・マラルメとも、パリで面識を持っている。このマラルメの肖像画 (1897年作) は、いかにもムンクのリトグラフ作品らしい陰鬱さと、詩人の透徹した知性をともに感じさせる。
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これは「グラン・カフェのヘンリック・イプセン」(1902年作)。ムンクは、自国ノルウェーの先輩芸術家であるイプセンの戯曲に大きな影響を受けていたらしく、ここではカフェに座っているところを描いているようだが、何やら宙に浮かんだ霊体のようにも見える。そういえばムンクは、隣国スウェーデン出身のやはり劇作家で、心霊研究でも有名なストリンドベリとも親交があったようだ。
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ここからは油彩画を見て行きたい。これは「夏の夜、渚のインゲル」(1889年作)。妹を描いたものであるらしいが、初期の作品ゆえに、未だムンクらしさは完成していない。だがそれにもかかわらず、海辺に佇む人物、そして海自体、その後この画家が繰り返し描くことになるテーマである点は、興味深い。
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これも類似のテーマであるが、この「メランコリー」(1894 - 96年作) は、上の作品から数年にして、既にムンクの個性が横溢している。画面手前でメランコリーに沈む人物の内面を、浜辺と海が心象風景として表しているようだ。
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この奇妙な作品は「幻影」(1892年作) と題されている。水中から首を出す人物と、その背後に浮かぶ数羽の白鳥が描かれていて、自作のテキストにこの絵を思わせるものがあるようだ。だが私が興味を覚えるのは、「サロメ」をはじめとして、頭部切断 / 球形の喪失に象徴される世紀末文化のコンテクストから、この絵を見ることができるという点だ。そもそも水面とは、ある世界と別の世界の境界線である。その境界線を越えて突き出された頭が訴えたいことは、一体何であろうか。
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この「夏の夜、人魚」(1893年作) になると、一層ムンク的だ。彼の作品に繰り返し登場する女性への恐怖が、ここには表れてはいないだろうか。その魔性のものは、世界の境界線を、もはや顔だけではなく体全体で越え、何やらこちらを見つめている。そして画面奥には、これもこの画家独特の表現で、水面に映る月が描かれている。
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これは「星空の下で」(1900 - 05年作)。ここで女はついに男を捕まえてしまうが、その顔は死霊のようで、ただ唇だけが異様に赤い。ただ私には、この世紀末絵画に、どこか人間的な温かみも感じてしまう。ゾッとするような題材を扱いながらも、彼の作品は、絶望だけに満たされてはいないことが多い。そのあたりが万人に愛される秘密ではないだろうか。
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そして、今回の目玉、「叫び」(1910年? 作) である。現存しているムンクの「叫び」は 5点あり、最初のものは 1893年の油彩画。その後、2点のパステル画、1点のリトグラフを経て、最後に描かれたのが、ムンク美術館所蔵のこの作品である。技法は、テンペラと油彩の混合であるようだ。ところで私は、この絵ではなくて、オスロ国立美術館所蔵の「叫び」(1893年の油彩画) が盗まれ、その後奪回されたという事件は明確に記憶にあるのだが、調べてみると、この 1910年頃の作品も、一度ムンク美術館から盗まれている。発見された際には損傷があったので、その後修復が必要であったという。この極めて有名な作品、まさにこの人物の通り、叫びを上げたくなるような災難に遭っているわけである (笑)。やはりこれは、卓越した人間心理の表現であることは間違いなく、ただ単に精神の安定を欠いているといった陰惨な作風ではなくて、やはり人間的な諧謔味もそこにあるからこそ、人々に訴えかけるのであろうと思う。
