川沿いのラプソディ


川沿いの住まいから、音楽、美術、映画その他文化一般を語りつくします。
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メモ帳

カテゴリ:美術・旅行( 232 )

東京都 国分寺市・立川市 谷保天満宮、普済寺

このブログで既に採り上げた、今年の 7月15日の準・メルクル指揮国立音楽大学オケの演奏会に向かう途中、せっかくだからそのあたりの歴史的な場所を訪れたいと思った。東京都下の西部の方にはあまりなじみのない私であるが、自宅の近くを流れる多摩川を遡って行ったあたりということもあって、いつも興味があるのである。実際その地域を訪れて記事にしたことも何度かあるし、このブログを始める前にも、この地域の重要な歴史遺産はそれなりに訪れてはいる。だが、調べてみて思うことには、東京都といっても東西に長いし、江戸が大都市として発展するよりも遥か昔、このあたりには既に歴史に登場しているのだということが分かる。今回は、そんな文脈において、初めて訪れた場所を 2件、ご紹介する。実は、事前に当たりをつけていた場所はほかにもいくつかあったものの、道路が混んでいて、予想以上の時間を要したので、2箇所だけにならざるを得なかったという事情がある。なのでまたいつか改めて出直したいとは思っているのだが、それでもこの 2箇所を見ることができただけでも、歴史探訪としてはかなり充実している。最初に訪れたのは、国分寺市にある谷保天満宮。
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この「谷保」は、「やほ」ではなく「やぼ」と読む。そう思うと、この神社の前の交差点を標識に、何やら "Yabo" の "b" の箇所に修正の跡が見えるのは、むむむという感じなのである (笑)。地元でも間違える読み方なのだろうか。ま、そんなヤボなことは言わないでおこう。
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実はここ、関東最古の天満宮なのである。ここでおさらいだが、常識に属する事柄として、全国に沢山ある天満宮、つまりは天神様は、誰をご神体として祀ったものだろうか。答えはこの人である。
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そう、菅原道真 (845 - 903)。遣唐使の廃止を提言したことで、その後の日本の文化の国風化を決定づけた点、日本史上でも重要な人であるが、讒言により九州大宰府に左遷されてしまう。そして、死後怨霊として祟りをなしたとされ、天神として神格化される。この天神を祀った神社が、全国の天満宮なのである。たまたま前々回の記事でも、香川県高松市にある由緒正しい天満宮をご紹介したが、この谷保天満宮も、実は東日本最古の天満宮という、大変由緒ある場所。道真の左遷と同時に武蔵国に配流された三男の菅原道武が創建した天満宮なのである。面白いのは、今の境内は、甲州街道沿いに鳥居が立っていて、そこから坂を下ると本殿があるという構造になっている。だが江戸時代の古道はもっと下の方にあったとのことだし、そもそも当初の場所からは移転されているとのこと。だが、この鬱蒼たる森のような境内には神秘感が満点だ。それもそのはず、いわゆる鎮守の森、この神社の境内の「社叢 (しゃそう)」は、東京都指定の天然記念物になっているのである。放し飼いの鶏も、どこか誇らしげに見える。
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そして見えてきた本殿の前には、天満宮定番の牛の彫像があるが、モダン彫刻風の石造のものと、伝統的な青銅製のものとがあって、人々の信仰を思わせる。
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本殿はそれほど古いものではないのか、文化財指定はされていないようだが、その欄間の彫刻は見事である。
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この本殿に向かって左側の建物の 2階に宝物殿があって、日曜日には無料で開放されている。
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ここで見ごたえがあるのは、2件の重要文化財であろう。まず、1275年に作られた、藤原経朝 (つねとも) の揮毫になる扁額である。「天満宮」と書いてある。経朝は、あの有名な「三蹟」のひとり、藤原行成の 9代目の子孫であるらしい。なるほど味がある字だし、この神社の長い歴史を物語る遺品である。
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それから、やはり重要文化財の狛犬。もともと本殿内に祀られていたもので、鎌倉時代らしい、活き活きとした作品である。よく阿吽一対がこれだけよい保存状態で残ったものである。
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さてこの谷保八幡宮はまた、交通安全発祥の地と言われているらしい。実は明治の時代に、宮様が先導する何台かの自動車による「遠乗会」というドライブツアーがあり、その目的地がここであったことによる。その宮様とは、有栖川宮威仁 (たけひと) 親王 (1862 - 1913)。あの東京広尾の有栖川記念公園は、この宮家の元御用地。以下の 3つめの写真の左側が、その威仁親王である。
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さて、次に訪れたもう 1つの目的地は、これがまたすごい場所なのであった。立川市にある、普済寺である。もともとここは、立川という地名のいわれとなった、立川氏の城館があった場所で、この寺は、1353年に立川氏一族の菩提寺として建てられた。そしてこのお寺の三門に辿り着くと、なぜか、菊のご紋があしらわれた扉の奥に聖徳太子像が見える。
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そして、この表示である。
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こ、国宝!! そうなのである。この寺にはなんと、国宝が存在している。それは上にある通り、六面石幢 (せきとう) というもの。聞き慣れない言葉だが、一体どういうものなのか。本の説明では、「仁王像などを陽刻した秩父石の板石 6枚を組み合わせ、上に笠石と宝珠を乗せた」ものである。だが、これでもまだイメージが沸かないであろう。これは、立川民俗記念館にあるレプリカの写真をお借りしてきたもの。形状はよく分かる。
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そしてここに陽刻、つまり、平らな面から浮彫されて表されているのは、ここで拓本に取られているような六面。つまりは、四天王と阿吽の仁王ということである。1361年に造立された。
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実際この場所に行ってみて分かったことには、日本に国宝数々あれど、彫刻作品として、展覧会で見る機会がまず望めないものは、これ以外にはほとんどないのではないか (もちろん、奈良の大仏とか鎌倉の大仏を除いての話だが)。なぜならこの国宝は、こんな場所に保管されているからだ。
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寺の裏手にある、見たところかなり年季の入った鉄筋の小堂であるが、内部に入ることはできないものの、外を一周することができる。重さがどのくらいあるのか分からないが、そう簡単にはこの場所から動かすことはできないだろう。立川の地にどっしり根をおろした国宝なのである。では私が周囲から撮影した写真で、少しでも臨場感を持って頂きたい。
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これはなかなかに珍しい作品であり、現地まで足を運んで見ることができて、大変に有難いことであった。実はこのお寺、1995年に放火に遭っていて、本堂や、開山である物外 (もっかい) 禅師坐像 (重要文化財であったという) などを焼失してしまったらしい。だが、その後本堂は見事に再建され、境内もこのようにきれいに整備されている。
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関東にもまだまだ訪れていない歴史的な場所がある。これからもそのような場所を訪問することで、歴史の断片に思いを馳せることとしたい。でもこの日は、暑かったー。

by yokohama7474 | 2018-08-18 02:24 | 美術・旅行 | Comments(0)

高松・丸亀旅行 その 2 神谷神社、丸亀城、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館、中津万象園・丸亀美術館

前日の高松での歴史巡りの興奮もさめやらぬ第 2日、我々が向かったのは高松の西 20kmほどの位置にある丸亀市である。その目的は前回の記事の冒頭にも書いておいたが、私としてはその道中に、どうしても立ち寄りたい場所があったのである。それは坂出市にある神谷 (かんだに) 神社。
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大変にこじんまりした神社ではあるが、空海の叔父が開祖であるとされ、式内社 (927年にまとめられた延喜式に記載されている神社) という古い歴史と格式を持っている。そしてこの神社を訪れる価値があるのは、その本殿が、なんとなんとなんと、国宝であるからだ!! 1219年の造営で、建立年代が判明している神社建築の中では日本最古。これは是非とも見ておかねばならない。だが、その本殿の近くまで入れてもらうには、事前に連絡をする必要があるという。そんなわけで、前日に電話を何度もトライしたのであるが、残念ながらつながらず、やむなく当日の出たとこ勝負となってしまったのである。ところが、私たちが現地に着いてみると、なんともラッキーなことに、普段は閉ざされているとおぼしき朱塗りの門が開いているではないか!!
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見ると、ほかにも本殿に参拝している人たちがおられる。そして、タタタと飛び出してきたのは可愛らしいプードルで、私たちにしきりに愛想を振りまくのである。そして、たまたま門の横の小屋から出て来た男性に、中に入ってもよいかと尋ねると、その日は午後から儀式があるので、準備のために門を開けており、今なら本殿に参拝してもよいとのこと。やはり、日常生活で徳を積んでおくと、いざというときにはご利益があるねぇなどとうそぶき、でも大変厳粛な気持ちで門の中に入ると、見えてきたのが国宝の本殿である。
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このような、反った屋根が長くせり出す様式は流造 (ながれづくり) というらしく、その様式自体はさして神秘性を感じさせるものではないが、やはり間近で拝観すると、四国のこの地で 800年に亘って存在しているという迫力を実感するのである。やはり、ちょっとほかにない建物であり、さすが国宝と思わせるものがある。
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この神社の裏手には、興味深い場所がある。影向石 (ようごうせき) という巨石である。見上げるほどの巨大さではないが、その苔むした姿はなんとも神秘的。古代から信仰の対象となってきたとされる。周辺からは弥生土器も出土しているというから、古くから神聖な土地であったということだろう。尚、この神谷神社にはまた、重要文化財の神像も伝わっているが、今回は拝観は叶わなかった。
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このようなパワースポットを後にして我々が向かった先は、丸亀で最もメジャーな観光地である、丸亀城である。現存 12天守閣のひとつで、重要文化財に指定されている。もともと室町時代から城郭のあった場所に築城され、現在の天守閣は 1660年の造営。私は今回初めての訪問となったが、予備知識として知っていたのは、小さい天守閣ながら、城の入り口からの高低差が日本最大であるということだ。この写真の真ん中に小さく見えているのが天守閣。いかに地上から高いところにあるか分かろうというものだ。
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ちょっと近づいて正面に回っても、依然としてこんなに高い。
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この日も結構暑い日であったが、ここまで来てひるむわけにはいかない。エッチラオッチラ坂道を登り始めた。一息ついて振り返るとこんな感じ。実はこの坂、その名も見返り坂。そうそう、ここで見返りたくもなりますよ (笑)。
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ここから仰ぎ見る石垣がすごい。高さは 22mで、その曲線は実に美しい。
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だが、見とれてばかりもいられない。天守に辿り着くには、さらにこんな坂を登っていかねばならない。
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これは結構キツいのだが、やがてこのような見晴らしのよい場所に出る。このあたりが三の丸。
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そうすると天守閣はもう近い。確かにこじんまりとしたシンプルなものであり、防御は大丈夫だろうかとも思うが、こんな高いところまで敵が攻め込んでくれば、まぁ、あきらめもつこうかということか (笑)。それにしても眺望は素晴らしい。
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内部も江戸初期そのままの雰囲気。壁は上部まで厚く塗られ、防御を固めている。太鼓壁というらしい。
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また、やはり重要文化財の大手一ノ門が公開されていた。ここでは太鼓で時を知らせていたらしい。
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さて、丸亀城を辞して向かった先は、丸亀市でもうひとつのお目当てであった、猪熊弦一郎現代美術館。今年の 6月 2日付の記事で、この画家の描いた猫 (こう書いてみると、「描く」という字と「猫」という字は似ている) の展覧会を採り上げた。その展覧会の出展作は基本的にすべてこの美術館の所蔵品であったのである。洋画家、猪熊弦一郎 (1902 - 1993) は、ここ香川県丸亀市の生まれ。地元出身の偉大なる芸術家に敬意を表するということであろう、JR 丸亀市のすぐ近くに、彼の作品を集めたこのようなモダンな美術館が建っているのである。設計は日本を代表する建築家のひとり、谷口吉生。開館は 1991年である。愛称は MIMOCA というらしい。"I" の部分は「猪熊」なのだろうが、「弦一郎」の "G" を入れると、語呂のよい略号にならないということだろうか。
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この建物を写真で見たとき、奥に見える落書きのようなものが描かれた白い壁と、奇妙なオブジェの組み合わせが奇異であったが、近くで見ても奇異であることに違いはない (笑)。でも、なんだか楽しくなるではないか。また、私たちが訪れたときには、猪熊の弟子筋に当たる荒井茂雄という画家の展覧会の最終日であった。
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入り口を入ると、いきなり猪熊さんの等身大 (?) の写真が出迎えてくれる。いやそれにしても立派な美術館である。写真撮影も許されていたので、特別展の様子から、美術館の設備のよさを感じて頂けると思う。
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常設展の猪熊の作品展示では、様々なタイプの作品に接することができて、これも大変に楽しい。これは、面識のあった藤田嗣治と、自らの肖像。
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広い展示室には、訪問者たちが思い思いに作品を楽しんでいる。順路もなく、過度な解説のないこの自由な感じが、なかなかよい。
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猪熊が集めていたものなのか、すべて自作なのか、小物を並べたコーナーも、いかめしい美術館にはないものだし、あ、この紙袋には見覚えがあるぞ。そう、三越の紙袋は、猪熊のデザインだったのだ。
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このように念願の猪熊美術館を見学した後、丸亀で最後の目的地に向かうこととした。その場所は、中津万象園。丸亀美術館という施設が併設されている。
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この中津万象園は 5ヘクタールの敷地を誇る大規模な池泉回遊式庭園であり、1688年に時の丸亀藩主、京極高豊によって造営された。京極氏はもともと近江の出身ということらしく、近江八景になぞらえた景色を作り出している。その庭園の入り口にある丸亀美術館には、クールベ、コロー、ミレーらの作品を中心とした 19世紀フランス絵画が展示されている。小さいながらなかなか筋の通ったコレクションである。それに加え、陶器館には、古代オリエント (現在のイラン・イラク) 出土の彩色土器などが展示されていて、これも大変に興味深い。
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では、この広大な庭園を散策して楽しむことができる様々な景色をご紹介しよう。池を琵琶湖に模していて、数々の島があり、現存最古の煎茶席もあれば、赤い鳥居が立ち並ぶ稲荷神社もある。丸亀のお殿様は粋だったのですなぁ。
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また、讃岐富士と呼ばれる飯野山を借景にしているあたりも心憎い。それから、昔ここに存在していて、天保の頃に一度洪水で流された「石投げ地蔵尊」が復元されている。その名の通り、お地蔵さんの近くに石を投げて祈願するもの。但し、「地蔵尊に直接石を投げないで下さい」と注意書きがある。もちろん、そんな罰当たりなことをしてはいけませんぞ。
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そして、駆け足ながら香川の歴史を満喫した私たちは、帰路についたのであった。四国の歴史にはまだまだ奥深いものがあるので、また訪れてみたい。

by yokohama7474 | 2018-08-17 01:13 | 美術・旅行 | Comments(0)

