川沿いのラプソディ


川沿いの住まいから、音楽、美術、映画その他文化一般を語りつくします。
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カテゴリ:美術・旅行( 240 )

フランクフルト散策

ドイツの大都市、フランクフルト。日本から、ルフトハンザや全日空といったスターアライアンスのエアラインに乗ると、いわゆるハブ空港となり、ヨーロッパ内のほかの目的地に行くために乗り換えで利用する方も多いだろう。あるいは、金融関係の方は、出張で同地に滞在するということもあるだろう。だが、この街はいわゆる観光都市としてのイメージはない。ドイツでも、例えばドレスデンとかケルンとかミュンヘンとかライプツィヒとか、観光の対象になる都市はいくつもあるが、フランクフルトはそうではない。だが、実はこの街は、歴史好き、美術好きにとっては、実に見どころが多い街なのである。私はこの街は以前に何度も訪れていて、ある 1ヶ所だけは一度見学することができたのだが (後述)、それでも、この街の魅力というものについての理解は及ばなかった。そんなところに、たまたま今年 5月に久しぶりにフランクフルトに出掛ける機会があり、少しの時間だが街を見ることができたので、初めてこの街の魅力を知ることができた。ヨーロッパ人とのビジネスにおいては、かの地の歴史や文化を知ることは大いに意味があるので、これまでフランクフルトを甘く見ていたビジネスマンの方々 (?) にも、この記事が参考になればよいと思う。

さて、まずはこの写真を見て頂こう。
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もちろんこれは、美術好きなら誰でもご存じの、フェルメールの「地理学者」である。日本にも 2011年に Bunkamura ザ・ミュージアムで開催された展覧会に出展され、私も押すな押すなの混雑の中で見た記憶がある。この絵を所有するのは、ここフランクフルトのシュテーデル美術館。この美術館では展示作品の写真撮影が自由である上に、この超人気作品とも、たったひとりで相対することができる。因みにこの作品が展示されている部屋の入り口はこんな感じ。私が訪れたときは、全く誰もいなかったのである!! 正面真ん中が「地理学者」。
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これだけでもフランクフルトに行く価値ありと言ってしまうと大げさかもしれないが (笑)、この街の見どころはこれだけではない。いちばんの目玉は、世界文学史上に燦然と輝く文豪ヨハン・ウォルフガンク・フォン・ゲーテ (1749 - 1832) の生家である。上で、過去にこの街で 1ヶ所だけ訪れたことがあると書いたのはその場所であるのだが、それについてはまた後に譲るとして、まずは街の景色を見てみたい。この街にはそのゲーテの彫像がある。なかなか力強く、また、人々に親しまれている様子が分かろう。
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だが角度を変えるとこんな感じ。さすが金融都市フランクフルトである。近代的な高層ビルが後方に聳え立っている。実はヨーロッパの大都市では、たとえロンドンであろうとパリであろうと、このような近代的な高層ビルが立ち並ぶということは極めて稀なのである。
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ここにはまた、ゲーテと並び称されるフリードリヒ・フォン・シラー (1759 - 1805) の彫像もあるが、同様に、背景には高層ビルが見えて、この街の雰囲気をよく表している。
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またこれは、ゲーテが洗礼を受けたカタリーナ教会という教会だが、やはりご覧の通り、現代の風景が後ろに広がっている。これはやはり、フランクフルト独特の光景であると思うのである。
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それから、音楽好きにはおなじみの、以前のオペラハウスで、現在はコンサートホールとして使用されているアルテ・オーパー (「旧歌劇場」の意) も、その古典的な外見は堅固であるが、横から見ると現代の高層ビルとマッチしている。
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では、このような近代と現代のミックスだけがここフランクフルトの光景なのであろうか。いやいや、そんなことはない。この光景をご覧頂きたい。
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これはヨーロッパのそれなりの規模の歴史的都市にはどこにでもある、中世の佇まいを残した旧市街の広場である。なんと、この金融都市フランクフルトにも、このような場所があるのである!! だが、その後見掛けた案内板にはこのような悲惨な写真が。
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これは 1944年 3月22日、連合国軍の空襲を受けたフランクフルト。大聖堂はかろうじて残っているが、街の多くは灰塵に帰している。実はゲーテの生家もそのとき爆撃によって焼失してしまっているのである。ドイツは第二次大戦を始めた国であり、国全体としては加害者としての面が当然あるにせよ、個々の街のこのような惨禍を目のあたりにすると、人として心が痛むことを止めることはできない。だがその一方で、(ナチスに徹底的に破壊された街を復元したワルシャワのような例に比べると、その意義は見えにくいが) 灰塵に帰した街を昔の通りに復元したのがこのフランクフルト旧市街であると知ると、人間は捨てたものではないという思いにもなるのである。これはレーマーと呼ばれる市庁舎。この地域は中世において既に商取引が行われていており、フランクフルトには 11世紀には商人たちが訪れていたという。中世建築を戦後忠実に再現している。
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実はこの旧市庁舎の中には、カイザーザール (皇帝の間の意味) と呼ばれる、やはり戦後に復元された部屋があり、そこには、歴代の神聖ローマ皇帝 52人の肖像画が並んでいる。神聖ローマ帝国とは、9世紀のカール大帝から 1806年に至るまで存在した帝国で、現在のドイツはその領域に含まれていたわけである。ここに並んだ 52人の最初はやはり、カール大帝である。
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この建物を出て、再びレーマー広場に出ると、もともと 1290年に建てられ、戦後に修復された旧ニコライ教会があり、それから、これは戦災を経てもほぼ原形を残した 1600年頃の建物、ハウス・ヴェルトハイムがあって、いかに戦争の惨禍に見舞われようとも、現在にまで生き永らえている街の命が感じられる。
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旧ニコライ教会のすぐ裏手には、歴史博物館がある。もともとは 19世紀に建てられた税関の建物であるらしい。
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この地域から、アイゼルナー橋という橋を渡ってマイン川の対岸へ。この橋にはなぜか沢山南京錠がかかっている。もしかするとドイツでは、ここが恋人たちのメッカ???
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対岸にはいくつも博物館が並んでいる。以下は映画博物館と建築博物館。いつかゆっくり見学してみたい。
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さてその先がいよいよ、上でフェルメール作品をご紹介したシュテーデル美術館である。ちょうどこの時にはルーベンスの展覧会が開かれていた。
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このシュテーデル美術館の開館は、今からちょうど 200年前 !! の 1818年。もともとはシュテーデルという銀行家の個人のコレクションであるというから驚きだ。実は東京で以前開かれたフェルメールの「地理学者」の展覧会は、この美術館が改装中の引っ越し展覧会であったのだ。ここにはヒエロニムス・ボスの「エッケ・ホモ」もあるが、その作品の下部に気になる箇所があったので、その部分の写真を掲載しておく。これはもとの絵が消されているのであろうか。何やら謎めいている。
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ほかにも名品が沢山展示されている。以下は私が心酔するカルロ・クリヴェッリの「受胎告知」と、ボッティチェリ、そしてヤン・ファン・エイクの傑作である。
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うーん、実に素晴らしい。さらに述べると、ゲーテの生地ならではのこの作品の本物 (あ、確かこれに因む彫像がフランクフルト空港にあったはず) もある。これは、ヨハン・ハインリヒ・ヴィルヘルム・ティシュバイン (1751 - 1829、つまりはゲーテより 2歳下) による有名な「カンパーニャのゲーテ」。この画家はゲーテの友人であり、1787年にローマで描いた作品である。未だ 30代のゲーテの雰囲気を、リアルタイムでよくとらえた作品なのであろう。いやそれにしても、イタリアというヨーロッパ文明揺籃の地を、近代において新興国として発展するドイツの文豪が訪れるという、歴史的な意義を持った素晴らしい作品だ。
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今回、新たな画家との出会いもあった。その画家の名は、ウィルヘルム・フレディ (1909 - 1995)。デンマーク人で、これは「祖国万歳」という 1941年の作品。デンマークは 1939年からナチス・ドイツに占領され、1945年 5月まで解放されなかった。ということは、この作品が描かれたのはドイツの占領時代なのである。この画家の作風は一見してシュルレアリスムと分かるが、ここで壁から抜け出て走り出している少年が持っているのは、ほかならぬ祖国デンマークの国旗である。超現実に仮託された現実という点で、実に興味深い作品だ。
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このシュテーデル美術館で開かれていたルーベンス展も見ごたえ充分であったが、ルーベンスという画家自体は、ヨーロッパのどの美術館でも大作を見ることができるので、特にここでご紹介はしないでおこう。このシュテーデル美術館を辞して、また街の中心部に向かう途中に見えたのは、現在のフランクフルト歌劇場。ここの音楽監督は、来年 4月に読売日本交響楽団の常任指揮者に就任するセバスティアン・ヴァイグレである。建物もモダンなら、街なかで見かけた広告 (ベッリーニの「夢遊病の女」である) も超モダン。
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そのようにブラブラ歩いてついに辿り着いたのは、文豪ゲーテの生家である。上記の通り、戦争で焼けてしまったが、戦後に元通りに再建されたもの。ただ、家具調度品は疎開していて焼失を免れたので、今この場所を訪れると、ゲーテの育った環境を、かなりのリアリティをもって追体験できるのである。外部はこんな感じであるが、今は正面から入ることはできず、隣接した建物から入ることになる。そこには「ゲーテハウス」の看板が。
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よく知られている通り、ゲーテはただの詩人・劇作家ではなく、政治家であり法律家であり、また自然科学者でもあった。実に万能の天才であったのだが、名前にフォンが入っていることから明らかな通り、家柄もまたよい人であった。父は枢密顧問官、母方の祖父はフランクフルトの市長を務めたという名門の出である。玄関も立派なら、厨房にすら気品が漂い、オリジナルの家具調度品も実に立派なもの。
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この蔵書は、ゲーテの父のものらしい。ということは、幼少時のゲーテも、これらの本を、意味も分からずに手に取った可能性があるわけで、これはワクワクせずにはいられない。
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ここで、私が以前訪れたときに痛く感動したゲーテの遺品がある。ガラスケースの中に入っていてうまく撮影できなかったので、この記事の中で唯一、私自身の撮影ではなくほかから拝借してきた写真が、これである。このときは剥き出しのままの展示であったようだ。
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これは何かというと、ゲーテ 4歳の誕生日に贈られた人形劇の舞台である。文豪はここで、家族を前に様々な人形芝居を行うことで、そのファンタジーを育んでいったようだ。その場に展示されていたこのようなパネルによって、少年ゲーテの想像力の翼をイメージすることができる。彼が生きた 18世紀半ばから 19世紀にかけては、ヨーロッパで市民革命や様々な戦争が勃発した時代。そのような過酷な現実に立ち向かいながらも、想像力を忘れなかったゲーテの偉大さを偲ぶことができる。
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このゲーテの生家に隣接したゲーテ博物館には、ゲーテその人に因む遺品に加え、彼と同時代の絵画などが展示されている。その中で私がゾクゾクして対面したのは、もともと心酔していこの画家の作品である。
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そう、これはドイツ系スイス人で、英国で活躍したヨハン・ハインリヒ・フュースリ (1741 - 1825) の代表作「夢魔」である (同じテーマのいくつかの作品のうちのひとつ。1790/91年作)。ゲーテは彼の同時代人であるばかりでなく、1775年に「この人間には、なんという灼熱と憤怒が潜んでいることだろう」と、フュースリの作品を絶賛しているらしい。この画家について、日本では 1983年以来大規模な展覧会が開かれたと聞いたことはないが、昨年上野の森美術館で開かれて異常な人気であった展覧会「怖い絵」展にはこの「夢魔」の別ヴァージョンが展示されていたようだ。私はその展覧会の混雑ぶりに嫌気がさして結局会場に出向くことはなかったのだが、それを思っても、全くほかに誰もいない環境でたった一人、フュースリ作品の数々と対面することができるこのゲーテ博物館は、恐るべき場所なのである。ほかのフュースリ作品のいくつかもご紹介しておこう。私にとっては実にワクワクするものばかり。
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もうひとり、私が心から崇拝する画家の作品をご紹介しよう。それはドイツロマン主義を代表するカルパー・ダーフィト・フリードリヒ (1774 - 1840)。これは「夕星」という 1830年頃の作品。ゲーテはこの画家の作品を称賛したり拒絶したりしていたという。
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ゲーテの拒絶と言えば、すぐに思い出すのはベートーヴェンである。この作曲家が自作の交響曲第 5番をピアノでゲーテに聴かせたところ、文豪は耳を塞いだという逸話は有名である。この時代、芸術家は貴族の所有物から一般大衆のものへと変遷して行ったわけで、旧来のハイクラスな階級に生まれたゲーテとしては、あまりに過激な芸術作品に対しては戸惑いがあったということなのだろうか。フランス革命もナポレオン戦争も同時代の出来事として体験したドイツの文豪の中にはしかし、そのような当時の過激な芸術に対する理解はあったような気がしてならない。生家に掲げられた彼の肖像画は、何かを語りそうな表情である。
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このようにフランクフルトは、一般に認識されているよりも文化的な刺激に満ちた街。日本からは直行便で行けるところであるので、是非ご参考として頂きたい。

by yokohama7474 | 2018-09-30 22:43 | 美術・旅行 | Comments(2)

