川沿いのラプソディ


川沿いの住まいから、音楽、美術、映画その他文化一般を語りつくします。
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メモ帳

カテゴリ:映画( 228 )

グレイテスト・ショーマン (マイケル・グレイジー監督 / 原題 : The Greatest Showman)

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名実ともに現代を代表する俳優のひとりであるヒュー・ジャックマンは、「X-メン」シリーズにおけるウルヴァリンの役ではかなりハードなアクション俳優であるが、その一方で、「レ・ミゼラブル」で聴かせた素晴らしい名唱は忘れがたい。この映画もまた「レ・ミゼラブル」と同じくミュージカル映画なのであり、ヒュー・ジャックマンの歌を聴くことができるのが、なんとも楽しみであった。というのも、予告編で見たこのようなシーンが、極めて印象的であったからである。
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ここで後ろ向きのシルエットでその姿を見せるヒュー・ジャックマンが歌う "Ladies and Gentlemen, this is the moment you've waited for" (紳士淑女の皆さま、さぁお待ちかねです) という歌詞の語感がなんとも心に残ったのであるが、それはこの映画のクライマックスかと思いきや、なんとなんと、いきなり冒頭部分なのである。ヒュー・ジャックマン演じる興行主 P.T. (フィニアス・テイラー) バーナムの物語はこうして幕を開ける。舞台は 19世紀半ば。ここには、夢と野望を抱きつつ、公序良俗に反することも厭わず目的に向かってひた走り、そして偉大なる成功を収める男の姿、そしてまた、有頂天になって、一転奈落の底に突き落とされる男の姿が描かれている。設定は少し極端ではあるものの、多かれ少なかれ、誰の人生にもこのような浮沈があるだろう。小気味よいテンポで辿る P.T.バーナムの半生は、常にどこか人間的であるがゆえに、普遍性を持つものとして、見る者の心を揺さぶってくる。若き日のギラギラした感じから成功の美酒に酔いしれ、そして過信のしっぺ返しを受け、最悪の状況から、仲間たちに励まされて新たな一歩を踏み出すまでの数十年に亘る主人公の姿は、今年 50歳になるヒュー・ジャックマンの肉体によって、スクリーンに永遠に刻まれたと言ってよいだろう。
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予告編を見ただけでは分からなかったこの映画の侮れない点は、だが、タブーにまで挑戦しようかというその表現意欲にある。この映画のモデルになっているバーナムという人物は、かなり胡散臭い経歴の持ち主で、サーカスというよりは見世物を興行することで、世間の人気を得たようである。そのあたりをこの映画は、なかなか巧妙に描いている。普通人とは異なる人たち (その中には、それはさすがにメイクじゃないのと思われる人もいるが) を集めて興行を打ったこの人は、その点だけ取ってみれば、とても道徳的な人物ではなかったようである。このような実在のバーナムの肖像を見ると、うーん、やはりヒュー・ジャックマンとはちょっと違いますねぇ (笑)。ただ、その視線はまっすぐだ。
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この映画にはまた、常にバーナムのやり方に反対する人たちが出てきて、彼らの使う言葉は「フリークス」である。映画史的にはトッド・ブラウニングの古い映画 (1932年) で知られている言葉ではあるが、そのような言葉が現代の映画に出て来ることには、正直驚くのである。これは、バーナムと、その劇団で活躍した親指トム将軍、本名チャールズ・ストラットンの写真。
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そして、バーナムのことを最初は蔑みながら、ともに米国各地で公演を続けるうちに感情移入して行ってしまうスウェーデン出身の実在のオペラ歌手、ジェニー・リンド (1820 - 1887)。この映画の中では彼女の歌は全くオペラ風ではなく、現代のラヴ・ソングであったが、一部のクラシックファンは、もしかするとそのことに異を唱えるかもしれない。だが私は、これはこれでよいと思う。映画の流れの中で、ここだけオペラのアリアになっても、観客がすんなり入り込めるとは思えないからだ。ここでリンド役を演じるレベッカ・ファーガソンもリンドと同じくスウェーデン出身で、このブログでも何度かその活躍ぶりをご紹介した。大スターでありながらひとりの女性でもあるリンドの姿を、説得力ある演技で美しく見せてくれた。これが実際のジェニー・リンドと、彼女を演じたファーガソンの比較。いずれ劣らぬ美人ではある。
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この映画でほかに印象に残ったのは、主人公の相棒役を演じたザック・エフロン。彼の過去の出演作を見た記憶はないが、なぜかその顔には親しみがあって、役柄にぴったり合った演技であったと思う。この酒場での歌と踊りのシーンではヒュー・ジャックマンとの息もぴったりで、何とも粋であったし、空中ブランコのシーンもさまになっていた。実際にかなりマッチョな人であるらしい。
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監督のマイケル・グレイシーも耳になじみのない名前だが、それもそのはず、実はこれが長編デビュー作。ヒュー・ジャックマンと同じオーストラリア出身とのことなので、やはりこの映画を作る上での主導権は、かなりジャックマンにあったのかもしれない。だがここでのグレイシーの演出はなかなかにキレがよく、驚くような映像も何度となく見せてくれる。この映画の成功によるものであろうか、次回作はあの日本のマンガ「Naruto」の映画版であるそうだ。
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それから、ミュージカルであるからには、音楽も大事な要素であるが、ここでの音楽スタッフはあの「ラ・ラ・ランド」と同じ。なるほど、メインテーマや "This is Me"、"Rewrite the Stars" などはなかなかよい曲である。演技も歌も高次元で達成された、素晴らしい映画であった。最も偉大なショーマンに、拍手!!
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さて、最後に 2つの点に触れて終わりにしたい。まず第一は、この映画におけるバーナムのサーカス団の人たちが放つメッセージである。ここでは普通の人間と異なるユニークな人たちが、自らを鼓舞し、自信を高めるさまが描かれるが、米国の現状を思い起こすにつれ、これは、マイノリティが白眼視されかねない現政権の状況に対するアンチテーゼのように思われてくる。いやもちろん、この映画の企画は現政権発足前に遡る可能性大であるが、それでも、公開時に米国ではそのようなイメージが付与されたことは、想像に難くない。それゆえであろうか、米国ではこの作品に対する評論家の評価は二分されたという。映画とは常に時代と切り結ぶものであり、今後この映画を人々が見るときに、きれいごとではないマイノリティの主張に耳を傾ける必要について、思い当たることになるかもしれない。それからもうひとつのポイントは、ここで主人公バーナムが追い求めている The Greatest Show である。この映画を見る人には明らかだと思うが、それぞれの人にとっての「最も偉大なショー」は、その人の人生そのものにほかならない。だから我々は、どんな状況でも前を向き、たとえ挫折しても元気を出して、自らが監督を務めるステージを全うする必要があるのである。The Show must go on!!

by yokohama7474 | 2018-04-01 23:05 | 映画 | Comments(0)

ダウンサイズ (アレクサンダー・ペイン監督 / 原題 : Downsizing)