高松・丸亀旅行 その 1 正花寺、願興寺、讃岐国分寺、平賀源内記念館・旧居、志度寺、屋島寺、高松城跡

今回と次回でご紹介するのは、私と家人が 6/30 (土) - 7/1 (日) という 1泊 2日で出掛けた旅行である。この週末には予定されたコンサートもなく、ちょっとどこかに出掛けようかと思って決めた行き先は、四国・香川県の高松と丸亀である。なぜという大した理由はないのだが、強いて言えばひとつのきっかけは、以前このブログでも採り上げた、Bunkamura ザ・ミュージアムで見た洋画家猪熊弦一郎の展覧会だ。彼の生地丸亀に、その名を冠した美術館があることは知っていて、ちょっと興味があった。それから丸亀といえば、現存 12天守閣のひとつ、重要文化財丸亀城もあるではないか、ということ。さらには、たまたま調べてみたら、成田から飛んでいる LCC の就航先に高松があったということだろうか。私は高松は過去に 2度訪ねたことがあり、有名な栗林公園はその 2度とも行っているので、今回はちょっと違った歴史探訪をしようと思って調べてみると、大変古い仏像が何体かこの地にあることが分かった。そして、実際に現地を訪れてみると、駆け足とはいえ、この地の歴史に思いを馳せることとなったのである。

まず、高松到着前に、飛行機の中で家人から出た鋭い指摘から始めよう。彼女いわく、上空から見ていると、何やらため池のように見えるものがやたらと多いという。それは歴史を学ぶ者にとっては結構重要な課題であることを私は知っていたので、その観察眼を一応誉めておいてから、香川にはため池が多いのだよと説明すると、例によって疑わし気な目で私を見るのである。ではここで、公的機関が発表しているデータを引用させてもらおう。
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これはため池の密度。なんと香川は、全国 No. 1 なのである!! もちろん香川県、つまり讃岐の国はうどんで有名であり、灌漑によってうどんの原料である小麦の栽培が盛んであったことからも、この地の特性は理解できる。だが、それだけではない。端的な例を挙げると、ここ香川県には、日本で有数の古さと大きさを誇る、あるため池が現存しているのである。その名は満濃池 (まんのういけ)。今から 1300年前に開かれたと伝わる。今回は残念ながらその場所に足を運ぶことはできなかったが、ここが有名であるのは、西暦 821年に (ということは、このため池が作られてから 100年ほど後のことだ)、ある人がこのため池を改修しているからである。この人だ。
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そう、日本仏教界最大最高の存在のひとりである、弘法大師空海である。彼はここ讃岐の出身であり、全国の多くの場所で、杖で地面を叩くと水が沸き出したという霊力を発揮したという伝説を持っている。もちろん水とは人間の生活になくてはならないものであり、空海が尊い聖者として崇拝されることで、そのような伝説が生まれたという事情はあると思うが、それだけではなくて空海は、実際に灌漑の知識を持っていたのではないかと思う。それは取りも直さず、彼がこの讃岐平野に生を受けたことと関係があるであろう。この地は四国の中で、最も畿内に近い。そんなこともあってであろう。古くから仏教文化が花開いた土地でもあるのだ。それを証明する素晴らしい仏像 2体と対面することが今回叶ったので、まずはそれをご紹介しよう。尚、いずれもメールや電話で訪問日時を伝えてあった。大規模観光寺院ではないので、それは必要なことなのである。まず最初に訪れたのは、正花寺 (しょうけじ) である。
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ここには、重要文化財の菩薩立像が伝わっている。このような素木の一木造りで、天平時代後期から平安時代初期頃の仏像である。その力強く、またどこか異国的な風貌は、明らかにその時代の特徴を備えている。唐招提寺に伝わる、いわゆる「講堂諸仏」と呼ばれる木造仏を連想させるようなところもある。これは、私がお寺の方の許可を頂いてその場で撮影した写真。
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実際この地には、古くから東大寺や唐招提寺の所領があったらしく、当時の都とは交流のあった地であったらしい。そうなのだ。空海を輩出したこの讃岐という土地柄には、そのような文脈があったのである。この正花寺も往時はかなりの大寺院であったろう。ある本には、空海もこの仏像を仰ぎ見たかもしれないと書いてあったが、そう思うとなんとも夢が広がって行くではないか。収蔵庫の様子や、衣文の流れ、蓮の花を象った台座など、細部も間近で拝観できて、貴重な体験であった。
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また、向かって左端に見える女性の彫像は、霊照女像。唐の時代の人で、禅の逸話に登場するらしく、彫像は珍しい。あたかも明治時代の生人形のような雰囲気だが、桃山時代の作とのことであった。
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このお寺の境内は決して広くはないが、収蔵庫の横にあるこのような小堂を取り巻く土塀には、なんとも風情がある。屋根の上に、きか猿といわ猿がいて、み猿がいないのには、何か意味があるのだろうか。
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実はこのお寺に隣接して、結構立派な天満宮があって、その名は綱敷天満宮。この名前の天満宮は、調べてみると福岡や神戸にもあるようで、その由来は、大宰府に左遷される途中で嵐に見舞われた菅原道真がここ高松の地に停泊した際、久利長門守という人が、船の綱を敷いてその上に道真を招いたという逸話らしい。であれば、この地にある綱敷神社こそ、本家本元ということなのだろうか。だがこの神社のある場所は港ではなく、道真が讃岐国司を務めていたときに、よく詩歌を詠んだというゆかりの場所である由。そうすると正花寺の菩薩像は、空海だけでなく道真も拝んだ仏像かもしれないではないか!!
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そしてこの神社の前には、道真がよく腰かけたという腰掛岩や、上記の久利長門守が大宰府に道真を見舞った際にもらった梅の種から育ったという木がある。
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さて、ここで高松を代表するもう 1体の重要文化財の仏像をご紹介しよう。それは願興寺という、やはり小さなお寺に伝わっている。
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この寺の収蔵庫に 1体だけ収まっておられるのは、聖観音坐像。これは天平時代の作で、やはり大変に古いものであるが、実は乾漆造りという手法で作られているのだが、麻布を漆で塗り固めて作るこの手法は、大変な手間がかかるため、天平時代にしか作例がない。また、奈良を中心とする近畿圏内以外の作例は極めて珍しく、私が今ほかに思いつく例は、岐阜県の美江寺の十一面観音くらいである。ここでは写真撮影の許可を求めることはしなかったので、この仏像の写真をお借りして来よう。興味深いのは胸を飾る瓔珞で、見ての通りこれは、別に作ったものを掛けているのではなく、本体と一体化している。もと東京でサラリーマンをされていたというご住職によると、先般東京藝大の手でこの像の複製が作られた際、きっちり像の上から瓔珞を造形していたとのこと。それにしても美しい仏さまである。
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さて実はこの 2つの寺の間にもう 1つ、お寺を訪れている。それは讃岐国分寺である。言うまでもなく国分寺とは、奈良の東大寺をその総本山として、聖武天皇の命によって全国に建てられた諸寺のこと。全国各地で、全く場所が分からないところ、地名だけにその名残りを留めているところ、その後を継いだ寺が後世に復興されて現存しているところと様々だ。ここ讃岐国分寺は、その最後の範疇に属する。四国八十八か所の札所でもある。
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この寺の佇まいは、それはそれでなかなか森閑たるものであるが、境内には「讃岐国分寺跡」と、現存しているこの「讃岐国分寺」は違うのであるとの表示もあって、少々戸惑うことも確か。だがこの寺がすべて近代のものかというとさにあらず。境内には、奈良時代鋳造の銅鐘が、今でも下がっている。重要文化財である。また、本堂はもともと鎌倉時代の建造で、やはり重要文化財。
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訪れる人もまばらなこの寺の境内を歩いていると、何やら水がチャプチャプする音が聞こえてきた。何かと思うと、池の亀が、人の足跡を聞きつけて、クロールで競泳しながら橋に寄ってきたのである (笑)。いやー、これはすごかった。ゆったりのんびりのイメージがある亀の世界でも、クロールの競泳が存在しているとは。命を賭けて (ではないことを祈るが) 私たちを頼って寄ってくる亀たち。
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そして前述の通り、現存する讃岐国分寺ではない、そのすぐ裏手にある讃岐国分寺「跡」へ。なんでも、四国唯一の特別史跡なのだそうだ。うーん、「空海生誕地」でも発見されない限りはそうなのだろうか。
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ここはかなり広大な空き地になっているのだが、それでも当時の国分寺の敷地の一部であるようだ。このような復元された築地塀や、使用目的のよく分からない建物の柱の跡、疎石などがあって興味深い。
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だがとりわけ興味深いのは、上の写真の奥、右端に見える復元された建物である。大変細長い敷地を持つこの場所は、昔の僧房 (僧侶の住まい) の跡であるらしい。今その発掘現場は覆いで保護され、当時の僧侶たちの生活をイメージできるような一部の復元がなされている。ここで経典を勉強していた僧侶は、一体どのようなユートピアを頭の中に描いていたのだろうか。タイムマシンがあれば訊いてみたい。
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さらにこの場所には、当時の国分寺の伽藍が縮小サイズで復元されている。なるほど、回廊も塔もあったわけですな。
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さて、高松市に生まれた、また一風変わった偉人がもうひとりいるのだが、ご存じであろうか。それは、江戸時代のマルチタレント、平賀源内 (1728 - 1780) である。
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彼の業績について逐一ここで述べることはしないが、私の場合、住んでいる場所の近くの新田神社というところで破魔矢を発明したり、我が家の近くを舞台にした「神霊矢口渡」という歌舞伎の台本を書いている (以前このブログで採り上げたこともある) ことで、本当に、他人とは思えない親しみを覚えているのである。なので、この場所で思いもかけず彼の旧居や墓所に遭遇して、感激もひとしお。まずは彼の業績を辿る資料館に行ってみよう。
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彼が発明した有名な静電気発生装置は、「エレキテル」と名付けられていて、この記念館に行けばその原理を学ぶことができるだけでなく、復元した装置を体験することもできる。やはりこの人、自由なようでいて窮屈な江戸時代の文化を突き抜けた人であったようだ。そして彼の旧居の横に立っている銅像には、そのエレキテルも刻まれているのである。
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旧居の中にはさして見るべきものも多くないが、さすがに年季の入った家であり、また庭園には様々な実用性ある薬草類が植えられていて、面白い。
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この旧居からほど遠からぬ場所に、彼の墓所がある。この地域の名刹であり、四国八十八番の札所である志度寺の塔頭、自性院にそれはあるのである。苔むした小さな墓であるが、地元の人たちの未だ変わらぬ篤い尊敬を実感できる場所であった。享年 52歳と聞いてびっくり。因みに私はつい先日 53歳になったので、既に源内の人生を越えてしまっているわけだ。うーむ。
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そして志度寺自体も、大層古くて格式のあるお寺である。仁王門とそこにある金剛力士、そして本堂が重要文化財。
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さて、ここまで来ればもうひとつ、日本の歴史上有名な場所がほど近い。それは屋島なのであるが、そこに向かう途中で見えた特殊な地形は、こんな感じである。
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また、次の写真は、私たちがこの日泊まったホテルの部屋から見た屋島。恥ずかしながら知らなかったことには (屋島には以前も訪れたことがあったにも関わらず)、この屋島は「島」ではなく、陸続きの台地なのである。だが、これは遠くから見るとやはり島のように見えるではないか。源平の合戦の中でドラマティックな舞台設定をするにはもってこいの場所である。
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この屋島の頂上 (?) に登る途中には、このような眺望のよい場所も用意されている。今は静かなこの場所で、いかなる血みどろの戦いが展開したのであろうか。
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そしてこの屋島の頂上には、山の上にあるという極めて珍しいロケーションの水族館のほか、古くからの名刹、屋島寺がある。鎌倉時代の部材を使って江戸時代初期に再建された本堂は、かなり装飾的な建物で、重要文化財に指定されている。
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この寺の創建は奈良時代まで遡るらしく、源平の時代より遥か以前からこの地に存在しているのである。ここには宝物館があって、天平建築 (というより、要するに唐招提寺金堂) のような屋根の造形でありながら、真ん中で分断されたそのモダンな設計が面白い。展示物の中で注目されるのは、この寺の本尊の十一面観音坐像。どっしりとしたモデリングの重要文化財で、私は既に何度目かの対面になるが、比較的最近では、このブログでも採り上げて絶賛した、仁和寺と御室派の展覧会にもおでましになっていた。造像は間違いなく平安時代であろうから、この地で行われた源平の争いを目撃された仏さまであるということになる。
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この宝物館でもうひとつ見逃せないのは、建物の裏側にある地形の様子。これは雪ノ庭と呼ばれている。その名の通り雪景色のようなのであるが、そのように見える理由は、この土地の表面は基本的に安山岩なのに、ここだけ凝灰岩であるからだという。四季折々の景色が楽しめるようだ。
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屋島寺を辞して、次の目的地に向かうために駐車場に戻ろうとしたところ、家人があらぬ方向にスタスタと歩き出した。一体何かと訊いてみると、彼女は子供の頃、岡山に住んでいて、そこから対岸にあるこの屋島に、家族でフェリーに乗って、しょっちゅう来ていたという。そして、子供の頃に見て忘れられない怖い場所があるというのだ。それは池であり、瑠璃宝の池と呼ばれている。その名は空海伝説に由来するのだが、この池の別名は「血の池」。なんでも、壇ノ浦の戦いに参加した兵士たちがこの池で刀を洗ったところ、真っ赤に染まったという伝承によるらしい。うーん、そう言われてみると、ジヴェルニーのモネの邸宅の庭みたいじゃない、という軽いノリのコメントも通じないほど、おどろおどろしい。しかも身長の低い子供の視線から見ると、相当不気味であったことは間違いないだろう。
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さて、既に充分長い一日になっているが (笑)、この日最後の目的地として私たちが向かったのは、高松城址である。ここには既に天守閣はないことは承知であったが、現存する建物にいくつか重要文化財が含まれていることから、是非訪ねてみたいと思ったのである。現在では、玉藻 (たまも) 公園という名称になっている。
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結論から述べれば、歴史好きなら、高松の中でこの場所に行かないのはもったいない。歴史に思いを馳せ、時間の流れを実感できる場所である。この、堀に面して残るのは、艮 (うしとら) 櫓。重要文化財である。
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この城、様々な箇所にユニークさがあって面白いのだが、これは埋門 (うずみもん) という、石垣をくり抜いて作られた門。使用目的には諸説あるらしい。
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そして進んで行くと、今はなき天守閣の土台が見える。その奥に見える近代的なビルとの対照もあって、時間の不可逆性に思いを致すことができるのである。
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さらに進んで行くと、このような建物が見えてくる。
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これは 1917年に完成したというから、今を去ること 100年以上前の建物で、その名を披雲閣 (ひうんかく) と言って、重要文化財である。既に大正時代に至っていたが、旧藩主松平家 12代で、貴族院議長も務めた松平頼壽 (よりなが) によって造営された、高松松平家の別邸である。実に 142畳敷の大書院があるなど、非常に豪壮な施設である。現在では市の施設として、広く市民に使用されているらしい。後ろの空に見える飛行機雲が、なにやら懐かしい思いを抱かせる。
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さらに歩いて行くと、もうひとつの重要文化財の建物が見えてくる。これは月見櫓。毎週日曜には内部を観覧できるらしいが、この日はあいにく土曜日。中に入るのはまた次回に持ち越したのである。
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さて、上の写真で何か気づくことはないだろうか。そう、この櫓の向こうはすぐ海になっている。現在道路になっている部分は埋め立て地であり、もともとは城自体がすぐ海に面していたらしい。実はこの高松城、日本三大水城のひとつと言われている (ほかの二つは、今治城と中津城)。なんとこの城の堀には海水が引き込まれており、それは日本でも唯一であるらしい。なるほど、海からの水の出入りを調整する、このような水門もある。
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そして、あっ、この海水を引き入れた堀を、船に乗って回遊できるという。朝 9時から夕方 17時までであるが、私たちがここに辿り着いたのはちょうど 17時少し前。ギリギリであるが、乗船できる。しかも、ほかには人影もなく、貸し切り状態で乗ることができたのである。
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この乗船体験で面白いのは、このような魚のエサを渡されること。
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これは鯉や、ましてやクロールで寄ってくる亀のエサではない。なんと、エサをやるのは鯛なのである!! ここの堀は海とつながっているゆえに、チヌ (クロダイ) や、マダイも棲息している。この魚たちは、船について泳ぐと、エサにありつけることをよく知っているのであろう。こんな感じでぴったりついてきて、エサを撒こうものなら、その場で仁義なき争奪戦が繰り広げられるのである。なお、あとで堀を覗いて確認したことには、ここにはフグもいるのである。本当に海の一部だ。
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この乗船体験で面白かったのは、天守閣の土台に、堀の側から近づけること。近くで見ると仰ぎ見るような高さなのである。
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このように乗船体験を堪能し、最後に、鞘橋という堀に架かる橋を渡って天守閣の跡地に向かった。その場所に立ってみると、屋島を見晴るかすことができる。
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実はこの時の船頭さんに聞いた話だが、この高松城の天守閣を復元しようというプランがあるという。だが、今回初めて知ったことには、この高松城跡のように史跡に指定されている場所で昔の建物を再建する場合には、鉄筋コンクリートではなく、木造で建てる必要があるという。いつからそのような規制があるのか知らないが、なるほど、歴史的な場所の景観を維持・保管するための施策ということだろう。そうなると問題は、建物の強度を知るためにも、内部の構造が分かるような当初の建造物の設計資料がないといけない。同様のケースでさらに規模の大きい例は、名古屋城天守閣であるが、こちらは戦後再建された現在の鉄筋コンクリート作りの天守閣が充分な耐震構造を持っていないことから、建て替えの必要があるという事情による。恐らく名古屋の場合には、トヨタなどの地元企業からの支援があれば、木造での再建という壮大な案も実現性がそれなりにあるかもしれないし、何より、戦災で焼けるまではそこに堂々と立っていたわけで、内部構造に関する資料もあるらしい。ところがこの高松城の場合、1884年に取り壊されているために、内部設計についての充分な資料がないらしい。うーん、そんな事情があるとは知らなかった。現地にはこのような復元イメージが掲げられているのであるが・・・。
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そんなわけで、ため池に始まり、空海や菅原道真や平賀源内や源平の合戦を経て、最後はまた水に関係する高松城で、この日の観光を終えることとした。実に豊かな歴史を身をもって経験したわけであり、ここでは書かなかったが、もちろん讃岐うどんも堪能した (笑)。讃岐の歴史には、まだまだ尽きせぬ魅力があるのである。

