カテゴリ:音楽 (Live)( 450 )

 

コルネリウス・マイスター指揮 読売日本交響楽団 (チェロ : 石坂団十郎、ヴィオラ : 柳瀬省太) 2018年 6月19日 サントリーホール

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読売日本交響楽団 (通称「読響」) の首席客演指揮者、ドイツの俊英コルネリウス・マイスターの登場である。おりしもこの日、サッカーワールドカップの日本の初戦、対コロンビア戦が 21時からということもあってか、サントリーホールのあるアークヒルズは全く閑散としており、ホールの中も、このコンビの演奏会としては信じがたいほどの空席 (半分くらいの入りであったろうか)。思えばマイスターはなんと真面目な指揮者であることか。彼の祖国ドイツは初戦でメキシコに敗れ、彼が今回日本に滞在しているうちにスウェーデン戦と韓国戦がある。集中力を必要とする指揮者という職業の人にとっては、なかなかに厳しいスケジュールではないだろうか (笑)。

このような軽い話題のあとには、そのワールドカップ開催地であるロシアから、悲しい話題を。このブログでも、2016年、2017年という最近の演奏会をご紹介した、この読響の名誉指揮者のひとり、ゲンナジー・ロジェストヴェンスキーが、去る 6月17日に、87歳で世を去った。ロジェストヴェンスキーは、私がクラシックを少しかじりはじめた小学生のときに、我が家にあったクラシックレコード名曲集のようなアナログ LP のセット物のうち何枚かで指揮をしていた人。長じてからは、主としてこの読響との共演を何度も聴いて、その長い指揮棒から繰り出される分厚い音に魅了されたものであった。会場には、この名指揮者を偲ぶ遺品の数々が展示されていた。
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演奏会に先立って、ロジェストヴェンスキー追悼として、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」から「情景 / 冬の松林」が演奏された。これは第 1幕の大詰めで演奏される音楽で、決してしんねりむっつりした暗い曲ではなく、雪の降る冬の情景を彷彿とさせる、なんとも懐かしい抒情を湛えた美曲であり、打楽器も入って盛り上がる部分もある。これは、最後まで感傷とは無縁の職人性を持ち続けたロジェストヴェンスキーを偲ぶにふさわしい曲。暗譜で指揮をするマイスターに応えるオケも大熱演で、聴いているうちに胸が熱くなるのを禁じ得なかった。私の近くの席の女性は、「いろいろ思い出しちゃって」と連れの人に語りながら、オイオイと泣いていたし、場内ではほかにも、ハンカチで目を拭う人たちの姿が見られたものだ。巨匠よ、安らかに。日本の聴衆は決してあなたを忘れませんよ。
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さて、気を取り直してコンサートに戻るとしよう。私はこのプログラム、本当に素晴らしいと思うし、東京のオケの日常はこのレヴェルに達しているということを理解する一助となろう。オール・リヒャルト・シュトラウス・プログラムである。
 交響詩「ドン・キホーテ」作品35 (チェロ : 石坂団十郎、ヴィオラ : 柳瀬省太)
 歌劇「カプリッチョ」から前奏曲と月光の音楽
 歌劇「影のない女」による交響的幻想曲

最初の「ドン・キホーテ」は、作曲者がキャリア前半に書いた様々な傑作交響詩のひとつであり、もちろんあのセルバンテスの「ドン・キホーテ」を音にしたもの。ドン・キホーテを表す独奏チェロと、その従者サンチョ・パンサを表す独奏ヴィオラが活躍する。ここでチェロを弾いたのは、日本を代表する若手奏者、石坂団十郎であり、ヴィオラの方は、このオケの首席である柳瀬省太であった。面白かったのは、通常ヴィオラ・ソロは立って演奏するものだが、今回は指揮台の左右にちょっとした台と椅子が置いてある。そう、チェロだけではなく、ヴィオラも椅子に座っての演奏。それには理由があって、オケの一員でもある柳瀬は、ソロの部分以外はオケのメンバーと一緒にヴィオラ・パートを演奏したのである。改めてその情景を見ながらこの音楽を聴いてみると、やはり独奏チェロの活躍がオケを引っ張っていて、独奏ヴィオラは多少なりとも従属的であることを実感した。いやもちろん、それでも、ソロを弾きながらオケのパートを弾くなどという離れ業は、なかなかできるものではない。また、石坂のチェロは、もう少し粘ってもよい箇所もあったかもしれないが、実にすっきりと洗練されたもの。この二人のソリストとともに読響も、この多彩な響きに満ちた複雑な曲を、マイスターのストレートな表現に従って堂々と再現した。この写真で、左が石坂、右が柳瀬。尚、柳瀬は、前半でこの曲を弾いたあと、後半では何食わぬ顔で (?) オケのトップを弾いていた。大したものである。
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さて、前半の「ドン・キホーテ」もさることながら、それ以上の聴き物は、やはり後半であったろう。シュトラウス最後のオペラ「カプリッチョ」の絶美の音楽と、その 30年近く前に書かれた、オーケストラ音楽の極致とも思われる「影のない女」から編曲された演奏会用の作品。正直なところ、オペラが日常的な存在であるはずのヨーロッパでは、このような曲目に対する聴衆の一定の理解はあるだろうが、日本ではなかなかなじみがないと言えると思う。それゆえに、若い頃からオペラ経験を積んでいて、今年の 9月からは (奇しくも読響の常任指揮者シルヴァン・カンブルランの後を継いで) シュトゥットガルト歌劇場の音楽監督に就任するマイスターを指揮台に迎えてこのようなレパートリーを演奏することは、読響にとっても大きなチャレンジであり貴重な経験であろう。尚マイスターは、「ドン・キホーテ」は何やら必要以上に部厚いスコアを見ながらの指揮であったが、後半の 2曲は完全暗譜による指揮。
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この「カプリッチョ」は、戦争中の 1942年に初演されている。台本を名指揮者のクレメンス・クラウスが書いていて、オペラにおいてセリフが先か音楽が先かという議論をするという、まぁそれはとてもとても戦時中に書かれたものとは思われない、浮世離れしたものなのであるが、その音楽はまた、とてつもなく素晴らしい。前奏曲は、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ各 2本ずつで演奏される。マイスターの取るヴァイオリン左右対抗配置では、ちょうど指揮者の左から右に向かって、1列目にいる奏者たち 6人が演奏することとなって、好都合であった。その前奏曲のあと、このオペラの終盤で登場する「月光の音楽」につながったのだが、これはカラヤンも晩年に録音を残しているような曲。本当に美しくて、深々と鳴る音に陶酔するような演奏。そして最後の「影のない女」であるが、私は上に、この曲が「カプリッチョ」より 30年近く前に書かれたと述べた。実際、このオペラの初演は 1919年 (これは第一次大戦終戦の年だ)。だが、この交響的幻想曲が作られたのは、「カプリッチョ」より後の 1946年。戦後の非ナチ化裁判に巻き込まれた作曲者は、一体いかなる思いで自身の大作をコンパクトな管弦楽曲にまとめたものであろうか。但し、作曲者自身による編曲では、オペラの編成よりも小さくされている (それによって演奏頻度を上げたいという思いだったのだろうか) ところ、今回の演奏では、作曲家ペーター・ルジツカ (1948年生まれ) が 2009年に編曲した大編成の版を使っている。ステージ上にはチェレスタが 2台並んでいるし、オルガンも入る。そして驚いたことには、終結部では、グロッケンシュピールの腹の部分を複数の奏者が弓で擦る奏法が使われていた。これは現代音楽では結構ある手法だが、シュトラウスのオリジナル・スコアにあるのだろうか。とにかく今回のマイスターと読響の演奏は、ダイナミックなシュトラウスの音楽に必要な推進力と、充分な音の重みが実現されていて、それは見事なもの。やはりこの指揮者とオケも、東京に新たな存在意義を生み出しているのだということを、再認識することとなった。

6月も終わりに近づき、そろそろシーズンを終えるオケもある (例えば N 響・・・但しこのオケは、ロジェストヴェンスキーより 1歳下であるだけの、つまりはもうすぐ 86歳の!!、ウラディーミル・フェドセーエフと 7月に九州各地で演奏会を行う点、注目される)。だが、この読響をはじめとして、まだまだこれから充実のプログラムを組んでいるオケもあるのである。このマイスターも、もうひとつ絶大なる期待を持てる曲目が用意されている。願わくば、マイスターの集中力が、ワールドカップの行方によって左右されませんように。

by yokohama7474 | 2018-06-20 00:23 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

オレグ・カエターニ指揮 東京都交響楽団 (ピアノ : 藤田真央) 2018年 6月17日 サントリーホール

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スイス出身の指揮者、1956年生まれのオレグ・カエターニは、特異な才能を持つ指揮者である。もちろん、彼の父が鬼才の名をほしいままにしたイーゴリ・マルケヴィチであることを無視するわけにはいかないし、年を経て彼の指揮姿が (私は実演に接することは残念ながら叶わなかったが) 父マルケヴィチを彷彿とさせるという点にも、かなり心理的な思い入れが生まれてしまうのだが、今回のような演奏会を聴くと、彼がどこの国の人であるとか親が誰であるとかいうことは関係なく、ただ偉大なる指揮者がこうして東京にやってきてその演奏を披露してくれることへの感謝が沸いてくる。東京都交響楽団 (通称「都響」) とは 2009年の初顔合わせ以来これで 4度目の共演ということであるが、このコンビの相性はかなりよいと思うので、これからも是非コンスタントに演奏を続けて欲しいものである。
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この素晴らしい演奏会のプログラムは以下のようなもの。
 チャイコフスキー : 歌劇「エフゲニー・オネーギン」からポロネーズ
 チャイコフスキー : ピアノ協奏曲第 1番変ロ短調作品23 (ピアノ : 藤田真央)
 カリンニコフ : 交響曲第 1番ト短調

