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トゥームレイダー ファースト・ミッション (ロアー・ウートッグ監督 / 原題 : Tomb Raider)

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まず話は北欧から始めよう。スウェーデン出身のオスカー女優、アリシア・ヴィキャンデルだ。1988年生まれで、現在 29歳。オスカーを取得した映画は「リリーのすべて」であり、同じ年 (2015年) の映画「エクス・マキナ」はこのブログでも絶賛したが、その作品でも世界の様々な賞を受賞している。まさに、これからの映画界をしょって立つ存在であると評価できる。この映画は、そんな彼女が汚れ役を演じる初めての映画なのである。ただこの場合の「汚れ役」とは、物理的に汚れる役なのであるが。こんな感じ。あーあ。
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題名の "Tomb Raider" とは、墓荒らしのこと。この題名には誰しもなじみがあると思う。ゲームの世界は私には分からないが、映画においては、こんなイメージであった。
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そう、ここでカッコいいヒロインを演じたのは、アンジェリーナ・ジョリーである。それは 2001年のこと。その後彼女はプライヴェートで様々な話題を巻き起こしたのだが、確かにこの「トゥームレイダー」シリーズ 2作において、素晴らしいヒロイン像を演じたのである。だが、それから 17年を経た現在では、激しく戦うヒロインの条件は変わってきているように思う。つまり今回は、同じララ・クロフトという大企業オーナーの令嬢という設定でありながら、スリムで小柄で、より普通の女の子という役柄になっている。だが今回のララも、大変な根性の持ち主であり、腹筋もバリバリに割れている。そして、これはメイクなのかどうなのか、ここでのアリシア・ヴィキャンデルの顔は浅黒くて、北欧美女のイメージとはかなり異なる。予告編でも、アクション映画に出るのが自分の夢だったと語っているが、確かに、ここでは何度も、時には両手を縛られたりしながらも、「おいおい、それは無理だろう」(笑) という大ジャンプを試みるし、銃をドカドカぶっ放すよりは、弓を引き、密林の中を駆け、相手に組み付いて倒すという、かなり激しい肉弾戦の数々を披露している。この映画はまず何より、そのような彼女のニューイメージを見るべきものであろう。
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映画の内容は、父の残した謎の手がかりに導かれて、何やら秘宝を見つけるために密林の奥に入って行き、古代の墓を舞台に敵と戦うというものであることは、事前に明確にイメージできるのであるが、実はこの映画、日本を舞台にしているのである!! いや、さらに正確に言うと、邪馬台国の卑弥呼の墓を暴こうという話である。これは多少ネタバレに近いかもしれないが、調べてみると、既にこの映画のゲーム版ではそのような設定になっているようなので、それを映画に取り込んだということだろう。というよりも、今回の作品自体が、ゲームの映画化であるということか。これはゲームのイメージからのショット。
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だが正直なところ、ここで登場する古代の墓に眠る女王が、卑弥呼である必然性はあまりない。とにかく絶海の孤島に人知れず眠っている古代の墓であればよいのである。それが証拠に、主人公たちは、なんと香港からちっぽけな船に乗って、卑弥呼の墓がある島、ということは恐らくは今でも日本の領土の範囲であろうが、そこまで一日? で辿り着くという設定である。ちょっと無理があるような気もするが、まあ、そんなことに目くじら立てても仕方ないので受け入れるとしよう。それよりも不思議なのは、劇中で何度も「ヤマタイ」とか「ヒミコ」という言葉が出ているにもかかわらず、字幕では、冒頭部分こそ「邪馬台国」「卑弥呼」と出ていたが、ほとんどは「島」とか「女王」としか訳が出て来ない。これは一体いかなる理由によるものか。もしかすると、日本古代史最大のミステリーとして、未だに諸説ふんぷんで決着を見ない邪馬台国論争であるから、こんな簡単に「はい。邪馬台国はここで、卑弥呼の墓もありました。こうしてこうしてこうすると、はい、墓も開きます」という設定にしてしまうと、命をかけて研究している人たちから訴えられる・・・という配慮であろうか???
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まあともあれ、ここでララとその仲間は、いとも簡単に卑弥呼の墓に辿り着き、先にそこで発掘作業を行う悪い連中と一戦交えるわけであるが、広大な墓の中に入ってからのヴィジュアルはそれなりに凝っている。だが、まあその点は多少の金をつぎ込めば、CGでなんとでもなろう。ちょっと残念なのは、悪役や、思いがけず現れる味方、香港から船で一緒にやってきた東洋人など、ララを取り巻く男性たちを演じる役者たちに、それほど存在感がないことだ。それから、ここで登場人物たちが探しているのが、古代の秘宝であるのか否か、この点もちょっと気になった。暴いてはいけない墓というイメージをもっと強く出してもよかっただろうし、何より最後の解決は、本当に解決になっているのか。もしかすると、あんなことをすると、閉ざされていたものが解放され、恐れている事態が世界に蔓延するのではないか (私の言わんとすることは、見た人ならお分かりだろう)。だからこの映画は、あれこれ深く考えることなく、アリシア・ヴィキャンデルの奮闘ぶりに拍手を送る、そんなことでよいのではないか。それから、最近の映画でよくある父と娘の関係も、それほど新機軸はないし、最近のヒロインは、ともに命を賭けて戦った男性との間にも、そう簡単に恋に落ちることはない。こんな風に書いていると、全然面白くないように思われるかもしれないが (笑)、決してそんなことはない。だが、誰もが手に汗握る傑作ということには、残念ながらならないだろう。

興味深いことに、主役も北欧の人なら、監督も北欧の人なのだ。1973年ノルウェイ生まれのロアー・ウートッグ。但し同じ人の名前がローアル・ユートハウグという表記になっていることもある。綴りは Roar Uthaug だから、確かに「ウートッグ」という表記には違和感がある。
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私はこの監督の名前を知らなかったし、過去の作品を見たこともない。だが、思い出してみると、このブログでも過去に何本か、北欧の新鋭監督の手になるハリウッド映画をご紹介した記憶がある。たまたまなのか、あるいは北欧が新たな才能の宝庫になっているのか、これらの監督の今後の活躍にかかっているのではないだろうか。この作品も、原題は単に "Tomb Raider" だが、邦題にはそこに「ファースト・ミッション」とついているので、これからもセカンド・ミッション、サード・ミッションと続いて行くのだろうか。ゲームを離れたオリジナル・ストーリーで、アリシア・ヴィキャンデルのさらなる活躍が見られることを期待しましょう。

by yokohama7474 | 2018-04-14 11:33 | 映画 | Comments(0)  

デイヴィッドとギリアン 響きあうふたり (コジマ・ランゲ監督 / 原題 : Hello I am David!)

