川沿いのラプソディ


川沿いの住まいから、音楽、美術、映画その他文化一般を語りつくします。
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カテゴリ:映画( 238 )

検察側の罪人 (原田眞人監督)

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奇妙な題名である。悪、それも時には巨悪に立ち向かい、正義を実現すべき検察の人間に、罪人? 予告編から察するにこの映画の内容は、木村拓哉と二宮和也が先輩後輩の検事であり、凶悪犯の自白を採ろうとしながらも、二人の間に考えの相違があって対立が起こるというもの。容疑者は一見して異常な人物でありながら、そこには冤罪の匂いも漂っている。なかなかに社会派の内容である。見終わってみると、なるほど大変に重い内容の映画であることは間違いない。だが、最初に私の言いたいことを言ってしまうと、(原作は読んでいないのでそちらは知らず、映画に限って話だが) この作品のラストはどうにも頂けない。以前「三度目の殺人」に関しても似たようなことを書いたが、文化に携わり、社会に対して発信をしようとするクリエーターなら、自身で劇中の白黒をつけるべし、というのが私の持論である。よく、「結論は見た人が考えればよい」という言い方があるが、それは往々にして作り手側の言い訳になってしまいかねない発想である。この映画の登場人物の中で、誰が正しくて誰が間違っているのか、もちろんそんなことは簡単に結論が出る話ではないが、それでも、その判断を観客に提示するのでなければ、本当に訴える力を持った作品にはならないだろう。はっきり提示せずとも、ほのめかすだけでもよい。だがこの映画のラストにはそれすら見られない。この点が評価の分かれ目になるものと思う。
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もちろん、プロのやっていることだから、作り手には作り手の決意があるだろう。それを否定するつもりはないのだが、それでもやはり私は、この映画におけるあれこれの意欲的な試みが、肝心のラストで強いメッセージに結実するのを見たかったと思うのである。今「意欲的な試み」と書いたが、上のチラシの宣伝文句にもある通り、これは「一線を越える」話。率直に言えば、そこにはリアリティはない。現実世界において検察の不祥事は、過去に結構発生しているが、さすがにこの映画で描かれているような事態は、起こる可能性はゼロだろう。そうであるからこそ、意欲的に映画ならではの嘘を織り上げて行くべきだし、そうして嘘を織り上げたなら、作り手による結論を提示しないといけないのではないだろうか。それがなければ、ただ荒唐無稽なお話に対して、「さぁ、あなたはどう判断しますか」という質問がなされ、「いやいや、そんなの答えられないし、関係ないよ」という回答になってしまうのだ (笑)。つまり、ここでの「検察側の罪人」は、自ら描いたシナリオを信じて一線を越えてしまうのだが、そのシナリオは客観的に見てリスクのあるもの。思わぬ要素によってシナリオが変わってしまいかねないものなのだ。実際ここではそのような思わぬことが起こるのだが、その検察側の罪人はさすがの知恵者で、いくつかのリスクは瀬戸際で見事に回避してしまう。だが、そのリスク回避行動が行き詰ってこそ、その罪人の人間性を描くことができる。だからやはり、「一線を越えた」リスクは顕現化し、罪人に報いを与えるべきなのだと思う。

もうひとつ私の違和感を述べておくと、インパール作戦という歴史的な出来事を、ストーリーの背後に流れる要因と位置付けていることだ。これもいかにも唐突でリアリティがないし、ストーリーを徒に複雑にしているだけだ。この映画のセリフの端々に、現代の日本という国に対する絶望が垣間見えるが、もしかするとインパール作戦が、今に変わらぬ日本のダメさの象徴であるという意味なのかもしれない。だが私に言わせれば、インパール作戦の何たるかを知らない人たちにとっては、残念ながらこの設定は何らの意味も持たない。ただ唯一、この設定が映画に貢献した点があるとすると、それによってこの人、松重豊の登場場面が多かったことくらいではないか (笑)。相変わらずいい味出している。
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この映画においては、この松重以外にも、かなりインパクトの大きな俳優が何人も出演しているが、インパクトという意味では、この人、松倉役を演じた酒向芳 (さこう よし) がなんと言ってもダントツだろう。
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彼が本当に劇中で殺人を犯したのか否かはともかく、その言動の異常ぶりには、演技とはいえ、かなり胸が悪くなること請け合いだ。この役者さんは、長らく舞台で演技をして来た人らしい。このような役を映画で演じると、同じような役の依頼しか来なくなるかもしれず、それはそれでなかなかに厄介なことであろう。ま、私が心配することではないのだが (笑)。主役の二人だが、まず木村は、以前の記事でも書いたことがある通り、以前からもっと本格的な俳優業を行うべきであったと思う。今回の演技は、悪いとは思わないし、彼流のクールな演技が決まっているところもあるが、さらに内面の葛藤がじわりと出て来るような表情が欲しかったと思う。その点二宮は、より本格的な映画俳優としてのキャリアを持つだけあって、そのストレートな演技には共感が持てる。童顔であり、決して器用な役者ではないと思うのだが、予告編でも一部流れていた、松倉の取り調べでキレるあたりは迫真の出来。これからまだ伸びる俳優であろう。
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この二人のチームに所属しているのか否か分からない事務員を演じる吉高由里子は、のらりくらりしながらもいざという時には行動力を見せる役柄で、彼女らしい、つかみどころのない演技が興味深かった。このように前髪を垂らし、内向的に見えながら、「冤罪ってこんなところから始まって行くんじゃないんですか」などと呟いて独自の正義感を見せる女性は、現実にはあまりいないと思いつつも (笑)。
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繰り返しだが、この映画の題材は極めて重い。そのような重いテーマに取り組んだことについては、脚本・監督の原田眞人を大いに評価したい。それだけではなく、面白いシーンも沢山ある。例えば、「罪人」が本当に罪を犯す深夜の別荘地のシーンはかなり衝撃的であり、先行きが読めない。それから、結構ユーモラスな小ネタも多く入っている点も、好感が持てる。それらの要素を面白く見ることができるゆえに、やはりラストが残念な気がしてならない。映画の嘘が嘘として機能し、人々を不愉快にさせるのではなく、悲劇の中にも希望を抱かせる、そんな映画に、私はより心を引かれるのである。

by yokohama7474 | 2018-10-06 00:42 | 映画 | Comments(0)

オーシャンズ 8 (ゲイリー・ロス監督 / 原題 : Ocean's Eight)

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「オーシャンズ」シリーズは誰もが知る痛快な犯罪映画で、2001年の 11 に始まり (もっともそれは 1960年の映画のリメイクであったようだが)、12、13 と来たところで 10年以上の歳月を経てしまった。いずれもスティーヴン・ソダーバーグが監督し、主演のジョージ・クルーニーをはじめとして豪華キャストが顔を揃えたこの 3作は、私はいずれも劇場で見て大変楽しんだ。今でも 1作目の大詰め、ラスヴェガスの噴水をバックにドビュッシーの「月の光」が流れるシーンは、鮮明に覚えている。だが正直なところ、いくつかのシーンの個々の印象はともかく、3作のストーリーの詳細までは覚えていない。だからこの「オーシャンズ 8」の予告編を見たとき、ジョージ・クルーニー演じるダニー・オーシャンの妹デビー・オーシャン役のサンドラ・ブロックが、兄の死を語るシーンに、少し違和感を覚えたものだ。どうやらこの映画、そのダニー・オーシャンの死後、その妹が率いる 8人の盗人仲間による宝石略奪を描いた映画であるらしい。ソダーバーグは今回は製作に回り、脚本・監督を務めるのはゲイリー・ロス。人気作「ハンガー・ゲーム」でも脚本・監督を務めた 61歳。
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さて今回、この監督の起用がよかったのか否かはにわかに判断がつかないが、それはひとえに、演出の良し悪しを考えさせないくらい、女優たちが素晴らしいからである。もちろん、まずはこの 2人。
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サンドラ・ブロック 54歳。ケイト・ブランシェット 49歳。この 2人がこれまで歩んできたキャリアはかなり異なると思うのだが、ここでのコンビは大変にいい味出していることは明らかだ。サンドラ・ブロックの場合、30歳のときに「スピード」で大ブレイクしたが、その後の活躍は正直なところそれほど派手ではなく、近年の作品としては「ゼロ・グラビティ」くらいしか思い当たらないが、それから既に 5年が経過している。だがこの映画では実に楽しそうに泥棒の役を演じていて、あえて言えば彼女の演技が映画全体に流れを作り出しているようにすら思われる。一方のケイト・ブランシェットは、エリザベス 1世を演じるかと思えば「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズに出演し、また、ウディ・アレン作品の主役までこなしてしまうという器用さを持っており、今年のカンヌ映画祭では審査委員長まで務めるという多才ぶり。だが正直なところ私はこれまで、演技者としての彼女を高く評価しても、彼女の顔を見て美しいと思ったことはあまりなかったが、この作品における彼女は、実にカッコよいとともに、惚れ惚れするほど美しい。だからまずこの作品は、この 2人の女優の新境地を開く作品であると思われるのである。そしてそこに、いつもの濃い役柄からは少しはまともな役 (かな?) を演じるヘレナ・ボナム=カーター。そして、天然なのかしたたかなのか掴みにくい女優役を演じる、アン・ハサウェイ。
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それ以外にも、白・黒・黄色・インド系の女優たちがそれぞれに持ち味を発揮している。この女優たちの実生活での本職は、ラッパーありミュージシャン兼モデルあり、はたまた脚本家ありで、まさに百花繚乱。
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ひところのハリウッドは、いい男の若手俳優が続々と輩出するのに比べ、女優の方はなかなかそうはいかないという状況が続いていたと思う。しかるにこの映画を見ると、なるほどいい女優も沢山いるではないかと思うこと必定で、時代は移り変わっているのだなという思いを新たにする。但し、その多くは若手女優ではなく、充分な経験のある人たち。これがこの映画の最大の特色であると思う。つまり、ハリウッドのような成熟した芸能界においては、ただ若いだけでは価値は充分ではなく、それぞれの個性こそが重要で、その個性の醸造には幾分かの年月がかかるということかもしれない。

