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ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書 (スティーヴン・スピルバーグ監督 / 原題 : The Post)

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スピルバーグの新作が 2本、並行して公開中であるとは、なんと素晴らしいことか。もちろんこの作品と、それから「レディ・プレイヤー 1」である。いかにもスピルバーグらしく、ひとつは硬派な社会派、もうひとつは近未来をテーマにしたファンタジー物である。もっとも、私は後者は未だ見ていないし、ここで採り上げるこの作品も、既に上映劇場は大幅に縮小されてしまっている。シネコンの場合は、どうしても多くの観客が見込まれる作品 (いきおい、その多くは家族向けになる) に優先順位があるので、ある程度は致し方ないとは思いながら、このような映画にもまだまだ動員要素があると思うと、現在この作品を見ることのできる劇場が限られてしまっていることには、やはり残念な思いを禁じ得ない。そこでこのブログでは、せめてこの映画の持つ多大なる価値についての心からなる賛辞を捧げたいと思う。

まず、その題名である。ペンタゴンとは、もちろん米国国防省のこと。ペンタゴン・ペーパーズとは、その国防省が隠匿していた最高機密文書のことを指すのであろう。それは予告編でも明らかであった。だが、原題は "The Post" 。むむ、なんだこれは。どんなポストなんだ???
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もちろんそう思った 2秒後には気づいた。これは、ワシントン・ポスト紙のことである。ワシントン・ポストと言えば、もちろん米国の首都ワシントンで発行されているメジャーな新聞であるが、もしかするとクラシック音楽愛好家で初期にセミ・クラシックのような音楽を聴いておられた方は、あのマーチ王ジョン・フィリップ・スーザの代表作のひとつである同名作品を思い浮かべるかもしれない。だがそれは全く正しいことである。なぜならばそのマーチは、1889年に、このワシントン・ポスト紙からの依頼によって作曲されたものであるからだ。より正確に言うと、ワシントン・ポスト紙のオーナーが依頼したのである。そう、ここでこのマーチとこの映画の間のつながりが見えてきた。というのも、この映画の主人公は、ワシントン・ポスト紙のオーナーであるからだ。劇中でメリル・ストリープ演じるところのキャサリン・グラハム (1917 - 2001)。なるほど、メリル・ストリープが演じるのにふさわしい、意志の強そうな人である。
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この映画の舞台は 1971年。ニクソン政権下において米国がヴェトナム戦争の泥沼にはまっていた頃である。とある経緯で流出したペンタゴンの最高機密文書 (ヴェトナム戦争の真実に関するもの) の内容が、ニューヨーク・タイムズ紙に掲載される。それに対してワシントン・ポストも必死になって取材活動を展開し、ついに同様の情報に辿り着く。その機密文書に記されている衝撃的な情報を暴露すれば、ワシントン・ポスト紙が (まさにニューヨーク・タイムズがそうされたように) 政府の圧力を受けるかもしれない。また、つきあいのある政治家にマイナスの影響を与えてしまうかもしれない。そのような厳しいジレンマの中、オーナーであるキャサリンが果敢な決断を下すことになる、というストーリー。ハリウッドでは過去にも米国のスキャンダラスな恥部が何度も映画で描かれてきていて、それは日本ではちょっと考えにくいことなのだが、この分野にはかなり見ごたえのある作品が多い。だが、この映画はほかならぬスティーヴン・スピルバーグによる作品である。さすがに類似作品の中でも群を抜く出来だと思う。考えてみれば、社会派作品もこれまでに多く手掛けている彼としても、1970年代の米国の実話となると、これまでになかったのではないか (「ミュンヘン」は 1972年が舞台だが、国外の話である)。実のところ彼はインタビューで、実際にこの事件を体験した人々に話を聞くことができ、それはまるで天からの贈り物のようだったと語っている。それはそうかもしれないが、私が思うに、ここでスピルバーグが成し遂げたことは、実際にいかなる事件が起きたかを忠実に再現するというよりは、ジャーナリズムの姿勢はいかにあるべきかという社会的テーマに基づき、ルポルタージュでもノンフィクション小説でもなく、創作された映画として、強いメッセージを発することであったと思う。それを感じる例として私は、セリフを挙げたいと思う。英語は日本語とは異なり、意見を戦わせるには適した言語であるが、ここでポスト紙の熱血編集主幹として多くのセリフを喋るトム・ハンクスと、それに対して同意したり問い詰めたり、あるいは悩みを打ち明けるメリル・ストリープとは、独特のリズムで言葉の応酬を行っており、言葉同士が錯綜することがしばしば起こっても、いずれのセリフも明確に聞き取れるのである。もしこれが凡庸な監督と凡庸な役者たちだったら、とにかく議論のシーンは迫力を出すために、お互いに喚き散らして、ただ混沌とした状況だけを描くだろう。ここで飛び交う言葉の数々は、細部まで周到に計算されており、描かれている事態の深刻さも物語れば、登場人物たちの葛藤も容赦なく抉り出す。これは実に見事であり、映画という表現形態でなければできないことだ。
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それから、描かれていることが、歴史的に見れば比較的最近のこととはいえ、既に 45年以上も前のことであり、例えば現在のインターネット社会では成り立たない設定も多々ある。メールもない、携帯もない、もちろん SNS などあるわけもない、そんな時代に真実のために格闘した人々の姿は、だが、決して古臭い感じはしないのである。つまりここで描かれている人々の姿は、時代を超えて壮絶なるリアリティがあり、それこそが人間の、あるいは社会の真実であるということだろう。そしてスピルバーグ自身の言葉によれば、ここで描かれていることは、「今、この時代にも同じことが起きている」のである。
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ヴェトナム戦争について、今の時代に我々日本人がどうのこうのと言うことに、いかほどの意味があるのか分からない。だが、やはり真実を知ることは、誰にとっても必要であると思う。映画は別に政府批判のための道具ではないし、いかに内容が深刻でも、絶望感だけの映画であれば、誰も見たいと思わない。そうであるからこそ、スピルバーグのような、純粋な娯楽と社会性のあるものとを織り交ぜて世の中に発信できる人こそが、必要なのだと思う。この映画は、まだまだ上映終了することなく、多くの人の目に触れて欲しいものだと切に思うのである。

ところで、物語の最後には、ウォーターゲート事件の発覚が少し描かれている。もちろんこのスキャンダルでニクソンは、1974年に辞任に追い込まれたのであるが、その調査において中心的な役割を果たしたのは、実はワシントン・ポストの記者たちであった。そしてその先頭に立っていたのは、本作でトム・ハンクスが演じているベン・ブラッドリーなのである。彼は 2014年に 93歳で没したが、死の 1年ほど前に、「報道・言論の自由」に対する貢献を称えられ、大統領自由勲章なるものを授賞した。5年前の写真だが、何か遠い昔のように思えるのはなぜか・・・(笑)。
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このような実在の人たちの貢献は我々も知っておきたいものである。一方で、繰り返しだが、この映画の価値は、やはり映画として素晴らしい水準の出来であるという点を除いてはありえないと思う。スーザの「ワシントン・ポスト」マーチを口ずさみながら、素晴らしい映画との出会いを喜びたいと思う。

by yokohama7474 | 2018-05-14 00:53 | 映画 | Comments(0)  

ラッキー (ジョン・キャロル・リンチ監督 / 原題 : Lucky)