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この作品は、「叫び」とは似て非なるもの。「絶望」(1894年作)。つまりは、最初の「叫び」の翌年の作品であるが、これは面白い。というのも、背景はほとんど同じであるのに、前景の人物だけが違っているからだ。この人物にはちゃんと目鼻があり (笑)、流れてとろける背景とは無関係であるかのように、目を伏せている。「叫び」では、もちろん叫んでいるのは前景の人物であり、むしろ、彼の叫びによってこそ、自身の身体も、あるいは背景も、ぐにゃりと歪んでしまったように見える。一方この「絶望」は、上で見た「メランコリー」と同種の発想でできていて、叫びを発することなく、崩壊する世界の中に身を置いている。美術好きにとっては常識であるが、この「メランコリー」という主題は、デューラーに代表されるように、西洋美術史においては伝統的なテーマであるわけで、極めて独創的な「叫び」に続いてこのような作品を描いたムンクは、表現方法の試行錯誤をしながらも、結構したたかなところがある画家ではないかと思うのである。
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さて、ここからはいくつか、ムンクの画業について回ったテーマのひとつ、女性の魔性を扱った作品を見てみよう。彼にまつわる有名な逸話として、結婚を迫る恋人がピストルを持ち出し、もみ合ううちにピストルが暴発して左手中指の一部を失ったという話がある。そのせいか彼は生涯独身を貫き、女性の魔性を描き続けた、と言われている。だが、そのピストル暴発事件のときムンクは既に 39歳 (1902年)。さほど若い頃の話ではない。なので、その逸話に必要以上に囚われる必要もないように思うが、いかがであろうか。この「月明かり、浜辺の接吻」は 1914年の作。接吻する男女の顔が一体化しているのは、背景の水面に映る月 (いつも思うのだが、観光案内のマーク、"i" に似ている。笑) と同様、彼の常套手段である。ここには陰鬱な退廃は見られない。
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ところがこの作品の退廃には、恐ろしいものがある。有名な「吸血鬼」(1916 - 18年作) で、いくつもの同じ構図の作品がある。画家としてのムンクの、鮮烈なイメージを作り出す力に驚嘆する。ここに描かれた男の、無個性と無力ぶり。
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退廃といえば、やはりこの作品だろう。「マドンナ」(1895 / 1902年作)。恍惚のマドンナの周りに、精子と胎児が見える。画家自身の言葉によると、このマドンナには地上のすべての美と苦痛が表れているが、それは、彼女に死が迫っていて、一本の鎖が、過去の何千世代と将来の何千世代を結びつけるからだそうである。うーん、詩情のある説明ではあるが、この作品のヴィジュアルには、そんな言葉が吹っ飛んでしまうインパクトがある。ただ、よく見ると胎児の顔に、退廃を越えたユーモアがあるようにも思われ、そこにこの画家の個性が表れているとも言えようか。
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これは「目の中の目」(1899 - 1900年作)。題名の通り、向かい合う見つめ合う男女であるが、男の顔は真っ白で、口がなく、目にも何か恐怖が浮かんでいるように見える。一方の女の方は、やはり表情は分からないが、その髪が男に向かって伸びて行っているようだ。少なくともこれは、愛の賛歌ではないだろう (笑)。
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こうなってくるともう少し分かりやすい。1896年作の「別離」。かわいそうに、血まみれの右手を心臓に当てるこの男性は、このエクトプラズムのようになってしまった女性に、騙されたのだろうか。ところでこの男性、上で見た「メランコリー」に登場する人物と同一であるようにも見える。世界苦は失恋から?
