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カテゴリ:音楽 (Live)( 497 )

マウリツィオ・ポリーニ ピアノ・リサイタル 2018年10月18日 サントリーホール

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11日前、10/7 (日) のリサイタルの様子を先にレポートした、現代最高のピアニストのひとりであるマウリツィオ・ポリーニの東京での 2度目のリサイタル。実は、上のチラシにある通り、これは本来 3度目のリサイタルであったはずだが、ポリーニが腕の痛みを訴えたとのことで、10/11 (木) に予定されていたリサイタルが 10/21 (日) に延期されてしまった。それに伴い、曲目も変更になって、2度目と 3度目のリサイタルは同じ内容となった。だが実は今回会場に到着して、曲目がさらに変更になったことを知った。もともと発表されていたのは以下のようなプログラム。
 シェーンベルク : 3つのピアノ曲作品11
 シェーンベルク : 6つのピアノ小品作品19
 ベートーヴェン : ピアノ・ソナタ第 8番ハ短調作品13「悲愴」
 ベートーヴェン : ピアノ・ソナタ第29番変ロ長調作品106「ハンマークラヴィーア」

なるほどこれは本来のポリーニの持ち味がよく出るプログラムであった。先鋭的なシェーンベルクと、ベートーヴェンのソナタでも人気曲である「悲愴」と、そして多大なエネルギーを必要とする「ハンマークラヴィーア」である。だが、腕の痛みがあるというポリーニには、このプログラムはつらかったのだろう。変更されたプログラムは以下の通り。
 ショパン : ノクターンヘ短調作品55-1、変ホ長調作品55-2
 ショパン : ピアノ・ソナタ第 3番ロ短調作品58
 ドビュッシー : 前奏曲集第 1巻

こうなると、前半のショパンは、先の 10/7 のリサイタルの後半と同じ。後半のドビュッシーは、本来 10/11 に弾くはずであった曲目で、確かにピアニストの負担は減るだろう。この時点でポリーニは日本の聴衆に対し、「これが日本で 3回のリサイタルを演奏するという約束を果たせる唯一の方法であることをご了承いただきますよう、お願い致します。数十年に亘り愛情と尊敬の念をもって続いてきた日本の聴衆の皆様との関係は、私の宝です」というメッセージを出した。

だが最終的にはさらに変更がなされて、以下のような内容になった。
 ショパン : ノクターン嬰ハ短調作品27-1、変ニ長調作品27-2
 ショパン : マズルカロ長調作品56-1、ハ長調作品56-2、ハ短調作品56-3
 ショパン : ノクターンヘ短調作品55-1、変ホ長調作品55-2
 ショパン : 子守歌作品57
 ドビュッシー : 前奏曲集第 1巻

なるほどこれは、ピアニストが渾身の力で鍵盤を叩く場面はほとんどない曲目である。それだけ腕の回復具合が思わしくないということなのかもしれないが、上記のメッセージにもある通り、このピアニストが日本の聴衆のために最善を尽くしてくれたものであると思われる。ポリーニのショパンとドビュッシーを聴けるのである。これはやはり、是非聴きたい内容であると私は思ったものである。
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通常、曲目変更だけではコンサートチケットは払い戻しにはならないが、今回はその変更が大幅であったため、主催者は払い戻しも受け付けた。そのせいもあったのかどうか、実際に会場に行ってみると、客席にはあちらこちらに空席がある状態であった。もともとピアノ・リサイタルとしては異例の高額チケット (であるがゆえに、今回も私は最安値席での鑑賞であった) ということも一因だったかもしれない。

今回のポリーニ、特に前半のショパンは、気のせいか少し疲れが見えるような気がしないでもなかったが、その底光りのする音は随所に聴き取ることができたことで、このピアニストならではの明晰性と独特の抒情は、充分に感じることができた。ドビュッシーの前奏曲は、確か前回の来日で第 2巻を聴き、今回はよりポピュラーな曲を含む第 1巻。高度なテクニックを駆使しながら立ち現れるその乾いた抒情性には、この作曲家の最良の面が出ていると思う。前回の記事にこのピアニストが克服して来たであろう壮絶な孤独に思いを馳せたが、それは今回も同じ。真摯にピアノに向き合うその猫背を見ているだけで、そこで鳴っている音に孤高の美学を感じるのである。また、技術的破綻は皆無で、腕の疲労という心配材料は、聴く限りにおいてはほとんどなくなっているように思われた。今回のプログラム冊子に、ポリーニ自身が語る言葉が掲載されているが、ドビュッシーについて、「それまで誰も聴いたことのなかったような音とハーモニーを用いて実験を行い、それによって、外面的印象の中から内面的な情調絵画を創り出しました。(中略) "印象主義" というレッテルでは言い尽くせるものではありません。ドビュッシーをひとつの方向から見るのでは不充分だと思っています」と語っていて興味深い。そう、印象主義は Imporessionism、一方で表現主義は Expressionism。日本語にすると全く語感の異なるこの 2つの美学は、実は表裏一体のものだと私は以前から思っている。限られたステージの照明の中でピアノに向かうポリーニの姿からは、芸術の流派とかスタイルを超えた、音楽の力を感じることとなった。

今回も終演後、花束を贈呈する人たち (男女 1名ずつ) がいたが、前回と異なり今回は、ピアニストが喝采に応えて再登場し、左手をピアノに軽くかけてステージ中央前面に立ったとき、正面から花束を差し出した。これならポリーニも無理なく受け取ることができ、作戦は大成功 (笑)。そしてポリーニが弾いたアンコールは、同じドビュッシーの前奏曲集第 2巻の終曲「花火」。これも華やかな技巧による粒立ちのよい音が散りばめられた演奏であった。

残る 1回のリサイタルには私は出掛ける予定はないが、この様子であれば当日券もあるのではないか。音楽ファンであれば、是非聴いておかねばならないリサイタルだと思いますよ。

by yokohama7474 | 2018-10-19 02:51 | 音楽 (Live) | Comments(0)

ヘルベルト・ブロムシュテット指揮 NHK 交響楽団 2018年10月14日 NHK ホール

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今年の 4月に来日して、自らが名誉指揮者を務める NHK 交響楽団 (通称「N 響」) と名演奏を聴かせてくれたスウェーデンの巨匠、ヘルベルト・ブロムシュテットが、早くも再来日である。その間に 91歳の誕生日を迎えたこの指揮者、このブログで何度も採り上げてきた通り、矍鑠という言葉さえ不要なほど活発な活動を展開中である。少し前まで、80を超えた巨匠指揮者と言えば、ヨボヨボと歩いてようやく指揮台に辿り着くと、椅子に座って別人のように精力的に指揮をするというイメージであったが、このブロムシュテットだけは、ごく普通にステージの袖から指揮台まで歩いて登場し、ごく普通に全曲立って指揮をする。そしてまた、彼の指揮のもとに鳴り響く音楽には、加齢による硬直化は微塵も見られず、テンポはキビキビとして爽快だし、音のドラマ性も充分。少々大げさに言ってしまうと、これまで人類が持ち得なかったほど異例に (笑)、その年齢を感じさせないヴァイタリティを保った、奇跡的な存在である。
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そんなブロムシュテットがこのような頻度で東京で演奏会を開いてくれることは、実に有難いことなのであるが、今回も意欲的な 3つのプログラムが並んでいる。そのうち最初のものは以下のような内容。
 モーツァルト : 交響曲第 38番ニ長調K.504「プラハ」
 ブルックナー : 交響曲第 9番ニ短調 (コールス改訂版)

なるほどこれは、モーツァルトとブルックナーの代表的な作品を並べた、ブロムシュテットとしても自家薬籠中のレパートリーである。東京の音楽ファンとしては、とても冷静ではいられないほどの内容である。そしてまた実際に耳にしてみて、とても冷静ではいられないほどの感動を覚える素晴らしい名演奏になったことを、最初に述べておこう。

まずモーツァルトの「プラハ」であるが、ヴァイオリンの左右対抗配置を採り、指揮棒を使わないのは最近のこの指揮者の通例通りであり、コントラバス 3本という編成も、今日ではスタンダードと言ってよいだろう。小さめで堅い音のティンパニを使っていたほかは、いわゆる古楽的な奏法ではない。だが驚くべきことに今回の演奏、すべての反復を実行していた。プログラムには演奏時間「28分」とあるし、手元にある 1982年のシュターツカペレ・ドレスデンとの録音も 29分程度。だが今日の演奏は、40分ほどはかかっていただろう。譜面台にスコアを閉じたまま置いたブロムシュテットは、全く老いのかけらさえ見せない暗譜による指揮ぶりである。その愚直な指揮姿から立ち昇ってくる清冽な音の流れを聴くのは、まさに至福の時間。この曲では第 1、第 2のヴァイオリン群の間でも楽しい掛け合いがあり、モーツァルトの愉悦感ここに極まれりである。N 響の高い演奏能力が巨匠の要求に見事に応えていたと思う。なお、思い立って、この指揮者が 2014年に同じ N 響でモーツァルトの 39番を演奏した録画を見てみたが、そこでは、譜面台はあるものの、スコアは置いていない。細かいこととは言え、人間長らく同じ仕事を続けていると、同じ方法を踏襲したいものである。4年前に置いていなかったスコアを今回置いていたことには、何か新たな意味があるのだろうか。

