川沿いのラプソディ


川沿いの住まいから、音楽、美術、映画その他文化一般を語りつくします。
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カテゴリ:映画( 228 )

ユダヤ人を救った動物園 アントニーナが愛した命 (ニキ・カーロ監督 / 原題 : The Zookeeper´s Wife)

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相変わらずナチスを題材にした映画が、数多く制作されている。この映画と、それから、この次に採り上げる映画も、いずれもナチスに関連したもの。これは私のイメージだが、世界が未だ東西に分かれた政治体制によって秩序が保たれていた頃には、ナチスは絶対悪として、物語の中で善玉によって倒されるべき対象であったような気がする。その典型例はインディー・ジョーンズ・シリーズではないだろうか。だが昨今のナチスを題材とした映画には実話に基づくものが多く、そこでは大抵歴史的なドキュメンタリータッチによって、その時代の人々の苦しみや希望が描かれることになる。この映画の場合は、もうその邦題で内容がバッチリ分かってしまうのだが、戦時中のポーランドでユダヤ人たちを救った動物園が主題である。ただ、原題を直訳すると「動物園経営者の妻」ということになり、冠詞が "a" ではなく "the" であることから、特定の人のことを指していることが分かる。私はこのブログでよく邦題と原題を比較しているが、今回も、このような説明調のタイトルにしなければ気がすまなかった配給会社の意向に、やはり疑問を抱くものである。日本語の語感に限界があるとも言えるかもしれないが、説明調にするほどに観客の想像力に訴える要素が減ってしまうように思うのである。

ともあれ、この映画の見どころはまず、主演女優にある。ジェシカ・チャステインだ。
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つい先だっても彼女が主演した「女神の見えざる手」を絶賛した私であるが、その中で、「ゼロ・ダーク・サーティ」以来彼女は、自立心に富んだ女性を演じていると書いたのだが、ここでの彼女の役柄はちょっと違っていて、動物園経営者の妻として、旦那に従って行動する受け身の女性である。そして、「女神の見えざる手」では資本主義の究極の姿である現代米国の首都での、生き馬の目を抜く激しい生活を送る女性であり、その言葉はまるでマシンガンのようであったが、この映画では一転して 1930年代から 40年代のポーランドで動物たちを相手に暮らしている主婦。喋る英語も東欧訛りであり、戦争という抗えない過酷な運命に翻弄され、動揺したり泣いたり弱気になったりするのである。だが、この女性を「受け身」と書いてしまった私は恐らく間違っていて、「女神の見えざる手」のバリバリのロビイストにように自らの使命を力強く遂行するのではなくとも、容赦なく回る歴史の歯車の中で、ただ運命に翻弄されるのではなく、自らの信念を持って勇気ある行動を取る、そんな女性なのである。従ってここでは、このジェシカ・チャステインの演技がまず何よりも映画の見どころであると言ってしまおう。だがそれにしても、このようなシーンは、やはり動物が好きでないと、なかなか引き受けることはできないものではないだろうか (笑)。
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動物ものには時に偽善的な雰囲気がつきまとうことがある。つまり、人間世界は欲にまみれて腐っているが、動物たちはピュアな命を持っていて、汚れのない存在であるというメッセージが必要以上に強調されてしまうと、うさん臭さも出てきてしまうのだ。その点、この映画は巧みにできていて、前半では動物たちと平和に暮らす動物園のオーナー夫婦 (夫は動物学者である) の様子が描かれるが、戦争、つまりこの場合は、舞台となっているポーランドにドイツが侵攻してきたことを言うが、それが起こってしまったあとは、動物園はほぼ空になってしまうので、動物の汚れのなさに焦点が当てられず、人間の愚かさだけが描かれる。その愚かさがあるからこそ、そこで称揚されるべきは、尊厳をもって運命と闘う人たちの勇ましさが強調されるのである。従って、ここで描かれているのは徹頭徹尾、「人間」であると言ってよいであろう。

役者では、ナチスの高官でやはり動物学者である役柄を演じるダニエル・ブリュールが印象に残る。代表作は、ニキ・ラウダを演じた「ラッシュ プライドと友情」であろうが、このブログでも、「ヒトラーへの 285枚の葉書」におけるやはりナチの高官の演技を称賛した。ここで彼が演じるヘックは、まずは戦争が始まる前に動物学者としてポーランドに駐在しているようであり、戦争が始まってからも、動物たちを救おうとしたり、珍しい動物の繁殖に取り組んだり、好意的な態度を多かれ少なかれ保つ。だがそのうち主人公アントニーナに魅かれていってしまうことから、話はスリルを帯びることになり、そのあたりの機微を含んだ演技が見事。
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この物語が実話に基づくことは上に述べたが、ではいかにこの動物園が多くの (300人ほどと言われる) ユダヤ人を救えたかというと、ユダヤ人たちが閉じ込められたゲットーに豚の飼料として活用するゴミを取りに行った際に、トラックに隠してユダヤ人たち数人を救い出し、一時的に動物園の敷地内に匿い、そして様々な手段で逃がしたというもの。この映画では、実はナチス側にも人間的な人がいたり、逃がされるユダヤ人たちにもあまり自己を表現しない人がいたり、実に生々しい人間模様が描かれていて、きれいごとに留まらない時代の狂気と、その中で信じたい人間性の双方をよく表現していると思う。ナチを絶対悪として非難するのは簡単だが、では自分がそのときに生きていれば、どこまで勇気ある行動を取れただろうか・・・。誰しもがそのようなことを感じるに違いない。

このなかなかに優れた映画を監督したのは、1966年ニュージーランド生まれのニキ・カーロという女流監督。
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既に数本の監督作があるが、日本未公開作もあり、あまりなじみのない名前であるが、きっと本作を機会に日本でも注目されるのではないか。ネットで検索してみると、ディズニーの "McFarland, USA" という作品がよくヒットする。これも日本未公開であるが、ケヴィン・コスナー主演で、クロスカントリーを題材にした作品であるらしい。さらに、デビュー作の "Memory & Desire" は、日本人夫婦を主人公にしているらしい。どんな映画なのだろうか。

この映画の主人公である、ヤンとアントニーナの夫妻は、イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人」という称号を与えられたとのこと。そして、彼らが命を賭けてユダヤ人たちを匿ったワルシャワ動物園は、戦後再開し、現在でも営業しているという。いや、動物園だけでなく、この映画に登場するアントニーナが弾いたピアノや、ユダヤ人たちが隠れて暮らした地下室などは保存され、博物館として公開されているという。
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映画を評価するときに、そのもととなった事実の人道的側面だけに囚われる必要は、必ずしもないと思うが、この映画の場合には、極限状態における人間性の破壊や、それへの抵抗という点がよく描けているがゆえに、やはり現地を訪れてみたいという気になるというものだ。私はワルシャワは 3度ほど出張で訪れたことがあり、ナチスによって破壊されたが完全に復元した世界遺産の旧市街や、ショパンの心臓が眠る教会を見たが、まさか動物園にそんなものがあるとは知らなかった。今度は観光で訪れてみたいものである。

by yokohama7474 | 2018-01-21 18:25 | 映画 | Comments(0)

フラットライナーズ (ニールス・アルデン・オプレヴ監督 / 原題 : Flatliners)