劇中における彼女たち 8人は、それぞれになんともしたたかで、あるときは傍若無人、あるときは厚顔無恥、またあるときは清水の舞台から飛び降り、あるときには慎重には慎重を期して、それぞれの犯罪人生を突き進むのである。あ、そういえば、題名の通り 8人の女性が主人公なのであるが、ストーリーの途中まで、チームは 7人であることに気づくだろう。その点もなかなか気が利いている。もちろん大がかりな泥棒ストーリーであるから、ハラハラドキドキには事欠かず、「あれ? ここはなんでこんな無駄をするんだろう。こうすればもっと安全で手っ取り早いじゃないの」と思うシーンがあっても、必ずそこには意味がある。そのように思い返してみると、なかなかによく練られた脚本ではあると思う。それから、かつての「オーシャンズ」シリーズに登場したユニークなキャラクターも久しぶりに登場して、それもまた楽しい。メトロポリタン美術館で実際にロケしているとおぼしいパーティのシーンでは、マリア・シャラポワやセリーナ・ウィリアムズ、ケイティ・ホームズらがカメオ出演と、花を添えている。ただ、唯一残念なのは、ここでのメインストーリーである超豪華ネックレスの強奪作戦に関しては、うーん、ちょっと無理があるような気がするのである。いやもちろん、「こんなことありっこないよね」という声に対応するために、ある人物のキャラクターに工夫をしてある、つまり、確信犯で盗みに協力するという設定になっていることは分かる。だが、これだけ大掛かりな盗みにおいて、そのような不確実さに依拠した計画を立てるものであろうか。途中からなんとなくその流れが読めてしまうこともあって、そのあたりの設定には少し保留をつけたくなるのである。カルティエ秘蔵のネックレスは、劇中では時価 US$ 150百万。
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だが、そのようなストーリー上の若干の課題があってもなお、やはりここでの女優たちの活き活きとした演技を見る価値はあると思う。考えてみれば、主人公たちが軒並み女性という映画は、それほど多くないはず。この映画は文字通り、女優で見る映画であると言えそうである。あ、そうそう。実はこの映画にはもう一人、注目の女優が出演していた。私も見終わってからプログラムを見て気づいたのだが、劇中でアン・ハサウェイ演じるダフネ・クルーガーのライヴァルであるペネロピー・スターンを演じる女優は、よく知られている人なのである。劇中の写真が見当たらないので、この女優がこの映画の撮影現場に現れたというニュースの画像を拝借しよう。
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実はこれ、ダコタ・ファニングである。かつて天才子役として知られた彼女は、今でも 24歳と充分若い。だが、大変残念なことに、この映画を見る限りは、女優としての魅力満載という印象でもない。彼女の妹エル・ファニングの活躍ぶりはこのブログでも散々絶賛して来ているが、4つ年上の姉は、明らかに妹の後塵を拝している。だが、まだまだ将来のある身。またその演技が変わってくることで、存在感を取り戻す日が来るかもしれない。そうなれば、8人の盗人たちの仲間入りもできるだろう。それを期待したい。

さて、ここでまた私の根拠のない憶測を披露させてもらおう。「オーシャンズ」シリーズは 11、12、13 と来て、今回は 8 ということであるから、これは当然、間を埋める 9、10 もこれから制作される算段であると見るのが、妥当ではないだろうか。そして、本作では既に死んでいる (死亡年は 2018年、つまり今年である) という設定のダニー・オーシャンが実は生きていて、次あたりヒョコヒョコ登場するのではないだろうか。本作のラストでサンドラ・ブロックが兄の墓の前で、今回の盗みの首尾について「見せたかったよ」と呟くのであるが、次の作品ではこの人が物陰から出て来て、「見たよ」と返事をすると・・・。ま、繰り返しだが全く根拠はなく、私の妄想なのですがね (笑)。あっ、でもそれ、「ゼロ・グラビティ」ではないか!!
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by yokohama7474 | 2018-10-02 00:13 | 映画 | Comments(0)

ミッション : インポッシブル / フォールアウト (クリストファー・マッカリー監督 / 原題 : Mission : Impossible - Fallout)

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前作の「ローグ・ネイション」から 3年。「ミッション・インポッシブル」シリーズの最新作 (第 6作) である。この映画の撮影中にトム・クルーズがジャンプの際に建物に激突して足首を骨折したというニュースが報道されていて、どうなることかと思いきや、意外なほど早く映画は完成し、公開の運びとなった。それ以外にも、この映画のために彼はヘリコプターの操縦を学んだと聞いたが、その知識を持って予告編の映像を見ると、この男はいつか映画の撮影で本当に命を落とすことになるのではないか、と本気で心配になるほどだ・・・まぁ、今に始まったことではないが。プログラムの記載によると、足首の怪我は全治 9ヶ月と言われたものの、理学療法や集中的なトレーニングによって、6週間後 (!!) には撮影を再開したとのこと。実は全力でダッシュするシーンでも、未だ足は骨折状態であったというから驚く。それ以外にも、高度 7620mを時速 250kmで飛ぶ飛行機から実際に飛び降りたり (しかもその間にトラブルが発生して対処する)、峡谷を飛んでいるヘリからぶら下がったロープを登っていったり、パリの街をヘルメットなしでオートバイで高速逆走したり、大詰めではカーチェイスならぬヘリ・チェイスを行ったり、それはもう、インポッッッシブルなミッションの数々にトライしているのである。あぁぁー、危ないっっっ!!!
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もうこれは、誰が止めても本人はやめないだろうし、ましてや私ごときがここでいくら危険だと叫んでみても詮無いことなので (笑)、この話題はこのあたりとしよう。本作の特徴は、シリーズで初めて、前作とストーリーにおける連続性があるということである。実際のところ、ほかのシリーズ物でもそうだが、忙しい現代人の場合、3年も前の前作の内容を覚えていることはなかなかに難しく、前作との連続性にどれほど意味があるのか分からない。だが、常連のサイモン・ペッグや、前作の印象的な活躍以降、いくつも出演作を見るようになってきたレベッカ・ファーガソンの顔を見ると、少しほっとする。あ、それから、アレック・ボールドウィン。
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さすが人気シリーズ最新作。これだけでもかなり豪華な布陣だが、それ以外の役者にも注目するべきで、特に今回シリーズ初登場の謎のキャラクターがまたよい。髭を生やしているので最初は分からなかったが、よく見るとこれはヘンリー・カヴィル。現在スーパーマン役を演じている役者である。プログラムに載っている彼のインタビューが面白くて、「これまでの人生で絶対不可能なことに挑戦したことはありますか」との問いに、「この映画を生き延びることだね (笑)。いや、冗談じゃないよ。この映画の撮影中、何度も死ぬと思ったから。もし、そのことをうちの母に相談していたら、うちの母はトムに電話をかけて止めさせようとしていたと思うほどで (笑)」と答えている。ユーモアを交えてはいるが、うーむ、これは本音なのだろう。いかに過酷な現場であったか想像がつこうというものだ。
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これ以外にもさらに濃いキャラクターがあれこれ登場するこの映画、今思い出してみれば、それだけ多くの登場人物を使いながら、かなり要領のよいストーリーテリングで物語を捌いていたと思う。上記で列挙したようなストレートなアクションシーンの数々に加え、複雑に錯綜するロマンスあり、裏切りとトラップによって何度も起こるどんでん返しあり、意外な人物の死あり、追い詰められた場面でのユーモアあり、なかなかに手が込んでいる。これはやはり、本作で監督のみならず、脚本と製作も担当しているクリストファー・マッカリーの手腕に負うところ大であろう。1968年生まれの 50歳。
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因みに彼の過去の関与作品は以下のようなもの。
 2008年 ワルキューレ (脚本 / 製作)
 2012年 アウトロー (監督 / 脚本)
 2014年 オール・ユー・ニード・イズ・キル (脚本)
 2015年 ミッション:インポッシブル / ローグ・ネイション (監督 / 原案 / 脚本)
 2016年 ジャック・リーチャー NEVER GO BACK
 2017年 ザ・マミー / 呪われた砂漠の王女