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この映画は、ハリー・ディーン・スタントン (1926 - 2017) の遺作である。一般にはこの俳優の名前を知らない人も多いだろうし、かく言う私も、彼の大ファンということでもないのだが、一本の映画が私の脳裏に鮮烈に焼き付いて離れないので、これは見ないといけないと思ったのである。その映画とは、ヴィム・ヴェンダースの「パリ、テキサス」(1994年) だ。
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まあこの写真を見ても、「なんだ、汚い格好をして荒野を彷徨い歩く人か」くらいにしか思わないかもしれない (笑)。そういえば今回の「ラッキー」のポスターも、同様の趣向と言えば言える。実際のところ、彼はその生涯に 100本以上の映画に出演したものの、その多くは脇役であり、オスカーを受賞することもなく、きらびやかな銀幕のスターでは全くなかった。だが、一度見ると忘れられない味のある役者であり、この「パリ、テキサス」という一作品だけでも、人々の記憶に永遠に残るであろう。痩身にギラリと光る眼が、その寡黙さとあいまって、ちょっとただならぬ印象を与えるが、それは決してコミュニケーションを断絶した眼ではない。禁欲的であり、決して優しさや寛容さを湛えているわけでもないが、しかし、人の痛みを知っている眼である。言葉を発せずとも、人と人の間でその存在を自然に主張する、そんな不思議な雰囲気を持った人であったと思う。こういうモノクロの写真では、彼の生きていた時間がその顔に現れているのが分かる。
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さてこの作品は、そのハリー・ディーン・スタントン自身を想定して書かれた脚本であり、一人暮らしの 90歳の老人の物語。ラッキーという題名は主人公の名前であるが、これを見ていると、演技なのか、役者自身が独白しているのかが分からなくなってくるような、そんなリアリティを感じることとなる。ここで描かれているのはラッキーの日常であり、何か異常な事態が発生して世界が危機に陥ることもない。朝起きて、ヨガ (なのかな?) のポーズを取り、ミルクを飲み、近くのダイナーでコーヒーを飲む。クロスワード・パズルを好み、夜はバーでブラッディ・マリア (マリーではない) なる特別のカクテルを飲む。彼は 90歳にして喫煙を続けているが、肺には特に異状はない。決して人当りのよい方ではなく、回りに毒舌を吐くこともしばしば。だが、例えばいつもミルクを買うデリのヒスパニックの女性には優しいし、そして、長年飼ってきた100歳 (!) の陸カメ (因みに英語では Turtle ではなく Tortoise である)、ルーズヴェルトがいなくなってしまったことを大いに嘆くという人間性を持つのである。その彼の日常に、過去の思い出と目先の問題が交錯し、そして観客は、この頑固爺が、死という不可避の運命に対し、ごく自然に対峙していることを知る。これは死の厳粛さとは無縁の作品である。だが観客はそこに、人が生きることの孤独や、限られた時間の中で生まれる人と人との縁のようなものに、何か心を動かされるのだ。これは歴史的傑作というような映画ではない。だが、ハリー・ディーン・スタントンというユニークな俳優が、居丈高になることも感傷的になることもなく、ただ彼自身の生きる姿を見せることで、忘れがたい映画になっている。ほかの出演者のほとんどにはなじみがないが、唯一この人だけは注目であろう。
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そう、デイヴィッド・リンチである。彼のドキュメンタリー映画についての記事を少し前に書いたことがあるが、自身が役者としてこんな映画に出演するとは珍しい。彼の作品のいくつかにスタントンが出演していることが一因だろう。「ツイン・ピークス」の映画版にも出ていて、昨年制作された新テレビシリーズでも同じ役で出演したらしい。この写真はちょっと異色なツーショットのようでもあり、何か特別な絆で結ばれているようにも見える。リンチは決して器用な役者ではないと思うが、この、いなくなった陸ガメを見つけて遺産相続させようというアドバイスを真剣に送る奇妙な人物 (笑) は、この人のイメージにぴったりだ。プログラムに記載されている脚本家のインタビューでは、この役をリンチにやってもらうように提案したのは、スタントン自身であるようで、リンチは脚本を読んですぐに気に入り、この陸ガメのシーンは自分でも書きそうなセリフだし、ハリーのためなら是非出たいと言ったらしい。

この映画の監督、ジョン・キャロル・リンチは、その名前から、もしかしてデイヴィッド・リンチの親戚かと思いきや、そういうことではなく、もともと俳優である。1963年生まれで、数々の作品に出演しているようだが、彼もハリー・ディーン・スタントンと同じく脇役中心であり、あまりイメージが沸かないと思ったら、お、「ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ」で、マクドナルドを起業した兄弟のうち、気のいい兄を演じていた人であった。このような映画の監督を任されると、きっと俳優人生にも大きな刺激になるであろう。
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映画の最後に姿を見せる100歳の陸ガメ、ルーズヴェルトは、一体どこに行くのであろう。この映画の完成後間もなく亡くなったハリー・ディーン・スタントンの魂 (きっとその状態でも煙草を吸って毒を吐いているだろう) を乗せて、悠々と地球のどこかを歩き続けているのかもしれない。
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by yokohama7474 | 2018-05-12 12:05 | 映画 | Comments(0)  

ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男 (ジョー・ライト監督 / 原題 : Darkest Hour)

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これは私がロンドンに駐在していたときのことだから、もう今から 10年くらい前になる。確か日本のニュースに、英国の小学生たちに訊いてみた結果として、面白い話が載っていた。それは、ほとんどの生徒がシャーロック・ホームズを実在の人物と信じている一方で、やはりほとんどの生徒が、ウィンストン・チャーチルを架空の人物だと思っていた、という話である。この話を、当時の部下の英国人 (私より年上で、当時既に 60近かった) にケラケラ笑いながら伝えると、彼は笑いには反応せず、遠い目をして、嘆きなのか驚きなのか、何らかの実感を込めて、「Oh・・・ウィンストン・チャーチルはもちろん実在したよ・・・」と小さな声で呟いていたものだ。このことは一体、何を意味するのであろうか。子供たちにしてみれば、ベイカー街に行けばその住居とやら (もちろん、19世紀の家をもっともらしく手直しした架空の住居) を見ることのできるホームズは、精悍な外観を持つ実在の英雄であり、昔英国がドイツとひどい戦争をしたとき、その悪の権化ドイツをやっつけたチャーチルとやら言う首相は、偉大だと言われる割には太った頑固そうな親父であり、その住居跡はロンドンでは見ることができないがゆえ、小説かマンガの主人公だと思っている、ということだろうか。それに対して、私の部下のような大人になると、もちろん戦争を実際に行っていた頃と近い時代に生まれているゆえに、英国が、そしてヨーロッパ全体が、ナチス・ドイツによっていかに危機的な状況に瀕することになったかを皮膚感覚で知っているので、チャーチルが実在しないなどという馬鹿馬鹿しい思いに囚われている若い層のことを、嘆かわしく思ったのであろうか。これは実在したチャーチルの写真。
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以上は私の個人的な思い出の中で、英国人にとってチャーチルがいかなる人であるにつき、大変重要なヒントを与えられた経験である。そして、ナチス・ドイツを巡る物語は、戦争終結後 70年以上を経た今でも、虚実ないまぜとなって、様々な映画を生み出している。このブログでも過去にこの題材を扱った映画を、随分と記事にしてきたものだ。だが、この映画は一味違う。ここにはヒトラーその人を演じる役者は出て来ないし、彼を支持するドイツ人や、追い詰められたフランス人も、狂信的なナチの将校も、いや、いかなる前線の兵士の姿も (ストーリー上必要な特定の場所の描写を除き)描かれていない。ここで描かれているのは、戦争初期、1940年 5月の 20日間ほどの間の英国の様子だけである。ヨーロッパがドイツに蹂躙されるか否かという危機的状況における、チャーチルとその家族やスタッフ、また政敵や王室などの人々の追い込まれた心理と、難局が最後に打破されることが描かれているのである。従って私の疑問はやはり、この邦題に行く。チャーチルの名前のあとに、「ヒトラーから世界を救った男」とは、少し映画の内容と乖離が大きすぎないか。ここではチャーチルは未だヒトラーを打ち破ってはいないし、さらに言えばこの映画は、チャーチルの伝記映画ですらない。原題の "Darkest Hour" は「最も暗い時間」。空が最も暗いのは、言うまでもなく夜明け前である。なのでこの原題は ("the" がついていないことには、きっと何か意味があるのかもしれないが)、最も苦しい時を乗り越えることで、その後の光明が見えるようになったことが示唆されているのである。なぜ邦題は、こんな説明的かつイマジネーションのないものになってしまったのか、全く理解に苦しむ。それは本当に腹立たしいことだ。これが本作において、主演俳優ゲイリー・オールドマンが演じるチャーチル。
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さて、邦題への不満をぶちまけたところで、私はせいせいする。なぜなら、私がこの映画を見て感じた唯一の不満は、邦題だけであったからだ (笑)。一言、これはいろいろな意味で、一見の価値のある映画である。舞台の設定は上記の通り、1940年の 5月。昨年「ダンケルク」というクリストファー・ノーラン監督の映画が公開されたが、あの映画が、現場であるダンケルクでのリアルな戦争のありさまを描いていたのに対し、この映画はちょうどその裏側を描いており、ダンケルクに残された若い兵士たちをいかにして救出するのか、いや、そもそも救出できるのか、という点を巡る英国内の状況に焦点が当たっている。そしてもちろん、この戦争初期の重要局面で首相を拝命したウィンストン・チャーチルが、一体何を考え、どのような悩みをいかに乗り越えたのか、という経緯が、実に要領を得た手法で過不足なく再現されている。そう、ここで「再現」という言葉を使いたくなるのは、もちろん、その役者と、彼に対してなされたメイクが素晴らしいからだ。日本で特に話題になったのは、日本人の辻一弘のメイクがアカデミー賞を受賞したこと。それはそれで大変素晴らしいことだが、加えて、アカデミー主演男優賞を受賞したのがゲイリー・オールドマンであることが、やはり素晴らしい。
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映画好きは皆、この俳優が過去 30年ほどの間、数々の名演技でスクリーンを飾ってきたことを知っているわけであるが、それでも近年は、昔のような思い切った個性的な役柄は減っていたように思われる。そこへきてこの、本人の顔すら分からないような強烈なメイクで、しかも彼でなくてはできないような名演技を披露してくれたことは、本当に嬉しいことである。そうだ。メイクは映画にとって重要ではあるが、手間暇かけてこれだけの凝った「変身」をさせるなら、もともと太っている俳優でこの役ができそうな人を探せばよさそうなもの。だが、この映画を見ればすぐに判る。ここでは、ほかの誰でもない、ゲイリー・オールドマンがチャーチルを演じる必要があったのだ。ちょっと外見を似せるということではなく、チャーチルその人の人間性や、それこそ実在感のようなもの。それこそがこの映画でオールドマンが見せたくれたことなのだと思う。それでこそ、凝ったメイクの意味もあろうと言うものだし、この映画を見れば、英国の小学生諸君も、もうチャーチルが架空の人物だとは思わないことだろう (笑)。もちろん、それ以外の俳優も皆味のある演技であるが、私としてはやはりこの人、チャーチルの秘書役を演じるリリー・ジェームズに拍手を送りたい。
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ケネス・ブラナー監督の「シンデレラ」が素晴らしかったが、それ以前に、日本でも放送された英国のテレビドラマ「ダウントン・アビー」にも出演していたようだ。プログラムには彼女の出演作品として言及されていないが、このブログでは、彼女が主演した文芸大作 (?)「高邁と偏見とゾンビ」をご紹介した。また、今劇場で予告編がかかっている「マンマ・ミーア」の続編にも出演している。未だ 29歳。今後さらなる活躍が見込まれよう。なお、この作品の監督ジョー・ライトの過去の代表作は、キーラ・ナイトレイ主演の「プライドと偏見」である。もちろんこの作品は、「高邁と偏見」という邦題でも知られる、ジェーン・オースティンの名作の映画化である。そして、上記の「高邁と偏見とゾンビ」はそのパロディの映画化なのであるが、リリー・ジェームズは、自分もこの「プライドと偏見」に出てみたかったというほどジョー・ライトの作品が好きなのだそうである。それは果たせなかったものの、「とゾンビ」がついた方の作品では見事主演を果たしたわけで、ご同慶の至りである (笑)。これが本作の監督ジョー・ライト。1972年ロンドン生まれである。
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映画の中で扱われた題材に戻ると、ここでチャーチルは、極めて人間的な様々な面を観客に見せながら、最後には庶民の声を耳にして、自らを鼓舞することで難局を乗り切る決意を表明する。そのあたりの細かい経緯はさすがにフィクションであろうが、ダンケルクに英国兵たちが追い込まれた際に、ドイツ側からも和平交渉を示唆してきたという点は、私も知らなかったが、どうやら史実らしい。実はチャーチルは 1953年にノーベル文学賞 (!) を受賞していて、受賞作は「第二次世界大戦」という大部の著作であるらしい。だが、この著作の中には、この 1940年時点でのドイツとの和平交渉の可能性については、一切触れられておらず、記事の流れに奇妙な空白があるらしい。そしてそのあたりの実際の経緯は、1970年代になって、当時の閣議資料の公開によって、初めて明らかになったということだ。確かに、「絶対悪」であるナチス・ドイツに打ち勝った連合国を主導したチャーチルとしては、その途中で和平を模索したという事実は、あまり恰好のよい話ではなかっただろう。だが、事態はそれだけ危機的で、チャーチル自身も大いに揺れていたということなのであろう。そして何より、この映画の最後に出て来るチャーチルの演説にも、「新たな世界からの協力」が言及されていたと記憶するが、もちろん、米国の参戦なくしては、ヨーロッパはそのままドイツに蹂躙されてしまっていたかもしれないのである。よく知られている通り、チャーチルの母は米国人。当時、彼自身一体どこまで米国の参戦を確信できていたのか分からないが、自分の出自から来る希望なり、なんらかの秘策が、その胸のうちにあったのかもしれない。と、まぁ、映画を通じて歴史そのものに思いを馳せるのも、この映画が本当によくできているからだ。こんな映画はそうそうないと思う。
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さて、おしまいにもうひとつ。このチャーチルに関して、もしかするとその態度が粗野に見えることもあることから、逞しい庶民の生まれだと思っている人がいるかもしれない。実はそうではなく、彼は名門貴族の出身で、その生家は、なんと世界遺産 (!) に認定されているブレナム宮殿である。よく映画のロケでも使われていて、このブログでも過去に 2~3回、そのことを指摘したと記憶するが、そこに行くと、この人がいかに立派な家系の出身であるのか、よく分かるのである。英国の子供たちは、ロンドンからそれほど遠くないこの場所に遠足に行ったりはしないのだろうか。一度ここに行ってみれば、チャーチルの実在については明確に理解できるというものだ。日本からの旅行者も、是非訪ねて欲しい場所なのである。そして、窮地にあってもユーモアを忘れなかったこの偉大なる人物の、完璧でないがゆえに尊い行動から、大いに学びたいものだと思う。
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by yokohama7474 | 2018-05-08 00:24 | 映画 | Comments(0)  