そして、ブルックナーの深遠なる最後の交響曲、第 9番。先の記事でも述べた通り、今月の東京では 3つの指揮者とオケの組み合わせでこの曲が鳴り響くわけであり、もちろんそれぞれの演奏にそれぞれの個性があることになろうが、それにしてもこのブロムシュテットと N 響の組み合わせは、期待通りというべきか、それはもう凄まじい演奏となったのである。ここでもブロムシュテットは、譜面台にスコアを置きながら、それには全く手を触れず、自らの感興の赴くままに指揮をした。そこには感傷性は皆無。旧来のドイツ的な重厚感一点張りのブルックナーとは異なって、細部のニュアンスに富み、その音の鮮烈さは、喩えてみれば、洗い立ての、生地の強い布のようなもの。90歳だろうが何歳だろうが、こんな音をオーケストラから引き出すだけでも大変なことである。ブルックナー特有の神秘性と俗っぽさの交錯もそのままに提示することで、そこには人間のドラマが立ち昇っていた。今回のゲスト・コンサートマスターは、もとウィーン・フィルのライナー・キュッヒルであり、彼のつややかなヴァイオリンが N 響を引っ張っていたことも間違いないだろう。キュッヘルは 2010年にフランツ・ウェルザー=メストとウィーン・フィルが日本でこのブルックナー 9番を演奏したときにもコンマスであり、スケルツォで何度も戻ってくる主要主題のうち一回で、前のめりになるあまり一人だけ飛び出してしまうというハプニングがあったのを思い出したが、それだけ情熱をもって演奏に取り組んでいるということだろう。それから今回の演奏で改めて気づいたことには、この曲において弦楽器は、実は 7番や 8番ほど滔々と歌うわけではなく、かなりピツィカートの部分も多いということだ。上記のスケルツォでは、弦の各部はピツィカートで始まり、ほとんどの奏者は弓を膝に置いての演奏であったが、唯一第 2ヴァイリンだけは弓を持ちながらピツィカートを奏しており、その理由は、このパートだけ、主要主題に入る直前までピツィカートで演奏しているからだ。ヴァイオリンの左右対抗配置によってそのことが視覚的に分かったわけだが、あの神々しいアダージョにおいても、時にピツィカートが耳に強く響いてくる。この未完の交響曲は、終楽章を欠いており、アダージョで終わるのだが、このアダージョ、実は 7番や 8番のそれほど、大河のような流れや、(ノヴァーク版で打楽器が鳴る) 明らかな頂点があるわけではないのである。神のために作曲していたブルックナーが夢見ていた音楽の行く末は、一体どんなものであったのだろう。そういえば今回の演奏楽譜には「コールス改訂版」とあって、プログラム冊子には特に解説はないが、耳で聴いて何か特殊な音響があるわけでもない (ブロムシュテットは、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管との録音でもこの版を使用している)。ただこのコールスという人は、ほかの何人かの音楽学者とともにブルックナー 9番の第 4楽章を補筆完成させた人。そのような観点でこの演奏を思い返してみると、特別なことは何もしていないにもかかわらず、天に召される直前のブルックナーがいかなる音を夢想していたのか、考えさせられる点もあったように思う。だが、第 3楽章における激しい葛藤がついには穏やかな境地に至り、ホルンとワーグナーチューバの歌 (7番の冒頭のテーマに似ているとよく言われるが、私にとってそれはあまり意味のない話) が、まるで青空に溶け込む雲のように消えて行ったとき、理屈ではない、ただ重い感動が胸を満たしたのであった。気の早い聴衆が何人か拍手をしたが、指揮者もオケも微動だにせず、数十秒の沈黙。そして指揮者が半分客席を振り返って、「もう拍手してもよいですよ」と促すような仕草をすると、金縛りが解けたように大喝采が沸き起こった。

ふと思い立って、N 響が過去にどんな指揮者とブルックナー 9番を演奏しているか、調べてみた。完全なデータはないが、一部だけでも興味深いので、判明しただけここに掲載しておく。
 1950年 尾高尚忠
 1968年 ロヴロ・フォン・マタチッチ
 1971年 ウォルフガンク・サヴァリッシュ
 1978年 外山雄三
 1981年 ホルスト・シュタイン
 1986年 フェルディナント・ライトナー
 1989年 若杉弘
 1996年 ハインツ・ワルベルク
 1998年 若杉弘
 2000年 朝比奈隆
 2014年 ファビオ・ルイージ

なるほど、なかなか厳選されたメンバーである。この中で、2000年の朝比奈隆は当時 92歳。今回のブロムシュテットよりもさらに上なのである!!

また、今回の会場で、ブロムシュテット初の自伝なるものが先行発売されていたので、購入した (その場にあった冊数は完売していた)。宣伝を見ると、20世紀の音楽家で交流のあった音楽家として、マルケヴィチ、バーンスタインと並んで、ジョン・ケージの名があるのが面白い。ブロムシュテットとケージの名前は全く結びつかないが、一体何が書いてあるのか、楽しみにしたい。
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by yokohama7474 | 2018-10-14 23:55 | 音楽 (Live) | Comments(6)

大野和士指揮 東京都交響楽団 (ピアノ : リーズ・ドゥ・ラ・サール) 2018年10月13日 東京芸術劇場

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今や東京でもトップを争うクオリティのサウンドを聴かせる東京都交響楽団 (通称「都響」) であるが、今月の指揮台には、音楽監督の大野和士が登場。待望のこのコンビによる演奏は、4つのプログラム。興味深いことに、そのうち 2回はフランス音楽によるもの。残る 2回はドイツ・オーストリア音楽によるもの。いずれも大野ならではの凝った内容で、これはどれも必聴のプログラムなのである。
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今回の演奏会にはテーマがあって、「ジャン・フルネ没後10年記念」「ドビュッシー没後100年記念」とある。ドビュッシーの没後100年については、ほかのコンサートでも様々に採り上げられているが、ジャン・フルネについてはどうだろうか。ほかに彼の没後 10年を記念して開かれた演奏会というものは、寡聞にして知らない。それもそのはず、フランスの名指揮者ジャン・フルネ (1913 - 2008) と最も縁の深かった日本のオケは、この都響であり、このオケにとって彼は、永久名誉指揮者であるからだ。
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この指揮者が日本の音楽界に果たした役割は非常に大きい。都響だけでなく、N 響、日フィル、新日本フィル、読響や大フィル、群馬交響楽団などを指揮している。今回の演奏会では、大野が開演前に登場して、フルネについて語っていた。フルネがフランスで生を受けた 1913年には、「春の祭典」世界初演という音楽史上画期的な出来事があり、またドビュッシーの「遊戯」の初演もこの年。作曲家で言えば、ベンジャミン・ブリテンがこの年に生まれている。そのようにモダニズムの台頭期に生まれたフルネの初来日は 1958年。それはドビュッシーの歌劇「ペレアスとメリザンド」の日本初演であった (大野の説明にはなかったが、それはもともとドビュッシーと親交のあったデジレ=エミール・アンゲルブレシュトの代役であった)。都響には 1978年に初登場、その後密なる関係を築いた。現在その都響の音楽監督を務める大野は、藝大の学生の頃、フルネのリハーサルを見学していて、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」において、冒頭のフルートが弦楽器とハープに引き継がれるところで、スコアから目を上げたという。というのも、明らかにそこで、冒頭のフルートソロとは異なる、豊かな音が鳴り響いたからであった。だが、目を上げた大野が見たのは、淡々と指揮を続けるフルネの姿であったという。普通指揮者は、ここぞというときには身振り手振りが大きくなるものだが、フルネの指揮ぶりに変化はないのに、明らかに音が変わったことに、大野は驚嘆したという。そして大野は、彼らしく、フルネの指揮ぶりを真似たのだが、何歩か後ろに下がった際に、ヴァイオリンの譜面台を倒してしまうというハプニング (笑)。そして大野は、フルネの功績として、フランス音楽の中でも、フローラン・シュミット (詩篇第 47番や「サロメの悲劇」) やデュティユーの紹介を挙げていた。それから、大変興味深いエピソードとして、近年、リヨンにいた大野のもとに、フルネ夫人から 5冊の楽譜が届いたということがある。これらはいずれもフルネが使用していたもの。大野はその楽譜を都響に寄贈したとのことだが、今回の演奏会ではその実物が展示されていた。まずはラヴェルの「ダフニスとクロエ」第 2組曲のスコアに書かれた長いクレッシェンド。
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同じくラヴェルの「スペイン狂詩曲」のスコアには、コールアングレの 3連符を軽く奏するようにとの書き込みがある。
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この「牧神の午後への前奏曲」のスコアにある書き込みは、「ニュアンスは書いてあるところで正確に。その前から付けてはいけない」等とある。
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私も随分この指揮者の実演に触れたものだが、そのすべてが超絶的名演であったわけではないものの、大野も指摘していたその優雅な立ち姿を含めて、忘れがたいコンサートがいくつもある。都響との録音も沢山残していて、私の手元にも、今数えてみると、19組の CD がある。ついでに、彼のサインをもらっていないか否かを調べてみたが、残念ながらそれはなかった。その代わりと言ってはなんだが、1989年12月15日、ベルリオーズの劇的交響曲「ロメオとジュリエット」の演奏会でフルネが都響の名誉指揮者に指名されたときの楽団からのメッセージと、2005年12月20日、92歳のフルネがやはり都響と行った引退公演における本人からのメッセージをお目にかけよう。
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そんなフルネ没後 10周年を記念する演奏会の曲目は以下の通り。
 ベルリオーズ : 序曲「ローマの謝肉祭」作品9
 ラヴェル : ピアノ協奏曲ト長調 (ピアノ : ルーズ・ドゥ・ラ・サール)
 ドビュッシー : 管弦楽のための「映像」から「イベリア」
 ラヴェル : バレエ音楽「ダフニスとクロエ」第 2組曲

まず最初の序曲「ローマの謝肉祭」は、上で言及したフルネの引退公演の曲目にもなっていた。その演奏は CD として市販されている。
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帰宅後に、自分も当日客席にいたこのライヴ録音を引っ張り出してきて聴いてみたが、今回の大野指揮の演奏よりも随分とテンポが遅い。もちろんそれは当然で、フルネと大野の持ち味はかなり違う。また、現在の都響のサウンドクオリティは、世界に誇りうるもので、颯爽と駆け抜ける演奏には、快哉を叫びたくなったものだ。そして 2曲めのラヴェルのコンチェルトを弾いたのは、現在 30歳のフランスのピアニスト、リーズ・ドゥ・ラ・サール。
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今回、大野のプレトークで、「ラ・サールというと、日本では学校の名前で知られているかもしれませんが、フランスの貴族の名前で、この人は貴族の生まれです」という説明があった。私は彼女の演奏を 10年ほど前から何度か聴いているが、貴族とは知らなかった。ご覧のように、まるでフランス人形のようなルックスで、正直なところこれまでの私の印象は、本当に人形のように、笑顔をあまり見せないタイプの演奏家というものであったが、今回は、その印象を一新するような鮮烈なラヴェルを聴かせた。今回のステージ衣装はお人形風のドレスではなく、黒いパンツルックで、しかも右腕は袖なし、左腕は袖ありというスタイリッシュなものであり、なるほど音楽家の印象は時とともに変わりうるのだな、と思ったことであった。一方、このコンチェルトでは、第 1楽章のトランペット、第 3楽章のファゴットといったパートに、思いがけないミスがあり、あぁっと思ったものである。都響と言えども、常に完璧ではない。ただそれも、人間の行っている演奏行為としては当たり前のことかと思う。ドゥ・ラ・サールは終演後何度かステージに登場し、「メルシー。アリガトウ」と言って、ドビュッシーの前奏曲集第 1集から「パックの踊り」を披露した。これも実に鮮やかな演奏であった。

