カテゴリ:映画( 257 )

e0345320_23171856.jpg
この題名、そして「決してひとりでは見ないでください」というコピー。これは私の世代にとっては大変に懐かしい。1977年のイタリア映画で、ダリオ・アルジェント監督、ジェシカ・ハーパー主演の作品名が「サスペリア」であり、そこで使われていた宣伝コピーが、この「決してひとりでは見ないでください」であったのである。公開当時、私は小学 6年生だが、確か中学生になってから、場末の二番館でこの映画を見たはずである。何やら怖かった記憶はあるものの、ストーリーは全く覚えていない。だが明確に覚えているのはこの映画のテーマ曲である。おどろおどろしい恐怖を演出するのではなく、静かにピロピロ進行し、不気味なささやきが入ると思うと、ビヨーンというパーカッションが入る。これは心底怖かった。と、ここまで書いたら (当初想定した書き出しとは異なるが) この話を続けてしまうと、この映画に先立つこと 4年。1973年制作の「エクソシスト」が、日本において「オカルト映画」という言葉を生み出す大ヒットになったわけだが、この掛値なしの名作映画において忘れ難かったのはその音楽。マイク・オールドフィールドの「チューブラー・ベルズ」(何やら、音楽の使用に関する権利の問題があったやに聞いたこともあるが) が、本当に怖かった。この 1977年の「サスペリア」においても同様の趣向が取られていたが、その音楽を担当したのはゴブリン。イタリアのプログレ・バンドである。彼らの名前は、日本では「サスペリア 2」のタイトルで 1978年に公開されたダリオ・アルジェントの前作 (これも大変怖い映画ではあるものの、実は「サスペリア」とは全く関係のない内容だし、そもそも実際はこちらの方が先に制作されているので、「2」はいくらなんでも・・・。笑) でも同様の趣向の音楽が使われていたことで知られるようになり、そして何よりの決定打は、ジョージ・A・ロメロの記念碑的傑作「ゾンビ」(原題 : Dawn of the Dead) におけるゴブリンの音楽である。だがその音楽は、それまでのヒタヒタ漂う静かな恐怖路線ではなく、迫り来るゾンビたちの恐怖を劇的に表現したものであった。私など、今でも自分を鼓舞するときにはこの曲を口ずさむほどだ (若干誇張)。その一方で、ホラー映画におけるヒタヒタ路線は、ジョン・カーペンターの出世作「ハロウィン」(1978年) で踏襲された。これはカーペンター自身による作曲である。因みにその頃は未だハロウィンという言葉は、日本では全く馴染みのないものであった。尚、便利な時代になったもので、以上の音楽は、現在ではいずれも YouTube で視聴可能である。と、冒頭からの快調な脱線はここまでにして、1977年版「サスペリア」のポスターは、こんな感じであった。因みに監督のダリオ・アルジェントは現在でも 78歳で健在。近年でも結構映画を撮っているようである。
e0345320_23024656.jpg
この映画は新旧とも、一言で言うならば、魔女の巣窟の映画である。ドイツの名門バレエ団に入るために米国からやってきたスージーという女性が主人公で、そのバレエ団で失踪者が出たり、何やら怪しげな雰囲気があったりして、実は実は・・・というストーリー。私はこの記事を書くために旧作のストーリーを確認してみたが、その大きな流れは今回と同じ。だが逆に言うと、ほかには違うところが多すぎて、これはもう、リメイクというには飛躍がありすぎる。舞台設定は、旧作がドイツ南西部のフライブルクであったのに対し、今回はベルリン。時代設定は旧作の公開年である 1977年であるから、当然ベルリンは東西に分割された状態である。そして、旧作には登場しない心理学者のクレンペラー博士 (音楽ファンが聞くと、すぐに「オットー、ユダヤ人ですね」とコメントしそうな名前である) なる人物が、戦時中に生き別れてしまった妻を思慕するという流れが、サイドストーリーになっている。なにせ全編 152分。たかがホラーだろうという侮りは許されない超大作で、私が見たときは劇場は満員の盛況であった。そんなにすごい映画なのだろうか。これが主役スージーを演じるダコタ・ジョンソン。華奢だった旧作の主演女優ジェシカ・ハーパーと比べると、ダンサー役らしく筋肉質で、しかも逞しさがある。
e0345320_23280421.jpg
今思うと、この新旧の主役の差くらい、新旧作品の間には差があって、正直なところ私には今回の作品がそんなに素晴らしい映画とは、どうしても思えないのである。例えば、魔女軍団であるダンスカンパニーの女性たちの個性差は、あえて描かれていない。その分、カンパニーを率いる伝説的ダンサー、マダム・ブランに焦点が当たっているとは言えようが、でも結局最後までこの人 (?) が何者であるのか、私には分からなかった。そもそも、隠し部屋があってそこで儀式が行われているなら、その儀式についての丁寧な種明かしをしないと、観客が驚愕することはないだろう。旧作のクライマックスがいわば拡大され、しかもそこにどんでん返しを用意しているが、旧作を離れて純粋にこの映画だけ見たとき、それってそんなに衝撃的だろうか。先般記事を書いたやはりホラーの「ヘレディタリー / 継承」と近い構成と見てもよいと思うが、この「サスペリア」の方が、凄惨な儀式を描いているにもかかわらず、沸き起こる恐怖心は小さい。それから、大変頻繁に出て来る過去のイメージショットが、ちょっとうるさい。2時間半もある大作で、これだけ頻繁に断片的なイメージを見せられると、正直うんざりするように思うのである。きっと作り手は、冷戦下のベルリンにおける分断が人々の心理に与えた影響や、当時ウーマンリブなどと言われた女性の地位向上運動への皮肉などを込めているのかと想像はするのだが、でもなぜ今、1977年のベルリンと我々が対峙する必要があるのか分からず、それならもっと根源的な恐怖を淡々と描いた方が効果的だったのではないかなぁ・・・と思う。それからもうひとつ気になったのはセリフ。たまたま前回の記事で採り上げた「ナチス第三の男」でも言語問題に触れたが、この映画では英語が主でありながら、ドイツ語、そして時にフランス語も出て来る。作り手の側にはそこに何かの意図があるのだろうから、字幕でも多少はそれが分かるような配慮が欲しかったところである。

そのようなちょっと風変わりな映画であるのだが、世の中で期待されているのは、この監督が日本でも昨年公開された「君の名前で僕を呼んで」のルカ・グァダニーノであることによるのかもしれない。この映画は私はパスしたが、見てみれば多分問題作なのであろう。1971年生まれのイタリア人。確かにこだわりの映像を作る (例えば、主要な舞台になるバレエ・カンパニーの建物の外では、ほとんどずっと雨が降っている) 人ではあると思う。
e0345320_23492257.jpg
実はこの映画には「共犯者」がいて、それは英国人女優のティルダ・スウィントン。このブログでは何本か彼女の出演作を紹介して来ているが、私にとってはあのデレク・ジャーマンの忘れ難きミューズであり、その神秘的な存在感は、本作における魔女の親玉 (じゃないのかな?) にぴったりだ。なんでも彼女は 1999年に "The Protagonists" というルカ・グァダニーノの処女作に出演して以来、20年近くに亘ってこの「サスペリア」の再構築を監督と語り合ってきたという。
e0345320_23550037.jpg
それから、クレンペラー博士の亡き (?) 妻を演じるこのお婆さんは誰だ。
e0345320_23581304.jpg
面影があると思うが、この人こそ、旧作「サスペリア」で主役スージーを演じた、ジェシカ・ハーパーである。最近あまり女優活動はしていないようだが、2002年にスピルバーグの「マイノリティ・レポート」をニューヨークの映画館で見たときに、もしやと思ってエンドタイトルで目を凝らし、彼女の名を確認したことがある。って、もう 17年も前のことか (笑)。実は未だ 69歳と、それほどの老齢でもないのだが・・・。これが旧作における彼女。
e0345320_00043300.jpg
そういえば、タイトルについて思い違いがあった。「サスペリア」とは、きっと「サスペンス」から派生した言葉だろうと、中学時代からずっと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。そもそも綴りをよく見ると、"Suspiria" であり、これはどう読んでも「サスピリア」であろう。でも語感としては確かに「サスペリア」の方がよいので、これは邦題としてはなかなか工夫したと評価できるのではないだろうか。そしてこの Suspiria、ラテン語の "suspiro" (ため息) に由来するらしい。劇中でその存在が明らかとなる三人の魔女のひとりが、この Suspiria (ため息の母) なのだそうだ。実はダリオ・アルジェントは、この「サスペリア」を第 1作とする「魔女三部作」を撮っていて、ほかの 2人、つまり、「暗黒の母」と「涙の母」も扱っているようだ。

