川沿いのラプソディ


川沿いの住まいから、音楽、美術、映画その他文化一般を語りつくします。
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メモ帳

カテゴリ:映画( 231 )

パンク侍、斬られて候 (石井岳龍監督)

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町田康原作、宮藤官九郎脚本、石井岳龍監督で、主演が綾野剛。なんと癖の強い人々による映画であろうか。映画の宣伝コピーのひとつは、「宇宙が砕けますよ」というもの。この映画に全くイメージのない人もおられようから、チラシから引用しよう。

QUOTE
町田康によって 2004年に記された小説「パンク侍、斬られて候」は、この世界の縮図であり、そして予言書であった。それはつまり、人間が起こすことができる破壊の臨界点と、人間がかすかに保てる希望の可能性であった。映画「パンク侍、斬られて候」はその恐るべきディストピア小説を可視化する。アニメーションではなく、実写でた。(中略) これは映画という名の劇薬だ。この映画に一千万人が共鳴したら、日本は終わるかもしれない。いや、この上ない幸福が訪れるかもしれない。それは、この劇薬を服するあなたが今、何を感じて生きているかによるだろう。
UNQUOTE
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なんとも大げさな物言いであるが、まあ確かに、このように仰々しく言いたくなる気持ちも分かる。ストーリーのひねくり回し方だけでなく、セリフや語りも、衣装や美術も、かなりパンク。そして出演している役者たちがまたすごい。豊川悦司、東出昌大、染谷将太、國村準、浅野忠信、北川景子、永瀬正敏など。これは只事ではない。ただ、既にこの映画は都内の 1軒の劇場で 1日に 1回上映されているだけなので、大ヒットした様子はなく、「一千万人が共鳴する」事態には、幸か不幸か達していないようだ。少なくともこの映画、万人が面白いと思うタイプでは全くなく、そもそもこれを見に行きたいと思うかどうかで、既に観客にふるいがかけられる。そして実際に見に行った人も、文句なしに面白いと諸手を挙げて喜ぶ人が、さてどのくらいいるだろうか。私個人の感想としては、この映画の意気込みは買うものの、その出来栄えには、少しクエスチョンマークなのである。

町田康もクドカンもよいのだが、やはり私の第一の興味は監督であった。石田岳龍。私などの世代では、石井聰互 (本当はこの「互」という字は旧字体? のようだが) という名前で親しみがある。「狂い咲きサンダーロード」「逆噴射家族」などで、若い頃からまさにパンクなイメージをもった人だが、2010年にこの岳龍に改名したらしい。現在 61歳。
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この映画で石井が描いてみせる世界は、それは大変混沌としていながら、大変にエネルギッシュなもの。ストーリーは、綾野剛演じる浪人が、ある新興宗教を敵視し、その宗教の信者とおぼしき怪しい者を切り捨てて、ある藩に入ってくる。その剣の腕前を見込まれて藩の中枢部に見込まれる浪人であるが、件の新興宗教への対処を巡ってお家の中の勢力争いが起こり、あらゆる策略が巡らされる中、その新興宗教が予想外の異常な盛り上がりを見せるというもの。大変に極端な内容ではあるが、人間社会の様々な要素が、グチャグチャにかき混ぜられて観客に提示される。そこには大小いろいろなレヴェルで、そしてあの手この手で、人間の弱さや可笑しみというものが表現されていて、思い返してみると、よくできていると思われる箇所も多々ある。だが、正直なところ私は、これでは少し詰め込み過ぎではないかと思うのである。原作を読んでいないので、これが町田の小説にそもそもある要素なのか、それともクドカンの脚本が、シャレではないがクドいのか、よく分からないが、これは見る者を置き去りにする映画である。せっかくこれだけの役者たちを使っていながら、こんなにあちこちでぶちまけてしまうと、ドラマが収れんしないので、ちょっともったいないことになっていると思う。好例がこの役者だ。
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若手俳優として大活躍の染谷将太だが、ここでは弱気な侍から、熱狂の伝道師 (?) への華麗なる転身が描かれるが、ちょっと表現過剰ではないか。これなら染谷でなくてもできる俳優がいるように思う。それから、この人は誰だろう。
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実は私は最後まで分からなかったのだが、これは浅野忠信。正体のよく分からない新興宗教の親玉 (なのかな? それもよく分からない) であり、自身ではほとんど言葉を発しない。わざわざ浅野にこんなメイクをさせてセリフをほとんど与えないという遊びは面白いとも言えるものの、ではこのキャラクターが見る者に大きな衝撃を与えるかと言えば、そうでもない。だからこれも、もったいない使い方だなぁと思うのである。それでは、これは誰でしょう。
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この等身大の猿は実は口もきけ、映画の語りも彼によるものだ。終盤では大きな役割を果たし、人間と猿の関係に関する人々の既成概念 (ってなんだ。笑) を打ち破る活躍を見せる。この猿を演じるのは実は永瀬正敏。彼の場合には語りが多いので、映画への貢献はそれなりにあるとは思うものの、まあこれも、普通に考えればもったいない使い方と言えるだろう。そんな中、私が感心したのはこの人だ。
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北川景子が演じるのは新興宗教に属する謎の女性であるが、ラストに至って彼女の演技は牙を剥く。これはなかなかに素晴らしい。彼女はきっと器用な人なのではないかと思うが、この極端が支配する映画の中では、人としての感情をストレートに表すという異例のシーンで、その才能の一端を明らかにしていると思う。シリアスな心理劇など、今後活動の幅がより広がることを期待したい。

そう書いていて思ったのだが、この映画のひとつの特徴はコミカルであること。セリフの脱線ぶりが甚だしく、役者の演技も概してコミカル。もちろん、コミカルは大いに結構で、気の利いた箇所もあるにはあるのだが、でも例えば私が先日の記事で絶賛した「デッドプール 2」などを思い出すと、そのコミカルぶりがより大人であり、たとえ品のないギャグであっても、全体の中にうまくはまっていることで、過剰感が抑えられていた。シリアスさとコミカルさとは、ある面で表裏一体とも言えると思うが、光が強いほど影も濃いように、脱線しすぎの過剰なコミカルシーンがあるからこそ、ごく限られたシリアスシーンが強く印象に残るもの。私の見るところ、そのシリアスシーンは、北川景子の貢献で印象に残るものになったが、ここがもし成功しなければ、ただバカ騒ぎだけをうるさく思う観客が増えてしまうだろう。パンクするということは、既成概念を打ち破ることであるとは思うのだが、でも、そのパンクに共感してくれる人々がいないと、パンクの意味がない (つまり、一人で実践するパンクは、パンクではないのではないか)。その意味で、わざわざパンクパンクと高らかに喧伝せずとも、既成概念を打ち破る強い表現力を持つ文化活動は、すべからくパンクであると思うのである。

by yokohama7474 | 2018-08-11 11:54 | 映画 | Comments(0)

女と男の観覧車 (ウディ・アレン監督 / 原題 : Wonder Wheel)