シェイプ・オブ・ウォーター (ギレルモ・デル・トロ監督 / 原題 : The Shape of Water)

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言うまでもなく、昨年のヴェネツィア映画祭で銀獅子賞を獲得し、今年のアカデミー作品賞及び監督賞を受賞した作品である。以前もこのブログに書いたことであるが、私の場合には、アカデミー賞受賞作であることと、その映画を見たいと思うか否かには、ほとんど関連性がない。換言すると、アカデミー賞を受賞した作品だから見なくてはならないという思いはほとんどなく、ただ面白そうか否かだけが、その映画を見る理由になる。この作品の場合はなんといっても、ギレルモ・デル・トロの監督作品であることが、見に行こうと思った理由である。1964年メキシコ生まれのこの監督の前作「クリムゾン・ピーク」は、随分以前にこのブログでも採り上げた。もちろんその前に、あの素晴らしいスペイン映画「パンズ・ラビリンス」を監督したという事実があるため、私にとっては無視できない人なのである。
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この映画の内容は、単純と言えば単純。言葉を喋ることができない 40前後かと思われる女性イライザが、米国の秘密研究所で、何やら半魚人のような生物に恋い焦がれてしまう。孤独な世界に閉じこもっていた彼女は、半魚人の存在に心動かされ、水槽に囚われた「彼」を救おうとする。ときは 1962年。冷戦の真っ最中であり、ただ目の前のことに心を砕く純粋なイライザの思いとは全く違った次元で、つまりは国と国のレヴェルで機密事項において、苛烈に争い合う人々がいる。イライザはやがて、半魚人の身の危険を察し、彼をかくまおうとして大胆な行動に出るのだが、果たしてその純粋な思いは報われるのか・・・。こんなお話である。これはファンタジーであり、この監督が得意とする分野の作品なのである。水槽越しに芽生える愛?
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忘れないうちに書いてしまうと、この映画と、先の記事で採り上げた「ヴァレリアン」には共通点がある。異形の者が出て来るという点もさることながら、もっと現実的な情報で、それは何かというと、音楽担当者である。アレクサンドル・デスプラという作曲家で、1961年生まれのフランス人。これまでにも様々なタイプの映画を担当していて (そのうちの何本かはこのブログでも紹介した作品である)、現代を代表する映画音楽作曲家のひとりと言えようが、実はこの「シェイプ・オブ・ウォーター」で、アカデミー作曲賞を受賞している。この映画、上述の通り、作品賞、監督賞に加えてこの作曲賞と、それから美術賞も含めて、4冠に輝いたのである。これがオスカー像を抱くデスプラさん。
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だが正直なところ、この映画に使われていた音楽が印象に残って忘れられないかというと、そういうことでもない。いや、正確に言うと、雰囲気はそれなりに思い出せるものの、一度聴いたら忘れられないメロディというものはあまりなかったと思う。それよりもこの映画では、舞台となった時代よりもさらに遡る頃のオールディーズが耳に残っている (主人公イライザは、ポータブルのレコードプレイヤーを施設に持ち込み、半魚人に音楽を聞かせたりする)。それはなんともノスタルジックであり、人の心を決して逆なでしない、温かい音楽。内容には怪奇性や閉鎖性のある映画であるが、そのような音楽の使用で、雰囲気が中和され、映画自体のメッセージが明確になっていたように思う。

ここで突然話題を転じると、私はつい最近、仕事の関係である会に参加したのであるが、そこで初めて知った言葉がある。それは、"D & I" である。もしかするとこの言葉に馴染みのある方もおられるかもしれないが、私は恥ずかしながらこれまで聞いたこともなかった。D & I、つまりは Diversity & Inclusion である。そのときの女性講師が冗談めかして言っておられたことには、このダイバーシティという言葉は、お台場にある施設の名前ではないということ。いやいや、それはそうですよ (笑)。日本語で言うと、「多様性」である。そしてインクルージョンとは、直訳は「含めること」であり、この場合は「受容」という意味であろう。つまり、社会において、多様な人々を受け入れる姿勢。その場合の「多様な人々」とは、ある場合には女性であり、また障害者や、あるいは、なんらかの意味での社会的弱者やマイノリティということだと解釈した。これからの社会においては、そのような多様な人々が活躍できなくてはいけないというテーゼであろう。興味深いのは、Diversification (多様化) ではなく Diversity (多様性) という言葉を使っていることだ。そう、人は既にして「多様な」存在であって、わざわざ「多様にする」必要はないというわけであろう。と、話が長くなってしまっているが、私の思うところ、この映画が世間で評価されるのは、D & I をテーマとしているからということも言えると思うし、そう言えば「グレイテスト・ショーマン」も同様のテーマを持っていた。この動きはもしかすると、現政権に対するアンチテーゼかとも思われる。もしそうだとすると、やはりハリウッドの映画作りは、社会の様相を敏感に反映するものなのだと思う。

