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カテゴリ:映画( 265 )

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以前も何度か述べたことがあるが、私の場合、ある映画がどこかで賞を取ったということは、事前情報としては有用でも、見に行く映画の選定にはあまり関係がない。見たい気が起こらない映画には出掛けないので、そこで見損なっている面白いものもきっとあるだろうと思いつつ、この発想は変えられようもない。そんなわけで、今年のアカデミー賞で作品賞、助演男優賞、脚本賞を取ったこの映画も、受賞作だから見に行ったのではなく、何か私の気を引くものがあったから、見に行ったのである。ストーリーは予告編で充分明らかだ。1960年代、ニューヨークに暮らす黒人ピアニストが、人種差別が色濃く残る米国南部への演奏旅行に出るにあたり、がさつなイタリア系男性を運転手兼ボディガードとしてつける。2人が旅先で経験することは・・・というもの。題名のグリーンブックとは、黒人が利用できる宿や店などを記載した黒人向けガイドブックで、1936年から 1966年まで発行されていたという。因みに本作の設定は (このピアニストと運転手が南部にツアーに出たという事実に基づき) 1962年。作中では、2人は確かにこのようなガイドブックを見ながら旅をしている。
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最近のアカデミー賞では、マイノリティ擁護の風潮が強く、実はこの映画で助演男優賞を受賞した黒人俳優マハーシャラ・アリは、2年前にも「ムーンライト」で同じ賞を受賞しているが、そちらも (私は見ていないが) やはりマイノリティを題材にした映画であった。ただ、世の中はそれほど単純ではない。この「グリーンブック」の作品賞受賞には、様々な異論があるようだ。例えば、黒人映画をひたすら撮り続けてきたスパイク・リーは、彼自身の作品 (現在日本でも公開中の「ブラック・クランズマン」) も作品賞にノミネートされていたが、この「グリーンブック」の受賞がアナウンスされたときに、人種差別に一石を投じる、いわば共通の視点を持つこの映画が認められたことを祝福するどころか、席を蹴って会場を後にしたという。どうもこの映画、人種を超えた男たちの友情とか信頼関係とかいうものへのポジティブな評価と同じほど、やはり白人の視線で描かれている、という非難を受けているようだ。最近の造語で "Whitesplaining" というものがあるようだが、これは「白人が (上から目線で偉そうに) 説明する」という意味で、この映画などまさにそのようなものだというトーンの非難があるらしい。これが作品賞受賞の際の写真。高々とオスカー像を掲げるのは、監督のピーター・ファレリーであろう。
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さて、このような事情は正直我々日本人には分かりにくい面があり、関連情報を目にしても、「なるほど、そういうことになるわけか」と思うくらいが関の山なのであるが、ただ、映画を見るときに、そんなことをあれこれ考える過ぎる必要はないだろう。以下ざっと私の感想を述べて行きたい。まず、主役の 2人は大変よいと思う。ピアニスト役のマハーシャラ・アリの相棒、トニー・"リップ"・バレロンガを演じるのはヴィゴ・モーテンセン。作中の設定はイタリア系米国人だが、実際にはデンマーク系。但し、幼少の頃にベネズエラに住んでいたことからスペイン語ができ、それだけではなくて、デンマーク語、そしてなぜかフランス語とイタリア語も流暢だという。なので、イタリア語も多く出て来るこの役には最適の人選であったのだろう。過去の映画では、「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズにおけるアラゴルン役で知られるが、今回はこの役を演じるために 20kgも増量したという。これが「ロード・オブ・ザ・リング」における彼。
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そして本作での彼。もちろん経年もあるが、その役作りは非常にプロフェッショナルだ。
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一方のマハーシャラ・アリは、つい先日も「アリータ バトルエンジェル」の記事でその名を出したが、その作品における中途半端な悪役よりも、この役の方がずっとよいと、私は思う。実在したピアニスト、ドン・シャーリーについては私は全く知識はないが、この時代にあのような活動をした黒人音楽家として、なんとなくイメージできるようなものを、ここではうまく表現している。つまり、作品のひとつの前提は、ニューヨークで盛名を馳せる黒人音楽家が、彼が何者かも知らないがさつなイタリア系白人に対し、自らの持つ音楽的才能や教養全般を盾として、過剰な干渉を許さないという態度を取るということであり、その点におけるアリの演技は完璧であろう。2人の出会いの場では、彼はこのような恰好で王座にような椅子に座っている。場所はニューヨーク、カーネギーホールの上層階にあるアパートである。史実でもドン・シャーリーはカーネギーホールと契約を持っていて、その上層階に暮らしていたようだ。やはりニューヨークは米国の中でも特別な街で、黒人であっても、実力があって要領がよければ、音楽の世界では成功することができたということか。
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この映画の面白い点は、この 2人の微妙な距離感から、長い道のりを一緒に旅し、様々なトラブルに見舞われながらもお互いを徐々に理解しあい、そして信頼しあうようになる、その過程である。これは、このように文章で書いてもあまり切実感を伴わないが、実際に映画で体験すると、かなりの説得力を感じることになる。そもそも 1960年代の米国では、黒人が入れない場所というものもあったわけで、だからグリーンブックが存在したわけだ。また、オバマ大統領が就任時に、自分の祖父の頃にはレストランにも入れなかった、そんな黒人が今や大統領になる時代なのだ、と演説していたことを思い出す。特にこの映画では、もともと人種差別の激しい南部に演奏旅行に行くという設定であるから、その苦労たるや、想像にあまりある。物語では、このピアニスト、ドン・シャーリーがなぜに南部を目指すのか、多くを語ることはないのであるが、見て行くうちに観客には、時には笑わせられながら、ドン・シャーリーの屈折ぶりの中にある何かとてもシャイでピュアなものに感情移入して行くことになるのである。一方のトニー・リップは、もともと黒人への明確な差別・偏見はあるものの、それは当時に白人として通常レヴェルであったのだろう。勤務先のキャバレーが閉鎖され、金欲しさに運転手の職にありつくわけだが、旅を続けるうちにその素晴らしいサヴァイヴァル能力を随所で発揮、コンビの間には何か特別な信頼関係が築かれて行く。人間ドラマとして素晴らしい出来であると思う。
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さぁ、これをもって、白人の上から目線の映画と断じてしまうことが適当だろうか。ネタバレを避けるためにここには書けないラストシーンなど、Whitesplaining との批判を受けるものかもしれないが、私は結構感動して、涙腺もちょっと危なくなってしまうほどであった。1960年代の現実と、映画としての流れからして、このラストは充分感動的であると思うし、それが白人至上主義の表れと言ってしまうと、ちょっともったいないように思うのである。実はマハーシャラ・アリがインタビューで面白いことを言っている。この作品の監督ピーター・ファレリー (「ジム・キャリーは Mr. ダマー」や「メリーに首ったけ」というコメディで知られる) は白人であるが、観客の中には、例えばスパイク・リー監督作品を最初から見に行かないという人もいるのが現実。そういう人たちもピーター・フェレリーの映画なら見に行き、笑って見ているうちに、思いもしなかったことを考えることになるかもしれない。「そこには価値があると僕は思う」とアリは言っているのだが、この態度には極めて現実的なものがあり、この作品に対する自信のほども伺える。

さて、最後に、音楽に関するネタを 2つ。この黒人ピアニストは劇中で、ツアーで田舎町に行ってもスタインウェイのピアノしか弾かない契約としている。弾いているのはジャズ風の音楽で (チェロとベースを伴奏として連れている)、クラシックではないのだが、もともとクラシックを学んだことから、ピアノの選択には強いこだわりがあるようだ。言うまでもなスタインウェイの本社はニューヨーク。今はどうか知らないが、その場所はカーネギーホールからは通りを挟んだ反対側だ (昔、グレン・グールドのドキュメンタリーで、グールドがここを訪れるところが紹介されていた)。ところが、ツアーの途中で、音楽のことなど何も分からないはずのトニー・リップから賛辞の言葉を受けながらも、差別に遭って傷心のうちに安酒場に行くシーンで、彼はそこにあるピアノ (調律もいい加減な、いわゆるホンキートンクという奴だろう) で、ショパンのエチュード「木枯し」を弾いて、人々を感動させる。これはいいシーンであった。ところが演じるマハーシャラ・アリは、実際に鍵盤を叩いているのでもともとピアノが弾けるかと思えばさにあらず、数ヶ月は練習したものの、演奏は「ふり」だけで、映画の中の音は別人が出しているらしい。うーん、それにしても器用だ。これが実在のドン・シャーリー。
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実際にドン・シャーリー (1927 - 2013) は、9歳のときにレニングラード音楽院に入学、18歳でアーサー・フィードラー指揮のボストン・ポップス管弦楽団と共演した神童であったらしい。そしてあのストラヴィンスキーも、そのピアノを神業と称えたという。映画で描かれている通り、ノーブルで教養もあり、でも心の中に屈折を抱えている人だったのだろうか。がさつ者のトニーが家族にたどたどしい手紙を書くのに耐えられず、口述でそれを直して行くのだが、その中に面白いシーンがある。
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手紙の最後に P.S. をつけ、子供への愛を表明しようとするトニーに対してドンは、「交響曲のあとに余計な音を足そうというのか!!」と非難するのだが、字幕には「交響曲」となっているが、セリフでは "Shostakovich 7" と言っていた。これはもちろん、ショスタコーヴィチの交響曲第 7番「レニングラード」のこと。この曲は、ドイツによってレニングラードが包囲される危機的な状況の中、1941年に初演されているのだが、なぜここで言及されているのだろうか。私の勝手な解釈では、上記の通りドンはレニングラードに留学しており、それは 1936年頃のこと。すると、まぁ戦争前には本国に帰っていただろうが、包囲された街レニングラードには思い入れがあるのだろう。ただ、そのことをトニーに説明しようとはしない。このさりげないセリフひとつにも、ドンの性格が表れていると思うのだが、どうだろう。

