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カテゴリ:美術・旅行( 263 )

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さて、しばらくぶりに、既に終了してしまった展覧会の記事である。年を越えて、去る 1月20日 (日) まで上野の東京都美術館で開催されていた「ムンク展」。この展覧会は大変な人気で、私がわざわざこのブログで紹介せずとも、美術に関心のある人たちのみならず、幅広い層の人たちが会場に足を運んだことであろう。なにせムンクの「叫び」と言えば、知らない人がいないほど有名だ。上のポスターにある通り、その「叫び」(いくつかある同名・同テーマの作品のうちのひとつ) が来日するとあれば、大人気も無理はない。ノルウェーのオスロにあるムンク美術館がちょうど現在、新たな施設への移転を進めていることから、「叫び」を含むこの展覧会の出品作品 (油彩画 60点、版画など 40点の、合計約 100点) のほとんどは、そのムンク美術館からまとまって来日したわけである。この画家の内面に迫るという意味において、これはなかなかに貴重な機会であったことは確かだろう。

エドヴァルド・ムンク (1863 - 1944) は、一般的な分類では、象徴主義とか表現主義の画家とされることも多い。そのような分類は、画家のタイプを知るという点で意味はあるが、だが、私としてはムンクはやはり、世紀末の画家であると表現したい。もちろん、第二次大戦中まで生き永らえた彼には、いわゆる 19世紀末の文化の爛熟期からも長くこの世にいたわけであるが、近代社会の発展の中で傷ついた自我をさらけ出し、人間の生と死の真実を見つめたこの画家の感性は、やはり世紀末に培われたものであると思うのである。彼は生涯に亘って多くの自画像を描き、この展覧会にもそのうちのいくつかが並んでいたので、少し見てみよう。1895年に制作されたこのリトグラフの「自画像」においては、下部に白骨化した腕が描かれており、32歳にして早くも、死の影を背負った自分を描いているわけである。
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この「地獄の自画像」(1903年作) は、さらに強烈に、不吉なものを背負う自分を描いている。この頃のムンクは、精神的にかなり疲弊した状態であったらしい。ただ、その精神の疲弊を、このような芸術作品として表現できる点に、彼の偉大なる才能がある。それにしても、地獄の自画像とは・・・。
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この「スペイン風邪の後の自画像」(1919年作) は、色使いこそ強烈さはないものの、当時人々に恐れられた (例えばエゴン・シーレはその病で命を落とした) スペイン風邪の不気味な広がりを感じさせる。だが実際には、ムンクがスペイン風邪にかかった否かは、はっきりしていないそうだ。
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次の「家壁の前の自画像」(1926年作) は、いわゆる表現主義調の作品だが、画家は一体何を表現したかったのか。手前の植物も緑なら、頭が溶け込んでいるようにも見える背景にも緑色が漂っている。ここには直接の死への思いはあまり感じられないが、自分の存在そのものの危うさを感じることは、できるように思う。だが、この色調の明るさに、救われる思いもするのである。
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さて、ムンクという人は、幼くして母や姉という家族の何人かを失っていて、それが彼の死生観に影響を与えたことは大いに考えられる。この「死と春」(1893年作) は、モデルは特定する必要のない作品のようで、ただ横たわる女性の亡骸と、それを柔らかく包む春の日差しがテーマである。その対照に、一種の穏やかな諦観を感じることができる。彼の描く題材には陰鬱なものが多い一方で、「叫び」もそうだが、どこかに諧謔的なユーモアも潜んでいることがあると思う。この作品にもそのような感性を感じる。
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この「死せる母とその子」(1901年作) も、物言わぬ横たわる女性は、上とは左右反対であるが、その姿はよく似ている。ただここでは、子供の様子がただならぬ雰囲気である。極度の哀しみであるはずだが、奇妙なユーモアすらも感じさせる点、やはり「叫び」と共通する感性もあるように思う。
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この「病める子」(1894年作) は、いくつかのパターンがあり、油彩画もあるが、有名なテーマである。ここには明らかに姉ソフィエ (15歳で結核で死亡) の影があるだろう。ユーモアは感じられないが、痛切な哀しみというより、何か神秘的なものを感じさせるように思う。下の方は野の風景なのだろうか、未完成に見える。
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これは面白い。「クリスチャニアのボヘミアンたち II」(1895年作)。クリスチャニアとは、現在のオスロのこと。ムンクはこの街でいわゆるボヘミアンとしての生活を送り、画家や作家たちの溜まり場に顔を出していたらしい。この絵の左手前がムンクの自画像だが、これはまたなんと表情のない、仮面のような描き方か。それに比べると、右側の卵型の顔 (笑) をした人物の強烈な存在感はどうだろう。それ以外にも、ここで集まっているのは、一癖も二癖もありそうな人ばっかりですなぁ。
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上の作品などを見ていると、ボヘミアン・ムンクは何やら自分の殻に閉じこもって、他人との干渉を持たなかったようにも思いたくなるが、実はそうでもなく、様々な文化人とつきあいがあったようだ。面白いのは、この時代を代表する感性であったフランスの象徴派詩人、ステファヌ・マラルメとも、パリで面識を持っている。このマラルメの肖像画 (1897年作) は、いかにもムンクのリトグラフ作品らしい陰鬱さと、詩人の透徹した知性をともに感じさせる。
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これは「グラン・カフェのヘンリック・イプセン」(1902年作)。ムンクは、自国ノルウェーの先輩芸術家であるイプセンの戯曲に大きな影響を受けていたらしく、ここではカフェに座っているところを描いているようだが、何やら宙に浮かんだ霊体のようにも見える。そういえばムンクは、隣国スウェーデン出身のやはり劇作家で、心霊研究でも有名なストリンドベリとも親交があったようだ。
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ここからは油彩画を見て行きたい。これは「夏の夜、渚のインゲル」(1889年作)。妹を描いたものであるらしいが、初期の作品ゆえに、未だムンクらしさは完成していない。だがそれにもかかわらず、海辺に佇む人物、そして海自体、その後この画家が繰り返し描くことになるテーマである点は、興味深い。
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これも類似のテーマであるが、この「メランコリー」(1894 - 96年作) は、上の作品から数年にして、既にムンクの個性が横溢している。画面手前でメランコリーに沈む人物の内面を、浜辺と海が心象風景として表しているようだ。
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この奇妙な作品は「幻影」(1892年作) と題されている。水中から首を出す人物と、その背後に浮かぶ数羽の白鳥が描かれていて、自作のテキストにこの絵を思わせるものがあるようだ。だが私が興味を覚えるのは、「サロメ」をはじめとして、頭部切断 / 球形の喪失に象徴される世紀末文化のコンテクストから、この絵を見ることができるという点だ。そもそも水面とは、ある世界と別の世界の境界線である。その境界線を越えて突き出された頭が訴えたいことは、一体何であろうか。
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この「夏の夜、人魚」(1893年作) になると、一層ムンク的だ。彼の作品に繰り返し登場する女性への恐怖が、ここには表れてはいないだろうか。その魔性のものは、世界の境界線を、もはや顔だけではなく体全体で越え、何やらこちらを見つめている。そして画面奥には、これもこの画家独特の表現で、水面に映る月が描かれている。
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これは「星空の下で」(1900 - 05年作)。ここで女はついに男を捕まえてしまうが、その顔は死霊のようで、ただ唇だけが異様に赤い。ただ私には、この世紀末絵画に、どこか人間的な温かみも感じてしまう。ゾッとするような題材を扱いながらも、彼の作品は、絶望だけに満たされてはいないことが多い。そのあたりが万人に愛される秘密ではないだろうか。
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そして、今回の目玉、「叫び」(1910年? 作) である。現存しているムンクの「叫び」は 5点あり、最初のものは 1893年の油彩画。その後、2点のパステル画、1点のリトグラフを経て、最後に描かれたのが、ムンク美術館所蔵のこの作品である。技法は、テンペラと油彩の混合であるようだ。ところで私は、この絵ではなくて、オスロ国立美術館所蔵の「叫び」(1893年の油彩画) が盗まれ、その後奪回されたという事件は明確に記憶にあるのだが、調べてみると、この 1910年頃の作品も、一度ムンク美術館から盗まれている。発見された際には損傷があったので、その後修復が必要であったという。この極めて有名な作品、まさにこの人物の通り、叫びを上げたくなるような災難に遭っているわけである (笑)。やはりこれは、卓越した人間心理の表現であることは間違いなく、ただ単に精神の安定を欠いているといった陰惨な作風ではなくて、やはり人間的な諧謔味もそこにあるからこそ、人々に訴えかけるのであろうと思う。
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この作品は、「叫び」とは似て非なるもの。「絶望」(1894年作)。つまりは、最初の「叫び」の翌年の作品であるが、これは面白い。というのも、背景はほとんど同じであるのに、前景の人物だけが違っているからだ。この人物にはちゃんと目鼻があり (笑)、流れてとろける背景とは無関係であるかのように、目を伏せている。「叫び」では、もちろん叫んでいるのは前景の人物であり、むしろ、彼の叫びによってこそ、自身の身体も、あるいは背景も、ぐにゃりと歪んでしまったように見える。一方この「絶望」は、上で見た「メランコリー」と同種の発想でできていて、叫びを発することなく、崩壊する世界の中に身を置いている。美術好きにとっては常識であるが、この「メランコリー」という主題は、デューラーに代表されるように、西洋美術史においては伝統的なテーマであるわけで、極めて独創的な「叫び」に続いてこのような作品を描いたムンクは、表現方法の試行錯誤をしながらも、結構したたかなところがある画家ではないかと思うのである。
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さて、ここからはいくつか、ムンクの画業について回ったテーマのひとつ、女性の魔性を扱った作品を見てみよう。彼にまつわる有名な逸話として、結婚を迫る恋人がピストルを持ち出し、もみ合ううちにピストルが暴発して左手中指の一部を失ったという話がある。そのせいか彼は生涯独身を貫き、女性の魔性を描き続けた、と言われている。だが、そのピストル暴発事件のときムンクは既に 39歳 (1902年)。さほど若い頃の話ではない。なので、その逸話に必要以上に囚われる必要もないように思うが、いかがであろうか。この「月明かり、浜辺の接吻」は 1914年の作。接吻する男女の顔が一体化しているのは、背景の水面に映る月 (いつも思うのだが、観光案内のマーク、"i" に似ている。笑) と同様、彼の常套手段である。ここには陰鬱な退廃は見られない。
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ところがこの作品の退廃には、恐ろしいものがある。有名な「吸血鬼」(1916 - 18年作) で、いくつもの同じ構図の作品がある。画家としてのムンクの、鮮烈なイメージを作り出す力に驚嘆する。ここに描かれた男の、無個性と無力ぶり。
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退廃といえば、やはりこの作品だろう。「マドンナ」(1895 / 1902年作)。恍惚のマドンナの周りに、精子と胎児が見える。画家自身の言葉によると、このマドンナには地上のすべての美と苦痛が表れているが、それは、彼女に死が迫っていて、一本の鎖が、過去の何千世代と将来の何千世代を結びつけるからだそうである。うーん、詩情のある説明ではあるが、この作品のヴィジュアルには、そんな言葉が吹っ飛んでしまうインパクトがある。ただ、よく見ると胎児の顔に、退廃を越えたユーモアがあるようにも思われ、そこにこの画家の個性が表れているとも言えようか。
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これは「目の中の目」(1899 - 1900年作)。題名の通り、向かい合う見つめ合う男女であるが、男の顔は真っ白で、口がなく、目にも何か恐怖が浮かんでいるように見える。一方の女の方は、やはり表情は分からないが、その髪が男に向かって伸びて行っているようだ。少なくともこれは、愛の賛歌ではないだろう (笑)。
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こうなってくるともう少し分かりやすい。1896年作の「別離」。かわいそうに、血まみれの右手を心臓に当てるこの男性は、このエクトプラズムのようになってしまった女性に、騙されたのだろうか。ところでこの男性、上で見た「メランコリー」に登場する人物と同一であるようにも見える。世界苦は失恋から?
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次の絵になると、ちょっと残虐性を帯びてくる。1907年作の「マラーの死」。ここで殺されているのはもちろん、ダントン、ロビスピエールと並んで知られるフランス革命時の革命家、ジャン=ポール・マラーであり、もちろん西洋美術史においては、新古典主義の巨匠ダヴィッドの作品によってよく知られるテーマである。この作品では、入浴中のマラーを刺殺した犯人の女性 (シャルロット・コルデー) が立ち尽くしている。ここでのマラーは、ムンク自身を象徴するとも考えられているらしい。
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これもムンクの代表作のひとつ、「生命のダンス」(1925年作)。描かれた人物たちにはそれぞれ意味があるらしいが、それはそれとして、地面の緑と補色関係にある真っ赤なドレスを着た女性が中心にいて、何やら生霊と死霊が緩やかに交流しているような、そんなイメージである。ところで、昔コリン・デイヴィスとボストン交響楽団によるシベリウスの交響曲のレコードのシリーズでは、ジャケットにムンクの作品を使っていたが、この「生命のダンス」は、交響曲第 4番のジャケットであったことをはっきり覚えている。あの陰鬱なシンフォニーに相応しいイメージだと思ったものだ。
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だがここでも、ただ退廃だけでないムンクの感性を、細部に読み取りたい。右端の青いドレスの女性の左手で踊る男女。その男の顔はどうだろう。この場合はどう考えても、吸血鬼は女ではなく、男ではないか (笑)。一目見たら忘れない顔である。
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ムンクはまた、肖像画も多く描いている。これは誰あろう、フリードリヒ・ニーチェ (1906年作)。縦 201cm、横 130cmの大作で、ニーチェの妹の委嘱により、この哲学者の没後に、写真をもとに描かれたものであるらしい。ちょうど「叫び」を反転させたような背景とも言えるが、顔をしかめながら立っているニーチェには、叫ぶことなく世界の様相を察知する知性があるものと解される。
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この画家が意外にしたたかだと思うのは、このような背景の使いまわしからヴァリエーションを生み出していることである。その一方で、時に驚くほどパターン化から遠い作品も描く。この「疾駆する馬」(1910 - 12年作) は、私が実物を初めて見たのは今から 30年以上前だが、自分の中では「世紀末の画家」という整理をつけていたムンクに、こんな躍動的な作品があると知って、驚いたものだ。解説によるとムンクは、写真や映画といった当時の新しいメディアに興味を持っていたとのこと。意外と言えば意外である。
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この「太陽」(1910 - 13年作) も近い時代の作品であるが、実にダイナミックな自然の描き方である。クリスチャニア大学 (現オスロ大学) の講堂の装飾画としてもともと注文を受けたものらしい。さて、クラシック音楽ファンとしては、これも見覚えのある絵である。そう、小澤征爾指揮ボストン交響楽団によるシェーンベルクの「グレの歌」のジャケットだ。たまたま最近の記事で、この「グレの歌」について書いた中に、この小澤盤についても触れたばかりだが、実は、手元にその CD を持ってきて比べてみると、ちょっと違う。奇異に思って調べてみると、そのジャケットに使われているのは、同じムンクの「フィヨルドに昇る太陽」という作品で、そちらは実際に現在でもオスロ大学の壁面を飾っているという。うーん、現地に行ってみたい。
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この作品は「星月夜」(1922 - 24年作)。ファン・ゴッホの作品と同じく、英題では "Starry Night" である。オスロ郊外のムンクの自宅から見た風景らしい。イプセンの戯曲と関係があるらしく、画面手前右側に見えるシルエットは、雪の中で死亡する登場人物になぞらえた自身の像であるとのこと。大自然の営みを雄大に描いた上の「太陽」とは異なり、やはり夜の光景ともなると、どうしても自分自身と向き合うという感性が、この画家の中にムクムクと沸き起こるのであろうか。
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さてこれは最晩年の作品、「自画像、時計とベッドの間」(1940 - 43年作)。老境に至っても鮮やかな色使いを続けていたムンクであるが、だがやはり、そこには画業を全うしたという達観が見られないだろうか。ただ、亡くなったのは 1944年と、戦時中であり、ナチスは彼の作品に退廃芸術のレッテルを貼っていたこともあって、心穏やかな老年であったということではないかもしれない。それでも私は、この画家の中に政治的な興味があったとは思われないし、生と死を見つめ、自らの内面と向かい合いながらも、一方では画家としての処世術も身に着けた彼としては、もはや世界苦を叫ぶ必要もなく、ただ柱時計と競い合うかのようにしっかりと立ってみせることが、後世へのメッセージであったのではないだろうか。
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不幸な少年時代を送りながら、30にして代表作を制作。その後半世紀を生き延びるうちに、世紀末は遠い過去となってしまった。だから、冒頭に書いたように、この画家を「世紀末の画家」として片づけてしまうことは、本当はよくないのかもしれない。だが、やはりなんといっても「叫び」は世紀末芸術。30歳でその作品を生み出したからこそ、その後のムンクの画業があったのだと思う。知れば知るほどに面白いこの画家、オスロのムンク美術館が再オープンしたら、また現地でじっくり作品と対峙してみたいものだと思っている。