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デイヴィッド・ヘルフゴットというピアニストをご存じだろうか。1947年生まれで、今年 71歳。ユダヤ系ポーランド人の移民としてオーストラリアに生まれた人である。恐らく私の世代の映画ファン・音楽ファンは、主演のジェフリー・ラッシュがアカデミー主演男優賞を受賞した映画「シャイン」の主人公のモデルとして記憶にあるものと思う。名優ジェフリー・ラッシュも知らないという人は正直話にならないが (笑)、今でも「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズなどでも活躍している俳優で、決して二枚目ではなく、味のある面立ちなので、世間一般での知名度も高いものと思う。こんなポスターであった。
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この映画、ピアノの神童ともてはやされながら、極限のプレッシャーによるものか、徐々に精神のバランスを崩して行く芸術家の激烈な魂の闘いが、強烈に描かれていた。ここで主人公ヘルフゴットは、"Help, God!!" (神様、助けて!!) と揶揄されながら、音楽史上最も難しいコンチェルトとも言われるラフマニノフの第 3協奏曲の「魔」に憑りつかれるように精神を病んで行くが、ひとりの女性との出会いによって復帰を成し遂げる、という内容。この記事でご紹介する「デイヴィッドとギリアン 響きあうふたり」は、このピアニストとその妻の近年の実際の様子を描いたドキュメンタリーである。今確認すると、「シャイン」は 1996年の制作で、日本公開は 1997年 3月。それに対しこの映画は、2015年制作のドイツ映画である。つまり、「シャイン」とはほぼ 20年の隔たりがあり、その間ヘルフゴットがピアニストとして世界的な活躍をしていたなら事情は違っただろうが、実際には全くそうではないがゆえに、どんな熱心な音楽ファンにとっても、彼はいつまで経っても「『シャイン』のピアニスト」なのである。そうであれば、さすがに 20年もすると人々のそのような記憶も色あせてきてしまう。だが、私にはひとつラッキーな経験があって、それは 1997年 5月に、ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールで彼のリサイタルを実際に聴いているということである。これはつまり、日本で「シャイン」が公開された直後のタイミングである。たまたまロンドンで時間が空いたその日、このリサイタルのことを知り、Sold Out であったにも関わらず、かの地では珍しいダフ屋からチケットを購入できて、大変嬉しかったことをよく覚えている。書庫から引っ張り出してきたそのときのプログラムがこれだが、表紙の表示によると、ワールド・ツアーの一環であったようだ。当時の「シャイン」人気に乗った企画だったのだろう。
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このときの曲目は、メンデルスゾーン、ラフマニノフ、リストの小品に、最後がベートーヴェンの「熱情」ソナタであった。ステージマナーは奇妙にフラフラしたものでありながら、一旦ピアノに向かうと、一種あっけらかんとしながらも強い集中力を伴って、非常に繊細なタッチの音が響いてきたことを覚えている。実はこのヘルフゴット、「シャイン」に先立つ 1991年に既に一度来日を果たしているらしいが、もちろん私は聴いていないし、どんな演奏であったのかも知らないのである (実は映像作品として販売されたようだが、今では入手するのは困難だろう)。さて、前置きが長くなったが、この映画は、そのようなヘルフゴットの近年の様子を見ることができる、しかも彼の芸術活動を献身的に支えてきたミューズである奥さんも出演しているドキュメンタリーである。これは必見だ。だが、実はこの映画を見ることができるのは、日本全国でも渋谷のシアター・イメージフォーラムただひとつ。しかも作品のプログラムすら制作されていないというありさまで、この作品への冷遇ぶりは実に淋しいばかりなのである。だが、それでも、日本でこの作品を見ることができるだけでもラッキーなのだと考えよう。このピアニストを知っている人も知らない人も、是非この映画をご覧頂きたい。ここには、本当に無垢な魂の尊さと、でもその無垢な魂とつきあう家族の苦労 (笑) がともにヴィヴィッドに描かれていて、人間の持つ能力のすごさとか、社内のくびきから自由になることの大切さを学ぶことができる。愛すべき佳作映画であると思う。これがこの映画の主人公たるおしどり姉妹。
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奥さんのギリアンさんは、かなりの年齢に見受けられるが、作品中で自ら語ることには、1931年生まれ。実にヘルフゴットよりも16歳も年上で、今年 87歳になるという高齢だ。彼女はもともと占星術師で、自分の運命を占った際に、近く重要な出会いがあるとの結果が出て、果たして数日後に友人の紹介でヘルフゴットと知り合い、その翌日にプロポーズを受けたという。人生には巡りあわせという要素が必ずついて回るが、まさにこの 2人の出会いは運命であったのだろう。上記の 1997年のコンサート・プログラムに、当時のものと思われる 2人の写真が掲載されている。人生をともに歩む喜びがにじみ出た、よい写真であると思う。
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この映画は、ヘルフゴットが例のラフマニノフのピアノ協奏曲第 3番を、シュトゥットガルト交響楽団と共演したり、その前後の時期であろうか、ドイツ・オーストリア各地でリサイタルを開く様子がメインとなっている。つまり彼は、来日こそしないものの、ヨーロッパでは近年でも演奏活動を行っているということだ。ドイツ南部のシュトゥットガルトには、もちろん名門オケである放送交響楽団があり、また、昔は設立者カール・ミュンヒンガーの指揮のもとで盛名を誇ったシュトゥットガルト室内管弦楽団がある。加えて、シュトゥットガルト・フィルというオケもあるらしく、調べてみると現在の首席指揮者は、以前の東京フィルの常任指揮者、ダン・エッティンガーだ。だが、この映画のタイトルでしっかり確認したことには、ここで演奏しているオケの名前はそのいずれでもなく、「シュトゥットガルト交響楽団」なのである。ここでヘルフゴットについて語っている指揮者も、なじみのない人だ。
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いやそれにしても何が面白いって、ヘルフゴットの日常だ。若い頃一時期精神を病んで、闘病生活をしていたことは既に「シャイン」で克明に描かれているが、この映画における彼の言動を見ていると、正直なところ、今でも通常人には見えないようにも思われる。それは、常に体を動かし、常に何かを呟き、常に言葉は同じところを旋回し、そして常に奇妙なまでに明るい、その行動が極めてユニークだからだ。原題の通り、どこへ行っても "Hello, I am David!" と人懐っこく他人に寄って行き、老若男女を問わず、名前を訊き出身地を訊き、必ず最後はこれである。いや明るいのなんのって。
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だが、作品の中でセラピストが語っている通り、複数の精神科医は、彼のことを病気だとは診断していないという。なるほど、コーラが欲しくて駄々をこねたり、気に入ったものなら勝手にポケットに入れたり (とはいえ、ボールペンとかティーバッグとか手帳とかの小物ばかりで、罪がないとも言えるが)、といった奇行の数々もここで映っているが、彼の喋ることには、時に地理的な知識 (クルド人が住んでいる地域は世界で 3ヶ所であると知っていて、ちゃんと具体名も言えるのだ) が披露されていたり、充分論理的な内容であったり (世界は格差社会になりつつあると主張するのだ)、何より、彼の弾くピアノは技術的にもしっかりしていて、音色も澄んでいるのである。これは実に驚くべきもので、人間の脳が一体どのようにできているのか、考えさせられるとすら言ってよい。そして、ヘルフゴットの言動のピュアぶりに心を動かされるとともに、その音楽のピュアなことに、より一層感動するのである。日常的に彼の世話をする家族の人たちは大変だろう。だが、一旦彼がピアノに向かって弾き始めると、その他のことはすべて流れ去ってしまうのではないだろうか。本作の中で、ギリアンの前夫との間の息子が、そのような内容を率直に語っている (因みに、字幕には出て来ないが、彼が聴いて涙を流したヘルフゴットの演奏は、ムソルグスキーの「展覧会の絵」であるそうだ。分かるような気がする)。尚、本作で監督・脚本を手掛けるコジマ・ランゲは、1976年生まれの女流ドキュメンタリー作家。ここではしょっちゅうヘルフゴットとスキンシップを図っており、なんだか彼の母親のようである。
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繰り返しだが、この映画には、人間の持つ能力の素晴らしさのエッセンスが詰まっている。普通の人は彼のようにはなることはできないし、彼も普通の人のように振る舞うことはできない。現代に舞い降りた天使のような芸術家、デイヴィッド・ヘルフゴット。彼が再度はるばる日本まで来てくれるか否かは、どうも悲観的に考えざるを得ないが、せめてこの映画がもう少し広く日本で上映されることで、無垢な人間の魂への人々の共感を呼んで欲しい。上で触れた 1997年の世界ツアーのプログラムには、彼の魂の無垢さが分かる写真が載っているので、最後はそれで締めくくろう。本作でも何度も出てくる、水泳するヘルフゴット。その神々しい姿が、これである!! 偉大なる芸術家への心からの敬意を表したいと思う。・・・って、水着は???
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by yokohama7474 | 2018-04-03 23:27 | 映画 | Comments(0)  

空海 -KU-KAI- 美しき王妃の謎 (チェン・カイコー監督 / 英題 : Legend of the Demon Cat)