長野県 諏訪湖近辺 その 2 諏訪大社下社春宮 (万治の石仏)、おんばしら館よいさ、諏訪大社下社秋宮

前項に続く長野県岡谷市とその周辺の散策である。前回は近代製糸産業の遺産を見たが、実はこの地域には、太古から文明が存在していた。この地域は要するに諏訪湖の周辺ということになるが、このあたりには何やら、通常の日本的な古代文化と違う匂いがする。つまりは狩猟民族の匂いである。私は随分以前に、茅野市にある神長官守矢史料館というところに行ったことがあり、藤森照信設計のその建物に、古代人の野性の声を感じたものだが、今回はそこの再訪はならなかったのでここでの紹介は割愛する。またこの茅野市では、先に東京国立博物館で開催された縄文展に出展されていた国宝指定の縄文時代の土偶 5点のうち 2点が出土している。ここには何やら我々の未だ知らない壮大な古代史が眠っているように思う。・・・と書いて思ったが、岡谷だ諏訪だ茅野だと言っても、その位置関係が分からない人もおられようから、以下の地図を拝借しよう。ここに「四社」と書いているのは、総称して諏訪大社と呼ばれる神社のこと。実はこの神社、上社と下社があり、上社は本宮と前宮、下社は春宮と秋宮に分かれていて、合計で 4つの社が存在するのである。この地図の通り、岡谷市は諏訪湖の北西の方角で、諏訪大社の下社はそのすぐ東隣。一方上社の方は諏訪湖の南東で、茅野市の近く。
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私は以前 4社ともお参りしたことがあるが、今回は時間の関係で下社のみの参拝とした。それには少し付随的な理由もあるが、それは追って説明することとして、まずは最初に訪れた諏訪大社下社春宮である。
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この諏訪大社の創建は不明だが、日本最古の神社のひとつと言われているらしい。このあたりも、畿内の神社や、あるいは関東でも香取神宮や鹿島大社なら古い伝承や記録がもう少しあろうものだが、この諏訪大社の場合はあまりそれもなさそうだ。このあたりの謎めいた感じについては、この神社と古代史を語る書物もあれこれあるので、それによって想像力を広げることが可能である。例えば、私の手元にあるのはこんな本。あながち荒唐無稽な本ではないように思うが、もちろん学術的に証明されるか否かはまた別の話。
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この場所の古代史の真実がどうであったにせよ、今我々がこの神社に詣でて感じるのは、聖なる場所に対する敬意であろう。拝殿と門を兼ねたような幣拝殿と、その左右にある片拝殿が、重要文化財指定。
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そして、その建物群の左右に聳える 2本の柱は、枝を取り払い、皮も剥いてある。なぜに加工した柱を立ててあるのか。
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そう。もちろんこれらは、この地方に伝わり、6年ごと (寅年と申年、数えでは 7年に 1回) 開催される天下の奇祭、御柱 (おんばしら) 祭で曳かれた柱なのである。前面の 2本以外に、どうやら裏にも 2本あるようだ。御柱祭は、この諏訪大社 4社の宝殿の建て替えとともに行われるようであり、すべての社に 4本ずつ、合計 16本の柱が立てられる。この御柱祭ではかなりの頻度で過去に死者も出ており、その荒々しさは本当に凄まじいものだ。クライマックスの木落としはこんな感じ。次回の開催は 4年後の 2022年である。
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この祭の荒々しさを思って御柱を見ると、何やら身震いしてくる。死者を出してまでも人々をこの祭の熱狂に駆り立てるものは、一体何なのだろうか。
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さてここで、この諏訪大社下社春宮を訪ねたひとつの大きな理由について書いてしまおう。これは、私が今回岡谷近辺に立ち寄ろうと思った大きな理由。20年ほど前に一度訪れて、再訪したいと強く思っていた場所なのである。当時私たちは、未だ赤ん坊であった愛犬 (3年前に天国に行ってしまったビーグル犬、ルル) を連れてここに来たのだが、その際の記憶の通り、この春宮の横手に小川があって、こんな赤い橋が架かっている。
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そのとき私たちのビーグル犬は、この橋を怖がって渡れなかったことを昨日のことのように覚えている。足元から下の川が見えていたからかと思ったが、そこは鉄板であり、実際には川は見えない。だが、川の流れの音は聞こえてくるので、動物は本能的にそれを恐れるのであろうか。・・・と、亡き愛犬を偲んでいると、こんな注意書きが。人のノスタルジーに水を差さないで欲しいが、まあこれも切実な問題なのであろうか (笑)。
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さてこの橋の先に私のお目当てがある。これだ。
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これは一体何かというと、万治の石仏である。万治 3 (1660) 年に作られたと刻まれている、高さ 2.7mの石仏。日本には様々な石仏があって、中には国宝指定されているものもあるが、これは文化財指定はない。それは、一見すると素人が彫ったとしか思えないその素朴さが、いわゆる美的な価値に乏しいと学術的には判断されうるからだろう。だがこの石仏、一度見たら絶対忘れないインパクトがある。巨石には申し訳程度 (?) の仏の体が浅い線で刻まれ、その上に単純な造形の顔がチョコンと乗っている。そして、顔の中にデンと構える三角形の鼻は、なんとも異国的。
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年号である万治ならぬ「卍」が彫られているが、よく見るとこれはかぎ型が逆で、ちょうどナチスのハーケンクロイツと同じである。よく見ると「万治」の文字も見えるが、写真に撮るとちょっと分かりにくいか。
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ぐるりを回ってみると、より一層奇異な感じがする。これはどう見ても、巨石に頭が生えている感じだ。
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この強烈な仏さまには、我々現代人が普段忘れているような生命力があるように思う。この奇妙な石仏の存在感を 1970年代に絶賛した人がいて、その人の名は岡本太郎。そう、彼はまた、縄文土器の生命力を見出した人でもある。数々の貴重な縄文時代の遺跡が残るこのエリアに、こんなに破天荒で面白いものが作られたのも、その土地の精霊のなせるわざか。このような岡本太郎の手になる石碑も建てられている。それにしてもこの字、太郎の絵画そのままの躍動感ではないか。
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万治の石仏と 20年ぶりの再会を果たし、駐車場に戻ろうとすると、こんな建物が目に入った。
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その名の通り (「よいさ」とは祭のときの掛け声か?)、御柱祭に関する資料館である。規模はさほど大きなものではなく、比較的最近できたものであろうと思って調べると、2016年のオープン。中には、木落としを体験できるアトラクションや、祭の様子を再現したミニチュアなどがあって興味深い。今回は時間がなくて、駆け足の見学になってしまって残念。
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そして最後に向かったのは、諏訪大社下社秋宮。ここの駐車場はこんなだだっ広いが、実はこの場所、昔は武士の居城のあったところらしい。霞ヶ城 (別名手塚城) といい、木曽義仲の家臣であった、手塚太郎光盛の居城であったという。この光盛は義仲に従って源氏方として戦い、平家方の斎藤実盛を討ったが、実は実盛はもともと源氏方で、義仲の命の恩人であったという話が、平家物語のひとつのエピソードとしてあるらしく、能の「実盛」にもなっている。
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さてこの秋宮も、春宮と佇まいはよく似ている。ここでは、巨大なしめ縄を持つ神楽殿、そして、春宮と同じ幣拝殿と左右片拝殿が重要文化財。
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そしてここにも、御柱が屹立している。
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この諏訪湖近辺の土地は、日本の中でも有数の謎めいた場所であるように思われる。また機会があればさらに探訪してみたい。

by yokohama7474 | 2018-09-22 23:57 | 美術・旅行 | Comments(0)

長野県 諏訪湖近辺 その 1 岡谷市 (旧林家住宅、旧片倉組事務所)

このブログでも毎年採り上げている通り、8月下旬から 9月上旬にかけて長野県松本市で開かれるセイジ・オザワ・フェスティバル松本に出掛けるときには、長野県の歴史的な場所を訪れるのを常としている。今年も、先に採り上げた秋山和慶指揮のコンサートに向かう途中、どこに寄ろうかと考えて、久しぶりに行きたいと思った場所がひとつ。それから、これまで知らなかった面白そうな場所を発見した。その二か所とも、松本の少し南側、ということは、東京から向かうとちょうど松本への途上にある岡谷市にある。この記事では、2回に分けて、その二か所と、その関連の場所を採り上げることとする。まずこの記事では、私がこれまでその存在も知らなかったが、今回調べて興味を持った場所からご紹介しよう。それはこんな場所である。
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長野自動車道をバックに、何やら古い門構えが見える。その前にある駐車場には、このような看板が。
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ほぅ。これは重要文化財であり、シルクの館とも呼ばれ、その名称は「旧林家住宅」、つまり、林さんという人の旧宅である。林さんとは一体誰なのか。門の向こうにはこのような立派な日本家屋が。
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私が訪れたときにはほかに人影もほとんどなく、40分くらいをかけて、係の方に説明をして頂きながらの観覧となった。入ってすぐに見える肖像写真がこれだ。
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これは林国蔵夫妻。林国蔵 (1846 - 1916) とは誰かというと、この岡谷の地が日本の製糸業の中心であった頃、その発展を築いた三大製糸家のひとつ林家に生まれた人で、創始者、林倉太郎の息子である。因みに三大製糸家のほかのふたつは、片倉家 (兼太郎) と尾沢家 (金左衛門) である。このうち片倉の方は、かつての財閥であり、今でも企業が存続するほか、この岡谷からほど近い諏訪湖のほとりに片倉館という昔の厚生施設 (やはり重要文化財) もある。その片倉館は随分前に行ったことがあり、今回も時間が許せば行きたかったが、それは叶わなかった。このように岡谷では製糸業が盛んであり、この林家の邸宅は、明治 30年代から 10年ほどかけて建造された大変に立派な建物なのである。係の方の説明だと、結局主は完成後ここに 10年ほどしか暮らさず、その後一家は東京に移住して、その後は夏の別荘として使われていただけだという。そのせいだろう、建造から 110年ほどを経ても、あまり生活感なく、当時の姿そのままに保存されている。例えばこのような調度品も当時のものらしく、大変に重いという。
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これは下座敷と上座敷の間にある欄間の彫刻。下座敷側から見て、なんと見事な鶴だろうと思ったら、上座敷側から見ると、明らかにそちら側が表で、下座敷側から見えるのは裏側であったことが分かる。
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これは床の間の仕切り部分 (狆潜りというらしい。犬の狆が潜り抜けるという意味だろう) の彫刻で、柏に鷹。
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これはやはり上座敷の書院の欄間彫刻。ちょうど私が訪れたときにはシルエットになっていて、実に印象的だが、これは牛を連れた中国風の衣装の老人。
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そこからこのような中庭を通って進んで行く。手水鉢も銅製の置物で、手が込んでいる。
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さて、この奥の部屋には、何やら華麗な模様を持った派手な壁紙が並んでいる。それは何かというと、その部屋の上の階にある、ちょっとほかにはないような独特な場所の壁紙を再現したもの。そこに入るための入り口は、このように、なんの変哲もない押し入れのような襖である。これを開けると、狭い階段があり、何やら秘密めいている。
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そして 2階に入ってみて、あっと声を上げた。こんな部屋がそこには存在していたのである。
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これは和室の座敷であるが、天井も壁も、大変に凝った洋風の壁紙で飾られている。これは金唐革紙 (きんからかわがみ) というらしく、西洋風に見えるが和紙で作られている。明治の頃にウィーン万博に出品されて好評を博し、その後バッキンガム宮殿の壁も飾ったが、いつしか製造方法が忘れられてしまい、近年に至るまで復元不可能であったようだ。この座敷の壁紙は、色こそさすがに褪せてしまっているが、一種異様なまでのその装飾性は残っていて、何やら怪しい雰囲気がある。横の壁も、床の間の壁も天井も、一面にこの金唐革紙が貼られている。
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この部屋は現在も密閉されていて昼なお暗いのだが、このように扉の部分と壁紙の間には漆が塗られていて、水分が滲みてこない工夫がされているので、このような保存状態で残っているのだという。
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そして、あとで外に出て分かったことには、この部屋が暗いには理由があって、このような漆喰の蔵作りになっている。これだと、この中にまさかあのような華麗な装飾があるとは、外からは絶対に分からない。謎めいた地味な襖の入り口といい、本当に秘密めいた場所なのである。
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実はこの旧林家住宅にはもうひとつの顔がある。それは、この日本家屋と背中合わせに建っている洋館である。実は私がこの家を知ったのは、「浪漫あふれる信州の洋館」という本においてであった。この本は数年前にやはり松本を訪れた際に購入した本で、大変美しい長野県内の洋館の数々を紹介しているもの。日本家屋から入ると、このような玄関ホールを見ることができる。ここの天井も金唐革紙であろうか。
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面白いのは、隅にあるストーブだ。これも当時のもので、諏訪湖から天然ガスを引いていたという。日本初のガスストーブであるようだ。ちゃんとガスの栓もある。
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この洋館、現在は改修中で、外からはその美しい姿を見ることはできないのは残念だ。
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せっかくなので、通常の状態でのこの洋館の写真を拝借して掲載しておこう。
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さて、洋館からまた日本家屋に戻ると、まだいくつか見どころがあるのだが、大いに目を引くのはこの作り付けの仏壇だ。
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大変に細かい細工がされていて、感嘆の声を上げてしまうほどである。上部のカーブは、細かく木片を少しずつずらしているし、真ん中の迦陵頻伽 (かりょうびんが) も、なんともたおやかなのである。
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さらに、最後に通ることになる台所と使用人たちのスペースには、こんなものを見ることができる。これはいわば呼び鈴で、家族がどこかの部屋でボタンを押すと、その部屋の番号を覆っている金属がバタンと落ちて、部屋のナンバーが現れるというもの。なんと近代的な。
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このように、製糸工業華やかなりし頃の雰囲気を随所に感じることができる旧林家住宅、実に見どころ満載なのである。さて、せっかくなのでこの場所からほど近いところにある、もうひとつの近代の遺産を見に行こう。それはやはり「信州の洋館」に紹介されている、中央印刷社屋。
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これは現在では中央印刷という会社が使用しているのだが、実は、やはり製糸工業を行っていた片倉組の事務所であった建物。大正11 (1921) 年の建設である。今でも現役の社屋であるというのは大変なことだ。すぐ横には、片倉組発祥の地であることを記念する大きな石碑が立っている。
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製糸工業で沸いた近代の岡谷市の歴史に思いを馳せることのできる、貴重な体験であった。だが岡谷市とその周辺には、それだけではない顔もあるのだ。次回はそれをご紹介したい。