さて最後にもうひとつ。この映画の日本限定ポスターというものがあって、描いたのは絵本作家のヒグチユウコ。こんな感じで結構おどろおどろしいが、表記に日本語がないのが面白い。ルカ・グァダニーノ監督も絶賛して持って帰ったそうである。このヒグチユウコの大回顧展が、現在世田谷文学館で開催中。私も未だ見ていないが、3月31日の会期中に行くことができるかどうか。
e0345320_00211354.jpg

by yokohama7474 | 2019-02-13 00:32 | 映画 | Comments(0)

e0345320_21261158.jpg
このブログでは過去に何本ものナチスに関連した映画をご紹介して来た。それは、私自身がいろんな意味でナチ時代のドイツや、それに対する諸外国の反応に興味を持っているという事情もあるが、それよりも何よりも、ナチスを題材にした映画が、戦後 70年以上を経た現在になっても、ひっきりなしに作られているということだろう。そんな中、フランス・英国・ベルギー合作によるこの映画、その題名の通り、ヒトラー、ヒムラーに次ぐナチス第三の男と評されることもあるラインハルト・ハイドリヒを主人公にしたものである。このハイドリヒ、ナチ高官の中で唯一、暗殺された人物であるが、それは 1942年 5月、現在のチェコ共和国の首都プラハでの出来事。今この記事をご覧頂いている方で、「あれ? それってどこかに同じ題材の映画がなかったっけ?」と思って頂ける方が果たしてどのくらいおられるか、大変に心もとないのだが (笑)、それは 2017年 9月 6日付の記事で、その映画の題名は、「ハイドリヒを撃て! 『ナチの野獣』暗殺作戦」という、よりストレートなものであった。そして実際、この 2本の映画は、ハイドリヒ暗殺という同じ史実を映画化しているのである。その映画について自分の書いたことを読み返してみると、要するに、映画全体としての出来には保留をつけながらも、ラスト 30分の壮絶なシーンに身震いしたことを書き、この事件と関連する芸術作品、つまりフリッツ・ラングの「死刑執行人もまた死す」や、作曲家、マルティヌーの「リディツェへの追悼」に言及している。ご参考までにその映画のポスターをここに掲げておこう。
e0345320_21445553.jpg
同じ史実を描きながらも、今回の映画が前回の映画と大きく異なる点は、ハイドリヒ自身の生活について、かなり踏み込んで描いていることである。つまり、占領下のチェコスロヴァキアにおけるレジスタンス活動の英雄的行為と、それへの報復としてナチの行った残虐行為のみに焦点を当てるのではなく、襲った方襲われた方、双方を描いているのみならず、むしろ襲われたハイドリヒの人間性や日常生活、38歳で暗殺されるまでに歩んだ人生の点景の数々が描かれているのである。なるほど、いかに鬼畜のようなナチ高官であっても、人間であったことは事実。家族への愛や出世意欲、また人間的な弱さもあったであろう。それを描くことで、人間が人間を殺戮するというナチス時代における異常な事態の深刻さを、一層深く感じることができることは確かである。そしてもう一点、この映画の美点は、その映像の美しさである。「ハイドリヒを撃て!」の場合には、どうにも映像が汚くて閉口したことを思い出したが、それに比べるとこの映画では、あらゆるシーンが大変に巧妙に設計されていて、その一方で、1942年の出来事という点のリアリズムも、ある種のドキュメンタリータッチで見事に描かれている (35mmフィルムでの撮影ということだ)。それらを総合して一言で要約すれば、これは大変に優れた映画であると思う。これは主役のハイドリヒを演じるジェイソン・クラーク。過去の出演作リストを見ていて思い出したが、「ターミネーター : 新起動 / ジェネシス」でジョン・コナーを演じていた俳優だ。悪役がよく似合う (笑)。
e0345320_22061140.jpg
だがこの映画では、ハイドリヒは最初から「ナチの野獣」であったわけではない。愛人問題で海軍から除名され、必死になってナチ党に所属。ヒトラーの思想に心酔する元貴族の家系出身の妻に背中を押され、また、ヒムラーに気に入られて、出世階段を駆け上る。子供たちの前ではよき父親だが、任務に関しては極めて勤勉で、血も涙もない。プラハには「保護領」チェコスロヴァキアの副総督として赴任するが、その頃から、家族との時間を犠牲にするハイドリヒから、妻の心は離れがちになる。そのような家庭事情も抱えてイライラしているハイドリヒ。そんな中で運命の日を迎えるのだが、さてこのようなハイドリヒの人間性の描写によって観客は、このハイドリヒという男に感情移入するであろうか。答えは否であろう。人間的な要素を描くことで物語の陰影は濃くなっているが、この映画がよくできているのは、だからといってハイドリヒにも立場がある、などという考えにはならないようにできている点である。例えば性的シーンの描き方も、レジスタンス側が若者のイチャイチャくらいでしかないのに対し、このハイドリヒさんの場合は、うーん、かなり Brutal である (笑)。ま、これはひとつの例だが、ハイドリヒに感情移入させないのは、演出としては妥当であろうと思う。

その一方で、残念な点もあって、それは、主役以外の役者陣に、飛び抜けたものがないことである。特に妻リナを演じるロザムンド・パイクは、もっとウブであるか、もっとしたたかであった方がよかったのではないか。マクベス夫人である必要はないが、もっと突き詰めたものを見たかった。レジスタンス側の主要な 2人、英国政府から支援を受けた亡命チェコ政府から送られてきたヤン・クビシュとヨゼフ・ガブチークを演じたのは、それぞれジャック・オコンネルとジャック・レイナー。彼らはいくつかのシーンでは悪くはないものの、せっかく映画的なシーンが様々作られているのだから、もっとキャラクターの違いを出してもよかったように思う。同じジャックで紛らわしいが、奥がオコンネル (「マネーモンスター」でスタジオに乱入する犯人役を演じた)、手前がレイナー (「トランスフォーマー / ロストエイジ」で準主役を演じた)。
e0345320_22281027.jpg
レジスタンス側に、思わぬ女優が出ている。それは、ミア・ワシコウスカ。ティム・バートンの「アリス・イン・ワンダーランド」で一躍有名になった女優だが、その後もちょっと毛色の変わった映画に出ている。米国人だがその名前からして東欧系かと思ったら、母親はポーランド人であるそうだ。ここでは素朴なチェコの娘 (レジスタンスを支持する家庭の娘) を素直に演じてはいるが、忘れがたいほどの印象とまでは言えないような気がする。
e0345320_22365552.jpg
それから、これはあまり本質的ではないかもしれないが、使用言語が、ドイツ人もチェコ人もみな英語であることは、やはり少し気になった。ハイドリヒを単純に冷血漢として描くことを避け、ナチス側もレジスタンス側も同じ人間として英語に統一するという意図なのかもしれないが、ここまで映像にリアリティがあるなら、ハイドリヒはドイツ語を喋るべきだったようにも思う。

このように、映画全体としての出来は悪くないものの、細部に少し課題があるように思われる作品である。原作は世界 25ヶ国語に翻訳され、日本でも 2014年に本屋大賞の翻訳部門を受賞しているという「HHhHプラハ 1942」という作品。この原作もドキュメンタリータッチで描かれているらしく、大変面白いと評判だ。時間があれば読んでみたい。作者はローラン・ビネという 1972年生まれのフランス人作家。
e0345320_22471587.jpg
また、本作の監督も、セドリック・ヒメネスというフランス人であり、もともとドキュメンタリーでキャリアを始めた人で、1979年生まれ。さすがにそのキャリアが本作で活かされているということだろう。
e0345320_22494020.jpg
ひとつ書き忘れたが、本作のラストシーンは、「ハインリヒを撃て!」と同じ内容。先の記事では明言を避けたが、それは、レジスタンスたちが立て籠もった教会での激しい銃撃戦なのである。「ハインリヒを撃て!」と同じく、今回も大変に仮借ないシーンの連続で、神聖なる教会でも容赦せず銃撃するナチスの野蛮さに、憤りを超えて、人間の哀しみを感じる。カトリックやプロテスタントではなく、ロシア正教の教会だったから抵抗なかったわけではあるまい。ナチス側も必死であり、兵士たちはただ命令に従って銃撃したまでである。戦争が人間を殺人機械に変えてしまったのだろう。ところで、この恐ろしい銃撃戦の舞台となった教会は、きっと未だプラハに存在しているのだろうと思って調べてみると、ありましたありました。聖キリル & 聖メトディウス教会 (または聖ツィリル・メトデイ教会) という、2人の聖人を祀った教会であるようだ。現地には銃弾の跡も残っており、レジスタンスたちの隠れ家を見ることもできるらしい。私は過去にプラハには何度か行っているが、ここは見たことがないので、次回、是非訪れるようにしたい。
e0345320_23033705.jpg