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映画を選択する際に監督をかなり重要な要素としている私としては、またここで、現代の名監督の手になる新作が、決してその監督の名誉にならない出来であることに、大変落胆している。この映画の監督は、1952年中国生まれのチェン・カイコー (陳 凱歌)。もちろん彼の新作なら見に行かねばならないし、しかも主人公が、中国に留学して真言密教を日本にもたらした、あの弘法大師空海である。きっと魂の傑作であるに違いないと思うのが人情ではないか。だから、この平安時代の僧侶と同じ名前のチェーン店のラーメン屋にこの映画のポスターが貼ってあるのを見ても、まあ笑って見逃そうと思ったし、空海の名前が KU-KAI と分けて表記されているのも、きっと何か呪術的な意味でもあるのだろうと思っていた。そう、これはチェン・カイコーの映画なのである。私が鑑賞したシネコンには、このようなサイン入りポスターまで展示されていたので、間違いない、チェン・カイコーである。カン・チェイコーとか、カイ・チェンコーという別人ではないのだ。
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既に予告編でも、この映画が決して、空海の激烈な修業を描く伝記映画でもなければ、命を賭けて中国から日本に仏教文化を伝えた人たちの偉業を顕彰する内容でもないことは明らかであった。そう、上のチラシの宣伝文句にある通り、これは「百花繚乱の (中略) エンターテインメント」なのである。ええっと、なぜ真ん中を省略したかというと、そこに踊る文字は「極上の」であり、申し訳ないが私はそこに異論があるからだ。これが今回、脚本にも携わっているチェン・カイコー監督。
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空海という、少なくとも日本仏教史においては燦然と輝く偉業を成し遂げた僧侶については、ここでクダクダと述べるまでもないであろうが、その空海がこの映画の中で何をするかというと、謎解きなのである。いかなる謎を解くかというと、喋る猫の謎、そうして、彼が唐に渡った時代よりも 50年ほども前に玄宗皇帝に愛された楊貴妃の死の謎なのである。その設定に対するまず最初の感想は、仏の教えの真理を求めて、荒波を超えて留学した唐において、あの空海が謎解きなどしている暇など、全くなかっただろうということ。そして、なぜに邦題では空海という名前がローマ字表記され、しかも音節によって区切られているのかということ。なにせ英題は、そのまま訳せば「化け猫の伝説」となり、全く違うものなのだ。まぁ確かにその題名では、まるで昭和の大映映画のようで (笑)、極上と自称するエンターテインメント大作としては、いささか心もとないことは認めよう。だがそれにしても、KU-KAI とは一体なんだ。「空海」を「そらうみ」と誤読しないようにという配慮であろうか。私には意味不明でしかないのである。ともあれここで空海は、楊貴妃の死の謎に果敢にも迫り、まるで名探偵のような活躍を見せる。演じる染谷将太は私も好きな俳優で、ここでも僧侶の恰好がよく似合うし、その演技が悪いとまで言う気はないが、なぜにいつもそんなに穏やかであるのか。命を削って修業に励んでいた彼は、こんな笑いは浮かべていなかったはず。
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ここで空海は、ちょうど玄宗皇帝と楊貴妃を主人公とした「長恨歌」を執筆中である詩人の白居易 (白楽天) と行動をともにする。調べてみると、白居易は空海よりも 2つ年上の 772年生まれで、空海が唐に滞在した 804年から 806年という期間は、科挙の試験に合格したあとであるから、確かに、役人として同時代に首都長安にいた可能性はあるだろう。だが、ここでそのようなメジャーな名前を入れないと気が済まないのは、なぜだろうか。そのような実在の有名人を登場させることで、途端にストーリー運びが嘘っぽくなってしまうのに。そして、阿倍仲麻呂が登場する意味もまた、私には理解できない。まあ、登場してもよい。でも登場するなら、何かそこに意味を与えて欲しい。ただ楊貴妃殺害場面の横にいて、突っ立って見ているだけの役というのは、いかがなものか。日中合作映画だから、中国に留学した日本人を登場させないといけないという契約でもあったのだろうか。因みにこの役は阿部寛が演じていて、その他、松坂慶子、火野正平という日本の俳優たちが大勢出演している。日本人の役は日本人が、中国人の役は中国人が演じているというわけである。
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誤解なきように追加すると、私は日中合作は大変結構だと思うし、それぞれの役者たちの演技にケチをつけるつもりは毛頭ない。ひとえに、ストーリーの練り方が不足していることと、いかに荒唐無稽なストーリーでも観客を飽きさせない演出の手腕を欠いていることを、大変残念だと思っているのである。英題にある通り、これは化け猫の物語。だがそれにしては、ちょっと仕掛けが大げさ過ぎないか。もしそういうことならいっそのこと、空海は実は大魔術師だったとして、化け猫との間でサイキック合戦を繰り広げたり、念力で空を飛び、「KUー」とか「KAIー」とか奇声を上げながら、空中で宙がえりして化け猫と対決するとか、そんな風にメチャクチャに崩してしまう方が、面白かったのではないだろうか。たまたま見つけたこの写真は、この映画で若き日の幻術使いを演じる中国人俳優と、この映画で重要な意味を果たす黒猫。映画の題名は「妖猫伝」となっていて、つまりは英題は、中国語の原題そのままであったことが分かる。
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そう、まずこの映画の日本での敗因は、空海をタイトルに使用することで、歴史大作のイメージを打ち出してしまったことだろう。確かに、ここで見られる古代の世界都市長安のセットは壮大でリアルだし、CG も駆使しているであろう幻術的空間も、極彩色でゴージャスで、大作と呼ぶにふさわしい。だが惜しむらくは、そのようなヴィジュアル面でのインパクトを、映画の流れにうまく取り込めなかったのではないか。
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もちろん、私とても、この作品が夢枕漠の原作によるものであることを知らぬわけではない。その原作を読んでいないので映画との比較のしようもないのだが、チェン・カイコーともあろう者が、原作をうまく換骨奪胎して、映画的感興に満ちた流れを作り出せなかったことは、大変残念だとしか言いようがない。よく思い出してみると、化け猫がなぜに騒動を引き起こしたかという点は、実は結構悲哀に満ちた物語にはなっている。そうであればこそ、空海も白居易も要らない。ただその悲劇だけに絞った方が、観客も感情移入しやすかったと思われてならないのである。あ、それから、邦題にある「王妃」という言葉が楊貴妃を指しているなら、正しくない。「皇妃」というべきであったはず。そして、繰り返しだが、なぜに KU と KAI が分かれているのか・・・。それこそが謎である。

by yokohama7474 | 2018-04-03 00:06 | 映画 | Comments(0)  

グレイテスト・ショーマン (マイケル・グレイジー監督 / 原題 : The Greatest Showman)

