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ユジャ・ワン ピアノ・リサイタル 2016年9月4日 神奈川県立音楽堂 

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9月の日本のクラシック音楽シーンでは、いきなり強烈な爆弾が炸裂する。驚異のピアニストとしか形容しようのない、ユジャ・ワンの来日だ。このブログでは、昨年11月14日と19日の記事において、オランダの名門オケ、王立コンセルトヘボウ管との共演について、興奮さめやらぬ口調で喚き散らしたが(笑)、今回はソロ・リサイタルである。前回の来日リサイタルは2013年であったろうか。そのときが私としては初のユジャ・ワン体験であり、なんとも凄まじい衝撃を受けたのであるが、その後一般の知名度も上がってきている中での今回のリサイタル。一体どのようなことになるのか。
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そもそも今回のリサイタル、極めて異例なことがあった。上のチラシをよくご覧頂きたい。左下に「曲目未定」と書いてある。な、なにー。ピアノ・リサイタルを聴きに行くのに、曲目未定なんて、そんなひどいことがあってもよいものか。これは前代未聞だろう。いや、ある。私の知る限り、ひとりだけ前例が。
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ロシアの誇る人類史上最高のピアニストのひとり、スヴャトスラフ・リヒテルだ。私は幸いにして彼の来日リサイタルに2度行くことができたが、当日その場でしか曲目が発表されないにもかかわらず、当然チケットは争奪戦。客席のみならず舞台の照明まで落として響き出した繊細極まりない音は、今でも耳の底に残っている。だが、当時のリヒテルは、まさにロシアの人間国宝で、生ける歴史的人物であった。それに対してユジャ・ワンは今年未だ29歳。ミニスカートも目に鮮やかな、若手ピアニストなのである。ところが曲目未定で売り出されたチケットは、早々と完売。もちろん、今のポリーニなら同じことができるかもしれない。だが、同じように偉大なアシュケナージやツィメルマンやシフなら、曲目未定で完売まで行くか否か。それを思うと、ユジャ・ワンの人気は恐ろしいほどではないか。

今回、彼女が日本で開くリサイタルは5回。この9/4(日)の横浜の神奈川県立音楽堂を皮切りに、翌9/5(月)は仙台。9/7(水)には東京のサントリーホール。9/9(金)は名古屋。9/11(日)は長野。そして、当初未定とされた曲目は、8月9日、つまりツアー開始1ヶ月前を切った時点でようやく発表された。それは以下のようなもの。
 スクリャービン : ピアノ・ソナタ第4番嬰へ長調作品30
 ショパン : 即興曲第2番嬰へ長調作品36、第3番変ト長調作品51
 グラナドス : 「ゴイェスカス」作品11から ともしびのファンダンゴ / わら人形
 ベートーヴェン : ピアノ・ソナタ第29番変ロ長調作品106「ハンマークラヴィーア」

これはなかなかにすごいプログラムだ。まずメインの「ハンマークラヴィーア」は、ベートーヴェンの32曲のピアノ・ソナタの中で最も長大で、演奏には45分を要する作曲者後期の大曲。若手ピアニストが弾くこと自体が珍しい。前半は小曲集の趣だが、かなり性質の違う音楽の連続である。もちろんユジャ・ワンには不可能ということはない。当日会場で販売しているツアーのプログラムには、5回のリサイタルすべてがこの曲目であるとされている。ところがところが。会場には以下のような貼り紙がしてあるのだ。
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な、なんたること。当初曲目未定とされ、その後詳細な曲目発表に至ったのに、まだ変更の可能性ありということか。まあ、それはきっと発表された曲目の演奏順序を変えるくらいだろうと思って、席についた。そして、収容人数1,106名と中ホールの規模ながら、満員の聴衆で満たされた神奈川県立音楽堂で、開演に先立って行われたアナウンスに、びっくり仰天!! 「曲目の変更がございます。まず前半はシューマンの『クライスレリアーナ』、後半はベートーヴェンの『ハンマークラヴィーア』になります」だと。つまり、メイン曲目はそのままに、前半の小曲集を、シューマンの代表作のひとつ、演奏時間30分を要する「クライスレリアーナ」1曲に変更するというのだ!! 客席のざわめきを尻目に、背中の大きく空いた深緑の長いドレスで登場したユジャは、いつものようにそっけないお辞儀をして、演奏を開始したのである。もちろん彼女のことであるから、突然の曲目変更でも全く危なげないどころか、そのシューマンの音色の千変万化は素晴らしい。聴いていると時に、左手が音楽を引っ張っているように思える瞬間もあり、若干偏執狂的なところのあるシューマンの音楽と真摯に向き合いながらも、聴き手に先を読ませない意外性を伴った演奏であった。あ、その意味では、本当に直前の直前における曲目変更自体、意外性そのものであったわけだが(笑)。

面白かったのはそれからである。「クライスレリアーナ」の演奏終了後、さて休憩かと思いきや、少し大きめのタブレット端末を持って現れたユジャは、それを顔が覗き込める位置、ピアノの中(譜面台ではない)に置いて、やおら何かを弾き始めたのである。明らかにジャズ風のこの曲、いかにもアンコール風だが・・・。タブレットには楽譜が表示されているらしく、時折それをめくりながら弾いていた。これは、1937年生まれのウクライナの作曲家、ニコライ・カプースチンの、変奏曲作品41。カプースチンはジャズ風の作風を持ち、私も何枚かCDを持っている。ユジャは彼の作品をよく弾いているのだが、ここで急にこれを弾いたということは、ひょっとすると、シューマンの暗い情熱からの口直しという意味で、即興的に思い立ったのかもしれない。もちろんユジャ・ワンによるこのような曲の演奏は、まさに完璧という言葉そのものだ。
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そして、休憩時に貼り出された表示はこれである。
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なんとこのカプースチンの曲はアンコールではなく、前半の2曲目であったのだ。ところで、この表示において主催者側が「突然の変更となりましたこと、お詫び申し上げます」と書いてあるのには、私は大変に違和感がある。これはあるいは芸術家のわがままと評されるべき事態かもしれないが、ひとつは、全くホール側の責任ではないこと、もうひとつは、ユジャ・ワンが弾けばお客はなんでも喜ぶのだ。よって、ここで謝る必要は全くありません。

さて、こうなると後半の曲目も、「ベートーヴェンの『月光ソナタ』に変更します」とでもアナウンスされるのではないかと、ぎりぎりまでハラハラしたが(笑)、そんなことはなく、いつものように後半用に衣装を着替え、今度はラメ付の白いミニスカート姿で現れたピアニストは、ごく自然な立ち居振る舞いで、気負うことなく大作「ハンマークラヴィーア」に入って行った。この演奏は、よくありがちなドイツの巨匠性の表出とは全く異なるもので、いわば不思議な世界を浮遊するベートーヴェンの眼前に広がるシュールな情景を描いたようなものであったと言えるのではないだろうか。強い部分、弱い部分。速い部分、遅い部分。明るい部分、暗い部分。そのすべてが統制され、重々しさから解放された音たちが自由奔放に宙を舞う。瞠目すべき集中力を伴っているのに、その演奏姿に陶酔はなく、かといって冷徹でもない。もしかすると、彼女が今後演奏活動を続けて行くうちに、もっと音が重みを増して行くこともあるのかもしれないが、アクロバティックなだけではない彼女のパレットは、既にして様々な色で満たされている。
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さて、大曲「ハンマークラヴィーア」終了後は、例によってアンコールの嵐。県立音楽堂のウェブサイトから曲目をコピペしよう。

 プロコフィエフ:ソナタ 第7番より第3楽章

 ラフマニノフ:悲歌 op.3-1

 カプースチン:トッカティーナ

 ショパン:バラード 第1番 op.23

 モーツァルト:トルコ行進曲(ヴォロドス/ファジル・サイ編曲)