ほかにも語りたいシーンはいろいろあるが、この辺でやめておこう。差別問題という社会性ある観点を離れて見ることはできないにせよ、人間を描いた映画として面白いというのが、私の感想である。

by yokohama7474 | 2019-03-30 17:39 | 映画 | Comments(0)

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この映画はどうやら英国王室の話であることは明らかであり、レイチェル・ワイズとかエマ・ストーンが出ているというので、ちょっと見たいなと思ったのだが、題名が「女王陛下のお気に入り」? うーん、これはコスプレ・コメディだろうか。どの女王の話か知らんが、私も決して暇な人間ではないし、ま、他愛ないほのぼのコメディならパスしようかな、と思っていた。ところが、一応どんな映画だろう、と思って調べてみると、ひとつ分かったのは、これはアン女王に関する話。アン女王と言えば、あのロンドンのセントポール大聖堂の前に彫像が立っている (つまりそれは確か、この大聖堂が今のかたちで建設された時の王であったからと記憶するが)、あの女王である。もちろん、エリザベス 1世やヴィクトリア女王のようなよく知られた女王ではないが、一応知っている名前である。単なる架空の王朝コメディではないということだ。そして、おっ、監督のなんとかティモスって聞いたことがあるぞ。そう、あの怪作「聖なる鹿殺し キリング・オブ・セイクリッド・ディア」の監督、ヨルゴス・ランティモスではないか。そうなれば話は別。ちょっと見に行ってやるか、と思って劇場に足を運んだのである。監督のランティモスは 1973年生まれのギリシャ人。
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そして、私は今申し上げたい。映画という表現手段の持つ強烈な力を感じたければ、是非この作品を見るべきだ。但し、出演している女優たちが、昔の「ハムナプトラ」シリーズのレイチェル・ワイズだとか、ましてや「ラ・ラ・ランド」のエマ・ストーンだと思ってはいけない。この映画における彼女たちは、世代は異なれども、ともに映画という芸術分野に深く貢献する、そしてそれだけの自覚と決意を持った表現者として、スクリーンの向こうにいる。残念ながら日本ではこんな映画、到底期待できないと思う。

ストーリーは単純と言えば単純。主人公のアン女王 (1665 - 1714) は、ステュアート朝最後の王であり、その在位中の 1707年にイングランドとスコットランドが合併して、グレートブリテン王国が成立した (現在の連合王国となったのは、1801年にさらにアイルランドを併合してから)。物語は、そのアン女王と、彼女の幼なじみで、事実上王宮を牛耳る存在であるレディ・サラ、そして、サラの従妹で、父親のギャンブル好きのおかげで貴族社会から転落し、召使として王宮にやってくるアビゲイル、この 3人が織り成す、激しいドラマである。サラ役のレイチェル・ワイズがインタビューで面白いことを語っている。3人の女性を主役にする映画は珍しいし、その 3人の関係も普通ではない点に興味を惹かれた。そして、「3人が競い合い、愛し合い、妬み合い、敵対し合うところがおもしろい」とのこと。そうそう、まさにこの 3人の関係、なんだかよく分からない複雑な様相を呈するのである。紋切り型の権力争いや、表面上の媚びへつらいとか、そういった次元の話ではない。何かもっと人間の根源的な弱さとか醜さを、仮借なく描いているのである。その一方で、今度はアビゲイル役のエマ・ストーンのインタビューから引用すると、「脚本が本当にすばらしかった! 複雑な 3人の女性キャラクターがとてもよく描かれていたの。コメディだし、読みながらも笑ったわ」とのこと。いやいや、私は上で、これはコメディではないと書いた。それをコメディだと言いきってしまうあたりに、この女優の侮れない個性が見て取れる。さぁこの 2人、どちらが勝つのだろうか。
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そう、普通の意味ではこの映画は断じてコメディではなく、人間の汚い面を赤裸々に描いた、あまり愉快な映画ではないのだが、その細部を思い出して行くと、今度は人間のしぶとさにも思い当たるわけで、そう思った瞬間、いろんなことが可笑しく感じられるから面白い。ネタバレせずに説明するのは難しいが、一国 (未だ世界に冠たる大英帝国ではないにせよ) の君主がこれだけ人間的な弱みを抱えていて、いとも簡単に操られるかと思うと、意外としっかりした面があって、突然自らの意思で命令を発し始める。あるいは王宮を牛耳る存在である女性が、年少の従妹の策略にかかってひどい目に遭うことは、小気味よくもある。さらにその年少の従妹は、うまい具合に男を利用して成り上がるが、男のあしらいはなんともぞんざいで、結婚初夜も例外ではない。それらは結構笑える内容になっているのである。物語はそのような様々なピースによって成り立っているが、その積み重ねから何度か笑いを感じるうち、気がつくと背筋が凍るような人間の真実に直面する。そんな作りになっている。これは家族みんなで見に行くようなタイプの映画ではないが、大人であれば、ストーリーを追うだけで充分楽しめると思うのである。

さて、肝心の主役についてまだ何も語っていなかった。アン女王を演じるのは、オリヴィア・コールマンという女優。本作でアカデミー主演女優賞を受賞した。私にとってはなじみのない顔であるが、英国では実績のある女優のようである。実在のアン女王は病気がちで、また大変な肥満であったというが、17回妊娠して、ひとりの子供も育たなかったという個人的悲劇にも見舞われた人でもあったという。自分勝手で淋しがりで、でもどこか憎めない女王役を、見事に演じている。上で触れた、セントポール大聖堂の前に立つアン女王の彫像の写真もここに掲げておこう。
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ヨルゴス・ランティモスの演出は、「聖なる鹿殺し」に続いて、ここでも大変に冴えている。役者たちから恐ろしいような表現を引き出したのも、彼の手腕であろう。実は今回共演しているオリヴィア・コールマンとレイチェル・ワイズは既にこのランティモスの「ロブスター」という映画に出演した実績がある。3人の女優の中で唯一米国人であるエマ・ストーンも、本作への出演を決意したのは、まずはこの監督の作品であることが理由だったという。今後の作品から目が離せない監督である。彼の演出の一例として、本作の宮廷内のシーンでは魚眼レンズを多用していたことが挙げられるが、それなどは、普通なら段々辟易としてきてもおかしくない、単調さに堕する危険がある方法だろう。だが、画面の情報量もストーリーの情報量も多いこの映画では、非常に効果的であったと私は思う。
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この作品、アン女王はもちろんのこと、サラもアビゲイルも、実在の人物であるという。もちろんこのストーリー自体はフィクションであるが、史実からヒントを得た作品ということになる。ところでこのサラ、旦那の名前はジョン・チャーチルという。そう、もちろんあのウィンストン・チャーチルの祖先である。本作の最初の方で、アンがサラに対して、ジョンの軍功を称えて宮殿をプレゼントすると言って模型を見せるシーンがあるが、もちろんその宮殿は、(このブログでも映画のロケ地として何度か言及した) 世界遺産、ブレナム宮殿で、ウィンストン・チャーチルの生地である。言ってみればこの映画、20世紀英国の英雄チャーチルの祖先を、かなりひどく描いているとも言えるわけで、その意味でも英国風仮借なさを感じるわけである。もちろんその仮借なさは、過去に実在した女王の描き方にもあてはまるわけであるが (笑)。

因みにこの映画の王宮のシーンは明らかにセットではなくロケだと思ったら、ハットフィールド・ハウスで撮影したとのこと。ロバート・セシル (初代ソールズベリ伯) の館であったが、あのエリザベス 1世が幼少の頃を過ごした場所として有名である。私もその場所を訪れたことがあって、そのあたりの展示を沢山目にしたものだ。もちろん英国にはこの手の屋敷 (今でもソールズベリ侯爵 = 保守党の政治家でもある = の自邸だが) は多く残っているが、やはりこのような映画のロケには最適である。
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最後に音楽について。この映画では、既成のクラシック音楽が数ヶ所で印象的に使われていて、その中のバッハやパーセルというバロック音楽は、時代の雰囲気を盛り上げるという目的が明確であるが、それ以外に、劇中の登場人物の心理を深く反映するような音楽がある。ひとつは、シューマンのピアノ五重奏曲変ホ長調作品44の第 2楽章。もうひとつは、シューベルトのピアノ・ソナタ第 21番変ロ長調D.960の、やはり第 2楽章だ。この 2曲が使われている箇所 (前者は確か 2回使用されていたと記憶する) では、何か衝撃的なことが起こるのだが、音楽はひたすら淋しい。「聖なる鹿殺し」に続き、ランティモス監督の音楽のセンスには感心した。

このような次第であるので、映画を選択するときには、邦題で内容に対して先入観を持たず、作り手についての情報を充分得てからにしたいと、再認識した。あ、あと、たまたまこの作品の Wiki を見てみたが、そこには「歴史コメディ映画」とある。いやいや、とんでもない。あなたがエマ・ストーンでもない限り、この映画をコメディなどと呼んではいけない!!

by yokohama7474 | 2019-03-28 21:33 | 映画 | Comments(0)