by yokohama7474 | 2018-08-15 23:13 | 美術・旅行 | Comments(0)

戦後美術の現在形 池田龍雄展 楕円幻想 練馬区立美術館

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これは 2ヶ月ほど前まで練馬区立美術館で開かれていた展覧会。私も会期ぎりぎりになってこの展覧会のことを知り、なんとか最終日に見に行くことができたもの。この美術館では日本の近現代美術の面白い展覧会がよく開かれていて、いつも要注意なのであるが、今回もなんとかギリギリで間に合ってよかった。どこかの美術館で、上に掲げたようなチラシを見て、その異様な雰囲気に一目で (あ、この絵自体は一目ではなく、さながら百目だが) 魅せられたのである。これは、洋画家池田龍雄 (1928 - ) の展覧会。生年を見て分かる通り、今年 90歳になる。いや、彼の誕生日は奇しくも終戦記念日の 8月15日。もうすぐ 90歳ということであるが、では彼は終戦の日、17歳の誕生日はいかにして迎えたのであろうか。その頃の写真がこれである。
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そう、佐賀県伊万里市に生を受けた彼が 17歳になった日に終戦を迎えたのは、特攻隊員としての訓練中。このような事態に対して、後の世に生まれた我々が一体何を言えるというのだろう。彼がこの終戦の日に背負った十字架が、きっと彼の生きる原動力になってきたとは思うのだが、この展覧会の最初に展示されていた 1991年作の「友に捧ぐ」という作品に対して、何か語れる言葉があるだろうか。1945年 4月27日、岩国で特攻隊の訓練を受けていた池田は、親友の訓練中の死に遭遇する。これはその後事故現場近くの海岸で拾った流木を、戦闘機の操縦席を思わせる金属製の枠に収めた作品である。終戦後半世紀近く経っても、彼の中には訓練中の親友の死が深く刻まれていたわけである。
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経歴を見てみると、彼は 1948年、20歳で現在の多摩美術大学に入学しているが、学費を払えなくなり、その後学校には行かなくなる。つまり彼の画業は、ほぼ独学ということになる。そして池田は現在まで、既成の美術団体とは距離を置き、コンクールに出展することもなく、アンデパンダン展 (フランスに起源を持ち、無審査で出展できる展覧会) を主な発表の場としてきた。戦争に憑りついた死神から間一髪逃れることのできた池田はしかし、それから 70年以上、戦争を生き残った罪悪感に苛まれながら、様々な画業を展開してきているのである。これは 1951年作の「無風地帯 - 壊された風景」。もちろん戦後の占領期の混乱から生まれた作品であるが、ここには、池田が感銘を受けたという岡本太郎の影響も見て取れるものの、私が思い出すのは、チリの画家、ロベルト・マッタである。
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戦争の記憶は増殖する。これは 1954年作の「僕らを傷つけたもの 1945年の記憶」。これも同様の画風であるが、戦後 9年を経て人々の記憶の中から戦争の影が薄れつつあった頃、リアリズムを離れたところで戦争の悲惨さを訴える試みであったのだろう。
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これも同じ 1954年作の「にんげん」。帽子を取って挨拶する男にかぶさっているのは、菊のご紋と日章旗である。そうするとこの題名は、昭和天皇の「人間宣言」を表しているのであろうか。その人のために死を覚悟したまま終戦を迎えた池田の心境は、後世が慮るには重すぎる。
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同様の趣向は 1955年作の「勲章」でも見ることができる。この仮借なくもグロテスクな戦争批判は、あのゲオルゲ・グロッスにも匹敵しよう。
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その後の池田の画業の広がりはあとで見るとして、展覧会では、彼と戦争との関わりが最初に明らかにされていた。これは実に終戦後 65年後を経た 2010年作の「散りそこねた桜の碑」。ドクロと日の丸の下に見えるのは 2つの辞世の句。ひとつは良寛の作とされる「散る桜 のこる桜も 散る桜」。もうひとつは、池田自身が特攻隊の訓練を受けているときに両親に送った「君のため花と散りしと 東風よ いさをつたへよ 父母のもとに」である。
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1951年 9月から池田は、生活のため、進駐軍相手のアルバイトとしてポートレートを描き始める。時あたかも朝鮮戦争の頃。故国を離れて遠いアジアにやってきた進駐軍兵士たちは、写真をもとに彼らの家族や恋人の顔を描いてもらうことを所望した。ところが、この 1952年の作品は、依頼主が戦死したのか、戻って来なかったので、画家の手元に残った作品であるようだ。この金髪碧眼の美女が誰であるのか、今では調べる術もないだろう。戻らぬ恋人を待ち続けたかもしれない彼女は、その後彼女が辿った運命とは全く別の人生として、これからも永遠に微笑を浮かべたまま、恋人を待ち続ける。
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さてここで改めて池田の画業を辿ってみよう。これは、画家を目指し始めた頃、1947年の「自画像」。うーん、少し色使いが単純すぎるもの、これは当時の洋画家として、見事な作品ではないか。あの重要文化財に指定されている中村彝の「エロシェンコ氏の肖像」(1920年作) を念頭において作成されたという。
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戦後の池田の創作活動は、上で見たような反戦という基本姿勢がありながら、一方では近代化の進む人間社会への警鐘というテーマも並行して走っている。これは 1952年作の「鉄骨」。
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そして彼は、社会の低部で苦しむ人たちの姿も様々に描くようになる。これは 1954年作の「内灘」という版画シリーズの中の「収穫」という作品。ピカソばりに顔のゆがんだ漁師が、彼が釣り上げたとおぼしき巨大な魚を背負って歩いているが、その魚は既に骨になっている。恐ろしい皮肉がここにある。
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これは 1953年作の「腕」。日本の産業発展を支えた炭坑労働者の叫びを代弁するような作品である。私がこれを見て思い出すのは、やはり戦後の日本美術で重きをなした鶴岡政男の「重い手」という 1949年の有名な作品である。調べた限りでは鶴岡と池田の接点は見つからなかったが、影響関係があってもおかしくないと思う。比較して頂きたい。
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この1955年作の「坑口」もテーマは似通っているが、こちらは河原温の同じ年の作品「黒人兵」を思わせる。池田と河原は、数々の展覧会のメンバーとして作品発表の舞台をともにしているので、ここでも影響関係があっても不思議ではない。ここでは、その河原の「黒人兵」を表紙として使用した興味深い書物、「チュビズム宣言」の表紙を掲げておこう。
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さて次は、1956年作の「ストリップ・ミル」。池田が見学した小倉の八幡製鉄所の連続式圧延機 (ストリップ・ミル) にヒントを得たものらしい。反戦の暗い題材からは抜け出し、レジェ風の作品に仕上がっている。そう、上で掲げた「チュビスム宣言」は、人間は一本の管 (チューブ) でできていることを切り口としているが、ここでの池田の感性もそれに近いのではないか。
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池田の脱戦争の動きのひとつとして、本の装丁や絵本の挿絵という活動も挙げられるのではないか。この「ないたあかおに」は 1965年の初版で、私も子供の頃、図書館で見かけた絵本である。
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だがやはり池田にとっては、戦争を離れても、近代化、工業化の進展に対する抵抗感があったことが、制作活動の原動力になったことは、この展覧会で何度も実感することとなった。例えばこれは、1955年作の「化物の系譜」というシリーズの「谷間」。ここに横たわる巨大な管は、京浜工業地帯の大企業を表しているらしい。
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これも同じく「化物の系譜」から「行列」、そしてチラシにもなっている「巨人」。このブラックな感性は、私の琴線にかなり触れるものである。
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これは 1967年作の「米」。一粒の米の中に、農民の手や口元など、様々な写真がコラージュされている。高度成長時代に存在した、社会の矛盾への警鐘であろう。
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池田の真骨頂は、このようなモノクロ作品のみにあるのかと思うとさにあらず。この 1967年作の「玩具世界」というシリーズの「アンドロイド♂」は、なかなかにポップな雰囲気である。だがその風刺している内容は、人間と機械の葛藤であり、なかなか一筋縄ではいかないと思われる。
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展覧会では池田のその他の活動 (パフォーマンス系あり、インスタレーションあり) が紹介されていた。その中には日本のシュールの生みの親とも言うべき瀧口修造との親交も明らかとなり、大変に興味深かったのである。そしてこれは、1973年に始まった「梵天の塔」というプロジェクト。
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インドのベナレスに、1枚の真鍮版が安置されていて、そこには 3本のダイヤモンドの棒が立てられ、そのうちの 1本に 64枚の純金の穴あき円盤が積み重ねられている。僧侶は厳格なルールのもと、日夜絶え間なく、ある棒から別の棒に円盤を移す勤行を行っている。すべての円盤が移されたとき、塔も寺も粉々に砕け、世界は消滅するという。そしてこの円盤の移動には 2の 64乗の動作が必要らしく (このあたりはよく理解できないが)、不眠不休で行っても 5800億年を要するという。池田はそれに倣って 1973年から円盤を移す行為を始めたという。そこには多くの人たちが関わっていて、署名を集めたノートが展覧会で展示されていた。ここには、野中ユリ、谷川晃一、巖谷國士、李禹煥 (リ・ウーファン)、麿赤児などの名前が見える。大変なプロジェクトなのである。
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さて、この展覧会の副題は「楕円幻想」であるが、池田はある時期から様々な楕円を描くようになった。それは、何やら有機的な突起であったり球形であったりするのだが、それはこの画家の中に、人間の身体が解体される瞬間の情景というトラウマがあるからではないかと、私は思う。そこにはまた、生命の根源を思わせたり、上記で見た「梵天」プロジェクトのような、仏教的な悠久の時間を感じさせる要素もある。これは 1974年頃作の「BRAHMAN 梵天 第 1章」という連作から。
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展覧会の最後には、池田の近作のあれこれが展示されていた。これは 2009年頃作の「場の位相」というシリーズから「虚時空山水」。抽象性は増しているものの、ここで描かれた物体はどこか、最初の方で見た「友に捧ぐ」という作品で使われている木片を思い出させるものはないだろうか。
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この 2012年作の「八十三年の距離」は、ちょっと異色作である。1歳の自分と 84歳の自分の肖像を並置している。やはり彼は、自分が生きて来た過去と無縁ではいられないタイプの芸術家なのである。
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高齢となった今でも創作活動を継続していることには本当に敬意を表したいが、これはやはり「場の位相」シリーズから、2017年作の「放射する線」。鮮やかな色彩は、とても老人のものとは思えない。
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かくして、かつての特攻隊員は、その後昭和・平成と生き抜き、仮借なく人間の姿を追い求め続けているのである。
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by yokohama7474 | 2018-08-12 00:29 | 美術・旅行 | Comments(0)