上のチラシに「あふれるロシアの名旋律!」とある通り、これはロシア・プログラムであるが、メインの曲目だけがかなり渋いものになっている。実は、この演奏会の翌日、6/18 (月) に同じサントリーホールで、スロヴァキア・フィルの演奏会があり、その内容は、最初の 2曲が同じで、メインがチャイコフスキーの「悲愴」交響曲である。つまり、そちらの方は本当のロシア名曲プログラムで、チャイコフスキーの夕べなのであるが、正直なところ私は、もし当日券があれば明日そちらにも行こうかと思っていたが、やめることとした。それは、今回のカエターニ指揮都響の演奏会が、あまりにも素晴らしかったからである。国内オケでこれだけのクオリティを聴くことができるなら、何も外来オケの演奏会にい出掛ける必要はないようにすら思われる。だが、今回の演奏に関しては、もう一人、賛辞を捧げるべき音楽家がいる。
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この少年は、現在19歳のピアニスト、藤田真央である。現在、東京音楽大学に在学中だが、既に 2013年に初リサイタルを行い、数々の国内でのコンクール制覇を経て、昨年はクララ・ハスキル・コンクールで優勝するという快挙を成し遂げた。まさにこれから世界に羽ばたこうという才能がたまたま日本人であるがゆえに、我々は彼の演奏を聴くことができるのである。今回彼の弾いたチャイコフスキーのコンチェルトは、もちろん大人気曲であり、派手な演奏効果とロシア情緒がないまぜになった、ある意味では極めて自由なタイプの曲であるので、とにかく若いピアニストがガンガン弾くだけでも大変な聴き物となる。だが今回の藤田の演奏、もちろん技術的な完璧さもさることながら、弾き飛ばすこともなく、前のめりになることもなく、細部まで血の通った音楽を堂々と聴かせてくれた点、実に非凡なものであると聴いた。つまり、曲の求める冒険心と、しんみりする情緒が両立していたのである。衣装は学生服 ? のようであり、ステージマナーは初々しく、19歳という実年齢よりもさらに若く、いや幼くすら見えるのであるが、明らかに彼は既に一流の音楽家である。聴いている間には感心しきりであったが、終楽章の終結部手前でピアノが激しく鳴る部分の凄まじい迫力には、鳥肌立つ思いがした。これは大変な逸材である。もちろんこれから、様々な経験を経て彼の音楽は変わって行くものと思うが、是非是非、スリリングで感動的な音楽を聴かせて欲しいものと思う。アンコールで弾いたショパンのマズルカ嬰ハ短調作品 63-3も大変に抒情的な演奏で、彼が既にして持っている表現のパレットの多さの一端を垣間見せてくれた。

そしてカエターニの指揮は極めて好調。冒頭の「ポロネーズ」からして、金管の歌い方にワクワク感があり、木管のそれぞれが音の流れを何本も作り出すと思うと、チェロが纏綿と抒情を表現する。実に素晴らしい音楽だと思わせること、これこそが音楽家たちの目指すところであろうし、今回はそのような演奏になっていた。そして、メインのカリンニコフ 1番も圧巻の演奏。そもそもこの曲、私にとっては、トスカニーニが NBC 響を振った放送録音をアナログ時代にトスカニーニ協会作成の LP として持っていたことから、そのロシア的抒情と洗練されたオケの扱いには、以前からそれなりのイメージがある。だがこの曲はあまり演奏されないし、録音も少ない。容易に手に入るのは、スヴェトラーノフが N 響を指揮したライヴ盤くらいではないか。
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作曲者カリンニコフについては、交響曲を 2曲書いたこと以上のことはあまり知識がなかったが、今回のプログラムによると、1866年生まれだから、マーラーやシュトラウスの世代。だが 35歳の誕生日前に結核で亡くなっていて、短命であったとは初めて知った。
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実際のこの交響曲第 1番は、親しみやすいメロディに溢れた曲であり、今回のカエターニと都響のコンビのようなクオリティの高い演奏で聴くことができるなら、これから人気も上がって行くのではないだろうか。上述の通り、ロシア風の旋律がそこここに聴かれるのだが、それがモッテリした音楽にとどまっておらず、朗々と歌う場面、ユーモラスに響く場面、迫力を持って突き進む場面と様々で、現在の都響の能力をもってすれば、この曲のあらゆる細部にまで光を当てる演奏が可能であり、それを率いるカエターニの自信と活力漲る指揮が大きな流れを作り出す。粗野にはならず、かといって曲の素朴な面もおざなりにしない、実に見事な演奏。曲の真価をすら再認識させるようなクオリティであったと思う。

60を超えてますます充実の名指揮者と、これから羽ばたく新しい才能。こんな刺激的な組み合わせによって、また忘れられないコンサートとなったのである。

by yokohama7474 | 2018-06-17 21:56 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

ウラディミール・アシュケナージ指揮 NHK 交響楽団 (Vn : 庄司紗矢香 / Pf : ヴィキンガー・オラフソン) 2018年 6月16日 NHK ホール

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名指揮者ウラディミール・アシュケナージと、彼が桂冠指揮者を務める NHK 交響楽団 (通称「N 響」) との顔合わせによる 2つめの定期演奏会のプログラム。
 メンデルスゾーン : ヴァイオリンとピアノのための協奏曲ニ短調 (Vn : 庄司紗矢香、Pf : ヴィキンガー・オラフソン)
 ヤナーチェク : タラス・ブーリバ
 コダーイ : 組曲「ハーリ・ヤーノシュ)

なるほど、前半にはドイツロマン派の珍しい協奏曲、後半は中央ヨーロッパの物語性を宿した華やかな管弦楽曲だ。そう、前半に演奏されたメンデルスゾーンの曲は、これまでその存在すら知らないような曲なのである。だが、今や日本を代表するヴァイオリニストであり、N 響の定期に登場すると、年間を通したこのオケのコンサートランキングで必ずベストを争う庄司紗矢香が出演するとなると、これは聴き逃せないものになるに違いない。だが、ここにはヴァイオリンだけでなくピアノも入るようだ。このピアニストの名前は、これまで聞いた記憶がない。と思っていた私は、オラフソンという 1984年アイルランド生まれのピアニストについて、この CD を知っていることに気がついた。
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そう、これはミニマル音楽の大家で私も大好きな、フィリップ・グラスのピアノ作品集だ。名門レーベル、ドイツ・グラモフォンの専属アーティストとしてこのピアニストが初めて世に問うた CD。なるほど、彼がこれまで来日したことがあるのか否か知らないが、ちょうど聴きたいと思っていたピアニストを日本で聴けるというこの幸せ。もちろん、庄司の強い集中力にも期待である。この写真の衣装が、今回の演奏会のものと同じであった。
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だがそれにしても、このメンデルスゾーンの曲は一体なんなのか。これは、神童と言われた作曲者 14歳のときの作品で、メンデルスゾーン家の日曜音楽会で、作曲者自身のピアノによって初演された曲。だがそのフルオーケストラ版での出版は、実に 1999年までなされなかったという秘曲である。うーんなるほど、このヴァイオリンとピアノを聴く曲としては、大変興味深い曲。そして実際に聴いてみると、40分近い大作なのである。西洋音楽史において、独奏楽器が複数の協奏曲というと、例えばブラームスの二重協奏曲とか、さらに遡ってベートーヴェンの三重奏曲などがあるが、前者が本格的なオーケストラと丁々発止やりあう独奏楽器を聴く劇的な曲だとするが、後者はまるで、ピアノ・トリオにオケがついているような曲。そして今回のメンデルスゾーンは、後者のパターンであり、まるでヴァイオリン・ソナタとシンフォニーが、別々に演奏されるような曲。つまり、独奏とオケがともに盛り上がる箇所はほとんどなく、冒頭部分はこの作曲者がやはり若い日に書いた弦楽のための交響曲群のような雰囲気であり、一方でピアノとヴァイオリンが演奏する際には、独奏者だけが演奏し、オケは沈黙するという具合。短調で書かれているので劇的な箇所もそれなりにあり、確かに 14歳の少年の作品とは思えない内容ではある。だが私がこの演奏を聴いていて感心したのは、曲の内容よりもやはり、2人の独奏者の没入ぶりであった。ともにスコアを見ながら (ピアノは譜めくりつき) の演奏であったが、素晴らしい集中力で楽想の移り変わりを表現したので、それだけでも充分な聴き物であった。そうそう、まるでヴァイオリン・ソナタのような箇所では、ベートーヴェンのクロイツェル・ソナタを思わせる部分が何度かあった。そして、彼らがアンコールとして演奏したのは、ヴァイオリンが終始中低音で歌う抒情的な曲。これは、モーツァルトと同時代の女流作曲家、マリア・テレジア・フォン・パラディス (1759 - 1824) という人の、シチリアーナという曲であったらしい。パラディスはピアニストでもあり歌手でもあったが、若い頃に失明したという。モーツァルトのピアノ協奏曲第18番は、彼女のために書かれたそうである。へぇー、それは知らなかった。このシチリアーナは、偽作という説もあるようだが、ともあれ、メインの曲目だけでなくアンコールでもこんな未知の曲を教えてくれるとは、庄司とオラフソンの見識が伺われるというものだ。これがパラディスの肖像。
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さて、休憩後にはオーケストラの魅力を存分に味わえる 2曲が演奏された。当初発表とは順番が入れ替わったものの、ともに東欧のストーリーテリングに依拠する名曲だ。ヤナーチェクは現在のチェコ東部、モラヴィアの人だし、コダーイはハンガリーの人。冷戦時代には東欧と呼ばれ、現在では中欧と呼ばれる地域の作品である。ヤナーチェクの「タラス・ブーリバ」は、ゴーゴリの小説に基づき、ポーランドの支配に抵抗したコサック隊長を題材にしている。またコダーイの「ハーリ・ヤーノシュ」は、ハンガリーのほら吹き男爵のような物語。前者はシリアスで劇的であるのに対し、後者はよりユーモラスで、ツィンバロンの響きが民俗的である。私はこの 2曲を聴いて、中欧の人たちの物語好きに思いを馳せていた。この地域では、もちろん純音楽も数々書かれているにせよ、やはりこれらの曲にあるような物語性にひとつの特徴があるように思う。アシュケナージと N 響は、今回も、決して流れはよくないものの、それぞれの曲のストーリーを丁寧になぞり、大変劇的な音楽を作り出していた。アシュケナージは、とても 80歳を超えているとは思われない元気さである。
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ただ、ひとつ気になったのは、演奏終了後にオケの奏者を立たせるときに、メモを見ながら楽員を指していたことである。たった今自分が指揮した曲の中で、どの奏者をねぎらうべきかは、指揮者がいちばん分かっているはず。だがアシュケナージはそのメモを隠すことなく、じっくり目を落としてから、各奏者に起立を促していた。ただこれも、アシュケナージという音楽家のオープンな一面だと思えば、気にする必要はないのかもしれない。来期の N 響の定期公演には彼の名前はないが、是非また元気で N 響の指揮台に帰ってきて欲しいものである。