by yokohama7474 | 2018-09-22 01:36 | 美術・旅行 | Comments(0)

茨城県旅行 その 2 牛久市 (牛久大仏、牛久シャトー)

前項に続く茨城県日帰り安・近・短の旅の後半である。実はこの記事はまとめて長い一本にしてもよかったのだが、やはり二本に分けようと思ったのは、今回最初に採り上げる場所が、ちょっとなかなかないくらいの見どころであるからだ。1993年に造立されて以来既に 25年を経過しているが、私は残念なことにこれまで訪れる機会がなかった、牛久 (うしく) 大仏である。その高さは実に 120m。青銅製の立像としては世界最大である。高速を降りてしばらくすると、遠目にそのお姿が見えるようになり、近づいて行くと、その威容に圧倒される思いである。
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少し離れた場所から、正面に回ってお姿を拝むことができる。そのあたりは大規模な墓地になっていて、ここ牛久の地で大仏様とともに安らかに眠る人たちの憩いの場所でもある。この大仏が阿弥陀仏であることを思い出す。
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仏像好きの私はまた、日本各地に存在する近代に造立された「大仏」にもかなりの興味があり、その種の書物を何冊も持っている。一部書物名を挙げると、「大仏をめぐろう」「ぬっとあったものと、ぬっとあるもの」「晴れた日は巨大仏を見に」「夢みる巨大仏」など。いずれも巨大仏愛 (?) に溢れた読み応え充分の書物ばかりであるが、今年の 1月に刊行された半田カメラという人の労作である「夢みる巨大仏」には、この牛久大仏は、「巨大仏の最終形態 日本一いや世界一の大仏」として紹介されている。初めて出会ったときの衝撃が述べられていて、「牛久大仏の魅力はたくさんありますが、まずどこから観てもフォトジェニック」とある。いや実際現地に足を運んでみて、私もその言葉に深く同感する。つまり、世の中にある大仏というものは、彫刻としての出来にはどうも課題が多いものがほとんどだ。その点この牛久大仏は、立ち姿もお顔も大変に凛々しく、120mという巨大さを思わせないほど美しい彫刻だ。その大きさがどのくらいか想像しにくい人でも、あの奈良の大仏 (16m) が掌にすっぽり収まる大きさだと聞けば、いかに大きいかについてのイメージは沸くであろう。そして、実際にここに行って初めて分かるのは、大仏の結構近くを多くの飛行機が通り過ぎる。それは、成田に向かう飛行機なのか、あるいは茨城空港か。私もなんとか、短いシャッターチャンスを生かしてこんな写真を撮ることができた。合成ではありませんよ (笑)。
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そして車を停め、正面に回ってみる。この手の近代の宗教施設は、新興宗教によるものだったり、企業によるものだったり、地方自治体によるものだったり、様々であると思うが、ここは浄土真宗東本願寺派の施設なのである。実は浄土真宗の開祖親鸞上人は 20年に亘ってここ茨城の地で布教活動を行い、代表作である「教行信証」も、この常陸の国で書かれたという。
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いやそれにしても、視界を遮るものが全くない青空をバックにしての、この大仏の壮大な美しさは、ちょっとほかにないものである。この彫像が示しているのは、実際の大仏の顔のヴォリュームはこの仏様の実に 1000倍!! に当たるということ。
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そして、世界で最も高い青銅製立像としてギネスブックの認定を受けていることが、誇らしげに喧伝されている。実は Wiki で、英語版しかないものの、"List of tallest statues" という項目があり、それを見ると、世界 1位は中国の 153mの彫像、2位はミャンマーで 129m。我が牛久大仏は世界 3位の高さであるが、青銅製ということと、それから、彫刻としての完成度は、間違いなく他の追随を許さないものである。
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しばらく進むとこのような門がある。
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この門を入って見上げる大仏の崇高なことも感動的だが、実はここで振り返ると、この門の上の層に祀られている釈迦三尊の前のガラスに阿弥陀大仏が反射し、ふたつの仏様を同時に拝むことができるという趣向。
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見上げながら近づいて行くと、もうシャッターを切りまくってしまうのである。胸に三本の切れ込みがある理由は、あとで判明する。
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そして、いよいよ胎内へ。最初はこのような幻想的な空間を歩き、階段で 2階に上る。
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そしてエレベーターで地上 85m地点まで一気に上る。ここはちょうど大仏の胸のあたり。実は上で見た三本の切れ込みであるが、そのいずれから地上を見ても同じ景色が見えるとのこと。なるほど実際にそうであった。人生、たとえ人によって取る道が違っても、過たなければ同じ地点に達することができるのである。
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そして興味深いのは、10年に亘る大仏が完成するまでの期間に撮影された写真の展示。これは何やらシュールな感じまで覚えるし、そこで売っていた建造途中の写真集も購入してしまったのである。
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そしてまたエレベーターで 3階へ。ここには 3,400体の胎内仏が祀られていて、まさに圧巻。寄進者の名前がずらりと表示されていた。
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さてこのような、ちょっとほかで見ることのできない光景を堪能し、帰ろうかと思うと、ちょっと待て。何やら外に出ることができるらしい。実は私たちが訪れた際、この場所に気づいた人はほかにおらず、なんと惜しいことかと思ったものだ。もしこれから牛久大仏に行かれる方は、是非気を付けて頂いて、ここを見落とさないようにして頂きたい。要するに、金箔を購入して、大仏の台座の蓮弁に張ることができるのだ。
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つまりこれは、大仏のすぐ足元ということ。こんな写真が撮れて、本当に感動的な場所なのである。是非是非、お見逃しなきよう!!
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この巨大なモニュメントを辞して最後に向かった場所は、ワインの醸造所。え、なに? 茨城県にワインの醸造所??? そうなのだ。こんな建物である。「牛久シャトー」または「シャトーカミヤ」と呼ばれている。なんと洒落たヨーロッパ風の建物であろうか。
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多分、このブログを読んで頂いている方の中でも、「牛久シャトー」と聞いて、「あれ? どこかで聞いたような」と思う人はまず皆無であろう。だが実は、7月14日付の旧軽井沢散策の記事に、その名が出てくる。つまり、軽井沢を代表する歴史建築として重要文化財に指定されている旧三笠ホテルを設計した岡田時太郎 (辰野金吾の弟子) の作品が、この牛久シャトーなのである。実はこの場所、旧三笠ホテルと同じく、重要文化財。上で見た本館に加え、旧醸造室、旧貯蔵庫 (現在ではレストラン) の 3棟が重文指定を受けているのである。この写真の奥が旧醸造室。1903年の完成というから、今から実に 115年前である。
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こんな場所にこんな時代にこんなものを作ったのは誰かというと、神谷伝兵衛というひと。旧醸造室でその人がどんな人であったのか、また、ここでのワイン作りがどのようにして発展して行ったのかを知ることができる。「神谷伝兵衛記念館」の文字を見て足を踏み入れると、なんとそこには、以前使われていたことが明白な巨大な樽の数々が未だに存在している。
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数々の資料は 2階に展示されている。まず目に入るポスターは、日本のモダニズムに興味を持つ私のような人間にとっては既知のもの。なるほど。ハチミツの入ったハチブドー酒という奴だ。
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そして、創始者神谷伝兵衛 (1856 - 1922) はこんな人。
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彼は三河の出身で、1886年、浅草に日本初の酒の量り売りの店を開く。その後上記のハチブドー酒の販売に乗り出し、ついにはここ牛久でワインの醸造に乗り出したという大胆な人物。これは 1905年頃のシャトー。手前に葡萄畑が見える。
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その 6年後、1911年にはこのように発展する。
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これは大正のはじめ、皇族を迎える神谷 (後列左から 4人目)。このシャトーの門は、今と全く同じである。
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上記の通り、1886年に彼が浅草で量り売りを始めた場所は実は今でもある。そう、もちろんあの神谷バーだ。私のように、昭和の不良インテリである小林秀雄などに憧れる人間としては、その神谷バーの電気ブランというカクテルには特別の思い入れがある。何度か飲みに行ったことがあり、まぁそれほどうまいとは思わなかったが (笑)。
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この神谷バーの発祥の店を始めた際の道具類がこれらしい。のれんに「三河屋」とあるが、これが当時の店名。そういえば酒屋と言えば、「サザエさん」の例を引くまでもなく三河屋という名前が多い。なぜかと思って調べてみると、三河では醸造業が盛んであり、江戸時代に多くの味噌・醤油業者がその商号を使ったという歴史があるらしい。三河出身の神谷も、その商号の定着に貢献しているのかもしれない。
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これは 1912年、向島別荘での神谷。なんとも立派な暮らしぶりであるが、近所に住んでいた勝海舟や榎本武揚も訪ねてきたのだという。
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それからこれが、千葉の稲毛にある神谷の別荘。ここは現在でも千葉市の施設として保存されていて、私も以前から目をつけている場所。いずれ現地を訪れてレポートすることとしたい。
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そして地下に入ると薄暗い中に樽が延々と並んでおり、また、様々にワイン作りの試行錯誤を重ねた研究の跡も見ることができる。
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もちろんそこにはワインショップも併設されていて、100年以上に亘るこの地でのワイン作りの伝統を伝えている。でも、電気ブランはともかく、今でもここでワインを作っているのだろうか。
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そうして帰りがけ、シャトーから道を挟んだところにある駐車場のすぐ隣に、おっ、なんと、小さいながらも葡萄畑を発見。へぇー、日本のワイン王神谷伝兵衛の夢は、未だこの場所に息づいているのである!!
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このように、素晴らしいフォトジェニックな大仏様のあとに、ワイン王の残した近代の遺産に触れるというのも、なかなかに貴重な体験だ。茨城安・近・短の旅は、是非お薦めしたいものなのである。

by yokohama7474 | 2018-09-20 00:23 | 美術・旅行 | Comments(0)

茨城県旅行 その 1 那珂市 (那珂総合公園、一乗院毘沙門堂)、五浦 (天心遺跡、天心記念五浦美術館)

8月下旬のある日、家人とともに茨城県に出掛けた。我が家ではこれまでも、水戸に音楽や美術を楽しみに行ったり、あるいは偕楽園を見に行ったり、あるいは大洗海岸、あるいは袋田の滝、そしてこのブログでも採り上げて、なぜか今でも沢山アクセスのある桜川市の即身成仏などを見に出掛けたりはしていた。だが今回はちょっと趣向が異なる。家人と私がそれぞれに興味ある分野を出し合って妥結した今回の行き先は以下の通り。
1. 那珂市のひまわり群生地
2. 五浦 (いずら) の岡倉天心関連遺跡
3. 牛久大仏及び牛久シャトー