人間・髙山辰雄展 森羅万象への道 世田谷美術館

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例によって例のごとく、既に東京では終了している展覧会である。だが、ちょうど今頃は大分県立美術館に巡回していて、そこでは 8/19 (日) までこの展覧会を開催中である。なので、もしこの記事をご覧になってこの画家の画業に興味を持たれれば、別府あたりの温泉を楽しむつもりで大分を訪れて頂ければよいと思う。これはその大分出身の日本画家で、文化勲章受章者である髙山辰雄 (1912 - 2007) の大規模な回顧展。生まれは大分であっても、1951年から死ぬまで (95歳で天寿を全うするまで) 世田谷に暮らして創作活動を続けたということで、世田谷美術館で展覧会が開かれたわけである。これが髙山の肖像。
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有名な日本画家であるから、もちろん私にはもともと、この画家に対するあるイメージがあった。それは、まさに冒頭に掲げたチラシのごとく、人間の孤独を静謐な雰囲気の中で描く画家であるというもの。だが私もこの画家の回顧展を見るのは初めてである。じっくりその作品を味わってから感じた思いは、この画家の素晴らしい才能が、時代の中で表現の居場所を求めて苦闘したというもの。換言すると、きっと彼の画業は本人にとっては順風満帆ではなく、まさに人間存在と、それを取り巻く森羅万象をいかにキャンバスの上に表すかという点において、苦難の連続であったのではないかと思う。展覧会を見ながらそんなことを思ったのは、彼の 20代の作品、1936年作のこの「砂丘」(東京藝術大学所蔵) という作品を見たときだ。私はこの絵を見て直感的に思ったのは、「彼はこの路線をもっともっと貫けば、全く違った前衛性を持つスタイルを確立したのではないか・・・」ということ。その理由を言葉にするのは難しいが、モダニズムの雰囲気を漂わせながら、ここに描かれた女学生の実在感と、それに対抗するかのように画一的なパターンを描く砂の模様の対比に、なんともただならぬ緊張関係を感じたからである。実はこれは、髙山が東京美術学校 (今の藝大) を首席で卒業した際の卒業制作。なるほど、大した才能である。
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そしてその 5年後、太平洋戦争勃発時の 1941年に彼が描いた「雨」(大分県立美術館蔵) も、その延長線上にある素晴らしい作品だと私は思う。この水面の描き方は、決してリアルではないのだが、雨の作り出す波紋の透明感に、現実世界とは異なるリアリティを表現したいという強い意欲を感じて、感動する。
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私の見るところ、髙山はこのような若い頃の自由な雰囲気から、戦争体験を経て、その創作態度が変わって行った。これは 1947年作の「はだか」(大分県立美術館蔵) という作品であるが、一見してゴーギャンの影響を思わせるし、上で見たような独創性はむしろ後退しているように思われる。
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この 1949年作の「少女」などは、一般的に流布している髙山のイメージに近いようにも思われる。緑のベタ塗りは相変わらずゴーギャンを想起させ、黒い横長の穴を目とする少女の表情は、この後の彼の創作活動でも繰り返し現れるのである。
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髙山は再三に亘り、人間を描くことの情熱を語っている。彼の描く人間はしかし、決して感情豊かなものではなく、しばしば人形のようであったり、ほとんど影であったりする。この 1963年作の「夜」(神奈川県立近代美術館蔵) はそのような典型例ではないだろうか。人間の孤独を描いたものと言えば単純過ぎようが、ただ彼の作品にあまり複雑な意味を見出そうとするより、見たままの印象を心に受け止めればように思う。
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1969年作のこの「行人」(東京都現代美術館蔵) もまた、ある意味で髙山の描く人間像の典型であろう。前景の男女は不気味な風貌であるが、私が面白いと思うのは、女性の右手に漲る異様な表情である。よく見ると、先端部分しか描かれていない左手にも、何やら不思議な力が込められている。全体的にはゴーギャンの影響はどうしても感じられるが、その呪縛から逃れようという画家の執念も見られ、もしかするとこの手の表現にはそのあたりも関係しているのではという解釈は、うがちすぎだろうか。
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だが髙山の描く人間像はただ暗いという印象でもない。この1973年作の「朝」(大分市美術館) は、寒色系の色合いもあって、爽やかさ、と言って悪ければ、澄んだ空気の緊張を感じさせ、それはこれから始まる一日を連想させるものである。
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これは展覧会のポスターにもなっている、1979年作の「少女」。これは大変印象に残る作品ではあるが、同じ少女を描くにも、上で見た卒業制作の「砂丘」に比べると、なんと異なる作風であることか。髙山のスタイルはこの頃には確立していたわけだが、若き日の才能のあり方を考えると、これがベストの発展形であったか否かは、もしかすると様々な意見がありうるかもしれないとも思うのである。
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これは 1983年作の「星辰」(世田谷美術館蔵)。これはもう日本画か洋画か分からない表現であり、フレスコ画のようにすら見える。表現には複雑な要素は見られず、その画面には静謐な雰囲気が漂う。だが、それをさらに突き抜けて宗教的なものを感じるかというと、そうでもないように思う。画家はひたすら人間を見つめている。
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これは 1986年作の「旅の薄暮」(大分県立美術館蔵)。展覧会場にはこの絵にまつわるエピソードが掲げられていたが、図録にはそれは掲載されていない。確かフランスで、思わぬ小村に迷い込み、無人かと思われた静かな家から顔を覗かせた少女がいて神秘的だった。髙山は、その後渡仏するたびにその場所を探してみるが見つからない、と言った話だったと思う。内なる幻影が白い壁の向こうから顔を覗かせているという風情である。だが正直なところ私は、もっともっと幻想的な雰囲気であってもよいように思うのである。
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人間を描くことに情熱を傾けた髙山ではあるが、実は静物画が素晴らしい。これは 1989年作の「牡丹 (阿蘭陀壺に)」。擬人的な花とも言えるかもしれないが、何やら雄弁に語りかける花の様子に、一種独特のリアリティがある。
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この 1992年作の「新雪」(大分市美術館蔵) はちょっと面白い。一面の雪の中を走るトラック。雪に埋もれてしまいそうな人間の営み (= 車の運転) を、一種劇画的に描いている。
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この 1996年作の「トラック トレイラー」(大分県立美術館蔵) は、上の「新雪」とはポジとネガのような関係である。ここで描かれているのは、雪という自然ではなく、トラックという機械と、それに乗る運転手、それからはにかんだその娘である。人形のように静かに立ちすくんだ人間であるが、夢の中の線のようなトラックの様子と対照的に生命を感じさせる。画家は実際にトラックの運転手に写生をお願いし、快く承諾されたそうである。
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実はこの頃の髙山は既に 80代に至っているのだが、意欲的な大作を多く制作している。これは 1997年の「夜の風景」(大分県立美術館蔵)。これも実際の飼い犬をモデルにしたという解説がかかっていたと記憶するが、夜の雪の中に佇む犬の表情は、何やら思慮深げである。その叙情性は素晴らしい。
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それとの比較で面白いのは、2006年、94歳のときの作品「自寫像二〇〇六年」である。「自画像」ではなく、自分で写した像であるが、上記の犬の絵と同様の夜の風景のようでいて、こちらは表情のない、のっぺらぼうである。足や手という要素が強調されているのは、往年の作風の変容と解釈できようか。だがそれにしても、老齢に至ってのこの、ある種の抽象性は一体どういうことだろうか。
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これが 2007年の未完の絶筆である。95歳の画家は、森の中に何を描こうとしたのだろうか。
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展覧会にはこのほかにも、彫刻作品や素描、版画や書籍の装丁などが展示されていた。この 1970年作の「作品 - I」は、髙山の絵画作品における人物像と共通性はあるものの、立体であるがゆえに、さらに人間的な表情を感じられるように思う。また、想定の仕事もなかなか抒情的でスタイリッシュ。
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そして私が多少意外だと思ったのは、素描のタッチである。1931年というから、彼が未だ 19歳の頃のもので、「海芋 (かいう)」。実は私は、数々の髙山の作品を見てきてからこの素描を見て、かなり感動した。最初の方に掲げた「砂丘」は、明らかにこのような卓越した技術を持った画家の手になるモダニズム作品であった。その後の彼の長い画業の中で、このような硬質なデッサン力を感じることはできなくなって行ったように思う。冒頭に書いた通り、このことを思った瞬間に私には、この画家がもし違った方面の画風を確立していたら (もしかしたら文化勲章は取れなかったかもしれないが 笑)、さらに刺激的な作品を多く残したのではないかと、詮無いことを考えてしまったのである。
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日本画家にも様々なスタイルがある。戦後日本を代表する日本画家である髙山辰雄にも、その画業の変遷の間に様々な可能性があったわけであるが、その静謐な画面から、実現しなかったモダニズムの延長を夢想してみるのも、美術を愛する者の特権であると言えるのではないだろうか。

by yokohama7474 | 2018-08-01 00:25 | 美術・旅行 | Comments(0)

百花繚乱列島 江戸諸国絵師 (うまいもん) めぐり 千葉市美術館

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このブログではこれまでも、千葉市美術館で開かれた展覧会をいくつかご紹介してきた。日本画を専門とするこの美術館は、実に凝った企画を様々に行っていて、本当にいつもいつも目が離せないのである。直近では、岡本神草の展覧会を開いていて、昨年京都で同じ展覧会を見た私は、このブログにおいて、千葉でももう一度見ようと宣言したにもかかわらず、残念ながらそれを果たすことができなかった。だが、それより随分前のことになるが、GW 中にこの美術館に出掛け、この瞠目の展覧会を見ることができたのは、私にとっては本当に嬉しいことであった。こんな展覧会、この美術館でなければ企画できないし、既存の有名画家の作品だけに安住することのない美術ハンターにとっては、まさに垂涎の内容であったのだ。展覧会の題名から、百花繚乱、つまり様々な画家の作品による展覧会であることは分かるし、「諸国絵師めぐり」とあるので、江戸時代の日本各地の絵画を集めたものであることも、察しがつく。ただ、「絵師」にわざわざフリガナを振って「うまいもん」としているのは、いかがなものだろうか。以前の記事でも、この美術館での展覧会の副題に疑問を呈したことがあったが、このようなセンスは、少しでも展覧会の動員に貢献しているのだろうか。私の勝手な意見では、このフリガナは全く意味不明で、ない方がよい。別に誰かに媚びる必要はない。この美術館の企画はいつも素晴らしいのだから、格調高く行って頂く方がよいと私は思うのである。

