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神聖ローマ皇帝 ルドルフ 2世の驚異の世界展 Bunkamura ザ・ミュージアム

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神聖ローマ皇帝ルドルフ 2世 (1552 - 1612) の名前は、澁澤龍彦や荒俣宏の著作に親しんでいる人にとっては、既におなじみのものであろう。珍奇なものを集めたヴンダーカマー (驚異の部屋) は当時ヨーロッパで流行したが、ルドルフ 2世が、当時ハプスブルク帝国の首都であったプラハに造営したものが、その代表と言われている。ルネサンスは人文科学や自然科学の発展の時代となったが、当時のヨーロッパ人たちが見つけ出した様々な未知の事柄に、多分に想像力も加わって、そのまま近代に突入する素地が出来上がって行ったわけである。そこには、近代の先駆けとしての理知的な面と、それから、想像力なしには生きられない人間という存在に立脚する、中世以来の文化的伝統を感じさせる面がある。それがヴンダーカマーの性質なのであろうと私は考えている。この展覧会は、その歴史上有名なルドルフ 2世のヴンダーカマーとはいかなるものであったのかに、様々な側面から迫るという意欲的な展覧会である。日本では古今東西の美術品や歴史遺産の展覧会が開かれており、まさに枚挙のいとまがないという表現がぴったりであるが、私の場合は、もうよく知っている画家の展覧会には、最近あまり足を運ばなくなっている傾向がある。もちろん、行ってみれば新たな発見はあるのであろうが、物理的な時間の制約もあり、できれば、これまで知らなかったものを見たいと思う。この展覧会 (3/11 まで開催中) などは、そのような例の典型と言ってよいと思う。但し、期待通りに目からうろこの驚愕の展覧会であったか否かは、また以下で書いて行きたい。

さてこれは、近年発見された、30歳頃のルドルフ 2世の肖像 (1580年頃作)。なるほど、髭を生やして落ち着いて見えるが、血色もよいし、若々しい肖像である。この時代の彼の肖像画はほかにないらしい。ちょうどプラハ遷都前後。これからヴンダーカマーを作ってやろうという野心を、そこに見ることができるかどうか (笑)。
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これはアドリアン・フリースという彫刻家の手になるルドルフ 2世の胸像。1607年に作られたオリジナルを 1964年に複製したもの。当時 55歳。ハプスブルク家特有の突き出た下あごがリアルで、きっとこんな顔の人だったのだろうと思う。この像の下部の裏側には、当時オスマン・トルコに勝利したことを記念して、トルコを象徴する蛇を、ハプスブルクを象徴する鷲が踏みつけているところが表されている。
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さて、現在のチェコ共和国の首都プラハについては、以前記事を書いたこともあるが、中世の街並みを残す素晴らしい場所である。その文化的な雰囲気は、ルドルフ 2世が文化・芸術を奨励したことによってもともと育まれたもの。この作品は、そんなプラハを舞台に、17世紀初頭に描かれた「ネボムクの聖ヨハネの殉教」。プラハを流れるヴルタヴァ (モルダウ) 川に投げ込まれて殉教した聖人の姿であるが、背景が大理石を模した模様になっているのが面白い。
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これは、上に掲げたルドルフ 2世の肖像を描いたとされるルーカス・ファン・ファルケンボルフという画家の作品、「バベルの塔の建設」(16世紀前半作)。バベルの塔といえば、昨年日本でも展覧会が開かれたブリューゲルの作品が有名であるが、この時代にはかなり頻繁に絵の題材となっていた。人間の不遜な行いへの教訓ではあるものの、もしかすると、人間の能力への賛歌という隠れたテーマがあれば面白いなぁと思うのは、私のようなひねくれものだけだろうか。
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さてこの展覧会には、ルドルフ 2世の宮廷で活躍したルーラント・サーフェリー (1576 - 1639) という画家の作品が多く並んでいる。これは、「村の略奪」(1604年作)。一見してこの群衆はブリューゲル風だが、実際にこのサーフェリーは、「ブリューゲル風の」画家としてプラハに招かれたのだという。
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これはまたルーカス・ファン・ファンケンボルフの「飲用療法中のルドルフ 2世」(1593年頃)。皇帝が鉱泉を飲むところを描いたもののようだ。貴族たちとともに、右手前には農民たちも描かれており、ちょっと不思議な作品だ。
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この絵の中でルドルフは、中央に並んだ 3人の真ん中に描かれており、左右は弟のエルンストとマティアスであるそうだ。
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さて、展覧会では、ルドルフ 2世が力を入れた天文学についての資料があれこれ並んでいる。彼のもとにいた天文学者として知られるのは、まずティコ・ブラーエ (1546 - 1601)。デンマーク出身だが、1599年にプラハの宮廷に迎えられた。この肖像画は 1596年の作というから、プラハ入りの少し前のものであるが、髪を右半分だけ剃っているのは奇妙である。また、決闘によって傷んだ鼻を隠すために付け鼻をしていたというが、よく見ると確かに鼻の横に何やら線が見える。
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そのティコ・ブラーエが率いてプラハで開始した天体観測の成果のひとつがこれである。1742年に出版された「最新天文図帳」。天体観測をしても、結局はギリシャ・ローマ神話から取った星座名を使うあたりに文化度の高さが伺える。
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そのブラーエの弟子筋にあたるのが、ケプラーの法則で有名なヨハネス・ケプラー (1571 - 1630) である。これはケプラー作成のその名も「ルドルフ表」に付属した世界地図。なるほど、ハプスブルクは空の上だけでなく、地表も観察していたわけだ。なにせ世界に植民地を持っていたので当然と言えば当然か。ここに見える双頭の鷲は、いうまでもなくハプスブルク家の象徴である。
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さてこのように、ルドルフ 2世の宮廷では自然観察が盛んに行われたわけだが、それゆえに博物学が発達して、それが絵画作品にも反映されて行く。これは再度登場、ルドルフ 2世に仕えたルーラント・サーフェリーの「大洪水の後」(1620年頃)。もちろんノアの箱舟の物語であるが、ここでは青空をバックに多くの動物たちが描かれている。だが興味深いことに、箱舟自体は見ることができず、画家の興味が、動物を描くことであったことが分かる。
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これも同じ画家の「鳥のいる風景」(1622年作)。同じようにここでは、様々な鳥を描くことを目的としているのであろう。自然観察の目があって初めて可能な表現である。
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これも同様趣旨のサーフェリーの作品、「動物に音楽を奏でるオルフェウス」(1625年作)。ええっと、オルフェウスはどこに? (笑) 大変小さくて分かりづらいが、中央右手あたり、白馬の隣にいることはいる。だが、ほとんど申し訳程度で、画家の関心は動物を描くことであることは明らかだ。それにしてもこのサーフェリーという画家、かなりコントラストの強い色彩でダイナミックな作品を描いているが、正直、画格がそれほど高いとは思われない点は少し残念だ。
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だがこのサーフェリーという人は、かなり真面目な人であったと見えて、この展覧会でも動物の素描が沢山展示されている。これはなかなか興味を惹くものだ。例えばこの象やライオンは、実際に目にしたことがあったのか否か分からぬが、大変リアルである。
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そのような自然観察に秀でたサーフェリーの作品として、以下は大変見事であると思う。「花束」(1611 - 12年頃作) である。宗教的な寓意も含まれているようだが、その点を覗いて純粋に絵画表現を鑑賞してみても、ネーデルラントの静物画よりも、不気味なまでの生命力を感じさせると思う。
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これもルドルフ 2世の宮廷で働いたフランドルの画家、ヨーリス・フーフナーヘルの「人生の短さの寓意」の二連画のうちの 1枚 (1591年作)。ドクロやコウモリの羽やカタツムリなどの不気味なものと、下の方に見える毛虫と蝶からは、変容を読み解くべきであるようだ。
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そしてここであの画家の登場だ。変容と言えばこの人。ジュゼッペ・アルチンボルド (1526 - 1593) である。彼もまた、ルドルフ 2世に仕えた画家のひとり。これは「ウェルトゥムヌスとしての皇帝ルドルフ 2世像」(1591年作)。アルチンボルドが故郷のミラノに帰ってから制作され、ルドルフ 2世に進呈されたものらしい。ウェルトゥムヌスとは、物事の変転を司る神のことであるらしく、ここでは実に 63種類の野菜と果物で、皇帝の顔を作っている。なおこの作品は現在、スウェーデンのスコークコステル城というところが所有しているが、その理由は、スウェーデンが 1648年にプラハを攻略したことにある。海洋の民であるスカンディナヴィア人が、内陸のプラハを攻めたとは意外だが、三十年戦争の最後の戦いであろうか。
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ルドルフ 2世はまた、ドイツ・ルネサンスの巨匠アルブレヒト・デューラーに魅了されていて、自身の宮廷にもデューラー様式での作品制作を命じたという。これはその一例で、ハンス・ホフマンというドイツ人画家の「キリストの嘲弄」(1590年代初頭作)。うーん、ちょっとというか、かなりというか、デューラーには負けていると言わざるを得ないが、それでも、キリストの周りの人々の不気味な様子には独特の迫力がある。
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それに比べると、こちらは優雅な作品。これもドイツ人画家であるハンス・フォン・アーヘンの「パリスの審判」(1588年作)。トロイ戦争の発端としておなじみの、ギリシャ神話の逸話である。なかなか構図がよろしいですな。
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これは皇帝自身が発注した作品で、ディルク・ド・クワード・ファン・ラーフェステインという画家の「ルドルフ 2世の治世の寓意」(1603年作)。右端に横向きに立っている軍神マルスが、当時トルコを破ったルドルフの肖像画であるらしい。
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かと思うと、ボス風のおどろおどろしい作品もある。ペーテル・ステーフェンス 2世という画家の「聖アントニウスの誘惑」(1595 - 1605年作)。
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図録からの撮影なので、間にどうしても線が入ってしまって見にくいが、この異形のイマジネーションはなかなかのもの。左側に渦を巻いて空中に立ち昇っているのは何だろうか。何やら奇妙な鳥の尾のようであるが、とにかく長い。また、聖アントニウスは恐怖のあまりだろうか、青白いを通り越して、モノクロになってしまっている (笑)。
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展覧会の最後に、例のヴンダーカマー (驚異の部屋) についての展示がある。これはナポリの薬剤師のコレクション (「博物宝典」、1599年作) だが、ヴンダーカマーの典型的なイメージである。ところ狭しと並べられた標本や書物。特に天井のワニがなんといっても目立っているではないか。
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最後に、ルドルフ 2世の驚異の部屋に実際にあったか、あるいはそれに近いと思われる工芸品を 2点。これは作者不詳の「貝の杯」(1577年作)。これも上のアルチンボルドの作品と同じく、現在ではスウェーデンのスコークロステル城の所有であるが、巨大トカゲと兵士の対決とはまた無骨な装飾であって、面白い。
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これはエラスムス・ビーアンブルンナーという人の「象のかたちをしたからくり時計」(1580年頃)。現在ではエステルハージー財団 (もちろんハイドンを雇ったあの貴族の末裔による財団だろう) の所有。今は壊れているらしいが、もともとは自動機械であった。これも見事なもので、象を操るのは異国の人である。
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ほかにも数多くの出展品があり、ここではほんの一部をご紹介できたに過ぎないが、これまでにない切り口での展覧会なので、発見が多々あるのである。その一方で、果たしてルドルフ 2世のヴンダーカマー自体をもう少し体系的に再現するような試みがあれば、もっとよかったと思う。それから、宮廷で活躍した画家としては、アルチンボルドは特別な才能を持っていたが、ほかの画家たちにはそれほどワクワクするものを感じられないのが、残念なところ。天才とはそうそう輩出するものではないのだなと再認識した次第。でも、プラハを文化都市としたルドルフ 2世の業績には、やはり歴史に残る意義があることは間違いないだろう。

by yokohama7474 | 2018-02-26 23:35 | 美術・旅行 | Comments(0)  

没後 70年 北野恒富展 千葉市美術館

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これは、昨年の 11月から 12月にかけての約 1ヶ月半、千葉市美術館で開かれた展覧会である。千葉の前には大阪と島根を巡回しているが、千葉が最後で、既に今日では見ることができない。このブログでは過去にも同様のケースが結構あって、せっかく記事を読んで頂く方の中には、終わった展覧会の記事なんて意味がないよとお怒りの向きもあるかもしれない。それについては一言もないのであるが、ただ、その展覧会の内容が興味深いものである場合には、展覧会というよりもその画家の画業について紹介するようなことになり、長い目で見れば、それはそれで意味のないことではないとも思うのである。この記事も、願わくばこの画家についてのより深い理解につながればよいと思う次第。というわけで、今回の主人公は日本画家、北野恒富 (きたの つねとみ 1880 - 1947)。昨年が没後 70年であったわけだ。
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私も今回彼の作品をまとめて鑑賞して、その画業の全体像に初めてイメージができたのであるが、いくつかの作品には見覚えがある。上のポスターにある通り、「画壇の悪魔派」と呼ばれた画家とのことで、その怪しい表現にはなかなかに期待できるものがありそうだ。実は昨年 12月22日の記事で、京都で見た岡本神草 (1894 - 1933) の展覧会について書いたが、その記事の最後の方に、この北野の展覧会を最近見たと私は書いた。北野は岡本より 14年早く生まれ、そして奇しくも 14年長く生きたので、ちょうど岡本の生涯をすっぽりと包む時期に生きた人であるが、やはり大正時代の怪しい美人画を描いたという点では、岡本と共通する画風もあると言ってもよいだろう。だが、岡本が結局、画家としての本当の高みに昇り詰める前に生涯を終えてしまったように思えるのに対して、この北野は、モダニズムの時代から戦争に入って行く日本の空気を、その作品に刻み付けるという業績を果たした人であると言ってもよいように思う。