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名実ともに現代を代表する俳優のひとりであるヒュー・ジャックマンは、「X-メン」シリーズにおけるウルヴァリンの役ではかなりハードなアクション俳優であるが、その一方で、「レ・ミゼラブル」で聴かせた素晴らしい名唱は忘れがたい。この映画もまた「レ・ミゼラブル」と同じくミュージカル映画なのであり、ヒュー・ジャックマンの歌を聴くことができるのが、なんとも楽しみであった。というのも、予告編で見たこのようなシーンが、極めて印象的であったからである。
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ここで後ろ向きのシルエットでその姿を見せるヒュー・ジャックマンが歌う "Ladies and Gentlemen, this is the moment you've waited for" (紳士淑女の皆さま、さぁお待ちかねです) という歌詞の語感がなんとも心に残ったのであるが、それはこの映画のクライマックスかと思いきや、なんとなんと、いきなり冒頭部分なのである。ヒュー・ジャックマン演じる興行主 P.T. (フィニアス・テイラー) バーナムの物語はこうして幕を開ける。舞台は 19世紀半ば。ここには、夢と野望を抱きつつ、公序良俗に反することも厭わず目的に向かってひた走り、そして偉大なる成功を収める男の姿、そしてまた、有頂天になって、一転奈落の底に突き落とされる男の姿が描かれている。設定は少し極端ではあるものの、多かれ少なかれ、誰の人生にもこのような浮沈があるだろう。小気味よいテンポで辿る P.T.バーナムの半生は、常にどこか人間的であるがゆえに、普遍性を持つものとして、見る者の心を揺さぶってくる。若き日のギラギラした感じから成功の美酒に酔いしれ、そして過信のしっぺ返しを受け、最悪の状況から、仲間たちに励まされて新たな一歩を踏み出すまでの数十年に亘る主人公の姿は、今年 50歳になるヒュー・ジャックマンの肉体によって、スクリーンに永遠に刻まれたと言ってよいだろう。
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予告編を見ただけでは分からなかったこの映画の侮れない点は、だが、タブーにまで挑戦しようかというその表現意欲にある。この映画のモデルになっているバーナムという人物は、かなり胡散臭い経歴の持ち主で、サーカスというよりは見世物を興行することで、世間の人気を得たようである。そのあたりをこの映画は、なかなか巧妙に描いている。普通人とは異なる人たち (その中には、それはさすがにメイクじゃないのと思われる人もいるが) を集めて興行を打ったこの人は、その点だけ取ってみれば、とても道徳的な人物ではなかったようである。このような実在のバーナムの肖像を見ると、うーん、やはりヒュー・ジャックマンとはちょっと違いますねぇ (笑)。ただ、その視線はまっすぐだ。
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この映画にはまた、常にバーナムのやり方に反対する人たちが出てきて、彼らの使う言葉は「フリークス」である。映画史的にはトッド・ブラウニングの古い映画 (1932年) で知られている言葉ではあるが、そのような言葉が現代の映画に出て来ることには、正直驚くのである。これは、バーナムと、その劇団で活躍した親指トム将軍、本名チャールズ・ストラットンの写真。
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そして、バーナムのことを最初は蔑みながら、ともに米国各地で公演を続けるうちに感情移入して行ってしまうスウェーデン出身の実在のオペラ歌手、ジェニー・リンド (1820 - 1887)。この映画の中では彼女の歌は全くオペラ風ではなく、現代のラヴ・ソングであったが、一部のクラシックファンは、もしかするとそのことに異を唱えるかもしれない。だが私は、これはこれでよいと思う。映画の流れの中で、ここだけオペラのアリアになっても、観客がすんなり入り込めるとは思えないからだ。ここでリンド役を演じるレベッカ・ファーガソンもリンドと同じくスウェーデン出身で、このブログでも何度かその活躍ぶりをご紹介した。大スターでありながらひとりの女性でもあるリンドの姿を、説得力ある演技で美しく見せてくれた。これが実際のジェニー・リンドと、彼女を演じたファーガソンの比較。いずれ劣らぬ美人ではある。
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この映画でほかに印象に残ったのは、主人公の相棒役を演じたザック・エフロン。彼の過去の出演作を見た記憶はないが、なぜかその顔には親しみがあって、役柄にぴったり合った演技であったと思う。この酒場での歌と踊りのシーンではヒュー・ジャックマンとの息もぴったりで、何とも粋であったし、空中ブランコのシーンもさまになっていた。実際にかなりマッチョな人であるらしい。
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監督のマイケル・グレイシーも耳になじみのない名前だが、それもそのはず、実はこれが長編デビュー作。ヒュー・ジャックマンと同じオーストラリア出身とのことなので、やはりこの映画を作る上での主導権は、かなりジャックマンにあったのかもしれない。だがここでのグレイシーの演出はなかなかにキレがよく、驚くような映像も何度となく見せてくれる。この映画の成功によるものであろうか、次回作はあの日本のマンガ「Naruto」の映画版であるそうだ。
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それから、ミュージカルであるからには、音楽も大事な要素であるが、ここでの音楽スタッフはあの「ラ・ラ・ランド」と同じ。なるほど、メインテーマや "This is Me"、"Rewrite the Stars" などはなかなかよい曲である。演技も歌も高次元で達成された、素晴らしい映画であった。最も偉大なショーマンに、拍手!!
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さて、最後に 2つの点に触れて終わりにしたい。まず第一は、この映画におけるバーナムのサーカス団の人たちが放つメッセージである。ここでは普通の人間と異なるユニークな人たちが、自らを鼓舞し、自信を高めるさまが描かれるが、米国の現状を思い起こすにつれ、これは、マイノリティが白眼視されかねない現政権の状況に対するアンチテーゼのように思われてくる。いやもちろん、この映画の企画は現政権発足前に遡る可能性大であるが、それでも、公開時に米国ではそのようなイメージが付与されたことは、想像に難くない。それゆえであろうか、米国ではこの作品に対する評論家の評価は二分されたという。映画とは常に時代と切り結ぶものであり、今後この映画を人々が見るときに、きれいごとではないマイノリティの主張に耳を傾ける必要について、思い当たることになるかもしれない。それからもうひとつのポイントは、ここで主人公バーナムが追い求めている The Greatest Show である。この映画を見る人には明らかだと思うが、それぞれの人にとっての「最も偉大なショー」は、その人の人生そのものにほかならない。だから我々は、どんな状況でも前を向き、たとえ挫折しても元気を出して、自らが監督を務めるステージを全うする必要があるのである。The Show must go on!!

by yokohama7474 | 2018-04-01 23:05 | 映画 | Comments(0)  

ダウンサイズ (アレクサンダー・ペイン監督 / 原題 : Downsizing)