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しばらく前に見た映画であるが、今調べてみて安心したことには、未だ有楽町の丸の内ピカデリーと、それから、下高井戸の下高井戸シネマで上映中である。ということは、例えばたまたまこの記事をご覧になった方がこの映画を見ようと思い立っても、今ならまだ大丈夫ということだ。よかったよかった。と私がここで喜ぶのも無理はない。これはほかならぬウディ・アレンの新作なのであるから。ここ数年、私がこの監督を心から崇拝していることは、過去 2作、つまりは「教授のおかしな妄想殺人」と「カフェ・ソサエティ」についてこのブログで書いた記事からも、明らかだと思う。今年 83歳になるウディ・アレン。
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実は、今自分でもチェックして認識したことだが、私は彼の前作「カフェ・ソサエティ」についての記事の中で、この作品に触れている。当時は邦題 (まぁこれも私がいつも嘆いている通り、意味不明の題名であるが) も決まっていなかったようで、原題の "Wonder Wheel" と言及しているのである。そのような言及を行ったのはなぜかと言えば、前作と今回の作品でともにアレンが組んだ撮影監督が、押しも押されぬ現代のレジェンド・カメラマンであるからだ。泣く子も黙るその人の名は、ヴィットリオ・ストラーロ。今年 78歳のイタリア人である。なぜかこのように合掌した姿での写真が多い。
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期待にたがわぬ彼の映像への賛辞はあとで書くとして、そもそも題名に触れられている観覧車とは、一体どこの観覧車だろう。もちろん日本でも、大阪や名古屋では、街のど真ん中に観覧車があるが、それはかなり特殊なケースであるはず。私が観覧車と聞いて思い浮かべる場所は 2つ。1つはウィーン郊外のプラター公園。これは言うまでもなく「第三の男」のロケ地である。そしてもう 1つは、ニューヨーク郊外、ブルックリンにあるコニー・アイランドだ。と言いながらここで白状してしまうと、ウィーンは初の海外旅行以来何度となく訪れている私であるが、プラター公園に行ったことはないし、また、ニューヨークに 2年弱住んでいたことのある私であるが、コニー・アイランドに行ったことはない。それなのによくもまあ、しゃあしゃあとこの 2箇所が観覧車で有名だなどと言えたものだが (笑)、それはこの際棚に上げて、古くからの行楽地であるコニー・アイランドの風景はこんな感じ。
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そう、ここで明らかな通り、ここコニー・アイランドにある観覧車の名前が、この映画の題名 "Wonder Wheel" なのである。実に 1920年から動き続けているというから、その歴史はほぼ 100年になろうとしている。だから、ニューヨークっ子のアレンにとっては、この題名だけで映画の舞台は自明であるわけだ。もちろん私を含めて多くの日本人にとって、Wonder Wheel がコニー・アイランドの観覧車とは知らないのが普通であるから、そのままでは題名としては成り立たないだろう。だが。だがである。だからと言って「女と男の」などという謳い文句がつくと、その瞬間に陳腐さが漂う。それならいっそ、「観覧車の見えるところ」とか、「海辺の不思議な観覧車」とかした方が、よほどイマジネーションが膨らむのではないだろうか。そもそもウディ・アレンの脚本・監督作品であるからして、女と男の事情を描いた映画であることは最初から明らかであるわけで (笑)、それをわざわざ「女と男」などということで、余分な説明調を帯びることになっている。

ともあれこの映画を一言で称するならば、80を超えてなお自らのスタイルを貫き通すウディ・アレンの映画以外の何物でもないということだ。オープニングタイトルもエンディングタイトルも、いつものウディ・アレンのスタイルである。そして今回ヒロインを演じるのは、ケイト・ウィンスレット。もちろんあの「タイタニック」でディカプリオと共演した女優であるが、既に今年 43歳。今回の演技はある意味で年相応で、「タイタニック」以来過ぎ去った 20年の歳月を思わないではいられない。
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正直に書いてしまうと、私はこの骨太な女優には、これまであまり魅力を感じたことがない。それは「タイタニック」ですら例外でなく、その後彼女が出演した何本かの映画を見てはいるが、個々の役柄への熱意は分かっても、あまりそこに感情移入できないことが多かった。それにひきかえここでの役柄は、既に中年に至った彼女に合っていると言えるし、なるほど、数々の名女優を起用してきたウディ・アレンが選んだだけのことはあると思った。等身大の中年女性と言ってしまうと身も蓋もないが、若い頃の夢を捨てられず、ウェイトレスをしながら質素な暮らしを送り、前夫との間の連れ子を愛しく思いながらも罵倒する、そんな「痛い」女性であるがゆえに、ふとした機会に知り合った若い男に、簡単に夢中になってしまう。現実逃避と自己正当化を繰り返す、そんな人間性の表現を、彼女の演技から感じることができたものだ。その点、ほかの役者も含めて、演技の点ではかなり高水準であると思う。だが、この映画で真に驚くべきは、やはりストラーロの撮影であろう。例えば、主人公たちが暮らす家は、つまりはコニー・アイランドの従業員としてその場所に住み込んでいるのであるが、このようなセットになっている。
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つまりここでは、細長くガラスの広がる室内から、すぐ窓の向こうに観覧車が見え、この写真でははっきり分からないものの、向かって右手にも窓があり、その向こうに遠くの都会の風景が広がっている。このスペースの中で、いかにカメラが多種多様な時間と人の組み合わせを見せてくれることか!! この空間では完全に密室劇が進行するわけで、まさに人生の様々な瞬間が、立ち現れては消えて行く、そんな印象である。その内容は、家族の中に起こりうる微妙な感情とそれを取り巻くシーン、例えば、夫婦間のいざこざであったり、妻が自らの連れ子に対して抱く愛憎相半ばする感情であったり、夫が、転がり込んできた実の娘に対して抱く意外にも純粋な愛情であったり、あるいは近隣住民の勝手気ままな交流であったり。そしてまた、ケイト・ウィンスレット演じる主人公ジニーは、母であり妻であるこの場所以外では、一介のウェイトレスであったり、年下の男と不倫関係を結ぶ女であったりする。つまりはその存在する場所によって、個性の変わる人物がジニーである。これは部屋の外での、愛人ミッキーとの切ないシーン。
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だが実は、そのように異なる個性の棲み分けが乱される瞬間が末尾近くで訪れる。不倫相手がこの家にやってくるのであり、そのとき、彼らにとっての世界は既に崩壊しているのである。この映画における映像は、そのような人間の悲喜劇を、実に鮮やかに描き出している点、本当に素晴らしい。そしてこの映画には、誰もが息を呑むだろうシーンがある。それは、ジニーと愛人ミッキーの密かな逢瀬のシーンのうち、自らの過去を語るジニーの後ろ、遠景に海が見えるというところ。ここでは海のキラキラとした輝きと、徐々に日が傾いて行く様子、そこで感じられる時間の経過と、自然の壮大さと個人の思いの残酷なまでの無縁さが感じられ、恐ろしいまでに美しい。まさにヴィットリオ・ストラーロの魔法にかけられる瞬間だ。

それにしても、ウディ・アレンの衰えぬ制作意欲には改めて感嘆する。今年は既にもう 1本新作の公開が予定されていて、題名は "A Rainy Day in New York" だという。またしても本拠地ニューヨークを舞台にした作品なのだと思うが、是非邦題を「女と男が濡れるニューヨーク」などとはして頂きたくないものだ!! この新作、ジュード・ローやエル・ファニングが出演するらしい。実は、今はやりの "Me Too" 運動で最近ウディ・アレンも槍玉に上がっているという報道も目にするのだが、そのことの評価はここでは書かないこととして、この映画の日本公開が見送られる事態はなんとしても避けて欲しいとだけは、申し上げておきたい。これが次回作からのショットである。見たいなぁ。
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by yokohama7474 | 2018-08-08 22:54 | 映画 | Comments(0)

ハン・ソロ / スターウォーズ・ストーリー (ロン・ハワード監督 / 原題 : Solo : A Star Wars Story)