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CG によって映像表現の幅が恐ろしく広がったこういう時代になってくると、新作映画を作るにあたっても、なかなか悩みが多いものと思う。つまり、凝った CG を使うには膨大なコストもかかるわけであり、巨額の資金をかけて映画を作ってみた結果、既にどこかで見た映像と同じだと思われたり、あるいはただ技術だけを見せていてドラマがないと思われたりする結果に堕することは、決して許されないわけである。その点、いっそ前回の記事でご紹介した「THE GUILTY ギルティ」のような、CG を一切使うことなく観客の想像力を刺激する映画など、稀有なるアイデアの勝利であって、昨今なかなかお目にかかることはないタイプの作品であろうと思う。一方、ここでご紹介するのは、まさに最先端の CG を駆使した SF もので、それとは全く対照的。予告編でそのあらすじは明らかであったが、要するにサイボーグ物である。少女の姿をしたサイボーグが、何やら悪い奴をバッタバッタとなぎ倒す。うーん、ストーリーとしては、それだけでは際立って個性的とは思われない。だが、見てみると、なんのなんの、いくつかの点において、ちょっとこれまでにはなかったほどの斬新な出来と言ってよいと思う。この画像は、チラシのコピーにある「天使が戦士に覚醒める」きっかけになるシーン。
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上の写真で分かる通り、この主人公のアリータは、目が異常に大きい。それゆえ、顔はすべて CG を施されているのであるが、そしてもちろん、見せ場におけるアクロバティックな動きの多くも当然に CG なのであるが、ただ、基本的な動きは人間が演じていて、その表情の多彩なことや動きのリアルなことは、驚くばかり。いや、その点においてだけなら、これまでに見てきたあれこれの映画でも、驚くものはあった。だが今回は、なぜだろう、このアリータという少女に対して、見ている者が強く感情移入できるように、巧みに作られていると思うのである。この少女は、スクラップとして捨てられていたものを科学者に拾われ、脳の部分 (?) が生きていたことから、新たに身体を与えられる。だが、彼女は徐々にその特殊な戦闘能力に目覚め、そして真の自分が誰であるかを思い出す、という内容なのであるが、そのストーリーの曲折にかなりの工夫があって、ただの自分探しということではない、何か切羽詰まったものが随所に見られる一方で、育ての親への遠慮とか、初めて知った愛とか、そんな、字にしてしまうと気恥しいような (笑) 感情の描写も、実に嫌味がないのである。実際、彼女が強い相手に立ち向かって、一旦大きな危機を迎えるシーンでは、私は鳥肌が立った。その後に育ての親が施す、彼女の再生方法は当然読めたのであるが、それにしても、ここまで強烈な描き方をするのか!! という印象であった。その危機は、このシーンのあと訪れるのだが。
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そうそう、強烈と言えば、ここでネタバレはできないものの、大詰めでアリータと恋人のヒューゴが絶体絶命のピンチに立たされるときの起死回生の脱出手段、これもすごい。大げさに言えば、人間存在とは一体何かと考えさせるようなところがある。つまり、心と体とが切り離せるなら、人間とサイボーグの差なんてないのではないか、と思われるのだ。この感覚、さらに考えを進めて行けば、人が生きていることのリアリティはどこにあるのか、という話にもつながっていて、さらには、仮想社会や再生医療といった最先端のテーマにも関係してくると思うのだ。見ていない人にはさっぱり分からないだろうが (笑)、私がそのような感覚に囚われたのも、冒頭から一貫してこのアリータというキャラクターの存在のリアリティが刷り込まれていたからだろうと思う。これこそが、この映画の際立った個性である。

とまぁ、ちょっと話は大げさになってしまったが、そのような Emotional な部分だけでなく、この映画のビジュアルには、それだけでも刺激的なものがある。異星人との間の戦争で壊滅的な破壊を被った地球はこんな感じ。終末感は感じさせるが、だがその一方で、これは現在でも我々が世界のどこかで見かけてもおかしくない光景とも思われる。
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また、アリータの敵たちのキャラクターも、それはそれは濃いこと。モーターボールというスポーツ (なのかな?) では、こんな恐ろしい連中に混じって疾走するアリータが、それはもう完膚なきまでに奴らを叩き潰す。それは凄まじい。
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役者陣も充実している。主役アリータを演じたのはローサ・サラザール。「メイズ・ランナー」シリーズで見たときには、あまり美形ではないし、このアリータ役はどうかなと正直思っていたのだが、上で私が称賛したアリータのリアリティの高さは、当然彼女こそが最大の貢献者であろう。
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ほかには、「育ての親」役のクリストフ・ヴァルツ、その元妻役のジェニファー・コネリーもよかったが、何気にこの人なんてどうだろう。
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おぉっ、このあからさまに怪しい人物は、先のアカデミー賞で作品賞を取った「グリーンブック」の出演者で、また、その作品でアカデミー助演男優賞も獲得した、マハーシャラ・アリではないか。ここではまた、なんと違った役柄を演じていることか。

そうそう、肝心なことを忘れていた。この映画は、もともとあのジェームズ・キャメロンが映画化権を獲得し、最終的には製作と脚本に参加したもの。監督は、「デスペラード」や「フロム・ダスク・ティル・ドーン」の頃の勢いからすると、最近はあまりぱっとしない印象もあったロバート・ロドリゲス。久々に面白い映画を撮ってくれたのではないだろうか。これは、本作の撮影現場におけるキャメロンとロドリゲス。
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そして最後に。上でジェームズ・キャメロンがこの作品の映画化権を獲得したと書いたが、もともと原作は、日本の漫画なのである。木城 (きしろ) ゆきとの「銃夢」(ガンム) という作品。例によって私は最近の漫画には全く縁がないもので、この作品についても知識はゼロなのだが、こんな大作映画の原作とは、大したものである。映画の世界とはまた違った面白さがあることだろう。
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by yokohama7474 | 2019-03-13 21:58 | 映画 | Comments(0)

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この映画のポスターは、上記の通り、一見して目につくものだ。上の方には、観客の満足度 100%だの、あちこちで賞を受けているだのとあって、若干賑やかすぎる感じだが、ポスター本体は白を基調とした極めてシンプルなもの。そこに写っているのは、渋い男性がイヤホンを装着している写真である。コピー曰く、「犯人は、音の中に、潜んでいる」。ということはつまり、ここでイヤホンを耳にしている男性が、音の情報だけを頼りに、犯罪に立ち向かうといった内容であると推測される。これは面白そうではないか。ということで、珍しく封切数日後に劇場に見に行ったのである。一体どんな映画であったのか。

これはどこの国の映画かというと、デンマーク。このブログでは過去にも北欧のユニークな映画や、あるいは北欧出身の監督によるハリウッド映画などを幾つかご紹介してきているが、この映画という分野において、なかなかに多彩な才能を輩出してきている土地であると思う。そして今回のような、明らかな低予算映画でありながら、アイデアで真っ向勝負する作風に、改めて感嘆するのだが、監督は実はこれが長編デビュー作。1988年生まれのスウェーデン人、グスタフ・モーラー (と日本語表記にはあるが、苗字の「モー」の部分は M に、O のウムラウトであるので、もしかすると「メー」という発音が近いのでは? もっとも、そうなると、「グスタフ・メーラー」となって、かの作曲家のパロディのような名前になってしまって、あまり響きがよくないか。笑)。これは明らかに、本作の撮影セットでのポートレート。
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この映画の極めてユニークな点は、物語はデンマークの中の幾つかの場所が舞台となっているにも関わらず、すべてのシーンがこの、警察の緊急通報センターの中で展開するところ。と書いてもどういうことか分からないであろうが、つまりは、外の場所にいる人物は皆、電話を通してこの場所の人物と会話をする。つまり、全編 88分の間、観客が目にし続けるのはほとんど、主役のアスガー・ホルムを演じる俳優、ヤコブ・セーダーグレンの姿のみであるのだ。
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これは極めて特殊な映画であることが、お分かりになるであろう。ストーリーも非常に簡単で、この緊急対応を電話で行っている警察官アスガーが、緊急対応を要しないどうでもよい電話に何本か対応した後、これも一見番号違いかと思われる、何やら子供をあやす女性の電話を受ける。だが、この正義感に満ちた経験ある警察官であるアスガーは、その電話の裏にある事情を見抜き、いや、聞き抜き、どうやら誘拐被害に遭っているらしいこの女性から、関連情報をなんとか入手しようと試みる。このコールセンターからは、ほかの地区にある警察にも連絡を取ることができるし、各種情報 (特定のナンバーの車の所有者とか、携帯電話番号から判明する契約者の名前とか) を入手できるので、アスガーは、ありとあらゆる手を使って、自分が目にした、いや、耳にした、現在進行中の犯罪を停めるべく奔走する。いやもちろん、物理的にではなく、すべて電話を通してである。この映画の最大の見どころは、この息詰まる展開にある。見ている誰もが、被害者や幼児に対する感情移入に囚われ、行動力と直観力に満ちたアスガーが鋭く目星をつける犯人に対する憎しみを募らせることだろう。移り変わる場面の現地シーンを一切見せずに、電話の向こうから聞こえてくる音声だけでこのサスペンスを展開する監督の手腕には、実に驚嘆するばかりである。頑張れ、考えろ、次の電話をかけろ、アスガー!!
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監督のインタビューによるとこの映画は、3台のカメラを使って順番に撮影されていったらしい。なるほどそのような一貫した流れを、映像から想像することができる。撮影に当たっては、全体を 8つのパートに分けて行い、それぞれのパートは 5分から 35分であった由。35分の長丁場ともなると役者は大変な緊張感であったと思うが、そのような緊張感が、画面のそこここから感じられる点が素晴らしい。そしてなんとこの映画、13日間で撮影は終了したとのこと。もちろん、大変に密度の高い 13日ではあろうとも、映画の撮影日数としては異例の短さであろう。まさに創意工夫に満ちた映画作りである。因みにこの映画、早速ハリウッドがリメイクを発表したらしく、主演はジェイク・グレンホールだというから、きっといい映画になるだろうが、二番煎じと言われない内容にするのは、なかなか困難ではないだろうか。

