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プラド美術館展 ヴェラスケスと絵画の栄光 国立西洋美術館

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もう随分と昔のことになるが、1997年と 1999年のそれぞれ、1ヶ月以上に亘って出張でマドリッドに滞在したことがあった。スペイン人との交渉はなかなかに困難なのであるが、私の場合は、交渉の難航による感情的な対立のあとに、長いランチにおいてスペイン絵画やスペイン映画の話をすることで、彼らから一種の信頼を勝ち得るということができたので、ビジネスも最終的には成果を挙げることができたのだった (笑)。芸は身を助くとはよく言ったものである。そんなわけで、マドリッドにある世界有数の美術館であるプラド美術館は、私にとっては大変身近に感じる存在なのであり、今回はそのプラドから、ヴェラスケスが 7点もやってくると聞いて、大変嬉しく思った。3ヶ月を超える期間も既に最終盤に入っているが、私が出掛けたのは未だ展覧会の初期の頃で、会場の国立西洋美術館はガラガラであった。今では少しは盛況になっていて欲しいものだと思うが、さて、どうだろう。

この展覧会が、少なくとも最初の頃には大入りになっていなかった理由は何だろう。多分それは、ヴェラスケスという画家へのなじみのなさなのではないだろうか。あ、ここでひとつ注釈しておくと、展覧会の副題は「ベラスケスと絵画の栄光」であるが、私にとってはこの画家の表記は「ヴェラスケス」でしかありえないので、この記事でもそれを貫くこととしたい。そのヴェラスケス、もちろんこのプラドの「ラス・メニーナス」や、ウィーンにあるマルガリータ王女の肖像など、誰でも知っている有名な作品もある。だが、なぜだろう、イタリア・ルネサンスの巨匠たちとか、あるいはレンブラント、ルーベンスという近い時代の画家たちと比べても、その名が日本で広く知られているというイメージは少ない。ディエゴ・ヴェラスケス (1599 - 1660) は、スペインがその勢力の絶頂期を終えた 17世紀に、時の国王フェリペ 4世の宮廷画家として活躍した人。その絵画表現は時代を超えていて、王家の人たちを様々に描いたほか、貴族社会の中でそれまで描かれることのなかったような人たちを描き、神話の世界を現実に取材して描くような大胆なことを行ったのである。では、この展覧会に展示されているヴェラスケスの作品 7点をお目にかけよう。まず最初は、「フアン・マルティネス・モンタニェースの肖像」(1635年頃作)。モデルとなっている人物は彫刻家である。おぉ、なるほど。この人の右下に見えるマンガのような人の顔は、制作途中の彫刻であるわけだ。それにしても、「よぅよぅ、ちゃんと彫ってくれよな」と言いたげな彫刻の表情が面白い。
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2点目は「メニッポス」(1638年頃作)。古代ギリシャの哲学者だそうである。だが彼の表情は大変人懐っこく、きっと実在のモデルがいたのではないかと思わせる。確かな人間存在を描くのがヴェラスケスの手腕である。
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さて、3点目は結構有名な作品で、「マルス」(1638年頃作)。戦いの神にしてはその露わな肌には皺がより、一体こんなところで何を休んでいるのか!! と思わせる (笑)。これは画家の資質もあるが、このような作品をギリシャ神話の神の肖像として描くことを許したスペイン王家の懐の深さが面白い。上述の通り、ヴェラスケスが活躍していたのは、既にスペインの絶頂期 (つまりフェリペ 2世の時代) を過ぎている。それゆえにこそ、このような自由な芸術が生まれたのかもしれないし、あるいはまた、ヴェラスケスこそは時代を超えたリアリズムを追求した、特別な画家であったとも言えるかもしれない。
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そのヴェラスケスが仕えたフェリペ 4世はこんな人。この作品はヴェラスケスの 4点目の作品、「狩猟服姿のフェリペ 4世」(1632- 34年作)。この長い顎はスペイン・ハプスブルク家の伝統らしいが、リアリストのヴェラスケスは、そのような王の容貌をリアルに捉えながらも、王の肖像としえふさわしい威厳には気を遣っているように思われる。左足の位置の修正が肉眼でも見えるのは、王の肖像の完成作としては少し意外に映る。この痕跡を消すことくらい、きっとできたはずだ。それをせずに痕跡を残したヴェラスケスの真意は、一体どこにあったのだろうか。
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そして 5点目。これも有名な作品で、「バリェーカスの少年」(1635 - 38年作)。一目見て分かる通り、当時宮廷にいた障害者の少年を描いている。ここにもリアリスト、ヴェラスケスの透徹した目を感じることができるが、それは貴族趣味的な感性からは極めて遠く、描かれる対象の実在感を過たず描き出している。やはりここに画家の近代性とともに、ヒューマニズムを感じることができるだろう。
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6点目は、本展覧会の目玉であり、ポスターにも使われている「王太子バルタザール・カルロス騎馬像」(1635年頃) である。これは高さ 2mを超える大作であり、フェリペ 4世の息子の凛々しい騎馬像である。背景の雲にも表情を与えつつ、空と山のブルーがなんとも目に心地よい。また、王子の表情もリアルであり、なんとも可愛らしいではないか。ただ、この王子は 1646年、17歳で病死している。王位を継承することのなかった王子は、ヴェラスケスの手によって、永遠に 10歳ほどの幼児として、歴史にその姿を残したのである。
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最後、7点目のヴェラスケスの作品は、「東宝三博士の礼拝」(1619年)。ヴェラスケスわずか 20歳の頃の作品である。この絵の聖母マリアは彼の妻フアナ・パチェーコ、キリストはこの年に生まれた娘のフランシスカ、そして跪く人物は、画家自身をモデルにしていると言われているらしい。20歳にしてこの技量は、やはり素晴らしいし、身の回りの人たちを宗教画のモデルにするあたりは、その後リアルな視点で数々の名作を描くことになる偉大なる画家の足跡として、実に説得力がある。
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さて、展覧会には、これらヴェラスケスの作品以外にも、スペインの巨匠画家の作品や、オランダやイタリアの画家たちの作品が並んでいて圧巻だ。もちろんすべてプラド美術館の所蔵品である。その中で、私が気になった 4点のみを以下にご紹介しよう。まず、エル・グレコ (1541 - 1614) とその工房による「聖顔」(1586 - 95年作)。エル・グレコはギリシャ出身ながら、スペインで活躍した画家であり、私にとっては、西洋美術史におけるベスト 10の画家に入るほどの偉大な画家だ。ヴェールに残ったキリストの顔であるが、その若干硬い線に、この画家の個性を見る。工房の手が加わっていると見られているようで、確かにエル・グレコ自身の最も偉大な作品群に比べると大人しいが、しかし、その現実を超えたドラマ性は、実に素晴らしいと思う。
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次は、スペイン・バロックを代表する画家のひとりでヴェラスケスの同時代人、フランシスコ・デ・スルバラン (1598 - 1664) の「磔刑のキリストと画家」(1650年頃作)。なんと、磔になったキリストに対し、パレットを持った画家が何やら語りかけている場面であり、これは珍しい。当然この画家はスルバラン自身かと思いきや、これまで彼の肖像画として確実なものはないらしく、その点は明確ではないらしい。だが、灰色のトーンで描かれるこの構図には、静かなドラマを感じることができる。
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それからこれは、いわずと知れたヴェネツィア・ルネサンスの巨匠、ティツィアーノ (1488/90頃 - 1576) の「音楽にくつろぐヴィーナス」(1550年頃作)。似たような構図の作品が幾つかあるが、なんとも艶のある作品だ。私はいつも不思議に思うのだが、この作品でオルガンを弾いている音楽家は、ちょっと後ろに身をよじりすぎではないだろうか (笑)。これではオルガンなど弾けるわけもないだろう。よく見るとヴィーナスの左足はこの音楽家の背中に届いており、もしかすると、ヴィーナスがツンツンと突っついたために、音楽家が思わず振り向いたということかもしれない。いや、それにしても振り向きすぎだろ、これ (笑)。
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最後に異色作品を。ビセンテ・カルドゥーチという画家の作とされている「巨大な男性頭部」(1634年頃)。縦 246cm、横 205cmの巨大な作品である。これは宮殿の中に飾られていたことは確実視されているが、その題材は謎のようである。なんらかの意味があって巨人を描いたものであるらしい。西洋美術の歴史には、このような突然変異のような作品が時々現れる。そう思ってみると、これは近代のメキシコあたりの作品と言われても納得してしまいそうだ。この作品の持つ一種異様な迫力を、私は会場で存分に味わったのである。
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その他、有名無名の作品が多く展覧されていて、プラド美術館の所蔵品のレヴェルの高さが実感できるのである。そして、実際に現地に足を運んでみると、展示作品があまりに多いため、ひとつひとつをゆっくり感傷することは、時間的にも気分的にもなかなかできないので、このような展覧会で、えりすぐりの作品を楽しむ価値は、大いにあるだろう。西洋美術館での会期は 5/27 (日) までなので、首都圏の方には急いで頂く必要がある。関西の方々には、6/13 (水) から 4ヶ月間、兵庫県立美術館でこの展覧会を見ることができる。私も、もう一度見てもよいかなぁと、思い返しているところであります。

by yokohama7474 | 2018-05-22 01:23 | 美術・旅行 | Comments(0)  

京都 宇治 平等院、萬福寺、三室戸寺、宇治上神社、旧白川金色院、白山神社、地蔵院

今回採り上げるのは、京都府南部の宇治市の寺社である。私は年明けに京都に滞在し、実はこの地の代表的な観光地である平等院を訪れたことは、既に記事にした。今回の訪問は、今年の 3月18日。つまり、今から 1ヶ月半も前である。ちょうどその日私は、ロームシアター京都で行われた小澤征爾音楽塾の「子どもと魔法」「ジャンニ・スキッキ」の公演を見たのであるが、公演開始の 15時までの時間を有効活動すべく、京都のどこかを訪ねたいと考えたものである。それがなぜに宇治であったのかについてはこれから述べようと思うが、たまたま今日 (5/5)、NHK の「ブラタモリ」は宇治特集であった。うーん、こういうことも何かの巡りあわせかと勝手に考えて、いつもの通り多摩川沿いの自宅から、宇治川沿いの土地を思い出し、徒然なるままに紀行文を綴って行きたい。

