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チェーホフ著 : かもめ (中本信幸訳)

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前項に引き続いての記事である。ロシアの偉大なる作家、アントン・チェーホフ (1860 - 1904) による代表的な戯曲のひとつ、「かもめ」。読書家の方、あるいは演劇好きの方からは、今さらなんでこんなベーシックな本を読んでいるんだと思われるかもしれない。だが私にとっては、前項で採り上げた「世界短編傑作集 1」に載っていたチェーホフの珠玉の短編「安全マッチ」に感動したあまり、これまでの人生で未だ読んだことのなかったこの戯曲を、これから始まるチェーホフ探訪の第一歩にしようと思い立ったのである。いや、実は私は、以前この作品を読もうと思って文庫本を購入したことがある。それは今を去る 40年以上前。小学生の頃である。「かもめ」と「ワーニャ叔父さん」が収録された本であった。だが、それを見た親戚から、「小学生でチェーホフ読むの!!」と言われ、えっ、もしかしてこれは子供が読んではいけない本なのか!! と驚愕して、冒頭部分で読むのをやめたのである (笑)。まぁ、もしこれが子供が読んではいけない本であったとしても、既に 50を超えた、苦み走った今の私であれば、別に誰からも咎められないだろうと思った次第。
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さてこのチェーホフであるが、前回の記事にも書いたが、戯曲だけでなく短編小説もあれこれ書いている。だが、彼の人生はたった 44年。当時の不治の病である結核を患っていたらしい。同じ年に生まれた作曲家グスタフ・マーラーですら 51歳まで生きたことを思うと、やはり夭逝と言ってよいだろう。世紀末の爛熟した文化から、世界規模でのカタストロフたる第一次世界大戦に向かう時代の芸術家として、世界の地平が広がるという希望と、それとは裏腹のなんとも言えない絶望感とがない交ぜになった思いを抱えていた人だと思う。特にロシアの場合は、帝政が崩壊するまでに様々な社会の矛盾が噴出していたであろうから、チェーホフという人にはきっと、その時代特有の、人間に対する洞察力があったのだろうと思うのである。

この「かもめ」は、1895年に書かれたチェーホフの代表作のひとつで、全 4幕からなる。帝政ロシアの 19世紀というと、もちろん社会主義政権は未だ成立していないし、上記の通り、外部に膨張する帝国主義が隆盛すると同時に、民族自決主義から個々人のアイデンティティが芽生えて行った時代である。それは 20世紀に入ってから、いわゆるロシア・アヴァンギャルドという豊かな文化的成果につながっていくのであろうが、この戯曲は、決してアヴァンギャルドなものではなく、かと言ってロマン的なものではなく、リアリスティックなものなのである。ここでは主要な登場人物だけで 10名を数え、その関係は、字面で読んで理解して行くのが困難であるくらい複雑だ。また、物事をよりややこしくしているのは、ロシア人の長い名前である。例えば、愛称コースチャという主人公は、本名をコンスタンチン・ガヴリーロヴィチ・トレープノフといい、そのファーストネーム (とミドルネーム?) はどうにも長いが、ドストエフスキーもそうだが、ロシアの文芸ものには、この長い呼び方 (例えばここではコンスタンチン・ガブリーロヴィチ) がつきもので、いかにもロシアという雰囲気だ。これは、この作品を初演したモスクワ芸術座 (今でもかもめをシンボルマークとして使っている) の面々に、朗読を聞かせるチェーホフ。
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ここで登場人物たちが織りなす人間模様は、実に生々しいのだが、戯曲としてそれを読むと、妙に冷めて彼らの関係を受け入れることになる。「ほっほぅ、彼と彼女がくっついたか。ええっと、ところでこれって誰だっけ」という具合。ここには人間の赤裸々な真実と、それを覆い隠す良識とが描かれていて、ラストはかなり重い内容でありながら、決して事大主義的ではない。タイトルの「かもめ」は、主人公が撃ち落としたかもめが劇中に出て来ることによるが、さて、そのかもめは一体何を象徴しているのであろうか。第 2幕の最後の方に、主人公が憧れ、またそれゆえに嫉妬する作家、トリゴードンが語るセリフにそのヒントがある。主人公が恋い焦がれるニーナという女性に向けて、小説の構想を語る場面。

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湖のほとりに、ちょうどあなたのような若い娘が、子供のころから住んでいる、かもめのように湖を愛していて、かもめのように幸福で自由だ。だが、たまたまひとりの男がやってきて、その娘を目にとめ、手もちぶさたに娘を破滅させてしまう。ほら、このかもめのようにね。
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ニーナはその 2年後、第 4幕で精神のバランスを欠いたような状態になり、主人公コースチャに対して、「私はかもめ」と繰り返す。これは、字で読んでいるとあまり分からないが、きっと才能ある女優が舞台で演じると、鬼気迫るものになるだろう。若くて自由であらゆる可能性を持った女性が、撃ち落とされて無力に弄ばれるかもめになってしまう。帝政ロシア末期の閉塞感と、でも、もしかすると、人はかもめのように自由に空を飛べるかもしれないという希望も感じさせる設定ではないだろうか。その内容はやはり複雑なのである。うーん、小学生の時に読んでも、やはり理解できなかったでしょうなぁ、これは (笑)。

ところで、この「私はかもめ」という言葉、何か宇宙飛行士と結び付けたエピソードがなかったろうか。おぼろえげな記憶を辿って調べてみると、ありましたありました。女性として、そして非軍人として、世界で初めて宇宙飛行をしたソ連の宇宙飛行士、ワレンチナ・テレシコワである。彼女のコードネームが、かもめを意味するチャイカというものであったため、宇宙船からの「こちらチャイカ」という呼びかけが、このチェーホフの戯曲における「私はかもめ」を想起させたものであったらしい。それは 1963年のこと。尚このテレシコワは、現在 81歳で健在である。
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さて、例によって川沿いのラプソディ的に、さらなる連想の翼を広げると、この「私はかもめ」が最後に唐突に出て来る SF 物のテレビ番組があった。それは、円谷プロの「ウルトラ Q」。「地底特急西へ」という回に出て来る人工生命体 M 1号が、宇宙空間に投げ出され、この言葉を発する。大変にシュールである。
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この「地底特急西へ」は 1966年の放送なので、当時は未だ、テレシコワの「私はかもめ」が、人々の記憶に新しかったのだろう。帝政ロシア末期の戯曲と、高度成長期のSF テレビドラマの間には何の関係もないが (笑)、これらを並べてみることで、文化の多様な姿が実感されて、大変に興味深いではないか。そもそもこの「ウルトラ Q」はどの回も、対象を子供ではなく大人に絞ったもので、実に示唆に富んだ、また想像力豊かなものであった。私は再放送でしか見ていないが、この番組には、何やらノスタルジックな思いに駆られるのである。そうだ、この「ウルトラ Q」も、子供の頃には理解できなかった要素が満載である。何事も虚心坦懐に楽しまないといけないという思いを新たにする。

ともあれチェーホフは、ほかの作品群も読んで行きたいと思っている今日この頃である。

by yokohama7474 | 2018-04-06 00:34 | 書物 | Comments(0)  