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地球上の人口が過多となったとき、何か抜本的な対策があるだろうか。もちろん昔から、他の星に移住するという設定の SF 作品は数々あった。確かにそれは、費用もかかりリスクもあるが、発想としては自然である。だが、それ以外に何か策はないだろうか。あるある。地球にスペースがなくなったということなら、スペースを作ればよい。いや、それはおかしい。スペースがないから問題なのではないか。スペースを作ることなどできない。そうだ、人間がそのままの大きさである限り。つまり、人間のサイズを小さくすれば、問題解決ではないか!! というわけで、この映画はそのような設定になっている。どのくらい小さくするかというと、1/14。よって、180cmの人であれば、上の宣伝文句にある通り、身長約 13cmになるというわけである。そうなってしまうと、狭い自宅の土地も夢のような広さ。一般庶民がいきなり大富豪である。こんな結構な話はない・・・と本当に思うかどうかは別として、この映画はつまり、今目の前にある世界とは別の世界に入って行く勇気を持つことで、これまでの生活における不満から脱却することを目指す人々の物語である。主演はこの人、マット・デイモン。一足先に小さくなった友人と真剣に話しております。
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このように突飛な設定の映画であるから、深刻さはあまりなく、コメディ映画と言ってもよいだろう。その証拠として、マット・デイモンの妻の役を演じるのクリステン・ウィグは、米国ではかなり有名なコメディエンヌらしい。リメイク版の「ゴーストバスターズ」などに出演していたらしい。だがこの映画での演技自体はそれほど大げさではなく、こんな状況ならこんなパニックになるかもしれないといったレヴェル。このシーンは、小さくなることを決意した 2人が、現在の生活で大事にしているもの (お互いの結婚指輪とか) を収めた箱を持って出かけるところ。
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設定はなかなかよく考えられていて、人間の細胞は小さくできるものの、人工物はそうはいかないから、人工関節を入れている人は小さくなれない。だが、例えば歯の詰め物であれば、すべて除去した上で小さくなり、そちらの世界でまた詰め直すといる段取りとなる。全身の毛を剃られ、こんな感じで小さくなるのである。
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人類縮小計画は、希望者だけに対して実行され、実用化されて何年も継続するうちに、既にかなりの実績が上がってきているという設定。からだが小さくなっても、こんなミニチュアの街ができていて、虫や動物が入ってこないよう、上空は密閉されている。ほほぅ、これはやはり、快適なユートピアでしょうかね。
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と、ここまで時に妙な距離感を込めて文章を書いているのは、正直なところ私はこの映画を、そもそもの着想以外には、あまり面白いと思わなかったからである。つまりここには、「人が小さくなる」という特異な設定をどのように使ってストーリーを紡ぎ出そうかという工夫が、あまりあるようには思えない。もちろん、あるドラマが起こる設定にはなっていて、その前提は、本来なら自らの意思でダウンサイズする人たちばかりであるはずが、実はそうではないという事実が発覚することである。だが、そのドラマが一体どれほどの人に強く訴えかけるだろうか。誰にでも分かることには、この映画には悪役は一切登場しない。よくありがちな、自らの利権に目がくらんだ巨大企業の陰謀や、地球の制服を目論むマッドサイエンティストは出て来ない。カーチェイスもなければ銃撃戦もない。知恵と体力の限りを尽くす「ジェイソン・ボーン」シリーズのような肉弾戦もない。その意味では今どき珍しいタイプの映画であり、もしかするとそこに、通俗的な娯楽映画とは異なる、なんらかの社会的メッセージを読み取るべきであるのかもしれない。だが私には、そこも今一つピンと来なかった。もともとブラックコメディの要素を追求するなら、それにふさわしい役者を配し、もっと意外な事態の展開を描くべきだったろう。ここには、過酷な運命のどうしようもない強い力によるドラマ性は感じられない一方で、北欧の自然を通した何かスピリチュアルなものへの指向は明らかである。そこに、環境問題、移民問題、家庭の問題、そのような現代のヴィヴィッドな問題の数々は結局、この地球自体が堕落しているから起こっているのだという諦観を感じるのは私だけだろうか。もしそうなら、この描き方では、そもそもの地球の問題点が仮借なく迫って来ないし、悪人が出て来ない点による力点の不足があるように思う。それだけではなく、ここでの役者たちは、主演のマット・デイモンを除くと、どうも印象に残らない。いつもながら奇妙な笑顔のクリストフ・ヴァルツとか、ちょっとだけ出ているローラ・ダーンなどはともかく、ヴェトナム人家政婦という役のホン・チャウなどは、その東南アジア英語を含め、私としては苦手なタイプ。ここにアジア系移民についての何かのメッセージがあるのかもしれないが、映画のドラマ性という点では、残念ながら彼女はそれほど貢献していたとは思えない。ただ、ひとつ明確なメッセージとして受け取ったのは、マット・デイモン演じるポール・サフラネックは、ダウンサイズする際には、ある種の裏切りに遭ってしまうわけだが、この映画のラストでは、同じ裏切りに再度苛まれることはない。ここには、運命を克服する善き人間が描かれている、ということは言えるだろう。未だダウンサイズを決意する前の善き人の姿。
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この映画の監督アレクサンダー・ペインは、製作と脚本にも参画している。この名前にはなじみはなかったが、「サイドウェイ」「ファミリー・ツリー」という 2本の映画 (ともに監督も兼任) でアカデミー脚本賞を受賞しており、カンヌ国際映画祭の審査員にも選ばれているらしい。ふーん、それは大した実績だ。ではこれに懲りず、今後に期待することとしよう。
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とりあえず、人間が今のままのサイズで繁栄を続けんことを。

by yokohama7474 | 2018-03-31 21:32 | 映画 | Comments(0)  

15時17分、パリ行き (クリント・イーストウッド監督 / 原題 : The 15:17 to Paris)

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たまたましばらく前の「The Beguiled / ビガイルド 欲望のめざめ」の記事でもその名に触れたクリント・イーストウッドであるが、そこで紹介した 1971年の映画「白い肌の異常な夜」(うーん、何度見ても異常な邦題だ) に出演した彼は、それまでのマカロニ・ウエスタンからハリウッドに進出し、その「白い肌の異常な夜」と同じ年に同じ監督の手によって作られた「ダーティハリー」で大ブレイクしたわけである。その後の彼の活動は、文字通り映画史に残る偉大なものであり、実に 87歳に至った今日でも、コンスタントに作品を世に問うていることは、まさに人間技を超えている。前作「ハドソン川の奇跡」も実話に基づくハードな内容であったが、今回はさらに意欲的な作品になっている。ここでは、アムステルダムからパリに向かう列車の中で、テロリストに立ち向かい、大量虐殺を未然に防いだ若者たちの物語が語られる。だが、ここで驚くべきは、その英雄的なことを成し遂げた若者本人たちが、ここで自らの役を演じていることだ。こんな映画、前代未聞であろう。
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主人公は、白人 2人に黒人 1人の 3人組。彼らはカリフォルニア、サクラメント出身の幼なじみ。このような写真を見ると、役者ではなく、本当に一般人であることが分かる。
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事件が起こったのは 2015年 8月21日。米国からヨーロッパに旅行に来て、アムステルダムからパリに向かう途中の列車の中。銃を持ったテロリストがその列車の中で大量殺戮を目論んだが、たまたま乗り合わせた彼らによって阻まれることとなった。ということは、つい 2年半ほど前の話であるのだが、これほど最近の事件をこのように迫真の映像で撮った映画がかつてあっただろうか。イーストウッド自身の「アメリカン・スナイパー」や「ハドソン川の奇跡」、あるいはキャスリン・ビグローの「ハート・ロッカー」や「ゼロ・ダーク・サーティ」に比べても、より生々しい題材であるのだ。80代後半に至った監督の心意気たるや、恐るべし。実際ここでは、隅から隅まで、実にリアルに物事が展開して、眩暈がするようだ。但し、主人公 3人の少年時代を除いて。さすがにこの少年たちと、その母親は、役者が演じているのである。これらが、実際にトラブルを経験した本人たちと、その少年時代を演じる子役である。なかなかうまい子役を探してきたものだ。
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ただ、ここで予告編での謳い文句と本編の違いを述べるとするなら、予告編では、ごく普通の青年たちがテロを防いだように見えたものだが、実際には軍隊でテロ対策及び人名救助の訓練を受けた人が、勇気ある行動を示したのである。そうでないと、こんな風に狙われて、
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こんな風に反応できませんよ。
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まあ実際ここにはラッキーな要素もあったのだが、それにしても、敵に立ち向かう青年の勇気には、本当に感銘を受ける。もし自分がその立場にいれば、たとえ訓練を積んでいたとしても、果たして同じことができるであろうか。そして大変興味深いことに、ここで命をかけてテロを防いだ青年、スペンサー・ストーンは、画面を見る限りどうやら、多少コミュニケーション障害のようにも見える。その生々しさは、ちょっとほかの映画で見たことがないようなものである。それから、これは多少ネタバレかもしれないが、青年たちと一緒に列車の中で被弾した人を助ける医師 (であるか否かすら、劇中では明らかにならないのであるが)、そしてその被弾した人も、本人役を演じているのである。これは実に呵責ないことである。つまり、テロリストに撃たれ、実際に生死の境をさまよった人が、そのようなシーンを再現するのであるから。もし私がそのような経験を持っていたら、もう思い出すのもいやになるはず。それから面白かったのは、これらテロを防いだ功労者たちが叙勲されるシーン。ここでは、本物かと見まがうばかりのオランド元首相を演じる役者が出ているのである。ええっと、これは多分、本物の叙勲時の写真。映画をご覧になった方は、是非映画の中のシーンと比べてみて頂きたい。あれっ、これが映画の中のシーンかも (笑)。
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もちろんこの映画の趣旨は、実際の事件に遭遇した本人たちの勇気を称えることにあるにせよ、その一方で、現代世界のリアルな姿を、切実感をもって描いているとも思う。例によって多くを語り過ぎないイーストウッドの演出は、何よりも事件の当事者を使って衝撃的な事件を再現することにより、有無を言わせぬ迫力を作り出したのである。若者らしく、チャラチャラしていてもよい。いざというときに人生の真価が試されるのである。衝撃の事件を経験して、若者たちの人生の年輪が増えることに、ポジティブなものを見たいと思う。そう、あのクリンント・イーストウッドとお近づきになれるなんて、普通ではありえないことだ。
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クリント・イーストウッド。老境に及んでなお、まさに映画の地平を広げつつある偉大な存在なのである。

by yokohama7474 | 2018-03-28 00:28 | 映画 | Comments(0)  