これは誰でもすぐ分かる通り、すべてトム・クルーズ主演の映画である。特に、本作の全編である「ミッション : インポッシブル / ローグ・ネイション」からの継続性が注目される。なるほど、これはかなり厚い信頼関係が既に出来上がっているということだろう。そうなると今後も期待なのであるが、既に 56歳のトム・クルーズが一体あと何年、この過激なアクションを続けるのであるか、世界は固唾を飲んで見守ることになるだろう。いやだから、あ・ぶ・ないって!!!
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題名の「フォールアウト」の意味は、私も知らなかったが、放射された核物質が拡散して地上に降下することを指すらしい。この映画では核兵器を使って大規模テロを起こそうとするテロリストと、それを防ごうとする主人公たちの対決が描かれているが、昔と違って東西冷戦というはっきりした世界の勢力地図がなくなってしまった現代では、どこかの国の政府ではなく、テロリスト集団が核兵器を使用する恐れは、以前から指摘されている。そもそもスパイ物の「ミッション・インポッシブル」は、その物語の前提であった東西冷戦時代から既に遠く離れて、現代のリアルなテロの恐怖を題材にしているわけである。これが映画の中の話で留まってくれることを、切に願わずにはいられない。まぁもちろん、これだけ凝ったストーリー構成と、トム・クルーズの極限的に危険な演技を見るだけで、現実世界から逃避することができるので、その世界に浸ればよいのいかもしれない。そう割り切って、また次のインポッッッシブルなミッションを待ちたいと思う。

by yokohama7474 | 2018-09-13 01:14 | 映画 | Comments(0)

カメラを止めるな! (上田慎一郎監督)

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世の中には、ちょっと普通ではなかなかあり得ない出来事が、時折起こるものである。もちろん個人レヴェルでは、ちょっとした偶然や、ラッキーなことアンラッキーなこと、様々な出来事を繰り返すのが人の生活の常とも言えようが、映画に関してはどうだろう。製作費 300万円、最初は東京でのたった 2館での上映で始まった映画が、2ヶ月後には全国 120館以上での公開に至ったような極端な大ヒットの例が、かつてあるのかどうか。私の場合は、常々このブログで公言している通り、ヒットしているからという理由で映画を見に行くことはない。この映画の場合は、「ゾンビ映画撮影中に本物のゾンビが現れ・・・」という設定を耳にして、これは面白そうだと思って見に行ったのである。ところが、私がこの映画を見たある平日、新宿のメジャーなシネコンでの昼間の上映において、この映画はそのシネコンで最も大きなスクリーンで上映されていて、しかも、ほぼ満員であった。夏休み中の若い人たちが多いとはいえ、これはやはり、かなり特殊なことであると思う。

さて、ネタバレを避けてこの映画について語るのは難しい。なので、まず、世評通り面白かったと訊かれれば、「いや、実に面白かったですよ」と答えよう。そしてその面白さとは、禍々しいホラー映画の逆説的な評価ではなく、人の心を温かくする要素があるがゆえの、この映画を見る多くの人に共通する評価なのだと思うのである。まず、私のように、充分な事前情報なしに映画を見始めた者にとっては、冒頭から始まるゾンビ映画の撮影シーン、その手作り感満載の映像による自主映画 (という言葉がまだあるとして) 風の雰囲気は、ある種の警戒心を起こさせるものである。つまり、ほらほら、こんなことには騙されないぞ!! という思いである。
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だが、これは私のように事前知識なしに見るよりも、むしろあった方がよいと思った点として挙げたいのは、この映画の冒頭 37分間は、なんと、切れ目なしのワンカットで構成されているのである。これだけでも、この映画を見る価値はあると言えるだろう。しかも、冒頭の廃棄された工場のような場所から、カメラは何度も屋外に飛び出し、車には乗るわ (発車はしないが)、小屋には入るわ、最後には屋上にまで登って行くのである。これを可能にするための関係者の事前の打ち合わせやリハーサルは、相当に大変であったことだろう。そして、狂気にとらわれたかのような監督が、なんとも不気味。これはカメラに向かって、題名通り「カメラを止めるな!」と指示する監督。
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そして恐ろしい惨劇はこのようなクライマックスへ。恋人がゾンビと化した、このうら若き女性の運命やいかに!!
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そして、その 37分が終わったところで、エンドタイトルが出る。「え? もう終わり? 早くない?」と思う人も多いだろうが、上に掲げたチラシの宣伝文句にある通り、「最後まで席を立つな。この映画は二度はじまる」ということになる。正直なところ私は、このコピー自体はあまり上出来なものとは思わないものの、実際に映画を見てみて、なるほどそれはそうなのだなと納得した。実は、いかにも低予算というイメージの冒頭のゾンビ物のあとに、ちゃんとした映画としての体裁を備えた映像によって、本当の物語が語られて行く。この二重構造こそが、この映画のアイデアの胆なのである。「第二部」では、少し説明調すぎると言ってもよいほどの語り口で、過去の経緯が明らかになる。その結果、この禍々しい 37分のゾンビ映画が、ある種の人間の営みというか、様々な制約やトラブルにめげることなく、創意工夫と一致団結によって難局を切り抜けるという行為のひとつの例であると理解される。会場は、いくつかのシーンではクスクス笑い、あるいはほぼ爆笑に包まれ、大スクリーンを見ている観客たちの心の中に、何かほのぼのとしたものが沸きあがってくるのを感じる。そして、見ず知らずの人たちの集合の中に、いつのまにか仲間意識すら生まれているのを感じるのである。そんな経験のできる映画は、そうそうないと思う。だから、もしこの映画をゾンビ物として敬遠している人がいるとしたら、心配ないから見に行くとよいですよ、と声をかけたい。ほら、映画を離れれば、このゾンビ物の出演者たちは、こんなに仲がよいのである。
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繰り返しだが、人生はトラブルの連続。いかに普段偉そうなことを言っている人も、予測不可能な事態に直面すると慌てふためいたり、逆に、いつもチャランポランだと思っていた人が、非常時には思わぬ現場対応能力を発揮するということもある。この映画から学ぶべきは、ある人間のぶざまな生き方であったり、またほかの人間の意外な信頼度であったり、そのような要素こそが、我々の生活を豊かに彩っている、ということだろう。うーん、見ていない人には全く何のことやら分からないだろうが (笑)、でも私はこの映画を見て、何度も声を上げて笑ったし、見終わったあとには爽快な気分になったものだ。ほら、いかにも爽やかでしょう?
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この映画の紹介においては、低予算もさることながら、監督も無名なら、出演俳優も全員無名ということが取り沙汰されているが、それは全くその通り。役者さんたちの多くは舞台経験者であり、演技力のある人でも、一般に広く知られているということはない。だが私は、それがこの映画の成功の秘密のひとつであろうと思うのである。脚本・監督に編集まで手掛けている上田慎一郎は 1984年生まれで、自主映画の分野で多くの実績を挙げた人らしい。だが、長編映画としてはこれがデビュー作。彼自身が鑑賞したとある演劇がヒントになっているらしく、この映画がヒットしてしまったばっかりに、盗作騒ぎにまで発展しているという報道も見たことがある。真偽のほどは分からないが、少なくとも、これは映画として本当によくできているとは言えるだろう。この映画は、日本での大ヒットのみならず、海外の多くの映画祭でも賞を受けている。大変喜ばしいことだが、そのことが今後の彼の映画作りにおいて、余計なプレッシャーにならないことを祈るばかりだ。
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あ、そうそう。役者さんたちの中で、最も強烈な印象を受けた人を紹介しておきたい。この写真の右端の女性。竹原芳子という 1960年生まれの女優だが、役者として活動を始めたのは数年前である模様。うーん、この強烈な関西弁には、何か尋常ならざるものがある。きっとゾンビも彼女にはたじたじではないか (笑)。
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さて、私のこの映画についての感想はこのくらいにして、最後に「川沿いのラプソディ」流、突飛な連想による 2つの映画をご紹介しておこう。もしかすると最近の若い世代は、これらの名作を知らないかもしれないので。まず最初は、映画史上初の (その後ほかの例があるのか否か知らないが)、全編ワンカット、つまりシーンとシーンの間につなぎのない、極めてユニークな作品。この「カメラを止めるな!」でのワンカットは 37分であるが、この作品はその倍の 80分。ヒッチコック監督の「ロープ」(1948年制作) である。ただ、当時のフィルムでは 80分連続の撮影はできないので、カメラの移動の途中で、例えば人の背中などの大写しの場面で、何度かカットをつないでいる。私はこの「カメラを止めるな!」のゾンビ映画の部分を見ているときに、「ロープ」を思い出し、そのようなつなぎはないものかと注意して見たが、見当たらなかった。そのことで改めて、現場での苦労が偲ばれるのである。ヒッチコックもきっと、この作品を見たら喜ぶのではないだろうか。これは「ロープ」の公開時のポスター。今では市販ディスクで簡単に見ることができる。
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もうひとつは、このブログでは何度もその名前に言及してきている稀代の映画監督、ロシア人の故・アンドレイ・タルコフスキーに関連する映画。彼の晩年 (といっても享年 54歳だが) の 2つの大傑作、「ノスタルジア」と「サクリファイス」のメイキング物である。特に前者 (私にとってはこれまでに見たすべての映画におけるベスト 5に常に入る映画) における超絶的に美しいシーンに、廃墟の聖堂に降り注ぐ雪というものがあるのだが、このメイキング物 (題名は「タルコフスキー・in・『ノスタルジア』) においては、そのシーンがどのように撮影されたかが、克明に記録されている。あの超絶的シーンが、このように人間的な雰囲気で撮影されたとは知らなかった。文化に興味を持つ人は「ノスタルジア」が必見の映画であることは論を俟たないが、そのメイキングを併せて見ることで、オリジナルの映画の見方が変わるほどのインパクトがあるのである。そしてその感覚は、この「カメラを止めるな!」を見たときの感想と似通っている。この主張を分かってくれる人は少ないかもしれないが、分かる人には分かる感覚であると信じる。これが、「ノスタルジア」と「サクリファイス」のメイキング物を特集上映したときのプログラム。残念ながら、本編はともかく、メイキング物の全編を見ることは今では容易ではないようだ (YouTube で一部を見ることができるという情報も目にしたが、未確認)。
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改めて、「カメラを止めるな!」について語って、話がタルコフスキーに及ぶ人はさほど多くないとは思うが (笑)、でもその突飛な連想こそが、日々を新鮮な気持ちで生きるためには必要なのだと思う。そんなことを感じさせてくれるこの映画、やはり大変によくできていると思うのである。

