川沿いのラプソディ


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メモ帳

カテゴリ:音楽 (Live)( 539 )

ウラディーミル・フェドセーエフ指揮 NHK 交響楽団 2018年12月13日 サントリーホール

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今月の NHK 交響楽団 (通称「N 響」) の定期演奏会の 3つのプログラムが、3人別々の指揮者によって開かれることは、以前、ヘンゲルブロック指揮の演奏会の記事で述べた。今回のプログラムは、そのヘンゲルブロック指揮の定期同様、クリスマスに因むもの。というのも、曲目は以下の 1曲だけだからだ。
 チャイコフスキー : バレエ音楽「くるみ割り人形」作品 71

いうまでもなくこのバレエは、クリスマスをその舞台としていることから、特に欧米ではクリスマスのバレエ上演の定番になっている (私もロンドンで、吉田都出演のバレエ公演を見たことがある)。日本でもこの時期にはそれなりに上演はあると認識するが、日本中の誰もが、口を開くと「やっぱりクリスマスは『くるみ割り人形』だなぁ」と呟くようなことにはなっていないだろう。それから、バレエ上演はあっても、オーケストラによる演奏会で全曲が演奏されることは、あまりないと思う。今年はたまたま真夏に、マルク・ミンコフスキ指揮の東京交響楽団が「ほぼ」全曲を演奏したという珍しい例もあったが、やはりクリスマスに「くるみ割り人形」となると、ワクワクして来るのを禁じ得ない。これはそのような雰囲気の例として挙げたい、ヴァレリー・ゲルギエフ指揮によるこの曲の CD のジャケットである。
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今回の目玉はなんといっても、指揮者がウラディーミル・フェドセーエフであることだ。このブログでも過去何度か彼の演奏を採り上げているが、驚くなかれ、1932年生まれ、今年 86歳になるロシアの巨匠である。
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86歳の指揮者というと、我々の年代では、1980年にカール・ベームが最後の来日をしたときがちょうどその年齢であったことを思い出す。ヨボヨボで、歩くのはおろか、立つことすらおぼつかない老人が、一旦指揮台のストゥールに腰かけるや、眼光鋭く、動かないからだを精一杯使って指揮をする。その姿には音楽への飽くなき執念が感じられたものだ。その点このフェドセーエフの場合は、普通に歩いて袖からステージに出て来るし、全曲立ったままで指揮をするので、実に驚異的に若いと思うのである。この N 響には頻繁に来演していて、今年の夏には、東京での公演はなかったのに、九州・沖縄を N 響とツアーしたのである。そしてまた今回、この大曲を指揮するために来日してくれたとは、なんと有難いことか。もっとも、N 響の指揮者陣には 91歳のヘルベルト・ブロムシュテットがいるので、上には上があるとも言えようが、ともあれ、人生 100歳時代。長生きするなら元気でないといけない。このフェドセーエフから、人間の生き方を学びたいと思う。

この「くるみ割り人形」は、8月のミンコフスキ指揮の演奏会の記事にも書いたが、チャイコフスキーの最高傑作のひとつであり、バレエ音楽の最高傑作のひとつでもあると私は常々思っている。有名な組曲は名曲揃いで本当に楽しいが、組曲に入っていない曲にも、多彩な持ち味の名曲が多数ある。クリスマスのイメージから、ただ子供が喜ぶようなファンタジーかと思いきや、このバレエの原作は、あのドイツ・ロマン派の作家 E・T・A (イー・ティー・エーではなく、エー・テー・アー) ホフマンによるもの。なかなか一筋縄ではいかないところもあるのだ。ホフマンはこんな人。うわー、癖強そう (笑)。
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私はフェドセーエフの音楽を長年聴き続けてきていて、その指揮ぶりには一定のイメージがある。言葉にするのは難しいが、ちょっとトライしてみると、まず、ロシア的な雰囲気はもちろんあって、必要とあらば分厚い音でオケを鳴らし、金管がギラギラと咆哮する。だがそれは、例えばエフゲニ・スヴェトラーノフのような、爆裂的な重戦車型ロシア風というものとは少し違っていて、あえて言えばもう少し地味な響き。あるいは、立体的ではなく平面的と言ってもよいかもしれない。粘りがあるわけでは決してなく、むしろ淡々としたところもある。だがそのテンポは、曲によって遅かったり速かったりで、意外性もある。ロシア音楽のみならずドイツ系音楽でも懐深い響きを聴かせる人である。と書いてみると、今回の「くるみ割り人形」は、まさにフェドセーエフらしい演奏だったように思われてくる。全体を通してテンポは遅めで、決してオケを煽ることはないが、一方で決して感傷的でもない。そのバランスが面白いのである。ただ、冒頭の可愛らしい序曲は、正直あまり可愛らしいとは思われず、N 響の響き自体が少し真面目すぎるような気もした。なので最初の方は、私はあまり演奏に乗れずにいたのである。だが、1幕の後半、児童合唱の入る前の「情景 冬の松林」で音楽は濃厚に盛り上がり、聴いていて俄然面白くなった。NHK 東京児童合唱団は暗譜での歌唱で、これは雰囲気満点といったところ。そして後半の第 2幕。組曲にも採用されている数々の名曲に加え、大クライマックスを築く「パ・ド・ドゥ」の最初の「アダージョ」の出来が圧倒的。それぞれの曲はかなり丁寧に指揮され、N 響の高い技量が指揮者の要請によく応えていたと思う。N 響の弦は終始底光りするような光沢があって、素晴らしかった。なんという名曲。そう思わせる演奏は、本物の名演奏なのである。

終演後、合唱指揮者を紹介するときにフェドセーエフは少しバランスを崩し、女性ヴァイオリン奏者によりかかってしまったが、すぐに体勢を立て直して事なきを得た。さすがに年齢が年齢だし、正味 2時間近く立って指揮すると、それはからだへの負担は大変なものだろう。調べてみると、今回とその前日、サントリーホールで定期公演を行ったあと、12/16 (日) には福岡 (また九州だ!!) で、同じ「くるみ割り人形」全曲を演奏する。そこでの児童合唱は、今回の東京での演奏とは異なり、地元の少年少女合唱団であるようなので、彼ら彼女らにとって、きっと忘れならない経験になるだろう。それにしても、このマエストロのスタミナには本当に舌を巻く。因みにこれは、1981年当時のフェドセーエフの写真。若手のようにすら見えるが、既に 39歳。改めて驚くのは、彼はこの 7年前からモスクワ放送響 (現・チャイコフスキー交響楽団) の首席指揮者を務めていて、今日でも未だにそうなのである!! まさに現代のレジェンド。まだまだ活躍は続きそうである。
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by yokohama7474 | 2018-12-14 01:02 | 音楽 (Live) | Comments(0)

パーヴォ・ヤルヴィ指揮 ドイツ・カンマーフィル (ヴァイオリン : ヒラリー・ハーン) 2018年12月12日 東京オペラシティコンサートホール

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まさに八面六臂の活躍を見せるエストニア出身の名指揮者、パーヴォ・ヤルヴィが、2004年以来芸術監督を務めるドイツ・カンマーフィルと来日公演中である。この室内オケは、ドイツのブレーメンに本拠地を置いており、もともとはフランクフルトで、ユンゲ・ドイチェ・フィルの出身者が設立したもので、1992年にブレーメンに移転している。その後、先日 N 響を指揮したトーマス・ヘンゲルブロックやダニエル・ハーディングをシェフに頂き、過去 14年間はヤルヴィのもとで大変積極的な活動を展開している。ヤルヴィとは、なんと言ってもこのコンビの名前を一躍高めたベートーヴェンや、シューマン、ブラームスに続き、現在はシューベルトに集中的に取り組んでいるという。前回の来日公演の様子は、2016年12月 6日付の記事で採り上げたが、その際のソリストは樫本大進であった。今回は、これも現代最高のヴァイオリニストのひとり、ヒラリー・ハーンがソロを務めている。今回、早々にチケットが完売となったこの日のコンサートの曲目は、以下の通り。
 モーツァルト : 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」K.527序曲
 バッハ : ヴァイオリン協奏曲第 1番イ短調BWV.1041、第 2番ホ長調BWV.1042 (ヴァイオリン : ヒラリー・ハーン)
 シューベルト : 交響曲第 8番ハ長調D.944「ザ・グレイト」

うーん、これは演奏時間の長いプログラムである。チケット完売は、そのお得感によるものか (笑)。バッハのコンチェルトは、確かに 1曲だけだと短すぎるし、2曲続けることで短調と長調の両方を聴くことができるので、その対照の妙もある。だがそれにしても、メインが 1時間程度を要するシューベルトの「ザ・グレイト」とは。これは長いが、同時に期待も募ろうというもの。以下は今年の 4月10日、彼らの本拠地ブレーメンで行われたブラームスの「ドイツ・レクイエム」の演奏会の写真。実はこの曲は作曲者自身によってブレーメンで初演されており、この日は初演からちょうど 150年の記念日であった由。
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このオケの特色は、ステージ上でチューニングをしないこと。これは舞台裏で既に済ましてきているということなのだろうか。奏者たちがステージに揃って間もなく指揮者が登場して、すぐに演奏が始まるので、スピーディでよいとも言えるが、正直、チューニングの時間くらい聴衆も我慢できるし、私などは、「これからコンサートが始まるんだな」というワクワク感も感じるので、この点は少し違和感がある (但し今回は、バッハの 1曲目でチューニングが少しだけあったのだが、これはもしかして日本人のチェンバロ奏者が、ついラの音を叩いてしまったからか??? 笑)。ともあれ、いつものように勢いよく始まった「ドン・ジョヴァンニ」序曲は、各パートが透けて見えるような鮮烈な音。うるおいよりも推進力が優るこの演奏は、デモーニッシュな要素を持つこの曲にふさわしい。