さて、ではこの映画の結末についてはどうか。一言で言うなら、やはり面白いと、私も思う。だが、犯罪の真相は、見て行くうちに段々想像できる選択肢の範囲内ではないだろうか。少なくとも私の場合は、その真相に驚愕することはなかった。だがその一方で、改めて題名を考えてみると興味深い。邦題はなぜか、英語表記とそのカタカナを続けているが、原題は "The Guilty"。高校の英語で習うように、the の後に形容詞をつけることで、集合名詞となる。例えば The Rich なら「富裕な人々」。The Dead なら「死者たち」。なのでこの作品の題名は、「罪ある人々」であるわけだ。この意味は、見た人でなければ分からないだろう。人間は弱い存在であり、また罪深い存在なのである。それゆえにこそ、ともに生きている家族の絆が大事なのである。それこそがこの映画が、さりげなく発しているメッセージであろうと思う (従い、ラストシーンでアスガーがかける電話の相手は、自明であろう)。
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ところで、この映画はデンマーク映画であると冒頭の方で述べた。この映画を見てそのことを実感される方は、美術好きであろう。例えば上のカットなど、その色調をどこかで見たことはないだろうか。そう、デンマークの画家、ヴィルヘルム・ハンマースホイ (1864 - 1916。苗字表記はハマスホイとも) である。2008年の国立西洋美術館での日本初の個展に続き、ちょっと先の話だが、来年には東京都美術館で、彼を含むデンマークの画家たちの展覧会を開催予定である。この映画の映像を頭の中に置いて見に行くと、なかなかに興味深いと思うのである。
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by yokohama7474 | 2019-03-12 20:05 | 映画 | Comments(0)

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前作「ラ・ラ・ランド」で世界を席巻したデミアン・チャゼルが、その「ラ・ラ・ランド」主演コンビのひとりであったライアン・ゴズリングを主役に据えて、前作とは全く異なる映画を監督した。そもそもこの監督、1985年生まれというから、今年 34歳という若手でありながら、前作、そして前々作「セッション」(原題 : Whiplash) で、一躍世界の耳目を集める存在となった。だが調べてみると、その「セッション」は、監督としての 2本目の長編作品であったらしく、ということは、今回の「ファースト・マン」を含めても、長編はわずか 4本しか監督していないということになる。異例の才能と言ってよいだろう。
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さてこの映画、タイトルの通り、初めて何かを成し遂げた男の物語。主人公の名前はニール・アームストロング。そう、アポロ 11号によって、人類で初めて月面に降り立った宇宙飛行士である。チャゼルはこの企画を「セッション」を完成させた後に製作者から打診を受け、宇宙に強い思い入れはなかったために、最初は躊躇したものの、原作小説を読んでイメージが沸いたとのこと。それは、単なる伝記映画ではなく、月面着陸を彼の目線から描いたものにしたいということだったらしい。つまり、英雄的行動を称揚するというよりは、人間アームストロングが、家族とともにいかなる苦しみや悲しみを乗り越えたかという点に、本作の主眼があるということだろう。これが1969年、人類最初の月面到着。
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さてここでひとつ、やはり書いておきたいことがある。私のような陰謀論好き、与太話好きにとっては、どうしても無視できないことなのだが、「アポロ 11号は本当は月に行っておらず、月面到着の映像は、ハリウッドのスタジオで撮影されたものである」という説が、世の中にはかなり根強くあるということだ。この捏造説の詳細や、それへの反論など、ネット検索すれば多くの情報を得ることができるので、ここでは詳細は割愛するとして、ひとつだけ例として挙げておきたいのは、クリストファー・ノーラン監督の「インターステラー」という映画においては、近未来が舞台となっているが、学校で教師が生徒たちに、「アポロは月に行っていないという真実を教えている」という設定で、主人公の少女は、その教育を頑なに拒むということが、物語のひとつのキーになっていた。当時の米ソの宇宙開発合戦の苛烈さや、月面の映像の不自然な鮮明さ、その時以来人類は月面に降り立っていないことなどが、この「説」の根拠になっているし、やれコーラの缶が月面に転がっているのが写っているだ、風が吹いているはずがないのに旗が揺れているだ、キューブリックが監督したのであるという話まであるわけで、お話しとしては面白い。だが、あれこれの情報を参照してみると、やはりそんな捏造は無理で、実際にアポロは月に行ったのであろうと、私は思っている。

もちろん、そんなことは、この映画を見る上では全く関係ない。ただ、実際のところ、尋常ならざる鋭い感性を備えたチャゼルともあろう監督が、米国の歴史的快挙をただ盲目的に称賛することはないだろうと思って劇場に行ってみたのだが、案の定と言うべきか、少し複雑な情緒の映画になっている。物語は、1961年にアームストロングが幼い娘を失うシーンに始まり、彼がジェミニ計画 (アポロ計画の前段階) に志願。仲間の宇宙飛行士たちにもいい奴悪い奴がいて、そのうちの何人かは訓練中に命を落としてしまう。そして 1969年、ついにアポロ 11号で月に向かう・・・という流れを、セミ・ドキュメンタリー・タッチで描いている。なので、その大きな流れの中には「情緒」はあまりないのだが、寡黙なアームストロングの内面には、常に亡くなった娘への思いが渦巻いていて、そこに「情緒」が生まれている。人類史上の快挙を成し遂げた男は、その内面において、自らの栄光よりも、幼い娘への愛の方が重要であったということであろうか。
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このようなメッセージは、上で触れたチャゼルの意図をそのまま表現しているように思われる。だが、これがどこまで観客の支持を得られるか、私には若干疑問である。ネタバレできないので詳細は書けないが、クライマックスの過剰なまでの静謐さ、そしてラストシーンのカタルシスのなさ、これらは、見る者に対して、少し距離を感じさせるものになってしまっているのではないだろうか。ある種謎めいていると言ってもよいだろう。まさかこの手法で、アポロ 11号の月面着陸は捏造だった、ということを表現しているのではないだろうが (笑)。

興味深かったのは、舞台となっている時代の雰囲気を、細部に至るまで克明に描いていたことで、このあたりの手腕は、さすがのものだと思った。1960年代というと、ヴェトナム戦争がありヒッピー文化があり、米国の中でも、戦費や無駄な宇宙開発に膨大な資金を浪費するのではなく、貧しい人たちを救済せよという運動があったわけである。そんな中、実際に命を賭けて宇宙に乗り出して行った人たちの勇気は、称賛される一方で、必ずしも米国の人たち全員がその快挙を祝福したわけでもなかったのかもしれない。そのような事情が、上記の通りの、月面着陸捏造説の根強さの背景にあるのかもしれないな、と思った次第。そうすると、やはり複雑な情緒の作品にもなってしまおうというものだ。
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このように、私としてはこの作品、デミアン・チャゼルという若き俊英が、その手腕を発揮した点と、狙いに少し無理があった点と、両方があったように思われるのである。もちろん、これからもまだまだその作品に期待できる人であるだけに、また何作か撮ったあとでこの作品を思い出すことで、見えてくることもあるかもしれない。

by yokohama7474 | 2019-03-10 17:06 | 映画 | Comments(0)

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皆さんは、気分が落ち込んだときに思い出す、あるいはもう一度見てみようと思う映画はおありであろうか。私の場合、同じ映画を何度も見るということは通常はあまり多くなく、実際に映画を再度体験するよりも、むしろ自分の中に沸き上がってくるその映画のイメージを、大切にする方である。その意味で、何か気分が落ち込んだ時に思い出すことがあるうちの一本が、ディズニーが 1964年に世に送り出した「メリー・ポピンズ」であることは、まぁなんというか、ちょっと気恥ずかしいような気もするが (笑)、偽らざる本当のことである。いやもちろん、この映画は私が生まれる前に作られているので、封切りで見たわけではない。それどころか、幼い頃から怪奇なものが好みであった私は、この映画の万人向けファンタジーのようなイメージに対する明確な距離を、実はつい最近まで取っていたのである。それが、今からほんの 10年ちょっと前くらいだろうか、何かの拍子に DVD を購入し、自宅で見たときに、それまでの先入観が一掃された。楽しく、また勇気づけられる上に、英国人気質や 20世紀初頭のロンドンの雰囲気 (社会問題を含め) までもが見事に活写されている。これは素晴らしい発見であり、先入観に捕らわれるのがいかによくないことか、実感するのである。そして今回、この作品、「メリー・ポピンズ リターンズ」である。エミリー・ブラントが新作でメリー・ポピンズを演じるという話は聞いていたが、私はてっきりリメイクだと思っていた。そうすると、あのジュリー・アンドリュースの素晴らしい演技と歌に、どこまで迫れるかという点に興味が沸く。
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ところがこの映画、「メリー・ポピンズ」のリメイクではなく、続編なのである。その点にこの映画の持ち味が集約されていると、私は思う。つまり、前作からの時代の変化や、一方で変わらぬ人々の生活。同様に、個々の登場人物の環境変化と、一方でのキャラクターの継続性。そういった要素をうまく絡めながら、前作に負けないほどの音楽と踊りの魅力を、見る人々に印象づけないといけない。これはもちろんチャレンジではあろうが、実は、リメイクよりは取り組みやすいのではないだろうか。そして私はこの映画、細部のこだわりに至るまで大変うまく行った、素晴らしい映画になったと称賛したいのである。まず音楽であるが、前作の有名な曲の数々のテーマがオーケストラの前奏とか間奏において何度も聴かれる一方で、歌はすべて新作。だがその歌の数々は、新作であるにもかかわらず、どこか懐かしい、古きよきミュージカルの雰囲気を持ち、「メリー・ポピンズ」の続編に相応しい。もちろん、ミュージカルシーンも前作同様に様々な設定があり、別世界への旅というファンタジーもあれば、現実世界における不思議な人との邂逅、また、お堅い人たちとのやりとりや、子供にとっての社会への挑戦といった要素も、それぞれに前作から引き継いだもの。そしてやはり、期待のエミリー・ブラントは、この時代の家庭教師に必要な規律を身につけながら、茶目っ気もあり、また、実は結構ナルシストであったりする点も、前作のキャラクター設定そのままで、実に見事。
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彼女は英国人で、現在 36歳。本作では、幻想世界において本格的なステージショーを繰り広げるシーンがあり、これは歌も踊りも、相当自信がないと引き受けられないような役である。そういえば、彼女は以前もミュージカル映画「イントゥ・ザ・ウッズ」(本作と同じロブ・マーシャル監督) に出演していて、そのときも歌がうまいなぁと思ったものだが、いやいや実際、演技も歌も、実に大したものだ。この作品の主演として、こんなにふさわしい女優もいないだろう。