by yokohama7474 | 2019-03-17 18:20 | 美術・旅行

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これは昨年見た展覧会。いずれ記事を書かなければと思いながら、なかなか実現できなかったのは、既にほかの文化イヴェントで手一杯であることもあるが、この展覧会だけは、私ごときが推奨しようが何をしようが、そもそも大混雑に決まっているからであった。期間は 4ヶ月もあったし、年末をまたぐ会期であったので、予想通り多くの人々が会場を訪れたことであろう。ま、いずれ記事にしようと思っていたその展覧会も、既に 3週間ほど前、2/3 (日) に終了してしまった。だが実はこの展覧会、大阪では現在開催中。出展数が東京よりも少し減っているようではあるが、それでも実に貴重な機会であることは間違いないだろう。いやそれどころか、東京では展示されず、大阪だけで展示されるフェルメール作品もあるようだ。大阪での会期は 5/12 (日) までだから、まだしばらくある。この記事が、これから大阪でこの展覧会を楽しもうと思っている方にとって、少しでも参考になればよいと思う。

ヨハネス・フェルメール (1632 - 1675) は、オランダのデルフトに生まれ、一生その地にとどまった画家。死後は忘れられた存在になっていたようだが、19世紀半ばにまずフランスで再評価が始まり、今日では、日本を含む世界中に、熱烈な愛好者が多くいる、西洋美術史上最大のビッグネームのひとつになっている。現存する彼の作品は、わずかに 30数点のみ。数がはっきりしないのは、研究者でも真作であるか否かについて意見の分かれる作品が、幾つかあるからだ。だが、この展覧会においてはどうやら、現存するフェルメール作品は 35点としているようだ。なぜなら、会場ではこのような缶バッジを売っていたからである。
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これは何を意味するかというと、フェルメールの現存作品 35点のうち、今回は、実に 8点、いや 9点もの作品が来日するということを意味している。ではなぜ、「8点ではなく 9点」なのかというと、もともと 8点で予定していたものが、会期間近になってからもう 1点増えたからである。これは確かに日本においては前代未聞の事態。大混雑間違いなしだ。それゆえ主催者は一計を案じた。それは、日時指定制である。事前にインターネットで日時を指定し、その時間帯に現地を訪れると、(それでも列にはなっているし会場は混雑しているのだが)、何時間も待たずとも会場に入ることができたのである。料金は少々高かったが、この歴史的美術展を見るためなら、通常の展覧会より 1,000円くらい高くとも、文句は言うまい。また、会場設営においても一工夫あったのだが、それは、この美術館の通常の入り口を使用せず、建物に向かって右側に特別の入り口を設営。そこから入って行くと、フェルメール以外の画家の作品 39点 (すべてフェルメールと同じ 17世紀オランダ絵画) をまず見て、そして最後に大きな展示室に入ると、照明を落としたその場所に、ずらりとフェルメールが並んでいる、という仕掛けである。これはなかなかよくできていた。さて、そのフェルメールの真作の数に少し戻ると、上記の通り 35点という説が有力のようであるが、今回の展覧会の図録を見てみると、そこには 37点が掲載されている。実はそれは、Wiki で「フェルメールの作品」という項目に載っている 37点と全く同じなのであるが、そのうちの 2点、国立西洋美術館寄託の「聖プラクセディス」と、ワシントン・ナショナル・ギャラリー所蔵の「フルートを持つ娘」が、フェルメール作であるか否か、専門家によっても意見が分かれるとある。因みに上記 Wiki では、この 2点に加え、やはりワシントン・ナショナル・ギャラリー所蔵の「赤い帽子の娘」と、個人蔵の「ヴァージナルの前に座る若い女」の 2点も、疑義を呈する専門家もいるとある。これは、実際に作品の写真を見てみると、結構納得のいく説明であると思う。

ところで、「フェルメール展」と題された展覧会で、フェルメール作品が 8点もしくは 9点 (いや、正確にはそのうち 2点は展示期間が限られていて、それらは重なっていなかったので、常に展示されていたのは 8点、年末年始のある期間は 7点であった) であるのに対し、それ以外の画家たちの作品が 39点もあるとは、一体どういうことか。そう思った人も多かったかもしれない。だが、実際にすべての作品を見てみて思うことには、これら 39点があってよかった。もしフェルメール作品だけだったら、会場に人が溢れ返って、もう作品鑑賞どころではなかったろうからだ (笑)。いや、私は何も、この 39点の内容を軽んじているわけでは決してない。我々にあまりなじみのない画家が多かったことは事実だが、それでも、フランス・ハルスやピーテル・デ・ホーホやヤン・ステーンという、それなりに名の知れた画家の作品もあったし、以前私が「フェルメールとレンブラント 17世紀オランダ黄金時代の巨匠たち」展の記事 (2016年 2月 7日付) で、気になる作品として紹介した、ピーテル・サーンレダムとかエマニュエル・デ・ウィッテによる、教会の中をシュールに描いたものとの再会もあった。そして何より、人々はフェルメール、フェルメールと言うけれど、彼の描いている題材が、何もすべて彼の独創によるものではなく、ほかの画家たちの中にも、似たようなスタイルで作品を描いて人たちがいたということが、改めて理解できたのであった。つまり、天才フェルメールですらも、時代の子であったということである。

と、ここまで書いておきながら逆説的なことを言ってしまうが、私が改めて再認識したのは、フェルメールの芸術は、彼が時代の子であれなんであれ、まさに誰にも似ていないということだ。彼の作品には、教訓的なテーマがあったり、何やら秘密めいた室内での行動が描かれていることが多いが、それをもって、「この人は今これこれをしているところだろう」「きっとこの手紙にはこんなことが書いてあるに違いない」「この男の下心、見え見え」などと思う必要が、さてどのくらいあるだろう。よくテレビではフェルメール作品についてそのようなことが語られているし、会場で借りたイヤホンガイド (私は普段は滅多に使わないのだが) において、石原さとみもそのように語っていた。だが、正直私にとっては、いかに石原さとみが語ってくれようとも、そんなことはどうでもよくて、この稀代の天才が、世界をいかに自分の手で構築したか、それだけに興味がある。ここにあるのは日常ではなく、それを超えた世界なのであると、私は思う。その意味で彼と同種の天才は、小津安二郎ではないか。押し合いへし合いの中でフェルメール作品を凝視しながら、私はそんなことを考えていた。もちろん、絵画の見方は人それぞれであるから面白い。全く違う考えの人がいる方が、むしろ普通であろう。だがひとつ言えるのは、フェルメールなり、ほかの誰でもいい、画家が日常をわざわざ絵画作品に描くということは、その画家に、眼前の日常とは違う世界を作り出すという欲求があるからではないだろうか。そう思うと、「リアルだ」とか「上手に描いている」「こんなシーン、あるある」というような日常的感覚ではなく、何かそれを超えたもの、いわば芸術としての格の高さのようなものが、見えてくるように思うのである。フェルメールとは、そうしたことを教えてくれる画家だと、私は思う。ということで、以下、個々の作品についてはいちいち語ることをせず、今回の展覧会に展示されていた 9点を、ただご紹介する。展覧会の図録の番号順とするが、どうやらこれは、推定制作年代順になっているようだ。

まず、「マルタとマリアの家のキリスト」(1654 - 1655年頃作)。スコットランド・ナショナル・ギャラリー所蔵。
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「取り持ち女」(1656年作)。ドレスデン国立古典絵画館所蔵で、これが最後に追加出品が決まった作品。
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有名な「牛乳を注ぐ女」(1658 - 1660年頃作)。アムステルダム国立美術館所蔵。
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「ワイングラス」(1661 - 1662年頃作)。ベルリン国立美術館所蔵。
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「リュートを調弦する女」(1662 - 1663年頃作)。メトロポリタン美術館所蔵。
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これも有名な「真珠の首飾りの女」(1662 - 1665年頃作)。ベルリン国立絵画館所蔵。
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「手紙を書く女」(1665年頃作)。ワシントン・ナショナル・ギャラリー所蔵。
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「赤い帽子の娘」(1665 - 1666年頃)。ワシントン・ナショナル・ギャラリー所蔵。但し、上記の通り、一部の専門家はフェルメールの真作であることに疑義を呈していて、実際私もこの作品を初めて見たとき、何か違和感を感じたものだ。だが本展では、真作と認めている。
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「手紙を書く婦人と召使い」(1670 - 1671年頃作)。アイルランド・ナショナル・ギャラリー所蔵。
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尚、大阪展でだけ展示されるのは、この「恋文」(1669 - 1670年頃作)。アムステルダム国立美術館所蔵。
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さてこのように、もう二度とあるか否か分からない、8点ものフェルメール作品を同時に鑑賞できる機会であり、大混雑の中でも、大変に楽しむことができたのである。

最後に余談を 2つ。実は私は、今回の展覧会を凌ぐ数のフェルメール作品を集めた展覧会に、行ったことがあるのである!! いや、正確に言おう。そのような展覧会が開催されている場所まで辿り着いたが、なんとも残念なことに、展覧会に入ることができなかった。この話は以前どこかの記事に書いたような気もするが、面白いので構わずに書いてしまうと、その時に集結したフェルメール作品は、なんと 18点 (但し、上で触れた、疑わしき作品も含む)!! 確かこの展覧会は世界数都市で開かれたはずだが、私が訪れたのは、ワシントン・ナショナル・ギャラリーで、1996年 2月11日のこと。私はこのとき、真冬のニューヨークに 1ヶ月ほど張り付き出張であったのだが、なかなかビジネスの進展が見られない状況に疲れ果て、現地の上司に許可を取り、週末の気分転換として、ワシントン D.C. を訪れることとしたのであった。当時はインターネットはなかったが、確か芸術新潮誌を見て、事前にこの展覧会についての知識があったはず。折しも会期の最終日の日曜日。この機会を逃してなるものかと、朝いちばんにニューヨークから飛行機に乗って出掛けて行ったのだが、開館直後頃の時間帯に現地に着いて、驚いた。異常なほどの長蛇の列であったのだ。なんと、ナショナル・ギャラリーの建物の中から外にはみ出しているどころか、あの広大な建物の周りをぐるりと回っている。どこが最後尾かと思って延々と歩いて行くと、建物の 3/4 くらいまで行ったあたりだろうか、何やら立て札を持った係員が立っている。見ると、「ここから先は今日の入場は保証できません」とあるではないか!! いやいや最終日だから、今日がなければ明日もないんだよ!! と思ったが (笑)、驚くべきことに、その立て札の先にも、まだ延々と人、人、人が並んでいるのである。フェルメール人気をなめていたと意気消沈した私は、入場を諦めてカフェでコーヒーを飲んでいると、ひとりの初老の男性に話しかけられた。日本から来たのに見られなくて残念だと言うと、「オレは時間制のチケットを持っているから、ついて来い。一緒に入ろう」と親切な言葉をかけてくれ、喜び勇んだ私は、その人とともに、別の列に 30分ほど並び、さて入ろうとすると、事情を説明するその男性に対して受付女性は、「あなたをここで入れると、外で待っている何百人に対して説明がつかなくなってしまう」と、毅然とした態度で応対。私はあえなく撃沈し、入り口から見える数枚のフェルメール作品を覗き見て、男性に丁重に礼を言い、その場を立ち去ったのであった。因みに展覧会の図録も売り切れであったが、金を払っておけば海外でも送るというので、申し込みをし、数ヶ月後に無事図録が届いた。なので、23年経った今でも、その時の出展作数を確認できるのである。これは、その展覧会のチラシから。それにしても 18点は、もう実現不可能ではないだろうか。
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最後の話題は、フェルメールの贋作について。私の手元にあって、最初の方を少し読んだまま 2年ほど放ってある (笑)、こんな本をご紹介したい。
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これは、1920 - 30年代に美術市場でフェルメール人気とその作品の値段が急上昇した頃、彼の贋作を描いて大儲けした男の話。その贋作者の名は、ハン・ファン・メーレヘン。フェルメールの生地デルフトの大学の建築学科を卒業したが、本来なりたかった画家としては成功せず、自分を認めないオランダ美術界への復讐として、数々の贋作制作に手を染める。特にフェルメールは当時あまり研究も進んでいなかったのをよいことに、没落した貴族の家から出た作品として、その贋作を売り捌いた。ところが当時の研究家たちはそれを真作として認め、美術館が高値で買い取る例もあったという。上の表紙にある作品は、やはり彼によるフェルメールの贋作である。遠目には、なかなか雰囲気があって面白いではないか。あるいは、有名な例として、ロッテルダムのボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館 (私も行ったことがある) に所蔵される贋作、「エマオの朝食」(1936年作) がある。
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この作品、フェルメール初期の珍しい宗教画と聞けば、うーん、ちょっと妙だけど、そう言われてみればそうかも、と思ってしまいそうだ。この美術館では、今でも贋作への戒めとしてこの作品 (?) を展示している。フェルメールほどの画格の画家は、西洋絵画史上にもそうそういるものではない。だが、「らしい」作品には、専門家ですら騙されてしまうことがあるわけで、人間の目は、何か事情があれば (その事情とは、金なのか、新発見によって得られる名声なのか、ただの思い込みなのか、いろいろあろうが) 簡単に曇ってしまうものだのだなぁと思う。贋作という行為はもちろん犯罪だから支持はできないが、このメーレヘンのような画家が、一体どのような思いで贋作を描いたのか、そのことには大変興味がある。フェルメール展体験の補足として、興味のある方はお読みになってみてはいかがであろう。

by yokohama7474 | 2019-02-25 23:47 | 美術・旅行

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このブログでは、既に終わった展覧会の記事を書いて、ご覧になる方をイラッとさせている (もしくは記事そのものを読んで頂けない) 場合が多いと認識しているので、今回は、たまには会期中の展覧会をご紹介したい。とは言っても、そもそもこの展覧会の会期は 1ヶ月と少し。まだ残り期間があるとは言っても、今週末まで。残る期間はほんの数日だ。だが、このブログで私ごときが何を書こうとも、この展覧会の混雑具合には全く影響ないだろう。というのも、この展覧会は既に連日大混雑であるからだ。ただ、もしご存じない方がおられるといけないので書いておくと、これは美術ではなく、書の展覧会。私としても、書の展覧会に出掛けることはあまりなく、今すぐに思い出せるのは、中学生の頃に同じ東京国立博物館で見た「日本の書」という大規模な展覧会。それからもちろん、空海の国宝「風信帖」などは何度か見たことがあるし、あるいは身内に書家がいるので、その会の発表会には足を運んだこともある。だが、このような歴史的名品が揃う書の展覧会は、私としてはかなり珍しい体験なのである。