by yokohama7474 | 2019-02-11 23:12 | 映画 | Comments(0)

e0345320_23250214.jpg
前項に続き、現在渋谷のシアター・イメージフォーラムで開催中のジャン・ヴィゴ (1905 - 1934) 作品の特集上映から。ここでご紹介するのは 3本の映画であるが、劇場では 3本立てで上映している。私が見た回の上映順に、「ニースについて」(23分、1930年)、「競泳選手ジャン・タリス」(10分、1931年)、「新学期 操行ゼロ」(49分、1933年)。前項でご紹介した遺作の「アタラント号」の上映時間が 88分であるから、この天才と呼ばれる映画監督が生涯に残した作品は、すべて合わせても 3時間に満たないわけである。ここでヴィゴの生涯を簡単に振り返っておこう。生まれはパリであり、曾祖父は南仏で町長や議員を務めた人であるが、父はジャーナリスト兼反軍国主義活動家であり、1917年に獄死した (他殺説が有力である由)。当時ジャンは 12歳。この悲劇は少年の心に深い傷を残したであろう。実はジャンの父は少年時代にも逮捕歴があり、その刑務所体験を雑誌に発表してもいたらしく、それはジャン・ヴィゴの作品、とりわけこの記事で採り上げる「新学期 操行ゼロ」の内容に影響を与えているようだ。
e0345320_23445001.jpg
上の写真はどうやら、カメラマンであるボリス・カウフマン (この人はなんと、旧ソ連の、やはり伝説的な映画監督であるジガ・ヴェルトフの弟なのである!!) とともに、「ニース」を撮影中であろうジャン・ヴィゴ。彼は 1926年に、当時は致命的な病気であった肺結核と診断され、ピレネー山脈にある療養所で療養中に伴侶を得、娘も設けるが、1929年にニースの映画会社で撮影助手を務めたことがきっかけで映画界との関わりを持ったという。そして翌年撮ったのが、ドキュメンタリー映画「ニースについて」。ここでちょっと脇道にそれるが、日本語版 Wiki でジャン・ヴィゴを調べると、あたかもこの「ニース」がニュース映画であるかのような記載があるが、これはどう見てもニュース映画ではなくて、短いドキュメンタリーだろう。まさかとは思うが、「ニース」と「ニュース」の混同??? (笑) ともあれこの「ニース」であるが、冒頭からいきなり度肝を抜かれること必定だ。ちょうど前項で採り上げた「アタラント号」のラストシーンが飛行機からの空撮であったのと同様、この「ニース」の冒頭も、以下の写真の通り、空撮なのである。ということは、ジャン・ヴィゴの映画人生は、空撮に始まり空撮に終わったと考えてもよいわけである。
e0345320_23532740.jpg
いやそれにしても、この「ニースについて」では、遊び心が満載であり、富裕層の人たちの姿を多くとらえながら、そこには辛辣な皮肉と反骨精神が見て取れる。そして、ショットとショットのぶつかりあいのシュールな面白さは無類のもので、エイゼンシュテインを思わせるところもある。まさにルールのないところで好き放題やっている感じがする。このように狂ったようなカンカン踊りを見せるのは、労働者階級の女性たちで、道化の扮装をしている男の一人はヴィゴ自身であるという。澄ました富裕層の人たちにはない、この生命力。
e0345320_00005594.jpg
このように、既に「アタラント号」を見た目には、この処女作にも、ヴィゴのやりたかったことがはっきり見て取れると思うのだが、その点では、次の「競泳選手ジャン・タリス」はもう少しまともな (?) ドキュメンタリー風と言えるだろうか。ここで撮影の対象となっているジャン・タリスという水泳選手は、1928年と 32年のオリンピックに出場した実績があり、生涯に 7つの世界記録と 49のフランス記録を打ち立て、没後の 1984年には国際水泳殿堂入りした人。
e0345320_00093490.jpg
ここでは競泳選手たるジャン・タリスの泳ぎを、時にはカメラが水中に潜って (と見えるが、実際当時のカメラが水に耐えられるわけもなく、プールに窓を設置して、その窓の向こうから撮影したらしい)、ある種執拗なまでに追いかけるのであるが、うーん、そう思うと前言撤回である。決して「まともなドキュメンタリー」ではない (笑)。実際のところ、1931年時点でこんな破天荒な記録映画を作った人が、ほかにいるだろうか。カメラを逆転させてプールから飛び込み台に戻ってくるタリスの姿もあれば、コートに帽子姿で、二重撮影によって、タリスがキリストばりに水の上を歩いて行くシーンもある。ここでは明らかに人のからだの動き自体への興味があり、映画という媒体に依拠した冒険心がある。これは私の勝手な想像だが、この映画制作を企画したゴーモン社も、こんな作品は予期していなかたのではないか。人のからだを使ったドキュメンタリー映画と言えば、ナチスのバックアップのもとでレニ・リーフェンシュタールが監督した「民族の祭典」「美の祭典」が有名だが、それは 1938年の制作。このヴィゴの作品とリーフェンシュタールの作品を比べてみても詮無いことかと思いつつ、フランス人とドイツ人の感性の違いは、やはりそこにあるように思う。

そして、「アタラント号」に先立つジャン・ヴィゴの劇映画第一作「新学期 操行ゼロ」である。私は洋画の邦題にはいつも厳しい方であるが、この邦題は大変結構だと思う。私自身が「操行ゼロ」の少年時代を送ったこともあり (笑)、ワルガキどもの暴れぶりが活き活きと想像できるような題名であるからだ。上述の通りジャン・ヴィゴの父は刑務所における少年たちの悲惨な状況を文章として発表しており、その内容もこの映画に影響を与えているらしい。映画はまず、新学期に実家から寄宿舎に戻って行く少年たちの列車の中の様子に始まるが、これがまた、ある種のパントマイムのようで可笑しい。
e0345320_00410264.jpg
ここには寄宿舎の監督官や何人かの教師が出て来て、それぞれに少年たちから見た評価も様々だ。まぁしかし、このワルガキども!!
e0345320_00455597.png
e0345320_01120150.jpg
ワルガキのいたずらの描写を一旦離れても、この映画には例によって様々な試みがなされていて、中編ということもあり、もしかすると「アタラント号」よりも万人受けする要素があるかもしれない。興味深いのは、「アタラント号」で主役の船長を演じるジャン・ダンテが、ここでは生徒たちに人気のある教師を演じていること。ナイーヴで嫉妬深く神経質な船長役とは、一味違った役柄である。中でも、シルクハットをかぶってガニ股で歩くチャップリンの真似が可笑しい。86年も前に撮られた映画を、現代の観客が見ても同様に笑えるとは、なんと素晴らしいことか。チャップリン、偉大なり。
e0345320_01165801.jpg
このような作品を見ていると、映画という表現手段の持つ命の長さに、改めて思い至る。ちょっとほかにはない経験なので、ジャン・ヴィゴのことを知らない人でも、この 3本立て、もしくは「アタラント号」を見に行かれることをお薦めしておきたい。

by yokohama7474 | 2019-01-26 01:24 | 映画 | Comments(0)

e0345320_22292532.jpg
先のアラン・ロブ=グリエ作品の連続上映で気を吐いた渋谷のシアター・イメージフォーラム (その後、嬉しいことにそのロブ=グリエ特集の上映を延長していたが、私は結局、6本中 3本は見られずじまい) が、またまたその侮れない存在を、映画ファンに主張する。題して、「ジャン・ヴィゴ特集」。一般的にはともかく、映画ファンの間では伝説的な名前である映画監督、ジャン・ヴィゴの全作品 (といっても、短編、ドキュメンタリーを入れてたったの 4本だけだが) 上映が、2/8 (金) まで開催中だ。これはイメージフォーラムらしいさすがの企画であり、今回は「4K リストア版」と銘打っているごとく、1930年代の制作であることを思うと、映像はなかなかにきれいなものになっている。ジャン・ヴィゴ (1905 - 1934) は、29歳で夭逝したフランスの映画監督。
e0345320_22373839.jpg
実は私は、彼の作品を見るのは今回が初めてだ。だが、この「アタラント号」(1934年) や、次の記事で採り上げる予定の「新学期 操行ゼロ」(1933年) については、随分以前に予告編を見たことがあって、それらの題名は鮮烈に覚えていた。今調べてみると、これらの映画の日本初公開は 1991年。うむうむ、そんなものだったと記憶する。そして、記憶は一部曖昧なのであるが、その劇場は確か、文京区千石の三百人劇場ではなかったか。私も当時は文京区の住民で、この三百人劇場までは自転車で簡単に行ける距離に住んでいたので、多くの名画をそこで見た思い出が沢山ある。特に、タルコフスキー作品のほとんどを初めて見たのはこの劇場であったという意味で、私にとっては忘れがたい場所なのである (2006年末に閉館)。だが当時私は、この「アタラント号」の予告を見て気になっていたにもかかわらず、見に行くことができなかった。よって今回は、実に 28年ぶりの念願を果たしたことになる。実はこの「アタラント号」、1980年代末までフィルムが散逸していたらしいが、復元されたものが日本で 1991年に初公開され、そして今回は 4Kの技術によってさらに鮮明に蘇ったということになる。映画も文化財であるゆえ、このような試みは本当に意義深いと思う。