北野は金沢に生まれたが、17歳で画家を志して大阪に出て、大阪画壇の中心として活躍した人である。大阪は戦前までは文化的には東京を凌ぐほどの勢いとオリジナリティーを誇っていた都市だけに、どのような作品を描いたのか、見て行くのが楽しみだ。これは 1907年頃の作「燕子花」。浮世絵風でもありながら、早くもモダニズムの萌芽を感じられるように思われる。
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これも同じ頃の「六歌仙」。ここには漫画的と言えるタッチが見られて面白い。奥でこちらを向いているのは僧正遍照であろうか。その顔の描き方は全く写実的ではなく、その成分は下 1/3 に集まっている。また、彼以外の 5人は、これまたありえないくらい、左の方にごちゃっと連なって描かれている (笑)。
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上に書いた通り、北野の生きた時代は、モダニズムから戦争に入って行くという、様々な意味で激動の時代であったのだが、彼の活動分野は伝統的な日本画だけでなく、あとで見るように、ポスターや新聞の挿絵、単行本の装丁にも及んでいる。この「浴後」(1912年作、京都市美術館) という作品は、アールヌーヴォー的な雰囲気を持ち、洋画を思わせる筆致である。実は女性のポーズはかなりしどけないのだが、陰湿なものを感じさせない仕上がりだ。この画家のメンタリティとテクニックは、双方ともこの時代においてかなりユニークかつ高度なものであったのではないだろうか。
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さて次は、この画家が悪魔派と呼ばれたことを思い出させるものである。1913年頃作の「道行」(福武太郎コレクション)。
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細部を見てみると、向かって右の方には、まさに男女の道行の様子が描かれ、左の方には二羽の烏が向かい合っており、そして奥にもう一羽、シルエットの烏が見える。
この作品の題材は、いかにも大阪らしい、近松の「心中天の網島」であるらしいが、既に一足早く死の国に足を踏み入れたような無表情の男女 (遊女小春と紙屋治兵衛) と対照的に、くわっと口を開け、翼を広げた烏の生命力が返って不気味である。地の金に黒を混ぜてあるらしく、華麗さを抑えて耽美的な恋人たちの心情をよく表現している。あ、それから、私が以前岡本神草展の記事でお薦めした「あやしい美人画」という本をお持ちの方は、表紙に出ている 3人の女性像のうち左端がこの女性であることにお気づきになるであろう。
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なお、この「道行」は、文展 (文部省美術展覧会、今の日展の前身) という官立の公募展覧会に落選したらしい。大正時代初期の日本において、このまさにあやしい男女を公衆の面前にさらすことには、日本政府の許可が出なかったということであろう。北野はその落選に不満を抱き、日本美術院の再興 (岡倉天心の遺志を継ぐ動き) に参画した。これはその際に描かれた「鏡の前」(1915年作、滋賀県立近代美術館)。芸妓のはっきりした顔立ちの近代性と、着物にあしわられた仏教的な飛天の図柄が対照的で、北野の冴えた感覚をよく伝えている。
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これは 1914年作の「願いの糸」(木下美術館)。七夕の情景であるようだ。恋の願いだろうか、繊細な指先で針に糸を通す若い女性の姿だが、おしろいに顔の表情の細部を塗りつぶされているにも関わらず、その一心不乱さが、いやみなく伝わってくる。左に描かれた桶にも何やら葉が浮かんでいたり、着物が反射しているようでもあって、細やかな描写が素晴らしい。
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これは 1917年作の「風」(広島県立美術館)。その名の通り、さっと吹き過ぎる風を、一人の女性の姿勢を通して描いているが、黒い頭巾をかぶって髪を見せていない女性の、だが白いふくらはぎがはだけてしまっている様子がなまめかしいが、その表現は決して下劣ではない。上方一流の品格を感じると言ってもよいように思う。それにしても、しばし見とれてしまうような、実に見事な作品だ。
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これは大正前期の「仙人」(耕三寺博物館)。水墨画であり、上で見てきた美人画の数々とはちょっと趣きが違っていて、衣の線などぐいっと力強く引かれている。だが、髪留めに置かれた青に注目しよう。白と黒と青の組み合わせは、上の「風」で使われた色に近いものがあることに気づく (「風」にはそこに、帯の控えめな赤が加わるが)。
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これは、展覧会のポスターにも使われていた「墨染」(大正後期作)。歌舞伎「積恋雪関扉 (つもるこいゆきのせきのと)」に登場する桜の精霊を描いているらしい。咲き誇る満開の桜ではなく、垂れ下がるしだれ桜の枝の先に、首をうなだれて登場した異界の者であるが、よく見るとここでも、ほとんどモノトーンの中に青い髪留めが印象的だ。
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かと思うとやはり、上で見た「鏡の前」のような赤と黒の対比も、北野の作品のひとつのパターンなのであろう。これは大正後期作の「舞妓」。髪の黒といい、髪飾りや襟の鮮やかな赤といい、目立つ部分をベタッと塗っているのに対して、衣のひだや指先には繊細な表情があり、全体のバランスは大変美しい。
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これは少し悪魔性が前面に出た感のある「淀君」(1920年頃作、大阪新美術館建設準備室)。醍醐の花見における淀君を描いているが、桜の花びらがスローモーションのように舞い落ちる静謐な画調の中で、よく見ると右手がかなり大きくて長い。
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突飛な連想だが、これはポーランド、クラクフにあるチャストリスキ美術館が所蔵するダ・ヴィンチの「白貂 (しろてん) を抱く貴婦人」に似ていないだろうか。この作品、ダ・ヴィンチの完成作としてはさほど知名度は高くないかもしれないが、私は、日本にやってきたときに実物を見て、大変感動したのを鮮烈に覚えている。もちろん、ここで北野の作品との共通点や相違点を考えることにあまり意味はないかもしれないが、優れた画家の資質のひとつに、構図上の必然性があれば、写実性から離れることも厭わない、という点を挙げてもよいのではないかと思うので、あえてここで触れた次第。

北野の作品に戻ると、これは 1920年作のやはり同じ「淀君」(耕三寺博物館)。今度は栄光の絶頂での醍醐の花見ではなく、大坂城落城の壮絶な情景である。上の作品と、同じようなポーズを取り、同じような方向を向いていて、同じような桐のご紋入りの着物を着ているが、顔はやつれ、目はうつろで、迫りくる炎の中、まさに壮絶な最期を遂げようとするシーンである。ただ、右腕のインパクトは、花見の作品に比べるとおとなしくなっている。これも全体の中でのバランスであろう。
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北野恒富の作品は、このように悪魔的な感覚をたたえたものでも、決して下品にならないことが美点であろうが、逆に、美しい画面から、ちょっと不思議な感覚を覚えるものもある。例えばこの「蓮池 (朝)」(1927年作、耕三寺博物館)。いわゆる二曲一双、つまりはふたつに分かれて、それぞれが真ん中で折れ曲がる形態だが、洋髪・和服の 2人の女性たちが、巨大な蓮の花が浮かんだ池を舟に乗って進みながら、それぞれ別の方向を見ている。そこに会話はなく、なんとも奇異に映る。特に後ろ姿の青い着物の女性は、この世の者ではないかのようだ。
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後ろ姿の女性といえば、この作品は別の意味で、大変情緒がある。1928年作の「宵宮の雨」(大阪市立美術館)。祭りに出掛ける準備の途中で雨に降られ、残念そうに外を見やる少女と、姐さんたち。よく見ると少女は爪先立ちであり、本当に残念がる気持ちが巧みに表現されているのである。
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北野のよいところは、このような情緒と、いやみにならないユーモアの、ほどよいバランスであろう。これは大正末期から昭和初期の作、「奴」。類似の作品が結構残っているらしいが、ささっと筆を走らせて軽妙に描いたヤッコさんの姿は、見る者の笑いを誘う。
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さてこの展覧会では、上の作品以外にも、昭和に入ってからの北野の大作をいくつか見ることができるが、私の印象では、その頃になると、大正期の悪魔性は若干影を潜めて、柔らかい情緒が感じられるものが増えたように思う。戦争に入って行く荒んだ時代の雰囲気とは対照的だ。これは 1936年作の「いとさんこいさん」(京都市美術館)。もちろん、近代の上流関西弁で、お嬢さん、それから末娘を意味するこれらの言葉は、現代の我々にとっても、谷崎潤一郎の「細雪」によっておなじみであり、この作品の世界感が「細雪」と共通することは、これまでも指摘されてきた由。そう言えば谷崎は、戦争が激しくなる時代にこの優雅で人間的な作品を書き綴り、戦後に完成させている。若き日の作品の悪魔性といい、このような戦争への距離といい、北野と谷崎には、共通する部分がありはしまいか。それにしてもこれは、見ていて心が安らぐ絵ではないか。
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実際北野は、谷崎作品の新聞連載 (「乱菊物語」) や、単行本 (「蘆刈」) への挿絵を手掛けている。北野は谷崎よりも 6歳上で、ふたりは同世代である。彼らの間に親交があったのか否か知らなかったが、調べてみると、なんとなんと北野は、のちに谷崎のミューズとなり生涯の伴侶となる松子が若い頃、絵を教えていたという。その松子が最初の結婚をした相手、繊維問屋の根津清太郎は、実は北野のパトロンであったらしく、つまりは北野が根津と松子の間を取り持ったということのようだ。その後、松子が根津と離婚し、谷崎と同居を始めたのは 1934年。なるほど。そうすると、上に掲げた北野の「いとさんこいさん」は、比喩ではなく実際に、「細雪」の着想と同じところに根があるのだろう。実は谷崎は松子との結婚に先立つ 1932年、「盲目物語」において、北野の「茶々殿」という作品を口絵に使用することを強く希望し、叶えられたという。この「茶々殿」、モデルは松子であるそうだ。つまり北野にとっては絵の生徒である。実に面白い、谷崎と北野の関係であったのだ。
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谷崎について語り出すと止まらなくなってしまうので、このあたりで北野作品に戻り、この記事を〆ることとしよう。若い頃から悪魔性とともに巧まぬユーモアのセンスを持っていた北野はまた、上記のような挿絵や、ポスターなどでも大いに活躍した。これは 1917 - 18年頃の「新浮世絵美人合」から「三月 口紅」。江戸時代の浮世絵に倣ったシリーズもので、各月を題材とした 12枚もののうちの 1枚。ここにはやはり、浮世絵師ではなく、モダニストの北野の顔が見える。
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そしてこれらは、かなり気合の入った本格的なポスター。1913年のサクラビールと、1916年のたかしまや飯田呉服店である。後者は見てそのまま、現在の高島屋であるが、前者は調べてみると、サッポロビールの前身であるようだ。このような芸術家を起用する企業には、財力もあれば先見性もあって、企業の息も長いということだろうか (笑)。
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それから最後に、やはり高島屋のポスターの原画 (1929年作) をご紹介しよう。なんとこれ、左の乳房を露出していて、ビックリするのである。未だ日中戦争は始まっておらず、大正モダニズムの雰囲気が色濃く残っていたという時代背景によるのであろうか。原画なのでここにはないが、実際のポスターには与謝野晶子の「香くはしき近代の詩の面影を装ひとせん明眸のため」という歌があしらわれていたらしい。この「明眸 (めいぼう)」とは、澄んだ瞳のこと。つまり晶子の歌は、たとえ 1枚の着物だけの状態であっても、かぐわしい近代の詩の面影を身に纏えば、それによって新たな世界が見えてくる、と言いたかったのだろう。なんとも美的であり、メッセージ性に富んだポスターであったのか。
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このように、時代の空気を作り出し、また時代の要請を自らの創作活動に取り組んだ、北野恒富というほとんど未知の画家の、ユニークな画業を辿ることのできる貴重な展覧会であった。今度彼の大規模な回顧展が開かれるのはいつのことかは分からないが、せめて上でご紹介したような画家の特性さえイメージにあれば、また何かの機会に、この画家の作品と思わぬ遭遇があるかもしれない。時代と芸術がともに進んでいた幸福な時代へのノスタルジーも、そこにはついて回るかもしれないが・・・。

by yokohama7474 | 2018-02-14 01:04 | 美術・旅行 | Comments(0)  

大阪 証券取引所、中之島界隈 (東洋陶磁美術館「唐代胡人俑展」、水晶橋、大江橋、淀屋橋、大阪市立図書館、日本銀行大阪支店)