さてここで突然話題が変わるのだが、私の好きな英語のフレーズに、"ring a bell" というものがある。文字通り「鐘を鳴らす」ということなのだが、この使い方が面白い。例えば誰かの名前を引き合いに出して、その人を知っているかと問うと、"That name rings a bell." などという返事をもらうことがある。頭の奥でリンリンとベルが鳴っている、つまり、何か聞き覚えがあるのだけれどはっきり思い出せない状態を指して言うのである。私のように 50を超えてしまうと、昨日の出来事ですら "ring a bell" 状態で思い出ないこともしばしばであるが (笑)、でも、遠い昔の記憶が ring a bell という状態は、結構日常の中にあるのではないか。実は私は正月に宇治平等院を訪れたとき、そのような感覚を持ったものであった。そのときの紀行文は今年 2月 4日付の記事に書いていて、平等院のあとに橋寺放生院を訪れたのだが、実はその間、ring a bell 状態だったのである。確か小学生の頃、つまりは 40年ほども前のことだが、平等院からそれほど遠くない小さな寺を訪ねたことがある。そしてそのとき、舗装された道に古い門が残されていて、そこは何か姫にまつわる逸話があったはず・・・。だが 1月の時点では、既に夕刻に近づいていたこともあって、それ以上思い出したり、その場でネット検索できなかったのだ。そこで今回私が宇治に出掛けたのは、その ring a bell 状態の解消がひとつの目的であったのだ。それについては追って述べることとしよう。というのも、もちろんもうひとつの宇治訪問の目的は、1月に果たせなかった、平等院鳳凰堂の内部の拝観であったからだ。
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東京を朝出て、京都駅近辺でレンタカーを借りて、この平等院に着いたのは 9時15分くらいであろうか。昔と違って平等院鳳凰堂は、保存のため、一日に堂内に入れる人数を制限している。前回は夕方の訪問であったので、久しぶりに内部に入る機会を逸したのだが、今回は大丈夫。このような時刻指定のチケットを無事ゲット。
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定刻の 10分前に集合がかかっているが、それまで時間を持て余すことなどありえない。何度見ても惚れ惚れする鳳凰堂の姿を愛で、宝物館である鳳翔館を見、それ以外にも境内の古い建物や歴史的遺物を見ることで、すぐに時間は経ってしまう。たとえばこれは、源頼政 (1104 - 1180) の墓。
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頼政は平安時代の武将・歌人であり、頼朝の家系とは親戚筋であって直系ではないが、鵺 (ぬえ) 退治の伝説でも知られる人である。ここ宇治で、平氏打倒の戦いの中で命を落とした (が、当時としては充分長生きな人であったわけだ)。これが、歌川国芳描くところの、頼政の鵺退治。
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それから鳳凰堂自体も、時間帯や季節による日差しの加減はあると思うが、このときには対岸から、壁にかけられた雲中供養菩薩像の一群や、本尊阿弥陀如来の姿を遠目に見ることができて、なんとも感動的であった。
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そして待望の 9時50分が来て、堂内へ。もちろん撮影禁止なので、私がそこで撮った写真はないのだが、借りてきた写真でご紹介すると、これが内部の様子。1053年に作られてから 950年間、色は褪せてしまったものの、その姿がまるごと現代に伝えられた奇跡の造形だ。
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鳳凰堂の内部では係の人の説明があったのだが、大変興味深かったのは、阿弥陀如来の額に埋まった石 (白毫、びゃくごう、と呼ぶ) が、堂内では黒く見えたのに、正面から堂を出ようとして振り返ると、白く見えるということ。光の加減とはいえ、こういう現象に出会うことで、人々の信仰心は深まるのだろうと思う。
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さて、宇治と言えば、平等院と並んで有名なのは、黄檗山萬福寺 (おうばくさん まんぷくじ) である。名僧隠元 (インゲン豆で有名なあのインゲンさんだ) が 1661年に開いた禅寺であり、その最たる特色は、建物や仏像の造形が著しく中国的であるということだ。私はこのお寺の独特の雰囲気が好きで、子供の頃から何度となく訪れているが、近隣の平等院と異なり、今でもそれほど観光客でごった返さない点に、好感が持てる (たまたま観光バスが来ていないタイミングだったからかもしれないが)。
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設立当初からの伽藍が残っており、そのことごとくが重要文化財。またこの寺は、ほかの京都の多くの禅寺同様、今でも僧たちが修行に励んでいるのである。建物同様、仏像も独特で面白いのだが、これらは最初に目にはいる天王殿という建物の本尊、布袋と、堂内に安置された堂々たる四天王。太鼓腹の布袋さんは、禅では弥勒如来の化身とされる。そのあたりのシュール感が禅らしくていいですねぇ!!
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さて、一般の寺院で言う本堂にあたる大雄宝殿には、釈迦三尊像と、それから大変ユニークな等身大の十八羅漢がおわします。中でも、胸を割いて仏の顔を出している羅怙羅尊者像のユニークさは、格別である。「仏はここにあり」と唱えておられるのだろうか。
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さて、萬福寺を辞して向かった先は、三室戸寺 (みむろとじ)。770年の創建という伝承を持つ古刹で、西国三十三か所の第 10番札所である。
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実は私はこの寺とは今まであまり縁がなく、多分今回が人生で 2度目の訪問ではないだろうか。それというのも、所蔵する仏像を通常は拝観できないからである。だが、ちょうど今頃 (5月) はツツジがきれいであろうし、私が訪れた 3月でも、境内の雰囲気はなかなかに清々しいものであった。これが本堂と三重塔。いずれも江戸時代の建築である。
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そして、重要文化財の仏像をいくつも収めた収蔵庫があるのだが、ご覧の通り、毎月 17日にのみ公開される。うーん、今度また 17日に参拝するしかないか。
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さぁそして、次に訪れたのが、私にとっての ring a bell の場所であったのだが、それは一旦飛ばして、少しメジャーな場所のご紹介をしよう。これは恥ずかしながら私も今回初めて訪れたのだが、宇治上 (うじがみ) 神社である。下の写真にある通り、ここは世界遺産の指定を受けているのだ。
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より正確には、1994年に世界遺産に認定された「古都京都の文化財」に含まれる 17件のうちのひとつがこの神社なのである。宇治市内では平等院とここ宇治上神社だけであり、また 17件のうち、神社は、ほかには上賀茂神社と下鴨神社しかない。そのように、この神社が大変貴重な文化財と認定されている理由としては、国宝に指定された 2つの建築が挙げられよう。拝殿 (鎌倉時代前期)、そして本殿 (平安時代末期!!) である。まさに神韻縹渺たる建物と言えるだろう。
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隣接した宇治神社にもまた重要文化財があり、この土地の古い歴史に思いを馳せるには、最適の場所なのである。・・・さてここで、一般的な宇治観光からちょっと離れ、ここでひとつの写真をお目にかけよう。
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この可愛らしい白鳳時代の小金銅仏こそ、正月に宇治に出掛けたときの私の ring a bell 現象の正体である。そう、今から 40年前、私は平等院から足を延ばして (多分徒歩で)、この仏像を見に行ったのである。これは、地蔵院というお寺が所蔵する重要文化財、阿閦 (あしゅく) 如来立像。もともとこの地にあった白川金色院 (しらかわこんじきいん) という大寺院の遺物であると言われている。この金色院、藤原道長 (もちろん摂関政治の頂点に立った人で、平等院は、もともとこの人の別荘を息子の頼道が寺にしたもの) の孫である寛子 (かんし、後冷泉天皇の皇后) が 1102年に建立したもの。そうだ、私の遥かな記憶は、ここでつながった。輝く七堂伽藍を誇りながら、今では全くこの世から消えてしまった金色院の痕跡は唯一、小さな門に残っているはずだ。その記憶を辿り、今度は便利なインターネットでの検索を駆使して、とうとう辿り着いた。これである。
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これは旧金色院の惣門であるが、大変簡素な造り。文化財指定を受けていないようで、ご覧の通り、道路の途中にその姿をとどめていて、その存在は唐突でありながらも極めて地味。近くに寄ってみると、かなり傷みが目立つ。40年ぶりの再会には、なんとも淋しい思いが伴った。が、しかし一方では、この門が未だここにこうして存在してくれているだけで、勇気づけられるようにも思われるのである。
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この金色院の発掘調査は、ようやく 1993年に入ってから始められたようで、近辺にはいくつか石碑や案内板も設置されてはいる。だが、まさにここに漂うのは「つわものどもの夢のあと」という無情感である。金色院の輝かしい伽藍は、一体どのようなものであったのだろうか。
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この金色院とゆかりの白山神社は、今でも小規模ながら存続している。苔むした石段を登って行くと、珍しい茅葺の拝殿が見える。なんと鎌倉時代の建築で、重要文化財。神秘的な佇まいである。
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そう、そして地蔵院である。この寺には、上記の阿閦如来をはじめ、数体の金色院の仏像が伝来している。だが、その場所を見つけるのに一苦労し、ようやく辿り着いたのだが、その非常に狭い境内は、全く森閑として人の気配もない。
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実は事前に分かっていたことなのだが、私が 40年前に対面することのできた上記の阿閦如来像を含む 3体の重要文化財の仏像は、1991年にこの寺から盗み出されていて、以来その行方が分かっていないらしい。・・・なんと痛ましいことであろうか。確かに一時期、各地の寺から仏像が盗まれる事態が相次いだが、この阿閦如来のように小ぶりな仏像は、卑劣な窃盗犯の手によって、どこかに持ち去られてしまったわけである。40年前の思い出が ring a bell した結果がこれだったか。本当にやるせない思いに囚われてしまう。実は私が上記の阿閦如来の写真を拝借したのは、とある古い本からなのであるが、その本におけるこの仏像の紹介記事には、お寺の人は収蔵庫を開けて、訪問客を残したまま庫裏に戻ってしまったとある。私も経験があるが、のどかな時代には、それが当たり前であった。そこに窃盗犯がつけ込むことになろうとは、人を疑うことのない善意に満ちた寺の人たちは、全く予想しなかったに違いない。現在は堅く扉を閉ざしたこの寺の小さな収蔵庫の前で、なんとかこの貴重な仏像が無事返還される日が来ますようにと、祈りを捧げることしかできなかった。

このように宇治の地には、平等院以外にも様々な歴史的な場所があって、興味は尽きない。宇治川の流れはこのように、まるでこの土地名産のお茶のような色である。今後宇治茶を飲むときには、その土地の歴史に思いを馳せることとしようではないか。
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by yokohama7474 | 2018-05-05 23:57 | 美術・旅行 | Comments(0)  

ルドン --- 秘密の花園 三菱一号館美術館

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オディロン・ルドン (1840 - 1916) は世紀末の雰囲気漂う作風のフランスの画家で、象徴主義に分類されることが多い。だが、この「〇〇主義」という奴は曲者で、なんとなく芸術家の持ち味を整理してくれる便利な分類である一方で、その芸術家の多様な個性を単純化してしまう弊害がつきまとう。よく知っていると思っている画家でも、作品を見れば見るほどに、その多様性に打たれることが多い。現在、東京・丸の内の三菱一号館美術館で開かれているこの展覧会も、この既知の画家の奥行を実感できるという意味で、見逃せない内容なのである。まず最初に一枚の大作の写真をご覧に入れよう。キャンバスにパステルで描かれた、縦 248cm、横 163cm の大作で、題名は「グラン・ブーケ」、つまり巨大な花束という意味である。
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これはルドンの作品の中でも恐らく最大級の大きさを誇るものであろうし、1901年というその制作年にも関わらず、その瑞々しい色彩は未だ充分に保たれている点も驚きだ。実はこの作品を所蔵するのが、今回の展覧会の会場である三菱一号館美術館なのである。これはもともとブルゴーニュ地方の小村にあるドムシー男爵という人の館の食堂に設置された壁画であるが、今回の展覧会では、現在ではオルセー美術館が所蔵する同じ食堂のほかの壁画の数々と並んで、展示されている。そして、国内外から集められた様々なルドンの作品によって、この画家の特異な資質に迫ろうという試みが、この展覧会なのである。とはいえ、この画家になじみのない人が、ゼロから何かイメージを持つというよりは、既にこの画家について一定のイメージのある人が、そのイメージを辿り、最後にこの「グラン・ブーケ」に辿り着いて感動するというパターンが想定されやすい内容かと思う。つまり、決してルドンの画業全体に迫る展覧会ではなく、初期のモノクロのイメージを経て、この極彩色に至る、その過程を楽しむ展覧会だと思う。

これは1875年頃の「木々の習作」。紙に木炭で描いたもの。ただ、立ち枯れの木を描いているだけであるが、何やら不気味な感じがすることこそ、ルドンの作品たるゆえんである。
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かと思うと、ルドンは決して初期の頃はモノクロの絵ばかりを描いていたわけではない。これは、制作年不詳ながら、明るい色彩で風景を描いた作品で、「風景」という題名で展示されている。だがもちろんここにも、人の気配すらない風景に不気味さを感じることができる。ルドンは、印象派のように、実際に目に見えるものを再現したのではない。彼の心の目に映る世界をそのままかたちとしたのである。
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これも少し傾向の近い作品で、「パイルルバードの小道」(制作年不詳)。ここには鳥という生命体が描かれてはいるものの、これが無人の景色であることを却って強調する存在となっている。手前の木に茂る花々は輪郭を失っており、このあたりにもルドンらしさがほの見える。
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ルドンは何人かの教師について絵を学んでいるが、ボルドー生まれの彼は、パリに出て勉強しても納得がいかなかったのか、また故郷に戻っている。ボルドー出身で、放浪の版画家と言われたルドルフ・ブレスダン (1822 - 1885) には、1865年頃に師事したらしい。このブレスダンという画家、私もどこかで名前を聞いたことがあるという程度であるが (多分、ルドンについてのどこかの文章でその名に触れたのかも)、この「善きサマリア人」(1861年) を見ると、その執拗な細密描写に、異様な迫力を感じる。ルドンの作風とは随分と異なってはいるものの、夜のイメージや人間の深層心理に働きかける感性などには、このブレスダンからの影響があるということにもなろう。
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そのブレスダンの肖像と言われる作品を、ルドンは残している。1886年、ということはブレスダンの死の翌年だが、「夜」という版画集の「老年に」という作品である。もやっと浮き上がった孤独な老人の横顔に、世界の闇を見た版画家の透徹した視線を想像できる。
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ルドンのモノクロ版画は、画家の前半生の創作活動の重要な部分を担っていることは事実だろう。一見すると不気味で閉鎖的で、偏執狂的にすら思われるその一群のモノクロ版画はしかし、なじむほどにその人間性とユーモアを訴えかけてくるように思う。その点が、例えばフェシリアン・ロップスとかアルフレート・クビーンの、退廃性極まる作品とは異なる点である。これは「夢の中で」という連作の中の「賭博師」(1879年作)。不気味に佇む木々の横を、大きなサイコロを頭の上に担いだ男が大股に歩いて行く。まさに夢の中のワンシーンのようなシュールさであるが、だが、人はこれを見て絶望的な気分になるとは思われない。
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もう少しルドンのモノクロ版画を見てみたい。これは、「ゴヤ頌」という版画集から「沼の花、悲しげな人間の顔」(1885年作)。これも現実離れした、一度見たら忘れない強烈なヴィジョンではあるが、題名の通り悲哀を感じさせるもので、そこには人間性を見ることができる。
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これは「夢想 (わが友アルマン・クラヴォーの思い出に)」というシリーズから「かげった翼の下で、黒い存在が激しく噛みついていた・・・」(1891年作)。この連作を捧げられたアルマン・クラヴォーは植物学者で、当時まだ珍しかった顕微鏡を使って微生物の研究をしていた。ルドンの描く情景には、まさに微生物を思わせるものもあるが、それはこのクラヴォーの影響によるもの。上でも書いた通り、ルドンの興味は、実際に人間の目に見えている風景ではなく、見えないけれども存在する世界であって、この特異な画家にとってそのような不可視の世界こそ、目の前の世界よりも興味を惹くものであったことだろう。
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そのような感性は、この作品にも如実に表れている。「陪審員」というシリーズから、そのものズバリ、「目に見えぬ世界は存在しないのか?」という作品 (1887年作)。それにしてもこの作品、顕微鏡下の世界に啓示を受けているにせよ、今どきの言葉で言うと「キモカワイイ」ことで、何か人の心に残るものがあるのである。
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ルドンが色彩に目覚めたのは 1890年頃、50歳に至ってからであると言われている。色彩を使った作品にもこの画家の感性がよく表れていて素晴らしい。これは「キャリバンの眠り」(1885 - 90年作)。キャリバンとは言うまでもなく、シェイクスピアの戯曲「テンペスト」に出て来る異形の存在であるが、どこか仏教彫刻のようにも見えるキャリバンの周りには、既にモノクロ時代に現れていた立ち枯れの木や、光を放ったり羽根が生えていたりする浮遊する顔たちがあり、森の中のようにも見えるし、海底のようにも見える。
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ルドンにしては非常に異色な作品も展示されている。それはこの「ドムシー男爵夫人の肖像」(1900年作)。彼がこんなにまともに人間の顔を描いた例が、ほかにあるだろうか。これは遥か後年のバルチュスすら思わせるような白昼夢的な印象の作品で、興味尽きないのであるが、ここで描かれているドムシー男爵夫人とは、冒頭の方で述べた、本展のメインとなっている壁画群をルドンに発注した人物である。男爵からの壁画の依頼は 1900年頃であったようだから、依頼主の妻の肖像も同時に依頼されたということであろうか。
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さて、展覧会ではオルセー美術館所蔵の、大小様々な壁画群が展示されている。これらは大変自由な美しい絵であるが、いわゆる一般的な意味での写実性を欠いている点、まさにルドンの個性を強く刻印したものだ。植物がメインだが、2点の作品には人物も描かれていて、その服装を含めて神秘的な雰囲気である。
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ここで展覧会は、「グラン・ブーケ」の展示によってクライマックスを迎えるが、そのあとにもまだ作品が並んでいる。この夢幻的で美しい作品は、今回数々のコレクション作品をこの展覧会にも出展している岐阜県美術館のルドン・コレクションを代表する「瞳を閉じて」(1900年以降作)。同じ題材でもう少しモノトーンに近い作品をオルゼー美術館が所蔵していて、その作品に触発されて、武満徹がピアノ曲「閉じた眼」(2作あり) を作曲したことはよく知られている。そう言えば、武満が随分前に NHK の「日曜美術館」でルドンについて語っている回があった。
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これも同じく岐阜県美術館の所蔵になる「オルフェウスの死」(1906 - 10年頃作)。もちろんギリシャ神話だが、既に物言わぬオルフェウスの首が、死という現実を離れて甘美な幻想に溶けて行っている。
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展覧会はこのあと、「グラン・ブーケ」との関連という意味でも興味深い、花を描いた一連の作品に移る。これは「日本風の花瓶」(1908年作)。その名の通り、日本の舞が描かれた花瓶に花が生けられている。これもまるで微生物のような花々であるが、その色彩感覚には天才的なものがあるではないか。
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これは「大きな花瓶」(1912年頃)。既に晩年に至った頃の作品であるが、やはりその夢幻的な雰囲気と、素晴らしい色彩感覚に魅せられる。
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上述の通り、ルドンに全くイメージのない人は、この展覧会が、彼の全画業を懇切丁寧に解き明かしてくれるわけではない点に、戸惑いを覚えるかもしれない。だが、この画家の持ち味は充分に味わえる内容であると思う。また、日本に存在する西洋絵画の至宝のひとつである「グラン・ブーケ」が、ルドンの作品の中でも指折りの傑作であることも理解できて、東京の文化度を再認識できる機会にもなるだろう。期日は今月 20日までなので、未だご覧になっていない方には、足を運ぶ価値はあるとお薦めしておこう。

by yokohama7474 | 2018-05-02 23:56 | 美術・旅行 | Comments(0)  