だが一旦そのことを忘れて、この映画を何の先入観もなしに見てみよう。ちょっと異色の恋愛ものとも言え、かなり凝ったシーンがあれこれある。例えば主人公が暮らすのは、古い映画館の上の階の屋根裏部屋のようなところであり、その敷地はいびつな形で、大変ユニークだ。そこには、主人公のお隣さんなのだろうか、初老の画家がいい味出して暮らしている。主人公が務める研究所も、なんとも古臭くて陰気で閉塞感のある場所だ。これらを見ていると、なるほど、アカデミー美術賞受賞もうなずける。それから、主役のシャリー・ホーキンズも味わい深い演技を披露している。
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この映画においては、懇切丁寧な背景説明はなされない。主人公がなぜ口をきけないのかも、回りの人間の噂話は出て来るが、真偽のほどは明らかにされない。それから、なぜ彼女がここまで深く半魚人に心惹かれるのか、その点の説明もない。だからこれは、細心の気配りを持って作られたセットにおいて展開する、論理的説明という気配りの全くない (?) ストーリーなのである。この点に、人によっては抵抗があるかもしれないな、と思う。私自身も、美しいシーン、ユニークなシーンをすべて楽しむという感じでもなかったことは、正直に述べておこう。「パンズ・ラビリンス」にあった切実な抒情性は、かたちを変えてここにも残ってはいるものの、そのストレートさは減じていると思う。監督の言によるとこの映画は、「愛や寛容さをテーマにして、政治的な要素のほかに、様々な映画の要素を持った力強い『おとぎ話』」とのことだが、なるほどそうかと思う反面、そのごった煮具合に、もうひとつ共感できないものがあったと感じている。まさにこの映画の舞台になっている映画館で上映されたり、白黒のテレビの画面に映っている、古き良き映画の世界では、強く優しい男性ヒーローが、若く美しい女性ヒロインを救出するのが普通であった。その点この映画は、男性は、うーん、きっと男性なのだろう (笑)、人間ではなくモンスターだし、女性は若くもなく、ハンディのせいもあって地味な存在。加えて、男性が女性をではなく、女性が男性を救出するのである。そんな時代になってしまった。モノクロ映画の過去には、もう戻れない。だからこの映画には、戻れない過去へのノスタルジーが満ちているのであろう。
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だが、ラストシーンはまたちょっと別だ。ここには違った生き物同士である「2人」が、新しい世界に入るところが描かれる。ここには希望を見ることとしたい。D & I などという言葉から入るのではなく、多種多様なそれぞれの人に、生きる意味があるということ。それを感じることが重要であろうと思うのである。水のかたちは、容器があればそれに従い、なければ無限に広がって行くという、究極の多種多様である。含蓄深い題名であると思う。

by yokohama7474 | 2018-05-01 22:49 | 映画 | Comments(2)  

ヴァレリアン 千の惑星の救世主 (リュック・ベッソン監督 / 原題 : Valerian and the City of a Thousand of Planets)

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フランス人映画監督リュック・ベッソンは、私に複雑な感情を抱かせる監督である。カッコよい「ニキータ」(1990) あたりで注目され、文句なしの傑作「レオン」(1994) を撮りながら、その次の「フィフス・エレメント」(1997) ではガクッとその映画的高揚感を下げてしまい、続く「ジャンヌ・ダルク」(1999) も決して万人を感動させる内容ではなかったと記憶する。それから私にとっては彼の作品から疎遠な日々が続き、ようやく「LUCY/ルーシー」(2014) で久しぶりに再会したのだが、広げた風呂敷をどうやって畳もうかともがいている作品のように見えた。そして今回の「ヴァレリアン」である。一時期劇場ではこの作品の予告編が頻繁に流れていたが、緩やかに流れる音楽をバックにしたその映像はなかなかゴージャスであることは分かったし、ピーター・ジャクソンらの賛辞の言葉も興味深いものであった。やはり彼は、未だに注目すべき監督のひとり。この作品は見ておいた方がよいと考えた。ベッソンは 1959年生まれの 59歳。随分と恰幅よくなったものだ。
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さて、この作品の感想を一言で述べるなら、映像の情報量にクラクラするものの、なかなかに楽しめる映画であり、一見の価値はある。映像美はもちろんこの映画の大きな特色で、子供の頃「スター・ウォーズ」の 1作目を見たときに感じたような映像の魔術性が、21世紀の今日に甦った感すらある。その意味するところは、宇宙船やコロニーの壮大なリアリティと、それと対照をなす手作り感満載のクリーチャーたちの両立と言えばよいだろうか。もちろん、「スター・ウォーズ エピソード IV」の時代には影も形もなかった CG がふんだんに使われているわけであろうが、ポイントは、その CG に依拠し過ぎない姿勢ではないか。見ている人たちが共感できるヴィジュアルには、必ず人間的なものが必要であり、この映画の成功はまずその点にあると思う。そう、その点に関して是非言っておきたいのは、主人公たち、若い男女のヴァレリアンとローレリーヌが最初に登場するシーンが象徴的であるということだ。この 2人は連邦捜査官なのであるが、コンビを組んで活動しており、既に恋仲、いや、映画の冒頭では未だそうでないかもしれないが、数々の冒険を通じて恋仲になっていく男女である。冒頭でこの 2人は、仮想の砂浜でくつろいでいるのである。というよりまぁ、ヴァレリアンがローレリーヌを頑張って口説いていて、スルリとかわされているのだが (笑)。
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このシーンがなぜに象徴的であるかというと、この 2人の使命は、広大な宇宙の平和を守ることであり、そこでの極めて危険な任務の数々においては、生命体としてはなんともちっぽけな存在。そんな彼らのちっぽけな肉体にこそ、広大な宇宙においても限りない重みを持つ「いのち」が宿っていることを実感できるからだ。実際、彼らの任務はこんな格好で遂行されるのが通常だ。ここでは生身の肉体はほとんど感じることができない。
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ここでごく自然に描かれた「いのち」という存在が、この映画のテーマになって行くことは、おいおい分かって行くのだが、考えてみれば、私がかつて全く評価できないと思った「フィフス・エレメント」も、実は同様のテーマであったのかもしれない。そうであれば、過去 20年の間に、リュック・ベッソンの手腕は上達したと誉めてやってもよいのではないか (笑)。もちろんそのような感慨を抱くことができるのも、主役の 2人、つまりはヴァレリアン役の米国人デイン・デハーン (1986年生まれ。過去の出演作には「アメイジング・スパイダーマン 2」のグリーン・ゴブリンが含まれるが、全く覚えていない) と、ローレリーヌ役の英国人カーラ・デルヴィーニュ (1992年生まれ。もともとモデルであるらしいが、「アンナ・カレーニナ」「スーサイド・スクワッド」などで映画出演歴を持つ) が、大変に好感を持てる役者たちだからだろうと思う。ヴァレリアンは精悍ではあっても、どこか憎めない三の線も持ち合わせ、ローレリーヌはじゃじゃ馬ながら、その意志の強さが美しさに直結している。よくこんな素晴らしいコンビを発掘してきたものだと感心する。尚このカーラ・デルヴィーニュ、ロンドンでふなっしーとも共演 (?) している。
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この映画のもうひとつの美点は、テンポのよいこと。導入部で時の経過を表し、舞台設定を説明する箇所で、ルトガー・ハウガーが政府役人として語っているシーンがあるのも嬉しい。また、ジャズの巨人ハービー・ハンコックが嬉しそうに国防長官を演じているし、クライヴ・オーウェンやイーサン・ホークもいい味出しており、また、これは、ジャバ・ザ・ハットならぬアイゴン・サイラスというクリーチャーだが、見ての通り (?) 声を演じているのはジョン・グッドマンだ。
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それから、中国資本も入っているので中国人が登場しているのも理由があるし、予告編でもナース姿への変身が鮮やかだったこのバブルという役は、リアーナという歌手が演じている。
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このような多士済々の顔ぶれが生きてくるのは、繰り返しだがその鮮やかなヴィジュアル性によってである。これも予告編で印象的であったミュールという惑星のシーンは、極めて美しいし、そこに住むパール人たちは、頭の形や目と目の間の距離など、実際の人間の姿に手を加えているのであろうが、大変よくできている。
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ほかにもこのようなクリーチャーたちが出てきて、さながら現代のヒエロニムス・ボスかと思われるような想像力である。
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登場キャラクターに命を吹き込むのはクリエーターの仕事であり、この映画でリュック・ベッソンは見事にその責務を果たしたと言えると思う。尚この作品、原作はフランスのコミックであるらしい。題名は「ヴァレリアンとローレリーヌ」というらしく、なんと 1967年の作品であるそうだ。実は「スター・ウォーズ」のヴィジュアルにはこのコミックからの影響があるというから、面白い。今回の映画のイメージが「スター・ウォーズ」に似ているのは、ある意味では至極当たり前であったわけである。
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このコミックは、ピエール・クリスタンという人が物語を作り、ジャン=クロード・メジエールという人が絵を描いているという (上の写真の上部左右に、彼らの苗字が記されている)。この 2人、なんと未だ健在で、撮影中にリュック・ベッソンを訪れている。楽しそうですなぁ。
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このように様々な要素が一体となって、大変に見ごたえのある映画に結実している。これもフランス文化の豊かさの一端であろうから、それに触れることのできたのは幸運であったと思う。こうなると、リュック・ベッソンの次回作も楽しみになろうというものだ。その期待を込めて、劇場に展示してあったポスターに書かれた彼のサインを撮影しましたよ。
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by yokohama7474 | 2018-04-24 00:34 | 映画 | Comments(0)  