前項までの京都訪問を終え、向かった先は大阪。私自身は、小学生の頃を除けば、この場所に本格的に住んだことはないのだが、今でも壮健な老母が住んでいる。そこで、家人とともに実家訪問というわけだ。実は今回、大阪を訪れるに際し、家人からひとつリクエストがあった。それは、初詣。ん? 初詣といったって、もう散々京都で社寺を回っているし、中でも商売の神様である伏見稲荷には、曲りなりにもそれなりの賽銭を奉じてきた。だが、彼女にとってはまた別の初詣があるらしい。それは、大阪証券取引所である。私には全く縁がないのだが、細々と株などやっている彼女にとってそこは、神聖な土地であるらしい (今日の株価暴落は、誠にご愁傷様です)。だが確かに文化的な観点からは、そのレトロなビルには一度行ってみたいと思っていたことは事実。
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私の手元には何冊か、日本のモダン建築に関する書物があり、その中のひとつが、「大阪建築 みる・あるく・かたる」である。
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実はこの本はこの日、重要文化財、大阪市中央公会堂で購入したものである。中央公会堂は以前もこのブログで採り上げたことがあるし、この本の表紙写真にもなっているが、それにしてもこの本、パラパラ見るだけで滅法面白く、またためになる本である。この本によると大阪証券取引所は、もともと 1935年に建てられたもの。2004年には、最近東京でもよくある方法だが、正面は古いまま残して後ろに高層ビルを建てるという方法で、現代のビルとして生まれ変わった。そしてこのビルの正面に立っている銅像は、五代友厚 (1836 - 1885)。ディーン・フジオカではありません (笑)。
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上に記載した竣工年で明らかな通り、このビルは五代の死後のものなので、五代によって作られたものではない。だが彼は、大阪商工会議所と、この大阪証券取引所 (建物というよりも組織自体) を創設した人。薩摩出身ながら、商都大阪にとっては大変な恩人であるので、ここにこうして銅像が立てられているのである。このビルの中に入ると、まさにモダニズムの意匠がそこここに見られ、この時代の文化をこよなく愛する私としては、興奮を禁じ得ないのである。
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この場所を詣でて家人も気が済んだのか、上機嫌で次の場所へ。それは、緒方洪庵の私塾であった適塾と、その隣にある愛珠幼稚園。これらは既に以前の記事で採り上げたので、ここでは割愛する。そしてすぐ近くの中之島界隈に向かう途中、なんともレトロな建物の前を通りかかったので、車の中からパチリ。このゴシック風の建物は、日本基督教団の浪花教会。調べてみると竣工は 1930年。なんとあのメンソレータムで知られる近江兄弟社の設立者のひとりであるウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計であるという。ヴォーリズは日本各地で教会や大学の設計を手掛けている。それにしても、「キリスト」を漢字で書くと、妙に「浪花」という言葉とフィットすること (笑)。
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そして中之島地区では、まずは大阪市中央公会堂へ。上で本の表紙となっているし、やはりこのブログで以前採り上げたので、建物自体の紹介はスキップして、ひとつ、館内の資料室に貼ってあった、この界隈のレトロ建築の地図だけここに掲載しておこう。ここには、中央公会堂自体を除く20のレトロ建築が挙がっているが、その中で最も古い日本銀行大阪支店 (1903年竣工) と、その次に古い大阪府立中之島図書館 (1904年竣工) は、この記事の後半で採り上げる。そして私はここで宣言しよう。いつの日か、今回のように寒くない日に (笑)、この 20のレトロ建築をすべて取材し、このブログで採り上げることを。
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さて、その中央公会堂のすぐ向かいにあるのが、大阪市立東洋陶磁美術館。もともと安宅コレクションと呼ばれたこの美術館の平常展示については、やはり以前採り上げたのでここでは割愛し、この時開かれていた (そして今も、3月25日まで開かれている) 展覧会をご紹介しよう。
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一見してそれと分かる、右下に写真が載っている舟越桂の木彫り彫刻も気になるが、このガッツポーズを決めた彩色も鮮やかな古そうな人形は、一体なんだろう。唐代胡人俑ということはつまり、中国の唐の時代の、西域の人をかたどった人形ということだ。日本初公開とのことだが、これは一体どこから出土したものか。2001年というからかなり最近発見された、730年に造営された甘粛省の将軍の墓から出土したもの。これが出土時の様子。
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この展覧会のユニークなところは、展示品のいずれも写真撮影 OK であること。なので以下はすべて、私自身が撮った写真なのである。これらはまず、胡人の人形。ウィンクしていたり、垂れ乳でどうやら付け髭をしていたり、1300年前の人たちの息吹が、これ以上ない驚くべきリアルさで迫ってくるのである。
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この下ぶくれの唐美人の姿は、日本にもそのまま入ってきたイメージである。
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副葬品であるから、多分故人が淋しくないようにであろうか、群像もある。また、故人との別れを思い、悲しみに打ちひしがれる人の姿も。このあたりの感性は、日本では法隆寺五重塔の初層の塑像群とそのまま共通している。
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それから、動物たちの人形も大変にリアルで、牛や羊の鳴き声が聞こえるようではないか。事実、この牛たちの群れのうち左側の牛は、右側の牛の鳴き声に反応して振り返っているのだと考えられているようだ。「おいこら」「なんだよー」。
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このように興味尽きない展覧会であったが、これに加えて平常展示を堪能し、冷たい小雨の降る屋外へと出て、徒歩で淀屋橋方面に移動である。中之島は、北は堂島川、南は土佐堀川に挟まれた、その名の通り中州区域であるが、堂島川に沿って歩いて行くと、見えてくるのは水晶橋。この橋、実はもともと、河川浄化を目的として 1929年に建設された可動式の堰であるらしい。実際、堂島川の水質改善に貢献し、橋面の工事を経て、1982年に橋として法律的にも認められたという。
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さて、その先がますます面白い。実は私も今回初めて知ったのだが、なんとこの先に、2つの重要文化財の橋がかかっているのである。重要文化財の橋と言えば、例えば長崎の眼鏡橋とか、厳島神社の反橋とか、今や普通には通れない、あるいは歩行者限定の、石または木でできた橋を想像するが、この大都会大阪の文字通りど真ん中に、そんな橋があるのだろうか。いや、実際のところ、ここに架かっている橋は、それはもうなんの躊躇もなく (笑) 自動車がびゅんびゅんと行き交うコンクリート製の橋。そう、堂島川に架かる大江橋と、それからつながって土佐堀川に架かる、その名も淀屋橋 (ともに 1935年竣工)。えぇー、そうだったのか。地下鉄御堂筋線の駅名としてもおなじみの淀屋橋は、重要文化財だったのか!! 改めてその姿をまじまじと見る。都市の重要な構造物も、重要文化財に指定される時代になったのだ。ただその利便性だけでなく、歴史的価値を認識しなくては。ここでは、それらの橋の写真と、中央公会堂の資料室に展示されていた、昔の写真とを併せてお目にかけよう。
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ところが調べてみて判ったことには、実は東京の橋もいくつかは既に重要文化財に指定されている。勝鬨橋、清洲橋、日本橋など。やはり、近代の遺産も歴史的な価値を認められているということだろう。なお、上の淀屋橋の写真の向こうに映っているのは、旧大阪市庁舎。残念ながらこの建物は今はないが、その代わり、この地域で最も古い建物は健在だ。上にも書いたが、それは日本銀行大阪支店 (1903年竣工)。あの明治建築界の巨匠、辰野金吾による設計である。事前予約すれば内部見学も可能とのことなので、いつか内部もじっくり見てみたい。
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そして、この地域で 2番目に古い建物。こちらは大変嬉しいことに、内部に自由に入ることができ、私もかつて何度も利用したことがある。そう、「利用」である。なぜならばそれは、大阪府立中之島図書館 (1904年竣工)。そう、未だ現役の図書館であるゆえ、誰でも出入り自由なのである。この疑古典的な神殿風の堂々たる佇まいは、実に素晴らしいではないか。
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実はこの図書館、住友家の寄付のよってできたもので、設計は住友家の建築技師長であった野口孫一。この内部の装飾も、本当に素晴らしくて感動的だ。明治の日本人は、西洋を目標として、こんな大変なものを作ることができたのである。そして、関西を代表する財閥が、太っ腹で寄付をしたという事実。しかも、しつこいようだが、それが現役という点に、大阪の文化の豊かさを発見するのである。
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階段に沿った奥の壁の両側に一対のブロンズの彫刻が見えるが、向かって右が文神、左が野神。人間の両面、つまりは知性と野生を表しているのであろう。そしてこの彫刻の作者は、あの北村西望である。言うまでもなく、長崎の平和祈念像を作った人である。
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このように、ほんの数時間の散策でも、大阪の歴史と文化に思いを馳せることができる。これはまた是非機会を見つけて、上記の通りの一連のレトロ建築巡りをし、それから、全身を目玉にしての街歩きを楽しんでみるべし、と考えているのである。たこ焼き食いたいなぁ。

by yokohama7474 | 2018-02-06 23:39 | 美術・旅行 | Comments(0)  

京都 その 3 無鄰菴、南禅寺 (金地院、本坊、南禅院、天授庵)

年初の京都旅行 3日目、2018年 1月 4日についての記事である。この日は午後には京都を離れる必要があり、半日のみの観光となった。さて、京都駅からそれほど遠くない場所で、半日を過ごすとすると、どこがよいだろう。前の記事にも書いたが、大混雑の人気寺院は避けたい。かと言って、見ごたえのない寺をいくつも巡るのも気が進まない。そんな私の脳裏に浮かんだひとつの寺院がある。それは、東山に位置する南禅寺。京都五山の上位、別格という寺格を持つ、京都有数の禅寺である。ここなら広すぎず、また塔頭もいくつかあって、半日観光にはもってこいだろう。そう思って京都駅から地下鉄に乗り、東山駅で降りて岡崎公園の横を通っていると、またまた閃いた。そうそう、南禅寺に着く前にもう 1軒、素晴らしいところがあるではないか。このように塀を巡らせた場所。
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これは、長州出身の明治の元勲、陸軍大臣山縣有朋 (1838 - 1924) の別荘で、無鄰菴 (むりんあん) と呼ばれる場所。1894年から 1896年にかけて造営されたもので、現在では国の名勝に指定されている。
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私はここを訪れるのは 2度目であるが、激動の時代を生きた山縣の心を鎮めるように作られているのだろうか、なんとも穏やかな気分になる素晴らしい場所なので、再訪したいと思ったもの。入り口を入るとすぐ、このような庭の眺めが目に入る。この近代の庭園が禅寺の庭と異なるのは、その地面のフラットさと、芝生の場所でも人為をあまり感じさせない自然な佇まいである。
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上に見える通り、ここではあたかも自然の小川のような水の流れがあって心地よいが、実はそれは琵琶湖疎水の水を引いたもの。この庭園に刺激を受けて、この界隈には様々な別荘が立ち並ぶこととなった。これらの別荘はこの無鄰菴以外は一般に公開されていないのであまり知られていないようだが、私は以前 NHK BS で放送していた特集を見たことがある。京都という古の都が、首都としての地位を東京に移したあとで、この地に新たに造営された建築・庭園群であり、近世の権力者たちに守られてきた寺院とは異なる、近代富裕層が持つ生命力と、所有主の心情までが感じられる場所であると思う。この無鄰菴の庭を散策することで、そのような近代の清新さを実感できて清々しい。敷地内には日本家屋の母屋に加え、洋館が建っている。1898年にできたもので、これが入り口。蔵のようである。
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2階に上がると、洋室にこのような逞しい松の壁画があって、その和洋折衷ぶりが、明治という時代を思わせる。この壁画は江戸時代初期の狩野派の絵師によるものとのことだから、どこかから移してきたものだろう。この部屋で 1903年 4月30日、山縣に伊藤博文、桂太郎、小村寿太郎の 4人によって、日露開戦直前の外交方針を決める「無鄰菴会議」が開かれたとのこと。歴史的な場所なのだ。
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天井画も見事であり、別の部屋では山縣の遺品も見ることができる。
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今年は明治維新 150周年。明治という時代について再度考えてみる機会が多そうであるが、私も最近そのあたりについて書かれたユニークな本を読んだので、その感想は追って記事にするが、いずれにせよ、日本がドラマティックに動いていたその当時、元老のひとりたる山縣が、このように情緒豊かな別荘を持っていたとは、思えば豊かな時代であったものだ。

さて、それからメインの南禅寺に向かった。
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参道を歩き、南禅寺の境内に入る前に右手を見ると、そこには塔頭の金地院 (こんちいん)。まずここから拝観してみよう。
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ここには小堀遠州の手になる八窓席という茶室や、長谷川等伯の「猿猴捉月図」などの重要文化財があるが、日に何度かの時間を区切っての特別公開であり、今回は時間が合わずに断念。境内と庭園の散策だけとした。
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ここに意外なものがある。この唐門である。これは明智門という。つまりは明智光秀に因むものであろう。むむ。この金地院には、「黒衣の宰相」などと呼ばれ、江戸時代初期に大きな権力を持って幕藩体制の基礎を築くのに貢献のあった僧、あの崇伝がいたことは歴史の常識。つまりは徳川家とかなり近い関係の寺である。そこに明智光秀を記念するような門があるとは、やはり、本能寺の変の黒幕は徳川家康であったという説を裏付けるものか??? 歴史の綾を思わせる、怪しい光と影の饗宴。
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・・・と思ったら、実はこの門は明治時代に大徳寺から移転されたもの。徳川が光秀を偲んで建てさせたものではなく、光秀自身が母の菩提のために建立したものという。ちょっと話を面白くしすぎましたな (笑)。気を取り直して進んで行くと、ここでも明らかに徳川幕府との近さを思わせる建造物がある。それは東照宮。言うまでもなく、徳川家康をご神体として祀る社殿である。
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崇伝が家康の遺言によって、その髪と念持仏を祀るために 1628年に建立したもので、重要文化財。華美なものではなく、その黒い色合いはむしろ地味だが、掛仏や透かし彫りの彫刻は手が込んでいる。もちろん葵の紋も見える。この古色は、私には好ましいものと見えた。
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さて、この寺は方丈も重要文化財であるが、その前に広がる枯山水の庭園は、鶴亀の庭と呼ばれ、あの小堀遠州によって 1632年に造営されたもの。遠州の手になる庭園と言われるものは数多くあるが、これは唯一文献によってそれが確実視されるもので、特別名勝に指定されている。非常にすっきりとした庭で、心が清らかになるようだ。
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さてそれでは、金地院を辞して、南禅寺の境内に入って行こう。眼前に聳える巨大な門は、1628年建立の三門 (重要文化財)。もちろん、歌舞伎の中で石川五右衛門が昇って「絶景かな絶景かな」という言葉を発する、あの門である。実際にこの三門には昇ることができ、その絶景を誰でも楽しむことができる。
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この三門の前には、非常に大きな石灯籠があって、目に付く。この灯籠は高さ 6mと日本有数。調べてみると寄進者は、佐久間勝之という武将。彼は関ヶ原の戦いや大坂夏の陣で活躍し、信濃長沼藩の初代藩主になった人であるとのこと。面白いことに、この南禅寺以外にも、上野東照宮や熱田神宮にも巨大灯籠を寄進しているらしい。
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禅寺において講堂の役割を果たす法堂 (はっとう) は、明治時代に再建されたもので、古くはないが、非常に立派な建物。天井には鳴き龍がある。
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本坊から入り、国宝に指定された大方丈・小方丈 (狩野派の手になる障壁画は、保存のために順次複製に入れ替え中)、虎の子渡しのその庭園を見て、さらにはその奥に回廊でつながる比較的新しい箇所を歩くことができ、最高の寺格を持つ南禅寺の落ち着いた佇まいを満喫することができる。
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また、南禅寺境内の情景のひとつとして有名なものは、これである。
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このローマの水道橋を模した施設は、水路閣と呼ばれ、首都機能を失った明治時代の京都で設計・建設された、琵琶湖から水を引く、いわゆる琵琶湖疎水の遺構である。古寺の境内をこのレンガ作りの建造物が通っているのは一見ミスマッチだが、実はその場に身を置いてみると、かなり情緒を感じることができて、私は好きである。この水路閣を通り抜けると、そこには南禅院という塔頭がある。実はこの場所は、南禅寺のルーツなのである。もともと亀山上皇 (1249 - 1305) の離宮であった。境内にはその亀山天皇/上皇の分骨所もあって、堅く扉は閉ざされ、宮内庁管轄となっている。ここの庭は、洗練された禅寺のそれとは趣きが異なり、かなりワイルド。この日もかなり寒かったが、このように決して華やかでない場所を冬に訪れても、そこは京都。風情は抜群なのである。
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そして最後に訪れたのは、やはり南禅寺の塔頭で、天授庵。ここには、南禅寺開山、大明国師無関普門を祀っている。現在の建物は細川幽斎の寄進になるもので、幽斎の墓もここにある。また、32面に及ぶ本堂の襖絵は長谷川等伯の手になる重要文化財だが、残念ながら非公開。ここでも池の水は冷たそうで、静かな水面の下で鯉たちが動きを停めているのが、興味深かった。生き物はこうしてじっと春を待つ。そして春は必ずまた、巡りくるのである。
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このように無鄰菴から南禅寺とその塔頭を巡り歩くと、さすがに空腹を覚えた。寒いこともあり、これは昼食は南禅寺名物の湯豆腐だろうと思い、何軒か湯豆腐屋を覗いてみたが、いずれも満席。ここは潔く京都駅に向かうこととした。帰りがけに見えたこれは、南禅寺の門前を通っている蹴上インクライン。
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琵琶湖疎水の用途のひとつは舟の輸送であったが、落差の大きい場所では、台車に舟を乗せて鉄道で動かした。この線路はそのためのもの。これは 1940年頃の写真である。
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このインクラインは戦後利用が減り、1948年に運行停止。一旦は線路も廃棄されたものの、産業遺産として残すためにその後復元され、1977年に完成した。京都は古い街で、幾星霜の間に様々なことが起こったが、その一方、現代に至るも大都会でもある。このような近代の産業遺産は、上記の水路閣もそうだが、既にそのような古都京都の中の、ひとつの情緒ある風景になっている。歴史とは、常に流れて行くものであり、今日も、明日になれば既に歴史。その明日も、明後日になればやはり歴史。その歴史の流れの中で、変わるもの、変わらないもの、様々であるが、ここ京都にやって来ると、その変わるものと変わらないものとの共存に、いつも心打たれるのである。ただ、今度はもうちょっと暖かくなってから、散策することとしたい (笑)。以上で年初の 3日間の京都滞在のレポートは終了である。

by yokohama7474 | 2018-02-06 00:50 | 美術・旅行 | Comments(0)  