いずれも鳥肌立つ演奏であったことは言うまでもないが、特に最初のプロコフィエフは、弾き始めた途端、「あぁ~、戦争ソナタ~」と叫びたくなってしまった。プロコフィエフのピアノ・ソナタ第6・7・8番をまとめてこの名称で呼ぶが、特にこの7番の終楽章で必要とされる鋼鉄のタッチと駆け抜ける勢いは、まさにユジャ・ワンの独壇場。このような機会にこの曲の彼女による演奏を耳にすることができる幸運!! 何度も現れる不気味な音型が、まさにそうあるべき不気味さで繰り返されて圧倒的だったし、気が狂ったようなあのクライマックスでは、聴衆の誰もが目眩を感じたことだろう。そして、あぁ、そうだ。このプロコフィエフの7番のソナタの初演者こそ、冒頭に触れた、あのリヒテルではないか!!若き日のプロコフィエフとリヒテルの写真がこれだ。ピアノの名手として鳴らしたプロコフィエフが、初めてピアノ・ソナタの世界初演を他人に任せたのが、このリヒテルによる第7番だ。1943年、戦争中のこと。
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今回のアンコールのうち、最後のトルコ行進曲は、昨年のコンセルトヘボウ管との演奏会のアンコールでも弾いていたものだ。最初のタララララという音が流れ出したとき、一部の人たちは「え? ユジャがこんな簡単な曲弾くの?」とどよめき、また一部の人たちは、その後すぐに破天荒な展開を見せるこの曲を知っているのだろう、拍手をした。ユジャはステージでは決して喋らないが、聴衆との無言のコミュニケーションを成立させる人である。我々聴衆は、この天才が放つ千変万化の音のシャワーを浴びて、皆忘れられない経験をする。そして彼女は、いつものように多少ぎこちない微笑を浮かべながらせっかちなお辞儀をし、タブレット端末を抱えて去って行ったのである。

このようにして始まった今回のツアーであるが、もしかすると、毎回毎回曲目が変わるのかもしれない。幸いなことにサントリーホールでのリサイタルにも行くことができる予定なので、今回のような中ホールではなく、今度は大ホールでいかなる響きを聴くことができるか、楽しみにしよう。あ、ラストミニッツで曲目変更があっても、主催者の方々、謝らないで下さいね(笑)。

by yokohama7474 | 2016-09-05 01:06 | 音楽 (Live) | Comments(2)  

山田和樹指揮 日本フィル 2016年9月3日 サントリーホール

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9月に入り、「楽都」東京に通常のコンサートシーズンが返ってきた。まだまだ暑い日が続いているので、秋という感じはしないが、この秋、これから11月にかけての東京の音楽シーンは、すごいことになっている。オペラにコンサートに、一流演奏家が徒党を組んで東京を襲来(時折意表をついて横浜でだけ重要なオペラ公演があったりして油断できないが---もちろん、ムーティ指揮ウィーン国立歌劇場の「フィガロの結婚」のことを言っている)。迎え撃つ日本勢も、それはそれは充実の顔ぶれだ。もとより、行きたいオペラやコンサートにすべて行けるわけでは到底ないものの、東京で起こっている文化イヴェントの意義を正しく認識するために、頑張って仕事のやりくりをして出掛けたいと考えている次第。

さて、そのような充実の秋のシーズンの最初に聴いたのがこの演奏会。このブログでも何度となく採り上げてきた、日本だけでなく世界的に見ても若手指揮者のホープのひとり、山田和樹である。彼は国内外で非常に多くの重要なポストを持っており、超人的なハードスケジュールをこなしているわけだが、それを童顔で易々とこなしているように見えてしまうのがすごい。大変な集中力と明晰な頭脳の持ち主なのであろう。このところ毎年9月には、彼が正指揮者を務める日本フィル(通称「日フィル」)の定期に登場している。
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彼はどうやら聴衆の前で話すことが好きらしく、一連のマーラーシリーズでも必ずプレトークがあるのだが、スタッフが毎回時間制限を伝えに来るほど夢中になって聴衆に語り掛けており、またその説明が誰にでも分かりやすいのである。日フィル定期では、演奏会の前のプレトークで楽団の方などが曲目解説をするのが恒例になっているようだが、今回は山田自らの希望により、自身で語りをすることになったとのこと。その日の演奏会について指揮者が語るとは非常に貴重な機会である。今回の曲目は以下のようなもの。
 柴田南雄(みなお) : コンソート・オブ・オーケストラ
 リヒャルト・シュトラウス : 4つの最後の歌(メゾソプラノ:清水華澄)
 エルガー : 交響曲第1番変イ長調作品55

これは誰でも飛びつくようなポピュラーな曲目とは言い難く、また一見脈絡がないように見える。このあたりについて山田はいかに語るのかに興味があったので、楽しみにしてプレトークに出掛けた。まず最初の柴田の曲であるが、この曲を採り上げたのは、今年がこの作曲家の生誕100年、没後20年に当たる記念の年であるからで、未だ若い山田としては、自分自身を含めてこの偉大な作曲家の業績を知らない世代が増えてきているので、日本の作曲界の遺産を未来に伝えて行くために柴田作品を採り上げるとの説明があった。実は、11月7日(月)に、同じ日フィルを指揮して同じサントリーホールで、大作である交響曲「ゆく河の流れは絶えずして」を含む柴田作品だけによるコンサートを開くので、いわばその前哨戦として今回の演奏会に柴田の短い作品を含めたとのこと。尚、その演奏会のチラシは以下の通りだが、充分にスポンサーを集めることができず、山田が私財を投げ打って開催するのであるという。その心意気には全く頭が下がる。心ある方は是非お出かけ頂きたい。尚、この「ゆく河の流れは絶えずして」については、後ほどまた触れることとしたい。
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尚、柴田南雄については、今年3月6日付の大野和士指揮東京都交響楽団の演奏会の記事の中に触れているので、そちらも是非ご参照下さい。今回演奏された「コンソート・オブ・オーケストラ」は、1973年に初演された16分ほどの曲であるが、中身は驚くほど「現代音楽」めいている。リゲティや、トンがっていた頃のペンデレツキを彷彿とさせる音楽で、トーンクラスターとかセリー音楽という、まあ知らなくても日常生活にあまり苦労することはないだろう(笑)手法が使われているが、それは作曲家本来の表現意欲というよりは、好奇心に駆られて試しにいろいろやってみたという、ある種のパロディ音楽だと言ってしまうと、少し言い過ぎであろうか。以前も書いたが、私が音楽を聴き始めた頃にFMで音楽番組の解説をしたり、エッセイやレコードのライナーノートを書いていた柴田は、大変な教養人でありまた、温厚な語り口の人であった。なにせ、東京大学の植物学科と美術史学科を両方出ている人なのである。今回の山田の演奏は、まぁ楽し気に演奏したとまでは言えないかもしれないが、作曲当時とは段違いの演奏能力を備えた今の東京のオケなら、この程度は余裕でこなせるものであろう。