The Beguiled / ビガイルド 欲望のめざめ (ソフィア・コッポラ監督 / 原題 : The Beguiled)

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この白い色合いに女優が 3人。なんともエレガントのように見えるが、また少し嘘っぽいようにも見える。しかも、副題に「欲望のめざめ」などとあって、何やら怪しげで、あまり爽やかな感じはないのである。だが、映画に興味を持つ人はやはり、これを見るべきであろう。それは、この人が監督であるからだ。本作においては、製作と脚本も兼ねている。
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1971年生まれ、ということは既に 46歳ということになるが、現代における才能ある映画監督のひとり、ソフィア・コッポラである。言うまでもないが、あのフランシス・フォード・コッポラの娘である。監督作としてはやはり「ロスト・イン・トランスレーション」が印象深いし、役者としては何と言っても「ゴッドファーザー Part III」におけるアル・パチーノの娘役であろう。ところが彼女は実は、この「ゴッドファーザー」シリーズ 3作すべてに出演しているのである。いやいや、嘘でしょう。だった「ゴッドファーザー」の 1作目はいつの作品だったろうか。調べてみるとそれは 1972年。ということは、このソフィア・コッポラは当時、たった 1歳ではないか!! そう、劇中でタリア・シャイア (もちろん、フランシス・コッポラの実の妹だ) の息子であり、その兄、アル・パチーノ演じるマイケル・コルレオーネが名付け親となった赤ん坊、マイケル・フランシス・リッツィは、このソフィア・コッポラが「演じた」役だったのである。女の子が演じた男の子役。ということはソフィアは、生まれた頃からジェンダーには敏感であったのかもしれない。
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そんなソフィア・コッポラの最新作であるこの映画の題名 "Beguiled" とは、私もなじみのない言葉であるが、beguile (だます) という動詞の過去分詞なのである。ええっと、高校のときに習った英語では、過去分詞に the をつけると、そのような特色を持つ人を指す。つまりこの言葉の意味は、「だまされた人々」という意味になる。この映画の設定は 1864年。米国を二分した南北戦争のさなかである。南軍の支配地で女子だけが暮らす寄宿舎に、傷ついた北軍の兵士が匿われる。そこで、女教師とその助手、そして教え子の合計 7人が、何やら欲望をめざませる (?) ことになる、というお話。
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この写真で左右に立っている 2人と、真ん中に座っている 1人の合計 3人が、上のポスターにその姿を見せている 3人。年齢順に、ニコール・キッドマン、キルステン・ダンスト、そして、あの天才女優エル・ファニングである。この中で、キルステン・ダンストは私は以前から (「スパイダーマン」のヒロインを演じていた頃から) どうも苦手なのであるが、ほかの 2人は大ファンなのである。そういえばつい最近も、このニコール・キッドマンとエル・ファニングが共演した映画の記事を書いた記憶がある。残念ながらその記事のアクセスは非常に少ないので、ここでリンクを張っておこう。

https://culturemk.exblog.jp/26366560/


もう一度、この 3人の女優の写真を掲げておこう。本編にはこのようなシーンは登場せず、飽くまでイメージショットなのであるが。おっとここには、3人の女優以外に、右端に髭面の男が見える。

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そう、コイツが、女の園をかき乱す北軍兵士である。なにせあのエル・ファニングが、こんなことになってしまうのだ。こらこら、近い近い!!

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この北軍兵士を演じるのは、これも名優であるコリン・ファレル。こらこら、髭を剃っても、近い近い!!

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この映画、見る人の人生が変わるほどの出来とは思わないが、ここでソフィア・コッポラが描きたかったことは、なんとなく分かる気がする。ひとつは、南北戦争。国が分断されたこの頃から、米国は栄光の歴史を刻んできたはずだが、昨今の情勢を見ると、果たしてそうなのか、ちょっと疑問に思うところもある。そのことに対する危機感があるだろう。そして、そのような国レヴェルではなく個人レヴェルで見たときに、女同士で起こる確執というテーマもあるに違いない。キリスト教の教えに基づいて敬虔で貞節な生活を送るべき寄宿舎の女性たちが、たった一人の男の存在によって、徐々にいがみ合うようになり、狂気すれすれの思い切った行動に出る。思い出してみれば、この作品の冒頭は非常に印象的なのであるが、それは、ひとりの少女の視点から森の中を見たもの。彼女は歌を口ずさみながら食糧になるキノコを採りに来て、そして傷ついた北軍兵士を見つけるのであるが、冒頭からのその流れは、何気ないものでありながら、純粋なものが汚されて行く序奏にふさわしく、イノセントでありながら黒い予感に満ちたもの。そしてこのキノコは、映画のクライマックスでまた重要な意味を持つのである。ソフィア・コッポラはこの映画の設定について、以下のように語っている。


QUOTE

私は集団内での人間関係というものにずっと興味があるの。特に女性同士のね。女性同士が接する時の機微ってすごく微妙じゃない? 男性はもっとはっきりしてるけど。(中略) 今回は、人生のステージが異なる女性同士の関わり合いを描いてみたかった。

UNQUOTE


なるほど、やはり彼女はジェンダーにもともと興味があって、ここではいわば、密室での実験をしているような感覚で映画を作っているのだろう。正直、女性同士の確執の行き着く末については、私としてはもっともっと呵責ないものを描いて欲しいと思ったのだが、とはいえ、そこに至る過程では、監督の目指すところはかなり明確に表現されていると言ってよいだろう。ところでこの作品には原作があって、それは、トーマス・カナリン (1919 - 1995) という作家 / 脚本家の手になるもの。実はその作品は、原作者が未だ生きていた頃、1971年 (ちょうどソフィアが生まれた年である) に映画化されている。この作品、原題は今回と同じ "The Beguiled" なのだが、邦題がすごい。「白い肌の異常な夜」というのである!! なんじゃそりゃ (笑)。その作品、北軍兵士を演じたのはクリント・イーストウッド。監督は彼の出世作「ダーティハリー」の監督であるドン・シーゲルだ。いやー、このポスターはほとんどポルノまがいではないですか。勘違いしてドキドキしながら劇場に向かった男性も多かったのでは?

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以前も書いたが、今年未だ 20歳というエル・ファニングは、やはり特別な才能を持った女優であると思う。実は、ソフィア・コッポラの父親であるフランシス・フォード・コッポラも、彼女を主役に映画を撮っているということをご存じだろうか。押しも押されぬハリウッドの大御所でありながら、最近その活動ぶりをとんと耳にしない彼の、現時点での最新作「Virginia / ヴァージニア」(原題 : Twixt) である。2011年の作品で、日本での公開は本当に細々としたものであったが、もちろん私は封切時に劇場に足を運んでその映画を見た。いかにも低予算ながら、ファンタジー溢れる佳作であったので、コッポラファンには絶対にお薦めである。これがその作品でヴァル・キルマーと共演するエル・ファニング。当時 13歳。

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そう、遠からぬうちに現代最高の女優になる可能性を秘めているエル・ファニングは、コッポラ父子の作品に出演することで、その階段を登りつつあるのである。これからも大注目であります。


by yokohama7474 | 2018-03-25 00:01 | 映画 | Comments(0)  

スリー・ビルボード (マーティン・マクドナー監督 / 原題 : Three Billboards outside Ebbing, Missouri)