もちろんそれ以外にもメリル・ストリープが、大女優らしからぬ、大変に体を張った (笑) 演技と歌を披露したり、それから、前作にはないタイプの憎まれキャラクターを (歌はなかったかな?) 重厚かつユーモラスに演じたコリン・ファースも、実に面白い。だが私としては、この映画はいわば、エミリー・ブラントを中心としたアンサンブル映画だと思うので、個々の役者について多くを語りたいとは思わない。それよりも、前作と寸分違わないバンクス家の内部のセットや、使われている小道具へのこだわりを楽しみたいと思う。例えばこれは冒頭間もない、子供が凧を揚げる (揚げようとして風に巻き上げられる) シーンだが、この緑色でツギハギのある凧は、本作において非常に重要な役割を果たすことが終盤で分かるのだが、実は既に前作の「メリー・ポピンズ」にも、同じ凧が登場しているのである。そして、ネタバレは避けるが、今回のメリー・ポピンズの登場シーンには、何かこのバンクス家の「幸せ」を司る魔法使いというイメージが、この凧との関係ではっきり表れていると思う。そうそう、前作同様、メリー・ポピンズの姿勢がよいのですよね!! (笑)
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ところで本作の設定は、前作から 20年後。前作においては、1910年という舞台設定が明確に言及されていたので、本作は 1930年となるはずだが、どういうわけか本作のプログラム冊子には「1934年」となっているし、本作の Wiki では、前作から 25年後となっている。いずれにせよ、前作でバンクス家の子供たちであったジェーンとマイケルの姉弟は、既に大人。ジェーンは貧民救済運動に専念していて独身だが、マイケルには、亡くなった妻との間に、男女の双子とその弟という 3人の子供たちがいる。前回、ジェーンとマイケルの面倒を見たメリー・ポピンズは今回、マイケルの 3人の子供たちの面倒を見るのだが、その 20年間に変わらないのはメリー・ポピンズだけで、もちろん大人になったジェーンとマイケルには、様々な現実が立ちふさがっているし、社会環境も変わっている。前作の舞台である 1910年というと、ちょうど第一次世界大戦前で、英国はもちろん世界一の大国。その一方で、都市における様々な問題も発生していた頃だ。前作でジェーンの母親は、女性参政権運動に従事していたが、調べてみると英国において女性参政権が認められたのは 1918年、ロイド=ジョージ内閣においてのこと (私は見ていないが、それをテーマにした「未来を花束にして」という映画も最近あった)。本作の舞台である 1930年代は、その問題よりも、1929年、米国に端を発して起こった世界大恐慌こそが深刻で、だからこそ貧民救済運動が盛んであったのだろうし、バンクス家も危ない (マイケルの特殊事情もあるとはいえ)。だがそんな中、前作においては煙突掃除屋の人たち、今回ではガス灯の点灯・消灯を行う人たちといった労働者たちは、実に元気に明るく歌って踊っている。上記の通り、もともとこの「メリー・ポピンズ」は、ただのファンタジーではなく、このような社会性も含んだ作品であったので、本作ではその精神を受け継いでいることになる。それも本作の素晴らしいところである。そして、私が是非触れておきたいのは、この人だ。
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私は何の予備知識もなく本作を見て、エンドタイトルで、ディック・ヴァン・ダイクという役者の名前を見て驚いた。このオランダ風の名前には明確な記憶があって、前作であの煙突掃除屋のバートを演じ、また、ラストシーンでは、今回と同じような老け役で銀行の頭取を二役で演じていた、あの役者ではないか!! 調べてみると、なんと 93歳で、自分がかつて演じた老頭取の息子役を、今度は大したメイクもなく (?) 演じているということになる。ただ演技しているだけではなく、驚くべきことに、実際に踊っていて、それはもう大変なことなのである。究極の継続性、ここにありである。そうそう、前作での爆笑ギャグ「スミスという名の義足の男」ネタもチラリと出て来るし、名曲「2ペンス (= タペンス) を鳩に」に基づくストーリー展開もあり、それはもう、あの「メリー・ポピンズ」の続編として、申し分ない出来であると思うのである。是非本作に感動した方は、前作もご覧頂きたいものだと思う。

あと、続編続編と繰り返しながらも、私の勝手な思いをひとつ。本作において、ガス灯を点灯する人たちが、暗闇でも灯りを頼りに進めば大丈夫と歌ったり、ラストでは、正しい選択をすればちゃんと空に舞い上がれる、などというテーマが出て来るが、さて、英国の人たちはこれを見て、BREXIT を連想するか否か。ただのファンタジーではない社会性は、こんなところにも目立たないかたちで忍び込んでいるのかもしれない。ともあれ、私たちとしては、新たに世に出たこの作品から勇気をもらい、笑いをもらい、元気をもらうこととしたい。そうそう、ラストシーンは桜の場面。ちょうど日本でもあと数週間で、見ることができますね!!
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by yokohama7474 | 2019-03-09 13:48 | 映画 | Comments(0)

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前項に引き続き、どうやら興行成績があまり芳しくないらしい映画をご紹介しよう。監督は、衝撃の出世作「シックス・センス」以来、一風変わった設定の映画を世に問うてきている、インド系米国人の M・ナイト・シャマラン。主演は、上のチラシで見る通り、その「シックス・センス」や、シャマランによるその次の作品であった「アンブレイカブル」に出ていたブルース・ウィルス、「X-MEN」シリーズでも存在感を持ち、シャマランの前作「スプリット」では、難しい多重人格の人物を熱演したジェームズ・マカヴォイ、そして、今やハリウッドを代表する曲者黒人俳優であるサミュエル・L・ジャクソン。この顔ぶれが揃えば、ヒット間違いなし!! と思いきや、どうもそういうことではないらしい。ひとつ象徴的であるのは、この映画、いわゆるプログラム冊子 (パンフレットという言葉は、どういうわけか私はあまり好きではない) というものが作られていないのである。まぁこのプログラム冊子という習慣は、世界広しと言えども、日本にしかないのではないかと思われるのだが (調べたわけではないが、海外で映画を見てもそんなものにお目にかかったことがない)、それが作られないということは、配給側の事前の弱腰ぶりを推し量ることができるというものだ。それとも、何か理由があるのだろうか。そもそもこれは、一体どのような映画であるのか。