by yokohama7474 | 2018-08-30 00:10 | 映画 | Comments(0)

スターリンの葬送狂騒曲 (アーマンド・イアヌッチ監督 / 原題 : The Death of Stalin)

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またしても、邦題への違和感から始めよう。本作の原題はずばり、「スターリンの死」。どこにも「葬送狂騒曲」という表示はない。そもそもこの「葬送狂騒曲」という言葉は一般的なものではなく、この映画のために作られたものだろう。「葬送行進曲」と、何やら慌ただしい雰囲気の、これも造語である「協奏曲」ならぬ「狂騒曲」をかけているのだろう。正直なところ、これってなにか子供だましな感じがしないだろうか。ほかの例でも様々に見てきたが、洋画の邦題に奇妙な (というか、私に言わせると余計な) 説明的言辞が多いのは一体なぜだろうか。これはいつか真面目に考えてみるべき問題であるように思う。これが実際のスターリンの肖像写真。歴史上は悪魔のような独裁者という評価がほとんどである一方で、ロシアの中では、今日でも強力な指導者として敬意を払う人も結構いるのだと聞く。
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この映画は日本全国爆発的大ヒットというわけではないようなので、ご存じない方も多いかと思うが、要するに 1953年、ソ連の独裁者スターリンが死去した直後の権力者たちの後継者争いをブラックに描いたもの。常識的なイメージでは、スターリンの死後はフルシチョフが政権の座につき、スターリン批判を行って、東西冷戦の雪解けにつながったという評価が一般的であると思うが、物事はそう簡単に運んだわけでないことが、この映画を見るとよく分かる。上に「ブラック」と書いたが、いやそれはもう、こんなにブラックな映画もちょっとないと思われるほどの強烈さであるが、個々の人物の細かい発言内容はともかく、ここで描かれているストーリーはすべて事実に基づくものであることに、背筋が寒くなるものを感じる。スターリンは死の前夜、側近たち、つまりは件のフルシチョフ、スターリンの補佐役マレンコフ、KGB の前身である公安部隊 (「粛清」の実働部隊) のヘッドであったベリヤの 3人を中心とする高官たちと晩餐をともにする。翌朝スターリンは部屋で一人でいるときに脳梗塞で倒れるが、寝室には誰も入ることを許されていなかったため、発見が遅れてしまう。その後、上を下への大騒ぎの中で一度意識を取り戻すものの、言葉を発することなく死去。そして、上記 3人や大臣たち、軍の最高司令官などが、なんとも醜悪な権力闘争に入って行くという物語。晩餐で上機嫌だった最高権力者は、翌朝には、失禁して床に倒れた状態で発見されるのだ。ああ無情。
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もちろんどんな時代のどんな国であっても、強大な権力を持った指導者がこの世を去ると、醜い後継者争いが起こるのは人の常である。日本でも例えば、織田信長亡きあと、秀吉が次のリーダーとして地歩を固めて行く際の清洲会議などには同様の趣きがあり、三谷幸喜監督による映画「清須会議」では、人間心理の機微が面白おかしく描かれていた。ところがこのスターリンの場合には、まあ確かに笑ってしまう要素は多々あるものの、その内容がブラックであればあるほど、無邪気に腹を抱えて心底笑う気にはなれない。もちろん、「清須会議」が既に 400年以上前の昔の話であるのに対し、スターリンの死はたかだか 55年前という時間的な事柄も関係していようが、時代性よりもむしろ、人類の歴史が二度の悲惨な大戦争を巻き起こしたあとの、一体世界はどうなるのかという人智を超える問いこそが、人々の恐怖の源泉になったものであると思う。つまり、スターリンとは、ただ悪魔的な個人の施政者であったのではなく、その地位には、世界秩序の一端を担うソヴィエト共産主義のトップとしての重みがあったがゆえに、彼が主導した血も凍るような粛清は、人間存在にとっての根底的な恐怖にすらなっていたということだろう。もちろん音楽ファンにとっては、ショスタコーヴィチの作曲活動がその典型例であるし (実際この映画では、いかにもショスタコーヴィチ風のオリジナル音楽が随所に使われていた)、映画でも、ロシア人アンドレイ・コンチャロフスキー監督の米国映画「映写技師は見ていた」(1991年の作品で、主演はあの「アマデウス」でモーツァルトを演じたトム・ハルス) などでも、恐怖に支配されたスターリン時代の様子が描かれていた。もちろん現代日本において、スターリン時代について今何か考えてみるべき危急の要素があるとは思われず、このような悪魔的な存在については、今後の人類の歴史の中でも度々振り返っていかれるであろうと、私は考えている。その意味では、このブラックな笑いに満ちた仮借ない映画を見に行くことには、それなりに意味がある。なぜならばそれは、どこまでも特定の時期の特定の場所の実話でありながら、人間という存在の危うさを見る者に突きつける映画であるからだ。ネット上で、この映画のセリフがロシア語ではなく英米人俳優による英語であることを採り上げて、リアリティがないという意見を見たが、私の思うところ、言語は全く大した問題ではない。むしろロシア語であったならば、さらに救いのない映画になってしまったことだろう。スターリン時代からは既に時代も移り変わっているはずであるのに、この映画はロシアでは上映禁止となり、その他のヨーロッパ各地や米国、オーストラリアなどでは大ヒットしているという。それだけこの映画の内容は、ロシアの人たちには刺激が強すぎ、ヨーロッパの人たちもそれぞれ過敏に反応する、ということだろう。これは、映画の中のスターリンの遺体と、現実におけるそれ。
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題材のことばかりでなく、純粋に映画としてのトータルな評価も書いてみたいが、正直なところ私には、この監督の手腕がいかほどに優れたものであるのか、映画の内容を思い出してもよく分からない。ここで監督しているのは、1963年スコットランド生まれの、ということは、スターリンの死後 10年を経過してからこの世に生を受けた、アーマンド・イアヌッチという人。
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これまでの彼の作品で、我々にとってなじみのあるものはないが、辛口政治コメディを描く手腕を高く評価されているとのことで、まさにこの作品の監督にはうってつけである。だがプログラムに載っている彼自身のコメントには、以下のようなものがあって、考えさせられる。

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本作を手掛けるにあたって意識したのは、1930年代から 50年代にかけて当時何百万の人々が命を落とし、姿を消したという事実を決してないがしろにしてはいけないということ。避けて通ったり、軽いジョークで簡単に片づけたりできる歴史ではない。映画制作のすべての段階において、このことを念頭に置き、細心の注意を払う必要があった。
UNQUOTE