ジャン・ヴィゴ作品は、その限られた作品数にも関わらず、フランソワ・トリュフォー、アキ・カウリスマキ、エミール・クストリッツァ、ユーリ・ノルシュテインなどの監督たちから最大限の賛美を捧げられてきていることは、ある種の驚異と言ってもよい。だが、そんな予備知識はあろうとなかろうと、この「アタラント号」を素直な目で見て、時折奇妙な感覚にとらわれ、そして時にはまた、その奇抜なショットに瞠目し、そうしてそこに描かれている人間たちの姿に、時代を問わぬリアリティを感じることは、誰しも可能であろうと思う。そもそもこれはどういう話かというと、運河を使って物資を運ぶ運搬船 (と思われるが、何を運搬しているかは不明) アタラント号の船長が、陸の上の教会で結婚式を挙げ、そのまま新婦を船に乗せて川を下って行く。その間夫婦の間には、感情のすれ違いがあったり、親切だがいい奴なのか悪い奴なのか分からないワイルドな船員との微妙な空気があったり、あるいは新妻に横恋慕する行商人が出てきたりと、大小様々なトラブルに見舞われる。だが最後には 2人の信頼関係が奇跡を起こす・・・と言った具合であるが、実際に映画を見てみると、ここに書いているようなロマンティックな物語という印象は、あまり受けないように思う。これが夫婦の肖像。演じるのは、男性がジャン・ダステ、女性がディタ・パルロ。ともに、ジャン・ルノワールの「大いなる幻影」(1937年) の出演者でもある。
e0345320_23401024.jpg
また、異彩を放つジュールおやじという役柄を演じる役者は、ミシェル・シモン。彼も何本かのルノワール作品に出ている人。もとコメディアンらしいが、ここではその才能を縦横無尽に発揮していると言ってもよいと思う。
e0345320_23454571.jpg
不思議なのは、船という閉鎖空間に猫が満ち溢れていること。こんな具合であるが、この蓄音機も劇中で重要な役目を果たす。
e0345320_23500420.jpg
上にも書いた通り、ここには様々な奇抜なショットが出て来て、今を去ること 85年も前のこの映画が、映像的刺激に満ちていることは、実に驚くばかり。極めつけは、この最後のショットであろう。なんと、飛行機から撮影しているのである。
e0345320_23543500.jpg
実はこの作品、ジャン・ヴィゴによる初の長編作品 (で、結局最後の作品でもあるわけだが)。そこには、映画がほぼトーキーに移り変わった頃に、アイデアと意欲に満ち溢れた若者が行った実験のあとを見ることができるだろう。それによって、誰でも理解できるメロドラマ (映画の誕生前からパターンがあったはず) が、音声を得た映画という表現手段の持ちうる、実に刺激的な場に変貌していることこそ、この作品の価値であろうと思うのである。調べてみると、この映画の制作年 1934年には、米国ではフレッド・アステアとジンジャー・ロジャーズが「コンチネンタル」という映画で初共演している。そう思うと時代のイメージが沸こうというものだ。もしジャン・ヴィゴがこの映画を撮り終えて間もなく敗血症でこの世を去ることがなければ、映画史は変わっていたかもしれない。ただ一方では、短い人生を駆け抜けた人だから、このような意欲的な作品を撮ることができたのだろうとも思われる。もしかすると、ストーリーだけで映画を見る人には、そのよさはあまり伝わらないかもしれないが、そのような場合でも、また時を経て改めて見れば、新たな発見がある。そんなタイプの映画であろうと思うのである。

by yokohama7474 | 2019-01-25 00:32 | 映画 | Comments(0)

e0345320_21254165.jpg
世界で大人気の「ハリー・ポッター」シリーズ 8作に続いて始まった「ファンタスティック・ビースト」シリーズの第 2作である。前作「ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅」は、2017年 1月 4日の記事で採り上げた。この 2作、「ハリー・ポッター」シリーズの原作者である J・K・ローリングが、原作はもちろん、脚本まで手掛けているので、「ハリー・ポッター」シリーズから続く正式なシリーズと位置付けることができる。ここでは魔法使いたちと人間たちの人知れぬ確執が描かれていて、実はその内容は、全く子供向きではない。このことは意外と認識されていないのではないだろうか。いや、私の思うところ、「ハリー・ポッター」シリーズも決して隅から隅まで子供向きということではなく、何やら禍々しいものたちとの対決は、子供にはなかなか分からないものだと思う。前作と同じ 11月23日に封切になったこの映画、明らかに正月の家族向けであったと思うのだが、これを家族で見た人たちは一体どう思ったのか、大変に興味がある (笑)。今確認したところ、封切から 2ヶ月近く経った今でも、かなりの数の劇場で未だ上映中である。

さて、前作についての自分の記事内容を、例によってすっかり忘れていたので、今回読み返したところ、おっ、なかなかいいことを書いている。つまり、前回少しだけ出演していたが、映画の宣伝には名前が出ていなかったある役者が、「次回作から堂々と登場してくるのではなかろうか」と書いたところ、まさにその通りとなっている。その役者とはこの人だ。
e0345320_21592134.jpg
もちろん、現代最高の俳優のひとりでありながら、どうやらコスプレ系の作品がお好みであるらしい (笑)、ジョニー・デップ。彼が演じる魔術師ゲラート・グリンデンヴァルドが今回の主役であり、原題は彼の名を引いて、「グリンデンヴァルドの罪の数々」というものである。例によって邦題は「黒い魔術使いの誕生」という、説明的なものになってしまっているが、まぁ確かに、原題の直訳では意味が分かりにくいのも確か。このあたりは日本の観客の指向や、また日本語の特性もあって、説明的な邦題でもやむなしということか。ここでの彼は、人間界におけるレクター博士さながらに、異常なほど厳重な警備が必要な、強い魔術の持ち主。しかも題名の通り、その魔術の用途が世の役に立つものではなく、邪悪なものなのである。