2曲目の「4つの最後の歌」について山田は、大変素晴らしい曲なのに、なかなか歌える歌手を見つけるのが難しいと自論を展開。ソプラノで歌われることが多いが、音域としては少し低い。アルトにしては少し高い。なのでメゾ・ソプラノで歌える人がいないかと探していたところ、たまたまマーラー・ツィクルスの第2番「復活」においてメゾ・ソプラノとして出演した清水華澄 (しみず かすみ)に可能性を見出し、打診をしたところ、清水としても初挑戦だがやってみようということになった由。清水は二期会所属で、アムネリスやエボリ公女、サントゥッツァ等、イタリア・オペラのドラマティックな役柄を中心に活躍中だ。
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この「4つの最後の歌」を、私は西洋音楽の長い歴史においても最高の作品のひとつであると思っている。84歳のドイツの老巨匠が、激動の戦争の時代を経た1948年、生涯のほぼ最後に書いた奇跡の歌曲集である。死を究極のテーマとして、暗く重く淋しくはあるものの、そこには同時にシュトラウスならではの、華麗で耽美的な雰囲気も漂い、今このように書いているだけでも、胸がグッと来てしまう傑作だ。清水の歌はドラマティックな表現を中心としながら、声量も情緒もうまくコントロールされたものであったと思う。山田の指揮する日フィルも、個人技を含めて万全の伴奏。歌い終わって、人差し指でそっと目頭の涙を拭った清水の仕草が心に残った。

さて、メインに据えられたのは、決して秘曲というほどマイナーではないが、実演で聴くことはあまり多くない、英国の大作曲家サー・エドワード・エルガー(1857-1934)の第1番。1908年に世界初演されている。山田によると、この曲の日本初演はようやく1980年になされていて、その時は日フィルが演奏しているとのこと。音楽好きならピンと来るだろう。指揮者は英国のジェームズ・ロッホランだ。このロッホラン、あのバルビローリの後任としてマンチェスターのハレ管弦楽団の音楽監督も務めた名指揮者であるが、一時期はよく日フィルを指揮しており、今でも同楽団の名誉指揮者の称号を持っている。最近活躍を聞かないが、1931年生まれと高齢なので、既に引退状態なのだろうか。ともあれ、山田はこのエルガーの曲を面白おかしく解説した。第1楽章と第4楽章で、遠くから聴こえてくる音を表すのに、弦楽器セクションの後方の奏者だけ演奏するという変わった指示があるとか、第2楽章のスケルツォのマーチはまるでスター・ウォーズ(当然ダースベーダー・マーチを指している)のようであるが、このエルガーの曲の方がもちろん先に書かれているとか、緩徐楽章である第3楽章の美しさは本当に素晴らしいとか。ここで山田は、この情緒豊かな第3楽章には亡き人への追悼が感じられるとして、実は今回の演奏会の裏のテーマとして、「亡き人を偲ぶ」というものがあると説明した。

さて、エルガーが完成した交響曲は2曲。これらは、ボールトやデイヴィスという英国の大指揮者だけではなく、かつて英国にポストを持った外国人指揮者たち、例えばバレンボイム、ショルティ、シノーポリらが軒並み録音を残しているので、私もそれら多くの録音に親しんではきたものの、正直なところ、何回聴いても膝をポンと打つようにはならないのが実情だ。時に英国のブラームスなどとも呼ばれるエルガーだが、うーむ、ブラームスの極度の洗練とはかなり違うように思う。大いに盛り上がっているのはよく分かるのだが、そこに引き込まれて大興奮、とはどうもならないのがいつものことなのだ。今回の山田の演奏は、見通しもよく、技術的には高度なものではあったものの、目から鱗のエルガーとまでは行かなかった。私とエルガーとのつきあいは、今後もこんな感じで続いて行くのであろうか。
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ともあれ、この3曲の組み合わせは大変意欲的であるのは言うまでもなく、やはり東京の音楽シーンにおける山田和樹の重要度を改めて認識した次第。上述の11月7日の柴田作品の演奏会には行けるか否か分からないが、可能性を追求することとしたい。そこでのメインの曲目、「ゆく河の流れは絶えずして」は、もちろんあの鴨長明の「方丈記」から歌詞が取られたものであり、合唱団が舞台を練り歩くなどの演出を含む一種のシアターピースである。山田は、「前回この作品が演奏されてから27年間、誰も演奏していないので、自分が採り上げることにした」と語っていたが、そうなのである。前回の演奏は1989年、若杉弘指揮の東京都交響楽団によるもの。なぜ知っているかというと、私もその演奏会に行ったからだ。当時、若杉と都響は、マーラーやブルックナー等の後期ロマン派から新ウィーン楽派、フランス音楽、戦後の音楽、とりわけ日本の現代音楽等、意欲的な試みを次から次へと行っていて、今でも思い出すと胸が躍る。柴田南雄の作品だけで一夜の演奏会が開かれたのだが、これがその時のプログラムと、林光が朝日新聞に掲載した批評(同じ指揮者とオケで同じ月に演奏された諸井誠の演奏会と併せて論評)。
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当時の日本はバブルの真っさ中であったわけだが、熱狂的な経済の隆盛の中で行われたこのような意欲的な文化面での試みの歴史的な意義は、長く顕彰されてしかるべきである。若杉も大変な才人であったが、70そこそこで惜しくも亡くなってしまった。だが日本では、時代は変わっても新しい世代が先人の業績を引き継ぎつつ、また新たな試みを続けているわけであり、我々はそれを誇りに思おうではないか。それこそまさに、「ゆく河の流れは絶えずして」である。方丈記の意図する無常感だけではなく、その流れに積極的な意味を見出して行きたいものだ。

by yokohama7474 | 2016-09-04 23:15 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

武満徹の「ジェモー(双子座)」 タン・ドゥン / 三ツ橋敬子指揮 東京フィル 2016年8月26日 サントリーホール

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前項でご紹介したサントリー芸術財団主催によるサマーフェスティバルでは、様々な現代音楽が演奏されるのであるが、このコンサートもその一環で開催されたものである。だが、チラシや当日のプログラムにはあまりそのことは強調されておらず、「サントリーホール30周年記念 国際作曲委嘱作品再演シリーズ」と銘打たれていて、この方がより分かりやすく、またその意義が明確になると思う。というのも、まずは東京におけるクラシック音楽の殿堂として認知されているサントリーホールは、今年オープン30周年。
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このホールがオープンしたときには様々な演奏会が開かれたものであるが、いかにも文化サポート企業サントリーらしく、ただ人気の楽団や指揮者を招聘するのみではなく、国際作曲委嘱シリーズという企画も始められた。これは世界的な名声を持つ現代作曲家にオーケストラ作品の新作を委嘱するもので、過去30年間に38の作品がこのシリーズで世界初演された(今年のサーリアホで39作品目)。今回のタン・ドゥン指揮の演奏会は、このシリーズで初演された作品の再演がメインの目的である。現代音楽の場合、予算的な制約や集客の問題もあり、せっかくの意欲作も、なかなか再演の機会に恵まれないものであろうが、その意味でもサントリーが再演までも企画するということには、音楽文化の発展という観点で、多大なる意義がある。因みに30年前、サントリーホールがオープンした際に立て続けに新作が演奏されたときの小冊子がこれだ。もし現代音楽に知識のない方がおられれば、それぞれの作曲家についてWikiででも調べて頂いて(30年前にはそんなものはなかったから、便利な時代になったものだ)、これがいかにすごいイヴェントであったかについて認識を持って頂きたい。
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ちなみに、それぞれの演奏会の数日前には作品について語る各作曲家のレクチャーがあって、私はこの5回シリーズのうち、最後のブソッティを除く4回のレクチャーに足を運んだ。以下は、そのレクチャーでもらったジョン・ケージ(演奏会の4日前の日付入り)とユン・イサンのサイン。後者に至っては、「○○様」と、私の名前をこの上に書いてもらっている。お宝なのである。
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今回の演奏会の意義として最後に挙げられるのは、これが武満徹(たけみつ とおる)の没後20周年を記念するものでもあるという点だ。武満はもちろん、日本の作曲家として最も世界に知られた名前であり、音楽史に名を留める人物であることは間違いない。上の写真にある通り、この国際作曲委嘱シリーズの最初の監修者も彼であった。
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今回メインの指揮を務めるタン・ドゥン(譚盾)は、1957年中国生まれだが、ニューヨークのコロンビア大学で学んだ国際的作曲家である。一般的な知名度がどの程度あるか分からないが、現代音楽の分野ではもはや大家であり、彼がかかわった映画「グリーン・デスティニー」や「HERO」などを見た人は、その音楽を一度聴けば忘れられないであろう。また、香港の中国返還式典や北京オリンピックでも音楽を提供していた。彼の作品は純粋な西洋音楽ではなく、常に東洋的な雰囲気を持ち、人の声はもとより、動物の鳴き声を模した笛や、あるいは水の音などを駆使して、原初的、神秘的でヒーリング効果のある不思議な音楽である。もともと理詰めでできている西洋音楽もこの時代になると、極言すれば袋小路に迷い込むような状態を避けされないところ、このタン・ドゥンのような人の活動が新たな血を西洋音楽に注ぎ込んでいると言えると思う。
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さて、そのタン・ドゥンが東京フィルを指揮するこの演奏会の曲目は以下の通り。
 武満徹 : ジェモー(双子座) オーボエ独奏、トロンボーン独奏、2つのオーケストラ、2人の指揮者のための(1971-86年作)
 タン・ドゥン : オーケストラル・シアターII : Re(1992年作)
 武満徹 : ウォーター・ドリーミング フルートとオーケストラのための(1987年作)
 タン・ドゥン : 3つの音符の交響詩(2010)