休憩のあとの 2曲、ドビュッシーの「イベリア」とラヴェルの「ダフニス」第 2組曲は、それはもう素晴らしく中身の詰まった演奏で、大野と都響のコンビであればこれだけの高度な演奏を聴くことができるのだという好例であった。そうして私の思いは、オケの伝統というものに辿り着く。かつてフルネが指揮したこのオケには、そのフルネが死して 10年経っても、その足跡が残っている。同様に、かつてこのオケが演奏してきたマーラーや現代音楽というレパートリーも、それぞれの指揮者の思い出とともに、これからも繰り返されて行くものと思う。東京という街を代表するオーケストラとして、都響の今後には大いに期待したいものである。

by yokohama7474 | 2018-10-13 23:31 | 音楽 (Live) | Comments(3)

ピエタリ・インキネン指揮 日本フィル 2018年10月12日 サントリーホール

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今年 38歳の若さでありながら、日本フィルハーモニー交響楽団 (通称「日フィル」) の首席指揮者をはじめ、世界で活躍するフィンランド人指揮者、ピエタリ・インキネンが、6月に続いて日フィルの指揮台に登場した。以前にも触れたが、このオケのシーズンは 9月に始まり、その 9月の定期公演は正指揮者の山田和樹が指揮したのは例年通り。だが、やはり新シーズンが始まって早めのタイミングで首席指揮者が登場するのはやはり望ましい。その意味で、今回インキネンが、ひとつのプログラムを振るためだけに来日したことは、多忙なスケジュールを縫って、どんどん激化する東京のオーケストラ界に、このコンビの存在意義を見せようという意欲の表れであったのかもしれない。
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その演奏会、曲目は以下の通りであった。
 シューベルト : 交響曲第 5番変ロ長調
 ブルックナー : 交響曲第 9番ニ短調

東京における過密なコンサートスケジュールにおいて、偶然なのかあるいは関係者に何かの意図があってのことなのか、同じ曲目を、近いタイミングで違った顔合わせによって体験するというケースがよく見られる。実は今月はブルックナー 9番の当たり月 (?) で、このインキネン / 日フィルに続き、ブロムシュテット / N 響、そして上岡敏之 / 新日本フィルも演奏するのである。ブルックナーがその生涯の最後に作曲し、3楽章まで作曲したところで天に召されてしまったため、絶美のアダージョで終わるというこの曲は、演奏する側も生半可な気持ちでも取り組めないものであろう。そんな重い曲を、東京の聴衆は立て続けに聴くこととなる。これは老年のブルックナー。生涯独身であったこの作曲家の内面で、神への賛美がどのように鳴り響いていたのであろうか。
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さて、私は過去もこのブログでインキネンと日フィルの演奏を何度か採り上げ、その時々で率直な感想を記してきたが、ワーグナーやブルックナーという、最近このコンビが積極的に採り上げている後期ロマン派のレパートリーの演奏に関しては、高く評価することを何度か保留してきている。それは、これまで接してきたインキネンの指揮ぶりは、決して豪快とか壮絶というタイプではなく、どちらかと言えばすっきりとした清澄なタイプであると見受けるからである。もちろん、そのようなスタイルでワーグナーやブルックナーがうまくいかないと決めつける必要はないので、その度に期待を込めて会場に足を運んでいるのである。そして今回も、優れた面も理解できる一方で、課題も認識する演奏会となった。

まず最初のシューベルト 5番は、実に可愛らしく気の利いた曲で、私も大好きなのであるが、今回のインキネンと日フィルの演奏では、弦楽器の豊かな表情を堪能することができた一方で、もう第 1楽章の冒頭が響いた瞬間から、管楽器の緊密性が今一歩欲しいと思ってしまったのである。管楽器と言ってもこの曲の場合、フルート 1本、オーボエ、ファゴット、ホルンが各 2という大変に小さなもの。そうであるがゆえに、愉悦感の表現のためには、本当に絶妙の管楽器のバランスと呼吸が欲しいところである。指揮棒を持たずに指揮をしたインキネンは、その点に当然留意はしていたとは思うものの、音の線と線の間に、なんというか、ごくわずかな隙間が感じられる瞬間が一度ならずあったと聴いた。もちろん、凡庸な演奏と言うつもりはなく、流れのよい演奏であったと思うし、終楽章で弦がそれなりに盛り上がる箇所などは、高い集中力で耳を惹きつける響きが実現していた。それゆえにこそ、さらなる音の緊密さを期待したくなってしまったのである。

その思いは、メインのブルックナーでも時に感じることとなった。この曲の冒頭は、ブルックナーのほかのシンフォニーにもしばしば聞かれる通り、静寂から神秘的な音が動き始め、頂点に達してその壮大な全容が見えるという作りになっているが、その冒頭の神秘性に、やはりさらなる緊張感があれば・・・と思ったのである。弦楽器は概して素晴らしかったものの、冒頭すぐのヴァイオリンに、意外にもごくわずかな不安定さを感じることとなったのは、オケの中の、ある種の連鎖反応であったのかもしれない。だがその後弦楽器は立ち直って多様な曲想を情感豊かに歌い上げ、また金管楽器は強い音でブルックナーらしさを作り出したし、全曲を通じてティンパニがかなりの熱演で盛り立てることで、音楽にメリハリが生まれているとは思ったが、残念ながら木管楽器には、やはりところどころにおいて引き続き課題が残ったような気がする。この作曲家の特異性ゆえであろうか、全体のうねりの中から本当に感動的なものが立ち上がってくるには、錯綜する音の線たちがさらにさらに緊密に絡み合わないといけないと思う。もっとも、全曲が終わる頃には、そのようなことを忘れて清澄な音楽に身を委ねたいという思いに囚われることにはなったものだが、この曲はかつて東京で数々の老巨匠たるブルックナー指揮者たちが超絶的な演奏を繰り広げてきたことを思うと、今回の演奏にはやはり、まだ課題が残るなぁ、というのが私の率直な印象である。

ただ、このように書いてはいても、やはりインキネンと日フィルは、東京を代表するコンビのひとつである。是非これからも意欲的な取組を期待したい。ところで今回の会場では、インキネンの前任者であるロシア人のアレクサンドル・ラザレフとおぼしき人物も姿を見せていた。これが私の見間違えでないとすると、大変興味深い。というのもこのラザレフが日フィルを振る次回のコンサートは 11月初旬。今からまだ 1ヶ月近くもあるのである。ラザレフは日本にそんなに長く滞在するのであろうか。それから、日フィルの今後の予定を見ると、そのラザレフとの演奏会の前、11/1、2 の 2日に亘って、ソウルで大植英次の指揮で演奏会を開く。そして来年の 4月には、インキネンとともにヨーロッパへ演奏旅行に出かけるのである。健闘を祈ります!! インキネンとはその前に、年明けのブラハ響との演奏会でも日本で再会するのを楽しみにしよう。
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by yokohama7474 | 2018-10-13 01:57 | 音楽 (Live) | Comments(2)

マウリツィオ・ポリーニ ピアノ・リサイタル 2018年10月 7日 サントリーホール

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10月にして真夏日となり、蒸し暑かったこの日の東京は、三連休の中日の日曜日。私も、青空に促されるように、最近サボり気味であった美術館巡りを決行、3ヶ所で 4つの展覧会を見て、眼福という意味ではもう満ち足りた日になったのだが、最後に耳のイヴェントが残っていた。19時からサントリーホールで開かれる、現代最高のピアニスト、マウリツィオ・ポリーニのリサイタルだ。今回東京で開かれる 3回のうち最初のもの。ポリーニについては、音楽ファンにとっては今さら何の説明も不要だが、1942年ミラノ生まれのピアニスト。長らく世界のトップを走り続け、現在 76歳である。
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このブログでは、2016年 4月10日の記事で、彼の前回の来日公演をレポートした。今自分でもそれを読み返し、これから今回の演奏について語ろうとして、何か私の心の中に沸きあがってくるものがある。それを言葉で表現する必要があるのだが、さて、どうしよう。うまく言い当てられるか否かは自信がないのだが、一言で言ってしまえば、ピアニストという孤独な芸術家として、ポリーニが積み重ねて来たものが、いかに偉大であるかということ。そして、この芸術家と同じ時代に生きることができる我々はいかに幸運であるかということだ。いきなり大上段に振りかざしてしまったが、今回サントリーホールを埋めた聴衆のほとんどが、そのような思いを抱いたのではないだろうか。2年半前の記事に書いたが、私が彼の実演を初めて聴いたのは 1986年 5月16日。NHK ホールでの青少年のためのコンサートと題されたベートーヴェンのソナタ 4曲からなる演奏会であった。私の記憶に鮮明に残っているのは、巨大な NHK ホールの 3階からでも、音の粒がピアノから放射されているような硬質で情報量の多いピアノである。当時 20歳であった私はその日の夜、帰宅してからも興奮さめやらず、その演奏を終えた偉大なピアニストが、同じ東京の夜空の下で今現在、休息を取っているのだなと思うと、その夜空に神秘的なものすら感じたものである。その 9日前にポリーニは、小澤征爾指揮新日本フィルとともに、シェーンベルクのピアノ協奏曲の日本初演を行い、私はそれも聴いていた (当時確かこの曲の唯一の録音であった、グレン・グールドとロバート・クロフトによるレコードを、名曲喫茶でリクエストしてかけてもらって予習したものだ)。あ、そうそう、その小澤とポリーニが、東京文化会館でのカルロス・クライバーとバイエルン国立管弦楽団の演奏会に並んで姿を見せ、終演後には 2人とも聴衆に混じって熱心な拍手を送っていたのも、この前後 (確か 5月10日のベートーヴェン 4番、7番のプログラム) だった。因みに、そのシェーンベルクのコンチェルト (メインのマーラー 5番も、特に前半が凄まじい演奏だったのを覚えている) のプログラム冊子はこちら。終演後に小澤さんのサインをもらいに行ったが、ポリーニは出て来なかった。
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ポリーニはその後も数年おきに来日し、通常のリサイタル以外にも、ブーレーズ・フェスティバルやポリーニ・プロジェクトなどの意欲的な活動を日本でも展開してきた。今回のプログラム冊子には、1974年以来の彼の過去の来日公演曲目がすべて載っていて興味深いのだが、彼が演奏してきたレパートリーは、本当に彼自身が厳選したものだけであり、東京の聴衆はそのようなこのピアニストの神髄に、何度も触れてきたのであると思う。