トゥームレイダー ファースト・ミッション (ロアー・ウートッグ監督 / 原題 : Tomb Raider)

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まず話は北欧から始めよう。スウェーデン出身のオスカー女優、アリシア・ヴィキャンデルだ。1988年生まれで、現在 29歳。オスカーを取得した映画は「リリーのすべて」であり、同じ年 (2015年) の映画「エクス・マキナ」はこのブログでも絶賛したが、その作品でも世界の様々な賞を受賞している。まさに、これからの映画界をしょって立つ存在であると評価できる。この映画は、そんな彼女が汚れ役を演じる初めての映画なのである。ただこの場合の「汚れ役」とは、物理的に汚れる役なのであるが。こんな感じ。あーあ。
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題名の "Tomb Raider" とは、墓荒らしのこと。この題名には誰しもなじみがあると思う。ゲームの世界は私には分からないが、映画においては、こんなイメージであった。
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そう、ここでカッコいいヒロインを演じたのは、アンジェリーナ・ジョリーである。それは 2001年のこと。その後彼女はプライヴェートで様々な話題を巻き起こしたのだが、確かにこの「トゥームレイダー」シリーズ 2作において、素晴らしいヒロイン像を演じたのである。だが、それから 17年を経た現在では、激しく戦うヒロインの条件は変わってきているように思う。つまり今回は、同じララ・クロフトという大企業オーナーの令嬢という設定でありながら、スリムで小柄で、より普通の女の子という役柄になっている。だが今回のララも、大変な根性の持ち主であり、腹筋もバリバリに割れている。そして、これはメイクなのかどうなのか、ここでのアリシア・ヴィキャンデルの顔は浅黒くて、北欧美女のイメージとはかなり異なる。予告編でも、アクション映画に出るのが自分の夢だったと語っているが、確かに、ここでは何度も、時には両手を縛られたりしながらも、「おいおい、それは無理だろう」(笑) という大ジャンプを試みるし、銃をドカドカぶっ放すよりは、弓を引き、密林の中を駆け、相手に組み付いて倒すという、かなり激しい肉弾戦の数々を披露している。この映画はまず何より、そのような彼女のニューイメージを見るべきものであろう。
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映画の内容は、父の残した謎の手がかりに導かれて、何やら秘宝を見つけるために密林の奥に入って行き、古代の墓を舞台に敵と戦うというものであることは、事前に明確にイメージできるのであるが、実はこの映画、日本を舞台にしているのである!! いや、さらに正確に言うと、邪馬台国の卑弥呼の墓を暴こうという話である。これは多少ネタバレに近いかもしれないが、調べてみると、既にこの映画のゲーム版ではそのような設定になっているようなので、それを映画に取り込んだということだろう。というよりも、今回の作品自体が、ゲームの映画化であるということか。これはゲームのイメージからのショット。
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だが正直なところ、ここで登場する古代の墓に眠る女王が、卑弥呼である必然性はあまりない。とにかく絶海の孤島に人知れず眠っている古代の墓であればよいのである。それが証拠に、主人公たちは、なんと香港からちっぽけな船に乗って、卑弥呼の墓がある島、ということは恐らくは今でも日本の領土の範囲であろうが、そこまで一日? で辿り着くという設定である。ちょっと無理があるような気もするが、まあ、そんなことに目くじら立てても仕方ないので受け入れるとしよう。それよりも不思議なのは、劇中で何度も「ヤマタイ」とか「ヒミコ」という言葉が出ているにもかかわらず、字幕では、冒頭部分こそ「邪馬台国」「卑弥呼」と出ていたが、ほとんどは「島」とか「女王」としか訳が出て来ない。これは一体いかなる理由によるものか。もしかすると、日本古代史最大のミステリーとして、未だに諸説ふんぷんで決着を見ない邪馬台国論争であるから、こんな簡単に「はい。邪馬台国はここで、卑弥呼の墓もありました。こうしてこうしてこうすると、はい、墓も開きます」という設定にしてしまうと、命をかけて研究している人たちから訴えられる・・・という配慮であろうか???
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まあともあれ、ここでララとその仲間は、いとも簡単に卑弥呼の墓に辿り着き、先にそこで発掘作業を行う悪い連中と一戦交えるわけであるが、広大な墓の中に入ってからのヴィジュアルはそれなりに凝っている。だが、まあその点は多少の金をつぎ込めば、CGでなんとでもなろう。ちょっと残念なのは、悪役や、思いがけず現れる味方、香港から船で一緒にやってきた東洋人など、ララを取り巻く男性たちを演じる役者たちに、それほど存在感がないことだ。それから、ここで登場人物たちが探しているのが、古代の秘宝であるのか否か、この点もちょっと気になった。暴いてはいけない墓というイメージをもっと強く出してもよかっただろうし、何より最後の解決は、本当に解決になっているのか。もしかすると、あんなことをすると、閉ざされていたものが解放され、恐れている事態が世界に蔓延するのではないか (私の言わんとすることは、見た人ならお分かりだろう)。だからこの映画は、あれこれ深く考えることなく、アリシア・ヴィキャンデルの奮闘ぶりに拍手を送る、そんなことでよいのではないか。それから、最近の映画でよくある父と娘の関係も、それほど新機軸はないし、最近のヒロインは、ともに命を賭けて戦った男性との間にも、そう簡単に恋に落ちることはない。こんな風に書いていると、全然面白くないように思われるかもしれないが (笑)、決してそんなことはない。だが、誰もが手に汗握る傑作ということには、残念ながらならないだろう。

興味深いことに、主役も北欧の人なら、監督も北欧の人なのだ。1973年ノルウェイ生まれのロアー・ウートッグ。但し同じ人の名前がローアル・ユートハウグという表記になっていることもある。綴りは Roar Uthaug だから、確かに「ウートッグ」という表記には違和感がある。
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私はこの監督の名前を知らなかったし、過去の作品を見たこともない。だが、思い出してみると、このブログでも過去に何本か、北欧の新鋭監督の手になるハリウッド映画をご紹介した記憶がある。たまたまなのか、あるいは北欧が新たな才能の宝庫になっているのか、これらの監督の今後の活躍にかかっているのではないだろうか。この作品も、原題は単に "Tomb Raider" だが、邦題にはそこに「ファースト・ミッション」とついているので、これからもセカンド・ミッション、サード・ミッションと続いて行くのだろうか。ゲームを離れたオリジナル・ストーリーで、アリシア・ヴィキャンデルのさらなる活躍が見られることを期待しましょう。

by yokohama7474 | 2018-04-14 11:33 | 映画 | Comments(0)  

デイヴィッドとギリアン 響きあうふたり (コジマ・ランゲ監督 / 原題 : Hello I am David!)