主役のニュートを演じるエディ・レッドメインをはじめ、前作から引き続いての登場となる役者たちが多い。だが私としては、その中には「絶対この人を紹介したい」という人は、正直なところ、あまりいない。唯一この人を除いては。
e0345320_22084770.jpg
このジュード・ローが演じるのは、あのホグワーツ魔法学校の校長であるダンブルドアの (比較的) 若い頃。劇中ではこのダンブルドアとグリンデンヴァルドは古くからの友人という設定で、いわば白魔術と黒魔術を、それぞれに体現するような存在である。実生活で見ると、ジョニー・デップが 1963年生まれ、ジュード・ローが 1972年生まれと、この 2人の年齢は少し開いている。この映画において、この 2人が直接絡むシーンは、幻想シーンを除いてはなかったような気がするのだが、見る者にとってはやはり、このような一流俳優が出演しているだけで嬉しくなってくるのである。あ、それからもうひとりをご紹介したい。
e0345320_22181994.png
これは実に齢 600歳を数える魔法使いで、ダンブルドアの友人であるニコラス・フラメル。フランス語読みのニコラ・フラメルと言えば、いわゆる賢者の石の製造に成功したと言われる錬金術師であるが、その年齢設定に鑑みても、これはその錬金術師ニコラ・フラメルその人が、20世紀まで生き永らえた姿であるということだろう。私が強調したいのは、これを演じているのはブロンティス・ホドロフスキーであること。このブログでは近作「エンドレス・ポエトリー」でその健在ぶりをご紹介したカルト映画監督、アレハンドロ・ホドロフスキーの息子である。私にとっては、1970年、彼が 8歳のときの父の代表作「エル・トポ」における少年役として記憶しているので、この役とは随分にタイムラグがある (笑)。この裸の後ろ姿。時の流れを感じる。
e0345320_22254323.jpg
上述の通りこの映画、とても子供向きではなく、かなり深刻な内容になっている。つまり、強大なパワーを持った黒い魔法使いグリンデンヴァルドが、人間界を亡きものにしようとしているというストーリー。そのテーマの重さゆえであろうか。ここに登場する不思議な動物たちの様子に癒されることとなる。以下、ニフラーとボウトラックル。
e0345320_22330873.jpg
e0345320_22354717.png
今回登場する魔法動物たちの中には、東洋のものもいる。これは中国の怪獣、ズーウー。そして、日本の河童も、「カッパ」として出て来る。このあたりは、作り手側が今後の設定を見据えて、東洋のイメージを作り出しているのだろうか。
e0345320_22401681.jpg
上にも書いた通り、ここでの物語はファンタジーではなく、現実世界でのもの。この映画の設定である 1927年から数年してドイツに実際に登場する、グリンデンヴァルド並の強烈なアジテーター=独裁者のイメージも出て来る。これは何を意味しているのだろうか。原作者 J・K・ローリングが描こうとしているのは、もしかすると、異なるものたちの調和を重んじる精神が薄れ、集団ごとの利益を考える傾向に向かっている現代社会の暗喩であるのかもしれない。魔法使いたちがどんな能力を持っているのか、正直なところ私にはあまり分からないのであるが (笑)、小さくて多様な命とつながりを持つ主人公ニュートは、もしかすると、現代が必要としている救世主なのかもしれない。
e0345320_23021988.jpg
因みにこの作品の監督デヴィッド・イェーツは、「ハリー・ポッター」シリーズの後半 4作と、この「ファンタスティック・ビースト」シリーズ 2作を続けて監督している。人気シリーズの場合には、監督がコロコロ替わることも多いので、このようにひとりの監督が連続で続けることは、歓迎すべきことであると思う。演出上何か奇抜な点があるわけではないが、手堅くまとめている。この作品の終結部は、次の作品に向けて開かれたもの。全部で 5作となるこのシリーズ、残り 3作も私は見ることになるだろう。

by yokohama7474 | 2019-01-19 23:12 | 映画 | Comments(0)

e0345320_21443770.jpg
前項に続いて、音楽関係の映画である。ジャンルはちょっと違うと言ってよいのだろうか (?)。クイーンが「ボヘミアン・ラプソディ」にオペラ調の奇妙な音楽を盛り込んでいた 1975年、この映画の主役の不世出のオペラ歌手は、そのキャリアをほぼ終えようとしていた。ギリシャ系米国人、クラシック音楽に興味のない人でもその名を知らない人は多くないであろう (と期待したい)、マリア・カラス (1923 - 1977) である。私はこの映画のチラシを見たとき、「なんだ、またマリア・カラスか。本も読んだことあるし、もうよく知ってるよ」と思ったのであるが、宣伝文句を見てみると、何やら未公開映像や初公開の手紙などが含まれているという。全国で大々的に公開というわけではないようだが、ここで断言してしまおう。この映画は、オペラ・ファンはもちろんのこと、20世紀における偶像について何かを知りたい人にとっては、必見と言ってもよい作品であると思う。私の近所のシネコンでは、今週上映が終了となるようだが、都内ではなんとか細々と、まだしばらく上映が続きそうな気配である。だが、悪いことは言わない。これは実に驚くべき映画であり、「なんだまたマリア・カラスか」と思う人ほど、やはり見ておいた方がよい。
e0345320_22062010.jpg
この映画の何がすごいかというと、それはもうシンプルで、本人のインタビューや当時の映像がふんだんに使われていて、我々誰もが持っているこの歌手のイメージとぴったり合う点と、かなり意外に思われる点との双方があるということだ。一体どんなマリア・カラス・マニアが監督したのかと思いきや、サンクトペテルブルクで生まれ、フランスで育ったトム・ヴォルフという新鋭の手によるもの。2006年に映画制作を始めたばかりの 30代であり、長編映画はこれまで撮ったことがあるのかどうか。そして驚くべきは、彼が録音でカラスの歌声を聴いたのは、なんとつい最近、2013年のことであるという。それは映像による「ルチア」の「狂乱の場」であったそうだが、その「いつ切れてもおかしくない糸のような」歌声に涙したとのこと。そして 3年に亘ってカラスを探求するプロジェクトを敢行。カラスの近親者や仕事相手にも会いに行き、60時間以上のインタビューを実施。その成果がこの映画であり、3冊の書籍であり、2017年 9月にパリで開かれた展覧会であるという。
e0345320_23024512.jpg
ここでひとつ確認しておきたい。世界中に音楽評論家や音楽学者は山ほどいて、その中にはマリア・カラスを専門的に研究している人たちもいるだろう。だがそのような人たちの誰ひとりとして、この映画にあるような密度濃い情報を得ることはできなかったわけで、ほんの数年前にカラスの魅力に気づいた人によって、これだけの新情報が世に中にもたらされたわけである。やはり世の中、専門家だけがすべて正しく意義深いことをするわけではない。フレッシュな視点と、そして何より行動力。それらによって新しい価値が生み出されるわけである。これは私たちの普段の生活にとっても、大変に勇気づけられる事柄ではないか。

ここではカラスの生い立ちから修業時代、オペラ界で頭角を現して行く過程、そうして実業家メネギーニとの結婚、海運王オナシスとの恋愛、そのオナシスとジャクリーン・ケネディとの結婚の衝撃、そして晩年の教育活動やジュゼッペ・ディ・ステファノとのツアーなど、オペラファンなら誰でも知っているカラスの生涯が、当時の映像や本人の証言によって綴られる。その多くが初めて見たり聴いたりするものなのであるが、それにしてもこのカラスという人、極めて実直で、嘘をつけない人である。自らを美化することもないが、卑下することもない。あるテレビ番組では、自分が音楽界の「レジェンド」であることを口にするのだが、そこには、誇りはあれど驕りはない。そして、そうだと知識では知っていたが、いかにオナシスのことを愛していたかということが、ひしひしと感じられ、それは大変に切ないのである。特に、今回が初公開だというオナシスへのラヴレターは、ちょっと気恥しくなるような内容であるのだが、これこそ、飾ることのないカラスの真実の声であると思われるのである。それから本作の題名であるが、原題は "Maria as Callas"。彼女の本名は、マリア・アンナ・ソフィア・チェチーリア・カゲロプーロス。劇中で彼女は、「2人のマリアがいるのです」と語っているが、それは舞台に立つマリア・カラスと、生身の人間としてのマリア・カゲロプーロスである。本作の題名は、「マリア・カラスとしての生身のマリア」という意味であろうから、実に映画の内容をよく表すものになっている。これはテレビで率直にインタビューに答えるカラス。
e0345320_23323019.jpg
ここには、様々な舞台の映像の断片も出て来るのだが、それは客席の誰かが 8mmカメラ等で撮影したものであろう。カラスの舞台の全曲版の映像というものは、私の知る限りはないものであり、ここでの雑な映像ではなんとも物足りないことは否めないが、そうであっても、実在したこの歌手の実際の舞台姿を、断片であっても見られるというのは、何物にも代え難い。それを思うと私の涙腺は、結構やばい状態になってしまったのである (笑)。それから、これまでモノクロで知られていたパリ・オペラ座での「カスタ・ディーヴァ」(ベッリーニの「ノルマ」から「清らかな女神よ」) は、ここでは色付の映像で登場。精妙なカラスの歌をじっくりと聴いて、そして見ることができる。ただ、以前から気になっているここでの合唱のトホホな出来は、映像に色がついても改善していませんでした (笑)。途中カラスが合唱を遮らんばかりに右手を上げるシーンがあって、やはり率直な人だったのだと納得。それから、フランスで読まれる彼女の手紙は、フランスの名女優ファニー・アルダンが朗読している。私にとってはあのトリュフォーの遺作「日曜日が待ち遠しい!」でその名を知った役者さんだが、なんといっても 2003年にマリア・カラスを演じた「永遠のマリア・カラス」を思い出す。これがその映画でファニー・アルダン演じるマリア・カラス。
e0345320_00012739.jpg
またここには、何人もの世界のセレブたちが登場していて興味深い。若き日のエリザベス女王や、確か 2度姿を見せるジャン・コクトー。また、私は気づかなかったが、ブリジット・バルドーやカトリーヌ・ドヌーヴ。面白いのは、モナコのグレース王妃に宛てた手紙が朗読されることだ。実はこの 2人、仲がよかったという。そして、指揮者としてはカルロ・マリア・ジュリーニがほんの一瞬 (演奏風景ではなく楽屋で話しているところだが) 登場するほか、「トスカ」や「カルメン」でカラスと録音を残しているジョルジュ・プレートルが伴奏をつけるところを見ることができる。そして、メトロポリタン歌劇場の名支配人ルドルフ・ビングとの確執も生々しく記録されていて、興味は尽きない。あと、一時期は恋仲にあったとされる映画監督ピエル・パオロ・パゾリーニとの「王女メディア」の撮影風景も面白い。特にこのパゾリーニという人の悲惨な最期 (1975年) を知っていると、様々な思いが去来するのである。
e0345320_23534035.jpg
この映画を見て、カラスの芸術がすべて分かったような気になるのはよくないが、それでも、なぜに彼女の歌が人々の心を打ち続けるかについて、大いなるヒントを得ることができるゆえに、本当に多くの人たちに見て欲しい映画である。繰り返しだが、あの率直さが彼女の比類ない闘争心を駆り立て、また一方では深い愛情を育んだということなのだと思う。持って生まれた運命という要素もあるだろうが、壮絶な努力をして世界に認められ、だがその率直さゆえに敵を作り、愛を求め、自らの内面と向き合うことになった、そんな人生であったと思う。さて私の手元には、何年も前に購入した、EMI (この名門レーベルも今はなく、ワーナーに吸収されたが) のカラスのスタジオ録音全集 69枚組がある。もちろん、これまでにほんの数枚しか聴いていないのだが、やはりこれは頑張って聴かねばならない、と自らを鼓舞しております。
e0345320_00062308.jpg