ともあれ、この展覧会は、北は北海道から南は鹿児島まで、それぞれの地方出身の画家たちの作品を、実に 187点も集めたもの。この数であるから当然、前期と後期に分けての展示である。これは、図録に掲載されている本展の画家たちの出身地一覧。
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では、そのような多くの出展作から、私が興味深いと思ったものを、ごく一部だがご紹介して行きたい。最初にお断りしておくと、この展覧会には、円山応挙や曽我蕭白などのよく知れらた画家の作品も出品されていたが、そのほとんどは、一般的にその名を知られていない画家であった。これぞ、未知の画家との出会い。その出会いは往々にして極めて刺激的だ。まず、現在の北海道にあった松前藩出身の画家、蠣崎波響 (かきさき はきょう 1764 - 1826) である。これは東京国立博物館所蔵の「瓦に石龍子図」(1805年作)。ここで瓦の下から出てきているのは、トカゲである。これは 1877年のパリ万博にも出品されたものであるという。この奇抜な題材に、ヨーロッパの人たちも驚いたのではないか。
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この蠣崎波響の作品をもうひとつ。これは「カスベ図」。これは見ての通り、エイである。北海道や東北では、カスベと呼ばれるエイが盛んに食べられていたという。その写実性に加え、何かもの言いたげなエイの様子がユーモラスであることに心惹かれる。
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このあと、東北地方の作品では、当然いくつかの秋田蘭画が並んでいたが、秋田蘭画については以前も書いたことがあるのでここではスキップして、仙台の画家を紹介しよう。東東洋 (あずま とうよう 1755 - 1839) という珍しい名前の画家による三連幅のうちのひとつ、東北歴史館所蔵の「諏訪湖雪」(1825年作)。思い切ってデフォルメした逆さ富士なのである。
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同郷の後輩である菅井梅関 (すがい ばいかん 1784 - 1844) もまた、非常にユニークな作風であるが、この松島瑞巌寺所蔵の「雪中夜梅図」はどうだろう。まさに雪をかぶった夜の梅は、人間が知らないうちに意志を持って動き出しそうである。強烈な表現力だ。なるほど、名前が梅関だけあって、梅の絵は絶品だ (笑)。
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これはその梅関の師匠にあたる、根元常南 (ねもと じょうなん 1763 - 1811) の作品で、「旭潮鯨波図」(1797年作)。題名の通りであり、また見ての通りであるが、鯨が朝焼けの海で豪快に潮を吹いている様子。洋画風のなんともユニークなものである。
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仙台は、江戸時代から非常に文化豊かな土地であったのだろうか。もうひとりこの地出身のユニークな画家をご紹介しよう。菊田伊洲 (きくだ いしゅう 1791 - 1852)。仙台藩の御用絵師であるとともに、江戸城再建時に障壁画の制作に参加したり、晩年には高野山の諸寺の障壁画を百面以上手掛けているという。これは 1846年作の「雨中瀧図」。まるで折れ曲がった木の枝のような滝の絵である。すごい感性をしているものだ。
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この展覧会に出品されていたのはいずれも江戸時代の作品であるが、その中のそれなりの数の作品が西洋風の絵画であり、大変興味深かった。このブログで何度も触れている、遠いようで近い東西文明の接点を思わせる芸術作品を、私は大好きなのである。ここで登場するのは、福島県須賀川市出身の亜欧堂田善 (あおうどう でんぜん 1748 - 1822)。彼は谷文晁門下の画家であるが、その画号の通り、ある時期からはもっぱら西洋風の作品を描いた。これは歸空庵所蔵になる「イスパニア女帝コロンブス引見図」(1804 - 18年頃作)。もちろん、スペイン女王イザベラ 1世に謁見するクリストファー・コロンブスを描いているとおぼしいが、明らかに西洋の版画を模倣して描いたものであろう。うーん、これぞ強烈なる東西の出会い!!
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これは私も初めて知った画家で、安田田騏 (やすだ でんき、1784 - 1827) の作品。歸空庵所蔵の、「象のいる異国風景図」。うわー、技法もナンチャッテ西洋画で面白いが、日本にいない象 (しかも色が白い) が、まるで古いジーンズをはいているかのように、お尻をこちらに向けている様は、いかなる想像力によって作られたものであろうか。
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次は北陸の金沢に移るとしよう。円山応挙の弟子、岸駒 (がんく 1749/56 - 1838)。この人の描く虎がすごい。左が「真虎図」(1784-1808年頃作)、右が「虎図」(1799年頃作)。応挙の弟子で虎を得意にした画家には、もちろん長澤芦雪がいるが、彼の虎はどこかユーモラス。だが、この岸駒の描く虎は、より迫力に満ちたもので、私はこちらの方が好きである。
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このあたりで、人物画に行ってみようか。栃木で活躍した小泉斐 (こいずみ あやる 1770 - 1854) の、「唐美人図」(1811年作、栃木県立美術館蔵)。この誇張された長身の女性は、伝統的な日本絵画には見かけないもの。どうみてもヨーロッパのマニエリスムを想起させる。
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ここでまた、亜欧堂田善、川原慶賀と並ぶ江戸時代の「洋画家」の登場である。その名は司馬江漢 (しば こうかん 1747 - 1818)。江戸の人で、最初は宋紫石のもとで学び、その後秋田蘭画に触発されて、洋風の絵を多く描いた。これは、「バラにサボテン図」(1781 - 89年頃作)。描いている対象は西洋風だが、バラの描き方はちょっと不気味かな (笑)。
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こちらはいかにも司馬江漢で、歸空庵所蔵の「鉄砲洲富士遠望図」(1798年作)。うーん、手前右側で身を寄せ合う 2匹の犬がキュートである。
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次なるユニークな画家は、鈴木鵞湖 (すずき がこ 1816 - 1870)。今の船橋あたりの出身で、風景画もユニークなのであるが、この「高隆古像」(栃木県立博物館所蔵) はどうだろう。描かれている高隆古 (こう りゅうこ 1810 - 1858) は、鈴木の先輩格にあたる画家であるが、これは高自身が所蔵していた自画像を、彼の死後に模写したものであるらしい。自分のことを美化せず描く画家魂が素晴らしい。生没年を見ると、48歳で死去しているが、この面持ちは完全にお爺さんである。
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そして展覧会は、尾張名古屋の画家たちへ。これは山本梅逸 (やまもと ばいいつ 1783 - 1856) の「桜図」(1845年以前作) という三幅画の中央のもの。名前は梅だが、ここでは桜を描いて秀逸である。ただの写実ではなく、叙情と同時に、怨念すら感じさせる夜桜だ。
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これは張月樵 (ちょう げっしょう 1772 - 1832) による「不形画藪」(千葉市美術館所蔵、1817年刊) から。相撲のデフォルメされた表現が面白いが、特に左側の土俵際に並んだ力士たちのデカい顔が、なんともユーモラス。日本人が元来持っているユーモア感覚を実感できる。
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かと思うとこれはいささか格の高さを思わせる名品。田中訥言 (たなか とつげん 1767 - 1823) の「百花百草図屏風」(徳川美術館所蔵)。重要文化財である。全体を隈なくお見せできなくて残念だが、王朝的な品のよさに満ちている。それもそのはず、作者の訥言は、時の老中松平定信が御所の造営に取り組んだ際に、古典の研究に駆り出されたという。江戸の爛熟した文化の遺産なのである。
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これも訥言の作品で、「太秦 (うずまさ) 祭図」(名古屋市博物館所蔵、1813年頃作)。そう、これは年明け早々の京都旅行の記事でも触れた、太秦広隆寺の奇祭、牛祭りの様子であろう。牛に乗っているのは謎の神、摩多羅神である。上に写真を掲げた王朝風の雅な作品を描いた人が、こんな洒脱な作品も描くことができるとは。
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これも初めて知る画家の驚きの作品。牧墨僊 (まき ぼくせん 1775 - 1824) による銅版画「脱疽等不治疾鋸解患部状」(名古屋市博物館所蔵、1819年作)。この題名をなんと読むのか分からないが、字面だけで意味は分かるし、そのキッチュな西洋風表現に、イテテと言いたくなるのである (笑)。ローレンツ・ハイステルという人の外科書を翻訳したものの挿絵であるらしい。この頃の日本には、私たちがイメージするよりも西洋画や西洋の書物についての情報があったということだろう。尚、この牧は北斎と親交があり、1812年に北斎は名古屋を訪れ、この牧の家に半年ほど逗留して「北斎漫画」の下絵を描いたという。
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さて次は大坂に移り、中村芳中 (なかむら ほうちゅう ? - 1819) の作品である。この芳中の作品を中心にした展覧会が数年前にこの同じ千葉市美術館で開催されたときに私もそれを見ているが、光琳を慕ってその作風に倣った画家である。この「白梅図」(千葉市美術館所蔵、1804 - 1818年頃作) にも、琳派風のたらしこみの技法が見られるし、梅の枝の曲がり方も光琳を思わせる。だが、どこかユーモラスな持ち味がこの画家独特である。
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そして今度は京都で活躍した未知の画家。井上九皐 (いのうえ きゅうこう 生没年不詳) の「朝比奈図」(町田市立国際版画美術館所蔵、1804 - 1830年頃作)。勇猛で鳴らした鎌倉時代の武将、朝比奈三郎の肖像であるが、ブルーも鮮やかな西洋風の版画であり、小鬼に足を揉ませているとおぼしき朝比奈のデカい顔がなんとも可笑しい。
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これも京都で活躍した版画家、中川信輔 (なかがわ しんすけ 生没年不詳) の「東海道石部」(1848 - 1860年頃作)。うーん、技術的には決して上質ではないこの作品、私は好きになってしまった。とぼけた味わいが面白く、ちょっと突飛な想像かもしれないが、私は河原温の版画のタッチを思い出してしまった。
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少しはまっとうな肉筆画を採り上げよう。これは祇園井得 (ぎおん せいとく 1755? - 1823?) の「納涼美人図」(板橋区立美術館所蔵、1801 - 1803年頃作?)。その名前から、祇園に住んでいたと考えられているが、経歴は謎だという。この作品では遠近法を強調し、謎めいた雰囲気もある。また、明治以降の日本画のようなきっちりした描き方が印象的。
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これは月岡雪鼎 (ゆきおか せってい 1726? - 1796) の「筒井筒図」(東京国立博物館所蔵、1778- 1786年頃作)。「伊勢物語」に取材した内容であるらしいが、これも大変モダンな感覚を感じさせる作品ではないだろうか。
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これは鳥取で活躍した沖一峨 (おき いちが 1796 - 1855/61) の「家翁西京舞妓図」(鳥取県立博物館所蔵、1849年作)。発色が美しいし、自信に満ちた筆運びではないか。
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これも鳥取の画家で、黒田稲皐 (くろだ とうこう 1787 - 1846) の「群鯉図」(鳥取県立美術館所蔵、1836年作)。水中の木の枝に輪郭線を描き、何か作り物めいた感じを受ける。でも強烈な表現力ではないか。
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これは徳島の鈴木芙蓉 (すずき ふよう 1751 - 1816) の「鳴門十二勝真景図巻」(徳島市立徳島城博物館所蔵、1796年作) のうちの 1枚。これも西洋的な手法を使って、鳴門の海を表現していて面白い。
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そしてこれも徳島の守住貫魚 (もりずみ つらな 1809 - 1892) の「源氏物語 紅葉賀図」(1854年以降作) と、「阿波国勝浦郡田之浦村掘出古甲図」(1854年作) で、ともに徳島県立美術館所蔵。つらなとは面白い名前だが、もっと面白いのは、たおやかな王朝の想像上の景色を描く一方で、古墳から実際に発掘された甲を写生していること。しかもタッチはいずれも似通ったところがある。この人は明治維新後、82歳の高齢で、高村光雲や柴田是真らとともに、最初の帝室技術院に選ばれたという。
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これは長崎の熊斐 (ゆうひ 1712 - 1772) による「寿老人図」。長崎の中国語通詞の家に生まれた彼は、その立場を利用し、来日した中国人画家、沈南蘋 (しん なんぴん) に絵画を習ったという。この偉大なる中国人画家の教えを受けた唯一の日本人画家であり、それゆえに多くの画家が彼に弟子入りしたが、宋紫石もそのひとりであったという。
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そして長崎と言えばこの人、川原慶賀 (かわはら けいが 1786 - ?) である。出島に出入りを許される唯一の画家であり、シーボルトとも親交があった。これは「蘭人商館長図」(歸空庵所蔵)。決して大傑作ではないが、実際にヨーロッパ人を見た人でないと描けないリアリティがあって、私は好きである。
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ここにご紹介できたのはほんの一部であり、ほかにも、珍しい作品、素晴らしい作品が目白押しであった。また、それぞれの土地柄による絵画の違いもあり、江戸時代の日本の文化のとてつもない多彩さと充実ぶりを、目の当たりにした感がある。ここでその名に言及した画家たちの作品に、また今後再会することもあるであろうから、記憶の片隅に置いておくこととしたい。千葉市美術館の素晴らしい企画力と実行力に、脱帽である。ただ、展覧会の題名だけは、別に奇をてらうことなく、普通でよいと思うのであるが・・・(笑)。


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by yokohama7474 | 2018-07-25 01:37 | 美術・旅行 | Comments(0)