そのようなポリーニが今回演奏したのは、以下のような曲目だ。
 シューマン : アラベスク作品18
 シューマン : アレグロ ロ短調作品8
 シューマン : ピアノ・ソナタ第 3番ヘ短調作品 14 (初版)
 ショパン : ノクターン ヘ短調作品55-1、変ホ長調作品55-2
 ショパン : ピアノ・ソナタ第 3番ロ短調作品58

つまり、前半はシューマン、後半はショパンで、前半と後半のそれぞれにおいて、小品のあとには、どちらもピアノ・ソナタ第 3番を配している。シューマンもショパンも、ポリーニがこれまで真摯に取り組んできた作曲家であるが、特にシューマンの 3番のソナタは、一般的な知名度はそれほど高くないにもかかわらず、彼は随分以前からレパートリーにしていて、私が初めてこの曲を聴いたのも、ポリーニのライヴ演奏を収録した FM 放送であった。「管弦楽のない協奏曲」という副題を持ち、その名の通り、華麗な音のつながりに満ちた曲である。一方、ショパンの 3番のソナタは、2番と並ぶ有名曲であり、こちらはコンサートのメイン曲目にふさわしい。

今回の演奏について、細部をあれこれ書きたいとは思わないので、全体を通した感想を記すとすると、老いによる技術の衰えを自らに対して決して許すことのないこのピアニストが、何かさらに一段高い境地に達したような気がするのである。つまり、私は過去 10年くらいの間において、若い日の完璧なスタイルを貫こうとするこのピアニストが、その思いとは裏腹に、ミスタッチを犯してしまうところを何度か目撃したことがあるので、今回の演奏においてミスタッチが皆無であったことに、まずは驚嘆したのである。だがその代わりと言うべきか、ポリーニの唸り声が始終聴こえてくる。その唸りは、音楽の曲想に合わせて絞り出されていて、ピアノを弾く行為と密接に関係していたと思う。ここにあるのは、常に自らの限界に挑戦する、非凡なる芸術家の姿である。つまり、普通であれば、年齢を経たピアニストの場合には、技術ではない何かがその音楽の内面に充溢することで、聴く人を感動させる。だがポリーニの場合には、技術的に完璧であり続けることで、その音楽が自然に何かを語り出す、そんな印象なのである。華麗な音が連なる箇所でも、静かな歌が流れる箇所でも、そこには感傷がないがゆえに、聴いているうちに不思議な美的世界が聴衆の前に広がってくる。それは、ただ無機質な音の世界かと言えば、そうではない。そこには、唸り声を出しながら懸命に音楽を進めている、マウリツィオ・ポリーニという一人の人間がいるからだ。孤独を抱える人間の手になるものであって、しかも人間世界を超えた響き。こんなピアノを聴けることは、そうそうないと思う。今回ポリーニはアンコールを 2曲弾いたが、ひとつはスケルツォ第 3番嬰ハ短調作品39。そして、会場の照明が明るくなって、聴衆がそろそろ席を立ち始めたときに思いがけなく始まった 2曲目は、子守歌変ニ長調作品57。いずれも見事であったが、特に後者は、私にとってなじみのない曲であったものの、何かこの世のものではないような清澄さに、深く心を打たれたのである。この子守歌は同じ主題が繰り返されるが、調べてみると、最初は変奏曲と題されていたとのこと。独特の情緒ある曲で、ポリーニは 1990年にスケルツォ全集に、舟歌とともにこの曲も録音している。
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以前の記事にも書いたが、ポリーニは、最近の 70代にしては老けて見える。歩く姿もトボトボしていて、猫背である。だが一旦ピアノの前に座るや否や、そこには音楽への情熱に満ちた人間が立ち現れる。その姿には、壮絶な孤独がある。1960年にショパンコンクールで優勝して以来 (最初の頃に休業期間があったものの) 既に 60年近いキャリアを持つ彼であるが、その間に克服してきた孤独は、いかなるものだろうか。
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今回は 2人の女性の聴衆がステージに花束を届けようとしたが、ポリーニはそれに目をやりながらも、受け取りに行くことはしなかった。ファンへのサービス精神を欠く人ではないから、決して無視したわけではなく、恐らくは、袖とステージの間の直線での往復からそれて歩くのが嫌だったのか、あるいは、年齢的なこともあって、腰をかがめてステージ下から花束を受け取ることに不安を感じたのかもしれない。女性ファンたちはその様子を見て、ステージの端に遠慮がちに花束を置いて、この稀代のピアニストへの尊敬を表することとなった。心温まる光景であった。そうして今、深夜に記事を書いている私は、32年前に初めてポリーニを聴いたときと同じく、あの素晴らしい音の粒を立ち昇らせたピアニストが、今同じ東京の空の下で休んでいるのだと思うと、心が高揚する。彼が克服して来た孤独が、人々の心を動かす大きな力になっていることを、改めて感じながら。

by yokohama7474 | 2018-10-08 01:42 | 音楽 (Live) | Comments(8)

上岡敏之指揮 新日本フィル (ピアノ : 田部京子) 2018年10月 6日 すみだトリフォニーホール

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クラシック音楽の記事を目当てにこのブログを覗いて頂いている方は、あれっと思われるかもしれない。このコンサートが開かれる前、すなわち 10/4 (木)・ 5 (金) の 2晩に亘って開かれた演奏会の記事ではないからだ。それは、チョン・ミョンフン指揮東京フィルのコンサートで、ソリストとしてヴァイオリンのチョン・キョンファが登場した。私は 10/5 (金) のチケットを持っていて、その演奏会の記事の冒頭まで既に決めていたのである。それは、「競争が増す一方の東京のオーケストラ界において、ついに東京フィルが切り札を切る。間違いなくこれは、今年いちばんの聴き物のひとつだろう。チョン姉弟の共演である」というもの。だがなんとも残念なことに、仕事が立て込んでしまって、そのコンサートに行くことはできなかった。なので、その件に関してはご免をこうむって、私としても気を取り直してこれからの人生を歩んで行くこととした (笑)。そんなわけで、このコンサートである。最近好調の上岡敏之と、彼が音楽監督を務める新日本フィルハーモニー交響楽団 (通称「新日本フィル」) による、オール・ベートーヴェン・プログラム。
 交響曲第 4番変ホ長調作品60
 ピアノ協奏曲第 2番変ロ長調作品19 (ピアノ : 田部京子)
 交響曲第 7番イ長調作品92

ドイツで長く活躍している上岡であるから、そのレパートリーもドイツ物がかなり多い。だがそんな彼のベートーヴェンを聴く機会は、これまであまりあったとは思われない。このブログでも様々な実例を採り上げてきた通り、今日ベートーヴェンを演奏するのは多少厄介な事情がある。ちょうど古典派からロマン派に移行する時期の作曲家であるベートーヴェンは、昔ながらのロマン的アプローチを取るのか、あるいは古楽的アプローチを取るのかを指揮者が決める必要があり、しかもその折衷型も様々にありうるのである。さて、上岡のアプローチやいかに。
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まず交響曲 2曲の演奏であるが、編成はコントラバス 6本で、木管楽器はオリジナル通りの 2本ずつ。そしてヴァイオリンは左右対抗配置を取らず、上岡は暗譜での指揮である。これは納得できるスタイルであると思う。だがこの上岡という指揮者、本当に指揮をするまで何が起こるか分からないスリルがあって、私がこの指揮者の演奏になるべく触れたいと思うのはその点によるのであるが、今回もひとつの発見があった。それは、この 2曲の交響曲のすべての楽章において、叩きつけるような終結音は皆無で、すぅっと宙に消えて行くような音になっていたこと。例えば 4番の第 1楽章とか、7番の第 4楽章では、多くの演奏で指揮者は渾身の力でドンと着地するものだが、その方が気持ちよいに決まっている。だが上岡と新日本フィルは、その誘惑に打ち克って、実に美しくすべての楽章を締めくくった。そう、この演奏は実に美しいものであったのだ。最近のこのコンビが、本拠地すみだトリフォニーホールで行う演奏の最大の特色はこの美しさであって、それはこのコンビならではの個性なのである。それから今回の演奏で際立っていたのは、音の流れの均一さである。管と弦はお互いをよく聴き合って、どの箇所においてもどの楽器も飛び出すことがなく、ただひたすら調和の取れた音となっていた。テンポは全体的に速めであったが、そこには性急さは皆無。安定していて、しかも演奏者の個性がくっきりと刻印されているベートーヴェンは、そうそう聴けるものではないと思う。これは実に非凡な演奏であった。そして、この 2曲の交響曲の間で演奏されたピアノ協奏曲第 2番が、これまた惚れ惚れするような演奏であったのである。ソロは田部京子。
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私は以前の記事で彼女の演奏を採り上げた際、「いつまで経ってもお嬢さんのような外見で損をしている、素晴らしいピアニスト」と書いたものだが、実際にその通りで、これだけ粒立ちのよいタッチでベートーヴェン初期の傑作コンチェルトを弾くことができる日本のピアニストが、一体何人いるいだろう。ステージマナーも実に丁寧で、笑顔がそのままこの人の素直な音楽性を表していると思う。いつもの通りアンコールをねだる聴衆に対して礼儀正しく接しながらも、結局アンコールを演奏しなかったことも好感が持てる。素晴らしいベートーヴェン・コンサートに立ち会うことができて、本当に嬉しい。田部さんのリサイタルにも、いつか行かないといけないですな、これは。