京都 その 2 東寺、西山 (願徳寺、勝持寺、乙訓寺、光明寺、十輪寺、善峯寺)、平等院、橋寺、伏見稲荷

年明け早々の京都観光 2日目、2018年 1月 3日の記事である。京都の冬は底冷えがして本当に寒いのであるが、この日は朝は雨で、それはあまり激しくならずにほぼあがったのであるが、時折思い出したように雪が舞う寒い日であった。前日は太秦から嵐山を散策した我々は、2日目の目的地は、直前まで全く計画していなかった。だが、未だ正月 3ヶ日の中である。金閣・銀閣や清水寺のように混雑が明らかなところは候補にならない。しばし思案した挙句、ひとつの大胆な案を思いついた。それは、最初にあまり観光客が多くなくて、私自身もそれほどなじみのない、だが見どころはそれなりにあるエリアを見る。それからかなりの距離を移動して、次なる目的地に向かう。前回の記事に書いた通り、こんなコースは一般にはお薦めしないが (笑)、まあ京都観光のひとつの例としてご紹介したいと思う。それには車が必須ということで、京都駅近くで車を借りたが、ちょっと待て。せっかく京都駅近くから動き始めるのだから、そこからほど近い大好きなお寺に行かない手はないだろう。そう思い立って最初に向かったのは、東寺 (教王護国寺) である。世界遺産に含まれる古刹である。一般の方は、新幹線から見えるこの塔のある寺といえば、お分かりになるだろうか。
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日本に真言密教を伝えた弘法大師空海 (774 - 835) が、嵯峨天皇より土地を下賜されて開いたのがこの寺であり、今日に至るも空海に関連する多くの寺宝を伝える特別な場所。仏像好きにとっては、ここの講堂にある諸仏、すなわち、五如来、五菩薩、五明王と梵天、帝釈天に四天王はまさに必見の仏像群である。これら諸仏は、空海自身の構想による立体曼荼羅を構成していて、ただただ圧巻だ。全 21体のうち 15体が創建当初のもので、すべて国宝。特に異様な形態の五大明王の迫力と、梵天・帝釈天の清新な表現は、対照的でありながら、いずれも日本美のひとつの極致と言ってもよい。
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東寺ではこの講堂 (重要文化財) に加え、金堂 (国宝) も常時拝観でき、そこの薬師三尊も立派である。そして今回、上に写真を掲げた国宝・五重塔の初層を特別公開していた。私は過去に 2度ほど見た記憶があるが、やはり貴重な機会である。そもそもこの五重塔、建立は 1644年、徳川家光の寄進によるもので、建物自体はさほど古いものではないが、総高 55mと、現存する日本で最も高い木造五重塔である点に意味がある。京都駅から近くに聳えたっているため、上記の通り新幹線からよく見えることもあって、京都の象徴、あるいは日本の古寺の象徴と言っても過言ではない存在なのである。塔の内部は撮影禁止であったが、開けられた扉の内側にこのようにうっすらと仏の線刻がなされているのを間近に見ることができて、大変興味深かった。
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この講堂・金堂・五重塔エリアが有料エリアなのであるが、そこから大師堂に向かう途中、食堂 (これは「しょくどう」ではなく「じきどう」と読む) の向かいに小さな堂があるのが目に止まった。これは夜叉神堂で、中にはこのような、破損した鬼神の像が祀られている。
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ああ、思い出した。いつぞやこの東寺の宝物館 (春と秋のみ公開される) で、2体の夜叉神と称する像を見た記憶がある。これはそのうちの 1体に違いない。明らかに相当古い作品 (恐らくは平安時代の作ではないか) であるが、保存状態が悪いせいだろう、文化財指定はない。もともと南大門の左右に安置されていたが、旅人が拝まずに通ると罰を与えたとのことで、別の門に移され、桃山時代以降はこの小さなお堂に祀られているという。今まで何十回となく足を運んでいる東寺であるが、こんなお堂があったとは気づかなかった。私は、極上の美にも当然魅かれるのだが、必ずしも美的には最上でなくとも、このような一種の鬼気迫るパワーを持って現世にその姿をとどめている彫像に、何か特別な存在感を感じるのである。それに免じて夜叉神さん、これまで気づかなかったご無礼をお許し下さい。さて、もうひとつの国宝建造物である大師堂は現在修復中。ここには国宝の弘法大師像があって、そちらは別の場所に移されているが、もうひとつ、大師が日夜信仰していたという、やはり国宝の不動明王像がある。そちらは絶対秘仏で、お堂の修理中も、このように閉ざされた厨子の中におられる。
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尚、この絶対秘仏、写真だけは知られているのだが、これはやはり日本のごく初期の不動明王の造形である講堂のそれに比べても、秘めたる憤怒が、より強い迫力を感じさせる大傑作である。いつの日にか実物に対面させて頂ける日が来ることを祈っております。
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それから東寺にはもう一か所見どころがあって、それは、観智院という塔頭である。真言密教の学問所であったらしく、数々の貴重な文書を所蔵するほか、1605年建立の客殿は国宝に指定されている。興味深いのは、宮本武蔵筆になる鷲の図、それから、唐から請来された異国的な五大虚空蔵菩薩像 (それぞれ別々の動物に乗っている) である。
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さて、このようにこの日の前哨戦 (?)、東寺観光を終えて、一路向かった先は京都市西部、西山と呼ばれる地域である。そう、これこそが、上で述べた、「あまり観光客が多くなくて、私自身もそれほどなじみのない、だが見どころはそれなりにあるエリア」なのである。私がこの地域を選んだのは、20数年ぶりに再会したいと切望した一体の国宝の仏像があるからだ。
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眉目秀麗な尊顔や全体のプロポーションに加え、微細な表現を示す衣の渦を持つこの美しいお姿には、仏像になんのイメージがない人が見ても、必ずや心を動かされるであろう。平安時代前期、いわゆる貞観 (じょうがん) 期を代表する作品のひとつで、私が若い頃は、このように呼ばれていた。「花の寺・勝持寺 (宝菩提院) 菩薩半跏像」。「花の寺」と「勝持寺」が同じ寺を指していることは分かるが、このカッコ書きでついている「宝菩提院」との関係はよく分からなかったし、名称もただの「菩薩」では、観音菩薩の一種なのか、それ以外の菩薩であるのか判然としなかった。それが今、この仏像の標準的な表記は以下の通りである。「願徳寺 如意輪観音半跏像」。今回久しぶりの対面を果たし、その美しさには言葉もないが、数奇な運命を辿った仏さまであることを再度実感することにもなった。この願徳寺にはこのような看板があって、見たところ比較的新しいもの。「菩薩」ではなく「観音」と表記してあるし、そして、わざわざ庭はないと断っているにも若干奇異なのである。
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実際に境内は極めて狭く、この仏像 (と、重要文化財の薬師瑠璃光如来像) を収めた収蔵庫だけがそこにあると言ってもよいくらいである。ちょうど雪がちらついていて、本当に寒い日であった。
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この仏像の由来はどうやらよく分かっていないらしい。名称も、学術的には菩薩としか判明せず、如意輪観音は寺伝によるもの。また、寺の名称は、「宝菩提院 願徳寺」である。この寺は昭和に入って荒廃し、この素晴らしいご本尊は、隣接する勝持寺 (別名「花の寺」) に 1962年に移された。その後本堂や庫裏の再建がなされ、1996年にご本尊は勝持寺からこちらに帰ってきたという経緯なのである。だから私が以前こちらを訪れたときには、願徳寺または宝菩提院というお寺を訪れた記憶はなく、もっぱら、花の寺 = 勝持寺を訪れたものと記憶しているのだ。日本を代表する仏像のひとつであるこの菩薩像には、そのような数奇な運命があった。だが、いかなる経緯であれ、これだけ美しい仏さまは、多くの人々が必死に守ったものであると思う。今日我々がこの奇跡的な美仏と対峙できるのは、命を賭けてこの像を守った人たちがいたおかげなのである。では、この仏さまを以前管理していた花の寺・勝持寺は今どうなっているのだろう。この願徳寺のすぐ奥にその寺はある。
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実は私の記憶の中に、以前ここに菩薩半跏像を拝観に来たときの光景がこびりついている。その日も冬で、やはり雪が舞う大変寒かった日であったのだが、ちょっとした高台からの景色を見ながら、ほかに観光客もいないその場所を支配する静けさに、逆に耳を傾けたことをよく覚えている。京都の冬には、あたかも空気の底に沈黙が張り付いているように思われるときがあって、その場に身を置くと、その沈黙に耳を澄ませている自分に気づく。そう、沈黙に耳を澄ます。その経験を持ったとき、これこそが日本人の美意識のひとつのかたちなのであろうと思ったものだ。例えば武満徹の音楽には、そのような感性の存在を感じることができるし、彼の著作に「音、沈黙と測りあえるほどに」というものがあるのを思い出したのである。
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そう、記憶の底にあるそのような景色は、願徳寺の狭い境内にはなく、この勝持寺にあったのだ。やはり私が以前菩薩像に会ったのは、1996年に願徳寺に戻る前であったのだ。ただ、この勝持寺には今でも見るべきものが沢山ある。瑠璃光殿という名前の宝物館には、本尊の薬師如来像やその胎内仏、金剛力士像が重要文化財であるし、十二神将像も立派なものだ。これがご本尊の薬師如来坐像。薬壺から薬をつまみ出す珍しいお姿であり、これはこれで、なかなか美しい鎌倉仏だ。
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そしてこの寺はまた、鳥羽上皇に仕えていた北面の武士、土佐藤兵衛義清が出家した寺でもある。彼は出家後、西行と名乗った。寺には西行桜もあれば、西行が剃髪の際に鏡代わりに使ったと言われる「鏡石」もある。
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やはり歴史の物語に彩られた場所で、空気の底に張り付く沈黙に耳を澄ませることで、遠く過ぎ去った時の彼方に思いを馳せるのは、特別な経験だ。但し、この勝持寺の本堂の中、本尊の厨子が空になっているのを見て淋しい気になったのは事実。かつてはそこに、本尊薬師如来が収まり、同じ堂内にはその後願徳寺に移った菩薩半跏像がおわしたはず。このような時の移り変わりは、1000年以上の時を乗り越えてきた寺にとっては些細なことかもしれないが、有限の生を生きる人間の営みの儚さを感じざるを得ない。

さて、この 2寺のあと、この西山の地で、4軒のお寺を回ることとした。いずれも私にとっては今回が初めての訪問だ。まずは乙訓寺 (おとくにでら)。
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このあたりの現在の地名は長岡京市。長岡京は、桓武天皇が平城京から遷都した先で、平安京に移るまでの 10年間 (784年から 794年) という短い間の都であった。かなりの規模の都であったようだが、何分にもその跡地には何もないので、往時を偲ぶことは難しいのではないか。だが、この地域には由緒正しい古刹がいくつもあって、この乙訓寺もそのひとつ。但し現在は、あまり見るものは多くない。そんな中、毘沙門堂に祀られているこの毘沙門天像は平安時代の作品で、小ぶりながら重要文化財に指定された優品だ。
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次に訪れたのは光明寺。ここはかなり規模の大きな寺である。
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それもそのはず。法然が 1175年に初めて説教をした場所であり、またその遺骸を荼毘に付したという、浄土宗にとっては神聖な土地なのである。寺名の光明寺とは、法然の石棺が光を放ったという伝説によっているという。しかも、私は今回初めて知ったのだが、平家物語で有名な熊谷直実 (我が子を思い出しての葛藤の末、平清盛の甥、若い敦盛の首を取った武将) が出家して法然の弟子となり、蓮生と名乗ってこの地に寺を開いたといういわれであるらしい。広い境内は非常に気持ちがよく、私たちが訪れたときはほとんど人の姿もなくて、これは穴場かと思ったが、紅葉の季節には観光客でごった返すようだ。世の中そうそう甘くない (笑)。
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それから、十輪寺へ。ここにも歴史上の有名人物の伝説がある。それはあの平安時代の歌人、在原業平 (825 - 880) である。彼は晩年ここに隠棲し、塩焼きの風流を楽しんだという。
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このお寺、上の写真のように門を閉ざしていて、拝観客はベルを鳴らした上で、横手の小さな扉から中に入るようになっている。境内でも撮影禁止その他、厳しいご指導に従うことが求められている。ええっと、曲線をうまく使ったこの本堂のかたちが珍しかったので写真に撮りましたが、まさかご指導に違反していませんよね (笑)。
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境内の裏山に業平の墓、及び復元された塩竃がある。さすがに古い時代のことで、どこまで史実であるかはなかなか明確に判明しないだろうが、あの美男で鳴らした業平が、都の外れで隠棲していたとは面白い。なんでも、思い人であった藤原高子 (こうし、清和天皇の女御) が近くの大原野神社に詣でた際に、ここから煙を上げて思いを託したという。ロマンティックではありますな。
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そうそう、この十輪寺、JR の「そうだ、京都、行こう」のポスターのひとつでも使われたことがある。こんな見事な桜が咲くのですな。その名も、なりひら桜というそうだ。
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そして、西山で最後に訪れたのは、善峯寺 (よしみねでら)。この寺の名前は以前から知っていて、それは西国三十三か所の第二十番札所だからであるが、現地を訪れるのは今回は初めて。さすが西国の札所、駐車場も大きいし、それなりに賑わっている。
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ここも堂内で見るものはさほどあるわけではないが、重要文化財の多宝塔は見事だし、天然記念物に指定されている全長 37m の「遊龍の松」があったり、桂昌院 (5代将軍綱吉の生母) お手植えの桜があったりする。
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さて、このように西山観光を一通り終えて、既に午後も遅めの時刻に入っている。残りの時間をいかに有効活用しようか。ここで私のいたずら心が動き出した。ひそかに実行を試みたいと思っていた案がある。その案を採用し、そして向かった先は・・・なんと、平等院だ!! 京都の地理に詳しい方なら、こんな無謀な案には呆れてしまうことだろう。なぜなら、西山は京都の中心部から見れば文字通り西側。それに対して平等院のある宇治は、かなり南の方である。西山から宇治に向かうなんて、時間がかかりすぎるだろう。いや、そんなことはないのだ。京都縦貫自動車道という高速をひとっ走りすれば。地図をまじまじと見て、これは行けると私は確信した。なぜならば、平等院も世界遺産。もちろん多くの観光客でごった返しているはずだが、既に閉館時刻も近づいてきていて、今から行けば駐車場も空いているだろう。・・・その思惑はぴたりとはまり、恐らく昼間は満員であったであろう駐車場にも少し空きがあり、スムーズに平等院に到着した。もちろん私にとっては幼少期からなじみの場所だが、最近はかなりご無沙汰で、境内が整備されて新たに宝物館ができた頃から行ったことがない。今調べてみると、新たな宝物館、鳳翔館は 2001年の開館。実に 17年間は足を運んでいなかったことになる。懐かしい平等院であったが、ただひとつ、残念であったことは、鳳凰堂の中には入れなかったこと。以前は無制限に入ることができたが、今は人数制限を設けて、その日の予定人員に達すると受付を終了してしまう。これは残念だが致し方ない。全体として、一種のテーマパーク風になってしまったような印象は否めないが、それは誰でも楽しめる場所になったということであり、改めて思うには、ここはやはり奇跡の場所なのである。雲がかかったり晴れ間が出たりして、さながら天からの照明による演出のようだ。こんなに美しい建物が 1000年近く前にでき、それが今日まで残ったことは、本当に奇跡なのである。
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この鳳凰は、今では複製に取り換えられ、オリジナルは鳳翔館に展示されているが、この金色の姿は本当に美しい。ただ、私の隣の親子連れが、「ほらほら見て、しゃちほこだよ!!」と叫んでいたのはいかがなものかと思った (笑)。うーん、いかに誰でも楽しめる場所になったとはいえ、鳳凰堂という名前のいわれくらいは、どこかで説明を見て欲しかったものである。
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さて、そのモダンに生まれ変わった宝物館、鳳翔館では、やはりその鳳凰や、日本三名鐘のひとつである創建期の梵鐘、そしてなんといっても、雲中供養菩薩のうち半数ほどを間近でじっくり見ることができるのが嬉しい。
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さて、貪欲な私は、まだもう 1軒、出掛ける時間があると判断した。通常ならば、平等院と黄檗山萬福寺がセットになる宇治観光であるが、ちょっと萬福寺を見ている時間はない。であれば、宇治川のほとりにある橋寺放生院 (はしでらほうしょういん) にしよう。ここは昔、宇治橋を管理していた寺で、7世紀に作られた、日本最古の石碑のひとつ、重要文化財の宇治橋断碑がある。宇治は古代より、近江と飛鳥を結ぶ重要な場所であり、それゆえ宇治橋の重要性も高かったのであろう。だが、久しぶりに行ってみると、宇治橋断碑は冬の間は拝観できないのであった。
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さあ、これでいよいよ日暮れが近づいてきた。普通の人なら、ここで観光打ち切りであろう。だが私はちょっと違っていて、最初からの目論見がまだ残っていた。つまり、宇治からどのみち京都中心部に戻るに際して、通りかかる場所があり、そこならば、寺院のように 16時半や 17時に拝観時間が終了することはないのだ。そして、たまたま家人がその場所に興味を持っている。その場所とは、伏見稲荷である。全国でも有数の初詣スポットだが、さすがに 1月 3日の日暮れ時ともなると、そろそろ人も減ってきている頃だろう。そう思って現地に辿り着くと、車は近くまで入ることはできず、数百 m は徒歩となったが、特に混乱はない。しかも、道を歩くときに常に面白いものを探している私の目に、小さなお堂が見えてきた。覗いてみると、こんなお地蔵様が。
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このお堂は摂取院というお寺らしく、これは安産にご利益ありとされる、通称「腹帯地蔵尊」。仏像好きの私はピンと来て、このふくよかなご尊顔を拝しながら、これは結構古いものだろうと思ったら、案の定、そこに置いてあったパンフレットによると、従来は江戸時代の作かと思われていたところ、最近の調査で、平安時代末期のものと判明したとある。このような思わぬ出会いは嬉しいもの。また伏見稲荷に詣でることがあれば、必ず再会したい地蔵さまである。