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「スター・ウォーズ」シリーズは、ディズニーがその権利を買収してから、もともと想定された 9作 (30年以上をかけ、現在 8作まで進行中) に加えて、スピンオフ作品が作られるようになったことは周知の事実かと思う。これは、「ローグ・ワン」に続くそのスピンオフ物。メインストリームの作品に登場する設定や人物を利用して、新たなストーリーを作ろうというもので、そのような発想自体は理解できる。但し難点は、もともとあるキャラクターに対して、ファンは既にそれぞれのイメージを持っているわけであるから、それからの乖離があった場合には、支持を得られないかもしれない、ということだろう。言うまでもなくハン・ソロは、最初の 3作品、つまりエピソード 4、5、6 に登場した主要キャラクターであり、エピソード 7にも、実際の世界では (いや、劇中でも) 長年の時間を経て再登場した。もちろん若き日にその役を演じたハリソン・フォードは、このシリーズ出演俳優きっての大スターに出世したこともあって、大変人気のあるキャラクターである。本作はそのハン・ソロの若き日を描く作品で、相棒であるチューバッカとの出会いも描かれているという。
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最初に結論を言ってしまうと、私は決してこの映画を駄作とは思わないし、それどころか、最先端の CG 効果と、「スター・ウォーズ」らしい手作り感を併せ持つ、なかなかによくできた映画であると思う。だがその一方で、なぜこれがハン・ソロを巡る物語である必要があるのか、よく理解できなかったし、これによって新たなハン・ソロ像が現出して、子供の頃からの「スター・ウォーズ」観が大きく広がる、ということもなかった。ひとつの要因は、残念ながら役者たちに、もうひとつ突き抜けた個性がないことではなかったか。主役のハン・ソロの若き日を演じるのは、1989年生まれのオールデン・エアエンライクという俳優。未だ 20代の若さであるが、過去の出演作には、いくつか私の見た映画もあるものの、特に記憶にはない。中でも、私が天才と崇めるコーエン兄弟の近作「ヘイル、シーザー!」では主役を張っていたらしい。なるほど、それは覚えているぞ。こんな感じだった。
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この映画は私もこのブログで採り上げたので、今自分の書いた記事を確認したが、並み居るほかの名優たちには言及しているものの、彼には言及していなかった。その演技が悪いと思ったわけではないが、だがなぜか、特別な印象もなかったのである。そして、この「ハン・ソロ」の役者に戻ると、キーラという相手役を演じた女優、エミリア・クラークも、うーん、申し訳ないが、私には全くその魅力が分からない。「ターミネーター : 新起動 / ジェネシス」でサラ・コナーを演じていたとプログラムで見て、確かにそうだったと思い出したが、これもこのブログで自分が書いたその映画の記事を読み返したところ、やはり彼女には言及していなかった。うーん、残念。あ、これは「ターミネーター」ではなく、本作から。
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但し、よい俳優も出ていて、まずは、悪玉か善玉か分からないトバイアス・ベケットという役を演じたウディ・ハレルソン。そうそう、この顔は、「ハンガー・ゲーム」「グランド・イリュージョン」のシリーズに加え、「スリー・ビルボード」でもおなじみだ。強いようで隙があり、要領がよいようで不器用なキャラクターを巧みに演じていた。因みにこの役名の名前は、聖書に登場するトビアス (大天使ラファエルに見守られて旅をする) と、不条理劇で知られるノーベル賞作家サミュエル・ベケットの組み合わせであり、なにかこの役柄を暗示するものはないだろうか。
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もうひとりよかったのは、恐ろしい敵、ドライデン・ヴォスを演じたポール・ベタニー。
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彼が静かに怒りをためると、顔に赤い筋が浮かび上がり、それだけでも演技になっている (笑)。と思って調べてみて納得。「アベンジャーズ」シリーズでヴィジョンという役を演じている役者である。こちらは最初から真っ赤なのであるが、悪役ではない点に、役者としての幅を見よう。
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このように、私としては高く評価できる俳優と、残念ながらそうでもない俳優の混淆に、やはり課題があるように思ったのである。ストーリー展開は、面白くないとは言わないものの、それほど驚くような面はない。また後半では、昨今のハリウッドでしばしば登場する、虐げられたマイノリティの権利というテーマが出てきて、これは今日的なテーマなのだろうと理解はするものの、本来血沸き肉躍る「スター・ウォーズ」シリーズにおいては若干唐突ではなかったかと思う。そうそう、これだけ課題がありながら決して駄作ではないのは、名匠ロン・ハワードが監督しているということが理由のひとつかもしれない。彼の手腕は信頼できるものである。予告編での語りはちょっとわざとらしかったが (笑)。
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それから、テレビのニュースで知ったことだが、この映画でハン・ソロが操縦する (他人の所有物であったのを、執念と度胸で見事せしめる) 宇宙船ミレニアム・ファルコン号を今回新たにデザインしたのは、日本人なのである。これはすごいことだが、その CG アーティスト成田昌隆はなんと、もともと米国駐在の証券マンであったが、CG への夢断ちがたく、46歳のときにこの世界に飛び込んだという。人間やはり、夢をあきらめてはいけないのである。
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そのように、この映画を構成する要素の様々な断片に心揺れてしまうのは (笑)、やはり「スター・ウォーズ」シリーズに対する期待が高いからであろう。だが、なんでもこの作品は、ファンからはあまり高く評価されておらず、シリーズで初の赤字ということになるようだ。そうすると、メインストリームの第 9作に対する悪影響も、心配されるのではないだろうか。正直なところ、アメコミのヒーローたちが登場する映画なら、キャラクターだけを使って、いくらでも好きなストーリーを壮大に編み出すことができるが、この「スター・ウォーズ」シリーズはやはり、キャラクターよりもむしろ物語性自体に大きな意味があるという点で、少し事情が異なっているのではないだろうか。その意味では、俳優の選択にも大きなリスクが伴う。今後ディズニーがスピンオフ作品をどのくらい作るのか知らないが、このシリーズは、ディズニーの当初の思惑と異なり、あまり金のなる木ではないのかもしれない。今後に注目である。

by yokohama7474 | 2018-08-08 01:20 | 映画 | Comments(0)

デッドプール 2 (デヴィッド・リーチ監督 / 原題 : Deadpool 2)

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この映画の 1作目を記事として採り上げてから 2年。私が覚えているのは、当時あの映画の日本版のポスターが、文化ブログにふさわしくないとして、わざわざ米国版のポスターを冒頭に持ってきたことだ。だが私はその記事で、この「クソ無責任ヒーロー」が活躍する映画をかなり楽しんだことを書いた。今それを自分で読み返してからこの記事にかかっているのであるが、ある意味、我ながら私という人間の感性にはぶれがないというか (?)、この 2作目の感想は 1作目と同様か、もしかするとそれ以上に主人公デッドプールに感情移入してしまったかもしれないと、ここで正直に述べておこう。まあ、ぶれがないのも道理で、私はこのブログを、誰から強制されることもなく自分の意思で、思いのままに気楽に綴っているわけであるからして、そこには誰かに対する遠慮も忖度もない。それゆえ、1作目よりもさらに手の込んだ出来となったこの 2作目を、一言「面白い!!」と断言することになんの躊躇もないのである。ただまあ、こんなミケランジェロのパロディを見ると、調子に乗るなよと言いたくなってしまうのは否めないのだが (笑)。
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それにしても、シリーズ作で 1本目に負けず劣らず 2本目が面白い例は、意外と少ないと思うのである。それはこの作品が、1本目とは違う監督でありながら、同じテイストを通していること、そしてそれは、ここで主役のみならず、製作、脚本にも名を連ねているライアン・レイノルズの個性によるものであると言ってよいと思う。この、決して上品ではなく、正統的なヒーローでもない、軽薄でいながらなんとも人間的で、どこか憎めないキャラクターを演じるのは大変なことだと思うが、前作以上にここでは、主役であるデッドプールのキャラクターが際立っている。それから、今回もあらゆる箇所で小ネタが炸裂。もちろん私はそれらをすべて理解できるわけではないが、例えば、冒頭近くで主人公が恋人の待つアパートに遅れて行ったときの言い訳が、「いやさ、なんか黒いマントをかぶった奴が出てきてさ、ソイツの母親の名前もマーサっていうらしくてさ、それで時間を取ってしまって」というものであったりするので、私などは劇場で声を上げて笑ってしまった。もしかしたらこれのモトネタをご存じない方もおられるかもしれないが、このブログでも採り上げて、私が酷評した映画がネタになっている。因みにその映画は、この「デッドプール」シリーズが属するマーヴェルのシリーズではない。マーヴェルのシリーズと言えば、X-Men やアヴェンジャーズということになるが、この映画の冒頭には、前者の「LOGAN / ローガン」がネタとして使われている。1作目の記事にも書いたことだが、実はこのデッドプールというキャラクターはもともと、ヒュー・ジャックマン演じるローガン = ウルヴァリンが主人公である「ウルヴァリン ; X-Men Zero」に登場したキャラクターである。実はこの映画では、そのことが結果的に重要なメッセージになっているので、最初から最後まで、お見逃しなきよう。これがその「ウルヴァリン ; X-Men Zero」のイメージショット。
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いやそれにしても、X-Men シリーズの派生作品でありながら、この映画の独自性には改めて感じ入る。前作に続いての R15 指定であるのは、そのアクションシーンに必要以上に残酷なものが含まれているからだろうが、そのような悪趣味も、映画全体を見てしまえば大して気にならないから、不思議である。デッドプールにはどうやらウルヴァリンに対する対抗意識があるようで、冒頭近くで「LOGAN / ローガン」が R15 指定でありながら興行的に大成功を収めたことに対する揶揄がある。これなども、ひたすらカッコいいウルヴァリンとの対比による巧みなキャラクター設定であろう。だが、彼らに共通する面もあって、それは、超人的な能力を持つヒーローの中には、常に孤独があるということだ。そしてこの「デッドプール 2」は、その孤独を癒す家族的な連帯感の発生をテーマとしている点、意外性もありながら、なるほどと納得させられるものがあるのだ。