江戸川乱歩編 : 世界短編傑作集 1

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私は幼い頃から、いわゆる探偵小説、あるいは推理小説と呼ばれる分野が大好きで、そのことはこのブログで以前も書いたことがある。そう、ミステリーなどというこじゃれた言葉ではなく、昭和な雰囲気を持つ探偵小説や推理小説という言葉が何やらピッタリ来る分野が、歴史的にあるのである。そして、昭和の探偵小説と言えば、もちろん江戸川乱歩である。ここでご紹介するアンソロジーは、その江戸川乱歩が選んだ海外の探偵小説の 5冊からなるシリーズの第 1巻で、創元推理文庫のロングセラーなのである。上に掲げた表紙からも明らかな通り、まさに昭和の時代の出版物だ。今私の手元にあるこの書物を持ってきて確認すると、初版はなんと 1960年 7月。私が読んだものは 2015年 5月発行のもので、なんと、第 60版だ。これはすごいことである。天国の怪人・乱歩も、これを知ったら満面の笑みであろう。
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乱歩についてクダクダ述べるのはやめにしたいが、もちろん、少年探偵ものに始まり、その後驚愕のエロ・グロの作品群をほぼ読破し、ついには全集まで購入して、「幻影城」とか「探偵小説三十年」といった随筆を読み、日本に本物の探偵小説を根付かせようとした彼の努力に、感動したものである。加えて、東京・池袋の立教大学の隣に現存する蔵 (蔵書を収めるとともに、執筆の場ともなった場所) も、特別公開の際に足を運んだものだ。そんな私であるから、書店でこのアンソロジーを発見したとき、躊躇なく第 1巻を購入したのであった。この 5冊で紹介されるのは、19世紀後半から第二次大戦終了までの、ほぼ一世紀に亘る作品群である。全 5巻は時代順となっており、第 1巻は、1860年代から20世紀初頭までという括りである。これはいわゆる常識に属することであろうが、世界最初の探偵小説と言われるものは、エドガー・アラン・ポーの「モルグ街の殺人」で、それは 1841年の作。なのでこのアンソロジー第 1巻に収められた作品群は、本当に探偵小説の黎明期のものばかりなのである。そして、実際に読んでみると、これがどの作品も、滅法面白いのである!! ここには 7編が収録されているが、その題名と作者は以下の通り。

人を呪わば(1860年作) : ウィルキー・コリンズ (1824 - 1889)、英国
安全マッチ : アントン・チェーホフ (1860 - 1904)、ロシア
レントン館盗難事件 (1894年作) : アーサー・モリスン (1863 - 1945)、英国
医師とその妻と時計 (1895年作) : アンナ・キャサリン・グリーン (1846 - 1935)、米国
ダブリン事件 (1902年) : バロネス・オルツィ (1865 - 1947)
十三号独房の問題 (1905年作) : ジャック・フットレル (1875 - 1912)、米国
放心家組合 (1906年) : ロバート・バー (1850 - 1912)、英国

これら 7編は、それぞれ異なるテイストでありながら、全く外れがないと言ってもよいと思う。だがほとんどの作者にはなじみがない。ただ一人を除いては。そう、あのロシアの劇作家、チェーホフのみは、誰でも知っている存在だ。
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この「安全マッチ」という作品は、戯曲ではなく小説であるが、そこで描かれた人間の姿のリアリティには、舌を巻く。ロシアの田舎で名家の主が突然行方不明になり、警官や検事がことの真相を追いかけるのだが、見当はずれの推理を事細かに書いているのが実におかしい。そして最後、急転直下で真相が判明する際の見事な展開。これは、人間というものの深い観察なくしては生まれない作品であり、そもそも探偵小説には、そのような人間の本性という要素が、納得性のあるかたちで盛り込まれている必要があるものだと、再認識した。チェーホフは戯曲だけでなく、短編小説を沢山書いているようなので、それらを読んで行きたいと思う。

もちろんほかの作品も面白い。「人を呪わば」は書簡のやりとりの中に皮肉な要素が盛り込まれているし、「レントン館盗難事件」は、マーティン・ヒューイットという探偵が活躍するのだが、細部に巧まざるユーモアが感じられる上、犯人の意外性も (それに近いアイデアも既に存在していたとはいえ) 秀逸である。「医師とその妻と時計」は、もしかすると、ピーター・グリーナウェイの映画「コックと泥棒、その妻と愛人」にヒントを与えたのでは、と勝手に考えたくなるが、作者アンナ・キャサリン・グリーンは、女性で初めて推理小説を書いた人で、「推理小説の母」と呼ばれているらしい。長編の翻訳も何冊かあるようだ。
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残る 3作、「ダブリン事件」「十三号独房の問題」「放心家組合」はそれぞれ、安楽椅子探偵、密室もの、とぼけた味のある裏組織をテーマにしたものと、パターンは様々であるが、いずれも大変面白いのである。このように考えると、現在ミステリーと呼ばれるこの分野も、既に 100年前、150年前に、様々なタイプの面白い作品が登場していたことになる。しかもこれらはなんと言っても、あの江戸川乱歩が選んだものなのである。乱歩の随筆を見ると、初期に意欲的な作品を書きながらも、大衆に迎合した作品を書くようになったことは堕落であると、何度も何度も出て来るのであるが、いやいや、こんな面白い作品群を日本に紹介しただけでも、大いなる意義があるだろう。私はこの第 1巻を読み終えたあと、すぐに残る 4冊を購入することとした。それらを読み進むのにどのくらいの時間を要するか分からないが、絶対に価値のある時間になるはず。そして、この第 1巻に啓発され、このシリーズとは別の、とある書物を読むことになったので、次回はそれを記事として採り上げるつもりです。乞うご期待!!

by yokohama7474 | 2018-04-05 01:25 | 書物 | Comments(0)  

ケン・リュウ著 : 紙の動物園 (古沢嘉通編・訳)

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以前、「KUBO / クボ 二本の弦の秘密」という、米国製だが日本を舞台にしたストップモーションアニメ映画についての記事の中で、この本に少しだけ言及した。それは、タイトルになっている「紙の動物園」という短編に、米国に住む中国系親子が登場し、母親が紙で折る動物たちに命が吹き込まれるという幻想的なシーンがキーとなるのだが、それがちょうど上記の映画の設定と類似しているためだ。これは、1976年生まれの作家、中国に生まれて幼少の頃に米国に移ったケン・リュウの 7つの短編を収めた文庫本である。これが作者のケン・リュウ。
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彼は、ハーバードのロースクールを出て弁護士として働く一方、コンピュータープログラマーとしての経歴もあるらしいが、2011年に発表した短編の「紙の動物園」で、SF やファンタジー小説を対象とするヒューゴ賞、ネビュラ賞に加え、世界幻想文学大賞まで受賞するという史上初の三冠を達成し、一躍世に出た。日本では短編 15編を集めた同名の作品集が 2015年に発売され、今回私が読んだものはその一部を文庫化したもの。残り 8編は第 2集の「もののあはれ」に収録されるという。

表題作の「紙の動物園」を含めたすべての作品に、中国を含むアジア的なテイストがふんだんに使われている。例えば、主人公が中国人や日本人であったり、東南アジアを思わせる風景が出てきたり、あるいは現実世界の中国と台湾の対立関係を背景に使用したりしているということだ。もちろん米国には様々な国を起源とする多くの人たちが暮らしているので、それぞれのルーツに敏感であることが、逆にコスモポリタンな精神にも結び付くのであろう。だが、これを日本語の翻訳で読む私たちは、純粋に小説として面白いか否かで評価するしかないだろう。そして、私の個人的な印象は、面白い作品もあるものの、驚天動地の傑作とまではいかなかった。読んでいて気づくのは、その卓越したヴィジュアル性であるが、そのこと自体は特に珍しいことではなくて、過去にこのブログで採り上げた最近の幻想小説においてはごく普通のこと。これだけ映像が日常に溢れ返った現代世界に住んでいる我々は、もはや文字だけで人間の感性が強く刺激されるという世界には戻れないわけで、それを嘆いても詮無いことであるから、そのヴィジュアル性を大いに楽しみたい。だがやはり私にはあるこだわりがあって、小説の最大のアドヴァンテージである、登場人物の内面と客観的な物事の成り行き、そして思想に類することの描写までをも自在に行き来する小説、そして、まさに文章だけで読者独自の映像が目の前に立ち現れるような、そんな小説が読みたい。その意味では、世評の高いこの作品集も、完璧とは思えないのだ。期待が大きかっただけに、少し残念なのである。

その一方で、表題作の「紙の動物園」に見られるノスタルジックな抒情性は、なかなか心を動かすものであるということも、間違いなく言える。それ以外の作品も、設定にかなり工夫が見られて、単なるアジアテイストという範疇にとどめるにはもったいない。しかし、いや、そうであるからこそ、さらに研ぎ澄まされた感性による、残酷なまでの人間のリアリティを見せて欲しいものだと思ったのである。今後のケン・リュウの作品に期待したいと思う。