アラビアの道 サウジアラビア王国の至宝 東京国立博物館

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東京にいると、まあそれは本当にあらゆる美術展に触れる機会があって、誠に興味尽きないとともに、いつどこでどんな展覧会が開かれているかに注意していないと、新たな美術分野との出会いを逃してしまうことがある。その点この展覧会などは、なかなか類似の企画がないものであるところ、大人気であった「仁和寺と御室派のみほとけ」展とかなり会期が重なる時期に、同じ東京国立博物館で開かれていたおかげで、「へー、こんなのやっているんだ」と気づくことができた。だが、その「仁和寺と御室派のみほとけ」展の記事で既に述べた通り、その展覧会に最初に出掛けたときには、混雑のために観覧に予想以上の時間を要したために、こちらの展覧会を見ることができなかった。それゆえ、会期中にもう一度現地を訪問し、二度目の仁和寺展とともに、この展覧会を堪能したのである。但し、同じ東京国立博物館での開催とはいっても、仁和寺展の方は平成館、こちらは表慶館での開催であった。
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題名のごとくこの展覧会は、アウジアラビアの歴史遺産を紹介するものである。イスラム教の聖地メッカを擁するサウジは、当然典型的なイスラム国家として我々は認識しているのであるが、だが、実はイスラム教以前からも文明はあったわけである。中東地域はヨーロッパとアジアの中間であり、盛んな交易が行われた場所。また、文明発祥の地という意味では、エジプトもメソポタミアも、この中東地域かその近隣で興ったものであるゆえ、当然といえば当然だが、現在サウジアラビアと呼ばれる地域には、古い文明が重層的に存在した。だが、どうやらこの地域で考古学的調査が本格的に行われ始めたのは、せいぜい過去 40年くらいらしく、その全体像はようやく最近知られ始めたばかりのようだ。この展覧会では、未知のイメージと既知のイメージがからみ合う興味深い展示物と出会うことができたのであるが、嬉しいことに、全作品撮影可能であった!! なので、以下はすべて、私が現地でスマホで撮影したものである。これが建物に入ってすぐのロビーの様子。真ん中に見える、まるでクッキーのように可愛らしい彫刻は、紀元前 3500 - 2500年頃という古い時代の人形石柱で、目と鼻があるだけでなく、襟があり、何やら剣やベルトのようなものも見える。
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これも同じ頃のもの。おぉ、この人は右手を曲げていて、首を傾けて哀しそうな顔をしているではないか。このようなモニュメントは大抵、遊牧民の墓か祭祀施設に作られたものであるらしい。そうするとこの表情は、死者を悼んでいるのだろうか。
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展示コーナーの最初の方には石器の破片なども沢山並んでいたが、ひときわ目を引いたのは、この馬の彫刻である。新石器時代、紀元前 6500年頃のものというから驚く。ちゃんと馬の形をしています (笑)。
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タイマーという大オアシス都市の遺跡があって、そこは交易の十字路であったらしい。そこにはメソポタミア文明の影響力が強かった時代があったらしく、このような遺品が発掘されている。紀元前 5-6世紀の柱の台座または祭壇であるが、ここでは明確な太陽神のイメージと聖なる牛が描かれていて、大変神秘的だ。
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これもタイマー出土の男性頭部だが、これは紀元前 4-2世紀のもの。目の周りに隈取りがあるのが見えるし、その髪型はエジプトのイメージにも通じる。
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さて次が、私がこの展覧会で最も興味深いと思ったもの。堂々たる巨大な石像が 3体、並んでいる。高さは、手間のものから順に、185cm、256cm、230cm。紀元前 4-3世紀のもので、ダーダーンというオアシス都市からの出土。
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このダーダーン (現在名はウラーというらしい) は、上記のタイマーのライヴァルであったらしく、ともに旧約聖書 (!) にその名が登場し、両者間の争いもあったという。いやそれにしてもこれらの物言わぬ彫像は、実に逞しい体躯をしているではないか。城門や建物の守護神であったのか、あるいは、神格化された王の肖像であったものか。もちろん、巨像ならエジプトにはさらにすごいものがあるとはいえ、この未知の素朴さは何か心に残るものがあり、想像力を掻き立ててやまないのである。そうそう、昔、古代文明が巨大ロボットを作っていたというアニメなどもあったでしょ。子供心にその設定には神秘感を抱いたが、オッサンになってもそのような神秘への憧れは変わらないのである (笑)。
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もちろんこのダーダーンには巨像だけでなく、小さな彫刻もあって、これらはやはり、紀元前 4-3世紀の男性頭部。副葬品なのであろうか。どこか古代エーゲ文明を継承している雰囲気すらないだろうか。
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そう、もちろん、ギリシャ・ローマ時代には、この地域もそれらの文明の影響下に置かれることになる。以下の 2点はフレスコ画。上は紀元前 1世紀頃の、葬送を描いたもの。下は紀元前 3 - 紀元後 3世紀の、なんと高層建築を描いた絵画。そんな時代に高層建築があったとは!!
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これもフレスコ画で、1-2世紀頃のもの。饗宴を描いているが、ギリシャのディオニュソス神の図像の影響が明らかだ。
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このような小さな彫刻群も、ギリシャ風に、時にエジプトの要素がミックスされている。右端はもちろんヘラクレス。その左の小さいものはキューピッドのようだが、ハルポクラテスといって、エジプトのホルス神の幼時の像がギリシャ化したもの。ということは、それこそがキューピッドの図像の源泉なのかもしれない。その左も同じハルポクラテスで、姿がギリシャ風であるものの (写真ではよく見えないが) 表情は東方的。そして左端は一風変わっているが、壺を頭に乗せた女性像で、全体の色合いはギリシャ風だが、その姿にはエジプトの要素も伺える。
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面白い混合ばかりなのだが、これも面白い。エジプトのイシス神とヘレニズム世界で信仰されたテュケーという女神の混合したもの。だがこれ、聖母子像の原型のようにも見えないだろうか。
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これも、一度見たらちょっと忘れないだろう。男性頭部で、制作は紀元前 1-紀元後 2世紀頃とされている。もちろんこれは、もともとピカソのように造形されたものではなく (笑)、青銅による等身大の人物像の頭部で、顔がひしゃげてしまっているもの。すごい存在感だ。
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これも同様の青銅の男性頭部で、こちらはちょっと錆びてしまっているが、1世紀頃のもの。素晴らしい造形であると思う。
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金細工も出土している。これはテル・アッザーイルという 1世紀の墓から出土した副葬品で、金のマスクにペンダント、ブレスレッドや手袋まである。埋葬されていたのは 6歳ほどの少女であったという。大変裕福な家庭の墓所ということだろうが、幼くして逝った我が子を悼んで、せめてきれいに飾ってあげようという 2000年前の親の思いが伝わってくる。
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また、これは同じ墓から出た葬送用ベッドの足。素晴らしい彫刻である。
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現代のアラブ地域ではもっぱらアラビア語が使用されているが、古代のアラビア半島には様々な言葉が存在したらしく、各地から碑文が発掘されている。このユニークな石碑は、新バビロニアの支配地で国際共通語として使われていたアラム文字によるもの (紀元前 5-4 世紀)。いや、それにしてもこのデザイン、なんともスタイリッシュではないか。どの時代にも、先鋭的な感覚を持った芸術家がいるものだ。
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展覧会にはまた、古代からの様々な器も展示されていたが、この 9世紀の彩色杯はどうだろう。織部とは言わないまでも、まるで近世の日本の茶碗のようではないですか!!
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それから、イスラム教徒にとっては実に貴重なお宝も展示されていた。これは 17世紀、オスマン・トルコのスルタンによって寄進された、メッカのカーバ神殿の扉である。1930年代まで実際に使われていなかったもの。
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このように、イスラム教以前の古代からのサウジアラビアの文明の遺品に出会うことのできる、大変に貴重な機会であった。かの地までこのような遺品を身に出掛けるということもなかなかできないし、これだけ興味深いものが一堂に会するのは、現地でもそうはないのではないか。仁和寺展の、いい意味での余波を受けて、多くの人たちがこの貴重な機会を堪能されたことと思います。今度から東博に出掛けるときには、複数の展覧会が開かれているか否かを確認してからにしたい。

by yokohama7474 | 2018-03-21 17:17 | 美術・旅行 | Comments(0)  

仁和寺と御室派のみほとけ 東京国立博物館

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京都北部、いわゆる洛北に存在する大寺院、仁和寺 (にんなじ) は、世界遺産にも認定されている大寺院である。山号を御室山 (おむろさん) といい、遅咲きの桜である御室桜でも有名だ。皇族が住職を務める寺院を門跡 (もんぜき) 寺院というが、この仁和寺は宇多天皇が出家して 888年に創設したことから、最初の門跡寺院と言われている。また、「徒然草」に出て来る「仁和寺にある法師」(石清水八幡宮に詣でたと思って、手前で帰って来た話と、興に乗って釜をかぶって抜けなくなる話とがある) の逸話でも有名である。これが御室桜の咲く仁和寺の光景。
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そもそも京都の大規模寺院は、禅宗、それも臨済宗がほとんどなのであり、そのことはこのブログでも何度も書いているのだが、実はこの寺は臨済宗ではない。宗派は真言宗で、御室派 (おむろは) の総本山なのである。この展覧会は、その仁和寺が所蔵する数々の貴重な文化財に加え、真言宗御室派の多くの寺から、各寺の本尊仏を含む素晴らしい仏像が一堂に会するという展覧会。今回はかなり宣伝にも力を入れていて、電車の中でも本展の広告を見ることができるのだが、その成果であろうか、会場は押すな押すなの大混雑になっている。実際私は、なんとか混雑を避ける方法はないかと思って、ピョンチャン・オリンピックで羽生弓弦が金メダルを取るかどうかという、その前後のタイミングを狙って出かけてみたのであるが、会場の混雑ぶりという観点からは、全く意味のない浅知恵であることを思い知った (笑)。それでも混雑にめげず、入場に 20分ほど待たされ、押し合いへし合いの会場をようやく一巡したら、次の予定との関係で、同じ東京国立博物館の別の建物で開催されている「アラビアの道 サウジアラビア王室の至宝」展を見る時間がなくなってしまった。そこで、その翌週また東博を訪れ、この展覧会の仏像展示をもう一度見て、そしてサウジアラビアの方も無事、見ることができたのである。私としては、とにかく一度だけでは気が済まず、どうしてももう一度見たいと強く思った、それほどの素晴らしい内容の展覧会であったのだ。