主人公の孤独を結果的に癒すことになるのは、この未来からやってきた凶暴なキャラクター、ケーブルである。演じるのはジョシュ・ブローリン。つい最近では、「アベンジャーズ / インフィニティ・ウォー」における大悪役、サノスを演じて強烈な印象を残したが、この「デッドプール 2」でも、「おい、サノス!!」と呼ばれるというおふざけがあり、ここでまた私は劇場で爆笑。
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そのほかにも、本当に可笑しいシーンがいくつもあるのだが、予告編でも流れていたこのシーンの後の展開なども、もう爆笑しかない。詳細はネタバレになるので書かないが、いやいや、可笑しいのなんのって。
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因みにこのデッドブール、前作で描かれていた通り、不治の病を患っていたが、生体実験によって不死の体を得る (フジからフシとはこれいかに)。今回はそのような彼の特性が充分に生かされていて、自らの身体を破壊しようとしても、必ず蘇生するのである。秀逸なのは、彼が腰から下を失ってしまうシーン。これはルームメイトである盲目の老女によりそうデッドプール、いやウェイド・ウィルソンだが、このときには未だ若干の (?) 問題を抱えているのである。
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死ぬことすら許されないスーパーヒーローはしかし、本編の最後に至って、いや正確にはエンドタイトルに入ってからだが、思い切った行動に出る。私がこの映画を面白いと思うのは、このような大胆な設定にもよるのである。そう、私も調べてみて分かったのだが、主演のライアン・レイノルズは、「グリーン・ランタン」という作品で初の主役を射止めたらしい。なるほど、ということはこの映画の最後でデッドプールは、自らのヒーローとしての重責に耐えかねて、自身の存在を否定する行為に出ているわけである。これは何気ないようでいて、かなり深いメッセージであると私は見た。これが「グリーン・ランタン」。
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本作の監督デヴィッド・リーチは、オープニングタイトルでふざけて紹介される通り、「ジョン・ウィック」で主人公の犬を殺した奴。そう、あのビーグル犬が殺されるキアヌ・リーヴス主演の映画の共同監督だった人。単独での監督デビューは、シャリーズ・セロン主演の「アトミック・ブロンド」であるらしい。あれも激しいアクションがなかなか面白い映画であった。この監督、もともとスタントマン出身らしく、アクションの捌き方には秀逸なものがある。本作でも、新しいアクションシーンを見ることができる。
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さて、こうなってくると、家族愛にも目覚めてしまったデッドブールが、さらにスクリーンで活躍することを期待するしかないだろう。小ネタ満載で華麗なアクションがあり、下品でおしゃべりで軽薄だが憎めないヒーローは、現代人にとって必要なものであると思うのである。この映画は是非、普段マジメな顔で暮らしている人にご覧頂きたいと思う、下品でおしゃべりで軽薄な私であります。
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by yokohama7474 | 2018-07-18 00:54 | 映画 | Comments(0)

メイズ・ランナー 最期の迷宮 (ウェス・ボール監督 / 原題 : Maze Runner ; The Death Cure)

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思い返してみれば、3年前にこのブログを始めて間もない頃に、このシリーズの 1作目を採り上げて絶賛した。あれからまだ 3年しか経っていないのに、シリーズの 3本目にして最後の作品を採り上げることは、なんとも気持ちのよいことだ。これはまず、これまでの 2作がヒットしないと不可能なことであるし、それから、このシリーズに出演している若手俳優たちがメジャーな作品に登場する機会も増えてきていて、いわば彼らの成長過程にあってこのシリーズが出発点になったといえるように思われる。シリーズ物ではよく、風呂敷を広げ過ぎて収集がつかなくなったり、以前のストーリーに依存し過ぎたりというケースがあって、シリーズが進むごとに出来栄えが下がってしまうことがある。その点このシリーズは、キャストのみならず、監督も 3作すべて同じという点、高く評価できると思う。1980年生まれのウェス・ボール。
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彼自身の言葉によると、シリーズ第 1作を支配する外観は、粗野で、草が一面にはびこるコンクリート色。第 2作は、茶色の錆びた焦土の色。そして本作では、WCKD (ウィケッド : 「世界災害対策本部」。本作で少年たちの敵となる謎の巨大組織) の世界、SF の未来の世界。自分たちなりの「ブレードランナー」の世界であるという。なるほど、ブレードランナーとメイズランナーでは、後者の方が圧倒的に具体的なイメージ (本当に迷路の中を走る!!) だが、同じランナーつながりだ (笑)。疫病の蔓延する世界で、WCKD が周囲に壁を作って築いた「ラスト・シティ」。我々の知る実在の都市としては、香港に近いイメージ。
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かつて高い塀の中に閉じ込められていた彼らが、今度は塀の向こうに侵入する。なぜなら、塀の向こうには、仲間のひとり、ミンホが囚われているからである。そして、前作で仲間を裏切ったテレサが、WCKD の人間としてそこでは働いているはず。再びウェス・ボール自身によると、これは「スター・ウォーズ」の最初の 3部作の 2作目において、ハン・ソロが囚われることに倣ったという 。「ブレードランナー」といい、ハン・ソロといい、そういうことなら、どこかでハリソン・フォードのカメオ出演などあったら面白かったのにと思わないでもないが、そういう図に乗ったことをしない良心的な監督なのだろう。だが、書いていてふと思ったのは、この映画の冒頭のシーンは、「インディ・ジョーンズ」シリーズに雰囲気が似てはいないだろうか。
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3部作のラストとしては、この映画の展開には、なかなかに非凡なものがある。それはまさに、風呂敷を広げ過ぎない点だ。第 2作「砂漠の迷宮」について自分の書いた記事を読み返してみると、第 3作では地球規模を超える壮大なストーリー展開を勝手に予想しているが、今回は (というのも、第 1作の記事で第 2作に関して立てた予想は当たったからだが) 全く見当違いでした (笑)。ここでは、かつて死んだと思われた人物も再び登場するものの (彼の演技は大絶賛したいが、ネタバレは避けておこう)、新しい人物は登場しない。謎は深まるかといえばそうでもなく、真実はシンプルに観客の前に提示される。そうなると、個々のキャラクターの視点と、それを演じる役者の演技が問われることになる。その点に至ると、この映画を稀代の傑作と呼ぶのは、正直憚られる。ここでは世界を覆う疫病の災禍を仮借なく描くということは想定されておらず、むしろ個々人の正義感や倫理観、あるいは集団の論理といったものに焦点が当てられている。そうであれば、少し主要キャラクターの人数が多すぎはしまいか。もちろん、主役のトーマスを演じたディラン・オブライエンはここでも精悍な演技で好感が持てるし、ニュート役のトーマス・ブロディ=サングスターも、きっとこれから活躍して行くだろうと思わせるに充分な個性だ。だが、ここでは悪い奴が本当に悪く感じられたリ、破滅に瀕した世界の終末感がヒシヒシと迫ってくることがあまりない点が、少し残念であった。これがニュート。最初の作品からいたずら小僧というイメージだったが、本作の最後にはかなり大変なことになる。
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この作品の原題は「死の治癒」ということだが、これは言葉として矛盾である。つまりは、病気であれば治癒できるところ、死んでしまえばそれはあり得ないからだ。よってここでは、感染してしまうと死を免れない病の治癒という意味であろうか。この映画を見た人であれば、それが何を、あるいは誰を意味しているのか明らかだろう。なるほどこの映画はそれがテーマになっているのだ。死の病から人々を救うとなると、幾分なりとも宗教的な色合いを帯びてくる、その "Death Cure" はしかし、ここでは、宗教性とは最後まで無縁である。この点にこの映画の救いがある。上記で述べた不満は、決して過剰なスケールで荒唐無稽な物語を紡ぐことはしないという、作り手側の良心の表れということなのだろう。それゆえ私も、もっと疫病の災禍を見たかったとか、内面の描き方が中途半端な登場人物が多かったとか、トーマスとブレンダの関係は何なんだとか (?)、そんな不満は一旦忘れ、まずは 3部作の完結を喜びたいと思う。ウェス・ボール監督が語るたとえ話によると、1作目では少年は初めて自分の家から離れる。2作目で彼は大学に行くが、独立してはいるものの、未だ自分のことが分かっていない。そしてこの 3作目ではついに、奇妙な形で善と悪についてもっと成長した見方をする、とのこと。なるほど、これは一人の少年の成長物語であるわけだ。銃を掲げたその先に見えるものは、ただ敵を抹殺することではなく、さらに深いものなのだろう。
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by yokohama7474 | 2018-07-08 11:26 | 映画 | Comments(0)

ファントム・スレッド (ポール・トーマス・アンダーソン監督 / 原題 : Phantom Thread)

