2018年 09月 04日
東京都新宿区 新宿歴史博物館 (「幻想の新宿」展)、漱石山房








2018年 08月 18日
大阪 天神祭 2018年 7月25日







2016年 09月 18日
東京都品川区 中延ねぶた祭り 2016年9月17日

上記のポスターの通り、17時からということなので、その15分ほど前に東急池上線の荏原中延駅に降り立った。もしかすると、駅は押すな押すなの大混雑、警官の懸命の交通整理も空しく、道には芋の子を洗うように人が溢れ、押しつぶされそうになる子供たちが悲鳴を上げる・・・そんな情景が繰り広げられているのではないかと思ったが、ええっと、そこまでの混雑ではないですねぇ(笑)。




























2016年 01月 01日
初詣 (芝 増上寺 / 目黒五百羅漢寺 ほか)
今朝の東京はきれいに晴れて、光あふれる新年になりました。川沿いの我が家のベランダは、遮るものがないので、空気の澄んだ晴れた日には富士山が見えるのですが、今日は本当にきれいなその姿を拝むことができました。











さて、目黒にはほかにも由緒正しい寺がいくつかあるが、その中で、重要文化財の清凉寺式釈迦如来立像を正月三が日に開扉している大円寺に行ってみようと思い立ったものの、既に太陽は傾き、宵闇が漂い始める頃合い。それでも近くまで車で辿り着き、ふと見ると、なんと真正面に富士の雄大な姿が。ここは目黒駅から雅叙園の方に向かって下りる行人坂 (ぎょうにんざか)。江戸時代は交通の要衝であったらしいが、同時に富士山の見える名所でもあったらしい。ちょうど太陽が沈む直前、絶好のタイミングで拝むことのできた富士の姿。



2015年 11月 07日
岡山旅行 その 2 吉備路 (備中国分寺、宝福寺等)、倉敷 (安養寺、大原美術館等)、岡山 (後楽園、岡山城)
今回我々が泊まったのは、倉敷国際ホテル。大原美術館のすぐ裏手にあり、棟方志功の大きな版画や、児島虎二郎 (あとでご紹介する) の油絵などがかかっていて、老舗ホテルの風格がある。但しそれほど巨大ホテルではなく、サービスも行き届いていて、なかなかに快適だ。

















さて、この後西の方に数 km 車を走らせ、宝福寺というお寺へ。ここには日本美術史上のビッグネームが関係しているので、見落とすわけにはいかない。









さて、もともとの計画では、10時くらいに倉敷に戻って大原美術館に行こうと思っていたが、宝福寺の拝観が実は中途半端 (?) であったと判明したとはいえ、内容は充分に濃く、既に予定よりも多く時間を要してしまっている。でも、大原美術館に行く途中に、どうしても寄りたいところがあるのだ。それは、朝原山 安養寺というお寺。782年に創建されたと言われる古刹で、重要文化財の兜跋毘沙門天 (とばつびしゃもんてん) と吉祥天、そしてそれ以外になんと 40体もの毘沙門天像を所蔵するという。駐車場は山の中の道路から少し下ったところにあり、このような石段を上がって境内に辿り着く。巨大な毘沙門天の銅像が門の上にご覧頂けよう。かなり荘厳な雰囲気だ。





さて、それからようやく倉敷の中心部にとって返すこととした。倉敷といえば、大原美術館を中心とした美観地区が観光の中心である。このような情緒ある町並みが整備されている。でも、2枚目の写真は、NHK の「タイムスクープハンター」でよく出てくるような街のセットにも見える (笑)。