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地球上の人口が過多となったとき、何か抜本的な対策があるだろうか。もちろん昔から、他の星に移住するという設定の SF 作品は数々あった。確かにそれは、費用もかかりリスクもあるが、発想としては自然である。だが、それ以外に何か策はないだろうか。あるある。地球にスペースがなくなったということなら、スペースを作ればよい。いや、それはおかしい。スペースがないから問題なのではないか。スペースを作ることなどできない。そうだ、人間がそのままの大きさである限り。つまり、人間のサイズを小さくすれば、問題解決ではないか!! というわけで、この映画はそのような設定になっている。どのくらい小さくするかというと、1/14。よって、180cmの人であれば、上の宣伝文句にある通り、身長約 13cmになるというわけである。そうなってしまうと、狭い自宅の土地も夢のような広さ。一般庶民がいきなり大富豪である。こんな結構な話はない・・・と本当に思うかどうかは別として、この映画はつまり、今目の前にある世界とは別の世界に入って行く勇気を持つことで、これまでの生活における不満から脱却することを目指す人々の物語である。主演はこの人、マット・デイモン。一足先に小さくなった友人と真剣に話しております。
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このように突飛な設定の映画であるから、深刻さはあまりなく、コメディ映画と言ってもよいだろう。その証拠として、マット・デイモンの妻の役を演じるのクリステン・ウィグは、米国ではかなり有名なコメディエンヌらしい。リメイク版の「ゴーストバスターズ」などに出演していたらしい。だがこの映画での演技自体はそれほど大げさではなく、こんな状況ならこんなパニックになるかもしれないといったレヴェル。このシーンは、小さくなることを決意した 2人が、現在の生活で大事にしているもの (お互いの結婚指輪とか) を収めた箱を持って出かけるところ。
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設定はなかなかよく考えられていて、人間の細胞は小さくできるものの、人工物はそうはいかないから、人工関節を入れている人は小さくなれない。だが、例えば歯の詰め物であれば、すべて除去した上で小さくなり、そちらの世界でまた詰め直すといる段取りとなる。全身の毛を剃られ、こんな感じで小さくなるのである。
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人類縮小計画は、希望者だけに対して実行され、実用化されて何年も継続するうちに、既にかなりの実績が上がってきているという設定。からだが小さくなっても、こんなミニチュアの街ができていて、虫や動物が入ってこないよう、上空は密閉されている。ほほぅ、これはやはり、快適なユートピアでしょうかね。
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と、ここまで時に妙な距離感を込めて文章を書いているのは、正直なところ私はこの映画を、そもそもの着想以外には、あまり面白いと思わなかったからである。つまりここには、「人が小さくなる」という特異な設定をどのように使ってストーリーを紡ぎ出そうかという工夫が、あまりあるようには思えない。もちろん、あるドラマが起こる設定にはなっていて、その前提は、本来なら自らの意思でダウンサイズする人たちばかりであるはずが、実はそうではないという事実が発覚することである。だが、そのドラマが一体どれほどの人に強く訴えかけるだろうか。誰にでも分かることには、この映画には悪役は一切登場しない。よくありがちな、自らの利権に目がくらんだ巨大企業の陰謀や、地球の制服を目論むマッドサイエンティストは出て来ない。カーチェイスもなければ銃撃戦もない。知恵と体力の限りを尽くす「ジェイソン・ボーン」シリーズのような肉弾戦もない。その意味では今どき珍しいタイプの映画であり、もしかするとそこに、通俗的な娯楽映画とは異なる、なんらかの社会的メッセージを読み取るべきであるのかもしれない。だが私には、そこも今一つピンと来なかった。もともとブラックコメディの要素を追求するなら、それにふさわしい役者を配し、もっと意外な事態の展開を描くべきだったろう。ここには、過酷な運命のどうしようもない強い力によるドラマ性は感じられない一方で、北欧の自然を通した何かスピリチュアルなものへの指向は明らかである。そこに、環境問題、移民問題、家庭の問題、そのような現代のヴィヴィッドな問題の数々は結局、この地球自体が堕落しているから起こっているのだという諦観を感じるのは私だけだろうか。もしそうなら、この描き方では、そもそもの地球の問題点が仮借なく迫って来ないし、悪人が出て来ない点による力点の不足があるように思う。それだけではなく、ここでの役者たちは、主演のマット・デイモンを除くと、どうも印象に残らない。いつもながら奇妙な笑顔のクリストフ・ヴァルツとか、ちょっとだけ出ているローラ・ダーンなどはともかく、ヴェトナム人家政婦という役のホン・チャウなどは、その東南アジア英語を含め、私としては苦手なタイプ。ここにアジア系移民についての何かのメッセージがあるのかもしれないが、映画のドラマ性という点では、残念ながら彼女はそれほど貢献していたとは思えない。ただ、ひとつ明確なメッセージとして受け取ったのは、マット・デイモン演じるポール・サフラネックは、ダウンサイズする際には、ある種の裏切りに遭ってしまうわけだが、この映画のラストでは、同じ裏切りに再度苛まれることはない。ここには、運命を克服する善き人間が描かれている、ということは言えるだろう。未だダウンサイズを決意する前の善き人の姿。
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この映画の監督アレクサンダー・ペインは、製作と脚本にも参画している。この名前にはなじみはなかったが、「サイドウェイ」「ファミリー・ツリー」という 2本の映画 (ともに監督も兼任) でアカデミー脚本賞を受賞しており、カンヌ国際映画祭の審査員にも選ばれているらしい。ふーん、それは大した実績だ。ではこれに懲りず、今後に期待することとしよう。
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とりあえず、人間が今のままのサイズで繁栄を続けんことを。

by yokohama7474 | 2018-03-31 21:32 | 映画 | Comments(0)

15時17分、パリ行き (クリント・イーストウッド監督 / 原題 : The 15:17 to Paris)

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たまたましばらく前の「The Beguiled / ビガイルド 欲望のめざめ」の記事でもその名に触れたクリント・イーストウッドであるが、そこで紹介した 1971年の映画「白い肌の異常な夜」(うーん、何度見ても異常な邦題だ) に出演した彼は、それまでのマカロニ・ウエスタンからハリウッドに進出し、その「白い肌の異常な夜」と同じ年に同じ監督の手によって作られた「ダーティハリー」で大ブレイクしたわけである。その後の彼の活動は、文字通り映画史に残る偉大なものであり、実に 87歳に至った今日でも、コンスタントに作品を世に問うていることは、まさに人間技を超えている。前作「ハドソン川の奇跡」も実話に基づくハードな内容であったが、今回はさらに意欲的な作品になっている。ここでは、アムステルダムからパリに向かう列車の中で、テロリストに立ち向かい、大量虐殺を未然に防いだ若者たちの物語が語られる。だが、ここで驚くべきは、その英雄的なことを成し遂げた若者本人たちが、ここで自らの役を演じていることだ。こんな映画、前代未聞であろう。
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主人公は、白人 2人に黒人 1人の 3人組。彼らはカリフォルニア、サクラメント出身の幼なじみ。このような写真を見ると、役者ではなく、本当に一般人であることが分かる。
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事件が起こったのは 2015年 8月21日。米国からヨーロッパに旅行に来て、アムステルダムからパリに向かう途中の列車の中。銃を持ったテロリストがその列車の中で大量殺戮を目論んだが、たまたま乗り合わせた彼らによって阻まれることとなった。ということは、つい 2年半ほど前の話であるのだが、これほど最近の事件をこのように迫真の映像で撮った映画がかつてあっただろうか。イーストウッド自身の「アメリカン・スナイパー」や「ハドソン川の奇跡」、あるいはキャスリン・ビグローの「ハート・ロッカー」や「ゼロ・ダーク・サーティ」に比べても、より生々しい題材であるのだ。80代後半に至った監督の心意気たるや、恐るべし。実際ここでは、隅から隅まで、実にリアルに物事が展開して、眩暈がするようだ。但し、主人公 3人の少年時代を除いて。さすがにこの少年たちと、その母親は、役者が演じているのである。これらが、実際にトラブルを経験した本人たちと、その少年時代を演じる子役である。なかなかうまい子役を探してきたものだ。
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ただ、ここで予告編での謳い文句と本編の違いを述べるとするなら、予告編では、ごく普通の青年たちがテロを防いだように見えたものだが、実際には軍隊でテロ対策及び人名救助の訓練を受けた人が、勇気ある行動を示したのである。そうでないと、こんな風に狙われて、
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こんな風に反応できませんよ。
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まあ実際ここにはラッキーな要素もあったのだが、それにしても、敵に立ち向かう青年の勇気には、本当に感銘を受ける。もし自分がその立場にいれば、たとえ訓練を積んでいたとしても、果たして同じことができるであろうか。そして大変興味深いことに、ここで命をかけてテロを防いだ青年、スペンサー・ストーンは、画面を見る限りどうやら、多少コミュニケーション障害のようにも見える。その生々しさは、ちょっとほかの映画で見たことがないようなものである。それから、これは多少ネタバレかもしれないが、青年たちと一緒に列車の中で被弾した人を助ける医師 (であるか否かすら、劇中では明らかにならないのであるが)、そしてその被弾した人も、本人役を演じているのである。これは実に呵責ないことである。つまり、テロリストに撃たれ、実際に生死の境をさまよった人が、そのようなシーンを再現するのであるから。もし私がそのような経験を持っていたら、もう思い出すのもいやになるはず。それから面白かったのは、これらテロを防いだ功労者たちが叙勲されるシーン。ここでは、本物かと見まがうばかりのオランド元首相を演じる役者が出ているのである。ええっと、これは多分、本物の叙勲時の写真。映画をご覧になった方は、是非映画の中のシーンと比べてみて頂きたい。あれっ、これが映画の中のシーンかも (笑)。
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もちろんこの映画の趣旨は、実際の事件に遭遇した本人たちの勇気を称えることにあるにせよ、その一方で、現代世界のリアルな姿を、切実感をもって描いているとも思う。例によって多くを語り過ぎないイーストウッドの演出は、何よりも事件の当事者を使って衝撃的な事件を再現することにより、有無を言わせぬ迫力を作り出したのである。若者らしく、チャラチャラしていてもよい。いざというときに人生の真価が試されるのである。衝撃の事件を経験して、若者たちの人生の年輪が増えることに、ポジティブなものを見たいと思う。そう、あのクリンント・イーストウッドとお近づきになれるなんて、普通ではありえないことだ。
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クリント・イーストウッド。老境に及んでなお、まさに映画の地平を広げつつある偉大な存在なのである。