まぁ、冷静にこのリストを見ると、なんじゃこりゃと思うようなものかもしれないが (笑)、それぞれに文化的興味を引く要素があるのである。その小旅行の内容を、2回に分けてご報告したい。ということで、まず何はともあれ、ひまわりである。
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今回私たちが訪れたのは、那珂市の総合公園という場所。ひまわりという植物は、ゴッホを例に挙げるまでもなく、暑い夏の盛りにその顔をかっと空に上げて、生命力を存分に発揮する。そのひまわりの群生地が、茨城県那珂市というところにあると聞いて、そこに向かったのである。但し、現地のひまわり開花情報があるようでなかなかなく、いつ訪れるのかについては若干検討を要したのである。その結果、この那珂市総合公園でひまわり祭なるものが開かれる翌日がよいだろうということになった。期待を込めて訪れた現地の様子はこんな感じ。
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何万本ものひまわりが植えられた一角が、「ひまわり迷路」と名付けられていて、訪問者は無料でこのひまわりの大群と出会うことができる。・・・ただ、どういうわけであろうか、期待に反してひまわりたちのほとんどは下を向いている。
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その後ひまわりの生育について調べてみたのだが、これが、既に上を向いてからうつむいたのか、あるいはこれからようやく上を向くのであるか、判然としない。もしかすると今年の夏は暑すぎて、ひまわりと言えども上を向く気力がなかったのか??? とも思ったのであるが、真相は不明である。だが、やはりこれだけのひまわりを見ることができるのは圧巻だし、そして何より、周りがうつむいていてもひとり毅然として正面を向いている奴もいて、やはり私も、社会の中でそんな人間でありたいと、決意を新たにしたものであった (?)。
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ひまわりを鑑賞したあと、高速に戻ろうとすると、何やら気になる看板が目に入った。そこには「日本一の毘沙門天」とある。全く知識はないが、これは面白そうだと思って近づいてみると、こんなお寺である。
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おぉ、これは新しいものであることは明らかだが、巨大な毘沙門天像が脇侍を従えて聳え立っておられる。高さ 16mという威容を誇り、晴れた空をバックにして凛々しいお姿である。これは、一乗院というお寺で、もともとは水戸城の鬼門よけとして佐竹氏、水戸徳川氏の篤い信仰を集めたところであるらしい。また、毘沙門天のみならず、不動明王の信仰も集めているようだ。
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ちょうどこの日は蚤の市が開かれていて、その出店を冷やかすのが好きな私たちは、あーだこーだと言いながら、気がつくと毘沙門堂の前に。お賽銭を入れて堂内に入ると、お、これはなかなか古い毘沙門天とその脇侍 (吉祥天と善尼師童子) がおられるではないか。「文化財指定」とあったので、県指定文化財なのであろうか。毘沙門さんは鎌倉時代の作とされているらしく、それなりに説得力がある。
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そう、屋外に立つ毘沙門天とその脇侍は、この古い仏様をモデルにしたもの。改めて正面に回ってみると大変堂々としているし、踏みつけられている邪鬼も愛嬌がある。また、毘沙門様の足元のお堂の中で、暗闇を辿って悟りの世界を至るというイヴェント感も、なかなかに捨てがたい。
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さて、那珂市を辞して次に向かった先は、北茨城市である。ここの五浦 (いずら) という場所には以前から行きたかったのだが、なにせ茨城県の北端、福島県との県境に近い場所であり、水戸からも 60kmほど離れているので、これまで果たせなかったのである。私がここに行きたかった理由はただひとつ。深く尊敬するこの人にゆかりの土地であるからだ。
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この人は岡倉天心 (1863 - 1913)。近代日本において、日本の美術とはなんたるかを、歴史的なものの評価と新しい芸術の創造の両面で打ち立てた人。アーネスト・フェノロサとともに日本の古美術の調査に乗り出し、また、東京美術学校 (現在の東京藝術大学美術学科) の初代校長として、横山大観、下村観山、菱田春草らを育てた人。だが彼には敵も多く、結局東京美術学校を追い出され、弟子たちとともに日本美術院を創設、数年後にはここ五浦に本拠地を移したのである。フランスの芸術村にちなんで、「日本のバルビゾン」とも呼ばれたらしい。現在では「天心遺跡」と名付けられた場所は、茨城大学の管理になっている。海沿いの風光明媚な場所であり、茨城百景のひとつに数えられている。
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門内に入ると、すぐ右側に、天心の彫像をいくつも作った大彫刻家、平櫛田中 (ひらくちでんちゅう) 手植えの椿がある。また、天心ゆかりの品を展示する記念館もあり、その前には、第二次大戦の際に京都・奈良を爆撃から守れと主張したとされる (最近では異なる評価もあるようだが・・・) ラングドン・ウォーナーの彫像もある。
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実は天心はこの場所の海に面した場所に、六角堂という小さな庵を立て、そこで接客をしたり瞑想にふけったりしていたそうであるが、2011年の東日本大震災のときに、その建物は無惨にも津波にさらわれ、跡形もなくなってしまった。天心記念館にはその復興を記録した写真展示がある。また、六角堂近くの屋外展示には、実に生々しい津波直後の写真が掲示されている。
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だが、この六角堂は流失のわずか 1年後、もと通りに再建された。これは、いかに天心を慕う人たちが多くいるかの証拠であろう。
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この場所に立ってあたりを見回すと、浅い岩場に面していて、水はきれいに澄んでいるが、浸蝕された崖はかなりダイナミックに見える。まさかこの場所が津波に襲われるとは。
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平地には天心が暮らした家が残されているのだが、その前にある案内板に、「津波到達点」の表示があって、自然の猛威を思わせる。ただ、平屋建てのその家屋は、昔の佇まいを今に伝えている。
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そしてその横には、このような大きな石碑が立っている。「亜細亜ハ一なり」と書いてある。私はこれを本で見たときに、「アジア、ハーッ!! ナリ」かと思って、なんでここでため息をつくのだろうと真面目に考えてしまったが、これは「アジアはいつ (=ひとつ) なり」という意味だ。でも実際、我々の隣にいた中年女性は、「『ハーッ!! ナリ』ってなんだろうね」と大きな声でおっしゃっていて、やはり誰しも思うことは一緒なのだと理解した次第でした (笑)。
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さて、この場所からほど遠からぬところに、天心の墓所がある。彼が葬られたのは東京の染井霊園であるが、ここ五浦の地に分骨されたらしい。だが行ってみてびっくり。このような土饅頭があるだけだ。何やら無常感を覚える。調べてみると染井霊園の一族の墓も、かなり質素なものであるようだ。潔さがある。
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さて、その後は、昔日本美術院が設置されたあたりにある、茨城県天心記念五浦美術館へ。
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ここには岡倉天心記念室なる場所があって、天心ゆかりの品があれこれ展示されていて、大変に興味深い。彼はもともと横浜生まれで、英語教育を受けて育った関係で、ボストン美術館 (国外の日本美術コレクションとしては世界有数を誇る) にも勤務して、美術における日本と米国の間の架け橋としての役割を果たしたわけである。日本が近代化に乗り出してすぐの頃にそのような人材に恵まれたことは、この国の美術界にとっては大変大きな意義があったものだと思う。ところでこの天心記念五浦美術館では、特別展も開催されているらしく、私たちが訪れたときにはこの展覧会が開催されていた。
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スズキコージの名はなんとなく聞いたことがあったような気がしたが、実際にその作品に接すると、その生命力に圧倒される。彼は 1948年生まれなので今年 70歳。正規の美術教育を受けておらず、歌舞伎町の路上でアート活動を始めたという人。日本の美術教育の創始者である岡倉天心とスズキコージの接点はあまりないようにも思うが、この場所で彼の個展が開かれているとはなんとも面白い。しかも「大千世界宇宙大爆裂展」とは (笑)。
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実はこのスズキコージ、絵本の挿絵やポスターなども多く手掛けている。私が見覚えがあるのは、エド・ウッドの特集上演のポスター。ちょっとマニアックかもしれないが、エド・ウッドとは、信じられない B級 SF 映画を沢山撮った監督で、ティム・バートンの映画もあった。
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それから面白いエピソードがひとつ。現地に向かう車の中で、チャイコフスキーの「雪娘」を聴いていた。これはロシア民話に基づく劇付随音楽だが、チャイコフスキーの作品としては人気がない。なるほど、こんな曲もあるわけね、と思っていたら、なんとスズキはその民話の挿絵を描いているではないか!! これも何かのご縁と思い、この絵本を買ってしまいました。
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そんなわけで、既にしてなかなかに盛りだくさんな文化の旅になっているが、この後に訪れた場所がまたすごいので、次の記事でそれを採り上げることとします。

by yokohama7474 | 2018-09-19 00:35 | 美術・旅行 | Comments(0)