そしてヒラリー・ハーンである。米国のヴァイオリニストで、今年 39歳になった。
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この人の経歴でユニークなのは、なんとかコンクール優勝という記載がないこと。これは稀有なようでいて、考えてみれば、同じ女流ヴィオリニストでも、先週やはりバッハの 2番のコンチェルトを東京で披露したアンネ=ゾフィー・ムターや、あるいは五嶋みどりなどもそうである。音楽家が世に出て世界的活躍をすることがいかに困難なことであるかを思うと、才能と努力と、様々な巡り合わせによってここまで登りつめる人たちには、心から敬意を払いたいと思うのだが、ともあれそのような演奏家が生のステージに立って演奏してくれるのであるから、余計なことを考えずに耳を傾けよう。バッハの 2曲のコンチェルトは、弦楽合奏をバックに演奏されるが (ヤルヴィは指揮棒を持たない素手での指揮)、曲想は多彩で、バロック的な典雅さが満ちている一方で、劇的な部分もあればリズミカルな部分もあり、また流れるような歌もある。だがここで演奏家の個性を強調し過ぎると、きっとバランスが崩れてしまうのではないか (実際、過去にそのような演奏に出会ったこともある)。だからきっと、腕に自慢の名手であれば、ちょっと物足りないのではないかとも思われるのだが、その点ハーンのヴァイオリンには自然な呼吸があって、現代的な感性も感じられ、聴いていて大変な安心感がある。上記の通り、ちょうど先週聴いたばかりのムターの第 2番との比較が楽しみであったが、ハーンの方がムターよりも線は細いかもしれないが、それは音が弱いことを意味せず、一貫して流れる歌があったと思う。ただ、その 2番の第 1楽章の開始間もない部分で、ごくわずか歌い回しが珍しく「噛んだ」と聴こえたように思ったのは、気のせいだったろうか。ともあれ、全体的な仕上がりはスタイリッシュで素晴らしいバッハであった。アンコールを本人が聴衆に告げたのだが、「バッハノ、ブーレ、デス」というものだった。バッハ (Bach) は英語の発音では「バック」になるはずだから、日本語の「バッハ」という発音を誰かから教わったのだろうか (笑)。実は彼女はもう 1曲アンコールを弾いたのだが、そちらでは曲目は口にしなかったが、もちろんバッハである。帰宅して再確認すると、バッハの無伴奏パルティータ 3番の中の、最初がルール、次がブーレであった。では、私が「ブーレ」と思ったのは聞き間違いだったのかもしれない。それは余談であるが、このアンコールはいずれも自然でいて背筋の伸びるような素晴らしい演奏で、むしろコンチェルトよりもよかったかもしれない。2年前の記事にも書いている通り、彼女のバッハの無伴奏は、そのテンポ感が実に安定していて、素晴らしい。今回もそれを聴くことができて、大変感動したものである。

さて、メインのシューベルト「ザ・グレイト」であるが、これはヤルヴィが昨年 N 響でも指揮している曲。その際には通常編成、つまりコントラバス 8本であったが、今回は室内オケということで、コントラバス 3本。因みにチェロとヴィオラは各 5本、第 2ヴァイオリン 7本。第 1ヴァイオリン 8本。ステージを見ていると、弦楽器と管楽器の人数比が 1 : 1.5といった割合だったように思う。演奏スタイルは、記憶に残っている N 響との演奏と共通するもの。つまりは速めのテンポであえてタメを作らず、彼らしく随所に目配りの効いた流れのよい演奏だ。第 1楽章の反復は行い、第 4楽章では行わないのも同じ。だが、やはり耳に届く音響は、N 響のときとは随分と異なる。つまり、管楽器の細かいニュアンスがよく聴こえて新鮮だし、弦楽器も各パートの渾身の演奏により、迫力ある響きになっていた。もし少し残念な点があるとすると、弦楽器には、揺蕩うような巨大な流れというよりは、ちょっとギスギスしてさえいる鋭さが目立っていたことだろうか。だがそれは、この編成で演奏するなら当然のことであり、またこのオケの持ち味であると言ってよいと思う。実は、私のそのような印象は、帰宅してから発見したヤルヴィ自身のインタビューによって裏打ちされた。それは横浜みなとみらいホール (12/8 (土) にこの曲が演奏された) のウェブサイトで、ここには、自分にとってはシューベルトは歌の作曲家というだけでなく偉大なる交響曲作曲家であるということ、その演奏にはロマン派的なアプローチではなくベートーヴェン側からのアプローチを取りたいこと。そして、一般的なシューベルトの演奏スタイルである「ウィーン風」からあえて離れようとしていること、等々が語られている。なるほどこれは大変興味深いので、勝手ながらリンクを貼らせて頂こう。
ここまでで充分長いコンサートだったが、アンコールが演奏された。ヤルヴィが譜面台に置いてあった楽譜を裏返して、つまり珍しく暗譜で指揮したのは、なんとシベリウスの「悲しきワルツ」である。これはまた一転して、強弱の差を極端につけ、タメを作りまくった演奏。さすがにうまく呼吸があっているので、このコンビならこのような古典とは異なるスタイルでも、自在に演奏できるということであろう。おっとこれは、ベルギー象徴派のジャン・デルヴィル風か? (笑)
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演奏終了後には指揮者とソリストのサイン会があったが、終演が遅かったので今回はパス。そして帰宅した私は、ちょっと面白いニュースを知ることになった。それは音楽事務所 KAJIMOTO からの DM で、来年の World Orchestra Series の紹介。ここには、スイス・ロマンド管 (ジョナサン・ノット指揮)、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管 (アンドリス・ネルソンス指揮)、フィラデルフィア管 (ヤニック・ネゼ=セガン指揮) と並んで、以前からロイヤル・コンセルトヘボウ管の名前が入っていたのだが、コンセルトヘボウは当然首席指揮者のダニエレ・ガッティかと思いきや、「指揮者未定」となっていた。それがなんと、今回の DM では、パーヴォ・ヤルヴィの名前が入っているのである!! 2019年 11月、ソリストにラン・ランとリサ・バティアシュヴィリを迎え、ブラームス 4番やショスタコーヴィチ 10番を振るようだ。これはまた楽しみである。・・・と書いてからまたまた知った衝撃情報。ガッティは今年 8月、女性楽団員へのセクハラによって、首席指揮者を解任されていた!! 彼のセクハラ疑惑はもともとワシントン・ポストが報道したものであるようだ。コンセルトヘボウのサイトでの発表によると、ワシントン・ポストの報道のあと、被害者たちからの楽団あて報告も相次いだにも関わらず、それに対するガッティの反応に問題があったということで、8月 2日付で即日解任、ガッティとのすべてのコンサートはキャンセルされたとのこと。正直なところ私はこのガッティという指揮者には少し複雑な思いもあって、この報道を聞くことで、少し想像できる部分もあるのだが、それにしても、なんという愚かなことをしてしまったのか。不愉快であり、また残念である。だが、東京でコンセルトヘボウの再来日を待つ身としては、その失望をヤルヴィの指揮への期待感に替えたいと思うのである。

by yokohama7474 | 2018-12-13 01:25 | 音楽 (Live) | Comments(0)

アラン・ギルバート指揮 東京都交響楽団 2018年12月10日 サントリーホール

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つい先頃、11月初旬にドイツ・ハンブルクの NDR エルプフィルを指揮して素晴らしい演奏を聴かせてくれたばかりのアラン・ギルバートが、早くも東京のステージに再登場だ。首席客演指揮者を務める東京都交響楽団 (通称「都響」) とのコンビで、今週・来週 2回ずつのコンサートを開く。音楽過密都市東京では、年末の第九一色の時期のぎりぎり手前まで、各オケがしのぎを削っているから侮れない。このコンビの演奏会、通常ならば 2プログラムとも行くのであるが、来週は残念なことに、私はこの時期特有の社交イヴェント、まぁ平たく言えば忘年会 (笑) があるので、今回の演奏会 1回だけしか体験できない。だがこれは是非とも聴きたい好プログラムである。
 メンデルスゾーン : 序曲「フィンガルの洞窟」作品26
 シューマン : 交響曲第 1番変ロ長調作品38「春」
 ストラヴィンスキー : バレエ音楽「春の祭典」

うーん。1曲目と 2曲目は、ドイツ初期ロマン派つながり。2曲目と 3曲目は、春つながり。だが、前半 2曲と後半の曲の差は、それはもう限りなく大きい。もちろん季節は今、冬が本格化するところで、春には未だ遠いのであるが、先頃音楽監督大野和士との契約を 3年延ばして 2023年までとしたこのオケとして、これから我が世の春を味わおうという意思表示だろうか。いやいやそんなわけはない。今回のプログラム冊子に掲載されたインタビューで、今後都響とどんな活動をしたいかという質問に対するギルバートの答えは以下の通りだ。

QUOTE
東京は世界の大都市。プロ・オーケストラが 10団体ほどあり、世界中のオーケストラが来日する大音楽都市です。とても競争が激しい。ですから単に新作や日本の作曲家を取り上げるという次元にとどまらない、そのような環境の中で活動することの意味を考えたい。ニューヨークでも同じでした。答えは一つではないでしょう。良い挑戦になると思います。
UNQUOTE

さすが、東京という街の状況や自らの置かれた環境をよく把握した上で、都響との活動に取り組んでいるわけである。我々東京の聴衆は、彼のこの言葉をよく咀嚼したい。今回も客席には空席が目立ち、いかに忘年会シーズンと言えども、これはいかにももったいないことではないか。この写真は、彼がニューヨーク・フィルの音楽監督時代、2009年の、多分演奏後に撮られたであろう、ギルバート・ファミリーの肖像。
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私はこれまでこのブログで何度もアラン・ギルバートの指揮を採り上げて来ているが、そのすべてを手放しで大絶賛しているわけでは決してない。だが、音楽ファンというものは、ある演奏家との出会いがあり、その後彼または彼女との演奏に何度か接するうちに、自分なりの評価が決まってくるもの。時には最初の期待が失望に変わることもあるだろうし、あまり興味を持てなかった演奏家に、あるとき突然心を動かされることもあるだろう。そして私にとってアラン・ギルバートは、最初の出会いで圧倒的な感銘を受け、その後機会あるごとに彼を聴き続けることで、自分の最初の感覚を追認することになって来ている、大変に信用に値する指揮者なのである。先の NDR エルプフィルとの演奏のクオリティは先に書いた通りだが、この都響とも、共演を重ねるごとにその距離を縮めてきているように思われてならない。例えば今回の前半の 2曲、初期ロマン派の作品は、豪快に鳴らす必要はなく、だがただ繊細に演奏すればよいというものでもない。そこには、純然たる音のドラマと、ロマン主義特有の夢幻性が必要であり、意外と演奏効果が上がらないこともある。特にシューマンのシンフォニーは、今年来日したティーレマンとシュターツカペレ・ドレスデンという最高のコンビですら、誰もが絶賛する内容にはなっていなかったと私は思う。また私は以前ニューヨーク・フィルで、このアラン・ギルバートによるシューマン 3番「ライン」を聴いたことがあるが、それほど感動しなかった。だが今回のメンデルスゾーンとシューマンは、都響の重量感のある弦と、軽やかな木管、中庸さを持つ金管の組み合わせによって、大変説得力があり、また楽しい (これが大事である!!) 演奏になっていたと思う。この 2曲は暗譜による指揮で、ギルバートは大きな体を駆使して多彩な指示をオケに繰り出していたが、その指揮ぶりは飽くまでストレートであり、もったいぶったところは皆無である。時折フルートなどの木管ソロを指さして、弦楽器奏者にそれを聴くように促す指示を出すシーンも見られたが、これぞアンサンブルの極意で、プロのオケなら当然わきまえていることではあれど、実績を持つ指揮者によるそのような指示には、やはり独特の霊感があるものだと思う。メンデルスゾーンの描き出した北の海の情景は、最初から最後までクリアな音で眼前に迫ってくるようであった。また、シューマンの終楽章冒頭では、うっと力を込めて指揮棒を振り下ろす次の瞬間に弦が雪崩を打って入ってきたが、合わせるのが難しいに違いないこの箇所も、ビシッと決まっていながら、同時に人間味を感じさせる表現。それに続く、タメを作りながら弦が流れ出す箇所の呼吸も見事。そうして、楽章が進んでから途中休符があって、ホルン、そしてフルートの揺蕩いの後にまた音楽が走り出す箇所も同様で、これはやはり、指揮者とオケの信頼関係がないと聴けない音であったと思う。両端楽章の反復を繰り返す丁寧さもあり、いかにも初期ロマン派らしい爽やかさは、聴いていて本当に楽しいものであった。