新日本フィルのプログラム冊子は、先に行われた上岡指揮のリヒャルト・シュトラウスとか、ペトル・アルトリヒテル指揮の「わが祖国」と同じもの。だから私はこの冊子を手にするのは 3回目なのであるが、今回初めて気づいたことには、新たなシーズンを開始するにあたってのマエストロ上岡の言葉が掲載されている。いわく、現代社会においては、先進国におけるテクノロジーの進化と、途上国における厳しい現実 (彼はウガンダに関わりがあるとのことで、その地の 12歳の少女が最近英語を学んで、彼に手紙を送ってくるというエピソードが紹介されている) には大きな差異がある。だが、人間の内面の世界は、環境によって左右されるものではなく、文化・芸術というものは、もっと社会で大切な役割を果たさないといけない。彼が新日本フィルとともに行っている演奏活動は、聴衆から愛されるものでなくてはならず、彼にとっていちばん大切なことは、音楽的なクオリティを追求すること。彼らの演奏が聴衆の内なる世界に光を差し込むような存在でありたい。そして最後に「そう、たとえばレンブラントの絵画には、常にどこかに光があるように」と締めくくられている。なるほど、レンブラントの代表作「夜警」は、夜の光景でありながら確かにどこかに光がある。この絵の実物は私も見たことがあるが、まさに圧倒的な作品だ。上岡と新日本フィルの目指すところは、この絵のように、繊細でいて全体像が明確な音楽なのであろう。
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演奏終了後に奏者の譜面を見ていると、どうやらアンコールがあるようだ。オール・ベートーヴェン・プログラムであるから、ベートーヴェンの序曲のどれかであろうかと思いきや、鳴り始めたのは、メンデルスゾーンの交響曲第 4番「イタリア」の終楽章、熱狂的なサルタレロ舞曲である。この曲をアンコールに選んだ上岡の意図は何であったろうか。メインの曲目であったベートーヴェン 7番の終楽章と同様の熱狂的な音楽における美を表現したかったのかもしれない。

終演後にはサイン会があったので参加した。最初に田部が、その後上岡が現れ、ファンと語らいながらの和気あいあいとした雰囲気であった。それにしても田部京子は、ステージマナーそのままに、実に丁寧な応対ぶりで、ひとりひとりに日付まで書いている。それに触発されたのか (?)、上岡さんも今回は日付を入れてくれた。
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因みに私が今回購入した CD は、上岡と新日本フィルによる昨年のライブ (2つの演奏会による) で、ツェムリンスキーの「人魚姫」をメインとするもの。私は残念ながらこのコンサートを聴き逃してしまったが、この CD を聴いてみると、彼らの演奏の美感が充分に伝わってくる。そう言えば上岡は、「人魚姫」の原作者であるアンデルセンの祖国デンマークのオケ、コパンハーゲン・フィルの首席指揮者も務めている。すべてのオーケストラ・ファンにお薦めしておこう。
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by yokohama7474 | 2018-10-06 23:39 | 音楽 (Live) | Comments(0)

マーラー : 千人の交響曲 井上道義指揮 読売日本交響楽団 2018年10月 3日 東京芸術劇場

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以前も何度か書いたことであるが、マーラーのシンフォニーの中でも、第 8番変ホ長調は、別名「千人の交響曲」と言われ、西洋音楽史上でも最大規模の作品であるがゆえに、世界的に見てもなかなか演奏されない。例えばマーラーのシンフォニーを順々に録音する指揮者も、この 8番は最後まで残ってしまうケースも多い。それほどに演奏機会が稀なはずのこの作品、東京では平均すると毎年演奏されているのではないか。これは世界のどの大都市を見てもまずありえないことなのだが、今年は全国に目を転じると、9月末には福岡で、九州交響楽団創立 65周年を祝う小泉和裕指揮の演奏会で採り上げられ、その数日後にはびわ湖ホール 20周年を祝って沼尻竜典と京都市交響楽団が採り上げた。そして 10月 3日、東京でこの演奏会である。一体この国はどうなっているんでしょう (笑)。私は九響もびわ湖ホールも興味はあったが、実際に出掛けることは叶わなかった。だが、この井上道義と読売日本交響楽団 (通称「読響」) の演奏会には、多少の無理を押してでも行きたかったのである。ほかの例を見ても分かるように、この曲は何かのお祝いといった特別な機会に演奏されることが多いが、この演奏会はそうではなく、相変わらず活発な指揮活動を展開する井上道義が、読響を指揮して行う、ただ 1度だけの単発演奏会である。興味深いのは、主催が会場である東京芸術劇場であること。これについてはまた後で触れよう。
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私が以前実際に体験した井上の指揮するマーラー 8番の演奏としては、2012年に彼が名古屋で、アマチュアオケとアマチュア合唱団の混成部隊を指揮したコンサートがある。だがその時は正直なところ、奏者たちの熱意は感じながらも、この大曲をアマチュアの混成部隊で演奏するとは、やはりなかなかに難易度が高いなぁと実感したものであった。この曲、大音響の箇所では、作曲者自身が「宇宙が鳴る」と自負したほどの凄まじさだが、その一方で繊細で緊張感に満ちた部分も多く、曲想の変化も大きい。そして何より、複雑に錯綜する声の扱いは、なかなかに厄介なものであるに違いない。それゆえ今回は、読響とのコンビを期待していたのである。これはその 2012年の名古屋での演奏会のポスター。なんでも、名古屋マーラー音楽祭の最後を飾る公演であったようで、今プログラムを取り出してくると、内容は大変にマニアックである。
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さて今回の井上と読響の演奏、このアマチュアオケとの演奏に比べると、音響の精度という意味では、格段に上であったことは間違いないだろう。井上は、心持ち速めのテンポでグイグイと進めて行く彼らしいスタイルではあったが、かなりの部分で指揮棒を使わずに丁寧に合唱団から歌を引き出す姿勢も見ることができた。井上らしい熱狂感を読響が高度な技術で音として放射しており、総じて聴きごたえ充分な演奏であった。ただその一方、つい先日聴いたばかりのロンドン響の音が耳に残っていると、ひとつひとつの楽器のクリアさにおいては、さすがに少し課題を残したようにも思う。それから、少し残念であったのは合唱団で、今回は「首都圏音楽大学合同コーラス」と名付けられているが、その名の通り、首都圏の音楽大学 (上野学園大学、国立音楽大学、昭和音楽大学、洗足学園音楽大学、桐朋学園大学、東京音楽大学と、ひとりだけ東京藝術大学) の学生とその OB による大規模な合唱団だ。ステージ奥と、両サイドの客席に陣取った合唱団の人数は 300人を上回っていただろうか。この曲の最大の聴きどころである第 1部の終結部と、第 2部最後の神秘の合唱では、鳥肌立つような素晴らしさであったが、この 80分を要する大曲の隅から隅まで完璧な合唱であったかと思うと、繊細な部分では課題を残したような気がしたものである。一方、少年合唱 (TOKYO FM 少年合唱団) は全曲暗譜での歌唱であり、この曲の前半がラテン語、後半がドイツ語であることを思うと、これはなかなかの健闘であったと思う。それから、この曲には 8人の独唱者が登場するが、女声陣 (菅英三小、小川里美、森麻季、池田香織、福原寿美枝) は概して素晴らしい出来であったのに対し、男声陣 (ロシア人フセヴォロド・グリフノフ、青戸知、英国人スティーヴン・リチャードソン) は少し線が細いと感じる瞬間があったように思う。今思い返してみると、うーん、やはりこの曲は大変な難曲である。今回の演奏のように、部分的には素晴らしい響きを聴くことができ、指揮者の情熱とオケの熱演があっても、さらに精度の高い響きを聴きたい箇所がいくつかあると、完璧な演奏という印象ではなくなってしまうのである。ただ、いわば演出上の工夫とも言えそうな点が興味深かったので、いくつか挙げておこう。
(1) 歌詞に字幕を導入したこと。これは、オペラでは通常のことであるが、コンサートの場合は結構少ない。しかも、時に天使の表示に色がついていたりして、分かりやすかった。まぁもっとも、この曲を全く知らない人が字幕を追って作品のテーマが分かったか否かは定かではないが (笑)。
(2) ステージ左右の合唱団において、向かって右側の手前の方は少年合唱で、白を基調とした服。その他の合唱団員は第 1部では全員真っ黒の衣装であったが、第 2部では、ちょうど少年合唱と対照の位置に来る女声合唱だけが、白いジャケットを着用した。これで、ラテン語による賛歌である第 1部と、ゲーテの「ファウスト」を歌詞とする第 2部、つまりは、宗教性はあっても人間的な要素を扱った部分の差が表現された。
(3) 第 1部では 7人のソリストはステージ奥の合唱団手前で歌唱。一方第 2部では、男性ソリスト 3名だけがステージ手前に移動して来て歌唱。第 2部の後半に登場する栄光の聖母 (森麻季) はさらに上部の、オルガン横に登場。これによって、第 2部のテーマが、永遠に女性的なるものによって (アルマが発想源?) 男性の魂が救済されるという図式が明確になった。
(4) 全曲の終結部では、音響の盛り上がりとともに客席の明かりが明るくなり、光の拡散を感じさせたこと。

これらは、どこにも解説されていないが、恐らくは指揮者の意図によるものであろう。この井上ミッチーのアイデアマンぶりはこのブログでも何度かご紹介して来たが、今回はステージからの語りはなかったとはいえ、様々な細部に彼の作品に対する思い入れを感じることができた。上では少し厳しいことを書いてしまったが、やはりこの曲の最後の「神秘の合唱」を聴くと、冷静ではいられないほど感動するのである。

さてここで、川沿いアーカイブから、貴重な映像をお目にかけよう。それは、1995年、磯崎新設計の京都コンサートホールがオープンした際に、京都市交響楽団を当時の音楽監督、井上道義が指揮して演奏した、同じマーラー 8番の NHK による放送の録画だ。このときには、上に書いた (1) から (4) は行われていないように思われる。
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というわけで、様々な思いを抱いて体験した今回のマーラー 8番であったが、上述の通りこれは、今回のコンサート会場である東京芸術劇場の主催。ここで思い出すのは、このホールでは首都圏の音楽大学オーケストラによる演奏会が定期的に開かれている。今回の演奏における合唱団は、いわばその合唱版ということになる。ここには何か、東京芸術劇場の運営ポリシーがあるのだろうか。実は今回のプログラムには、今回の 8番を皮切りに、このホールでマーラー演奏が行われていく旨の宣伝が掲載されている。それは以下のような具合
 2018/11/22 : 7番 マリス・ヤンソンス指揮 バイエルン放送響
 2018/12/16 : 1番 ダニエル・ハーディング指揮 パリ管
 2019/4/13 : 6番 ジョナサン・ノット指揮 スイス・ロマンド管
 2019/12/6 : 3番 指揮者未定 読響
 2020/1下旬 : 9番 エサ=ペッカ・サロネン指揮 フィルハーモニア管