ところで私は折り紙には全く何の知識も技術もない人間だが、四角い紙から様々な形態のものが生まれることに、西洋人はことさらに魔術的感銘を受けるようであって、それはこの不器用極まりない私のような人間でも、よく分かる。「KUBO / クボ 二本の弦の秘密」では、折り紙はまるで日本の神秘のような描き方であるが、この「紙の動物園」では中国系家族のよりどころになっている。はて、折り紙の起源は一体どこにあるのだろう。そう思ってちょっと調べてみると、よく分かっていないらしい。古代中国に存在していたとか、もともと韓国が起源だとか、いくつか説はあるようであるが・・・。いずれにせよ事実は、現在判明している最古の折り紙についての本は、1797年の「秘傳千羽鶴折形」という日本の書物だということらしい。だから、江戸時代の文化の爛熟期に折り紙が大きく発展・普及したことは間違いないだろう。だが、東アジアはもともと共通の文化を持ち、その一部は遠く西洋からもたらされたもの。どこが発祥の地ということを議論してもあまり意味はなく、その豊かな文化を楽しみたい。そして、米国という人種のるつぼで、その折り紙を東洋人のアイデンティティとして小説の素材にして認められた作家がいるということを、我々日本人も知っておきたいものである。これは、ほかのサイトからお借りしてきたトラの折り紙。さすが、見事なものですなぁ。
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一方、これはたまたま YouTube で見つけたビーグル犬の "Origami" の 1シーンだが、この表記でお分かりの通り、西洋人の方の作。うーん、ちょっと微妙。折り紙はやはり、東洋のものなのだとよく分かりますね (笑)。
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書いてから気づいたことには、今日は奇しくも、今は亡き我が家の愛犬、ビーグルのルルの、20回目の誕生日。そんな日に、たまたま折り紙のビーグルについて書くのは、やはり何かの因縁なのでしょうね。

by yokohama7474 | 2018-02-01 23:41 | 書物 | Comments(0)  

井上ひさし著 : 言語小説集

今晩は皆既月食。普段はさほど天体現象に興味がある方ではない私ではあるが、たまたま会社で天体マニアの人がいて、今回の皆既月食の話を聞いていたものだから、自宅への帰り道、駅からトボトボ歩きながら、ふとそのことを思い出し、寒いからといって首をすくめずに頑張って天空を眺めると、確かに月に影ができている。帰宅してからも時折空を見ると、月はどんどん高くなり、そしてどんどん細くなって行く。肉眼ではこの天体ショーを鮮やかに見ることができるのに、写真に撮るとこんな感じで、かなり精度が落ちてしまう。やはり人間の目というものはよくできているのだなと感心した次第。東京地方では今晩は曇りかという予報もあったようだが、雲がなくて幸いであった。
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このような天体の神秘はしかし、この地球上やそれ以外の星で、気の遠くなるほど昔から存在しているわけであり、そこについ最近 (?) 人類なるものが誕生し、地球上にいろいろなものを創り出した。そしてそこには人類なりの知恵の蓄積がある。例えばこのような現象を知るには、観察や分析が必須であるのは当然だが、「この日にこの場所で月食がある」「その月食はこのような理由で起こる」「そのとき月はこのように見える」「次の月食はいつどこで起こる」といった事柄を多くの人々が知るために必要なものは何か。もちろんそれは、言語である。言語こそは、あらゆる事象についての理解を共有したり、またその理解について議論したり、あるいは発展させていくために必要なものであり、つまりは人類の「知」は、多くの点で、言語に負うところ大である、と思うわけである。たまたま前の記事の最後で、言語の道具としての重要性について触れたので、今回はこの本を採り上げてみたい。
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このブログは、おかげさまでクラシック音楽の記事には多くの読者の方に集って頂いているようだが (それでも、今月に入ってからのメナヘム・プレスラーの記事への 900に迫る突然の異常なアクセス数にはただ困惑するばかりだが)、書いている当人としては、やはり音楽以外の記事も是非読んで頂ければありがたいと、いつも考えているのである。ええっと、以前も書きましたよね。千葉県市川市で永井荷風の足跡を辿った本についての記事、及びその地を自分で歩いてみた際の記事へのアクセスが少なく、嘆かわしく思っていることを。その不人気の記事で私は、作家の井上ひさし (1934 - 2010) が荷風について行った講演の採録が滅法面白く、近く彼の小説を久しぶりに読みたいと宣言した。あれから随分時間が経ってしまったが、ブログ上で全世界に対して行った約束 (大げさだが、まぁ世界のどこでも見ることができるので本当のことだ) は、やはり守らないといけない。というわけで、今回はこの短編集について語ろうと思うのである。といっても、読み終わったのは去年の秋なので、既に数ヶ月が経過している。すぐに記事を書かなかったのは訳があって、それは、これを読んだ私が、諸手を挙げて井上ひさしの天才の前にひれ伏した (まぁ、そんなに上がったり上がったりは普通しませんが。笑)、ということには残念ながらならなかったからだ。
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ここには 11編の作品が集められていて、最後の 4編が 1989-90年頃に発表されたものだということ以外には、執筆時期についての情報はないが、多分 1980年代ではないかと想像する。というのも、最初の「括弧の恋」ではワープロの中で記号たち (● とか ▲ とか ■ とか、あるいは「 だの 」だの、〒 だの # だの) がやりあう話であり、これは明らかに、パソコン (この言葉も、最近は随分と古めかしい響きを帯びるようになったが) が登場する前の作品である。発想は決して面白くないことはないのだが、いかんせん、今読むとまず、時代を感じてしまうのである。だが、作家がワープロについて語ることの意味をもう一度考えると、要するにそれまでは原稿用紙の上にガリガリとペンで文章を書いては艱難辛苦し、何度も破っては捨て、頭をかきむしっては推敲し、停滞し、タバコをプカプカ吹かして天を仰ぐ・・・そんなイメージであった文士たちが、軽やかにキーボードを叩いて、画面上で大量に文章を削除したり、あるいは順序を換えたりして、そしてそれを、ジー、カタカタと音がするプリンターで印刷するという光景に変わったことは、大変なことではないか。そんな大転換を、このように軽妙に記号の擬人化によって面白おかしく物語にしてみせる井上のセンスは、やはりなかなかのものだとは思う。それから、「五十年後」という作品には、方言のわずかな違いを聴き分けるその道を究めた専門家が出てきて、「そんなバカな」と思いながらも、結構声を上げて笑ったりできる。また、言語障害によって、言ってはならない場面で言ってなならないことを意図せず口にして、思わぬトラブルに見舞われる人物 (一例を挙げると、駅員として勤務していたときにホームで、「一番線に電車が這ってまいります。どなたも拍手でお迎えください」とアナウンスするなど) を描いた「言語生涯」も、まあ面白い話である。だが、それらの作品を楽しみながら私は、やはり井上は、文字だけではなくて、演劇的なアクションを前提にして作品を書いているような気がしてならなかった。生涯演劇と深いかかわりを持った人であるから、それも当然なのかもしれないが、時空を超えてそのユーモアのセンスが、小説を読んだだけで、何か人間の本質にはっと思い当たるとまでは思えない。いやもちろん、面白い小説は、笑っていればそれでよいのだろうが、ただ笑おうとすると、今度はその時代色が邪魔してしまって、純粋に楽しめない要素を感じてしまうのだ。

このように、私としては大絶賛の短編集ということにはならなかったが、もう一度、ここに至るまでの流れを思い出してみよう。前回の記事では、ビジネスマンはもちろん、演劇を語る評論家も、言葉という道具の重要性を認識すべきだと主張した。そして今回の記事の冒頭では、自然現象というスケールの大きなものを対象としても、人間がその現象の神秘を解き明かして知の地平を広げて行くには、言語が重要だと説いた。そう思うと、小説家という、言語を商売道具にしている人が、その言語をテーマに軽妙にストーリーを作って行くという行為は、いわば人間の文化的行為の根源に迫るものである、とも言えるのではないか。だから、言語という道具の意味を思うには、どこまで楽しめるかは別としても、このような本を手に取ってみることに意味があるように思う。その上で、もし自分がここで使われているのと類似のネタでギャグを放つならどうしようか、と考えられば、そのような思考はきっと (よしんばそのギャグが聞き手の心胆を寒からしめるものであっても)、他人とのコミュニケーションには役立つはず。そう、ビジネスも文化も、コミュニケーションなしには成立しないのである。何かを語っても、相手に通じなければよくないが、だが、もし語らなければ、そもそも通じるわけもないのである。
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壮大な天体ショーを見ながら、人間のコミュニケーションについて考える。これぞ、このブログの持ち味であると、ここは一旦〆ておくこととしましょう。井上ひさしは、また別の作品をそのうち読みたいと思います。

by yokohama7474 | 2018-01-31 23:32 | 書物 | Comments(0)  