そして休憩後は一転して、野性のリズムが吹き荒れる「春の祭典」である。ギルバートはここでは譜面を見ながらの指揮であったが、その指揮ぶりにはやはり大変几帳面なところがある。大柄な体格や、決して器用さを感じさせない彼の指揮ぶりからはあまり想像できないかもしれないし、時にはそれがうまく行かないこともあると思うが、彼の指揮には基本的にこのような几帳面さがあるように思う。もちろん、曲が曲だけに、安全運転では面白くないところ、ギルバートと都響は、この曲特有の野性も充分に描き出していたと思う。例えば木管楽器。改めてステージを見渡すと、この楽団自体がかなり若い人が多いが、特に木管は、若手ばかりである (40年前に私がこのオケを初めて聴いた頃には生まれていなかった奏者がほとんどだろう。笑)。その若手奏者たちに対してギルバートは、かなり信頼を寄せて自由に演奏させているように見受けられた。ただやみくもに野性を表現するのではなく、その演出効果も充分に考慮して描き出す音のドラマ。これはやはり、聴きごたえ充分である。
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ここで再び、彼のインタビューに触れて、この記事を終えることとしたい。

QUOTE
音楽は生きた経験です。人生の特定の時間を多くの人と一緒に過ごすという貴重な機会。世の中には様々な文化がありますが、音楽は特定の空間でそこでしか体験できない、という意味で特別な存在です。
UNQUOTE

これは言い得て妙であり、私自身もいつも感じていることだ。だが彼の主張はこのような理想的なことばかりではなく、現実と向き合う姿勢が鮮明だ。オーケストラは社会的な存在であり、社会に貢献すべきだと考えているという。2017年には、「音楽が国境を超え人々が団結するための架け橋になれる」という趣旨のもと、国連との提携で「グローバル・オーケストラ・プロジェクト」というイヴェントを開催し、ニューヨーク・フィルが中心となって、紛争国を含む 20ヶ国の楽員が集ったという。そこには都響の首席ヴィオラ奏者、鈴木学も参加したらしい。これは過去の都響の演奏会で、鈴木を立たせるギルバート。
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社会に開かれ、社会に対して貢献するオーケストラ。そのことを聴衆も認識し、ごく自然にそのような音楽活動を楽しみたいものである。

by yokohama7474 | 2018-12-11 01:16 | 音楽 (Live) | Comments(0)

モーツァルト : 歌劇「フィガロの結婚」K.492 (演奏会形式) ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団 2018年12月 9日 サントリーホール

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東京交響楽団 (通称「東響」) とその音楽監督、ジョナサン・ノットが演奏会形式で採り上げる、モーツァルトのダ・ポンテ三部作の締めくくりである。この「ダ・ポンテ三部作」とは何かというと、イタリアの詩人ロレンツォ・ダ・ポンテ (1749 - 1838) が台本を書いたオペラで、作曲順で言えば今回の「フィガロの結婚」(1786年初演)、「ドン・ジョヴァンニ」(1787年初演)、「コジ・ファン・トゥッテ」(1790年初演) である。このブログでは過去 2回の上演も、ある種の興奮を持って記事にしたが、今回はその三部作の完結編ということで、期待もひとしおである。ノットがこの 3作を演奏するに当たり、作曲を逆行する順番にしたのはいかなる理由によるものか。それは最初の「コジ」の演奏の際の発言で分かるのだが、そのときノットは、3作の中で最も難しいのがその「コジ」であり、それが成功すればほかの 2作も成功すると思ったという。こうして 3年がかりですべて聴くことができた身としては、もちろんどれも簡単ではない作品において、いずれも素晴らしい出来を示したノットと東響のコンビに、心から拍手を送りたい。
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そもそもこの「フィガロ」という作品、フランス革命前夜に書かれているわけであるが、音楽の素晴らしさはさておいて、貴族の欲望を赤裸々に描き出している点に驚くのである。その一方で、その貴族たちが極めて人間的で憎めないという設定が、21世紀の今日でもひっきりなしにこのオペラが上演される理由であろう。一日の間に起こるドタバタ喜劇であるが (今や音楽祭の名称としておなじみの「ラ・フォル・ジュルネ」とは、もともとこのオペラの原作であるフランスのボーマルシェ (1732 - 1799) の小説のタイトル、「狂おしき一日」のこと)、まさに目まぐるしくも狂おしい一日の様子が描かれている。今ここで再確認したいのは、このオペラの初演は、原作者ボーマルシェ (モーツァルトより 24歳上) の現存中であったことだ。これを書いたときに若干 30歳であったモーツァルトは、貴族たちに対して一体いかなる気持ちを抱いていたのか、いつも気になるのである。ともあれ、この「フィガロ」がプラハ (錬金術の街であり、土人形に命を吹き込まれるゴーレムの街である) で初演されたときに人気を博したことで「ドン・ジョヴァンニ」の中に「もう飛ぶまいぞこの蝶々」の旋律が使われることになったし、また「コジ・ファン・トゥッテ (= 女はみんなこうしたもの)」とは、この「フィガロ」の第 1幕でドン・バジーリオが口にする歌詞。そう考えると、やはりこの「フィガロ」こそ、モーツァルトのオペラの頂点と考えてもよいと思うのである。今回もハンマーフリューゲルを自ら弾きながら指揮をしたノット。
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過去 2回も、若手歌手を中心とする活き活きとした演奏に魅せられてきたが、今回はそれが極まった感がある。女声陣は、スザンナのリディア・トイシャー、アルマヴィーヴァ伯爵夫人のミア・パーション、ケルビーノのジュルジータ・アダモナイト、バルバリーナのローラ・インコ。いずれの歌手も、見た目も歌も最上級である。なんと豪華な顔ぶれだろうか。因みに 2人目のミア・パーションは、最初の「コジ・ファン・トゥッテ」でフィオルディリージを歌うはずが、急病で来日をキャンセルしているので、今回は待望の登場ということになる。
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いやいや、彼女らはいずれも素晴らしかったが、今回の女性歌手で最も素晴らしかったのは、この人であると私は思う。
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おっとこれは 1995年に録音された、ジュゼッペ・シノーポリ指揮バイエルン国立管による「カルメン」ではないか。主役はもちろん、ジェニファー・ラーモア。今回彼女が歌ったマルチェリーナは、嫌味な熟年女性という役柄であり、物語の進展上も、それほど重要ではないゆえに、あまりパッとしない歌手が歌うことが多いのだが、今回は例外だ。熟年の嫌らしさと、息子を思う母の気持ちを巧く歌い分けており、中でも、第 4幕で歌われるマルツェリーナ唯一のアリアは、慣習的にカットされることもあるが (その次のドン・バジーリオのアリアとともに)、今回はもちろんノーカット。さすがラーモアは一味違う。これが最近の写真である。
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女声陣だけではない。主役のフィガロを歌ったマルクス・ヴェルバは、「コジ」でグリエルモを歌っていた人だし、バルトロとアントニオの二役を歌ったアラステア・ミルズは、この上演の演出を担当 (その上、ダンスシーンではローワン・アトキンソン並の体のキレを披露。笑)。そしてアルマヴィーヴァ伯爵役のアシュリー・リッチズは、上演前に「体調不良だが、本人の強い意志によって歌う」とアナウンスされたが、充分立派な出来であった。
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実際このポピュラーなオペラは、日本人キャストだけでも充分に高度な上演が可能であるにも関わらず、このように世界で活躍する歌手たちが集い、演奏会形式とは言っても、譜面を見ることなく、舞台を縦横に利用しながら、かなり複雑な演技をこなしたということには、東京の音楽界にとって大きな意味がある。このような演奏に刺激を受けて、日本の歌手たちのレヴェルもますます上がって行くことだろうし、今回出演した新国立劇場合唱団の歌唱も、さらなる洗練が今後なされて行くことが期待されるのである。そして、忘れてはならないのは、ノット指揮の東響が響かせた充実の音である。オペラの演奏会形式上演では常に、オーケストラパートの精妙さに改めて気づくのであるが、この「フィガロ」のように様々な工夫が凝らされた極上の音楽では、そのような発見が本当に楽しい。今回もホルンやトランペットは古いタイプの楽器であり、古雅ではあるが洗練された響きに、ノットと東響のコンビの充実を感じることができた。なんという素晴らしい演奏。ノットと東響は、また来週意欲的な演奏会を開く。それも大注目なのである。
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by yokohama7474 | 2018-12-09 22:20 | 音楽 (Live) | Comments(0)

イーヴォ・ポゴレリッチ ピアノ・リサイタル 2018年12月 8日 サントリーホール

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旧ユーゴスラヴィア出身のピアニスト、イーヴォ・ポゴレリッチを聴く。この人のリサイタルは、週末の開催であっても午後とか夕方ではなく、平日のコンサートと同じ 19時開始という印象があって、しかもテンポの遅い演奏がほとんどなので、終了時刻が結構遅くなりがちだ。だがそんなことに構ってはいられない。彼のピアノは、絶対に聴く価値のあるものであるからだ。前項の N 響の演奏会を指揮したトーマス・ヘンゲルブロックと同じく、今年 60歳。上のチラシにも「還暦」とあるが、まあそれは東洋の考え方であって、ヨーロッパ人たるポゴレリッチにはその意識があるものかどうか (笑)。プログラム冊子に掲載されているインタビューには、「日本では人生が元に戻って 2回目の生が始まるといった、『めでたい年』とされているが、人生は 1つだと思うか、どこから 2つめと思うことがあるか」という、なかなかにハードな質問 (?) がなされているが、ポゴレリッチは慌てず騒がず (かどうかわからないが)、このように答えている。

QUOTE
ヨーロッパでは「還暦」とは異なる視点から、人間の一生をとらえます。一般的に、20歳から 40歳までは人間が発展していく時期、40歳から 60歳までは成熟を重ねていく時期、そして 60歳から 80歳までは賢明さを手にし始める時期とみなされているのです。ちなみに 80歳を過ぎると、人は深い哲学的境地を開き、人生を達観します。
UNQUOTE