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この映画において最も印象的な宣伝文句は、ダニエル・デイ=ルイス引退作というものであろう。過去 3度のアカデミー主演男優賞に輝く英国人の名優であるが、現在 61歳。まだまだこれから活躍できる年齢だと思うが、何事によらず、引き際は大事である。私は決して彼のファンというわけでもないものの、痩身でありながら独特のアクのある演技には、過去何本かの映画で印象づけられてきた。この映画での素晴らしい演技を見るにつけ、引退するとはなんともったいない、と思わざるを得ない。ここで彼が演じるのは、成功したファッションデザイナー、レイノルズ・ウッドコック。彼は常に独自の美学に裏打ちされたライフスタイルを貫くダンディな紳士であるが、仕事熱心なせいであろうか、未だ独り者である。
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この映画は、その芸術家気質の彼が、あるレストランのウエイトレスであったアルマという女性と出会い、そして彼女とパートナーとなり、結婚し、だが蜜月は長くは続かず、のっぴきならない夫婦間の緊張感の中で、彼らの間に新たな関係が生まれて行く・・・というもの。その内容を書くとネタバレになるので、ここではそれを避けることとするが、その内容には耽美性もあり、例えば谷崎文学との共通点も見出せるように思う。ただ、この作品の評価の分かれ目になりそうなこととして挙げたいのは、性的な描写が一切ないこと。私も別に映画で卑猥なシーンを見たいと言っているわけではなく (笑)、この内容なら少しは淫らなシーンがないと、生温い映画だと思われてしまうだろう。人間の本性を仮借なく描き出すべき作品であろうから、その点には少し不満が残ったことを記しておこう。それから、主人公レイノルズの前に言わば宿命の女、ファム・ファタルとして現れるアルマを演じるヴィッキー・クリープスというルクセンブルク出身の女優に、残念ながら魔性を感じることはない。申し訳ないが、この点はこの映画の内容にとってはかなり厳しいマイナスポイントと思わざるを得ないのである。もうひとりの重要な役柄、レイノルズの姉を演じるレスリー・マンヴィルという役者は、なかなかに硬質な演技で、この映画の彩りに貢献している。これが主人公たちの出会い。
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そしてこれが、最初の接近遭遇 (?)。
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多少抽象的な言い方で説明すると、ここで男と女は、運命的な出会いをするにも関わらず、生活をともにするうちに、人生において目指す方向なり、価値を見出す事柄に差異があることを認識し始める。それは例えば食べ物の好みであったり、その食べ物を食卓で食べるときの作法であったり、まあ言ってみれば些細なことが始まりなのである。だがその些細なことの果てに、女は男に復讐を思い立ち、それはうまく行ったかと思いきや、その復讐が男を変えてしまう・・・というもの。愛するがゆえに傷つけ合い、傷つけあうほどに愛が深まる。アルマはそのような二人の関係を、医者に対してこう語る。「彼に恋することで、人生は謎ではなくなるのよ」。なるほどこのように書いてみると、かなり怖い映画と思えてくる。だが、人間の本能に訴えるような怖さがこの映画にあるかと言うと、残念ながら私は否と言いたくなってしまうのである。そうそう、題名の「ファントム・スレッド」は原題も同じで、その意味は「幽霊の脅迫」であるが、ここで言う幽霊とは、私の解釈では、主人公の母親であり、その幽霊が何を脅迫するかというと、美的な生活を続けるべしということを、レイノルズに無言で訴えかけるのである。こう書くと、やはり怖い映画と思えてくる。だが残念ながら、決してそうではないのである。ダニエル・デイ=ルイスの演技には存在感があるだけに、全体としての出来が残念だと言わざるを得ない。

私がこの映画を残念に思うもうひとつの理由は、音楽である。ジョニー・グリーンウッドという作曲家は、この映画の監督、ポール・トーマス・アンダーソンと何度も共同作業を行っているらしく、ここでも、オリジナル曲に加えて、フォーレ、ドビュッシー、シューベルトなどを使っている (それから、晩餐会のシーンでは、ほとんど聴こえないくらいの小さな音量で、ベルリオーズの「幻想交響曲」の第 1楽章が流れていて、謎めいていた)。ただ、それがちょっとうるさい。美学を貫く主人公を描く映画としては、無音の部分で人間の感情が動くこともあるということを、もっと意識すべきではなかったろうか。そうそう、音楽に話が及んだついでに書いておくと、アルマという女性は音楽ファンにとってはもちろんおなじみで、それは作曲家グスタフ・マーラーの妻の名である。マーラーにとってはミューズでもあった彼女はしかし、世紀末のファム・ファタルの一人ともみなされ、奔放で不貞な妻ということではないにせよ、少なくとも自分の感情に素直に生きた人であると思うし、彼女の個性に翻弄されて煩悶したマーラーは、それを創造の原動力にしたのであろう。この映画では必ずしもマーラーを思い出す必要はないと思うが、主人公のミドルネームは、字幕には "J" としか出ていないが、劇中の言葉から聞き取ったところによると、「ジェレマイヤ」である。これは英語読みであり、我々日本人になじみの発音では、「エレミア」となる。もちろんこれはレナード・バーンスタインの交響曲第 1番の副題であり、ユダヤの預言者の名前である。なのでこの主人公はユダヤ人。それが分かると、やはりユダヤ人であったマーラーのことを思い出さずに映画を見るのが、難しくなるのである。これがアルマ・マーラー。
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だが、別にマーラーのことを考えずとも、男女の愛のいびつな形を感じることができれば、この映画の本質を理解することができるだろう。ひとつ言えることは、この映画にはかなり一貫した趣味性があるということで、それもそのはず、監督のポール・トーマス・アンダーソンはここで、製作や共同脚本のみならず、撮影まで担当しているのである。この監督はこれまでに 8本の映画を撮っているが、私が見たのは「マグノリア」のみ。なるほど、あれも癖の強い映画で、様々な登場人物の姿を見て結構楽しんだ覚えがあるが、この作品のように少ない登場人物の内面に迫るという作りになると、少し課題があるかなぁというのが正直な感想。1970年生まれなので、未だ若いと言える年齢である。
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ただ少し感じるのは、現代においては、倒錯した愛の形を描くなどというと、あまり世間の評価は高くないのかなぁということ。だからこの映画のように、内容のドロドロ感を覆い隠すような美しい衣装が、言い訳として必要なのかもしれない。実際、この映画はアカデミー衣装賞を受賞したらしいが、ファッションデザイナーが主人公の映画で、衣装賞って・・・(笑)。それはちょっと反則なのではないか、という思いも禁じ得ないが、ま、それはそれとして、志向する内容自体にはかなり芸術性があるものの、表現の面では課題の多い出来となった、私にとってはそんな映画として、記憶にとどめることになるだろう。
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by yokohama7474 | 2018-06-28 01:39 | 映画 | Comments(0)

ゲティ家の身代金 (リドリー・スコット監督 / 原題 : All the Money in the World)

