川沿いのラプソディ


川沿いの住まいから、音楽、美術、映画その他文化一般を語りつくします。
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メモ帳

カテゴリ:美術・旅行( 246 )

没後 160年記念 歌川広重 太田記念美術館

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前項に続いて、浮世絵の展覧会に関する記事である。だがこれも、1ヶ月以上前に終了してしまっている展覧会。前回の芳年展が 2ヶ月前の終了であったことを思うと、1ヶ月ならまだまし (?) という考え方もできるものの、それでも、私がここで書く内容に触発されて、実物を見たいと思う方が一人でもおらられば、その方に私は不義理をしたことになってしまう。その点にはあらかじめ深くお詫びするとして、この著名な浮世絵師の世界を覗くこととしてみたい。まずこの歌川広重 (1797 - 1858) であるが、美術ファンのみならず、一般にもその名を知らない人は、ほとんどいないに違いない。それはひとえに代表作「東海道五十三次」の成功によるものであろう。私がそのシリーズの実物をすべて見たのはかなり最近のことではあっても、実はその作品名は子供の頃から知っていた。それは永谷園のお茶漬けのおかげなのかもしれないが (笑)、いずせにせよ、その「東海道五十三次」を見て、感嘆し感動した経験は大変に多い。広重没後 160年を記念して、日本を代表する浮世絵専門美術館である太田記念美術館で開かれた館蔵品展においては、その「東海道五十三次」からの出展はごく一部で、いわゆる広重のイメージとはちょっと異なる作品も多く見ることができた、貴重な機会であった。因みに彼の名前であるが、以前は本名の苗字を使って、安藤広重という呼称が一般的であったかと思うが、広重は号であるため、この呼称には根拠がないらしく、今では歌川姓で呼ぶのが通例になっているようだ。ではせっかくなので、その「東海道五十三次」から行こう。この 2枚はいずれも出発地点の日本橋を描いたものだが、ひとつは人気のまばらな「朝之景」、もうひとつは賑やかな「行烈振出」。前者が 1833年頃の初版、後者は 1835年頃の変わり図。シリーズ冒頭の雰囲気を変えてみた広重の狙いは、一体何だったのだろうか。
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展覧会の最初では、大変珍しい作品を見ることができた。それは、「琉球人来貢図巻」という作品で、その題名の通り、琉球からの使者を描いた絵巻物。署名によると 1803年の作。これが本当だとすると、広重 9歳の作ということになるが、さて、どうだろう。昔の記録でもそのような広重幼少時の作品の存在を伝えるものがあるというが、さすがに学者の間でも、これが本当に 9歳の広重の筆になるものだとする説は少ないようだ。ただ、そうであっても、後世の人たちの広重への尊敬を感じることができる逸話である。
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もちろんどんな画家も、修業時代を経て自らのスタイルを確立していくわけであるが、天才広重とても例外ではなく、特に、風景画に本領を発揮するまでの道のりには、一種の意外性もある。これは「初代中村大吉の清盛の乳人八条局 初代中村芝翫の安芸守平清盛」(1818年作)。21歳の時の作ということになるが、要するに芝居絵であり、天才性を感じさせるようなものではない。
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若い頃は様々な仕事を請け負ったものであろう。これは「浅草奥山貝細工 猿に鶏」(1820年作)。浅草で開かれた貝細工の見世物を記録したものであるらしい。
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これらはむしろ稚拙と言いたくなるもの。「武蔵坊弁慶 土佐坊正俊」と「五郎時宗 小林義秀」(1818 - 30年頃作)。図録の解説でも、これらがいかなる場面であるかの説明はあっても、作品の出来についての言及はない (笑)。
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人々の姿と風景のコンビネーションから、来るべき傑作「東海道五十三次」の片鱗を見たいものだが・・・。この「浅草観世音千二百年開帳」(1827年作) からは、未だあまりそれが感じられないのである。
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一方、このように女性だけを描いた作品は、広重としては意外なことに、結構よく出来ている。「外と内姿八景 桟橋の秋月 九あけの妓はん」(1818 - 30年頃作) という作品。情緒がある。
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広重が風景画を描き出したのは、上の絵と同じ文政年間の末期、彼が 30代前半の頃らしい。これは「東都名所拾景 日本橋」で、彼の最初期の風景画と見られている。上で見た「東海道五十三次」の日本橋とは異なり、人の気配のない静かな雪景色である。広重らしい抒情があると言えばあるような。
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同じシリーズから「道灌山」。はいはい、知っていますよ。今でも西日暮里近辺から山手線を見下ろすとこんな感じ。あ、田んぼや茅葺の民家はありませんけどね (笑)。
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これは「東都名所 高輪之明月」(1831年頃作)。これまでの作品にない思い切った構図であり、この後広重の才能が一気に開花することを予感させる。
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そして奇跡の連作「東海道五十三次」(1833年) を経て、様々な風景画が発表されることとなる。これは「京都名所之内 祇園社雪中」(1834年頃作)。素晴らしい情緒が画面からしんしんと伝わってくるではないか。
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同じシリーズの「四条河原夕涼」。本質的には今も変わらぬ、鴨川の夏の情緒である。
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これはまた見事な作品で、「木曽海道六十九次之内 須原」(1836 - 37年頃作)。さすがスバラという地名だけあって素晴らしいなどと言っている場合ではない (笑)。突然降り始めた雨の中、雨宿りする人たち。先を急ぐ人たち。遠景のシルエットは最高のセンスであると思う。
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これは「金沢八景 内川暮雪」(1835 - 37年作)。やはり広重の天才は、雨や雪という気象現象によってより発揮されるのではないだろうか。
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あっ、これは我が家から通らぬ池上の地にある本門寺ではないか。「江戸近郊八景之内 池上晩鐘」(1836 - 37年頃作)。今でこそ東京 23区内だが、当時は「江戸近郊」であったことがよく分かる (笑)。
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これも江戸を代表する大寺院のひとつ、増上寺である。「江都名所 芝増上寺ノ図」(1835 - 37年作)。
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これは「東都名所 両国橋花火之図」(1839 - 42年頃作)。ここにはあまり天才的な情緒表現はないものの、花火の描き方に工夫が見えて面白い。
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展覧会にはいわゆる浮世絵という範疇とは異なる版画も展示されていて、興味尽きないのであるが、これは「江戸近郊名所 多摩川ノ里」(1830 - 44年頃作)。まさしく我が家のあたりの川沿いの風景だが、もちろん「江戸近郊」である (笑)。うっすらとした色合いが美しく、広重の違った一面を見る思いである。
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これは貴重な広重の肉筆画で、「日光山華厳ノ滝」(1849 - 51年頃)。天童広重と呼ばれる範疇であるらしいが、その理由は、天童藩 (今の山形県天童市) から依頼された作品であるかららしい。これはまた浮世絵と違って迫力を感じさせるもの。こんな広重があるとは知らなかった。
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肉筆画をもうひとつ。「御殿山の月」(1854 - 58年作)。人為的だがのどかに見える風景だ。
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これは有名な「名所江戸百景 亀戸梅屋舗」(1857年作)。
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なぜに有名かというと、かのゴッホが模写しているからである。この展覧会には出品されていないが、ご参考までに図像を掲げておこう。私は本物を見たことがあるが、この、前景ど真ん中に枝を持ってくるという大胆な構図にゴッホが感激した様子が伝わってきて、それはまた、左右に頑張って漢字を書いている点にも認めることができる。
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これは「富士三十六景 駿河湾夕之海上」(1858年作)。広重没年の作であるが、富士山を描いた 36枚シリーズといえば、当然葛飾北斎 (1760年生まれなので、広重よりも 37歳上) の「富嶽三十六景」があって、これもその影響下にあることは間違いないだろうが、迫力ある思い切った構図のはずのこの作品が、その思い切りという点で北斎に及ばないのは、致し方ないように思う。広重はやはり、抒情の人なのだろう。
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これは「獅子の児落し」(1832 - 35年頃作)。大胆な筆致で描かれた岩のデフォルメが、未知の広重を教えてくれる。肉筆画と思いきや、版画なのである。
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広重の花鳥風月も、なかなか捨てたものではない。これは「雪中芦に鴨」(1832 - 35年作)。これも肉筆画ではなく版画である。
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美人画も。「江戸むらさき名所源氏 見立て浮ふね 隅田川の渡」(1844 - 46年頃作)。おぉ、これは粋である。
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芝居絵。「忠臣蔵 夜討」(1843 - 46年頃作)。現実の再現ではなく、芝居の中の情景であることがよく分かる。
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森閑とした情緒をその身上とする広重と言えども、ユーモラスな作品を沢山残している。これなどは、見ただけで笑ってしまうのだが、「道中膝栗毛 四日市泊り」(1836 - 37年作)。もちろん「東海道中膝栗毛」を題材にしていて、宿で夜這いをかけようとした弥次喜多が、落ちてきそうになった棚を支える羽目になって失敗するという話 (笑)。
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これなども私は好きである。「童戯武者尽 酒呑童子 武蔵坊弁慶」(1854年作)。戯画のシリーズであるが、上では源頼光と渡辺綱が、彼らが退治した酒呑童子と、羅生門の鬼の切り落とされた腕を、見世物にしているところ。下は、弁慶が自らのゆかりの品を売りに出していて、その売り物を義経が冷やかしているところ。なんと、広重はこんなものまで描いていたのだ!!
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これは無款なので作者は分からないようだが、当時の清元の演奏を描いた「蓮台高名大一座」(1858年頃)。当時の雰囲気を知るために興味深い史料だが、ここで清元を聴いているのは著名人 29名で、その多くがこの年にコレラで亡くなったという。やはりこの年に亡くなった広重の死因は不明らしいが、この絵の右下に彼も描かれている。これは、亡くなった著名人たちの追善供養の作品らしい。
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その広重の「死絵」、つまり亡くなった際に追悼のために刊行された肖像画がこれだ。彼の死の年、1858年の作品で、作者は歌川国貞 (三代豊国)。当時の広重の人気がよく分かる。
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このように、ただ創意に満ちた街道の風景だけでない、広重の多彩な画業を触れることのできる展覧会であった。前項の芳年とは全く異なる個性ではあれ、共通点も多々見出すことができたのは収穫であった。

by yokohama7474 | 2018-12-05 01:02 | 美術・旅行 | Comments(0)