水戸の偕楽園、金沢の兼六園と並ぶ、日本三名園のひとつ、後楽園。ここも子供の頃に訪れたことがあったが、当時はまだジャイアンツの本拠地はドームではなく後楽園球場であったので、なぜその球場が岡山に姉妹施設を持っているのか不思議に思ったものだ (笑)。あ、もっとも、大人になった今でも、「えっと、日本三名園って、ここと偕楽園と、あとどこだっけ・・・あ、六義園か」と言ってしまった私という人間も、うっかりにもほどがある (笑)。六義園は東京の駒込にある柳沢 吉保邸の庭の遺構だが、いかに私が昔駒込に住んでいたからと言って、加賀百万石のあの素晴らしい兼六園には、さすがに太刀打ちできるはずもない。
ともあれ、写真をいくつか掲載する。門を入ってしばらく歩くと、眼前に広がる緑と、その向こうに聳え立つ岡山城の姿が実に壮大だ。その黒さから、別名「烏城 (うじょう」と呼ばれる岡山城、鉄筋コンクリートの再建であれ、やはりその姿をここで見ることができることには大きな意味がある。庭園もすみずみまで手入れされていて、さすがに天下の名園の名に恥じないものがある。


















2015年 11月 03日
岡山旅行 その 1 高梁市 (備中松山城ほか)、鬼ノ城、吉備路 (吉備津神社ほか)
岡山で観光名所と言えば、まず日本三大庭園のひとつである後楽園。それから倉敷の大原美術館。ほかに何があるのだろうか。実は、私のような歴史・文化に興味のある人間にとっては、大変な見どころ満載の場所なのである。神社仏閣や大小の美術館はもとより、古墳、城、巨石と、それらにまつわる歴史のミステリーとロマンがてんこ盛りだ。空港からレンタカーを借りて、いざ出発。しばらく走ると、キャンプ場に早速こんな看板が。






それぞれの城には誠に長い歴史とドラマがあることを思い知る。現在の天守閣は、1681年の改修によって形が整えられたということだが、どうやってこんな山の中に城を築くことができたのか。ヒントはここにある。


















さて、そのような神秘の場所、鬼ノ城は、どのようなところなのか。ビジターセンターが完備していて、全体図が掲げられている。



























さて、そこからほど近い、造山 (つくりやま) 古墳へ。面白いことに、この近辺には同じ「つくりやまこふん」が 2つあり、ひとつは造山、もうひとつは作山と書く。この日は途中で時間切れとなってしまったので、後者の作山古墳は翌日に持ち越しとなったが、これらはいずれも大変に巨大な古墳であるのだ。特にこの造山古墳は、なんとなんと、大阪の堺市にある巨大古墳群、仁徳天皇陵、応神天皇陵、履中天皇陵に次ぐ全国第 4位の規模を誇る巨大さで、全長 350m、高さ 24m。もちろんゼロから山を築いたのではなく、自然の山を加工しているが、それでも古墳築造に要した労働力はのべ 150万人とされている。埋葬者は不明だが、5世紀頃のここ吉備の支配者の墓であるとされる。ということはこの時代、ヤマト政権とは別の、強大な地方政権がこの土地に存在していたことになる。古墳の麓にある駐車場に、想像上の吉備の支配者の彫刻が。







2015年 10月 26日
大田区観光協会主催 東海道五十三次 品川宿~川崎宿




さて、そこから商店街を抜けて、鷺 (おおとり) 神社へ。それほど古い神社ではなく、江戸時代の創建らしいが、昔から酉の市 (とりのいち) が有名らしく、今でも大賑わいになるらしい。





もうひとつこのお寺で見るべきは、この阿弥陀様だ。

さて次に向かったのは、磐井神社。実に貞観元年 (859年) 開創という古い神社で、その際、武蔵の国の八幡社の総社に定められたという。江戸時代には将軍も何度も参拝したらしい。



それからまた第一京浜に沿って歩き出すことになったが、上記の通りそのあたりはいわゆる大森海岸。明治の頃には花街となり、芸妓を置く大きな料亭が立ち並んでいたらしく、それは昭和まで存続した。この写真は、その中のひとつ、料亭 福久良 。なんという規模!!

