by yokohama7474 | 2019-01-09 00:15 | 映画 | Comments(2)

e0345320_22534113.jpg
さて、川沿いの自宅でラプソディックなブログを細々と書いている身としては、まずはその題名によってだけでも、現在大ヒット中のこの映画を採り上げないわけにはいかない。ラプソディって何ですかと訊かれることは、稀にないではないけれど、そういう人には、「まずクイーンの曲を聴いて下さい」と答えるようにしている・・・というのはもちろん嘘だが (笑)、私とても、中学生の頃からクイーンの音楽にはそれなりに親しんできた世代。ただ、リーダーであったフレディ・マーキュリーが AIDS で亡くなってから (それは 1991年のこと)、何やら禁断の香りをそこにかいでしまうようになったことは、否めない。そう、もちろん、ロバート・メイプルソープ、キース・ヘリング、デレク・ジャーマン、ジョルジュ・ドン、ルドルフ・ヌレエフ、あるいはさらにマイナーかもしれないが、スカラッティの鍵盤曲全集録音 (もちろん私もその 34枚組を所有している) という気の遠くなるような偉業を達成したチェンバロ奏者スコット・ロス、あるいは自らエイズ患者を演じた「野性の夜に」(もちろん封切の際に劇場で見た) を監督したシリル・コラールなど、その前後に同じ病気で世を去った偉大なるアーティストたちには枚挙に暇がない。それから時も流れ、当時あった偏見は確実に減ってきているとは思うものの、道半ばにして AIDS で世を去った人たちの無念には、やはり胸に迫るものがある。フレディ・マーキュリーにはある種の殉教者的イメージがついて回り、そこにはもしかすると真実が美化されてしまっている面もあるかもしれない。なので、フレディの死後四半世紀以上経ってからこの映画を見ることには、様々な意味があると思うのである。これは本物のクイーンで、フレディ・マーキュリーは右前の人物。
e0345320_23240107.jpg
私が中学生の頃に彼らの曲を聴いて強烈に印象に残ったのは、そのハモリの美しさである。ロックについて何か詳しかったわけではないが、当時は邦楽・洋楽それぞれにヒット曲というものがあって、それらは人並みに聴いていたのだが、今にして思うと、街中やラジオで耳にして「なんときれいなハーモニーか!!」と思った曲は、ほとんどクイーンであったような気がする。美化かもしれませんが (笑)。だが、ここでいきなり方向転換してしまうと、この映画は別にクイーンに詳しい人だけが楽しめるという内容ではなく、見る人誰もが感情移入し、時には落ち込み、時には気持ちが高揚する、そんな映画であると思う。というのも、ここにはフレディ・マーキュリーとクイーンの歴史は事細かに描かれているものの、フレディの内面には過剰に深入りすることはなく、死の場面も描かれていない。彼の同性愛志向についてのストレートな描写はあるが、それについて何か大きなメッセージが託されているということでもない。主人公が自らの同性愛志向に気づく場面と言えば、私のようなオッサンはどうしても、ルキノ・ヴィスコンティの名作映画「ルートヴィヒ 神々の黄昏」の中で、ヘルムート・バーガー演じるルートヴィヒ 2世が動揺する、あの美しくも退廃的なシーンを思い出してしまうのだが、時代はもはや、そんな大仰なシーンを必要とはしていないのであろう。なのでここで観客は、フレディの生い立ちを辿りながら、彼がその才能を開花させ、リーダーシップを発揮し、そして天狗になって行き、挫折して信頼する者たちのもとへと戻る過程をつぶさに追って行くことで、人間には、夢を実現するすごい潜在力もあれば、名誉や富の前には自己中心的になり、あっけなく築いたものを壊してしまう、もろい面があるのだということを実感する。つまりこれは、人間を深く掘り下げて描いた映画と言えるのである。

フレディ・マーキュリーの生まれは、もともとペルシャからインドに移住したゾロアスター教徒の末裔である、パールシーと呼ばれる人たちの家である。お、パールシーと言えばもうひとり、有名な音楽がいますね。もちろん、名指揮者ズービン・メータである。私はそのことを、彼がニューヨーク・フィルを指揮したリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラ (つまり、ゾロアスターのこと) はこう語った」のレコードが販売されたとき、つまり 1980年頃に知ったのであるが、もしフレディ・マーキュリーが長生きすれば、この 2人は共演したかも、という夢想はさておいて、映画に戻ろう (笑)。いやそれにしてもこの映画、大変な労力をかけて作られたことがよく分かる。なにせ、フレディ役を演じる主演のラミ・マレックをはじめとするメンバーたちの、それはよく似ていること。ここではただ似ているだけではダメで、もちろん演技がよくないといけないし、シーンによっては楽器ができるふりくらいはできないといけない。これが劇中のメンバーたち。上の写真と比べられたし。
e0345320_23520213.jpg
ドラマーであるロジャー・テイラー役を演じたベン・ハーディ (上の写真で左から 2人目) は、「生まれてから一度もドラムを叩いたことなんかなかったのに、オーディションでできると言ってしまった」らしい (笑)。その後、毎日 10時間という猛特訓を積んだという。因みにこの役者さん、「X-MEN アポカリプス」(本作と同じブライアン・シンガー監督) でアーク・エンジェルを演じていた上、つい先ごろ記事を書いたばかりの「メアリーの総て」で、医師ポリドリを演じていたという。うぉー、そんなこととは知りませんでした。あと、主役のラミ・マレックにしてからが、そもそも別にフレディの大ファンでもなんでもなかったようで、その彼が本作において一部歌も披露し (大部分はフレディ本人によるものらしいが)、なんとクイーンのほかのメンバーを前にして演技をする羽目に陥った (?) という。やはり役者は度胸であり、役柄に対する深い思い入れこそが大事なのである。もともと上顎の歯の数が多かったというフレディ・マーキュリー。前半では歯を隠す仕草が多かった彼が、最後には大勢の観客の前で歯を見せてシャウトする。この写真の右側が本物。左側がこの映画のシーン。
e0345320_00065041.jpg
そう、このシーンは、1985年にロンドン郊外のウェンブリースタジアム (と、調べてみて知ったのは、米国フィラデルフィアでも) で行われた超巨大チャリティーコンサート、ライヴエイドにおけるクイーンのステージを再現したシーン。それに先立つ部分では、フレディとメンバーたちの確執が描かれたり、同性愛であることを自ら認めながら、家族にもそれを伝えるといった人生の曲折があるが、それらを超え、大観衆の前に立ったクイーンの演奏が、ラスト 21分に完全に再現されている。このセットは英国の空軍基地に作られたものらしいが、舞台そのものの様子もさることながら、アンプやペダル、煙草の吸殻や灰皿、コーラのカップといった細部まで、寸分違わぬ再現ぶりであったらしい。こんな感じ。
e0345320_00160634.jpg
当時の本物の映像は YouTube でも簡単に見ることができるが、いやはや、本当にそのまま再現している。もし映画本編をあまり面白くないという人がいたとしても、このシーンを見るだけでも価値があろうというものだ。それにしてもこの大群衆 (映画ではさすがに CG を使用しているものと思うが) の熱狂、凄まじい。たかだか 2000人収容のホールで聴くクラシック音楽には、このような凄まじい熱狂の群衆が集まることなど、まずありえないと思うと、ちょっと複雑な思いを抱いたこともまた事実。