芳年 激動の時代を生きた鬼才浮世絵師 練馬区立美術館

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幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師、月岡芳年 (1839 - 1892) については、以前ほかの展覧会について記事を書いたことがある。この展覧会は、終了してから 2ヶ月以上経過しているもので、例によって例のごとく、終了してからご紹介しても詮無いことかもしれない。だが、私がなんとかこの展覧会を見ることができたのは、会期の最終日。なので、いずれにせよ、会期が終了してからの記事になることは致し方なかったと、言い訳をさせて頂きたい。本展の会場の練馬区立美術館は、私のお気に入りの場所であり、このブログでご紹介できた展覧会にせよ、それ以前に見た展覧会にせよ、およそここで見た展覧会で失望したことはない。このように、カラフルな動物のオブジェが周りを取り巻いている美術館である。
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私が芳年の名を知ったのは学生時代だから、今から 30年以上も前のことであろうか。これも以前このブログで触れたことがあるが、落合幾芳とこの芳年が組んで幕末のどん詰まりの頃に発表した、殺しなども残酷なシーンばかりを集めたいわゆる「無惨絵」の版画集で、その名を知ったのであった。その後この画家を知るに及んで、彼が「血まみれ芳年」と呼ばれた理由がよく分かるようになった。だが、その後さらに彼の画業を知るにつれ、ただ単に血まみれの作品だけではなく、そのスタイリッシュな感覚や、見る者を圧倒する (師である歌川国芳譲りの) ダイナミズムがいかに高度なものであるかを理解することになった。この練馬区立美術館での芳年展では、展示品の入れ替えを含めて実に 260余点の彼の作品を集めたものであり、この規模の芳年展は次にいつ開かれるか分からないほどである。よく知られている通り、芳年は 34歳頃から神経衰弱を患い、その病気から回復してからは、「大蘇芳年」と自称したのである。これは彼が他界した 1892年、金木年景という画家が描いた芳年像。
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芳年の作品群の迫力を少しでもご紹介したいのだが、展覧会の図録から撮影すると、どうしても間に線が入ったり、折れ曲がったりして、ちょっと見にくいかもしれないが、その点はご容赦願いたい。というわけで、まずは名刺代わりの一発、「文治元年平家の一門亡海中落入る図」(1853年作)。
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そして一気に行こう。「那智山之大滝にて荒行図」(1859-60年作)。「楠多門丸古狸退治之図」(1860年作)。「頼光四天王大江山鬼神退治之図」(1864年作)。
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さて、どうだろう。これらはいずれも 20代の若者の作品で、幕藩体制が今にも倒壊しそうな時代に描かれたもの。私はこれらの作品を見て身震いする。ちょうど (もうすぐ終わろうとしている) 今年 2018年は、明治元年から 150周年。これまで伝説的に語られてきた明治維新についても多面的な見方がされてきている昨今だが、ひとつ言えると思うのは、幕末とは、人々が怪物や超常現象に何らかのリアリティを見出していた時代ではないだろうか。上に見る歴史的な逸話は、日本人の好むストーリーテリングの産物であると思うし、その感覚は、芳年の生きた明治にまでは維持されていたのだと思う。以下も幕末の作品で、「美勇水滸伝」というシリーズから、「高木牛之助」(1866年作) と「黒雲皇子」(1867年作)。どんな話だか知らないが、ここで語られているストーリーのおどろおどろしさはよく分かる。
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芳年のすごいところは、このような迫力ある英雄譚だけではなく、こんな作品も描いているところである。これはある意味ではスタティック (静的) な作品だが、この群像を破綻なく描くには大変高度なテクニックを必要とするだろう。
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かなり突飛な比較であることを承知で、私の個人的な連想によって、15世紀、初期ルネサンスの画家、ウッチェロの作品を比較の対象としてご紹介しておこう。
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それから、無惨絵とは異なる彼の個性のユーモラスさを示す作品もある。これは「正札附俳優手遊」(1861年作)。これはおもちゃ屋の店先なのであるが、すべて役者の似顔絵になっているのである。当時これを見た人々は、あれこれの役者の名前を口にして、盛り上がったに違いない。
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さて、この展覧会には、上述の通り、兄弟子の落合芳幾と共作した残酷絵のシリーズ、「英名二十八衆句」28展が展示されていたが、さすがにこのシリーズの多くはちょっと刺激的過ぎて、このブログで紹介するのは気が引ける (笑)。なのでここでは一点だけ、「団七九郎兵衛」(1866年作) をご紹介するにとどめよう。言うまでもなく、先に文楽公演を記事した「夏祭浪花鑑」のクライマックス、主人公団七が泥まみれになって義父を殺害する、おどろおどろしいシーンである。うーん、実にエグい。まさに血まみれ芳年の面目躍如である。
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そして、明治元年の作品。長い題名で、「清盛入道布引瀧遊覧悪源太義平霊討難波次郎」(1868年作)。縦に大変長い作品であるが、上から順番に 3シーンをご覧頂くことで、その迫力の幾許かは伝わるであろう。これは題名の通り、源義平 (頼朝や義経の異母兄) の亡霊が、彼を斬首した難波次郎という人物を雷を使って殺す場面。その難波次郎、平清盛のお供で布引の滝 (現在の神戸市に現存) を見物に行っていて、被害に遭った (?) という。
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これは「豪傑奇術競」(1869年作) の組物。スーパーパワーを持った人物たちが集っている絵であるが、幕末から明治への激動の時代には、人々の社会に対する不安がこのような作品を求めたのではないだろうか。
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本当に芳年の凄まじい筆力に圧倒されるばかりであるが、そにはまた、時代の息吹が熱いほど感じられる。これは「一魁随筆」というシリーズの「燕人張飛」(1872年作)。「三国志」の英雄を描いているが、馬の描写にはリアリティを持ちながらも、容貌魁偉な人物のデフォルメが忘れがたい印象を与える作品だ。
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これも同じ「一魁随筆」シリーズから「山姥 怪童丸」(1873年作)。これは西洋風の表現で、育ての親である山姥と、彼女に甘えて手を伸ばす怪童丸、つまり金太郎が、まるで聖母子のようである。
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こちらは近代的題材に西洋風の技法を使ったもの。「東京名勝高輪 蒸気車鉄道之全図」(1871年作)。実に明治 4年!! である。日本で初めて鉄道が開通したのが新橋 - 横浜間であるのは常識に属することであるが、それは実は明治 5 (1872) 年のこと。実はこの作品、その前年に書かれているのだ。鉄道の試験はもちろん行われていたのだろうが、これを見た一般の人たちの驚きたるや、いかなるものであったろうか。芳年はまさに、近代化がメリメリと音を立てて進んで行く様子を、リアルタイムで絵画にしているのである。
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かと思うと、江戸時代に戻ったようなこの作品は、実は明治 7 (1874) 年の作品で、「競勢酔虎伝 大矢野作左衛門」。このシリーズは、彰義隊や旧幕府軍を題材にしたシリーズであるらしく、この作品の人物は、島原の乱の首謀者であるが、実は榊原健吉という幕府方の武士である由。極めてダイナミックな構図である。芳年はこの頃、上に書いたような「大蘇」の号を使い始めたようである。
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明治の頃であるから、天皇家の神格化という大きな流れがある。これは「大日本史略図会 第一代神武天皇」(1880年作)。
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これは「義経記五條橋之図」(1882年作)。デフォルメ感に痺れますなぁ。
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これは有名な「新容六怪撰 平相国清盛入道浄海」(1882年作)。清盛が立ち向かっているのは、庭に積もった雪が作り出した巨大なドクロである。40年ほど前に描かれた歌川広重の作品の翻案であるようだが、清盛と巨大ドクロがにらみ合って相対している点に、より緊張感がある。
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次は注目だ。これは「西郷隆盛切腹図」。もちろんその題名の通り、不平士族を率いて西南戦争を起こした西郷隆盛が自刃するところである (右側には桐野利秋と村田新八)。ちょうどこれから、大河ドラマ「西郷どん」でもストーリーがそこに入って行くので、なんとかそれに間に合うタイミングでこの記事を書くことができて嬉しい (笑)。そしてこの作品の制作年を見てビックリ!! なんと、明治 10 (1877) 年、つまりは事件が起こったその年なのだ。つまりこれは、リアルタイムで西郷の死を世間に知らせる目的で作成されたものであろう。史実と異なり海の上での自決となっているのは、そのような誤報が地元から発されたかららしい。つまり、ニュースを世間に伝える手段とてし錦絵が使われていたことを示していて、興味深い。西郷の顔は当時の人は知らず (いや、結局写真を残さなかったので本当の容貌は不明のままだが)、剛毅なイメージに人々が共感したのだろう。そして、ソックスが意外とオシャレである (笑)。
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もっとすごいのはこれである。翌 1878年に描かれた「西郷隆盛霊幽冥奉書」。その名の通り、政府に敗れた西郷が幽霊として現れ、建白書を差し出そうとしている。西南戦争直後、西郷が逆賊であった頃から、彼の志は世間の人々からこのように評価されていたということだろう。これも時代の雰囲気がよく感じられる作品だが、それにしても不気味な作品である。
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さらにその翌年、1879年の「日本武名伝」では、ど真ん中に西郷隆盛が描かれている。以下はその一部であるが、左から 2人の立派な髭の人物が西郷。1人を挟んで、彼の方を向いて座っているのが、弟の西郷従道である。西南戦争で「逆臣」となった西郷隆盛に恩赦が与えられるのは、この絵の 10年後であるが、その当時から、こうして弟の従道 (この年陸軍卿。因みに大久保利通は前年に暗殺されている) とともに、当時から庶民に慕われていたということであろうか。
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芳年のユーモアのセンスに戻ると、これは「芳年略画 応挙之幽霊 / 雪舟活画」(1882年作)。もちろん、幽霊画の始祖と言われる写実の名手応挙が、絵の中から現れた幽霊に驚いている場面と、雪舟が涙で描いたネズミたちが本物になった場面である。
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これは「皇国二十四功 贈正一位菅原道真公」(1881年作)。呪いによって雷を起こす道真の姿であるが、この稲光の描写の感覚の、なんと先鋭的なこと!!
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これは「平清盛炎焼病之図」(1883年作)。明治 10年代になって、ますます芳年の筆の走りは冴えている。
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これは「つきの百姿」のシリーズから、「大物海上月 弁慶」(1886年作)。能の「船弁慶」で知られる逸話で、海上に現れた平家の亡霊を、弁慶が経文を唱えて鎮めているところ。
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芳年のような錦絵師は、刷り上がった完成品を目にすることが多く、その創作過程を知る機会は多くないが、この「新撰東錦絵 於富与三郎話」(1885年作) には下絵が残っていて興味深い。まぁそれにしても、下絵の段階から見事な線である。当時の夜の街の様子をリアルに描きながら、なんとも洒脱な雰囲気を持っている。
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またこの「新形三十六怪撰 地獄太夫悟道の図」(1890年作) には、背景に並ぶ骸骨の丁寧な素描が残っている。この素描、芳年の意外な (?) 真面目さを表しているように思う。地獄太夫とは室町時代の遊女で、一休禅師に弟子入りしたことで知られ、河鍋暁斎の作品でも有名だ。
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芳年はあまり女性の描き手というイメージはないかもしれないが、それでも、興味深い作品が多くある。これは「月百姿」シリーズの「源氏夕顔巻」(1886年作)。江戸時代の絵画よりも近代性を感じるが、手前の蔓や葉のアップの描き方によって、ぼんやりと漂う夕顔の生霊としての姿が際立っている。
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「風俗三十二相」(1888年作) というシリーズは、女性の様々な姿を描いていて個性的だが、まず「うるささう 寛政年間 処女之風俗」。ここで「うるさそう」に思っているのはこの女性ではなく、猫であろう。猫を飼ったことのある人なら分かる、撫でられてうるさがる、この顔 (笑)。
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同じシリーズから「遊歩がしたさう 明治年間 妻君之風俗」。洋装に日本的な顔のギャップが面白い。
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芳年の貴重な肉筆画のひとつが、この「猿田彦命」(1868年頃作)。これも題材は純日本風、技法が洋風である。
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これは「錦絵修身談」巻二 (1884年作) から「エリーレーンの仁」。その題名の通り、当時の修身の教科書の挿絵であり、エリー・レーンとは米国の 13歳の少年で、鉄道橋の火事を発見して汽車の運転手に知らせ、事故を防いだという。下絵は簡単だが、仕上がりは線路の枕木の様子など、かなり細かい。
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これも下絵であるが、1874年作の「徳川治蹟年間紀事」から。火消したちの勇ましい掛け声が聞こえるようだが、手前の幟の跳ね上がり方と、遠景の橋の不動ぶりとの対比が極端で面白い。これを見ると、芳年は、いわばイラストレーターの元祖のような存在であったと言えるように思う。
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このように、まさに幕末から明治にかけて激動の時代を行きて、様々な表現で時代を捉え、また人間を捉えた月岡芳年という絵師の全貌に迫る、素晴らしい展覧会であった。私としては、会期ギリギリに駆け込みでなんとか見ることができて本当に有難かったので、次回このような機会は極力早く捉え、記事にしたいと考えております。

by yokohama7474 | 2018-12-04 00:02 | 美術・旅行 | Comments(0)