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日々の生活の中で、はっとする偶然に出会うことがある。もちろん、例えば何かあることを考えているときに、それに関連するものが目に入ったりすると「すごい偶然だ」と感じるわけであるが、実際のところ、人の意識は常に流れていて、目の前にあるものは意識の中にあるものと関係ないことがほとんど。なので、たまには偶然、目の前にあることが自分が考えていたことと一致しても、ことさら不思議ではないと言えるのかもしれない。だが、文化の諸相において、奇妙な偶然はときにインスピレーションと呼ばれ、人間の想像力の源泉と考えられるものである。たとえ偶然であれ、人の内部で考えられることと、外部で発生することに因果関係があると捉えると、世界が広がるとは言えるだろう。・・・なぜにこんなことを書いているかというと、この記事を書き始めた 3/21 (水・祝) の夜、レイトショーである映画を見に行くために出掛けようとすると、書斎の床に置いてあるかなりの数の (ええ、かなりの数の!!) 未聴 CD の山の 1枚にちょっと足が触れて、蹴飛ばしてしまったのである。拾い上げてみると、それはソプラノ歌手キリ・テ・カナワの歌うカントルーブの「オーヴェルニュの歌」という歌曲集の CD だ。そのとき、稲妻のように私の脳裏に走るものがあった。実は、その直前にまさに記事を書き始めていたこの映画は、かなり以前に鑑賞したものなのであるが、その冒頭とラストに、どこかで聴いたことのある歌が使われていて、私はそれを確か、この「オーヴェルニュの歌」の中の 1曲ではなかったかなと思い、これは記事を書く前に確かめないといかんなと思っていたのだ。だが、その後の出張や、連日のコンサート通いとその記事の作成に追われ、なかなかこの映画の記事にまで至らなかった。そうこうするうちに時間が経って、アカデミー賞の発表があり、この映画でフランシス・マクドーマンドがアカデミー賞主演女優賞、サム・ロックウェルが助演男優賞を獲得するという事態も出来したが、それからでも随分と日数が経ってしまっている。そんな状態で、ようやくこの映画の記事を書き始めた。だが、冒頭がなかなかうまく行かず、何度か書いては消して、納得いかない内容でとりあえず下書き保存して、さてレイトショーに出掛けようと思った矢先、この CD を蹴飛ばしてしまったというわけである。ビビビと何かに撃たれた私は、レイトショーから帰ってきて、それまでに書いていたこの映画の記事の冒頭部分をすべて削除し、この話題から始めたというわけだ。

とまあ、書き出しが長くなってしまったが、奇妙な偶然に導かれて私が舞い戻ってきたこの映画。これは本当に素晴らしい作品である。一言で要約するならば、人生のエッセンスが、よいこと悪いこと、すべてぎゅっと詰まったような作品である。今年これまでで見た中では、間違いなくベストを争うものであろう。予告編で明らかになっていたストーリーは、中年女性が娘を殺されるという悲劇に出会うが、なかなか犯人が捕まらないことに業を煮やし、自宅近くの道路沿いに立っている大きな立て看板 (ビルボード) 3枚に、警察を非難する文章を入れる。それを見た警察との間にいざこざが起こり、やがて事態は思いもよらない方向へ。このような立て看板が、人々の運命を動かすことになるのである。
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それにしても、このストーリー展開は全く先を読ませない意外性を常にはらんでいて、画面を見ながら「あっ、そんな!!」とつい叫びたくなるような意想外の事態が矢継ぎ早に起こるのである。この映画には、いわゆる悪人は登場しない。だが、登場人物のそれぞれに、逞しく戦う姿勢と、人間としての弱さが同居していて、それらの要素が複雑に絡み合うことで、実に意外性に富んだ展開となって行くのである。主演のフランシス・マクドーマンドは、私が深く敬愛するコーエン兄弟の片割れ、ジョエル・コーエンの妻であり、コーエン兄弟のデビュー作「ブラッド・シンプル」以降、彼らの作品の数々に出演している。その中には例えば「ファーゴ」のような作品もあって、そこでは、悪気はないが要領の悪い男が、ちょっと嘘をついたばっかりに、どんどんどんどん取返しのつかない方向に運命の歯車が回り出すという設定が、ブラックユーモアを交えて描かれていた。実はこの「スリー・ビルボード」も、それに近いストーリー展開となっている。だが、「ファーゴ」に比べるとこの映画の方が、より救いのない内容であると思う。それというのも、登場人物たちの人間像に奇妙なリアルさがあるからではないか。もちろん主演のフランシス・マクドーマンドの演技は大変素晴らしい (もっとも、そのセリフには何度も 4文字言葉が飛び交い、決してお上品な役柄ではない)。彼女としても会心の演技であるだろう。そして、警察署長を演じるウディ・ハレルソン、その部下を演じるサム・ロックウェルも、それぞれ難しい役柄を、素晴らしく演じている。そう、アカデミー助演男優賞を獲得したサム・ロックウェルの演じる警官の、尊大でありながら実は愛情深く、その一方で自分の持つ権力に安住し、弱い者たちを攻撃するという複雑な性格は、この映画のドラマを大変深いものにしている。人間というものは弱い面が必ずあり、卑怯で臆病であるがゆえに威張りちらすことがある。だがその一方で、そのような人の心の底には、実は善が眠っているケースもあるのである。
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この映画は完全なフィクションであるが、奇妙なリアリティがあるのは、中西部の架空の街、ミズーリ州のエビングの様子がリアルに描かれているからだろう。この映画の原題は、「ミズーリ州エビング郊外の 3枚の立て看板」という意味であるが、田舎の街のそのまた郊外という設定の中に、米国の人たちのリアルな生活ぶりが透けてみえる。彼らはそれぞれに不安や不満を持って暮らしており、凶悪犯罪が起こりうる土壌もそこにある。もちろん人種問題は深い根を下ろしている。ここには今日の米国のリアルな病巣が描かれているのだろう。だがしかし、面白いのは、この映画の設定は、どうだろう、1990年代前半というイメージだろうか。携帯電話は未だそれほどポピュラーではなく、もちろんインターネットが人々の生活を支配しているということもない。私の見るところ、これには理由があって、主人公の女性が起こす大胆な行動は、ネット社会においては SNS で瞬時にして世界に発信されるであろうところ、この映画の設定では、そんな要素があると邪魔になるからだ。彼女は警察を非難するために、ネットで情報を拡散させることはなく、ただその場所を通った人たちだけが認識する郊外の立て看板を利用する。狭い街ゆえ、それは人々の噂として拡散する。そこにはまた、田舎街の人々の Society のあり方が反映されるだろう。かくして主人公の女性は、常にファイティングポーズを取り、真犯人の追求とは異なる次元での、切実なる空回りを演じることになるのである。これは笑えない。だが決して陰鬱なものでもない。人生とは、そのような複雑な要素のアマルガムであるのだ。
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ある意味でこの映画は演劇の脚本のようなイメージを持つ。それもそのはず、この作品の監督マーティン・マクドナーはもともと英国の劇作家で、本作においても製作・脚本を兼ねているからだ。1970年生まれの 47歳だが、既に人生の年輪を刻み込んだような味のある顔をしている。これは只者ではないだろう。この人の戯曲は是非読んでみたいものだが、調べたところ、日本で翻訳は出ていないようだ。今後の出版に期待したい。
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このように、複雑な人間群像をもって骨太のストーリーを鮮やかに演出した素晴らしい映画であるゆえ、人間の真実について考えたい人にはお薦めである。そして、冒頭に書いた通り、この曲の開始部分と終結部分に流れる美しい歌は、私が手元の CD で確認したことには、フランスの作曲家ジョゼフ・カントルーブ (1879 - 1957) の歌曲集「オーベルニュの歌」から、「バイレロ」という曲。実は、鑑賞時にエンドタイトルを見て、歌っている歌手は確認できていた。それはルネ・フレミング。この「夏のなごりのバラ」というアンソロジーに含まれている録音だろうか。赤裸々な人間の姿を描いた映画の中で、見る人にカタルシスを与える音楽であり、本当に気の利いた劇中音楽になっていると思うのである。
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by yokohama7474 | 2018-03-22 23:54 | 映画 | Comments(2)  

マンハント (ジョン・ウー監督 / 原題 : Manhunt)