by yokohama7474 | 2018-06-17 01:02 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

ピエタリ・インキネン指揮 日本フィル (ピアノ : サリーム・アシュカール) 2018年 6月15日 サントリーホール

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日本フィルハーモニー交響楽団 (通称「日フィル」) とその首席指揮者、フィンランド出身のピエタリ・インキネンの、4月に続く定期演奏会での共演である。今回のプログラムは、上のチラシにある通り、イタリアの「歌」がテーマであるらしい。しばらく前に、ダニエーレ・ルスティオーニ指揮東京都交響楽団の演奏会でも、ドイツ・オーストリア圏の作曲家とイタリアとの関わりがテーマになっていたが、コンセプトとしては少し近いものがある。今回のプログラムは以下の通り。
 シューベルト : イタリア風序曲第 2番ハ長調D.591
 メンデルスゾーン : ピアノ協奏曲第 2番ニ短調作品 40 (ピアノ : サリーム・アシュカール)
 メンデルスゾーン : 交響曲第 4番イ長調作品 90「イタリア」

私はこのブログでこれまで、インキネンが繰り返し取り上げてきているワーグナーやブルックナーの演奏に対し、どうしても迫力不足のきらいがあるという率直な感想を述べてきたが、今回のプログラムを聴いて、この指揮者の素晴らしい才能を実感することができた。前期ロマン派の音楽をこれだけニュアンス豊かに演奏できるのに、あえて分厚い音の後期ロマン派にあえて向かっていることには、何か意図があるのかもしれないと、初めて考えた次第。最初のシューベルトの作品は、決して頻繁に演奏される曲ではないが、私はたまたま先週、イシュトヴァン・ケルテス指揮ウィーン・フィルによるシューベルト全集の CD 4枚組を一気に聴いていて、その中にこの曲が含まれていたので、耳には多少馴染みがあった。これはロッシーニの影響のある演奏会用序曲で、「イタリア風序曲」には第 1番と第 2番があるようだ。今回のインキネンと日フィルの演奏は、冒頭はそれなりに重々しくはあったものの、全体的には流れがよく、目のつんだ音が聴かれる演奏で、素晴らしかった。また、2曲目のメンデルスゾーンのピアノ協奏曲 2番も、さほど演奏頻度は多くないにも関わらず、ピアノのアシュカールともども、なんとも美しい演奏で、惚れ惚れしてしまった。このアシュカールという人、私も今回初めて聴いたのだが、ピュアなタッチが素晴らしく、きっとモーツァルトなどもよいと思う。リッカルド・シャイー指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管 (もちろん、メンデルスゾーン自身が音楽監督であったオケだ) とともに、このメンデルスゾーンのピアノ協奏曲 2曲を録音しているという事実からも、メンデルスゾーンに定評があり、抒情的な音楽性の高さが分かろうというもの。
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因みにこのアシュカール、数々の名オーケストラや名指揮者との共演実績についてはプログラムに記載あるのだが、生年や国籍の記載はない。音楽自体の評価とは全く関係ないが、実演に触れた音楽家のバックグランドについて知りたいと思うのが人情だ。そこで帰宅後調べてみると、1976年生まれ。生地はナザレで、なんとなんと!!「パレスチナ系ユダヤ人」とのこと。我々日本人にはこのあたりの感覚はどうしても鈍くなってしまうのだが、一般的な理解では「パレスチナ」と「ユダヤ」は完全に対立項であり、しかもナザレとは、あのキリストの出身地である。なるほど、対立の構図の中の愛から生まれた音楽家であるがゆえに、我を捨てて純粋に音楽に貢献しようとしているのであろうか。彼の履歴の最後に、戦争地域や途上国の音楽家及び音楽団体をサポートする非営利団体「ミュージック・ファンド」の大使を務めるとあるのは、そういう背景あってのことだったのだ。ドイツにおけるユダヤ人であったメンデルスゾーンの協奏曲のあと、彼の友人であった、こちらは生粋のドイツ人、シューマンの「トロイメライ」を、アンコールとして実に感情豊かに弾いたのも、そう思うと感慨深い。

そして休憩後、メインの「イタリア」は、私も大好きな曲なのだが、インキネンと日フィルが爽快感を持って駆け抜けたことに、本当に心が洗われた気分となった。弦楽器の多彩な表現力はもちろん、ここではフルートをはじめとする木管も極めて重要だし、第 3楽章では、のどかなホルンの二重奏が曲の流れを作り、そして狂乱の第 4楽章に入って行くのだが、そのあたりも大変にニュアンス豊かで素晴らしかった。やはりインキネンにはこのタイプの音楽が似合う。是非今後は、ハイドン、モーツァルトあたりを沢山演奏して欲しい。そこには、音楽の醍醐味がたっぷり詰まっているのだから。
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このインキネン、今回のコンサートで配布された資料によると、もともと 2019年 9月で首席指揮者の任期が切れる契約であったところ、この度 2年延長し、2021年 9月までになったとのこと。もちろんその間に東京オリンピックもあるし、実はこのコンビは来年 4月、このオケとして 13年ぶりのヨーロッパ演奏旅行に出かけるらしい。インキネンの故国フィンランドと日本の国交 100周年、そして、日フィルの創立者で、母親がフィンランド人であった渡邊暁雄の生誕 100年を記念するもので、首都ヘルシンキを含むフィンランドや、ドイツの地方都市、ウィーン、そしてロンドンを含む英国の、合計 10都市での公演で、メインにはシベリウス 2番とチャイコフスキー 4番、その他ラウタヴァーラや武満徹の弦楽のためのレクイエムなどを演奏する。これは是非頑張って欲しいものだ。

さて、終演後にはサイン会があったので参加した。背景に東京タワーをあしらった、なかなかおしゃれな写真をバックに「アリガトウ」を連発し、和やかな雰囲気であった。
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ただ、サインはちょっとシンプルすぎませんかね (笑)。ま、では、これからインキネンと日フィルには、シンプリシティの音楽を期待することとしましょう。
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by yokohama7474 | 2018-06-16 00:45 | 音楽 (Live) | Comments(2)  

フランソワ=グザヴィエ・ロト指揮 レ・シエクル 2018年 6月12日 東京オペラシティコンサートホール

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すごいコンサートだった。1971年パリ生まれの指揮者フランソワ=グザヴィエ・ロトの指揮するレ・シエクルというオーケストラの演奏会だ。これは、上のチラシにもある通り、このコンビのアジア・ツアーにおいて、ただ一度の日本公演。正直なところ、この指揮者もオーケストラも、道行く人々誰もが知り、口々にその名を唱えているような著名なものではないはず。にも関わらず、このコンサートのチケットは早々に売り切れ。2次マーケットでもかなりの高値で売買されていたのである。以前からこのコンビに注目し、数枚の CD を購入して驚嘆していた私としては、これはなんとしてでも行かねばならぬコンサートであったのだが、期待通り、今年上半期のベストを争う衝撃的なクオリティであった。まずこのレ・シエクルというオケであるが、いわゆるピリオド楽器を使用する団体である。もっと平たく言えば、いわゆる古楽器なのであるが、このオケの特徴は、演奏する曲の時代に使われていた楽器を使用することであり、いわゆるバロック専門の楽団とは全くその趣きを異にする。言ってみれば、1960年代から始まったいわゆる古楽という流れが、21世紀に至って究極の姿に進化したような存在と言えようか。2003年に設立以来、ロトとの演奏会と録音によって活動を展開してきた。因みにこのシエクルという言葉はフランス語で「世紀」の意味。
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一方、指揮者のロトについては、2016年 4月 7日に都響を指揮したベートーヴェンの「英雄」等を聴いて驚愕したのも記憶に新しい。今回自分でその記事を読み返してみて発見したことには、その最後で私は、「今後の彼の来日公演には、万難を排して出かけるつもりである」と書いている。あーよかった。有言実行できて (笑)。
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そしてこの貴重な来日公演、曲目が素晴らしい。
 ドビュッシー : 牧神の午後への前奏曲
 ドビュッシー : バレエ音楽「遊戯」
 ラヴェル : ラ・ヴァルス
 ストラヴィンスキー : バレエ音楽「春の祭典」