第 70回 正倉院展 奈良国立博物館

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前の 2回の記事に続く、奈良弾丸往復の最後の記事である。元興寺からならまち、高畑の数々の古寺を訪ねたあと、今回の目的のひとつであった興福寺中金堂を訪れる間を縫って見ることにしたのが、この展覧会だ。毎年奈良国立博物館で、文化の日を挟む二週間ほどの会期で開かれている正倉院展は、過去に東京でも開催されたことはあるものの、基本的には奈良に足を運ばないと見ることができない、文化的な大イヴェントである。私もこれまでに数度 (片手には余るが両手に満たない程度か)、この展覧会を見ているが、中には東京からでも毎年見に行く熱心な人たちもいるだろうから、そのような人たちに比べると全くお粗末な経歴 (?) だ。それには私なりの理由があって、会場が大混雑であることとか、もともと自分の興味は工芸品よりも美術品にあるとか、さらに言うと仏教美術が好きであるとか、言い訳はいろいろあるのだが、実はあまり正倉院展に来たことがないことの理由のひとつには、「あまりに内容がすごすぎるから!!」ということもある。これは逆説的に響くだろうが、一体どういうことかというと、正倉院に納められている文物には、1200年という時をあっさりと越える驚愕の逸品が多く、聖武天皇や光明皇后ゆかりの品だったり、大仏開眼で使われた道具であったり、日本がシルクロードの東の終着点であることを如実に示す、それはもうクラクラするほどのものばかり。正倉院御物はまさに奇跡のタイムカプセルであり、世界にふたつとない超絶的なお宝ばかり。これらを見てしまうと、やはり毎年来たくなってしまう・・・という、理由にならない、だが私としてはそれなりに切実な理由によって (笑)、いわばこの展覧会をしばしば「敬遠」してきたわけである。だが、今回は平成最後の正倉院展。たまたまその開催期間中に奈良にいるというのも、何かのご縁かと思い、久しぶりに見てみることとした。平日の午後早めの時刻であったが、ほんの 5分ほどの入場制限のあと、すんなり入ることができて、その点は有難かった。もちろん場内の混雑は大変なものであったが。
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さて、以下は今回の出展物の一部であるが、ひとつルールを決めたいと思う。これらの品にはそれぞれ学術的な名前がついているのだが、それら正式名称には PC での漢字変換が難しいものもあるので、ここでは、正式名称ではなく、それが何かが分かる現代の用語でご紹介したいと思う。実は今回の図録には、正式名称と並んで分かりやすい現代語名称も併記されていて、なかなかに気が利いているのである。まずこれは、「螺鈿かざりの鏡」。まさに螺鈿。キラキラした貝殻を贅沢に使い、琥珀、トルコ石を散りばめた、実に信じられないほどの美しさを持つ鏡である。
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それを納める箱がこれ。革製で、漆を塗ってある。内部の朱色がなんとも高貴である。私など、時々印鑑用の朱肉を見ても何かゴージャスな気がする (特にこのデジタル時代には。笑) ので、直径 35cmのこの箱を見て、ドキドキしてしまった。
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こちらは「海獣葡萄鏡」。白銅製である。ここに葡萄とともにあしらわれた化物たちには、西域の匂いがプンプンする。まさにシルクロードの匂いである。
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これは「板締め染めの屏風」。いわゆる夾纈 (きょうけち) 染めであるらしい。この下に人物が描かれていて、竹林の七賢のような中国風の意匠であるとされているようだが、それでもこの植物は、南国的に見えないか。私にはやはり、遠い西域を思わせるものに見える。
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これは、「屏風の袋」。どの屏風を収めたものかは分からないが、麻製で、版木につけた染料で模様を摺りつけているらしい。屏風本体だけでなく、その袋にまで、手作業による繊細なデザイン性が刻印されているとは。
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これは「調布」。そう、歴史の時間にならった、租庸調の中の調である。つまりこれは税として納められたもの。確かに正倉院御物を見ていると、当時の朝廷では布は沢山必要であったろうと思われてくる。ただ教科書で租庸調と言ってもよく分からないが、このような展覧会を通して歴史を肌に知ることができることは貴重だ。因みにこの調布、佐渡島から納められたもの。調布という地名は東京にも残っているが、佐渡という、さらに遥か遠くからも納税されていたわけである。
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これがまた面白い。「山水図」、つまりは風景を描いた絵である。麻布に墨で描いた風景で、人物の姿も見ることができる。これ、奈良時代の風景画ですよ。西洋絵画では風景画の誕生は 16世紀かと言われていることを思うと、この絵の古さはすごすぎる。素朴で単純とはいえ、その価値は測り知れない。食い入るように実物を眺め入ってしまった。
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これは、「刺繍飾りの靴」。相当手の込んだ花鳥文様が施されている。繊細な作りであるこのようなものは、中国あたりの墳墓から断片が発掘されるようなことはあるかもしれないが、原型をきれいに留めて大切に保管されている例が、世界にほかにあるのだろうか。
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これは「三本組の小刀」。紙や布を切ったり木簡を削ったりする実用的な文房具で、なななんと、聖武天皇の愛用品であったらしい!! ほらほら、こういうものがあるから正倉院展は困るのだ。だって、これを見ながら立ち眩みがしてしまうではないか!!
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これは「厄除けの糸巻」。端午の節句の際に、病を避けるまじないとして腕に五色の糸を巻き付ける風習が中国から伝わっていたといい、これはその糸を巻き付ける木製の軸である。やはり宮中の行事には、ただ糸を巻き付ける棒ではダメで、このように手が込んだ美しい細工が必要だったのだろう。
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そして正倉院には、様々な糸というか紐が伝わっている。これは、「暈繝 (うんげん) 柄のひも」。用途は明らかではないらしいが、何かの儀式に用いたものであろうか。正倉院業物には、煌びやかな完成品だけではなく、部品や予備の品のようなものも多く、この点にこそ、まさにタイムカプセルとしての意味がある。人間の佇まいが感じられるのである。
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これもすごい。「櫃覆いの押さえ布」。その名の通り、櫃の覆いを押さえるために用いられた帯であるが、756年 5月 2日という日付入りとのこと。この日は実は聖武天皇の命日。だからこれは、聖武天皇の葬儀に関連するものを収めた櫃の覆いを押さえたものなのである。使い終わったら廃棄ということにはならず、神聖なものとして保管されたということだろうか。それにしても、今から 1262年前の話である!! しかもこれは、大部な彫刻とか目を見張る工芸品ではなく、布である。そんなものまで完全な形で残っていることが奇跡でなくてなんであろうか。
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ではその、目を見張る工芸品をいくつか。これは展覧会のポスターにも使われている「献物箱」。仏前に供える献物を納めるための箱と見られている由。なんと美しい。ここに言葉は必要ないだろう。
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こちらも「献物箱」であるが、こちらは少し趣きが違っていて、直方体であり、私にはヨーロッパ風にすら見える。素材は柿の木で、紫檀、水晶、象牙、鹿の角などが使われており、細かい彩色があちこちに施されている。気の遠くなるような作業によって作られているわけである。
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これは一見唐三彩風であるが、実は日本で作られたもの。「二彩の鉢」である。磁器ではなく陶器であるらしいが、この緑の釉薬が垂れるさまは、わびさびの日本ならともかく、天平時代の日本でも尊重されたものであろうか。驚愕の美意識である。
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これは「楽舞用のかぶりもの」。この華やかな赤が 1200年の時を越えて残っているとは。しかも、下貼には胡人の肖像が描かれている。シルクロード!!
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続けて 2点、実際に着用されたかと私には見える衣類である。「絞り染めの上着」と「女性用の裳」。前者は襟の左側を内にして右側を外に合わせる形式でできており、高松塚古墳壁画などに見られるが、その後、唐の制度に倣って左右が逆になったという。なのでこれは非常に貴重な、古い時代の上着の実物。後者はいわばスカートで、これも高松塚古墳の壁画を思わせる衣装である。
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これは「三彩のつづみ」。やはり唐三彩を模して日本で作られた、鼓の形をした陶器である。華やかで素晴らしいが、これが墳墓の発掘品でなく、ずっと倉庫に保管されてきたということを信じることができるだろうか。
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これは「新羅琴」。全長 154cmの大きさである。823年に左大臣・藤原広嗣 (前の記事の「頭塔」についての箇所ご参照) が倉から琴を出し、その代わりに納められたものらしい。
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これも驚きの品で、「銅製の匙」。実際に飲食に使われたこともあったようだし、仏前供養の用途にも使われたようだ。いやー、スプーンですよ。しかも金属の。日本人が、朝廷で使われていたこのようなスプーンを再び目にするのは、明治の近代化時代ではないだろうか。
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これも大変面白くて、「経典の借用記録」。光明皇后発願の一切経写経のため、手本とする経典を借用した際の記録を貼り継いだものだという。書写・返却が終わったものは、経巻名を朱色で消している。経巻の写経という宗教行事の裏にあった、人間の行為の記録である。
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これは「未使用の巻物の軸」。つまり、巻物の軸として作成されたが、結局使われなかったもの。先端部分はガラスであったり白檀であったりするというから、当時としてはなんとも高級品である。使われなかったモノたちの、ただならぬ迫力。
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以下二点は僧侶の持物、いわゆる「如意」。材料は、上がサイの角で、下がべっ甲、つまりはウミガメの甲羅である。天平時代ですよ。信じられますか?!
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そして最後が、「仏像を描いた幡」。正倉院御物には仏教そのものの遺品はあまり多くないようだが、ここには仏の姿が描かれている。幡 (ばん) とは、寺院内部に吊るされる縦長の旗のようなもの。素朴さをたたえた仏たちの姿には、なんとも心打たれるものがある。
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今回の展示物の総数は 56点。それはそれは、なんとも貴重なものばかりである。実は正倉院の所蔵物は 9,000点と言われ、今回をもって 70回目となるこの正倉院展でも、これまでに展示されたものの合計はせいぜい、のべ 5,000点ほどであるようだ。ということは、まだまだこの正倉院というタイムカプセルには、未知の文物が眠っていることになる。ところで、正倉院御物はこの通り、信じられないような貴重なものばかりだが、国宝には指定されていない。それは、これらの品が明治以来御物、つまりは皇族の所有になっているからだ。宮内庁が管理している御物は、文化財を越えた存在なのだ。ただ、正倉院が世界遺産に指定されたときに、建物自体は国宝に指定されたらしい。誰もが知る校倉造りの、この建物である。
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さてここでひとつ素朴な疑問を呈したい。そもそもこの、夏は湿気が高く、冬は木材がよく燃え、地震や台風などの天災の多い国で、1200年もの間、これだけの数のこれだけの貴重な遺品が守られてきたことは、世界史上においても類がないのではないか。いかに東大寺といえども、1200年の間ずっと勢力を保ってきたわけではない。では、なぜ正倉院が盗難にも遭わずに今日に残ったか。その疑問に答えてくれる本がある。以前もこのブログでご紹介したことがあるが、竹村公太郎という人の書いた滅法面白い「日本史の謎は『地形』で解ける」のシリーズのひとつ、「環境・民族篇」がそれである。
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この本によると、奈良時代に 20~30万人を誇ったこの街は、都が平安京に移ってからは衰弱の一途を辿り、その 1/10 程度の人口に落ちてしまう。その状況は明治まで 1000年続き、その間に奈良には、今のならまちと呼ばれる地域で見ることができる通り、庶民の長屋が立ち並ぶこととなった。そこでの人間関係は濃密であり、とても盗賊が入れる地域ではなかったと竹村は言う。うーん、そうかもしれないが、大規模な窃盗団でなく、倉を破って少しだけお宝を盗もうという輩はいなかったのであろうか。ある意味で、この国の神秘性がそこにはあるような気もするのである。

このように、大変充実した 5時間の奈良滞在。降ったり晴れたりの不安定な天候ではあったが、やはり奈良に来ると生き返るような気がする。東京に帰る新幹線の車窓からは、このような虹が見えていた。古代人もこのような虹を見たのであろうかと思いながら、車内でしばしの眠りに落ちる私であった。
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by yokohama7474 | 2018-11-18 22:02 | 美術・旅行 | Comments(0)

奈良 その 1 元興寺 (屋根裏探検)、興福寺 (中金堂ほか)

春と並んでこの季節は、京都でも奈良でも、様々な社寺で、通常公開されていない仏像や建物や庭園が特別公開される。私のような寺好き人間にとっては、やはりいろいろ調整をした上で、古都に足を運びたい季節なのである。今回も、なんとか一日その機会を作り、早朝に東京を発って奈良を訪れ、夕刻のサントリーホールでのコンサートに間に合うように往復することができた。実は、東京で見た展覧会で未だ記事を書けていないものが多くあるのであるが、それらを差し置いて今日、11/17 (土) にこの記事をアップしようと思ったには理由がある。今月の日経新聞の「私の履歴書」は興福寺の貫主である多川俊映師が書いておられるが、今朝の記事を読むと、ちょうど今後、この件についての詳細な言及が始まろうとしているようであるからだ。
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これは近鉄奈良駅の柱に貼られたポスターである。今回の私の奈良行きの目的のひとつはこれ。だが、それにしも増して興味のある事柄もあったので、この記事ではその二か所をご紹介しよう。この二か所の間にも多くの寺を回り、加えて奈良国立博物館にも寄っている。それらの記事はまた追ってアップするとして、今回のわずか 5時間の奈良滞在における密度の濃い行動を、3回の記事に分けてご紹介したい。