このように大変見ごたえがあり、かつ、考えさせる点も多々ある映画であったが、キャストの中で面白い人発見。名曲「ボヘミアン・ラプソディ」を含むアルバムの内容に反対するレコード会社の重役である。若き日の大林宣彦ではありません。
e0345320_00252612.jpg
この人はマイク・マイヤーズ。もちろんあの「オースティン・パワーズ」シリーズで知られる人である。これはなかなかに異色のキャストで、よかったと思う。そう言えば、あとで知ったことには、もともとこの映画の主役には当初、あのコメディアン、「ボラート」で知られるサシャ・バロン・コーエンが予定されていたらしい。うーん、そう言えば、髭がフレディ・マーキュリーに似ていると言えば似ているものの・・・(笑)。
e0345320_00331405.jpg
主役の変更だけではなく、製作期間 (なんと 8年かかっているそうだ) には様々な困難があったはず。そんなことを感じながら、「ボヘミアン・ラプソディ」の物騒で謎めいた歌詞と 1970年代の英国の状況に思いを馳せつつ、「ビスミラ!!」などと叫んでみるのもよいと思う。
e0345320_00391904.jpg

by yokohama7474 | 2019-01-08 00:48 | 映画 | Comments(2)

e0345320_22060974.jpg
この記事のテーマは越年のもの。そう、あのホラー小説、あるいは SF 小説の元祖とも言われる「フランケンシュタイン」(今日からちょうど 201年前、つまり 1818年 1月 1日に出版) に関連するものである。その小説の作者は、執筆開始時僅か 18歳の少女であった、メアリー・シェリー (1797 - 1851) 。この映画は、天才詩人と呼ばれたパーシー・シェリーの妻として知られるそのメアリー・シェリーの伝記映画である。もちろん私がこの映画のポスターを目にした際に、「これは必ず見に行かねば!!」と心に堅く誓った理由は、たまたまその時「フランケンシュタイン」を読んでいた最中であったこともさることながら、主演女優である。
e0345320_22171853.jpg
このブログで何度もその才能を絶賛してきた若手女優、エル・ファニング。実年齢は現在 20歳と、ちょうどメアリー・シェリーが「フランケンシュタイン」を執筆した頃と近い。いやそれにしてもこの女優さん、自分が今何をすべきかをよく分かっている。これまでに演じてきている役柄にはヴァラエティはあるものの、カルト的な雰囲気ですら楽しんで演じてしまうその才能は、ちょっとほかにないものだと思う。今自分が演じるべき役柄をきちんと自覚して、それを実に見事な演技で演じてしまうこの女優、実に末恐ろしいだけでなく、既に現代を代表する映画女優であると思う。この映画のプログラム冊子に載っている彼女のインタビューによると、彼女の理解するところのこの映画は、「少女の成長物語でもあるし、様々な経験の中から『自分の声』を見つけて、家族の影から外の世界へと踏み出していく女の子の物語だと思う。(中略) そんな女の子が、いまや誰もが知っている『フランケンシュタイン』を生みだすまでの物語なのよ、最高でしょ!」とのこと。こんな発言をできる 20歳とは、なんともすごいと思うのである。

先の小説に関する記事でも書いた通り、この時代にはロマン主義が台頭し、「今この瞬間、この場所ではないどこか」を夢想する文化が花開いた。そして、メアリー・シェリーの祖国英国は、ちょうど産業革命華やかなし頃であり、科学技術に対する人々の期待が一挙に高まった時代である。夫である詩人のシェリーや、その偉大なる先輩であり放蕩貴族であったバイロン、そして彼の主治医であったポリドリが集ったスイス、レマン湖での「ディオダディ荘の怪奇談義」は、この映画でも描かれているが、そこには象徴的な意味があって、それを知るには、併せてケン・ラッセル監督の「ゴシック」(1986年) を見るのがよいだろう。私も若い頃に封切で見て、大変興奮したものである。
e0345320_22315220.jpg
この映画のイメージは言うまでもなく、スイス出身で英国で活動した画家、ヨハン・ハインリヒ (またはヘンリー)・フューズリ (1741 - 1825) の「夢魔」に基づくもの。この画家の画業について、日本で充分知る機会がなく、私の記憶にある限りでは回顧展が開かれたことも、少なくとも近年はない。このブログでは、昨年、フランクフルトに行ったときの記事で、ゲーテの生家が博物館になっている施設で、当時のロマン主義の台頭を示す例として、幾つもの彼の作品が展示されていたことをご紹介した。実はこの「メアリーの総て」の中で、バイロン邸の壁にフューズリの「夢魔」がかかっていて、バイロンが「この絵を知っているか?」と質問するシーンがある。
e0345320_22421592.jpg
それに対してメアリーは即座に画家の名前を口にし、そして、その画家は自分の母の初恋の人であったと言うのである。調べてみると確かにそうだ。フューズリは、フェミニストの先駆者であり、メアリー・シェリーの母であるメアリー・ウルストンクラフト (1759 - 1797) からパリ旅行に誘われたが、妻から猛反対されたという (そりゃそうでしょうな。笑)。それは知らなかった。やはりメアリー・シェリーは、時代の空気をその作品に吹き込むべく、運命づけられていたわけだ。彼女の母は、上記の通り、女性の権利を主張した有名な社会思想家であった。その夫、つまりはメアリー・シェリーの父は、やはり思想家で無政府主義者のウィリアム・ゴドウィン (1756 - 1836) である。この 2人は当時の先端的な思想の持主で、自由恋愛を説いたという。だが、母メアリー・ウルストンクラフトは、38歳という当時の高齢出産でメアリーを生んだ直後に死去。このあたりに、メアリー・シェリーが持っていた、自らの出生への罪の意識と、生命に対する彼女の考えの出発点があり、それが「フランケンシュタイン」が生まれる背景になっているのではないだろうか。

この映画では、メアリーの幼少期は描かれず、シェリーと遭って恋に落ち、様々な悲運に見舞われながらも「フランケンシュタイン」を執筆し、出版にこぎつける様子に絞って描かれている。なので、父は出て来るが、既にこの世にいない母は出て来ない。エル・ファニング以外に有名な俳優は出ていないが、それぞれの登場人物にはなかなかに味がある。シェリーを演じるダグラス・ブースは現在 26歳。「ノア 約束の舟」や、このブログでも採り上げた「高邁と偏見とゾンビ」にも出演していたようだ。
e0345320_22593733.jpg
さて、私は上記の通り、この時代の文化や、「フランケンシュタイン」という作品にもともと興味があるので、この映画を楽しむことができたが、もしそのあたりに全く予備知識がなければどうだろう。いや、その場合でも必ずや、この映画から学ぶことはあると思う。日本ではあまり大々的に公開していないようで、その点は残念だが、見る価値は大いにある映画であると申し上げておこう。そんな映画を作ったのは、ハイファ・アル=マンスールという女流監督。なんとサウジアラビア出身の 44歳。2012年の「少女は自転車にのって」という作品が絶賛され、これが長編第 2作だという。女性目線で制作しているとは言えると思うが、決して声高に女性の権利を主張するわけではなく、運命に翻弄される人間たちを、仮借なく描いていると評価される。確かな手腕である。
e0345320_23065196.jpg
このように見ごたえ充分の映画であるので、ホラーとかゴシック小説とは関係なく、広くお薦めしたいと思う。そして、エル・ファニングの今後の活動には、本当に期待感が募る一方なのである。彼女は、セクハラ疑惑に揺れるウディ・アレンの新作 "A Rainy Day in New York" にも出演しているはずだが、このままお蔵入りしてしまうのだろうか・・・。アレン自身の行動がどうであれ、その作品を見ることができないなら、本当に残念なことだと思うのである。

by yokohama7474 | 2019-01-01 23:23 | 映画 | Comments(0)