この映画、上のチラシにある通り、2000年制作の「アンブレイカブル」の続編ということである。いやそれだけではなくて、前作「スプリット」(2016年) の続編でもある。なので、この 2編のいずれかを見ていない観客にとっては、ストーリー展開に無理がありすぎて、チンプンカンプンであろう。だがその一方で、それらを一度見てさえいれば、細部に関する記憶が曖昧であっても、さほど困ることはない。この映画で引き継がれるそれら過去の映画の内容は、ほんのエッセンスのみであるからだ。私の場合も、比較的最近見た「スプリット」はともかく、「アンブレイカブル」については、日本公開から 18年を経ていて、その間一度も見直したことはないので、さすがに概要しか覚えていなかったが、それで充分であった。もちろん、ブルース・ウィルスとサミュエル・L・ジャクソンがどのような役柄であったかという点だけは覚えていなくてはならないが。これがその「アンブレイカブル」からのショット。
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一方、「スプリット」の方については、ジェームズ・マカヴォイが演じているのが多重人格者であること、そして、その作品で囚われの身となるこの女性の顔だけ判別できればよいだろう。アニャ・テーラー=ジョイという若い女優だが、いわゆる整った顔立ちというものとは少し違っていて、一度見たらなかなか忘れない顔である。このブログでは「スプリット」のほかに「ウィッチ」という映画についても記事を書いたが、実は制作の順番は日本公開と逆で、「ウィッチ」(2015年) は彼女の映画デビュー作であったようだ。
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さて、そのような過去の作品を引き継いだこの作品、出来はどうかというと、私としては、残念ながらかなり期待外れと申し上げるしかない。サラ・ポールソンという女優 (「オーシャンズ 8」にも出演していた) が演じる精神科医が、主役 3人はそれぞれ、何らかの精神障害によって自分をスーパーヒーローだと信じているのであるという説に基づき、彼らを施設に収容し、実験だか治療だか分析だか分からないことを行う。
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予告編を見たときは、そのあたりの雰囲気はなかなかよいかなと思ったものだが、実際に見てみると、まぁ若干の意外性を持つ展開とは言えるかもしれないが、終盤になって「いや実は」ということが説明されても、そんなに驚かない。また、登場人物の中には、動かぬ証拠を見せられることもなく、誰かが話すことを真実だと思ってうろたえる (?) 人がいるが、いやいや、その話が真実だと、どうやって信じようというのか (笑)。シャマランの映画は、終盤のどんでん返しにいつも特徴があるのだが、残念なことに、何をやっても「シックス・センス」を超えることができないと、私は思っている。これは、キャリアの初期にひとつのピークを築いたアーティストの一例に入ると言ってもよいだろう。ただ、それでも一時期は「エアベンダー」という、一体何が言いたいのか分からない映画を作ってしまった (連作になる予定であったが、この 1作で止まってしまっているようだ) 彼にしては、昔の作品世界に戻ろうという姿勢を見せることは自体、好ましい試みだという気はする。未だ 48歳であるから、これからも様々な試みを見せて欲しいと思う。これが本作について語る最近のシャマラン。尚、ヒッチコックばりに自作にチラリと出演する習慣は、今回も続いている。
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そもそもここで題材となっている「スーパーヒーロー」とは何だろう。もちろん、常人にはない特殊能力の持ち主である (ヒーローというからには善玉が前提とは思うが、ここではその前提は外されている)。スーパーヒーローにはアメリカン・コミックに始まる長い歴史があり、そこから生まれたキャラクターたちは、スクリーン上で縦横無尽に活躍してきた。実際のところ、既にハリウッド映画は極限までスーパーヒーローを描き尽していて、観客は、いかなる超常的な能力の設定 (敵・味方とも) にもなかなか驚かないし、その種のスーパーヒーローが束になって出て来て、世界が崩壊の危機に瀕したり、スーパーヒーロー同士が戦ったり、なかには死んでしまうスーパーヒーローもいて、もうなんでもありだ。そんな中、この映画に出て来る自称「スーパーヒーロー」の能力は、まぁなんと慎ましやかであることよ (笑)。ジェームズ・マカヴォイ演じる多重人格者の中で最強の、この「ビースト」と呼ばれるキャラクターは、ムキムキ筋肉を見せ、その名の通り派手に吼えまくるが、彼のスーパーパワーは、ちょっと天井を這ったり、せいぜい車をひっくり返すことくらいで、意外と大したことないのである (笑)。このあたりも、設定が地味だと思わせる要因であり、映像においてもかなり手作り感満載であって、昨今の映画で百花繚乱の、見る者を圧倒する迫力からは程遠い。
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恐らくシャマランの意図は、大げさで荒唐無稽なスーパーヒーロー物と異なり、人間特有の複雑さを持っているキャラクターを地味に描くことで、世界の終わりではなく、何か人間について語りたいことがあるように見受けられる。だが、もしそうなら、このように過去の作品を組み合わせて無理やりそれらを結合する必要もないわけで、単発作品を地道に作っていく方がよくはないだろうか。それから、ストーリー展開上で私がどうしても違和感があったのは、上記のビーストを含む多くの人格を持つ恐ろしい誘拐犯 (本来のキャラクターはケヴィン) に対して、前作で囚われの身の被害者として、多大なる恐怖を味わったはずのケイシーという女性が、その恐怖を過去のものとして、本作ではあたかもケヴィンの母親のように、優しい理解をもって接するという設定。うーん、これは今どき流行らない、男の勝手な妄想のような気がして、正直、なんともうんざりしたものである。
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このような具合で、私としては沢山のハテナマークを持って見ることになった映画であった。上記の通り、日本での興行成績は振るわなかったようだが、そのようなことが続いてしまうと、この監督が新作を撮れなくなってしまう恐れもあるものと思う。それはやはり惜しいことである。私としてはこの監督の次回作への期待がなくなったわけではないので、まずは頑張って次を撮ってもらい、日本公開の際には、できればプログラム冊子くらい、薄くてもよいので作って欲しいものだと思う。

by yokohama7474 | 2019-02-23 23:40 | 映画 | Comments(0)

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今を時めく名優ヒュー・ジャックマンの新作。前作「グレイテスト・ショーマン」の大ヒットも記憶に新しい彼の主演作であるから、これもまた大ヒット間違いなし。・・・と思いきや、2月 1日 (金) に公開されてちょうど 3週間になる今、調べてみると、もう東京でも数館で 1日 1回だけ上映されているような有様で、これはもううほぼ上映終了状態と言ってよいだろう。その題名にもかかわらず、興行面では残念ながらフロントランナーにはなっていない状況である。私の場合は、世の中でヒットするか否かと、自分が見たいか否かとはほとんど関係がなく、ただ見たいと思った映画を頑張って見るようにしているのだが、その内容が、声を大にしてその価値を唱えたい場合もあれば、残念な出来栄えに寡黙になってしまう場合もある。この映画の場合、大変遺憾ながら、後者に分類せざるを得ないかなというのが私の率直な感想である。繰り返しだが、ヒットしていないから内容が悪いと言う気は毛頭ない。そうではなくて、実際に鑑賞してみて、あぁ、これでは見る人の共感を得られないだろうなぁと思うわけである。以下、その根拠をかいつまんで書いてみよう。

さて、上のチラシにある宣伝文句が、この映画のストーリーをすべて語っている。実話に基づく物語であるが、1988年のアメリカ合衆国選挙 (つまりは、共和党のジョージ・ブッシュ父が当選した選挙) において、コロラド州選出の前民主党上院議員、ゲイリー・ハートという人物が、途中まで選挙戦をリードするフロントランナーであった(つまり、アル・ゴアやマイケル・デュカキスをリードしていたということ) ところ、ある報道によってその選挙活動が断たれてしまう。そんな物語である。なるほど。それは一体どんな報道であったのか。巨額の金銭スキャンダルか、あるいは犯罪歴などの悪質な経歴詐称、あるいはまさか、他国政府の支援を受けて、不正に選挙戦を有利に進めたのではあるまいな???? そんなことであれば、許してはおけないし、大統領にしてもいけない!! だが、このような選挙事務所員への爽やかな対応シーンを見ると、とてもそんな人には思われない。
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上記の通り、この映画の流れにおいては、メディアによる報道が大きな鍵を握っている。このブログでも過去に、メディアの在り方をテーマとした実話に基づく優れた映画を何本か紹介して来た。「ペンタゴン・ペーパーズ / 最高機密文書」や「スポットライト 世紀のスクープ」である。それらに共通していたのは、浮かび上がった政府の嘘や聖職者たちの罪という、社会を揺るがす不祥事と、それを報道するメディアの責任、またその一方で考慮せざるを得ない世間一般や権力者たちの反発、さらには国益と言った要素が絡み合い、実に衝撃的なサスペンスを作り出すという構成であった。翻ってこの作品はどうか。確かに、メディアの人々の様々な苦悩や正義感や、ある場合には大衆へのアピール度への執着などが描かれている。だが、この映画が上記 2作品と決定的に異なるのは、ここでメディアが噛みつくのは、決して社会の巨悪ではないという点だ。このハート上院議員のプライヴェートなことなのである。その内容は、漢字二文字で表される。不倫である。ある地方紙に若い女性との不倫をスクープされたハートは、選挙スタッフの協力を得ながら、最初は堂々とその危機を乗り越えようとするのだが、いくつかのきっかけによって、遂には選挙戦からの脱落に至ってしまう。大勢の聴衆の前で、このように動揺しながらも、なんとか難局に立ち向かうゲイリー・ハート。
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だがまず、一風変わっているのは、普通このような題材なら、この前途洋々たる上院議員が、いかなる理由で思慮のない行動に走ったのか、もっと細部を描くはずだ。例えばこの男は実は人品の卑しい男で、大統領になる資格などなかったのだ、というトーンか、あるいは、実際には能力もヴィジョンもある有能な指導者だったが、人間的な弱さに負けてしまったのだ、というトーンとかが出て来るだろう。この映画のトーンはどちらかというと後者かもしれないが、あまり明確ではない。そもそも、不倫相手とクルーザーで知り合う場面がちょっとだけ描かれているものの、その 2人の会話はその後は (記者が張り込みで取材するシーンの遠目のショットを除けば) 登場しなかったと記憶する。一方、見ている方は、昔の J・F・ケネディ (だけでなくその弟のロバートも。もっとも彼は大統領になる前に殺されてしまったが) の女性好きの逸話や、私の世代ではリアルタイムで興味を持って見ていたクリントンの「不適切な関係」などを知っている。なので、この大統領候補の不倫自体には、さほど衝撃はない。いやそれどころか、これだけルックスもよく誠実で、地位もあり、リーダーの素質があれば、まぁ女性には当然もてるだろうし、米国ではそんなこともあるだろうよ、くらいに思ってしまっても不思議はないのである。いや、今日びそんな言い方をすると女性蔑視とのそしりを受けるかもしれないが、そういう意図ではなく、きっと当時の (今も?) 米国のセレブたちには、このようなことが日常茶飯事として起こっていただろうと、多くの観客が思うだろうということを、指摘しているのである (さらに言えば、ここでは女性も、ただ受身ではなく、しっかりと意思を持った存在として描かれている)。だから、語弊を恐れずに言えば、「たかが不倫」で大統領レースを諦めるというこの映画のメッセージが一体どこにあるのか、私には皆目分からなくなってしまった。それは端的に言えば、誰かに感情移入する作り方は周到に避けられている、ということかもしれないが、そんな映画、面白いと思う人が何人いるだろうか。こういうネタにマスコミがたかってくるのは、洋の東西を問わない点は確かであるが。
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ただ、面白いシーンがなかったわけではない。ジャーナリストとしてハートに目をかけられるワシントン・ポスト紙の A.J. パーカーという記者 (演じるのはマムドゥ・アチーという俳優) が、ハートの考え方から大きな刺激を受けるにもかかわらず、記者会見でハートに対し、正面から極めてシビアな質問 ("Yes, or No?") をぶつけるというシーン。ここには、ハートが見込んだ若い才能が、そのハートに対して、尊敬の念があるからこそ牙を剥くという情景を見ることができた。ジャーナリストとしてこんなことをするのがベストか否かは置いておいても、その決意には、教えられるものがある。私も今後は、議論で誰かを責め立てるときには、"Yes, or No???" と、決然と迫ろうと思います (笑)。