by yokohama7474 | 2018-03-28 00:28 | 映画 | Comments(0)

The Beguiled / ビガイルド 欲望のめざめ (ソフィア・コッポラ監督 / 原題 : The Beguiled)

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この白い色合いに女優が 3人。なんともエレガントのように見えるが、また少し嘘っぽいようにも見える。しかも、副題に「欲望のめざめ」などとあって、何やら怪しげで、あまり爽やかな感じはないのである。だが、映画に興味を持つ人はやはり、これを見るべきであろう。それは、この人が監督であるからだ。本作においては、製作と脚本も兼ねている。
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1971年生まれ、ということは既に 46歳ということになるが、現代における才能ある映画監督のひとり、ソフィア・コッポラである。言うまでもないが、あのフランシス・フォード・コッポラの娘である。監督作としてはやはり「ロスト・イン・トランスレーション」が印象深いし、役者としては何と言っても「ゴッドファーザー Part III」におけるアル・パチーノの娘役であろう。ところが彼女は実は、この「ゴッドファーザー」シリーズ 3作すべてに出演しているのである。いやいや、嘘でしょう。だった「ゴッドファーザー」の 1作目はいつの作品だったろうか。調べてみるとそれは 1972年。ということは、このソフィア・コッポラは当時、たった 1歳ではないか!! そう、劇中でタリア・シャイア (もちろん、フランシス・コッポラの実の妹だ) の息子であり、その兄、アル・パチーノ演じるマイケル・コルレオーネが名付け親となった赤ん坊、マイケル・フランシス・リッツィは、このソフィア・コッポラが「演じた」役だったのである。女の子が演じた男の子役。ということはソフィアは、生まれた頃からジェンダーには敏感であったのかもしれない。
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そんなソフィア・コッポラの最新作であるこの映画の題名 "Beguiled" とは、私もなじみのない言葉であるが、beguile (だます) という動詞の過去分詞なのである。ええっと、高校のときに習った英語では、過去分詞に the をつけると、そのような特色を持つ人を指す。つまりこの言葉の意味は、「だまされた人々」という意味になる。この映画の設定は 1864年。米国を二分した南北戦争のさなかである。南軍の支配地で女子だけが暮らす寄宿舎に、傷ついた北軍の兵士が匿われる。そこで、女教師とその助手、そして教え子の合計 7人が、何やら欲望をめざませる (?) ことになる、というお話。
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この写真で左右に立っている 2人と、真ん中に座っている 1人の合計 3人が、上のポスターにその姿を見せている 3人。年齢順に、ニコール・キッドマン、キルステン・ダンスト、そして、あの天才女優エル・ファニングである。この中で、キルステン・ダンストは私は以前から (「スパイダーマン」のヒロインを演じていた頃から) どうも苦手なのであるが、ほかの 2人は大ファンなのである。そういえばつい最近も、このニコール・キッドマンとエル・ファニングが共演した映画の記事を書いた記憶がある。残念ながらその記事のアクセスは非常に少ないので、ここでリンクを張っておこう。

https://culturemk.exblog.jp/26366560/


もう一度、この 3人の女優の写真を掲げておこう。本編にはこのようなシーンは登場せず、飽くまでイメージショットなのであるが。おっとここには、3人の女優以外に、右端に髭面の男が見える。

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そう、コイツが、女の園をかき乱す北軍兵士である。なにせあのエル・ファニングが、こんなことになってしまうのだ。こらこら、近い近い!!

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この北軍兵士を演じるのは、これも名優であるコリン・ファレル。こらこら、髭を剃っても、近い近い!!

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この映画、見る人の人生が変わるほどの出来とは思わないが、ここでソフィア・コッポラが描きたかったことは、なんとなく分かる気がする。ひとつは、南北戦争。国が分断されたこの頃から、米国は栄光の歴史を刻んできたはずだが、昨今の情勢を見ると、果たしてそうなのか、ちょっと疑問に思うところもある。そのことに対する危機感があるだろう。そして、そのような国レヴェルではなく個人レヴェルで見たときに、女同士で起こる確執というテーマもあるに違いない。キリスト教の教えに基づいて敬虔で貞節な生活を送るべき寄宿舎の女性たちが、たった一人の男の存在によって、徐々にいがみ合うようになり、狂気すれすれの思い切った行動に出る。思い出してみれば、この作品の冒頭は非常に印象的なのであるが、それは、ひとりの少女の視点から森の中を見たもの。彼女は歌を口ずさみながら食糧になるキノコを採りに来て、そして傷ついた北軍兵士を見つけるのであるが、冒頭からのその流れは、何気ないものでありながら、純粋なものが汚されて行く序奏にふさわしく、イノセントでありながら黒い予感に満ちたもの。そしてこのキノコは、映画のクライマックスでまた重要な意味を持つのである。ソフィア・コッポラはこの映画の設定について、以下のように語っている。


QUOTE

私は集団内での人間関係というものにずっと興味があるの。特に女性同士のね。女性同士が接する時の機微ってすごく微妙じゃない? 男性はもっとはっきりしてるけど。(中略) 今回は、人生のステージが異なる女性同士の関わり合いを描いてみたかった。

UNQUOTE


なるほど、やはり彼女はジェンダーにもともと興味があって、ここではいわば、密室での実験をしているような感覚で映画を作っているのだろう。正直、女性同士の確執の行き着く末については、私としてはもっともっと呵責ないものを描いて欲しいと思ったのだが、とはいえ、そこに至る過程では、監督の目指すところはかなり明確に表現されていると言ってよいだろう。ところでこの作品には原作があって、それは、トーマス・カナリン (1919 - 1995) という作家 / 脚本家の手になるもの。実はその作品は、原作者が未だ生きていた頃、1971年 (ちょうどソフィアが生まれた年である) に映画化されている。この作品、原題は今回と同じ "The Beguiled" なのだが、邦題がすごい。「白い肌の異常な夜」というのである!! なんじゃそりゃ (笑)。その作品、北軍兵士を演じたのはクリント・イーストウッド。監督は彼の出世作「ダーティハリー」の監督であるドン・シーゲルだ。いやー、このポスターはほとんどポルノまがいではないですか。勘違いしてドキドキしながら劇場に向かった男性も多かったのでは?