そもそも私は泣く子も黙る悪筆で、特に書道ともなると、よしんば筆ペンであっても、それはもう、見るに耐えない字しか書くことができない (笑)。小学生の頃の習字の授業では、墨を硯で擦って、残った墨が斜めになると心が歪んでいる証拠だと聞いて、わざと斜めに墨を擦っていたような (そして墨をズボンにボトリとこぼしていた) ひねくれ者である。そんな私でも、中国の伝説的な書家として、王羲之 (おうぎし) と顔真卿 (がんしんけい) の名前くらいは、高校時代の世界史の教科書で習って知っている。なので、この展覧会に興味を持って出掛けて行ったのであるが、実はこの展覧会、顔真卿の展覧会では全くなく、さらに広く深く、中国の書の歴史から日本の書までを広範に網羅し、実に多くの名品をずらりと揃えた、ちょっとないほど充実した、驚きの内容の展覧会なのである。ただ、この展覧会を「中国の書の歴史」とか、「書 - 波濤を超えて」とか、「愛と哀しみと青春の書」とかにするよりも、ズバリ、教科書に載っている顔真卿の名前を使う方が効果的である、という判断がなされたものと思う。そして、どの展示物も紹介する前にまず書いてしまうが、この展覧会が大混雑する理由は、上に掲げたポスターにもその写真が載っている、何やら書き間違いを訂正した作品、「祭姪文稿」(さいてつぶんこう) である。これは、台湾の故宮博物院所蔵の名だたる名品のひとつで、唐時代の末期、いわゆる安史の乱で戦死した甥を悼んで顔真卿が書いた草稿である。そこにはなりふり構わぬ哀しみが迸っていて、実に感動的。これを見るために人々はこの展覧会に押し寄せるのだ。但し、私がこの展覧会に行ったときには、開館後さほど時間を経ずして入場したはずだが、この「祭姪文稿」の展示場所に辿り着いたときには、既に 90分待ちという状況であったので、今回は残念ながら実物を見るのは諦めた。私は以前、台北の故宮博物院現地で、この書と対面しているはずであるし (恥ずかしながら記憶は不明瞭だが)、いずれまた現地を再訪する機会を持ちたいと思う。「祭姪文稿」についてはまた後で簡単に触れるとしよう。

さて、ここで私たちが見るのは、一言でまとめてしまえば、漢字の歴史である。漢字は、世界四大文明のひとつである黄河文明において成立したとされ、その時代に使われた文字として現在でも残る唯一の文字である。この展覧会で見ることのできる最初の展示物は、紀元前 13世紀、殷時代の甲骨文である。殷墟から出土した現存最古の漢字資料である由。文字通り牛革に書かれているもので、その拓本で見ると形もはっきり分かる。
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これは紀元前 10世紀、西周時代の青銅器。展示品名が難しすぎて PC で漢字変換できないので、それは諦めることとするが、ある家に嫁いできた女性が姑のために作った青銅器であるという。上の展示品とこれは、台東区立書道博物館の所蔵になり、この展覧会ではほかにも多くこの博物館から出品されていた。これほど由緒正しい名品を多く所蔵しているとは知らなかった。
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さてこれは、後漢時代、西暦 66年のもので、「開通褒斜道刻石」(かいつうほうやどうこくせき)。東京国立博物館所蔵。褒斜道という要路の修理開通を記念した銘文の拓本であるとのこと。いやしかしこれ、モダンアートと言っても通用すると思いませんか。
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次も後漢時代、153年のもので、「乙瑛碑」(いつえいひ)。魯の国の前大臣である乙瑛という人が、孔子廟内の器物を管理する役人を採用したことを述べる石碑の拓本。えっ、魯という国は、確か孔子の生まれた国ではないか。ではこれは、孔子の時代のすぐ後のものか!! と思って調べてみると、孔子が亡くなったのは紀元前 479年とのことなので、何のことはない、この石碑はそれから 600年以上経てからのもの。それにしても、この写真の左から 3行目に「孔子廟」とあるのを見ると、何やら興奮する。因みにこの書体は隷書という。この書体なら、ひとつひとつの漢字は今でも読める。
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これはあの王羲之の書の拓本。4世紀、東晋時代のもので、「十七帖 - 上野本」と呼ばれる。確かに冒頭に「十七」と見える。上野本と呼ばれるのは、朝日新聞社社主であった上野理一という人が所蔵していたかららしい (現在は京都国立博物館所蔵)。王羲之は数々の書体を使い分けたとのことだが、この字には得も言われぬ気品が漂っていることは、悪筆の私でも感じることができるのである。さすが書聖。
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これも王羲之で、「定部蘭亭序 - 犬養本」。353年という年代が分かっているが、それは冒頭の「永和 9年」らしい。ここでの犬養とは、あの犬養毅のことで、この拓本は 11世紀半ばに発見され、以来中国歴代の収集家の手を経て、彼の所蔵になったものという。同じ王羲之でも、これはかっちりとした楷書である。4世紀のものとは信じられない。
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さてこれは、拓本ではなく自筆である。所有者の記載はないが、国宝。実に、7世紀、隋の時代のもので、智永という僧侶による「真草千字分」。梁の武帝は、王羲之の筆跡から重複しない一千字を選び、それを並び替えて韻文を作らせたという。その作業に当たって一日で事を成し遂げた周興嗣という人は、その一日で、髭も髪も真っ白になったという。その千字文を、隋の時代に楷書と草書で書写したものがこの作品。それにしても、考えてみれば、こんな古代に既に、同じ字を幾通りもの書体で表すことのできた漢字とは、なんという特殊な文字であろうか。
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これは唐時代の虞世南という人の手になる「孔子廟堂碑 - 唐拓孤本」(628 - 630年)。長安に造営された孔子廟の完成を記念する碑の拓本である。実は今回の展覧会のひとつのウリは、「李氏の四宝」という、清の李宗瀚という人が集めたお宝の集結であるが、これはそのひとつ。
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この展覧会には、ごくわずかだが絵画作品も展示されている。見事だと思ったのでここに掲げておきたいのは、14世紀、元時代の郭忠恕 (かくちゅうじょ) の「明皇避暑宮図」。明皇とは玄宗皇帝のことらしい。玄宗が楊貴妃とともに遊んだのは、このような場所だったのか。私が興味深く思ったのは、このような夢想の中の建物を、あたかも見て来たかのように精緻に描く感性である。
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隋・唐の時代に活躍した書家、欧陽詢 (おうようじゅん、557 - 641) は、書の歴史において大きな功績を残した人らしい。これは 631年に書かれた「九成宮醴泉銘 (きゅうせいきゅうれいせんめい)- 官拓本」。 九成宮とは、隋の文帝が造営した宮殿を、唐の太宗が修復して与えた名前。避暑のための宮殿であったらしく、杖で地面をつつくと甘い水が湧き出てきたので、それを醴泉 (れいせん) と称し、太宗が記念碑の建立を命じたとのこと。欧陽詢は楷書で知られたらしいが、この 76歳のときの書は、「楷書の極則」と呼ばれているという。確かに、凛とした字である。
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次も有名な書家で、褚遂良 (ちょすいりょう、596 - 658) の「孟法師碑 - 唐拓孤本」(642年)。唐の太宗が王羲之に入れあげ、様々な彼の書を収集した際に、その真贋を見極めたのがこの人だという。
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これも同じ褚遂良の「雁塔聖教序」(653年)。長安に今も残る大雁塔内に建立された石碑の拓本だが、この冒頭部分には、あの三蔵法師の名がある。そう、「西遊記」で有名なあの玄奘三蔵が、インドから仏典を持ち帰ってきたことを記念する石碑なのである。恐るべし、歴史の生き証人!!
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これはその褚遂良が王羲之を書写した「黄絹本蘭亭序」。拓本ではなく直筆であるだけに、極めて貴重である。これも台北の故宮博物院に寄託されているもの。後でも見るが、今回は故宮博物院から、数々の名品が来ているのである。
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さあこれは珍しい。あの悪名高い (と我々は習う) 女帝、則天武后の書である。699年に建立された「昇仙太子碑」。周の霊王の王子であった晋という人が、鶴に乗って昇天したという逸話に基づき、その晋の廟を改築してこの碑を建てたらしい。王羲之に倣った字体とのことだが、堂々としていて鷹揚な印象を受ける。実際にはどのような人だったのだろうか。
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これもすごい。あの唐の玄宗の筆になる「紀泰山銘」(726年)。
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これだけではどのくらいの規模か分からないが、実は会場ではこの作品だけ、写真を撮ってよいようになっている。その長さ (碑の高さ) 13m。実はこの石碑は、泰山 (道教の聖地であり、世界遺産に登録されている) に現存しているらしい。以下は、私が会場でスマホ撮影した写真。
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このあと、日本にある唐時代の書がいくつも展示されていて、国宝また国宝なのだが、私好みの変化球で次に進もう (笑)。これも唐時代、9世紀の作品で、「説文口部残巻」。見ての通り、漢字辞典である。面白すぎる。
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さて、ここでようやく顔真卿 (709 - 785) の登場だ。これは「王琳墓誌 - 天宝本」(742年)。顔真卿にとっては友人の母にあたる王琳という人の墓に寄せられたもので、この墓誌は 2003年に出土したという。顔真卿 33歳、現在発見されている中で最も若いときの筆であるらしい。しかしそれにしても、なんという折り目正しい楷書体だろうか。惚れ惚れするとはこのことだろう。
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せっかくなので、ここからいくつか顔真卿作品をご紹介する。これは「千福寺多宝塔碑」(752年)。素晴らしい字であるが、会場で説明されていたことをここで記憶に従って述べると、右手に筆を持つ人は、字を書くときにどうしても右上がりになってしまう。顔真卿はそれを是正し、字の横線が水平になるように書いた。その結果、字はきっちり四角の範囲に収まり、整然とした印象となる上、同じスペースに多くの字数を入れることが可能になった。そして彼の書体が、今日ポピュラーな明朝体のもとになった、ということらしい。
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さてここで、本展覧会の目玉でありながら、上で書いた通り、私が実物に相対することが叶わなかった「祭姪文稿」(758年) から。上にも書いた通り、殺された甥への追悼文の草稿であり、ここで見る顔真卿の字は、上の 2作品に見るような明朝体のお手本とは、随分と違っていて、そこには人間の感情が迸っている。書き直しも実に生々しい。
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そしてこの部分、「嗚呼哀哉」(ああ、かなしいかな)。胸が張り裂けそうな哀しみが、文字として永遠に紙の上に残っている。
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これは「臧懐恪碑」(ぞうかいかくひ、768 - 770年頃)。唐時代の将軍の功績を称えた碑であるらしい。60代前半の顔真卿の書には、なんとも言えない清冽さがある。
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これは 771年の「大唐中興頌」。安史の乱を乗り切った唐王朝を称えるべく、岩に彫られたものらしい。顔真卿は忠臣として知られ、書をたしなむのみならず、官僚でもあり軍人でもあって、大変立派な人であったようだ (最後は奸計によって戦乱地方に派遣され、戦死したとか。但し 77歳は当時としてはかなり長生きであったろうが)。そのような人柄を忍ばせる字である。
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これは 780年に書かれた顔真卿の「自書告身帖」。官僚としての配置換えの辞令を、自分で書いているらしい。確かに真ん中あたりに「顔真卿」とあって、そのあとに「立徳」であるので、自分で自分を推薦しているのであろうか。興味深い。
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さて次は張旭 (ちょうきょく、7 - 8世紀) の書から、「肚痛帖 (とつうちょう)」。顔真卿の師にあたり、草書の聖人と呼ばれているが、酒に酔うと大声を上げて走り回り、髪を墨に濡らして書くなど、奇行が多かったという。この文には、急な腹痛に襲われたときに大黄湯 (だいおうとう) なる薬を服用したら治ったということが書いてあるらしい。うーん、変わっている (笑)。
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もっと変わった書家がいる。その名は懐素 (かいそ、8世紀後半)。顔真卿とも知り合いで、草書の神髄を彼から学んだという。また、その書は李白にも絶賛されたらしい。だが彼も、酒を飲んでは寺院の壁や塀、食器や着物などに手当たり次第に書いたので、現存作品が少ないようだ。そんな中、これも台北の故宮博物院から今回やってきた「自叙帖」(777年) は大変貴重であり、これはもう破天荒な作品である。私としては今回の出品物の中で最も面白いと思ったのがこれである。これは自らの経歴を述べるところから始まる。確かに狂草という感じだが、しかし達筆だ。
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このあたりでかなり興に乗ってきている。素晴らしい筆の運び。
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ところが最後の方では、「人は誉めてくれるけど、いやいやそんな。そんなそんな。そんなー!!!!」ってな具合で、謙遜なのだか自負なのだか分からないが、とにかく感情が炸裂してしまう。面白過ぎる。
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さて、これでもかなり端折りながら中国歴代の名筆をご紹介してきたわけだが、この展覧会で意義深いのは、日本の書の名品もずらりと並んでいることである。最後にいくつか日本の作品をご紹介したい。これはなんと飛鳥時代の国宝、「金剛場陀羅尼教巻第一」(686年)。日本で書写された最古の経典。中国の一流書家たちに比べると癖があるが、極めて貴重な遺品であることは間違いない。
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これはなんと、伝聖武天皇筆、「賢愚教残決」。もちろん国宝である。
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これは最澄の「久隔帖」(813年)。これまた国宝。最澄が残した唯一の書状である由。当時空海のもとで修業中であった泰範という自らの弟子にあてたもので、空海への質問が書いてあるらしい。日本の密教の両巨頭の交流を示す貴重な資料である。
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一方の空海は、言わずと知れた三筆のひとりと称えられる書の大家。これは「崔子玉座右銘」。重要文化財である。後漢の人、崔子玉という人の座右銘を写したもの。さすが、達筆ですなぁ。
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これも三筆のひとり、嵯峨天皇筆と伝わる「李嶠雑詠断簡」(りきょうだつえいだんかん)。国宝。初唐の政治家・詩人の詩を書写したもので、欧陽詢の字体に酷似しているそうだ。
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ついでに三筆のもうひとり、橘逸勢筆と伝わる「伊都内親王願文」(833年)。実は橘逸勢の真筆と確認できる遺品はひとつもないそうであるが、この書の場合、王羲之の字体に似ているところもあり、相当な技術をもって鍛錬された手ということで、逸勢の筆と目されてきたとのこと。
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そのほかにも、日本における王羲之や顔真卿の影響が伺われるような作品も展示されているが、かなり長い記事になってしまったので、このあたりでやめておこう。ひとつ思ったのは、日本の古い書というと、まずは経典が中心というイメージであるが、中国の場合、拓本として残っているものに、もちろん仏教寺院のものもあるとはいえ、あるいは道教であったり、または宗教と関係のない個人の業績を称えるものであったり、必ずしも宗教色の強くないものが多い。日本は中国と韓国から仏教文化を取り入れたわけであるが、その受容自体は、古代からして少し違っていたように思う。東アジアの文化は、単一なようでいて実はそうではない。ただ、漢字を取り入れた我が国においては、書というものが重要になり、そのお手本を中国の古い時代に求めたということは、何か大変に歴史のロマン溢れることのように思われる。なので、たとえ「祭姪文稿」の実物を見られなくても、この展覧会には、ほかにお宝がぎっしりである。残る 5日間の会期で、ひとりでも多くの方に、是非アジアのロマンに触れて頂きたい。