横尾忠則 画家の肖像 横尾忠則現代美術館

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このブログでも採り上げた、佐渡裕が西宮で上演したウェーバーの歌劇「魔弾の射手」を鑑賞するために関西に赴いた際、是非見に行きたい場所があった。それは、神戸市にある横尾忠則現代美術館。今年 82歳という年齢でありながら精力的な活動を続けるアーティスト、横尾忠則については、今さらここでご紹介するまでもないだろう。いかにも昭和なイメージのキッチュなポスターの数々でイラストレーターとして名を上げた彼は、1980年代に画家宣言をして、さらにその活動の幅を広げたのである。その作品には、様々な過去の偉大な画家たちの作風のエコーがあったり、精神世界に入って行く雰囲気も濃厚で、誰もが一目見れば彼の作品と分かる点、明確な個性を持った創造活動を行っているわけである。これは「芸術新潮」誌の今年の 3月号の特集に関して撮られた、香取慎吾との写真。
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私自身の横尾芸術へのこだわりは、実のところさほど熱狂的なものとも言えないのであるが、それでも彼の作品に漂う雰囲気には、いつも何か気になるものがある。もし記憶が正しければ、もう 20年ほども前だろうか、ラフォーレ原宿だったと思うが、横尾の展覧会を見たときに、鮮烈に感じたことがある。それは、この画家の場合、他人の作品を交えずに、単独の展示を行う場が恒常的にできれば面白いだろうな、ということであった。さらに言うならば、それは普通の美術館ではなく、横尾教の信者のみが入ることを許される、神殿のような施設であるべきだ。私がなぜにこのような思いを抱いたのか分からないが、彼の作品の数々を見て行くうちにそう思ったことは鮮明に覚えている。そして、2012年、実際に彼の作品だけを展示する横尾忠則現代美術館がオープンしたのである。もちろんここは宗教施設ではないが (笑)、ある意味では私がぼんやりとイメージしていたものに近い存在であるように思う。横尾は兵庫県西脇市というところ (海沿いの神戸からは随分と北上した、兵庫県中部) の出身であるが、神戸新聞勤務の時代があるというゆかりによって、この美術館は神戸に作られた。実はこの建物、1982年竣工の、兵庫県立美術館の分館を改修したものだというが、設計はあの村野藤吾である。
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私がこの美術館を訪れた際には、ちょうど「画家の肖像」という展覧会が開かれていた。横尾は多くの作品に自分の顔を入れていて、この展覧会では、そのような作品を中心にした展示であったが、まあ、特にテーマがあるようにも感じられず、要するに横尾のアートを堪能する場であったと割り切ればよいものと思う。これは、1965年という若い頃の作品で、「TADANORI YOKOO」と題されている。クライアントのいない、自分自身のための自主制作であるらしいが、真ん中で首を吊っているのは横尾自身。また、左下の赤ん坊もきっと彼だろう。その意味で、横尾の自画像の出発点と言える作品である。これはもう既に横尾忠則以外の何物でもない。
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これは 1969年制作の「オペラ横尾忠則をうたう」というアナログレコードである。私はやはりアナログレコードで音楽に親しんだ世代なので、このような昭和の雰囲気のレコード (そう、デジタルは未だなかったので、「アナログレコード」とは呼んでいなかった!!) には、心震えるものがあるのである。この写真の左下で横尾の右側に写っているのが高倉健であることはすぐに分かろうが、私が興味を持ったことには、この「オペラ」の作曲者は、あの一柳慧なのである!! オノ・ヨーコと別れた 7年後である。
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横尾の作品には、過去の芸術家へのオマージュというか、その作品のコラージュというか、ある場合には剽窃すれすれとも思われかねないものが時折あるが、これは時代が下って2001年の「ロシアの芸術家、アレクサンドル・ロトチェンコ」。最近ではあまり見かけないが、私が若い頃には、いわゆるロシア・アヴァンギャルドや構成主義の展覧会が何度か開かれ、ロトチェンコはその中では結構メジャーなアーティストであったので、この YokoOOOOO さんの作品には大変親近感を覚えるのである。
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これは横尾の自画像をテーマにした展覧会であるゆえ、これまでに掲げた 3作品はいずれも自画像を含むものであったが、この 1982年の「画家の自画像」はその題名通り、画家宣言をした横尾の、ある種の決意を感じさせるものである。この赤は上の作品のいずれにも見られる横尾のシグニチャーと言える色であり、その中に描かれた自身の顔は、宙に浮かんだようにも見える。そう、あの霊的存在であるエクトプラズムを思わせるではないか。
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そのものズバリ、「Ectoplasm」と題された 1985年の作品がこちら。明らかに上の自画像と同系統の作品であるが、ここでは横尾自身がエクトプラズムを鼻から出している。このヘタウマ感覚が、その後の「画家」横尾忠則の作品を貫くトーンとなって行く。
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尚、私のような怪奇好きには常識であるが、この作品の元ネタは、メアリー・アン・マーシャルという霊媒が鼻から出したエクトプラズムの写真。真ん中に写っているのは、自身心霊研究にのめり込んだ、シャーロック・ホームズの生みの親、アーサー・コナン・ドイルであるとされている。うーん (笑)。
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ちょっと毛色の違う作品もあって、これは 1982年の「ヤレヤレ」。画家宣言後の最初の個展に展示した大作の下絵であるらしい。完成作品は存在しないらしいが、鏡を使って複数の自画像を描く試みである。この細い線と寒色系の色に依拠した作品は、下絵ゆえのユニークさなのかもしれない。
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これは 1985年作の「Greco's Madonna」。元ネタはエル・グレコの「オルガス伯の埋葬」。スペイン・トレドのサント・トメ教会に展示されており、この画家の紛れもない最高傑作のひとつだと私は思っている。私はもう 20年ほども前になるが、実物をトレドまで見に行き、その前で、しばらく動けないほどの感動を味わったものだ。原画と比較してみて下さい。私の解釈では、ここで (あるいはほかの同系列の作品で) 横尾が表現したいのは、美術の持つ力をキッチュなかたちに翻案して現代の人々に指し示すことではないだろうか。一方でそこには、過去の巨匠たちの時代のように純粋な態度で絵画作品を描くことができなくなっている現代の様相も、リアルに表れているように思う。
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同系統の作品で、1991年作の「受胎された霊感」。もちろん、あの有名なフラ・アンジェリコの「受胎告知」が元ネタである。私も書斎に、この絵画の写真を額に入れて飾っているのである。
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横尾が題材として使っているのは西洋絵画ばかりではない。この 1994年作の「ニューオーリンズからの使者」には、曽我蕭白からの引用がある。松阪市の継松寺所蔵の「雪山童子図」。蕭白は狂気を孕んだ奇想の画家で、私も大好きだが、それにしてもこのニューオーリンズからの使者たちは、ジャズ発祥の地ニューオーリーンズというよりは、太平洋の島あたりから旅立って "TOKYO" まで行進しているようで、それこそ蕭白の狂気を集団で具現しているかのようだ。
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かと思うとこれは、おっと黒澤映画である。1994年作の「わが青春に悔いなし」で、この題名は黒沢明の戦後初 (1946年) の作品から来ているし、この女性は誰がどう見ても原節子なのであるが、横たわっている藤田進の顔は、まるで素人が描いた人形のように (笑) 手抜きである。
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コラージュ系の作品にはほかにも、ピカビアやコクトー、デュシャンやマン・レイ等々、私としてもいろいろと語りたくて仕方がない芸術家たちの作品が題材になっているが、きりがないので、少し違ったタイプの作品を採り上げよう。1998年作の「想い出と現実の一致」。大きな座敷の向こうに景色が広がっているという構図は、浮世絵にもよくあるが、ここでは、呉服商を営んでいた横尾の養父の行商先の風景を描いているらしい。リアルな昔の日本人の姿が生々しく立ち現れているだけでなく、中空には地球とおぼしき星が浮かび、右端にはバルテュス風の若い女性がいて、なんともシュール。縁側に立っている少年は、4歳頃の横尾自身の写真から描き起こされている。
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自画像を頻繁に描く画家には、何か自分の存在を記録したいという欲求があって、その反動で自らの存在を否定したくなる瞬間があるのだろうか、と考える。例えばこの 2000年の作品「お出かけは自転車で」には、夥しい枚数の写真が左側に貼り付けてあるのだが、それはことごとく自分の写真。アトリエに向かう姿 (自転車に乗ることが多い) を毎日記録したらしい。ある種の偏執狂的な遊びであり、毎日の記録という行為が芸術家を惹きつけているものと思う。
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これは 2003年作の「友の不在を思う」。故郷の西脇市を通る線路の上空に、亡くなった同級生たちの顔が浮かんでいる。不気味なようでいて、またどこか平和で静謐な風景ではないか。横尾自身の顔は、線路脇の塀に赤い色で描かれている。
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これは同じく 2003年作の「いつか観た時代劇映画」。これには元ネタがあるのか否か分からないが、妙にリアルな真ん中の親子は、横尾とその父親だろうか。手前の侍の顔が落書きのようになっているのも、上の「わが青春に悔いなし」と通じる雰囲気で、なぜかしら懐かしい。
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これは 2007年作の「想い出劇場」。山梨県の石和温泉の光景であるらしい。手前右側には三島由紀夫文学館のポスターがあり、またよく見ると、真ん中の建物のバルコニーには、切腹前の演説姿の三島がいる。面白いのは手前に見える救急車で、これは実際に横尾が旅行中に救急車で搬送された思い出に基づくもの。運転しているのは、横尾が敬愛するシュールの画家、キリコである。なるほどこの作品はキリコ風である。
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若い頃からの横尾の作品の数々を見てきたが、会場には近年の作品も展示されていた。これは、2015年作の「Self-portrait」。展覧会のポスターにもなっている作品だ。この年横尾は、原因不明の難聴を起こしたらしい。不思議に印象に残る作品。
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さて最後は、今年 2018年の作品で、「T + Y 自画像」。その名も Tadanori + Yokoo の自画像であろうし、ここにはどこか、画家としての矜持が見られると言っていいような気迫すら感じる。80を過ぎてなお旺盛な制作意欲を維持している横尾らしい作品だと思う。その一方、面白いのは、顔の左側に、首つり用の紐が見えることだ。この記事で最初にご紹介した作品は、今から 50年以上前に、横尾自身がやはり首を吊っている姿をモチーフにしていた。この自死への意識は、芸術家には珍しくないとは思うが、横尾の場合はそれを創作の原動力としているのであろうか。自らが作品の中で一貫して描いてきた登場人物である自分自身と深く向き合い、いつかその対決に終わりの来る日を見つめているのかもしれない。
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そんなわけで、初めて訪れた横尾忠則現代美術館は、私がかつて夢想したような、神殿としての個人美術館というものではなかったにせよ、ひとりのアーティストの活動の変遷を知ることのできる興味深い場所であった。実は後で知ったことには、横尾の出身地である西脇市にも、彼の美術館があるらしい。それは岡之山美術館といって、1984年開館というから、この神戸の美術館よりもずっと古い。設計は磯崎新で、ここには瞑想ルームもあるというから、より神殿に近い存在なのかもしれない。是非一度訪れてみたいものだと思っている。

by yokohama7474 | 2018-09-15 00:40 | 美術・旅行 | Comments(0)

特別展 縄文 1万年の美の鼓動 東京国立博物館

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先に採り上げた「ミケランジェロと理想の身体」展は、このブログにしては珍しく、展覧会の会期中に記事をアップすることができたものであった。そうなるとやはり、今後もなるべく展覧会の記事は早くアップしたいという思いが強くなる。そして、そういえば未だ記事を書いていない展覧会が幾つかあるなと思い、これを採り上げることにした。この展覧会も、未だ会期期間中である・・・但し、今日 (9/2 (日)) までだ。しかも東京展のあと巡回があるわけでもない。そうなると、私はこの記事をご覧頂く方々に対してかなりの不義理をしているように感じてしまう。本当に申し訳ないと思いながら、一方では、この展覧会はかなり宣伝もしていることだし、テレビで紹介されたりもしているので、興味を持たれる方は既に観覧済ではないか。そう開き直り、ここではこの貴重な展覧会を徒然に振り返ってみたい。