ここで気づくのは、彼は「私はこう思う」と言い方をしていないことである。つまり、自分が生まれる前から決まっている習慣や、先人たちの知恵に対する敬意が感じられるのである。あるいは、同じインタビューで、昨年の来日時に奈良の正暦寺 (もちろん常識だと思うが、紅葉だけではなく、孔雀明王像が有名だ) で行ったテレビ用の演奏についての質問でも、聞き手が「奈良の寺」としか言っていないのに対し、ちゃんと「正暦寺」という名称を挙げて、その寺を「幾世紀もの間に訪れた人々」に思いを馳せたと答えている。やはり彼は、自らの芸術家としての鍛錬や、乗り越えてきた苦難を切々と語る人ではなく、時の流れとか人々が積み重ねてきた思いにこそ、彼の芸術家としての霊感の源泉があるのだろう。そしてピアニストとしてそれはまた、作曲者の思いを重視する態度にも通じるものであると思う。このところ毎年のように来日してくれているポゴレリッチ、このブログでは 2年前のリサイタルについての記事を書いたが、今回も大いに期待が高まる。曲目は以下の通り。
 モーツァルト : アダージョ ロ短調K.540
 リスト : ピアノ・ソナタ ロ短調
 シューマン : 交響的練習曲作品 13 (遺作変奏曲付)

ドイツ系で統一した曲目であり、前半の 2曲はともにロ短調。ポゴレリッチは、この調を「私的な調性」と呼び、モーツァルトの「アダージョ」について、「リストとシューマンの両曲が具えている独創性とファンタジーをいっそう際立たせる効果を期待してもいます」と語っている。そしてそのリストとシューマンの曲について、「その内省的で内に秘めた音楽は、私たちの心を絶えず揺さぶります」とコメントしている。今回のツアーでは、同じ曲目を既に西安と北京で演奏し、日本では霧島、大阪、名古屋を経て、今回の東京が最後である。
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一言で言ってしまうと、彼のピアノは、ほかの誰にも似ていない。これは実際にその場に身を置いてみないと分からないことかもしれないが、彼がピアノから繊細に紡ぎ出す、あるいは激しく迸らせる音の数々には、通常の意味での抒情性とか輝きといった表現では足りない、何か突き抜けたものがある。もちろん、今年も東京では世界トップクラスのピアニストの数々を聴くことができたわけであり、それぞれに偉大な音楽を奏でて行ったのであるが、それでもこのポゴレリッチの演奏には、ほかの誰とも異なる、彼だけの表現が横溢していることを実感するのである。あえて比喩を使うと、そこには地獄の釜が開き、覗き込むとその深奥にクラクラと眩暈を覚えるはずだが、このピアニストはその地獄の釜の縁を静かに歩みつつ、ただ無言でその釜の神秘を示している、という感じであろうか。彼の演奏姿はいつもの通り、喜怒哀楽を露わにはせず、淡々としたもの。ステージに登場するときには譜面を携え、ステージ上では聴衆に大変礼儀正しくお辞儀をする。そして、譜めくりの女性を脇に従えて、譜面を見ながら演奏をする。終了後にはもちろん何度もステージと袖を往復するが、その前に演奏し終えた曲の楽譜を持ったまま登場し、後ろ手にそれを持ちながらお辞儀をする。これは昨年の来日公演の様子。
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これを何やら宗教儀式のようだと表現すると、恐らく語弊があるだろう。宗教の勧誘にありがちな排他性や、思わせぶりな謳い文句、幸福の押し売りというものとは、このコンサートは全く無縁である。だがそれにも関わらず、音楽という深遠な世界に我々を導いていれる司祭として、ポゴレリッチという存在を考えると、なにかしっくりくるものがある。例えば最初のモーツァルトにおける、変転する曲想から透けてくる救いようのない孤独感や、既にポゴレリッチが過去に何度も手掛けているにも関わらず、その遅いテンポで改めて曲の悪魔性を抉り出したリストのソナタには、客席に座っている私たちとしては、その音のドラマに、また作曲家の心の深淵に、耐えて座っているしかない。そこではこのピアニストの音に、ただ従うしかない。また、後半のシューマンでは、5曲の「遺作変奏」なるものが、「交響的練習曲」に先だって演奏されたが、初めて聴くこれらの曲に、私はなんとも胸を締め付けられるような思いを抱いた。実はこの追加の 5曲は、作曲者の死後、弟子であったブラームスの監修のもとに出版されたものであり、未亡人クララはそれには反対したらしい。つまり、様式的には作曲者が完成作としたもの (それをクララはよしとした) に、いわば脈絡のない 5曲が無理矢理くっつけられたということである。だがこの 5曲、なんという幻想性。なんという孤独感。ブラームスが師の本質と評価した抒情性が、ここにはあるように思う。私はこの 5曲を聴く間、抒情性に魅入られながらも、何か大変不安であった。いつになればあの「交響的練習曲」が始まるのだろうという不安。そしてその不安は、聴き慣れた曲の本体に入ったときには払拭されたが、全くこれみよがしなところのないポゴレリッチの演奏に、痺れるような感覚を持った。その強音の響き方は凄まじいのだが、弾いている本人が淡々としているので、その異様な表現力に圧倒されっぱなしであった。今回はアンコールもなかったが、コンサート終了時には既に 21時20分。聴きごたえは充分すぎるほどであった。

終演後にサイン会があるというので、ホール内の廊下に並んでいると、楽屋から、スタッフか、あるいはもしかしたらポゴレリッチの家族か?とも思われる外国人の初老の女性と並んで出てきたカジュアルなジャンパーの人物は、なんと村上春樹である。音楽好きで知られるが、私はこれまでコンサートでその姿を見掛けたことはないので、ついジロジロと見てしまった (失礼)。楽屋に何かを忘れたのか、廊下で立ち止まって戻ろうかというそぶりを見せ、だが "It's OK" と同行の女性に伝えて、そのまま帰られました。しばらくしてポゴレリッチが出て来たが、思い返せば 2年前にサインをもらったときもそうだったように、ポゴレリッチは椅子には座らず、立ったままのサイン会。外は未だそれほど寒くないのに、こんなに着込んでいた。これも、凡人とは異なる天才のふるまいのひとつととらえよう。
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いよいよ余人の追随を許さない唯一無二の境地に入っているポゴレリッチ、次回来日は 2020年 2月16日 (日) と発表された。また週末の 19時からだが (笑)、バッハ、ベートーヴェン、ショパン、ラヴェルという、ピアノ音楽の歴史を凝縮したようなプログラムであり、ほかの誰からも聴くことのできない音楽を体験するため、1年 2ヶ月後を楽しみにしたい。
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by yokohama7474 | 2018-12-09 11:07 | 音楽 (Live) | Comments(0)

トーマス・ヘンゲルブロック指揮 NHK 交響楽団 2018年12月 8日 NHK ホール

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12月の NHK 交響楽団 (通称「N 響」) の定期公演は興味深い。いつもの通り 3種類のプログラムが 2回ずつ演奏されるのであるが、今回は少し変わっている。3種類のプログラムを振るのはそれぞれ別々の 3人の指揮者。だが面白いことに、3種類の定期のうち 2つ (A と B) は、ロシア人指揮者によるロシア音楽という点で共通し、また別の組み合わせの 2つ (B と C) は、クリスマスの音楽という点で共通する。但し、A と C の間には共通点は見出せなかった (笑)。ともあれこのような変則的な事態が発生したには理由がある。昨年まで N 響の 12月定期を指揮するのは、例年恒例の指揮者であった。それは、このオーケストラの名誉音楽監督であるシャルル・デュトワ。私としては、確かにここ数年は彼が 12月定期を指揮していた記憶は明確なのであるが、ちょっと思い立って調べてみた。すると、驚くべきことに、1995年 (常任指揮者に就任する前年) から昨年 2017年までの 23年間、彼が 12月に登場しなかったのは、2003年、2005年、2006年、2007年のたった 4回のみ。しかも、2004年 1月と 2007年 1月には登場しているから、本当に過去四半世紀近く、年末年始にデュトワの姿を指揮台で見なかったことはほとんどないということになる。だが彼は、例のセクハラ疑惑によって早々に今回の指揮をキャンセルしてしまった。その報道は今からちょうど 1年ほど前、昨年デュトワが N 響を振り終えた後の、クリスマス前になされた。その後そのセクハラ疑惑がいかなる展開を見せているのか知らないが、ともあれ今年は、デュトワなしの 12月定期である。

私はここで大変感心する。N 響は今やこのような非常事態であっても、それを逆手に取って、実に意欲的な試みでそれを乗り越えることができる。これはやはり、オケ自体に世界的な名声がないと不可能な話であろうし、またその意欲的な試みを高水準の演奏でこなしてしまう点にも、このオケの底力を見る気がする。今回私が聴いたのは C プログラム。N 響に初登場したこの指揮者による演奏会である。
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長身のドイツ人指揮者、トーマス・ヘンゲルブロック。1958年生まれだから、今年 60歳になる。もともと古楽出身の人だが、近年では、NRD エルプフィル (旧北ドイツ放送交響楽団) の首席指揮者 (2011 - 2018年) として知られ、実は、先に来日したこの楽団を指揮したのは次期首席のアラン・ギルバートであったが、昨年このオケの来日が発表された際には、このヘンゲルブロックの指揮が予定されていた。私自身はこの指揮者の実演に接したことがこれまでなく、その実力に関しては近年のイメージだけであったが、例えばその NDR エルプフィルの本拠地、エルプフィルハーモニーのこけら落とし公演の曲目などを見ると、この人、大丈夫か !! と思うくらい (笑)、新旧の音楽がそれはもう激しくミックスされている (映像がディスクとして発売されているので、興味おありの向きは是非に)。キャリアの初期には、あのニコラウス・アーノンクールのウィーン・コンツェントゥス・ムジクスでヴァイオリンを弾いていたという。その後は現代音楽の薫陶も受ける一方で、古楽団体フライブルク・バロック管弦楽団を設立、実に多彩な活動を繰り広げている。そんな彼が今回 N 響で指揮するのは、本領発揮のオール・バッハ・プログラム。
 管弦楽組曲第 4番ニ長調BWV.1069
 前奏曲とフーガ 変ホ長調BWV.552「聖アン」(シェーンベルク編)
 マニフィカト BWV. 243 (クリスマス版)