面白いのは、上記の通り、サントリー国際作曲委嘱シリーズ最初の初演作である武満の「ジェモー」だけでなく、タン・ドゥン自身の「オーケストラル・シアターII : Re」も、このシリーズで初演された作品の再演であるのだ。かつてここで産声を上げた作品が、この場所で再び演奏されるわけである。ちなみに、これら2作品ではいずれも2人の指揮者が必要とされており、ここでは日本の女流指揮者、三ツ橋敬子が2人目の指揮者を務めた。
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さて、メイン曲目である武満の「ジェモー」が最初に演奏されたわけだが、これはなかなか聴くことのできない作品だ。というのも、2つのオケと2人の指揮者が必要であるからで、初演の際には、井上道義と新日本フィル、尾高忠明と東京フィルが演奏した。今回は、その後合併を経て大所帯となった東京フィルだけによる演奏。だが2群のオケは全く別々に配置され、別々の演奏をする。よって2人の指揮者は本当にほぼ対等な働きをするわけで、どちらか一人がメインでほかのひとりが補助的な役目というわけではない。その点三ツ橋はタン・ドゥンの指揮ぶりを見ながら呼吸を合わせてオケをよくリードし、素晴らしいかじ取り役であったと思う。私は思うのだが、この種の音楽を楽しむには規制概念は必要なく、五感を敏感にして、入ってくる情報に身を任せるべきであろう。たとえば、この2人の指揮者がともに指揮棒を持たずに大きな円をそれぞれに描いているのを見ているだけで、何か前衛パフォーマンスのような気がして、その思いは、まさにこの曲が演奏される場でしか抱くことができないものなのだ。この曲は、武満の精神的な師であった瀧口修三の詩に基づく4つの部分から成っていて、例えば若杉弘指揮のこの作品のCDには内容についての細かい解説が載っているが、それらに過度に捉えられる必要はないと思う。これに関し、以下のような実例もある。実は家人もこのコンサートに一瞬興味を持ち、この「ジェモー」がどんな曲であるか聴いてみたいというので、その若杉指揮のCDを渡すと、がんばって予習したらしいのであるが、残念ながら、解説に書いてある曲の内容を一生懸命追おうとして四苦八苦し、「えぇっと、今どこだ」と調べてみると、実は知らない間に既にこの曲は終了し、次の曲に入ってしまっていたというのだ(笑)。そんなわけで家人はコンサート行きをあきらめたのであるが、実演で聴けば何か感じることができたであろうに、もったいないことだ。ここで私がひとつ覚えている30年前の逸話をご紹介すると、作曲者武満その人がレクチャーにおいてこの曲について語った言葉の中に、「たまにはフォルテッシモでドーンと終わる曲を書きたいと思って、最後に大きな音にしたんだけども、年のせいか(注:当時武満は56歳)、最近どうも愚痴っぽくなっていて、その後にやっぱりちょっと音を足してしまいました」というものがあった。もちろん冗談として笑いながらの発言であったが、今回、終結部間近で三ツ橋が拳を握りしめて大きな音を引き出しているのを見ると、ここに武満が込めた思いが炸裂しているのだなと、感動したものだ。これが当時のプログラム。
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コンサートはここで休憩に入り、後半にはタン・ドゥンの2曲と武満の小品が1曲演奏された。タン・ドゥンは自作の演奏前にはマイクを持って登場し、曲について自らの言葉で語ってくれた。「オーケストラル・シアターII : Re」は、1992年にこのサントリーホールで初演されたが、その時に客席に座っていた武満(Toru-sanと表現)が、まるで今でもまだそこにいるかのように感じるのだと、もはやこの世にいない武満を、感傷的になることなく、親し気に追想した。この曲は、彼の用語では"Ritual"(儀式 --- ブーレーズにこのタイトルの作品がありますね)であり、宗教的雰囲気は伴っているが、それはどこの場所いつの時代というわけではなく、音楽による儀式なのであるということを、説教くさくもなく、また深刻さもない語り口で、穏やかに喋った。武満とタン・ドゥンの音楽には、共通点もあるものの、相違点の方が多いと思う。だがこの2人の間には親交があったのだ。東アジアの音楽創作における、偉大なる交差と称してよいだろう。ちなみに英語で喋るタン・ドゥンの説明を通訳したのは三ツ橋敬子であった。その喋り方だけでも聡明な女性であることは明白ではあったが、いかんせん、プロの通訳者ではないので、長い発言になると、途中で少し抜けてしまっていた。だがそんなことはどうでもよくて、実はこの「オーケストラル・シアターII : Re」のメインの指揮は彼女に託されたのである。この曲、木管楽器はステージからすっぽりいなくなって、ホール内、客席の各所にぐるりと配置される。そこで、客席の方を向いて指揮する指揮者が必要で、それを作曲者タン・ドゥン自身が受け持った。またこの曲では聴衆も、「Re=レ」の音でハミングさせたれたり、「ホン・ミ・ラ・ガ・イ・ゴ」と唱えさせられたり、結構無茶ぶり(笑)があるのだが、その部分の指揮も作曲者の担当。半ばいやいやながら参加させられたわけだが、やってみるとなかなか神秘的な雰囲気が出ていた。それから、冒頭の部分は三ツ橋が棒を振ってもオケが反応しないと思ったら、楽員は楽器を弾かずにハミングしていたのだ!! こういうときに楽員は、歌えというスコアの指示に従わないとならず、一方の指揮者は、棒を振るだけでいいので不公平だよなと思っていると、なんとなんと、次は指揮者までが大きな声で何事か("Silence!!"とか)叫ぶことになり、なるほど演奏者全員と聴衆まで巻き込んだ容赦ない(?)一大シアター・ピースなのだなと実感した。狂騒的な部分と瞑想的な部分のギャップが激しく、まさにSilenceが支配する静かな部分は、本当に長い長い時間、金縛りにあったように無音に耳を澄ませるという感覚に満たされ、誠に神秘的な体験であった。もっとも、しーんとした神秘の沈黙が空気を支配する中で、私の腹がグゥ~ッと鳴り、つられて隣のオジサンもグググ~ッと腹を鳴らせて、その沈黙に対抗したことも付記しておこう(笑)。武満の著作にも、「音、沈黙と測りあえるほどに」というものがあるが、腹が鳴るのは生きている以上致し方ない。沈黙と測りあえるほどに説得力のある生の証だ。