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前項に引き続き、アジアの映画である。あの名匠ジョン・ウーの新作で、福山雅治が主役のひとりを務める。私はこの、中国生まれ香港育ちの監督の作品には、「男たちの挽歌」シリーズに始まり、「フェイス / オフ」や「M:I-2」などのハリウッド映画でも親しんできた。なのでこの映画は是非見たいと思ったのである。
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だが、あぁなんということ。私にとってこの映画は、苦痛以外の何物でもなかったのだ。日本・中国・韓国の俳優たちを使い、それぞれの母国語に加えて英語で語られるこの映画は、ある意味で東アジアの映画文化の結集であるはず。それなのに、最初から最後まで、私はほとんど感情移入できなかった。不自然な設定、意味の分からない群舞シーン。テレビドラマのような色仕掛け。あり得ない警官の逃亡。それを受け入れる人たちの存在感のなさ。凝りすぎの英語のセリフを無理して語る日本人俳優。太っていて、顔もプロフェッショナリズムを感じさせない、監督の娘である残念な女優。本当に、唖然とするほど痛い映画であるというのが、私の正直な感想なのである。別に、役者のセリフと口の動きが合っていないからといって、それを非難する気はない。ただ、映画、いや、ジョン・ウーの映画に本来備わっていたはずのテンポ感がこれだけないと、感情移入しろという方が無理な相談だ。中国映画も日本映画も、そしてもちろん韓国映画も、それぞれに素晴らしい特性を持っているのに、それらを併せようとすると、なぜにこれほどクオリティが落ちてしまうのだろうか。私はそれを考えたときに、もしかしてこれは東アジアの抱える様々な問題点を体現している映画なのかもしれないと思い至った。まぁそれは考えすぎなのであろうが、これだけ映画の内容が低調だと、そうでも思わない限りやっていられないではないか。

そんな中、唯一興味深かったのは、この役者の出演だ。
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これは誰あろう、往年のアクション映画で大活躍していた、あの倉田保昭なのである!! 人呼んで「和製ドラゴン」。これはめちゃくちゃ懐かしく、70歳を超えた今でも、このような渋い役を演じ、そしてついにはアクションまで披露してしまう彼の姿には、感動を禁じ得なかった。
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これ以上この映画について語ることはない。本当に残念だ。

by yokohama7474 | 2018-03-17 22:42 | 映画 | Comments(0)  

悪女 / AKUJO (チョン・ビョンギル監督 / 英題 : The Villainess)

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またまた超絶の韓国映画である。昨年のカンヌ映画祭で上映されて話題騒然であったと聞くが、いやはや、さもありなん。まず冒頭のシーンからして唖然。宣伝にも使われている Vanity 誌の「脳裏に焼き付く、冒頭 7分間のノンストップ・アクション」という評価をここで挙げておきたいが、詳細に触れるのはやめておこう。この驚愕の冒頭シーン、全く先入観なしに見るべきである。ただ、一言だけ述べるならば、殺戮の果てにカメラがくるっと回るその瞬間には、なんとも言葉で表現できない衝撃がある。ここで、数知れぬ屈強な男たちと、全くからだひとつで闘っている女性のその姿に、まずはペースをがっちりと掴まれるのだ。そして、疾走するストーリーをすべて経てからのラストシーン。正直、この「悪女」という題名には、本編を見ながら少し違和感があったのだが、最後のシーンには鳥肌立ちながら納得。なるほど、英語では Villainess、まさに悪女なのである。人間とは、なんと怖い存在なのだろう。そんな根源的なことをこんなに切実に感じさせてくれる映画は決して多くないが、お隣の韓国では、これまで作られてきた数々の呵責ない映画に加えて、またこのような驚くべき作品が世に問われるわけである。これは本当にすごいことである。もちろん、役者の中での最大の功労者は、主演のキム・オクビン。
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この極めてハードな映画のアクションシーンを、90%ほども自身でこなしたというから驚きだ。もともとテコンドーで黒帯という高い身体能力を持っていながら、そもそも韓国映画では女性が主人公としてハードなアクションを演じることが少ないので、その点への戸惑いを持ちながらの演技であったらしい彼女は、この映画について、「骨の髄までしびれるほどの苦痛を伴った作品なので、観るたびに痛みを思い出します」と語っている。いやはや、さもありなん。観客のひとりひとりが、その映像を見て、骨の髄までしびれるのである。ええっと、このイラストはちょっと違うかな (笑)。
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実際、このキム・オクビンが演じるヒロインは、自らの哀しい運命に身を委ねながらも、いざというときには頼る者は自分しかいない、そんな極めて厳しい環境で逞しく生き抜いてきた女性である。だがその一方で、愛する夫や娘との時間をこの上なく大事にする、極めて優しい心根を持った人であることが、この映画では巧みに描かれているのだ。これがその、素顔のキム・オクビンとその夫役、そして娘役。いい表情ですね。
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この映画では、二転三転するストーリーが面白いので、それだけで充分に楽しめるのであるが、ただ、殺戮シーンは極めて生々しいので、その点にはちょっと抵抗ある人もいるだろう。日本での公開は R15 であったのは、そういうことだと思う。だがこの残虐性にどこかユーモアがあったり、見て行くうちに、そこに描かれた人間そのものに気づくのが、いつもながらの韓国映画全般の特徴だ。そう、殺し屋は、自らの結婚式の当日ですら、式場のトイレでこのような任務を請け負うことになるのである。この長いドレスが、殺戮の運命と響き合って、なんとも哀しい。
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この映画は、過去の女性殺し屋もの、例えばリュック・ベッソンの「ニキータ」などの影響を受けているようだが、ひとつ面白いことに気がついた。それは、ヒロインが家で襲われ、男たちをなぎ倒すシーンで、巨漢を倒し、その首にロープを巻き付けて、自らは窓から外に飛び出すところ、その巨漢の死骸がバルコニーでの重しとなって墜落を免れるというもの。その、乱暴でいながら (笑) 独創的な発想には舌を巻いたが、実はこの映画を鑑賞したあとに飛行機の中で見た映画でも、全く同じシーンがあったのだ。それは、シャリーズ・セロン主演の「アトミック・ブロンド」なのだが、一体どちらが模倣したのであろうか。調べてみると、「アトミック・ブロンド」の米国公開は 2017年 7月。一方この「悪女」は、ほぼ同時期、2017年 5月にカンヌで上映されている。ということは、どちらかの脚本が事前に流出しない限り、模倣は無理なわけである。これは不思議な偶然か、あるいは、既に先立つ作品がほかにあったのだろうか。いずれにせよ、そのシーンはこの映画の驚天動地の映像のひとつに過ぎない。ここで繰り広げられる肉弾戦には、バイクに乗っての日本刀での斬りあいとか、爆裂感溢れるカーチェイスとか、それはそれは強烈なものばかり。おいおい、何もそこまでめちゃくちゃな設定にせんでもよいだろう!! と思うこと必定だ。だって、斬りあいをするなら、高速で走るバイクの上ではなく、ちゃんと地上に降りてからでよいではないか (笑)。
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ここでいつもの私の持論。こんな嘘っぽいシーンに観客が乗れるということは、映画のウソがさまになっていることで、それは取りも直さず、よい映画だということだ。この映画を撮った監督はチョン・ビョンギルという人。自身がもともとスタントマンという経歴の持ち主で、これまでの代表作は「殺人の告白」。これは日本でも「22年目の告白 - 私が殺人犯です」としてリメイクされ、このブログでも採り上げた映画のオリジナル。私はこの映画も飛行機の中で見たが、日本のリメイク版とは後半が異なっていて、よりエグい内容になっている。今年 38歳になる、こんな人懐っこい監督さんだ。ハードでエグい映画を撮るからといって、それは決して本人の素顔ではないことは、この世界にはよくあること。
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ここで繰り返そう。この映画において必見であるのは、冒頭とラストシーン。その間、観客はただ流れに身を任せればよい。実は、時間は前後するわ、信じていた人は裏切るわで、結構複雑なストーリーなのであるが、私としては、細部で理解できない点があっても、ただ気にせずに映画の流れに乗って行けば、ラストシーンで鳥肌立つ瞬間に出会えるものと思う。こんな映画、残念ながら日本では絶対にできないだろう。韓国映画は今後もきっと、ますます映画の地平を広げて行くに違いない。脱帽です!!

by yokohama7474 | 2018-03-17 22:18 | 映画 | Comments(0)