さて、最終目的地である伏見稲荷に到着。やはりまだまだ大変な人である。正月にこのような賑やかな神社に出掛けるのは、込み具合の程度問題ではあるが、何かウキウキするような気がするものだ。
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本殿でちょっと奮発して多めの賽銭を投げ入れようとしたところ、手元が狂って、あろうことか、巨大な賽銭箱のヘリに当たって、跳ね返ってしまった (笑)。うーん、今年も金運はダメか・・・。まあでも、このくらいの規模の神社になると、賽銭箱の下に布が敷き詰めてあって、私と同じように賽銭箱に嫌われた人々の浄財も、追って集められ、神様に奉納されるであろう。ドンマイドンマイ。そして、境内奥に進み、最近外国人にも大人気スポットになっている千本鳥居へ。
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このように延々と鳥居が続いていて圧巻なのであるが、それぞれの鳥居の裏には寄進者名が記されている。気になって最初の鳥居の裏を見ると、この会社でした。なるほど (笑)。
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さぁ、それから、様々な国の言語を耳にしながら、一通り回ってきたのだが、最初は大きいサイズであった鳥居は、少し進むと小型のものに変わり、かなり狭い中を通り抜けることになる。寄進の年月を見ると、意外と最近のものもあり、また、立っている順番が寄進の順番と一致していないので、さて、どのように維持管理しているのであろうか。
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と、以上が今回の京都旅行の 2日目のレポートである。本当に京都には未だ知らないことが数々あって、何度行っても発見があるのである。実は今回、宇治に行ったときに、何十年の記憶のゴミの奥底から、何かが聞こえるような気がした。そして私はその声が非常に気になっていたのだが、この旅行のあと立ち寄った実家で、何の気なしに昔買った寺の本を見ていて、突然思い出したことがあった。それは、少年の頃、平等院や橋寺放生院を訪れたあと、多分バスに乗って向かった場所。古い本でその名称を思い出した私は、早速ネットでその場所について調べてみると、意外なことが判明した。これらは、いずれその地を訪れた際に (平等院鳳凰堂の内部も拝観しないといけないし、萬福寺も再訪しなければいけないし、あるいは伏見にも、若冲が晩年を過ごした石峰寺もあるし) 記事を書くこととしたい。人の記憶はあてにならないものだが、時に、点と点が思わぬ具合で線になることもある。そういう経験は、歴史的な場所を何度も訪れることで、より深くなって行くものと思うので、私は歴史探訪の旅をやめられないのである。

by yokohama7474 | 2018-02-04 23:54 | 美術・旅行 | Comments(0)  

京都 その 1 太秦 (広隆寺、東映映画村、蚕の社)、嵐山 (天龍寺、大河内山荘、常寂光寺、二尊院、祇王寺、滝口寺)

年明け、1月 2日から家人とともに京都に 2泊し、数々の寺社を訪問した。そこでこれから 3回に亘ってその旅行記を書くこととした。このブログでは既に何度も古社寺の訪問記を書いてきたが、実際私にとっては、京都も奈良も、子供の頃から勝手知ったる場所である。だが、もちろん懐の深いこれらの街においては、未だ訪れたことのない場所も数々存在し、何度訪れても充分ということはない。今回も、何度も訪れたことのある場所と、初めて訪れた場所が様々に入り混じっており、大変に充実した旅行となったので、概要をこれから書いて行きたいと思う。ただ、2つの点にご留意されたい。まずひとつめは、ここでご紹介するのは推奨ルートでも何でもなく、かなりハードな観光魂が必要であるものだということ。旅先では全身目玉となってなんでも見てやろうという覚悟のない人には、このようなコースはお薦めしない (笑)。もうひとつは、3回の記事で使用する写真の質がそれぞれに異なること。つまり、今回の記事の対象となる初日は、いつものカメラなのであるが、実は、昨年のベルギー旅行の際に空をきれいに撮りたいと思って、青を強調した設定にしたままであった。そしてそのカメラは、その日の夜、ホテルの部屋で充電中に誤って落としてしまい、レンズが割れてお釈迦になってしまった。なので、2日目はスマホで撮影することとなった。だがその日の夕刻に京都で新たなカメラを購入、従来よりもハイスペックなそのカメラを 3日目には使用した。それぞれの写真の質の違いも、私にとってはよき旅の思い出なのである。

さて、東京から朝移動で京都駅についた我々は、駅のコインロッカーに荷物を預け、街に繰り出した。初日の行き先は、家人の希望により、嵐山と決定。私は結構旅先でレンタカーをするのであるが、初日は徒歩中心にしようと決めた。人気の観光スポットである嵐山は、人も多いであろうし、そもそも徒歩圏内に沢山の見どころが集まっているからである。そんなわけで、早速京都駅から地下鉄で移動。太秦天神川駅まで行ってから、路面電車である嵐電嵐山線に乗り換えた。さて、京都にあまりなじみのない方は、「太秦」とか「嵐電」の読み方が分からないかもしれない。それぞれ「うずまさ」「らんでん」と読む。特に前者は、土地にまつわる古い歴史が関係しているので、あとでそのことに触れよう。これが情緒ある嵐電。私が子供の頃は、京福電鉄嵐山線という名称であったが、会社はそのままのようだが、江ノ電との提携を行っているせいであろうか、嵐電の名で営業を行っている。リラックマとも提携?
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さて、京都の中心部から西に向けて走る嵐電に乗るのなら、どうしても素通りできかねる場所がある。それは、ほかでもない太秦 (うずまさ) である。この地には、聖徳太子から仏像を譲り受けた秦河勝 (はたのかわかつ) が 603年に建立したという日本屈指の名刹である広隆寺があるのだ。私にとっては、今から 42年前に亡父に連れられて初めて訪問してから、もう何度訪れたか分からないほどなじみの寺である。
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京都には庭を愛でる禅寺が圧倒的に多いが、この広隆寺はなんといっても仏像の名品に出会う寺である。数々の寺宝の中でも、最も有名なのはこの仏さまである。
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日本に優れた仏像数々あれど、この弥勒菩薩半跏像はその中でもひときわ有名なもの。国宝指定第一号でもあり、切手でもおなじみだ。全身像は以下の通り。この角度から見るのが最も美しいと私は思う。
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この仏像の美しさについてはいろんなところで様々な言説が存在しているので、ここで私が改めて何かを加える必要はないだろう。朝鮮半島からの渡来品であるか、あるいは渡来人によって日本で制作されたものであるかの論争は決着していないし、また、上記の通り聖徳太子が秦河勝に与えた由緒ある仏像がこれであるのか否か、未だに不明であると理解している。材質がほかに例のないアカマツであることや、ソウルの韓国中央博物館所蔵の弥勒菩薩像とそっくりであることから、いずれにせよ 7世紀時点での半島からの仏教文化流入の、素晴らしい成果であることは間違いないだろう。ご参考まで、これがソウルにある弥勒菩薩像。私も実物を見に行って感激した。
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広隆寺の宝物館は霊宝殿という名称であるが、そこにはこの有名な弥勒菩薩以外にも、数々の素晴らしい仏像が安置されていて圧巻だ。「泣き弥勒」のあだ名のあるもう一体の国宝弥勒如来半跏像も味わい深いが、私が好きなのは、不空羂索観音である。もちろん国宝だ。
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この仏像は、私が初めてこの寺を訪れた頃には、やはり今は霊宝殿に安置されている国宝千手観音像とともに、講堂に安置されていた。その講堂自体は重要文化財で、本尊の国宝阿弥陀如来、重要文化財の地蔵菩薩や虚空蔵菩薩は金網越しに外から拝むことができるが、どうも隔靴掻痒の感を禁じ得ない。一言で言うと、この見方しかできないことは、大変にもったいないのだ。以前は中に入ることができて、大変感動的であったので、現状はなんとも惜しい気がいつもしてならないのだが、保存の関係で致し方ないのだろうか。さて、仏像の話はきりがないので話題を換えると、今回ちょうど広隆寺では特別な行事を行っていた。それは「釿 (ちょうな) 始め」というもの。
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ちょうなとは建築で使う手斧のこと。このちょうな始めは、ここ広隆寺で中世から続く伝統行事で、大工さんたちが 1年の安全を祈って毎年 1月 2日に行われる行事らしい。寺なのに神主さんが登場し (その神仏混淆が古来の姿なのだろう)、大工さんたちが木遣りを歌っていた。その後実際に、ちょうなを使う儀式も行われたようだ。なるほどそういえば、聖徳太子は職人の神様でもある京都における聖徳太子信仰の中心であるこの広隆寺で、このような古式ゆかしい行事が続いているとは興味深い。
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さて、この寺を開いた渡来人秦河勝は、ネストリウス派キリスト教 (景教) を信仰するユダヤ人であったという説がある。これは、私も以前随分いろいろな本を読んだ「日ユ同祖論」(日本人の祖先がユダヤ人であるという説) とも絡んでいるが、学術的には、まあ当たり前といえば当たり前だが、定説にはなっていないようだ。だが、このようなスケールの大きい古代の東西交流の伝説には、何か人々の心に訴える神秘性があると思うのだ。例えば、ここ広隆寺には「牛祭り」という奇妙な祭りが伝わっていて、ここには「摩多羅 (またら) 神」なる謎の神が牛に乗って登場する。私は実際に見たことはないのだが、以前ある雑誌でこの祭りの取材記事が載っていて、この「またら」とはミトラ神 (古代ギリシャにそのルーツを持ち、ゾロアスター教でも信仰された太陽神) ではないかとあった。真偽のほどは分からず、謎ばかりではあるが、このような祭りの情景は確かに日本的ではなく、歴史の深い闇を思わせて、実に神秘的だ。
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実はこの牛祭りが行われるのは、もともと広隆寺の一部であったが、神仏分離後は小さな社となっている大酒 (おおさけ) 神社。我が家はお酒をきらいと言えば嘘になるので、これは奇遇とばかり、通りがかりに、今年 1年 おいしいお酒を飲めるようにお祈りしてきました (笑)。もっとも、大酒とは近年の呼び名で、もともとは「大避」神社で、災厄を避けるという意味であったらしいので、神様も「おいおい、酒のことはオレの担当じゃないよ」とおっしゃるかもしれないなぁ。
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それから、このあたりに残るユダヤ教 / キリスト教的 (?) な不思議な遺物と言えば、なんと言ってもこれだろう。
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これは、蚕の社というところにある三柱の鳥居である。この神社の名称は、秦氏が古代日本に養蚕をもたらしたことに因むものであろうが、正式名称は、木嶋坐天照御魂神社 (このしまにますあまてるみたまじんじゃ) で、その歴史は、実は秦氏よりもさらに古いようである。だがこの地に定着した秦氏はこの神社を信仰したことは間違いないだろう。この三柱鳥居、日本にふたつとない珍しい形態をしており、モノの本にはよく、キリスト教の三位一体を表すなどと書いてある。もちろん真偽のほどは明らかではなく、いつ作られたものであるかも判然としないようだ。ただ、300年ほど前の享保年間に修理された記録があることから、それ以前のものであることは確実であるらしい。この太秦という地ならではの、遠い古代の東西文化交流の名残りに想像力の翼を働かせることのできる、興味深い遺物である。