もちろん、多くの国宝・重要文化財が展示されていて圧巻なのであるが、前半にはこの寺の歴史において大切にされてきた貴重な文献が沢山展示されている。空海の直筆や、開基宇多天皇やその後の歴代天皇ゆかりの品や文書など、大混雑の中ではなかなかじっくり見るのは難しい。ここでは、ちょっと珍しい文書をいくつかご紹介するにとどめよう。これは平安時代 (12世紀) の「医心方 (いしんぼう)」という国宝。日本最古の医学書であるらしい。
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これも国宝の「新修本草 (しんしゅうほんぞう)」。鎌倉時代、13世紀のもの。本草学、つまりは漢方医学のこと。寺院とは修業の場であるとともに、喫茶の習慣からも分かる通り、漢方医学の発展に貢献した場所であったのだろう。
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これは原始的ながら、日本地図である。1305年に描かれたもので、重要文化財。現在とは逆で、南が上になっていて、これは西日本から中部地方あたり。寺院にはこのような情報も集まっていたのだ。
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さて、仁和寺に伝わる国宝絵画といえば、まずこれである。孔雀明王。中国・北宋時代 (10 - 11世紀) のもの。孔雀という神秘的な鳥を乗り物とする孔雀明王は、災厄を祓うために信仰され、ここ仁和寺での孔雀経法は「無双の大秘法」と言われたという。いかにも密教らしい雰囲気ではないか。
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そしてこれも国宝、十二天図のうちの毘沙門天。仁和寺円堂というところにかかっていた画像をもとに、1127年に描かれたことが分かっている。現在では京都国立博物館の所蔵。名品である。
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展覧会の前半に展示された唯一の仏像は、平安時代 (1103年) の薬師如来坐像。やはり国宝である。高さ僅か 11.8cmで、白檀を刻んだ壇像である。素晴らしく精緻な出来で、多分日本最小の国宝仏ではないだろうか。
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さて、仏像が多く並んでいるコーナーに移る前に、黒山の人だかりになっている場所がある。それは、仁和寺の観音堂という、通常は非公開のお堂から、仏像をそのまま運んできて、回りの壁画などを再現した場所。ここだけはフラッシュなしなら写真撮影可能ということで、大変なことになっていた。以下はそこで私がスマホで撮影した写真。千手観音とその眷属、二十八部衆である。この二十八部衆は、仏像好きなら一目瞭然、三十三間堂のそれを小型化してコビーしたものだ。江戸時代初期、1647年のもので、文化財指定はないが、このように並ぶと壮観である。
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ぐるっと一周できるのが大変興味深く、このような風神のキュートな後ろ姿や、奇妙な手の長い観音様の画像など、なんともユニークで楽しい。
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さて、今回は仁和寺の由緒正しいご本尊がわざわざ東京までおいでになっている。阿弥陀三尊坐像で、888年、創建時に作られたもの。仁和寺では春と秋に宝物館で拝観できるが、ちょっと小ぶりで、いわゆる平安時代後期の定朝様とも違うので、正直なところ、これまであまり興味がなかった。ところが、今回間近で拝観し、その穏やかなお顔にすっかり魅了されてしまった。その由緒を含めて、素晴らしい仏像。もちろん国宝である。
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ほかにもいくつか仁和寺所蔵の仏像が展示されている。それらから、重要文化財を二体ご紹介する。ともに鎌倉時代の文殊菩薩坐像と、悉達太子 (出家前の釈迦)。いずれも鎌倉彫刻らしく、美麗である。
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さあ、この先は仁和寺を総本山とする真言宗御室派の寺院から集められた優品の仏像の数々が並んでいて壮観である。まず、今回の展覧会の目玉ともいうべき仏像。会場のポスターにはこのように書いてある。
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そう、天平時代の乾漆仏、大阪の葛井寺 (ふじいでら) の本尊、千手観音坐像である。千手観音といえば、普通はメインの 2本を含めて 42本の手を持つが、これは本当に 1000本の手を持つ。
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葛井寺現地では、毎月観音の縁日である 18日に公開されていて、もちろん私も現地で拝観したことがあるが、今回の展覧会はちょっと特別なのだ。現地では厨子に入ったままでしか拝観できないところ、今回は鮮明なライトのもと、360度ぐるりと細部まで鑑賞できるのである。こんな機会はもう二度とないかもしれないので、本当に本当に本当に、貴重この上ない機会なのである。興味深いのは、この千本の手をどのようにして設置しているかが分かること。左右それぞれに二群ずつの沢山の手を板に差し込ませ、背中の左右に棒を立てて、そこにつなげてある。これは大変な技術である。もう感嘆の声しか出て来ない。これを見るだけで、何十分も入場待ちする価値がある。
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この横には、やはり国宝の天平仏、道明寺の十一面観音立像がある。これもまた驚異的に美しい仏像で、私はやはり現地でも拝観したことがあるが、やはり四囲を回ってじっくり拝観できる今回の展覧会は、もう本当に、貴重という言葉では済まないくらい貴重なのである。
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福井県の若狭からも貴重な作品がいくつか来ている。明通寺の巨大な降三世明王 (ござんぜみょうおう) と深沙大将 (じんじゃだいしょう) は、やはり現地で見るよりも細部をじっくり拝観でき、鑿あとが残った部分なども発見できて面白い。尋常ではない迫力だ。
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やはり若狭から、中山寺の馬頭観音坐像。秘仏で、私は以前も何かの展覧会で拝見したこともあり、また数年前の公開時には現地に赴いたが、やはり厨子のない状態でこうして間近に拝観できることは、本当に嬉しい。
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それから、これも秘仏で、兵庫県西宮市にある神呪寺 (かんのうじ) の如意輪観音坐像。この仏さまは、実は私は初対面。不思議な偶然だが、この展覧会に出品されているとは知らず、つい最近、この仏像を見たいなぁと考えていた。これも何かのご縁。両肩の 3本ずつの腕の付け根を見ると、腕はそのまま彫り出してあるように見える。独特の人間的な雰囲気をお持ちの観音様である。お会いできて、本当によかった!!
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ほかにも多くの貴重な作品が展示されていて、本当に興味が尽きない。会期は 3/11 (日) までなので、普段あまり仏像を見ないという方も、是非お出かけになることをお薦めしておこう。

by yokohama7474 | 2018-03-04 19:29 | 美術・旅行 | Comments(2)  

神聖ローマ皇帝 ルドルフ 2世の驚異の世界展 Bunkamura ザ・ミュージアム

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神聖ローマ皇帝ルドルフ 2世 (1552 - 1612) の名前は、澁澤龍彦や荒俣宏の著作に親しんでいる人にとっては、既におなじみのものであろう。珍奇なものを集めたヴンダーカマー (驚異の部屋) は当時ヨーロッパで流行したが、ルドルフ 2世が、当時ハプスブルク帝国の首都であったプラハに造営したものが、その代表と言われている。ルネサンスは人文科学や自然科学の発展の時代となったが、当時のヨーロッパ人たちが見つけ出した様々な未知の事柄に、多分に想像力も加わって、そのまま近代に突入する素地が出来上がって行ったわけである。そこには、近代の先駆けとしての理知的な面と、それから、想像力なしには生きられない人間という存在に立脚する、中世以来の文化的伝統を感じさせる面がある。それがヴンダーカマーの性質なのであろうと私は考えている。この展覧会は、その歴史上有名なルドルフ 2世のヴンダーカマーとはいかなるものであったのかに、様々な側面から迫るという意欲的な展覧会である。日本では古今東西の美術品や歴史遺産の展覧会が開かれており、まさに枚挙のいとまがないという表現がぴったりであるが、私の場合は、もうよく知っている画家の展覧会には、最近あまり足を運ばなくなっている傾向がある。もちろん、行ってみれば新たな発見はあるのであろうが、物理的な時間の制約もあり、できれば、これまで知らなかったものを見たいと思う。この展覧会 (3/11 まで開催中) などは、そのような例の典型と言ってよいと思う。但し、期待通りに目からうろこの驚愕の展覧会であったか否かは、また以下で書いて行きたい。

さてこれは、近年発見された、30歳頃のルドルフ 2世の肖像 (1580年頃作)。なるほど、髭を生やして落ち着いて見えるが、血色もよいし、若々しい肖像である。この時代の彼の肖像画はほかにないらしい。ちょうどプラハ遷都前後。これからヴンダーカマーを作ってやろうという野心を、そこに見ることができるかどうか (笑)。
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これはアドリアン・フリースという彫刻家の手になるルドルフ 2世の胸像。1607年に作られたオリジナルを 1964年に複製したもの。当時 55歳。ハプスブルク家特有の突き出た下あごがリアルで、きっとこんな顔の人だったのだろうと思う。この像の下部の裏側には、当時オスマン・トルコに勝利したことを記念して、トルコを象徴する蛇を、ハプスブルクを象徴する鷲が踏みつけているところが表されている。
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さて、現在のチェコ共和国の首都プラハについては、以前記事を書いたこともあるが、中世の街並みを残す素晴らしい場所である。その文化的な雰囲気は、ルドルフ 2世が文化・芸術を奨励したことによってもともと育まれたもの。この作品は、そんなプラハを舞台に、17世紀初頭に描かれた「ネボムクの聖ヨハネの殉教」。プラハを流れるヴルタヴァ (モルダウ) 川に投げ込まれて殉教した聖人の姿であるが、背景が大理石を模した模様になっているのが面白い。
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これは、上に掲げたルドルフ 2世の肖像を描いたとされるルーカス・ファン・ファルケンボルフという画家の作品、「バベルの塔の建設」(16世紀前半作)。バベルの塔といえば、昨年日本でも展覧会が開かれたブリューゲルの作品が有名であるが、この時代にはかなり頻繁に絵の題材となっていた。人間の不遜な行いへの教訓ではあるものの、もしかすると、人間の能力への賛歌という隠れたテーマがあれば面白いなぁと思うのは、私のようなひねくれものだけだろうか。
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さてこの展覧会には、ルドルフ 2世の宮廷で活躍したルーラント・サーフェリー (1576 - 1639) という画家の作品が多く並んでいる。これは、「村の略奪」(1604年作)。一見してこの群衆はブリューゲル風だが、実際にこのサーフェリーは、「ブリューゲル風の」画家としてプラハに招かれたのだという。
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これはまたルーカス・ファン・ファンケンボルフの「飲用療法中のルドルフ 2世」(1593年頃)。皇帝が鉱泉を飲むところを描いたもののようだ。貴族たちとともに、右手前には農民たちも描かれており、ちょっと不思議な作品だ。
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この絵の中でルドルフは、中央に並んだ 3人の真ん中に描かれており、左右は弟のエルンストとマティアスであるそうだ。
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さて、展覧会では、ルドルフ 2世が力を入れた天文学についての資料があれこれ並んでいる。彼のもとにいた天文学者として知られるのは、まずティコ・ブラーエ (1546 - 1601)。デンマーク出身だが、1599年にプラハの宮廷に迎えられた。この肖像画は 1596年の作というから、プラハ入りの少し前のものであるが、髪を右半分だけ剃っているのは奇妙である。また、決闘によって傷んだ鼻を隠すために付け鼻をしていたというが、よく見ると確かに鼻の横に何やら線が見える。
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そのティコ・ブラーエが率いてプラハで開始した天体観測の成果のひとつがこれである。1742年に出版された「最新天文図帳」。天体観測をしても、結局はギリシャ・ローマ神話から取った星座名を使うあたりに文化度の高さが伺える。
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そのブラーエの弟子筋にあたるのが、ケプラーの法則で有名なヨハネス・ケプラー (1571 - 1630) である。これはケプラー作成のその名も「ルドルフ表」に付属した世界地図。なるほど、ハプスブルクは空の上だけでなく、地表も観察していたわけだ。なにせ世界に植民地を持っていたので当然と言えば当然か。ここに見える双頭の鷲は、いうまでもなくハプスブルク家の象徴である。
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さてこのように、ルドルフ 2世の宮廷では自然観察が盛んに行われたわけだが、それゆえに博物学が発達して、それが絵画作品にも反映されて行く。これは再度登場、ルドルフ 2世に仕えたルーラント・サーフェリーの「大洪水の後」(1620年頃)。もちろんノアの箱舟の物語であるが、ここでは青空をバックに多くの動物たちが描かれている。だが興味深いことに、箱舟自体は見ることができず、画家の興味が、動物を描くことであったことが分かる。
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これも同じ画家の「鳥のいる風景」(1622年作)。同じようにここでは、様々な鳥を描くことを目的としているのであろう。自然観察の目があって初めて可能な表現である。
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これも同様趣旨のサーフェリーの作品、「動物に音楽を奏でるオルフェウス」(1625年作)。ええっと、オルフェウスはどこに? (笑) 大変小さくて分かりづらいが、中央右手あたり、白馬の隣にいることはいる。だが、ほとんど申し訳程度で、画家の関心は動物を描くことであることは明らかだ。それにしてもこのサーフェリーという画家、かなりコントラストの強い色彩でダイナミックな作品を描いているが、正直、画格がそれほど高いとは思われない点は少し残念だ。
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だがこのサーフェリーという人は、かなり真面目な人であったと見えて、この展覧会でも動物の素描が沢山展示されている。これはなかなか興味を惹くものだ。例えばこの象やライオンは、実際に目にしたことがあったのか否か分からぬが、大変リアルである。
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そのような自然観察に秀でたサーフェリーの作品として、以下は大変見事であると思う。「花束」(1611 - 12年頃作) である。宗教的な寓意も含まれているようだが、その点を覗いて純粋に絵画表現を鑑賞してみても、ネーデルラントの静物画よりも、不気味なまでの生命力を感じさせると思う。
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これもルドルフ 2世の宮廷で働いたフランドルの画家、ヨーリス・フーフナーヘルの「人生の短さの寓意」の二連画のうちの 1枚 (1591年作)。ドクロやコウモリの羽やカタツムリなどの不気味なものと、下の方に見える毛虫と蝶からは、変容を読み解くべきであるようだ。
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そしてここであの画家の登場だ。変容と言えばこの人。ジュゼッペ・アルチンボルド (1526 - 1593) である。彼もまた、ルドルフ 2世に仕えた画家のひとり。これは「ウェルトゥムヌスとしての皇帝ルドルフ 2世像」(1591年作)。アルチンボルドが故郷のミラノに帰ってから制作され、ルドルフ 2世に進呈されたものらしい。ウェルトゥムヌスとは、物事の変転を司る神のことであるらしく、ここでは実に 63種類の野菜と果物で、皇帝の顔を作っている。なおこの作品は現在、スウェーデンのスコークコステル城というところが所有しているが、その理由は、スウェーデンが 1648年にプラハを攻略したことにある。海洋の民であるスカンディナヴィア人が、内陸のプラハを攻めたとは意外だが、三十年戦争の最後の戦いであろうか。
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ルドルフ 2世はまた、ドイツ・ルネサンスの巨匠アルブレヒト・デューラーに魅了されていて、自身の宮廷にもデューラー様式での作品制作を命じたという。これはその一例で、ハンス・ホフマンというドイツ人画家の「キリストの嘲弄」(1590年代初頭作)。うーん、ちょっとというか、かなりというか、デューラーには負けていると言わざるを得ないが、それでも、キリストの周りの人々の不気味な様子には独特の迫力がある。
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それに比べると、こちらは優雅な作品。これもドイツ人画家であるハンス・フォン・アーヘンの「パリスの審判」(1588年作)。トロイ戦争の発端としておなじみの、ギリシャ神話の逸話である。なかなか構図がよろしいですな。
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これは皇帝自身が発注した作品で、ディルク・ド・クワード・ファン・ラーフェステインという画家の「ルドルフ 2世の治世の寓意」(1603年作)。右端に横向きに立っている軍神マルスが、当時トルコを破ったルドルフの肖像画であるらしい。
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かと思うと、ボス風のおどろおどろしい作品もある。ペーテル・ステーフェンス 2世という画家の「聖アントニウスの誘惑」(1595 - 1605年作)。
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図録からの撮影なので、間にどうしても線が入ってしまって見にくいが、この異形のイマジネーションはなかなかのもの。左側に渦を巻いて空中に立ち昇っているのは何だろうか。何やら奇妙な鳥の尾のようであるが、とにかく長い。また、聖アントニウスは恐怖のあまりだろうか、青白いを通り越して、モノクロになってしまっている (笑)。
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展覧会の最後に、例のヴンダーカマー (驚異の部屋) についての展示がある。これはナポリの薬剤師のコレクション (「博物宝典」、1599年作) だが、ヴンダーカマーの典型的なイメージである。ところ狭しと並べられた標本や書物。特に天井のワニがなんといっても目立っているではないか。
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最後に、ルドルフ 2世の驚異の部屋に実際にあったか、あるいはそれに近いと思われる工芸品を 2点。これは作者不詳の「貝の杯」(1577年作)。これも上のアルチンボルドの作品と同じく、現在ではスウェーデンのスコークロステル城の所有であるが、巨大トカゲと兵士の対決とはまた無骨な装飾であって、面白い。
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これはエラスムス・ビーアンブルンナーという人の「象のかたちをしたからくり時計」(1580年頃)。現在ではエステルハージー財団 (もちろんハイドンを雇ったあの貴族の末裔による財団だろう) の所有。今は壊れているらしいが、もともとは自動機械であった。これも見事なもので、象を操るのは異国の人である。
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ほかにも数多くの出展品があり、ここではほんの一部をご紹介できたに過ぎないが、これまでにない切り口での展覧会なので、発見が多々あるのである。その一方で、果たしてルドルフ 2世のヴンダーカマー自体をもう少し体系的に再現するような試みがあれば、もっとよかったと思う。それから、宮廷で活躍した画家としては、アルチンボルドは特別な才能を持っていたが、ほかの画家たちにはそれほどワクワクするものを感じられないのが、残念なところ。天才とはそうそう輩出するものではないのだなと再認識した次第。でも、プラハを文化都市としたルドルフ 2世の業績には、やはり歴史に残る意義があることは間違いないだろう。