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デイヴィッド・ヘルフゴットというピアニストをご存じだろうか。1947年生まれで、今年 71歳。ユダヤ系ポーランド人の移民としてオーストラリアに生まれた人である。恐らく私の世代の映画ファン・音楽ファンは、主演のジェフリー・ラッシュがアカデミー主演男優賞を受賞した映画「シャイン」の主人公のモデルとして記憶にあるものと思う。名優ジェフリー・ラッシュも知らないという人は正直話にならないが (笑)、今でも「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズなどでも活躍している俳優で、決して二枚目ではなく、味のある面立ちなので、世間一般での知名度も高いものと思う。こんなポスターであった。
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この映画、ピアノの神童ともてはやされながら、極限のプレッシャーによるものか、徐々に精神のバランスを崩して行く芸術家の激烈な魂の闘いが、強烈に描かれていた。ここで主人公ヘルフゴットは、"Help, God!!" (神様、助けて!!) と揶揄されながら、音楽史上最も難しいコンチェルトとも言われるラフマニノフの第 3協奏曲の「魔」に憑りつかれるように精神を病んで行くが、ひとりの女性との出会いによって復帰を成し遂げる、という内容。この記事でご紹介する「デイヴィッドとギリアン 響きあうふたり」は、このピアニストとその妻の近年の実際の様子を描いたドキュメンタリーである。今確認すると、「シャイン」は 1996年の制作で、日本公開は 1997年 3月。それに対しこの映画は、2015年制作のドイツ映画である。つまり、「シャイン」とはほぼ 20年の隔たりがあり、その間ヘルフゴットがピアニストとして世界的な活躍をしていたなら事情は違っただろうが、実際には全くそうではないがゆえに、どんな熱心な音楽ファンにとっても、彼はいつまで経っても「『シャイン』のピアニスト」なのである。そうであれば、さすがに 20年もすると人々のそのような記憶も色あせてきてしまう。だが、私にはひとつラッキーな経験があって、それは 1997年 5月に、ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールで彼のリサイタルを実際に聴いているということである。これはつまり、日本で「シャイン」が公開された直後のタイミングである。たまたまロンドンで時間が空いたその日、このリサイタルのことを知り、Sold Out であったにも関わらず、かの地では珍しいダフ屋からチケットを購入できて、大変嬉しかったことをよく覚えている。書庫から引っ張り出してきたそのときのプログラムがこれだが、表紙の表示によると、ワールド・ツアーの一環であったようだ。当時の「シャイン」人気に乗った企画だったのだろう。
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このときの曲目は、メンデルスゾーン、ラフマニノフ、リストの小品に、最後がベートーヴェンの「熱情」ソナタであった。ステージマナーは奇妙にフラフラしたものでありながら、一旦ピアノに向かうと、一種あっけらかんとしながらも強い集中力を伴って、非常に繊細なタッチの音が響いてきたことを覚えている。実はこのヘルフゴット、「シャイン」に先立つ 1991年に既に一度来日を果たしているらしいが、もちろん私は聴いていないし、どんな演奏であったのかも知らないのである (実は映像作品として販売されたようだが、今では入手するのは困難だろう)。さて、前置きが長くなったが、この映画は、そのようなヘルフゴットの近年の様子を見ることができる、しかも彼の芸術活動を献身的に支えてきたミューズである奥さんも出演しているドキュメンタリーである。これは必見だ。だが、実はこの映画を見ることができるのは、日本全国でも渋谷のシアター・イメージフォーラムただひとつ。しかも作品のプログラムすら制作されていないというありさまで、この作品への冷遇ぶりは実に淋しいばかりなのである。だが、それでも、日本でこの作品を見ることができるだけでもラッキーなのだと考えよう。このピアニストを知っている人も知らない人も、是非この映画をご覧頂きたい。ここには、本当に無垢な魂の尊さと、でもその無垢な魂とつきあう家族の苦労 (笑) がともにヴィヴィッドに描かれていて、人間の持つ能力のすごさとか、社内のくびきから自由になることの大切さを学ぶことができる。愛すべき佳作映画であると思う。これがこの映画の主人公たるおしどり姉妹。
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奥さんのギリアンさんは、かなりの年齢に見受けられるが、作品中で自ら語ることには、1931年生まれ。実にヘルフゴットよりも16歳も年上で、今年 87歳になるという高齢だ。彼女はもともと占星術師で、自分の運命を占った際に、近く重要な出会いがあるとの結果が出て、果たして数日後に友人の紹介でヘルフゴットと知り合い、その翌日にプロポーズを受けたという。人生には巡りあわせという要素が必ずついて回るが、まさにこの 2人の出会いは運命であったのだろう。上記の 1997年のコンサート・プログラムに、当時のものと思われる 2人の写真が掲載されている。人生をともに歩む喜びがにじみ出た、よい写真であると思う。
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この映画は、ヘルフゴットが例のラフマニノフのピアノ協奏曲第 3番を、シュトゥットガルト交響楽団と共演したり、その前後の時期であろうか、ドイツ・オーストリア各地でリサイタルを開く様子がメインとなっている。つまり彼は、来日こそしないものの、ヨーロッパでは近年でも演奏活動を行っているということだ。ドイツ南部のシュトゥットガルトには、もちろん名門オケである放送交響楽団があり、また、昔は設立者カール・ミュンヒンガーの指揮のもとで盛名を誇ったシュトゥットガルト室内管弦楽団がある。加えて、シュトゥットガルト・フィルというオケもあるらしく、調べてみると現在の首席指揮者は、以前の東京フィルの常任指揮者、ダン・エッティンガーだ。だが、この映画のタイトルでしっかり確認したことには、ここで演奏しているオケの名前はそのいずれでもなく、「シュトゥットガルト交響楽団」なのである。ここでヘルフゴットについて語っている指揮者も、なじみのない人だ。
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いやそれにしても何が面白いって、ヘルフゴットの日常だ。若い頃一時期精神を病んで、闘病生活をしていたことは既に「シャイン」で克明に描かれているが、この映画における彼の言動を見ていると、正直なところ、今でも通常人には見えないようにも思われる。それは、常に体を動かし、常に何かを呟き、常に言葉は同じところを旋回し、そして常に奇妙なまでに明るい、その行動が極めてユニークだからだ。原題の通り、どこへ行っても "Hello, I am David!" と人懐っこく他人に寄って行き、老若男女を問わず、名前を訊き出身地を訊き、必ず最後はこれである。いや明るいのなんのって。
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だが、作品の中でセラピストが語っている通り、複数の精神科医は、彼のことを病気だとは診断していないという。なるほど、コーラが欲しくて駄々をこねたり、気に入ったものなら勝手にポケットに入れたり (とはいえ、ボールペンとかティーバッグとか手帳とかの小物ばかりで、罪がないとも言えるが)、といった奇行の数々もここで映っているが、彼の喋ることには、時に地理的な知識 (クルド人が住んでいる地域は世界で 3ヶ所であると知っていて、ちゃんと具体名も言えるのだ) が披露されていたり、充分論理的な内容であったり (世界は格差社会になりつつあると主張するのだ)、何より、彼の弾くピアノは技術的にもしっかりしていて、音色も澄んでいるのである。これは実に驚くべきもので、人間の脳が一体どのようにできているのか、考えさせられるとすら言ってよい。そして、ヘルフゴットの言動のピュアぶりに心を動かされるとともに、その音楽のピュアなことに、より一層感動するのである。日常的に彼の世話をする家族の人たちは大変だろう。だが、一旦彼がピアノに向かって弾き始めると、その他のことはすべて流れ去ってしまうのではないだろうか。本作の中で、ギリアンの前夫との間の息子が、そのような内容を率直に語っている (因みに、字幕には出て来ないが、彼が聴いて涙を流したヘルフゴットの演奏は、ムソルグスキーの「展覧会の絵」であるそうだ。分かるような気がする)。尚、本作で監督・脚本を手掛けるコジマ・ランゲは、1976年生まれの女流ドキュメンタリー作家。ここではしょっちゅうヘルフゴットとスキンシップを図っており、なんだか彼の母親のようである。
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繰り返しだが、この映画には、人間の持つ能力の素晴らしさのエッセンスが詰まっている。普通の人は彼のようにはなることはできないし、彼も普通の人のように振る舞うことはできない。現代に舞い降りた天使のような芸術家、デイヴィッド・ヘルフゴット。彼が再度はるばる日本まで来てくれるか否かは、どうも悲観的に考えざるを得ないが、せめてこの映画がもう少し広く日本で上映されることで、無垢な人間の魂への人々の共感を呼んで欲しい。上で触れた 1997年の世界ツアーのプログラムには、彼の魂の無垢さが分かる写真が載っているので、最後はそれで締めくくろう。本作でも何度も出てくる、水泳するヘルフゴット。その神々しい姿が、これである!! 偉大なる芸術家への心からの敬意を表したいと思う。・・・って、水着は???
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by yokohama7474 | 2018-04-03 23:27 | 映画 | Comments(0)  

空海 -KU-KAI- 美しき王妃の謎 (チェン・カイコー監督 / 英題 : Legend of the Demon Cat)