今回はこのうち、ノットとスイス・ロマンド管による 6番のチケットを、一般発売に先駆け、しかも割引料金で販売していたので、早速ゲットした。実はこのノットとスイス・ロマンド管は、KAJIMOTO が招聘元になっているはずで、先般のサイモン・ラトルとロンドン響の演奏会で配布されたチラシ (のゲラのような粗雑な印刷) には、サントリーホールでの別の日のコンサートと、やはりマーラー 6番をメインとする演奏会が掲載されているが、後者の会場は大阪のザ・シンフォニーホールなのである。そうすると、ノット / スイス・ロマンドの演奏会のうち 1公演は、東京芸術劇場が主催ということなのだろう。これからの東京の音楽シーンは、ホールの自主的な企画が面白くしてくれるのかもしれない。

by yokohama7474 | 2018-10-04 01:10 | 音楽 (Live) | Comments(2)

サイモン・ラトル指揮 ロンドン交響楽団 (ヴァイオリン : ジャニーヌ・ヤンセン) 2018年 9月29日 サントリーホール

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サー・サイモン・ラトルと、彼が音楽監督を務めるロンドン交響楽団の来日公演も、今回が最終日。私はサントリーホールにおける 3回のコンサートを聴いたけれども、それ以外に大阪で 1回と、NHK ホールでの NHK 音楽祭の一環としてのコンサートが 1回、そして横浜で 1回と、一週間で合計 6回のコンサートが開かれた。ファンの関心も高いようで、このささやかなブログでも、最初のコンサートの記事は昨日までの 4日間で累計アクセス 549、2回目のコンサートの記事は 3日間で333 (お、語呂がよいですな。笑)。これはなかなかの数である。ベルリン・フィルの芸術監督を 16年務めたサイモン・ラトルと、その新たなパートナーであるロンドン響のコンビでの初来日には、それだけ注目が集まっているということだろう。だがその一方で、今回の 3回の公演のチケットはいずれも完売ではなく、当日券も販売していたし、招待かと思われる中高生の姿も見られた。その点をどう評価すべきだろう。ベルリン・フィルとロンドン響の一般的な知名度に差があるという点は否めないだろうが、加えて、今回は曲目がかなり凝っていることも、理由のひとつではないだろうか。これまでの 2回は既にご紹介した通りだが、最終日の今日はこんな曲目だ。
 ラヴェル : バレエ音楽「マ・メール・ロワ」全曲
 シマノフスキ : ヴァイオリン協奏曲第 1番作品35 (ヴァイオリン : ジャニーヌ・ヤンセン)
 シベリウス : 交響曲第 5番変ホ長調作品 82
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この曲目を見て、渋いというのは当たっていないと思う。だが、この配列から感じる気配は、何やらただならぬ音楽の深淵ではないだろうか。決してマニアックというわけではないが、内容がぎっしり詰まった音楽ばかりと言えるように思う。ここで真ん中のシマノフスキのヴァイオリン協奏曲第 1番に注目してみたい。オランダの名花ヤンセンが東京で演奏するのに、チャイコフスキーとかシベリウスではない、このシマノフスキのコンチェルトが選ばれたということは、なかなかに興味深い。あれ、そういえば「チャイコフスキーとかシベリウスではない」というフレーズをつい最近使ったような気がする。あ、そうだ。昨日のシルヴァン・カンブルラン指揮読売日本響の演奏会で、諏訪内晶子が弾いたのがまさにこの曲で、そのことを書くときに同じフレーズを使ったのであった (笑)。いや、誤解を避けるために言っておくと、私とても、チャイコフスキーやシベリウスのヴァイオリン協奏曲は大好きである。だが、本拠地での定期公演はともかく、どのオケも海外遠征ともなると、万人受けする曲目を選びがちであるところ、あえてシマノフスキという点に、ラトルの意気込みが感じられるし、また、このような、内容が充実している割にはそれほど知名度の高くないコンチェルトが、同じホールで 2日連続で演奏される東京という都市の文化度を、我々は誇ってもよいと思うのである。

そんなわけで、まず最初の「マ・メール・ロワ」であるが、これは予想通りの繊細かつクリアな名演となった。今回ラトルはヴァイオリンの左右対抗配置は取らず、指揮者のすぐ右手はチェロであり、一方で、今回も (協奏曲以外) 暗譜での指揮である。私は前回の記事で、このオケの音には情念がもともとあまりないと書いた。もちろん人によって感じ方は様々であるから音楽は面白いのであって、異論のある方もおられるかもしれない。だが私はやはり、かつてロンドンで散々聴いたゲルギエフとのコンビでも、コリン・デイヴィスとのコンビでも、あるいはその前に東京で驚愕すべきマーラー 6番を披露したマイケル・ティルソン・トーマスとのコンビでも、このオケの特色はクリアな音色と柔軟性であると思っていて、そこには情念の要素はあまりないと思う。そう思うとこの「マ・メール・ロワ」の演奏の素晴らしさには、このオケがもともと持っている持ち味が活きていたと考えたいのである。この「マザーグース」の童話の世界を、だが子供には絶対に分からない繊細さで音にしたラヴェルの天才を改めて感じることとなった。
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そう言えば、昨日のカンブルランと読響の演奏では、締めくくりがラヴェルの作品で、その前にシマノフスキのコンチェルトであったが、今日の場合は、最初がラヴェルの作品で、それがシマノフスキに続くということとなった。ラトルのシマノフスキというと、バーミンガム時代に既に歌劇「ロジェ王」と交響曲第 4番を録音していて、それらは素晴らしい内容だが、ここで彼の美麗でありながら劇的でもあるヴァイオリン協奏曲第 1番を指揮するのを聴けるのは嬉しい。シマノフスキはポーランド人で、ラヴェルより 7歳下の 1882年生まれだが、この 2人は偶然にも同じ 1937年に死去している。なかなかダンディであった点も共通している。
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ソロを弾いたジャニーヌ・ヤンセンは、日本でもよく知られたオランダの名ヴァイオリニストで、今年 40歳。オランダ人女性らしく大変に大柄な人だが、その気さくな容姿そのままに、素直な音楽性に好感度の高い音楽家である。
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彼女は同じ曲を昨日弾いた諏訪内よりも少し年下ということになるが、近い世代のヴァオリニストであると言えるだろう。諏訪内がチャイコフスキーコンクールの優勝で一躍脚光を浴びたのに対し、ヤンセンの場合は、その経歴を見てもコンクール優勝という記載は見当たらない。現在世界のトップで活躍しているヴァイオリニストには何人かそのようなパターンもあるものの、どんなに優れた才能でも、世に知られるきっかけは必要なもの。その点、彼女には何か特別な、人を幸せにするような才能があるのだろうか。今回のシマノフスキは、一部譜面を見ながらの演奏であったが、前日の諏訪内の演奏が、先鋭的な音響を志向する華やかなものであったとすると、ヤンセンの演奏はさらに情熱に依拠する要素が強いものであったように思う。その音楽への没入は凄まじく、繰り出される音のうねり方は聴衆を圧倒した。そして何度かのカーテンコールを経て、彼女がラトルとともにステージ奥に行ったと思うと、そこにあったピアノの横に陣取り、ラトルが大きな声で「ラヴェル!!」と宣言して始まったアンコールは、そのラヴェルの「ツィガーヌ形式の小品」。バスク人の血を引くラヴェルならではのスペイン情緒溢れる曲であるが、そのスペインから遠く離れたオランダ生まれのヤンセンが、なんとも粋で小股の切れ上がったヴァイオリン演奏を披露したのは驚かないのだが、シマノフスキのコンチェルトの編成に含まれていたピアノは、そのコンチェルトではロンドン響の奏者が弾いていたはずだが、アンコールの演奏終了時にヤンセンとラトルが抱き合っているのを見て、おっとあのピアノはラトルであったかと気づいた次第 (私の席からはステージ奥が全く見えなかった)。このあたりにもラトルの機知が見えるではないか。

そして最後のシベリウス 5番。英国ではこの作曲家が好まれていて、歴代の英国の名指揮者は、この作曲家の作品を得意にしている。ラトルも例外ではなく、1981年からフィルハーモニア管とバーミンガム市響と組んで録音した彼にとって最初のシベリウスの交響曲全集でも、この 5番は確か最初の録音であったはず。
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この演奏ではたまたま、冒頭部分を含むいくつかの箇所で、ホルンが僅かなミスをしていたが、やはりラトルが導くロンドン響は、音がクリアで流麗だ。シベリウスについては先にクレルヴォ交響曲 (パーヴォ・ヤルヴィと N 響の演奏) の記事であれこれの思いを書いておいたが、今回のこの 5番の凝縮度と清澄さには、本当に特筆すべきものがあったと思う。いや、この曲のそんな持ち味は既に承知であるつもりであったが、それにしても、なるほどこれが、ラトルと新たな手兵が紡ぎ出したい音楽なのであろうか。途中ラトルはコントラバスに細かい注意をしたり、あるいはオケ全体を見渡したりして、音の流れをよくしようとしているように見受けられたが、オケは指揮者の意向をよく汲み取って、この作曲家らしい抽象性もよく表現していたと思う。そう考えると、これはなんとも幸せなコンビではないだろうか。英米をはじめ、自国の利益に回帰する先進国において、英国の巨匠ラトルと英国を代表するオケであるロンドン響が今後いかなる方向性を目指すのかについて、考えるヒントを与えられる、素晴らしい演奏であった。