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以前も書いたが、今年未だ 20歳というエル・ファニングは、やはり特別な才能を持った女優であると思う。実は、ソフィア・コッポラの父親であるフランシス・フォード・コッポラも、彼女を主役に映画を撮っているということをご存じだろうか。押しも押されぬハリウッドの大御所でありながら、最近その活動ぶりをとんと耳にしない彼の、現時点での最新作「Virginia / ヴァージニア」(原題 : Twixt) である。2011年の作品で、日本での公開は本当に細々としたものであったが、もちろん私は封切時に劇場に足を運んでその映画を見た。いかにも低予算ながら、ファンタジー溢れる佳作であったので、コッポラファンには絶対にお薦めである。これがその作品でヴァル・キルマーと共演するエル・ファニング。当時 13歳。

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そう、遠からぬうちに現代最高の女優になる可能性を秘めているエル・ファニングは、コッポラ父子の作品に出演することで、その階段を登りつつあるのである。これからも大注目であります。


by yokohama7474 | 2018-03-25 00:01 | 映画 | Comments(0)

スリー・ビルボード (マーティン・マクドナー監督 / 原題 : Three Billboards outside Ebbing, Missouri)

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日々の生活の中で、はっとする偶然に出会うことがある。もちろん、例えば何かあることを考えているときに、それに関連するものが目に入ったりすると「すごい偶然だ」と感じるわけであるが、実際のところ、人の意識は常に流れていて、目の前にあるものは意識の中にあるものと関係ないことがほとんど。なので、たまには偶然、目の前にあることが自分が考えていたことと一致しても、ことさら不思議ではないと言えるのかもしれない。だが、文化の諸相において、奇妙な偶然はときにインスピレーションと呼ばれ、人間の想像力の源泉と考えられるものである。たとえ偶然であれ、人の内部で考えられることと、外部で発生することに因果関係があると捉えると、世界が広がるとは言えるだろう。・・・なぜにこんなことを書いているかというと、この記事を書き始めた 3/21 (水・祝) の夜、レイトショーである映画を見に行くために出掛けようとすると、書斎の床に置いてあるかなりの数の (ええ、かなりの数の!!) 未聴 CD の山の 1枚にちょっと足が触れて、蹴飛ばしてしまったのである。拾い上げてみると、それはソプラノ歌手キリ・テ・カナワの歌うカントルーブの「オーヴェルニュの歌」という歌曲集の CD だ。そのとき、稲妻のように私の脳裏に走るものがあった。実は、その直前にまさに記事を書き始めていたこの映画は、かなり以前に鑑賞したものなのであるが、その冒頭とラストに、どこかで聴いたことのある歌が使われていて、私はそれを確か、この「オーヴェルニュの歌」の中の 1曲ではなかったかなと思い、これは記事を書く前に確かめないといかんなと思っていたのだ。だが、その後の出張や、連日のコンサート通いとその記事の作成に追われ、なかなかこの映画の記事にまで至らなかった。そうこうするうちに時間が経って、アカデミー賞の発表があり、この映画でフランシス・マクドーマンドがアカデミー賞主演女優賞、サム・ロックウェルが助演男優賞を獲得するという事態も出来したが、それからでも随分と日数が経ってしまっている。そんな状態で、ようやくこの映画の記事を書き始めた。だが、冒頭がなかなかうまく行かず、何度か書いては消して、納得いかない内容でとりあえず下書き保存して、さてレイトショーに出掛けようと思った矢先、この CD を蹴飛ばしてしまったというわけである。ビビビと何かに撃たれた私は、レイトショーから帰ってきて、それまでに書いていたこの映画の記事の冒頭部分をすべて削除し、この話題から始めたというわけだ。

とまあ、書き出しが長くなってしまったが、奇妙な偶然に導かれて私が舞い戻ってきたこの映画。これは本当に素晴らしい作品である。一言で要約するならば、人生のエッセンスが、よいこと悪いこと、すべてぎゅっと詰まったような作品である。今年これまでで見た中では、間違いなくベストを争うものであろう。予告編で明らかになっていたストーリーは、中年女性が娘を殺されるという悲劇に出会うが、なかなか犯人が捕まらないことに業を煮やし、自宅近くの道路沿いに立っている大きな立て看板 (ビルボード) 3枚に、警察を非難する文章を入れる。それを見た警察との間にいざこざが起こり、やがて事態は思いもよらない方向へ。このような立て看板が、人々の運命を動かすことになるのである。
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それにしても、このストーリー展開は全く先を読ませない意外性を常にはらんでいて、画面を見ながら「あっ、そんな!!」とつい叫びたくなるような意想外の事態が矢継ぎ早に起こるのである。この映画には、いわゆる悪人は登場しない。だが、登場人物のそれぞれに、逞しく戦う姿勢と、人間としての弱さが同居していて、それらの要素が複雑に絡み合うことで、実に意外性に富んだ展開となって行くのである。主演のフランシス・マクドーマンドは、私が深く敬愛するコーエン兄弟の片割れ、ジョエル・コーエンの妻であり、コーエン兄弟のデビュー作「ブラッド・シンプル」以降、彼らの作品の数々に出演している。その中には例えば「ファーゴ」のような作品もあって、そこでは、悪気はないが要領の悪い男が、ちょっと嘘をついたばっかりに、どんどんどんどん取返しのつかない方向に運命の歯車が回り出すという設定が、ブラックユーモアを交えて描かれていた。実はこの「スリー・ビルボード」も、それに近いストーリー展開となっている。だが、「ファーゴ」に比べるとこの映画の方が、より救いのない内容であると思う。それというのも、登場人物たちの人間像に奇妙なリアルさがあるからではないか。もちろん主演のフランシス・マクドーマンドの演技は大変素晴らしい (もっとも、そのセリフには何度も 4文字言葉が飛び交い、決してお上品な役柄ではない)。彼女としても会心の演技であるだろう。そして、警察署長を演じるウディ・ハレルソン、その部下を演じるサム・ロックウェルも、それぞれ難しい役柄を、素晴らしく演じている。そう、アカデミー助演男優賞を獲得したサム・ロックウェルの演じる警官の、尊大でありながら実は愛情深く、その一方で自分の持つ権力に安住し、弱い者たちを攻撃するという複雑な性格は、この映画のドラマを大変深いものにしている。人間というものは弱い面が必ずあり、卑怯で臆病であるがゆえに威張りちらすことがある。だがその一方で、そのような人の心の底には、実は善が眠っているケースもあるのである。
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この映画は完全なフィクションであるが、奇妙なリアリティがあるのは、中西部の架空の街、ミズーリ州のエビングの様子がリアルに描かれているからだろう。この映画の原題は、「ミズーリ州エビング郊外の 3枚の立て看板」という意味であるが、田舎の街のそのまた郊外という設定の中に、米国の人たちのリアルな生活ぶりが透けてみえる。彼らはそれぞれに不安や不満を持って暮らしており、凶悪犯罪が起こりうる土壌もそこにある。もちろん人種問題は深い根を下ろしている。ここには今日の米国のリアルな病巣が描かれているのだろう。だがしかし、面白いのは、この映画の設定は、どうだろう、1990年代前半というイメージだろうか。携帯電話は未だそれほどポピュラーではなく、もちろんインターネットが人々の生活を支配しているということもない。私の見るところ、これには理由があって、主人公の女性が起こす大胆な行動は、ネット社会においては SNS で瞬時にして世界に発信されるであろうところ、この映画の設定では、そんな要素があると邪魔になるからだ。彼女は警察を非難するために、ネットで情報を拡散させることはなく、ただその場所を通った人たちだけが認識する郊外の立て看板を利用する。狭い街ゆえ、それは人々の噂として拡散する。そこにはまた、田舎街の人々の Society のあり方が反映されるだろう。かくして主人公の女性は、常にファイティングポーズを取り、真犯人の追求とは異なる次元での、切実なる空回りを演じることになるのである。これは笑えない。だが決して陰鬱なものでもない。人生とは、そのような複雑な要素のアマルガムであるのだ。
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ある意味でこの映画は演劇の脚本のようなイメージを持つ。それもそのはず、この作品の監督マーティン・マクドナーはもともと英国の劇作家で、本作においても製作・脚本を兼ねているからだ。1970年生まれの 47歳だが、既に人生の年輪を刻み込んだような味のある顔をしている。これは只者ではないだろう。この人の戯曲は是非読んでみたいものだが、調べたところ、日本で翻訳は出ていないようだ。今後の出版に期待したい。
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このように、複雑な人間群像をもって骨太のストーリーを鮮やかに演出した素晴らしい映画であるゆえ、人間の真実について考えたい人にはお薦めである。そして、冒頭に書いた通り、この曲の開始部分と終結部分に流れる美しい歌は、私が手元の CD で確認したことには、フランスの作曲家ジョゼフ・カントルーブ (1879 - 1957) の歌曲集「オーベルニュの歌」から、「バイレロ」という曲。実は、鑑賞時にエンドタイトルを見て、歌っている歌手は確認できていた。それはルネ・フレミング。この「夏のなごりのバラ」というアンソロジーに含まれている録音だろうか。赤裸々な人間の姿を描いた映画の中で、見る人にカタルシスを与える音楽であり、本当に気の利いた劇中音楽になっていると思うのである。
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by yokohama7474 | 2018-03-22 23:54 | 映画 | Comments(2)