上のチラシにある通り、N 響がバッハの声楽曲を採り上げるのは、1998年のブロムシュテット指揮のロ短調ミサ曲以来 20年ぶりのこと。確かに昨今の東京のオケでは、バッハの作品が採り上げられる機会は減っている。それは、昔のように大きめな編成でヴィブラートをかけたロマンティックなバッハがもはや流行らないことが原因であろう。だが、今年 7月には広上淳一が日本フィルで今回と同じ「マニフィカト」を振っているし (私はチケットを持っていたが所用で行けなかった)、今回のような古楽から現代音楽まで振る異例の指揮者が、いかなる音楽を聴かせてくれるのか、大変に楽しみであった。
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今回の 3曲、最初と最後がバッハのオリジナルであるのに対し、真ん中の曲は、現代音楽の始祖であるシェーンベルクの編曲。よって両端の曲は、オケの編成はコントラバス 2本で、指揮者は指揮台も用いずにステージに直に立って暗譜で指揮したのに対し、真ん中の曲では、コントラバス 8本の通常編成で、指揮台も用意され、指揮者は譜面を見ながらの指揮である。指揮棒を使わず、ヴァイオリンを左右対抗配置にするのは全曲に共通。さて、そのような能書きはどうでもよい。私は今回、N 響のこの意欲的なプログラム内容だけでなく、その素晴らしい技量に感服した。バッハのように、音の層が薄くても声部が多く、推進力が必要な音楽を演奏するには、呼吸よくお互いの演奏を聴き合う必要があろう。その点今回の演奏は、NHK ホールという大ホールを舞台にしながら、なんともたおやかで喜悦感に満ちたもの。実に巧いオケであると思った。最初の管弦楽組曲は、4曲あるうち、よく知られた 2番や 3番ではなく、4番というあたりが渋いのであるが、曲そのものは決して渋くはない。ヴィブラートをほとんどかけない弦楽器も見事なら、よく通る木管、華やかなトランペットと、バロック音楽の神髄を聴くことができた。

2曲目は、もともとオルガン曲をシェーンベルクが大オーケストラに編曲したもの。編曲が行われたのは 1928年、ベルリンにて。そして 1929年のベルリン・フィルによる世界初演を振ったのは誰あろう、ウィルヘルム・フルトヴェングラーだ!! 後にナチスによって帝国音楽院副総裁に就任する羽目になるフルトヴェングラーと、ユダヤ人作曲家シェーンベルクの出会いは、なんとも刺激的だ。フルトヴェングラーは前年の 1928年には、やはりシェーンベルクの「管弦楽のための変奏曲」をベルリン・フィルとともに世界初演している。そこで、この 2人の写真がないか否か探してみたが見当たらない。代わりといっては何だが、この不世出の大指揮者の、シベリウスとの貴重な写真を掲載しておこう。こんな写真が残っているとは知らなかった。全くの余談だが、フルトヴェングラーが録音も残したシベリウスの交響詩「伝説」は、トスカニーニも指揮している。20世紀半ばにおいて既に確立していたこの作曲家のステイタスが分かろうというもの。
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話を元に戻すと、この「聖アン」の演奏も、実にたおやかで美しい限り。このような演奏を聴いていると、古楽だとか現代楽器だとかいう区別には意味がないものと思われてくる。よい音楽は、ただよいのである。因みにこの編曲、管と弦のバランスや音型に、同じシェーンベルクが編曲したブラームスのピアノ四重奏曲第 1番を連想させる箇所がいくつかある。シェーンベルクの個性が刻印された、音楽史に残る編曲であると思う。ただ陰鬱な音楽を書いただけではない、シェーンベルク。
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そしてメインは「マニフィカト」である。キリストを懐妊した聖母マリアをたたえるこの曲、バッハがライプツィヒの聖トーマス教会のカントル (音楽カントル、じゃなかった、音楽監督) に就任した 1723年に書かれている。ほぼ 300年前の曲ということになる。30分ほどの、さほど長くない曲だが、今回は「クリスマス版」ということで、4曲の挿入歌 (合唱団が通奏低音の伴奏で歌い、オケは参加しない) を途中に入れて演奏された。ここでの今回の目玉のひとつは、合唱団である。何を隠そう、1991年にこのヘンゲルブロック自身が創設したバルタザール・ノイマン合唱団。
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この合唱団は、18世紀に活躍したドイツの建築家、バルタザール・ノイマンに因んで名付けられている。ドイツ各地に作品を残しているようだが、なんといっても世界遺産都市ヴュルツブルクの宮殿が代表作であるらしい。今回が初来日となる 30名ほどの規模のこの合唱団が紡ぎ出す声の、それはそれは美しいこと!! カウンターテナーを含むソリストたちも、合唱団のメンバーが交代で務め、該当箇所では立ち位置を移動しての歌唱である。いやそれにしても、この音楽は本当に素晴らしい。バロック音楽の粋であり、バッハの代表作のひとつであることを実感することとなった。聴いているうちに、ここが極東の日本ではなく、クリスマス前のヨーロッパであるような気がしてきたものだ。そのような奥深さを感じる合唱であった。これがクリスマスのライプツィヒ。行ってみたいものです。
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この素晴らしいコンサートにはオマケがあった。定期演奏会では珍しい、アンコールが 2曲歌われたのだ。まず最初は、実は開演前から貼り紙がしてあり、また館内放送でも説明があったのだが、指揮者ヘンゲルブロックの強い希望により、ヨーロッパでのクリスマス時期の演奏習慣に従って、同じバッハの「クリスマス・オラトリオ」BWV. 248 (これは「マニフィカト」と違って長い曲) の第 59曲「我らはここ馬槽のかたえ 汝がみ側に立つ」。私はこれを聴いて、なぜだか胸がいっぱいになってしまった。バッハの音楽の不朽の力によるものであろう。そしてもう 1曲、15世紀フランスで生まれたクリスマス・キャロル (ヒッレルード編)、「久しく待ちにし主よとく来たりて」。多くの人がキリスト教の習慣を持たないここ日本で響いた敬虔な声は、実に感動的であった。

このような充実したコンサートであったわけであるが、N 響の優雅な響きを、ヘンゲルブロックが実に巧みに弾き出していて見事であった。このような音楽が聴けるなら、N 響は毎年 12月にこの指揮者を招聘し、クリスマス特集を恒例にしてはどうだろう。たまたまこの日の朝再放送で見た NHK 「チコちゃんに叱られる!」では、なぜ日本の年末には第九が盛んに演奏されるのかについて、戦後 N 響が、楽員の年越し費用捻出のために始めたものであるという説が披露されていた。今や日本は成熟国家になるべきであり、第九ばかりではなく、ヨーロッパのクリスマスの雰囲気がもっとあってしかるべきではないか。東京の音楽界を引っ張る N 響には、新たな音楽文化を創り出すことが可能ではないかと思うのである。

by yokohama7474 | 2018-12-09 02:00 | 音楽 (Live) | Comments(4)

沼尻竜典指揮 日本フィル (ソプラノ : エディット・ハラー) 2018年12月 7日 サントリーホール

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12月も半ばに近くなると、東京の音楽界ではそろそろ第九の気配が漂ってくる。サントリーホールの 2階通路には、その月と翌月のコンサートのチラシがズラリと貼ってあるが、今月は第九、来月はニューイヤーコンサートの類がほとんどである。だが、密度の高い東京の音楽シーズンは未だ終わったわけではない。今回の日本フィルハーモニー交響楽団 (通称「日フィル」) の定期演奏会の曲目は、以下の通り。
 ベルク : 歌劇「ヴォツェック」より 3つの断章 (ソプラノ : エディット・ハラー)
 マーラー : 交響曲第 1番ニ長調「巨人」

音楽ファンならすぐに分かる通り、この組み合わせは、ウィーン世紀末とその系譜として、大いに筋の通ったもの。この演奏を指揮するのは、1964年生まれの沼尻竜典である。1990年のブザンソン国際指揮者コンクール (小澤征爾、佐渡裕をはじめ、多くの日本人優勝者を出している) での優勝をきっかけに世に出て、国内外で活躍している。現在はびわ湖ホールの芸術監督として意欲的な活動を展開しているほか、昨年まではドイツ、リューベック歌劇場の総監督でもあった。
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彼が今回指揮をする日フィルは、2008年まで正指揮者を務めていた関係であるから、それから 10年経っているとはいえ、気心は知れているだろう。このブログでは東京のオーケストラ演奏会を多くご紹介しているが、そこに登場する百花繚乱の指揮者陣において、日本人指揮者の占める割合は、実はあまり高くない。そんな中、中堅日本人指揮者としてこの沼尻あたりが存在感を見せてくれることで、東京の音楽シーンが大いに盛り上がることは間違いないだろう。今回私が期待したのは、この人はもともとこの世紀末からの系譜につながるレパートリーに真摯に取り組んでいるのを知っているからで、マルカンドレ・アムランとともにブゾーニの大作、ピアノ協奏曲を日本初演したのは 2001年。そして、天羽明惠らを主役にベルクのオペラ「ルル」をやはり日本初演したのは 2003年。また来年には新国立劇場で、「ジャンニ・スキッキ」と同時上演でツェムリンスキーの「フィレンツェの悲劇」を指揮するなど、明確な路線を維持している。だが私も彼の演奏はかなり久しぶり。一体いかなる音楽を聴かせてくれるであろうか。

久しぶりといえば、最初の曲目であるベルクの「ヴォツェック」を、最近実演で見ていないなぁと思う。以前は、若杉弘や小澤征爾が採り上げたり、アバドやバレンボイムも来日公演でこの演目を披露してくれた。だが最近接した上演として今私が思い出せるのは、2009年に新国立劇場で見たハルトムート・ヘンヒェン指揮のものくらいである。聴いていてワクワクウキウキする曲では全くなく、むしろその暗さ、悲惨さ (ストーリー、音楽とも) に、聴いていて段々つらくなるような曲なのであるが、幸い (?) 演奏時間があまり長くないので、その凝縮性に救われる点もある。今回演奏された「3つの断章」では、作曲者自身によって、全曲の中の 3曲が選択されていて、主役ヴォツェックの内縁の妻マリーの歌が、それぞれの断章に入る。今回歌ったのはエディット・ハラーというソプラノ歌手。2010年にティーレマンのもとで「ワルキューレ」のジークリンデを歌って主役デビュー、来年はメトロポリタン歌劇場で「神々の黄昏」のグートルーネを歌うという。この「ヴォツェック」のマリーも、既にバーゼル歌劇場で歌った経験があるらしい。未だ若手であるが、ワーグナー歌いとしての実績を積みつつあって、今回の役柄には大いに適性ありだ。
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このハラーの歌唱は、確かに強い表現力を持ったものであったと思う。但し、この曲においては、歌で魂を揺さぶられるということにはあまりならず、やはりオーケストラが織りなす、なんというか、黒い水が延々と流れて行くような、そんな退廃的な人間ドラマこそが聴き物である。沼尻と日フィルの演奏は、充分劇的ではあったものの、さらにえぐるような音があればもっとよかったかもしれないと思ったものだ。大変な難曲である。