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前回の記事に続いて、期待外れの映画について語らなくてはならない点、誠に残念である。しかも前回に引き続き今回も、超常現象をテーマにしている点に共通点がある。ただ前回の「プラネタリウム」にはまだ、主演のナタリー・ポートマンの熱演等の見るべきものがあった。それにひきかえこの映画、ただただ残念な出来であると言うしかないのである。これはちょっとお薦めしません。予告編で明らかになったのは、医学生たちが死後の世界に興味を持ち、自分たちを実験台にして、自ら臨死状態となり、死後の世界を体験してから蘇生するという実験を行う。だが、その危険な実験の代償はあまりにも大きかった、というストーリー。そして、上のチラシにある通り、その臨死状態が 7分を超えることで、パンドラの箱が開き、何か恐ろしいことが起こるという設定のようであった。・・・もうネタバレでも何でもいいから書いてしまうと、本編の中では 7分を超えたらどうなるかという展開は出て来ず、ただ彼ら医学生 (1人を除く) の臨死実験が順番に描かれるのみである。なのでこの 7分云々は、多分日本での宣伝のために独自に作られたものであろう。ここで描かれているのは、要するにそのような不謹慎な真似をした医学生たちが、自らの深層心理に向き合うことで、恐ろしい体験をするという設定であり、それ以上でもそれ以下でもない。そもそも題名の「フラットライナーズ」の意味は何であろうか。私も本編を見てから気づいたのだが、これは Flat な Line、つまりは「平坦な線」、これである。
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私としても肉親を亡くした自らの過去の悲しい体験から、このような画像は見たいと思っておらず、本当に嫌な気分になるのであるが、人間につけた計器の反応がフラットになるとは、既に生命反応がないということで、この映画ではそのことを Flatline と呼んでいる。ここで 5人の医学生たちが行う臨床実験のことは、"Flatlining" という言葉で表現されている。誠に不謹慎だと思うのだが、まあ映画だからその設定は仕方ないとして、では、その先いかなる事態が待ち受けているのか。何か人間の感性に強く訴えかけるものがあるだろうか。いざ、臨死実験!!
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さて、人によってはこの後の展開を、もしかしたら「これはすごい」と思うこともあるのかもしれないが、申し訳ないが私は、ずっと白けたまま画面を見ていた。言ってみれば、いわゆる普通のホラー映画として、不気味なシーンがあれこれ出て来るのだが、まあそれだけだ。彼らが出会う事態には、彼ら自身の深層心理が大きく関係しているのだが、それはいずれも特殊な経験によるもの。鑑賞者たちが「あぁ、これは自分の身にも起こるかも」という切実な恐怖を感じることは金輪際ない。じゃあ、なんのためにそんな設定にしているのか? そう思うと、見ているうちにだんだんいらついてくる。ご存じの方にはヒントになるだろうが、邦画でも昔、「催眠」という映画があって、そこには「緑の猿」という謎の存在がいるという設定であったが、この「フラットライナーズ」もそれと同様の内容だ。だからなんなんだ (笑)。別に大して怖くもないし、人生の価値に対して何か新たな視点から問題提起するものでもない。おっと、悪口を言っていたら蘇生したか。
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私としては、この映画を語るのにこれ以上時間を費やすつもりはないが、ただ、ここに出演している若手俳優たちは、それぞれに今後の活躍が期待される人たちであるようなので、それには少し触れておこう。まず、上で写真を掲載した本作の実質的な主役であるコートニー役は、エレン・ペイジ。これまでの代表作は「X-Men」シリーズで、そのナイーヴな表情は、印象に残るものではある。
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また、レイという役を演じるのは、メキシコ出身のディエゴ・ルナ。メル・ギブソン主演の「ブラッド・ファーザー」でだらしない若者を演じていたのは覚えているが、それ以外にも、「ローグ・ワン / スターウォーズ・ストーリー」にも出演していたようだ。この映画では結構オイシイ役を演じている。
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その美形で注意を引くのは、マーロー役のニーナ・ドブレフ。ルーマニア出身らしい。
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そもそもこの映画、1990年制作の同名の映画を、最新の医学に基づいてリメイクしたものらしい。
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私はこの映画を知らなかったが、マイケル・ダグラス製作で、出演はジュリア・ロバーツ、ケヴィン・ベーコン、キーファー・サザーランドというなかなかに豪華なラインナップ。実は今回のリメイク版も同じマイケル・ダグラスの製作になり、前作で医学生のひとりを演じていたキーファー・サザーランドは、本作では医大の教授役で出演している。
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今回の監督はデンマーク出身のニールス・アルデン・オプレヴ。馴染みのない名前だが、「ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女」で名を上げた人らしい。最近は結構北欧からハリウッドに進出する監督が多いようであるが、また次回に期待しましょう。

このように、私としてはちょっと残念な出来という感想を持った映画であったが、死後の世界に対する根源的な興味は、確かに誰にでもあるものと思う。脳の研究から超常現象が解明される日がいずれ来るかもしれないが、でもやはり、分からないからこそ限りない興味の対象になるとも言える。そういった知見を持った映画であれば、喜んで見たいと思うのである。

by yokohama7474 | 2018-01-18 00:57 | 映画 | Comments(0)

プラネタリウム (レベッカ・ズロトヴスキ監督 / 原題 : Planetarium)

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この映画は昨年上映されていたものであるが、小劇場での公開とはいえ、あまり評判がよくなかったのか、気がつくと上映が終了してしまっていた。だが、これはやはり映画好きなら見逃してはいけないものだろう。なにせ主演がナタリー・ポートマン。共演が、これは私も知らない女優だったが、名前から明らかなジョニー・デップの娘、リリー=ローズ・デップ。2016年にこの作品がカンヌ映画祭でプレミア上映されたときの女優たちのツー・ショットと、デップ親子の写真がこちら。ちなみにリリー=ローズの母は、昔アイドル歌手であったフランス人のヴァネッサ・パラディなのである。
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もちろん私がこの映画を見たいと思ったのは、彼女らだけが理由ではない。もしこの 2人が感動のラヴストーリーで共演していたら、私はきっとパスしたはず。この映画はそうではなく、1930年代のパリを舞台に、死者の魂を呼び出す降霊術を行う姉妹が主人公であって、そこにはオカルトの気配が漂う。このように超自然現象が題材となると、俄然私の興味は動き出すのである。だがちょっと待て。冒頭に掲げたチラシは一体なんだ。この姉妹役の女優たちが、泡だらけのバスタブで何やらタバコを吸っている場面。これはどうみてもオカルトの要素はない。私は思うのであるが、この映画があまりヒットしなかったとすると、訴える観客層を絞り切れなかったからではないか。感動ストーリー派か、心霊オカルト派か。どちらかに、いやこの場合は明確に、後者に絞った方がよかったのではないかと思うのである。

さて、そのように上映終了してしまった映画を、私はどのようにして見ることができたのか。それはこうである。あるとき都内のアート系小劇場で何かの映画を見たときに、既に上映終了してしまったはずのこの映画のチラシを発見。取り上げてチェックしたところ、なぜか 1/8 (月・祝) の上映時刻だけが記載されている。上映している劇場の名前は、ユジク阿佐ヶ谷。初めて聞く名前であり、ユジクの意味が分からない。阿佐ヶ谷は我が家から出掛けるにはかなり不便なところで、以前勅使川原三郎のダンスを見に行くために多大な時間を要して、閉口したことがある。そうそう、阿佐ヶ谷には確かラピュタの名を冠した映画館もあるはず。何か関係があるのだろうか。と思って今調べてみたら、なんとこの「ユジク」とは、ユーリ・ノルシュテインのアニメ「霧の中のハリネズミ」の主人公ヨージックから取ったとのこと。
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あー、なんたること!! そうだったのか。このブログで書いたことは未だないかもしれないが、ノルシュテインの代表作「話の話」は、私にとって生涯ベスト 10に入るほど大好きな映画。なのでこの「霧の中のハリネズミ」も当然見たことがあるが、不覚にも主人公の名前までは覚えていなかった。なんでもこの劇場の支配人はノルシュテインその人と交流があるらしい。うーん、道理で言ってみるとなかなかに落ち着いた、いい小劇場であるわけだ。壁には黒板があって、やはり今この劇場で上映中のスウェーデン映画「サーミの血」を題材にしたチョーク画が描かれているが、これは水沢そらというアーティストの作品。壁にはまた彼の小品がいくつかかかっているが、これは展示即売なのである。なかなか面白いとは思うが、ただこの作風は、ヘンリー・ダーガーを知っている人にはその模倣ぶりが一目瞭然だ。ともあれ、この 48席の劇場にかかっている作品たちは、なかなか味わい深く、映画ファンとしてはかなり刺激を受ける場所である。因みにこの「プラネタリウム」も「サーミの血」も、今週金曜日、1/19 まで上映しているので、まだ間に合いますよ。