生誕150年 横山大観展 東京国立近代美術館

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横山大観 (1868 - 1958) は、近代の日本画家の中でも、その知名度は抜群である。私の思う大観の一般的なイメージとしては、これぞ日本画の王道を行く巨匠というものであり、その名前だけで、明治から昭和に続く日本画の伝統を感じることができる。だがしかし、この画家を知れば知るほどに、その表現の多様性と試行錯誤の連続に、なかなか侮れないものがあると、私はまた実感するのである。正直に言えば私は、日本画家としては、以前このブログでも展覧会を採り上げた安田靫彦とか、あるいは前田青邨といった人たちに、背筋をピンと伸ばしたくなるほどの尊敬を感じる一方で、大観に対しては、ちょっと違う整理をしているのである。だが、明治元年に生を受け、東京美術大学の一期生であり、近代日本美術の偉大なる指導者であった岡倉天心の薫陶を受け、富士山をはじめとする日本の壮麗なる美を追い求めることで、第 1回文化勲章を受けたという輝かしい彼の画業は、確かに近代日本画というジャンルを代表する王者のイメージがある。今年は彼の生誕 150年。この展覧会はその記念の年に開かれるものだが、東京では既に終了していて、京都でも終了寸前。例によってタイムリーなレポートではないものの、その印象をここにざっと記しておきたいと思う。大観はこんな人。
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冒頭に書いたような私の大観への印象は、これまでに見たいくつかの彼の回顧展や、東京国立博物館の平常展示や、池之端にある旧居、その他書物類からの私の大観体験に基づくものであり、もとよりそれは極めて個人的な感想であることを、ここで明らかにしておきたい。だが同時に、我々がなんとなく持っている画家のイメージは、つぶさにその作品に接することで変わってくることもあると思うのである。むしろ私は、この大観という人が、謹厳実直な巨匠然とした芸術家であるよりも、新たな技法を求めて挑戦をし、戦争が起これば国のために貢献したいと純粋に思う、人間的な人であったということの方に、興味を惹かれるのである。これは大観初期の東京美術学校卒業制作で、「村童観猿翁」(1893年作)。巨匠然とした大観は未だここにはなく、まさに人間的なタッチが大変印象的。猿回しのおじいさん (傘をかぶった人物であろう) を、東京美術学校開校時の絵画科主任であった、つまりは師匠である橋本雅邦に、その周りの子供たちを自分たち学生に見立てているという。やはり人間的ではないか (笑)。
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その 4年後、1897年の作品、「無我」(東京国立博物館蔵)。切手にもなっているので一般的にも結構知られたものであると思うが、体に似合わないブカブカの着物を来た、あどけない表情の少年が、仏教的な無我の境地を表しているのだろう。背景にあるのは川だろうか、その青に意外性もあり、私の好きな大観作品である。
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さてこれも有名な作品で、1898年作の「屈原」(厳島神社蔵)。讒言により国を追われた古代中国の詩人・政治家の肖像であるが、東京美術学校を辞職した恩師岡倉天心をその姿になぞらえた作品として知られている。これは近代日本画においても屈指の名作であると私は思う。
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さて大観は、天心が創設した日本美術院をその活動の舞台とするのだが、作品の遍歴を見て行くと、このあたりから大観の試行錯誤が始まることが分かる。これは、1899年作の「井筒」(広島県立美術館蔵)。伊勢物語に取材しているらしいが、細部にまで気を遣った作品でありながら、どこか大らかな感じがするのは私だけであろうか。物語性を出しながら、そこにはまず人間的なものが現れていると思うのである。
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大観は西洋画の手法も学び、新しい表現を模索した。「朦朧体」と呼ばれた技法はよく知られているが、私が興味を抱くのは、技法よりもむしろ題材である。この 1902年作の「迷子」は、以前も展覧会で見たことがあるが、今回再会して、やはり大変興味深いと思った。子供を囲んでここに描かれているのは、左から孔子、釈迦、キリスト、老子である。それぞれの聖人たちの説く道のいずれを取ろうか迷っている子供は、近代日本の象徴であるらしい。
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この「白衣観音」(1908年作) はどうだろう。これは仏教的というよりもインド的な題材に見え、大観というよりも、例えば村上華岳の作品のようである。その筆致は決して華麗ではなく、むしろ少し不器用にすら見える。どうだろう、日本画の王道を行く大巨匠の姿が、ここから見えるだろうか。私には、大らかさを持つ人間性を感じられるように思うのである。
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大観の作品には緻密なものもあって、この 1911年作の「水国之夜」などは、そのタイプであろう。中国で見た風景であろうが、墨の濃淡に加え、灯りを黄色で表現することで、なんとも言えないノスタルジーを感じる。薄暮の屋根瓦の様子など、細心の注意を払って描いているように思われる。
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さて、大観と言えば、冒頭に掲げたポスターにある通り、数々の富士山の絵で有名である。これは「霊峰十趣」のうち「秋」。題名とは裏腹に紅葉の暖色系を一切使わないあたりに、ただ富士を堂々と描く以外の工夫が見える。この工夫こそが、大観が生涯追い求め続けたものなのであろう。
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さてこの記事では、出展作のほんの一部しかご紹介できないのだが、この展覧会における最大の目玉作品は、40mを超える日本最長の絵巻、「生々流転」である。何よりも画期的なことは、その絵巻物の端から端まで見ることができることであった。これは横山大観記念館が所蔵する下絵 (1923年作) を、図録から一部撮影したもの。
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この「生々流転」の完成作は、東京国立近代美術館所蔵の重要文化財。墨絵によって日本の自然を大胆にまた繊細に描いたものだが、その長い長い作品の細部をじっくり鑑賞できたことだけでも、この展覧会を見た甲斐があったというもの。これは素晴らしい。
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このような枯れた大観もよいのだが、昭和に入ってからの華やかな大作も美しい。これは 1931年作の「紅葉」。所蔵するのは島根の足立美術館。この美術館については先日、出雲・松江旅行の記事でも採り上げたが、ちょうどこの展覧会と同じ頃、その足立美術館でも大観展を開催していた。日本有数の大観コレクターであるこの美術館の意地が見えた企画であったが、この素晴らしい作品を東京での展覧会に出しながら、それでも現地で大観展を開くことのできる足立美術館の奥深さ。
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さて、そして最後に、またモノクロの世界の大観に戻ってこの記事を終えたいと思う。1936年作の「龍蛟躍四溟」(りゅうこうしめいにおどる)。この「蛟 (こう)」という字は「みずち」である。龍や蛟が四方の海に踊る様子。まるで「生々流転」の最後に出て来る雲に、実は龍や蛟が隠れていましたという種明かしのようにすら思われる。これは御物で、宮内庁三の丸尚蔵館の所蔵。
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ダイナミックな大観、ユーモラスな大観、朦朧体の大観、モノクロの大観、絢爛たる大観。ここに集まった 90点の作品に見る横山大観の画業の広がりには、本当に驚かされるし、冒頭に述べた通り、ただ日本画の巨匠としての彼の姿だけではなく、様々な手法と主題に取り組んだこの画家の、何よりも人間的な部分を新たに発見できる展覧会であった。その意味で大観は、やはりほかに並ぶ者のない業績を残した日本画家であるということは、間違いないと思う。先入観なく、かしこまり過ぎずに、彼の作品を楽しみたい。

by yokohama7474 | 2018-07-21 02:11 | 美術・旅行 | Comments(0)

千葉市 加曾利貝塚

千葉市にある加曾利貝塚 (かそりかいづか) は、全国の貝塚の中でも最も有名なものではないだろうか。それもそのはず、貝塚としては世界最大規模で、特別史跡に指定されているのである。
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いや、ちょっと待て。今自分で「貝塚としては世界最大規模」と書いた。貝塚って、日本以外にもあるわけですな。実は貝塚の研究は 19世紀後半にデンマークで始まったということだから、日本独自の縄文時代だけのものというわけではないようだ。そうか、そういえば、日本の考古学発祥の地と言われる大森貝塚は、1877年に米国人エドワード・モースによって発見されている。横浜から新橋に向かう途中、モースが地層の中で目にした貝殻の堆積がそれだったわけだから (今ではその場所がどこだったかについては、品川区と大田区の間にちょっとした論争があるようだが)、決して日本独自の遺跡ではなかったわけだ。ともあれこの加曾利貝塚、長年行きたいと思っていたのだが、これも前回の記事に続いての、今年の GW の安・近・短の旅のひとつ。千葉市美術館に面白い展覧会を見に行って (その記事は追ってアップ予定)、その途中に立ち寄ったもの。実際に行ってみて分かったことには、この場所は堂々たる縄文遺跡であって、ここにあるのは決して貝塚だけではない。これだけ歴史的に貴重な場所なのであるから、「貝塚」などと謙譲の美徳を発揮している段階から早く脱して、「加曾利縄文遺跡」と名前を換えるべきである。なにせこの遺跡の発見は、大森貝塚に遅れること僅かに 10年、1887年という驚くべき早さであったのだから。これが遺跡の全体図である。
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私たちがここを訪れたときには、何やら縄文祭りのようなものが開催中で、臨時駐車場が開かれるほどの大混雑。それは大変結構なことであると思ったのだが、私の個人的意見では、この場所が本当に歴史好きに広く認知されるためには、施設もすべて新しくしないと。例えばこれは、貝塚の北側の断面を見るために作られた建造物だが、何やら古びてはいないか。それもそのはず、1968年から公開しているというから、今年でちょうど 50年。
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中に入ると、確かに夥しい貝の蓄積があり、発掘時そのままの雰囲気が圧巻なのである。
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因みにここには、南貝塚もある。高台にあるこの場所は、縄文の昔から多くの人々が暮らしていた場所であるようだ。
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そして、上述の通りここは、ただ「貝塚」と名乗るだけではもったいない規模の遺跡なのであるが、ちょうど昼時。ちょっくら腹が減ったので、縄文人にあやかってアサリでも食ってみるかと思い立った。あれ、ハマグリだったかな。ともあれ、うまかったー (笑)。
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ここにはまた、貝塚の博物館というものがある。そこに辿り着くと、何やら着ぐるみのキャラクターが。これはカソリーヌと言って、2014年に制定された、ここの公式キャラクターなのである。なるほど、「加曾利犬」か。なかなかの人気である。
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この博物館もかなり古いもので、開館は 1966年。うーん、できればこれは千葉市が資金を出して、最新の施設に建て替えるべきであろう。なぜなら、ここ加曾利貝塚からの出土品を数多く収めたこの博物館は、見ごたえ充分であるからだ。例えばこれは、この遺跡で発掘された遺品の中で最も精巧に作られたもので、耳飾りである。ほかの地域から持ち込まれたものという説もあるという。
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この遺跡で見つかった装身具は、この写真に多く掲載されている。なんとオシャレなのだろう!!
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この博物館のよいところは、ボランティアの案内人たちが展示品について解説してくれること。この遺跡は、ただ単に貝の堆積が発掘されているわけではなく、このような土偶や土器の数々も出ているのである。
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そして再び、装身具である。想像上の復元も。えっ、肩掛けのポーチまでしていたの???
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そしてさらには、人骨から犬の骨まで。これは明らかに埋葬である。当時の人々には既に、死というものに対する畏怖の念があったということだろうか。あ、それから、この犬の骨は、カソリーヌのキャラクター設定のもとになっているのであろうか (笑)。
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そしてここからの出土品で判明している古代人たちの食材のうち、海産物がこちら。うーん、リッチな食生活である。
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博物館を出て、遺跡の中を散策すると、おっと出ました。縄文弓矢。中にはコスプレで、すっかり縄文人になりきっている子も (笑)。
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そして、復元された縄文人の住居。その中では、やはりボランティアの人が、復元された古代のかまどについて説明していた。
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興味深いものはまだまだあって、これは古代人の住居跡。貝の堆積の下の層から発掘されたらしく、重なり合った穴から、ここで縄文人が何世代にも亘って暮らし、何度も家を建て替えていることが分かるらしい。そして、それこそ火を焚いたかまどの跡もある。
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このように見ごたえ充分な加曾利貝塚であるが、1960年代には企業がこの土地を買収して一部を破壊。それを機に保存を求める運動が活発化し、その結果、奇跡的にこの遺跡は残されたという。ここでは過去に 13度に亘る発掘調査がなされているが、これまでに調査されたのは、遺跡全体のわずか 7%であるとのこと。そして昨年 2017年には、45年ぶりに新規の発掘作業が開始された。ということは、まだまだこれから、新たな発見がある可能性も期待できると思う。うーん、恐るべし加曾利貝塚。首都圏の人たちには是非この場所に足を運んで頂き、古代のロマンを感じて頂きたいものである。

by yokohama7474 | 2018-07-14 23:40 | 美術・旅行 | Comments(0)