東京には東海道の面影はほとんど残っていないことを再確認することにはなったものの、土地の記憶は確実に消えずに残っていて、人々がそれを守ろうとしていることに感銘を受けた。特に街道は、人々が行き交う場所であっただけに、人の息吹が活き活きと感じられることを実感した。美原通りなどは、特に目的なくぶらぶらしても面白そうだ。また天気のよい日に散策することとしよう。今回は負傷もなく、無事帰還しました!!
2015年 10月 16日
プラハ散策
今回、業界の国際会議 (Conference) に参加するためにこの街を久しぶりに訪れた。重要な打ち合わせがいくつも設定され、夜の会食もビジネスの機会。ホテルに帰ってからも、容赦なく入ってくるメールへの対応。年とともにひどくなる時差ボケに苦しみながらほぼ業務日程をこなし、最終日、余った 2時間ほどを利用して、同僚とともに街を散策した。プラハのランドスケープと言えば、まずこのカレル橋だろう。

https://www.youtube.com/watch?v=k0DjWBmsYPs
さて今回、私にはどうしても見ておきたい場所があった。それは、旧ユダヤ人墓地。前回の滞在では、定休日 (= ユダヤ教の安息日) である土曜日に当たったために見ることができなかった。そして今回は・・・残念ながらやはり Closed。なんでも、ユダヤ教の祝日に当たっていたようだ。よくよくついていない。ただ、鉄の扉に開けられたガラス窓から、写真だけは撮ることができた。この墓地は 15世紀にできたらしく、現在ではさすがに使われていないが、ユダヤ教では墓地の移転が認められていないことから、狭い敷地内に折り重なるように墓石が建てられたという。なんともすさまじい雰囲気だ。


そのようなプラハの雰囲気において欠かせない有名作家がいる。ほかでもない、フランツ・カフカだ。街中で彼の生家を見かけた。








http://www.o-2.jp/machiaruki/
東京以外にお住まいの方は、「おおたく」というと、「太田区」と勘違いされることが多いと思う。正解は、テンのない「大田区」だ。その理由は簡単。区内の 2大繁華街 (?)、大森と蒲田をくっつけでできた名前であるからだ。それさえ覚えれば、もう間違えることはないでしょう。これであなたも、どこから攻められても大丈夫な、筋金いりの大田区通!! それから、もうひとつ覚えておきたいのは、蒲田駅には 2つあって、ひとつは JR 蒲田駅、もうひとつは京浜急行蒲田駅であることだ。この 2駅は直線距離で 1km 弱離れていて、なんとか 2駅間を結ぶ「蒲蒲線」ができないかと検討されてきており、確か東京オリンピックに向けての整備案にもあったと思うが、どうなったのだろう。京急蒲田駅周辺は近年高架となり、踏切渋滞の解消と羽田空港へのアクセスのよさが実現されているが、JR 蒲田駅周辺もそれにまけじと再開発継続中である。
さて、今回のツアーは、JR 蒲田駅東口ロータリーに集合し、約 3.5km の道のりを 2時間くらいかけて歩こうというもの。さてここには、大田区通なら知っておかねばならない彫像がある。そう。モヤイ像だ。「えっ?! モヤイ像って渋谷じゃないの?」と驚くなかれ。渋谷にあるものと同じようなモヤイ像がどっしりと存在していて、説明板もある。なんでも、渋谷のものと同じく大島から送られたもので、もともと対になっていたもう 1体は、今では青森にあるらしい。この正面の顔の前になぜか空き缶が置いてあるのが、蒲田らしいと言えば蒲田らしい (笑)。