さて、私が今回どうしても見たかったものは、これである。
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奈良の社寺の中でも、世界遺産の指定に含まれているものは非常に限られている。法隆寺は別枠であるが、奈良市内の社寺としては、東大寺、興福寺、春日大社、薬師寺、唐招提寺と並んで含まれているのが、元興寺 (がんごうじ)。もともとは日本初の本格寺院のひとつとして 6世紀末頃飛鳥の地に建立され、その後平城京に移ってきたという歴史を持つ。その移転は 718年。実に今からちょうど 1300年前なのである。それを記念して、国宝である禅室の屋根裏を公開するというこのイヴェント、春に続いて秋も行われていた。日本最古と言われる飛鳥時代の瓦が一部未だに使われていることで知られるこの建物の屋根裏公開は、平城京遷都 1300年であった 8年前にも行われたようだが、特別な機会でないと望みえない。今回を逃すともうなかなかチャンスがないと思われる、実に貴重な機会であったのだ。かつては巨大伽藍を誇ったこの元興寺、今ではほんのわずかな敷地しかなく、かつての威容を想像するのは難しい。しかも同じ名称の寺院が 2箇所あり、私が子供の頃には、今では「元興寺」と呼ばれている真言律宗の寺院は「元興寺極楽坊」であり、国宝薬師如来像を所蔵する華厳宗元興寺が「元興寺」と呼ばれていたと記憶する。今では、上記の通り宗派をつけてともに「元興寺」と呼ばれ、それ以外にも小塔院という寺も、もともとこの寺の一部であるようだ。歴史の荒波を越えて、21世紀の今日まで生き永らえている文化遺産に触れることは、非常に意味深いことである。東門が重要文化財、そしてそれを入ったところにある本堂 (極楽堂) と、その裏に続く禅室が国宝。
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すぐ上の写真にある長い堂がもともとの僧房、つまりは僧侶の住居の建物であるが、今は禅室と呼ばれている。もともと今の本堂とつながっていたものが、鎌倉時代の改築で分かれたようだ。写真でも分かる、向かって右側の古い瓦が、飛鳥時代のもののようである。今回はこの建物の屋根裏に入ることができるというもの。事前に日時指定で予約していたが、現地に行ってみると、予約で一杯で押すな押すなの大混雑・・・ということは全くなく、当日飛び込みでも大丈夫な程度の空き具合であった。屋根裏であるから、本来は人が立ち入ることが想定されていない場所。ヘルメットをかぶっての見学であるが、私などは腰をかがめながら何度も柱に頭をぶつけたので、これは必須であった。禅室内に入ると、見学時間前にはこのような模型の説明を受けられるし、一部部材の展示も見ることができる。
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このような子供でも分かる「屋根裏探検隊」の手書きレポートも貼ってあって、興味深い。
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さてこの禅室の屋根裏で何が分かるかというと、日本の木造建築がいかにして維持されてきたかという先人たちの知恵であろう。つまりここでは、外見を整えながらいかに瓦の重みを支えるかといった技術的な工夫に加え、遥か古代である白鳳時代の部材から、奈良、平安、鎌倉各時代の部材、加えて昭和の修理の際に組み込まれた補強材が見られるなど、廃材の有効活用の精神もよく分かるのである。屋根裏部屋には臨時の通路として板が渡され、照明が施されている。でも、写真撮影に夢中になってこの通路から落ちてしまう人もいるという注意を受けた。もちろん、天井があるので真っ逆さまに地上に落ちるわけではありませんが、ちょっと危険です (笑)。
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これは昭和 25年の修理時の棟上を記念する墨書。この近くには榊も木材に挟まれていて、寺院の建物を修理するのに神道式で祈願するという日本流の方法が面白い。
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様々な時代の様々な部材たち。
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何か所かに、「ここに注目!」という表示がある。例えばこれは、ほかの部材を組み合わせるためのほぞがあちこちに穿たれた木。明らかにほかの用途に使われていた材木を転用したものであろう。
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そしてこれは、明らかに風雨にさらされていた形式があり、その裏側にはそれはない。つまり、以前は建物外部に使われていた材木であることが明らかだ。
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また、近隣の寺社が廃絶するなどの事情によるものらしく、このような祠が屋根裏に置かれている。元興寺の境内にも置く場所がないのでやむないということだろうか。
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そして、これは何であろうか。
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これは、職人さんが手すさびで壁に描いたと思われる舞鶴。昭和の修理の際のものと思われる。なかなか巧みであるが、さて、修理完了後 70年近く経ってインターネットで世界に見られることになろうとは、描いた職人さんは想像もしなかったであろう (笑)。
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さらに面白いのはこれだ。梁の裏側にあってうまく撮影できなかったが、飛行機の落書き。富士山をバックに飛ぶ零式水上艇と見られるらしく、もちろん鎌倉時代のものではなく (笑)、昭和のもの。修理自体は戦時中にも行われていたらしく、職人さんたちも戦意が高揚していたのであろうか。
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このように興味尽きない屋根裏見学を終え、宝物館で国宝の五重小塔などを見る。「大元興寺展」という企画が行われていて、私が訪れるしばらく前までは、上述の、現在は華厳宗元興寺所有の国宝薬師如来立像も「里帰り」していたようだ。ご参考まで、その五重小塔と薬師如来の写真を掲載しておこう。
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この元興寺のあるあたりは、ならまちと呼ばれていて、庶民的な雰囲気であり、古い町屋もそこここに残っている。かつて官立の大寺であった元興寺が、ごく小規模とはいえこのような形で今日までその存在を保ってきたのは、その庶民の信仰があったからにほかならず、それも奈良という古都の持ち味であるが、これ以上は次回の記事に任せ、私がこのあと何か所かを忙しく回ったあとに訪れた場所をご紹介したい。
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藤原氏の氏寺として栄光の歴史を持つ興福寺は、元興寺に比べれば、伝えてきた貴重な文化財の数や、再建されて現存する堂塔の規模から言えば、元興寺とは比べ物にならないほど大きい。だがそれでも、この寺が体験してきた栄枯盛衰に思いを馳せると、万感の思いを抱くことになる。このブログでも過去にこの寺を採り上げたことがあり、その時も書いたと記憶するが、近鉄奈良駅から最も近い大規模寺院として、多くの鹿たちがたむろするこの場所には、寺院の領域を示す塀がないので、開放的ではあるが、奈良公園の一部のような雰囲気である。寺としてはここに昔日の威容を少しでも取り戻したいと思っているようで、まずはそのプロジェクトの大きな第一歩が、中金堂の再建であった。阿修羅像その他寺宝の東京での展観や善男善女による寄進など、様々な資金集めの努力がなされ、今般めでたく完成。10月17日の落慶法要を経て、10月20日から一般公開が始まったばかりである。興福寺ほどの大寺院になると、金堂にもいくつかあり、現存する古い建物としては、鎌倉時代の国宝である東金堂があるし、往時は西金堂も存在した。だがなんといってもその名の通り、中金堂こそが中心になるべきだろう。この寺には私が子供の頃から、仮金堂と称する控えめな建物があり、国宝館や五重塔や東金堂や、あるいは南円堂といった多くの人々が集う建物とは対照的に、ちょっと淋しい感じがしたものだ。今回、新たな中金堂の再建によって、その仮金堂は、仮講堂と名を変え、今後も活用されて行くようだ。私はどうも、日の当たるメジャーな存在よりも、ちょっと目立たない存在の方が気になる性向であるようで、現在は入場が叶わない仮講堂が、近い将来観光客に開放される場所になって欲しいと思うのである。この写真で、堂々たる中金堂の後ろに佇むのが、仮講堂である。
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そして中金堂の正面に回ってみる。興福寺中金堂は、もともと平城京遷都の年である 710年に完成したが、その後平安時代以降、実に 7度の火災に遭っている。今回再建された建物は、まさに天平の栄華を思わせるもの。ご本尊の釈迦如来は江戸時代、1811年の作。もともと仮金堂におられた像であろう。今回の中金堂再建に合わせ、修理されたという。
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内部は撮影禁止なので、ほかから拝借してきた写真で、ご本尊の今の様子と、修理前のお姿をご覧頂きたい。尚、手前左の柱は、法相宗の祖師たち 14人を描いているが、作者は日本画家の畠中光享。堂内の柱は確か 6本かと思ったが、装飾があるのはこの 1本。これからまだ、ほかの柱にも装飾がなされるのだろうか。
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日本人の美意識には、古いものは古いまま愛でるというものがあって、それは確かに美的な感覚なのであるが、その一方で、昔日の栄誉を再現する試みにも、意味はあると思う。私はこの中金堂の再現を素晴らしいと思ったし、こうしてご本尊の新旧の写真を比べると、今回の場合にはこのような修理にも意味はあるだろうと思う。尚、中金堂内にはこのほかにも、釈迦如来の脇侍である薬王・薬上菩薩 (鎌倉時代・重文) と、四天王 (鎌倉時代・国宝) が配置されている。そして堂の外に出てみると、このように整備された地面に石が並んでいる。一見して明らかなことに、これは中金堂から左右に伸びて一角を囲む回廊の礎石になる箇所であろう。その先には中門、外側には南大門という配置が古代寺院では一般的。興福寺の伽藍復興は、そこまで達成されるのだろうか。
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将来中門ができるであろう場所、つまり正面から新しい中金堂をもう一度眺めて、この寺が刻んできた長い歴史に思いを馳せる。お、よく見ると、向かって左の鳶尾の上に何かいるようだ。
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これは鴉だろうか。古代を再現した真新しい巨大建築の上に佇むとは、なんと優雅なことよ。
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そろそろ新幹線に乗るために京都に移動する時刻が迫っている。だが、やはりこの時期はこのお堂を見ないわけにはいかない。北円堂である。
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建物も国宝なら、運慶の手になる弥勒如来、無著・世親菩薩、そして四天王と、居並ぶ仏像のほとんどが国宝という、素晴らしい空間。私がこの堂内に入るのは、さてどうだろう、生涯で 10回目くらいであろうか。だが、ここは何度来ても素晴らしい。これは拝借してきた内部の写真。
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この北円堂の外の地面も、このように整備されているのに気がついた。ここにもやはり回廊が再建されるのであろうか。
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今回は時間の関係で見ることはできなかったが、興福寺ではこのほかにも、国宝館において特別展示がなされていたようだ。それは、もともと東金堂にあった梵天立像と帝釈天立像のうちの後者が、現在では東京の根津美術館所蔵になっているところ、この興福寺に里帰りしているというもの。それについてはこのブログでも以前、根津美術館で開かれた二体の「再会」を採り上げたことがある。数奇な運命を越えての再会は感動的である。
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ここで採り上げた二例はある意味で対照的で、ともに平城京の大寺院であったものが、庶民の信仰に支えられて、小規模ながら現在に古の建築を伝える元興寺と、度重なる災害を乗り越えて多くの文化財を今日に伝え、そして古の威容を取り戻しつつある興福寺。いずれも奈良という街の今を考えさせてくれる場所なのである。

by yokohama7474 | 2018-11-17 21:27 | 美術・旅行 | Comments(1)

イサム・ノグチ 彫刻から身体・庭へ 東京オペラシティ アートギャラリー

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この展覧会は、既に終了してから 1ヶ月以上経過しているもので、しかも、東京展の前に大分と香川を巡回して、東京が最後であったので、今さらここでその内容を絶賛しても、時既に遅し。だがまぁ、開き直ってしまえば、このブログの本来の趣旨は、いかなる文化イヴェントが東京で起こっているかを記録し、またそれをご覧頂く方に認識頂くということであるので、毎度のことながら、終了済の展覧会の紹介もあながち意味がないものでもないと思うので、できるだけ現場に行ったときの生の感想をお伝えしたいと思う。なお、一部は私が会場で撮影した写真である。