残りの武満の「ウォーター・ドリーミング」とタン・ドゥンの「3つの音符の交響詩」も充実した演奏で、終演の21時30分まで、この2人の異なる作曲家の作品を堪能することができた。但し、客の入りは悪く、全体で半分くらいの入りであったろうか(ステージ裏のPブロックは使用せず)。私が座ったステージ右手の席はB席で、なんとたったの2,000円!!前日のコンサートも安いと思ったが、これだけの大規模な演奏会でこの値段とは、本当に申し訳ないくらいだ。それでもこれしかお客が入らないとは淋しい限り。この日の聴衆の中には、日本の作曲界の大御所である湯浅譲二(もう87歳で、久しぶりにお見掛けしたがお元気そうだった)の姿や、中堅の星である権代敦彦の派手な衣装での登場も見受けられ、聴衆のレヴェルは非常に高かったことは明白。これだけ意義深い演奏会なので、できればもっともっと多くの人たちに会場に足を運んでもらいたいものだ。もっとも、「湯浅譲二がいたよ」と話すと、「あ、あの、たけしの映画に音楽書いてる人でしょ!!」と反応する家人のような人には、もう少し予備知識を持ってもらう必要あるが、でも、そういう人でも、2,000円払ってこの演奏会を経験すると、人生豊かになると思います。ちなみに北野武の映画に音楽を提供しているのは久石譲。その名前を知っているだけでも、まあ、偉いとほめてやるべきなのでしょうが・・・。家人からは、「そのような人の啓蒙のために、世帯主が2,000円を追加で出資すべきである」との主張がなされており、それもまあ、一理あるとは思います。来年から実行しよう。


by yokohama7474 | 2016-08-28 11:51 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

サントリー芸術財団 サマーフェスティバル2016 板倉康明指揮 東京シンフォニエッタ (ヴァイオリン : 神尾真由子) 2016年8月25日 サントリーホールブルーローズ

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年間を通して実に様々なコンサートが数多く開かれている東京であるが、8月のこの時期はさすがにシーズンオフで、めぼしいコンサートはほとんどない。だが、ここに毎年東京のこの時期を彩る非常に重要な音楽イヴェントがある。それは、サントリー芸術財団のサマーフェスティバルだ。このサマーフェスティバルという、ビアガーデンでも連想しそうな浮き浮きするような名前(?)と、上記のような親しみやすげなポスターから、どんなポピュラーな曲目が演奏されるのかと思いきや、全くそうではなく、非常にハードな現代音楽の祭典なのである。去年もこのフェスティバルから、大野和士指揮によるB・A・ツィンマーマンの大作の日本初演や、テーマ作曲家であったハインツ・ホリガーの演奏会を採り上げた。今年も、現代音楽のシリーズもの、サントリーホール国際作曲家委嘱シリーズ、そして芥川作曲賞先行演奏会という3種類8回のコンサートが開かれる。本当は今年のテーマ作曲家、フィンランドの女流であるカイヤ・サーリアホの作品を聴きたかったが、2回のコンサートのうち1回は既に終了。もう1回は出張のために行けないことが確定しているため、涙を呑んで諦めた。その代わりと言ってはなんだが、なかなかに興味深いコンサートに2回行くことにして、今回がその1回目。

ここで改めて述べておきたいのは、サントリーという会社の音楽文化への多大な貢献だ。サントリーホールという、今や世界有数の名ホールの名を確立した素晴らしいホールを持ち、そしてこの、一般的には全く人気のないであろう現代音楽の祭典を、もう何年も続けて来ているわけである。バブルの頃にメセナという言葉が流行ったこともあったし、もちろんサントリー以外にも文化に投資をしている会社は数々あれど、ここまで主体的に芸術的な試みを続けている会社も、ちょっとないのではないか。一音楽ファンとして、この場を借りてこのフェスティバルの関係者の方々に、心からの賛辞を呈しておきたい。

そしてこの日、少し早めの時刻に会場のサントリーホールに足を運ぶと、何やら長蛇の列ができている。サントリーホールのウェブサイトによると、確かこの日、大ホールでは関係者による催しがあるとのみ記載されていて、詳細は不明であった。一体何があるのだろうと思い、会場のポスターを見てびっくり。
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なんということ、製パン会社のヤマザキが貸し切りで、あの秋山和慶指揮の東京交響楽団の演奏会を開いている!! しかもピアノはあの辻井伸行だ。この後、東京交響楽団のウェブサイトも調べてみたが、この前後に同様の演奏会はなく、この日限りであった模様。これは全く素晴らしいことだ。ポスターが「ヤマザキ」で改行して「サマー」となっているが、まさか「ヤマザキ様」ではあるまい。きっと社員の福利厚生イヴェントなのであろう。これが聴けるなら、ヤマザキに転職しようかと思いました(笑)。

だが、私が聴くのはこの大ホールのコンサートではなく、小ホールの方だ。サントリーホールの小ホールは、今の名称はブルーローズと言って、その入り口にはその名の通り、このような青いバラが飾られている。プリザーブド・フラワーだろうか。
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この名称の由来について、サントリーホールのウェブサイトに以下の解説がある。

QUOTE
英語のBlue Roseは不可能の代名詞とされてきましたが、サントリーがバイオ技術によって2004年に新品種「青いバラ」を開発。この小ホールは、多くのアーティストの皆さまに新たな挑戦の舞台として活用して欲しいという思いから「ブルーローズ」と名づけられました。
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ふーむ。素晴らしいではないか。一流の音楽を奏でることは、技術において、また表現の深い部分において、常に高いハードルに挑戦すること。まさにブルーローズを追い求める闘いである。その意味では、かなりハードな内容の今日のコンサートに、ブルーローズを発見したい。

このコンサートは、板倉康明指揮の東京シンフォニエッタによるもの。曲目は板倉の企画によるものであるが、この人は指揮者というよりもクラリネット奏者として知っている。だが、1945年以降の音楽だけを演奏する現代音楽演奏団体の東京シンフォニエッタの音楽監督を2001年から務めているので、もう15年のコンビということだ。
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曲目を紹介しよう。
 ピエール・ブーレーズ(1925-2016) : デリーヴ I (1964年作)
 オリヴィエ・メシアン(1908-1992) : 7つの俳諧 (1962年作)
 ベネト・カサブランカス(1956- ) : 6つの注釈 --- セース・ノーテボームのテクストに寄せて (2010年作、日本初演)
 ジェルジ・リゲティ(1923-2006) : ヴァイオリン協奏曲 (1990年作、92年改訂) (ヴァイオリン : 神尾真由子)

3曲目の作曲家以外はよく知られた現代音楽の大家ばかりで、今回は人気ヴァイオリニスト神尾真由子の出演もあってか、収容人員400名のブルーローズはほぼ満員。会場には、作曲家の細川俊夫や、この翌日別のコンサート(これについては別途記事をアップ予定)に出演する指揮者の三ツ橋敬子の姿も見られ、活況を呈していた。