マンハント (ジョン・ウー監督 / 原題 : Manhunt)

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前項に引き続き、アジアの映画である。あの名匠ジョン・ウーの新作で、福山雅治が主役のひとりを務める。私はこの、中国生まれ香港育ちの監督の作品には、「男たちの挽歌」シリーズに始まり、「フェイス / オフ」や「M:I-2」などのハリウッド映画でも親しんできた。なのでこの映画は是非見たいと思ったのである。
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だが、あぁなんということ。私にとってこの映画は、苦痛以外の何物でもなかったのだ。日本・中国・韓国の俳優たちを使い、それぞれの母国語に加えて英語で語られるこの映画は、ある意味で東アジアの映画文化の結集であるはず。それなのに、最初から最後まで、私はほとんど感情移入できなかった。不自然な設定、意味の分からない群舞シーン。テレビドラマのような色仕掛け。あり得ない警官の逃亡。それを受け入れる人たちの存在感のなさ。凝りすぎの英語のセリフを無理して語る日本人俳優。太っていて、顔もプロフェッショナリズムを感じさせない、監督の娘である残念な女優。本当に、唖然とするほど痛い映画であるというのが、私の正直な感想なのである。別に、役者のセリフと口の動きが合っていないからといって、それを非難する気はない。ただ、映画、いや、ジョン・ウーの映画に本来備わっていたはずのテンポ感がこれだけないと、感情移入しろという方が無理な相談だ。中国映画も日本映画も、そしてもちろん韓国映画も、それぞれに素晴らしい特性を持っているのに、それらを併せようとすると、なぜにこれほどクオリティが落ちてしまうのだろうか。私はそれを考えたときに、もしかしてこれは東アジアの抱える様々な問題点を体現している映画なのかもしれないと思い至った。まぁそれは考えすぎなのであろうが、これだけ映画の内容が低調だと、そうでも思わない限りやっていられないではないか。

そんな中、唯一興味深かったのは、この役者の出演だ。
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これは誰あろう、往年のアクション映画で大活躍していた、あの倉田保昭なのである!! 人呼んで「和製ドラゴン」。これはめちゃくちゃ懐かしく、70歳を超えた今でも、このような渋い役を演じ、そしてついにはアクションまで披露してしまう彼の姿には、感動を禁じ得なかった。
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これ以上この映画について語ることはない。本当に残念だ。

by yokohama7474 | 2018-03-17 22:42 | 映画 | Comments(0)

悪女 / AKUJO (チョン・ビョンギル監督 / 英題 : The Villainess)

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またまた超絶の韓国映画である。昨年のカンヌ映画祭で上映されて話題騒然であったと聞くが、いやはや、さもありなん。まず冒頭のシーンからして唖然。宣伝にも使われている Vanity 誌の「脳裏に焼き付く、冒頭 7分間のノンストップ・アクション」という評価をここで挙げておきたいが、詳細に触れるのはやめておこう。この驚愕の冒頭シーン、全く先入観なしに見るべきである。ただ、一言だけ述べるならば、殺戮の果てにカメラがくるっと回るその瞬間には、なんとも言葉で表現できない衝撃がある。ここで、数知れぬ屈強な男たちと、全くからだひとつで闘っている女性のその姿に、まずはペースをがっちりと掴まれるのだ。そして、疾走するストーリーをすべて経てからのラストシーン。正直、この「悪女」という題名には、本編を見ながら少し違和感があったのだが、最後のシーンには鳥肌立ちながら納得。なるほど、英語では Villainess、まさに悪女なのである。人間とは、なんと怖い存在なのだろう。そんな根源的なことをこんなに切実に感じさせてくれる映画は決して多くないが、お隣の韓国では、これまで作られてきた数々の呵責ない映画に加えて、またこのような驚くべき作品が世に問われるわけである。これは本当にすごいことである。もちろん、役者の中での最大の功労者は、主演のキム・オクビン。
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この極めてハードな映画のアクションシーンを、90%ほども自身でこなしたというから驚きだ。もともとテコンドーで黒帯という高い身体能力を持っていながら、そもそも韓国映画では女性が主人公としてハードなアクションを演じることが少ないので、その点への戸惑いを持ちながらの演技であったらしい彼女は、この映画について、「骨の髄までしびれるほどの苦痛を伴った作品なので、観るたびに痛みを思い出します」と語っている。いやはや、さもありなん。観客のひとりひとりが、その映像を見て、骨の髄までしびれるのである。ええっと、このイラストはちょっと違うかな (笑)。
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実際、このキム・オクビンが演じるヒロインは、自らの哀しい運命に身を委ねながらも、いざというときには頼る者は自分しかいない、そんな極めて厳しい環境で逞しく生き抜いてきた女性である。だがその一方で、愛する夫や娘との時間をこの上なく大事にする、極めて優しい心根を持った人であることが、この映画では巧みに描かれているのだ。これがその、素顔のキム・オクビンとその夫役、そして娘役。いい表情ですね。
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この映画では、二転三転するストーリーが面白いので、それだけで充分に楽しめるのであるが、ただ、殺戮シーンは極めて生々しいので、その点にはちょっと抵抗ある人もいるだろう。日本での公開は R15 であったのは、そういうことだと思う。だがこの残虐性にどこかユーモアがあったり、見て行くうちに、そこに描かれた人間そのものに気づくのが、いつもながらの韓国映画全般の特徴だ。そう、殺し屋は、自らの結婚式の当日ですら、式場のトイレでこのような任務を請け負うことになるのである。この長いドレスが、殺戮の運命と響き合って、なんとも哀しい。
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この映画は、過去の女性殺し屋もの、例えばリュック・ベッソンの「ニキータ」などの影響を受けているようだが、ひとつ面白いことに気がついた。それは、ヒロインが家で襲われ、男たちをなぎ倒すシーンで、巨漢を倒し、その首にロープを巻き付けて、自らは窓から外に飛び出すところ、その巨漢の死骸がバルコニーでの重しとなって墜落を免れるというもの。その、乱暴でいながら (笑) 独創的な発想には舌を巻いたが、実はこの映画を鑑賞したあとに飛行機の中で見た映画でも、全く同じシーンがあったのだ。それは、シャリーズ・セロン主演の「アトミック・ブロンド」なのだが、一体どちらが模倣したのであろうか。調べてみると、「アトミック・ブロンド」の米国公開は 2017年 7月。一方この「悪女」は、ほぼ同時期、2017年 5月にカンヌで上映されている。ということは、どちらかの脚本が事前に流出しない限り、模倣は無理なわけである。これは不思議な偶然か、あるいは、既に先立つ作品がほかにあったのだろうか。いずれにせよ、そのシーンはこの映画の驚天動地の映像のひとつに過ぎない。ここで繰り広げられる肉弾戦には、バイクに乗っての日本刀での斬りあいとか、爆裂感溢れるカーチェイスとか、それはそれは強烈なものばかり。おいおい、何もそこまでめちゃくちゃな設定にせんでもよいだろう!! と思うこと必定だ。だって、斬りあいをするなら、高速で走るバイクの上ではなく、ちゃんと地上に降りてからでよいではないか (笑)。
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ここでいつもの私の持論。こんな嘘っぽいシーンに観客が乗れるということは、映画のウソがさまになっていることで、それは取りも直さず、よい映画だということだ。この映画を撮った監督はチョン・ビョンギルという人。自身がもともとスタントマンという経歴の持ち主で、これまでの代表作は「殺人の告白」。これは日本でも「22年目の告白 - 私が殺人犯です」としてリメイクされ、このブログでも採り上げた映画のオリジナル。私はこの映画も飛行機の中で見たが、日本のリメイク版とは後半が異なっていて、よりエグい内容になっている。今年 38歳になる、こんな人懐っこい監督さんだ。ハードでエグい映画を撮るからといって、それは決して本人の素顔ではないことは、この世界にはよくあること。
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ここで繰り返そう。この映画において必見であるのは、冒頭とラストシーン。その間、観客はただ流れに身を任せればよい。実は、時間は前後するわ、信じていた人は裏切るわで、結構複雑なストーリーなのであるが、私としては、細部で理解できない点があっても、ただ気にせずに映画の流れに乗って行けば、ラストシーンで鳥肌立つ瞬間に出会えるものと思う。こんな映画、残念ながら日本では絶対にできないだろう。韓国映画は今後もきっと、ますます映画の地平を広げて行くに違いない。脱帽です!!