いよいよ出発前の説明となった。まずはこの蒲田駅東口の再開発の説明から入るが、実は数日前にここで大規模な映画のロケが行われたとのこと。それは東宝が来年公開予定で撮影中の、新作ゴジラ映画だというではないか!! 確か前作でもうゴジラはやりませんと宣言したはずだが、ハリウッド版があまりに恐竜じみているのでまた日本で作ることになったのか?! 調べてみると、脚本・総監督 : 庵野 秀明、監督 : 樋口 真嗣という期待できるコンビである。
http://www.oricon.co.jp/special/47834/
それにしても、なぜゴジラは蒲田にやってくるのか。昔たくさんあったキャバレーも、もうほとんどないと案内の人が言っていたから、キャバレー目当てではなさそうだ。多分、羽田に上陸して都心に進むときの、蒲田はただの通り道というのが妥当な推測ではないだろうか。あるいは、モヤイ像がモヤい合ってゴジラと対決?! いずれにせよ、楽しみだ。あ、それから樋口監督、労働者の彫像に、自らの監督作「進撃の巨人」との共通性を見出したことだろう。
ところで、私の手元には、昔の大田区の写真集が何冊かあるのだが、そこに何枚か、蒲田駅の写真があるのでご紹介しよう。最初が昭和10年。なかなか立派な駅舎ではないか。もともと蒲田駅の開業は明治 37年。あとで説明する菖蒲園の開園がきっかけになったともいい、当初の利用者は 1日数人だったが、大正 9年に年間 130万人、昭和 7年には 1,370万人に急増した由。




・古代から近世までの蒲田
・六郷用水が通る蒲田
・映画の街としての蒲田
なじみのない方にご説明すると、六郷用水とは、多摩川の水を今の狛江市で取水し、それを六郷領と呼ばれた現在の大田区地域に水路網を張り巡らせたもの。1590年に江戸に入り、この六郷領が広大な平地であるにもかかわらず水利の悪い土地であることに気づいた徳川家康が、小泉次大夫に命じ、14年かけて作られた。これによりこの地域は稲作地帯へと変貌したが、その後工場の進出により灌漑用水としての役目を終え、生活排水路となり、暗渠となっていったもの。現在でも大田区の街を歩くと、もと六郷用水が通っていた場所があちこちにあって、ブラタモリではないが、過去の土地の歴史が分かると、なんとも興味深いものがいろいろ見えてくるのだ。このあたりの昔の様子は以下の通り、呑川 (のみかわ) と六郷用水の中に重要施設が点在しているのが分かる。




東邦医大通りから少し右に入ると、左手に薭田神社 (ひえたじんじゃ) が見える。この神社の歴史は恐ろしく古く、社伝によれば、709年に僧行基が刻んだ神像が神社のもととなっており、10世紀に編纂された「延喜式」にその名が記載されているらしい。「薭田」という字が転じて「蒲田」という地名になったという説が有力であるとのことで、まさにこの土地の歴史の始まりがここにあるようだ。








こうしてツアー後半戦は、名誉の負傷とともに継続することと相成った。実際地図を (ほかにぶつからないように注意しながら) 再度見てみると、まだ半分しか来ていない。ほかの年輩の参加者の方々はお元気そうだ。なんとか足を引きずりながらついて行くしかない。
キネマ通り。これは撮影所とは関係なく、キネマ館という映画館が昔あったことによるそうだ。ほっほう、文字がさかさまだが、「キネマのびっくり市 プレゼントセール」か。なんとも昭和な感じがよい。「キネマを逆から読むと寝巻だな」、などと関係ないことを考えて、足の痛みを忘れるという悲痛な努力をする私。実は、キネマを逆から読むと、「招き」であって「寝巻」ではないのだが・・・。







さて、名誉の負傷を負いながらのツアーも、ようやく最終目的地が見えてきた。昔の松竹撮影所跡には、今、アプリコという大田区のコンサートホールが立っている。そのホールでコンサートを聴いたことはあるが、そこに、撮影所の正面に架かっていた小さな橋の跡が残されていようとは。その橋とは、松竹橋。この写真の手前に写っているのがそれだ。