和田 竜著 : 忍びの国

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先に同名の映画化作品を採り上げた小説である。その映画についての記事でも触れたが、一般的に、小説が売れてから映画化されるケースは非常に多いものの、この作品の場合は、原作者が映画の脚本を自ら書いていることが最大の特色であろう。私はこの映画を結構楽しんだのだが、その理由のひとつは、さすが作家の手になると思われるセリフであることは既に書いた。だからこそ、原作と映画の違いに興味津々であったのである。

そもそも、ある小説を映画化したものを見ると、十中八九は小説の方が映画より面白いと感じるものである。私の見るところその理由は明白で、要するに文字だけの情報である書物を読むことは、取りも直さず自分の中で、ヴィジュアルなものを含むイメージを膨らませること。つまりはイマジネーションである。どんな人間であれ、イマジネーションがある以上は、他人から押し付けられることのない自由な想像に喜びを見出すもの。もちろん、外から与えられるイメージが、もともと自分が持っていたイメージとほぼ同じというケースもあるであろう。だがそんな場合も、小説の映画化につきまとう別の難題をクリアできないかもしれない。それは、何日もかけないと読破できない小説と、せいぜい 2時間前後で終わってしまう映画との間には、埋めることの到底できない情報量のギャップがあるのである。何事も手軽でスピーディになってきている現代、書物が我々の日常生活に占める割合が減って来ていることは否定しようのない事実であろう。だがそれは由々しき事態。これは難しいことでもなんでもなくて、文字を追うことで人間に生来備わっている想像力が刺激されることは、誰がどう見ても明らかな事実である。なので、人間が人間である以上は、書物の存在意義は続くという点において、この「小説の方が映画より面白い」という感覚は、文化的観点からは非常に大事なのであると思う。
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さて、この小説を読んで、映画と比べていかがであろうか。正直なところ、私は舌を巻いた。その理由は、映画も充分面白かったところ、原作小説はそれよりもしっかりと多い情報量を持っていて、それはそれはよくできていたからである。そう、小説の方が登場人物は多いし、個々のシーンの中でも、設定が微妙に違うところが多々ある。あるいは、主人公である忍者、無門の語る言葉を取っても、小説では映画のように全編を通して現代語というわけではない。戦国時代という設定に基づいて、文字で読むところのリアリティが満載なのである。上述の通り、小説の作者が映画の脚本を手掛けている意味は非常に大きいが、それにしても、どんな小説家もこんな脚本を書けるわけではないだろうと思う。というのも、自分の書いた小説の登場人物たちが大事だと思えば、自らの手でそのキャラクターを変えたりあるいは省略したりすることはつらいことであろうからだ。であるからして、私はこの和田竜という作家のスマートぶりに敬意を表するのである。
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だがその彼の手腕にしても、この小説で使われた手法のすべてがオリジナルというわけではない。読んでいてすぐに分かるのは、歴史物のスタンダードとしての司馬遼太郎からの影響である。小説の中の歴史的シーンをリアルに語りながら、現代の視点から、参照にした文献に言及し、それへの短い評価を記す。そこに時代の流れが巧まずして現れる。そういえばこの二人、眼鏡も似ていないか (笑)。
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ともあれ、読む人の想像力を心地よく刺激する小説であるので、映画云々ではなく、小説そのものとして楽しめる。ところでここで私が言いたいことは、上記のような司馬遼太郎という手法における先駆者のみならず、題材におけるこの小説の先駆的な作品があるということである。このブログで以前ご紹介したこともあるが、その作品とは、村山知義の「忍びの者」。
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5分冊の大部な小説であるが、私はもう何年も前にこの小説を大変面白く読んだ。ここには、「忍びの国」にも登場する百地三太夫や木猿などのキャラクターも出て来るし、何より、最後の最後で明かされる意外な設定も面白い。なので、「忍びの国」に興味を持たれた方は、是非この「忍びの者」も読んで欲しい。作者の村山知義は、演劇や美術の分野における日本のモダニズムを語る上では欠かせない人物であるが、このような面白い小説を書いていたことは、現代において、もっと評価されてもよいと思う。因みにこの「忍びの者」、市川雷蔵主演で映画化されている。残念ながら私は見たことはないのであるが、この昭和感覚あふれるポスターに興味をそそられる。うーん、「忍びの国」における大野智に比べると、随分あか抜けない、短足がに股の、農耕民族的忍者である (笑)。
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今や外人にも大人気のニンジャであるが、歴史の中で「闇に生まれ闇に消える。それが忍者の定めなのだ」(白土三平の「サスケ」より) という位置づけにある彼らの生きざまを、想像力を駆使して感じてみることで、ストレスの多い日常を忘れることができると思う。なので忍者ものは、今この時代であるがゆえに、意味のあるものなのだと思う。

by yokohama7474 | 2017-08-31 00:49 | 書物 | Comments(0)  

正木晃著 : 仏像ミステリー

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親譲りの仏像好きで、小供の頃から得ばかりして居る。などと漱石を気取るのはやめにして、この本について語ろう。私が仏像の美に目覚めたのは、小学校 5年生のときの、忘れもしない 5月 5日、小供、いや子供の日。たまたま両親が奈良に行くのに、参加を予定していた親戚がキャンセルしたので、急遽半ズボンの私がピンチヒッターとして参加したのである。40年以上前のその日は、私にとっては早すぎる人生の転換期で、奈良の古寺の数々の存在感に、まさに雷に打たれたような衝撃を覚えたものだ。今、多少は人生の機微を分かっているつもりの私は、その日に本当に感謝している。なぜなら、仏像の神秘に触れて以来、この世界には何か奥深いものがあるのだと察知し、それから美術全般、音楽、文学、映画・・・と、文化全般に私の興味は広がって行き、明らかに私の人生は豊かになったからだ。そんな私であるから、これまでの人生で日本の代表的な仏像のほとんどは見尽くしているし、まだ見ていない仏像のリストは、いつも頭の中にあるのである。そんな仏像マニアの私も、この本は大変面白く読んだ。本のオビにある宣伝文句は以下の通り。

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美しいオモテの顔のウラに怨霊鎮魂 & エロス 阿修羅、弥勒菩薩、薬師如来...有名仏像の "真実"
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これはなかなかによくできたコピーであり、上に掲げたこの本の表紙も、なかなかよくできている。この仏像は、言うまでもなく、東大寺三月堂の本尊、不空羂索 (ふくうけんじゃく) 観音。天平時代を代表する仏像で、その長身の美しいことは筆舌に尽くしがたく、冠に嵌め込まれた数多くの宝石とともに、まさに日本の歴史上有数の素晴らしい造形なのである。この表紙では、その不空羂索観音の写真を掲載しているのかと思いきや、これはイラストなのだ。そして、右上には何やら少女マンガめいた女性の顔が描かれているが、おっと、この女性の右半分は真っ黒で、ただならぬ気配。これは一体どういうことか。もともとこの仏像が安置されている東大寺三月堂には、いろいろな謎があるのだが、この威風堂々たる本尊がいかにして発願されたのか、はっきりしたことは分からない。だが、どうやら藤原広嗣の乱 (740年) が勃発した際に、その乱の平定を祈って建てられたという説があるらしい。この例で分かる通り、上代の仏像にはしばしば呪術的な要素があり、この女性像はそれを象徴している。これは光明皇后なのか、その娘の孝謙天皇 = 称徳天皇であるのか分からぬが、美しい仏像の裏に秘められた血塗られた歴史を表しているのだろう。これが、神々しい不空羂索観音のお姿。左右にいるのは日光・月光 (がっこう) 菩薩である。もちろんすべて国宝だ。私はこれらの仏像に、恐らくは 20回ほど対面しているが、この東大寺三月堂は、何度行っても飽きることのない場所で、まさに世界の宝である。
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この本では冒頭に、日本にいかに多くの仏像が伝来しており、そのクオリティがいかに高いかが強調されている。これは別に愛国的な偏った記述ではなく、客観的な事実である。そんな前提において、この本においては以下のような仏像 / 人物 / 古寺についての興味尽きない言説が述べられている。