なるほど、さもありなんである。それゆえ、私の上記のような私の感想も、あながち無責任なものではなく、真摯にこの映画に向き合うほどに、仮借ない人間の姿に唖然としてしまうのである。だがそんな私にとって、この映画における数少ない (?) 救いのひとつは、曲者フルシチョフを演じるのが、あのスティーヴ・ブシェーミであるということだ。その「髪形」も含めて迫真のリアリティを持つ彼のフルシチョフを、本物のフルシチョフの写真と並べてお目にかけよう。ええっと、どっちが俳優でどっちが本物かは、説明の必要はありませんよね (笑)。
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このブシェーミ、私にとってはもちろん、あの偉大なるコーエン兄弟の往年の作品の数々でその演技を楽しませてもらった俳優で、特に「ファーゴ」での「変な顔」の演技が忘れがたい。実年齢では未だ 60歳なので、これからもますます個性的な演技が期待できるだろう。「ファーゴ」は 1996年の作品。
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少し、このブログならではの、音楽とのかかわりについて書いておこう。この映画の冒頭で演奏されているのは、モーツァルトのピアノ協奏曲第 23番。まあそれはそれは美しい曲なのだが、ここでピアノを弾いている若い女性ピアニストは、マリアという名前である。演じる女優オルガ・キュリレンコは 1979年ウクライナ生まれ。「007 慰めの報酬」(2008年) ではボンドガールを演じている。
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この映画では、どうやらスターリンはこのマリアというピアニストをお気に入りであり、それが間接的に彼の死にも関係しているような描き方になっている (現実世界では、側近のベリアのよる毒殺という説が根強いらしいが)。私はこの映画を見たときは何も気にならなかったのだが、帰宅してからふと考えた。ロシアのピアニストで、マリア・・・。むむむ、もしかしてこれは、マリア・ユーディナ (1899 - 1970) のことか??? ちょうど HMV のオンラインショップのページを開くと、これから 1ヶ月ほど後に発売されるこのピアニストのアンソロジー (26枚組) の宣伝を見ることができる。彼女は実際にスターリンのお気に入りのピアニストであったというが、ユダヤ人でありながらロシア正教 (共産党政権下では御法度) への信仰を明らかにし、また、当時の西欧の前衛音楽を擁護したらしい。それから、ショスタコーヴィチとは学生時代からの友人であったとのこと。なるほど、彼女の音楽を聴いてみると、スターリン時代についてさらなるヒントがあるかもしれない。
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このように、ただブラックな描写を笑っているだけではなく、その時代の空気を想像することで、人間という存在の弱さと恐ろしさに思いを馳せることのできる、なかなかに貴重な映画である。決して多くの人たちにお薦めしようとは思わないが、政治と文化、あるいは社会と個々の人間というテーマに少しでも興味のある人は、是非見に行かれるべきと申し上げておこう。

by yokohama7474 | 2018-08-25 23:07 | 映画 | Comments(0)

ジュラシック・ワールド 炎の王国 (J・A・バヨナ監督 / 原題 : Jurassic World ; Fallen Kingdom)

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「ジュラシック・パーク」シリーズの第 5弾で、前作に続く「ジュラシック・ワールド」の 2作目である。夏休みでもあり、これは家族で見に行こうとされる、また、実際にされた方も多いと思う。だが、私が実際に見てみて、余計なことながら心配になったのは、はて、これを家族でご覧になって盛り上がるだろうかということである。簡潔に申し上げれば、これはどう見ても子供向きの映画ではない。いやもちろん、これまでのシリーズにおける恐竜のリアルな表現はますますグレードアップしているとは言えるだろう。恐竜が暴れまわるだけでも迫力はあるわけだから、それで家族全員大盛り上がりとなるならば大変結構なのだが、思い起こせば既に 25年前、1993年の第 1作のワクワク感を思い出すと、話の内容は随分と陰鬱なものになっていると実感する。つまりここでのストーリーは、前作で「ジュラシック・ワールド」として復活した恐竜のいるテーマパークの存在する島で火山が噴火するところから始まるのだが、そもそもこのテーマパークが恐竜の血を吸った蚊の化石から取り出された DNA から始まったことが回帰される。結局、放置しておけば溶岩流に飲み込まれてしまう恐竜たちを救い出して金儲けしようという悪い奴らと、それと戦う良心のある人たちの物語になっている。主役は前作と同じ、クリス・プラットとブライス・ダグラス・ハワード。
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ここでふと思い立って、前作「ジュラシック・ワールド」に関するこのブログの 3年ほど前の記事を読み返してみると、あーあ、なんだか随分けなしていますなぁ (笑)。この女優さんは映画監督のロン・ハワードの娘であるということも、自分の記事で思い出したのだが、まあそうですね。私はあまり裏表のある人間ではないので、つい正直な感想を書いてしまう傾向があると再認識した面は否めない。つまり、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」シリーズでその演技を楽しませてもらっているクリス・プラットの持ち味に比べて、このブライス・ダグラス・ハワードは、結構頑張っているとは思うものの、この作品に強い線を通すほどの貢献はないと、思わざると得ないのである。やはりこのクリス・プラット演じるオーウェン・グレイディの出演シーンとしては、この映画の予告編でも使用されたこのシーン、彼が育てて教育したヴェロキラプトルのブルーとの再会が、なかなかよい。
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スペクタクルという要素では、恐竜たちのいるイスラ・ヌブラル島でのシーンは迫力があるとは言える。
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だが、私の見るところでは、この映画の評価の分かれ目は、舞台がこの島で完結するのではなく、人間たちが欲得感情で動く実社会との直接的な関わりを持たせたことではないだろうか。これによってもはやこの作品はファンタジーであることをやめ、そして私の意見では、家族向けの映画ですらなくなっている。そこで出て来るテーマは、ある種ありきたりで古典的なものである。つまり、欲に駆られた人間は必ずその報いを受けるというものだ。そして、そこにクローンというテーマが還ってくる。そうすると次は生命の意味とか、あるいは、クローンたる恐竜と人間との間に信頼関係が成り立つか、という方向に流れて行く。だが、そこにはさすがに無理はないだろうか。例えば対照的な例として私はこのブログで、最近の「猿の惑星」シリーズが描いている深いテーマへの共感を表明している。だがそれは、そのシリーズに登場する人間の対立項が猿、しかも言葉を喋る猿であるからだ。だが、どう好意的に見ても、恐竜に猿と同等の知性を期待するのは無理である。だから、この流れに従って、もしかすると次回作で、ブルーと人間たちの間に何か交流が生まれるようなことがあるのではないか、という心配に駆られているのである。もっともこの作品においては、人間たちが強敵と戦っているところにブルーが大きな貢献を果たす場面では、なにもブルーが人間を助けようとしたという表現にはなっていないし、人間の側も、「ありがとう、ブルー!!」と言って抱きついたりはしない (笑)。その点は多少の救いではあったとは思う。これがブルー。
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私がこの映画を家族向きでないと評するのは、裏を返せば、大人を対象として作られているということである。それ自体は決して悪いことではないと思う。だがここでのジレンマは、上述の通り、対象が恐竜である以上、猿について紡ぎ出すことができた陰影の濃いストーリーを出すことができないということである。実はこのシリーズは 3作目の制作も既に発表されていて、前作の監督であり、本作で共同脚本と、スピルバーグと並んで製作総指揮を務めているコリン・トレヴォロウという人が、次回作ではまた監督に返り咲くという。その意味では、シリーズには一貫した流れができることになるということだろう。ところで本作の監督は、J・A・バヨナ。スペイン人で、主役 2人と並ぶと大変小柄な、左端の人である。
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この監督の近作は、既にこのブログでもご紹介したことのある、「怪物はささやく」。1年 2ヶ月前に書いたその記事で私は、この監督が「ジュラシック・ワールド」の次回作を監督すると、既に書いている。もちろん、すっかり忘れておりましたよ (笑)。私はその映画もそれほど高くは評価しなかったが、ただ、その「怪物はささやく」にせよこの「ジュラシック・ワールド 炎の王国」にせよ、ヴィジュアル面で印象的なシーンが多々あった点には、監督の手腕も大いに関係していることであろう。彼の作り出すヴィジュアルのひとつの特徴は、アニマトロニクスという手法。これは、巨大クリーチャーを画面上に表すのに、完全に CG を使うのではなく、コンピューター制御した実物大の模型を作って撮影すること。「アニメーション」と「エレクトロニクス」からなる造語だそうだ。これによって役者の演技は、実際に巨大なものを相手にすることで、より自然になるとは言えるだろう。J・A・バヨナが前作「怪物はささやく」で使用した写真を見つけたので、アニマトロニクスとはどんなものであるか、イメージが沸くというものだ。
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ちょっと調べてみると、このアニマトロニクスという手法を得意とした SFX 担当者に、スタン・ウィンストン (1946 - 2008) という人がいるらしく、彼の錚々たるフィルモグラフィーの中に、初期の「遊星からの物体 X」(1982年) や「エイリアン 2」、「ターミネーター」、「バットマン リターンズ」などと並んで、「ジュラシック・パーク」の最初の 3本が含まれているのに気づく。そう言えば、この作品ではシリーズの初期に出演していたジェフ・ゴールドブラムが久しぶりに出ているのが嬉しい。あ、それから、これも大変久しぶりに見たジェラルディン・チャップリン。もちろん偉大なるチャーリー・チャップリンの娘であるが、今年 74歳。実年齢以上に老けたメイクなのであろうか。バヨナ監督とは、前作「怪物はささやく」に続く出演である。
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このように、決して家族向けではない今回の作品、次回作はいよいよ、人間の住む世界における恐竜たちの姿が描かれることになるのだろう。思えばスピルバーグ自身が監督していた頃からは遠く隔たる内容になってきてしまったが、是非新鮮な発想を期待したいものである。なんだったら次は、R15 指定でいかがでしょうかね (笑)。

by yokohama7474 | 2018-08-23 02:48 | 映画 | Comments(2)