by yokohama7474 | 2018-02-26 23:35 | 美術・旅行 | Comments(0)  

没後 70年 北野恒富展 千葉市美術館

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これは、昨年の 11月から 12月にかけての約 1ヶ月半、千葉市美術館で開かれた展覧会である。千葉の前には大阪と島根を巡回しているが、千葉が最後で、既に今日では見ることができない。このブログでは過去にも同様のケースが結構あって、せっかく記事を読んで頂く方の中には、終わった展覧会の記事なんて意味がないよとお怒りの向きもあるかもしれない。それについては一言もないのであるが、ただ、その展覧会の内容が興味深いものである場合には、展覧会というよりもその画家の画業について紹介するようなことになり、長い目で見れば、それはそれで意味のないことではないとも思うのである。この記事も、願わくばこの画家についてのより深い理解につながればよいと思う次第。というわけで、今回の主人公は日本画家、北野恒富 (きたの つねとみ 1880 - 1947)。昨年が没後 70年であったわけだ。
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私も今回彼の作品をまとめて鑑賞して、その画業の全体像に初めてイメージができたのであるが、いくつかの作品には見覚えがある。上のポスターにある通り、「画壇の悪魔派」と呼ばれた画家とのことで、その怪しい表現にはなかなかに期待できるものがありそうだ。実は昨年 12月22日の記事で、京都で見た岡本神草 (1894 - 1933) の展覧会について書いたが、その記事の最後の方に、この北野の展覧会を最近見たと私は書いた。北野は岡本より 14年早く生まれ、そして奇しくも 14年長く生きたので、ちょうど岡本の生涯をすっぽりと包む時期に生きた人であるが、やはり大正時代の怪しい美人画を描いたという点では、岡本と共通する画風もあると言ってもよいだろう。だが、岡本が結局、画家としての本当の高みに昇り詰める前に生涯を終えてしまったように思えるのに対して、この北野は、モダニズムの時代から戦争に入って行く日本の空気を、その作品に刻み付けるという業績を果たした人であると言ってもよいように思う。

北野は金沢に生まれたが、17歳で画家を志して大阪に出て、大阪画壇の中心として活躍した人である。大阪は戦前までは文化的には東京を凌ぐほどの勢いとオリジナリティーを誇っていた都市だけに、どのような作品を描いたのか、見て行くのが楽しみだ。これは 1907年頃の作「燕子花」。浮世絵風でもありながら、早くもモダニズムの萌芽を感じられるように思われる。
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これも同じ頃の「六歌仙」。ここには漫画的と言えるタッチが見られて面白い。奥でこちらを向いているのは僧正遍照であろうか。その顔の描き方は全く写実的ではなく、その成分は下 1/3 に集まっている。また、彼以外の 5人は、これまたありえないくらい、左の方にごちゃっと連なって描かれている (笑)。
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上に書いた通り、北野の生きた時代は、モダニズムから戦争に入って行くという、様々な意味で激動の時代であったのだが、彼の活動分野は伝統的な日本画だけでなく、あとで見るように、ポスターや新聞の挿絵、単行本の装丁にも及んでいる。この「浴後」(1912年作、京都市美術館) という作品は、アールヌーヴォー的な雰囲気を持ち、洋画を思わせる筆致である。実は女性のポーズはかなりしどけないのだが、陰湿なものを感じさせない仕上がりだ。この画家のメンタリティとテクニックは、双方ともこの時代においてかなりユニークかつ高度なものであったのではないだろうか。
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さて次は、この画家が悪魔派と呼ばれたことを思い出させるものである。1913年頃作の「道行」(福武太郎コレクション)。
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細部を見てみると、向かって右の方には、まさに男女の道行の様子が描かれ、左の方には二羽の烏が向かい合っており、そして奥にもう一羽、シルエットの烏が見える。
この作品の題材は、いかにも大阪らしい、近松の「心中天の網島」であるらしいが、既に一足早く死の国に足を踏み入れたような無表情の男女 (遊女小春と紙屋治兵衛) と対照的に、くわっと口を開け、翼を広げた烏の生命力が返って不気味である。地の金に黒を混ぜてあるらしく、華麗さを抑えて耽美的な恋人たちの心情をよく表現している。あ、それから、私が以前岡本神草展の記事でお薦めした「あやしい美人画」という本をお持ちの方は、表紙に出ている 3人の女性像のうち左端がこの女性であることにお気づきになるであろう。
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なお、この「道行」は、文展 (文部省美術展覧会、今の日展の前身) という官立の公募展覧会に落選したらしい。大正時代初期の日本において、このまさにあやしい男女を公衆の面前にさらすことには、日本政府の許可が出なかったということであろう。北野はその落選に不満を抱き、日本美術院の再興 (岡倉天心の遺志を継ぐ動き) に参画した。これはその際に描かれた「鏡の前」(1915年作、滋賀県立近代美術館)。芸妓のはっきりした顔立ちの近代性と、着物にあしわられた仏教的な飛天の図柄が対照的で、北野の冴えた感覚をよく伝えている。
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これは 1914年作の「願いの糸」(木下美術館)。七夕の情景であるようだ。恋の願いだろうか、繊細な指先で針に糸を通す若い女性の姿だが、おしろいに顔の表情の細部を塗りつぶされているにも関わらず、その一心不乱さが、いやみなく伝わってくる。左に描かれた桶にも何やら葉が浮かんでいたり、着物が反射しているようでもあって、細やかな描写が素晴らしい。
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これは 1917年作の「風」(広島県立美術館)。その名の通り、さっと吹き過ぎる風を、一人の女性の姿勢を通して描いているが、黒い頭巾をかぶって髪を見せていない女性の、だが白いふくらはぎがはだけてしまっている様子がなまめかしいが、その表現は決して下劣ではない。上方一流の品格を感じると言ってもよいように思う。それにしても、しばし見とれてしまうような、実に見事な作品だ。
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これは大正前期の「仙人」(耕三寺博物館)。水墨画であり、上で見てきた美人画の数々とはちょっと趣きが違っていて、衣の線などぐいっと力強く引かれている。だが、髪留めに置かれた青に注目しよう。白と黒と青の組み合わせは、上の「風」で使われた色に近いものがあることに気づく (「風」にはそこに、帯の控えめな赤が加わるが)。
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これは、展覧会のポスターにも使われていた「墨染」(大正後期作)。歌舞伎「積恋雪関扉 (つもるこいゆきのせきのと)」に登場する桜の精霊を描いているらしい。咲き誇る満開の桜ではなく、垂れ下がるしだれ桜の枝の先に、首をうなだれて登場した異界の者であるが、よく見るとここでも、ほとんどモノトーンの中に青い髪留めが印象的だ。
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かと思うとやはり、上で見た「鏡の前」のような赤と黒の対比も、北野の作品のひとつのパターンなのであろう。これは大正後期作の「舞妓」。髪の黒といい、髪飾りや襟の鮮やかな赤といい、目立つ部分をベタッと塗っているのに対して、衣のひだや指先には繊細な表情があり、全体のバランスは大変美しい。
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これは少し悪魔性が前面に出た感のある「淀君」(1920年頃作、大阪新美術館建設準備室)。醍醐の花見における淀君を描いているが、桜の花びらがスローモーションのように舞い落ちる静謐な画調の中で、よく見ると右手がかなり大きくて長い。
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突飛な連想だが、これはポーランド、クラクフにあるチャストリスキ美術館が所蔵するダ・ヴィンチの「白貂 (しろてん) を抱く貴婦人」に似ていないだろうか。この作品、ダ・ヴィンチの完成作としてはさほど知名度は高くないかもしれないが、私は、日本にやってきたときに実物を見て、大変感動したのを鮮烈に覚えている。もちろん、ここで北野の作品との共通点や相違点を考えることにあまり意味はないかもしれないが、優れた画家の資質のひとつに、構図上の必然性があれば、写実性から離れることも厭わない、という点を挙げてもよいのではないかと思うので、あえてここで触れた次第。

北野の作品に戻ると、これは 1920年作のやはり同じ「淀君」(耕三寺博物館)。今度は栄光の絶頂での醍醐の花見ではなく、大坂城落城の壮絶な情景である。上の作品と、同じようなポーズを取り、同じような方向を向いていて、同じような桐のご紋入りの着物を着ているが、顔はやつれ、目はうつろで、迫りくる炎の中、まさに壮絶な最期を遂げようとするシーンである。ただ、右腕のインパクトは、花見の作品に比べるとおとなしくなっている。これも全体の中でのバランスであろう。
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北野恒富の作品は、このように悪魔的な感覚をたたえたものでも、決して下品にならないことが美点であろうが、逆に、美しい画面から、ちょっと不思議な感覚を覚えるものもある。例えばこの「蓮池 (朝)」(1927年作、耕三寺博物館)。いわゆる二曲一双、つまりはふたつに分かれて、それぞれが真ん中で折れ曲がる形態だが、洋髪・和服の 2人の女性たちが、巨大な蓮の花が浮かんだ池を舟に乗って進みながら、それぞれ別の方向を見ている。そこに会話はなく、なんとも奇異に映る。特に後ろ姿の青い着物の女性は、この世の者ではないかのようだ。
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後ろ姿の女性といえば、この作品は別の意味で、大変情緒がある。1928年作の「宵宮の雨」(大阪市立美術館)。祭りに出掛ける準備の途中で雨に降られ、残念そうに外を見やる少女と、姐さんたち。よく見ると少女は爪先立ちであり、本当に残念がる気持ちが巧みに表現されているのである。
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北野のよいところは、このような情緒と、いやみにならないユーモアの、ほどよいバランスであろう。これは大正末期から昭和初期の作、「奴」。類似の作品が結構残っているらしいが、ささっと筆を走らせて軽妙に描いたヤッコさんの姿は、見る者の笑いを誘う。
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さてこの展覧会では、上の作品以外にも、昭和に入ってからの北野の大作をいくつか見ることができるが、私の印象では、その頃になると、大正期の悪魔性は若干影を潜めて、柔らかい情緒が感じられるものが増えたように思う。戦争に入って行く荒んだ時代の雰囲気とは対照的だ。これは 1936年作の「いとさんこいさん」(京都市美術館)。もちろん、近代の上流関西弁で、お嬢さん、それから末娘を意味するこれらの言葉は、現代の我々にとっても、谷崎潤一郎の「細雪」によっておなじみであり、この作品の世界感が「細雪」と共通することは、これまでも指摘されてきた由。そう言えば谷崎は、戦争が激しくなる時代にこの優雅で人間的な作品を書き綴り、戦後に完成させている。若き日の作品の悪魔性といい、このような戦争への距離といい、北野と谷崎には、共通する部分がありはしまいか。それにしてもこれは、見ていて心が安らぐ絵ではないか。
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実際北野は、谷崎作品の新聞連載 (「乱菊物語」) や、単行本 (「蘆刈」) への挿絵を手掛けている。北野は谷崎よりも 6歳上で、ふたりは同世代である。彼らの間に親交があったのか否か知らなかったが、調べてみると、なんとなんと北野は、のちに谷崎のミューズとなり生涯の伴侶となる松子が若い頃、絵を教えていたという。その松子が最初の結婚をした相手、繊維問屋の根津清太郎は、実は北野のパトロンであったらしく、つまりは北野が根津と松子の間を取り持ったということのようだ。その後、松子が根津と離婚し、谷崎と同居を始めたのは 1934年。なるほど。そうすると、上に掲げた北野の「いとさんこいさん」は、比喩ではなく実際に、「細雪」の着想と同じところに根があるのだろう。実は谷崎は松子との結婚に先立つ 1932年、「盲目物語」において、北野の「茶々殿」という作品を口絵に使用することを強く希望し、叶えられたという。この「茶々殿」、モデルは松子であるそうだ。つまり北野にとっては絵の生徒である。実に面白い、谷崎と北野の関係であったのだ。
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谷崎について語り出すと止まらなくなってしまうので、このあたりで北野作品に戻り、この記事を〆ることとしよう。若い頃から悪魔性とともに巧まぬユーモアのセンスを持っていた北野はまた、上記のような挿絵や、ポスターなどでも大いに活躍した。これは 1917 - 18年頃の「新浮世絵美人合」から「三月 口紅」。江戸時代の浮世絵に倣ったシリーズもので、各月を題材とした 12枚もののうちの 1枚。ここにはやはり、浮世絵師ではなく、モダニストの北野の顔が見える。
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そしてこれらは、かなり気合の入った本格的なポスター。1913年のサクラビールと、1916年のたかしまや飯田呉服店である。後者は見てそのまま、現在の高島屋であるが、前者は調べてみると、サッポロビールの前身であるようだ。このような芸術家を起用する企業には、財力もあれば先見性もあって、企業の息も長いということだろうか (笑)。
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それから最後に、やはり高島屋のポスターの原画 (1929年作) をご紹介しよう。なんとこれ、左の乳房を露出していて、ビックリするのである。未だ日中戦争は始まっておらず、大正モダニズムの雰囲気が色濃く残っていたという時代背景によるのであろうか。原画なのでここにはないが、実際のポスターには与謝野晶子の「香くはしき近代の詩の面影を装ひとせん明眸のため」という歌があしらわれていたらしい。この「明眸 (めいぼう)」とは、澄んだ瞳のこと。つまり晶子の歌は、たとえ 1枚の着物だけの状態であっても、かぐわしい近代の詩の面影を身に纏えば、それによって新たな世界が見えてくる、と言いたかったのだろう。なんとも美的であり、メッセージ性に富んだポスターであったのか。
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このように、時代の空気を作り出し、また時代の要請を自らの創作活動に取り組んだ、北野恒富というほとんど未知の画家の、ユニークな画業を辿ることのできる貴重な展覧会であった。今度彼の大規模な回顧展が開かれるのはいつのことかは分からないが、せめて上でご紹介したような画家の特性さえイメージにあれば、また何かの機会に、この画家の作品と思わぬ遭遇があるかもしれない。時代と芸術がともに進んでいた幸福な時代へのノスタルジーも、そこにはついて回るかもしれないが・・・。