・法隆寺 救世観音
・東大寺 不空羂索観音
・興福寺 阿修羅
・広隆寺 弥勒菩薩
・神護寺 薬師如来
・三井寺 黄不動画像
・三十三間堂 千手観音群像
・良源
・安陪晴明
・祐天上人
・飛鳥寺
・成田山新勝寺
・平等院鳳凰堂
・天龍寺
・出羽三山

この中のいくつかについてはこのブログでも採り上げているが、だが私はそれぞれの項目について、必ずと言ってよいほど、この本に教えられるところがあった。知れば知るほどに自分の無知に気づく、それこそが文化の奥深さであろう。例えばこの中で、祐天上人を採り上げてみよう。この人の名前を知っている人はほとんどいないであろうし、私自身も知らなかった。だが、東京在住の人で、目黒の祐天寺という駅名を知らない人は稀であろう。そう、祐天上人 (1637 - 1718) は、この駅名の由来となっている祐天寺を開いた僧なのである。この本によると祐天上人は、幼い頃に家から勘当されている。その理由は、物覚えが極端に悪かったことらしい。勘当されて寺に入った祐天はやはり、経文を暗記することが全くできなかった。なんでも、70日かかっても一字も覚えられなかったというから、それはひどい (笑)。そして哀れ祐天は、彼が修行していた増上寺の門前まで当時迫っていた海に身を投げようとした。そこを通りかかった兄弟子に救われた祐天は、増上寺の開山堂にこもって不眠不休の断食修行をすれば、智慧を授かり、名僧になれると聞かされ、その修行に入った。その修行の中で、祐天の目の前に白髪の老人が現れ、「お前のバカさは前世の因縁でどうしようもないが、成田山新勝寺で 21日間の断食修行をすれば、必ずや智慧を授かるであろう」と告げた。成田山に辿り着く途中も追いはぎに遭い、修行中にも様々な幻影が現れて修行をやめさせようとしたが、祐天はそれらの難をすべて退けた。そしてついに祐天の前に、猛火に包まれた身の丈 3mの不動明王が現れ、「智慧を授かりたいなら、我が剣を呑め。長い方がよいか短い方がよいか」と尋ねた。祐天が迷わず「長い方を」と答えると、不動明王は容赦なく長い剣を祐天の口に突き刺した。祐天はあまりの痛みに悶絶し、全身血まみれとなった。この話は歌舞伎にもなっているようだ。
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血まみれで倒れているところを発見された祐天は、その後、経文を一度聞いただけで一字一句間違えることなく覚えるようになったという。それからも祐天の苦労は続いたようだが、江戸を代表するいわばゴーストバスターとして、数々の怨霊を退治したらしい。目黒の祐天寺は、そんな祐天が晩年に過ごした庵を寺にしたものだという。この逸話を現代に置き換えると、学習障害を持つ子供でも、本人の決意と周りの理解さえあれば、立派な業績を残せるということを意味しているのではないだろうか。現在の祐天寺には、数々の登録有形文化財があるという。そのうち一度出かけてみたいものだ。
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この本にはその他、先に採り上げた出羽三山に関する部分もあるし、とにかく、寺好き、仏像好きにとってはもう面白すぎるのだ。著者の正木晃は、1953年生まれの宗教学者で、専門は密教学とチベット密教であるらしい。その分野で、ほかにも面白そうな本を沢山書いている。この「仏像ミステリー」のよいところは、盛り沢山の情報を、誰にでも分かりやすい平明な言葉で綴っていることで、これはなかなか困難なことであるはず。だから私はこの本を、仏像好き以外の方々にも、広くお薦めしたいのである。

by yokohama7474 | 2017-08-19 01:13 | 書物 | Comments(0)  

いなごの日 / クール・ミリオン ナサニエル・ウエスト傑作選 (柴田元幸訳)

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よく書いていることだが、私は本屋をブラブラするのが好きな人間で、昨今のネットでの書籍の購入は、もちろん頻繁に利用はするけれども、本当の意味でのワクワクするような本との出会いは、やはり本屋でなければ得られないなぁと、いつも思っているのである。この本もたまたま本屋で手に取ってみて、なかなか面白そうだったので読んでみることにしたものだ。新潮文庫の村上柴田翻訳堂というシリーズ、つまりは翻訳も手掛ける作家村上春樹と、翻訳の専門家柴田元幸の二人が面白いと感じる英米文学を新訳・復刊で紹介するものだ。全 10冊であるが、そのラインナップを見てみると、有名作家無名作家を取り混ぜて、なかなか面白そうである。その中で私の目に留まったこの本。ナサニエル・ウエスト (1903 - 1940) の作品集で、新訳である。この作家の名前、何かどこかで聞いたような気がするが、気のせいかもしれない。米国の作家でナサニエルというファースト・ネームを持つ人は、もちろん「緋文字」で有名なホーソーンがいるが、彼はこのウエストよりも 100年も前の人。特に両者の間に関係はないようだ。そもそも名前の綴りが、ホーソーンの方が通常の "Nathaniel" であるのに対し、ウエストは "Nathanael" であり、訳者柴田元幸の解釈では、あのドイツ・ロマン派の幻想作家 E・T・A・ホフマンの「砂男」の主人公の名前を取ったのではないかとのこと。なるほど、そっち系の作家であれば、私の好みにもバッチリ合うはず。実はナサニエル・ウエストの本名はネイサン・ワイスタインといって、ユダヤ人である。この本のふざけた表紙が彼の肖像かと思いきやそうではなく、こんな人だったようだ。
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彼の生まれはニューヨークだが、大学をひどい成績で卒業して (おっ、親近感が湧くぞ)、家業の建築事務所を継がずにふらっとパリに渡ったらしい。1927年に帰米し、ホテルの夜勤マネージャーとして小説を書き始める。だが生前には結局どの小説も出版には至らず、困窮するが、1930年代後半からハリウッドに出入りし、何本もの映画の脚本に関わったことで経済的には救われたらしい。ヒッチコックの「断崖」も、第 1ヴァージョンのシナリオは、ウエストともうひとりの脚本家による作であったらしい。「華麗なるギャツビー」(最近では「グレイト・ギャツビー」という方が多いかな) のスコット・フィッツジェラルドは一貫してウエストの擁護者であったらしいが、奇しくもフッツジェラルドが心臓麻痺で死亡した翌日の 1940年12月22日、ウエストは猛スピードで車を走らせ、対向車に激突して、新妻とともに 37歳の短い生涯を終えた。このように伝記的なことを書いているだけでも、何やら教養主義や人道的な考えとはちょっと違った、風変わりで破滅的な作風を想像するが、その作品を読んでみると、やはり風変わりで破滅的なのである (笑)。この本には最後の作品である「いなごの日」と「クール・ミリオン」という 2つの中編、「ペテン師」と「ウェスタンユニオン・ボーイ」という 2つの短編が収められているが、私が実に面白いと思ったのは、「クール・ミリオン」だ。大志を抱いて旅に出る青年と、その周りの人たちが、波乱万丈の運命に翻弄される荒唐無稽な話だが、いやその話のブラックであること。私がこれを読みながらずっと思い出していたのは、ヴォルテールの「カンディード」である。バーンスタインによるミュージカル「キャンディード」の原作としても知られるこの小説は、18世紀フランス啓蒙主義者の作とは思えない、強烈に面白い内容であり、実にブラック。「クール・ミリオン」において容赦ない残酷な目にこれでもかと見舞われる主人公やその恋人の姿は、本当にカンディードと恋人クネゴンデの姿そのままではないか。この「カンディード」、岩波文庫で簡単に手に入るので、バーンスタインによるミュージカルをご存じの方もそうでない方も、是非一読をお薦めする。
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もちろん、ウエストがヴォルテールを模倣したのか否か、私には分からない。だがここには明らかに、「カンディード」と同じ精神が流れている。笑いの要素を越えて、残酷なまでに人間の本質を暴きたてずにはいられない作家の情熱と言ってもよい。もちろん、米国の社会の中に今も昔も存在する差別意識や、その裏返しの協調性も、物語の重要な要素としてそこここで出て来る。全くとりとめなく話は展開して行くので、とても緻密な計算のもとに書かれたものとは考えられないが、作者の創り出したいトーンはよく理解できる。