by yokohama7474 | 2019-02-20 01:46 | 美術・旅行

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欧米の主要美術館には、それぞれに夥しい数の絵画が展示されているが、その中で、どの美術館に行っても出会う名前というものがある。別に統計を見たわけではないのだが、私の独断では、やはりピーテル・パウル・ルーベンス (1577 - 1640) こそが、まさにそのような画家の筆頭であろうと思う。しかも、驚くような規模の大作が多く、一体いかにしてこれだけの夥しい作品群を、これだけの水準を保ったまま世に出すことができたのか、不思議に思われる。それはもちろん、彼が工房を率いていたからだが、それにしても、ほかにここまでの数と質を達成した画家はいないわけだから、やはりこの画家ならではの要領というか、配下の画家たちをうまく使いこなす独自の才能があったのであろう。私の場合はどちらかというと、一点一点に心血を注ぐタイプの画家、あるいはどこかに暗い影の差すタイプの画家の方が好きなので、ルーベンスより一世代下のレンブラント・ファン・レイン (1606 - 1669) の方が、好みである。いやもちろん、レンブラントとても工房を率いていたし、アムステルダムに残る彼のアトリエでは、絵画販売をビジネスとしてうまく取り仕切っていた様子を伺うことができる。一方のルーベンスの場合は、ゆかりの地であるアントウェルペンを私が訪れたときには、たまたま祝日であったためにその旧居や墓所の見学ができなかった (以前のこのブログでの旅行記ご参照) こともあって、その活動の実態についてのイメージが不足していることは否めない。だがやはり、レンブラントとルーベンスを比較してみると、ふくよかでドラマティックなルーベンスよりも、陰影の濃いレンブラントの方が、依然として私の好みである。ただ改めてこの 2人の生没年を見ていると、生年は 29年異なり、没年もまた 29年差、ということは、ほぼ同じ長さの人生を生きたことになる (ルーベンスは満 62歳で、レンブラントは満 63歳で死去)。それからもうひとつの顕著な違いは、ルーベンスがスペイン・ハプスブルク家から外交官の役目を負わされて、英国にも赴いているのに対し、レンブラントの場合は、王室との関係はあまりなかったように思われることだ。このルーベンス展のコピーのひとつに、「王の画家で、画家の王」というものがあったが、ルーベンスには王室のために働いた期間があったということ、改めて理解することとなった。そしてまたそこに、現在のベルギー (当時は独立前) で活躍したルーベンスと、プロテスタントの独立国であったオランダの画家レンブラントとの違いを見ることも可能であろう。

さてこの展覧会は、そんなルーベンスの画業に関するものであり、昨年 10月16日から今年の 1月20日まで、上野の国立近代美術館で開かれていたもの。折しも越年の時期の上野では、ほかにもフェルメール展やムンク展という大人気の展覧会が開かれていて、それらの記事も追々アップ予定ではあるが、このルーベンス展、もしかすると若干その 2つの展覧会の影に隠れてしまったかもしれない。私が訪れたときにはほとんど混雑していなかった。上記の通り、私は特にルーベンスに入れあげているというほどでもない人間ではあるものの、それでもこの展覧会を大変に楽しんだし、新たな発見が多々あったので、もし集客がもうひとつであったのなら、もったいないことだ。既に終了した展覧会ではあるものの、この画家についての理解を再度深めるためにも、簡単にその印象を綴ってみたい。

まず主催者のコメントが面白い。そうそう、展覧会に行くと必ず最初に主催者や、場合によっては出展者からのコメントが掲載されているが、私は必ずそれを読むようにしている。そこには展覧会の趣旨や背景が記されていることが多いからだ。今回の場合は、「本展は、ルーベンスをいわばイタリアの画家として紹介する試みです」とある。つまり、若い頃 (1600年から 8年間) この画家はイタリアに暮らしていて、ヴェネツィア、マントヴァ、ローマ等で画家修業を積んだことが、ルーベンスの表現方法の確立に大きな影響を与えているのである。私もあまりそのあたりの知識がなかったが、実はこの 17世紀初頭、ローマで活躍した天才画家がいる。その名はカラヴァッジョ (1571 - 1610)。こちらは私が深く愛好する画家であるが、なるほど、ルーベンスより 7つ年上、当時 30代前半であった彼が衝撃的な作品の数々を制作したのは、1600年から 1606年の間、ローマにおいてであった。そして彼は 1606年に殺人を犯してしまい、ローマを逃げ出したのであるが、ルーベンスはまさに、カラヴァッジョが活躍した時代のローマにいたことになる。実際、マントヴァ公の指示でカラヴァッジョの「聖母の死」(現在ルーヴル美術館所蔵) を買い付けていたり、後年になって「キリストの埋葬」(現在ヴァチカン美術館所蔵) の模写も手掛けている。

さてそんなルーベンス、ある偉大なる古代彫刻を素描に描いている。「『ラオコーン群像』の模写素描」(1601 - 02年作)。ミケランジェロも発掘に立ち会って衝撃を受けたというこの古代ギリシャ彫刻「ラオコーン群像」が発掘されたのは 1506年。それから 100年近く経って、ルーベンスも恐らくは食い入るように眺めて、この超絶的作品を模写したものであろう。
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これは「アグリッピナとゲルマニクス」(1614年頃作)。既にイタリアから引き上げたあとの時期の作品だが、このように真横からの肖像を重ねて描く手法は、古代のコインなどによく見られる。擬古典的な構図でありながら、その肌の色合いや金髪の様子は、これはバロックの感覚である。
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これは「毛皮を着た若い女性像」(1629 - 30年頃作)。現在ウィーン美術史美術館に所蔵されるティツィアーノの作品の、忠実な模写である。ヴェネツィアの娼婦を描いている。ティツィアーノはルーベンスが生涯で最も影響を受けた画家であったらしいが、だがやはりこの作品、構図はともかくその肌の色合いは、ティツィアーノのくすんだものではなく、ルーベンスの明るさを持っていると思う。
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これは「キリスト哀悼」(1601 - 02年作)。年代が示す通り、イタリア滞在時の作品で、来歴は不明であるが、ルーベンスがイタリアで 3番目に制作した公的作品の可能性があるらしい。ここには未だ後年のダイナミックな工房作ほどの様式化はなく、真摯にイタリア美術を習って感動的な宗教画を描こうという若い画家の熱意が見て取れる。逆に言うと、このような孤独な鍛錬を若い頃に重ねたからこそ、後年のダイナミックな作品群が可能になったということだろうか。
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これも同じく「キリスト哀悼」(1612年頃作)。上の作品から 10年の間に、表現がいかに劇的となったかが分かろうというものだ。キリストの右足は正面から描かれていて、遠近法が大きな効果を上げている。
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次は「天使に治療される聖セバスティアヌス」(1601- 1603年頃作)。聖セバスティアヌスを描いた作品は数多いが、このように大小の天使が矢による傷を癒している構図は、あまり見たことがない。それにしても、素晴らしい人体表現ではないか。
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そして、これぞルーベンスの工房による大作と呼びたい、「聖アンデレの殉教」(1638 - 1639年作)。師であるオットー・ファン・フェーンの同主題の作品を下敷きにしているらしいが、こんなに劇的な情景を作り出すのはルーベンス独自の才能であろう。上空には稲光と天使たち、磔刑台の下には心配そうに見守る人々。そしてその間では、様々な人物の手の表情が、右から左から交錯する。
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さてこれは可愛らしい。「クララ・セレーナ・ルーベンスの肖像」(1615 - 16年頃作)。以前、リヒテンシュタイン侯爵家のコレクションの展覧会が日本で開かれたとき、この絵がポスターにあしらわれていた。自身の長女を描いているが、当時 5歳。だがこのクララ・セレーナちゃんは、12歳でこの世を去ったという。ここには、チコちゃんではないが (笑)、「永遠の 5歳」がカンヴァスに刻み付けられているのである。
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これは「聖ウルスラの殉教」(1605年頃作)。これもドラマティックな作品だが、群像の一部は、完全には描かれていない。実はこの作品、マントヴァの聖ウルスラ修道院から依頼された作品の下絵であるらしいが、実際にはその作品は実現に至らなかったと考えられている。だがそれにしてもこの作品、ヴェネツィアのティントレットのドラマティックな構図 (サン・ロッコ同信会館を訪れたときの感動!!) を思い出させるものだ。やはりルーベンスのイタリアでの修業時代ならではの作品と言えるだろう。
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これは展覧会のポスターにも使われている「パエトンの墜落」(1604 - 05年頃作、おそらく 1606 - 08年頃に再制作)。写真で見ると大作であるかのように思われるが、実際には、98cm × 131cm の小さな作品。うーん、これもまたティントレットを思わせる劇的な構図だが、構図研究用の習作であったとも考えられているという。このような鍛錬があったからこそ、後年の工房による劇的な大作の数々が可能になったことが分かるのである。
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そして女性ヌードを描いた作品から、「バラの棘に傷つくヴィーナス」(1608 - 10年作)。この主題は決して珍しいものではないが、立ったヴィーナスがこんなに体をひねったポーズを取っているのは珍しいのではないか。そしてこの肉付きのよさは、後年のルーベンスにもよく見かけるものである。
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最後にご紹介するのは、「マルスとレア・シルウィア」(1616 - 17年作)。ウェスタ神殿の火を守る巫女レア・シルウィアに迫る軍神マルス。色彩も鮮やかで、ルーベンスらしいドラマティックな作品。ただ、全体的に少しひしゃげて見えるのは、もしかすると、高いところに架かったものを下から見上げるようになっているのかもしれない。
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今改めて本展の図録を見返すと、これだけ多くのルーベンス作品と、その周辺の作品や、彼に霊感を与えた古代の彫像などを取り揃えた展覧会は、ちょっとないのではないかと思われる。これを見て、冒頭に書いたような私のルーベンスへの偏見は、かなり是正された。工房制作を可能にした細部のある種の定型化は、若き日に独りで修業したイタリア時代が基礎としてあったということだろう。今後のルーベンス作品の鑑賞のために、実に貴重な機会となる展覧会であった。

by yokohama7474 | 2019-02-16 22:36 | 美術・旅行

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私は全く呑気な人間で、あまり情報に追いかけられたくないものだから、美術館に行くときにも、あまり構えることがないし、今どんな展覧会が開かれているかを、常に血眼になってチェックしているということもない。もちろん、美術に対する関心は人並み程度にはあるつもりなので、思い立てば時々展覧会のチェックはするし、これは必見だと自分に言い聞かせることもある。だがそうこうするうちに、見たいと思った展覧会が既に会期末に近づいていることも多い。そんなことで、今冷静になって確認してみると、昨年秋から開かれていて、私が堪能したいくつかの美術展は、既に会期が終了してしまっており、私はまたまた、終わってしまった展覧会についての記事を今後いくつか書く羽目に陥っているのだが、いや待て。この記事でご紹介する展覧会の会期は 2/11 (月・祝) までである。ということは、未だほんの数日であれ、会期が残っているということだ。そんなわけで、ちょっと駆け足になると思うが、この興味深い展覧会をご紹介してみたい。

まず目につくのは、上に掲げた二種類のポスター。これはもちろん、それぞれ「ドザンヌスー」「マティダンゴ」ではなく、それぞれの著名芸術家の作品がその名前の一部を隠しているという構成である。そして、下の方にある宣伝文句は、「全員巨匠!」である。そう、展示されている画家 (と、一部彫刻家) のほとんどが、一般に名の知れた巨匠たちである、そんな展覧会だ。正直私は、そのような宣伝を見ても、あまり心躍らなかった。というのも、やはり回顧展でその画家の軌跡を辿ることで、様々な発見に迫られるからであり、有名画家の作品だけ集めた展覧会は、どうせ優等生的な面白さのない内容なのだろう、と思ったからである。ところがその先入観は、実際に会場に行ってみて雲散霧消した。これは大変に見ごたえがあり、目の確かなコレクターとはいかなるものかを学ぶことのできる展覧会である。