by yokohama7474 | 2018-03-17 22:18 | 映画 | Comments(0)

デトロイト (キャスリン・ビグロー監督 / 原題 : Detroit)

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「K-19」「ハート・ロッカー」「ゼロ・ダーク・サーティ」などのハードな作品で知られる女流監督キャスリン・ビグローの新作で、上に掲げたチラシを見れば分かる通り、自動車産業で有名な米国ミシガン州デトロイトで起こった出来事を映画化したものである。1967年、この街で発生した黒人暴動と、その直後に起きた、モーテルにおける白人警官による黒人への暴行。これは決してドキュメンタリーではなく、エンドクレジットにも出る通り、当事者たちの証言と当時の記録をもとに再現したドラマである。いやしかし、それにしても、ここに見る映像のリアリティはまさに衝撃的だ。そしてその映像のリアリティは、そのまま社会のリアリティへと見る者の思いを導く。米国においてかつて起こっていたこと、今起こっていること。そしてこれから起こるであること。もちろんそこに、「決して起こってはいけないこと」という項目も、見る人の中には存在してしかるべきであろう。ところが我々日本人には、この米国のリアリティをどのくらい理解できようか。そのようなある種の絶望感というか、呆然とした思いこそ、この映画を見たあとに私が囚われたものであった。これを見ると、ただ差別はいけないとか、自由平等がよいとか、そのような感想がきれいごとのようにすら聞こえてしまうのではないか。赤裸々な人間の真実の姿に向き合うことが求められる、ハードな映画である。

ここで描かれている事柄の経緯は、以下のようなものである。1967年のデトロイト。無許可営業の酒場で、ある黒人兵士のヴェトナム戦争からの帰還を祝うパーティが行われていたところに警官が踏み込む。それをきっかけに黒人たちと警官たちの間で小ぜりあいが生じ、暴動に発展。略奪や放火が横行し、市警だけでは鎮圧できなくなり、州警察や軍隊までが動員され、結局死者 43人、負傷者 1,100人以上という米国史上最大級の暴動に発展した。この映画の舞台となるアルジェ・モーテルでの事件は、暴動発生 3日後のこと。ひとりの黒人がオモチャのピストルをふざけて窓外に向けて発射し、それをスナイパーによる襲撃と誤解した警察が出動して、このモーテルを制圧。そこで黒人たちが警官に取り締まりと称する暴行を受け、3人の死亡者が出るという事態に発展したのである。実は映画を見に行く前に私は、たまたま NHK BS1 で放送していた、このモーテルでの実際の事件についてのドキュメンタリー番組を見ていた。そこでは、事件の生き残りや被害者の家族、裁判に関係した弁護士にインタビューし、そして興味深いことに、加害者となった白人警官にすらインタビューをしようと迫る米国人アーティスト (祖父が事件直後に暴動についての著書を著したジャーナリスト) の姿が描かれていた。ここで便宜上、白人警官を「加害者」と書いたが、公平のために書いておくと、法治国家のことであるから本件についてはちゃんと裁判が行われ、陪審員によって警官たちはみな無罪となっている(もちろん、その判決が間違っているという意見もある)。この映画において警官側で主導的な立場にあるクラウスを演じるのは、ウィル・ポールター。以前私が絶賛した「メイズ・ランナー」シリーズや「レヴェナント ; 蘇りし者」において、一目見たら忘れないその容貌によって強烈な印象を残してきたが、この映画における彼は、まるで何かに憑りつかれたかのような鬼気迫る演技。あまりにリアル過ぎて、彼個人が黒人の恨みを買わないかが心配になるほどだ。
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彼の役は、実在の 3人の人物の混合によるものらしいが、何せ 50年前の事件、その 3人のうち未だ生存するのは 1人のみらしい。上記の NHK のドキュメンタリーでは、その唯一生存している元警官 (現在は引退して郊外に暮らしている) にインタビューを試み、彼は一旦はそれに応じようとするのだが、やはり、「憎しみをもう一度呼び覚ますのはやめよう」と言って、それを断ってくるのである。ウィル・ポールターは英国人だが、ここでの演技は大変困難であったという。それは、演じる人間の考えが完全に間違っていて、そこに感情移入することができなかったかららしい。撮影終了後に役柄から抜け出すのは簡単で、本人の面白い比喩によると、それは「撮影中はサイズの小さい靴を履いているような気持ちだったから、脱ぐのは簡単だった」ということらしい。だが彼は「真実を語らなければならない、という責任を感じた」とのことで、これは素晴らしい役者魂であると思う。もうひとり、ここで絶賛すべき俳優は、近くの食料品店の警備員ディスミュークスを演じたジョン・ボイエガであろう。
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現在進行中の「スター・ウォーズ」シリーズや「ザ・サークル」での役柄と同様、ここでの彼は、冷静で思慮深い人物を演じている。黒人でありながら部外者であり警備する側の彼は、暴行を受ける黒人たちと、暴行を行う白人警官たちとの間にあって、事態を冷静に見ることができる立場にある。ここで起こった事件の目撃者としてこの役を設定することで、客観的な立場でこの悲劇を描くことができていて、映画の作劇法としてなかなか優れていると思う。

そう、この種の映画の難しいところは、現実を描くことと、そこにメッセージを込めることとを、どのように両立させるかということであろう。NHK のテレビ番組と違って、フィクションとしての映画を世に問うには、現実はどうであれ、映画としての表現力があるか否かという点も極めて重要である。キャスリン・ビグローの作品が人々に訴えかけるのは、まさにその点、映画とての表現力が優れているからであって、それなくしては、いかに社会性のあるテーマを扱っても意味はあるまい。迫真の演技を生々しく切り取るカメラワークや編集、あるいは音楽や効果音などのそれぞれの要素が、彼女の強いリーダーシップのもとで統合されていることこそ、まず第一にこの映画の価値だと思うのである。けだし、現代の名映画監督のひとりである。
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人種差別が間違っているとは、何も説明するまでもないこと。それゆえ、この映画の中で白人警官たちの取る行動は、多くの人たちの怒りを買う。だが、現実社会が難しいのは、様々な要素が絡み合っていることである。つまり、このモーテルでの事件が、全く何の前触れもなく起こったことなら話はもっと単純だが、実際には、3日前からの暴動において、黒人の暴徒たちに白人警官が殺されているという事実の中、オモチャであるとは判別できない発砲音が夜間に聞こえれば、警官たちが恐怖のあまり過剰防衛に走るという点は、人間心理としては理解できる気がするのである。もちろん、過剰防衛が正当化される理由はないものの、人間とは弱いものであって、もし自分が何かと敵対し、命を危険にさらしている状況で、恐怖を抱きながらも、自分には武器と権力があるとすると、修羅場の中でどこまで立派な行為ができるものか、観客ひとりひとりが自分に問いかける必要がある。ここで 3人の黒人たちを血祭にあげる白人警官たちが、違った時代の違った場における私自身であれば、果たして銃をしまって、笑顔をもって相手に握手を求めるだろうか。私はそれを考えたとき、人間が抱きうる憎しみの深さに、ぞっとする思いがした。まさに、上に掲げた元警官の「憎しみをもう一度呼び覚ますのはやめよう」という言葉は、だから、この上なく重いものとして響くのである。米国において、そして世界において、人間の本質の負の部分がなくなることは、もしかしたら、ないのではないか。冒頭には、米国についてのリアリティについて述べたが、実は憎しみの存在は人間の弱さの表れであり、別に米国だけではなく、世界のどこにでもあり、人間の本質にかかわる問題なのであろう。そして、映画に限らず様々な文化分野において、そのような人間の本質に少しでも気づくことは、大いに意義のあることである。この「デトロイト」が私たちに訴えてくるのは、そのようなことなのではないだろうか。