by yokohama7474 | 2018-02-14 01:04 | 美術・旅行 | Comments(0)  

大阪 証券取引所、中之島界隈 (東洋陶磁美術館「唐代胡人俑展」、水晶橋、大江橋、淀屋橋、大阪市立図書館、日本銀行大阪支店)

前項までの京都訪問を終え、向かった先は大阪。私自身は、小学生の頃を除けば、この場所に本格的に住んだことはないのだが、今でも壮健な老母が住んでいる。そこで、家人とともに実家訪問というわけだ。実は今回、大阪を訪れるに際し、家人からひとつリクエストがあった。それは、初詣。ん? 初詣といったって、もう散々京都で社寺を回っているし、中でも商売の神様である伏見稲荷には、曲りなりにもそれなりの賽銭を奉じてきた。だが、彼女にとってはまた別の初詣があるらしい。それは、大阪証券取引所である。私には全く縁がないのだが、細々と株などやっている彼女にとってそこは、神聖な土地であるらしい (今日の株価暴落は、誠にご愁傷様です)。だが確かに文化的な観点からは、そのレトロなビルには一度行ってみたいと思っていたことは事実。
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私の手元には何冊か、日本のモダン建築に関する書物があり、その中のひとつが、「大阪建築 みる・あるく・かたる」である。
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実はこの本はこの日、重要文化財、大阪市中央公会堂で購入したものである。中央公会堂は以前もこのブログで採り上げたことがあるし、この本の表紙写真にもなっているが、それにしてもこの本、パラパラ見るだけで滅法面白く、またためになる本である。この本によると大阪証券取引所は、もともと 1935年に建てられたもの。2004年には、最近東京でもよくある方法だが、正面は古いまま残して後ろに高層ビルを建てるという方法で、現代のビルとして生まれ変わった。そしてこのビルの正面に立っている銅像は、五代友厚 (1836 - 1885)。ディーン・フジオカではありません (笑)。
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上に記載した竣工年で明らかな通り、このビルは五代の死後のものなので、五代によって作られたものではない。だが彼は、大阪商工会議所と、この大阪証券取引所 (建物というよりも組織自体) を創設した人。薩摩出身ながら、商都大阪にとっては大変な恩人であるので、ここにこうして銅像が立てられているのである。このビルの中に入ると、まさにモダニズムの意匠がそこここに見られ、この時代の文化をこよなく愛する私としては、興奮を禁じ得ないのである。
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この場所を詣でて家人も気が済んだのか、上機嫌で次の場所へ。それは、緒方洪庵の私塾であった適塾と、その隣にある愛珠幼稚園。これらは既に以前の記事で採り上げたので、ここでは割愛する。そしてすぐ近くの中之島界隈に向かう途中、なんともレトロな建物の前を通りかかったので、車の中からパチリ。このゴシック風の建物は、日本基督教団の浪花教会。調べてみると竣工は 1930年。なんとあのメンソレータムで知られる近江兄弟社の設立者のひとりであるウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計であるという。ヴォーリズは日本各地で教会や大学の設計を手掛けている。それにしても、「キリスト」を漢字で書くと、妙に「浪花」という言葉とフィットすること (笑)。
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そして中之島地区では、まずは大阪市中央公会堂へ。上で本の表紙となっているし、やはりこのブログで以前採り上げたので、建物自体の紹介はスキップして、ひとつ、館内の資料室に貼ってあった、この界隈のレトロ建築の地図だけここに掲載しておこう。ここには、中央公会堂自体を除く20のレトロ建築が挙がっているが、その中で最も古い日本銀行大阪支店 (1903年竣工) と、その次に古い大阪府立中之島図書館 (1904年竣工) は、この記事の後半で採り上げる。そして私はここで宣言しよう。いつの日か、今回のように寒くない日に (笑)、この 20のレトロ建築をすべて取材し、このブログで採り上げることを。
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さて、その中央公会堂のすぐ向かいにあるのが、大阪市立東洋陶磁美術館。もともと安宅コレクションと呼ばれたこの美術館の平常展示については、やはり以前採り上げたのでここでは割愛し、この時開かれていた (そして今も、3月25日まで開かれている) 展覧会をご紹介しよう。
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一見してそれと分かる、右下に写真が載っている舟越桂の木彫り彫刻も気になるが、このガッツポーズを決めた彩色も鮮やかな古そうな人形は、一体なんだろう。唐代胡人俑ということはつまり、中国の唐の時代の、西域の人をかたどった人形ということだ。日本初公開とのことだが、これは一体どこから出土したものか。2001年というからかなり最近発見された、730年に造営された甘粛省の将軍の墓から出土したもの。これが出土時の様子。
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この展覧会のユニークなところは、展示品のいずれも写真撮影 OK であること。なので以下はすべて、私自身が撮った写真なのである。これらはまず、胡人の人形。ウィンクしていたり、垂れ乳でどうやら付け髭をしていたり、1300年前の人たちの息吹が、これ以上ない驚くべきリアルさで迫ってくるのである。
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この下ぶくれの唐美人の姿は、日本にもそのまま入ってきたイメージである。
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副葬品であるから、多分故人が淋しくないようにであろうか、群像もある。また、故人との別れを思い、悲しみに打ちひしがれる人の姿も。このあたりの感性は、日本では法隆寺五重塔の初層の塑像群とそのまま共通している。
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それから、動物たちの人形も大変にリアルで、牛や羊の鳴き声が聞こえるようではないか。事実、この牛たちの群れのうち左側の牛は、右側の牛の鳴き声に反応して振り返っているのだと考えられているようだ。「おいこら」「なんだよー」。
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このように興味尽きない展覧会であったが、これに加えて平常展示を堪能し、冷たい小雨の降る屋外へと出て、徒歩で淀屋橋方面に移動である。中之島は、北は堂島川、南は土佐堀川に挟まれた、その名の通り中州区域であるが、堂島川に沿って歩いて行くと、見えてくるのは水晶橋。この橋、実はもともと、河川浄化を目的として 1929年に建設された可動式の堰であるらしい。実際、堂島川の水質改善に貢献し、橋面の工事を経て、1982年に橋として法律的にも認められたという。
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さて、その先がますます面白い。実は私も今回初めて知ったのだが、なんとこの先に、2つの重要文化財の橋がかかっているのである。重要文化財の橋と言えば、例えば長崎の眼鏡橋とか、厳島神社の反橋とか、今や普通には通れない、あるいは歩行者限定の、石または木でできた橋を想像するが、この大都会大阪の文字通りど真ん中に、そんな橋があるのだろうか。いや、実際のところ、ここに架かっている橋は、それはもうなんの躊躇もなく (笑) 自動車がびゅんびゅんと行き交うコンクリート製の橋。そう、堂島川に架かる大江橋と、それからつながって土佐堀川に架かる、その名も淀屋橋 (ともに 1935年竣工)。えぇー、そうだったのか。地下鉄御堂筋線の駅名としてもおなじみの淀屋橋は、重要文化財だったのか!! 改めてその姿をまじまじと見る。都市の重要な構造物も、重要文化財に指定される時代になったのだ。ただその利便性だけでなく、歴史的価値を認識しなくては。ここでは、それらの橋の写真と、中央公会堂の資料室に展示されていた、昔の写真とを併せてお目にかけよう。
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ところが調べてみて判ったことには、実は東京の橋もいくつかは既に重要文化財に指定されている。勝鬨橋、清洲橋、日本橋など。やはり、近代の遺産も歴史的な価値を認められているということだろう。なお、上の淀屋橋の写真の向こうに映っているのは、旧大阪市庁舎。残念ながらこの建物は今はないが、その代わり、この地域で最も古い建物は健在だ。上にも書いたが、それは日本銀行大阪支店 (1903年竣工)。あの明治建築界の巨匠、辰野金吾による設計である。事前予約すれば内部見学も可能とのことなので、いつか内部もじっくり見てみたい。
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そして、この地域で 2番目に古い建物。こちらは大変嬉しいことに、内部に自由に入ることができ、私もかつて何度も利用したことがある。そう、「利用」である。なぜならばそれは、大阪府立中之島図書館 (1904年竣工)。そう、未だ現役の図書館であるゆえ、誰でも出入り自由なのである。この疑古典的な神殿風の堂々たる佇まいは、実に素晴らしいではないか。
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実はこの図書館、住友家の寄付のよってできたもので、設計は住友家の建築技師長であった野口孫一。この内部の装飾も、本当に素晴らしくて感動的だ。明治の日本人は、西洋を目標として、こんな大変なものを作ることができたのである。そして、関西を代表する財閥が、太っ腹で寄付をしたという事実。しかも、しつこいようだが、それが現役という点に、大阪の文化の豊かさを発見するのである。
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階段に沿った奥の壁の両側に一対のブロンズの彫刻が見えるが、向かって右が文神、左が野神。人間の両面、つまりは知性と野生を表しているのであろう。そしてこの彫刻の作者は、あの北村西望である。言うまでもなく、長崎の平和祈念像を作った人である。
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このように、ほんの数時間の散策でも、大阪の歴史と文化に思いを馳せることができる。これはまた是非機会を見つけて、上記の通りの一連のレトロ建築巡りをし、それから、全身を目玉にしての街歩きを楽しんでみるべし、と考えているのである。たこ焼き食いたいなぁ。

by yokohama7474 | 2018-02-06 23:39 | 美術・旅行 | Comments(0)  

京都 その 3 無鄰菴、南禅寺 (金地院、本坊、南禅院、天授庵)

年初の京都旅行 3日目、2018年 1月 4日についての記事である。この日は午後には京都を離れる必要があり、半日のみの観光となった。さて、京都駅からそれほど遠くない場所で、半日を過ごすとすると、どこがよいだろう。前の記事にも書いたが、大混雑の人気寺院は避けたい。かと言って、見ごたえのない寺をいくつも巡るのも気が進まない。そんな私の脳裏に浮かんだひとつの寺院がある。それは、東山に位置する南禅寺。京都五山の上位、別格という寺格を持つ、京都有数の禅寺である。ここなら広すぎず、また塔頭もいくつかあって、半日観光にはもってこいだろう。そう思って京都駅から地下鉄に乗り、東山駅で降りて岡崎公園の横を通っていると、またまた閃いた。そうそう、南禅寺に着く前にもう 1軒、素晴らしいところがあるではないか。このように塀を巡らせた場所。
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これは、長州出身の明治の元勲、陸軍大臣山縣有朋 (1838 - 1924) の別荘で、無鄰菴 (むりんあん) と呼ばれる場所。1894年から 1896年にかけて造営されたもので、現在では国の名勝に指定されている。
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私はここを訪れるのは 2度目であるが、激動の時代を生きた山縣の心を鎮めるように作られているのだろうか、なんとも穏やかな気分になる素晴らしい場所なので、再訪したいと思ったもの。入り口を入るとすぐ、このような庭の眺めが目に入る。この近代の庭園が禅寺の庭と異なるのは、その地面のフラットさと、芝生の場所でも人為をあまり感じさせない自然な佇まいである。
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上に見える通り、ここではあたかも自然の小川のような水の流れがあって心地よいが、実はそれは琵琶湖疎水の水を引いたもの。この庭園に刺激を受けて、この界隈には様々な別荘が立ち並ぶこととなった。これらの別荘はこの無鄰菴以外は一般に公開されていないのであまり知られていないようだが、私は以前 NHK BS で放送していた特集を見たことがある。京都という古の都が、首都としての地位を東京に移したあとで、この地に新たに造営された建築・庭園群であり、近世の権力者たちに守られてきた寺院とは異なる、近代富裕層が持つ生命力と、所有主の心情までが感じられる場所であると思う。この無鄰菴の庭を散策することで、そのような近代の清新さを実感できて清々しい。敷地内には日本家屋の母屋に加え、洋館が建っている。1898年にできたもので、これが入り口。蔵のようである。
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2階に上がると、洋室にこのような逞しい松の壁画があって、その和洋折衷ぶりが、明治という時代を思わせる。この壁画は江戸時代初期の狩野派の絵師によるものとのことだから、どこかから移してきたものだろう。この部屋で 1903年 4月30日、山縣に伊藤博文、桂太郎、小村寿太郎の 4人によって、日露開戦直前の外交方針を決める「無鄰菴会議」が開かれたとのこと。歴史的な場所なのだ。
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天井画も見事であり、別の部屋では山縣の遺品も見ることができる。
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今年は明治維新 150周年。明治という時代について再度考えてみる機会が多そうであるが、私も最近そのあたりについて書かれたユニークな本を読んだので、その感想は追って記事にするが、いずれにせよ、日本がドラマティックに動いていたその当時、元老のひとりたる山縣が、このように情緒豊かな別荘を持っていたとは、思えば豊かな時代であったものだ。