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米国の大富豪、ジャン・ポール・ゲティの名を私が初めて知ったのは、確か「ゴルゴ 13」のいずれかの挿話であったと記憶する。彼の名を冠した美術館が紹介されていたように思う。かつて大量の冊数を所有していたこの劇画は、以前引っ越しの際にすべて処分してしまっており、手元で確認することはできないが、私はその後、ジャン・ポール・ゲティ美術館についての書物を購入することとなった。今手元に引っ張り出してきたその本は、これだ。
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1998年 2月号の「芸術新潮」誌である。もう 20年も前のことになるが、なぜにこのときこの美術館の特集が組まれていたかというと、そのほんの数ヶ月前、正確には 1997年12月16日に、この美術館がロサンゼルスのサンセット大通りにオープンしたからであった。山全体に展開する数々の建物は、現代を代表する建築家リチャード・マイヤーの設計によるもので、美術館のみならず、美術の研究所などもある文化複合施設である。
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そして私がこの場所を実際に訪れることができたのは、2006年 4月。その広大さとコレクションの質の高さに驚愕したが、私の記憶が正しければ、入場料は無料であったと思う。また、ここがオープンする前、1974年から使われていた美術館は今では「ゲティ・ヴィラ」と呼ばれていて、そちらは古代美術を展示しているようだが、私は行ったことがない。だが、芸術新潮誌にも掲載されているこのような、いかにも古代ローマのヴィラのような中庭が素晴らしい。私が最初にこの美術館を知った「ゴルゴ 13」でもこの庭園が描かれていたと記憶する。
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なぜにこんなことを長々書いているかというと、この作品はその題名のごとく、このような大美術館を可能にした莫大な資産を持っていた石油王 J・ポール・ゲティが晩年に遭遇した実際の事件を題材にしているからである。それは、1973年に起こった、ゲティの孫、ジャン・ポール・ゲティ 3世の誘拐事件である。これは予告編でも映像が流れていたのでネタバレにはなるまいが、17歳の孫の身代金の要求が犯人からあったとき、当の大富豪は、「身代金などビタ一文出さん!!」とマスコミのカメラの前で言い切ったのである。誘拐された青年ポールの母、つまり大富豪の息子の嫁は、その状況を打破し、愛する息子をなんとか取り返そうとする。この映画はその母の奮闘を中心に描いたものである。まあ世の中、金持ちは大抵ケチであると言ってしまうとさすがに語弊があるかもしれないが、だが、本人が無駄と思うことには一切浪費をしないから資産家になれる、という面が全くないとは言えないだろう。どうやら J・ポール・ゲティはそのような人であったようだ。この映画でも描かれているが、欲しいと思った美術品を手に入れるには大金を払い、常に原油価格を気にしながら、本当は可愛いはずの孫の誘拐にも、ほとんど興味がないようにすら見える。これがその大富豪の晩年の肖像。
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この映画は、実話に基づいてはいるものの、その細部には想像によるフィクションを交えて描いている。誘拐犯の様子もかなり克明に描かれており、大富豪とその義理の娘の対立、交渉代理人の海千山千の駆け引きや、財団の人々の慇懃無礼ぶりなど、なかなか多彩な人間性が描かれていて興味深い。ただ、全体を通して見れば、少し流れが悪いかなと思わる箇所もあり、本当の意味で心に残る衝撃のシーンもそれほどないので、誰もが見るべき大傑作とまでは思わない。だがやはり、映画好きであれば見ておいた方がよいと断言できるのは、これがあの名匠リドリー・スコットの作品であるからにほかならない。今年実に 88歳という高齢にもかかわらず、近年も大作を数々仕上げていることはまさに驚異的。実際、この映画の映像にはかなり迫真的なものがあり、ローマをはじめとするロケ地での撮影も、かなりハードであったと思うので、今回もまた、同い年 (1930年生まれ) のクリント・イーストウッドと並ぶ現代の長老映画監督は、すこぶる健在であるということは言えるだろう。現場でのこんな熱血指導の様子は、とてもそれほど高齢の監督とは思われない。
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そして、高齢と言えば、役者陣で私が拍手を捧げたいのは、主役の憎たらしい大富豪のジジイを演じた、クリストファー・プラマーなる俳優である。1929年生まれで、撮影時やはり 88歳!!
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彼はこの演技でアカデミー賞助演男優賞にノミネートされ、同賞の演技部門でのノミネートにおける最高年齢記録を塗り替えたらしい。ところが、そこには信じられない背景がある。実はこの映画、ケヴィン・スペイシー主演で撮影され、ほぼ完成に至った時点で、スペイシーのセクハラ疑惑が持ち上がり、映画の公開が危機にさらされたため、急遽このプラマーを代役として、ゲティの出演シーンをすべて撮り直したというのである!! しかも、それらはすべて 9日間で完了したというから驚きだ。プログラムに載っている本人のインタビューによると、「撮影日数は限られていたが、ありがたいことに私は記憶力が良く、次から次へと撮影を進行してくれるので、連続して演技ができ、役も撮影に合わせて自分で育て上げていくことができた」と語っている。実にプロフェッショナル。吝嗇さを嫌らしく見せながら、時にどこか憎めない純粋さも覗かせるゲティの人間像を、素晴らしく演じ上げていたと思う。こんな素晴らしい役者がこれまでに何をやっていたかというと、「人生はビギナーズ」という映画で既にアカデミー助演男優賞受賞という経歴はあるものの、もともとブロードウェイで活躍したらしく、映画の世界ではあまりなじみのある出演作はない。・・・と思ったら、ひとつだけあった。これだ。
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おぉ、これは、ジュリー・アンドリュース主演の「サウンド・オブ・ミュージック」のトラップ大佐ではないか!! これは 1965年の映画であるから、既に映画の世界でも半世紀以上のキャリアなのである。おみそれ致しました!! ほかにも、マーク・ウォルバーグがいつもながらにいい味出しており、一方、誘拐された息子を取り返すために奔走する母は、「グレイテスト・ショーマン」でヒュー・ジャックマンの妻を演じたミシェル・ウィリアムズ (実生活ではあのヒース・レッジャーの子供を設けている) であったが、残念ながら私は、今回もこの女優にはもうひとつ感情移入できないものがあった。

さて、実際この事件では、誘拐された青年ポールは、5ヶ月を経て何とか解放されるのであるが、いくらでも金があるはずなのに、身代金を出そうとしないゲティの態度に腹を立てた犯人たちが、ポールの耳を切り取って新聞社に送り付けたことがきっかけとなって、ようやく事態が進展したもの。上記の「芸術新潮」誌には、耳を切られたポールの痛々しい写真が載っている。
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そしてこの青年ポールは、事件によるショックなのか、その後ドラッグ中毒によって重度の障害を抱えるようになり、54歳で死去したという。それ以外にもゲティ家には数々の不幸が見舞っており、人間の幸せとは一体なんだろうと考えさせられる。原題の "All the Money in the World" とは、ゲティが手にしたいと思っていた、そして、それを趣味のために使おうとしていたもの、ということだろうか。劇中で、確か "All the Space (?) in the World" だか何かの表現が出て来たが、果たして本当に Space であったか否か記憶が曖昧だ。いつかまたこの作品を見る日が来たら、確認したいと思っている。

そして最後にもうひとつ。この映画は既にどの劇場でも上映終了してしまっているが、私がどうやら見に行けそうだと思った頃には、ほとんどのシネコンでは既に終了しており、唯一、都心の劇場としては TOHO シネマズ日比谷だけが、やはりその映画的良心によるものか、結構頑張って上映してくれていた。だが、同劇場でも 6/21 (木) には上映終了。そこで私は、残された可能性を調べ尽くし、最後に発見した唯一のスロットは、6/22 (金) のレイトショー。場所は、舞浜のシネマイクスピアリという劇場であった。駅前に映画館があるのも知らなかったが、スクリーン数も多く、なかなかよい映画館であった。終映後、23時過ぎにも関わらず、舞浜駅は、ちょうど東京ディズニーリゾート帰りの人々で混雑していて少し驚いたが、なんとかラストチャンスでこの映画を見ることができた幸運を感じることで、混雑もあまり気にならなかった。東京で様々な文化に触れるには、時間のやりくりと根気が必要であることは、言うまでもない。

by yokohama7474 | 2018-06-27 00:41 | 映画 | Comments(0)

アベンジャーズ インフィニティ・ウォー (アンソニー & ジョー・ルッソ監督 / 原題 : Avengers ; Infinity War)