by yokohama7474 | 2018-03-17 11:38 | 映画 | Comments(0)

羊の木 (吉田大八監督)

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最近は見逃したくない映画が多くて、結構がんばって見に行ってはいるのだが、なかなか記事をアップする時間がない。この映画を含め、これから記事を書くべきものは現時点で 7本。ちょっと駆け足になると思うが、順々に書いて行くようにしたいと思っております (その一方、これから容赦ないコンサート通いが控えていることも事実なのであるが・・・)。さてこの映画、予告編を見たときから気になっていた。福井県の港町に、何やら怪しげな人たち 6人が移住してくる。彼らの共通点は・・・すべて殺人犯ということなのである。逃げ場のないこの小さな街で、彼らは一体いかなる生活を送ることになるのか。ちょっと極端な設定であるが、なかなか骨のある映画と見た。そして、実際に鑑賞してみて、決して明るく楽しく誰にでもお薦めしたい内容ではないものの、人間という存在の恐ろしさを改めて実感したいという方には、つまり文化的なものに関心ある方には、見て損はないと申し上げておこう。一方、主役の錦戸亮をおめあてにやってくる人には、この映画はちょっと難易度が高いのではなかろうか。
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テレビ、特にヴァラエティ番組を一切見ない私は、彼が何者であるかについての明確なイメージは、正直なところ、全くないのである。なにか、関西のジャニーズ系であるような、そんなことは知らないではないが (笑)、映画の世界においては、そんなことは全く関係ない。なので、ここでの彼の演技を虚心坦懐に見た私であったが、彼が繰り返す「いい町ですよ。人もいいし、魚もうまいです」のセリフは悪くないと思ったし、その基本的に受動的な行動に一種の日本的な慎ましやかさを見たことは事実。だが、これからの日本の若者は、もっと積極的であれという思いも沸々と沸いてきたのも、また一方の事実なのである。そんな中、この映画の実質的な主役はなんと言ってもこの人であろう。
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性格俳優として既に押しも押されぬ地位を確立している、松田龍平である。実際ここでの彼は、映画の不思議なテイストにぴったりの役柄であり、また演技であると思う。弱冠 16歳で大島渚の「御法度」でデビューして 19年、まだまだこれからどんなすごい境地に達するのか分からないくらいの大物であると私は思う。詳細をここに書けないのは残念であるが、この映画における彼の演技には、なにかただならぬリアリティを感じるのである。そして彼を含む 6人の殺人犯は、この写真の左上の女性 (演じるのは木村文乃) 以外の人たち。
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もちろんいずれもただならぬ雰囲気を醸し出していて、田中泯や水澤紳吾、また北村一輝も、それぞれの個性が炸裂しているし、「シン・ゴジラ」以降その演技に核が出て来た (?) かと思われる市川実日子も面白い。だが私はここであえて申し上げたい。6人の殺人犯役の中で、思わぬ掘り出し物はこの人であったと。
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そう、優香である。なぜに日本の芸能界は、このように素晴らしい才能を持つ女優を、今までもっと大胆に起用しなかったのであろうか。今からでも遅くはない。彼女が本格的な映画女優として活躍することを、心から祈りたい。

さて、このような映画なのであるが、もし課題を挙げるとすると、日本古来の信仰の謎めいた雰囲気は、さらに強調してもよかったのではないか、ということ。ここでは地元の神様、「のろろ様」がストーリーの中で重要な位置づけを持っているが、正直、その設定は現代人を震え上がらせるには至らず、「なるほど、そういう設定ね」と冷静に整理できてしまうように思う。その性格には、例えば昔の「大魔神」に通じるものもあるのだが、あのような素朴な時代に還れない現代の我々としては、例えばこのような人間が演じる「のろろ様」はむしろ、神の威光を日常レヴェルに下げてしまったような気がしてならない。
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その一方で、「羊の木」というタイトルの根拠となっている図像は、何やら謎めいていて面白い。
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うーん、確かに木の実のように羊が生っている図像である。本編でも引用されているこの図像にまつわる言葉 (フィクションか否か分からないが、「東タタール旅行記」という作品にあるという) は以下のようなもの。

QUOTE
その種子やがて芽吹き タタールの子羊となる
羊にして植物
その血 蜜のように甘く
その肉 魚のように柔らかく
狼のみそれを貪る
UNQUOTE

このイメージはなかなかに不気味なのであるが、では、これと「のろろ様」の関係はどうなっているのだろうか。そのあたり、せっかくのよい材料を使いながら、人間の本当の意味での残酷性や、その裏腹としての愛情の深さにもうひとつ肉薄できなかった感を抱き、ちょっと残念なのである。邦画の表現には、人間の姿を赤裸々に描くことへの躊躇があるのではないだろうか。例えば韓国の映画と比べても、そのような思いを抱かざるを得ない。だが私は、それでもこの映画の持つ独自性は支持したいと思う。ここにあるのは宮崎駿の描く日本古来の姿ではなく、また、小津や黒澤といった古きよき日本映画の表現でもない。だが、多くの観客にとっては、一度見たら忘れない要素があるように思うのである。そしてこの作品は、昨今の邦画に多い、原作がマンガというパターンであることは、一種の驚きだ。
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このマンガ、原作が山上たつひこ、作画がいがらしみきおの、2014年に完結した作品。へぇー、そうだったのか。前者は私の世代では子供の頃、超下品な内容で一世を風靡した「がきデカ」の作者だし、後者もまた、基本的にはギャグの人ではないか。この 2人がタッグを組んで、このようにシリアスな作品を生み出したとは、実に意外なこと。だが、上の宣伝を見ると、その絵のタッチはまさにギャグマンガ調で、シリアスさは全く感じられない。なのでこの映画は、原作マンガを超えて観客に何かシリアスなメッセージを届けようとしたものであろうか。あるいはもともと原作マンガ自体に、絵のトーンを超えたシリアスさがあるのだろうか。ところで私の手元には、1988年に出版された山上たつひこの小説「ブロイラーは赤いほっぺ」があって、そこには既にギャグを超えた、文学的と呼べるメッセージを読み取ることができて、面白い。調べてみると山上は今年 70歳。1974年に連載が開始したこの「がきデカ」からは、既に 40年以上の歳月が流れている。あなどるべからず、日本のマンガ文化。かと言っていまさら「死刑!!」などという古いギャグを連発するような恥ずかしい大人ではありたくなく、ほかにもこのマンガの中のギャグは沢山覚えているものの、その披露は差し控えておきましょう (笑)。
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このような、妙に気になる映画を監督した人は、吉田大八。調べてみると、「桐島、部活やめるってよ」や「紙の月」の監督である。この 2本のいずれも、私は以前の出張の飛行機の中で見たのだが、双方ともに大変いい映画だと思った。特に前者は、原作小説が気になっていた中、原作を読むことなく映画を見ることとなったのだが、ラストにおいては、なるほどそう来たかという、私好みの異形の青春映画 (?) でしたよ。なんでもこの監督は昨年、三島由紀夫の異色作「美しい星」を映画化したらしい。くそー、それは見逃した!!
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ここで繰り返しだが、間違っても錦戸亮のファンとか、爽やかな青春映画がお好きな方にはお薦めしないものの、人間という不可思議な存在について考えたい方には、是非お薦めしたい。そして、私の周りには松田龍平のような人がいなくて、本当によかったと、胸をなでおろすのである。クールな演技が怖いのですよ、全く。

by yokohama7474 | 2018-03-13 00:18 | 映画 | Comments(0)