さて、それからメインの南禅寺に向かった。
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参道を歩き、南禅寺の境内に入る前に右手を見ると、そこには塔頭の金地院 (こんちいん)。まずここから拝観してみよう。
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ここには小堀遠州の手になる八窓席という茶室や、長谷川等伯の「猿猴捉月図」などの重要文化財があるが、日に何度かの時間を区切っての特別公開であり、今回は時間が合わずに断念。境内と庭園の散策だけとした。
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ここに意外なものがある。この唐門である。これは明智門という。つまりは明智光秀に因むものであろう。むむ。この金地院には、「黒衣の宰相」などと呼ばれ、江戸時代初期に大きな権力を持って幕藩体制の基礎を築くのに貢献のあった僧、あの崇伝がいたことは歴史の常識。つまりは徳川家とかなり近い関係の寺である。そこに明智光秀を記念するような門があるとは、やはり、本能寺の変の黒幕は徳川家康であったという説を裏付けるものか??? 歴史の綾を思わせる、怪しい光と影の饗宴。
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・・・と思ったら、実はこの門は明治時代に大徳寺から移転されたもの。徳川が光秀を偲んで建てさせたものではなく、光秀自身が母の菩提のために建立したものという。ちょっと話を面白くしすぎましたな (笑)。気を取り直して進んで行くと、ここでも明らかに徳川幕府との近さを思わせる建造物がある。それは東照宮。言うまでもなく、徳川家康をご神体として祀る社殿である。
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崇伝が家康の遺言によって、その髪と念持仏を祀るために 1628年に建立したもので、重要文化財。華美なものではなく、その黒い色合いはむしろ地味だが、掛仏や透かし彫りの彫刻は手が込んでいる。もちろん葵の紋も見える。この古色は、私には好ましいものと見えた。
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さて、この寺は方丈も重要文化財であるが、その前に広がる枯山水の庭園は、鶴亀の庭と呼ばれ、あの小堀遠州によって 1632年に造営されたもの。遠州の手になる庭園と言われるものは数多くあるが、これは唯一文献によってそれが確実視されるもので、特別名勝に指定されている。非常にすっきりとした庭で、心が清らかになるようだ。
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さてそれでは、金地院を辞して、南禅寺の境内に入って行こう。眼前に聳える巨大な門は、1628年建立の三門 (重要文化財)。もちろん、歌舞伎の中で石川五右衛門が昇って「絶景かな絶景かな」という言葉を発する、あの門である。実際にこの三門には昇ることができ、その絶景を誰でも楽しむことができる。
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この三門の前には、非常に大きな石灯籠があって、目に付く。この灯籠は高さ 6mと日本有数。調べてみると寄進者は、佐久間勝之という武将。彼は関ヶ原の戦いや大坂夏の陣で活躍し、信濃長沼藩の初代藩主になった人であるとのこと。面白いことに、この南禅寺以外にも、上野東照宮や熱田神宮にも巨大灯籠を寄進しているらしい。
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禅寺において講堂の役割を果たす法堂 (はっとう) は、明治時代に再建されたもので、古くはないが、非常に立派な建物。天井には鳴き龍がある。
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本坊から入り、国宝に指定された大方丈・小方丈 (狩野派の手になる障壁画は、保存のために順次複製に入れ替え中)、虎の子渡しのその庭園を見て、さらにはその奥に回廊でつながる比較的新しい箇所を歩くことができ、最高の寺格を持つ南禅寺の落ち着いた佇まいを満喫することができる。
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また、南禅寺境内の情景のひとつとして有名なものは、これである。
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このローマの水道橋を模した施設は、水路閣と呼ばれ、首都機能を失った明治時代の京都で設計・建設された、琵琶湖から水を引く、いわゆる琵琶湖疎水の遺構である。古寺の境内をこのレンガ作りの建造物が通っているのは一見ミスマッチだが、実はその場に身を置いてみると、かなり情緒を感じることができて、私は好きである。この水路閣を通り抜けると、そこには南禅院という塔頭がある。実はこの場所は、南禅寺のルーツなのである。もともと亀山上皇 (1249 - 1305) の離宮であった。境内にはその亀山天皇/上皇の分骨所もあって、堅く扉は閉ざされ、宮内庁管轄となっている。ここの庭は、洗練された禅寺のそれとは趣きが異なり、かなりワイルド。この日もかなり寒かったが、このように決して華やかでない場所を冬に訪れても、そこは京都。風情は抜群なのである。
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そして最後に訪れたのは、やはり南禅寺の塔頭で、天授庵。ここには、南禅寺開山、大明国師無関普門を祀っている。現在の建物は細川幽斎の寄進になるもので、幽斎の墓もここにある。また、32面に及ぶ本堂の襖絵は長谷川等伯の手になる重要文化財だが、残念ながら非公開。ここでも池の水は冷たそうで、静かな水面の下で鯉たちが動きを停めているのが、興味深かった。生き物はこうしてじっと春を待つ。そして春は必ずまた、巡りくるのである。
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このように無鄰菴から南禅寺とその塔頭を巡り歩くと、さすがに空腹を覚えた。寒いこともあり、これは昼食は南禅寺名物の湯豆腐だろうと思い、何軒か湯豆腐屋を覗いてみたが、いずれも満席。ここは潔く京都駅に向かうこととした。帰りがけに見えたこれは、南禅寺の門前を通っている蹴上インクライン。
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琵琶湖疎水の用途のひとつは舟の輸送であったが、落差の大きい場所では、台車に舟を乗せて鉄道で動かした。この線路はそのためのもの。これは 1940年頃の写真である。
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このインクラインは戦後利用が減り、1948年に運行停止。一旦は線路も廃棄されたものの、産業遺産として残すためにその後復元され、1977年に完成した。京都は古い街で、幾星霜の間に様々なことが起こったが、その一方、現代に至るも大都会でもある。このような近代の産業遺産は、上記の水路閣もそうだが、既にそのような古都京都の中の、ひとつの情緒ある風景になっている。歴史とは、常に流れて行くものであり、今日も、明日になれば既に歴史。その明日も、明後日になればやはり歴史。その歴史の流れの中で、変わるもの、変わらないもの、様々であるが、ここ京都にやって来ると、その変わるものと変わらないものとの共存に、いつも心打たれるのである。ただ、今度はもうちょっと暖かくなってから、散策することとしたい (笑)。以上で年初の 3日間の京都滞在のレポートは終了である。

by yokohama7474 | 2018-02-06 00:50 | 美術・旅行 | Comments(0)  

京都 その 2 東寺、西山 (願徳寺、勝持寺、乙訓寺、光明寺、十輪寺、善峯寺)、平等院、橋寺、伏見稲荷

年明け早々の京都観光 2日目、2018年 1月 3日の記事である。京都の冬は底冷えがして本当に寒いのであるが、この日は朝は雨で、それはあまり激しくならずにほぼあがったのであるが、時折思い出したように雪が舞う寒い日であった。前日は太秦から嵐山を散策した我々は、2日目の目的地は、直前まで全く計画していなかった。だが、未だ正月 3ヶ日の中である。金閣・銀閣や清水寺のように混雑が明らかなところは候補にならない。しばし思案した挙句、ひとつの大胆な案を思いついた。それは、最初にあまり観光客が多くなくて、私自身もそれほどなじみのない、だが見どころはそれなりにあるエリアを見る。それからかなりの距離を移動して、次なる目的地に向かう。前回の記事に書いた通り、こんなコースは一般にはお薦めしないが (笑)、まあ京都観光のひとつの例としてご紹介したいと思う。それには車が必須ということで、京都駅近くで車を借りたが、ちょっと待て。せっかく京都駅近くから動き始めるのだから、そこからほど近い大好きなお寺に行かない手はないだろう。そう思い立って最初に向かったのは、東寺 (教王護国寺) である。世界遺産に含まれる古刹である。一般の方は、新幹線から見えるこの塔のある寺といえば、お分かりになるだろうか。
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日本に真言密教を伝えた弘法大師空海 (774 - 835) が、嵯峨天皇より土地を下賜されて開いたのがこの寺であり、今日に至るも空海に関連する多くの寺宝を伝える特別な場所。仏像好きにとっては、ここの講堂にある諸仏、すなわち、五如来、五菩薩、五明王と梵天、帝釈天に四天王はまさに必見の仏像群である。これら諸仏は、空海自身の構想による立体曼荼羅を構成していて、ただただ圧巻だ。全 21体のうち 15体が創建当初のもので、すべて国宝。特に異様な形態の五大明王の迫力と、梵天・帝釈天の清新な表現は、対照的でありながら、いずれも日本美のひとつの極致と言ってもよい。
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東寺ではこの講堂 (重要文化財) に加え、金堂 (国宝) も常時拝観でき、そこの薬師三尊も立派である。そして今回、上に写真を掲げた国宝・五重塔の初層を特別公開していた。私は過去に 2度ほど見た記憶があるが、やはり貴重な機会である。そもそもこの五重塔、建立は 1644年、徳川家光の寄進によるもので、建物自体はさほど古いものではないが、総高 55mと、現存する日本で最も高い木造五重塔である点に意味がある。京都駅から近くに聳えたっているため、上記の通り新幹線からよく見えることもあって、京都の象徴、あるいは日本の古寺の象徴と言っても過言ではない存在なのである。塔の内部は撮影禁止であったが、開けられた扉の内側にこのようにうっすらと仏の線刻がなされているのを間近に見ることができて、大変興味深かった。
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この講堂・金堂・五重塔エリアが有料エリアなのであるが、そこから大師堂に向かう途中、食堂 (これは「しょくどう」ではなく「じきどう」と読む) の向かいに小さな堂があるのが目に止まった。これは夜叉神堂で、中にはこのような、破損した鬼神の像が祀られている。
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ああ、思い出した。いつぞやこの東寺の宝物館 (春と秋のみ公開される) で、2体の夜叉神と称する像を見た記憶がある。これはそのうちの 1体に違いない。明らかに相当古い作品 (恐らくは平安時代の作ではないか) であるが、保存状態が悪いせいだろう、文化財指定はない。もともと南大門の左右に安置されていたが、旅人が拝まずに通ると罰を与えたとのことで、別の門に移され、桃山時代以降はこの小さなお堂に祀られているという。今まで何十回となく足を運んでいる東寺であるが、こんなお堂があったとは気づかなかった。私は、極上の美にも当然魅かれるのだが、必ずしも美的には最上でなくとも、このような一種の鬼気迫るパワーを持って現世にその姿をとどめている彫像に、何か特別な存在感を感じるのである。それに免じて夜叉神さん、これまで気づかなかったご無礼をお許し下さい。さて、もうひとつの国宝建造物である大師堂は現在修復中。ここには国宝の弘法大師像があって、そちらは別の場所に移されているが、もうひとつ、大師が日夜信仰していたという、やはり国宝の不動明王像がある。そちらは絶対秘仏で、お堂の修理中も、このように閉ざされた厨子の中におられる。
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尚、この絶対秘仏、写真だけは知られているのだが、これはやはり日本のごく初期の不動明王の造形である講堂のそれに比べても、秘めたる憤怒が、より強い迫力を感じさせる大傑作である。いつの日にか実物に対面させて頂ける日が来ることを祈っております。
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それから東寺にはもう一か所見どころがあって、それは、観智院という塔頭である。真言密教の学問所であったらしく、数々の貴重な文書を所蔵するほか、1605年建立の客殿は国宝に指定されている。興味深いのは、宮本武蔵筆になる鷲の図、それから、唐から請来された異国的な五大虚空蔵菩薩像 (それぞれ別々の動物に乗っている) である。
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さて、このようにこの日の前哨戦 (?)、東寺観光を終えて、一路向かった先は京都市西部、西山と呼ばれる地域である。そう、これこそが、上で述べた、「あまり観光客が多くなくて、私自身もそれほどなじみのない、だが見どころはそれなりにあるエリア」なのである。私がこの地域を選んだのは、20数年ぶりに再会したいと切望した一体の国宝の仏像があるからだ。
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眉目秀麗な尊顔や全体のプロポーションに加え、微細な表現を示す衣の渦を持つこの美しいお姿には、仏像になんのイメージがない人が見ても、必ずや心を動かされるであろう。平安時代前期、いわゆる貞観 (じょうがん) 期を代表する作品のひとつで、私が若い頃は、このように呼ばれていた。「花の寺・勝持寺 (宝菩提院) 菩薩半跏像」。「花の寺」と「勝持寺」が同じ寺を指していることは分かるが、このカッコ書きでついている「宝菩提院」との関係はよく分からなかったし、名称もただの「菩薩」では、観音菩薩の一種なのか、それ以外の菩薩であるのか判然としなかった。それが今、この仏像の標準的な表記は以下の通りである。「願徳寺 如意輪観音半跏像」。今回久しぶりの対面を果たし、その美しさには言葉もないが、数奇な運命を辿った仏さまであることを再度実感することにもなった。この願徳寺にはこのような看板があって、見たところ比較的新しいもの。「菩薩」ではなく「観音」と表記してあるし、そして、わざわざ庭はないと断っているにも若干奇異なのである。
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実際に境内は極めて狭く、この仏像 (と、重要文化財の薬師瑠璃光如来像) を収めた収蔵庫だけがそこにあると言ってもよいくらいである。ちょうど雪がちらついていて、本当に寒い日であった。
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この仏像の由来はどうやらよく分かっていないらしい。名称も、学術的には菩薩としか判明せず、如意輪観音は寺伝によるもの。また、寺の名称は、「宝菩提院 願徳寺」である。この寺は昭和に入って荒廃し、この素晴らしいご本尊は、隣接する勝持寺 (別名「花の寺」) に 1962年に移された。その後本堂や庫裏の再建がなされ、1996年にご本尊は勝持寺からこちらに帰ってきたという経緯なのである。だから私が以前こちらを訪れたときには、願徳寺または宝菩提院というお寺を訪れた記憶はなく、もっぱら、花の寺 = 勝持寺を訪れたものと記憶しているのだ。日本を代表する仏像のひとつであるこの菩薩像には、そのような数奇な運命があった。だが、いかなる経緯であれ、これだけ美しい仏さまは、多くの人々が必死に守ったものであると思う。今日我々がこの奇跡的な美仏と対峙できるのは、命を賭けてこの像を守った人たちがいたおかげなのである。では、この仏さまを以前管理していた花の寺・勝持寺は今どうなっているのだろう。この願徳寺のすぐ奥にその寺はある。
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実は私の記憶の中に、以前ここに菩薩半跏像を拝観に来たときの光景がこびりついている。その日も冬で、やはり雪が舞う大変寒かった日であったのだが、ちょっとした高台からの景色を見ながら、ほかに観光客もいないその場所を支配する静けさに、逆に耳を傾けたことをよく覚えている。京都の冬には、あたかも空気の底に沈黙が張り付いているように思われるときがあって、その場に身を置くと、その沈黙に耳を澄ませている自分に気づく。そう、沈黙に耳を澄ます。その経験を持ったとき、これこそが日本人の美意識のひとつのかたちなのであろうと思ったものだ。例えば武満徹の音楽には、そのような感性の存在を感じることができるし、彼の著作に「音、沈黙と測りあえるほどに」というものがあるのを思い出したのである。
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そう、記憶の底にあるそのような景色は、願徳寺の狭い境内にはなく、この勝持寺にあったのだ。やはり私が以前菩薩像に会ったのは、1996年に願徳寺に戻る前であったのだ。ただ、この勝持寺には今でも見るべきものが沢山ある。瑠璃光殿という名前の宝物館には、本尊の薬師如来像やその胎内仏、金剛力士像が重要文化財であるし、十二神将像も立派なものだ。これがご本尊の薬師如来坐像。薬壺から薬をつまみ出す珍しいお姿であり、これはこれで、なかなか美しい鎌倉仏だ。
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そしてこの寺はまた、鳥羽上皇に仕えていた北面の武士、土佐藤兵衛義清が出家した寺でもある。彼は出家後、西行と名乗った。寺には西行桜もあれば、西行が剃髪の際に鏡代わりに使ったと言われる「鏡石」もある。
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やはり歴史の物語に彩られた場所で、空気の底に張り付く沈黙に耳を澄ませることで、遠く過ぎ去った時の彼方に思いを馳せるのは、特別な経験だ。但し、この勝持寺の本堂の中、本尊の厨子が空になっているのを見て淋しい気になったのは事実。かつてはそこに、本尊薬師如来が収まり、同じ堂内にはその後願徳寺に移った菩薩半跏像がおわしたはず。このような時の移り変わりは、1000年以上の時を乗り越えてきた寺にとっては些細なことかもしれないが、有限の生を生きる人間の営みの儚さを感じざるを得ない。