これのどこが素晴らしいかというと、まず、4曲とも、ディアギレフ率いるロシア・バレエ団の委嘱によって書かれた、1910年代から 20年代の曲。もっと正確に言うと、「春の祭典」の初演が 1913年であることは音楽史上の常識であるが、実は「遊戯」も同じ年の初演。私がこのことを知っているのは、随分以前にシャルル・デュトワが NHK 交響楽団と、「1913年・パリ」というタイトルの演奏会を開いていて、そこに「春の祭典」はもちろん、「遊戯」も入っていたからだ。この 2曲はともにシャンゼリゼ劇場での初演。一方、実は牧神の午後への前奏曲は、その前年、1912年の初演で、その場所はシャトレ座。「ハルサイ」と「牧神」は、同時代の作品であったのだ。それから、「遊戯」にはモダニズムが現れている一方、ラ・ヴァルスには回顧趣味が込められていて、メインの「春の祭典」になると原初の世界に戻るという、この時代ならではの混淆ぶりが面白い。

このオケの特色は、曲が作曲された時代の楽器を使うことだと述べたが、その意味では、外国のツアーでは、今回のように同じ時代の作品を集めたコンサートでないと効率が悪いだろう。だが、私がこのコンビの生演奏を初めて体験して思ったのは、楽器がどうのこうのという前に、各楽員の高いモチベーションと、それを巧みに誘導する指揮があって初めて、これだけの高い水準の演奏が生まれているということだ。最初の「牧神」では、冒頭のフルートからしてニュアンス抜群であり、曲のどの場面においても官能性が知性とともに揺蕩う感じ。次の「遊戯」では一転してくっきりした音を描き出し、通常はあまり面白いとも思えないこの曲を、大変楽しめるものとしていた。そして、ラ・ヴァルス!! ウィンナ・ワルツへのオマージュという能書きのこの曲に聴かれる華麗なる退廃は、ラヴェルとしても少し異色のものであるが、優雅さから凶暴さへ向かうその音のドラマの迫真性。終結部間近のパウゼが、こんなに恐ろしいと思わせる演奏は、ちょっとないと思う。実はこれはメインの「春の祭典」でも言えたことだが、今回はサントリーホールよりも 2割ほどキャパシティの小さい東京オペラシティコンサートホールを使ったことが、よかったのではないか。比較的ドライな残響によって、休符が本当に効果的であった。今回の演奏会の目玉はもちろん「ハルサイ」であるが、実はこのコンビ、この曲の CD を 2014年に出していて、日本のレコード・アカデミー賞大賞を含め、世界で賞を受賞している。私もそれを大変楽しんだ。
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この演奏の何がすごいかというと、1913年の初演時の響きの再現に努めたことである。この曲の初演は名指揮者ピエール・モントゥーが指揮したが、音楽史上に残る大スキャンダルとなったその初演時の使用楽譜は、既に失われているという。だが、作曲者の自筆譜は現存しており、それを基本として、1922年に最初にこの曲が出版された際のスコア、作曲者と親交のあったアンセルメやマルケヴィチといった指揮者たちの作曲者とのやりとり等を参考にして、初演時のスコアをロトが復元したものであるという。ただ、普段耳慣れているもの (1967年の最終版) と、音楽自体として異なる箇所はほとんどなく、弦楽器のリズムの刻みが弱かったり、休符が加えられていたり、弓で弾く部分がピチカートになっていたりといった程度。そのような曲の違いよりも、私が最も感じたのは、オケの音色の違いであった。特にホルン。なんとも古雅な響きでありながら、それが咆哮することで (2名はワーグナーチューバ持ち替えでもあり)、なんとも粗野な響きに変貌するのである。もちろん、弦楽器はこの曲に相応しいスピード感を持ち、木管は自発性豊か、金管や打楽器も、ここぞという時に炸裂するものだから、もうスリル満点。やはりこれは、ちょっとほかにない「ハルサイ」であり、こんな熱い演奏を生で体験できたことは、実に貴重なことなのであり、この曲が本来持つ始原性のようなものを、改めて実感させてもらった。演奏が終わった瞬間、客席は一瞬あっけに取られたように静まり、そして拍手が爆発した。興味深かったのは、オケの面々も指揮者に何度も称賛の意を表明していたことだ。この指揮者とオケのコンビは、お互いを尊敬しあう理想的な関係にあるのだろう。そしてロトは紙を取り出して、そこに書かれた言葉をたどたどしい日本語で読んだのだが、このホールで演奏出来て嬉しく光栄である。オケのメンバーには、日本人打楽器奏者もいる(場内拍手喝采)、ささやかなアンコールですという趣旨。演奏されたのは、ビゼーの「アルルの女」から弦楽合奏による抒情的なアダージェットであった。こういう曲を演奏しても、このオケは大変巧い。

終演後にはサイン会があった。6月30日発売の、ラヴェルの「マ・メール・ロワ」全曲、「シェエラザード」序曲、「クープランの墓」というラヴェル作品集が、会場先行販売されていたので購入。サインをもらったのである。スペースは充分あるのに、随分小さいサインだなぁ。それから、長い名前なのに、なんと短いサインだろうか (笑)。
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ロトは、アンコール前のスピーチでも分かる通り、大変にサービス精神旺盛な人である。サイン会もこのような和やかな様子で、今回の衝撃の演奏を堪能したファンの方々はみな、長蛇の列をなしながらも、この偉大なる指揮者とのコニュニケーションを楽しんでおられた。
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今回は一度しかなかった東京公演だが、次回以降は是非、複数公演をお願いしたいものである。フランソワ=グザヴィエ・ロト。今後の活躍から目を離せそうにない。

by yokohama7474 | 2018-06-13 00:33 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

ウラディーミル・アシュケナージ指揮 NHK 交響楽団 (ピアノ : ジャン・エフラム・バヴゼ) 2018年 6月 9日 NHK ホール

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NHK 交響楽団 (通称「N 響」) の今月の定期演奏会には、2人の指揮者が登場する。ひとりは尾高忠明。もうひとりは、このオケの桂冠指揮者であるウラディーミル・アシュケナージである。この記事で採り上げるのは、アシュケナージが指揮する 2種類のプログラムのうちの最初のもの。クロード・ドビュッシー (1862 - 1918) の没後 100年を記念するものであるらしいが、曲目は以下の通り。
 イベール : 祝典序曲
 ドビュッシー : ピアノと管弦楽のための幻想曲 (ピアノ : ジャン・エフラム・バヴゼ)
 ドビュッシー : 牧神の午後への前奏曲
 ドビュッシー : 交響詩「海」

先日、ミシェル・プラッソン指揮新日本フィルによるフランス音楽プログラムで、ドビュッシーの代表作である牧神の午後への前奏曲と「海」が演奏されたら、もっと聴衆が入っただろうか、と皮肉まじりに書いてみたのだが、なんとこのプログラムでは、休憩後の後半に、そのご馳走 2曲が連続して演奏される。さすが、偉大なる作曲家ドビュッシーの没後 100年を記念する演奏会である。

さて、アシュケナージは言うまでもなく、ピアニストとして、その音楽家としてのキャリアを始めた人であるが、もちろん指揮者としても輝かしい実績を積み重ねていて、この N 響とは、2004年から 3年間音楽監督を務めたあと、桂冠指揮者としての関係が続いている。そんな彼も、ふと気づいてみると、今年 81歳!! これはちょっと信じられない思いだ。というのも、もともと彼は大変小柄で、チョコマカと忙しく体を動かして指揮をする人であり、昔の 80歳の巨匠のように悠然たる指揮姿を見せるわけではないし、未だにステージの袖から走って舞台に出て来るような人なのである。
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実はここで明らかにしておきたいのは、私はピアニスト・アシュケナージの偉大さには、すぐにその場にひれ伏したいほどの最大限の尊敬を覚えているが、もう長年録音と実演で聴いてきている指揮者・アシュケナージには、残念ながら未だに、魂の震えるような経験をしたことがない。上記の通り彼の指揮は年齢を感じさせないもので、その意味では若々しいとは当然言えようが、もしそれを悪く表現するなら、円熟していないということになるのかもしれない。だがそれでも、人間性を含めた音楽家としての彼の偉大さを知る人間として、やはり彼のコンサートには極力足を運びたいと思っているのである。

今回の最初の曲目は、フランスの作曲家ジャック・イベール (1890 - 1962) の祝典序曲。この曲だけは今回のプログラムにおいて、ドビュッシーとは関係がないのだが、実はこの曲、日本とは大変因縁の深い曲である。というのもこれは、1940年、当時既に日中戦争に入っていた日本が、皇紀 2600年を祝して諸外国に委嘱した作品のうちのひとつであるからだ。ほかの曲は、ドイツのリヒャルト・シュトラウスの「皇紀 2600年奉祝音楽」、イタリアのピツェッティの「交響曲」、ハンガリーのヴェレシュの「交響曲」である。実はこれらに加えて、英国のブリテンが「鎮魂交響曲」を書いたが、おめでたい機会に鎮魂とは何事かという日本政府の怒りに触れて却下されたという話は有名だ (その事情についてはなかなか簡単ではないらしく、Wiki でも面白い情報を得ることができる)。ところで、この時皇紀 2600年を記念して初演された 4曲の初演時の演奏が CD で手に入るのはご存じだろうか。Altus レーベルから、その道の権威である片山杜秀による詳しい解説付で出ている。いずれも演奏は皇紀二千六百年奉祝交響楽団で、指揮者はそれぞれ異なるが、このイベールの曲を指揮したのは、山田耕筰である。
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その名の通り祝典的な曲で、今回のアシュケナージと N 響の演奏にも、祝祭的な華やかさがあってその点はよかったのだが、いかんせん、いつも思うことだが、アシュケナージの指揮には、なぜか流れのよさがない。もっとリズミカルに、もっと前に進む力のある演奏なら、もっとよかったのにと思う。