この曲の後のアンコールというと、同じシベリウスの「悲しきワルツ」あたりが定番であると思うが、「ミナサマ、ドウモアリガトウゴザイマス」と日本語で挨拶したラトルは次に、「ドヴォルジャーク、スラヴィック・ダンス」とアナウンスし、慌てて入ってきた 3人の打楽器奏者とともに演奏したのは、ドヴォルザークのスラヴ舞曲第 2集作品 72の第 7番。そう、このコンビの演奏会の東京での初日に 8曲すべて演奏した曲集からの有名なナンバーである。これはやはり、楽しいだけでなく、ただならぬ音の炸裂が聴かれる音楽。広がりと推進力を両立させた演奏で、さすがのクオリティであった。その後ラトルは、このツアーで引退する第 1ヴァイオリン奏者に花束を渡し、なんとも親密な雰囲気のうちに、彼らの日本ツアーは幕を閉じたのであった。これは本拠地での写真。
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実は前回のコンサートの幕間で、ある方の紹介により、ロンドン響の Managing Director であるキャスリン・マクドウェルさんと少しお話する機会に恵まれた。彼女によると、Sir Simon はここ (= ロンドン交響楽団) で Happy であるとのこと。なるほど、それは今日の演奏会を聴いていてもよく感じることができたことである。今回の 3回のコンサートの内容を振り返ってみると、作曲家の生地は、チェコ (マーラーも生まれは現在のチェコである)、ポーランド、米国、英国、フィンランド、そしてフランスという具合で、ドイツ系は (そのマーラーを除けば) 慎重に避けられているように思う。ラトルが長年コンビを組んだベルリン・フィルは、もちろん世界を代表するスーパー・オーケストラであり、その存在はグローバルであるが、やはりドイツの楽団であるのも確かなこと。英国人ラトルがベルリン・フィルとのコミュニケーションで使っていた言語は、メディアを見る限りにおいては、ほとんど英語である。カラヤン以前はもちろん独墺系の芸術監督しかいないし、彼の前任者であったイタリア人のクラウディオ・アバド (奇しくもロンドン響の音楽監督としてもラトルの先輩だ) もウィーンに学んだ人だから、当然ドイツ語は流暢であったはず。そう考えてみれば、歴代のベルリン・フィルの芸術監督でドイツ語をメインの言語としなかったのはラトルだけではないだろうか。カッチリしたドイツ気質を持っているベルリン・フィルとしては、そのようなラトルと一旦袂を分かつことは、やむないことなのかもしれない。もちろん、言語の問題は本質ではないかもしれないが、少なくともひとつのきっかけにはなっているのかもしれない。そう言えば、映像で見るバーンスタインとウィーン・フィルのリハーサルで、バーンスタインはなんとドイツ語を喋っている。ラトルの気配りはそれとは異なるところにあったのだろうか。

もともとラトルはロンドンのオケではフィルハーモニア管との関係が近く、実際問題としてロンドン響との過去の共演経験には未だ充分ではないであろうから、この顔合わせが独自の世界に達するには時間がかかるのではないかと、若干危惧していたのだが、なんのことはない、音楽監督就任 1周年にしてこれだけ見事な演奏を聴かせてくれれば満足だ。これから先は、より深い関係性の中で、また、新たなレパートリーを取り入れて、充実の演奏活動を繰り広げて欲しいものである。21世紀のクラシック音楽のスタンダードを創り上げてくれることを期待して、この 3回の演奏会の総括にしたいと思う。

by yokohama7474 | 2018-09-29 22:35 | 音楽 (Live) | Comments(2)

シルヴァン・カンブルラン指揮 読売日本交響楽団 (ヴァイオリン : 諏訪内晶子) 2018年 9月28日 サントリーホール

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読売日本交響楽団 (通称「読響」) の常任指揮者、フランスの名指揮者であるシルヴァン・カンブルランは、今シーズン一杯で退任することになっている。読響のシーズンは 4月からなので、今下期に入ったばかりであるが、今月 3つのプログラムを振り、残るはいよいよ来年 3月の公演だけになる。そう思うとこのコンビの演奏の一回一回が貴重に思われてくるのだが、これは、今月彼が読響を指揮した 3つめのプログラム。ほかの 2つ (ひとつはオール・チャイコフスキーで、4番がメイン、もうひとつはモーツァルトと、ブルックナー 4番) も聴きたかったが、ほかのコンサートとの兼ね合いで果たせず、なんとか今月最後の公演のみを聴くことができたのである。読響はいつもしゃれたチラシを作成するのであるが、今回は通常のサイズよりも縦長で、コピーは「ラ・ヴァルス 破滅の円舞曲」とある。もちろん、ラヴェルの名曲「ラ・ヴァルス」を知る人は、その退廃性を知っているであろうから、このコピーにはそれほど驚かない。だが、楽団作成によるこの演奏会の案内チラシが別にあって、それによると、カンブルランが読響でこの「ラ・ヴァルス」を採り上げるのは初めてとのこと。それは、カンブルランがこの曲を極めて特別であると考えていて、いわゆる「名曲プログラム」に入れるのではなく、「生と死を見つめるようなシリアスなプログラムの中で、メインとして演奏しなければ意味がないという強い思いがあった」とのことである。そのような考えに基づいて構成された今回のプログラムは、以下のようなもの。
 ペンデレツキ : 広島の犠牲者に捧げる哀歌
 シマノフスキ : ヴァイオリン協奏曲第 1番作品35 (ヴァイオリン : 諏訪内晶子)
 ハース : 静物
 ラヴェル : ラ・ヴァルス

なるほど、このプログラミングの妙はカンブルランならではだ。前半にはポーランドの作品を並べているし、いわゆる現代音楽という分野は、前半と後半のそれぞれ 1曲目。一方、前半と後半のそれぞれ 2曲目は、いずれも 1920年代に世に出た曲だ。そして、まさに「生と死をみつめるようなシリアスなプログラム」である。このバランスはかなり微妙なもので、演奏するオケの人たちにとってはなかなかに負担の多い内容だと思うが、聴き手としては大変に聴きごたえのある演奏会であったと、最初に言っておこう。
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最初のペンデレツキの作品は、いわゆる現代曲としては抜群の知名度を誇る弦楽合奏のための曲で、1961年に初演されている。この「広島の犠牲者に捧げる哀歌」という題名が、曲の持つ悲劇的な響きにふわさしいことが、その知名度の高さの一因であることは間違いないと思う。だが、これも音楽好きには常識であると思うが、この曲は最初から反戦とかあるいは何か政治的なメッセージを込めて作曲されたものではないのである。その証拠として、初演されたときの題名は「8分37秒」。つまりはこの曲の想定演奏時間という無機的な題名であったのである。ともあれ、いわゆるトーンクラスター (通常楽譜に書かれる 1オクターブ内の 12の音の間の音を密集させる・・・いやつまり、耳にはキュンキュンギュルギュルという音の塊が聴こえると言えばよいか 笑) という手法の代表作とみなされていて、いわゆる前衛音楽が前衛の衣をまとっていた頃の雰囲気が濃厚なので、その意味で既に歴史的な作品であるが、確かに、未だに耳に刺激を与える音楽ではある。作曲者ペンデレツキはこの後保守的なスタイルへと変わり、もうすぐ 85歳になる現在でも高い名声を誇っている。
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2曲目のシマノフスキも、ポーランドの作曲家であるが、1882年生まれであるから、いわゆる現代音楽の作曲家とはみなされていない。ヴァイオリン協奏曲は 2曲書いていて、いずれもそれなりの知名度があるが、この 1番の方が演奏頻度は高いと思う。30分足らずの単一楽章による協奏曲で、初演は 1922年。シマノフスキはポーランドの民俗的な要素を持ちながらも、大変夢幻的な音楽を書いた人だが、この協奏曲も実に美しく抒情的。今回はソリストとして諏訪内晶子が登場した。
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諏訪内のシマノフスキと言えば、随分以前に「神話」という曲を録音していたし、後になって思い出したことには、2011年にはクシシトフ・ウルバンスキ指揮東京交響楽団との共演で、ヴァイオリン協奏曲第 2番を演奏したのを聴いている。彼女の最近の活動は、このブログでも採り上げたことがある国際音楽祭 NIPPON の主催など、一般的な知名度や人気に溺れることのない真摯なもので、このシマノフスキのような若干の変化球 (つまり、チャイコフスキーとかシベリウスではない) でも、自らの音楽を堂々と主張している点に好感が持てる。今回の演奏も、変化する曲想の中に浮かび上がる抒情を十全に表現していたと思うし、終わり近くに出て来るカデンツァも、美しく厳しいものであった。そして、アンコールはバッハかと思いきや、イザイの無伴奏ソナタ第 2番の第 1楽章だ。この曲、冒頭はバッハの引用になっていて、徐々に変容して行き、グレゴリオ聖歌の「怒りの日」が現れてくるという、まさに「生と死をみつめるような」曲である。最後に「怒りの日」の旋律が大きなボウイングで表現されるのを聴いて、改めて恐ろしい曲だと思った。諏訪内のヴァイオリンは、この日のプログラムのテーマに沿って見事な歌を奏でたと思う。

さて、後半の 1曲目は、オーストリアの作曲家、ゲオルク・フリードリヒ・ハース (1953年生まれ) の「静物」である。このハースという作曲家、確か以前にウィーン・フィルが演奏した作品があったような気がしたのだが、経歴を見てみると、まさにウィーンで学んだ人。あのフリードリヒ・ツェルハの弟子である。ツェルハはよく知られている通り、アルバン・ベルクの未完のオペラ「ルル」を補筆完成させた人。なのでこのハースは、ウィーンの 20世紀音楽の流れを引く作曲家なのであろう。今回演奏された「静物」は、25分ほどの曲であるが、2003年に、今回の指揮者カンブルランが、当時の手兵バーデンバーデン & フライブルク SWR 交響楽団とどもに、ドナウエッシンゲン音楽祭において世界初演している。これがハース。
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そういえば、昨年のサントリー国際委嘱シリーズはこの人の作品であった。その新作初演に行けなかったことを今更のように後悔する。というのも、今回の「静物」が、かなり面白い曲であったからだ。弦楽器の動きと、それとは無関係に聞こえる管楽器の膨張する音響が混じり合うところから始まり、途中にはまるでフィリップ・グラスかジョン・アダムズの作品のようなミニマル風のリズムの反復があり、気がつくと音楽がうねっているというもの。25分でも長すぎると感じるほどの密度の音楽であった。カンブルランと読響は、この曲の解釈者としては最高の部類に入るのではないか。21世紀に入ってから書かれたこのような新鮮な音楽の初演者が、日本で彼のオケとともにその音楽を演奏することの意義を、よく理解したいものだと思う。また、ウィーンという街の持つ深部、つまり、お菓子や優美な宮廷音楽ではない、まさに「生と死をみつめる」ような強烈なタイプの芸術を生み出した街だということを思い出してもよいだろう。美術で言えば、クリムトやシーレはそのような例として分かりやすいが、さらに時代が下って、ウィーン幻想派を代表するルドルフ・ハウズナー (1914 - 1995) など、どうだろう。私はこのハースの作品の精神と通じるものがあるように思うのだが、いかがだろうか。「オデュッセウスの方舟」という作品。
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と、ここまで書いてから気が付いた。そうだ、最後のラヴェルの「ラ・ヴァルス」こそ、そのウィーンに捧げられたオマージュではなかったか。ここにも、もうひとつプログラミングの妙があった!! 今回の「ラ・ヴァルス」の演奏は一貫して遅めのテンポが取られ、明晰ではありながらも、華麗さよりは重厚で運命的な不気味さが強調されていた。これこそが、カンブルランがこの曲に見て取った真価なのであろう。聴き慣れた曲でも、一定のコンテクストのもとで聴くと、イメージが変わってしまうことがある。いや、より正確には、上に書いた通り、「ラ・ヴァルス」が深遠でかつ退廃的な音楽であることは知っていたつもりだが、実際にそれまでの 3曲を耳で受け止めたあとであったがゆえに、より一層切実に心に響いてきたものである。カンブルランの場合には、ただアイデアだけではなく、実際に鳴らしてみせる音が、彼の感性を充分に反映しているものになるので、説得力の大きいものになるのであろう。