さて、そこから趣向を変えて、多くの人にとってはよりポピュラーな場所に行くことにした。それは、太秦東映映画村。時代劇のロケでおなじみの、江戸時代の街を再現したセットを、テーマパークとして一般に公開しているものだ。実は、過去 42年に亘る私と太秦とのつきあいであるが、この場所は未だ訪れたことがない。なので今回、ちょっと見てみることとした。広隆寺の裏手を少し歩いて左に曲がると、ほどなくこのような門が見えてくる。但し、入り口はもう少し先である。
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中に入ると、このようなセットが立ち並び、そこを歩くだけで、タイムトリップのようで実に楽しい。
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これはスタジオで、実際に映画撮影をする場合の演出を、ガラス越しに見学することができる。実はこれ、男女 1人ずつの俳優と監督役、そしてスタッフによる寸劇になっていて、音声がマイクを通して観客に聞こえてくる仕組。コミカルな内容で、これは大変におかしく、私などは何度も、屈託なくガハハと声を上げて笑ってしまいました。実に楽しかったですよ。
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ちょうど、おいらん道中というイヴェントがあったので、遊郭のセットの前で見学した。周防ゆうという女優さんだそうだ。なかなかリアルである。
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ほぼ敷地内を一周して、最初に外から見えた大きな門の内側あたりのベンチで休んでいると、あっ、あれはなんだ。
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これは忍者姿の人形が、空中に渡された線の上を、からだを這わせてゆっくり前進しているもの。途中まで進むと一旦停まり、今度は後ろに下がり始めて、また門の中に戻って行く。人形ながら涙ぐましい努力で (?) 動いているのに、見ている人はほとんどおらず、かわいそうなので、まじまじと見つめ、何枚も写真を撮ってしまいました (笑)。いつ果てるともなく続く徒労の姿が、妙にリアル。頑張れ忍者人形!!
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また、この「映画の泉」はなかなかに立派な女神像を持つ。
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このように太秦探訪を終えると、今度はまた嵐電に乗って、本来の目的地である嵐山に向かった。嵐山と言えば、やはり渡月橋。周辺はかなりの混雑だが、この橋はいつ見ても風情がある。この時代に欄干が木でできているし、その姿はまるで平安朝の時代から残っているかのようにすら見える古風なもの。
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それから、お寺でいうと、この地で最初に訪れるべきは、なんと言っても天龍寺。もともと離宮のあった場所を、足利尊氏が 1345年に後醍醐天皇の菩提を弔うために、名僧夢窓疎石を開山として迎えて寺院としたもので、現在では世界遺産に登録されている。
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そのように室町幕府との近い関係があったせいもあり、京都五山の一位としての高い寺格を持つ禅寺である。ここは紅葉の名所としても知られているが、なにしろ夢窓疎石の手になる池泉回遊式庭園が実に素晴らしく、いかに大勢の観光客で賑わっていても、それを鷹揚に迎え入れるだけの広い度量を持つ庭であると、いつも思うのである。
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京都の庭にはいくつかのパターンがあって、例えば有名な竜安寺石庭のような切り詰めた緊張感も素晴らしいが、このように実際に歩いて回れる池泉回遊式の場合には、時々刻々変わり行く庭の姿を敏感に感じることができ、今この瞬間、世界の中にある自分という意識を実感ことができる。例えば上の写真では、池は全く穏やかであり、水の色はそれほどきれいではないのに、実に美しく木々や岩々を映していて、明鏡止水という言葉を思わせる。だが、一旦風がゆるやかにでもそよぎ出すと、こんな情景になる。
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自分がそこに立っている間、ある一瞬のその前の一瞬、あるいはその後の一瞬は、すべて異なる時間なのだという感覚を持つことで、時間の有限性や、時々刻々と変わり行く世界の様相に、はっと気づくことになるのである。現代美術のインスタレーションに多い、この作品はこれこれを表現しているという長い能書きに比べ、何も語らない庭に込められた古来の日本人の感性には、本当に深いものがあると実感する。音こそ聞こえないものの、実に雄弁なのである。

さて天龍寺を辞して、竹林の道に入って歩いて行く。ここは比較的最近整備されたものではないかと思うが、その人通りの賑やかなこと。しかも、聞こえてくるのは近隣の中国・韓国の言葉だけでなく、英語、フランス語、イタリア語、スペイン語と実に多彩。途中にある野宮神社は源氏物語ゆかりということもあってか、小さな本殿にお参りするにも長蛇の列であった。
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なお、人力車が結構通っていて、特別に人力車だけが走れる道もある。これはこれで、乗ってみればまた情緒があることだろう。
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そして辿り着いた次の目的地は、大河内山荘である。ここも私はこれまで訪れたことがなく、今回楽しみにしていた場所。
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これは、往年の映画スター、大河内傅次郎 (1898 - 1962) の旧宅で、広大な敷地に整備された庭園が公開されている。大河内はもちろん昭和の大スターであるが、この庭園は実に驚きの広さと美しさを持ち、個人でそれを可能にした財力には舌を巻く。園内には英語表記もあるが、ちゃんとした文章にした方がよいとも思う (笑)。
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大河内は敬虔な仏教徒であったらしく、1931年にこの小さな持仏堂を建て、撮影の合間にはここで念仏、瞑想にふけったという。それがこの山荘の庭園造営の出発点になったという。
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そしてこの大乗閣がメインの建物。内部には入れないが、伝統的な書院建築とは異なる独特のかたちをしていて興味深い。この建物と、上で見た持仏堂、それに中門と、茶室である滴水庵が、登録有形文化財である。
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園内の一角に、回廊形式の大河内に関する資料館があり、レトロな丹下左膳のポスターや遺品などを見ることができ、これも興味深い。昭和の大スターが残したこの文化遺産は、この古い嵐山の地にあって、寺院のそれとは異なる独自の価値を持つものだと思う。
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さて、このあたりで既に歩き疲れており、ちょっときつかったが、ここは嵐山。とにかく歩くしかない。ということで、自分たちを鼓舞して、それからもうひと踏ん張りし、あと 4軒の寺院を回ることができた。まず、小倉山常寂光寺。まさにこの地に因んだ名を持つ小倉百人一首の選者、藤原定家の山荘の跡地に 1596年に建立された。関ヶ原の合戦で有名な小早川秀秋が堂塔を寄進しており、多宝塔は重要文化財である。
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続いては、二尊院。ここも山号は小倉山で、釈迦と阿弥陀の二尊を本尊とするのでこの名がある。段差が小さく幅の広い石段に、独特の情緒がある。
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この寺はまた、西行が庵を営んだ場所であり、法然直筆、弟子の親鸞の連署がある「七ヶ條制戒」という重要文化財の文書 (1270年) が展示されている。以下は親鸞の直筆部分。
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最後に、祇王寺と滝口寺という隣り合った 2軒を訪問。
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祇王寺は、平清盛の寵愛を受けた白拍子 (その名の舞の踊り子のことを指すが、実際には遊女であったのだろう)、祇王が清盛に捨てられた哀しみのあまり、母 (刀自)、妹 (祇女) とともにここで出家した寺と言われている。明治時代には一度廃寺になってしまったほど小さい寺であるが、祇王の逸話のせいか、どこか物寂しい情緒があって心に残る。小さな堂内には、鎌倉時代の祇王、祇女の彫像に加え、清盛、刀自、そしてやはり清盛の寵愛を受けた白拍子である仏御前 (いわば祇王のライヴァルだが、やはり清盛に捨てられ、ここで出家したらしい) の彫像が並ぶ。また、境内には祇王、祇女と刀自の墓もある。平家物語の無常観が、この小さな場所に留まっている。
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一方の滝口寺も、やはり平家物語ゆかりの場所。もともとは三宝寺と言ったが、ここも明治時代に一旦廃寺となり、その後復興した際に滝口寺という名前になったらしい。建礼門院のおつきの女官であった横笛に、内裏の警護役の武官であった滝口入道が恋をし、父にいさめられて出家をするという悲恋の話で、高山樗牛が小説を書いている。この横笛については、奈良の法華寺に、滝口入道からの恋文を固めて作ったという、なんとも悲しげな像があるので昔から知っているが、この滝口入道との恋物語は、私はよく知らない。一度高山樗牛を読んでみるのもいいかもしれない。この滝口寺、現在お堂を修復中で、あまりじっくり見るべきものはないが、やはり遠い昔の恋物語という情緒を味わうべき場所であろう。それから、新田義貞の首塚というものがある。彼の次男である新田義興 (多摩川を渡るときに敵の策略で死亡) を祀る新田神社にほど近い場所に住んでいる我々としては、これも何かのご縁と、しっかりお祈りを捧げてきましたよ。
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そうしてまた徒歩で嵐山駅まで帰ってきたのだが、既に日没も近い。再び前を通ることとなった天龍寺の入り口の石柱が、既にシルエットとなっており、寺名を読み取ることすら難しい。こうして京都第 1日目は、多少の疲労を伴う大きな充実感とともに暮れて行ったのであった。
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by yokohama7474 | 2018-02-04 03:43 | 美術・旅行 | Comments(0)  

澁澤龍彦 ドラコニアの地平 世田谷文学館

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澁澤龍彦 (1928 - 1987) は、少なくとも私の世代で、ヨーロッパの芸術で、時に幻想的、高踏的、あるいは退廃的なものに興味のある人であれば、誰しもが多くを教えられたであろう、稀有なる文学者であった。本職は一応フランス文学者と言うべきなのであろうが、ヨーロッパのあらゆる幻想的、高踏的、退廃的な芸術を日本に紹介した功績は不朽のものであるし、その膨大なエッセイにおけるペダンティックな語り口と、マルキ・ド・サドやジャン・コクトーの翻訳、そしてまた小説においても、その特異な才能を高らかに天下に知らしめた人である。今と違ってインターネットのない時代、彼の著作でしか知ることのできない画家の名前や歴史的な事象、あるいは興味深い場所は数知れず、私は学生の頃に何冊もそのような澁澤の本をむさぼり読んだものである。当時私の周りには、このサングラスを真似ている先輩もいたものだ。
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ここで紹介するのは、昨年没後 30年を迎えた澁澤の業績を紹介する、世田谷文学館で開かれた展覧会。多くの生原稿や澁澤の所有していた様々なオブジェや美術品等が所せましと並んでいて、長年の澁澤ファンにとっては、まさにたまらない内容であった。これは、親しい友人であった三島由紀夫と語らう澁澤。1970年 5月の撮影というから、三島が自決する半年前の写真で、彼らが語っているのは稲垣足穂について。雰囲気も題材も、いかにも昭和の時代のあだ花であるが、今となっては、激しく怪しい耽美性において、この 2人が日本の文芸に果たした役割には絶大なものがあると、改めて実感するのである。
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さてこれは、澁澤のトレードマークであったサングラスをあしらった、展覧会の図録の最初のページ。展覧会の副題は「ドラコニアの地平」だが、この「ドラコニア」とは小惑星群の名前であるが、ここでは「龍彦の領土」という意味の自らの命名で、いわば澁澤の作り出した特異な世界を表す表現である。もちろん、「龍 = ドラゴン」との関連もあるだろう。
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そうそう、展覧会の内容もさることながら、会場であった世田谷文学館について簡単にご紹介しよう。京王線の芦花公園駅からほど近いところにある、その名も芦花公園という公園の中にあり、主として世田谷区ゆかりの文学者についての資料を収集・展示している。実は私も昨年の晩秋にこの澁澤展を見るために初めてここを訪れたのだが、なんとも気持ちのよい場所であったので、そのときの写真をまずお目にかけよう。
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この公園に名前を残している「芦花」とはもちろん、明治の小説家、徳冨蘆花のこと。今でも彼の旧宅が公園内に残されていて、建物同士を結ぶ長い廊下を含め、内部を見学することができる。
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私も蘆花について名前以上に何を知っているわけでもないのだが、兄のジャーナリスト徳冨蘇峰と並んで有名な文筆家である。兄・蘇峰の旧宅の一部は、我が家から遠からぬ大田区の山王という場所に保存されていて、いつの日にかこのブログで、以前回ったことのある馬込あたりの文士たちの暮らした跡をご紹介する記事を書きたいので、またその時に、この兄弟の業績について考えてみたい。さて、世田谷文学館の入り口には、このブログでも昨年展覧会をご紹介した洋画家、絹谷幸二の大きな作品が展示されている。1995年作の「愛するものたちへ・希望」。
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さて、このおよそ澁澤ワールドとはほど遠い健全な作品 (笑) から、澁澤展における展示物、またはそのイメージの紹介に移ろう。まず、これまでにも様々なメディアに紹介されてきた、彼の書斎の写真。私の記憶が正しければ、いつか見たやはり澁澤に関する展覧会では、実物大の写真で再現されていたような気がする。あれはいつだったかなぁ。ここに見えている人形は、言うまでもなく四谷シモンの手になるもの。
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また、無機的な鉱物や貝殻が好きであった彼は、戸棚にこのようなものも飾っていたらしい。
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興味深かったのは、ジャン・コクトーから澁澤にあてた手紙。コクトー作品の数々を翻訳して日本に紹介した澁澤への謝意を表明したものであろう。宛先には "Tasso Shibusawa" とあるが、この「タッソ」とは、澁澤の名前「タツオ」と 16世紀イタリアの詩人タッソー (音楽ファンにとっては、リストの交響詩でも知られる名前であろう) とをかけたもの。澁澤が自身をそう名乗ったということのようである。
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澁澤と言えば、その耽美性や衒学性とともに、意外とお気楽なユーモアが彼の個性をなしている。これは、彼がマルキ・ド・サドの「悪徳の栄え」を翻訳し、わいせつ罪で訴えられた、いわゆる「サド裁判事件」に関して、自身で語った原稿。思えば日本の文学者の伝統は、その巧まざるユーモアにあると言うこともできるのではないか。
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彼はまたヨーロッパ各地を旅して、興味深い場所をあれこれ訪れている。展覧会では、念入りに作成された彼自身による旅の記録を見ることができた。例えばイタリアのボマルツォ庭園など、澁澤が紹介したということで大いに興味を引く場所であり、いつか実際に足を運ぶのが私の夢のひとつなのである。
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さてここで私は、この展覧会を振り返って内容を紹介するのに、通常の美術展とは異なる難易度を感じ始めている。それは、展示物の写真をあれこれ載せても、澁澤を好きな人には何かイメージが伝わるにせよ、そうでない人に対してはあまり意味がないような気がするからだ。そういう方には一言。澁澤を読んで下さい。彼の文章を少しキザと思われるのはやむないが、だが、ちょっとほかにないような素晴らしく文化的な内容が山盛りであり、今でも様々な著作が簡単に手に入る。もちろん古本なら、こんな昭和な雰囲気を味わいことができて、それはそれでまた味わい深いのだが。
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そうそう、ひとつ興味深かったのは、澁澤が暗黒舞踏家、土方巽の葬儀で読み上げた弔辞である。生原稿と、そこから起こした全文の活字が展示されているだけではなく、葬儀の際に読まれた実際の弔辞の録音が流れていた。
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土方と澁澤の交流関係はよく知られているが、1986年 1月に 57歳で亡くなった土方を追悼する澁澤の言葉は、時にユーモアもありながら、悲痛なもの。意外なことには、その弔辞の中で、あまり澁澤と接点があったとも思われない寺山修司の死に言及し、「まさに死屍累々であります」という発言がある。寺山の死は 1983年だからその時よりも 3年前ではあるが、澁澤の目から見ると、土方と共通する土俗的な精神を持った日本の芸術家の死ということで、何か連鎖的なものを感じたのかもしれない。痛々しいのはその細く高い声で、途中で咳払いし、「最近喉の調子が悪いのです」と謝罪するのである。周知の通り、澁澤は咽頭癌で声を失い、結局その病でこの世を去るのだが、調べてみると、癌の発見は、この弔辞を読んでからわずか 8ヶ月後の 1986年 9月。まさにこの土方の葬儀の際には、彼の喉は既に、癌に侵されていたわけである。土方の死から 1年半ほどしか、彼はこの世に留まることができなかった。奇しくも土方と澁澤は同じ 1928年の生まれ。昭和を駆け抜けた文化人たちである。展覧会には、その澁澤が声を失ってから家族や友人と行った筆談のあとも多く展示されていたが、これが面白い。
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入院中に見舞いに来た友人が辞する際に、ベッドから起き上がってエレベーターまで送ろうとした澁澤に、その友人が無理しなくてよいと言ったことに対し、「それだけのダンディズムがまだ残ってる」と書いてみせたという。いかにも澁澤らしいではないか。