とこのように、新たな劇場との出会いによって、また東京における文化との接点が増えたことは嬉しいのだが、だが肝心のこの映画、残念ながらさっぱり楽しむことができなかった。ひとつ確実なことは、ナタリー・ポートマンなしにこの映画はできなかっただろうということ。降霊術を実際に行う妹をうまく押し立てながら、フランスで映画の道に深入りして行く姉を、ほぼ出ずっぱりで演じていて、セリフのかなりの部分をフランス語でこなす点を含め、その演技自体は称賛に値する。因みに彼女はもともとフランス語ができたわけではなく、パリに移住して、この映画のために勉強したとのことだ。とはいえ、別にこの映画のためにパリに移住したのではなく、旦那 (「ブラック・スワン」の振付師) がフランス人であるからであるようだ。まぁいずれにせよ、これはある意味でナタリー・ポートマンの映画と言える。実年齢では親子に近いほども年の離れたリリー=ローズ・デップ (ナタリー 36歳、リリー=ローズ 18歳) と、姉妹と言っても違和感ありませんな。
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だがこの映画、どういうわけか大変に流れが悪い。ストーリーには先を読ませない意外性がある割には、なるほどと思う瞬間が極めて少なく、逆に、「なんなんだよこのオッサンは。何がしたくて姉妹を厚遇するんだよ」「姉妹の間の関係は本当はどうなんだよ」「ほかの登場人物たちが、男も女も印象薄すぎ」「うぇー、この展開には必然性ないよ」「この設定はちょっと陳腐ではないかい」というハテナが、見ているうちに次から次へと沸いてくる。そして私の根本的な疑問は、なぜこの映画は 1930年代を舞台にして、しかも降霊術を題材にする必要があったのか、ということである。本当に理解に苦しむ。まあこの際、「リリー=ローズ・デップの右の眉が切れているのはなぜなんだろう」とか、「うわー、この表情、お父さんにそっくり!!」という感想は、それほど重要ではないと言ってしまおう。でも、見ているときにそういったことが気になるという時点で、既にして映画としての流れに課題があるということも言えるだろう。
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それから、音楽にもちょっと気になる箇所が。ナタリー・ポートマン演じるローラが思いがけず映画の道に入って苦労し、そして何か達成したときに (それが何だったのか、今思い出せないのだが。笑)、明らかにストラヴィンスキーの「火の鳥」の中の「子守歌」の模倣が鳴り響く。この曲は、昨年ゲルギエフとマリインスキー歌劇場管の演奏会のアンコールでも演奏され、それから、このブログの記事では触れるのを忘れたが、アレハンドロ・ホドロフスキーの「エンドレス・ポエトリー」でも数ヶ所で使われていた。もちろん名曲であるからして、映画で使われるのは理解できるが、この映画では、なぜにその響きを模倣して、しかも原曲のクオリティに及ばない曲をつけるのか。映画において音楽が本来持ちうる素晴らしい力を思うと、この映画における音楽のレヴェルは、大変残念だとしか言いようがない。因みに題名の「プラネタリウム」は、恐らくはラストシーンから来ていて、人生は所詮、室内で星を眺めるようなこと、とでもいう意味なのかと思う。だが、この題名と映画全体のトーンには、少し齟齬があるのではないだろうか。

監督はフランス人女性のレベッカ・ズロトヴスキ。私は初めて聞く名前だが、レア・セドゥ (例の「007 スペクター」でのボンドガールである) を主演に起用した「美しき棘」というデビュー作 (2010年) で注目を集めたという。
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もちろん、この 1作だけで監督の力量を全面否定することは避けたいと思うし、ましてや、あのユーリ・ノルシュテインに因む名前の劇場で鑑賞した映画であるから、ネガティヴな感想はここらで一旦胸にしまい込んで、この監督が次にまたよい作品を撮ることと、ユジク阿佐ヶ谷が今後も意欲的な上映を続けて行ってくれることを、期待したいと思います。

by yokohama7474 | 2018-01-16 23:34 | 映画 | Comments(0)

KUBO / クボ 二本の弦の秘密 (トラヴィス・ナイト監督 / 原題 : KUBO and the Two Strings)

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このブログではこれまでアニメ映画を採り上げたことがあっただろうか。どうも今すぐには思い出せない。なので、きっとこの映画が初めてか、あるいはほんの数本目ということになろう。私はアニメ映画だからといって何か思い入れがあったり、あるいは逆に軽んじたりすることは全くなく、ただ面白そうなら見たいという、それだけの動機で見る映画を選ぶ人間だ。この映画の場合、予告編を見たときから CG 臭があまりなく、何やら手作り感満載という印象であったし、何より、そう、ただ面白そうだったので、見に行くことにしたのである。そして知ったことには、これはパペットと小型セットを使ったいわゆるストップモーション・アニメ、つまり、一コマずつ撮影してその連続によって動きを作るという昔ながらの手法による映画なのである。エンドタイトルで少しメイキングが見られるが、職人たちの究極の手作業によって作られたことがよく分かる。プログラムの解説によると、制作には 94週 (つまりほぼ 2年間だ) を要しており、1週間で制作されるシーンの長さは平均 3.31秒 (トホホ)、総作業時間は 115万時間近く、主人公クボの表情の数 4,800万通り、等々の途方もない数字が並んでいる。これは、ストップモーション・アニメ史上最大の人形 (4.9m) と、最小の折り紙による人形。
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上記に見えるイメージと、クボという主人公の名前からも明らかな通り、この物語は古い時代の日本を舞台にしている。だがこれは米国映画であり、セリフもすべて英語 (もちろん日本公開に当たっては日本語吹き替え版もあったが、私はポリシーとして原語主義なので、日本語版を見ることはない)。なので、日本人から見れば、海外で見かけるようなナンチャッテ日本料理店のようなキッチュな雰囲気がないでもないが、細部に至るまで非常に凝った作りで日本を再現していることは、すぐ分かる。なんでも監督 (この映画を制作したライカという会社の社長であるトラヴィス・ナイト) は幼い頃から何度も日本を訪れており、日本の芸術・文化を深く愛している人であるらしい。特にここでは、黒澤明と宮崎駿へのオマージュが捧げられており、制作にあたっては日本人アーティストに何度もアドバイスを求めたという。監督のトラヴィス・ライトは 1973年生まれで、これが長編アニメ監督デビュー作となる。
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さてこの映画、すべての人が必見とまで言うつもりはないが、その丁寧な作りによる映像を追いながら、大変に楽しめる出来になっているので、ファンタジーが好きな人にはお薦めしたいと思う。ストーリーは簡単で、主人公のクボという少年が、追っ手に追われて三つの武具を探す旅に出るというもの。彼には不思議な力があって、折り紙に三味線の音色で命を吹き込むことができるのだ。
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この折り紙というものは、外国人から見ると東洋的な魔法のように見えるらしい。私が今読んでいる (そのうちこのブログでも採り上げるであろう) 中国系米国人ケン・リュウの短編集「紙の動物園」でも、そのような感覚の作品があるが、この映画のように見事な映像で見せられると、折り紙は本当に魔術であるかのように思われてくるのである。命ないものに命を吹き込むのがストップモーション・アニメであれば、それはまさしく魔法であり、そもそも映画とは、起源においてそのような魔法の一種であるのだという思いを新たにする。この映画に登場するキャラクターは、主人公クボをはじめとして、一応かわいいと思われる面もありながら、どこかでユーモラスであったりグロテスクであったりして、一度見たら忘れないものである。ただ、サルはともかくクワガタは、ちょっと日本風からは離れた造形かなぁ。まあ米国の作品だから仕方ないのだが、ミスター・インクレディブル風である。
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上でメイキング風景を見た巨大ドクロは、本編ではこんな感じで、そのぎこちない動きが、返って迫力を作り出していた。
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もちろんこの巨大ドクロのイメージの源泉は、この浮世絵であろう。歌川国芳の「相馬の古内裏」。私の手元にも、かつて国芳展で購入したこの絵の「紙のジオラマ組立キット」があるが、未だ組み立てていない (笑)。
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それから、水中に巨大な目玉が揺れるこのような不気味なシーンもある。
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これはもちろん、ルドンがヒントだろう。
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私が気に入ったキャラクターは、この敵役である。2人の女性がコンビで出てくるのだが、強い妖術の使い手で、現世の存在なのかあの世から来るのか分からず、その能面のような無表情な、それでいて笑っているような仮面が不気味。
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これに似たイメージを探すと、ヴェネツィアのカーニバルもさることながら、さしづめこれになるだろうか。
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私も子供の頃むさぼるように読みましたよ。エログロに満ちた乱歩文学の本質は、子供にはとても分からないということに後年気づいたものであるが (笑)、でもやはり少年期にポプラ社の少年探偵シリーズを読んでいればこそ、長じてから大正モダニズムの雰囲気にも、すっと入って行けたと思うのである。ともあれ、映画に出てくる映像にどんな既知のイメージを重ねるかは人それぞれであろうから、このようなイメージの連鎖は、この映画の本質とは必ずしも関係がない。だがそれでも、文化の作り手が何かほかの文化から刺激を受けることで、鑑賞者が得ることができるイメージはどんどん豊かになるもの。ここではあえて黒澤も宮崎も関係ないイメージだけを並べてみたが、それでもこうして脈絡なく並べてみることで、何か面白い発想が浮かんできはしないか。ここでのイメージに共通するのは、「恐怖との対峙」ということだろう。そして恐怖とは、他者からの攻撃もあれば、ルドンのモノクロ版画のように、自らの中に潜む感情であることもある。物言わぬパペットたちが、それぞれに恐怖と対峙し、それを克服することで成長して行く姿に、人は感情移入するのである。やはり魔術的ではないか。