2曲目に演奏された、ドビュッシーのピアノと管弦楽のための幻想曲は、かなり珍しい曲で、私も今回初めて耳にするもの。1889年から 1890年にかけて作曲された若書きの作品だが、フランスの芸術家にとって重要な意味を持っていたローマ賞 (1884年、カンタータ「放蕩息子」で受賞) の受賞後の提出作であるらしい。25分くらいのそれなりの長さを持つ作品で、聴いてみると実に親しみやすい。五音音階で東洋的に響く点もドビュッシーらしいし、我々日本人にもノスタルジックに響くのである。演奏もなかなか洒脱で、ソロを弾いたジャン・エフラム・バヴゼというフランスのピアニストのことも私は知らなかったが、さすが、自身この上なく偉大なピアニストであるアシュケナージのお眼鏡に叶うだけのことはある。シャンドス・レーベルからは、この作品を含むドビュッシーの全ピアノ作品や、ベートーヴェンのソナタ、モーツァルトの協奏曲などの録音が出ているらしい。アンコールで演奏したやはりドビュッシーの「前奏曲第 2巻」からの「花火」も、実に見事な演奏であった。
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そして、休憩後に演奏されたドビュッシーの代表作 2作である。私はこれらの曲、とりわけ「牧神」では、遅めのテンポで音楽の実在感を丁寧に表そうというアシュケナージの姿勢には好感を持った。彼の指揮をよく知る N 響であるから、くっきりとした音像を提供しつつ、指揮者の求めるテンポに従いながら、密度の濃い音で、きめ細かい表情を表出していたと思う。その結果、まさにアシュケナージという善良なる音楽家の姿がそのまま現れたような音楽になっていることには、感動した。だが、これが音楽の面白くも難しいところだが、その音楽が世界で最も説得力のあるドビュッシー演奏であったかと言えば、正直なところ、少し違うような気がしてならないのである。これまで聴いてきた演奏も、そして今回も、アシュケナージは自らの信じる指揮をしたものと思う。だが、ピアニストとして彼が実現してきた次元をどうしても思い出してしまうので、何を聴いても期待感と現実にギャップがあるのを否定することができないのである。これは正しい彼の音楽への接し方ではないかもしれない。だが、同じような思いを抱いているファンの方も、それなりにおられるのではないかと思う。繰り返しだが、これだけ指揮者としての実績を誇るアシュケナージに対して、今さらそのような評価を下すのは適当ではないかと思いつつ、彼が 80を超えた今、例えばまたソロでピアノの前に向かってくれれば、聴衆はまさに魂を動かされる体験ができるのでは・・・と勝手に思ってしまっているのであります。だが、また来週も次のプログラムを聴くことができる予定で、とりあえず私はそれを楽しみにしているのである。

by yokohama7474 | 2018-06-10 22:27 | 音楽 (Live) | Comments(2)  

フランツ・ウェルザー=メスト指揮 クリーヴランド管弦楽団 ベートーヴェン・ツィクルス 第 5回 2018年 6月 7日 サントリーホール

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連続でお伝えしてきたフランツ・ウェルザー=メスト指揮クリーヴランド管弦楽団によるベートーヴェン・ツィクルスも今回が最終回。これまでの演奏会、特に前回と前々回はかなり客の入りが悪かったことをレポートしたが、なんと、今回はほぼ満員。実はこの 5回の演奏会のうち今回だけが、独唱・合唱が入ることから、チケットの価格設定が高い。それなのにシリーズで最も多くの聴衆が集まったのは奇異であるが、それは第九という曲の人気によるものであったのだろうか。一部の席では、中学生か高校生と見られる団体もいて、そういったことも関係しているのかもしれない。ともあれ、プロメテウス・プロジェクトの最終日はこんな曲目であった。
 大フーガ 変ロ長調作品133
 交響曲第 9番ニ短調「合唱付」作品125

これまでの 4回では、必ず交響曲 2曲と序曲 1曲という組み合わせであったところ、今回はそれとは違っている。交響曲が 1曲なのは、この第九が演奏に 70分を要する大作であることにもよるが、でも、前半に序曲を置くという選択肢はあったはずだ。歌劇「フィデリオ」序曲でもよかったし、「献堂式」「命名祝日」「アテネの廃墟」「シュテファン王」など、候補になりそうなベートーヴェンの序曲はまだいくつもあるではないか。もちろん、「フィデリオ」序曲を除けば、知名度はもうひとつだし、その「フィデリオ」序曲は、このオペラの最終版に作曲者がつけた曲だから、オペラの冒頭には通常 (仕方なく?) 演奏されるが、単独で演奏される機会はあまり多くない。そう思うと、W=メストがここで序曲の選択肢を捨て、弦楽合奏による大フーガを最初に演奏したひとつの理由は、偉大なる第九の前座にふさわしい序曲がなかったから、というのがひとつの理由にはなるだろう。だがそれ以上に、きっと指揮者の意図は、連続演奏会を通して築き上げてきた彼らのベートーヴェン像を完結させるには、晩年の作曲者の世界をここで聴衆に披露する必要があるということだったのではないだろうか。
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この大フーガという曲は、よく知られている通り、もともとベートーヴェンが弦楽四重奏曲第 13番の終楽章として書いた曲で、その名の通りフーガなのであるが、結局その弦楽四重奏曲の終楽章には別の音楽が書かれることになった。だがこの使われなかった終楽章は「大フーガ」として単独で演奏されるようになり、オリジナルの弦楽四重奏だけでなく、しばしば弦楽合奏で演奏される。フルトヴェングラーもカラヤンも、この曲を指揮している。だがこれは決して誰もが親しめるようなタイプの曲ではなく、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲という深遠なる謎の世界に属する曲なのである。ひとつ思い当たるのは、第九の終楽章にもフーガが出てくるので、聴覚をなくした晩年のベートーヴェンの頭の中で鳴っていた音の中に、このような巨大なフーガがあったのではないかということだ。同じ主題が追いかけ合うフーガという様式は、鷲に内臓をついばまれてもまたすぐに癒えて、同じ苦しみを永遠に繰り返すプロメテウスの姿と重なる部分があると考えるのは、このブログではおなじみの (?) こじつけになりますかね。

ともあれ、これまでの例にならってオケの編成を書いてしまうと、今回の 2曲とも、コントラバス 9本、チェロ 11本、ヴィオラ 11本。つまりは、5番、6番と同じ編成である。そして、開演前にステージに入ってきた今回のコンサートマスターを見ると、第 1日、第 2日でそのポジションを務めたベテラン奏者である。あとで調べてみると、1995年以来、ということは、W=メストが音楽監督に就任する以前からこのオケのコンマスを務める、ウィリアム・プロイシルという人だ。
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実際に音が鳴り出して思ったのは、彼がトップを弾くことで、やはりオケの呼吸が深くなるということである。ただ、その意味では、もうひとりの比較的若い奏者が、前日の 2番・6番でトップだったのは、妥当な人選であったとも思われるのである。ともあれこの大フーガの演奏は、いかにもこのコンビらしい、韜晦なところのないストレートな演奏であったと思う。迫力も充分あるが、各パートの分離もよく、これだけのクオリティの音を聴けることはそうそうないと思う。これだけの大編成の弦楽合奏であっても、およそ音が濁るということがないし、推進力にむらが生まれることもない。さすがである。

そして後半の第九であるが、合唱を務める新国立劇場合唱団 (指導 : 三澤洋史) は、ステージ奥の P ブロック席ではなく、ステージ上に陣取り、独唱者 4人は、その合唱団の 1列目の真ん中に位置するという布陣。第 2楽章終了時に舞台に登場した独唱者たちは、それぞれに国際的に活躍している歌手で、ソプラノのラウラ・アイキンは米国人、メゾのジェニファー・ジョンストンは英国人、テノールのノルベルト・エルンストはオーストリア人、そしてバスのダション・バートンは米国人で、音楽には全く関係ないが、ワイルドな髪形の黒人である。第九の理念にふさわしい、様々な人たちの顔が並んだ。合唱団は全員暗譜、一方の独唱者たちは譜面を見ながらの歌唱であったが、バスのバートンは、手に抱えたバインダーの中身は紙の譜面ではなく、タブレットであった点、現代の演奏らしくて興味深かった。さて、この第九の演奏、もちろん大変素晴らしいものではあったのだが、私の率直な感想を言えば、この異形の交響曲の演奏にしては、少し真面目すぎたような気がしないでもない。つまりここでのベートーヴェンは、まさにデモーニッシュなまでの情熱にとらえられてこの曲を書き上げたと思うがゆえに、このような、透徹はしていても狂気すれすれの熱狂のない演奏では、やはりどこかに曲の本質を表現しきれない要素があるのではないか。実は、私自身としても、聴きながら徐々にそのような思いに囚われたのはちょっと意外であった。というのも、このシリーズの素晴らしい演奏水準にこれまで感嘆してきたからで、まさに現代最高のベートーヴェン演奏のひとつを聴いているという実感があったからだ。ただ、これはこれでひとつの発見ではあった。ベートーヴェンの 9曲のシンフォニーの中でも、この第九だけはその破天荒な内容において、並ぶものがないということであろうと思う。もちろん、ここには私の好みは当然あって、このような第九がベストの演奏だと考える人がいても不思議ではない。実際に今回、終楽章のクライマックスで歌詞を歌いながら指揮する W=メストを見ていると、彼は決して情熱のないクールな指揮者ではなく。実は大変な情熱家であることも実感できた。それが今回のシリーズでの最大の収穫であったかもしれない。5回に亘るプロメテウス・プロジェクト、大いに堪能致しました。