さて、コンサート前半に演奏された2曲は、フランスの現代音楽を代表するメシアン - ブーレーズ師弟の作品であった。これらはいずれも1960年代、いわゆる前衛が前衛でありえた時代の作品だ。面白いことに、もっと最近に書かれた後半の2曲には、時にドビュッシーやラヴェルの残像が垣間見える瞬間があるのに、それは一種の先祖返りであって、半世紀前、前衛の時代の音楽は、過去の遺産への挑戦とも言うべきとんがり方をしており、耳には刺激的に響く。また、メシアンとブーレーズという現代音楽の巨人たち2人は、性格も作曲家としての個性もまるで異なるのに、これらの作品においては、時にブーレーズ作品の中にメシアンを感じ、またメシアン作品の中にブーレーズを感じることができるように思われる。いかに創作態度がとんがっていても、人間の創造は全くStand Aloneではなく、やはり継続性や流行があるということだろうか。2曲目に演奏されたメシアンの「7つの俳諧」は変化に富んだ面白い曲で、作曲者が日本を訪れたときの印象を音にしたものであるが、1964年にドネーヌ・ミュジカルを指揮してこの曲を世界初演したのはほかならぬピエール・ブーレーズであるのだ。初演のメンバーでその頃録音されたのがこの曲の世界初録音。そしてブーレーズは1990年代にクリーヴランド管弦楽団を指揮してこの曲を再録音している。よほど気に入った曲であったのだろう。これがその師弟の写真。
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板倉は指揮棒も指揮台も使わず、大きな身振りで明確に小編成のオケに指示を出していた。現代音楽を積極的に採り上げた岩城宏之もそうであったが、この種の複雑な音楽を演奏する際には、分かりやすい身振りである必要があるのかもしれない。東京シンフォニエッタと、その専属ピアニストである藤原亜美の演奏は鮮やかなものではあったが、欲を言うなら、一音一音がもっとよく響くホールで聴きたかったなぁという思いも抱いたものである。

3曲目の作品は、スペインのカサブランカスという作曲家の作品の日本初演。この作曲家、私も今回初めて知ったが、NAXOSレーベルには既に多くの作品が録音されているようだ。中には「3つの俳句」という作品もあり、上記の「7つの俳諧」のパロディかと思ってしまいました(笑)。こんな方である。
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この「6つの注釈」は、オランダの作家セース・ノーテボームの「サンティアゴへの道」という作品に基づいて書かれたもの。奏者はたったの5人で、10分程度の短い曲だ。だが、曲によって音色や曲調はかなり異なり、聴いていて飽きることがない。世の中にはまだまだ知らない作曲家や知らない曲が沢山あるなぁ、と改めて感じた次第。ところでこのノーテボームという作家もなじみがないが、1933年生まれだから既に83歳。各地を旅行してそれを題材にしていることが多いようだ。この作品のインスピレーションのもととなった「サンティアゴの道」のサンティアゴは、もちろんあの有名な巡礼地、サンティアゴ・デ・コンポステラであろう。会場で配布されたプログラムにこの小説からの抜粋が含まれていて(演奏によっては朗読してもよいという作曲者の指示があるらしい)、そこにはセルバンテスやスルバランというスペインの芸術家の名前が見られる。調べてみると、日本を題材とした「木犀!/日本紀行」という本も書いていて、面白そうなので購入することとした。この本は、今Amazonでは取り寄せになっているが、すみません、在庫の最後の1冊は私が購入しました(笑)。

さてこの演奏会、やはりなんといってもクライマックスは、最後のリゲティのヴァイオリン協奏曲であった。リゲティはハンガリーの作曲家で、作風はいささか難解かもしれないが、よく聴くと民族的な要素もある。楽しい音楽はあまり書かなかった人だが、その音楽の表現力は素晴らしい。
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このヴァイオリン協奏曲は、1990年に一旦3楽章で発表されたものの、1992年に改変されて5楽章となった。私は随分以前、FMからのエアチェックで3楽章版で最初にこの曲を知ったが、なんといっても忘れられないのは、1998年にクリスティアン・テツラフのソロ、エサ・ペッカ・サロネンが、未だ音楽監督に就任する前のフィルハーモニア管を振って伴奏した日本公演だ。激しく切り込むヴァイオリンに、時々聴こえてくる懐かしいようなオカリナの音。強烈な印象を受けたものである。演奏頻度はさほど多くないので、実演に接することは貴重なチャンスである。おまけに今回は日本の若手ヴァイオリニストとしては疑いなくトップを争うひとり、神尾真由子の独奏である。
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彼女は10代の頃から演奏活動を続けていたが、2007年、21歳のときにチャイコフスキーコンクールで優勝し、さらにその名声を高めた。既に演奏家として活動しながらコンクールを受けるというのは、もし成績がよくなければ名声に傷がつくというリスクもあったわけで、相当自信もあったであろうし、強い精神力を持つ人なのであろう。そのヴァイオリンは極めてEmotionalで、とことん歌い込むもの。あまりリゲティのコンチェルトとはイメージが合わないかと思ったが、ふたを開けてみればなんのことはない。実に見事な演奏であった。つまりここでも彼女の情念的かつ力強いヴァイオリンはそのままで、曲の新たな魅力まで引き出して見せてくれたように思う。今年30歳。表現者としてこれから様々な挑戦を重ねて行くことであろうが、その中で沢山のブルーローズを手にして行くことだろう。ただ、演奏とは直接関係ないが、興味深いシーンがあった。演奏開始前にスタッフがステージの準備をしていたとき、10cm四方くらいの金属製かと思われる板を、ヴァイオリニストが演奏するあたりの位置においた。薄いものだが、ごくわずかな傾斜があって、ステージ奥側が低くなっている。色は黒っぽいが、上の面だけ白く塗ってある。見ているとその板を、神尾が演奏中に何度も軽く踏んでいたのである。あれは一体何であったのか。何かのおまじない? 謎である。終演後にサイン会があったので、訊いてみればよかった。
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このように、大変充実した演奏会であったが、全席自由3,000円はあまりにも安い。涙が出るほど安い。これもサントリー芸術財団のパトロネージュによるものであろう。来年以降もこの充実したフェスティバル、可能な限り聴きに行きたい。

by yokohama7474 | 2016-08-27 01:08 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

セイジ・オザワ松本フェスティバル ファビオ・ルイージ指揮 サイトウ・キネン・オーケストラ 2016年 8月19日 キッセイ文化ホール

セイジ・オザワ松本フェスティバルのオーケストラコンサートBプログラムの演奏会である。前日のAプログラムの前半に続き、指揮を執るのはファビオ・ルイージ。曲目はマーラーの交響曲第2番ハ短調「復活」である。
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彼は一昨年のオペラ「ファルスタッフ」でこの音楽祭に初登場した後、昨年はオーケストラ・コンサートで、ハイドンの82番「熊」とマーラー5番を指揮。その演奏については、昨年8月29日の記事でもご紹介した。そして今年もこの音楽祭に登場し、昨年に続いてマーラーの大作を指揮する。もともと音楽総監督である小澤征爾の名前と行動力に大いに依拠してきた音楽祭であり、日本人の若手から中堅を中心に何人もほかの指揮者が登壇したことはあるものの、3年連続で指揮するのはルイージが初めてであろう。人選にはいろいろな要素があって簡単によい悪いを決めつけるのは避けたいが、ここに登場する小澤以外の指揮者は、日本人でない方が何かと「座りがよい」ということもあるのかなぁ・・・、などと勝手に思いを巡らせている。まあともあれ、ファンとしては、ただ虚心坦懐に彼らの音楽に耳を傾けることで充分である。昨年の5番も熱演であったが、今回の2番は合唱・独唱を含むさらに規模の大きい作品であるだけに、ルイージとサイトウ・キネン・オーケストラの共演の成果に期待大である。これはリハーサルの様子。
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ルイージの音楽を聴いていつも感じるのは、どのような音楽においても、流麗な流れを作り出すことによって過剰な情緒性を排除し、メリハリをつけた音響によるドラマを過不足なく描き出すということだ。昨年のマーラー5番はまさにそのような演奏であったが、今年の「復活」も全く同じ印象だ。彼のマーラーは、日本人が大好きな(私もそのひとりだが)バーンスタイン的な混沌としたものではなく、もっと見通しがよくて切れ味のよいものになる。よいオーケストラで、またよいホールで聴けば、彼の音楽にはうむを言わせぬ説得力がある。今回の演奏、正直なところ、後者の「よいホール」という点に関しては、「あぁ、これがサントリーホールだったら!!」という思いに捕らわれたが、前者の点、「よいオーケストラ」という意味では、これはもう大満足と言ってよいであろう。私は昨年の記事で、管楽器の大部分を外国人が占めるという現状が、そもそも桐朋出身者による、小澤言うところの「同じ釜のめしを食った仲間」というサイトウ・キネン・オーケストラの理念に反するゆえ、その評価はよく考えるべきではないかといった厳しい内容のことを書いた記憶がある。だが、これをご覧頂く方に誤解頂きたくないのは、日本におけるクラシック音楽のイヴェントとしてのセイジ・オザワ松本フェスティバルの価値を考える上で、また、今後の発展を考える上で、このような問題意識には意味があると思うからこそ、人によっては異論もあろうことを承知で、昨年あえてそのようなことを書いてみたわけである。だが今回の演奏会を聴いて私の考えは変わってきた。つまり、質の高い音楽体験をするには、演奏家や裏方さんや資金や会場やあるいは聴衆の質に至るまで、様々な要素が必要になるわけだが、別に「日本人によるベストの演奏」にこだわらずとも、「日本で聴けるベストの演奏」でもよいではないか。つまり、弦楽器はたまたま日本人だけでも世界一流に伍していけるならそれでよし、管楽器については、日本人のトップの人たちと外国から参加するメンバーの混成がベストなら、それを続ければよい。但し、その海外からの参加者が、ただ金のためにやってくるのではなく、ここ松本での演奏に充実感と意義を見出してくれる必要があろう。その意味でこの音楽祭の成功を象徴するようなコメントを、例のホルンのラデク・バボラークがプログラムに載せているので、一部抜粋する。