これは、縄文時代の出土品を大量に集めた展覧会である。展示品の出土地は北海道から鹿児島に及び、国宝に指定された縄文時代の作品 6点が初めて勢揃いするほか、重要文化財は実に 63点。これだけの規模での開催は、恐らくは初めてのことだろうし、今後もいつまた望めるか分からない。その意味ではなんとも貴重な機会なのである。そもそも縄文時代に対するイメージは、私などが子供の頃は、弥生文化によって稲作が始まる前の原始的な時代というものだったと思うが、その後発見・研究が進み、また、美学的な見地からも様々な価値観が語られるようになったことで、縄文文化自体への認識が変わって来ていると思う。たまたま今日の日経新聞にも、DNA 分析から、縄文人は東南アジアから入ってきたらしいという記事が掲載されていたし、先日 NHK でも同様の番組を放送していた。この国は、東側は大海原なので、南か西か北から人々が入ってきたに違いないのだが、それでも、日本は本当に東の果てにある土地なので、我々の祖先たちは相当苦労をしてやって来たに違いない。そのような、移動の東の終着点で独自に花開いた文化について知ることは、日本の文化の原点を知ることである。上のチラシにある通り、「ニッポンの、美の原点」である。さて、一口に縄文時代と言っても、大変に長く、展覧会の副題にある通り、1万年ほども続いたのである。始まりは約 1万3000年前、氷期が終わって温暖化が進んだ頃。終わりは、弥生時代が始まった、紀元前 400年頃。だから、ちょうど世界各地で最初の文明が現れた頃、日本ではこの縄文文化が栄えたことになる。もちろん、エジプトやメソポタミア、あるいはギリシャなどと比べると、ダイナミズムはないものの、特筆すべきはやはりその美的感覚ではないだろうか。世界のほかの場所にはないユニークなデザインの数々を見ることで、実際に日本における造形感覚の原点を知ることができる。その意味で、縄文の代表選手たちは、この 6点。
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これは何かというと、現時点で国宝に指定されている縄文時代の出土品である。1つだけ火焔型土器、ほかの 5体は土偶である。これらを含む展示品を以下に見て行こう。これが最初の展示品で、縄文時代草創期の「微隆起線文土器」。青森県、津軽半島の六ヶ所村表館遺跡というところからの出土品である。高さ 30cmほど。極めてシンプルだが、きっちりと線で模様をつけようという感性が面白いではないか。実用においては、そんなものはなくてもよいはずなのに。私など、まるで近世の茶碗を見るように、「うーん、景色がいいねぇ」などと言いたくなってしまったものだ。
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これも縄文時代早期の作で、図録には「縄文世界、初めての壺形土器」とある。重要文化財に指定されている。これも東北の出土品と思いきや、全く違っていて、なんと鹿児島県霧島市の上野原遺跡から出土品。つまり、縄文時代の初期から日本列島には、北から南まで人々が暮らしていて、独自の文化を築いていたということである。日本はさほど広くないとはいえ、青森と鹿児島は、現代の感覚でも充分遠い。人間ってすごい。
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さらに驚きは、これである。なんとこれは、漆器なのである。こんな時代から日本では漆工芸の技術があったということである。英語で漆器のことを "Japan" というと昔習ったが、それ自体はあまり実際に使われる用語ではないようだとはいえ、日本の漆工芸の歴史がこれだけ古いと知ることには、大いに意味がある。この「漆塗彩文鉢形土器」は、紀元前 4000~3000年頃、縄文時代前期の作品と見られていて、山形県の押出遺跡という場所から出土した重要文化財である。
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これはそれよりも 1000年ほど後のものかと言われている、群馬県高崎情報団地遺跡出土の、「漆塗彩文浅鉢形土器」。食物を盛った器と言われているらしいが、当時の暮らしは我々が思うよりもカラフルであったようだ。
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これは、縄文時代のポシェットである。木製の編籠で、有名な青森県の三内丸山遺跡から出土した重要文化財。なんと気の利いたことに (?)、中にはクルミの殻が残されていたという。何千年も後世の人間がそんなものを発見するなんて、当時の人は思いもしなかったに違いない。縄文人に対する親近感が沸いてくる。
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装身具をいくつか。これは、埼玉県桶川市の後谷遺跡出土の。漆塗の櫛で、やはり重要文化財。縄文時代の櫛は、もともとは死者を飾るものであったものが、時代とともに櫛歯数が増えて、動いても落ちにくいものとなったことから、生者が髪に差すようになっていったと見られているらしい。
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これは耳飾り。しばらく前に千葉県の加曾利貝塚でも同様の出土品を見たが、これは耳たぶに穴を開けて、徐々に大きなものをつけられるようにして行ったと考えられている。縄文人は大変におしゃれであったわけである。左上の複雑な模様のものは東京都調布市の下布田遺跡、その他は群馬県茅野遺跡からの出土品で、いずれも重要文化財である。
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少し縄文土器を見てみよう。これは、山梨県甲州市の安道寺遺跡出土の「深鉢形土器」。縄文中期、紀元前 3000~2000年頃の作と見られている。それにしても、この曲線の異様なうねりは、一体どこから来たものであろうか。
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そもそも、いわゆる美術史以前のこの時代の土器を文化財指定するようになったのは比較的最近のことである。実は以下が、縄文土器としての重要文化財指定第 1号。なんとそれは、1953年のこと。「注口土器」2件のうち、これは茨城県稲敷市の椎塚貝塚からの出土品で、現在では兵庫県西宮市の辰馬考古資料館の所蔵。落ち着いた色といい、不思議な模様といい、存在感がありますな。
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これは長野県の川原田遺跡出土の、重要文化財「焼町土器」のひとつ。焼町 (やけまち) 土器とは、群馬県西部から長野県東部にかけての千曲川流域に分布する縄文中期の土器群で、粘土紐の貼り付けによる立体装飾を特徴とする。この展覧会では、世界のほかの地域の土器も参考資料としてあれこれ展示されていたが、このような手の込んだ形態のものは日本にしかない。まさに縄文の炎の芸術である。
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そしてそのような縄文土器の究極の美を見ることができるのがこれだ。新潟県十日町市の笹山遺跡出土の「火焔型土器」。冒頭に掲げた、縄文土器として唯一の国宝である。周囲を何度も回って飽かず眺めてしまったが、なんという素晴らしい造形であろうか。堂々たる風格の土器である。
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それではここから、国宝土偶 5体を見て行くこととしよう。それぞれにあだ名がついていて面白い。まず最初は、国宝土偶第 1号 (1995年指定) で、長野県茅野市の棚畑遺跡出土の「縄文のビーナス」。どうやら妊婦を表したようであるが、そのモデリングのユニークなこと。安産とか子孫繁栄という思いはもともと込められているのだろうが、作り手は、かたちとしての面白さを知っていたとしか思えない。
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次の国宝は、山形県舟形町の西ノ前遺跡出土の「縄文の女神」。高さ 45cmは、現在までに発掘されている土偶で最も高いものだという。ここでは顔も手も抽象化されており、安定感のある両足には、横じまの装飾が施されている。なにか、芸術の芽生えを感じさせる土偶ではないだろうか。
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3つめの国宝土偶はこちら。これも長野県茅野市、中ッ原遺跡出土の「仮面の女神」。これはまた思い切った足の表現であり、顔には仮面をつけていて、呪術的な雰囲気を持っている。何かの儀式に使われたようなことでもあったのだろうか。
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4つめの国宝土偶は、青森県八戸市、風張 1遺跡出土の「合掌土偶」。うーん、この時代に既に祈りがあったということだろうか。股間には性器が刻まれているらしく、もしかするとこれはお産の様子なのでは、という気もするが、それにしてもこの顔。ここには、人間の顔をリアルに写し取るという感覚はなく、やはり何か呪術的なものを感じさせる。
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そうして、国宝土偶の最後は、北海道函館市、著保内野遺跡出土の「中空土偶」。その名の通り、頭から足先まで、内部が空洞になっているタイプの土偶である.肩が張っていて、なかなかに凛々しい。北海道唯一の国宝であるらしく、その顔も誇らしげに見えるではないか。
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このような国宝土偶を見ていると、日本人特有の「人のかたち」への根源的な興味を感じる。常々このブログでも唱えている通り、日本は古代から素晴らしい彫刻の数々を作り出してきた。もちろん、建築とか絵画とか工芸でも、日本独特の高い技術はそれぞれに存在すると思うが、彫刻の場合には、なんらかの理由で人間の似姿を表現するわけで、そこにはやはり、人々の日常生活と一体化した祈りの感情が関係して来るものと思う。その意味で、これら、世界に例を見ない土偶の数々は、もしかすると其の後の日本の宗教彫刻の流れにつながっていく要素を持っているのではないかと思う。ひいてはそれが日本人のフィギュア好き、アニメ好きという感覚とも通底しているのではないか。そのような観点でほかの展示品を見て行きたい。これは青森県の三内丸山遺跡出土の重要文化財「板状土偶」。まんまるに口を開いた十字架型の土偶である。一体何を叫んでいるのだろうか。実は帰宅してから気づいたことには、私は 15年ほど前に三内丸山遺跡を訪れたとき、この土偶をもとにしたフィギュアを購入。今でも我が家の特別展示コーナー (?) に鎮座ましましている。
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これは山梨県南アルプス市、鋳物師屋遺跡出土の重要文化財「ポーズ土偶」。顔の特異な表現も印象的だが、左手の巨大な指 (三本?) のデフォルメぶりは、マンガ風ですらある。
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これは有名な「ハート形土偶」。群馬県東吾妻町出土の重要文化財である (右下の小さい写真は、同じ土偶を斜め後ろから写したもの)。これはもうどう見ても、アートとして作られたとしか思えない。なぜに顔がハート形 (笑)。戦時中の道路工事で偶然に発見されたもので、石組遺構の中に納められたかたちで発見されたという。やはり何かの呪術と関係しているのだろう。が、それにしても可愛らしい。
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これはもしかすると、日本で最も有名な土偶ではないか。青森県つがる市の亀ヶ岡出土で、現在は東京国立博物館所蔵の重要文化財「遮光器土偶」。よく、宇宙人来訪の証しなどという説を耳にしたが、そう思いたくなるほど、人間の姿をリアルに写そうという姿勢が感じられない。実に謎めいている。
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これは、その遮光器土偶のあとの時代に東北で作られた「刺突文土偶」。秋田県湯沢市の出土品である。何やら、ラテンアメリカの彫刻を思い出させるようなイメージではないか。
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これは弥生時代に入ってからのものであるらしいが、茨城県筑西市の女方遺跡出土の「顔面付壺形土器」。土偶の系統を継ぎながら、これは死者の骨を収める容器であると見られているらしい。こうなると今度はメソポタミア風と言いたくなるではないか。なんともユニーク。
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これは土器ではなく、石を刻んだもので、岩偶と呼ばれるものらしい。秋田県の白坂遺跡出土の、その岩偶頭部であるが、これは明らかに笑った顔である。
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ところで歴史好きならこれを見て、何かを思い出さないだろうか。そう、奈良・飛鳥に数々残る謎の石造物、特に、吉備王姫墓にある猿石である。これら飛鳥の石造物の数々は、製作年代も由来も皆目分からない謎だらけの造形物なのであるが、もしかすると縄文時代晩期の石造彫刻にヒントを得て作られた・・・などということはないだろうか。下の写真がその猿石。またいずれ、飛鳥謎の石造物回りをして、記事を書いてみたい。
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さて、「縄文」展に戻ろう。これも衝撃の造形で、「人頭形土製品」。千葉県成田市の南羽鳥中岫 (みなみはどりなかのごき) 遺跡出土の重要文化財である。何が衝撃かというと、これは明らかに死者の顔を模したもの。これまでに散々見てきた、リアリズムを離れたデフォルメされた人間表現とは全く正反対で、見ていてぞっとするような、死という逃れられない運命がただそこに黙して存在しているようだ。縄文時代前期の古いものであるというが、その時代にもやはり、何かの神秘に打たれてこのような特異を造形をする、天才的な人物がいたということか。
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上で見た通り、土偶には仮面をつけたものもあるので、何か仮面を着用して行う儀式は当時からあったのであろうが、以下に見るのは、その仮面の耳や鼻や口といった粘土製のパーツである。岩手県北上市の八天遺跡出土の重要文化財。なぜ人間は、仮面をつけて儀式を行うのだろうか。人の顔の構成要素のパーツには、それだけで呪術性が伴って見える。
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縄文の人たちが残した造形は、人間だけではない。世界のほかの土地でもそうであるが、動物たちを表した土製品が出土していて、面白い。以下、犬 (栃木県藤岡神社出土の重要文化財)、鳥形把手付鉢形土器 (石川県能登町、真脇遺跡出土の重要文化財)、猪 (青森県弘前市、十腰内 2遺跡出土の需要文化財)。
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ところで、会場で見かけたこの土偶 (横浜市稲荷山貝塚出土)、何かを思い出させないだろうか。
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そう、もちろんこれ、1970年大阪万博の際に作られた、太陽の塔である。
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誰もが知る通り、この太陽の塔は、洋画家岡本太郎の設計になるもの。実は、これもよく知られていることだが、縄文土器の凄まじくも逞しい表現力を高く評価したのは、岡本であった。彼が縄文土器と出会ったのは 1951年、場所はこの東京国立博物館であったそうだ。今回の展覧会の出口近くには、そのときに実際に太郎が目にした土器・土偶と、彼がそれを撮影したモノクロ写真とが並べて展示されていた。そのコーナーのみは来訪者も写真撮影が認められていたので、私がスマホで撮影したのが以下の写真。
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岡本太郎が衝撃を受けてから既に 70年近い歳月が経とうとしているわけで、その間に縄文時代について様々なことが分かってきているわけであるが、分かれば分かるほどに、その衝撃は深まるとも言えるだろう。これだけの数の縄文時代の遺品が一堂に会したからこそ、これまで見えなかった日本人の美意識の源流といった要素に気がつくことのできる、大変貴重な機会となる展覧会であった。

by yokohama7474 | 2018-09-02 15:45 | 美術・旅行 | Comments(0)