さて、この 2寺のあと、この西山の地で、4軒のお寺を回ることとした。いずれも私にとっては今回が初めての訪問だ。まずは乙訓寺 (おとくにでら)。
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このあたりの現在の地名は長岡京市。長岡京は、桓武天皇が平城京から遷都した先で、平安京に移るまでの 10年間 (784年から 794年) という短い間の都であった。かなりの規模の都であったようだが、何分にもその跡地には何もないので、往時を偲ぶことは難しいのではないか。だが、この地域には由緒正しい古刹がいくつもあって、この乙訓寺もそのひとつ。但し現在は、あまり見るものは多くない。そんな中、毘沙門堂に祀られているこの毘沙門天像は平安時代の作品で、小ぶりながら重要文化財に指定された優品だ。
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次に訪れたのは光明寺。ここはかなり規模の大きな寺である。
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それもそのはず。法然が 1175年に初めて説教をした場所であり、またその遺骸を荼毘に付したという、浄土宗にとっては神聖な土地なのである。寺名の光明寺とは、法然の石棺が光を放ったという伝説によっているという。しかも、私は今回初めて知ったのだが、平家物語で有名な熊谷直実 (我が子を思い出しての葛藤の末、平清盛の甥、若い敦盛の首を取った武将) が出家して法然の弟子となり、蓮生と名乗ってこの地に寺を開いたといういわれであるらしい。広い境内は非常に気持ちがよく、私たちが訪れたときはほとんど人の姿もなくて、これは穴場かと思ったが、紅葉の季節には観光客でごった返すようだ。世の中そうそう甘くない (笑)。
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それから、十輪寺へ。ここにも歴史上の有名人物の伝説がある。それはあの平安時代の歌人、在原業平 (825 - 880) である。彼は晩年ここに隠棲し、塩焼きの風流を楽しんだという。
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このお寺、上の写真のように門を閉ざしていて、拝観客はベルを鳴らした上で、横手の小さな扉から中に入るようになっている。境内でも撮影禁止その他、厳しいご指導に従うことが求められている。ええっと、曲線をうまく使ったこの本堂のかたちが珍しかったので写真に撮りましたが、まさかご指導に違反していませんよね (笑)。
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境内の裏山に業平の墓、及び復元された塩竃がある。さすがに古い時代のことで、どこまで史実であるかはなかなか明確に判明しないだろうが、あの美男で鳴らした業平が、都の外れで隠棲していたとは面白い。なんでも、思い人であった藤原高子 (こうし、清和天皇の女御) が近くの大原野神社に詣でた際に、ここから煙を上げて思いを託したという。ロマンティックではありますな。
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そうそう、この十輪寺、JR の「そうだ、京都、行こう」のポスターのひとつでも使われたことがある。こんな見事な桜が咲くのですな。その名も、なりひら桜というそうだ。
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そして、西山で最後に訪れたのは、善峯寺 (よしみねでら)。この寺の名前は以前から知っていて、それは西国三十三か所の第二十番札所だからであるが、現地を訪れるのは今回は初めて。さすが西国の札所、駐車場も大きいし、それなりに賑わっている。
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ここも堂内で見るものはさほどあるわけではないが、重要文化財の多宝塔は見事だし、天然記念物に指定されている全長 37m の「遊龍の松」があったり、桂昌院 (5代将軍綱吉の生母) お手植えの桜があったりする。
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さて、このように西山観光を一通り終えて、既に午後も遅めの時刻に入っている。残りの時間をいかに有効活用しようか。ここで私のいたずら心が動き出した。ひそかに実行を試みたいと思っていた案がある。その案を採用し、そして向かった先は・・・なんと、平等院だ!! 京都の地理に詳しい方なら、こんな無謀な案には呆れてしまうことだろう。なぜなら、西山は京都の中心部から見れば文字通り西側。それに対して平等院のある宇治は、かなり南の方である。西山から宇治に向かうなんて、時間がかかりすぎるだろう。いや、そんなことはないのだ。京都縦貫自動車道という高速をひとっ走りすれば。地図をまじまじと見て、これは行けると私は確信した。なぜならば、平等院も世界遺産。もちろん多くの観光客でごった返しているはずだが、既に閉館時刻も近づいてきていて、今から行けば駐車場も空いているだろう。・・・その思惑はぴたりとはまり、恐らく昼間は満員であったであろう駐車場にも少し空きがあり、スムーズに平等院に到着した。もちろん私にとっては幼少期からなじみの場所だが、最近はかなりご無沙汰で、境内が整備されて新たに宝物館ができた頃から行ったことがない。今調べてみると、新たな宝物館、鳳翔館は 2001年の開館。実に 17年間は足を運んでいなかったことになる。懐かしい平等院であったが、ただひとつ、残念であったことは、鳳凰堂の中には入れなかったこと。以前は無制限に入ることができたが、今は人数制限を設けて、その日の予定人員に達すると受付を終了してしまう。これは残念だが致し方ない。全体として、一種のテーマパーク風になってしまったような印象は否めないが、それは誰でも楽しめる場所になったということであり、改めて思うには、ここはやはり奇跡の場所なのである。雲がかかったり晴れ間が出たりして、さながら天からの照明による演出のようだ。こんなに美しい建物が 1000年近く前にでき、それが今日まで残ったことは、本当に奇跡なのである。
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この鳳凰は、今では複製に取り換えられ、オリジナルは鳳翔館に展示されているが、この金色の姿は本当に美しい。ただ、私の隣の親子連れが、「ほらほら見て、しゃちほこだよ!!」と叫んでいたのはいかがなものかと思った (笑)。うーん、いかに誰でも楽しめる場所になったとはいえ、鳳凰堂という名前のいわれくらいは、どこかで説明を見て欲しかったものである。
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さて、そのモダンに生まれ変わった宝物館、鳳翔館では、やはりその鳳凰や、日本三名鐘のひとつである創建期の梵鐘、そしてなんといっても、雲中供養菩薩のうち半数ほどを間近でじっくり見ることができるのが嬉しい。
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さて、貪欲な私は、まだもう 1軒、出掛ける時間があると判断した。通常ならば、平等院と黄檗山萬福寺がセットになる宇治観光であるが、ちょっと萬福寺を見ている時間はない。であれば、宇治川のほとりにある橋寺放生院 (はしでらほうしょういん) にしよう。ここは昔、宇治橋を管理していた寺で、7世紀に作られた、日本最古の石碑のひとつ、重要文化財の宇治橋断碑がある。宇治は古代より、近江と飛鳥を結ぶ重要な場所であり、それゆえ宇治橋の重要性も高かったのであろう。だが、久しぶりに行ってみると、宇治橋断碑は冬の間は拝観できないのであった。
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さあ、これでいよいよ日暮れが近づいてきた。普通の人なら、ここで観光打ち切りであろう。だが私はちょっと違っていて、最初からの目論見がまだ残っていた。つまり、宇治からどのみち京都中心部に戻るに際して、通りかかる場所があり、そこならば、寺院のように 16時半や 17時に拝観時間が終了することはないのだ。そして、たまたま家人がその場所に興味を持っている。その場所とは、伏見稲荷である。全国でも有数の初詣スポットだが、さすがに 1月 3日の日暮れ時ともなると、そろそろ人も減ってきている頃だろう。そう思って現地に辿り着くと、車は近くまで入ることはできず、数百 m は徒歩となったが、特に混乱はない。しかも、道を歩くときに常に面白いものを探している私の目に、小さなお堂が見えてきた。覗いてみると、こんなお地蔵様が。
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このお堂は摂取院というお寺らしく、これは安産にご利益ありとされる、通称「腹帯地蔵尊」。仏像好きの私はピンと来て、このふくよかなご尊顔を拝しながら、これは結構古いものだろうと思ったら、案の定、そこに置いてあったパンフレットによると、従来は江戸時代の作かと思われていたところ、最近の調査で、平安時代末期のものと判明したとある。このような思わぬ出会いは嬉しいもの。また伏見稲荷に詣でることがあれば、必ず再会したい地蔵さまである。

さて、最終目的地である伏見稲荷に到着。やはりまだまだ大変な人である。正月にこのような賑やかな神社に出掛けるのは、込み具合の程度問題ではあるが、何かウキウキするような気がするものだ。
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本殿でちょっと奮発して多めの賽銭を投げ入れようとしたところ、手元が狂って、あろうことか、巨大な賽銭箱のヘリに当たって、跳ね返ってしまった (笑)。うーん、今年も金運はダメか・・・。まあでも、このくらいの規模の神社になると、賽銭箱の下に布が敷き詰めてあって、私と同じように賽銭箱に嫌われた人々の浄財も、追って集められ、神様に奉納されるであろう。ドンマイドンマイ。そして、境内奥に進み、最近外国人にも大人気スポットになっている千本鳥居へ。
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このように延々と鳥居が続いていて圧巻なのであるが、それぞれの鳥居の裏には寄進者名が記されている。気になって最初の鳥居の裏を見ると、この会社でした。なるほど (笑)。
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さぁ、それから、様々な国の言語を耳にしながら、一通り回ってきたのだが、最初は大きいサイズであった鳥居は、少し進むと小型のものに変わり、かなり狭い中を通り抜けることになる。寄進の年月を見ると、意外と最近のものもあり、また、立っている順番が寄進の順番と一致していないので、さて、どのように維持管理しているのであろうか。
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と、以上が今回の京都旅行の 2日目のレポートである。本当に京都には未だ知らないことが数々あって、何度行っても発見があるのである。実は今回、宇治に行ったときに、何十年の記憶のゴミの奥底から、何かが聞こえるような気がした。そして私はその声が非常に気になっていたのだが、この旅行のあと立ち寄った実家で、何の気なしに昔買った寺の本を見ていて、突然思い出したことがあった。それは、少年の頃、平等院や橋寺放生院を訪れたあと、多分バスに乗って向かった場所。古い本でその名称を思い出した私は、早速ネットでその場所について調べてみると、意外なことが判明した。これらは、いずれその地を訪れた際に (平等院鳳凰堂の内部も拝観しないといけないし、萬福寺も再訪しなければいけないし、あるいは伏見にも、若冲が晩年を過ごした石峰寺もあるし) 記事を書くこととしたい。人の記憶はあてにならないものだが、時に、点と点が思わぬ具合で線になることもある。そういう経験は、歴史的な場所を何度も訪れることで、より深くなって行くものと思うので、私は歴史探訪の旅をやめられないのである。

by yokohama7474 | 2018-02-04 23:54 | 美術・旅行 | Comments(0)