それからここでは、何人ものハリウッドの名優たちが声の出演をしている。例えばサルはシャリーズ・セロン、クワガタはマシュー・マコノヒー、月の帝はレイフ・ファインズといった具合だ。彼らの声の演技はさすがだと思う。クボ役のアート・パーキンソンは 2001年アイルランド生まれで、「ゲーム・オブ・スローンズ」というテレビシリーズの子役で有名になったらしい。
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この映画は米国でも結構ヒットし、昨年のアカデミー賞やゴールデングローブ賞にノミネートされたらしいが、彼らから見ると、日本の風景やキャラクターがエキゾチックという点もあるにせよ、CG 流行りの今日、このような手作りのストップモーション・アニメに何やらほっとするという要素もあるのかもしれない。トラヴィス・ナイト率いるスタジオライカ、次回作を楽しみにしましょう。

by yokohama7474 | 2018-01-16 00:27 | 映画 | Comments(0)

希望のかなた (アキ・カウリスマキ監督 / 英題 : The Other Side of Hope)

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フィンランドを代表するだけでなく、現代映画界を代表する映画監督のひとり、アキ・カウリスマキの新作である。ちょっと変化球で知られるこの映画作家がここで題材としたのは、難民問題。言うまでもなく、ヨーロッパを中心として現代社会を揺り動かしている深刻な問題だ。だがこの作品の題名は「希望のかなた」。きっとここには、難民が抱える困難な日常を超えたところにある希望が描かれているに違いない、と思って劇場に足を運んだのである。現在 60歳のカウリスマキ監督はこんな人。思ったより恰幅がよい。
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映画のストーリーを追うよりも、まず第一に抱いた印象を記そう。それは、ここには明らかに小津安二郎の影響が顕著であるということだ。一言で表現するなら、それは画面に終始漂う静謐さということになろう。それは本当に小津独自の、あえて言ってしまえば極めて前衛的な手法であったのであるが、彼の死後何十年も経って、遠いフィンランドの監督がそのスタイルを踏襲しようとは、小津自身も思いもよらないことではないか。もちろん私は小津を神にように崇める人間であるから、このように現代を代表する映画作家に対して小津が強い影響を及ぼしていることだけでも、大いなる感動を覚えるのである。
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だが、その手法はともかく、ここで語られるストーリーは小津映画とは似ても似つかないものだ。上述の通り難民をテーマとしているのだが、それは非常にストレートで、シリアから石炭を積んだ船がヘルシンキに辿り着いたとき、その石炭の山の中からすすだらけの顔を見せる男、カーリドが主人公。演じているのは実際にシリアに生まれて 15歳でフィンランドに渡ったシェルワン・ハジ。
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ここでの彼の演技をどのように評価しようか。いわゆる一般的な意味での熱演というものとは少し違うような気がする。この難民が生きるために行わざるを得ないあれこれの懸命な行為を、彼はただ淡々とこなしているように見える。ここで彼は、生き別れになった妹を探したり、生きるために無一文から職を求めたり、それはそれは過酷な運命に立ち向かうのだが、時に喧嘩をすることはあっても、決して絶望の涙も流さなければ、情熱に身を任せての絶叫もない。それこそ小津映画の主人公のように、監督が作り出した架空の世界での擬制の生を生きているように見えるのである。
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そしてカウリスマキらしく、乾いた笑いを誘う箇所がいくつもあって、小津映画云々に対してイメージを持てない人でも充分楽しめる作りになっている。中でも我々日本人としては、主人公たちがナンチャッテ日本料理店を開き、そこに日本人ツアー客がやってくるシーンでは、笑いをこらえることは難しいだろう。こんな面々による寿司を提供された客たちは、皆無言で去って行くのである。気合の入ったオリジナルののれんも虚しい (笑)。
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そしてここでもまた、観客の感情移入を誘う登場人物 (?) がいる。レストランでかくまわれているという設定の、このワンちゃんだ。このつぶらな瞳がたまらんですなぁ。
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実はこのワンちゃん、名をヴァルプといい、実際にカウリスマキの愛犬であるそうだ。これはこの作品のセットでの一コマ。
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次の写真のシーン、本当はここでは見せたくないのだが、勢いで載せてしまおう。劇中のどこで登場するシーンであるかは伏せておくが、大変に感動的なシーンである。ここで主人公カーリドは、過酷な運命の中に、まさに希望のまた違った側面 (英題の直訳はこれである。「かなた」= 「遠く」というニュアンスはない) を発見したものと思う。それにはこのヴァルプの名演技が大きく貢献しているのである。
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プログラムにはカウリスマキのメッセージが掲載されている。それによると、彼がこの映画で目指したのは、「難民のことを哀れな犠牲者か、さもなくば社会に侵入しては仕事や妻や車をかすめ取る、ずうずうしい経済移民だと決めつけるヨーロッパの風潮を打ち砕くこと」だそうである。ヨーロッパでは歴史的に様々な偏見が蔓延したことがあるが、それに対して資本主義の矛盾を批判する左翼的な映画が生まれた。カウリスマキ自身はこの「希望のかなた」をそのような作品のひとつと位置付けている。だがそのような企ては失敗に終わることが多く、そのあとに「ユーモアに彩られた、正直で少しばかりメランコリックな物語」が残ることを願うとのこと。なるほど、難民問題の真実を深刻に描くよりも、つらい現実の先にある人間性に期待して作られた映画であると理解する。いやもちろん、この映画には上で触れていない、気の滅入るような深刻な場面もいくつかあるのだが、それは今実際に世界で起こっている現実と認識しながらも、その上で、過酷な現実を乗り越えるべく人間が本来持っている強さには、笑いやメランコリーというものが含まれるということを感じたい。この映画に大いに笑い、そして目を開いて主人公たちの運命を見ることで、難民問題に対して今すぐ何ができるでもない我々も、せめて想像力の中で希望を抱くこと。それは映画ならではの貴重な経験であり、現代の名匠カウリスマキの手腕に身を委ねる行為なのであると思う。

by yokohama7474 | 2018-01-08 23:30 | 映画 | Comments(0)

ジャスティス・リーグ (ザック・スナイダー監督 / 原題 : Justice League)