そして、そのハラーも客席に座って鑑賞した後半の「巨人」であるが、このブログで見てきた通り、このところ何度も実演に接している曲。日本人指揮者と日本のオケによって、独特の感性を聴かせて欲しいと思ったものだが、ここでも、技術的にはほとんど難はないにも関わらず、どういうわけか、終始感動に酔いしれるということには、残念ながらならなかった。ひとつの原因は、過去 2ヶ月ほどの間に世界最高クラスのオケを立て続けに聴いてきたので、どうしてもその音が耳に残っていて、比較してしまうということであろうか。例えば弦楽器の千変万化する多彩な表情や、木管の自己主張ぶり、金管のパワーと美感の両立、といった点において、やはり世界の超一流と比べると分が悪い (ゲストコンマスは今回も白井圭であったが)。繰り返しだが、技術的な破綻はなく、いやそれどころか、美しいと思う瞬間も何度もあったにも関わらず、全体を思い返してみて、端的に言うと、少し彫りが浅い演奏であったように感じてしまうのである。それには多分沼尻の指揮も関係していて、オケを統率して音響をまとめる手腕に疑問の余地はないものの、音のドラマ性や、ここぞというときの踏み込みに、今一歩の感が残ってしまった。尚今回の演奏、ホルンは通常の 7本から 1本増やして 8本。終楽章の大詰めでは、そのホルンと、両脇のトロンボーンとトランペット 1人ずつが起立し、曲の終了まで立ったまま演奏する方法が取られていた。それにより、最後の最後では大音響による盛り上がりが聴かれたので、気分よく聴き終えることができたのはよかった。

私は思うのであるが、東京においてはこれだけ頻繁に世界のトップクラスのオーケストラを聴くことができるがゆえに、やはりそれを受けて立つ日本のオケにも、大いなる刺激があるはずである。今回の客席の入りは半分以下であるかに見えて淋しかったが、私としては、在京主要オケのひとつである日フィルの健闘を期待するがゆえに、会場に足を運んだわけである。だからこそ、私個人としては課題の残る演奏と聴いたこの演奏会も、また次へのステップとして期待を継続する要素になろうというものだ。来年にはヨーロッパ公演も控える日フィル、その大舞台では、個性を充分に発揮できることを期待したいと思う。また、最近は作曲までしてしまうマエストロ沼尻には、また次の機会に、違う一面を見せて欲しい。
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by yokohama7474 | 2018-12-08 00:27 | 音楽 (Live) | Comments(0)

ヴェルディ : 歌劇「ファルスタッフ」(カルロ・リッツィ指揮 / ジョナサン・ミラー演出) 2018年12月 6日 新国立劇場

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東京がいかにすごい街であるかの一例を挙げたいと思う。私はある日、ヴェルディの最後のオペラ「ファルスタッフ」を見たいと思ったのである。いや、それは別にそれほど突飛なことではなくて、手元足元に広がる数えきれないくらいの未聴 CD の山の中からたまたま、コリン・デイヴィス指揮バイエルン放送響によるこの曲の演奏 (主役はロランド・パネライ) を聴いていて、久しぶりに実演を見たくなったというだけのことなのだが、なんであれオペラを実演で鑑賞するというのはなかなかに大変なこと。先日も、モーツァルトの「後宮からの誘拐 (逃走)」を久しぶりに見ることができると思って日程を調べたら、ウィーン・フィルのコンサートその他で既に予定が埋まっていて、鑑賞が叶わないことが判明した。そして、そもそも「ファルスタッフ」なんていう演目、あまりやってないよなぁ・・・と思ってふと思い出したことには、先日コンサート会場で配布していたチラシの中に、このオペラがあったはず。そして調べてみると、初台の新国立劇場、ということは我が東京の持つ常打ちオペラハウスの公演で、ちょうどこの演目が上演されるのである!! 今回、12/6 (木) の上演を皮切りに、4公演が上演されるが、うち 2回の週末公演は予定が合わず、1回は平日昼の公演で、残る 1回が平日夜。そんなことで、仕事の状況を見極めてから、当日券を購入して見ることができたのがこの公演である。たまたま見たいと思ったオペラをほんの 2週間かそこらで実際に見ることができる我々は、本当に恵まれているのである。

だが、「ファルスタッフ」ならなんでもよいわけではない。私が食指を動かすことになったのは、指揮 : カルロ・リッツィ、演出 : ジョナサン・ミラーという一流の名前に加え、主役のロベルト・デ・カンディアの名前に聞き覚えがあり、また、エヴァ・メイのような著名歌手の名前も見えたからである。私は未だかつて一度もこのオペラハウスの定期会員であったことはなく、また、必ずしも忠実なフォロワーですらないが、やはり東京に常打ちの小屋があるというのは、測り知れない価値のあること。これも何かの巡りあわせであろう。そして私は思い出した。確か以前この劇場で「ファルスタッフ」を見た記憶がある。調べてみるとそれは 2004年。ダン・エッティンガーの指揮で、主役はあのベルント・ヴァイクルであった。その演出がジョナサン・ミラーであり、これはその再演。実は 2004年の後にも、2007年、2015年にも上演され、今回が実に 4度目の上演である。せっかくなので、2004年の公演のプログラムの写真を掲載しておこう。
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この作品について簡単に語ることは難しい。上にも書いた通り、イタリアオペラ最大の巨匠、ジュゼッペ・ヴェルディ (1813 - 1901) が 79歳で書いた最後のオペラである。そもそもヴェルディという人のイタリアにおける位置づけを理解するには、つい先日惜しくも亡くなった、私が敬愛してやまない大映画監督、ベルナルド・ベルトルッチの超大作「1900年」の冒頭シーンがちょうどよい。ここでは 20世紀最初の年、1901年の設定で、「ヴェルディが死んだ」と民衆が騒いでいるのである (・・・と書いていて、無性にベルトルッチが見たくなってきた・・・。心から追悼致します)。そんなヴェルディの最後のオペラが初演されたのは 1893年。既に 3年前にマスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」が、前年にはレオンカヴァッロの「道化師」が初演されていて、また、この「ファルスタッフ」初演の僅か 8日前にはプッチーニの「マノン・レスコー」が初演されたばかり。つまりは新たなイタリアオペラの波が押し寄せる中で発表された老巨匠の新作は、これまでの彼の作品のどれにも似ていない、シェイクスピアのキャラクターを使った喜劇であった。イタリアの統一運動にも影響を与えた偉大なる存在で、多くは男性的で劇的な情熱溢れる作品を書いてきたヴェルディが辿り着いたのが笑いであったとは、なんとも興味深いのである。そしてこの曲の特徴は、そのアンサンブルの重要さと、きめ細かくまた目まぐるしい音楽の軽妙さであろう。私が初めてこの曲に親しんだのは、ジュゼッペ・タデイを主役に迎えたカラヤンとウィーン・フィルによるフィリップス盤のアナログレコードであったが、そこにおける演奏は、同じメンバーによる映像作品と合わせ、私にとっては未だにこのオペラの演奏の理想になっているのである。

ここらで昔話はやめておこう。今回東京で再度鳴り響いた「ファルスタッフ」にも、あれこれの聴きどころがあって、かなり楽しめる上演であったことは間違いがないのだから。主役のロベルト・デ・カンディアはイタリア人で、新国立劇場には過去、既に「マノン・レスコー」のレスコーや、「セビリアの理髪師」のフィガロ、「チェネレントラ」のダンディーニで登場しているようだ。もともとロッシーニ歌いとして名を上げたようだが、近年はこのファルスタッフやリゴレットなどを歌っており、今年ウィーン国立歌劇場で、ドニゼッティの「ドン・パスクワーレ」のタイトル・ロールを歌っているらしい。今回の歌唱には、大真面目ゆえのユーモアと、一方で意外な (でもこの役には重要な) 威厳の表出も充分であったと思う。
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フォードもイタリア人のマッティア・オリヴィエーリ、フォード夫人アリーチェにはエヴァ・メイ、クイックリー夫人にはアルバニア生まれのエンケレイダ・シュコーザ、そしてページ夫人メグには、2002年のオペラデビューをフレンツェ歌劇場で果たした鳥木弥生と、新国立劇場初登場の歌手たちが揃うフレッシュな舞台であった。主役以外で私がことさら感心したのは、フォード役のオリヴィエーリと、ナンネッタ役の幸田浩子であったろうか。クイックリー夫人役は、上記のカラヤン盤におけるクリスタ・ルートヴィヒの印象が残っている限り、正直なところ、誰が歌っても難易度が高いと思うし、今回のような重すぎる声の歌手では、やはり少し違和感がある。だが、とは言っても、軽妙なアンサンブルにおける歌手たちの健闘には光るものがあった。
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一方、大変興味深い発見があって、過去 3回の新国立劇場におけるこの演目の上演と、そして 4回目になる今回の上演で、ひとりだけ、ずっと同じ役を歌っている歌手がいる。それは私も大好きなバス歌手、妻屋秀和である。ファルスタッフの 2人の従者のひとりピストーラを演じていて、その長身が、相棒のバルドルフォ (糸賀修平) と対照をなしているのも可笑しい。
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指揮のカルロ・リッツィは 1960年、ミラノ生まれの指揮者であり、豊富なオペラ経験を持っている。彼も今回が新国立劇場初登場だが、これまでのメディアでは、なんと言ってもアンナ・ネトレプコが主役を務めた 2005年ザルツブルクでの「椿姫」での指揮が印象深い。実はこれは、名指揮者ロレンツォ・ヴィオッティの急逝を受けて急遽代役に立ったものであったらしい。それから、英国ウェールズ、カーディフにあるウェルシュ・ナショナル・オペラの音楽監督を、1992 - 2001年と、2004 - 2008年の二度に亘って務めているのが珍しい (因みにその間に音楽監督を務めたのは、あのトゥガン・ソヒエフである)。今回のリッツィの指揮は、大変にきめ細かくこのオペラの美感を出そうとしたものであり、さすがの安定感であった。
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それから、演出のジョナサン・ミラーにも触れておきたい。今年 83歳になる英国の巨匠演出家である。新国立劇場では、この「ファルスタッフ」以外に「ばらの騎士」も演出している。
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今回のプログラム冊子には、(実は 2004年のそれと全く同じ内容の) 演出家の言葉が 2つ掲載されているが、それによると彼は、2004年時点で、過去 30年間に 4回に亘って「ファルスタッフ」の演出を手掛けているとのこと。また、彼の目指すところは、別の時代に置き換えた「読み替え」タイプの演出ではなく、シェイクスピアが生きた 17世紀の生活を再現すること。そして、普段から心がけている人間観察 (例えば新宿中央公園に寝泊まりする人も観察対象とのこと!!) から来るリアルな人間の行動を舞台に乗せることであるようだ。結果的に、17世紀オランダ絵画風のセットが、室内になり屋内になり、最後のシーンではそこに木が生えて森になるのだが、床はいかにもその当時の絵画作品風である (休憩時間に私が小耳に挟んだ評価は、「フェルメール感満載だね」というもので、気持ちはよく分かる。笑)。もともと英国が舞台のこの作品の舞台をオランダに移した理由は、その当時の人々の生活を克明に絵画として記録したのは、オランダ人しかいないからだという。なるほど合理的だ。あくまでイメージとして、そのフェルメールの絵画を一点掲載しておこう。残念ながら盗難に遭って、現在ありかの分からない「合奏」である。
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このように、様々なイメージが広がる上演であり、東京のオペラには、なかなかに侮れないクオリティがあると実感したのである。しかも、急に思いついて当日券で行けてしまうのだ。日本もこれから成熟国家として、大人の文化を育まないといけない。オペラなどはその面でも、これからますます大人の楽しみとして定着して行って欲しいものだと思っている。と言いながら、今回会場にはこのようなものが。オペラに対する親しみを持って欲しいという意図であろうか。係の人から、「お撮りしましょうか?」と訊かれたが、いやいや、オペラは大人の文化。こんな子供っぽいことをしていてはいけません。・・・でもちょっと、穴から顔を出して写真を撮ってもらいたかった気もする (笑)。
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by yokohama7474 | 2018-12-07 01:51 | 音楽 (Live) | Comments(0)