この記事は前回の記事、つまり日本古来の建築と現代の日本の建築家の作品との間に、いかに脈々と流れる美意識があるかという趣旨と、幾分関連するものである (そう言えば、ポスターの色合いも近い。笑)。ここで採り上げる芸術家は、イサム・ノグチ (1904 - 88)。展覧会の副題にある通り、「20世紀の総合芸術家」という表現にはそれなりの意味があるのだが、一般的にはやはり、彼を彫刻家と呼ぶのが妥当なような気がする。詩人の野口米次郎を父に、米国人のレオニー・ギルモアという作家を母に (そういえば、「レオニー」という映画もありましたね)、米国に生を受け、幼時を日本で過ごした。彼の生涯は太平洋戦争の期間をその中に含み、その間日本と米国は敵国となったがゆえに、彼は運命に翻弄される。米国人であるという批判によって、戦後実現しなかった原爆慰霊碑という痛ましい例もあり、2つの国に引き裂かれた人生であったとも言えようが、だが私が彼の作品を好きなのは、個人としてのつらい経験や悲惨な思いを超えて、どこか超然とした無機質性を感じさせる点にある。もちろん、ある場合には沈黙による悲痛さを感じさせることもあるし、屈折した心理を思わせる場合もある。だが、やはりノグチの発想には、政治的な要素は一切なく、日本人の血が大きく影響しているであろう Simplicity こそがその創作の源泉ではないだろうか。これは老年のノグチ。
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ここで彼のことを総合芸術家と呼んでいる理由は、人間の身体を絵画として描いたり、彫刻で表現して行くうちに、舞台装置をてがけたり、さらにはインテリア、庭園などの空間造営に活動を広げて行ったことであろう。展覧会の最初の方には、このような、大きな紙にインクで描いた「スタンディング・ヌード・ユース」という作品 (1930年作) が。彼は日本に渡る前、シベリア鉄道で大陸を横断して北京に到着し、そこに 7ヶ月滞在した。そのときに描いたこの種の作品は「北京ドローイング」と呼ばれ、100点以上現存しているという。
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このほかにも「北京ドローイング」の何点かが展示されていたが、身体の彫塑性への興味が、そこでは明らかだ。つまり、描かれている人間の内面を描くよりも、かたちの面白さを線の面白さで表現することに興味があるように見える。これは「うつむく僧」と「座る男」(ともに 1930年作)。
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このブロンズ彫刻は、空洞の眼窩と、長く延びた髪のような棒状の持ち手が、極めて印象的である。ニューヨークで 1925-26年に制作された、伊藤道郎という舞踏家の肖像。
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この伊藤道郎というダンサーは、1911年に渡欧し、アイルランドの詩人イェイツ (ノーベル文学賞を受賞している) とともに能の研究をしたり、あの「惑星」で有名なグスタフ・ホルストに「日本組曲」を委嘱したりしている。またノグチに、あのマーサ・グラハムを紹介した人物であるという。100年も前に、大した人物もいたものだが、調べてみると彼は、千田是也の兄であるという。また、かつてジェリー伊藤という俳優がいたが、彼はこの伊藤道郎の次男であるそうだ。これが伊藤道郎の若い頃の写真。
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初期のノグチの彫刻作品も幾つかあるが、ある意味でノグチらしくなく、人の顔を比較的忠実に再現した「ジョエラ・レヴィの肖像」(1929年作) は、彼の素直な感性を思わせて、これが実はノグチの作品に通底する感性かとも思わせるのである。
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かと思うと、この 1937年作の「ラジオ・ナース」はどうだろう。これはノグチが初めて手掛けた大量生産の工業デザインであり、離れた場所から子供部屋の音を聞き、子供の様子を知るという用途で作られたものらしい。すぐ上で見た手作りの具象的な人の顔は、数年の間にこのように抽象化され、工業デザインとなった (笑)。
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これは、1931年作の「玉錦 (力士)」。相撲観戦 (連れて行ったのは、新渡戸稲造と、貴族院議長徳川家達であったという!!) のあと、当時の大関で、後に横綱になる玉錦という力士の像をテラコッタで作ったもの。身体表現への興味と、どこかユーモラスな雰囲気が感じられる。
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これは 1955年、上でも名前の出たマーサ・グラハム振付の「セラフィック・ダイアローグ」という舞台の装置である。ジャンヌ・ダルクを主人公としており、この真鍮の管で造形されているのは大聖堂であるとのこと。空間を切る感性は、のちに庭園の設計に向かうノグチの指向を表していると思う。
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いくつか、ノグチらしい造形の彫刻作品を。「化身」(1947年作)、「私の無」(1950年作)、「かぶと」(1952年作)。抽象性と、日本的な感性による造形である。
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そうそう、日本的と言えば、「あかり」という照明シリーズが有名だ。前回の記事でも、丹下健三が自宅でノグチの「あかり」を使用したと書いたが、このシンプルでスタイリッシュでありながら、どこかほっとする造形は、上記の彫刻作品と共通する。この 2枚は私が会場で撮影。
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そしてノグチはついに、地面を「彫刻」し始める。以下、モノクロ写真がまさにシンプルでスタイリッシュだが、イェール大学の図書館の中庭 (1963年頃) と、ウォール街のチェイス・マンハッタン銀行 (現在は JP モルガン) プラザの庭 (1961 - 64年)。
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この 2枚も会場での私の撮影で、「ミラージュ」(1968年頃作)。花崗岩でテーブルのような板を作っているが、そこに 2つの隆起がある。ノグチ自身はこれを、蜃気楼が出現した砂漠の風景と言っているらしいが、具体的な情景を思わせるものは何もない。だが見ている者を不安にする要素もなく、抽象性も適度で、いわゆる思わせぶりな現代アートとは全く異なるものだと思う。
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これは晩年の作品で、「アーケイック」(1981年作)。古代をテーマにしているが、やはり抽象性が心地よい。もちろん人為的に作られたものだが、自然界の一部を切り取って来た、つまり、大地に彫刻を施したような作品であると思う。私が会場で撮影したもの。
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改めて、ノグチの創作における日本的感性と、コスモポリタンとしての芸術家の創作活動の接点が感じられる展覧会であったと思う。そういえばノグチの美術館と言えば、ニューヨークのクイーンズにあるイサム・ノグチ庭園美術館には何度も行ったことがあるが、高松市牟礼町 (ノグチのアトリエのあったところ) にある同じ名前の美術館には、残念ながら未だ行ったことがない。今年は久しぶりに高松に出掛ける機会があったのに、見逃してしまった。実は高松空港の玄関口には、このようなモニュメントがあるらしいが、「タイム・アンド・スペース」と名付けられたこのモニュメントは、最期の年である 1988年にノグチが制作したブロンズの模型に基づいて作られたもの。いわば彼の遺言が、高松では人々を出迎え、また見送っているのである。
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彫刻から身体・庭へ --- イサム・ノグチの芸術を身をもって体験することで、気持ちが前向きになると思うのである。

by yokohama7474 | 2018-11-09 01:28 | 美術・旅行 | Comments(0)

建築の日本展 その遺伝子のもたらすもの 森美術館

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例によって例のごとく、コンサートの記事にかまけてしまっているうちに、既に終了してしまった展覧会の記事をいくつか書かねばならない状況になっている。いずれもなかなかに面白い内容であったので、東京で触れることのできる文化イヴェントの多彩さを、遅ればせながら少しでもお伝えできたらと思う。まずはこれらの写真を見て頂こう。
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いずれも木の積み重なりにリズムがあって心地よい。上の写真は高校の教科書にも、いわゆる天竺様の代表作として掲載されている、奈良・東大寺の南大門。下の写真は、隈研吾設計になる高知・梼原 (ゆすはら) 木橋ミュージアム。建てられた時代には 800年の隔たりがあるが、これらの建築には何か共通する美意識があるのではないか。この展覧会は、このような日本の建築の伝統と、それを受け継ぐ現代の建築との間に、そのような共通する美意識を見出そうという試みであった。会場では写真撮影が許されていたので、ところどころ、私が現場で撮影した写真を交えてご紹介したい。早速これは現場で撮った写真だが、これだけ多くのセクションに分かれた展示であったのである。
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だがここでは、あまり難しい分類はやめ、常にこのブログのアプローチである、徒然なるままにこの展覧会の印象を書き連ねる方法を取ることとしよう。さて、この建物には木も温もりが感じられるが、ここに見える「日本館」とは、もちろん万博における日本国のパビリオンであろう。だが、私にとってあらゆる文化体験の原点である 1970年の大阪万博のときのものではない。これは 2015年のミラノ万博 (ミラノ国際博覧会2015) のときのもの。設計は北川原温 (きたがわら あつし)。そう言えば、大阪万博の時の日本館はこのような形状ではなく、太鼓が集まったような形でしたね。木の感覚が日本的で、木材の香りまで嗅げそうな気がする。
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これは一見して忘れることのできない図書館内の光景であろう。私も NHK の「美の壺」でこれを見て感嘆の声を上げたものである。秋田県にある国際教養大学の図書館だ。実に大上段に構えた大学の名前だが (笑)、これほど素晴らしい図書館を備えた大学なら、その名も大仰ではないだろう。仙田満の設計。
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このあと、日本古来の木造建築として、会津のさざえ堂 (昔澁澤龍彦が紹介していたのを読んで私も現地を訪れたことがあるが、二重らせん構造の奇抜な建物) や五重塔の紹介があったあと、そのような技術の現代への伝承として、東京スカイツリーの構造についての概要図が展示されていた。現代の最先端建築にも、日本古来の建築の技 (地震や台風や火事の多い土地での様々な先祖の知恵がある) が活きているとは大変なことである。我々はそのようなことをもっと知るべきではないか。
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この建物も私の目を引いた。これは菊竹清訓設計によるホテル東光園。1964年の設計だが、なんともモダン。実はこのホテル、鳥取県米子市の皆生温泉というところにある。先にこのブログでも採り上げた出雲地域に隣接しているわけであり、一度行ってみたいものだと思う。
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出雲と言えば当然これ、古代出雲大社の本殿である。もちろんこれは、伝承と発掘された柱の太さから想像した復元図であるが、このような大変な木造建築が本当にかつて日本に存在していたなら、と想像するのは無性に楽しい。
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木造建築の感覚に基づく現代の設計で、実際には実現しなかったものがある。それは、磯崎新が 1962年という若い時代に考えた「空中都市 渋谷計画」だ。これはそれに基づいて 2011年に作成された CG である。もしこれが実現していたら、ハロウィンの仮装行列は、もっと危険なものになっていたかもしれない (笑)。
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さて、日本からは多くの名建築家が出ているが、谷口吉生はその中でも代表格であろう。このブログでも過去何度かその名前に触れているが、私がそのうち絶対に見に行きたいのがこの建物。金沢市にある鈴木大拙館である。世界にその名を知られた仏教哲学者の業績を偲ぶ施設であるが、この潔さはどうだろう。
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さてこれは、日本の民家に想を得た、三分一博志 (さんぶいち ひろし) 設計になる直島ホール。うーん。瀬戸内海のアートの島、直島にも私は行ったことがない。つい先日英国人弁護士と話していたら、彼は直島に泊まったことがあるという。わざわざ国外からもやって来る人たちがいるのに、私のように日本に住む人間が行ったことがないというのは、ちょっと恥ずかしい。なのでここも、私の「行くべき場所」リストにいつも入っているのである。
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そもそも日本人の「家」の感覚は相当古いものらしく、展覧会には古墳時代の家形埴輪も展示されていて、大変に興味深かった。
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それから、「建築としての工芸」のコーナーに入ると、このような写真展示がある。おぉ、これこそ昔懐かしい大阪万博の東芝 IHI 館である。この昆虫のような、ブロックのような、あるいは蜂の巣のような不思議な形を設計したのは若き日の黒川紀章。テトラユニットの組み合わせでできている。
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かと思うと、21世紀の東京を代表する商業施設も面白い。銀座のルイ・ヴィトン松屋銀座である。これはちょっと鳥の巣のようですな (笑)。
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さてここでまた、私が会場で撮影した写真である。これは岡倉天心の言葉。天心については、先に茨城県の五浦にある彼の遺跡をご紹介したが、明治日本が輩出した世界的な美術評論家と言ってよいし、また日本文化の紹介のため、このパネルに書かれた言葉を含む「茶の本」を英語で著した人物。うーん。部屋の実質は空間であるとの説、どこか仏教的なイメージもあり、また東アジア的な広がりを感じさせる言葉と言ってもよいかもしれない。
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そしてここに、日本建築史上にその名を轟かせる名建築が復元されていた。列に並べば入ることもできたが、時間の関係もあり、外から写真を撮るにとどめた。
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これは京都、山﨑にある妙喜庵という寺にある、待庵 (たいあん) という茶室である。国宝に指定されている。千利休の手によるものとされ、私も随分以前に現地に見学に行ったことがある。もちろん日本美にも時代による変遷はあるが、いわゆるわびさびという点では、こんなに厳しくまたコンパクトにまとまった空間もなかなかない。久しぶりに現地に行きたいものだと思った。
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面白い建物の模型があった。この 2枚も私が現地で撮影したもの。
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このミニチュアの細長い建物は、日本の建築家として最も早く世界に知られた丹下健三が、自ら設計した自邸である。1953年に建てられ、惜しくも現存はしていないが、そのユニークさは、この模型でもよく分かる。風通しがよすぎるかもしれないが (笑)、日本家屋の柔軟性を感じることができる。インテリアにも凝っていたらしく、イサム・ノグチ設計の照明「あかり」もあったという。下の写真は、この自邸の前で子供たちと遊ぶ丹下。おっと、お嬢さんの足元に見えるのは、これはもしかすると岡本太郎の彫刻ではないか? もしそうなら、大阪万博で太陽の塔とお祭り広場を巡って対立したという 2人は、実は何かの連帯感で結ばれていたのかもしれない。あるいはこれもノグチの作品かもしれないが。
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さて、丹下の設計作品には有名な建築が多いが、私が見てみたいもののひとつがこれ、香川県庁である。1958年の建築なので、既に 60年を経過している。香川県高松市には何度も訪れていて、今年の旅行はこのブログでも記事にしたが、この県庁は見逃している。また、高松と言えば、上でも名前の出たイサム・ノグチがアトリエを構えていたところ。そこは以前訪れたことはあるものの、再訪の価値は充分にあるはずだ (この箇所は次の記事の予告編なので要注意。笑)。
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丹下は国際的な建築家になったが、それに先立つ個性的な建築家で、専ら国内で活躍した人も多い。築地本願寺を代表作とする伊東忠太もそのひとり。京都の祇園にあるこの祇園閣も、いかにも伊東らしいアジアン・テイストな作品である。
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だが日本が諸外国に門戸を開いた明治期に、それこそ万博のような国際的なイヴェントで日本的な個性を誇示する試みも何度も行われている。これは 1893年、シカゴでの万博における日本館。鳳凰殿と名付けられていることから明らかなように、モデルはあの平等院鳳凰堂である。設計したのは久留正道 (くる まさみち) という人。当然この建物は現存していないが、きっと現地の人たちは驚きの目で、まだ見ぬ土地である日本の建築に見入ったことであろう。
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実はシカゴ万博でこの建物を見て影響を受けた有名な米国人建築家がいる。ほかならぬフランク・ロイド・ライトである。日本における彼の代表作はもちろん帝国ホテル。今は明治村にファサードの部分が残るのみだが、これは実際にホテルとして使われていた頃の写真。その証拠は、左右に停まっている自動車である。
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実は、今度は逆に、「これはライトの設計か?」という建物を米国で設計した日本人建築家がいる。吉村順三がその人で、1974年のポカンティコヒルの家がそれだ。これはニューヨーク郊外にあるネルソン・ロックフェラー (竣工当時はフォード大統領のもとでの副大統領) の邸宅で、昭和天皇も訪れたことがあるという。
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日本人建築家の海外での仕事は枚挙にいとまがないが、近年の作品で私が是非とも行ってみたいと思っているのは、ルーヴル・ランス。ランス (Lens) という場所にある、あのルーヴル美術館の分館である。因みに日本語で「ランス」と書くと、フランスにはほかにももうひとつ知られた場所があり、それは歴代フランス王が戴冠した街で、ロッシーニのオペラ「ランスへの旅」で有名な街、また藤田嗣治が晩年を過ごした街、そしてシャンパン醸造で知られる街だが、そちらは Reims という綴りで、このルーヴル別館のある場所とは別。この別館、今を時めく SANAA (妹島和世と西沢立衛によるユニット) の設計である。平面性を強調した美しい建築だ。
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次は国内だが、私がこれまで知らなかった近代建築の重要文化財。聴竹居 (ちょうちくきょ) という 1928年の建物で、設計した藤井厚二という建築家の 5番目の自邸であったとのこと。これは行ってみたい。実はこの建物の所在地は京都の山崎。なので、上記の待庵と合わせて見ることができれば効率的だなぁ・・・と呟いている私 (笑)。待庵の見学には往復はがきでの申し込みが必要。いつにしようかなぁ。
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そして最後、これも行ったことがなく、いつか必ず行ってみたと思っている、安藤忠雄設計の水の教会。星野リゾートトマムにある。もちろん、同じ安藤による風の教会、光の教会も、必見の場所である。
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ここでご紹介できたのは本展のごく一部。改めて現代日本の建築家たちの活動と、日本古来の建築を比較することで、我々にはいかに大きな歴史的文化遺産が残されてきたのかを実感することのできた展覧会であった。

by yokohama7474 | 2018-11-08 00:41 | 美術・旅行 | Comments(0)