ミケランジェロと理想の身体 国立西洋美術館

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このブログで美術展を採り上げる際には、既に開催期間を終了してしまっているケースが多く、そのことへの忸怩たる思いは、これまでも何度も表明してきた。やはり、せっかく記事を書くからには、それをご覧になった方に、何か少しでも考える材料を提供できればよいと考えているので、そのためには、既に終わってしまった展覧会ではなく、これからでも見に行けるものの記事を書かないといけない。いつもそのように思いつつも、なかなか果たせずにいる中、今回は久しぶりに、会期が未だ 1ヶ月ほども残っている展覧会を採り上げることができるのは嬉しい。しかも、誰もが知る西洋ルネサンスの巨匠、ミケランジェロ・ブオナローティ (1475 - 1564) の名を冠した展覧会である。これは、あの有名なジョルジョ・ヴァザーリが、ミケランジェロの死の 4年後、彼の追悼のため、自作の「美術家列伝」から彼に関する部分のみを集めて出版したもの。既に同時代に人々から「神のような」と尊敬されていた、偉大なる芸術家の肖像である。
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この展覧会には、ミケランジェロ作とはっきりしている彫刻が 2点展示されていて、それだけでも充分意義深いことなのであるが、展覧会全体の趣旨は、逞しい身体表現で知られるミケランジェロ作品やその周辺のルネサンス期に至るまでの、西洋美術史における身体表現の変遷を辿ることにある。従ってこれは決してミケランジェロ単独の展覧会ではない点には、若干注意が必要だろう。その前提は最初のコーナーですぐ分かるのだが、そこには、子供をモチーフとした作品が幾つか並んでいる。これはプットーのレリーフ。1世紀前半、つまりは古代ローマ時代の作品である。ヴェネツィア国立考古学博物館の所蔵。この体躯の寸詰まり感には、確かに子供らしさがある。なんと活き活きとした表現であろうか。
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これは 2世紀の作で、「蛇を絞め殺す幼児ヘラクレス」(フィレンツェ国立考古学博物館所蔵)。ゼウスを父とするヘラクレスは、そのゼウスの正妻であるヘラの怒りを買い、ヘラは幼少のヘラクレスを殺すために 2匹の蛇を送り込むが、勇者ヘラクレスは、その蛇を難なく素手で絞め殺したという逸話を題材としている。絡みつく蛇を見事に表現しているのもすごいが、私が注目したいのは、この幼児の左の太ももである。ここには幼児特有の肉づきのよさが、皺によって表されている。なんとリアル!!
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これは時代が下がって、1450 - 70年作の、スケッジャという画家の手になる「遊ぶ幼児たち」。このスケッジャという画家の名にはなじみがないが、本名をジョヴァンニ・ディ・セル・ジョヴァンニ・グイーディといい、ルネサンス初期の著名画家マザッチョの弟であるという (この展覧会の会場である西洋美術館には、彼の「スザンナ伝」という作品が所蔵されており、本展にも出展されている)。ひとりは正面、もうひとりは最後を見せて幼児が向かい合っているが、その筋肉表現のリアルなこと。なんとも彫塑的な表現である。
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このように見てくると、西洋美術における幼児の表現には、その肉づきのよさという点において、まさにミケランジェロにつながるような要素を見て取ることができる。もちろんこれは、ルネサンス時代の芸術家たちが、古代の作品に範を取ったということでもある。次の作品はどうだろう。「アキレウスとケイロン」(65 - 79年作)。これはポンペイと同じくヴェスヴィオ火山の噴火で埋もれてしまったエルコラーノという街に描かれていたフレスコの壁画である (ナポリ国立考古学博物館所蔵)。想像上の動物であるケンタウロスのひとりであるケイロンは、その姿に似合わぬ賢者であり、その教えを受けようと勇者アキレウスがやってきた場面。2000年前の作品とはとても思われない自由さである。
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人体の立体表現と言えば、フィレンツェで活躍したデッラ・ロッビア一族のことを思い出さないわけにはいかない。このアンドレア・デッラ・ロッビアの「理想的な若者の肖像 (聖アンサヌス)」(1500年頃作) もその典型的な美しい作品のひとつ。釉薬を使ったテラコッタ (焼物) である。この繊細な表現には本当に惚れ惚れする。
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展覧会はさらに、より一層複雑な身体表現である、アスリートたちのコーナーに入る。これはヘレニズム時代にアレクサンドリアで作られたとされる「レスラー」(紀元前 1世紀から紀元前 2世紀の作)。もともとは 2人のレスラーたちの格闘シーンであったらしく、このレスラーの右ひじには、相手の左手だけが残っている。永遠に一人で闘いのポーズを取るレスラー。
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これは、上に掲げた「アキレウスとケイロン」と同じくエルコラーノで描かれた壁画で、「ヘラクレスとテレフォス」(65 - 79年作)。それぞれの人物がかなりダイナミックな表情を見せていて、一目見たら忘れないようなものだ。画面右側に後ろを向いて立つヘラクレスは、褐色の肌をしている。お尻がリアルですなぁ (笑)。
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これは「狩をするアレクサンドロス大王」。なんと、紀元前 4世紀末から紀元前 3世紀初頭という古さなので、アレクサンドロス大王本人の死から未だ数十年という頃の作ということになる。今は失われてしまったが、プケファロスという名馬に跨っていたと考えられている。10cmほどの小品であるが、なんという躍動感であろうか。狩をする英雄の姿に、理想の人間を人々は見たということだろうか。
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題材的にミケランジェロに通じる、彼と同時代の作品から、「ゴリアテの首を持つダヴィデ」。作者不詳であるが、16世紀後半の作とされ、恐らくは箪笥などに嵌め込まれる用途で作られたとのこと。リアルさと幻影、力強さと繊細さが入り混じった素晴らしい作品である。
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そして展覧会は、ミケランジェロその人の作品へ。これは「ダヴィデ = アポロ」(1530年頃作) で、フィレンツェのパイジェルロ国立美術館蔵。この奇妙な題名は、ダヴィデであるかアポロであるか分からないということらしい。
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この作品はミケランジェロ円熟期の作品であるが、フィレンツェで制作されている途中で作家はローマに去ってしまい、未完に終わったという。制作には当時のフィレンツェの不安定な政情も背景にあるようで、ミケランジェロはこの作品を、ヴァローリという時の権力者に献呈し、ローマ教皇クレメンス 7世 (メディチ家出身) との間を取り持ってもらおうとしたとされる。というのもそれ以前ミケランジェロは、フィレンツェ市民軍に身を投じ、教皇軍に歯向かった経緯があるからだという。このクレメンス 7世は、あのヴァチカンのシスティーナ礼拝堂の壁画「最後の審判」をミケランジェロに描かせた人であり、その意味ではミケランジェロの思いは通ったということになるが、結局クレメンス 7世は、「最後の審判」の完成を見ずに 1534年に亡くなっている。一方、ミケランジェロがこの彫刻を献呈しようと思っていたヴァローリは、その後反メディチとなり、1537年に斬首されたという。ミケランジェロ自身はその後 30年近くも生き永らえるわけであるが、結局この彫刻を完成させることはなかった。未完作品の多いミケランジェロであるが、まるで大理石の中から生を受けて浮かび上がる途中のようなこの作品も、紛れもないこの偉大な芸術家の呼吸を感じさせるような、感動的なものである。この物言わぬ彫刻が、当時の激動の歴史をどのように記憶しているのか、訊いてみたいものである。
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そしてもう一体展示されているミケランジェロの作品は、「若き洗礼者ヨハネ」。これはウベダというスペインの小都市にあるエル・サルバドル聖堂に安置されているが、1495 - 96年の作というから、ミケランジェロが 20歳そこそこという若き日に制作したものだ。
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題名の通り、洗礼者ヨハネの若き日の姿であり、凛とした存在感を持っている。だが、この顔のまだら模様は一体どうしたことか。実はこの作品、スペイン内戦中の 1936年、無惨にも破壊されてしまったのだという。長い年月を経て、ようやく 2010年に至ってから、残された破片からもとの姿を復元する作業が始まったという。これは、破壊前のこの彫刻の写真。そして、この作品の残された 14の破片と、それを再現するために CG で作成された完成図 (もちろん、白い箇所が残存部分である)。なんとも痛ましい写真であるが、この作品がこの世に留まろうという執念を持っていたとすら感じる。それこそが、ミケランジェロが吹き込んだ命なのかもしれない。
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さて、ルネサンス時代に古代の遺跡が何か所も発掘され、その時代の芸術家に影響を与えたことは有名だが、とりわけよく知られているのは「ラオコーン」である。1506年にローマで出土したこの驚異の古代ギリシャ彫刻は、ミケランジェロにも衝撃を与えたことであろう。現在ヴァチカンで見ることのできるこの作品の表現力は強烈であり、美術好きなら、これを見ずに死ぬわけにはいかないという彫刻のひとつと言えるだろう。この「ラオコーン」には、発見された 16世紀以来のコピー作品が幾つかあるが、本展には、1584年にヴィチェンツォ・デ・ロッシという彫刻家が作成したコピー (ローマの個人所蔵) が出展されており、自由に写真を撮ることができる。以下は、がその場でスマホによって撮影した写真。周囲をぐるりと回ってみることができるのが有難い。まぁもちろん、オリジナルの迫力には及ばないが・・・。
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ミケランジェロという芸術家は、生涯を通して、自分に対して厳しい姿勢を貫いた人であったと思う。強い意志の力と、燃えるような芸術への情熱で、たったひとりの力で数々の奇跡的な作品を作り出した。だが、彼の創作の裏には、古来西洋美術で行われてきた人体表現の伝統が、脈々と流れていたこともまた確かだろう。天才のみが歴史を作るのではない。むしろ、有名無名の数知れぬ先人たちが築いてきた素晴らしい歴史がまずあって、その歴史を引き受けることで可能になった創作活動によって、永遠の命を築くことのできる人を、天才と呼ぶべきではないだろうか。

by yokohama7474 | 2018-08-27 23:57 | 美術・旅行 | Comments(2)

ミラクル エッシャー展 上野の森美術館

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エッシャーの名前は、いわゆる美術ファンにとどまらず、一般の人たちに広く知られている。上のポスターにあるような、上がっているのか下がっているのか、前なのか後ろなのか、表なのか裏なのか分からない階段や水の流れには、誰でも不思議な思いにとらわれる。あるいは鳥や魚などが連なって行くうちにかたちが変容して行くような図像は、現代の目で見ても大変に注意を引く。もちろん私自身も、子供の頃から彼の不思議なイメージの数々を本で見て、面白いと思っていた。だが、彼が西洋美術の中のどこに位置づけられるのか、あるいはもっと単純に、生没年がいつで、国籍はどこで、ファーストネームは何だとか、そんなことにも知識がないのである。もちろん西洋美術には「トロンプ・ルイユ」と呼ばれるだまし絵の手法は昔からあるし、エッシャー以外にもその種の作品は多い。だがこの人の作り出すイメージは本当にユニークで、唯一無二のものなのである。その割には、その人生についてはあまり知られていないのではないだろうか。この展覧会は、そのように人気のエッシャーの展覧会であったので、会場の上野の森美術館は大混雑。私も一度行こうとして、90分待ちと聞いて諦めた。そしてなんとか最終日の朝から並んでようやく見ることができた (私の場合、展覧会最終日に見に行くケースが最近多い)。東京では既に終了してしまったが、大阪のあべのハルカス美術館では、11/16 (金) から年越えで同じ展覧会が開催されるので、混雑はそちらの方が幾分かましかもしれない。