ディエゴ・マテウス、小澤征爾指揮 サイトウ・キネン・オーケストラ (Vn : アンネ=ゾフィー・ムター) 2018年12月5日サントリーホール

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このコンサートを知ったのは、つい先月だかの NHK のニュースであった。そこでは小澤征爾が、今年の 3月に大動脈弁狭窄症のための治療を行って以来初めて、本格的に復帰するということが報じられていた。確か曲名は紹介していたとは思うが、「コンサートの最後の曲を振る」という説明しかなかったと記憶している。それだけでは、一体何のコンサートであるのか分からないので、サントリーホールのウェブサイトで調べたところ、クラシックの名門レーベル、ドイツ・グラモフォンの創立 120周年を記念する演奏会と分かった。チケットの売り出しはコンサート当日のわずか 2週間半前。これは普通にはあり得ない直前のスケジュールであるが、誰もが知る小澤の名前と、83という高齢、かつ、最近では病気によるキャンセルがあまりにも多くて、その実演に触れる機会が極めて貴重になっていることから、当然のごとくチケットは完売。その一方で、今回その小澤が指揮するのが、サン=サーンスのたった 10分程度の曲、しかもヴァイオリンの伴奏ということもあって、通常のクラシックファンにとっては、それをもって「本格復帰」というのはいかがかという思いがあったことは、否めないだろう。今年のセイジ・オザワ・フェスティバル松本の演奏会の記事でも触れた通り、小澤は今年 7月に、自らが指導する室内楽セミナーで、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第 16番第 3楽章を予告なしに指揮したことが報じられていて、その曲の方がむしろ今回の曲よりも、聴き甲斐のあるものとも言えるかもしれない。もちろん私とても最初はそういう思いであったのだが、ただ、冷静に考えると、これは小澤の登場がなくても大変に興味深いコンサート。なぜならばまず、オーケストラがあのサイトウ・キネン・オーケストラであるからだ。そして、小澤が伴奏するのは世界ヴァイオリン界の女王、アンネ=ゾフィー・ムターであり、加えて大半の曲目を指揮するのはヴェネズエラの俊英、ディエゴ・マテウスである。これはやはり、聴いておきたいコンサートであろう。実際に現地に行ってみると、小澤の登場する演奏会後半には、天皇・皇后両陛下も客席にお姿を見せられ、記念すべき一夜になったことは間違いない。YouTube では、ごく短いが、このコンサートについて、またムターについて語る小澤の動画も見ることができる。
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サイトウ・キネン・オーケストラは臨時編成のオケであり、ソリストや世界各地のオケの首席クラスが顔を合わせて結成されるので、何年も前からスケジュールを組まないといけないだろうし、あのドイツ・グラモフォンの記念演奏会ともなると、レーベルの威信もあるので、最高の演奏が保証される演奏者が必要だ。ましてや、今や世界でも最重要マーケット (の、少なくともひとつ) である東京での演奏会である。それゆえ、小澤の指揮とサイトウ・キネンの演奏が前提として企画されたものであるのだろうと、私は推測する。だが肝心の小澤が、7月に一度指揮をしてから、8月にはまた軽度の胸椎圧迫骨折を患っていたこともあり、その健康状態に鑑みて、なかなか発表に至らなかったのかもしれない (天覧コンサートが決まっていたならなおさら、万一小澤キャンセルともなるとちょっとまずい事態になるだろうし)。加えて、もともとサイトウ・キネンは旧フィリップス、現在ではデッカから録音を出していて、グラモフォンのイエローレーベルでの録音を見た記憶が、私にはない。それから小澤自身も、グラモフォンとの録音は、かつてはボストン響や、一部ベルリン・フィルとの顔合わせが多くあったものの、近年はほとんどないはず (水戸室内管との最新の第九はグラモフォンだが)。ただ、デッカとグラモフォンは今やともにユニバーサル・ミュージック傘下の会社。その意味では、こんなことに目くじらを立てるのではなく、ともかくコンサートを楽しむべきである。今回の曲目は以下の通り。
 チャイコフスキー : 歌劇「エフゲニ・オネーギン」からポロネーズ
 チャイコフスキー : 交響曲第 5番ホ短調作品64
 バッハ : ヴァイオリン協奏曲第 2番ホ長調BWV.1042
 ベートーヴェン : ヴァイオリンと管弦楽のためのロマンス第 1番ト長調作品40
 サン=サーンス : 序奏とロンド・カプリチオーソ イ短調作品28

このうち、前半のチャイコフスキー 2曲と、後半のベートーヴェンがディエゴ・マテウスの指揮。後半 3曲がムターのヴァイオリン独奏で、バッハは自身の弾き振り。ベートーヴェンはマテウスの指揮。そして最後のサン=サーンスが小澤の指揮であった。私はひそかに、当日サプライズ発表で、冒頭のポロネーズも小澤が指揮してくれるのでは、と勝手に期待していたのだが、それは実現しなかった (笑)。だが、我々聴衆は充分ラッキーだったと言えるだろう。なぜなら指揮のマテウスが今回も素晴らしかったからだ。弱冠 34歳にして、3歳先輩のグスタヴォ・ドゥダメルのあとを追って、世界で活躍している指揮者である。実は、上のポスターでも彼の出演は小さくしか出ていないし、ましてや NHK のニュースでは触れられるわけもない。だが冷静に考えてみると、これはかなりよくできた人選だ。なぜなら、小澤の登場はコンサートのごく一部に留まる中で、演奏会全体の質は保たねばならない。だが、小澤に並ぶようなビッグネームの指揮者では、小澤の影に隠れるのはよしとしないだろう。かと言って、あまりに無名の指揮者では、さすがに集客にも問題が出てこよう。それから、この臨時編成のオケと、今回が初の顔合わせでは、これも困るだろう。その点マテウスなら、未だ若いという点で融通 (?) が効くし、しかもサイトウ・キネンを何度も指揮しているのみならず、今年 8月には松本で、今回のメインであるチャイコフスキー 5番を指揮した実績もある。その意味で、最適な人選なのである。
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最初のポロネーズは、冒頭の管には少し課題もあったものの、曲が熱して行くうちに、演奏自体もノッて行ったと思う。続く 5番は、これはさながら、ロシアではなく南米版チャイコフスキーという趣き。いや、誤解を避けるために言っておくと、冒頭のクラリネットの陰影や、第 2楽章のホルンの抒情に不足したというわけではない。だが、先日サンクトペテルブルク・フィルで同じ曲を聴いた身としては、今回聴かれた音は、やはりロシア的というイメージとは異なると言える。音楽の面白いところは、そうであるからと言って、ロシア的な演奏の方がすべての点で絶対的に面白いかというと、そうでもない点である。マテウスは、開始部分こそゆったりとしたテンポであったが、曲の熱狂に応じてテンポを少し上げ、タメをつくるのももどかしいように、前へ前へと進んで行く。何より好感が持てるのは、その音楽にはただ格好をつけようという態度が皆無で、ひたすら楽譜に書かれた音楽を劇的に再現しようという意志が見えたことであった。いつもの通りサイトウ・キネンは、弦楽器は全員日本人、管楽器は大半が外国人という編成であったが、その弦の凄まじい表現力は、多くの東京のオケのレヴェルを凌いでいよう。一方の管、特に木管は、正直なところ、全体的にもっと突き抜ける響きが欲しかったような気がする。印象に残ったのはヴェテランのティンパニ奏者であったが、彼の名はドン・リウッツィ。フィラデルフィア管弦楽団の首席である。

さて、後半にはヴァイオリンのアンネ=ゾフィー・ムターが登場し、3曲を弾いた。私は彼女を、まさに現代のヴァイオリンの女王と考えているが、実演に触れるのは、2年ほど前に、サントリーホール 30周年を記念して開かれた演奏会で、やはり小澤の指揮するウィーン・フィルをバックに、武満徹の「ノスタルジア」を聴いて以来である。少女時代にカラヤンに見出されて世に出た彼女は、その後小澤とも数々の共演を重ねてきて、長年に亘って気心の知れた仲である。
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最初のバッハでは指揮者を置かず、ソロを弾きながら、必要に応じて指揮もするスタイル。オケは弦楽器だけだが、当然チェンバロも参加する。そのチェンバロは、私の尊敬する作曲家・ピアニストである野平一郎が弾いていた。このバッハ、コントラバス 1本の小編成ながら、響いてくる音はいわゆる古楽器的な線の細いものではなく、ムターのヴァイオリンも、彼女の個性である朗々たる響きを基本とするもの。それは、教条的なバッハではなくて、ある種人間的な感情を湛えたものであったと言えるのではないか。その一方で、リズムに乗るまでには少しオケとの探り合いのような雰囲気も聴かれたように思う。ところでこの人によるバッハの 2番のコンチェルトというと、1984年のベルリン・フィルとのジルヴェスターコンサートがあった。そこではカラヤン自身がチェンバロを弾き、今回聴いたよりもふくよかなバッハが鳴っていた (オケはコントラバス 4本)。これも YouTube で見ることができるが、当時 21歳のムター自身も、かなりふくよかだ (笑)。
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2曲目のベートーヴェンは、2つある「ロマンス」のうち第 1番。2番ほど旋律美はないかもしれないが、名曲である。ここでのムターは、再登場したマテウスの指揮のもと、自由な音楽を聴かせたと思う。だが、ちょっと疑問に思ったことがあるとすると、彼女本来のヴァイオリンなら、さらにさらに強い音で深々と歌ってもよいような気がする。古典から現代曲までなんでもこなせるムターのことだから、自らの芸術性においては確固たる信念があるはずだが、もしかすると、50代も半ばに差し掛かって、少しスタイルが変わっているのかもしれないとも思ったが、いかがであろうか。