ぼくの名前はズッキーニ (クロード・バラス監督 / 原題 : Ma vie de courgette)

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上のポスターで分かる通り、これは人形アニメ。先日採り上げた「KUBO / クボ 二本の弦の秘密」と同じく、ストップモーション、つまりは一コマ一コマを撮影して動きを作るという素朴な手法で作られたものだ。「KUBO」はそれでも、かなりの手間暇をかけて高水準の凝った映像を作り出していたが、こちらは本当に手作り感満載の、素朴な人形アニメそのものだ。予告編を見て、言語がフランス語であることに注意を惹かれた。これはハリウッド製ではなく、フランスとスイスの合作映画なのである。上映時間 66分と短いものの、海外での評価は非常に高いらしく、予告編では詩人谷川俊太郎が絶賛していたので、どんなものかと思って劇場に足を運んでみた。

主人公はイカールという男の子だが、ズッキーニというあだ名で呼ばれることを自らが好んでいる。題名にある "courgette" という言葉で画像検索すると、例えばこんなものが出て来る。
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そう、まさにズッキーニである。この男の子がなぜにズッキーニと呼ばれるのかは明らかにされないが、母親が彼をそのように呼んでいたという設定。その母親が不慮の事故で亡くなってしまい、このズッキーニ君は施設に預けられることになる。そしてその施設でほかの子供たちとの共同生活を送り、様々な人間関係を経験するというお話。これが主人公のズッキーニ君である。髪も青なら、目の周りも青い、不健康な少年である。
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この施設にはほかにも 6人の子供たちが暮らしていて、それぞれにつらい過去を持っている。そう、子供とは大いなる未来を持つ存在。それなのに、未だそれほど長くない過去という時間によって既に生活を縛られてしまっている不憫な子供たちが、ここでの登場人物なのだ。つまり、相当暗い内容の映画ということになる。だが、不思議なことに、見ていて気分が暗くなるということにはならない。この点がまず、多くの人の共感を得ることができる理由なのであろう。子供たちとはこんな存在だということを、説教くさく描くのではなく、ごく自然に描いていて、随所になるほどと思わせるシーンが出てくる。ある場合には子供とは非常に残酷な存在であり、他者を傷つけることに大変無頓着だ。また、外部とのコミュニケーションを全く閉ざしてしまうと、なかなか開くことがない。ここに登場する 7人の子供たちは皆、そのような他人との関わりについての問題を抱えているのだが、共同生活を営むうち、喧嘩や、ある種のいじめや、あるいは本音の会話や、深夜に秘密の書類を盗み見る冒険などを通じて、徐々にお互いに心を開いて行く。それぞれのエピソードは淡々としていて、そのさりげなさがよい。今思い返してみると、なんとも切ないシーンがいくつも含まれていたのである。
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だが、この淡々とした描き方に、少し物足りなさを覚える向きもあるのではないだろうか。それは、ひとつにはフランス語のセリフが、日本人の会話の感覚と少し違っているということも、ひょっとすると関係しているかもしれない。その点、私が見たフランス語に日本語字幕がついた版ではなく吹き替え版で見ると、少し印象が違うのだろうか。但し私の場合、選択肢があるなら必ず原語主義を採っていて、日本語吹き替えの外国映画ほど、極力避けているものはないのであるが。そして私はこの映画を、決して「かわいらしい」映画として見なくてもよいように思う。子供が主人公ではあるものの、登場人物たちは「人間」であり、一人前に辛いことがあれば悲しいし、楽しいことがあれば笑うのだ。こんな感じで。
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ここで私はふと思い出すのだが、確か、何か美学についての本を読んだときか、あるいは学生時代に文学部の講義を聴いたときに学んだのかもしれない事柄で、ヨーロッパでは伝統的に「子供は小さな大人である」という考えがあるという。つまり、我々が子供の言動を「子供らしい」と感じるのは、近代の感覚であるということだったと思う。正直なところ、年長者を敬うことが基本となる儒教的な考えを生活のあちこちに残している東洋では、「子供は小さな大人である」という発想には、なかなかなじめず、子供とは未熟な存在であり、また、大人を敬うべき存在であると言えるだろう。その点、ヨーロッパでも特にフランスは、多分今でも、子供は「小さな大人」なのではないだろうか。そのひとつの現れが、この映画の中で子供たちが話す下ネタである。これはかなり強烈で、とても日本の純朴な子供たちは、こんなこと言わないだろう!! と思ってしまうくらいなのである (笑)。だが、以前あるフランス人が私に真顔で語ったことには、昨今では職場における下ネタは、社会的に許容されないセクハラとして厳しく排除される傾向にあるが、フランスにおいては、女性との会話の中にそのような話題を入れないと、返って女性に失礼だという認識があるという。慌てて再度明確にするが、これは私が言っているのではなく、ちゃんとしたフランスの大会社でそれなりの地位を占めている、外見も性格も至極真面目な人が、実際に私に語ったことなのである。私はここに、ヨーロッパという地域の文明の成熟度を見る。だからこの映画において炸裂 (ええっと、そうではなくて「爆発」だったかな 笑) する子供たちの下ネタに、極めて文明度の高いヨーロッパの雰囲気を感じることこそ、鑑賞者の文化度を占めるバロメーターなのではないか。あ、そう言えば、主人公ズッキーニ君が恋心を抱くカミーユという女の子は、あるシーンでは、カフカという作者名と、虫の絵を描いた表紙を持つ本を読んでいた。これは言うまでもなく「変身」である。こんなものを読む子供は、なんとませていることか (ええっと、私も「変身」は小学生のときに読んでいたかもしれないが)。だが、とは言っても、皆でスキーに行ってはしゃぐところなどは、やはり子供らしくて微笑ましいのである。このあたりのバランスが大変に巧いと思う。
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この映画の原作は、自身アニメーション作家でもあるジル・パリスという人の短編小説らしい。日本では最初に「奇跡の子」という邦題で翻訳が出版されたが、今ではこの映画のタイトルに合わせたのだろう、「ぼくの名前はズッキーニ」という題になっている。
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脚本・監督を務めたクロード・バラスは 1973年生まれのスイス人で、これまで短編アニメをいくつか撮っているが、長編はこれがデビュー作であるとのこと。
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CG がどんどん進化し、以前は思いもつかなかったような高解像度で情報量の多い映像が溢れるこの時代であるからこそ、我々はこのような素朴な人形アニメに、何か新鮮なものを感じるのではないだろうか。私自身は、この映画を歴史的な名作とまでは思わないものの、遥か昔に忘れてしまった何かを、「小さな大人」たちに思い出させてもらうという意味では、充分楽しんだのであった。あ、そうそう、もうひとつ苦言を呈するとすると、この人形たち、顔が異様に大きくて (笑)、ベッドに寝ているシーンなどでは、どうにも映像にリアリティがない点が気になって仕方がなかった。ただ正面を向いて立っているとか、何かを喋っているというシーンならともかく、人間の俳優と同じように様々な姿勢で演技するとなると、ちょっと難易度が上がるなぁと思ったことも事実。そのあたりを気にせず見ることのできる人にとっては、まさに珠玉の作品ということになるものと思います。

by yokohama7474 | 2018-03-02 01:03 | 映画 | Comments(2)


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