旧軽井沢散策

先だって 3連発でお届けした出雲・松江旅行は今年の GW の前半の旅行であった。今回採り上げたいのは、その後半の日帰り旅行の行き先であった軽井沢である。いや、正確にはこれは旅行などという大それたものではない。5月 3日、既にこのブログでは記事として採り上げた、チョン・ミョンフン指揮東京フィルの演奏会を軽井沢まで聴きに行った際、開演前の時間を利用して、軽井沢駅周辺、いわゆる旧軽井沢地区のなじみの観光地を、貸自転車で巡ったというだけである。その記事にも書いた通り、今や東京と軽井沢とは、新幹線でほんの 1時間程度で着いてしまう手軽な場所。だが、さすが避暑地の王様 (?)、訪れるたびに澄んだ空気に癒される場所なのである。そんな軽井沢で、新幹線を降りてからほんの数時間の間に自転車に乗って回れる、旧軽井沢の歴史散策が今回のテーマ。ちなみに今回は、珍しく (?) 古墳も仏像も登場しないので、そのあたりに興味のない方にも気楽に読んで頂けるかと思う。観光地においては遠いところから先に見て回るべし、という観光の鉄則に従い、木立を抜けて颯爽と自転車を飛ばして (息を切らしながら 笑)、最初に辿り着いたのは、重要文化財、旧三笠ホテルである。
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この三笠ホテルの開業は実に 1906年。日本の洋風ホテルとしては、それ以前にも帝国ホテルや、築地や横浜にできたものがあったが、それにしても古いし、また、営業されていた土地にその (すべての建物ではなく主要部分だけとはいえ、また、数十メートルの移築はされているとはいえ) 建物が残る例は、なかなかほかにはないのではないだろうか。それだけこの軽井沢が、避暑地として古くから外国人や富裕層、あるいは文化人に人気であったということであろう。このホテルを経営していたのは、実業家の山本直良。この名前で明らかな通り、あの指揮者で作曲家の (最も有名な作品は「男はつらいよ」のテーマであろうか) 山本直純の祖父である。設計は、辰野金吾門下の建築家、岡田時太郎という人で、日本人の手になる史上初の純西洋風建築である (なお、調べてみて知ったことには、岡田の現存作品のもうひとつが重要文化財に指定されていて、それは牛久シャトーという茨城のワイン醸造所)。1970年まで営業しており、多くの文人墨客を迎えたという。これがメインロビーの様子。ソファーや絨毯は、往時のものを復元している。フロントは昔懐かしい、鍵を部屋ごとに置くようになっているスタイルだ。お、よく見ると、フロントには、私がこの日に聴いた、チョン・ミョンフン指揮東京フィルのコンサートの宣伝が見える。
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これはカーテンボックス。おめでたい松と鶴に、三つの笠で三笠を表すとともに、M (Mikasa) と H (Hotel) の隠し文字が。設計は、有島武郎の弟の画家、有島生馬である。
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これは創業時からのシャンデリアであるそうだ。110年以上の間に、多くのセレブたちがくつろぐ様子を見つめ、ホテル廃業後は、観光客の好奇の視線にさらされてきた。そこに展示されている大正初期の晩餐会 (近衛文麿、里見敦、有島武郎、山本直良ら出席) の写真を見ると、お、本当に同じシャンデリアが下がっている。
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このホテルは 2階も公開されていて、大変に興味深いが、19号室では、あたかも往年のその部屋に滞在したかのように、ソファに座ってくつろぐことができる。ノスタルジックな気分に浸ることができる場所である。
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さて、旧三笠ホテルを出て、もとの道 (その名も三笠通り) を戻ると、右側に何やら看板がある。普段軽井沢では、レンタカーをすることが多く、その場合にはこのような場所は素通りしてしまうであろうが、今回はレンタサイクルであり、簡単に寄り道できるのが大いなるメリットである。というわけで立ち寄ったこれは、旧スイス公使館。深山壮 (みやまそう) と名付けられており、1942年に建てられて、戦時中は外国人の疎開別荘として利用されたとのこと。内部は公開されていないが、ここ軽井沢における戦時中の雰囲気を想像してみると、悲惨な戦争から離れた厳粛な平和を感じることができる。
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旧軽井沢の中心部に向かう途中に立ち寄った先は、聖パウロカトリック教会。1935年に建てられており、設計は、フランク・ロイド・ライトの弟子である、アントニン・レイモンド。日本にも沢山の建築を残している。梁の断面に年号が入っているのが興味深いし、内部のトラス構造を見ても、木の交差にモダニズムを感じることができる。
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この軽井沢の地に、松尾芭蕉の句碑があるのは意外と知られていないかもしれない。旧軽銀座の突き当り、つるや旅館のもう少し先、矢ヶ崎川にかかる二手橋 (にてばし、昔軽井沢が中山道も宿場町であった時代に、旅人たちが二手に分かれて旅路を続ける、別れの場所であったことによる命名) の近くにある。これは、天保 14 (1843) 年、芭蕉の 150回忌に当地の俳人によって建てられたもの。芭蕉が中山道を通ったことがあるのか否か、私には確たる知識はないが、この句は「野ざらし紀行」(江戸から故郷である伊賀上野への旅紀行) にある「馬をさへ ながむる 雪の あしたかな」。雪の朝、道行く旅人たちを眺めていると、馬でさえ面白い恰好で通って行く、という意味。街道の旅の途上、雪に降られて、慌てたり慎重になったりする旅人たちの様子を描いているのだろう。
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そしてこの芭蕉句碑の正面にあるのが、このような看板の場所。
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これは、カナダ生まれの英国国教会宣教師、アレキサンダー・クロフト・ショーという人が、1886年に家族とともに暮らし始めた場所。軽井沢は、明治に入ると以前の宿場町としての活気を失っていたが、このショーの布教活動が、その後の避暑地としての軽井沢の出発点となった。現在の建物は 1895年のものであるが、それでも軽井沢最古の教会である。質素な佇まいが好ましい。
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この教会に向かって右手の奥に、ショー一家が住んだ別荘が復元され、ショーハウス記念館として公開されている。私は常々、東西の文化の出会いには大変興味があるのだが、この日本でキリスト教の布教活動を行うことを決意した西洋人の思いを想像することのできるこのような場所からは、多くの刺激を受けることができるのである。
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軽井沢にはこのような昔ながらの小道がそこここに残っている。「お気持ちの道」から「犀星の径」へ。
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この先に、あの文学者室生犀星 (1889 - 1962) の旧居がある。犀星の作品はもう久しく読んでいないが、その抒情は侮りがたいものがあって、時々読みたくなる。ここに残るのは 1931年以降彼が毎年夏を過ごした別荘である。犀星に関しては、生地である金沢や、私の現在暮らしている東京都大田区にある馬込文士村でもゆかりの土地を訪れたことがあるが、この軽井沢の別荘は、実際に彼が暮らしていた場所が現存しているわけで、一層感慨深い。但し、現在はちょうど改修中であり、内部に入ることは今回はできなかった。
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その代わりと言ってはなんだが、この犀星旧居の向かい側に、このようなバンガローを発見。一般のガイドブックに載るほどメジャーな場所ではないが、1927年に建てられたもので、登録有形文化財に登録されている。松方正義の孫が所有していた別荘であるらしい。この青いプレートは、軽井沢町の認定する歴史的建造物、Karuizawa Heritage であることを証するもの。今はカフェになっている。
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そして次は、旧軽銀座のど真ん中にある教会へ。日本基督教団軽井沢教会である。ここも 1929年に建てられた古い教会で、設計があのウィリアム・メレル・ヴォーリズ (メンソレータムで有名な近江兄弟社の創立者の米国人であり、日本に教会・学校・個人宅などを多く残した) であると聞き、楽しみにしていたが、この日は残念ながら内部に入ることはできなかった。
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あ、そうそう、ヴォーリズの残した建築について網羅的な本を読みたいなぁと思っていたら、8/24 にこのような本が刊行されると聞いて、早速予約しましたよ。面白そうだ。
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さて、旧軽井沢地区には、私のお気に入りの美術館、脇田美術館 (洋画家、脇田和の作品を集めたこじんまりした美術館) があるのであるが、今回私が訪れた 5月には未だ開館していなかった。その代わりというわけではないが、最近オープンした美術館を初めて訪れることとした。その名は軽井沢ニューアートミュージアム。
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ここは未だ新しい美術館なので、これからコレクションを作って行くようだが、いわゆる評価の定まったアーティストの作品を展示するというよりも、展示即売も含めて、若いアーティストの作品を紹介して行く場にもなって行くようだ。私が訪れたときにもいくつかの展覧会が並行して開かれており、丸尾結子という彫刻家の作品が並んでいるコーナーを興味深く拝見した。白くうねる形態は、生々しいとともにどこか都会的。触感がよさそうだが、お値段を見ると、もし触って壊してしまったら大変なことになると実感 (笑)。
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さて、コンサートが始まるまでもうひと踏ん張り。私にはもうひとつ、訪れたい場所があった。それは、軽井沢駅から中軽井沢の方へ、国道 18号線を数 km 行った場所にある、軽井沢現代美術館である。私の経験では、もしレンタカーでこの場所に向かうと、軽井沢駅方面に戻ってくる道路が渋滞して、コンサートに間に合わない可能性がある。そんなこともあって、今回はレンタサイクルにしたのである。あの美術館に向かう坂道はとても登り切らないが、それでも、久しぶりに行ってみたいと思い、自転車で爆走。件の坂道に辿り着いて、エッチラオッチラ登り始めると、左手にも何か施設があるのが見えた。ちょっと面白そうであったので、自転車を停めて、そちらの方に向かってみた。見えてきたのはこんな建物。
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ここには、軽井沢の歴史を知ることができる展示があるが、正直なところ、あまり観光客が熱狂するようなものはないと思う。それよりも、表示に従ってさらに足を進めて発見したこの建物が、実に興味深い。木造だがモダン建築の雰囲気満点である。
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これは 1926年、のちの総理大臣、近衛文麿が購入した別荘。その後、近衛と親交のあった市村今朝蔵という政治学者に転売されたため、現在では市村記念館とも呼ばれている。内部はこんな感じで、さすがに洗練されている。蓄音機があるが、これまどは、もしかすると、文麿の弟で、偉大な指揮者であった近衛秀麿も聴いたのではないかと、勝手に想像が膨らんでしまう。
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実はこの旧近衛文麿別荘のあるあたりは、離山公園という国立公園の一部。私は裏から入ってきてしまったが、国道 18号線沿いにちゃんと門がある。また、明治時代に丸井沢を開発した実業家、雨宮敬二郎の旧宅、その名も雨宮御殿もある。私が訪れたときには、建物は閉ざされていたが、一般公開している時期もあるのだろうか。
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さて、それから最後の目的地である軽井沢現代美術館へ。日本の現代アートが展示の中心で、なかなかに心地よい場所である。まあ、人が少ないということもありますけどね (笑)。そして、草間彌生とルイ・ヴィトンのコラボも!!
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帰りがけにショップを除いたら、一目で気に入った作品があった。作者は、これは誰が見ても奈良美智であるが、この勉強中のワンちゃんは、なんともユーモラスではないか。すぐ購入したのだが、これはドイツで印刷されたポスターで、額に入っていてそのまま飾ることができ、お値段もお手頃だ。奈良ファンにはお薦めである。我が家では既に壁にかけられ、犬の勉強は継続中なのである。
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このように旧軽井沢には、ほんの数時間で回ることのできる文化的な場所がいくつもある。その澄んだ空気感は、いかに旧軽銀座が混み合っていても、濁ることはないのである。

by yokohama7474 | 2018-07-14 11:38 | 美術・旅行 | Comments(0)

出雲・松江旅行 その 3 小泉八雲記念館・旧居、松江城、美保神社、仏谷寺、水木しげるロード、正福寺、報恩寺

さて、神秘と歴史の国、出雲旅行の最終日である。この日はいわゆる出雲地方ではなく、松江市内と、そこから東側を訪ねることとした。朝起きてホテルの窓から宍道湖を見ると、舟が何艘も出ていて、漁を行っているようだ。ここの名産はシジミ。もしかすると、私たちの朝食の味噌汁に入っていたシジミも、こうして捕られているのかもしれない、と、シミジミした(笑)。
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さて今回も前回と同様、写真の中には「油絵モード」で撮影したものもあり、それらは若干毒々しい色合いかもしれないが、独特の美しさを楽しんで頂きたい。というわけで、最初に向かったのはこの場所である。
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「怪談」で知られる作家、小泉八雲 (1850 - 1904) は、よく知られているように、本名をラフカディオ・ハーンといい、アイルランド人である。正確には父がアイルランド人、母はギリシャ人。彼が生まれたときはアイルランド独立前であったので、英国籍であったらしい。1890年に日本を訪れ、松江で英語教師となる。その後日本人女性ハツと結婚し、日本に帰化。東京帝国大学で英文学を講義する。そしてその座を後任の夏目漱石に譲り、その翌年に心臓発作で死去。
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ここ松江には彼の旧居と記念館があり、私は以前どちらも訪れているが、久しぶりの訪問では、記念館は全く新しくなっていた。
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小泉八雲は日本の景色や民話に魅せられ、代表作「怪談」を含む 30冊の著作を残した。彼の肖像写真は必ず右から写したものであるが、それは 16歳のときに遊戯で左目を失明してしまったからである。少し神経質に見える彼の容貌には、そのようなある種のコンプレックスが見えるが、それゆえであろうか、日本人の繊細な感性に共感する内面性があったのだろう。この記念館には、彼の人生を辿る様々な資料が展示されていて興味深い。実は今回初めて知ったことには、彼は 19歳で単身渡米、ジャーナリストとして、あのジャズの生誕地であるニューオーリンズで暮らし、その後カリブ海のマルティニーク島に移り住んだという。なるほど、そのような土地にある何か人間の根源的な要素に敏感な人で、その感性が日本の文化とも響き合ったのであろう。ところで、八雲がマルティニーク島に滞在したのは 1887年から 89年であるが、そういえば画家のポール・ゴーギャンもこの島で過ごした期間があるはずと思って調べてみると、なんとそれは、1887年の半年間!! もちろん二人に面識があるわけもないが、同じ時期に同じ島にいたと考えると、何とも興奮する。誰か、この 2人の架空の遭遇を巡って映画を撮ってくれないものだろうか。

さて、資料館の横には小泉八雲旧宅がある。さして大きくもない平屋の日本家屋であるが、彼が松江を愛したことを実感することのできる場所である。
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彼はこの庭のことを事細かに書き残していて、その文章と、実際に目の前にある庭を比べるのは面白いが、もっと面白いのはこれだ。
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椅子に比較して何やらとても高い位置にある机である。これは、八雲がここに住んでいたときに特注した机 (オリジナルは記念館にあり、これはレプリカ)。上記の通り左目を失明し、右目の視力も非常に弱かった彼は、この特注の机でないと読み書きできなかったという。主なき今も、その主の思い出を残しているようだ。私はこの机を見て、八雲に対する思い入れがぐっと強まったものだ。記念館で購入したこの本 (英語で書かれたものの翻訳) を読むと、彼の繊細な神経を知ることができる。
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あまりに美しいので、少し抜粋してみよう。