フランクフルト散策

ドイツの大都市、フランクフルト。日本から、ルフトハンザや全日空といったスターアライアンスのエアラインに乗ると、いわゆるハブ空港となり、ヨーロッパ内のほかの目的地に行くために乗り換えで利用する方も多いだろう。あるいは、金融関係の方は、出張で同地に滞在するということもあるだろう。だが、この街はいわゆる観光都市としてのイメージはない。ドイツでも、例えばドレスデンとかケルンとかミュンヘンとかライプツィヒとか、観光の対象になる都市はいくつもあるが、フランクフルトはそうではない。だが、実はこの街は、歴史好き、美術好きにとっては、実に見どころが多い街なのである。私はこの街は以前に何度も訪れていて、ある 1ヶ所だけは一度見学することができたのだが (後述)、それでも、この街の魅力というものについての理解は及ばなかった。そんなところに、たまたま今年 5月に久しぶりにフランクフルトに出掛ける機会があり、少しの時間だが街を見ることができたので、初めてこの街の魅力を知ることができた。ヨーロッパ人とのビジネスにおいては、かの地の歴史や文化を知ることは大いに意味があるので、これまでフランクフルトを甘く見ていたビジネスマンの方々 (?) にも、この記事が参考になればよいと思う。

さて、まずはこの写真を見て頂こう。
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もちろんこれは、美術好きなら誰でもご存じの、フェルメールの「地理学者」である。日本にも 2011年に Bunkamura ザ・ミュージアムで開催された展覧会に出展され、私も押すな押すなの混雑の中で見た記憶がある。この絵を所有するのは、ここフランクフルトのシュテーデル美術館。この美術館では展示作品の写真撮影が自由である上に、この超人気作品とも、たったひとりで相対することができる。因みにこの作品が展示されている部屋の入り口はこんな感じ。私が訪れたときは、全く誰もいなかったのである!! 正面真ん中が「地理学者」。
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これだけでもフランクフルトに行く価値ありと言ってしまうと大げさかもしれないが (笑)、この街の見どころはこれだけではない。いちばんの目玉は、世界文学史上に燦然と輝く文豪ヨハン・ウォルフガンク・フォン・ゲーテ (1749 - 1832) の生家である。上で、過去にこの街で 1ヶ所だけ訪れたことがあると書いたのはその場所であるのだが、それについてはまた後に譲るとして、まずは街の景色を見てみたい。この街にはそのゲーテの彫像がある。なかなか力強く、また、人々に親しまれている様子が分かろう。
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だが角度を変えるとこんな感じ。さすが金融都市フランクフルトである。近代的な高層ビルが後方に聳え立っている。実はヨーロッパの大都市では、たとえロンドンであろうとパリであろうと、このような近代的な高層ビルが立ち並ぶということは極めて稀なのである。
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ここにはまた、ゲーテと並び称されるフリードリヒ・フォン・シラー (1759 - 1805) の彫像もあるが、同様に、背景には高層ビルが見えて、この街の雰囲気をよく表している。
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またこれは、ゲーテが洗礼を受けたカタリーナ教会という教会だが、やはりご覧の通り、現代の風景が後ろに広がっている。これはやはり、フランクフルト独特の光景であると思うのである。
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それから、音楽好きにはおなじみの、以前のオペラハウスで、現在はコンサートホールとして使用されているアルテ・オーパー (「旧歌劇場」の意) も、その古典的な外見は堅固であるが、横から見ると現代の高層ビルとマッチしている。
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では、このような近代と現代のミックスだけがここフランクフルトの光景なのであろうか。いやいや、そんなことはない。この光景をご覧頂きたい。
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これはヨーロッパのそれなりの規模の歴史的都市にはどこにでもある、中世の佇まいを残した旧市街の広場である。なんと、この金融都市フランクフルトにも、このような場所があるのである!! だが、その後見掛けた案内板にはこのような悲惨な写真が。
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これは 1944年 3月22日、連合国軍の空襲を受けたフランクフルト。大聖堂はかろうじて残っているが、街の多くは灰塵に帰している。実はゲーテの生家もそのとき爆撃によって焼失してしまっているのである。ドイツは第二次大戦を始めた国であり、国全体としては加害者としての面が当然あるにせよ、個々の街のこのような惨禍を目のあたりにすると、人として心が痛むことを止めることはできない。だがその一方で、(ナチスに徹底的に破壊された街を復元したワルシャワのような例に比べると、その意義は見えにくいが) 灰塵に帰した街を昔の通りに復元したのがこのフランクフルト旧市街であると知ると、人間は捨てたものではないという思いにもなるのである。これはレーマーと呼ばれる市庁舎。この地域は中世において既に商取引が行われていており、フランクフルトには 11世紀には商人たちが訪れていたという。中世建築を戦後忠実に再現している。
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実はこの旧市庁舎の中には、カイザーザール (皇帝の間の意味) と呼ばれる、やはり戦後に復元された部屋があり、そこには、歴代の神聖ローマ皇帝 52人の肖像画が並んでいる。神聖ローマ帝国とは、9世紀のカール大帝から 1806年に至るまで存在した帝国で、現在のドイツはその領域に含まれていたわけである。ここに並んだ 52人の最初はやはり、カール大帝である。
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この建物を出て、再びレーマー広場に出ると、もともと 1290年に建てられ、戦後に修復された旧ニコライ教会があり、それから、これは戦災を経てもほぼ原形を残した 1600年頃の建物、ハウス・ヴェルトハイムがあって、いかに戦争の惨禍に見舞われようとも、現在にまで生き永らえている街の命が感じられる。
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旧ニコライ教会のすぐ裏手には、歴史博物館がある。もともとは 19世紀に建てられた税関の建物であるらしい。
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この地域から、アイゼルナー橋という橋を渡ってマイン川の対岸へ。この橋にはなぜか沢山南京錠がかかっている。もしかするとドイツでは、ここが恋人たちのメッカ???
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対岸にはいくつも博物館が並んでいる。以下は映画博物館と建築博物館。いつかゆっくり見学してみたい。
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さてその先がいよいよ、上でフェルメール作品をご紹介したシュテーデル美術館である。ちょうどこの時にはルーベンスの展覧会が開かれていた。
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このシュテーデル美術館の開館は、今からちょうど 200年前 !! の 1818年。もともとはシュテーデルという銀行家の個人のコレクションであるというから驚きだ。実は東京で以前開かれたフェルメールの「地理学者」の展覧会は、この美術館が改装中の引っ越し展覧会であったのだ。ここにはヒエロニムス・ボスの「エッケ・ホモ」もあるが、その作品の下部に気になる箇所があったので、その部分の写真を掲載しておく。これはもとの絵が消されているのであろうか。何やら謎めいている。
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ほかにも名品が沢山展示されている。以下は私が心酔するカルロ・クリヴェッリの「受胎告知」と、ボッティチェリ、そしてヤン・ファン・エイクの傑作である。
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うーん、実に素晴らしい。さらに述べると、ゲーテの生地ならではのこの作品の本物 (あ、確かこれに因む彫像がフランクフルト空港にあったはず) もある。これは、ヨハン・ハインリヒ・ヴィルヘルム・ティシュバイン (1751 - 1829、つまりはゲーテより 2歳下) による有名な「カンパーニャのゲーテ」。この画家はゲーテの友人であり、1787年にローマで描いた作品である。未だ 30代のゲーテの雰囲気を、リアルタイムでよくとらえた作品なのであろう。いやそれにしても、イタリアというヨーロッパ文明揺籃の地を、近代において新興国として発展するドイツの文豪が訪れるという、歴史的な意義を持った素晴らしい作品だ。
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今回、新たな画家との出会いもあった。その画家の名は、ウィルヘルム・フレディ (1909 - 1995)。デンマーク人で、これは「祖国万歳」という 1941年の作品。デンマークは 1939年からナチス・ドイツに占領され、1945年 5月まで解放されなかった。ということは、この作品が描かれたのはドイツの占領時代なのである。この画家の作風は一見してシュルレアリスムと分かるが、ここで壁から抜け出て走り出している少年が持っているのは、ほかならぬ祖国デンマークの国旗である。超現実に仮託された現実という点で、実に興味深い作品だ。
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このシュテーデル美術館で開かれていたルーベンス展も見ごたえ充分であったが、ルーベンスという画家自体は、ヨーロッパのどの美術館でも大作を見ることができるので、特にここでご紹介はしないでおこう。このシュテーデル美術館を辞して、また街の中心部に向かう途中に見えたのは、現在のフランクフルト歌劇場。ここの音楽監督は、来年 4月に読売日本交響楽団の常任指揮者に就任するセバスティアン・ヴァイグレである。建物もモダンなら、街なかで見かけた広告 (ベッリーニの「夢遊病の女」である) も超モダン。
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そのようにブラブラ歩いてついに辿り着いたのは、文豪ゲーテの生家である。上記の通り、戦争で焼けてしまったが、戦後に元通りに再建されたもの。ただ、家具調度品は疎開していて焼失を免れたので、今この場所を訪れると、ゲーテの育った環境を、かなりのリアリティをもって追体験できるのである。外部はこんな感じであるが、今は正面から入ることはできず、隣接した建物から入ることになる。そこには「ゲーテハウス」の看板が。
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よく知られている通り、ゲーテはただの詩人・劇作家ではなく、政治家であり法律家であり、また自然科学者でもあった。実に万能の天才であったのだが、名前にフォンが入っていることから明らかな通り、家柄もまたよい人であった。父は枢密顧問官、母方の祖父はフランクフルトの市長を務めたという名門の出である。玄関も立派なら、厨房にすら気品が漂い、オリジナルの家具調度品も実に立派なもの。
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この蔵書は、ゲーテの父のものらしい。ということは、幼少時のゲーテも、これらの本を、意味も分からずに手に取った可能性があるわけで、これはワクワクせずにはいられない。
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ここで、私が以前訪れたときに痛く感動したゲーテの遺品がある。ガラスケースの中に入っていてうまく撮影できなかったので、この記事の中で唯一、私自身の撮影ではなくほかから拝借してきた写真が、これである。このときは剥き出しのままの展示であったようだ。
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これは何かというと、ゲーテ 4歳の誕生日に贈られた人形劇の舞台である。文豪はここで、家族を前に様々な人形芝居を行うことで、そのファンタジーを育んでいったようだ。その場に展示されていたこのようなパネルによって、少年ゲーテの想像力の翼をイメージすることができる。彼が生きた 18世紀半ばから 19世紀にかけては、ヨーロッパで市民革命や様々な戦争が勃発した時代。そのような過酷な現実に立ち向かいながらも、想像力を忘れなかったゲーテの偉大さを偲ぶことができる。
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このゲーテの生家に隣接したゲーテ博物館には、ゲーテその人に因む遺品に加え、彼と同時代の絵画などが展示されている。その中で私がゾクゾクして対面したのは、もともと心酔していこの画家の作品である。
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そう、これはドイツ系スイス人で、英国で活躍したヨハン・ハインリヒ・フュースリ (1741 - 1825) の代表作「夢魔」である (同じテーマのいくつかの作品のうちのひとつ。1790/91年作)。ゲーテは彼の同時代人であるばかりでなく、1775年に「この人間には、なんという灼熱と憤怒が潜んでいることだろう」と、フュースリの作品を絶賛しているらしい。この画家について、日本では 1983年以来大規模な展覧会が開かれたと聞いたことはないが、昨年上野の森美術館で開かれて異常な人気であった展覧会「怖い絵」展にはこの「夢魔」の別ヴァージョンが展示されていたようだ。私はその展覧会の混雑ぶりに嫌気がさして結局会場に出向くことはなかったのだが、それを思っても、全くほかに誰もいない環境でたった一人、フュースリ作品の数々と対面することができるこのゲーテ博物館は、恐るべき場所なのである。ほかのフュースリ作品のいくつかもご紹介しておこう。私にとっては実にワクワクするものばかり。
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もうひとり、私が心から崇拝する画家の作品をご紹介しよう。それはドイツロマン主義を代表するカルパー・ダーフィト・フリードリヒ (1774 - 1840)。これは「夕星」という 1830年頃の作品。ゲーテはこの画家の作品を称賛したり拒絶したりしていたという。
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ゲーテの拒絶と言えば、すぐに思い出すのはベートーヴェンである。この作曲家が自作の交響曲第 5番をピアノでゲーテに聴かせたところ、文豪は耳を塞いだという逸話は有名である。この時代、芸術家は貴族の所有物から一般大衆のものへと変遷して行ったわけで、旧来のハイクラスな階級に生まれたゲーテとしては、あまりに過激な芸術作品に対しては戸惑いがあったということなのだろうか。フランス革命もナポレオン戦争も同時代の出来事として体験したドイツの文豪の中にはしかし、そのような当時の過激な芸術に対する理解はあったような気がしてならない。生家に掲げられた彼の肖像画は、何かを語りそうな表情である。
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このようにフランクフルトは、一般に認識されているよりも文化的な刺激に満ちた街。日本からは直行便で行けるところであるので、是非ご参考として頂きたい。

by yokohama7474 | 2018-09-30 22:43 | 美術・旅行 | Comments(2)