ここで展示されているのはすべて、米国ワシントン D.C. に所在するフィリップス・コレクションの所蔵品である。その名の通り、ダンカン・フィリップス (1886 - 1966) というコレクターが蒐集した作品群が、コレクションの始まりになっている。コレクションの開始は 1918年で、美術館開館は 1921年。ほぼ 100年前ということである。これがそのフィリップス。
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この展覧会の副題は "A Modern Vision" となっていて、その名の通り、アートにおける近代的なヴィジョンを、このコレクターがいかに追い求めたかがよく分かる。今回やってきている 75点は確かに、ほとんどの作者が一般的にも名の知れた人であり、上記で触れた「全員巨匠!」というコピーは、あながち嘘でもない。興味深いのは、この展覧会の会場が三菱一号美術館であるということだ。このブログでも過去に何度もこの美術館で開催された展覧会を採り上げたが、明治時代のレンガ作りの建物を復元したものであるから、いわゆる現代アートを展示する美術館に比べれば、展示スペースは大変狭いし、通路も細い。だが、巨大作品のほとんどないこの展覧会の内容は、このような環境にふさわしい。それぞれの作品と親密に向かい合える環境であると言ってよいだろう。展示品は確かに傑作ばかりゆえ、どの作品をご紹介すべきかは悩ましいものがあるのだが、ここではざっと 17点ばかりをご紹介したい。

まずこれは、アングルの「水浴の女 (小)」(1826年作)。アングルはもちろん新古典主義の巨匠であり、この作品と同様の構図で、もっと大きいサイズのルーヴル美術館の作品は、つとに名高い。だが、ルーヴルの作品がさらに精緻に描かれていて、女性は椅子に腰かけて、背景が幕によって遮断されているのに対し、この作品では、何やら洞窟のような背景に数人の人が見えて、興味深い。女性のポーズ自体は酷似しているゆえ、背景が一層気になってくる。
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こちらは、アングルとは好敵手と言われたロマン主義のドラクロワが描いた「海からあがる馬」(1860年作)。いかにもこの画家らしい力強いタッチの作品であるが、上記の作品と比べると、新古典主義とロマン主義の違いと、意外な共通点がよく分かる。共通点は、いずれの登場人物もターバンを巻いていることだけではありません (笑)。日常にはない風景に、何か劇的なものを感じさせる点である。
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これはコローの「ジェンツァーノの眺め」(1843年作)。自然をありのままに描く精神は確かにあろうが、時折コロー作品に見られるように、自然の中の人間の営みを、詩情豊かに描いている。
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これも写実という意味では同系統の画家と言ってもよい、クールベの「ムーティエの岩山」(1855年頃)。反骨精神に満ちた画家であったことを必要以上に気にすることはないと思うが、この風景は決して優しいものではなく、岩山の存在感が心に残る。
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これは私も好きな画家で、ドーミエの「力持ち」(1865年作)。皮肉を込めて人間の悲哀や政治の腐敗を描いたこの画家らしく、どうやらこのサーカスの力持ちも、何やら意味ありげに描かれている。
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これは、美術の王道であり、でもやはり、ある種異様な表現を追求したファン・ゴッホの「道路工夫」(1889年)。アルル時代の作品である。フィリップスはファン・ゴッホの作品を「信仰の告白であり愛の行為」と呼んだという。なかなかに詩的な表現ではないか。
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私が、セザンヌこそ近代絵画の神であると考えていることは、このブログで何度も書いているが、その理由は、彼は目に見える世界を描いているというよりは、むしろ自らの手で見える世界を創造しているように思われるからだ。この「ベルヴュの野」(1892 - 95年作) にも当然そのような特性が見て取れる。10年以上前のことだが、ここで描かれている彼の故郷エクス=アン=プロヴァンスを訪れた経験は、私にとっては一生の宝である。
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これも私のお気に入りの画家、モンティセリの「花束」(1875年頃)。いかにも彼の作品らしい黒光りのする小品で、素晴らしい。フィリップスは、この画家の歴史的役割を再発見して、1959年に 6点の作品を購入したという。やはり、侮れない慧眼である。
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これはおなじみ、ドガである。「リハーサル室での踊りの稽古」(1870 - 72年頃)。優雅なようでいて毒を含んだ彼の作品は、なかなかに味わい深く、「もうよく知っている」という先入観は禁物であろう。フィリップスはこの画家の描くバレエの風景について、「幻影と覚醒」という秀逸な表現を使っている。
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これは昨年回顧展を見て大いに感動したボナールの「開かれた窓」(1921年作)。色鮮やかで、それだけでも感動的だが、開かれた窓と、その向こうに見える山に、なんとも言えない静かなドラマを感じられるように思う。
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その意味では、絵を描くこと自体を、何か高い価値を持つ創造活動に昇華したマティスという画家も、実に素晴らしい。この「サン=ミシェル河岸のアトリエ」(1916年作) も、なんというか、もうこれしかないという線と色の交錯が、まさに絵画的。
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画家を○〇派と分類することには功罪あると思うが、ブラックの場合には、キュビスムによって絵画史に革命を起こしたという評価は妥当だと思う。このいかにも彼らしい作品は「円いテーブル」(1929年作)。
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カンディンスキーの場合には、抽象的ではあっても、その愉悦感に満ちた作風が、見るものすべてに忘れがたい印象を与える、やはり稀有な画家である。この「白い縁のある絵のための下絵 I」(1913年) も、誰にも真似できない彼の個性が炸裂している。描かれているのは、彼の故郷の街の記憶だそうである。
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ウィーン生まれの野生児、ココシュカの「ロッテ・フランツォスの肖像」(1909年作)。モデルは有名な法律家の妻であるらしいが、なぜにこんな物騒な手の表情を示しているのであろうか (笑)。この画家は、アルマ・マーラーを筆頭に、しばしばモデルに恋をしたそうだが、この女性に対しても強い思慕の情を抱いていたらしい。そんな思いを芸術に昇華できるとは、やはり素晴らしい才能ではないか。
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野生児と言えば、この人も負けてはいない。ピカソの「闘牛」(1934年作)。彼が好んで描いたテーマであり、まさに生命の横溢。私も以前マドリッドで闘牛を見たことがあるが、そこにある生と死のドラマは凄まじい。ほかの様々な興行と違って、闘牛の来日公演は絶対ないと思うので (笑)、現地で見るしかないのであるが。
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これはもしかすると一般的には知名度の低い画家かもしれないが、ニコラ・ド・スタールの「ソー公園」(1952年作)。私は 1993年にこの画家の回顧展を見て大きな衝撃を受けたことを、決して忘れない。数々の彼の作品を見て行くうちに、絵画における色彩と構図 (= 色と形) とは、実は区別できないものだと認識したからだ。この作品からも、そのような印象を思い出すことができる。
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これも、一般的な知名度はさほど高くないかもしれないが、超絶的に素晴らしいモランディの「静物」(1953年作)。彼の個展については、2016年 3月21日の記事に書いたことがあるが、世界で戦争が起こっていようと、ただひたすら壜や壺などを描き続けた孤高の画家である。フィリップスはこの画家の生前、1957年にはモランディの作品を所有していたようで、その慧眼には改めて恐れ入る。
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駆け足ではあったが、19世紀から 20世紀にかけての名品の数々について書いてきて、いややはり、これだけ確かな目で蒐集されたコレクションには、本当に驚きを禁じ得ないのである。ワシントン D.C. を訪れても、ナショナル・ギャラリーやスミソニアン博物館群しか訪れたことのない私としては、いつか現地でこのフィリップス・コレクションで Modern Vision を体感したいものだと、心から思っているのである。

by yokohama7474 | 2019-02-06 00:43 | 美術・旅行

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重要文化財である東京駅の駅舎の一部を利用した美術館、東京ステーションギャラリーについては、その企画力の高さを、過去に何度もこのブログで称賛して来た。つい先頃も、知られざる江戸時代の画家、横山華山の展覧会をご紹介したばかりだが、その次に開かれているこの展覧会も、その内容のユニークさにかけては優るとも劣らないもの。会期は 1/20 (日) までと、既に残り僅かとなってしまってはいるが、もしこの記事で興味を持たれた場合には、是非現地に足を運んでみて頂きたいと思う。

吉村芳生 (よしお、1950 - 2013) の名前は一般にはあまり知られておらず、かく申す私も知らなかった。山口県の出身で、2007年に森美術館で開かれた「六本木クロッシング 2007」(3年に一度開かれている現代美術の展覧会。2007年に開かれたということは、今年 2019年にも「六本木クロッシング」は開かれるわけだ) で注目されたが、病を得て 2013年に死去してしまったという。このブログでも、頻度は多くないが、時折現代美術をご紹介することがある。私自身は古今東西、どんな美術作品でも興味があるので、自分の知らない作家の作品に触れることは、本当に大きな喜びなのである。だがそもそも、現代美術なるものをいかに評価すべきかについての自分なりの問題意識は常に存在していて、どんな現代アートも面白いという感覚は全くないどころか、むしろ批判的に見てしまうことが多い。だがこの吉村芳生の作品には、そんな私でも大いに感銘を受けるだけの内容が存在している。以下、この展覧会の概要の紹介を通じて、そのあたりの感覚を述べてみたい。展覧会の副題に「超絶技巧を超えて」とあるが、その意味が少しでも伝わればよいと思う。尚、以下の写真は、最後の 1枚を除き、いつもの通り図録から撮影しているのであるが、この展覧会の展示方法自体に興味のある方は、是非「美術手帖」のサイトをご覧頂きたい。多くの会場風景が写真で紹介されていて、大変に分かりやすい。

さてこの吉村、どのような顔であったかは、展覧会入ってすぐのこれを見れば分かる。
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これは「365日の自画像」という作品で、1981年 7月24日から 1982年 7月 23日までの、文字通り 365日の間、毎日自分の顔のポートレートを撮影したもの。あ、いや。違うのだ。近くに寄ってみて初めて分かることには、これは写真ではなく、写真をもとに描いた、鉛筆画なのである!! 1年間に過ぎていった時間を描くのに、9年 (リアルタイムの 1981年に始めて 1990年まで) かかったという。うーむなるほど。これは超絶技巧である。そして顕著であるのは、この 365枚、描かれている画家の顔には、あまり豊かな表情はない。この点をまず覚えておこう。
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そして会場で次に目にするのは、このような長い紙。
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これは 1977年の「ドローイング」という作品。全長 17mの紙に、延々と金網の模様が描かれている。これは、ケント紙と金網を重ねて銅版画のプレス機にかけ、紙に写ったデコボコの痕跡に鉛筆で立体の陰影を描いているもの。網目の数は実に 18,000個。70日間の作業であったという。これは一種のミニマルアートのようだが、上でご紹介した自画像の連続と同じく、ただ同じように続く時間や形態を淡々と描くことで、禅の修行にも似た境地に達するようなことが、あったのではないだろうか。異様なまでの根気が必要な作業で、なかなかできることではないと思う。その淡々としたモノクロームの長い時間が、画家吉村の才能の開花に大きな意味があったことは、追って分かってくることになる。いやしかし、この細部はまさに驚嘆すべきテクニックである。
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吉村はまた、何気ない風景の写真を、升目を使って拡大して鉛筆で描く「ドローイング写真」というシリーズも手掛けている。こんな感じ (1978年作「A Street Scene No.16」) だが、近づいて眺めてみると、小さな升目のひとつひとつの陰影を描いていて、それが集まって図柄を成していることが分かる。これは、完成作を見て「なるほど」と思うのは簡単だが、無から作り出すことは、ちょっと想像できないほど難しいことではないか。
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同様のシリーズから、「ROAD No.10」(1978年作) と「Fly」(1979年作)。前者はエッチング、後者はフィルムにインクと、異なる技法による作品であるが、吉村の目指したイメージのために、複数の技法が試されたことに、創作にかける彼の執念を感じる。
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さて、吉村のモノクロの世界はもう少し続く。例えばこれは、「友達シリーズ」(1981年作)。その名の通り友人たちを描いた鉛筆画であるが、最初の自画像シリーズ同様、写真そのものかのように見える。スーパーリアリズムである。
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そして、吉村のその後の活動にも直接つながる作品がこれだ。
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ん? 英字新聞か??? それはそうなのであるが、これは「ドローイング 新聞 ジャパンタイムズ」というれっきとした作品 (1979 - 80年作)。吉村は若い頃、郷里の山口県で広告代理店のデザイナーとして働いていたが、26歳で上京、版画を学びながらスタイルを模索していたという。その頃、たまたま手元の新聞が、未だインクが乾ききっていない状態であったのを見て、その紙面に薄いアルミ板を当ててプレス機で圧着。それを原版として紙を当て、再度プレスをかけ、紙に転写された薄いインクを頼りに、紙面の文章や写真を、鉛筆を使った手書きで写し始めたという。上の作品はその手法で、1979年11月 8日から 21日間分のジャパンタイムズの一面を、2年がかりで描いたものである。細部をアップで見ると、確かに手で書いてある。気の遠くなるような作業ではないか。
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これは 1984年作の「ジーンズ」。やはり写真を引き伸ばし、細かい升目に分けて、それぞれの升の色の濃さを数字でまず表し、その色を置いていったもの。これもまた、実に気の遠くなる作業である。会場には、この作品の制作過程が分かる、細かい升目の番号を示した紙が置かれていた。
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吉村は 1980年に以下のような言葉を残している。

QUOTE
私の作品は
誰にでも出来る単純作業である。
・・・私は小手先で描く。
上っ面だけを写す。
自分の手を、目を
ただ機械のように動かす。
あとはえんえんと
作業が続くだけである。
UNQUOTE