主役のヒュー・ジャックマンは、あえて言えばそんな中途半端な映画において、ゲイリー・ハートという人物を熱演していることは確かだろう。だがいかんせん、この展開では、この熱演が活きて来ない。ほかの役者では、選挙スタッフのひとりを演じる J. K. シモンズが、いつもの通り彼らしくて、安心して見ていられる。
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だがその他は、うーん、ハートの妻役も娘役も愛人役も、残念ながらあまり印象には残らなかった。監督はジェイソン・ライトマンという 1977年生まれのカナダ人で、父は「ゴーストバスターズ」で知られるアイヴァン・ライトマン。もともとインディーズ系の出身で、「JUNO / ジュノ」という作品でアカデミー賞の 4部門にノミネートされ、脚本賞を受賞している。また、「とらわれて夏」などの作品も監督している人。きっと手腕のある監督なのだろうが、この作品の場合には、狙いが少し外れてしまったのかもしれない。
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さて、上で私は、この映画のメッセージがどこにあるのか、皆目分からないと書いたが、そうは言いながらも、考えることがないではない。それは、もしこの 1988年の大統領選でこの人が勝利し、民主党政権ができていたら、その後の米国の歴史は変わっていたかもしれない、ということだ。ジョージ・ブッシュ父はほかでもない、あのサダム・フセインを相手に湾岸戦争を始めた人。これがなければ、息子ジョージ・ブッシュ政権下でのイラク戦争も、どうなっていたか分からない。その意味で、20世紀最後の 10年に、米国は重要な選択をしたと考えてもよいだろう。歴史にたら・ればは禁物とは言え、マイアミの地方紙による、政治家にとってさほど珍しくもない不倫報道が、ゲイリー・ハートを葬り去らなかったら・・・ということを考えてしまう。ここで淡々と描かれている騒動が、実は米国の運命を大きく左右した、ということを考えてみてもよいかもしれない。ただ実は、実際のゲイリー・ハートは大統領選からドロップアウトしたあとも、国際関係分野で活躍し、現在も 82歳で存命だ。若い頃はこんな感じ。さすがにヒュー・ジャックマンほどではないにせよ、なかなかにダンディである。不倫騒動から 30年。実名入りでこんな映画が出来て、ご本人は一体どう思っているだろうか。
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そんなわけで、映画としての出来は決してよいとは思わないが、米国の過去数十年や現在の政治情勢について、あれこれ考えるきっかけにはなったとは言えるだろう。

by yokohama7474 | 2019-02-22 01:58 | 映画 | Comments(0)

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この題名、そして「決してひとりでは見ないでください」というコピー。これは私の世代にとっては大変に懐かしい。1977年のイタリア映画で、ダリオ・アルジェント監督、ジェシカ・ハーパー主演の作品名が「サスペリア」であり、そこで使われていた宣伝コピーが、この「決してひとりでは見ないでください」であったのである。公開当時、私は小学 6年生だが、確か中学生になってから、場末の二番館でこの映画を見たはずである。何やら怖かった記憶はあるものの、ストーリーは全く覚えていない。だが明確に覚えているのはこの映画のテーマ曲である。おどろおどろしい恐怖を演出するのではなく、静かにピロピロ進行し、不気味なささやきが入ると思うと、ビヨーンというパーカッションが入る。これは心底怖かった。と、ここまで書いたら (当初想定した書き出しとは異なるが) この話を続けてしまうと、この映画に先立つこと 4年。1973年制作の「エクソシスト」が、日本において「オカルト映画」という言葉を生み出す大ヒットになったわけだが、この掛値なしの名作映画において忘れ難かったのはその音楽。マイク・オールドフィールドの「チューブラー・ベルズ」(何やら、音楽の使用に関する権利の問題があったやに聞いたこともあるが) が、本当に怖かった。この 1977年の「サスペリア」においても同様の趣向が取られていたが、その音楽を担当したのはゴブリン。イタリアのプログレ・バンドである。彼らの名前は、日本では「サスペリア 2」のタイトルで 1978年に公開されたダリオ・アルジェントの前作 (これも大変怖い映画ではあるものの、実は「サスペリア」とは全く関係のない内容だし、そもそも実際はこちらの方が先に制作されているので、「2」はいくらなんでも・・・。笑) でも同様の趣向の音楽が使われていたことで知られるようになり、そして何よりの決定打は、ジョージ・A・ロメロの記念碑的傑作「ゾンビ」(原題 : Dawn of the Dead) におけるゴブリンの音楽である。だがその音楽は、それまでのヒタヒタ漂う静かな恐怖路線ではなく、迫り来るゾンビたちの恐怖を劇的に表現したものであった。私など、今でも自分を鼓舞するときにはこの曲を口ずさむほどだ (若干誇張)。その一方で、ホラー映画におけるヒタヒタ路線は、ジョン・カーペンターの出世作「ハロウィン」(1978年) で踏襲された。これはカーペンター自身による作曲である。因みにその頃は未だハロウィンという言葉は、日本では全く馴染みのないものであった。尚、便利な時代になったもので、以上の音楽は、現在ではいずれも YouTube で視聴可能である。と、冒頭からの快調な脱線はここまでにして、1977年版「サスペリア」のポスターは、こんな感じであった。因みに監督のダリオ・アルジェントは現在でも 78歳で健在。近年でも結構映画を撮っているようである。
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この映画は新旧とも、一言で言うならば、魔女の巣窟の映画である。ドイツの名門バレエ団に入るために米国からやってきたスージーという女性が主人公で、そのバレエ団で失踪者が出たり、何やら怪しげな雰囲気があったりして、実は実は・・・というストーリー。私はこの記事を書くために旧作のストーリーを確認してみたが、その大きな流れは今回と同じ。だが逆に言うと、ほかには違うところが多すぎて、これはもう、リメイクというには飛躍がありすぎる。舞台設定は、旧作がドイツ南西部のフライブルクであったのに対し、今回はベルリン。時代設定は旧作の公開年である 1977年であるから、当然ベルリンは東西に分割された状態である。そして、旧作には登場しない心理学者のクレンペラー博士 (音楽ファンが聞くと、すぐに「オットー、ユダヤ人ですね」とコメントしそうな名前である) なる人物が、戦時中に生き別れてしまった妻を思慕するという流れが、サイドストーリーになっている。なにせ全編 152分。たかがホラーだろうという侮りは許されない超大作で、私が見たときは劇場は満員の盛況であった。そんなにすごい映画なのだろうか。これが主役スージーを演じるダコタ・ジョンソン。華奢だった旧作の主演女優ジェシカ・ハーパーと比べると、ダンサー役らしく筋肉質で、しかも逞しさがある。
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今思うと、この新旧の主役の差くらい、新旧作品の間には差があって、正直なところ私には今回の作品がそんなに素晴らしい映画とは、どうしても思えないのである。例えば、魔女軍団であるダンスカンパニーの女性たちの個性差は、あえて描かれていない。その分、カンパニーを率いる伝説的ダンサー、マダム・ブランに焦点が当たっているとは言えようが、でも結局最後までこの人 (?) が何者であるのか、私には分からなかった。そもそも、隠し部屋があってそこで儀式が行われているなら、その儀式についての丁寧な種明かしをしないと、観客が驚愕することはないだろう。旧作のクライマックスがいわば拡大され、しかもそこにどんでん返しを用意しているが、旧作を離れて純粋にこの映画だけ見たとき、それってそんなに衝撃的だろうか。先般記事を書いたやはりホラーの「ヘレディタリー / 継承」と近い構成と見てもよいと思うが、この「サスペリア」の方が、凄惨な儀式を描いているにもかかわらず、沸き起こる恐怖心は小さい。それから、大変頻繁に出て来る過去のイメージショットが、ちょっとうるさい。2時間半もある大作で、これだけ頻繁に断片的なイメージを見せられると、正直うんざりするように思うのである。きっと作り手は、冷戦下のベルリンにおける分断が人々の心理に与えた影響や、当時ウーマンリブなどと言われた女性の地位向上運動への皮肉などを込めているのかと想像はするのだが、でもなぜ今、1977年のベルリンと我々が対峙する必要があるのか分からず、それならもっと根源的な恐怖を淡々と描いた方が効果的だったのではないかなぁ・・・と思う。それからもうひとつ気になったのはセリフ。たまたま前回の記事で採り上げた「ナチス第三の男」でも言語問題に触れたが、この映画では英語が主でありながら、ドイツ語、そして時にフランス語も出て来る。作り手の側にはそこに何かの意図があるのだろうから、字幕でも多少はそれが分かるような配慮が欲しかったところである。

そのようなちょっと風変わりな映画であるのだが、世の中で期待されているのは、この監督が日本でも昨年公開された「君の名前で僕を呼んで」のルカ・グァダニーノであることによるのかもしれない。この映画は私はパスしたが、見てみれば多分問題作なのであろう。1971年生まれのイタリア人。確かにこだわりの映像を作る (例えば、主要な舞台になるバレエ・カンパニーの建物の外では、ほとんどずっと雨が降っている) 人ではあると思う。
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実はこの映画には「共犯者」がいて、それは英国人女優のティルダ・スウィントン。このブログでは何本か彼女の出演作を紹介して来ているが、私にとってはあのデレク・ジャーマンの忘れ難きミューズであり、その神秘的な存在感は、本作における魔女の親玉 (じゃないのかな?) にぴったりだ。なんでも彼女は 1999年に "The Protagonists" というルカ・グァダニーノの処女作に出演して以来、20年近くに亘ってこの「サスペリア」の再構築を監督と語り合ってきたという。
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それから、クレンペラー博士の亡き (?) 妻を演じるこのお婆さんは誰だ。
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面影があると思うが、この人こそ、旧作「サスペリア」で主役スージーを演じた、ジェシカ・ハーパーである。最近あまり女優活動はしていないようだが、2002年にスピルバーグの「マイノリティ・レポート」をニューヨークの映画館で見たときに、もしやと思ってエンドタイトルで目を凝らし、彼女の名を確認したことがある。って、もう 17年も前のことか (笑)。実は未だ 69歳と、それほどの老齢でもないのだが・・・。これが旧作における彼女。
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そういえば、タイトルについて思い違いがあった。「サスペリア」とは、きっと「サスペンス」から派生した言葉だろうと、中学時代からずっと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。そもそも綴りをよく見ると、"Suspiria" であり、これはどう読んでも「サスピリア」であろう。でも語感としては確かに「サスペリア」の方がよいので、これは邦題としてはなかなか工夫したと評価できるのではないだろうか。そしてこの Suspiria、ラテン語の "suspiro" (ため息) に由来するらしい。劇中でその存在が明らかとなる三人の魔女のひとりが、この Suspiria (ため息の母) なのだそうだ。実はダリオ・アルジェントは、この「サスペリア」を第 1作とする「魔女三部作」を撮っていて、ほかの 2人、つまり、「暗黒の母」と「涙の母」も扱っているようだ。