それに比べると、もう 1編の中編「いなごの日」の方は、もうひとつインパクトに欠けると思う。ハリウッドで夢を追ったり、破れた夢を抱えながら生きて行く人たちが描かれており、ウエスト自身のハリウッド体験が反映されているらしいが、ブラックさという点では「クール・ミリオン」には及ばない。ただ、登場人物のひとりひとりは、こちらの方がよく描かれているとも言えるだろう (村上春樹はこの本の巻末の柴田元幸との対談の中で、「クール・ミリオン」よりもこちらの方が、小説としてはるかにまとまっていると評価している)。ちょっと細部に入ると、私が感嘆した点は、ここで言及される芸術家たち。例えばピカソ、フアン・グリス、ガートルード・スタインは、この作品が書かれた 1930年代にはバリバリの現役であったはず (調べてみると、実際にはグリスは 1927年に亡くなっているが)。パリで多感な 20代の一時期を過ごしたことで、新たな芸術の潮流を存分に浴びたことが推し量られる。だが、さらに驚いたのは、歴史的な画家の名前が列挙されている箇所。まず、サルヴァトル・ローザ、そしてフレンチェスコ・グアルディ。私は恥ずかしながら両方とも知らなかったのだが、前者は 17世紀ナポリの画家で詩人。リストの「巡礼の年」(村上春樹ファンにはおなじみだろう --- 私は特にそうではないのだが) 第 2年「イタリア」の中に、「サルヴァトル・ローザのカンツォネッタ」という曲があることでも知られているらしい。また後者は 18世紀の画家で、カナレットに続く世代としてヴェネツィアを描き続けた画家。なるほど、渋い 2人の画家が選択されている。だが真の驚きは、その次に出る名前である。モンス・デジデリオ。私はその名を、軍艦島を訪問した際の記事において言及したが、かつて三島由紀夫も愛した 17世紀イタリアの画家であり、巨大な廃墟がなぜか理由もなく崩れ落ちて行く、まるで世界の終わりのような底知れぬ虚無感漂う神秘的な作品を描いた。国内で紹介されているのは、このトレヴィルの画集だけだと思う。一時期は確か絶版であったと記憶するが、今調べると、幸いなことに復刊されているようだ。これまた、大のつくお薦め美術書である。
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このように、ナサニエル・ウエストの興味の中には古今の芸術があったわけで、これは単なる雰囲気作りとか教養主義といったものとは一線を画しているものと思う。小説そのものの評価については人それぞれであろうが、少なくとも、生き急いでいたようにしか思えないこの作家の心の中の深い部分に、人間の深層心理に迫る高い芸術性が潜んでいたことは間違いないだろう。その意味では、短編ながら「ペテン師」という作品に、彼の指向が凝縮して入っているとも言えると思う。これ、本当にブラックなので、相当覚悟して読む必要がありますよ。

生前は作家として認められなかったウエストであるが、戦後になってブラックユーモア作家たちの先駆者として再発見されたらしい。実は「いなごの日」は、1975年にジョン・シュレシンジャー監督、ドナルド・サザーランド主演で映画化されている。私は見ていないが、さて、面白いのだろうか。
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そもそも「いなごの日」とは、聖書の黙示録に、いなごの大群が世界の終わりに発生するとの記述があることに由来し、終末的な意味合いがある。確かにこの小説のラストには、終末的なイメージが存在するのだ。なるほど、ここでモンス・デジデリオとも共通性が出てきましたな。まぁ、この小説をモンス・デジデリオ的と表現することはできないとは思うものの。いずれにせよ、いろいろなイメージを持つことができるので、ブラックなものがお好きな人は、試しに読んでみられては如何。

by yokohama7474 | 2017-08-18 00:25 | 書物 | Comments(0)  

泡坂妻夫著 : 湖底のまつり

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ある日ある駅で、ちょっと時間が余ってしまい、何か軽めの読み物でも探そうかなと思って入った書店で目に入った一冊。どうやら昔の本の復刻新刊であるようだ。上の写真で書店名はバレてしまっているが (笑)、ともあれ、本選びには直観が極めて大事。人との出会いと同じく、本との出会いも、なにかの巡り合わせによって彩られるものである。ネットで書物を買うようになってから大幅に減ってしまった喜びのひとつは、そのような巡り合わせである。昭和の時代に書かれたこの小説を、昭和の時代にあったような書店での巡り合わせで手に取る。たまにはそういうことがあってもよいではないか。

泡坂妻夫 (あわさか つまお、1933 - 2009)。この「あわ」の字の右側は「己」ではなく「巳」であるのだが、本にはその活字が使われているものの、PC の漢字変換候補には出て来ず、またネットでも見つけることができなかったので、やむなく右側は「己」になっている普通の「あわ」の字を使用する。この作家の名前に見覚えはあって、もしかしたら何か読んだことがあるかもと思いながら、確信が持てなかった。ただ、上の写真に写っている帯で賛辞を捧げているのは、現代を代表するミステリ作家で、私もその「館」シリーズなどを結構面白く読んだこともある、あの綾辻行人だ。しかも出版社は、ミステリには定評ある創元推理文庫なのである。帯に記された「最高のミステリ作家が命を削って書き上げた最高の作品」などというキャッチフレーズも、気になるではないか。そう思って読んでみることにした。作者の泡坂は、直木賞も受賞したミステリ (というか、当時の言葉では推理小説) 作家である。マジックを趣味としていたらしい。
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この作品が書かれたのは 1978年、つまりは昭和 53年。冒頭からページを繰って行くと、最初は森の中の幻想的なシーンなのであまり時代は感じないが、そのうちに登場人物の女性が過去にいやな経験をしたり、また、山の中で出会う運命に身を委ねるあたりで、なんとも昭和な香りが漂ってくる。正直なところ、その設定やセリフは今の感覚では陳腐に感じてしまう部分が多く、セクハラ・パワハラご法度の厳しい会社生活を送る現代の社会人にとっては、なんとものどかというか、あえて言ってしまえば、男の観点から見た都合のよい設定のようにすら思え、少々うんざりしてしまった。例えば、最初の方に出て来る長くて詳細なラブシーンから、ちょっとだけ引用してみよう。

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紀子は立ち上がった。だが晃二はセーターを放さなかった。晃二は乾きかけたセーターに顔を埋めた。
 ーーー君は、バラのにおいがする・・・。
 ーーー晃二さん、嫌よ。
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こういう文章を、煙草を吸いながらペンで原稿用紙にガリガリ書いて行くというのが、当時の作家の姿であったのだろうか。また読む方も、固唾を呑んでページを繰ったものであろうか (笑)。と茶化しながらも、実は私は、主に電車の中でこの本を読み、すぐに読み終えてしまった。つまり、それだけ面白かったとも言える (あ、ラブシーンがじゃなくて、小説全体がですよ。念のため)。設定にはなかなかユニークなところがあって、同じようなラブシーンが二度出て来て、あれっと思うのだ。ほぼ同じシチュエーションで、例えば上記の「バラのにおい」作戦とか (笑)、会話の中身もほとんどダブっているにもかかわらず、登場人物の名前は違うし、描かれている室内の情景の細部も異なる。これは一体どういうことなのか・・・。そのような謎が、読者をしてその後の展開を知りたいと思わしめる原動力なのである。8人の登場人物たちは、ある場合には恋人同士、ある場合には行きずりの関係、またある場合には刑事と容疑者であったり、同級生であったり、緊張感のある仲であったり、そしてある場合には、「むむ? 同一人物なのか?」と思わせる関係もあって、様々だ。ダム建設をめぐる対立という当時のリアルな社会問題に、日本古来の祭りを組み合わせている点も、それなりに気が利いていると思われる。例えば現代において、海外での関心を意識して日本の土俗的要素を入れているように思われる宮崎アニメとか「君の名は。」などとは違って、読者として想定されているのはもっぱら日本人で、当時 GDP 世界 No. 2 にまで登りつめた経済大国日本において失われつつある、古い習俗へのノスタルジーを持たせようという意図なのかと思う。それはある種、ありがちな発想であるので、正直なところ、私としてはあまり印象づけられることはなかった。また、人物設定もかなり紋切り型という点も否定できない。だがその一方で、トリックそのもののシンプルさには好感を持った。いや、もちろん、最後の方では真相が大体読めてくるので、驚愕のあまり本を取り落とすという事態にはならないが、「なるほど、そうきたか」という心地よさに、昭和のイメージはかなり相殺されてしまうと言ってもよいかもしれない。その意味で私にとってこの小説は、「命を削った作品」とまでは思えないものの、退屈しない読み物であったことは間違いない。