さて、澁澤の著作についてあれこれ語るとなると、それはなかなか大ごとなのでやめよう。ただここで、あと 3つばかりのエピソードを語りたい。ひとつは澁澤の住居について。上で写真を掲載した彼の書斎やオブジェは、彼が晩年まで住んでいた北鎌倉の自宅での写真である。ここは一般公開されていないはずだが、生前の書斎をそのまま残してあると聞いたことがある (龍子未亡人が今でもおられるはず)。いつか保存・公開される日を待ちたい。上に、その書斎を実物大の写真で再現した展示を見た記憶があると書いたが、どうにも気になったので、例によって書庫をガサゴソ漁り、みつけて来たのがこの本だ。ここには、篠山紀信の手になる澁澤の書斎の写真がいろいろ載っていて興味深い。今でも中古で簡単に手に入るので、ご興味おありの向きにはお薦めしておこう。
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ところでこれはどう見ても展覧会の図録で、私はそれに出掛けたはずだが、どこにもその展覧会への言及がない。そして調べてみると、インターネット時代のありがたさ、1994年に西武百貨店池袋店の 12F、ロフトフォーラムで開かれたものと簡単に判明した。なるほど、そう言えばそんな記憶が甦ってくるのであった。

次に 2つめのエピソード。実は私は、澁澤がこの北鎌倉の家に移る前に住んでいたという家に、行ったことがあるのだ!! もちろんそれは澁澤が退去してからずっと後のことで、多分今から 20年くらい前 (上記の西武百貨店での展覧会の数年後だったか)。会社の先輩が何かのツテがあって、ある日曜日に、随分と古い空き家の木造家屋を見せてもらうことができたというだけだ。場所はやはり鎌倉で、何か小川のすぐそばだったと思う。そのことも随分長く忘れていたのだが、今回の展覧会に、その家に住んだ頃のことを書いた生原稿があったので、急にそれを思い出したというわけだ。その家には別に何か痕跡があるわけでは全くなかったが、敬愛する澁澤の旧居というだけで、感動したことは覚えている。今はどうなっているのだろう。

最後のエピソード。澁澤が日本に紹介したアーティストは沢山いて、例えばレオノール・フィニーとかゾンネンシュターンなどがそうだが、中でも人形作家ハンス・ベルメールの怪しい作品群は、本当に澁澤好みのものである。実はこの展覧会が開かれていた前後にも、場所は全然異なるが、渋谷の Bunkamura のギャラリーで、澁澤ゆかりの作家 (四谷シモンや金子國義ら) の作品の展示即売会をやっていたのだが、かれこれもう 10年以上前だろうか、その Bunkamura で同様のイヴェントが開かれたことがあった。そのときに私は、ハンス・ベルメールのリトグラフ作品を購入したのであった。昨年の澁澤没後 30年を記念して、ここで我が家秘蔵のベルメール作品をご披露しよう。1969年作の「青い瞳」という作品。秘蔵している理由は、保管ということもあるが、何より、飾っていてあまり気持ちよい絵ではないからだ (笑)。
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そんなことで、とても澁澤文学の全貌には迫れなかったが、彼の偉大なる足跡の片鱗くらいはご紹介できたかと思う。最近でも人気が衰える気配のない澁澤の膨大な著作は、時に公序良俗に反しながら (?)、人々の感性を刺激してやまないのである。そして私は世田谷文学館をあとにして、晩秋の空気の中、芦花公園を散歩しつつ、今度は書斎のほこりくささを忘れて、ひなたぼっことしゃれこんだのである。
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by yokohama7474 | 2018-01-19 00:55 | 美術・旅行 | Comments(0)  

知られざるスイスの画家 オットー・ネーベル展 Bunkamura ザ・ミュージアム

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美術の分野にも人気の高いものとそうでもないものがあり、20世紀に入ってからの様々な画家たちの活動においても、○○派という分類ができる場合はそれなりに把握しやすいこともあり、人気が高いことが多い。もちろん、例えばゴッホに見られる通り、作品の様式よりも画家個人としてよく知られているようなケースもある。だがそれにしても東京は、本当に様々な画家の作品に出会うことのできる文化的な都市である。このブログで過去 2年半の間にご紹介してきたのはそのほんの一部のみであるが、それだけでも充分なヴァラエティがある。だが、美術という分野の奥深さは全く計り知れない。次から次へと未知の画家、それも現在活躍している人ではなく過去の人であるケースが多いのだが、そんな画家たちを知る機会が訪れる。これもそのひとつ。昨年渋谷の Bunkamura ザ・ミュージアムで開かれていた未知の画家の展覧会である。たまたま前々回の記事で見た日本のパステル画と、前回の記事のルオーやカンディンスキーには、創造への情熱という共通点があった。そして前回の記事と今回の記事の間には、時代とスタイルという共通点がある。主人公はオットー・ネーベルという画家であるが、上のチラシに記載ある 3人の画家のうち、カンディンスキーとクレーは、ちょうど前回の記事でもいくつも作品を見ているので、流れから言っても、この美術記事 3連発は大いに意味があるのである (クラシック音楽ファンの方、悪しからずご了承下さい)。

さて、今回初めてその名を知った画家、オットー・ネーベル (1892 - 1973) は、ベルリン生まれのドイツ人である。もともとは建築を学び、建築技師であったが、演劇学校にも通い、役者としてもデビューしようとしたが、第一次大戦に参戦したためそれは果たせず、その後バウハウスで学び、カンディンスキーやクレーの薫陶を受ける。ナチスによって退廃芸術家とされたため、1933年にスイスのベルンに亡命。その後 82歳で亡くなるまでその地で過ごした。今回の展覧会は、オットー・ネーベル財団 (ベルンにあるが、コレクションは同地のパウル・クレー・センターに寄託されている由) の所蔵になるネーベル作品を中心に、主として国内の美術館が所蔵する周辺の画家たちの作品を取り交ぜて、かなりの規模で開催された。尚、東京での期日は既に終了しているが、4/28 (土) から 6/24 (日) にかけて、京都文化博物館でも開かれるので、この記事でネーベルという画家に興味を持たれた方は、是非京都までおでかけ頂きたい。これは 1937年、45歳の頃のネーベルの肖像。
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ネーベルは年齢的にはカンディンスキーよりも 1世代下であるが、やはりバウハウスに学んだ人だけあって、その初期の作風はまさしく当時のモダニズムを体現したもので、この時代の文化に魅了されている者としては、本当に嬉しい。これは「シュトルム」という美術雑誌に掲載されたネーベルの 1925年の作品「無題」。ネーベルはその頃、詩人としても活動していた。
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ここにはもちろんカンディンスキーの影響は明瞭であるが、これは 1912年に刊行されたそのカンディンスキーの第一著作「芸術における精神的なもの」の表紙。
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それにしてもワイマール時代のドイツは、ナチス台頭までのほんの短い間だが、実に自由な文化的気風があったものと見える。その気風を代表するのがもちろんバウハウスであるが、これはバウハウス初代校長であったワルター・グロピウス (音楽ファンにとっては、あのアルマ・マーラーの再婚相手として知られる) 自身のデザインになる校長室。実にすっきりしていますなぁ。
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さてこれは、上の「シュトルム」掲載の白黒作品と同じ 1925年の、ネーベルの作品「山村」。ここにはカンディンスキー的要素もあるものの、誰しも連想するのはシャガールであろう。ご丁寧に、シャガールのシグニチャーである牛まで描かれている (笑)。シャガールはネーベルよりも 5歳上。バウハウスとは関係がないが、アポリネールの紹介で「シュトルム」の編集者であったヘルヴァルト・ヴァルデンという画商と知り合ったらしく、このヴァルデンがネーベルの初期のキャリアを支えた人であった関係で、ネーベルはシャガールの作品に親しんだという。
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これは 1927年の「アスコーナ・ロンコ」という水彩作品。これもやはりシャガール風の雰囲気があるが、私が連想したのはフランシス・ピカビアである。ダダイズムの騎手であるピカビアとネーベルの間には、やはり直接の関係はないのだろうが、ここには明らかな同時代性が感じられる。。
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これは「庭師」(1928年)。構成感は少しフェルナン・レジェを思わせるが、レジェにない毒々しさがある。
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ここで既にネーベルの色彩感覚の豊かさを実感できるのであるが、彼のスケッチブックを見てみると、線のつながりによる空間表現が目立つ。この 2点は 1933年にベルンで描かれたものだが、2つめのスケッチなどはまるで一筆書きで、微塵も迷いを感じさせない。
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ここから先のネーベルの作品は、まさに色と線との交響になっていく。これは「避難民」(1935年作)。初期の作品にあった毒々しさが消えて、クレー風の透明感が感じられる。しかも、テーマはかなり人間的な生活感のあるものであるにもかかわらずである。
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これは「夕暮れる (エロマルディ海岸)」(1930年作)。これは色彩の冒険の様相を呈していて、かたちは極めて単純化されている。
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やはりクレーを連想させる「聖母の月とともに」(1931年作)。上の暖色系と対照的な寒色系の作品である。
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いかにほかの画家と共通する要素があれども、見えるものを色と形に分解して再構成するという感性は、ネーベル独特のものであると思う。これは連作「パリのおみやげ」より (1929年作)。パリで見たどこかのカテドラルの印象なのであろうが、色鉛筆を持って喜々として空間の再構成を行うネーベルの姿を想像することができるではないか。
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これはもう少しミニマル色が濃くなった作品、「高い壁龕」(1930、1941-42年)。
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またネーベルは、カラーアトラス (色彩地図帳) なるものを作っていて、これが興味深い。昔テレビで深夜に放送終了後に見ることができたテストパターンのようなものだろうか。これはローマで目にした光景を色で再現したカラーアトラス (1931年作)。この感性は、モンドリアンからかなり近いところにあるのではないか。
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これは同じスケッチブックから、ナポリで描いたカラーアトラス (同じく 1931年作)。海の色がこのように見えたのであろう。
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このカラーアトラスを作品に投影してみるという試みが見られる。これは「トスカーナの町」(1932年)。あー、もう色と形からなる風景が分解され、個別ピースの集合体になってしまっている!! 面白い。
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点描技法を使った作品もある。こうなるとまたクレーに近くなっているとも言えるが、クレーよりももう少し、なんというか、穏健とも見える。1935年作の「地中海から (南国)」。
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これは「ムサルターヤの町 IV : 景観 B」(1937年作)。地名といい、中東の風景かと見えるが、フィレンツェで描いたものらしい。
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このあとネーベルはさらに抽象の世界に入って行く。第二次大戦の暗い影はそこには見られず、再びカンディンスキーに似たスタイルで、音楽的な喜悦感ある動きが表現されるようになる。これは 1940年作の「かなり楽しく」。その名の通り楽しいではないですか。
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これは「アニマート (生き生きと)」(1938年作)。フレンツェ滞在中の作品で、文字通り音楽用語をタイトルとしている。ええっと、縦横、間違っていませんよね (笑)。
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このようなネーベルの感性は次第に、ラテン文字導入前にゲルマン人の古い文字体系であるルーン文字への興味につながったらしい。おぉ、ルーン文字と言えば、ワーグナーの「ニーゲルングの指環」で神々の長ヴォータンが持っている槍に刻まれている文字ではないか。古代神話の神秘は一見するとネーベルの作品にふさわしくないようにも思うが、実際に作品を見てみると、現実を超えた抽象性という点で、ルーン文字の利用は面白い。これは「赤色に集う収穫のルーン文字」(1964年作)。
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ここからまた、中東とルーン文字の混合が始まる。これは「近東シリーズ」より「イスタンブール IV」(1962年作)。顕微鏡で見た微生物のようにも見えるが、青が鮮やかだ。
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ネーベルが若い頃役者を志したと上で書いたが、実は戦後、その夢を叶え、ベルンで俳優として何度も舞台に立ったらしい。そのようなことを思わせる人の姿を映した作品がいくつか展示されていた。これは「西洋のダンスの仮面」(1935年)。
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浮世絵などの日本の美術が西洋近代の芸術家たちに大きな影響を与えていることはよく知られているが、実はネーベルにもそれが見られるらしい。この「11人の子どもたちが『日本』ごっこ」は 1934年作のコラージュ。北斎漫画の影響と見られているとのことだが、私にはそういうことよりも、素朴な方法で見たことのない日本に思いを馳せるドイツ人ネーベルの柔らかい感性が好ましい。
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ほかにも多くの作品が展示されていたが、上記でもオットー・ネーベルという未知の画家について考えるヒントはそれなりにあると思う。既知の多くの画家の名前を引き合いに出したが、文化とは様々なスタイルが混淆し、影響し合って発展して行くもの。ひとりの画家のスタイルの変遷に、歴史的な流れを読み取ることは決して困難ではない。ある画家が好きか嫌いかという好みの問題はあれ、このような歴史的な流れを知ることで、また新たな何かが見えてくればよいと思うのである。

by yokohama7474 | 2018-01-14 00:28 | 美術・旅行 | Comments(0)  

表現への情熱 カンディンスキー、ルオーと色の冒険者たち パナソニック汐留ミュージアム

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東京・汐留のパナソニック汐留ビル内にあるパナソニック汐留ミュージアムは、面白い企画展をやっていることがあるので、時々足を運んでいる。もちろん、企画展だけではなくて所蔵品もそれなりに充実していて、特にジョルジュ・ルオー (1871 - 1958) のコレクションで知られている。この展覧会は、館蔵品だけではなく、パリのルオー財団の協力のもと、国内有数のドイツ絵画のコレクションを誇る宮城県美術館などからも出展を仰いで開催されたもの。興味を引くのは、主人公たるべきルオーと組み合わされている名前である。それは、ワシリー・カンディンスキー (1866 - 1944)。生年を比べてみると同世代と言えるが、この 2人を比較するという発想は、私にはなかった。なぜなら、ルオーはフランス人で、サーカスやキリストを厚塗りの絵具で描いた人であり、人間性の真実を問い続けた重い作品が中心で、一般にはフォーヴィスムに分類されている。一方のカンディンスキーはロシア生まれで、バウハウスの教官を務めるなどドイツで活躍しながら、人間のしがらみを超えた楽しげな抽象画に至った人。さらに言えば、より私の好みに近いのはカンディンスキーであり、純粋なかたちと色の面白さには、いつも舌を巻くのである。それにひきかえルオーの作品は、その情緒はよく分かるものの、気分によっては少し重いかなと思うこともある。だがこの 2人には実は接点があったらしい。それは、1907年頃、ルオーが当時館長を務めていたパリのギュスターヴ・モロー美術館 (これは私も身震いするほど大好きな場所) での出会いであったとのこと。そしてカンディンスキーはルオーの作品に接する機会を得たらしいのである。この展覧会は、この 2人の偉大な画家の作品と、同時代にあってこの画家たちの中間に位置するとも考えられるドイツ表現主義、それからパウル・クレーの作品を集めて成り立っていた。

と、着眼点は大変面白く、充実した展覧会であったことは間違いないのだが、少しだけ苦言を呈するならば、ルオーとカンディンスキーの間の意外な影響関係や、それぞれの画家とドイツ表現主義との異同といった観点での明確なメッセージは、残念ながらそれほど感じられなかった。つまり、偉大な芸術家の間の有機的なつながりにまで思いを馳せるよりは、結局、それぞれの画家のそれぞれの作品を楽しむ内容であったような気がするのである。以下では、図録の掲載順にいくつかの出展作を紹介して行くが、私自身、そのつながりに必然性を見出せるか否かは定かではない。従って、まとまりのない記事になってしまうかもしれないので、その点は何卒ご容赦を。ただもうひとつ言えるとするなら、この展覧会のタイトルになっている「表現への情熱」、これはひとつのキーワードにはなっていると思う。奇しくも前回の記事で、知られざる日本の初期のパステル画家たちを紹介した際にも、彼らや、パステルを開発した業者の情熱に打たれたということを書いたが、いつの時代、いつの場所でも、芸術家の表現に賭ける情熱こそが、スタイルを超えて人を感動させるものなのだと思う。