来る (中島哲也監督)

e0345320_23413085.jpg
前項はハリウッドのホラーを採り上げたが、ここでは日本のホラーを採り上げよう。もともと日本のホラーのクオリティは世界でもよく知られていて、様々なパターンがあるのだが、この映画のオリジナリティーは、なかなかのものであろう。タイトルは極めて単純で、「来る」。一体何が来るというのか。答えは「あれ」である。劇中でそのようにしか称されていないのである。ほらほら、来る来る!!
e0345320_23500055.jpg
あ、すみません。ビーグル好きなのでつい、ほかの方のブログから、走って来るビーグルちゃんの写真を拝借してきてしまいました。ともあれこの映画においては、「あれ」が来襲して禍々しい出来事の数々を引き起こす。果たしてこの子は大丈夫か。劇中で妻夫木聡と黒木華の間に生まれた、知紗ちゃんだ。
e0345320_23543056.jpg
それにしてもこの映画、ホラーでありながら、大変豪華な俳優陣である。上で挙げた夫婦役の 2人以外にも、岡田准一、小松奈菜、松たか子に、忘れてはならないこの人、青木崇高。どうも関西弁が立て板に水だと思ったら、大阪府八尾市出身だという。それは知らなかった。
e0345320_23582819.jpg
ホラー映画には様々な設定があるが、私が思うに、この映画の設定は、「何よりも恐ろしいのは人間」ということだと思う。登場人物の誰もに、表面上の自分とは異なる自分が潜んでいる。「あれ」には霊的な何かがあるとは言え、その禍々しい存在をより強力にするのは、何よりそのような人間たちの赤裸々な姿だということだ。これは主役夫婦の結婚式での余興。どこにもある幸せな光景であり、新郎新婦は幸せそのものに見えるし、私たちが既に持っているこの 2人の役者さんたちの明るいイメージにぴったりだ。
e0345320_00160896.jpg
だがその夫婦に、このような試練が待ち構えていようとは。
e0345320_00195444.jpg
e0345320_00204381.png
いやそれにしても、黒木華の演技力は素晴らしい。この役はある意味で、彼女の持っているほんわかしたイメージを打破するものであろう。それからまた、この人を忘れるわけにはいかない。高度な能力を持つ霊能者を演じる松たか子。左目の下の傷は伊達ではない、凄まじい役柄だ。その姿勢、その発声。伝統芸能の家に育った彼女ならではのリアリティに震撼する。だが、偉そうなことを言っていても、自分も「あれ」と戦うことを避けることはできないのである。
e0345320_00242454.jpg
前作の洋物ホラー「ヘレディタリー / 継承」が、家族に伝わる禍々しい話であったとすると、こちらの和物ホラーは、土地に住まう禍々しい霊が描かれている。この対照は興味深いのであるが、繰り返しながら、その禍々しいものに命を与えるのは、愚かな人間たち自身なのである。これはこれで大変に怖い話。だがあえてこの映画に苦言を呈するとすると、ちょっと様々な断片を盛り込みすぎではないだろうか。それぞれの人間に、表面上とは異なる暗い過去がある。それはそれで、まあ理解できるのだが、岡田准一演じる野崎の過去を、ここまで克明に描く必要があったか否か。人間は弱い存在であり、過去の暗い記憶に囚われるにせよ、さらにさりげない方法での提示の方が説得力があったのでは? えっ、やっぱりそうかなぁ。
e0345320_00315607.jpg
とはいえこの映画、何本も走るストーリーの線の中に様々なミスダイレクションもあって、なかなか面白いと言ってよい。監督と共同脚本を手掛けた中島 (なかしま) 哲也は 1959年生まれ。もともと CM 出身の人だが、この映画に出演している小松奈菜は「渇き。」で、また松たか子は「告白」で、既にこの監督の下で演技した経験を持つ。役者たちの言葉を見ると、現場ではなかなか厳しい人であるらしい。
e0345320_00363541.jpg
この映画の原作は、澤村伊智という作家の「ぼぎわんが、来る」。2015年の日本ホラー小説大賞を受賞しているという。私はホラーについては、映画も小説もかなり好きな方であるが、この小説は知らなかった。ほかの作品もなかなか面白そうである。
e0345320_00412049.jpg
改めて思うのであるが、人間とは本当に怖い存在。だからこそ一方では、人間の中の尊いものを信じたいと思うのである。犬には分からないだろうなぁ。な、なんなんだよその目は。来るなー!!
e0345320_00432678.jpg

by yokohama7474 | 2018-12-31 00:48 | 映画 | Comments(0)

e0345320_21521861.jpg
ホラー映画は夏の盛りに見るものかと言えばさにあらず。今年もあれこれの文化関係の記事を書いてきた「川沿いのラプソディ」の締めくくりの記事のいくつかは、冬のホラー映画としゃれこもう。日本では 11月30日に封切られたこの映画、まだまだ正月映画 (?) として頑張っていて、少なくとも年明けの第一週は、日比谷や新宿で上映中である。まずこの題名がよいではないか。ヘレディタリー "Hereditary" の意味が分からない人でも、学生時代に習った単語、"inherent" (遺伝的な) だの "heritage" (遺産) だのという言葉はご存じのはず。そう、このこの映画ではそのような言葉に内在する、遺伝性の恐怖がガッツリと描かれている。この映画についてネタバレせずに一体何が語れようかと思うのであるが、ま、まずは邦題通りの「継承」についての映画であると言っておこうか。まずは導入部分、カメラはまず、鬼太郎の樹上の住居 (?) のような場所から引いて行き、そしてズームインすると、ミニチュアかと思われたその家の中で、なんと人間が動いているではないか!!
e0345320_22110343.png
うーん、そこからの展開を書き記すのは面倒なので (笑)、いきなりこのショットにつなげよう。ミニチュア作家のアニーさんだ。
e0345320_22134555.jpg
うわぁ、これを見るだけで鳥肌立つ思いなのであるが、この主演女優、誰もが知るこの映画で主人公の妻役であった、トニー・コレット。
e0345320_22562507.jpg
そう、「シックスセンス」である。1999年の同作品からもうすぐ 20年。あの大傑作に出演した女優さんは、今の今まで何をしていたのだろうか。いや、Wiki で彼女のフィルモグラフィーを見ると、「シックスセンス」以降も、ほぼ毎年映画に出演しているのである。知らなかった私が悪い。そして今、渾身の絶叫。
e0345320_23034079.jpg
この映画のテーマはまず、人生には必ずついて回る、禍々しい存在。それを悪魔と呼ぼうが亡霊と呼ぼうが構わないが、世界はそのような禍々しい存在で満ちている。そして、家族の間で継承される、これまたなんとも禍々しい宗教であり儀式である。まず開始早々で明らかになる通り、このような女の子が「チャーリー」という男の名前で呼ばれる点で、違和感を感じよう。演じるミリー・シャピロは 2002年生まれ。既に 5年前、ブロードウェイ・ミュージカル「マチルダ」でトニー賞を受賞しているという。
e0345320_23080662.jpg
今思い起こしてみれば、本当に禍々しい存在があちこちに潜んでいるフィルムである。これは禍々しくて、ちょっと見る者がストーリーに翻弄されてしまうタイプの映画である。劇中に起こる実に禍々しい出来事の数々に関してその意味を考え始めると、頭がクラクラしてくることであろう。私は最初の方こそ、画面画面の意味を考えながら見ていたのだが、途中でこれはヤバいと思い、ただ映像と音声に身を委ねることとした。そうすると少しは気が楽になったものの、禍々しい存在はどこまでも観客を追ってくるのだ。
e0345320_23205441.jpg
ここにあるのは、肉親を亡くしたことによる耐え難い哀しみ、そしてその哀しみから逃れようとして行う降霊術 (我々が子供の頃によくやったコックリさんと同様のものが出て来る)、それから、本当に禍々しい悪魔崇拝。これは現実を超えた架空の現実であるゆえ、何か見る者の本能的な恐怖を呼び覚ますのである。一体何が現実で何が夢であるのか判然とせず、できれば最後のショッキングなシーンすらも夢であって欲しいと思う。だが、こればかりは夢ではなく、恐ろしい現実、ということなのであろう。主役 (であろう) ピーターを演じるアレックス・ウォルフは 1997年生まれ。ハリウッドで最も注目されている若手俳優であるらしい。さながらキングといったところであろうか。
e0345320_23280836.png
さて、本編を見ていない人には何が何やら分からず、本編を見た人にはその恐怖を甦らせるような記事であるが (笑)、間違いないことは、この映画が近年稀に見る禍々しい映画であるということだ。こんなひどい映画の脚本、監督を務めたのは、本作が長編デビューとなるアリ・アスターという人。まぁそれにしても、よくできた脚本を書いたものだ。
e0345320_23332785.jpg
そんなわけであるから、新年の厄払いにもよいかもしれない。ほらほらお母さん、落ち着いて。こ、こわっ。
e0345320_23361380.jpg

by yokohama7474 | 2018-12-30 23:39 | 映画 | Comments(0)