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次の絵になると、ちょっと残虐性を帯びてくる。1907年作の「マラーの死」。ここで殺されているのはもちろん、ダントン、ロビスピエールと並んで知られるフランス革命時の革命家、ジャン=ポール・マラーであり、もちろん西洋美術史においては、新古典主義の巨匠ダヴィッドの作品によってよく知られるテーマである。この作品では、入浴中のマラーを刺殺した犯人の女性 (シャルロット・コルデー) が立ち尽くしている。ここでのマラーは、ムンク自身を象徴するとも考えられているらしい。
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これもムンクの代表作のひとつ、「生命のダンス」(1925年作)。描かれた人物たちにはそれぞれ意味があるらしいが、それはそれとして、地面の緑と補色関係にある真っ赤なドレスを着た女性が中心にいて、何やら生霊と死霊が緩やかに交流しているような、そんなイメージである。ところで、昔コリン・デイヴィスとボストン交響楽団によるシベリウスの交響曲のレコードのシリーズでは、ジャケットにムンクの作品を使っていたが、この「生命のダンス」は、交響曲第 4番のジャケットであったことをはっきり覚えている。あの陰鬱なシンフォニーに相応しいイメージだと思ったものだ。
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だがここでも、ただ退廃だけでないムンクの感性を、細部に読み取りたい。右端の青いドレスの女性の左手で踊る男女。その男の顔はどうだろう。この場合はどう考えても、吸血鬼は女ではなく、男ではないか (笑)。一目見たら忘れない顔である。
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ムンクはまた、肖像画も多く描いている。これは誰あろう、フリードリヒ・ニーチェ (1906年作)。縦 201cm、横 130cmの大作で、ニーチェの妹の委嘱により、この哲学者の没後に、写真をもとに描かれたものであるらしい。ちょうど「叫び」を反転させたような背景とも言えるが、顔をしかめながら立っているニーチェには、叫ぶことなく世界の様相を察知する知性があるものと解される。
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この画家が意外にしたたかだと思うのは、このような背景の使いまわしからヴァリエーションを生み出していることである。その一方で、時に驚くほどパターン化から遠い作品も描く。この「疾駆する馬」(1910 - 12年作) は、私が実物を初めて見たのは今から 30年以上前だが、自分の中では「世紀末の画家」という整理をつけていたムンクに、こんな躍動的な作品があると知って、驚いたものだ。解説によるとムンクは、写真や映画といった当時の新しいメディアに興味を持っていたとのこと。意外と言えば意外である。
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この「太陽」(1910 - 13年作) も近い時代の作品であるが、実にダイナミックな自然の描き方である。クリスチャニア大学 (現オスロ大学) の講堂の装飾画としてもともと注文を受けたものらしい。さて、クラシック音楽ファンとしては、これも見覚えのある絵である。そう、小澤征爾指揮ボストン交響楽団によるシェーンベルクの「グレの歌」のジャケットだ。たまたま最近の記事で、この「グレの歌」について書いた中に、この小澤盤についても触れたばかりだが、実は、手元にその CD を持ってきて比べてみると、ちょっと違う。奇異に思って調べてみると、そのジャケットに使われているのは、同じムンクの「フィヨルドに昇る太陽」という作品で、そちらは実際に現在でもオスロ大学の壁面を飾っているという。うーん、現地に行ってみたい。
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この作品は「星月夜」(1922 - 24年作)。ファン・ゴッホの作品と同じく、英題では "Starry Night" である。オスロ郊外のムンクの自宅から見た風景らしい。イプセンの戯曲と関係があるらしく、画面手前右側に見えるシルエットは、雪の中で死亡する登場人物になぞらえた自身の像であるとのこと。大自然の営みを雄大に描いた上の「太陽」とは異なり、やはり夜の光景ともなると、どうしても自分自身と向き合うという感性が、この画家の中にムクムクと沸き起こるのであろうか。
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さてこれは最晩年の作品、「自画像、時計とベッドの間」(1940 - 43年作)。老境に至っても鮮やかな色使いを続けていたムンクであるが、だがやはり、そこには画業を全うしたという達観が見られないだろうか。ただ、亡くなったのは 1944年と、戦時中であり、ナチスは彼の作品に退廃芸術のレッテルを貼っていたこともあって、心穏やかな老年であったということではないかもしれない。それでも私は、この画家の中に政治的な興味があったとは思われないし、生と死を見つめ、自らの内面と向かい合いながらも、一方では画家としての処世術も身に着けた彼としては、もはや世界苦を叫ぶ必要もなく、ただ柱時計と競い合うかのようにしっかりと立ってみせることが、後世へのメッセージであったのではないだろうか。
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不幸な少年時代を送りながら、30にして代表作を制作。その後半世紀を生き延びるうちに、世紀末は遠い過去となってしまった。だから、冒頭に書いたように、この画家を「世紀末の画家」として片づけてしまうことは、本当はよくないのかもしれない。だが、やはりなんといっても「叫び」は世紀末芸術。30歳でその作品を生み出したからこそ、その後のムンクの画業があったのだと思う。知れば知るほどに面白いこの画家、オスロのムンク美術館が再オープンしたら、また現地でじっくり作品と対峙してみたいものだと思っている。

# by yokohama7474 | 2019-03-17 18:20 | 美術・旅行 | Comments(0)