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昔ながらのアメリカン・コミックのヒーローももはや、単独でのストーリーによる映画は成り立ちにくくなっているのだろうか。マーヴェル社の容赦ない攻撃によるものか否か分からないが、バットマンとスーパーマンを擁する DC コミックも、最近はかなり思い切ったヒーロー連合を描くようになってきた。と言いながらも私はマーヴェルによる「マイティー・ソー バトル・ロイヤル」を見る機会を逸してしまい、一方の DC によるこの「ジャスティス・リーグ」も、気がつくとシネコンでの上映回数が既に少なくなっていた。一応この手の映画は基本的に見ておきたいので、昨年末に見ることができたのであるが、私の思いは複雑だ。まず、本作の直接の前編に当たる「バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生」を 2016年 4月19日の記事でこき下ろし、また、その作品で少し登場し、その後単独での主演映画が作られた「ワンダーウーマン」は、2017年 9月23日の記事で賛辞を捧げた。予告編から明らかなのは、ここでベン・アフレック演じるバットマンは、ガル・ガドット演じるワンダーウーマンとともに超人たちをスカウトしていることだ。しかもその設定は、スーパーマンが死去している世界。この時点で既に、本来のヒーロー物にあるまじきルール破りの前提を知ることができる。つまり、本来ならヒーローは決して死なないし、バットマンは、孤独な大富豪が、ただ執事ひとり (とロビン) の協力だけを得て悪と戦う物語。うーん、この設定はどうだろう。新機軸だと喜ぶ向きもあるかもしれないが、申し訳ないが私は、全く面白いと感じることができなかった。そもそも、胸毛の生えた上半身裸のスーパーマンとか、体には重厚なバットスーツを着ながら、顔だけは剥き出しにして「ブルース」と本名で呼ばれるバットマンを見たいという人が、果たしているだろうか。もしいるなら会ってみたい。それから、ワンダーウーマンをやたら下からのアングルで撮るというのも、反則ではないだろうか。このキャラクターは、過度にセクシーすぎないからよいと、以前の記事で書いたものだが、こんな下品な撮り方をすると、せっかくのキャラクター設定が台無しだ。このような反則づくめの作品を撮った監督は、「バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生」と同じザック・スナイダー。
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以前も書いたが、私はかつてこの人の「エンジェル・ウォーズ」という映画を見て、その手腕に注目したという経緯があり、あのクリストファー・ノーラン (今回も製作総指揮のひとりである) の信任を得てこのシリーズの監督を任されている点も無視できないとは思うものの、やはり前回・今回とガッカリしたことによって、ちょっと今後は彼への評価を考え直すかもしれない。ガッカリのひとつの例として挙げたいのは、プログラムを読んで初めて知ったことには、彼はデジタルではなくフィルムによる撮影にこだわっているらしいことである。なるほど言われてみれば、超人のひとりであるサイボーグの自宅のシーンの色調などは、そうだったかと思わないではない。だが、再度名前を出すが、クリストファー・ノーランの「ダンケルク」において感じられたようなフィルム撮影の必然性を、この映画から感じることができるだろうか。

不満はほかにもいろいろあって、それは悪役の描き方や、その登場の必然性、また彼が巻き起こす危機のリアリティという点においても、ハテナだらけである。本当に残念な思いを抱いてしまうのだが、もはや世界は、ヒーローたちがつるんで登場して、束になって敵に立ち向かうのでなければならないほど複雑になってしまっているのだろうか。こんな感じで。
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ただ、あえて探せば、役者たちのこなれた演技によって、なかなか気の利いたシーンになっている箇所も、あるにはある。予告編でも流れていた、超人のひとりフラッシュ (演じるのはエズラ・ミラー) とブルース・ウェインの出会いのシーンや、それに続くシーンでフラッシュがウェインに、「ええっと、あなたのスーパーパワーは何でしたっけ」と訊いて、ウェインが面倒くさそうに「オレは金持ちだ」と答えるところなど。それから、今回も執事アルフレッドを演じるジェレミー・アイアンズ、クラーク・ケントの母を演じるダイアン・レイン、恋人のロイス・レーンを演じるエイミー・アダムス、そして今回初めて (ゲイリー・オールドマンに代わって) ゴッサムシティのゴードン本部長を演じる J・K・シモンズなど、脇役陣も充実している。
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まあそれにしても、これだけの俳優たちを使いながら、大変もったいないことである。この作品の残念さが、たまたまこの映画個別の企画の問題なのか、それとも現代におけるヒーロー物の行き詰まりを示しているのか、直ちには判然としないが、もし後者であったなら、そこには何か原因があるはずだ。例えばひとつの切実な問題としては、かつて電話ボックスでクラーク・ケントからスーパーマンへの着替えが行われた時代はもう過ぎ去ってしまい、現代においては、まずは電話ボックスの所在からして探さないといけないという事情も関係しているかもしれない (笑)。でも、だからと言ってスーパーマンが死んだり生き返ったり、ましてや S の字のスーツを着ることなく胸毛を公衆の面前にさらしてよいのかという問題は、決して解決しない。それに、連作を作ることは一向に構わないが、以前の作品を見ていないとストーリーを追うことができないということも、映画としてはマイナスであると私は考えている。単独ヒーローによる痛快な単独作品を、もう我々は期待することはできないのだろうか・・・。

by yokohama7474 | 2018-01-08 01:29 | 映画 | Comments(0)

gifted / ギフテッド (マーク・ウェブ監督 / 原題 : Gifted)

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これは、特別な才能に恵まれた少女とその周りの人たちの物語。題名の "gifted" とはもちろん、「優れた才能に恵まれた」という言葉であるが、"gift" というからには、その才能を当人にギフトとして授けた存在が想定されているわけで、それは取りも直さず「神」ということなのであろう。一方日本語にも「天賦の才」などという言葉があり、ここでいう「天」とはやはり絶対者のことであろうから、洋の東西を問わず、人並み外れた才能とは、人間を超えた、敬うべき何者かによる恵みであるという発想があるということだ。これは興味深いと思う。

さてこの映画の主役、7歳のメアリーは、異常なまでの数学的才能の持ち主。この年齢であるから学校の先生は「1 + 1」から教えようとするのだが、それを小馬鹿にした態度をとるメアリーに対して女性教師は、次々と複雑な計算を問題として出し、メアリーが暗算でそれに答えると、慌てて電卓で確認することになる。そこから始まるストーリーは、メアリーの才能を巡っての、彼女の祖母と、その息子でメアリーの母の弟、つまりはメアリーにとっては叔父にあたるフランクとの確執を軸として展開する。メアリーの母はやはり天才的数学者であったが、若くして自ら命を絶ったため、弟のフランクがメアリーを養育しているのだが、フランクにはどうやら数学的才能はあまりなさそうで、ボートの修理で生計を立てている。この微妙な関係設定がなかなかよい。つまり、予告編やポスターを見て、この二人は当然父と娘だろうと思ったらそうではなく、叔父と姪なのであり、そうであるからこそ微妙なねじれというか、物語が展開する余地があれこれ生まれることになる。
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このブログでばれてしまっている通り、私はどちらかというと、いかにも感動的なハートウォーミング・ストーリーにはあまり興味がなく、サスペンスやスリラー、ホラー、SF といったジャンルの映画を中心に見ているわけであるから、この映画はその点からすると若干異色かもしれないし、たまたま空いた時間を埋めるのに、この映画の上映時間帯がちょうどよかったという事情ですと説明しても、あまり説得力がないかもしれない (笑)。それは本当のことではあるものの、だが私がこの映画を見たいと思った第一の理由は、フランク役のこの俳優である。
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クリス・エヴァンス。あのキャプテン・アメリカを演じている俳優である。その役においては、本当に the American なイメージを作っており、金髪碧眼、キラリと光るきれいな歯並び、正義感に満ちたふるまいは、まさにアメリカの理想である。その彼がここではボサボサの髪に髭など生やした普通のオジサンを演じているというそのギャップをまず見たかったのだ。実際ここでの彼は、このフランクという人物に大いなる共感を持って演じているように思われ、大変に好感が持てる。母も数学者、亡き姉も、面倒を見ている幼い姪も数学の天才で、その中で「普通の人間」として生きている彼の姿に、なんと人間的存在感を感じることだろう。もちろん彼はただ人のよいオジサンではなく、常に自分の思いに率直に行動するし、大詰めではその勇気ある行為が大きく物事を動かすことになる。私の周りでは涙腺が緩みまくる人たちが続出で、かくして館内は洟をすする音で満たされることとなったのである (笑)。もちろんこの映画が人をそれだけ感動させるのは、主役のこの子がまた素晴らしいからだ。
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2006年生まれのマッケナ・グレイス。これまでも、「インデペンデンス・デイ : リサージェンス」に出演していたり、「アングリーバード」で声の出演をしていたりしているそうだが、この役は数百人の候補の中からオーディションで射止めたものらしい。メアリーの役柄は、数学においてはどんな大人も適わない天才的才能を持つ一方、年相応の子供らしい無邪気さを持ち、自分の意に沿わないことには遠慮なく泣き叫ぶし、教えられる常識的な事柄は、素直に自分なりに咀嚼しようとする。そして、強い正義感をもって行動するし、時には斜に構えた言動を示す。なかなかに複雑な役柄なのである。私が気に入ったシーンは、近所の女性の家に預けられていたところ、探し物をするためにこっそり家に戻ったときに、思わぬ人と鉢合わせするシーンである。普通の子供ならここで「あーっ!!」と驚くであろうが、彼女はそこで、「見たぞ見たぞ」と言わんばかりにニヤーっと笑うのである。この映画にはいくつかそのような気の利いたシーンがあるのだが、もう一人 (?) の重要なキャラクターを巡っても、心に残るシーンがある。
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メアリーが世界一のネコと可愛がる、片目のフレッド。そもそも少女と動物を使って観客を泣かせようというのは、ずるい作戦だと思うのだが (笑)、私が気に入ったもうひとつのシーンというのは、フランクがこの猫のフレッドの危機を救う場面。車に乗り込むフランクは、フレッド以外にも何匹かを救うことが無言で示されていて、クスリと笑いながらもちょっと幸せな気分になれる、いいシーンだ。