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二階の小さな障子窓を開けて、川辺の庭から盛り上がったこんもりした柔らかな春の新芽の向こうに、朝の風景を眺める。目の前には、向岸のあらゆる物をゆらゆら写しながら、大川橋の広がった鏡のような河口が微光を放ち、大きな宍道湖へと流れている。湖は右手に向って洋々とひらけ、ぼんやりした灰色にかすむ山並みの遠景に縁どられている。対岸の真向いにある、尖った藍色の切妻屋根の屋敷はどこも雨戸を閉ざして、まだ箱を閉じたように締め切っている。夜は明けたが、まだ日の出時になっていないからである。しかし、ああ、この光景の美しさといったら。いつもの朝の最初の霊妙な艶めく彩りは眠っているような穏やかな薄靄 (うすもや) につつまれていたが、次第に目に見える蒸気の中へ拡散していく。ほんのりと色づいた靄は長くのび、はるか湖の端にまで広がっている。
UNQUOTE

うーん。美しい。いつまでも続けたいところだが、小泉八雲文学の探訪は今後も続けるとして、先へ進もう。城下町松江の情緒とはこんな感じ。
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そして、その中心にあるのが、国宝・松江城である。
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この城が重要文化財から国宝に格上げになったのは 3年前、2015年のこと。またあとで触れるが、この城ができた際に書かれた祈祷札の年代から、築城が 1611年であることが判明し、その歴史を評価して国宝指定を受けたという。実はこの祈祷札は長らく行方不明であったところ、執念で探索され、城の敷地内にある松江神社でその札が発見され、札に開いている釘穴と、天守閣の柱に残る穴がぴったり一致したことで、築城年が判明したらしい。松江城を国宝に、という地元の人たちの熱意が勝利したということだろう。その松江神社はこのような社で、開かれたのは明治に入ってからのことである。
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そしてこの松江城、国宝天守閣に辿り着く前に体験できる面白い場所が、ほかにもある。それは、興雲閣という近代建築だ。
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この建物が完成したのは 1903年。もともと明治天皇の行幸のために作られたが、その行幸は実現せず、だが、大正天皇が皇太子時代にここに宿泊したという。その後、松江の迎賓館として機能してきたらしい。内部はこのような凝った洋風でありながら、なぜか畳が敷かれている場所もあるという、面白い場所なのだ。私はこのような、東西文化の融合している場所は大好きなのである。
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さていよいよ、国宝天守閣である。うーん。実に立派。この城の特徴は、入り口にある附櫓 (つけやぐら)。城の防備を固める構造物であり、かなり珍しいものであると思う。
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珍しいといえば、この天守閣に至る途中に立っていたこのような看板の内容も、珍しい。
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そう、以前もどこかの城の記事で採り上げたが、現存天守閣が文化財指定を受けていようとも、その内部に何か陳列するか否かはかなり大きな問題で、ほとんどの城では、甲冑や文書、絵巻物、藩主の紹介などの歴史資料を展示したり、ほかの現存天守閣 (国宝 5件、重要文化財 7件の、合計 12件) の写真を飾ってあったりする。私は以前からそれが疑問で、ただ昔のまま、何も展示せずに公開すればよいではないかと思っていたのである。それゆえ、今回、とりあえず時限的措置とはいえ、天守閣内に全く何の展示も置かない松江城の方式には、大いに賛同したのである。このような、江戸時代そのままのありさま (あ、電灯や時計は別として 笑) は、それだけで見る者を圧倒する。最上階からは宍道湖を展望することができる。
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それから、上で触れた通り、松江の人たちの執念によって、意外と近くの神社から (笑) 発見された祈祷札は、これである。実際にはレプリカだが、うーん、これがこの城の歴史を証明するものかと思うと、感慨深い。
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この札のおかげでこの城は晴れて国宝になったわけで、天守閣最上階に誇らしげに展示されている「国宝指定書」が感慨深い。
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さてそれから私たちは東の方に車を走らせ、辿り着いたのは島根半島の先端に近い、美保関。ここにある美保神社は、全国 3,385社のえびす社の総本宮である。733年編纂の「出雲国風土記」にも記載があるという古い神社。ちなみにえびすは、七福神のひとつとして知られるが、漁業の守り神であり、オオクニヌシの息子、コトシロヌシノカミの別名である。さすが港町の神様だ。
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ここの神社の佇まいはこのような感じで、広壮な境内というわけではないが、奥が見通せないがゆえに、参道を歩き、門をくぐって初めて見える拝殿の存在感に驚かされる。
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その長い拝殿の奥に見える本殿は、1813年の造立で、重要文化財である。美しい建物だ。
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この神社の門前からは、このような道が続いている。何やら楽し気な石畳の小路。ここは「青石畳通り」というらしい。ここ美保関は、江戸時代から明治にかけて、北前船の航路における中継基地であったらしく、港町特有の歓楽街がここにあって栄えていたという。
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このような風情ある旅館の佇まいがノスタルジック。江戸時代から続く老舗旅館であるようだ。
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そして、おっと、何かの取材であろうか。あの水木しげるがここを訪れたときの写真が。そしてよく見ると実は、真ん中後ろで傘を差しているのは、京極夏彦である。以前、「怪」などという雑誌があって私もよく読んでいたものだが、それと関係ある行事だったのだろうか。なお、水木しげるについては、また以下で触れることになる。
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そして数百メートル進んだ先には、私が子供の頃から見たいと思っていた仏像を所蔵する寺がある。その名は仏谷寺。
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ここには、いかにも地方作りの重要文化財の古い仏像が 5体伝わっている。既にこの一連の出雲旅行の記事でご紹介した幾つかの古寺に伝わる、独特の逞しさを持つタイプと共通する仏像群である。ただ、我々が現地に到着した時には、全く人の気配がなく、拝観を乞うてブザーを押しても返事がない。そこで、本に掲載されていた番号に電話してみると、お寺の方につながりはしたものの、外出中で拝観は叶わないという。うーん、しまった。ここでも事前に電話で確認しておくべきであった。これが境内に展示されている宝物館内の仏像群。
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この 5体はいずれも平安時代の古い作品である。今回拝観が叶わなかったということは、またこの場所に帰ってこいという意味だと解釈し、次の機会を必ず見つけたい。だがここの仏像が、いかにこの地方を代表する作品であるかということを示す一例として、昨年出雲古代歴史博物館で開催された「島根の仏像」という展覧会のポスターをここに掲げておこう。左の仏像が、ここ仏谷寺の本尊、薬師如来。また、右の仏像は、前々回の記事で採り上げた、万福寺の四天王像から持国天である。
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さて、気を取り直して向かった先は、美保関からさほど遠くない場所だが、実は島根県ではなく、お隣の鳥取県である。その街の名前は、ほかでもない、境港。この街は小さな港町であるが、ここから出たあるひとりの人物によって、つとに有名である。この彫刻はその人物と、その妻、つまりは「ゲゲゲの女房」。「人生は・・・終わりよければすべてよし」とは、その女房、つまり武良布枝の著作の副題である。
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もちろんこの人物とは、漫画家の水木しげる。この境港のメインストリート (?) の商店街は、水木しげるロードと呼ばれ、とにかく水木の作り出したゲゲゲの鬼太郎のキャラクターと妖怪たちで溢れている。実はこの街には、このような妖怪の彫刻が 150体以上!! あるという。こんな具合だ。これらはそれぞれ、私が子供の頃愛読していた妖怪図鑑でも強烈な印象だった、泥田坊とお歯黒べったりだ。
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いや、妖怪の彫刻だけではない。この街ではタクシーも目玉おやじなら、理髪店も鬼太郎がキャラクターなのだ (笑)。
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そして、水木しげる記念館。入り口には、水木少年と、彼に地獄絵を見せ、妖怪の話を聞かせたお手伝いさん、のんのんばあの彫刻がある。
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水木しげると彼が描いた妖怪の世界にあまり興味のない人は、この資料館を見てもあまり感動しないかもしれない。だが私のように、幼時から妖怪に興味を持っていた人間にとっては、ここは興味尽きない場所。実は私は、テレビアニメの「ゲゲゲの鬼太郎」に出て来る、あまりにスマートで子供向きなキャラクターである鬼太郎に、少し違和感を覚えていたことは否定できず、それゆえ、オリジナルの「墓場鬼太郎」の復刻版を文庫本で読んで、震えたものである。この資料館には、目玉おやじ誕生の瞬間がその「墓場鬼太郎」から抜粋されて展示されている点、なるほど、ただ、sanitize された子供向きの鬼太郎にない、本来の水木の持ち味である土俗性が満載で、嬉しくなるのである。要するに万人に親しまれている目玉おやじは、滅びかかった妖怪族の男が病死し、その遺骸から、子孫を思う気持ちが目玉となって単独に動き出したものなのだ。彼ら妖怪夫婦はともに自宅で亡くなり、隣人の「水木」という人が彼らの遺骸を発見。哀れに思って腐敗の少ない妻の方だけ葬ってやると、その胎内から赤子が生まれて、それが鬼太郎であった。隣人水木は、墓場から赤ん坊の声が聞こえるので行ってみると、折しも嵐の中、土の中から現れて墓場を這っている鬼太郎を一端抱きあげるが、恐ろしくなって投げ捨ててしまう。鬼太郎は墓石に当たって左目を失明する。そこに、父親が目玉のかたちで現れて息子を導き、彼がなくした左目の代わりを果たす・・・という、なんともおどろおどろしい物語であった。ただ、その想像力と独創性は素晴らしい。
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館内には水木ゆかりの品々がいろいろと展示されているが、旅行中に愛用していたベストや帽子もある。帽子には「水木しげる」と、子供のように名前が入っているが、これは夫人が書いたものだという。なんとも微笑ましいではないか。
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それから、珍しいツーショットも。そう、カルトな超寡作家である天才漫画家として知られる、つげ義春と水木である。もちろんつげは、水木の弟子なのである。私は子供の頃から常々、水木の描く妖怪画において、妖怪自体がしばしばシンプルであるのに対して、かなり手の込んだ背景を持つことを不思議に思っていたが、あれはつげのタッチと似ている。つげ自身が描いたか、もしくは水木から影響を受けているということだろう。作風は極めて対照的な二人だけに、この師弟関係は大変興味深い。
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そしてさらに興味深いのは、水木の書斎を写真で再現したコーナー。
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そこに並んでいる本を、目を皿のようにして追って行くと、おっ、私の子供の頃の愛読書数冊が並んでいる!! この昭和な感じがなんとも懐かしい。実際、これらの本はよく読んだものだ。
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さて、境港ではもう 1ヶ所、行きたい場所があった。それは、正福寺という寺である。門前にはこのように、水木しげるの彫像がある。
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水木ファンならば、上でも書いた通り、少年水木しげるが、のんのんばあに地獄絵を見せられたことが鮮烈な原体験になったことは、知っているはず。実はその地獄絵は、この寺にあるのである。実際のところ、この寺は曹洞宗の禅寺なので、本来地獄絵があるような宗派ではないと思うのだが、素朴な信仰心がよいではないか。ガラスの反射でかなり見えにくかったが、これが水木しげるの原点かと思うと、なんとも感慨深かった。
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さてこの日はこの後、松江空港から東京に帰る必要があったので、レンタカーで松江方面に帰ろうとすると、玉造温泉近くの国道沿いに、面白い看板を発見した。そこには何やら巨大十一面観音とある。まだ少し時間があったし、このような偶然のきっかけを常に大事にする私としては、こういうチャンスをこそものにすべきという信念がある。そして拝観したのは、報恩寺というお寺の本尊、長谷寺式の十一面観音。高さ 4.3m。1538年の作で、島根県の有形指定文化財である。憤怒面が正面に来ているなど、ユニークな点もある。これはなかなか興味深いほとけさまであった。
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そうして我々は帰途についたのであるが、それにしても、この出雲・松江の地には、歴史的価値のある場所が多く、それぞれに神秘的な謎を秘めていることを深く実感することができた。古代出雲王朝の在り方については、今後も研究が進み、新たな発見もあるだろう。私はいつかまたこの地を訪れ、今回見逃した歴史的スポットや仏像などを、是非見たいと思う。そう、もともと松江城を見たいと思ったことがきっかけであったが、出雲大社も、古代の古墳や、銅剣・銅矛といった出土品も、力強い仏像も、神話の舞台とされる場所も、この地に腰を据えたアイルランド人作家の旧居も、そして松江城も、そして妖怪の世界も、すべてこの地の霊気の中にある。これは本当に、ちょっとほかにないほど強い霊気であると思う。例えば、小泉八雲とゲゲゲの鬼太郎には共通点があるなんて、なかなか分からないが、この地を旅すると、いずれも不慮の事故で左目をなくしていることを知る。身体の機能が完全でないからこそ、一般人には見えないものが見え、感じられないものを感じることができる。そこには、出雲の持つ神秘の力が影響しているのだろう。あるいは、そんなことを読んだことはないが、水木しげるは、八雲の逸話を知っていて、鬼太郎も左目のない存在に設定したのだろうか。彼自身、戦争で、左目ならぬ左手を失うという試練に見舞われたわけだが、そのことがむしろ、彼の霊界に対する感性を高めたのかもしれない。

そんなわけで、我が家のガラクタコーナー、別名世界遺産コーナーに、無事松江城のミニチュアが仲間入りした。これで国宝 5天守閣が勢ぞろいしたのである。しかも、右端の松江城の右隣には、前回の記事でご紹介した、振り返る鹿の土偶をマスコットにしたものが。かけがえのない旅の思い出を振り返るという意味に解釈しよう。
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by yokohama7474 | 2018-07-07 02:02 | 美術・旅行 | Comments(0)


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