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マーヴェル社の「アヴェンジャー」シリーズは、と書いてしまうが、一般には「マーベル社の『アベンジャー』シリーズは」という表記がなされるかもしれない。ただこのブログでは、V の音はなるべく「ヴィ」と表記することにしているので、そんなことになるのだが、ともかく、既に様々な映画を世に送り出している。このブログでも過去にこのシリーズの作品を採り上げ、ある場合には厳しいことを書き、ある場合には絶賛を浴びせてきたわけであるが、ここにまた、とてつもないスケールの作品が登場した。上のチラシにある通り、ここでは最強が終わり、アヴェンジャーズが全滅するという。予告編でも明白であったことには、世界を救うヒーローたちであるアヴェンジャーズの前に、最強の敵が立ちふさがり、世界が危機に瀕するという設定である。今世紀最初の年に起こった同時多発テロ以降、ある時期は世界の終わりというような設定の映画は作られていなかったと記憶するが、ある意味でこの映画の臆面もない終末感の表出には、あの忌まわしいテロから 17年を経過した今、観客 (ハリウッド映画であるから、その想定は米国の観客であろう) に対して容赦ない恐怖心を煽る時代に戻っているのだなと実感する。そしてこの映画を見て感じたこととしては、まず、1話で完結しない話はちょっとフェアではないし、これでは、風呂敷を広げ過ぎて収集がつかなくなったという見方も出てきてしまうだろうということ。それから、そのような思いにも関わらず、これだけ豪華な俳優陣を起用し、CG もふんだんに使うことで、見ごたえ自体にはなかなかのものがあるということ。そして、もう単独のヒーロー物はできないのではないかという、多少なりとも悲観的な思いである。まあなにせ、ここに出て来るヒーローたちはこんなに沢山いるのである。
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面白いのは、今回この「アヴェンジャーズ」シリーズに、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」のキャクターが参加していることだ (グルートは成長している。笑)。スパイダーマンは「シビル・ウォー / キャプテン・アメリカ」から参戦しているし、その作品で初登場したブラックパンサーについては、単独映画に続いてここでも重要な役を果たしている。また、最近単独映画で登場したドクター・ストレンジは、ここでは主要な役のひとりなのである。あ、それから、キャプテン・アメリカはここでは終始素顔を見せているが、それも「シビル・ウォー / キャプテン・アメリカ」での設定を引き継いだものであろうか。これが本作に登場するヒーローたちのイメージ。あらら、アイアンマンのロバート・ダウニーJr. の姿はここにはない。
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そして、並み居るアヴェンジャーズをものともせず、世界を破滅へと向かわせる最強の敵、サノス。
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私はこの役を演じる役者をてっきりミッキー・ロークかと思い、「仕事があってよかったねぇ」という余計な思いまで抱いたのであるが (笑)、実はそれは間違いで、演じるのはジョシュ・ブローリン。実は調べてみて分かったことには、このサノスというキャラクターは、既に過去何本かの「アヴェンジャーズ」シリーズに出ていて、そこでこの役者が演じていたのである。彼は、現在上映中の「デッドブール 2」にも敵役として出演しているようだ。
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さて、そのように見どころは満載と言ってよいし、壮大なスケールの作品なので、これを見て不満を覚える人はあまりいないのではないだろうか。また、特に「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」のメンバーの登場シーンでは、かなり小ネタのきいたところがあり、これなども大変面白い。と書きながら、やはり私は自問する。昔はヒーローたるもの、少し不利な形勢に陥っても、知恵と勇気と体力で、最後には敵をやっつける存在であった。いや、今でも基本的にはそのような設定の映画が多い。だがここでのヒーローたちの苦戦ぶりは、一体なんだろう。こんなに悲惨な設定にする必要が、どこにあるのだろうか。上記の通り、この作品は 1作では完結せず、ストーリーが途中で終わっているので、きっと次の作品では、ヒーローたちの知恵と勇気と体力と、そしてきっとチームワークで、悪者サノスを成敗するのであろう。だが、そんなことをしないと観客が満足しない時代になっているのかと思うと、かなり複雑な気持ちになるのである。因みに本作の監督は、過去に「キャプテン・アメリカ / ウィンター・ソルジャー」や「シビル・ウォー / キャプテン・アメリカ」を監督したアンソニーとジョーのルッソ兄弟。この 2作と同様、なかなかの手腕で大作をまとめているとは思う。
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プログラムによると、2008年の「アイアンマン」以来、今年の「ブラックパンサー」まで、過去 10年の間にマーヴェルが制作した映画は 18本とのこと。これはなかなかの数字であり、すべて見ている人もそれなりにいるだろう (今数えてみると、私が見たのはたったの 11本だ)。大変ダイナミックな活動であると思う。だがその一方で、過去の作品を見ていないとストーリー展開のフォローに苦しむケースも多々あるはず。そうなると、新作ができても敬遠するケースもありうるのではないか。ゆえに、よほど興行成績に自信がないと、このような大々的な展開は難しいと思うわけである。そこには明らかなチャレンジがある。そしてそのチャレンジが、映画という表現分野の将来に対して、いかほどの意味を持つのか、私には現時点では答えがない。ともあれ、この作品の続編が公開されれば、また見ざるを得ないのである。しょうがない、過去の「アヴェンジャー」シリーズも、見てみるかなぁ。・・・かくして私は、まんまとマーヴェル社の戦略に飲まれて行くのであった。

by yokohama7474 | 2018-06-22 01:32 | 映画 | Comments(0)

いぬやしき (佐藤信介監督)

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まず一言、この映画の感想を述べておこう。面白い。これもまた、これまで何度このブログでご紹介したか分からないほど頻繁なパターンである、マンガを原作とする映画なのであり、原作マンガを全く知らない私などは、映画の出来しか分からないのだが、繰り返しだがこの映画は面白い。簡単にストーリーをご紹介すると、会社でも家庭でも居場所のない、痛いサラリーマンの犬屋敷壱郎 (いぬやしきいちろう) が、医者から余命僅かとの宣告を受けるのだが、家族の誰もその深刻な事態に耳を傾けようとしない。唯一は、外で拾ってきた犬だけが話し相手なのであるが、夜中にその犬とともに公園で、訳ありげな高校生の若者と出会う。そしてこの 2人に異常な体験が起こり、超人的能力が突然身に着く。さて、それから始まるジジイ対高校生の対決。まずは役者がよい。ジジイ役に木梨憲武、高校生役に佐藤健 (たける)。これが原作のキャラクターとの対比。
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この映画のよいところは、このジジイと高校生に何が起こったかについての、下手な説明がないこと。理由はよく分からないが、この 2人は一夜を境に、善と悪とに分かれて闘う運命なのだ。いや、さらに正確に言うと、何が善で何が悪なのかについては、様々な意見があるだろう。一応、高校生の獅子神は悪者なのであるが、なぜにダークサイドに墜ちてしまったのか、よく分かる流れになっている。だが、やはり観客としては、ジジイである犬屋敷に対する感情移入の方が大きいだろう。だってオヤジたるもの、こんなシーンを見て平気でいられるわけがない。
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実際の木梨は 1962年生まれなので、未だジジイであるわけもない。でも、ここでの彼の演技は、「ジッジイ!!」と言いたくなるほど情けなく、だが開き直って男らしくなるジジイのイメージを、実に切実に演じている。対する高校生の獅子神は、こんな感じで、とても朝ドラでシャイな青年を演じている役者とは思えない。実は私は、以前も書いたことがあると思うが、「るろうに剣心」シリーズにおける佐藤の凛々しい演技を素晴らしいと思っているので、ここでは、悪役もさまになっているなぁと感心した次第。ただ、インターネットを通じて無差別殺人を行う設定には、さすがに無理があるなぁと感じたのであるが (笑)。ばんっ!!
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ほかにも様々な役者が出ている映画だが、主役の 2人以外に素晴らしい演技を披露しているのは、もちろんこの天才女優だ。
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二階堂ふみ。私は、彼女は言ってみれば第二の大竹しのぶになるだろうと思う。ちょうど私がこの映画を見たタイミングは、彼女が大河ドラマで奄美の女性を演じて、「やってくりしょり」などと言っていた頃で、そのキャラクターのあまりの違いに、たまりがど (注釈 : 奄美言葉で「びっくりした」)。いやそれにしても、ここでの彼女の演技は、役柄の意味を完全に理解して、しかも自然体でそのキャラクターを演じている点、実に驚くべきである。一途で、でも不器用で、自分に正直で、それゆえに自らの身に起こる悲劇も甘んじて受ける。こんなキャラクターは、例えばハリウッドにはあまりないだろう。ええっと、あれだけいろんなキャラクターが出ている「アベンジャーズ」シリーズにこんなキャラクターがいるだろうか。これは世界に誇ってよい、日本映画の成果ではないだろうか。

それから、私がいつも唱えているのは、CG は要するに手段であって目的ではないということ。つまり、ストーリーの流れや、キャラクター設定の極端さを表すために CG を使うというのが本来あるべき姿であり、CG があるからこんな映像を作ろうと考えるのは本末転倒である。それゆえ私は、この映画において新宿副都心を舞台に展開されるバトルにおいて、CG を手段として使っているということには、本当に心から快哉を叫びたいのである。ここではジジイ役の木梨も、そのオーバーアクションを喜んで披露していて、それが嫌味にならないという点は、この映画のクオリティを語っていると思う。何より、随所に見られる遊び心が素晴らしい。これはそのシーンのイメージ。やっぱり、面白そうでしょう???
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このジジイと高校生がいきなり超能力を身に着けると上に書いたが、その弱点についても、あまり説明はない。だが、説明はなくとも、心地よい唐突感を感じることができるのも、映画ならではの「ウソ」の世界である。このようなウソをうまく表現するのは存外難しいのであるが、私がこの映画を見る前から何かある予感があったのは、監督が佐藤信介であることによる。このブログで絶賛した「アイアムアヒーロー」が、私にとっては、彼の手腕を如実に示す作品であった。これから公開される彼の監督作では、「Bleach」(これもマンガの映画化のようである) が面白そうだ。そして、彼の「GANTZ」シリーズを見ていないのが残念だ。
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この映画によって、全国のジジイ及びその予備軍が、どの程度勇気づけられたかは分からない。そんな無粋なことに考えを巡らせるのではなく、映画表現の多様化のひとつがここで実現していることにこそ、この映画の価値を見出したいと思う。佐藤のこれからの活動に注目だ。

by yokohama7474 | 2018-06-21 00:21 | 映画 | Comments(0)

聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディアー (ヨルゴス・ランティモス監督 / 原題 : The Killing of a Sacred Deer)