この言葉をどう捉えよう。もちろん、ある意味では文字通りに捉えてもよいのだろうが、私はここに、彼の秘めたる画家としての情熱と矜持を見る。淡々とした作業の奥に何かが見えてくるのを、彼はずっと待っていたのではないだろうか。例えばこの 1987年作の「徳地・冬の幻影」という作品は、色鉛筆で描かれているが、それは飽くまで白黒の世界。「徳地」とは、当時彼が住んでいた山口市内の地名であるという。
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ところがこの作品、吉村としては極めて珍しく、ただ見える風景を再現したものではない。細部をよく見ると、森の精霊のようなものが、そこここに描かれているのである。まるで「もののけ姫」のこだまのようであるが、吉村にはこのようなものが見えたのであろうか。
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そして吉村は、2000年代、つまり年齢的には 50代に入って、新たな境地に達する。恐ろしいまでに鮮やかな色彩の世界である。描いたのはもっぱら植物であるのだが、そこには、目に見える精霊は登場しない。だが、それらの作品は、見る人をしてその場に凍り付かせるほどの強烈な存在感がある。これは 2004年作の「コスモス」。これが色鉛筆によって描かれているなんて、どうやって信じられようか。全体と、一部のアップである。
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これも「コスモス」(2005年作) の全体とアップである。鳥肌立ちませんか。
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「タンポポ」(2004年作)。しつこいようだが写真ではない。色鉛筆で描かれている。
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このような作品群を見ていると、上でも述べた通り、この画家がモノクロの世界に潜んで淡々と作業に勤しんでいたのは、いつか来るこのような色彩の乱舞に備えてのことだったのだと思われてくる。そして 60代に入り、晩年に差し掛かる頃に吉村はさらにその画題を推し進め、いわば「神の宿る風景」のようなものを描き出した。この「未知なる世界からの視点」(2010年作) は、山口県の川べりを描いているが、その題名は、初期の頃の無機質な響きとは全く異なる、意味深いものである。全長 10.22m という、彼の最大の作品である。
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興味深いのは、吉村は、川辺の花やそれを写す水面を色鉛筆で精緻に描き、そして最後に上下を逆転させて完成としたという。つまり、最初は水面に反射しているという状態で描かれた花は、結果的には反転して、川辺で見える花そのものに変わってしまったことになる。以下、少し分かりにくいかもしれないが、一部のアップを、完成版と、それを試みに上下さかさまにしたもので見てみたい。確かに下の方 (つまり、もともと予定されていた方) が、花の黄色が鮮やかでリアルなのだが、多分吉村は、題名の通り、リアルなものよりも「未知の世界」を描きたいと考えて、上下を逆さまにしてしまったのだろう。
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これは「世界の輝く生命に捧ぐ」(2011 - 13年作)。やはり色鉛筆で描かれた大変な労作であるが、制作年で分かる通り、東日本大震災に触発されたものである。花のひとつひとつが亡くなった人の魂だと思って描いたという。間近で見ると、その精緻さはまさに神業であり、そして、そこから感じられる圧倒的な花の存在感に、身震いするほどだ。まさに展覧会の副題の通り、超絶技巧を超えて吉村が見ていたものを想像することができる。彼は実際に、命を削って創作活動を行ったのであると思う。
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展覧会には彼の遺作も展示されている。2013年作の「コスモス」。右端が白いまま残されている。この部分、ご覧のように下書きは一切なく、ただの余白である。だがよく見ると、鉛筆で薄く、升目が書き込まれている。作品全体の下絵を描くのではなく、ひと升ひと升、緻密に埋めて行くという制作方法であったことが分かる。
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さて、展覧会の最後には、新聞紙と自画像という、彼の以前の画業を思わせる夥しい数の作品が展示されている。
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これらは、実際の新聞紙の一面を拡大コピーし、それを転写して、紙面を自らの手で再現。そこに鉛筆やペンで自らの顔を描き込んだもの。この顔は、一面の記事を読んだあとに自ら撮影した写真がもとになっているとのことだ。つまり、それぞれの吉村の顔は、その時々の社会の動きに対するヴィヴィッドな反応を表していると言える。以下はすべて 2008年の出来事。
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2009年には元旦から近所のコンビニエンスストアで新聞を購入 (様々な全国紙もあり、地方紙もあり)、その一面に、やはり毎日、自らの顔を描いて行った。1月2日だけは休刊日であったので、364枚のシリーズになったらしい。つまりここでは紙面自体は本物の新聞を使っているわけである。だがそれにしても、これらの自画像の表情豊かなことはどうだろう。冒頭でご紹介した 1981年から 82年のシリーズに比べると、その点の違いが顕著である。超絶技巧の向こうに何かが見えてきた画家には、やはり人間の千差万別の表情が大きな意味を持ってきたということだろうか。
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吉村は 2011年12月から 1年間、パリに滞在したそうだが、そのときにも、パリの新聞紙の上に自画像を描き続けた。慣れない環境がつらかったらしく、ここではまた表情のヴァラエティは減っているが、世界のどこにいても自分と向き合うという画家の姿勢が伺われよう。1年間の滞在で 1,000作を仕上げたという。
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さて、このような内容の展覧会、ちょっとなかなかないと思うので、もし未だご覧になっていない方は、残りの会期中に足を運ばれることをお薦めしたい。解説によると、吉村は恐らく世界で最も多くの自画像を描いた画家だろうとのことだが、確かにこの人の顔には、なんとも言えない味がある。これは、2010年に山口県立美術館で開かれた展覧会の写真だが、当時 60歳、残された命は僅か 3年であったわけであるが、とてもそのようには見えず、充実した自らの画業への自負がにじみ出ていると思う。また、あのような精密な作業を行う神経質さはあまり感じさせず、むしろ人間らしさを感じさせる表情である。因みに画家がその前に立っているこの作品、今回の図録と照らし合わせてみると、多分 2008年作の「コスモス」(出展 No. 56) であろうと思われる。
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63歳での死は早すぎ、本当に惜しいことであったが、せめてこのような機会に、現代美術の在り方に一石を投じるこの画家の渾身の画業に思いを馳せてみたい。

by yokohama7474 | 2019-01-14 23:05 | 美術・旅行

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人は廃墟になぜか心惹かれるところがある。世界の廃墟を紹介した写真集は枚挙にいとまがないし、以前このブログでもご紹介した長崎県の世界遺産、軍艦島の人気も大変なものだ (昨年 10月の台風による被害によって現在上陸禁止のようだが、今月末には再開というニュースも見る)。かつて人々が集い、活気に満ちていた場所から人がいなくなり、建物は崩壊して植物が繁茂したり、あるいはそんな中にかつての人の生活の痕跡が残されていることで、もののあわれを実感する。日本人の感性に訴える光景である。いや、この感性は日本特有のものではなく、西洋にもある。この展覧会は西洋画において描かれた廃墟を中心としたもので、その企画は大変に面白い。本展のひとつの特徴は、日本に所在する作品のみによって構成されていることで、そのことで、例えば (以前どこかの記事でその名に触れた) モンス・デジデリオのような極めて特異な廃墟の画家の作品は見ることはできないし、あるいはユベール・ロベールの大作 (あっ、それなら国内の西洋美術館に 2点ありますがね) は出展されていない。だが、その代わりに様々な未知の作品に出会うことができる、なかなかに刺激的かつ意欲的な展覧会であると言えよう。これは 1/31 (木) まで、渋谷の松濤美術館で開催中なので、これから行こうという方にも、何かのご参考になればと思う。

さてまず、ポスターにもなっているこの作品から。これは上に名を挙げたフランスのユベール・ロベール (1733 - 1808) の「ローマのパンテオンのある建築的奇想画」(1763年作)。上述の通りこの画家の名作 2点を所蔵する国立西洋美術館で 2012年に開催された展覧会は私も大変楽しんだが、18世紀、ポンペイやヘルクラネウムといった古代遺跡の発掘に沸いた時代に「廃墟のロベール」と呼ばれた画家である。これはペンと水彩で描かれた小品だが、物語らぬ朽ちた建築や彫像を物珍しそうに見る人たちも、ローマ風の衣装を纏っている。白昼夢のような雰囲気がある。
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これはアシル=エトナ・ミシャロン (1796 - 1822) という画家の「廃墟となった墓を見つめる羊飼い」(1816年作)。フランスの画家 (や音楽家) がその獲得に躍起とな
ったローマ賞の、「歴史的風景画」という部門が制定されて最初の受賞作であるそうだ。鬱蒼とした森や滝という荒々しい自然の風景の中に古代の墓があり、それを犬連れの 2人の人物が見ている。人の営みのむなしさを感じさせるが、そこにはまた、あのプッサンの謎めいた「アルカディアの牧人たち」(1638 - 40年頃作。言わずとしれた「ダ・ヴィンチ・コード」のモチーフのひとつ) を思わせるものがある。
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これは時代も雰囲気もがらっと変わるが、アンリ・ルソー (1844 - 1910) の「廃墟のある風景」(1906年頃作)。この作品、税関吏ルソーらしい素朴さは明らかだが、彼の描く題材としては、少し珍しいのではないだろうか。右手に聳える巨大な廃墟 (= 歴史の証人) には興味なさげにトボトボ歩く女性の後ろ姿に、日々の暮らしの切実感がある。だが、大仰なメッセージにならずに、穏やかな味わいである。
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さぁ、次は私が偏愛する画家の作品。ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ (1720 - 1778) の「古代アッピア街道とアルデアティーナ街道の交差点」(1756年頃作)。「ローマの古代遺跡」という版画集の第 2巻に含まれている作品。それにしても、これは圧倒的な奇想である。マルグリット・ユルスナールという作家に「ピラネージの黒い脳髄」というエッセイ集があるが、黒い脳髄とは、実に言い得て妙である。ずっと眺めていても飽きることがない。
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これも同じピラネージの「ローマの景観」から「ティボリの通称マエケナス荘の内部」(1764年頃作) と「コロセウムの内部」(1766年頃作)。これらは上の作品ほどの奇想はないものの、やはり特異な感性によってできている。英国の現代作曲家ブライアン・ファーニホウがこのピラネージの「牢獄」シリーズから触発された音楽を書いているし、そうそう、この人の「牢獄」作品を集めた展覧会を、上記の 2012年の西洋美術館でのユベール・ロベール展と同時開催していたことも思い出した。ところで、下に見るコロセウムの内部は、現在のそれよりも随分荒れた様子で、現在我々が見る姿になるまでに、かなり整備されたことが伺える。
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さて、これは誰の作品だろう。答えはなんと、ターナーと並ぶ英国ロマン主義の巨匠、ジョン・コンスタブル (1776 - 1837) である。描いているのはもちろん「ストーンヘンジ」(1843 - 44年頃作)。あの森林風景での典型的なコンスタブルよりも、随分とターナー寄りのドラマ性を感じさせる作品であり、興味深い。この作品のもとになる作品を描いたときに、彼は妻や親友を失ったらしく、その哀しみが込められているのかもしれないとのこと。
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これはジョン・セル・コットマン (1782 - 1842) の「ハウデン共住聖職者教会の東端、ヨークシャー」。あまり知られていない画家だが、英国の人で、もともと水彩画家としてキャリアを始め、後年は版画中心に活動したらしい。この作品は英国北部のヨークシャーにある教会の廃墟を描いたもののひとつ。19世紀英国の審美感、ピクチャレスク (Picturesque) とは、まさにこの絵を表現する最適の言葉であると思われる。今でも英国では、このような教会の廃墟はあちこちにある。
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こちらはフランスのウジューヌ・イザベイ (1803 - 1886) の「ブゾール城と廃墟」(1830 - 32年頃作)。「古きフランスのピトレスクでロマンティックな旅」というシリーズの中、オーヴェルニュ地方で描かれたものである。そうそう、まさにこの「ピトレスク」とは、英語でいう「ピクチャレスク」のことである。実はこのイザベイという画家、英国の旅行経験から、英国美術の影響を受けているらしい。
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展覧会は次に、日本の画家による廃墟作品へと移行する。といってもあまりイメージがないが、いかなる作品であろうか。最初の方には、江戸時代に西洋画を模倣して描かれた興味深い作品を見ることができた。これは亜欧堂田善 (1748 - 1822) の「独逸国 (ゼルマニア) 廓門図」(1809年作)。これは、もともとはなんと、ピラネージの「古代のカンピドリオ」という作品を下敷きにしたフランスでの出版物によって制作されたものらしい (ドイツではなく、ローマの、しかも現実にはない組み合わせの情景)。全く見たことのない光景を描こうと思った田善とは、どのような人だったのであろうか。
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これも面白くて、歌川豊春 (1735 - 1814) の「浮繪アルマニア珎藥物集之圖」。豊春は初代豊国の師であり、その後浮世絵の一大勢力となった歌川派の祖であるらしいが、西洋の遠近法を使用する「浮絵」と呼ばれる手法をよく手掛けたという。この奇妙な作品、モトネタはドイツの博物学者ルンフィウスの「アンボイナ島奇品集成」の表紙であるらしい。・・・おおっと、ちょっと待て。私の記憶の底で何かが蠢いている。そう思って調べてみると、ありましたありました。2016年12月25日の記事で、サントリー美術館における「小田野直武と秋田蘭画」展を採り上げたときに、そのオリジナルの表紙をご紹介していた。今回の展覧会には出品されていなかったが、ご参考までにそのオリジナルもご覧頂こう。だがしかし、この豊春作品の左側、何やら海のように見える場所は、また別の何かの翻案なのだろうか。
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それから時代は下って、これは日本画の大家、小野竹喬 (1889 - 1979) の「素描、ローマ廃墟」(1922年)。彼は実際にヨーロッパに出向いて西洋画を勉強したらしく、これはローマのパラティーノ丘の風景を描いたものである由。水彩画であるが、日本画のスタイルとは全く異なる作品で、ちょっとセザンヌ風とすら言いたくなるセンスではないだろうか。
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そもそも日本が西洋に扉を開いた頃から、美術教育において遺跡を描く訓練がなされたようである。以下は、明治のお雇い教師であったイタリア人、アントニオ・フォンタネージ (1818 - 1882) の「廃址」(1876 - 78年作) と、その生徒 (氏名不明) が描いた「風景」(1877 - 78年作)。見たこともない風景を賢明に描く明治の日本人の思いは、いかなるものであったろうか。
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これも面白いのだが、百武兼行 (1842 - 1884) という画家の「バーナード城」(1874年作)。なんと、明治 11年の作である。百武は佐賀藩主鍋島直大 (なおひろ。この人は、この展覧会の会場である松濤美術館のすぐ近くにある鍋島松濤公園の地に、茶園「松濤園」を開いた人) の側近として 1871年に随行渡欧、オックスフォード大学で経済を学んだという。その後油彩画を学び、1880年には、特命全権大使となった直大に従ってローマに赴き、外務書記官を務めるかたわら、次に作品をご紹介する松岡壽 (ひさし) らとともに、チェザーレ・マッカリという画家に学んだという。帰国後は病を得て、42歳で没してしまう。それにしてもこの作品、渡欧して 3年後とは思えない、見事な作品ではないか。現在は宮内庁の所有になっている。
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これは松岡壽 (1862 - 1944) の「凱旋門」(1882年作)。松岡は上記のフォンタネージのもとで絵画を学び、1880年に鍋島公使に随行してローマに留学した。ここで描かれているのは、コロッセウムの横にある、皇帝コンスタンティヌスを記念して 315年に作られた凱旋門。うーん、フォンタネージの教育の賜物か、陽光のもとの廃墟を詩情豊かに描いた作品である。
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展覧会ではその後シュール絵画における廃墟のイメージを追う。デルヴォーが幾つかあったが、ここではマグリットの「青春の泉」(1957 - 58年作) のみご紹介しておこう。横浜美術館の誇る作品である。
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シュールの流れで、ほかであまり見る機会のない日本人の作品を数点ご紹介したい。これは伊藤久三郎 (1906 - 1977) の「流れの部分」(1933年作)。伊藤は京都の人で、もともと日本画を学んだが、西洋絵画も独学で学び、シュールレアリスムの作風による創作を行った。白い衣に黒い羽根の天使を追って、黒い後ろ姿の男が急流の上の鉄骨のようなものの上を危なっかしく歩いている。右下には彫像の首のようなものが波間を漂っている。不安を煽りながら、妙な静けさのある作品だ。
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これは北脇昇 (1901 - 1951) の「章表」(1937年作)。この人は日本のシュルレアリストとしては有名であるが、この作品は初めて見た。これは文化勲章が制定された年の制作で、当初は「文化勲章」というタイトルが予定されていたらしい。日本が戦争に向かって進んで行く時代、政府に対する不信感が根底にあるのかもしれないが、必ずしも政治的なメッセージと取らずとも、何か心に残る作品だと思う。
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今井憲一 (1907 - 1988) の「バベルの幻想」(1955年作)。ここに描かれた超近代建築は、空や雲を眩しく反射しているが、その足元には瓦礫が散乱している。現代の建築は、バベルの塔のように、人間の傲慢を警告する存在なのであろうか。
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そして最後のコーナーは、より現代に近づくのだが、これがまた素晴らしい。まずは麻田浩 (1931 - 1997) の「旅・卓上」(1992年作)。この廃墟は一体なんだろうか。図録から撮影した写真では分かりにくいが、画面下の方には、テーブルクロスをかけられた長い机が見える。これは誰が見てもダ・ヴィンチの「最後の晩餐」のイメージである。繊細な画家だったのであろう、65歳で自らの命を絶っている。
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これは大岩オスカール (1965 - ) の「動物園」(1997年作)。この画家はブラジルで日系 2世として生まれた人。現在ではニューヨークを拠点としているようだが、この風景は日本を思わせるもの。それもそのはず。実はこれ、北千住の光景であるらしい。人の手によって造られ、また壊される建造物に、もののあわれを感じてしまう。
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元田久治 (1973 - ) による「Indication : Shibuya Center Town」(2005年作)。題名の通り、渋谷センター街の入り口、つまりはハチ公前交差点を描いているが、普段は無数の人々でごった返しているあの街がこのようになる日が、いつか来るのであろうか。この感じは、映画では古くは「猿の惑星」のショッキングな設定もあり、日本においてはやはり、大友克洋の「Akira」あたりの影響は大きいであろう。背筋の寒くなる光景。
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同じ画家の「Indication : Diet Building, Tokyo 3」(2008年)。国会議事堂が大変なことに (笑)。
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最後に、野又獲 (みのる、1955 - ) の「交差点で待つ間に」(2013年作)。これもまた、近未来の渋谷の風景で、左下にはハチ公像が残っていて、周りに野良犬が群がっている。
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人はこのように、繁栄の中にも廃墟となった街の姿を思い浮かべるものである。それはある種禁断のロマンティシズムなのであろう。私もその感覚が好きなので、廃墟には得も言われぬ魅力を感じるし、手元には以下のような本もある。
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いやいや、このような本を読んでも、とりあえず今日現在、人類は未だ存続していることに気づき、生きていることの価値を改めて思い知るのである。