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映画を選択する際に監督をかなり重要な要素としている私としては、またここで、現代の名監督の手になる新作が、決してその監督の名誉にならない出来であることに、大変落胆している。この映画の監督は、1952年中国生まれのチェン・カイコー (陳 凱歌)。もちろん彼の新作なら見に行かねばならないし、しかも主人公が、中国に留学して真言密教を日本にもたらした、あの弘法大師空海である。きっと魂の傑作であるに違いないと思うのが人情ではないか。だから、この平安時代の僧侶と同じ名前のチェーン店のラーメン屋にこの映画のポスターが貼ってあるのを見ても、まあ笑って見逃そうと思ったし、空海の名前が KU-KAI と分けて表記されているのも、きっと何か呪術的な意味でもあるのだろうと思っていた。そう、これはチェン・カイコーの映画なのである。私が鑑賞したシネコンには、このようなサイン入りポスターまで展示されていたので、間違いない、チェン・カイコーである。カン・チェイコーとか、カイ・チェンコーという別人ではないのだ。
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既に予告編でも、この映画が決して、空海の激烈な修業を描く伝記映画でもなければ、命を賭けて中国から日本に仏教文化を伝えた人たちの偉業を顕彰する内容でもないことは明らかであった。そう、上のチラシの宣伝文句にある通り、これは「百花繚乱の (中略) エンターテインメント」なのである。ええっと、なぜ真ん中を省略したかというと、そこに踊る文字は「極上の」であり、申し訳ないが私はそこに異論があるからだ。これが今回、脚本にも携わっているチェン・カイコー監督。
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空海という、少なくとも日本仏教史においては燦然と輝く偉業を成し遂げた僧侶については、ここでクダクダと述べるまでもないであろうが、その空海がこの映画の中で何をするかというと、謎解きなのである。いかなる謎を解くかというと、喋る猫の謎、そうして、彼が唐に渡った時代よりも 50年ほども前に玄宗皇帝に愛された楊貴妃の死の謎なのである。その設定に対するまず最初の感想は、仏の教えの真理を求めて、荒波を超えて留学した唐において、あの空海が謎解きなどしている暇など、全くなかっただろうということ。そして、なぜに邦題では空海という名前がローマ字表記され、しかも音節によって区切られているのかということ。なにせ英題は、そのまま訳せば「化け猫の伝説」となり、全く違うものなのだ。まぁ確かにその題名では、まるで昭和の大映映画のようで (笑)、極上と自称するエンターテインメント大作としては、いささか心もとないことは認めよう。だがそれにしても、KU-KAI とは一体なんだ。「空海」を「そらうみ」と誤読しないようにという配慮であろうか。私には意味不明でしかないのである。ともあれここで空海は、楊貴妃の死の謎に果敢にも迫り、まるで名探偵のような活躍を見せる。演じる染谷将太は私も好きな俳優で、ここでも僧侶の恰好がよく似合うし、その演技が悪いとまで言う気はないが、なぜにいつもそんなに穏やかであるのか。命を削って修業に励んでいた彼は、こんな笑いは浮かべていなかったはず。
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ここで空海は、ちょうど玄宗皇帝と楊貴妃を主人公とした「長恨歌」を執筆中である詩人の白居易 (白楽天) と行動をともにする。調べてみると、白居易は空海よりも 2つ年上の 772年生まれで、空海が唐に滞在した 804年から 806年という期間は、科挙の試験に合格したあとであるから、確かに、役人として同時代に首都長安にいた可能性はあるだろう。だが、ここでそのようなメジャーな名前を入れないと気が済まないのは、なぜだろうか。そのような実在の有名人を登場させることで、途端にストーリー運びが嘘っぽくなってしまうのに。そして、阿倍仲麻呂が登場する意味もまた、私には理解できない。まあ、登場してもよい。でも登場するなら、何かそこに意味を与えて欲しい。ただ楊貴妃殺害場面の横にいて、突っ立って見ているだけの役というのは、いかがなものか。日中合作映画だから、中国に留学した日本人を登場させないといけないという契約でもあったのだろうか。因みにこの役は阿部寛が演じていて、その他、松坂慶子、火野正平という日本の俳優たちが大勢出演している。日本人の役は日本人が、中国人の役は中国人が演じているというわけである。
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誤解なきように追加すると、私は日中合作は大変結構だと思うし、それぞれの役者たちの演技にケチをつけるつもりは毛頭ない。ひとえに、ストーリーの練り方が不足していることと、いかに荒唐無稽なストーリーでも観客を飽きさせない演出の手腕を欠いていることを、大変残念だと思っているのである。英題にある通り、これは化け猫の物語。だがそれにしては、ちょっと仕掛けが大げさ過ぎないか。もしそういうことならいっそのこと、空海は実は大魔術師だったとして、化け猫との間でサイキック合戦を繰り広げたり、念力で空を飛び、「KUー」とか「KAIー」とか奇声を上げながら、空中で宙がえりして化け猫と対決するとか、そんな風にメチャクチャに崩してしまう方が、面白かったのではないだろうか。たまたま見つけたこの写真は、この映画で若き日の幻術使いを演じる中国人俳優と、この映画で重要な意味を果たす黒猫。映画の題名は「妖猫伝」となっていて、つまりは英題は、中国語の原題そのままであったことが分かる。
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そう、まずこの映画の日本での敗因は、空海をタイトルに使用することで、歴史大作のイメージを打ち出してしまったことだろう。確かに、ここで見られる古代の世界都市長安のセットは壮大でリアルだし、CG も駆使しているであろう幻術的空間も、極彩色でゴージャスで、大作と呼ぶにふさわしい。だが惜しむらくは、そのようなヴィジュアル面でのインパクトを、映画の流れにうまく取り込めなかったのではないか。
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もちろん、私とても、この作品が夢枕漠の原作によるものであることを知らぬわけではない。その原作を読んでいないので映画との比較のしようもないのだが、チェン・カイコーともあろう者が、原作をうまく換骨奪胎して、映画的感興に満ちた流れを作り出せなかったことは、大変残念だとしか言いようがない。よく思い出してみると、化け猫がなぜに騒動を引き起こしたかという点は、実は結構悲哀に満ちた物語にはなっている。そうであればこそ、空海も白居易も要らない。ただその悲劇だけに絞った方が、観客も感情移入しやすかったと思われてならないのである。あ、それから、邦題にある「王妃」という言葉が楊貴妃を指しているなら、正しくない。「皇妃」というべきであったはず。そして、繰り返しだが、なぜに KU と KAI が分かれているのか・・・。それこそが謎である。

by yokohama7474 | 2018-04-03 00:06 | 映画 | Comments(0)  

グレイテスト・ショーマン (マイケル・グレイジー監督 / 原題 : The Greatest Showman)

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名実ともに現代を代表する俳優のひとりであるヒュー・ジャックマンは、「X-メン」シリーズにおけるウルヴァリンの役ではかなりハードなアクション俳優であるが、その一方で、「レ・ミゼラブル」で聴かせた素晴らしい名唱は忘れがたい。この映画もまた「レ・ミゼラブル」と同じくミュージカル映画なのであり、ヒュー・ジャックマンの歌を聴くことができるのが、なんとも楽しみであった。というのも、予告編で見たこのようなシーンが、極めて印象的であったからである。
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ここで後ろ向きのシルエットでその姿を見せるヒュー・ジャックマンが歌う "Ladies and Gentlemen, this is the moment you've waited for" (紳士淑女の皆さま、さぁお待ちかねです) という歌詞の語感がなんとも心に残ったのであるが、それはこの映画のクライマックスかと思いきや、なんとなんと、いきなり冒頭部分なのである。ヒュー・ジャックマン演じる興行主 P.T. (フィニアス・テイラー) バーナムの物語はこうして幕を開ける。舞台は 19世紀半ば。ここには、夢と野望を抱きつつ、公序良俗に反することも厭わず目的に向かってひた走り、そして偉大なる成功を収める男の姿、そしてまた、有頂天になって、一転奈落の底に突き落とされる男の姿が描かれている。設定は少し極端ではあるものの、多かれ少なかれ、誰の人生にもこのような浮沈があるだろう。小気味よいテンポで辿る P.T.バーナムの半生は、常にどこか人間的であるがゆえに、普遍性を持つものとして、見る者の心を揺さぶってくる。若き日のギラギラした感じから成功の美酒に酔いしれ、そして過信のしっぺ返しを受け、最悪の状況から、仲間たちに励まされて新たな一歩を踏み出すまでの数十年に亘る主人公の姿は、今年 50歳になるヒュー・ジャックマンの肉体によって、スクリーンに永遠に刻まれたと言ってよいだろう。
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予告編を見ただけでは分からなかったこの映画の侮れない点は、だが、タブーにまで挑戦しようかというその表現意欲にある。この映画のモデルになっているバーナムという人物は、かなり胡散臭い経歴の持ち主で、サーカスというよりは見世物を興行することで、世間の人気を得たようである。そのあたりをこの映画は、なかなか巧妙に描いている。普通人とは異なる人たち (その中には、それはさすがにメイクじゃないのと思われる人もいるが) を集めて興行を打ったこの人は、その点だけ取ってみれば、とても道徳的な人物ではなかったようである。このような実在のバーナムの肖像を見ると、うーん、やはりヒュー・ジャックマンとはちょっと違いますねぇ (笑)。ただ、その視線はまっすぐだ。
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この映画にはまた、常にバーナムのやり方に反対する人たちが出てきて、彼らの使う言葉は「フリークス」である。映画史的にはトッド・ブラウニングの古い映画 (1932年) で知られている言葉ではあるが、そのような言葉が現代の映画に出て来ることには、正直驚くのである。これは、バーナムと、その劇団で活躍した親指トム将軍、本名チャールズ・ストラットンの写真。
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そして、バーナムのことを最初は蔑みながら、ともに米国各地で公演を続けるうちに感情移入して行ってしまうスウェーデン出身の実在のオペラ歌手、ジェニー・リンド (1820 - 1887)。この映画の中では彼女の歌は全くオペラ風ではなく、現代のラヴ・ソングであったが、一部のクラシックファンは、もしかするとそのことに異を唱えるかもしれない。だが私は、これはこれでよいと思う。映画の流れの中で、ここだけオペラのアリアになっても、観客がすんなり入り込めるとは思えないからだ。ここでリンド役を演じるレベッカ・ファーガソンもリンドと同じくスウェーデン出身で、このブログでも何度かその活躍ぶりをご紹介した。大スターでありながらひとりの女性でもあるリンドの姿を、説得力ある演技で美しく見せてくれた。これが実際のジェニー・リンドと、彼女を演じたファーガソンの比較。いずれ劣らぬ美人ではある。
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この映画でほかに印象に残ったのは、主人公の相棒役を演じたザック・エフロン。彼の過去の出演作を見た記憶はないが、なぜかその顔には親しみがあって、役柄にぴったり合った演技であったと思う。この酒場での歌と踊りのシーンではヒュー・ジャックマンとの息もぴったりで、何とも粋であったし、空中ブランコのシーンもさまになっていた。実際にかなりマッチョな人であるらしい。
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監督のマイケル・グレイシーも耳になじみのない名前だが、それもそのはず、実はこれが長編デビュー作。ヒュー・ジャックマンと同じオーストラリア出身とのことなので、やはりこの映画を作る上での主導権は、かなりジャックマンにあったのかもしれない。だがここでのグレイシーの演出はなかなかにキレがよく、驚くような映像も何度となく見せてくれる。この映画の成功によるものであろうか、次回作はあの日本のマンガ「Naruto」の映画版であるそうだ。
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それから、ミュージカルであるからには、音楽も大事な要素であるが、ここでの音楽スタッフはあの「ラ・ラ・ランド」と同じ。なるほど、メインテーマや "This is Me"、"Rewrite the Stars" などはなかなかよい曲である。演技も歌も高次元で達成された、素晴らしい映画であった。最も偉大なショーマンに、拍手!!
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さて、最後に 2つの点に触れて終わりにしたい。まず第一は、この映画におけるバーナムのサーカス団の人たちが放つメッセージである。ここでは普通の人間と異なるユニークな人たちが、自らを鼓舞し、自信を高めるさまが描かれるが、米国の現状を思い起こすにつれ、これは、マイノリティが白眼視されかねない現政権の状況に対するアンチテーゼのように思われてくる。いやもちろん、この映画の企画は現政権発足前に遡る可能性大であるが、それでも、公開時に米国ではそのようなイメージが付与されたことは、想像に難くない。それゆえであろうか、米国ではこの作品に対する評論家の評価は二分されたという。映画とは常に時代と切り結ぶものであり、今後この映画を人々が見るときに、きれいごとではないマイノリティの主張に耳を傾ける必要について、思い当たることになるかもしれない。それからもうひとつのポイントは、ここで主人公バーナムが追い求めている The Greatest Show である。この映画を見る人には明らかだと思うが、それぞれの人にとっての「最も偉大なショー」は、その人の人生そのものにほかならない。だから我々は、どんな状況でも前を向き、たとえ挫折しても元気を出して、自らが監督を務めるステージを全うする必要があるのである。The Show must go on!!