それらのシーンを好感をもって見ることができるのは、やはり監督の手腕に寄るところ大であろう。1974年生まれのマーク・ウェブ。
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これまでの代表作はアンドリュー・ガーフィールドを主役に起用した「アメイジング・スパイダーマン」の 2作であろうが、この映画の成功で、上質な人間ドラマの演出もできる監督であることを証明したわけで、活躍場は一層広がって行くことであろう。プログラムに掲載されたインタビューを見ると、「アメイジング・スパイダーマン 2」を撮り終えたあと、もっと個人的な、自分がよく知っている世界を撮りたいと思ったとある。だがそこで、やはりヒーロー役で有名になったクリス・エヴァンスを起用する点に、この人の独自の着眼点があると思う。いわく、「彼にはどこか物悲しさのようなものがあって、自分はそこが役者としてすばらしいところだと思うんだけど、これまでの出演作ではそれほど探求されていない部分だった」とのこと。一方のクリス。エヴァンスも、この映画に出演した理由として、まずは監督だったと発言している。どの作品にも巡りあわせは重要で、その意味では、この監督がこの役者を使うことができたのは、幸運な巡りあわせであったと言えるだろう。

ところで、このギフテッドという言葉、これから日本でもなじみが出てくるのかもしれない。というのも、渋谷区が昨年から「ギフテッド教育」というものを正式に発足させたというニュースを見たからだ。特異な才能を持つ子供にその才能を伸ばさせることを目的としているようである。これは大変興味深い試みなのであるが、そもそも日本人には横並び的な発想や、村社会に依存する性向もあって、突出した才能を育てる環境は、残念ながらあまり整っていないように思われる。なので、新たな試みでそのあたりの状況が変わって行くなら大いに意味があるだろうと思う。その一方で、いかに優れた能力を持つ子供であろうとも、やはりコミュニケーション能力を欠くことで他人の痛みを分からないようなことでは、人としてちょっと困る、という面もあるのではないか。その意味で、上に掲げたこの映画のチラシの宣伝文句にあるように、「いちばん大切なのは、『愛する』才能」ということも言えるように思う。この宣伝文句だけならちょっとクサいと思ってしまうが、この映画を見ると、そのようなことが自然に理解できるだろう。なので、傑出した才能に恵まれたお子さんを持つ親御さんたちには、この映画はお薦めだ。あ、もちろん、私のような凡人も、大いに楽しませてもらいましたよ。

by yokohama7474 | 2018-01-07 12:53 | 映画 | Comments(0)

女神の見えざる手 (ジョン・マッテン監督 / 原題 : Miss Sloan)

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眩暈を覚えるような強烈な映画である。既に上映は終わってしまっているようだが、米国という国の真実に対する理解を深めたい人、それから、屈辱から這い上がって何か大きなことを成し遂げたいという野心のある人には、いずれ機会があれば是非見るべしとお薦めしておこう。これほどセリフの多い映画もそうはないと思うし、そこで飛び交っている言語の、洗練された完成度と粗野な部分の双方が突き刺さる度合いもまた、並外れている。ストーリーは単純と言えば単純だが、ひとつだけ理解の前提がある。それは、ロビイング活動について。この言葉自体は日本にも存在していて、何かの政策の実現または阻止に向けて、議員などに陳情して回ること。だが米国においてはそんな素朴なものではなく、首都ワシントン D.C. に専門のロビイング会社がいくつも存在し、あの手この手で依頼主のために苛烈なロビイング活動を繰り広げる。この映画の主人公で、原題の由来ともなっているエリザベス・スローンは、腕利きのロビイスト。彼女が務めるロビイング会社に持ち込まれる、銃規制法案への反対という依頼に対して恭順の意を示さず、反対側、つまり銃規制法案を推進する別のロビイング会社に電撃転職する。その際に部下を何人か引き連れて行くのだが、古巣を相手に、目的のためには手段を選ばない冷徹なプロの仕事によって、銃規制法案への世論・政治家の支持を集めるものの、前職における不正を問われる羽目になり、上院議員による公聴会に召喚され、絶体絶命の窮地に陥るのだが・・・。という話。何よりも、主役の Miss Sloan を演じたジェシカ・チャステインに拍手を送ろう。
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キャスリン・ビグロー監督の「ゼロ・ダーク・サーティ」におけるカッコよい CIA 分析官で鮮烈な印象を残した彼女は、その後も同様の自立心溢れる女性像を演じ続けていて、このブログでも、「クリムゾン・ピーク」「オデッセイ」「スノーホワイト / 氷の王国」という彼女の出演作を採り上げた。だがやはり、この映画ほど彼女の実力をまざまざと見せつける作品もないだろう。まさに圧倒的である。そもそも、ここで彼女の演じるロビイストなる職業が、本当にここまで目的のためには手段を選ばない究極のプロフェッショナルであるのか否か知らないが、まぁ、あの国の政治の中枢なら、そういうことになっていても全くおかしくはない。だがそれにしても、ここでのエリザベス・スローンのやり方は本当に苛烈で、頭がよい、度胸があると感心することもあるが、見ていて胸が悪くなることもある。以下の写真はチラシに使われているポーズだが、背景のホワイトボードに注目しよう。このように、法案の採決までの日数と、確保した議員の数を常にウォッチしながら、部下に指示を出すのである。
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邦題の「女神の見えざる手」とはまた、原題とはかけ離れた思い切ったものであるが、まさかアダム・スミスとは関係ないだろうから、これは主人公エリザベスの手腕が神のようだと言いたいのか、それとも、人間の存在を超えた何かを暗示しているのか。映画を見る限りにおいては、ここで描かれているのは徹頭徹尾、人間のエゴであり手練手管であり、人と人との敵対関係または協力関係であるので、絶対者としての女神を想定するということにはならないと思う。いっそのこと、「ロビイスト スローン」などとしてみてもよかったのではないか。原題の "Miss Sloan" にはなかなか微妙なニュアンスがあって、つまりはファーストネームではなくファミリーネームであり、それはまた彼女が公聴会で呼ばれる名前でもある。女性の場合は、未婚・既婚問わず使える "Ms." を使うのがビジネスでは普通であると思うので、わざわざ未婚であることを示す "Miss" と呼ぶには、なんらかの意図があるということだろうか。実際ここでの彼女は、服装やメイクは常にバッチリ決めていて、仕事の場ではバリバリと辣腕を発揮するものの、夕食はいつも汚い中華料理店でひとりで取り、男っ気があるようには全く見えない。ただまぁ、その、この男性 (演じるのはジェイク・レイシーという俳優) とは、まぁそのなんというか、ちょっとその、ちょっと驚くような・・・、まぁ、ネタバレは避けましょう (笑)。
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いやそれにしても、上で書いた通り、この映画はとてつもなくセリフの多い映画である。米国でのビジネスでは弁舌爽やかなプレゼンが重要というイメージを持っておられる方も多いと思うが、それはつまり、人と人の間で何か作業をするためには、いかに言葉が道具として大事であるかということだ。だが、この映画におけるセリフの応酬には、そのようなありきたりの常識レヴェルを超えて、何かクラクラするものがある。その理由はきっと前述の通り、この映画においては、交わされる言葉に乗っているのが多くの場合、人間のエゴであったり、目的のためには手段を選ばないという感覚であったりするからではないか。その効果を出すためだろうか、登場人物が非常に多いのも特色で、敵味方は見ていて曖昧にはならないものの、双方の陣営の中の人たちの関係性は、あまりよく分からない。ただ、エリザベスを別会社から受け入れるロビイング会社の CEO であるロドルフォ・シュミットだけは、エリザベスとのやりとりを通じて、かなり丁寧に人柄が描かれている。演じるマーク・ストロングは、もうすぐ続編が公開される「キングスマン」をはじめ、最近活躍中の英国人俳優。
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それから、公聴会を主催するスパーリング上院議員を演じるジョン・リスゴーも、味のある演技を見せている。適役であろう。
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それにしてもこの映画のクライマックスは、今思い出しても血がたぎる。ネタバレできないので説明に窮する部分はあるのだが、そうですね、まさに絶体絶命のピンチからいかにして這い上がるか、その観点から、人生を生き抜くためのヒントと勇気を与えられる名シーンである。観客は映画のそこここで、主人公エリザベスの冷徹なプロの顔の下から覗く人間性を知ることになるが、その覗かれてしまった人間性をその度に自らの強い意志で抑えつけ、大胆な奇策を弄して職務を遂行する彼女も、ラスト前のピンチの場面では追い込まれて、それまでにないほど弱気になるのである。見ている人たちもまた、その展開を固唾を飲んで見守るがゆえに、最後の場面のカタルシスが大きいのである。だから、もしこの映画のそもそもの設定に共感できないとか、米国の法律システムがよく分からないという人も、だまされたと思って最後まで見て欲しい。まさにチラシの宣伝にある通り、「彼女がアメリカを『毒』で正す」のである。