長野県 諏訪湖近辺 その 2 諏訪大社下社春宮 (万治の石仏)、おんばしら館よいさ、諏訪大社下社秋宮

前項に続く長野県岡谷市とその周辺の散策である。前回は近代製糸産業の遺産を見たが、実はこの地域には、太古から文明が存在していた。この地域は要するに諏訪湖の周辺ということになるが、このあたりには何やら、通常の日本的な古代文化と違う匂いがする。つまりは狩猟民族の匂いである。私は随分以前に、茅野市にある神長官守矢史料館というところに行ったことがあり、藤森照信設計のその建物に、古代人の野性の声を感じたものだが、今回はそこの再訪はならなかったのでここでの紹介は割愛する。またこの茅野市では、先に東京国立博物館で開催された縄文展に出展されていた国宝指定の縄文時代の土偶 5点のうち 2点が出土している。ここには何やら我々の未だ知らない壮大な古代史が眠っているように思う。・・・と書いて思ったが、岡谷だ諏訪だ茅野だと言っても、その位置関係が分からない人もおられようから、以下の地図を拝借しよう。ここに「四社」と書いているのは、総称して諏訪大社と呼ばれる神社のこと。実はこの神社、上社と下社があり、上社は本宮と前宮、下社は春宮と秋宮に分かれていて、合計で 4つの社が存在するのである。この地図の通り、岡谷市は諏訪湖の北西の方角で、諏訪大社の下社はそのすぐ東隣。一方上社の方は諏訪湖の南東で、茅野市の近く。
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私は以前 4社ともお参りしたことがあるが、今回は時間の関係で下社のみの参拝とした。それには少し付随的な理由もあるが、それは追って説明することとして、まずは最初に訪れた諏訪大社下社春宮である。
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この諏訪大社の創建は不明だが、日本最古の神社のひとつと言われているらしい。このあたりも、畿内の神社や、あるいは関東でも香取神宮や鹿島大社なら古い伝承や記録がもう少しあろうものだが、この諏訪大社の場合はあまりそれもなさそうだ。このあたりの謎めいた感じについては、この神社と古代史を語る書物もあれこれあるので、それによって想像力を広げることが可能である。例えば、私の手元にあるのはこんな本。あながち荒唐無稽な本ではないように思うが、もちろん学術的に証明されるか否かはまた別の話。
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この場所の古代史の真実がどうであったにせよ、今我々がこの神社に詣でて感じるのは、聖なる場所に対する敬意であろう。拝殿と門を兼ねたような幣拝殿と、その左右にある片拝殿が、重要文化財指定。
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そして、その建物群の左右に聳える 2本の柱は、枝を取り払い、皮も剥いてある。なぜに加工した柱を立ててあるのか。
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そう。もちろんこれらは、この地方に伝わり、6年ごと (寅年と申年、数えでは 7年に 1回) 開催される天下の奇祭、御柱 (おんばしら) 祭で曳かれた柱なのである。前面の 2本以外に、どうやら裏にも 2本あるようだ。御柱祭は、この諏訪大社 4社の宝殿の建て替えとともに行われるようであり、すべての社に 4本ずつ、合計 16本の柱が立てられる。この御柱祭ではかなりの頻度で過去に死者も出ており、その荒々しさは本当に凄まじいものだ。クライマックスの木落としはこんな感じ。次回の開催は 4年後の 2022年である。
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この祭の荒々しさを思って御柱を見ると、何やら身震いしてくる。死者を出してまでも人々をこの祭の熱狂に駆り立てるものは、一体何なのだろうか。
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さてここで、この諏訪大社下社春宮を訪ねたひとつの大きな理由について書いてしまおう。これは、私が今回岡谷近辺に立ち寄ろうと思った大きな理由。20年ほど前に一度訪れて、再訪したいと強く思っていた場所なのである。当時私たちは、未だ赤ん坊であった愛犬 (3年前に天国に行ってしまったビーグル犬、ルル) を連れてここに来たのだが、その際の記憶の通り、この春宮の横手に小川があって、こんな赤い橋が架かっている。
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そのとき私たちのビーグル犬は、この橋を怖がって渡れなかったことを昨日のことのように覚えている。足元から下の川が見えていたからかと思ったが、そこは鉄板であり、実際には川は見えない。だが、川の流れの音は聞こえてくるので、動物は本能的にそれを恐れるのであろうか。・・・と、亡き愛犬を偲んでいると、こんな注意書きが。人のノスタルジーに水を差さないで欲しいが、まあこれも切実な問題なのであろうか (笑)。
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さてこの橋の先に私のお目当てがある。これだ。
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これは一体何かというと、万治の石仏である。万治 3 (1660) 年に作られたと刻まれている、高さ 2.7mの石仏。日本には様々な石仏があって、中には国宝指定されているものもあるが、これは文化財指定はない。それは、一見すると素人が彫ったとしか思えないその素朴さが、いわゆる美的な価値に乏しいと学術的には判断されうるからだろう。だがこの石仏、一度見たら絶対忘れないインパクトがある。巨石には申し訳程度 (?) の仏の体が浅い線で刻まれ、その上に単純な造形の顔がチョコンと乗っている。そして、顔の中にデンと構える三角形の鼻は、なんとも異国的。
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年号である万治ならぬ「卍」が彫られているが、よく見るとこれはかぎ型が逆で、ちょうどナチスのハーケンクロイツと同じである。よく見ると「万治」の文字も見えるが、写真に撮るとちょっと分かりにくいか。
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ぐるりを回ってみると、より一層奇異な感じがする。これはどう見ても、巨石に頭が生えている感じだ。
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この強烈な仏さまには、我々現代人が普段忘れているような生命力があるように思う。この奇妙な石仏の存在感を 1970年代に絶賛した人がいて、その人の名は岡本太郎。そう、彼はまた、縄文土器の生命力を見出した人でもある。数々の貴重な縄文時代の遺跡が残るこのエリアに、こんなに破天荒で面白いものが作られたのも、その土地の精霊のなせるわざか。このような岡本太郎の手になる石碑も建てられている。それにしてもこの字、太郎の絵画そのままの躍動感ではないか。
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万治の石仏と 20年ぶりの再会を果たし、駐車場に戻ろうとすると、こんな建物が目に入った。
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その名の通り (「よいさ」とは祭のときの掛け声か?)、御柱祭に関する資料館である。規模はさほど大きなものではなく、比較的最近できたものであろうと思って調べると、2016年のオープン。中には、木落としを体験できるアトラクションや、祭の様子を再現したミニチュアなどがあって興味深い。今回は時間がなくて、駆け足の見学になってしまって残念。
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そして最後に向かったのは、諏訪大社下社秋宮。ここの駐車場はこんなだだっ広いが、実はこの場所、昔は武士の居城のあったところらしい。霞ヶ城 (別名手塚城) といい、木曽義仲の家臣であった、手塚太郎光盛の居城であったという。この光盛は義仲に従って源氏方として戦い、平家方の斎藤実盛を討ったが、実は実盛はもともと源氏方で、義仲の命の恩人であったという話が、平家物語のひとつのエピソードとしてあるらしく、能の「実盛」にもなっている。
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さてこの秋宮も、春宮と佇まいはよく似ている。ここでは、巨大なしめ縄を持つ神楽殿、そして、春宮と同じ幣拝殿と左右片拝殿が重要文化財。
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そしてここにも、御柱が屹立している。
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この諏訪湖近辺の土地は、日本の中でも有数の謎めいた場所であるように思われる。また機会があればさらに探訪してみたい。

by yokohama7474 | 2018-09-22 23:57 | 美術・旅行 | Comments(0)

長野県 諏訪湖近辺 その 1 岡谷市 (旧林家住宅、旧片倉組事務所)

このブログでも毎年採り上げている通り、8月下旬から 9月上旬にかけて長野県松本市で開かれるセイジ・オザワ・フェスティバル松本に出掛けるときには、長野県の歴史的な場所を訪れるのを常としている。今年も、先に採り上げた秋山和慶指揮のコンサートに向かう途中、どこに寄ろうかと考えて、久しぶりに行きたいと思った場所がひとつ。それから、これまで知らなかった面白そうな場所を発見した。その二か所とも、松本の少し南側、ということは、東京から向かうとちょうど松本への途上にある岡谷市にある。この記事では、2回に分けて、その二か所と、その関連の場所を採り上げることとする。まずこの記事では、私がこれまでその存在も知らなかったが、今回調べて興味を持った場所からご紹介しよう。それはこんな場所である。
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長野自動車道をバックに、何やら古い門構えが見える。その前にある駐車場には、このような看板が。
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ほぅ。これは重要文化財であり、シルクの館とも呼ばれ、その名称は「旧林家住宅」、つまり、林さんという人の旧宅である。林さんとは一体誰なのか。門の向こうにはこのような立派な日本家屋が。
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私が訪れたときにはほかに人影もほとんどなく、40分くらいをかけて、係の方に説明をして頂きながらの観覧となった。入ってすぐに見える肖像写真がこれだ。
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これは林国蔵夫妻。林国蔵 (1846 - 1916) とは誰かというと、この岡谷の地が日本の製糸業の中心であった頃、その発展を築いた三大製糸家のひとつ林家に生まれた人で、創始者、林倉太郎の息子である。因みに三大製糸家のほかのふたつは、片倉家 (兼太郎) と尾沢家 (金左衛門) である。このうち片倉の方は、かつての財閥であり、今でも企業が存続するほか、この岡谷からほど近い諏訪湖のほとりに片倉館という昔の厚生施設 (やはり重要文化財) もある。その片倉館は随分前に行ったことがあり、今回も時間が許せば行きたかったが、それは叶わなかった。このように岡谷では製糸業が盛んであり、この林家の邸宅は、明治 30年代から 10年ほどかけて建造された大変に立派な建物なのである。係の方の説明だと、結局主は完成後ここに 10年ほどしか暮らさず、その後一家は東京に移住して、その後は夏の別荘として使われていただけだという。そのせいだろう、建造から 110年ほどを経ても、あまり生活感なく、当時の姿そのままに保存されている。例えばこのような調度品も当時のものらしく、大変に重いという。
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これは下座敷と上座敷の間にある欄間の彫刻。下座敷側から見て、なんと見事な鶴だろうと思ったら、上座敷側から見ると、明らかにそちら側が表で、下座敷側から見えるのは裏側であったことが分かる。
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これは床の間の仕切り部分 (狆潜りというらしい。犬の狆が潜り抜けるという意味だろう) の彫刻で、柏に鷹。
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これはやはり上座敷の書院の欄間彫刻。ちょうど私が訪れたときにはシルエットになっていて、実に印象的だが、これは牛を連れた中国風の衣装の老人。
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そこからこのような中庭を通って進んで行く。手水鉢も銅製の置物で、手が込んでいる。
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さて、この奥の部屋には、何やら華麗な模様を持った派手な壁紙が並んでいる。それは何かというと、その部屋の上の階にある、ちょっとほかにはないような独特な場所の壁紙を再現したもの。そこに入るための入り口は、このように、なんの変哲もない押し入れのような襖である。これを開けると、狭い階段があり、何やら秘密めいている。
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そして 2階に入ってみて、あっと声を上げた。こんな部屋がそこには存在していたのである。
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これは和室の座敷であるが、天井も壁も、大変に凝った洋風の壁紙で飾られている。これは金唐革紙 (きんからかわがみ) というらしく、西洋風に見えるが和紙で作られている。明治の頃にウィーン万博に出品されて好評を博し、その後バッキンガム宮殿の壁も飾ったが、いつしか製造方法が忘れられてしまい、近年に至るまで復元不可能であったようだ。この座敷の壁紙は、色こそさすがに褪せてしまっているが、一種異様なまでのその装飾性は残っていて、何やら怪しい雰囲気がある。横の壁も、床の間の壁も天井も、一面にこの金唐革紙が貼られている。
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この部屋は現在も密閉されていて昼なお暗いのだが、このように扉の部分と壁紙の間には漆が塗られていて、水分が滲みてこない工夫がされているので、このような保存状態で残っているのだという。
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そして、あとで外に出て分かったことには、この部屋が暗いには理由があって、このような漆喰の蔵作りになっている。これだと、この中にまさかあのような華麗な装飾があるとは、外からは絶対に分からない。謎めいた地味な襖の入り口といい、本当に秘密めいた場所なのである。
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実はこの旧林家住宅にはもうひとつの顔がある。それは、この日本家屋と背中合わせに建っている洋館である。実は私がこの家を知ったのは、「浪漫あふれる信州の洋館」という本においてであった。この本は数年前にやはり松本を訪れた際に購入した本で、大変美しい長野県内の洋館の数々を紹介しているもの。日本家屋から入ると、このような玄関ホールを見ることができる。ここの天井も金唐革紙であろうか。
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面白いのは、隅にあるストーブだ。これも当時のもので、諏訪湖から天然ガスを引いていたという。日本初のガスストーブであるようだ。ちゃんとガスの栓もある。
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この洋館、現在は改修中で、外からはその美しい姿を見ることはできないのは残念だ。
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せっかくなので、通常の状態でのこの洋館の写真を拝借して掲載しておこう。
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さて、洋館からまた日本家屋に戻ると、まだいくつか見どころがあるのだが、大いに目を引くのはこの作り付けの仏壇だ。
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大変に細かい細工がされていて、感嘆の声を上げてしまうほどである。上部のカーブは、細かく木片を少しずつずらしているし、真ん中の迦陵頻伽 (かりょうびんが) も、なんともたおやかなのである。
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さらに、最後に通ることになる台所と使用人たちのスペースには、こんなものを見ることができる。これはいわば呼び鈴で、家族がどこかの部屋でボタンを押すと、その部屋の番号を覆っている金属がバタンと落ちて、部屋のナンバーが現れるというもの。なんと近代的な。
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このように、製糸工業華やかなりし頃の雰囲気を随所に感じることができる旧林家住宅、実に見どころ満載なのである。さて、せっかくなのでこの場所からほど近いところにある、もうひとつの近代の遺産を見に行こう。それはやはり「信州の洋館」に紹介されている、中央印刷社屋。
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これは現在では中央印刷という会社が使用しているのだが、実は、やはり製糸工業を行っていた片倉組の事務所であった建物。大正11 (1921) 年の建設である。今でも現役の社屋であるというのは大変なことだ。すぐ横には、片倉組発祥の地であることを記念する大きな石碑が立っている。
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製糸工業で沸いた近代の岡谷市の歴史に思いを馳せることのできる、貴重な体験であった。だが岡谷市とその周辺には、それだけではない顔もあるのだ。次回はそれをご紹介したい。