Bleach (佐藤信介監督)

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毎度おなじみ、マンガが原作の日本映画である。もう何度このブログで書いたかしれないが、私は最近のマンガには全く疎いので、この種の映画を見るときには、要するに映画としての面白みしか語ることができない。この映画の観客で私のような人間は少数派であるのか、実はそうでないのか分からないが、ともあれ、感想を徒然に綴って行くとしよう。まずこの映画は、劇場で見た予告編でその雰囲気を感じることができ、実際に見てみても、その雰囲気は予想通りと言える。その点だけでもまず、この映画のある種の誠実さを感じると言ってもよいように思う。このように私が書くのはまず、この映画で脚本・監督を務めているのが佐藤信介であるからだ。このブログでは、「アイアムアヒーロー」と、比較的最近でも「いぬやしき」を採り上げたことがある。現在 47歳で、今調べて知ったことには、あの自主映画 (という言葉はまだあるのか知らないが、私も学生時代はその世界の周辺にいた) の登竜門、ぴあフィルムフェスティバルで 1994年に優勝したことで世に出たらしい。
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これは私の勝手な予想であるが、彼はこれからもっともっと面白い作品を撮るのではないだろうか。監督の名前で観客を動員するということは簡単なことではないし、取り上げるジャンルによっても動員数は違って来よう。ともあれ私としては、彼の撮る作品には今後も注目して行きたいと思っているのであるが、では、予告編で明らかだったこの映画のジャンルとは一体何か。それは、巨大な悪魔が現れて、それに立ち向かう謎の女が男に対して「死神になれ」と命じ、実際にそのようになる、という話であり、これはホラーかファンタジーということになろう。私はたまたまその分野の映画を深く愛する人間であるので、監督名と合わせて、これは見るべき映画であると判断したことになる。
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まず、この巨大な悪魔の造形がよい。これは虚 (ホロウ) と呼ばれる存在で、死んだ人間の魂が、現世への強い執着によって闇に墜ちたものだという。そう言われてもあまり納得感がないが (笑)、ともあれ、英語の Hollow はまさに「虚」という意味であり、米国ニューヨーク近郊の地名でも、映画になった "Sleepy Hollow" などというものもある (私はかの地を 2度訪れたことがある)。このホロウのデザインはなかなかよいので、ほかに 2体、この映画に登場するホロウの写真を掲載しよう。上がフィッシュボーン、下の 2体はヘキサポダスとグランドフィッシャー。
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私がこれらのホロウの造形を見て思い出したのは、パプアニューギニアあたりの精霊である。そのような存在を視覚化した人としてすぐに思いつくのは、もちろん水木しげるである。ただこうして見ると、水木の描く精霊よりも悪い奴らであることは一目瞭然。
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ともあれ、こんなに悪くてデカイ奴らを相手にし、巨大な刀を手に「死神代行」としてやっつけるのは、霊感は強いが普通の高校生である黒崎一護 (いちご)。演じるのは福士蒼汰である。既に 25歳なので高校生としては無理があるが、なかなか伸び伸びと演じているとは思う。
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その彼を死神代行に指名する、自身が死神である朽木ルチアを演じるのは、杉咲花。この写真では、左が死神としての姿、右がその能力を失って女子高生に身をやつした姿。このブログでは映画「無限の住人」における彼女の演技を称賛したことがあるが、ちょっとユニークな若手女優である。というのも、その顔には様々な表情が現れて大変印象的ではあるが、かといって絶世の美少女という印象ではなく、その身長も決してモデルのようには高くはない。好感は持てるものの、はて、この見るからに善良なイメージは、この役にふさわしいのかどうか。
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と書いていて思い出したのだが、「無限の住人」にはこの杉咲花だけではなく、福士蒼汰も (役柄は悪役であったが) 出演していた。加えて、その映画で音楽を担当していた Miyavi というアーティスト / 俳優について私は、「この『無限の住人』のキャラクターとして出て来ても遜色ないインパクトではないか」と書いたものだが、実はこの「Bleach」では、その期待通り、かなりのインパクトを持って、強力な死神を演じている。
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その他、江口洋介や長澤まさみも出演していて、なかなかに多彩なキャストである。そのような多彩なキャストが入り乱れるストーリーはしかし、私にはもうひとつひねりが足りないかなぁと思われた。面白くないとは言わないし、ほかの日本映画でも似たりよったりの点はあるとは思うが、ここでの死神たちや悪霊、その他そこに絡むキャラクターたちが体現している時代性に若干疑問がある。つまりは、なぜ 21世紀の日本でこのようなストーリーが紡がれなくてはならないかという切実さに課題があると思うのである。例えば高度成長期に水木しげるがパプアニューギニアで見出した、日本には欠けている何かに代わるメッセージが、ここにはあるだろうか。・・・と書いていて私は思うのだが、そんな理屈すらも感じさせないほど手に汗握る流れがあれば、そんな余計なことも考えなかったのではないだろうか。このシーンの意味やいかに。
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ただ、この映画のアクションシーンは結構見ごたえがある。実はアクションシーンの監督は、スタントマン出身の下村勇二という人で、佐藤監督では、件の「アイアムアヒーロー」「いぬやしき」だけでなく、「GANTZ」シリーズや「図書館戦争」シリーズでもアクションシーンを手掛けているという。役者さんは大変であったろう。
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正直、この映画のことを誉めているのかけなしているのか分からないような内容の記事になっているが (笑)、確信犯的にそのようにしているわけである。その理由は、上記のごとく、この監督の作品に今後も期待しているし、俳優たちの熱演は印象に残る反面、そもそも世界的に見た邦画のレヴェルには、成熟度という点でまだまだ課題があるなぁと思うからである。因みに題名の "Bleach" とは、あの商品名で有名なブリーチ、つまりは漂白剤である。魂の漂白剤は、一体架空の世界にとどまるべきなのか、それとも現実世界の汚れのいくばくかでも、その漂白剤できれいになるものだろうか。この死神の視線には、やはり侮れないものがあるとは感じるのである。
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by yokohama7474 | 2018-08-22 00:43 | 映画 | Comments(0)

パンク侍、斬られて候 (石井岳龍監督)

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町田康原作、宮藤官九郎脚本、石井岳龍監督で、主演が綾野剛。なんと癖の強い人々による映画であろうか。映画の宣伝コピーのひとつは、「宇宙が砕けますよ」というもの。この映画に全くイメージのない人もおられようから、チラシから引用しよう。

QUOTE
町田康によって 2004年に記された小説「パンク侍、斬られて候」は、この世界の縮図であり、そして予言書であった。それはつまり、人間が起こすことができる破壊の臨界点と、人間がかすかに保てる希望の可能性であった。映画「パンク侍、斬られて候」はその恐るべきディストピア小説を可視化する。アニメーションではなく、実写でた。(中略) これは映画という名の劇薬だ。この映画に一千万人が共鳴したら、日本は終わるかもしれない。いや、この上ない幸福が訪れるかもしれない。それは、この劇薬を服するあなたが今、何を感じて生きているかによるだろう。
UNQUOTE
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なんとも大げさな物言いであるが、まあ確かに、このように仰々しく言いたくなる気持ちも分かる。ストーリーのひねくり回し方だけでなく、セリフや語りも、衣装や美術も、かなりパンク。そして出演している役者たちがまたすごい。豊川悦司、東出昌大、染谷将太、國村準、浅野忠信、北川景子、永瀬正敏など。これは只事ではない。ただ、既にこの映画は都内の 1軒の劇場で 1日に 1回上映されているだけなので、大ヒットした様子はなく、「一千万人が共鳴する」事態には、幸か不幸か達していないようだ。少なくともこの映画、万人が面白いと思うタイプでは全くなく、そもそもこれを見に行きたいと思うかどうかで、既に観客にふるいがかけられる。そして実際に見に行った人も、文句なしに面白いと諸手を挙げて喜ぶ人が、さてどのくらいいるだろうか。私個人の感想としては、この映画の意気込みは買うものの、その出来栄えには、少しクエスチョンマークなのである。