by yokohama7474 | 2019-01-05 22:09 | 美術・旅行

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この展覧会は、渋谷の Bumkamura ザ・ミュージアムで現在開催中のもの。会期は 1/27 (日) までであるから、未だ少し時間はある。なので、この些細な記事も、少しは美術ファンの方々のお役に立てようかと思う次第。この展覧会では、読んで字のごとく、モスクワにある国立トレチャコフ美術館の所蔵品によって、珠玉の、そしてロマンティックなロシア絵画 (いずれも帝政ロシア時代のもの) を 72点展示している。そして何より、上のポスターになっている女性が、「またお会いできますね」と、意味ありげな視線を投げていることに注目しよう。これはかなり有名な作品で、題名は「忘れえぬ女 (ひと)」。描いたのは、イワン・クラムスコイという画家である。確か今回が 8度目の来日と読んだ気がするが、それだけ人気作だということだろう。かく言う私もこの作品には中学生のときに出会っていて、それは、当時銀座にあった東京国際美術館 (そういえば、浮世絵専門美術館であったリッカー美術館と同じビルに入っていたことを、何十年ぶりかで思い出した!!) で何度もロシア美術の展覧会を開催していたからだし、それ以外にも、当時はデパートでもこのような美術展が頻繁に開かれていたので、そのような機会もあったかもしれない。そういったロシア美術の展覧会で、この「忘れえぬ女」や、19世紀ロシア美術の王者であるイリヤ・レーピンの作品 (「ヴォルガの船曳き」が圧倒的であった) や、イワン・アイヴァゾフスキーの「第九の怒涛」(つい先ごろまで、東京のほかの展覧会で展示されていたことを今知った) と出会ったのである。因みに今回知ったことには、その今は亡き東京国際美術館を経営していたのは月光荘という画廊で、その経営者の中村曜子という人 (毀誉褒貶あったようだが) は、あのピアニスト中村紘子の母であったそうだ。世の中、知らないことが多すぎる。

この展覧会に話を戻そう。今回の出品作を所蔵するトレチャコフ美術館は、私も現地モスクワで 2度訪れたことのある、素晴らしい美術館。古今のロシア美術の宝庫である。だが、なかなかモスクワまで美術行脚に出掛けるのは簡単ではないので、このような貴重な機会を有効活用したいものだ。ではこれから、帝政ロシア時代の、写実的でありドラマティックであり、また人間的な絵画の数々をご紹介したい。まずこれは、ワシーリー・ヴェレシャーギン (1842 -1904) の「アラタウ山にて」(1869 - 70年作)。これは奈良の風景かと見まがうばかりの、たおやかな作品である。これはこれで素晴らしいのだが、実はこの画家、戦場に赴いてその光景を描いた反戦画家でもあったらしい。「ヴェレシャチーギン」という名前で日本語の Wiki もあり、そこにはちょっと驚くべき強烈なイメージが並んでいるので、ご興味ある向きは是非チェックされたい。その最期は、日露戦争の取材のために乗っていた戦艦が爆破されて死去したとのこと。そして、敵国の人であるにも関わらず、幸徳秋水や中里介山が追悼文を残しているという。
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次はアブラム・アルヒーホフ (1862 - 1930) の「帰り道」(1896年作)。これぞ帝政ロシアの写実性。遥か地平線まで見渡せるロシアの大地を、この御者と馬は、どこまで帰ろうというのか。空気感が伝わってくる。
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お、これは上で触れた「第九の怒涛」をその代表作とするイワン・アイヴァゾフスキー (1817 - 1900) の作品で、「嵐の夏」(1868年作)。この画家は海の光景を多く描いたことで知られているらしい。広いロシアで、海に面した場所は限られていると思うが、この画家は海軍本部に属していたという。これは防衛上の要請もあったということかもしれない。ロシア海軍といえば、音楽の分野ではもちろん、リムスキー=コルサコフである。その体験があの絢爛たるオーケストラ音楽の粋である「シェエラザード」に活かされていると思うと、絵画であれ音楽であれ、海は芸術の源になる存在だと理解できる。
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これも同じアイヴァゾフスキーの「海岸、別れ」(1868年作)。これはほどんど、ドイツロマン主義のカスパー・ダヴィット・フリードリヒではないか。なんとドラマティックな夕日だろう。
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次はコンスタンティン・クルイジツキー (1858 - 1911) の「月明りの僧房」(1898年作)。実際の作品の色調はもう少し暗めであるが、しかしそれにしても、神秘的な月明りの情景である。ロシア世紀末にこんな作品があったことを、もう一度胆に銘じたい。
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これまでの作品には、一貫してその写実性に舌を巻くのであるが、このイワン・シーシキン (1832 - 1898) の「雨の樫林」(1891年作) も、実に驚きの作品。陰鬱な空のもと、ぬかるんだ林の中を歩く男女。ここにある水面の様子に、その後アンドレイ・タルコフスキーにまで継承されるロシア的美学を見て取りたい。
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これも同じシーシキンの「樫の木、夕方」(1887年作)。この画家はよほど樫の木が好きだったのかもしれないが (笑)、そんなことはどうでもよい。ほとんどスーパーリアリズムのこの作品は、同じ写実的な特性はあれど、ドラマティックなアイヴァゾフスキーの作品とは全く異なっている。
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と書きながらあえて次は、また異なる趣向の作品。ミハイル・ヤーコヴレフ (1880 - 1942) の「花のある静物」(1909年作)。なるほど、帝政ロシア期にはまた、このようなモダンな感覚の画家も活動していたわけである。これはパリ風の静物画だと思ったら、案の定この画家は、後年 (1923年から 37年まで)、フランスとベルギーで過ごしたという。
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次も異色かもしれない。イワン・ゴリュシュキン=ソロコプドフ (1873 - 1954) の「落葉」(1900年代)。秋という季節を詩的に擬人化しているとのこと。民俗的であるような、でもモダンな味わいもある、不思議な絵である。
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さてここで、また写実に戻りたい。アレクセイ・サヴラーソフ (1830 - 1897) の「霜の降りた森」(1880年代末から 1890年代前半作)。細長い木の幹が氷上に影を落としているのが寒々しいが、よく見ると右奥の小屋の煙突からは煙が出ている。極寒の中でも、人の生活が営まれているのである。
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さてこれは、上で 19世紀ロシア美術の王者と形容した、イリヤ・レーピン (1844 - 1930) の作品で、音楽ファンにはおなじみの「ピアニスト・指揮者・作曲家アントン・ルビンシュタインの肖像」(1881年作)。このアントン・ルビンシュタインの作品を聴くことは今日では稀であるが、この容貌はイメージにぴったりなのである。ところで今きづいたことには、このレーピンのことを 19世紀の画家と呼んでよいものだろうか。というのも、20世紀に入ってからもかなり長い間生きていたわけであるので。そこで、2012年にやはり Bunkamura ザ・ミュージアムで開催された「レーピン展」の図録を持ってきて調べてみると、その際の出品作も帝政時代のものばかり。あの先鋭的なロシア・アヴァンギャルドと、それを踏みつぶした共産党の偏狭な文化政策の狭間で苦しむようなことは、なかったのだろうか。
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そしてこれも有名な作品。イワン・クラムスコイ (1837 - 1887) の「月明かりの夜」(1880年作)。うーん。こういう作品を見ていると、ロシア人とは繊細な美的センスを持つ人たちであることが分かる。
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そうして、同じクラムスコイの「忘れえぬ女」(1883年作)。この女性は上の「月明かりの夜」のモデルと異なり、ある種の慇懃無礼さや傲慢さがあると思う。ロマンティックな男性は、そのような女性に対して「忘れえぬ」という感慨を抱くものであろうか (笑)。ともあれ、馬車上からこちらを見下ろすこの視線は、確かに一度見れば忘れえぬものだし、背景の霞んだ雪景色も、詩的で素晴らしい。
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これらとは対照的な女性像もある。これは、パーヴェル・チスチャーコフ (1882 - 1919) の「ヘアバンドをした少女の頭部」(1874年作)。ツルゲーネフの短編「あいびき」に基づいているらしく、現在では所在不明の油彩画「あいびき」の習作で、描かれているのは農家出身の若い女性。影のある表情と対照的な赤く派手なヘアバンドが、何か物悲しい。
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いくつか子供たちの絵を。これはウラディミール・マヤコフスキー (1846 - 1920) の「小骨遊び」(1870年作)。私などはこの名前を聞いて、同姓同名の、ロシア・アヴァンギャルドを代表する詩人 (彼の詩集を以前このブログで採り上げたが、ほとんどアクセスがなくて落ち込んでいます) を思い出すが、どうやら親子や親戚ではないようだ。題名の通り、小骨を使った遊びを描いているようだが、子供たちの表情の豊かさや、後ろの小屋のボロい屋根の様子など、素晴らしい手腕である。
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これは可愛らしい、アントニーナ・ルジェフスカヤ (1861 - 1934) の「楽しいひととき」(1897年作)。その名で明らかである通り、この絵の作者は女性である。上記のマヤコフスキーの弟子で、貴族の出身でありながら、このような庶民の姿も描いたらしい。
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これはまた色彩の乱舞である。アレクサンドル・モラヴォフ (1878 - 1951) の「おもちゃ」(1914年作)。決して写実一辺倒ではないが、明るい日の光のもとでおもちゃに見入る子供たちのワクワク感が伝わってくる。
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都市の風景を描いた作品から、セルゲイ・スヴェトスラーフスキー (1857 - 1931) の「モスクワ美術学校の窓から」(1878年作)。それにしてもこのロシアには、一体何人、優れた写実の手腕を持った画家たちがいたのだろうか。写真のような絵画であり、そこには静謐さが張り詰めている。
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再び登場、ウラディミール・マヤコフスキーの「大通りにて」(1886 - 87年作)。上の無邪気な子供たちの遊びと違って、ここでは、子供を抱えた母親が寒そうに身をかがめているのに対し、その夫とおぼしき男性は、呆けた表情でアコーディオンを弾いている。詳細は分からないが、何やらややこしい家族のトラブルが進行中 (?) といった感じであろうか。ロシア人は、自然の雄大さだけではなく、このような人間性を観察するのに長けていることは、何も文学だけではなく、美術からも理解できるのである。
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これらロシア帝政時代の作品群には、テーマや技法の差こそあれ、同時代のヨーロッパのほかの地域に芽生えた退廃や前衛性というものは、概して希薄である。だがこの後にあの嵐のようなロシア・アヴァンギャルドがやってくると思うと、そのギャップに、何か社会的な要因があったのかもしれない、と思うと、ロシア革命の背景にも想像力が及ぼうというものだ。ただ、そのような歴史を一旦忘れて、虚心坦懐に鑑賞するだけでも、大変に見事な作品が多いことは確かであるので、一見の価値ある展覧会と言えるであろう。