この映画の監督はジョン・マッテンという人で、私もよくは知らないが、「恋におちたシェイクスピア」の監督で、1949年生まれの英国人である。多くの登場人物を使って、映画の流れをうまく作り出している。それから、なぜかプログラムには記載がないが、エンドタイトルで確認したことには、音楽担当はマックス・リヒターなのである。彼は最近活躍中のミニマリズムの作曲家で、日本では、昨年のラ・フォル・ジュルネ音楽祭において庄司紗矢香が演奏したヴィヴァルディの「四季」のミニマル風編曲が鮮烈であった。Wiki は英語版しかないが、調べてみると既に多くの映画に音楽をつけている。
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さて、改めて思うに、この映画の主人公エリザベスは、一体なぜそこまで強いプロ意識をもって職業に臨んでいるのであろうか。よくこの手の映画では、主人公の幼年時代や、なんらかの性格形成の過程が描かれるものだが、この映画にはそれはない。それから、例えば彼女の部下の女性が銃を持った男に襲われるシーンがあるが、あれなども実はエリザベスによる演出だったのではないか。その場面は結局思わぬ事態に発展するし、被害者自身がエリザベスの関与を疑ったと後日口にするシーンもあるものの、そのあたりの実情は描かれない。情報過多でないがゆえに、最後のシーンの衝撃が増幅されたようにも思う。私も今度から、ピンチに瀕したときにはこの映画を思い出して頑張ることにしますよ。もっとも、何らかの策を事前に取っていないとこのラストシーンもないわけで、私の場合はそんな器用なことはできないから、ピンチに遭遇すると、その場であえなく地べたに這いつくばい、そのまま降参してしまうかもしれないが・・・。

by yokohama7474 | 2017-12-31 01:00 | 映画 | Comments(0)

パーティで女の子に話しかけるには (ジョン・キャメロン・ミッチェル監督 / 原題 : How to Talk to Girls at Parties)

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とある映画館でこの映画のポスターを見かけ、即座に、これは見なくてはと思ったのである。予告編を劇場で見ることもなく、ただこのポスターだけが手がかりであったのだ。そう、私がこの映画を見るべしと思ったのは、ひとえに主演女優にある。
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そう、私がその才能を称賛してやまない、エル・ファニング。1998年生まれなので、未だ 19歳という若さながら、これまでにも面白い映画に沢山出演している。中でも、このブログで以前採り上げた「ネオン・デーモン」が強烈であったが、その演技には、ときに年齢そのままの可憐さがあることもあるが、またときには時空を超えた不気味で神々しい存在として、見る者の前に立ち現れる。カルト映画でも楽々こなし、その一方で若さ溢れる爽やかさも発揮できる。こんな女優を天才と呼ばずしてなんとしよう。この映画で彼女が演じるのは、上のチラシの宣伝文句にもあるのでこれはネタバレにならないと整理するが、別の惑星からやってきた異星人なのである。舞台は 1977年、ロンドン郊外。今やパンクロックが生まれつつある激動の時代。主人公はパンクを目指しながらもどうも人が好過ぎる青年、エン (演じるのは英国の若手俳優、アレックス・シャープ。2014年にブロードウェイの舞台に立ち、史上最年少でトニー賞主演男優賞に輝いた実績を持つ)。映画は彼が朝目覚めるところから始まるが、彼の部屋の壁に貼られているポスターは、先にジム・ジャームッシュの映画「ギミー・デンジャー」の主人公としてこのブログでも話題にした、イギー・ポップをあしらったものなのである。
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主人公は友人 2人とつるんでいるのだが、まあ彼らのイケていないこと。いかにも田舎のロッカーで、自意識過剰な若者たち。
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彼らは騒々しいライヴハウスに入り浸っているのだが、そのパンク系ライブハウスには、元気のよいオバチャンがいて、彼女は、その頃「パンクの女王」と呼ばれていたファッションデザイナー、ヴィヴィアン・ウエストウッド (ちなみに現在でも 76歳で健在だ。私はパリコレにはちょっとうるさいもので・・・嘘です) のもとで働いていたという、輝かしいパンクな経歴を持っている。名前をボディシーアといい、いつもこんな格好をしている。
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あららら、全く予備知識なしに見たのだが、これはなんと、ニコール・キッドマンではないか!! ここでは実に楽しそうに演じていて、好感が持てる。但し、演じているキャラクターは大変に屈折していて、本音は優しいくせに、やけにとんがってみせるのだ (笑)。ところで主人公たち 3人組は、ある晩偶然に、空き家のはずのお屋敷で、なにやらパーティのようなものが開かれているところに紛れ込むこととなる。な、なんなんだこの人たちは。
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実は彼らは宇宙人で、コロニーと呼ばれる集団に分かれている。コロニーは第 1から第 6まであって、それぞれにコスチュームとその色、また集団が地球上で目指す目的が異なる。上の集団は第 5コロニーである。そして主人公エンはここで、第 4コロニーに属するひとりの少女と出会う。それが、エル・ファニング演じるところのザンである。ザンは、相手の顔をベロベロ舐めるのが挨拶であるように、地球の習慣には疎い。そしてまた二人は、性的交渉は結局「不完全」に終わるのだが (笑)、エンの導きによってザンは、地球の習慣を学んでいく。
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自宅で母親にザンを紹介するエンは、彼女を米国人だと言う。なるほど、エンの英国英語に対してザンが喋るのは米国英語であり、1970年代当時の英国人の米国人に対する見方は、まるでエイリアンのようだということだったのかと思う。この二人は様々な危機を経て、クライマックスではともにパンクの激しい響きに身を委ねることとなるのであるが、その過程が面白い。この濃いメイクのパンク歌手がエル・ファニングだなんて、信じられようか。
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実は、ここではニコール・キッドマンとエル・ファニングの間で親密な演技がなされるのだが、親子ほど年の離れた彼女らの間に、実際に何か通じるものが生まれたのではないだろうか。これは今年 5月のカンヌ映画祭での本作のプレミア上映における二人。うーん、いい感じではないか。エル・ファニングの衣装がすごい (笑)。
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この映画、最後はちょっと甘酸っぱい青春の思いで終わるのであるが、世界が冷戦のただなかにあった 1970年代に、社会の秩序に対するレジスタンスとして、まるで宇宙人のように出現したサイケでパンクな人たちの、夢と情熱 (そう、アヘンを吸った若者が主人公の、ベルリオーズの幻想交響曲の第 1楽章のタイトルだ) を思わせる内容である。監督 / 脚本は、1963年生まれの米国人、ジョン・キャメロン・ミッチェル。
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私は彼のことを知らなかったのだが、「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」という、もともとブロードウェイのミュージカルの生みの親として脚光を浴びたらしい。このミュージカルはその後ミッチェル自身の監督・製作・主演で映画化され、マドンナやデヴィッド・ボウイらの熱狂的な支持を集めたという。またこの作品の舞台が、今年日本でも上演されたらしい。ふーん、そんなにすごい舞台なら見てみたかったなぁ。世の中、知らないことが多いのである。
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そんなわけで、パンクのことなどなーんにも知らない私でも結構楽しめたこの映画、まだヒューマントラストシネマ渋谷と新宿ピカデリーで上映中である。ちょっと変わった映画ではあるが、エル・ファニングという現代の逸材の成長の過程を見たい人には、是非にとお薦めしておこう。パンクを知らなくても大丈夫!!