by yokohama7474 | 2018-09-22 01:36 | 美術・旅行 | Comments(0)

茨城県旅行 その 2 牛久市 (牛久大仏、牛久シャトー)

前項に続く茨城県日帰り安・近・短の旅の後半である。実はこの記事はまとめて長い一本にしてもよかったのだが、やはり二本に分けようと思ったのは、今回最初に採り上げる場所が、ちょっとなかなかないくらいの見どころであるからだ。1993年に造立されて以来既に 25年を経過しているが、私は残念なことにこれまで訪れる機会がなかった、牛久 (うしく) 大仏である。その高さは実に 120m。青銅製の立像としては世界最大である。高速を降りてしばらくすると、遠目にそのお姿が見えるようになり、近づいて行くと、その威容に圧倒される思いである。
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少し離れた場所から、正面に回ってお姿を拝むことができる。そのあたりは大規模な墓地になっていて、ここ牛久の地で大仏様とともに安らかに眠る人たちの憩いの場所でもある。この大仏が阿弥陀仏であることを思い出す。
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仏像好きの私はまた、日本各地に存在する近代に造立された「大仏」にもかなりの興味があり、その種の書物を何冊も持っている。一部書物名を挙げると、「大仏をめぐろう」「ぬっとあったものと、ぬっとあるもの」「晴れた日は巨大仏を見に」「夢みる巨大仏」など。いずれも巨大仏愛 (?) に溢れた読み応え充分の書物ばかりであるが、今年の 1月に刊行された半田カメラという人の労作である「夢みる巨大仏」には、この牛久大仏は、「巨大仏の最終形態 日本一いや世界一の大仏」として紹介されている。初めて出会ったときの衝撃が述べられていて、「牛久大仏の魅力はたくさんありますが、まずどこから観てもフォトジェニック」とある。いや実際現地に足を運んでみて、私もその言葉に深く同感する。つまり、世の中にある大仏というものは、彫刻としての出来にはどうも課題が多いものがほとんどだ。その点この牛久大仏は、立ち姿もお顔も大変に凛々しく、120mという巨大さを思わせないほど美しい彫刻だ。その大きさがどのくらいか想像しにくい人でも、あの奈良の大仏 (16m) が掌にすっぽり収まる大きさだと聞けば、いかに大きいかについてのイメージは沸くであろう。そして、実際にここに行って初めて分かるのは、大仏の結構近くを多くの飛行機が通り過ぎる。それは、成田に向かう飛行機なのか、あるいは茨城空港か。私もなんとか、短いシャッターチャンスを生かしてこんな写真を撮ることができた。合成ではありませんよ (笑)。
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そして車を停め、正面に回ってみる。この手の近代の宗教施設は、新興宗教によるものだったり、企業によるものだったり、地方自治体によるものだったり、様々であると思うが、ここは浄土真宗東本願寺派の施設なのである。実は浄土真宗の開祖親鸞上人は 20年に亘ってここ茨城の地で布教活動を行い、代表作である「教行信証」も、この常陸の国で書かれたという。
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いやそれにしても、視界を遮るものが全くない青空をバックにしての、この大仏の壮大な美しさは、ちょっとほかにないものである。この彫像が示しているのは、実際の大仏の顔のヴォリュームはこの仏様の実に 1000倍!! に当たるということ。
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そして、世界で最も高い青銅製立像としてギネスブックの認定を受けていることが、誇らしげに喧伝されている。実は Wiki で、英語版しかないものの、"List of tallest statues" という項目があり、それを見ると、世界 1位は中国の 153mの彫像、2位はミャンマーで 129m。我が牛久大仏は世界 3位の高さであるが、青銅製ということと、それから、彫刻としての完成度は、間違いなく他の追随を許さないものである。
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しばらく進むとこのような門がある。
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この門を入って見上げる大仏の崇高なことも感動的だが、実はここで振り返ると、この門の上の層に祀られている釈迦三尊の前のガラスに阿弥陀大仏が反射し、ふたつの仏様を同時に拝むことができるという趣向。
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見上げながら近づいて行くと、もうシャッターを切りまくってしまうのである。胸に三本の切れ込みがある理由は、あとで判明する。
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そして、いよいよ胎内へ。最初はこのような幻想的な空間を歩き、階段で 2階に上る。
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そしてエレベーターで地上 85m地点まで一気に上る。ここはちょうど大仏の胸のあたり。実は上で見た三本の切れ込みであるが、そのいずれから地上を見ても同じ景色が見えるとのこと。なるほど実際にそうであった。人生、たとえ人によって取る道が違っても、過たなければ同じ地点に達することができるのである。
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そして興味深いのは、10年に亘る大仏が完成するまでの期間に撮影された写真の展示。これは何やらシュールな感じまで覚えるし、そこで売っていた建造途中の写真集も購入してしまったのである。
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そしてまたエレベーターで 3階へ。ここには 3,400体の胎内仏が祀られていて、まさに圧巻。寄進者の名前がずらりと表示されていた。
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さてこのような、ちょっとほかで見ることのできない光景を堪能し、帰ろうかと思うと、ちょっと待て。何やら外に出ることができるらしい。実は私たちが訪れた際、この場所に気づいた人はほかにおらず、なんと惜しいことかと思ったものだ。もしこれから牛久大仏に行かれる方は、是非気を付けて頂いて、ここを見落とさないようにして頂きたい。要するに、金箔を購入して、大仏の台座の蓮弁に張ることができるのだ。
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つまりこれは、大仏のすぐ足元ということ。こんな写真が撮れて、本当に感動的な場所なのである。是非是非、お見逃しなきよう!!
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この巨大なモニュメントを辞して最後に向かった場所は、ワインの醸造所。え、なに? 茨城県にワインの醸造所??? そうなのだ。こんな建物である。「牛久シャトー」または「シャトーカミヤ」と呼ばれている。なんと洒落たヨーロッパ風の建物であろうか。
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多分、このブログを読んで頂いている方の中でも、「牛久シャトー」と聞いて、「あれ? どこかで聞いたような」と思う人はまず皆無であろう。だが実は、7月14日付の旧軽井沢散策の記事に、その名が出てくる。つまり、軽井沢を代表する歴史建築として重要文化財に指定されている旧三笠ホテルを設計した岡田時太郎 (辰野金吾の弟子) の作品が、この牛久シャトーなのである。実はこの場所、旧三笠ホテルと同じく、重要文化財。上で見た本館に加え、旧醸造室、旧貯蔵庫 (現在ではレストラン) の 3棟が重文指定を受けているのである。この写真の奥が旧醸造室。1903年の完成というから、今から実に 115年前である。
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こんな場所にこんな時代にこんなものを作ったのは誰かというと、神谷伝兵衛というひと。旧醸造室でその人がどんな人であったのか、また、ここでのワイン作りがどのようにして発展して行ったのかを知ることができる。「神谷伝兵衛記念館」の文字を見て足を踏み入れると、なんとそこには、以前使われていたことが明白な巨大な樽の数々が未だに存在している。
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数々の資料は 2階に展示されている。まず目に入るポスターは、日本のモダニズムに興味を持つ私のような人間にとっては既知のもの。なるほど。ハチミツの入ったハチブドー酒という奴だ。
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そして、創始者神谷伝兵衛 (1856 - 1922) はこんな人。
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彼は三河の出身で、1886年、浅草に日本初の酒の量り売りの店を開く。その後上記のハチブドー酒の販売に乗り出し、ついにはここ牛久でワインの醸造に乗り出したという大胆な人物。これは 1905年頃のシャトー。手前に葡萄畑が見える。
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その 6年後、1911年にはこのように発展する。
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これは大正のはじめ、皇族を迎える神谷 (後列左から 4人目)。このシャトーの門は、今と全く同じである。
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上記の通り、1886年に彼が浅草で量り売りを始めた場所は実は今でもある。そう、もちろんあの神谷バーだ。私のように、昭和の不良インテリである小林秀雄などに憧れる人間としては、その神谷バーの電気ブランというカクテルには特別の思い入れがある。何度か飲みに行ったことがあり、まぁそれほどうまいとは思わなかったが (笑)。
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この神谷バーの発祥の店を始めた際の道具類がこれらしい。のれんに「三河屋」とあるが、これが当時の店名。そういえば酒屋と言えば、「サザエさん」の例を引くまでもなく三河屋という名前が多い。なぜかと思って調べてみると、三河では醸造業が盛んであり、江戸時代に多くの味噌・醤油業者がその商号を使ったという歴史があるらしい。三河出身の神谷も、その商号の定着に貢献しているのかもしれない。
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これは 1912年、向島別荘での神谷。なんとも立派な暮らしぶりであるが、近所に住んでいた勝海舟や榎本武揚も訪ねてきたのだという。
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それからこれが、千葉の稲毛にある神谷の別荘。ここは現在でも千葉市の施設として保存されていて、私も以前から目をつけている場所。いずれ現地を訪れてレポートすることとしたい。
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そして地下に入ると薄暗い中に樽が延々と並んでおり、また、様々にワイン作りの試行錯誤を重ねた研究の跡も見ることができる。
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もちろんそこにはワインショップも併設されていて、100年以上に亘るこの地でのワイン作りの伝統を伝えている。でも、電気ブランはともかく、今でもここでワインを作っているのだろうか。
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そうして帰りがけ、シャトーから道を挟んだところにある駐車場のすぐ隣に、おっ、なんと、小さいながらも葡萄畑を発見。へぇー、日本のワイン王神谷伝兵衛の夢は、未だこの場所に息づいているのである!!
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このように、素晴らしいフォトジェニックな大仏様のあとに、ワイン王の残した近代の遺産に触れるというのも、なかなかに貴重な体験だ。茨城安・近・短の旅は、是非お薦めしたいものなのである。

by yokohama7474 | 2018-09-20 00:23 | 美術・旅行 | Comments(0)


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