by yokohama7474 | 2018-04-01 23:05 | 映画 | Comments(0)  

ダウンサイズ (アレクサンダー・ペイン監督 / 原題 : Downsizing)

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地球上の人口が過多となったとき、何か抜本的な対策があるだろうか。もちろん昔から、他の星に移住するという設定の SF 作品は数々あった。確かにそれは、費用もかかりリスクもあるが、発想としては自然である。だが、それ以外に何か策はないだろうか。あるある。地球にスペースがなくなったということなら、スペースを作ればよい。いや、それはおかしい。スペースがないから問題なのではないか。スペースを作ることなどできない。そうだ、人間がそのままの大きさである限り。つまり、人間のサイズを小さくすれば、問題解決ではないか!! というわけで、この映画はそのような設定になっている。どのくらい小さくするかというと、1/14。よって、180cmの人であれば、上の宣伝文句にある通り、身長約 13cmになるというわけである。そうなってしまうと、狭い自宅の土地も夢のような広さ。一般庶民がいきなり大富豪である。こんな結構な話はない・・・と本当に思うかどうかは別として、この映画はつまり、今目の前にある世界とは別の世界に入って行く勇気を持つことで、これまでの生活における不満から脱却することを目指す人々の物語である。主演はこの人、マット・デイモン。一足先に小さくなった友人と真剣に話しております。
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このように突飛な設定の映画であるから、深刻さはあまりなく、コメディ映画と言ってもよいだろう。その証拠として、マット・デイモンの妻の役を演じるのクリステン・ウィグは、米国ではかなり有名なコメディエンヌらしい。リメイク版の「ゴーストバスターズ」などに出演していたらしい。だがこの映画での演技自体はそれほど大げさではなく、こんな状況ならこんなパニックになるかもしれないといったレヴェル。このシーンは、小さくなることを決意した 2人が、現在の生活で大事にしているもの (お互いの結婚指輪とか) を収めた箱を持って出かけるところ。
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設定はなかなかよく考えられていて、人間の細胞は小さくできるものの、人工物はそうはいかないから、人工関節を入れている人は小さくなれない。だが、例えば歯の詰め物であれば、すべて除去した上で小さくなり、そちらの世界でまた詰め直すといる段取りとなる。全身の毛を剃られ、こんな感じで小さくなるのである。
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人類縮小計画は、希望者だけに対して実行され、実用化されて何年も継続するうちに、既にかなりの実績が上がってきているという設定。からだが小さくなっても、こんなミニチュアの街ができていて、虫や動物が入ってこないよう、上空は密閉されている。ほほぅ、これはやはり、快適なユートピアでしょうかね。
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と、ここまで時に妙な距離感を込めて文章を書いているのは、正直なところ私はこの映画を、そもそもの着想以外には、あまり面白いと思わなかったからである。つまりここには、「人が小さくなる」という特異な設定をどのように使ってストーリーを紡ぎ出そうかという工夫が、あまりあるようには思えない。もちろん、あるドラマが起こる設定にはなっていて、その前提は、本来なら自らの意思でダウンサイズする人たちばかりであるはずが、実はそうではないという事実が発覚することである。だが、そのドラマが一体どれほどの人に強く訴えかけるだろうか。誰にでも分かることには、この映画には悪役は一切登場しない。よくありがちな、自らの利権に目がくらんだ巨大企業の陰謀や、地球の制服を目論むマッドサイエンティストは出て来ない。カーチェイスもなければ銃撃戦もない。知恵と体力の限りを尽くす「ジェイソン・ボーン」シリーズのような肉弾戦もない。その意味では今どき珍しいタイプの映画であり、もしかするとそこに、通俗的な娯楽映画とは異なる、なんらかの社会的メッセージを読み取るべきであるのかもしれない。だが私には、そこも今一つピンと来なかった。もともとブラックコメディの要素を追求するなら、それにふさわしい役者を配し、もっと意外な事態の展開を描くべきだったろう。ここには、過酷な運命のどうしようもない強い力によるドラマ性は感じられない一方で、北欧の自然を通した何かスピリチュアルなものへの指向は明らかである。そこに、環境問題、移民問題、家庭の問題、そのような現代のヴィヴィッドな問題の数々は結局、この地球自体が堕落しているから起こっているのだという諦観を感じるのは私だけだろうか。もしそうなら、この描き方では、そもそもの地球の問題点が仮借なく迫って来ないし、悪人が出て来ない点による力点の不足があるように思う。それだけではなく、ここでの役者たちは、主演のマット・デイモンを除くと、どうも印象に残らない。いつもながら奇妙な笑顔のクリストフ・ヴァルツとか、ちょっとだけ出ているローラ・ダーンなどはともかく、ヴェトナム人家政婦という役のホン・チャウなどは、その東南アジア英語を含め、私としては苦手なタイプ。ここにアジア系移民についての何かのメッセージがあるのかもしれないが、映画のドラマ性という点では、残念ながら彼女はそれほど貢献していたとは思えない。ただ、ひとつ明確なメッセージとして受け取ったのは、マット・デイモン演じるポール・サフラネックは、ダウンサイズする際には、ある種の裏切りに遭ってしまうわけだが、この映画のラストでは、同じ裏切りに再度苛まれることはない。ここには、運命を克服する善き人間が描かれている、ということは言えるだろう。未だダウンサイズを決意する前の善き人の姿。
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この映画の監督アレクサンダー・ペインは、製作と脚本にも参画している。この名前にはなじみはなかったが、「サイドウェイ」「ファミリー・ツリー」という 2本の映画 (ともに監督も兼任) でアカデミー脚本賞を受賞しており、カンヌ国際映画祭の審査員にも選ばれているらしい。ふーん、それは大した実績だ。ではこれに懲りず、今後に期待することとしよう。
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とりあえず、人間が今のままのサイズで繁栄を続けんことを。

by yokohama7474 | 2018-03-31 21:32 | 映画 | Comments(0)