さて、今回も少しオマケを書いてみたい。私の手元には、様々なオケの自主製作 CD があって、それぞれの名門オケの歴史を辿ることのできる貴重なライヴを多く聴くことができるのだが、クリーヴランド管弦楽団の自主製作盤で、このオケの創立 75周年を記念した 10枚組がある。なるほど、今回の来日は創立 100周年記念だから、このCD は 25年前のものである。
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この中に、W=メストの前任の音楽監督であったクリストフ・フォン・ドホナーニの指揮するベートーヴェンの大フーガ (1990年録音) があったので、帰宅後にちょっと聴いてみた。もちろん、実演と録音は単純に比較できないのは承知だが、しかし、このドホナーニの演奏も、今回の W=メストの演奏と同様、過剰な表情づけを避け、ストレートに進んで行く点、似たタイプの演奏という印象だ。前回の記事に、このオケが過去に迎えたシェフたちとの相性について言及したが、このように実際に音を聴いてみると、やはりそうなのだという気が改めてしてくる。前回の記事でその名にふれなかったエーリヒ・ラインスドルフやピエール・ブーレーズを加えても、その指揮者たちにはやはり一定の傾向 (情念に囚われるよりは、引き締まった音楽を志向する点で・・・マゼールは若干毛色が違うものの) が見られるし、しかもいずれも超一流の指揮者ばかり。その意味では、W=メストとこのオケの今後に期待が募る。このコンビでの来日はまた数年後になるのかもしれないが、W=メストの指揮なら、また 11月のウィーン・フィルとの来日で聴くことができる。これはまた、クリーヴランドとは違った期待感を抱かせるに充分なコンビなのである。

by yokohama7474 | 2018-06-08 00:27 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

フランツ・ウェルザー=メスト指揮 クリーヴランド管弦楽団 ベートーヴェン・ツィクルス 第 4回 2018年 6月 6日 サントリーホール

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フランツ・ウェルザー=メストと米国の名門オケ、クリーヴランド管弦楽団によるベートーヴェン・ツィクルス、題してプロメテウス・プロジェクトの第 4回。これまでの 3回はいずれも、最初に序曲、次に比較的穏やかな交響曲 (一般に言う偶数番号の交響曲と、第 1番)、休憩を挟んで後半にダイナミックな交響曲 (一般に言う奇数番号の交響曲) を演奏するというパターンであった。だが今回は違う。これは極めて特殊なプログラム構成だと思うし、世界で何百回ベートーヴェン・ツィクルスが行われてきたか知らないが、多分こんな組み合わせは前代未聞ではないだろうか。
 交響曲第 2番ニ長調作品36
 交響曲第 6番ヘ長調「田園」作品68
 「レオノーレ」序曲第 3番作品 72b

つまり、前半に比較的穏やかな偶数番号の交響曲を演奏するのは同じだが、序曲は演奏しない。そして後半に、まず再度偶数番号の交響曲を演奏して、その後、激しく盛り上がる序曲で〆るという構成。私がこのシリーズの初回で申し上げた通り、どのベートーヴェン・ツィクルスでも、各コンサートの〆となるのは 3・5・7・9番。それは確かに今回のシリーズでもそうなのであるが、6番「田園」という、40分もかかる、しかも西洋音楽史上屈指の傑作をどこに置くかは、確かに考えどころである。今回のシリーズでは、2番との組み合わせとなり、そのこと自体は珍しくはないものの、プロメテウスの英雄性をテーマにしたこのシリーズでは、この「田園」のあとに「レオノーレ」序曲 3番を持ってくるという大胆な試みに出た。さて、その結果やいかに。
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ここで、毎度注目しているオケの編成について書いておこう。前半の 2番は、一言で言ってしまうと、前日の 8番と同じ。つまり、コントラバス 7本に、チェロ 8本、ヴィオラ 10本だ。なるほど、ここでも私の事前の予想、つまり 1番と同じくコントラバス 4本ではないかという読みは、あっさりと外れてしまったわけだ (笑)。いい加減なことを言って申し訳ありません。そして後半は、前日の 5番と同じ。つまり木管は倍管にして、弦楽器は、コントラバス 9本、チェロ 11本、ヴィオラ 11本であった。「田園」は、5番と違って、嵐を表す第 4楽章以外は穏やかな楽想に満たされているので、低音を充実させてオケをダイナミックに響かせるようなタイプの曲ではないのだが、あえてこの 2曲の編成を同じにするには、それなりの考えがあってのことだろう。

交響曲第 2番は、ベートーヴェンのシンフォニーとしては地味な曲であることは否めないが、私は大好きである。例えば、N 響を指揮した雄大な名演が未だに愛されている旧ユーゴ出身の巨匠指揮者ロヴロ・フォン・マタチッチは、自作の「対決の交響曲」という曲の前座には、必ずこのベートーヴェン 2番を組み合わせていたという (私も 1984年 3月、85歳のマタチッチが最後に来日したときにその実演を聴いている)。戦争が絶えない人類の未来に、なんとか希望を見出そうとする「対決の交響曲」という作品のコンセプトに、聴覚の障害を自覚し始めた苦悩の時期にベートーヴェンが書いた、明朗で希望に満ちたこの第 2番がよく合うという理由であったという。小規模な曲ながら、生きる希望に溢れているのがこの 2番だ。その一方で、頻出するスフォルツァンド (急激な強音) が、次のシンフォニーである第 3番「英雄」の冒頭の 2つの和音につながったという説を読んだことがある。明るいが、決して貴族的な優雅さではない、粗野なまでの生きる力に満ちた曲であり、そのエネルギーが、人類史上前代未聞の規模と内容を持つシンフォニーとなった次の「英雄」につながったということだろう。今回の W=メストとクリーヴランドの演奏では、粗野という言葉は当たらないが、曲の隅々まで光が当てられた素晴らしい流麗さによって、この音楽の持つ力が十全に表現されたと思う。コンマスは前回の 8番・5番と同じ比較的若い人であったが、弦楽器全体の美しい歌を率いていて見事。W=メストもこれまで同様、オケを煽ることはせず、着実なテンポで、だが燃焼度の高い指揮ぶりである。素晴らしい充実感だ。
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そして、休憩後の「田園」。これもまた実に美しい演奏で、私がこれまでに何度となく実演で聴いてきたこの曲の演奏の中でも、屈指の名演であったと思う。冒頭部分はかなり速めのテンポであったが、どの声部もごく自然な流れを作り出し、しかも、なかなかよい言葉が見つからないが、軽薄さのない響きとでも言おうか、ただ譜面をなぞっているという感覚とは程遠い実在感に満たされていたのである。以前、この曲の生演奏にはなかなか納得しないと書いたが、この演奏はその数少ない例外。なぜこんな実在感のある音が鳴っているのか、その説明は私にはできないが、これまでこのシリーズで聴いてきたこのコンビの成熟が、「田園」という、親しみやすくも難しい音楽に、稀有な美観と命を吹き込んだとしか言いようがない。この曲の最難関は終楽章であると私は思っていて、これは人々の神への感謝の音楽だが、決して宗教的でなくてもよいから、生きることの尊さを感じさせつつ、それはまさに人間の生命に限りがあるからだという哀しみをも感じる演奏をこそ、聴きたいのである。喩えて言えば、雲ひとつない晴れ渡った空に、ふと死を感じるような、白昼夢のような美しくも恐ろしい音楽。私がこの曲の実演でそのようなことを感じたのは、今すぐに思い出せるのは、チェリビダッケとミュンヘン・フィルの演奏くらいである。だがそれは、超スローテンポの異形の演奏。それに対し今回の W=メストとクリーヴランドの演奏には、全く奇をてらうことのない美しい流れの中で、そのような高い境地の音楽が実現していた点、本当に素晴らしいと思ったのである。また、この滔々と流れる演奏において、第 2楽章末尾でフルートが鳥の声を模して歌う部分でだけは、例外的に思い入れたっぷりの表情が聴かれた。これは多少意外だったが、今思い出すと、全曲の中でよいアクセントになっていたと思う。

実は、私はこの「田園」を聴いたあと、静かに会場をあとにしたいと思ったのである。だが、コンサートの最後には、名曲「レオノーレ」3番が演奏されたので、もちろんそれも聴いたのであるが、ここでも、それはそれは見事な演奏。見事な演奏ではあったのだが、正直なところ、やはり最後は「田園」の静かな感動で終わりたかった。プロメテウス・プロジェクトのコンセプトに鑑みると、闘いにおける勝利の音楽で終わるべきだということだったのだろうか (笑)。ともあれ、このシリーズも残すところあと 1回。いよいよベートーヴェン畢生の大作、第九である。・・・と書いて、思ったことがひとつある。第九の第 3楽章は深い歌に満ちたアダージョであるが、その末尾近くに、トランペットが何かを告げるようなファンファーレを奏する。これは、緩徐楽章において自分の内側で瞑想にふけるのではなく、次の楽章で高らかな歓喜の歌が歌われる際には、全員が顔を上げて、手に手を取り合おうということを予告していると私は解釈しているが、今回の演奏会のコンセプトも、それではなかったか。つまり、穏やかな感動に満ちた「田園」のあと、来るべき最後の祝祭である第九の演奏に向けて、皆備えよ!! という意味での、「レオノーレ」3番の舞台裏からのトランペットではなかったか。これは自分で書いていながら、こじつけの感を否定できないが (笑)、でも、そう思うと何かワクワクしてくるではないか。今回の演奏も、かなり空席の目立つ状況だったので、最後の第九くらいは、もっと席が埋まって欲しいと切に願うのである!!