町田康もクドカンもよいのだが、やはり私の第一の興味は監督であった。石田岳龍。私などの世代では、石井聰互 (本当はこの「互」という字は旧字体? のようだが) という名前で親しみがある。「狂い咲きサンダーロード」「逆噴射家族」などで、若い頃からまさにパンクなイメージをもった人だが、2010年にこの岳龍に改名したらしい。現在 61歳。
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この映画で石井が描いてみせる世界は、それは大変混沌としていながら、大変にエネルギッシュなもの。ストーリーは、綾野剛演じる浪人が、ある新興宗教を敵視し、その宗教の信者とおぼしき怪しい者を切り捨てて、ある藩に入ってくる。その剣の腕前を見込まれて藩の中枢部に見込まれる浪人であるが、件の新興宗教への対処を巡ってお家の中の勢力争いが起こり、あらゆる策略が巡らされる中、その新興宗教が予想外の異常な盛り上がりを見せるというもの。大変に極端な内容ではあるが、人間社会の様々な要素が、グチャグチャにかき混ぜられて観客に提示される。そこには大小いろいろなレヴェルで、そしてあの手この手で、人間の弱さや可笑しみというものが表現されていて、思い返してみると、よくできていると思われる箇所も多々ある。だが、正直なところ私は、これでは少し詰め込み過ぎではないかと思うのである。原作を読んでいないので、これが町田の小説にそもそもある要素なのか、それともクドカンの脚本が、シャレではないがクドいのか、よく分からないが、これは見る者を置き去りにする映画である。せっかくこれだけの役者たちを使っていながら、こんなにあちこちでぶちまけてしまうと、ドラマが収れんしないので、ちょっともったいないことになっていると思う。好例がこの役者だ。
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若手俳優として大活躍の染谷将太だが、ここでは弱気な侍から、熱狂の伝道師 (?) への華麗なる転身が描かれるが、ちょっと表現過剰ではないか。これなら染谷でなくてもできる俳優がいるように思う。それから、この人は誰だろう。
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実は私は最後まで分からなかったのだが、これは浅野忠信。正体のよく分からない新興宗教の親玉 (なのかな? それもよく分からない) であり、自身ではほとんど言葉を発しない。わざわざ浅野にこんなメイクをさせてセリフをほとんど与えないという遊びは面白いとも言えるものの、ではこのキャラクターが見る者に大きな衝撃を与えるかと言えば、そうでもない。だからこれも、もったいない使い方だなぁと思うのである。それでは、これは誰でしょう。
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この等身大の猿は実は口もきけ、映画の語りも彼によるものだ。終盤では大きな役割を果たし、人間と猿の関係に関する人々の既成概念 (ってなんだ。笑) を打ち破る活躍を見せる。この猿を演じるのは実は永瀬正敏。彼の場合には語りが多いので、映画への貢献はそれなりにあるとは思うものの、まあこれも、普通に考えればもったいない使い方と言えるだろう。そんな中、私が感心したのはこの人だ。
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北川景子が演じるのは新興宗教に属する謎の女性であるが、ラストに至って彼女の演技は牙を剥く。これはなかなかに素晴らしい。彼女はきっと器用な人なのではないかと思うが、この極端が支配する映画の中では、人としての感情をストレートに表すという異例のシーンで、その才能の一端を明らかにしていると思う。シリアスな心理劇など、今後活動の幅がより広がることを期待したい。

そう書いていて思ったのだが、この映画のひとつの特徴はコミカルであること。セリフの脱線ぶりが甚だしく、役者の演技も概してコミカル。もちろん、コミカルは大いに結構で、気の利いた箇所もあるにはあるのだが、でも例えば私が先日の記事で絶賛した「デッドプール 2」などを思い出すと、そのコミカルぶりがより大人であり、たとえ品のないギャグであっても、全体の中にうまくはまっていることで、過剰感が抑えられていた。シリアスさとコミカルさとは、ある面で表裏一体とも言えると思うが、光が強いほど影も濃いように、脱線しすぎの過剰なコミカルシーンがあるからこそ、ごく限られたシリアスシーンが強く印象に残るもの。私の見るところ、そのシリアスシーンは、北川景子の貢献で印象に残るものになったが、ここがもし成功しなければ、ただバカ騒ぎだけをうるさく思う観客が増えてしまうだろう。パンクするということは、既成概念を打ち破ることであるとは思うのだが、でも、そのパンクに共感してくれる人々がいないと、パンクの意味がない (つまり、一人で実践するパンクは、パンクではないのではないか)。その意味で、わざわざパンクパンクと高らかに喧伝せずとも、既成概念を打ち破る強い表現力を持つ文化活動は、すべからくパンクであると思うのである。

by yokohama7474 | 2018-08-11 11:54 | 映画 | Comments(0)

女と男の観覧車 (ウディ・アレン監督 / 原題 : Wonder Wheel)

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しばらく前に見た映画であるが、今調べてみて安心したことには、未だ有楽町の丸の内ピカデリーと、それから、下高井戸の下高井戸シネマで上映中である。ということは、例えばたまたまこの記事をご覧になった方がこの映画を見ようと思い立っても、今ならまだ大丈夫ということだ。よかったよかった。と私がここで喜ぶのも無理はない。これはほかならぬウディ・アレンの新作なのであるから。ここ数年、私がこの監督を心から崇拝していることは、過去 2作、つまりは「教授のおかしな妄想殺人」と「カフェ・ソサエティ」についてこのブログで書いた記事からも、明らかだと思う。今年 83歳になるウディ・アレン。
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実は、今自分でもチェックして認識したことだが、私は彼の前作「カフェ・ソサエティ」についての記事の中で、この作品に触れている。当時は邦題 (まぁこれも私がいつも嘆いている通り、意味不明の題名であるが) も決まっていなかったようで、原題の "Wonder Wheel" と言及しているのである。そのような言及を行ったのはなぜかと言えば、前作と今回の作品でともにアレンが組んだ撮影監督が、押しも押されぬ現代のレジェンド・カメラマンであるからだ。泣く子も黙るその人の名は、ヴィットリオ・ストラーロ。今年 78歳のイタリア人である。なぜかこのように合掌した姿での写真が多い。
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期待にたがわぬ彼の映像への賛辞はあとで書くとして、そもそも題名に触れられている観覧車とは、一体どこの観覧車だろう。もちろん日本でも、大阪や名古屋では、街のど真ん中に観覧車があるが、それはかなり特殊なケースであるはず。私が観覧車と聞いて思い浮かべる場所は 2つ。1つはウィーン郊外のプラター公園。これは言うまでもなく「第三の男」のロケ地である。そしてもう 1つは、ニューヨーク郊外、ブルックリンにあるコニー・アイランドだ。と言いながらここで白状してしまうと、ウィーンは初の海外旅行以来何度となく訪れている私であるが、プラター公園に行ったことはないし、また、ニューヨークに 2年弱住んでいたことのある私であるが、コニー・アイランドに行ったことはない。それなのによくもまあ、しゃあしゃあとこの 2箇所が観覧車で有名だなどと言えたものだが (笑)、それはこの際棚に上げて、古くからの行楽地であるコニー・アイランドの風景はこんな感じ。
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そう、ここで明らかな通り、ここコニー・アイランドにある観覧車の名前が、この映画の題名 "Wonder Wheel" なのである。実に 1920年から動き続けているというから、その歴史はほぼ 100年になろうとしている。だから、ニューヨークっ子のアレンにとっては、この題名だけで映画の舞台は自明であるわけだ。もちろん私を含めて多くの日本人にとって、Wonder Wheel がコニー・アイランドの観覧車とは知らないのが普通であるから、そのままでは題名としては成り立たないだろう。だが。だがである。だからと言って「女と男の」などという謳い文句がつくと、その瞬間に陳腐さが漂う。それならいっそ、「観覧車の見えるところ」とか、「海辺の不思議な観覧車」とかした方が、よほどイマジネーションが膨らむのではないだろうか。そもそもウディ・アレンの脚本・監督作品であるからして、女と男の事情を描いた映画であることは最初から明らかであるわけで (笑)、それをわざわざ「女と男」などということで、余分な説明調を帯びることになっている。