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松本は本当に美しいところ --- 伝統に溢れ、温かくフレンドリーで、フェスティバルの期間はいつも、音楽と、音楽を導くインスピレーションに満ちています。(中略) 舞台上では高い集中力と純粋な喜び、そして終演後は、温泉や、あるいは居酒屋で、美味しい食事とビールとお酒と焼酎で愉快な打ち上げ! (中略) 松本はいつでも、地上の楽園です。
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海外から参加してくれるメジャープレーヤーがこのように感じてくれていることこそ、この音楽祭の大きな価値であり、それはそれで大いに意味があることではないか。聴く側にとっては何より、現在の日本のオケにおける課題である金管楽器の演奏にハラハラせずに聴けるだけでも、やはり海外メンバーをずらりと揃える意味はあろうというものだ(笑)。これは揶揄して言っているのではなく、日本のオケにもさらなる向上を期待したいがゆえのコメントだ。

さて、ルイージの指揮に話を戻そう。低弦の大地を揺るがす響きで始まるこの曲、冒頭から既に過度な重量感は排除されているのを感じる。だが決して弱々しい音楽ではなく、盛り上がる箇所は充分な燃焼度を持って盛り上がる演奏である。出色は第2楽章で、音色は微妙に変化し、アクセルとブレーキを交互に踏みながら、ふと窓の外を見ると情景が変わっているといった感じの演奏。オケとの呼吸が合わないとこのようにはいかないであろう。ただ、ひとつ不満があったのは、合唱団と独唱者を、第2楽章と第3楽章の間に登場させたことだ。この曲はいわば第1楽章が第1部、残りの部分、つまり第2・3・4・5楽章が第2部という構成になっていて、作曲者自身、第1楽章終了後に少なくとも5分の間をあけることと指示している。従い、レントラー舞曲の第2楽章が終わってすぐにティンパニがドドンと鳴って第3楽章スケルツォに入って行くというその呼吸が大事であって、そこに合唱団と独唱者の入場時間を入れることで、音楽の流れは台無しだ。だが、そのような不満もつかのま、第3楽章の勢いよい皮肉な音楽から静かに第4楽章に移行する頃には、また流麗な音の流れが脈打っており、そうして怒涛の第5楽章に突入したのであった。
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今回の独唱者は、まずアルトが、日本が世界に誇る藤村実穂子。実は、もともとはクリスティーン・ゴーキーというやはり世界的な歌手の出演が予定されていたところ、体調不良により降板したため、藤村が登場したもの。いやしかし、これ以上ない代役が見つかったものである。安定感は抜群だ。
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そしてソプラノが、二期会の三宅理恵。この演奏では独唱者も合唱団(OMF合唱団)も全員暗譜であったが、彼女は合唱の中からソプラノのソロパートが浮かび上がるとき、両の掌を胸の前で合わせ、つまり合掌をしながら、美しくソロを歌いあげた。この曲のソプラノには大した見せ場があるわけではないが、合唱団との一体感と、ときにそこから浮かび上がる声量と技量が必要なので、意外と難しいであろう。それゆえ、彼女の自主性溢れる歌唱は素晴らしいと思った。
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このように音楽は進んで行き、いつ聴いても鳥肌立つような強烈な大団円に至る。ヴァイオリンが全身で高揚感を作り出し、管楽器が輝かしく鳴り響き、オルガンまで入るあのめくるめく音響は、本当にひとりの人間が、頭の中に鳴り響いていたものを紙に書いたとは思えない神々しさである。日本ではかなり頻繁に演奏されるマーラーの人気曲であるが、今回の演奏ほど奏者がそれぞれの持ち場で力を発揮する演奏には、そうそう出会えるものではない。ルイージとサイトウ・キネン・オーケストラは、夏の松本で、またひとつ大きな足跡を残したのであり、終演後には多くの聴衆がスタンディング・オベイションで演奏者たちの熱演を称えたのであった。きっとその後の居酒屋での打ち上げにおける「ビールとお酒と焼酎」は、さぞやおいしかったことでしょう!!

コンサートとは直接関係ない蛇足情報をひとつ。この音楽祭では例年、前年の成果を横長の冊子にまとめ、会場や街中の書店で販売している。豊富な写真や演奏の論評や、ここだけでしか手に入らない演奏の一部を収めたCDと、大変に内容豊富で、私は毎年楽しみにしているのである。ところが今年は会場でも書店でもその冊子を見かけなかったので、キッセイ文化ホールでグッズが販売されているコーナー横のInformationと表示のある場所にいた人に訊いてみると、音楽祭事務局では2,000円で販売しているという。ホール1階の事務所に連れて行かれ、段ボール箱から1冊出してもらって購入することができた。
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但し、今年から付録CDはついていない。なぜ売店で売らないのか尋ねたところ、フェスティヴァルのグッズという扱いではなくなったからとのこと。よく意味が分からないが、もしかすると、松本市の予算を使用している以上、なんらかの成果物が必要で、そのために毎年作成されているのかもしれない。それに、これは前年の内容に関するものなので、前年の演奏会やオペラに来ていない人にとっては、その場で買い求める意味があまりないとも言える。なので、あまり売れ行きもよくなかったのかもしれない。だが、私にとってみれば昨年の思い出として是非欲しかったもの。もし同様の思いをお持ちの方がおられれば、参考情報として下さい。

さて、既にして来年のプログラムが気になるセイジ・オザワ松本フェスティバルだが、せっかく5番、2番とルイージのマーラーを続けて演奏したのだから、これは是非ともシリーズ化して欲しい。ついでに東京でも2回か3回演奏会を開いて頂いても、絶対満員になると思う。今後のフェスティヴァルの発展のため、日本の音楽界のさらなる向上のため、なんとかそのようにして頂けないものであろうか。バボラークさん、東京にもよい居酒屋、沢山ありますよ!!

by yokohama7474 | 2016-08-20 12:43 | 音楽 (Live) | Comments(2)  