さて、前回の記事では指揮者 W=メストの若い頃の来日をご紹介したが、今回はオマケとして、このオケの過去の来日についてちょっと書いてみたいと思う。これは音楽ファンにとっては常識であると思うが、クリーヴランド管弦楽団の初来日は、大阪万博が開かれた 1970年。このオケを世界最強の一角に育て上げた大巨匠、ジョージ・セルの指揮であった。さすがに私は当時は幼児であって、それは聴いていないが、初めてこのオケを聴いたのはそれでも比較的早く、1982年のこと。指揮は当時の音楽監督、ロリン・マゼールであった。今そのプログラムを手元に持って来てみると、その時がこのオケの 4回目の来日で、初来日の 1970年のあと、1974年、1978年、そして 1982年と、当時はちょうど 4年に 1回来日していたわけである。今回、2018年の来日は 10回目ということだから、1982年から現在までの 36年の間に 6回来日しているわけで、平均 6年に 1回。これは、ダントツに来日頻度の高いウィーン・フィルや、それよりは頻度は落ちるベルリン・フィルと比べても、低い頻度だと言わざるを得ない。理由は様々だろうが、このレヴェルの音楽を聴けるのであれば、もっと頻繁に日本にやってきて欲しいものだ。これが 1982年公演のプログラム。因みにマゼールの言葉の横にあるサインは印刷です。別の機会にもらったマゼールの生のサインも持っているが、いつか披露する日が来るだろうか。
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思えば、マゼールはこのとき 52歳で、現在の W=メスト (57歳) より若かったわけである。それを思うと今昔の感がありますなぁ。だがそれにしても、セル時代から現代に至るまでこのオケのクオリティが保たれているのは、W=メストの前任者であるクリストフ・フォン・ドホナーニを含め、相性のよい歴代の指揮者に恵まれたということなのだろう。米国のメジャー・オケでも、そうでないところは幾つもある。そんな稀有な存在であるクリーヴランド管弦楽団、心してその演奏に耳を傾けるべきであろう。

by yokohama7474 | 2018-06-07 00:36 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

フランツ・ウェルザー=メスト指揮 クリーヴランド管弦楽団 ベートーヴェン・ツィクルス 第 3回 2018年 6月 5日 サントリーホール

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オーストリア出身の名指揮者、フランツ・ウェルザー=メストと、その 15年来の手兵クリーヴランド管弦楽団によるベートーヴェン・ツィクルスは、1日の休みを置いて、第 3回の演奏会が開かれた。過去 2回の演奏についてはこのブログでも絶賛をもって記事にしたのであるが、何よりも毎回毎回、いかなる編成で演奏するのかという点に注目せざるを得ない。W=メストが、プロメテウス・プロジェクトと銘打って行っているこのツィクルスにおいては、人類に火をもたらした罰で永遠に転生を繰り返す英雄のごとく、昨日と今日は異なる日であるとの実感をもって臨む必要がある。とまぁ、そんな大げさなことを言わなくても、音楽を楽しめばよいと思いますが (笑)、この日のプログラムは以下の通り。
 序曲「コリオラン」作品62
 交響曲第8番ヘ長調作品93
 交響曲第5番ハ短調作品67

このシリーズのこれまでの特色は、コンサート前半に序曲と比較的穏やかな交響曲、後半にドラマティックな交響曲を配置することである。この日もそのパターン。それから、前半と後半との間ではオケの編成は変えるが、前半の途中で編成を変えることはない。結果的に、前半に演奏される交響曲の弦楽編成に応じて、冒頭の序曲の編成も変わるということになっている。そして、面白いから最初に書いてしまうが、この日の前半の弦楽器は、コントラバス 7本、チェロ 8本、ヴィオラ 10本。木管楽器はオリジナル通り 2本ずつ。そして後半はなんと!! 弦楽器はコントラバス 9本!! チェロ 11本、ヴィオラ 11本であった。木管は倍管 (各 4本、ピッコロとコントラファゴットは持ち替え)、金管は、ホルン 3本のほかは、トランペットはいつもの 2本、トロンボーン 3本と、これらはスコアの指定通り。それにしても、古楽隆盛、原典主義全盛の今日、ベートーヴェン 5番をコントラバス 9本で演奏する指揮者が、一体どれだけいることだろう。W=メスト、プロメテウスばりの勇気である!!
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まず前半である。過去 2回を聴いて、比較的穏やかな (通常よく言われる偶数番号の) シンフォニーのコントラバス本数は、1番が 4本、4番が (私の数え損ないでなければ) 6本であったことから、事前の私の想像では、(次回演奏される) 2番が 1番と同じ 4本、(今回演奏される) 8番が 4番と同じ 6本であろうと思ったのだが、この 8番、あえて 7本と来たのは驚いた。もちろん、8番は一筋縄では行かない大交響曲の側面もあるので、4番よりも少し重低音を充実させようという意図は分からないではないのだが、それにしても細かい修正だ。そしてこの編成で鳴り出した序曲「コリオラン」は、シェイクスピアの「コリオレイナス」に材を取った同時代の戯曲に触発されてベートーヴェンが書いた演奏会用序曲であるが、前回の「エグモント」同様、やはりここでも英雄がテーマになっているので、このプロジェクトにふさわしい曲であると言える。実は私は、ここでの冒頭の音の充実度が、過去 2回のレヴェルにほんの僅か及ばないような気がした。見ると、コンサートマスターが、前 2回よりも若い人に変わっている。それが直接関係しているのか否かは分からないが、コンサート前半を通して、過去 2回よりも少し呼吸が浅かったようにも思われたのである。だが、それでもこの「コリオラン」、各パートの流れが克明に見えるような明快な演奏であり、休符の箇所でも音楽は停滞せず、ドラマを巻き起こしながらの休止であった。超一流の指揮者とオケであることは、これだけでも明らかだ。続く 8番も、何か変わったことをするでなく、無用な気負いもなく、当たり前のように音が流れ出して、当たり前のようにドラマ性や喜悦感を作り出す点においては、本当に見事だと思った。この曲の再評価を迫るというタイプの演奏ではないが、だが W=メストの信念のようなものはあちこちで感じることができて、ある種の高い職人性こそが、優れた指揮者にとって必要な資質なのだということを、改めて実感することとなった。

そして、第 5番。上記の通りコントラバス 9本という、時代遅れとも思われかねない大編成であったが、しかしその演奏スタイルは、決して古臭いしんねりむっつりしたものではない。この曲、冒頭の休符のあとに流れ出す音楽の勢いには、様々な表現方法があるが、W=メストのそれは、いたずらに音を引きずらず、ぐっと力を入れたあと、すぐにそこで音を刈り込んで、すかさず次に進んで行くようなイメージ。巨大編成ではあっても、出て来る音は大変に引き締まっている。畳みかける音が雪崩を打って展開して行くときも、興奮に我を忘れるということはなく冷静に、だが強い集中力をもってオケをリードして、純粋に音そのもののドラマを作って行く。これはやはり、このレヴェルの指揮者とオケのコンビでなくてはなしえない、非凡な演奏であろう。最初から最後まで充実した音を楽しめる快演であった。ただ正直、前回の 7番ほどの高い燃焼度には僅かに至らなかったような気もするが、それは欲張りというものか。この日もアンコールはなく、その点もシリーズのコンセプトであるらしい。

さて、以前も書いた通り、このベートーヴェン 5番は、同じ作曲家の 6番「田園」とともに、1992年、W=メストが代役としてロンドン・フィルを指揮して日本に初お目見えした曲。そのときの資料が何か手元にないか探してみたが、どうしても出て来ない。そこで今回は代案として、W=メストがその当時の手兵ロンドン・フィルを率いて 2度目に来日したときのチラシをお目にかけよう。それは 1995年のこと。ソリストとして同行したのは、当時一世を風靡したピアニスト、スタニスラフ・ブーニンである。このチラシが面白いのは、明らかに W=メストよりもブーニンの方が写真が大きいし、ロンドン・フィルの宣伝をするのに、「英国の伝統云々」と称して、ビッグ・ベンの写真を掲載しているあたりに、主催者の苦労が見える (笑)。当時既に世界的な活躍をしていたとはいえ、日本ではあまり知名度のない 35歳の若手指揮者という扱いだったわけだ。
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それから四半世紀近く経って、W=メストが堂々と練達の音楽を聴かせてくれる東京は、なかなかにエキサイティングな街に違いない。だが、今回は聴衆の入りがもうひとつ。これはもったいないと言わざるを得ないのである。プロメテウス・プロジェクトの演奏会は残り 2回。是非多くの方々に聴いて頂きたいものである。

by yokohama7474 | 2018-06-06 00:37 | 音楽 (Live) | Comments(2)  