ともあれこの映画を一言で称するならば、80を超えてなお自らのスタイルを貫き通すウディ・アレンの映画以外の何物でもないということだ。オープニングタイトルもエンディングタイトルも、いつものウディ・アレンのスタイルである。そして今回ヒロインを演じるのは、ケイト・ウィンスレット。もちろんあの「タイタニック」でディカプリオと共演した女優であるが、既に今年 43歳。今回の演技はある意味で年相応で、「タイタニック」以来過ぎ去った 20年の歳月を思わないではいられない。
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正直に書いてしまうと、私はこの骨太な女優には、これまであまり魅力を感じたことがない。それは「タイタニック」ですら例外でなく、その後彼女が出演した何本かの映画を見てはいるが、個々の役柄への熱意は分かっても、あまりそこに感情移入できないことが多かった。それにひきかえここでの役柄は、既に中年に至った彼女に合っていると言えるし、なるほど、数々の名女優を起用してきたウディ・アレンが選んだだけのことはあると思った。等身大の中年女性と言ってしまうと身も蓋もないが、若い頃の夢を捨てられず、ウェイトレスをしながら質素な暮らしを送り、前夫との間の連れ子を愛しく思いながらも罵倒する、そんな「痛い」女性であるがゆえに、ふとした機会に知り合った若い男に、簡単に夢中になってしまう。現実逃避と自己正当化を繰り返す、そんな人間性の表現を、彼女の演技から感じることができたものだ。その点、ほかの役者も含めて、演技の点ではかなり高水準であると思う。だが、この映画で真に驚くべきは、やはりストラーロの撮影であろう。例えば、主人公たちが暮らす家は、つまりはコニー・アイランドの従業員としてその場所に住み込んでいるのであるが、このようなセットになっている。
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つまりここでは、細長くガラスの広がる室内から、すぐ窓の向こうに観覧車が見え、この写真でははっきり分からないものの、向かって右手にも窓があり、その向こうに遠くの都会の風景が広がっている。このスペースの中で、いかにカメラが多種多様な時間と人の組み合わせを見せてくれることか!! この空間では完全に密室劇が進行するわけで、まさに人生の様々な瞬間が、立ち現れては消えて行く、そんな印象である。その内容は、家族の中に起こりうる微妙な感情とそれを取り巻くシーン、例えば、夫婦間のいざこざであったり、妻が自らの連れ子に対して抱く愛憎相半ばする感情であったり、夫が、転がり込んできた実の娘に対して抱く意外にも純粋な愛情であったり、あるいは近隣住民の勝手気ままな交流であったり。そしてまた、ケイト・ウィンスレット演じる主人公ジニーは、母であり妻であるこの場所以外では、一介のウェイトレスであったり、年下の男と不倫関係を結ぶ女であったりする。つまりはその存在する場所によって、個性の変わる人物がジニーである。これは部屋の外での、愛人ミッキーとの切ないシーン。
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だが実は、そのように異なる個性の棲み分けが乱される瞬間が末尾近くで訪れる。不倫相手がこの家にやってくるのであり、そのとき、彼らにとっての世界は既に崩壊しているのである。この映画における映像は、そのような人間の悲喜劇を、実に鮮やかに描き出している点、本当に素晴らしい。そしてこの映画には、誰もが息を呑むだろうシーンがある。それは、ジニーと愛人ミッキーの密かな逢瀬のシーンのうち、自らの過去を語るジニーの後ろ、遠景に海が見えるというところ。ここでは海のキラキラとした輝きと、徐々に日が傾いて行く様子、そこで感じられる時間の経過と、自然の壮大さと個人の思いの残酷なまでの無縁さが感じられ、恐ろしいまでに美しい。まさにヴィットリオ・ストラーロの魔法にかけられる瞬間だ。

それにしても、ウディ・アレンの衰えぬ制作意欲には改めて感嘆する。今年は既にもう 1本新作の公開が予定されていて、題名は "A Rainy Day in New York" だという。またしても本拠地ニューヨークを舞台にした作品なのだと思うが、是非邦題を「女と男が濡れるニューヨーク」などとはして頂きたくないものだ!! この新作、ジュード・ローやエル・ファニングが出演するらしい。実は、今はやりの "Me Too" 運動で最近ウディ・アレンも槍玉に上がっているという報道も目にするのだが、そのことの評価はここでは書かないこととして、この映画の日本公開が見送られる事態はなんとしても避けて欲しいとだけは、申し上げておきたい。これが次回作からのショットである。見たいなぁ。
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by yokohama7474 | 2018-08-08 22:54 | 映画 | Comments(0)

ハン・ソロ / スターウォーズ・ストーリー (ロン・ハワード監督 / 原題 : Solo : A Star Wars Story)

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「スター・ウォーズ」シリーズは、ディズニーがその権利を買収してから、もともと想定された 9作 (30年以上をかけ、現在 8作まで進行中) に加えて、スピンオフ作品が作られるようになったことは周知の事実かと思う。これは、「ローグ・ワン」に続くそのスピンオフ物。メインストリームの作品に登場する設定や人物を利用して、新たなストーリーを作ろうというもので、そのような発想自体は理解できる。但し難点は、もともとあるキャラクターに対して、ファンは既にそれぞれのイメージを持っているわけであるから、それからの乖離があった場合には、支持を得られないかもしれない、ということだろう。言うまでもなくハン・ソロは、最初の 3作品、つまりエピソード 4、5、6 に登場した主要キャラクターであり、エピソード 7にも、実際の世界では (いや、劇中でも) 長年の時間を経て再登場した。もちろん若き日にその役を演じたハリソン・フォードは、このシリーズ出演俳優きっての大スターに出世したこともあって、大変人気のあるキャラクターである。本作はそのハン・ソロの若き日を描く作品で、相棒であるチューバッカとの出会いも描かれているという。
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最初に結論を言ってしまうと、私は決してこの映画を駄作とは思わないし、それどころか、最先端の CG 効果と、「スター・ウォーズ」らしい手作り感を併せ持つ、なかなかによくできた映画であると思う。だがその一方で、なぜこれがハン・ソロを巡る物語である必要があるのか、よく理解できなかったし、これによって新たなハン・ソロ像が現出して、子供の頃からの「スター・ウォーズ」観が大きく広がる、ということもなかった。ひとつの要因は、残念ながら役者たちに、もうひとつ突き抜けた個性がないことではなかったか。主役のハン・ソロの若き日を演じるのは、1989年生まれのオールデン・エアエンライクという俳優。未だ 20代の若さであるが、過去の出演作には、いくつか私の見た映画もあるものの、特に記憶にはない。中でも、私が天才と崇めるコーエン兄弟の近作「ヘイル、シーザー!」では主役を張っていたらしい。なるほど、それは覚えているぞ。こんな感じだった。
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この映画は私もこのブログで採り上げたので、今自分の書いた記事を確認したが、並み居るほかの名優たちには言及しているものの、彼には言及していなかった。その演技が悪いと思ったわけではないが、だがなぜか、特別な印象もなかったのである。そして、この「ハン・ソロ」の役者に戻ると、キーラという相手役を演じた女優、エミリア・クラークも、うーん、申し訳ないが、私には全くその魅力が分からない。「ターミネーター : 新起動 / ジェネシス」でサラ・コナーを演じていたとプログラムで見て、確かにそうだったと思い出したが、これもこのブログで自分が書いたその映画の記事を読み返したところ、やはり彼女には言及していなかった。うーん、残念。あ、これは「ターミネーター」ではなく、本作から。
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但し、よい俳優も出ていて、まずは、悪玉か善玉か分からないトバイアス・ベケットという役を演じたウディ・ハレルソン。そうそう、この顔は、「ハンガー・ゲーム」「グランド・イリュージョン」のシリーズに加え、「スリー・ビルボード」でもおなじみだ。強いようで隙があり、要領がよいようで不器用なキャラクターを巧みに演じていた。因みにこの役名の名前は、聖書に登場するトビアス (大天使ラファエルに見守られて旅をする) と、不条理劇で知られるノーベル賞作家サミュエル・ベケットの組み合わせであり、なにかこの役柄を暗示するものはないだろうか。
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もうひとりよかったのは、恐ろしい敵、ドライデン・ヴォスを演じたポール・ベタニー。
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彼が静かに怒りをためると、顔に赤い筋が浮かび上がり、それだけでも演技になっている (笑)。と思って調べてみて納得。「アベンジャーズ」シリーズでヴィジョンという役を演じている役者である。こちらは最初から真っ赤なのであるが、悪役ではない点に、役者としての幅を見よう。
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このように、私としては高く評価できる俳優と、残念ながらそうでもない俳優の混淆に、やはり課題があるように思ったのである。ストーリー展開は、面白くないとは言わないものの、それほど驚くような面はない。また後半では、昨今のハリウッドでしばしば登場する、虐げられたマイノリティの権利というテーマが出てきて、これは今日的なテーマなのだろうと理解はするものの、本来血沸き肉躍る「スター・ウォーズ」シリーズにおいては若干唐突ではなかったかと思う。そうそう、これだけ課題がありながら決して駄作ではないのは、名匠ロン・ハワードが監督しているということが理由のひとつかもしれない。彼の手腕は信頼できるものである。予告編での語りはちょっとわざとらしかったが (笑)。
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それから、テレビのニュースで知ったことだが、この映画でハン・ソロが操縦する (他人の所有物であったのを、執念と度胸で見事せしめる) 宇宙船ミレニアム・ファルコン号を今回新たにデザインしたのは、日本人なのである。これはすごいことだが、その CG アーティスト成田昌隆はなんと、もともと米国駐在の証券マンであったが、CG への夢断ちがたく、46歳のときにこの世界に飛び込んだという。人間やはり、夢をあきらめてはいけないのである。
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そのように、この映画を構成する要素の様々な断片に心揺れてしまうのは (笑)、やはり「スター・ウォーズ」シリーズに対する期待が高いからであろう。だが、なんでもこの作品は、ファンからはあまり高く評価されておらず、シリーズで初の赤字ということになるようだ。そうすると、メインストリームの第 9作に対する悪影響も、心配されるのではないだろうか。正直なところ、アメコミのヒーローたちが登場する映画なら、キャラクターだけを使って、いくらでも好きなストーリーを壮大に編み出すことができるが、この「スター・ウォーズ」シリーズはやはり、キャラクターよりもむしろ物語性自体に大きな意味があるという点で、少し事情が異なっているのではないだろうか。その意味では、俳優の選択にも大きなリスクが伴う。今後ディズニーがスピンオフ作品をどのくらい作るのか知らないが、このシリーズは、ディズニーの当初の思惑と異なり、あまり金のなる木ではないのかもしれない。今後に注目である。

by yokohama7474 | 2018-08-08 01:20 | 映画 | Comments(0)


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