2015年 08月 17日
バイロイトについて (旅の総括)
さて、せっかく初めてバイロイト経験をしたので、少し振り返って総括しておきたい。
現地で購入した英語の薄手のガイドブックによると、この街には 800年の歴史があるが、そのうちの 3回に亘る機会が街を形成したとされている。すなわち、
1. 辺境伯妃ウィルヘルミーネ (1709 - 1758) によるロココ文化の繁栄
2. ジャン・パウル (1763 - 1825) の詩作によるロマン主義の台頭
3. ワーグナー (1813 - 1873) による祝祭音楽祭の開始
である。これらの人物に共通するのは、いずれもほかの街からやって来たということだ。すなわちこの街は、偉大なる世界の中心ではなかったが、外部から来た人たちが独自の文化を発信する起点にはなったということだ。但し、18世紀から 19世紀の頃の交通網はよく分からないが、少なくとも現在、この街が交通至便であるかというと、全くそうではない。私の場合は、ニュルンベルクの空港から代理店手配の車で 1時間以上をかけてバイロイト入りした。音楽祭に参加する人々は、いずれにせよ陸路でかなりの距離を移動しないと、空港に辿り着かない、不便なところだ。だが、かといって、全く何もないところに劇場を作ったのかといえばさにあらず。上記の 1. と 2. があったからこそ、3. が実現したのであろう。実際、バイロイトから鉄道で移動すると、なだらかな丘陵地帯がずっと続いていて、そこに存在している駅の周りには、文字通り何もないのだ。従ってワーグナーは少なくとも、本当に何もない場所には祝祭劇場を建てるという選択はしなかったことになる。
さて、上記 1.については、エルミタージュや新宮殿について触れたので省略するとして、2. について少し書いておきたい。ジャン・パウルである。

http://www.green.dti.ne.jp/ed-fuji/column-booksmetamorphas.html
ところでこのジャン・パウルの全集が、ワーグナー旧居、ヴァーンフリートの書棚にもあったのを、もちろん私は見逃しませんでしたよ。先にご紹介したベートーヴェンもそうだが、必ずしもワーグナー自身が読んだとも限らない。だが、ここにあること自体、なんとも興味深い。


さて、ワーグナーである。辺鄙であっても文化的な伝統のあるバイロイトを、自らの祝祭を執り行う場所として選んだわけであるが、もしかすると、上記のジャン・パウルの言葉を知っていて、あえてこの場所を選んだのではないか。ちょっと調べた範囲ではそのような説は見当たらなかったが、したたかな彼であれば、可能性はあるような気がする。いずれにせよ、歴史の荒波に耐えて、この音楽祭は継続している。ただ、例のド M 論に戻ると、あの環境であの音楽を聴きたいと思う人は、やはり少しその性向があるのかもしれない。例えばストラヴィンスキーはその自伝で、バイロイトのことを散々にけなしていた記憶があるし、小林 秀雄も、バイロイト体験を苦々しく書いている。合わない人には決定的に合わないのだろう。実は今般、現地に行って気づいたことには、国際的な観客が集まっているとはいえ、ドイツ語を耳にする機会が予想以上に多かった。メルケル首相もバイロイトが大好きだという。ということは、ワーグナーを好きな人の多くは、ドイツ人自身であるということだ。ド M 性とそのことに、少し関係があるような気もするが、いかがであろうか。ドイツ人は勤勉ではあるものの、少し極端に走る傾向がある。もちろん、端的な例はナチということになろうが、この超右翼政党、よく知られている通り、正式名称は「国家社会主義ドイツ労働者党」である。極左が極右になってしまうこの矛盾。もちろん、あまりに紋切型の決めつけをする意図はないが、ナチとの関連云々の前に、もともとワーグナーの作品の中に、いわゆるドイツ的なものの根源が含まれていることは事実であって、それをいかに受け止めるかという態度が問われているのであろう。なかなかに難しい問題である。
話題が堅くなったので、がらっと変えてみよう。バイロイト音楽祭の幕間の食事についてだ。先にレストランを予約して高価なチキンを食べたことは記事に書いたが、実は、隣のカフェテリアでは、もっとカジュアルなものも食べられるのだ。例えばこれ。









このように街中でワーグナーの話をするのは楽しいものだが、実はこのバイロイト、市街地のいろんなところでワーグナーの彫像に出会うことになる。生誕 200年の 2013年に設置されたものである模様。