ところでこの小説には、セラピム S5 というスポーツカーが登場する。私は車にはからっきし疎いのでちょっと調べてみたが、どうも該当する車種はないように思われる。一方、「セラピム」と見て、美術愛好家、音楽愛好家は、これがいわゆる「セラフィム」のことだと気づくだろう。もちろん、最上級の位を持つ天使のこと。6枚の翼を持つとされる。これはイスタンブールのアヤ・ソフィアに残る壁画に描かれたセラフィム。
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そして私の世代の音楽ファンにとっては懐かしい、名レーベル EMI の廉価盤のアナログ・レコードがこの名前を使っていた。写真を拝借。
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ちょうどこの「湖底のまつり」が書かれていた頃、クラシック音楽に夢中になり始めていた私は、アンドレ・クリュイタンスとベルリン・フィルのベートーヴェンとか、ジョン・バルビローリとウィーン・フィルのブラームスとかで、このレーベルに大変お世話になっていた。なのでもし当時私が間違ってこの「大人の」(笑) 小説を読んでいれば、ちょっとびっくりすることになったかもしれない。

また、この作品に関係する文芸作品としては、シェイクスピアの「ヴェニスの商人」が挙げられるが、さてそれがどのようにかかわるかは、読んでみてのお楽しみ。ただ私には、読者へのミスダイレクションとして一部の要素の使用のみが企図されているとしか思えず、作品の内容と深く切り結ぶようなイメージには至らなかった。

そんなわけで、昭和の遺産にもいろいろあることを再認識しました。ただ現代の感覚で読むだけでなく、当時を懐かしむ読み方もあってよいし、何より、トリックが面白ければ、ミステリとして読む価値はあるので、また様々な本との巡り合わせを楽しむゆとりを持って、日々暮らして行きたいと考えております。あ、そういえば Wiki によると、泡坂は「々」の字を使わなかったそうだ。訂正。日日暮らして行きたいと考えております。

by yokohama7474 | 2017-06-08 00:38 | 書物 | Comments(0)  

ピーター・トライアス著 : ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン (中原尚哉訳)

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本当は違う書き出しにしようと思ったのだが、おぉーっと唸った発見からこの記事を始めよう。自分の手元にある上下巻を写真に撮るために、たまたま横に並べてみて初めて分かったことには、この 2冊の表紙は、ひとつながりの絵になっているわけなのだ!! いやー、これはまた予想外の展開。いかにこの小説を楽しんだ人でも、こればっかりは並べてみないと分からないこと。などと喜んでいる私は無知な人間で、実はネットの世界では既に当たり前なのかもしれないが。

今年の 4月28日付の記事で、フィリップ・K・ディックの古典的名作「高い城の男」をご紹介した。私はその記事で、そのディックの小説を読みたいと思った理由をほのめかした。そしてここで約 1ヶ月を経過して明かされる真実。・・・と言っても全く大したことのない話だが (笑)、私はこの最新の小説を読みたくて、その前に是非とも「高い城の男」を読みたかったわけである。なぜなら、その 2作には共通する設定があるからだ。この小説の題名、「ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン」とは、要するに現実世界での United States of America のことだが、第二次世界大戦の末期に日本が米国に原爆を落として、枢軸国が連合国に勝利したという架空の世界を舞台にしているために、この名称になっているもの。なるほど、それは分かった。だが、上に掲げたこの本、ハヤカワ文庫の上下巻の表紙は一体何なのか。何やら巨大なロボットのようなものが二体、向かい合っている。よく見ると下巻の帯に、「『高い城』& 『パシフィック・リム』の衝撃!?」とある。この最後の感嘆詞「!?」から、「エヘヘ、ちょっと言い過ぎかなぁ」とい照れが見えるような気がする。だが、読んでみると確かにこのコピーは言いえて妙なのである。もし映画「パシフィック・リム」をご存じない方がおられるといけないので、そのイメージをここで掲げておこう。もっとも、この映画に対する私の評価は、決して高くはないのであるが。
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つまり映画「パシフィック・リム」では巨大ロボットが登場し、怪獣 (英語でも「カイジュウ」) と対決するのである。そしてこの小説「ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン」には怪獣は登場しないものの、巨大ロボットが後半に出てくるのである。だからその意味では、ここには「パシフィック・リム」との共通点があるのは事実だ。そして、まぁそうなってくると、多分に思弁的な要素を持つディックの「高い城の男」の世界からは離れ、現在海外にもファンの沢山いる日本のアニメをはじめとするサブカルチャーの世界に近接するのである。実はその分野は私は苦手で、例えば知り合いの中にガンダム・マニアもいるが、彼の熱中ぶりを見ていると、私はその世界からは遠くに住んでいる人間なのだなぁと実感することがある。言い方を変えれば、この小説で描かれた世界は、文字ではなく映像 (いわゆるヴィジュアルという奴ですな) 先行型であると言え、実際にそのままハリウッドが映画化に乗り出してもよいくらいではないかと思う。と書いてすぐに訂正するのだが、小説ならではのエグい描写も沢山含まれていて、そのあたりはそのまま映画にはできないだろう。だがとにかく、この小説のヴィジュアル性には特筆すべきものがあって、最近年のせいか、読書をしてもなかなかイマジネーションの沸かない私としては、大変読みやすいと思ったものだ。

ストーリー自体はかなりシンプル。戦争に負けたかつてのアメリカ合衆国は、東側をナチス・ドイツに、西側を皇国日本に占領されている (この設定は「高い城の男」と同じ)。そんな中、"USA" なるゲームが流行する。これはなんと危険なことに、戦争で米国が勝って、繁栄を謳歌するという、皇国的にはありえない筋書き。それとともに、ジョージ・ワシントン (GW) 団と名乗る組織が、皇国日本に反逆する活動を行う。主人公の石村紅功 (べにこ) は、特高に属する筋金入りの皇国主義者、槻野昭子とともにある人物を抹殺しようとするが、敵味方入り乱れて、波乱万丈の成り行きの中に身を投じることとなるのだ。ちなみに物語は主人公の両親が戦後をどのように過ごしたかという 1948年の情景に始まる。そこでは主人公の両親は、生まれてくる子供が女の子と信じて、「べにこ」という女の名前をつけるのであるが、実際に生まれてきたのは男の子。ゆえに、「紅功」なる奇妙な名前の男が出てくるのである。物語は主として 1988年の米国西海岸を舞台としているが、回想シーンでは、その 10年前、1978年のサンディエゴ (カリフォルニア州に実在) での悲惨な出来事が重要な意味を持つ。メインの舞台が 1988年になっている理由はどこにも明記がないが、私の思うところ、インターネットが普及した時代では設定が難しくなるからではないか。ここで描かれる 1988年の世界では、各自が「電卓」(この言葉も、もう死語ですなぁ・・・) を持っており、そこから通信やハッキングができるような設定だ。なるほど、これも気が利いている。つまり、ここでの架空の世界にある種のリアリティを与えているのである。それに、描かれた街の情景には、あの「ブレードランナー」を思わせることもあり、ここでもフィリップ・K・ディック (「ブレードランナー」の原作はディックの小説「アンドロイドは電子羊の夢を見るか?」である) とのつながりを感じさせるのである。さらに感心するのは、様々な設定をばら撒いてヴィジュアルな要素を重視しながらも、小説ならではの衝撃性を組み込んだり、登場人物のキャラクター付けを入念に行っていることであり、この小説が SF 物であろうと何であろうと、人間という存在の強さと弱さをかなり仮借なく描いている点、作者の非凡な手腕を垣間見る思いである。こんな面白い小説を書いたピーター・トライアスは、1979年生まれ、サンフランシスコ在住の韓国系米国人。
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彼は若い頃から、いわゆるサブカルチャーを含む日本の映画やアニメにどっぷりだったようである。昨今クールジャパンは外国人に人気だし、私も仕事の関係で外人のそのような指向を実感している面もあるのだが、それにしても、そのような既存の材料を使って、これだけ面白い小説を書けるのは大したもの。この「ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン」が、初めて日本に紹介される彼の小説とのことだが、今後の活動が楽しみだ。なので、巨大ロボットものにアレルギーのない向きには、この特異な設定の小説を読んでみられるのも一興かと思います。あ、それから、登場人物名の漢字表記をはじめ、随所に翻訳の苦労が偲ばれる。この小説では実際、登場人物が関西弁を喋るようなことすらもあって、英語の原文はどうなっているの??? と不思議になろうというものだ。