ダニエーレ・ルスティオーニ指揮 東京都交響楽団 (ヴァイオリン : フランチェスカ・デゴ) 2018年 6月 4日 サントリーホール

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サントリーホールにおいて開催中の、フランツ・ウェルザー=メストとクリーヴランド管弦楽団によるベートーヴェン・ツィクルスの合間を縫って、東京都交響楽団 (通称「都響」) の定期演奏会が開かれた。上の写真にある通り、先月の下野竜也指揮の演奏会とまとめてひとつのチラシに入っているこの演奏会の宣伝コピーは、「あふれる歌心が伝える "イタリア"」。これはいかなる意味なのか。まずは演奏者である。指揮のダニエーレ・ルスティオーニとヴァイオリンのフランチェスカ・デゴは二人ともイタリア人であり、ついでに言えば夫婦なのである。これについては、2016年 6月26日の東京交響楽団の演奏会でこの二人が共演した際の記事 (2016年 6月28日付) に書いておいたので、ご興味ある向きはご一読を。またルスティオーニについては、同世代のやはりイタリアの指揮者、東京フィル首席指揮者のアンドレア・バッティストーニが指揮するヴェルディのレクイエムの演奏会終了後に客席にその姿を見つけ、ご当人の迷惑を顧みずに私が単独突撃インタビューしたことも、記事に書いたことがある (2017年 2月19日付)。お、そう言えばちょうど先週もこのバッティストーニの演奏会に出掛けたばかり。ということは、この 2人の仲のよいイタリア人指揮者たちは、今回もまた同時期に東京に滞在したことになる。今回のコンサートの客席にバッティストーニの姿を探したが、残念ながら見つけられなかった。

さて今回の指揮者ルスティオーニは、1983年生まれなので、今年 35歳の若手である。日本では既にこの都響や東響以外に、九州交響楽団や大阪フィルも指揮しているらしい。そして、国際的にはなんと言っても、昨年 9月から、大野和士の後任として、名門リヨン歌劇場の音楽監督に就任していることが注目される。彼は今回、その大野が音楽監督を務める都響に二度目の登場なのである。
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この演奏会がイタリアに因むというのは、演奏者だけでなく、曲目にも理由がある。こんな具合だ。
 モーツァルト : 歌劇「フィガロの結婚」序曲K.492
 ヴォルフ=フェラーリ : ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品26 (ヴァイオリン : フランチェスカ・デゴ)
 リヒャルト・シュトラウス : 交響的幻想曲「イタリアより」作品16

ふーむなるほど。最初と最後は、ドイツ語圏の作曲家によるイタリア語のオペラと、イタリアをテーマにした曲。真ん中はイタリアの作曲家だ。だが、解説によるとヴォルフ=フェラーリはイタリア生まれとはいえ、父親はドイツ人で、音楽教育もドイツで受け、後年はミュンヘンで活躍したらしい。なるほどこれらはすべて、ドイツとイタリアのミックスなのである。

では演奏について。最初の「フィガロ」の序曲は、冒頭こそちょっと重いかなと一瞬思ったが、主部に入ると、わっと視野が広がるような感じで、いかにもこれからオペラが始まるというワクワク感を感じさせる演奏となった。さすが若手のホープである。

2曲目、エルマンノ・ヴォルフ=フェラーリ (1876 - 1948) のヴァイオリン協奏曲は、私も今回初めて聴く曲。そもそもこの作曲家の作品は、歌劇「マドンナの宝石」の間奏曲が、いわゆるクラシック音楽の入門名曲集のようなアルバムによく入っているくらいで、それ以外は聴く機会がほとんどない。オペラが作曲活動の中心であったようだが、初期と後期には器楽曲も作曲し、また、オペラもイタリアよりもドイツで人気が出たということもあり、上述の通りミュンヘンに居を構えたということだ。
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この人は、プッチーニよりも 1世代下で、マスカーニ、レオンカヴァッロ、ジョルダーノよりもやはり年下。「シラノ・ド・ベルジュラック」のオペラを書いたアルファーノと同世代 (W=フェラーリが 1歳上) である。ということは、既にイタリアオペラが全盛期を過ぎてからのオペラ作曲家だと言えるだろう。因みに、イタリアでオペラの伝統を脱して器楽分野の再興を唱えたレスピーギは、この W=フェラーリよりもわずか 3歳下である。そんな彼のヴァイオリン協奏曲は、1943年に書かれ、1944年 1月にミュンヘンで初演されている。これはなんという時代か。敗色濃いドイツで初演されたわけなのであるが、この曲はひたすら甘美で、そのような時代背景は全く感じさせない。解説によると、米国人だがナチス体制下のドイツに留まったギラ・ブスタボ (1916 - 2002、解説には英語風に「バスタボ」とあるが、調べてみると一般的な呼び方は「ブスタボ」とドイツ語風に呼ぶようだ) という女性ヴァイオリニストのために書かれている。W=フェラーリは 40歳下の彼女に深い愛情を抱いていたと言われているらしい。これがそのブスタボさん。後年躁うつ病を患ったらしいが、1971年にミュンヘンでルドルフ・ケンペ (もちろん当時のミュンヘン・フィルの音楽監督だ) の指揮で、この W=フェラーリの協奏曲を再演したそうだ。その録音もあるらしいので、いつか聴いてみたい。
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上記の通りこの曲は、大変に甘美な曲で、初めて聴いてもその曲の美しさは充分に理解できるタイプの曲である。その意味では、本来もっと演奏されてもよいかもしれない。ここでソロを弾いたデゴは、以前東響で聴いたショスタコーヴィチよりも、こちらの方に適性があるだろう。曲想が次々と変わって行く様子を、実に深い感情を込めて演奏していたと思うし、夫君であるルスティオーニも、まあそれはよく練った音で伴奏していた。曲自体にどこまで感動したかは別としても、このような若い音楽家たちによる演奏は、それだけで聴いていて気持ちのよいものであり、チャイコフスキーとかシベリウスのポピュラーなコンチェルトでなくてむしろよかった、とも思った次第。これがフランチェスカ・デゴ。
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実は今回の会場で知ったことには、彼女はルスティオーニ指揮のバーミンガム市響とともに、この W=フェラーリのコンチェルトを既に録音している。ここでのカップリングはパガニーニの 1番のコンチェルトであるが、パガニーニと言えば、今回のコンチェルト演奏後、夫君がオケの打楽器の席に腰かけて聴き入る中、彼女が弾いたアンコールは、パガニーニの 24のカプリースの第 13曲。以前、東響との演奏会でもアンコールに弾いた曲であり、情念すら思わせる表現力豊かな演奏だった。
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そして後半、そのデゴも客席で聴衆に加わり、ステージで演奏されたメインの R・シュトラウスの「イタリアより」は、大変な聴き物になった。この曲は、あの有名な「フニクリ・フニクラ」が終楽章のテーマとして使われていることで知られるが、演奏頻度は決して多くない。私の場合は、たまたまリッカルド・ムーティが一時期あちこちで演奏していた (ベルリン・フィルと録音もしている・・・「ツァラトゥストラ」も「英雄の生涯」もムーティが指揮したとは聞いたことがないので、なぜにこのマイナーな曲を愛好していたのかは謎。単にナポリつながり?) のを学生時代に FM でエアチェックして、それを聴くことでこの曲に親しんだ。録音ではほかには、上にも名前の出たルドルフ・ケンペとシュターツカペレ・ドレスデンの名演にも親しんだが、生演奏で聴いた記憶はあまりない。サヴァリッシュと N 響くらいだろうか。今回は久しぶりに耳にしたのであるが、作曲当時 22歳という驚くべき若さであった天才作曲家の才気煥ぶりと、曲自体の限界を同時に感じさせる演奏であった。何より、ルスティオーニの集中ぶりがすごい。都響は東京でもトップを争う密度の高い音を出すオケであるが、そこに若き俊英が息を吹き込むことで、キラキラと輝くような音がそこここで鳴っていた。もちろん、曲の限界という意味では、色彩感や曲のストレートな表現は後年の傑作交響詩群には及ばないが、それでも、これだけのクオリティのサウンドで聴かせてくれれば、新たな発見があろうというもの。実に素晴らしい演奏であった。終演後のルスティオーニも上機嫌で、都響の熱演を大いに称えていた。このルスティオーニと都響は、相性がよいと思う。前回と今回の登壇は、単発のプログラムを 1回ずつだったと思うが、次回は是非腰を落ち着けて、複数のプログラムを指揮して欲しいものだと思う。マーラー、いかがですかね。

ところでこの演奏会、コンサートマスターとして予定されていた矢部達哉が急病となり、急遽出演したのは、神奈川フィルのソロ・コンマス、﨑谷直人 (さきや なおと)。急な代役で、こんなマニアックな曲目 (シュトラウスではソロも披露) を果たすのは大変なこと。ご本人の Twitter によると、なんと 5/30 (水) のオファーであったとのこと。たったの 5日前!! しかもその 3日前、5/27 (土) の3時間半に及ぶ井上道義指揮神奈川フィルのバースタイン作品による大演奏会でも、彼はコンサートマスターの大役を果たしていたはず。これは大変なことである。ルスティオーニも終演後、彼に深い敬意を表していた。
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東京 (と、横浜) で展開するプロの音楽の世界。我々聴衆もそれを心して聴く必要があるし、オケ同士の切磋琢磨によって、また東京の音楽界が次の次元に入って行ってくれることを願ってやまない。

by yokohama7474 | 2018-06-05 00:38 | 音楽 (Live) | Comments(0)