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このブログで映画を採り上げる際、映画の内容と関係なく、なぜそれを見たいと思ったかとか、どの劇場で見たかといった事柄をダラダラと記述することがある。もちろん、そんな箇所を読み飛ばすという方もおられようが、私としては、東京で起こっている文化的事象こそがこのブログの中心テーマであるからこそ、映画にまつわる背景も大事なのである。例えばこの映画、チラシをある小劇場で見て、これは見ないとと思っていたのであるが、ふと気がつくと既にその劇場での上映は終了してしまっていた。しまった。完全に乗り遅れたか。と天を仰いだ私はしかし、まだ 1ヶ所、レイトショーながら都内でこの作品を見ることができることを発見。だがその場所とは、東京南部・多摩川沿いの我が家からは遠く離れた、吉祥寺である。「ココロヲ・動かす・映画館」という一風変わった名前の劇場で、カフェも兼ねているという。ちょっと面白そうなので、平日のレイトショーに出掛けてみた。・・・結果として、この劇場、大変気に入った。巨大シネコンでは宿命的な商業性というものとは縁のないような、でも内容の濃い映画だけを厳選して上映している。私がこの映画を見た日には、その前の回には別の映画を上映していたが、終了して劇場の扉が開けられたときにも、多分誰も出て来なかったような・・・。つまり、観客が少なくても、極端な場合ゼロでも、良質の映画を上映し続ける信念を持つ映画館であるということだ。昨年オープンしたばかりのようだが、こういう劇場には是非頑張って欲しいので、ここで応援メッセージを発しておきましょう。あ、もちろん、TOHO シネマズ日比谷にも頑張って欲しいのだが (笑)。この「ココロヲ・動かす・映画館」はこんな場所。
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私がこの「聖なる鹿殺し」を見たいと思ったのは、その呪術的な響きのある題名 (原題のそのままの和訳である) もさることながら、その出演者である。ニコール・キッドマンとコリン・ファレル。むむ、この組み合わせ、最近どこかで見なかったか。そう、ソフィア・コッポラ監督の「The Beguiled / ビガイルド 欲望のめざめ」である。その映画自体はそれほど素晴らしいとは思わなかったものの、この 2人の役者と、それからエル・ファニングの演技には、期待通りのものがあった。この映画にもそこに大きな期待があったのである。そして、今思い返してみて、この映画は決して明るく爽やかなものではないが、人間の根源的な恐怖心を煽るような内容であり、その衝撃はかなりのものがある。無理して吉祥寺まで見に行ったことに、全く後悔はないどころか、これを見逃さずに済んで本当によかったという思いを抱くことになった。米国ではこういうポスターもあるようだが、さて、これはどういう意味なのか。
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ここでコリン・ファレルが演じているのは心臓外科医。腕も立つようだし、患者のことも気にかけている立派な医師であるように見える。だが、実は、このような髭面によって人間的な表情の発露は注意深く封印されていて、そのことが物語の展開とともに重要に思われてくる。何より、演じるコリン・ファレル自身がそのことを充分意識して演じていることは明らかで、これは大変に見事な演技だと言えるだろう。
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ニコール・キッドマンが彼の妻の役。彼女特有の鋭い表情と自然な色気が、幸せな家庭を切り盛りしながらも何か得体の知れない不安に苛まれていく妻の姿を、様々に彩る。演技過剰でもいけないし、紋切り型ではもっといけない。難しい役だと思うが、大変素晴らしく演じている。
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そして、彼らの生活にズカズカと入ってくる謎の少年を演じるのは、バリー・コーガン。昨年公開された「ダンケルク」で兵士を助けに行く民間船の助手役を演じていて印象に残ったが、ここでの役柄は、なんというのか、茫洋として捉えどころのない少年で、他人とちゃんとコミュニケーションできるのに、何かが心の中に巣くっているような役。ネタバレせずに語るのは難しいが、この映画の成功の多くは彼によっていると言っても過言ではないだろう。
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要するに、これは幸せな家族が徐々に崩壊して行く話なのだが、その理由は断片的にしか明らかにならないので、本当のところは一体何が起こったのか、見ている人たちには分からないし、ここで起こっていることが何らかの魔術であるのか、あるいは集団的な幻覚の類であるのかも分からない。でも、これは本当に怖い映画で、実に救いのないものだ。私がここで是非書いておきたいのは、人間世界で起こる不幸な出来事の多くは、いっそ「はい、悪魔でござい」という絶対的な悪者が出てきて、ぜーんぶソイツが悪いとできれば、本当に楽になるはずなのだが、現実にはそんな単純なことにはならない、ということだ。なんとも気の滅入る話であり、できればこんな陰鬱な映画など見ることなく、楽しく毎日生きて行きたいものだが、しかしこの映画を見ることで、逆に、人間の中に巣くう何か邪悪なものを少しでも浄化できればよいとも思うのである。実に禍々しい映画であるがゆえに、そのメッセージを正面から受け止めれば、今度はこの世界に必ず存在する尊い価値というものも見えてくる、そんな映画であると思う。抽象的な言い方だが、この映画をご覧になればきっと、なるほどと思って頂けるはず。

こんな映画を撮ったのは、ヨルゴス・ランティモスという監督。私も今回初めて知った名だが、1973年生まれのギリシャ人である。この作品では共同脚本家のひとりでもあり、昨年のカンヌ映画祭で脚本賞を受賞したときの写真がこれだ。
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本作が 5本目の監督作であり、過去にも「籠の中の乙女」という作品でカンヌの「ある視点」部門のグランプリ、「ロブスター」という作品ではやはりカンヌの審査員賞を受賞しているらしい。つまり、以前からカンヌでは大変に高く評価されている人だということだ。前作「ロブスター」でも主演を務めたというコリン・ファレルは、本作について、「まとめ方や、音楽も良くて、監督は天才だと心から思ったよ。素晴らしいと思う。彼のおかげだね」と語っていて、その高い信頼がよく分かる。ヨルゴス・ランティモス。ちょっと覚えにくい名前だが、間違いなく今後、さらに素晴しい映画を撮ってくれるに違いない。

それから、せっかくコリン・ファレルが音楽について触れているので、この作品における音楽の使用について少し書いておくと、冒頭で使われているのは、古典派か初期ロマン派風の宗教曲。ラストに登場するのは、これはバッハの「ヨハネ受難曲」だ。正直なところ、最初の曲は知らなかったので、調べる方法はないかと思ったら、ちゃんとプログラムに (しかも演奏者名とともに) 記載されていた。最初の曲はシューベルトのスターバト・マーテルで、ミシェル・コルボ指揮の録音である。なるほど、シューベルトの合唱曲なら、サヴァリッシュ指揮の全集 (11枚組) を所持している。今それを手元に持ってきて確認すると、シューベルトはスターバト・マーテル (「悲しみの聖母」とも訳される) を 2曲書いており、ドイッチュ作品番号ではト短調 D.175 とヘ短調 D.383があり、この映画で使われているのは後者である。また、ヨハネ受難曲は、昔の名盤であるカール・リヒター指揮ミュンヘン・バッハ・管弦楽団による演奏。それから、劇中に刺激的な音響があれこれ出てきて、私はそれらを音楽とは認識しなかったのであるが (笑)、実はソフィア・グバイドゥーリナとかジェルジ・リゲティの作品の断片が使用されているようだ。うーん、それらの作曲家にはそれなりに思い入れがあるのに、断片とはいえ、彼らの作品を音楽と認識しなかった不明を深く詫びて、また彼らの作品を聴いて行きたいと思う。例えば手元にある、この "Clear or Cloudy" (「晴れか曇りか」) という 4枚組のリゲティ作品集には、本作で使用されている彼のピアノ協奏曲とチェロ協奏曲が含まれているのである。
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例によって脱線してしまったが、この作品は、ただ楽しいだけでない映画に人間の真理を見たいという方には絶対お薦めである。プログラムに使われている写真はこのようなもの。ここで主人公の心臓外科医が佇むのは、彼の娘と息子がいたはずの病院のベッドである。映画の中にはこのようなシーンは出て来なかったと記憶するが、ある意味で彼の家族との関わりにおける絶望的な距離感を表す、素晴らしいショットであると思う。そういえば、やはりリゲティ作品を効果的に使用したいたキューブリックの「2001年宇宙の旅」にも、大詰めで室内装飾が真っ白なシーンが出てきましたなぁ。もしかするとランティモスは、21世紀のキューブリックになるかもしれないと、期待を表明しておこう。  
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by yokohama7474 | 2018-06-10 21:20 | 映画 | Comments(0)


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