ところで今回私の席からは、ステージドアがよく見えたのであるが、ムターが最初に登場したバッハの演奏時、袖ではマエストロ小澤が、上着を着ない白いシャツ姿で、ムターを大きな拍手で送り出していて、興味深かった。そして、最後のサン=サーンスに向けてステージ上の準備が進んでいる間は、既に上着を着て準備を整え、袖にある椅子に座って待機していた。そうして演奏開始時には、いつもの、木 (この場合はステージドア) を 3回叩くゲン担ぎも高らかに、ムターとともに元気にステージに登場したのであった。指揮台の上には、オフィスデスクにあるようなタイプの、だが結構ゆったり座れる形状の椅子が置いてある。小澤はそれに腰かけ、指揮棒は使わないがスコアを見ながら、10分間の演奏を指揮した。体はまた一回り小さくなったような気がする。そして指揮ぶりもかなり小さいもの。だが、それにも関わらず、この緩急の微妙な呼吸を必要とする曲を、実にうまく捌いていたと思う。もちろんオケとの相性もあるだろうが、小さな身振りでもリズムはしっかりと刻まれ、ティンパニの一撃が入る箇所や、オケ全体で盛り上がる部分では立ち上がっての指揮で、そのメリハリたるや、やはり小澤の小澤たるゆえんである。ここではムターも、劇的な曲調に自らの表現力を発散し、聴衆を興奮させる音楽を奏でていた。報道写真では既に今回の演奏の写真が見つかるので、勝手ながらここで借用してご紹介したい。
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演奏を終えた小澤は、おどけたような仕草もあり、またステージから引き上げる際には小走りを見せるなど元気な様子で、安心した。既に通常よりも長めのコンサートになっており、アンコールはなかったが、客席はすぐにスタンディングオベーションとなり、天皇・皇后両陛下も、立ち上がって長く拍手をしておられた。今回はラストの曲が短く、しかも大シンフォニーほどの熱狂を巻き起こしたわけではなかったので、客席からのブラヴォーの声はほとんどなかったが、みんなが愛してやまないマエストロの復帰に、温かい拍手が送られていた。オケの楽員も、一旦引き上げたが何度もステージに登場し、また、小澤とムターだけではなくマテウスも再度登場し、記念すべき公演は終了した。

さて、今後の小澤の予定であるが、3月には小澤征爾音楽塾でまた「カルメン」を採り上げる (京都 2回、横須賀 1回、東京 1回)。指揮はクリスティアン・アルミンクとの分担だが、一部でもよいから、降板することなく、是非指揮して欲しいものである。それから、夏の松本にも、来年は出演予定である。これは会場で配布していたチラシ。曲目の詳細は未だ発表されていないようだが、また内田光子とのコンチェルトがある様子。そして、ファビオ・ルイージが還ってきて、小澤のオハコでもある「エフゲニ・オネーギン」を指揮する。これも楽しみである。
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by yokohama7474 | 2018-12-06 01:40 | 音楽 (Live) | Comments(0)

ヴァレリー・ゲルギエフ指揮 ミュンヘン・フィル (ピアノ : ユジャ・ワン) 2018年12月 2日 サントリーホール

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ゲルギエフとミュンヘン・フィルの来日公演、前日に続く 2つめのコンサートである。曲目は以下の通り。
 プロコフィエフ : ピアノ協奏曲第 3番ハ長調作品26 (ピアノ : ユジャ・ワン)
 ブルックナー : 交響曲第 9番ニ短調 (ノヴァーク版)

彼らの今回のアジアツアーでは、9公演すべてにおいて、ピアニストのユジャ・ワンがコンチェルトを演奏する。9公演中 6公演が、前日演奏されたブラームスの 2番のコンチェルト。今回を含む 3公演が、プロコフィエフの 3番のコンチェルトである。プロコフィエフの代表作のひとつとして知られるこの作品は、作曲者 30歳 (今のユジャ・ワンと同じ年頃ということだ) の時に書かれており、モダニズムと創意工夫溢れる、スカっとするような名作。渋くて重厚なブラームスとは随分と趣きが異なる音楽である。だがそこはユジャ・ワン。およそ不可能なことがないと思われる彼女であるから、この対照的な 2曲を弾き分けることなど、なんでもないのであろう。と思って調べてみるとしかし、韓国では 2日連続公演でいずれもプロコフィエフを弾いている一方、中国での 2日連続公演では、いずれもブラームスを弾いている。つまりこのツアーにおいて、ブラームスの翌日にプロコフィエフを弾くのは、この東京だけである。前日のブラームスについては、先の記事に書いた通り、いわゆるブラームスらしい重厚さという点では多少の課題を残したように感じた私であるが、今回のプロコフィエフは、まさに今の彼女で聴くには最高の曲目であると期待し、そしてその期待は十二分に満たされた。
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その変幻自在のテクニックはいつもの通り凄まじく、作曲者が想定した切れ味と洒脱味とは、きっとこんな感じだったんだろうなぁと思って聴いていた。それはもう完璧な演奏であり、彼女がこの曲を演奏するとこうなるのである。そして今回私の耳を捉えたのは、そのユジャ・ワンのピアノもさることながら、オケの音であった。特に木管楽器の呼吸のよさは大変に鮮やかで、前日書いたような「歴史あるドイツのオケの懐の深い音」とは異なって、このような近代物への適性を示していたように思う。こういうことがあるから音楽は面白い。ただ一回コンサートを聴いただけで分かることと、そうでないことがあるのである。ゲルギエフは今回もヴァイオリンの左右対抗配置を取り、指揮台も指揮棒も使わずに、譜面を見ながらの指揮である。協奏曲においてもオケはコントラバス 8本のフル編成で、容赦なく音の渦を巻き起こすが、それはあたかもソリストとの丁々発止の勝負のようであり、聴きごたえ充分。その点でも大変に楽しめる演奏であった。そしてピアニストは 2曲のアンコールを弾いたのだが、最初が同じプロコフィエフのトッカータ ニ短調作品11。そして 2曲目はおなじみの、アルカーディ・ヴォロドス、ファジル・サイ、そしてユジャ・ワン自身の編曲によるモーツァルトの「トルコ行進曲」であった。これらいずれも、もうユジャ・ワン以外の何者もなしえない演奏であったことは言うまでもない。

後半のブルックナー 9番は、昨日の「巨人」同様、あるいはブラームスのピアノ協奏曲第 2番と同様、最近東京では何度も実演に接することになった曲である。ここで少し思い出してみよう。確かこの曲、世界初録音はこのミュンヘン・フィルではなかったか。調べてみるとやはりそうだ。1938年、ジークムント・フォン・ハウゼッガーという指揮者によるもの。実はこのコンビは、この曲の原典版の初演 (というのも、世界初演は、レーヴェによる改訂版であったから) を 1932年に行っているのである。
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そしてもちろん我々の世代では、あのセルジュ・チェリビダッケが率いて何度も来日して聴かせてくれた超スローテンポの一連のブルックナーを忘れることはできない。それ以外にも、ハンス・クナッパーツブッシュはもちろん、ルドルフ・ケンペも、客演したギュンター・ヴァントも、そして一般的な知名度が低く私も録音を聴いたことがないが、オズヴァルト・カバスタという指揮者も、SP 時代にこのオケでブルックナーを録音している。つまりこのオケにはブルックナー演奏の伝統があるわけである。一方のゲルギエフは、近年までブルックナーをどの程度指揮していたのか定かではない (ロンドン響との録音はなかったのでは?)。ところがこのミュンヘン・フィルの音楽監督に就任してから、ブルックナー本人がオルガニストを務め、今もそこに眠っている、リンツ近郊の聖フローリアン修道院で、ブルックナーの交響曲の連続演奏・録音を行っているようだ。昨年 2017年に 1、3、4番。今年 2018年には 2、8、9番。来年 2019年に 5、6、7番と、毎年 3曲ずつ演奏して行くらしい。ということは、今回日本で演奏される 9番は、今年の 9月というから、今からほんの 3ヶ月ほど前に、作曲者の墓前演奏がなされたわけで、その特別か機会によって醸成された、神聖で劇的な響きが期待される。これは昨年の演奏風景。
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そして私が思うところ、今回のブルックナー 9番は、これまでに聴いたゲルギエフの指揮の中でも、屈指の名演奏であったのではないだろうか。このブログで何度も書いている通り、ブルックナーという作曲家は、なぜか知らないが演奏家を選ぶところがあって、名指揮者でもすべてがこの作曲家の作品を素晴らしく演奏するわけではない。その点ゲルギエフは、一旦深い呼吸が音楽に息づき始めると、巨大な力でクライマックスを築き、また、瞑想的な部分でもただならぬ雰囲気を醸し出して、この作曲家独特でほかに類例のない広壮なスケールの音のドラマを、見事な説得力で描き出すのである。何分、世界を飛び回る多忙な指揮者であるゆえに、その劇的な指揮ぶりも常に先鋭的であるとは限らないというのが、私の彼に対する一般的なイメージであるが、今回のブルックナー 9番には大きな呼吸があり、血の通った表現があり、決して慌ただしく音をまとめようとしない鷹揚さがあった。第 1楽章の壮麗さ、第 2楽章の野性味、第 3楽章の神秘性、いずれも見事であり、大変感動的であった。これを聴くと、ゲルギエフはマーラーよりもむしろブルックナーに適性があるのではないだろうか。また、上記の通りのブルックナー演奏の伝統を持つこのオケは、もちろんチェリビダッケ時代の特殊な個性とはまた違った次元で、これだけ質の高い演奏を成し遂げるとはさすがである。オケの伝統と指揮者の意気込みが一体となって、今回の素晴らしい演奏に結実したものと思う。
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前日に続き今回も、アンコールはなかったが、その必要のないほどの充実感を抱いて、聴衆は帰途についたことだろう。だが、ひとつ残念であったのは、客席の入りがかなり悪かったことだ。前日も満席ではなかったが、そこそこ入っていたのに対し、今回はかなり集客が低く、安い席 (私もそこだったが) こそ 7- 8割方埋まっているのに対し、1階席などは、招待客を入れても、半分くらいの入りであると見えた。ゲルギエフとユジャ・ワンでこれしか入らないとなると、ちょっときつい。やはり企業のサポートがないと、このような貴重な演奏に触れる機会が減って行く一方であるという危機感を覚える。せめてこのブログでは、飽くまで私個人の感想ではあるが、東京のコンサートホールで起こっていることの意義を、可能な限りレポートして行きたいと感じているのである。

by yokohama7474 | 2018-12-03 00:21 | 音楽 (Live) | Comments(0)


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