上記の通り、この小説の舞台は主として米国西海岸なのであるが、サンディエゴ (LA の南 200km) という街で起こる出来事が、小説において非常に重要な意味を持つ。私はサンディエゴは二度出張で訪れているが、あるとき、お客さんと一緒に少しだけ街を見る機会があった。街の北東部にバルボア・パークという広大な公園があり、そこは今から 100年少し前、1915年に世界博覧会なる大規模な催しが開かれた場所なのであり、いまバルボア・パークに残る多くの建物はそのときのもの。今では博物館や美術館として賑わっている。なのでこの小説でも、作者と同じ西海岸の人たちが読むと、サンディエゴという地名から必ずや一定のイメージを得るものと思う。その施設の一部をご紹介すると、これはなんと、「ミンゲイ・ミュージアム」。そう、柳宗悦らが主張した「民芸」に属する美術作品を展示している。そしてなぜか、ニキ・ド・サンファルの彫刻作品が。
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これは美術館。さすがメキシコに近いだけあって、メキシコバロック風だ。当時は国境に壁を作るという話もなかったであろうし、文化面でのメキシコの影響は大変有意義であったろう。収集品はなかなかのもので、私が敬愛するカルロ・クリベッリの作品もある。
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これはちょっとピンボケだが、どこまでも青い空をバックにした尖塔。確か今は人類博物館になっているはず。
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そしてここで遭遇する驚きは、日本庭園だ。もちろん、なんちゃって日本庭園なのだが、もしかするとピーター・トライアスは、こんな風景を見て、戦争に勝った日本が米国を統治しているというストーリーを思いついたのではないか。もちろん確証はないが、そういうこともあったのでは、と夢想することは楽しい。
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そんなわけで、この奇想天外の物語は、人種のるつぼである米国のあり方に対するヒントにもなるかもしれず、ただ単なる荒唐無稽のフィクションとして割り切ってしまうのは惜しい。右傾化が進むこの時代であるからこそ、このような小説の需要が増大するのかもしれない。

by yokohama7474 | 2017-05-25 00:36 | 書物 | Comments(0)  

フィリップ・K・ディック著 : 高い城の男 (原題 : The Man in the High Castle)

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フィリップ・K・ディック (1928 - 1982) は言うまでもなく、SF 界で圧倒的にカルトな人気を誇る作家である。私の知人でも何人かはいわゆる SF マニアという人たちがいて、あらゆる SF 物を渉猟している (いた?)。もちろん私などはその足元にも及ばないのであるが、そんな私ですら、ディックの作品は特別な意味を持っていて、名作映画「ブレードランナー」の原作として知られる「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を含めた数冊のディック作品を読んで、驚愕してきた口である。そんな私が大変久しぶりにディック作品を読みたいと思ったにはわけがある。そのわけは、追ってまたこのブログの記事でご紹介するとして、この「高い城の男」について語ろうではないか。これがディックの肖像写真。
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この「高い城の男」は、ディックの作品の中では初期のものである。この作品が1963年にヒューゴー賞という栄えある賞を受賞したことで、彼の名は一躍知れ渡ったらしい。ときにディックは既に 37歳。彼の充実した創作活動は、その後に彼に残された 20年弱の間に主になされたものだということだ。それにしても、1963年ということは、ケネディ暗殺の年。未だヴェトナム戦争は継続中であり、東西冷戦真っ盛りである。そんなときにディックの書いたこの作品の想定は極めてユニーク。それは、第二次世界大戦で連合国ではなく枢軸国、つまり、ドイツ・日本・イタリアが勝利した世界を舞台にしているのである。つまり、当時ガッチリ世界を支配していた現実の戦後秩序から全く離れた世界を、この作家は夢想していたことになる。これは今我々が考えるより数倍も難しいことであり、超弩級の想像力がないとできないことであったろう。それゆえこの作品は、未だに異色を放っているのである。 

と言いながらこの作品、決して読みながら手に汗握るサスペンスがあるわけではない。あえて言ってしまえば、登場人物が多い割には展開が遅い、それゆえにストーリーを追いにくい作品だと言ってもよいであろう。敗戦によって 3つの地域に分割された米国。西海岸は「戦勝国」日本の傀儡である「アメリカ太平洋岸連邦」、東海岸はドイツの傀儡である「アメリカ合衆国」、その間は緩衝地帯である「ロッキー山脈連邦」。ちょっと小さくて見にくいが、以下の地図が本作において想定された世界の勢力地図。赤はドイツの権力が及ぶ地域、緑は日本のテリトリー、水色はカナダなのである。
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上述の通り、この本を読んでいても、人間関係がもうひとつよく分からない点には結構忍耐を強いられる。しかも、何か大事件が起こるわけではなく、強いて言えば危険書物 (つまり、第二次大戦でもし連合国が勝っていたら、という「想定」に基づく物語) の作者、彼がつまり高い城の男なのであるが、その彼に暗殺の危機が迫るということくらいである。だがそれとても、突き進んで行くストーリーではなく、大変に錯綜した登場人物たちの思惑が徐々に収斂して行くというタイプのものであり、しかも、結局はなんらのサスペンスも起こらないのである。それから、登場人物たちの何人かが易経に凝っているという設定であり、それに関する様々な細かい描写があって、西洋人が読むと東洋の神秘というイメージで流すことができるのかもしれないが、私としては正直、その点もかなり冗長だと感じる結果となってしまった。だが、あえて言ってしまえば、当時文字通り世界をリードしていた偉大なる米国の作家が、その米国がもし先の戦争に敗れて、現実世界におけるドイツさながらの分断国家になっていたらどうなるかという空想を抱き、このようなリアリティを持って世界を描いたこと自体が、現実を遥か超えて行く未知の領域であったことだろう。読みながら情景を心に思い浮かべると、当時の観点で夢想した未来、決してバラ色ではなく、空には黒い雲がかかった未来に思いを馳せることができる。その意味でこれはやはり、歴史的な書物なのであろう。興味深いのは、この中で、同じ「戦勝国」でも、ドイツは独裁国家で暴力的な国、日本はドイツと微妙な距離を保つ慇懃無礼な国、そしてイタリアは、要するに弱小でドイツの尻に敷かれているという設定。なんだか分かる気がするではないか (笑)。

さてこの「高い城の男」、最近米国でテレビドラマ化され、日本でも配信されたようだ。私はそれを見ていないが、なんと製作総指揮があの (そう、あの「ブレードランナー」の) リドリー・スコット。このような分かりやすい映像が使われていたようだ。
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長らく世界の秩序は、先の大戦で勝利したか敗北したかによって決定づけられてきた。だが、そろそろそのような「分かりやすい」時代は終わろうとしているのではないだろうか。ある意味で、このディックの「高い城の男」のような世界なら、まだ分かりやすかったであろうが、今や世界の秩序はどんどん分断化され、見えにくくなっている。これが半世紀以上前に書かれた歴史的書物であればこそ、我々は真摯にその設定に向き合うことができる。さて、今から半世紀後、世界の秩序はどうなっていて、この書物はどのように読まれることであろうか。もし未来の人がこの記事を読んで、未だインターネットというものが存在していれば、是非コメントをお願いします!! (笑)

by yokohama7474 | 2017-04-28 00:05 | 書物 | Comments(0)