さて最後にもうひとつ。この映画の日本限定ポスターというものがあって、描いたのは絵本作家のヒグチユウコ。こんな感じで結構おどろおどろしいが、表記に日本語がないのが面白い。ルカ・グァダニーノ監督も絶賛して持って帰ったそうである。このヒグチユウコの大回顧展が、現在世田谷文学館で開催中。私も未だ見ていないが、3月31日の会期中に行くことができるかどうか。
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by yokohama7474 | 2019-02-13 00:32 | 映画 | Comments(0)

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このブログでは過去に何本ものナチスに関連した映画をご紹介して来た。それは、私自身がいろんな意味でナチ時代のドイツや、それに対する諸外国の反応に興味を持っているという事情もあるが、それよりも何よりも、ナチスを題材にした映画が、戦後 70年以上を経た現在になっても、ひっきりなしに作られているということだろう。そんな中、フランス・英国・ベルギー合作によるこの映画、その題名の通り、ヒトラー、ヒムラーに次ぐナチス第三の男と評されることもあるラインハルト・ハイドリヒを主人公にしたものである。このハイドリヒ、ナチ高官の中で唯一、暗殺された人物であるが、それは 1942年 5月、現在のチェコ共和国の首都プラハでの出来事。今この記事をご覧頂いている方で、「あれ? それってどこかに同じ題材の映画がなかったっけ?」と思って頂ける方が果たしてどのくらいおられるか、大変に心もとないのだが (笑)、それは 2017年 9月 6日付の記事で、その映画の題名は、「ハイドリヒを撃て! 『ナチの野獣』暗殺作戦」という、よりストレートなものであった。そして実際、この 2本の映画は、ハイドリヒ暗殺という同じ史実を映画化しているのである。その映画について自分の書いたことを読み返してみると、要するに、映画全体としての出来には保留をつけながらも、ラスト 30分の壮絶なシーンに身震いしたことを書き、この事件と関連する芸術作品、つまりフリッツ・ラングの「死刑執行人もまた死す」や、作曲家、マルティヌーの「リディツェへの追悼」に言及している。ご参考までにその映画のポスターをここに掲げておこう。
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同じ史実を描きながらも、今回の映画が前回の映画と大きく異なる点は、ハイドリヒ自身の生活について、かなり踏み込んで描いていることである。つまり、占領下のチェコスロヴァキアにおけるレジスタンス活動の英雄的行為と、それへの報復としてナチの行った残虐行為のみに焦点を当てるのではなく、襲った方襲われた方、双方を描いているのみならず、むしろ襲われたハイドリヒの人間性や日常生活、38歳で暗殺されるまでに歩んだ人生の点景の数々が描かれているのである。なるほど、いかに鬼畜のようなナチ高官であっても、人間であったことは事実。家族への愛や出世意欲、また人間的な弱さもあったであろう。それを描くことで、人間が人間を殺戮するというナチス時代における異常な事態の深刻さを、一層深く感じることができることは確かである。そしてもう一点、この映画の美点は、その映像の美しさである。「ハイドリヒを撃て!」の場合には、どうにも映像が汚くて閉口したことを思い出したが、それに比べるとこの映画では、あらゆるシーンが大変に巧妙に設計されていて、その一方で、1942年の出来事という点のリアリズムも、ある種のドキュメンタリータッチで見事に描かれている (35mmフィルムでの撮影ということだ)。それらを総合して一言で要約すれば、これは大変に優れた映画であると思う。これは主役のハイドリヒを演じるジェイソン・クラーク。過去の出演作リストを見ていて思い出したが、「ターミネーター : 新起動 / ジェネシス」でジョン・コナーを演じていた俳優だ。悪役がよく似合う (笑)。
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だがこの映画では、ハイドリヒは最初から「ナチの野獣」であったわけではない。愛人問題で海軍から除名され、必死になってナチ党に所属。ヒトラーの思想に心酔する元貴族の家系出身の妻に背中を押され、また、ヒムラーに気に入られて、出世階段を駆け上る。子供たちの前ではよき父親だが、任務に関しては極めて勤勉で、血も涙もない。プラハには「保護領」チェコスロヴァキアの副総督として赴任するが、その頃から、家族との時間を犠牲にするハイドリヒから、妻の心は離れがちになる。そのような家庭事情も抱えてイライラしているハイドリヒ。そんな中で運命の日を迎えるのだが、さてこのようなハイドリヒの人間性の描写によって観客は、このハイドリヒという男に感情移入するであろうか。答えは否であろう。人間的な要素を描くことで物語の陰影は濃くなっているが、この映画がよくできているのは、だからといってハイドリヒにも立場がある、などという考えにはならないようにできている点である。例えば性的シーンの描き方も、レジスタンス側が若者のイチャイチャくらいでしかないのに対し、このハイドリヒさんの場合は、うーん、かなり Brutal である (笑)。ま、これはひとつの例だが、ハイドリヒに感情移入させないのは、演出としては妥当であろうと思う。

その一方で、残念な点もあって、それは、主役以外の役者陣に、飛び抜けたものがないことである。特に妻リナを演じるロザムンド・パイクは、もっとウブであるか、もっとしたたかであった方がよかったのではないか。マクベス夫人である必要はないが、もっと突き詰めたものを見たかった。レジスタンス側の主要な 2人、英国政府から支援を受けた亡命チェコ政府から送られてきたヤン・クビシュとヨゼフ・ガブチークを演じたのは、それぞれジャック・オコンネルとジャック・レイナー。彼らはいくつかのシーンでは悪くはないものの、せっかく映画的なシーンが様々作られているのだから、もっとキャラクターの違いを出してもよかったように思う。同じジャックで紛らわしいが、奥がオコンネル (「マネーモンスター」でスタジオに乱入する犯人役を演じた)、手前がレイナー (「トランスフォーマー / ロストエイジ」で準主役を演じた)。
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レジスタンス側に、思わぬ女優が出ている。それは、ミア・ワシコウスカ。ティム・バートンの「アリス・イン・ワンダーランド」で一躍有名になった女優だが、その後もちょっと毛色の変わった映画に出ている。米国人だがその名前からして東欧系かと思ったら、母親はポーランド人であるそうだ。ここでは素朴なチェコの娘 (レジスタンスを支持する家庭の娘) を素直に演じてはいるが、忘れがたいほどの印象とまでは言えないような気がする。
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それから、これはあまり本質的ではないかもしれないが、使用言語が、ドイツ人もチェコ人もみな英語であることは、やはり少し気になった。ハイドリヒを単純に冷血漢として描くことを避け、ナチス側もレジスタンス側も同じ人間として英語に統一するという意図なのかもしれないが、ここまで映像にリアリティがあるなら、ハイドリヒはドイツ語を喋るべきだったようにも思う。

このように、映画全体としての出来は悪くないものの、細部に少し課題があるように思われる作品である。原作は世界 25ヶ国語に翻訳され、日本でも 2014年に本屋大賞の翻訳部門を受賞しているという「HHhHプラハ 1942」という作品。この原作もドキュメンタリータッチで描かれているらしく、大変面白いと評判だ。時間があれば読んでみたい。作者はローラン・ビネという 1972年生まれのフランス人作家。
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また、本作の監督も、セドリック・ヒメネスというフランス人であり、もともとドキュメンタリーでキャリアを始めた人で、1979年生まれ。さすがにそのキャリアが本作で活かされているということだろう。
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ひとつ書き忘れたが、本作のラストシーンは、「ハインリヒを撃て!」と同じ内容。先の記事では明言を避けたが、それは、レジスタンスたちが立て籠もった教会での激しい銃撃戦なのである。「ハインリヒを撃て!」と同じく、今回も大変に仮借ないシーンの連続で、神聖なる教会でも容赦せず銃撃するナチスの野蛮さに、憤りを超えて、人間の哀しみを感じる。カトリックやプロテスタントではなく、ロシア正教の教会だったから抵抗なかったわけではあるまい。ナチス側も必死であり、兵士たちはただ命令に従って銃撃したまでである。戦争が人間を殺人機械に変えてしまったのだろう。ところで、この恐ろしい銃撃戦の舞台となった教会は、きっと未だプラハに存在しているのだろうと思って調べてみると、ありましたありました。聖キリル & 聖メトディウス教会 (または聖ツィリル・メトデイ教会) という、2人の聖人を祀った教会であるようだ。現地には銃弾の跡も残っており、レジスタンスたちの隠れ家を見ることもできるらしい。私は過去にプラハには何度か行っているが、ここは見たことがないので、次回、是非訪れるようにしたい。
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by yokohama7474 | 2019-02-11 23:12 | 映画 | Comments(0)