さてそれでは作品を見て行こう。まずは、ポスターにもなっているこの絵である。
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一見いかにも表現主義的に見える作品。だが私が気になったのは、手前中央に見える長髪の男性である。このメランコリックな表情と、まるでクローズアップのように大きく描かれた人物 (実は大きさはその右に見える後ろ向きの人物と変わらないが、その人物は、顔が見えないことと、白い衣装によって、完全に風景に埋没している) は、表現主義の感性とは遠いものに見える。この作品は、宮城県美術館のコレクションで、カンディンスキーの「商人たちの到着」(1905年作)。後年の彼の自由な抽象画を知っていると、とても同一人物の作品とは思えないが、でもよく見るとその色使いの豊かさや、動きを感じさせる形態などにはやはりカンディンスキーらしさも伺い知ることができる。当時彼はミュンヘンにいたが、これはパリのサロン・ドートンヌに出品されたもの。故郷ロシアの伝統的な風俗をテンペラで描いたもの。一方、その頃のルオーの作品がこれだ。
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1902 - 1909年作の「縁日」。これは上のカンディンスキーよりも、よほど抽象画に近いではないか!! (笑) 後年彼がよく描いたサーカスの情景ではあるものの、人々の顔は描かれておらず、どっしりとした厚塗りではない、疾走力のある作風が面白い。さらに 2人の比較を続けると、これが 1904年作のカンディンスキーの「夕暮れ」。こちらも宮城県美術館所蔵であり、やはりパリのサロン・ドートンヌ出品作。暗闇から浮かび上がるような人々が独特の詩情を醸し出しており、少し版画のような平面性もあって、後年の抽象画とは違った印象の作品。
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それに対し、これはルオーの 1909年の作品、「法廷」。テーマは既にルオーらしい人間の醜さになっているが、これも上のカンディンスキー作品と同様、暗闇から浮かび上がる人物像であり、ただ抒情的であるだけではなくて、色と形の造形の妙を感じさせる。なるほどこうして見ると、この全く異なる 2人の画家がこの時期、パリで接点を持っていたことに想像力が及んで行く。
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ここで展覧会はルオーの初期の作品に移って行く。これは「人物のいる風景」(1897年作)。26歳のときの作品ということになるが、その水墨画すら思わせる夢幻的な表現はなかなかのもの。その点は、さすがモローの弟子という印象を抱く。
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これはさらに若い頃の作品、「ヨブ」(1892年作)。まさにモローのもとで修業していた頃の作品だが、なるほどここには後年のルオー作品の萌芽が見られよう。
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そしてこうなるとどう見てもルオーだ。1909年作の「道化師」。フォーヴという分類も納得できるものがある。
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これも、ルオー独特のフォーヴのタッチではあるかもしれないが、色使いもきれいなら、構図もなかなか安定感がある。「ブルターニュの風景」(1915年作)。
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これはやはりルオーの「踊る骸骨」(1939年作)。ボードレールの「悪の華」をテーマにした色彩版画が企図されたが、結局実現せず、このような断片的な習作のみが残された。ボードレールの退廃にはもう少し華麗さがあるので、例えば骸骨の踊りでも、綺麗な衣装を着ている方がそれらしいようにも思うが、ルオーの感性からすると、装飾のない裸の骸骨にこそ、生と死の深みがあるということだろうか。
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さて、展覧会はドイツ表現主義に入って行く。だがそこには、この範疇があまり似つかわしくない、いや、そもそもどんな流派にも属さないとしか言いようのない独自の作風を持った画家、パウル・クレー (1879 - 1940) も入っている。クレーはスイス人だが、ミュンヘンに学び、そこでカンディンスキーとも親交を得た。これは「紫と黄色の運命を持つ響きと二つの球」(1916年作)。まるで今でいうアール・ブリュット、つまりはアウトサイダーアートのようである。
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ルオーの作品には、ドイツ表現主義との共通点を感じさせるものも確かにある。これは「アフリカの風景」(1920年以降)。当時活躍した画商、アンブロワーズ・ヴォラールがテキストを書いてルオーが挿絵を描いた「ユビュおやじの再生」という豪華本から。ふーん、この本は、ジェラール・ジャリの「ユビュ王」とは関係ないのだろうか。
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さてここで、典型的ドイツ表現主義の絵画をご紹介。マックス・ペヒシュタイン (1881 - 1955) の「森で」(1919年作)。いわゆるブリュッケ (ドイツ語で「橋」の意味) というグループに属する画家である。私はこのタイプの作品が大好きで、ブリュッケに対する思い入れも深い。思い返せば、日本で初めてこのブリュッケの画家たちが体系的に紹介されたのは、1991年の「ドイツ表現主義 ブリュッケ展」。首都圏では目黒区美術館と、今はなき神奈川県立美術館で開催されたが、私は後者で見たのである。それは素晴らしい文化体験であった。
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そして、若干とりとめがないのだが、またパウル・クレーの作品。「ホフマン風の情景」(1921年作)。バウハウスの教授に就任した彼が、その理念を社会的に広める目的で発行した「新ヨーロッパ版画集」第 1集のうちの 1枚。ホフマンとは言うまでもなく、E・T・A・ホフマンである。幻想の世界であるが、クレーの場合には、どんな世界も透明感のある冷たい感覚のものとして表現される。
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これはアルフレート・クビーン (1877 - 1959) の「騎士ローラント」(1921年作)。これも「新ヨーロッパ版画集」第 5集の中のもの。クビーンは、前にも何かの記事で触れたように記憶するが、退廃の極致を描いた人で、ちょっと病的な作品が多いのであるが、これはまだ健全な方 (?) である。しかしそれにしても、この展覧会で登場している画家たちは皆近い世代であって、なるほどそうだったのかと気づかされる。
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展覧会の主役のひとり、カンディンスキーが抽象の世界に入ってからの作品を。1923年作の「素描」。図録から写真撮影して、画像をデジカメから取り込むときに、「えぇっと、どっちが上だっけ」と、グルグル回転させてしまいました (笑)。カンディンスキーの作品には音楽性があるとよく言われるが、私もそうだと思う。また、こんな作品は誰にでもできそうで、決してそうではない点に、芸術の奥深さがある。
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これに色がついてさらにリッチになると、この「活気ある安定」(1932年作) のようになる。カンディンスキーもこうなってくると、例えばミロなどとの共通性も感じさせるが、ミロよりは幾何学的要素が多いと思う。それにしてもこの人の作品は、見ていて本当に楽しくなるのである。
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そして、なぜか気になるクレーをさらに 2点。「樹上の処女」(1903年作) と「綱渡り師」(1923年作)。20年の隔たりがあるとはいえ、この作風の違いは一体なんだろう。本当に、自分の内面を悟られないように細心の注意を払いながら、表面上はただ好き勝手に作品を作っているように見えるあたりに、全く独自なものを感じる。
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そして最後に、これぞルオーという作品、「聖顔」(1939年作) を掲載しておこう。もちろん、ここパナソニック汐留ミュージアムの所蔵作品である。
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上でも書いた通り、偉大なる芸術家たちの異なる個性のぶつかりあいを辿るというよりも、かなりアドホックな作品群であったという思いは否めないものの、少なくとも、20世紀初頭のヨーロッパ絵画の流れのひとつの傾向は明確に感じられた。つまりは、ここに後期印象派やシュールやキュビスムなどが混じってくると本当に訳が分からなくなるところ、それらとは違って、ルオー、カンディンスキー、クレー、そしてドイツ表現主義の画家たちに共通する感性は、確かに感じることができたのである。鑑賞者による好みはあるだろうが、私はこのような画家たちの感性に打たれるし、また、自らのスタイルを追い求める芸術家の情熱も、この展覧会のテーマのひとつとして、しっかり感じて来ましたよ。

by yokohama7474 | 2018-01-13 01:42 | 美術・旅行 | Comments(0)  

日本パステル畫 事始め 武内鶴之助と矢崎千代二、二人の先駆者を中心に 目黒区美術館

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東京には無数の美術館があって、その館蔵品や特別展を見て回るだけでも、なかなかに大変なことであり、とても見たいものすべてを見に行くことはできない。昨年も、大人気であった「怖い絵」展や、ゴッホと日本の関わりをテーマにした展覧会には、結局足を運ぶことができなかった。だが、決して負け惜しみではなく、それらはいわば、展覧会のテーマについての情報を取得しやすいもの。限られた時間の中で私が優先度を置いている展覧会はむしろ、それを逃したらもしかしたら二度と巡り合うことがないかもしれないというものなのである。例えば昨年 10月から 11月にかけて目黒区美術館で開かれたこの展覧会などはそのような例である。題名の通り日本で制作されたパステル画の展覧会であるが、「画」の字が旧字体の「畫」になっていて、しかも「事始め」とあるので、何やら日本の初期のパステル画の展覧会であることが分かる。そう、これは、開館から 30年の間、近代日本人画家の海外留学や、彼らの使用した画材をテーマとした活動を展開してきた目黒区美術館ならではの企画で、日本における先駆的パステル画家 2人の作品を中心にした、興味深い展覧会であったのだ。

今回の展覧会では、パステル画の歴史も簡単に分かるようになっていたのだが、その源流はヨーロッパのルネサンスにおける 3色チョーク (白・茶・黒) にあるらしい。18世紀になるとフランスでパステル画が制作され、版画によって普及することとなった。例えばこれは、1769年にフランソワ・ブーシェという画家によって描かれた「フローラ」の版画。おぉ、まさにロココ以外の何物でもないし、この時代の雰囲気がよく出ているではないか。あまり上手ではないけれども(笑)。
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近代であれば、ルドンやドガがパステル画を多く残した。これはドガの「踊りの稽古場にて」(1884年頃)。いわゆるパステルカラーの風景というものではなく、人間の動きと存在感を表現するためにパステルを使用しているように見られるが、それでもパステルのおかげで柔らかい雰囲気になっているのは明らかだ。
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さてこのようなパステル画、日本でも早い時期から取り組んだ画家たちはいたらしいが、この展覧会で多くの作品が紹介されている明治生まれの 2人が、その可能性を最初に大きく切り拓いたようだ。正直なところ、そもそもパステル画は、油彩画はもちろん水彩画に比べても、少し格の落ちる表現手段と見られているようであり、これらの画家たちの活躍によっても、果たしてメジャーな絵画表現の方法と言えるのか否かは分からない。だが、これまで名前も聞いたことのなかった画家たちの熱意のこもった作品に触れて、その見事な先駆的仕事ぶりを偲ぶことには大いに意味がある。まず一人目の画家は、矢崎千代二 (1872 - 1947)。
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矢崎は横須賀に生まれ、東京美術学校で黒田清輝に師事。1904年、32歳のときにはセントルイス万博の事務に従事するために渡米。その後パリ経由で 5年後に帰国する。また、その後も世界各地でパステルによる風景画を制作し、中国で終戦を迎えたあとも北京に残って西洋画の教師として教鞭を取り、1947年、75歳で北京にて死去している。彼の作品はとにかく野外での写生によるものばかりで、それゆえにスピード感をもって作品を仕上げることができるパステルが合っていたのであろう。では彼の美しい作品のいくつかをお目にかける。「残照インドダージリン」と「ヒマラヤの朝焼け」(ともに 1920年頃)。雄大な日の光がよく描けている。
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これはパリ、セーヌ川沿いの風景で、「ノートルダム」(1922年)。
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矢崎はパリのカフェの軒先でもパステル画を描いており、20分で 1枚を仕上げる技に、パリっ子たちは大いに喜び、黒山の人だかりになったと、著書に記しているらしい。これはそのようにして描かれたであろう、「パリ風景」(制作年不詳)。淡い青に雲のかかった空もきれいだし、街行く人々の様子も洒落ている。
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これは地球の反対側、アルゼンチンの風景で、「ブエノスアイレス議事堂前」(1931年)。建物の構成感をうまく出している。
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今度は東南アジアで、インドネシアである。「バタビア」(1934年)。やはり、自然のダイナミズムを思わせる夕日と、人々のそぞろ歩きの対照が楽しい。
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もう一人のパステルの先駆者は、武内鶴之助 (1881 - 1948)。
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武内は横浜の生まれ。絵画の専門教育は受けなかったようだが、日露戦争の有名な激戦、二百三高地の戦いに参加した際も、暇を見つけて絵を描いていたという。1909年、28歳のときに、横浜正金銀行ロンドン支店に赴任した兄を頼って渡英。なんとロイヤル・アカデミーに油彩で 2度入選したらしい。帰国後はもっぱら国内で過ごしたようだ。上で見た矢崎の作品とは少し趣きが異なり、無人の風景における自然のありさまに彼の関心があったように思われる。特に雲を描いた作品が、彼の素晴らしい観察眼を如実に示していて興味深いので、以下に掲げる。「雲」(1910-12年頃)、「気にかかる空」(制作年不詳)、「風景」(1910 - 12年頃)。随分以前の黒田清輝展の記事で、やはり画家が飽かず空を眺めて描いた空の様子を何枚かご紹介したが、ここではさらに空模様の大きな変化をパステルで素早くとらえたいという画家の思いが窺われる。二百三高地の空もこんな多彩な表情であったろうか。
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これは「冬の小川」(1918年)。日本の風景だが、ちょっとクールベあたりを思わせるセンスではないか。
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この「雷鳴」(制作年不詳) は、今度は 19世紀英国の作品かと見まがうばかり。美学用語でいう Sublime (崇高) に分類してもよいのではないか。パステル画にしては手が込んでいる。
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これも雄大な風景で、「高原の雲 赤城山風景」(制作年不詳)。本当に油彩のように美しい。
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これは「伊豆福浦海岸」(制作年不詳)。パステルの特性を活かして波の動きを素早く写しているように見える。
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これは珍しく人間が入り込んだ風景画で、「漁村風景」(1906 - 1908)。これはこれで、懐かしい風景をうまく描いていると思う。
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このように、持ち味も経歴も異なる 2人の先駆的パステル画家の多くの作品を一堂に会した、見ごたえ充分の展覧会であった。会場にはまた、国産のパステルもいくつか展示されていた。矢崎千代二は海外産パステルでは欲しい色の補充がままならないことや折れやすいことなどに限界を感じ、国産パステルの必要性を強く唱えたとのことで、それによって国産パステルの研究開発が始まったという。こうして並ぶときれいですなぁ。
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画家の表現手段は様々であるが、やはり熱意と創意工夫によって、道具も発達し、絵画表現も磨かれるものであろう。今回の展覧会は、パステル画の多彩な表現力に感嘆することに加え、芸術家もそれを支える人たちも、情熱を持ち続けることが大切なのであるということを改めて実感させてくれる、貴重な機会であったのである。

by yokohama7474 | 2018-01-12 00:16 | 美術・旅行 | Comments(0)