by yokohama7474 | 2019-01-05 00:25 | 美術・旅行

東京 目黒 大円寺

今年の正月は遠出の予定がなかったので、元旦は、普段不足しがちな睡眠という奴をひたすらむさぼった。2日は近場で映画を 1本見た。そして 3日。朝、寝床からゴソゴソと起き出した私は、今のうちに見ておこうと思ったメジャーな展覧会 2つと、それほどメジャーではないが素晴らしい展覧会を 1つ見て、さて帰宅前にどこかに初詣にでも行こうかいなと思い立ち、行くことに決めたのは、目黒の大円寺 (本来は「大圓寺」と旧字で書くべきなのだろうか)。ここでは、普段は拝観できないが、正月ならそれが叶う貴重な仏像があるからである。以前も正月に訪れたことがあるが、何度見ても素晴らしい仏像であるので、再会が楽しみだ。この大円寺に行くには、目黒駅から雅叙園の方に向かう、このような急な坂を下って行くことになる。
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何年か前の正月の記事で、この坂の上で撮影した、夕闇に映える富士山の写真を掲載した記憶があるが、この日は、天気はよかったものの、残念ながら昼間の時間に富士山を見ることはできなかった。さてこの坂、その名を行人 (ぎょうにん) 坂という。江戸時代から、江戸の中心と目黒不動を結ぶ道であり、富士山が見える場所であることも関係してか、多くの往来で賑わった様子である。またこの坂の名前は、このあたりに湯殿山の行者たちが多く住んだことによるらしい。坂の途中の左手にこの表示が見えてくれば、もう大円寺は近い。いや実は、坂道の上の方まで、お香のかおりが漂っていた。この「行人坂」の表示のすぐ横にある祠には、1704年に目黒川に橋を架けた西運という僧を記念した作られた勢至菩薩石像が祀られている。この西運についてはまたあとで。
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そのすぐ横に見える大円寺の門。「大黒天」とあるが、実はこの寺、江戸時代最初の七福神巡り (元祖山手七福神) の参拝地のひとつである。
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その大黒天には、正月ということもあって、多くの参拝客がお参りする。
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だが私の今回のお目当ては、重要文化財、鎌倉時代初期 (1193年) に作られた釈迦如来立像である。これはお寺のパンフレットからお借りしてきた写真。
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この仏様は秘仏で、通常は非公開。だが、正月 7日までと、花祭りの 4月 8日、大黒天のお祭である甲子 (きのえね) 祭にはそのお姿を見ることができる。仏像に詳しい人には一見して自明であるが、これは「清凉寺式釈迦如来」と呼ばれる形式の釈迦像である。京都嵯峨野・清凉寺にある神秘的な中国伝来の釈迦像 (985年作、国宝) の姿を模して作られているのであるが、全国に沢山ある清凉寺式釈迦如来のなかでも、今私がぱっと思いつく、奈良西大寺や鎌倉極楽寺のそれと並んで、大変美しい作品である。清凉寺の釈迦如来像の特徴は、胎内に臓物を模した納入品があったことであるが、この大円寺像も、胎内に鏡や女性の髪が収められているという。「生身 (しょうじん) の釈迦如来」と呼ばれるゆえんである。だが、興味深いことに、本家の清凉寺の本尊の胎内納入品が発見されたのは 1954年のこと。この像が作られた鎌倉時代初期には、それはきっと伝説になっていたに違いない。ガラス越しの対面しか叶わないものの、やはり何度見ても素晴らしい仏像である。
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実はこの寺には、ほかにも大変興味深い仏像が何体もある。まず、阿弥陀堂におわします阿弥陀三尊。
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江戸時代 (1712年) の作で、堂々たる丈六 (立つと一丈六尺 = 4.8mになる大きさ) の仏様である。お堂の外から覗くとこんな感じで、お顔を拝むことができずに残念。
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それのみならず、お堂の外に立っている説明板は、このような状態になっている。これは、お堂に車椅子で上るためのスロープが設置されたためであるが、うーん。手すりによって文章を読めないとは、なんとも惜しい。説明板を別の場所に移転するということは、できなかったのだろうか。
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実は、外からはよく見えないが、このお堂にはほかにも二体、貴重な彫刻があるらしい。ひとつは、上の三尊像の写真にも写っているが、ちょっと身をひねったユニークな地蔵菩薩、もうひとつはこの阿弥陀三尊を発願した僧侶の像。
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この地蔵は通称「お七地蔵」。そう、あの歌舞伎などで知られる八百屋お七 (1682年、恋人に会いたい一心で火事を起こし、処刑された悲劇の少女) が地蔵の姿となったもの。駒込生まれのお七の像がなぜここにあるかというと、それは西運という僧に関係がある。この西運こそ、お七の恋人、吉三 (きちざ) の出家した姿であるからだ。この吉三はお七の死後出家して全国を行脚し、そして目黒の、今の雅叙園のあるあたりに明王院という寺を構えて念仏行を始めたという。浅草寺までの道を、雨の日も風の日も休まず毎日念仏を唱えながら往復し、27年 5ヶ月後にお七が夢枕に立って、成仏したことを西運に告げたという。その姿を表したのがお七地蔵であるとのこと。阿弥陀堂の前には、このような石碑もあって、西運という人の深い思いが伝わってくるようだ。上に書いた通り、目黒川に橋を架けたのもこの僧であったというから、立派な人だったのだろう。
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この寺にもう一体興味深い仏像がある。本堂に祀られている十一面観音立像である。この古様のお姿は、明らかに平安時代にまで遡るものであろう。この土地は、それほどまでに古い歴史を刻んでいるのである。
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それから忘れてはならないのは、境内の一角に所狭しと並ぶ石仏群である。
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実はこの大円寺、江戸の三大火災のひとつと言われる明和の大火 (1772年) の火元であるという。上の八百屋お七といい、この場所は火事に縁があるが、それこそ江戸らしいということかもしれない。ともあれ、この大円寺が灰塵に帰した際、仏像は隣の明王院に避難させていたものの、建物はなかなか復興されなかったところ、その間に、明和の大火の犠牲者たちを偲ぶための、夥しい数の石仏が境内に作られたとのこと。釈迦三尊 (台座に 1781年の銘あり) に十六羅漢、十大弟子、そしてずらっと並んだ五百羅漢である。これは実に壮観。
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そして境内には、行人坂の往来の安全のために石を敷き詰めたというこの地の行者たちを称える供養碑や、見ざる言わざる聞かざるを彫り込んだ庚申塔などもあり、人々の信仰が現代にまで息づいていることが分かる。
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都会のど真ん中にあって、境内も決して広いとは言えない大円寺に、これだけの歴史があることを知るのは感動的だ。今年は機会を見て、東京の寺院巡りも少しやってみたいものだと決意した、正月 3日でありました。

by yokohama7474 | 2019-01-03 22:25 | 美術・旅行

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ピエール・ボナール (1867 - 1947) の名前は、西洋近代美術史においても充分有名であると思うし、印象派以降、エコール・ド・パリ以前のフランス絵画史において重要な位置を占めていることは周知の事実。その色彩の華麗さが印象的だと言ってもよいだろう。だが恥ずかしながら私はこの展覧会を見て、いかに自分がこの画家に関して無知であったのか、実感することとなった。間違いなく昨年東京で開かれた展覧会の中でも有数の、充実した内容であったと思う。さてここで私とボナールの出会いについて書かせて頂くと、それは、小学生のときに読んだジュール・ルナールの「博物誌」の挿絵である。今もすぐ手元に出て来る新潮文庫版は、昭和 50年の第 27刷。あぁなるほど、これはボナールであったのか。子供心に、様々な動物の生態を面白おかしく書いていて興味深かったが、最も印象に残るのは「蛇」である。ただ一言、「長すぎる。」というもの (笑)。というわけで、この展覧会に出展されていた 1904年版から、表紙、雌鶏、蝸牛。ボナールの持つユーモラスな画風がよく分かる。
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これはボナール自身が 1898 -99年に撮影した自画像。彼は当時発明されて間もないカメラを使って、1890年代から 20世紀初頭にかけて、家族や友人を中心として 250枚ほどの写真を撮影しているというから、進取の気鋭に富んだ人であったのだろう。
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この展覧会は、大半の出品作品がオルセー美術館の所蔵になるものとのことで、さすがのクオリティであった。そう言えば彼の名前は、以前、ナビ派の展覧会を採り上げた2017年 5月17日付の記事でも触れたことがある。そう、彼はもともと、ゴーギャンの影響を受けた当時の若い画家たちの運動であるナビ派の、中心人物のひとりであったのである。日本の浮世絵から強い影響を受けたので、「日本かぶれのナビ」と呼ばれたという。この「アンドレ・ボナール嬢の肖像、画家の妹」は 1890年の作で、文字通り彼の妹を描いた作品だが、この縦長の構図は、日本の掛け軸にはあっても、西洋絵画にそれまであったかどうか。
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これは、上記のナビ派展のポスターにも使われていた「格子柄のブラウス」(1892年作)。さてこの 2点でもう、彼が動物好きであることが分かろうというものだ (笑)。
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これも面白い。「砂遊びをする子ども」(1894年頃作)。ここでも縦長の構図が日本画のようだが、それよりもこの女の子のおかっぱ頭は、明治の日本人のようではないだろうか。そう思うと着ているものも、着物風に見えてくるのである。
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日本かぶれのボナールは、屏風絵風の作品もいくつも描いているが、この「乳母たちの散歩、辻馬車の列」(1897年作) は、時代の雰囲気であるアール・ヌーヴォーのスタイルでありながら、その余白は日本的である。面白いのは前景の親子で、ここでは母親と 3人の子供、2匹の犬が描かれているが、1人の女の子は、母親の手前でシルエットで表現されている。これは天才的な発想ではないか。
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これは以前のナビ派展の記事でも採り上げた記憶があるが、「親密さ」(1891年作)。あとでまた出て来る、クロード・テラスという義理の弟を描いているようだが、ここで煙をユラユラと上げているパイプは、ソファでくつろいでいるとおぼしきテラスだけでなく、手前に描かれた画家自身のものと思われる手も持っていて、それがどうやら壁の模様と一体化しているようである。
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ボナールは決して毒に満ちた画家ではないと思うのだが、時折ドキッとするような暗さを見せることがある。この「バンジョー奏者」(1895年作) は、楽し気にバンジョーを弾いているらしい奏者は全くのシルエットで、その向こうに見える客たちは、何やら背徳的な雰囲気すら漂わせている。これは表現主義的と呼んでよい作風であろう。
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この「ランプの下の昼食」(1898年作) も近い作風で、きっと家族の肖像だと思うのだが、手前の男の子は幻のようだし彼にスプーンを差し出す父親らしい人物も、何やらもの言いたげである。そして、その父親の手前にもうひとり、どうやら男の子がいるようなのだが、こちらは完全にシルエット。一体どんな昼食なのだろうか。
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次はまた、かなり強烈な作品であると言ってよいと思う。「男と女」(1900年作)。ここで描かれているのは、画家自身とその伴侶 (26歳の時に出会い、58歳の時に結婚した) マルトという女性であるらしい。情事の後なのだろうか、仲睦まじいはずの男女の間には何やら衝立があって、微妙な空気感である。ボナールはマルトをモデルに多くの作品を描いており、また彼女の入浴シーンを写真に撮ったりしているが、この作品にはある種のドラマ性があって、興味深い。
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かと思うとボナールは、1890年代にはグラフィックアートも手掛けている。これは「フランス=シャンパーニュ」(1891年作)。父の反対を押し切って芸術家になるきっかけをつかんだ作品であるらしく、この時代のパリの雰囲気をよく伝えている。だがこれをロートレック風だと思うなかれ。実は、街中に貼り出されたこのポスターを見て、ロートレックの方が影響を受けたのである!!
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さてこれは、上でも名前の出た義理の弟を描いた「作曲家クロード・テラスと二人の息子」(1902 - 03年頃作)。この作曲家の名前は今日では全く知られていないが、この髭の容貌は、何やらただならぬ雰囲気ではないか。ボナールはまた、彼の作品の出版譜 (1893年出版) にイラストを提供している。その名も「家族の情景」というピアノ曲だ。
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このようなグラフィックデザイナー的な仕事は、上で掲げたルナールの「博物誌」もそこに含まれるが、独特の飄々としたユーモアを感じることができ、ボナールの画家としての懐の深さを思わせる。アルフレッド・ジャリの戯曲「ユビュ王」については、以前もマルセル・デュシャンの展覧会で少し触れたこともあるが、ボナールの場合は、原作者ジャリの死後、「入院したユビュおやじ」(1917年刊)、「飛行機に乗ったユビュおやじ」(1918年刊) という 2作を手掛けている。いい味出しているが、この「ユビュ王」に刺激を受けた作品を、その後、ルオー、ミロ、エルンストらが制作しているらしい。
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ここでまた、ボナールが撮影した写真をご紹介したい。まずはナビ派の友人であるヴュイヤールとルーセルを、ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂前で写したもの (1899年)。そして、オーギュストとジャンのルノワール父子 (1916年頃)。
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上で触れた通り、ボナールは生涯の伴侶であったマルトをモデルに、数々の裸体画を描いているが、その多くは情念をあまり感じさせないもの。この「化粧台」(1908年作) は鏡に映った裸体であるのであまり生々しくなく、むしろ室内の光の美しさに、作品の重点があるように思われる。
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こちらは「浴盤にしゃがむ裸婦」(1918年作)。似たような構図の写真も残されているが、ここには、持病の神経障害を和らげるために一日に何度も入浴したというマルトの日常の一瞬が、淡いが鮮やかな色彩で切り取られている。描かれた裸婦の姿勢から、ドガのようだと解説にはあるが、私にはむしろ、ちょっと突飛なようだが、デヴィッド・ホックニーあたりの感性との共通点が感じられるような気がする。
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次は異色の作品で、「ボクサー (芸術家の肖像)」(1931年作)。ボナール 61歳の自画像だが、本来の持ち味のひとつである洒脱さをかなぐり捨てたような、格闘する芸術家の姿。と言いながらこの顔には、やはりどこかユーモアがあるようにも思われる。
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これはなんとも意味ありげな作品、「桟敷席」(1908年作)。劇場の桟敷席であろうが、この二組の男女の間に、どんなドラマがあるのだろうか。
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この先はいくつか、静物画や風景画を採り上げたい。「ル・カネの食堂の片隅」(1932年頃)。ル・カネとはカンヌ近郊の地名であり、ボナールはそこに別荘を持っていた。描かれたモノ同士の間の微妙な位置関係が面白い。
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これは「ボート遊び」(1907年作)。ど真ん中にボートが描かれているが、川面も後ろの森も平面的で、何か不思議な空間を感じさせる。
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「セーヌ川に面して開いた窓、ヴェルノンにて」(1911年頃作)。決して写実的ではないのだが、窓の外の空気感まで感じられるような、美しい作品だ。
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「日没、川のほとり」(1917年作)。ボナールは決して室内の画家ではなく、このような屋外の詩情あふれる風景も描いたのである。
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これは「地中海の庭」(1917 - 18年作)。オルセーではなく、ポーラ美術館の所蔵作品である。別に神話の世界を描いているわけではないはずだが、題名のせいだろうか、どこか神話的な雰囲気を感じる。いい作品が日本にもあるものだ。
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そしてこれはボナールの遺作、「花咲くアーモンドの木」(1946 - 47年作)。79歳のボナールが最後まで取り組み、自ら筆を取ることができなくなっていたために、甥に頼んで左下の緑色の部分を黄色で覆いつくしたという。確かに全体のタッチは粗いが、冬の終わりに白い花をつけるというアーモンドの木を、画家は寝室からいつも見ていたという。清らかな晩年の境地を見て取ることができる。
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このようにボナールは、ただ色彩がきれいとか構図が面白いということを超え、時にはユーモアたっぷりに、また時には情念を込めて様々な作品を描いた人である。その多彩な画業を知ると、また次回、どこかで彼の作品に巡り合った際にも、戸惑うことなく対することができるような気がする。

by yokohama7474 | 2019-01-03 00:32 | 美術・旅行