マウリッツ・コルネリス・エッシャー (1898 - 1972) は、生涯を通して専ら版画を制作したオランダの人。今年が生誕 120年ということになる。この展覧会も、生誕 120年記念ということで、エッシャーの作品を実に 330点も所蔵するエルサレムのイスラエル博物館から、その半数近い 152点が初来日するというもの。実はこの博物館を訪れても、エッシャー作品を常設展示しているわけではなく、保存の理由から、まとめて作品が公開される機会はないらしい。この展覧会は、2004/05年のスペイン、2014/15年の台湾に続き、三度目の大量公開であるとのこと。これが晩年のエッシャー。作品のイメージらしく、知的で物静かな人のように見受けられる。
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彼の作品は、「視る」ということの意味を考え直させるようなものが多いのだが、そこには生々しい人間の姿はまず出て来ることはなく、道化師のように作られた表情の人物、魚や鳥などのデザイン化された動物、建造物や風景が描かれており、時には数学的な要素も持ち合わせている。このような展覧会ではもしかすると手書きのメモや試行錯誤したデッサンなどが出展されているかと期待したが、一部、版画の習作としての下絵があったくらいで、創作の生みの苦しみを感じさせるようなものは何もなかった。やはりエッシャーは、その完成された世界を楽しめばよいと、ここは一旦割り切るとして、個々の作品を通して可能な限り彼の思いに迫ることとしよう。この展覧会で最も初期の作品はこの「貝殻」(1919/20年作) である。ハールレムという街の建築装飾美術学校に入学して建築を学び始めた頃の作品。その硬質な視覚イメージは、ただ対象を観察して忠実に再現するのではなく、自らの目というフィルターを通して対象を見ていることは明らかだ。またこれは、レンブラントの同名の版画 (1650年作) が着想源になっているらしい。これも下に画像を掲げておこう。
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デッサンなどは展示されていなかったと書いたが、それでもこれだけの数の作品を見ることで、エッシャーの画業の発展を辿ることはできる。時代順の展示ではなかったので、ここで採り上げる作品には時代の前後もあるが、その点はご承知願いたい。さて、19世紀の終わり頃に生を受けたエッシャーであるが、よく知られている錯視という分野で洗練された作品を作り出したのは、第二次大戦後である。この「バルコニー」という作品は 1945年の作。エッシャーは何度かイタリアを訪れているらしく、これもアマルフィ海岸で見た光景に触発されているようだ。だがこの、水滴によって歪んだような建物を思い立つきっかけは何であったのだろう。
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エッシャーの興味は、人間の暮らしというよりは、幾何学的なものや静かでいて神秘的なものに存在したことは明らかであるが、この 1946年作の「画廊」で彼はさらに大胆な視覚の冒険を行っている。彼の作品にしばしば登場するペルシャ神話の人面鳥 (シームルグというらしい) が上下左右にとまっているが、さてこれは、どちらが上でどちらが下なのか。ありえない空間を演出する人面鳥は、なんとも神秘的。
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これは 1950年作の「対照『秩序と混沌』」。作者自身の言葉によると、「一分の隙もなくただ秩序だった美しい星型十二面体がシャボン玉のような透明な球体と合体し、その周りを廃物やくしゃくしゃのオブジェのような無用なものの集合で囲った絵画」とのこと。その通りなのだが、硬質で無機的な物体の周りを、何やら人間の活動の結果のような物体 (但し主体としての人間の姿は皆無) が囲んでいるというのは、ちょっとシュールな感じがする。
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立体と立体が組み合わさるタイプの作品も、エッシャーには多い。これは 1949年作の「二重の惑星」。無機的な構造物の中に爬虫類が何匹かいるのはすぐ分かるが、よくよく見ると、数ヶ所では人々が集まったり眺望を見ていたり、談笑していたりする。爬虫類の顔は描かれているのに、人の顔は描かれていない。
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この 1952年作の「重力」になると、さらに大胆でダイナミックな構図になっている。様々な角度に顔や足を突き出す爬虫類は、ユーモラスでグロテスクで生命力がある。
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この 1956年作の「版画画廊」になると、エッシャーのスタイルが完全に確立しているように見える。歪んだ空間を挟んで、左側では室内の額の中に収まっている版画は、右側ではギャラリーの屋外の風景になっている。中にいるのか外にいるのか分からない、不思議な空間のねじれ。
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だがエッシャーの作品には、何か不思議な宗教性があるような気がしてならない。実際に若い頃には聖書を題材とした作品を制作していて興味深い。これは 1922年作の「小鳥に説教する聖フランチェスコ」。ちょっとドイツ表現主義を思わせるところがある。
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また彼は 1925年に、天地創造の 7日間を描いた連作を発表している。これは第二日。ダイナミズムよりも、雨や海の形状の面白さを感じさせると思う。
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これは天地創造の第五日。鳥と魚というモチーフは、彼が後年も頻繁に使用したものだが、ここでは変容する気配は未だない。海から陸にかけて横線が描かれているのも、水と空気の差異を認めていないようで面白い。
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これは 1938年作の「バベルの塔」。ここでは未だエッシャー特有のねじれた空間は現出していないが、彼の指向する建物の形態や、版画の技術は充分に理解することができる。
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この 1935年作の「地獄」は、若干変わった作品。もちろんこれは、奇想の画家ヒエロニムス・ボスの「地上の楽園」に登場する樹木人間。エッシャーがボスを模写していたとは知らなかったが、上記のレンブラント同様、自国オランダの生んだ偉大なる先輩画家に対する敬意も、そこにはあるだろう。
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上述の通り、エッシャーはイタリア旅行で数々の作品を制作しているが、これは 1927年作の「ローマ、ボルゲーゼの聖獣」。前景の怪物と後景の雨降る街並みの間には何ら交互関係はないが、その点が面白い。彼が多くの作品で爬虫類やドラゴンのようなキャラクターを登場させるのは、ヨーロッパ文明の古い記憶によるものであろうか。
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街を見下ろすのは不思議な存在の生き物かもしれないが、街中を歩き回って風景をエッシャーが捉えるときには、その風景はシュールなまでに無人。これは 1930年作の「スカンノの街路、アブルッツィ地方」だが、実はこの絵は全くの無人ではなく、真ん中奥と手前右側に、それぞれ腰かけた人物たちが見える。手前右側の人物は編み物をしているようだが、そこには人間的なものを感じさせる要素はほとんどない。
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彼がものを「視る」目には、幾何学的な興味とともに、時に何か、人智を超えた存在への意識があるように思う。この 1931年作の「アトラニ、アマルフィ海岸」を見ていても、そんな思いを抱くのである。
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この 1937年作の「静物と街路」は、手前の方が室内から見た窓際に置かれた静物かと思いきや、よく見ると前景と後景の間には切れ目がなく、つながっている。これもエッシャー特有のあり得ない空間なのだ。
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これまで見てきた通り、エッシャーが人物を描くことは非常に稀なのであるが、若い頃には例外が結構ある。これは、左が「子供の頭部」(1916年作)、右が「赤ん坊」(1917年作)。未だ 10代の作であるので、描かれているのは息子ではない。もしかすると弟なのであろうか。
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これが「自画像」(1917年作)。シルエットがスタイリッシュである。
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こちらも自らを描いたもので、「椅子に座っている自画像」(1920年作)。建築学を学ぶ学生であった彼は、ド・メスキータという師の影響で木版画を作り始めた。ここでの自画像は、何やら思いにふけっているが、それは自らの将来なのであろうか。エッシャーとしては異色の作品である。
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これは「妻イエッタの肖像」(1925年作)。前年に結婚したばかりの妻の肖像であるが、浮かれたところのない作品であるのがエッシャーらしい。ほつれ毛やメランコリックな表情は、新婚のイメージとは程遠いものである。
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その自分と妻をモデルにしたシュールな作品が、この「婚姻の絆」(1956年作) である。これ、リンゴの皮をむいたような構造であるが、よく見ると右の顔と左の顔は一本の帯でできている。なるほど、これが婚姻の絆であるのか。
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人と人の出会いを描いたという点では、この「出会い」(1944年作) も同様。だが、ここでは黒い悪魔のような姿と、白い放心状態の人の姿が、球状の深淵から浮かび上がってきて、左右に回りながら交錯しあう。戦争がその創作活動に一切影響しなかったと見えるエッシャーであるが、ここには何か、形態の面白さ以上のメッセージがあるように思う。
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エッシャーはまた、数々の広告も手掛けている。ただ、考えてみれば、1970年代まで生きた彼であれば、もっと大規模でモダンな広告への関与があってもよかったのに、ここ展示されていたのは、1930 - 40年代の小規模なものだけだ。これは 1944年作の「レストラン『インシュリンデ』のためのエンブレム」。漢字もあしらわれているが、これはハーグにあった中国・インド料理レストランのためにデザインされたもの。
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これは 1920年作の「西部劇」。西部劇に見入る群衆がなんともユーモラスで、エッシャーのある一面を見ることができる。
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この「水没した聖堂」(1929年作) はまた全く異なるタイプの作品で、抒情的であり空想的であり神秘的。
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これは 1935年作の「写真球体を持つ手 (球面体の自画像)」。なんという視覚の冒険であろう!! 彼は本作の中央に位置する自分について、「彼がいくらよじったりひっくり返ったりしても、その中心点から逃れられない。彼のエゴはゆるぎなく彼の世界の核であり続ける」と語っている。
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このような宿命論は、この「眼」という作品 (1946年作) にも如実に表れている。精密に描き写された右目の、その瞳の中には、なんとドクロが写っている。制作年を見ても、戦争の影響があると考えるのが自然であろう。彼に木版画を教えた師であるド・メスキータはユダヤ人であったため、家族とともにアウシュヴィッツに送られ、そこで亡くなったという。感情的なものをほとんど感じさせないエッシャーの作品には、人類が起こした悲劇への恐怖や怒りが秘められているということだろうか。
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これは 1952年作の「水たまり」。同じ反射をテーマとしていても、上の作品たちとはまた違っていて、現実にありそうな、でもちょっと不思議な光景を描いている。濡れた地面にタイヤと靴の跡がつき、そこに溜まった水に木が反射している。丸く見えるのはもしかしたら月だろうか。もしそうなら満月だ。これは、満月に照らされた夜の光景ということになる。
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さて、展覧会ではこの後はエッシャーの代表的な「錯視」を描いた作品の数々が展示されていた。もうあまり余分な感想は必要ないだろう。これは 1941年作の「トカゲモチーフの平面正則分割」。
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これは「空と水 I」(1938年作)。
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「循環」(1938年作)。うーん、面白い。
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これは「階段の家」(1951年作)。この室内空間の捻じれは実に圧倒的なのであるが、ここで縦横無尽に歩き回っている六本足の虫は、Curl-up (日本語で「でんぐりでんぐり」とされている)。
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この後は戦後に描かれたエッシャーの代表作群である。「描く手」(1948年作)。「相対性」(1953年作)。「ベルヴェデーレ (物見の塔)」(1958年作)。「上昇と下降」(1960年作)。「滝」(1961年作)。いずれもよく知られている。
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このように、上がっているのか下がっているのか、前なのか後ろなのか、表なのか裏なのか分からない階段や水の流れには、誰もが興味を引かれる。これだけユニークなスタイルを突き詰めた画家も、そうはいないであろう。だがその裏に、自分のスタイルを求めて試行錯誤する人間的な悩みや、戦争に対する怒りもあったものと思う。数々の作品を目にすることで、そのようなことを感じられたのは、実に貴重なことであった。それから、実はエッシャーは、意外な日本との縁があるのである。彼自身は来日したことはないはずだが、実は彼の父、ヘオルフ・アルノルト・エッシャーは 1873年から 5年間、日本に滞在していたことがあるという。明治政府が日本の港や水路を近代化するために招聘した「オランダの土木技師」のひとりであった。彼は日本での記憶を詳細に書き留め、息子とも共有したという。それをもってエッシャーの作品が日本的であると言う気はないが、高い版画技術を持っていた我が国の美意識が、どこかでエッシャーに影響を与えていたとしても、決しておかしくはない。そう考えると、日本でのこの展覧会には、さらに深い意味があると思われてくるのである。少なくとも、エッシャーがオランダ人であるということくらいは、これを機会に覚えておきたいものだ (笑)。

by yokohama7474 | 2018-08-19 22:56 | 美術・旅行 | Comments(0)

東京都 国分寺市・立川市 谷保天満宮、普済寺

このブログで既に採り上げた、今年の 7月15日の準・メルクル指揮国立音楽大学オケの演奏会に向かう途中、せっかくだからそのあたりの歴史的な場所を訪れたいと思った。東京都下の西部の方にはあまりなじみのない私であるが、自宅の近くを流れる多摩川を遡って行ったあたりということもあって、いつも興味があるのである。実際その地域を訪れて記事にしたことも何度かあるし、このブログを始める前にも、この地域の重要な歴史遺産はそれなりに訪れてはいる。だが、調べてみて思うことには、東京都といっても東西に長いし、江戸が大都市として発展するよりも遥か昔、このあたりには既に歴史に登場しているのだということが分かる。今回は、そんな文脈において、初めて訪れた場所を 2件、ご紹介する。実は、事前に当たりをつけていた場所はほかにもいくつかあったものの、道路が混んでいて、予想以上の時間を要したので、2箇所だけにならざるを得なかったという事情がある。なのでまたいつか改めて出直したいとは思っているのだが、それでもこの 2箇所を見ることができただけでも、歴史探訪としてはかなり充実している。最初に訪れたのは、国分寺市にある谷保天満宮。
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この「谷保」は、「やほ」ではなく「やぼ」と読む。そう思うと、この神社の前の交差点を標識に、何やら "Yabo" の "b" の箇所に修正の跡が見えるのは、むむむという感じなのである (笑)。地元でも間違える読み方なのだろうか。ま、そんなヤボなことは言わないでおこう。
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実はここ、関東最古の天満宮なのである。ここでおさらいだが、常識に属する事柄として、全国に沢山ある天満宮、つまりは天神様は、誰をご神体として祀ったものだろうか。答えはこの人である。
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そう、菅原道真 (845 - 903)。遣唐使の廃止を提言したことで、その後の日本の文化の国風化を決定づけた点、日本史上でも重要な人であるが、讒言により九州大宰府に左遷されてしまう。そして、死後怨霊として祟りをなしたとされ、天神として神格化される。この天神を祀った神社が、全国の天満宮なのである。たまたま前々回の記事でも、香川県高松市にある由緒正しい天満宮をご紹介したが、この谷保天満宮も、実は東日本最古の天満宮という、大変由緒ある場所。道真の左遷と同時に武蔵国に配流された三男の菅原道武が創建した天満宮なのである。面白いのは、今の境内は、甲州街道沿いに鳥居が立っていて、そこから坂を下ると本殿があるという構造になっている。だが江戸時代の古道はもっと下の方にあったとのことだし、そもそも当初の場所からは移転されているとのこと。だが、この鬱蒼たる森のような境内には神秘感が満点だ。それもそのはず、いわゆる鎮守の森、この神社の境内の「社叢 (しゃそう)」は、東京都指定の天然記念物になっているのである。放し飼いの鶏も、どこか誇らしげに見える。
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そして見えてきた本殿の前には、天満宮定番の牛の彫像があるが、モダン彫刻風の石造のものと、伝統的な青銅製のものとがあって、人々の信仰を思わせる。
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本殿はそれほど古いものではないのか、文化財指定はされていないようだが、その欄間の彫刻は見事である。
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この本殿に向かって左側の建物の 2階に宝物殿があって、日曜日には無料で開放されている。
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ここで見ごたえがあるのは、2件の重要文化財であろう。まず、1275年に作られた、藤原経朝 (つねとも) の揮毫になる扁額である。「天満宮」と書いてある。経朝は、あの有名な「三蹟」のひとり、藤原行成の 9代目の子孫であるらしい。なるほど味がある字だし、この神社の長い歴史を物語る遺品である。
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それから、やはり重要文化財の狛犬。もともと本殿内に祀られていたもので、鎌倉時代らしい、活き活きとした作品である。よく阿吽一対がこれだけよい保存状態で残ったものである。
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さてこの谷保八幡宮はまた、交通安全発祥の地と言われているらしい。実は明治の時代に、宮様が先導する何台かの自動車による「遠乗会」というドライブツアーがあり、その目的地がここであったことによる。その宮様とは、有栖川宮威仁 (たけひと) 親王 (1862 - 1913)。あの東京広尾の有栖川記念公園は、この宮家の元御用地。以下の 3つめの写真の左側が、その威仁親王である。
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さて、次に訪れたもう 1つの目的地は、これがまたすごい場所なのであった。立川市にある、普済寺である。もともとここは、立川という地名のいわれとなった、立川氏の城館があった場所で、この寺は、1353年に立川氏一族の菩提寺として建てられた。そしてこのお寺の三門に辿り着くと、なぜか、菊のご紋があしらわれた扉の奥に聖徳太子像が見える。
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そして、この表示である。
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こ、国宝!! そうなのである。この寺にはなんと、国宝が存在している。それは上にある通り、六面石幢 (せきとう) というもの。聞き慣れない言葉だが、一体どういうものなのか。本の説明では、「仁王像などを陽刻した秩父石の板石 6枚を組み合わせ、上に笠石と宝珠を乗せた」ものである。だが、これでもまだイメージが沸かないであろう。これは、立川民俗記念館にあるレプリカの写真をお借りしてきたもの。形状はよく分かる。
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そしてここに陽刻、つまり、平らな面から浮彫されて表されているのは、ここで拓本に取られているような六面。つまりは、四天王と阿吽の仁王ということである。1361年に造立された。
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実際この場所に行ってみて分かったことには、日本に国宝数々あれど、彫刻作品として、展覧会で見る機会がまず望めないものは、これ以外にはほとんどないのではないか (もちろん、奈良の大仏とか鎌倉の大仏を除いての話だが)。なぜならこの国宝は、こんな場所に保管されているからだ。
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寺の裏手にある、見たところかなり年季の入った鉄筋の小堂であるが、内部に入ることはできないものの、外を一周することができる。重さがどのくらいあるのか分からないが、そう簡単にはこの場所から動かすことはできないだろう。立川の地にどっしり根をおろした国宝なのである。では私が周囲から撮影した写真で、少しでも臨場感を持って頂きたい。
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これはなかなかに珍しい作品であり、現地まで足を運んで見ることができて、大変に有難いことであった。実はこのお寺、1995年に放火に遭っていて、本堂や、開山である物外 (もっかい) 禅師坐像 (重要文化財であったという) などを焼失してしまったらしい。だが、その後本堂は見事に再建され、境内もこのようにきれいに整備されている。
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関東にもまだまだ訪れていない歴史的な場所がある。これからもそのような場所を訪問することで、歴史の断片に思いを馳せることとしたい。でもこの日は、暑かったー。

by yokohama7474 | 2018-08-18 02:24 | 美術・旅行 | Comments(0)


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