終演後にはサイン会があったので、指揮者とソリストのサインを頂いた。カンブルランは以前にもサインをもらったことがあるが、諏訪内さんは初めてだと思う。高尚なプログラムのあとでミーハーなことを言うようではあるが (笑)、やはり実演を聴いたあと、そのアーティストを目の当たりにすることには、何とも言えない高揚感を覚える貴重な機会だと思う。
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読響でのカンブルランのラスト・シーズン、来年 3月には、なんといっても超大作「グレの歌」が演奏されるのが楽しみである。

by yokohama7474 | 2018-09-29 11:51 | 音楽 (Live) | Comments(0)

サイモン・ラトル指揮 ロンドン交響楽団 2018年 9月25日 サントリーホール

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英国の名指揮者サー・サイモン・ラトルと、彼が昨年から音楽監督を務めるロンドン交響楽団の、東京での 2日目のコンサート。今回もまた、大変に意欲的なプログラムである。
 ヘレン・グライム : 織り成された空間 (日本初演)
 マーラー : 交響曲第 9番ニ長調

マーラーが完成した最後の交響曲である 9番はもちろん、西洋音楽史においても屈指の厳粛な内容を持つ曲であり、マーラーファンの多い東京では、当然ラトルの指揮するこの曲に興味が集まるはず。と思って会場に足を運んでみると、前日同様、ほぼ満席とは言いながら、そこここに空席も目に付く状況で、当日券も販売されていた。もちろんチケットの値段は安くはないのだが、これがベルリン・フィルなら文句なしに完売だったろうと思うと、この状況に少し複雑な思いがないではない。だが、音楽ファンとしては、サイモン・ラトルの演奏会は、やはりできる限り聴いてみたいもの。今回も万難を排して行ってみて、様々なことを感じることができる、有意義な演奏会であった。

まず最初の日本初演作品の作曲者ヘレン・グライムは、1981年生まれのスコットランドの新鋭作曲家。
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彼女の経歴については日本語の資料はなかなか見当たらないものの、英語なら Wiki もある。もともとオーボエを学んだ人であるが、経歴は主として英国を中心としたもので、それほど派手な内容は見当たらない。実は今回のロンドン響のプログラムには、ほかの曲目はざっと通り一遍の解説しかないにも関わらず、このグライムの「織り成された空間 (Woven Space)」という作品に関してだけは、楽団提供の資料によって、実に細かい解説が載っていて興味深い。それによると、彼女はもともとロンドン響の委嘱で「尾流雲 (Virga)」という作品を 10年ほど前に発表したことがあり、今回はより規模の大きな新作を作曲した。これは今年の 4月にサイモン・ラトルとロンドン響によって世界初演されたばかりの曲なのである。YouTube にはラトルがこの作曲家について語っている映像があり、それによると、自分が知らない英国の若い作曲家でよい人がいないかと探していて、彼女の作品に出会って即時に魅了されたとのこと。実は今回演奏された曲は 3楽章から成るが、冒頭楽章は昨年 9月のロンドン響のシーズン開始のコンサート (ということは、ラトルの音楽監督としての最初のコンサートだろう) で演奏されたファンファーレであるという。これは、グライムが忙しかったがゆえに、まずは最初のファンファーレだけ書いてもらい、全曲は完成してから演奏することとしたという経緯らしい。これはかなりの驚きではないか。世界最高の指揮者が母国で新たなシーズンを始めるにあたり、未だ実績も多くない 30代の若手作曲家の作品を初演するとは!! 実のところ、上にも触れた 10年ほど前の「尾流雲 (Virga)」という作品、2009年のプロムスで演奏されたとのことなので、手元でその年のプロムスのプログラムを探してみたところ、あったあった。先般惜しくも亡くなったオリヴァー・ナッセン指揮の BBC 響による2009年 8月 7日の演奏だが、私自身は残念ながらこのコンサートは聴いていない。
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演奏前に舞台を見てすぐに気づいたのは、前日には確か取っていなかったはずの、ヴァイオリンの左右対抗配置を取っていたことである。この配置は通常、古典的なレパートリーを演奏するために採用されることが多いところ、この日のように、現代曲とマーラーなのにそれは妙だなと思ってものだが、音楽が始まってすぐに納得した。あたかも音のつづれ織りのようなこの曲においては、冒頭間もないところから、第 1ヴァイオリンと第 2ヴァイオリンが饗応するのである。以前も確かラトルとベルリン・フィルの記事で、様々な写真で見る限り、このコンビは曲に応じてヴァイオリンの対抗配置を取ったり取らなかったりしていると書いた記憶があるが、それがラトルのやり方なのであろう。音響的に見てその方が効果的だと思えば、そのようにするということだと思う。この「織り成された空間」は 20分ほどの曲であり、決して保守的という言葉は似合わないが、誰でも聞き取ることのできる美しさを備えた音楽だったと思う。題名の通り、空間の擬態としての音が織り成されて行く印象だ。解説によると、その作品の霊感の源泉は、ローラ・エレン・ベーコンという彫刻家のインスタレーションであるという。柳の小枝を編んで作品を制作し、時には既存の建物にそれを組み込んだインスタレーションを作るアーティスト。こんな感じの作品であり、人である。なるほど。
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さて、そしてこの日のメイン、マーラーの 9番である。ラトルはもちろんマーラーを得意にしていて、これまでにも積極的に採り上げてきているが、それにしてもこの 9番という天下の難曲を、未だ音楽監督として日の浅いロンドン響と演奏するということは、相当に度胸の必要なことではないだろうか。実は彼は既にベルリン・フィルとの 2011年の来日公演で、この曲を演奏している。だが正直なところ私はその演奏について、あまり記憶がない。そのときに別のコンサートで演奏された細川俊夫のホルン協奏曲とかブルックナー 9番は、それなりに記憶があるのだが・・・。その年は 3月に大震災があって、様々な演奏家の来日公演の中止も相次ぎ、そんな環境における動揺が災いしたのかもしれない。ともあれ今回は、新たなコンビによる演奏であったのだが、やはり冒頭で気づいたことには、この曲には第 2ヴァイオリンの充実が欠かせない。だから、ヴァイオリンの対抗配置は実に効果的なのである。ラトルの思惑通り常にその音像はクリアで、第 2ヴァイオリンは、第 2楽章レントラー (昔ブルーノ・ワルターがリハーサルでどうしても足踏みをしてしまうほど熱を入れた旋律) でのギスギスした音も見事であり、終楽章の終結部での最後の息のようなニュアンスまで、かなり丁寧に曲想の変化を表現していたと思う。第 1楽章におけるホルンのような小さなミスはあったものの、総じて、ドラマ性を纏った一貫した音の渦がそこには聴かれたし、生と死のせめぎ合いを切実に表現した演奏であった。だが、もし若干の留保をつけるとすると、この曲の本当の深奥に迫るには、さらにさらに、情念の世界が必要ではないだろうか。このオケはそもそもが、あまり情念の表出には向いていないきらいもある。クリアな音質でプロフェッショナルな高い水準を常に達成するのであるが、もう身も世もないという断腸の音楽というイメージはあまりない。ラトルの引き出す音の多彩さに圧倒されながらも、聴いていて冷静さを失うほどの衝撃までは受けなかったのは、私だけであろうか。このあたりが音楽の難しいところで、個人の好みも当然関係してくるのだが、もしかすると、60代半ばに差し掛かるサイモン・ラトルと、BREXIT を控えた英国の代表的なオケであるロンドン響の共演は、その成熟度がさらに増したときに、さらに深化した表現を聴かせてくれるのかもしれないと思ったものである。

前日に続き、休憩を含んだ演奏時間は 2時間20分ほどになり、曲の内容が重かったこともあり、今回もアンコールはなし。だが、ひとつ私にとっての朗報があり、会場でラトルとロンドン響の CD を購入すると、終演後にサイン会に出席できるという。以前もこのブログに書いたが、私はラトルの初来日であった 1985年以来 (!!)、彼のサインをもらったことはないので、これは貴重な機会とばかり、以前から欲しいと思っていたハイドンの作品を集めたアルバム「想像上のオーケストラの旅」を購入。終演後しばらく待たされたものの、セーター姿のラトルが出て来て「スミマセン」と日本語でファンにお詫びを言ってくれ、無事サインをもらうことができた。
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今回サイン待ちをしているときに、楽屋につながるドアのあたりに、前日ソリストとして共演したクリスティアン・ツィメルマンの姿が見えたし、さらに興味深いことには、あのパーヴォ・ヤルヴィが楽屋に入って行くところも目にすることとなった。N 響との 3種類の定期公演を振る指揮者は、東京に 1ヶ月近く滞在するであろうから、この街で行われている演奏会に足を運ぶことは、その気さえあればできるはず。ヤルヴィの場合は、以前もバレンボイムとシュターツカペレ・ベルリンによるブルックナー・ツィクルスに何度か来ていたことをレポートしたが、やはり東京を代表するオケを預かる身としては、東京で行われる音楽イヴェントの質を知ってもらうことには、大いに意味があると思う。ついでに N 響の指揮台にこのような指揮者を招聘でもしてもらえればいいなぁ・・・と、勝手に夢想している私でした。ラトルとロンドン響、サントリーホールでは週末にもうひとつ、これも期待のプログラムが待っているので、それを楽しみにしたい。

by yokohama7474 | 2018-09-26 01:17 | 音楽 (Live) | Comments(2)


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