by yokohama7474 | 2017-12-30 00:21 | 映画 | Comments(0)

エンドレス・ポエトリー (アレハンドロ・ホドロフスキー監督 / 原題 : Endless Poetry)

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アレハンドロ・ホドロフスキーの新作である。この監督の名前は、今の若い人たちにとっては未知であるかもしれないが、私の世代でちょっとアート系の映画に興味のある人なら、まずは「エル・トポ」(1969年、但し日本公開は 1987年)、次いで「ホーリー・マウンテン」(1973年、但し日本公開は 1988年) や「サンタ・サングレ 聖なる血」(1989年) によって、その名を知っていることだろうし、一度聞いたら忘れないその名前の響きと、一度見たら忘れないその強烈な映像を、懐かしく思い出すだろう。彼は、一言で言ってしまえば、アンダーグランドの香り濃いカルト映画作家なのである。日本で言えば寺山修司などが近いともいえようが、土俗的かつ呪術的なまでに宗教的要素に溢れ、あえて醜いものをスクリーンに乗せて、人間の本性に仮借なく迫る作風が持ち味だ。私は上記のようなホドロフスキーの映画群を学生時代に見たのだが、しかし、それらに強くのめり込んだというほどではない (例えば、やはり当時邂逅して衝撃を受けたタルコフスキーやパラジャーノフやボリス・バルネットの映画のようには)。だが、ほかの誰とも異なるその作風には強い表現力をまさまざと実感させるものがあるゆえ、彼の代表作群を見てから 30年近く経った今でも、その個性には一目置いているのである。これが、当時ジョン・レノンをはじめ、ミック・ジャガー、アンディ・ウォーホル、オノ・ヨーコらに熱狂的に支持されたらしい「エル・トポ」の DVD のジャケット。
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さて、そのホドロフスキーは 1929年チリ生まれで、今年実に 88歳。フィルモグラフィーを見ると、1957年、つまりは今から 60年前のデビュー作である短編「すげかえられた首」(1957年) から、今回の「エンドレス・ポエトリー」まで、監督作品はたったの 9作。寡作家である。実はそのうち 3本は日本未公開。すると 6本の日本公開作のうち、本作を含めた 4本を私は見ていることになる。また、ホドロフスキーが「DUNE / 砂の惑星」を撮ろうとして断念した経緯を辿ったドキュメンタリー映画、「ホドロフスキーの DUNE」も見ている。強くのめりこんだわけではない割には、この監督とその関連作品を、まずまず見ている方と言えるだろう。だが、上記の「ホドロフスキーの DUNE」と相前後して上映された、彼としては当時 23年ぶりの作品「リアリティのダンス」(2013年) は、残念ながら見逃してしまった。この「エンドレス・ポエトリー」はそれに続く最新作である。

まず、この題名 (「無限の詩」という意味)、それから冒頭に掲げたチラシの宣伝文句、「その存在は、完全なる光 ---」は、何やらホドロフスキーらしからぬ、なんというかこう、ハートウォーミングな雰囲気を醸し出してはいないだろうか。そこに私は危惧を抱いた。伝説のカルト作家が、まさかまさか、時代に迎合して、ハートウォーミングな万人受けする作品を作ってはいないだろうな・・・という思いである。その確認のために、なんとか時間を見つけて、渋谷のアップリンクにこの映画を見に行ったのである。ちなみに今確認すると、今年一杯はそのアップリンクと新宿のシネマ・カリテでは未だ本作を上映継続中のようである。もしこの記事でこの映画に興味を持たれた方は、見に行かれるのも一興かもしれない。あ、お気に召すか否かは、私は保証しませんがね (笑)。これが本作に登場するホドロフスキー自身。
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さてこの映画の評価であるが、ある意味では、あのカルト作家ホドロフスキーの強烈な持ち味は全く変わっておらず、その点では安心 (?) したと言えるだろう。だがその一方で、このような映画表現がどの程度本当に人の心を動かすだろうという疑問を抱くシーンも沢山あり、やはり私としては、諸手を挙げて大絶賛ということにはならないと、率直に申し上げておこう。

この映画は、ホドロフスキー自身の若き日の物語であり、前作「リアリティのダンス」の続編であるらしい。しかも主役を演じているのは、前作に続きホドロフスキーの末の息子アダン・ホドロフスキーである。この写真は、ラスト近くで劇中のホドロフスキーが、自らの父と桟橋で向かう合うシーンを演出する、実際のホドロフスキー自身。ややこしいことに、ホドロフスキーの父を演じているのは、実際にはホドロフスキーの長男である、ブロンティス・ホドロフスキー。つまりこの写真は、実生活における父とその 2人の息子であり、その息子たちは、実の父本人と、そのまた父を演じていることになる。ややこしい (笑)。
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主人公である若き日のホドロフスキーは、商店を営み息子を医学の道に進ませたいと考えている厳格な父と、優しいが浮世離れした母 (なにせ、言葉を喋るときにはすべてのセリフが必ずオーケストラ伴奏つきのアリアのような歌唱になるのだ!!) のもとで従順に暮らしているが、自由な詩人の生活に憧れて、ロルカの詩集などを読んでいる。そのうち彼は自由奔放に生きる芸術家たち (?) とともに暮らすようになり、恋にも落ち、挫折もし、親戚の死を体験し、友人の恋の手助けをする。まあこのようにストーリーを追って行くと、まるで普通の青春映画のようだが、そこはホドロフスキー。強烈な色彩感覚と大胆な役者起用で、甘酸っぱい青春を異形のものとして描いて行くのである。もちろん、事実からの脚色は様々にあるに違いないが、ホドロフスキーが生きたチリでの青春の「味」は、本当にこんな感じだったのかもしれないな、と思ったものだ。見ていて楽しいシーンばかりでは決してないし、人によっては、生理的に受け付けられないということもあるだろう。だからこれは、とても万人にお薦めできる映画ではなく、映画という表現方法に強いこだわりのある人のみを観客として想定すべき映画なのだと、思うのである。
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ところで、このような強烈なイメージを実現するには、資金も必要なら優秀なスタッフも必要だ。まずその資金の方だが、興味深いことに、前作「リアリティのダンス」の続編を望む世界の映画ファン 1万人から、クラウド・ファンディングで制作費を集めたのだという。プログラムには、「クラウド・ファンディングにご協力いただいた皆さま」ということで、まるまる 3ページに亘ってびっしりアルファベットが並んでいる。よく目を凝らすと、日本人の名前も散見される。
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もうひとつ、スタッフの方だが、驚きの名カメラマンがここで撮影監督を務めている。その名はクリストファー・ドイル。1952年生まれのオーストラリア人だ。
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「恋する惑星」「天使の涙」「ブエノスアイレス」といった香港のウォン・カーウァイ (最近はあまり名前を聞かないが、どうしているのだろうか) の作品の撮影で世界に知られる人であるが、ジム・ジャームッシュやガス・ヴァン・サントと組んだこともある。その特徴は手持ちカメラの多用なのであるが、この「エンドレス・ポエトリー」では、凝った作りのセットでの撮影もかなり多く、それらのシーンでの絵は、かなりきっちり丁寧に作っている印象で、手持ちカメラの必要はない。一方で、そのようなセット以外にも、建物でのロケや、屋外、夜間、サーカスや群衆のシーンまで、様々なシーンのあるこの映画では、画面の鮮度ともいうべき点で、この名カメラマンの鋭い感性がやはり随所に生きているように思われた。ホドロフスキーも、このドイルがいるからこそ、自らのファンタジーを存分に追い求めることができたのであろう。

私の勝手な解釈だが、題名の「エンドレス・ポエトリー」とは、このユニークな芸術家であるホドロフスキー自身の歌う終わりのない詩、つまりは映画のことを指しているのではないだろうか。このような複雑な作品を作り上げるには、映像作家としての基本的な能力以外に、多大な忍耐と体力と情熱を必要とする。既に 88歳という高齢とはいえ、この映画で度々姿を見せる彼は、未だ大変元気に見える。この人の人生は本当にエンドレスなのではないかと思われるほどだ。クラウド・ファンディングによる資金集めもできるこの時代である。まだまだユニークな活動を続けて欲しいと思う。メキシコ風の死者どもとも戯れる、エンドレスな活動を。
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by yokohama7474 | 2017-12-28 00:47 | 映画 | Comments(0)


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