セイジ・オザワ松本フェスティバル ファビオ・ルイージ / 小澤征爾指揮 サイトウ・キネン・オーケストラ 2016年 8月18日 キッセイ文化ホール

今年のセイジ・オザワ松本フェスティバルにおける最初のオーケストラコンサートに行ってきた。実は昨日、この演奏会のゲネプロを見学したことは前回の記事に記載した通り。今日がその本番ということになる。昨日の記事には期待と不安を正直に記しておいたが、まず最初に書いておこう。素晴らしいコンサートであった。

19時開演のところ、その45分前に会場のキッセイ文化ホールに到着すると、既にかなりの賑わいである。嬉々として自らの写真を撮る人。感慨深げに入り口を見上げる人。そして、「チケット求む」の札を抱えた人も。このコンサートのチケットを取るのはまさに至難の業。当日たまたま行けなくなった人がいれば浮いたチケットも出て来るわけだが、さてさて、果たして「チケット求む」の人の思いは満たされたのであろうか。
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このコンサートには2人の指揮者が登場する。前半がイタリアの名指揮者ファビオ・ルイージ。後半がこの音楽祭の総監督であり主役である小澤征爾だ。ひとつのコンサートを二人の指揮者で分けるとはかなり珍しいことであるが、そこには明確な理由があって、つまり、現在の小澤の体調に、ひとつのコンサートを一人で通して指揮できるだけの余裕がないせいである。これは松本に限らず、小澤が指揮を執るオペラやコンサートの公演においては既に過去何年も続いていることである。40代からの精力的な活躍に身近に接して来た身としては、なんともつらいことではあるのだが、それでも、もうすぐ81歳になる小澤征爾という特別な能力を持った指揮者の演奏を聴くためには、致し方ない。換言すれば、コンサートの半分しか登場しない指揮者を目当てとして、これだけの熾烈なチケット争奪戦になるのは、少なくともここ日本では小澤以外にはあり得ないということだ。

今回の曲目は以下の通り。
 オネゲル : 交響曲第3番「典礼風」(ファビオ・ルイージ指揮)
 ベートーヴェン : 交響曲第7番イ長調作品92 (小澤征爾指揮)

既に昨日の記事で触れた通り、当初発表では、後半で小澤が指揮するのはブラームスの交響曲第4番であったところ、約2週間前に、ベートーヴェン7番への変更が発表されたもの。会場には以下のような貼り紙が。
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この曲目変更の意味について云々するのはやめよう。昨年も諦めたブラームス4番を、今年も諦めざるを得なかった小澤の体調は、それはもちろん心配である。だが、ベートーヴェンの7番はクラシック音楽史上屈指の名作。今の小澤をその曲で聴ける幸運に感謝しよう。私は小澤とサイトウ・キネン・オーケストラによるこの曲の演奏を、1993年にもここ松本で聴いている。また2014年には、水戸まで足を運んで、水戸室内管弦楽団(メンバーがかなりサイトウ・キネンと共通するが楽団規模が小さい)との演奏も聴いた。それらの演奏と比べて今日の演奏はいかに異なるか、記憶を辿りながら聴くこととなった。

だが、小澤小澤と連呼しているだけではもったいない。なぜなら、「前座」を務めるのが、疑いもなく世界一級の指揮者の一人、ファビオ・ルイージであるからだ。1959年生まれで、かつて世界の名門シュターツカペレ・ドレスデンをはじめ、スイス・ロマンド管やウィーン響を率いた指揮者で、現在はチューリヒ歌劇場の音楽監督や、メトロポリタン歌劇場の首席指揮者を務めている。実はこのセイジ・オザワ松本フェスティバル及びその前身のサイトウ・キネン・フェスティバル松本では、今年で3年連続の登場となる。小澤以外でこのように連続で指揮台に立った指揮者はルイージただ一人。聴衆としては、このような優れた指揮者を毎年聴くことができることに感謝しよう。
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今回ルイージはこのコンサート以外にも、明日マーラーの交響曲第2番「復活」という大曲も指揮するが、それについては追って書くこととして、まずは今日のオネゲルだ。スイス出身のアルテュール・オネゲル(1892-1955)は5曲の交響曲を書いているが、この3番はその中で最も知られているもの。私も学生の頃から親しんで来た30分程度の曲であるが、実演にかかることはあまり多くないので、今回の演奏は大変に楽しみであった(余談だが、カラヤンはこの曲をレパートリーとしていて、前半にこれを置き、後半にブラームス1番を置いた演奏会もあった。今回、小澤がブラームス4番を指揮していれば、師カラヤンの例に類似したものになったのだが・・・)。実は昨日のゲネプロでも明らかなことであったが、サイトウ・キネン・オーケストラの水準は、近年演奏レヴェルがメキメキ上がっている東京のオケの数々よりも、さらに上であると思われる。それもそのはず、構成メンバーには在京オケのトップ奏者やソリスト、また、金管にはウィーン・フィルやベルリン・フィルのメンバーもいる。もちろんひとりひとりの技量だけでオケ全体としての性能が決まるわけではないが、このオケの場合は、とても臨時編成とは思えない一体感がある点が素晴らしいのだ。特に弦楽器(全員日本人)は特筆すべきで、舞台の近くの席で聴いていた私の耳にも、それぞれのセクション(第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス)の奏者間の音色の統一性には惚れ惚れするものがあった。ちなみにこの曲ではコンサートマスターは小森谷巧。その横には矢部達哉。1列後ろには豊嶋泰嗣。順番に、読響、都響、新日フィルのコンサートマスターがずらりと並んでいたわけだ。世界の第一線で活躍するルイージも、この水準には明らかに満足していると見えるし、共演を重ねることで既にオケとの信頼関係が醸成されているように思う。第1楽章で突進する弦楽器の各パートは、分離よくしかもお互いの音に敏感に反応し、素晴らしい推進力だ。第2楽章も抒情が上滑りせず、この音楽の本質がしっかりと表現されていた。第3楽章では破局に向かう行進曲の果てに強烈な不協和音が現れるが、ルイージは、彼らしく音の線を明快に描いてそのカタストロフを表現したことで、その後に続く全曲を締めくくる清澄な音楽(昨日のリハーサルで丁寧に準備していた箇所)を周到に用意した。この曲の持つ複雑な性格を余すところなく描き出した、傑出した演奏であったと思う。

そして、いよいよ後半に入り、小澤の登場である。最近の彼の演奏会では必ずそうなのだが、このような指揮台の椅子と、楽章間に指揮台から降りて休憩を取るための椅子が用意される。
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また、指揮台の脇には、スポーツドリンク、水、ウーロン茶とおぼしき3本のペットボトルが置かれ、楽章間に小澤が飲むことになる。ちなみにこれらのペットボトルはすべてラベルが剥がされていて、銘柄は分からない。NHKの旅行番組のようですね(笑)。まあそんなことは音楽の本質には関係ないのだが。これはリハーサルの様子。
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7番はベートーヴェンの交響曲の中でも一、二を争う人気曲であるが、その理由は躍動するリズムである。緩徐楽章であるべき第2楽章も、アダージョではなくアレグレット(少し速く)なのであって、4楽章すべてがテンポの速い音楽だ。老齢の指揮者がこの曲を指揮すると、往々にして本来あるべきテンポではない遅さに陥ってしまう可能性があるのだが、今回の小澤の演奏は、そのような硬直的な遅さとは無縁のものであり、音には常に量感があり、推進力もある。もちろん、かつての躍動する指揮ぶりを知っていると、その身振りの制限には痛々しさを禁じ得ないが、だがその鳴っている音楽の説得力、生命力はどうだろう。愉悦感に溢れ、次から次へと移り変わる音楽的情景は明確で、それぞれのパートが最大限の力を発揮する。何より、指揮者の体力の衰えをカバーしてあまりあるオケのメンバーの裂帛の気迫を、いかに表現すればよいだろう。こんな音楽はそうそう聴けるものではない。実際のところ、小澤は以前より椅子に座って指揮をする時間が確実に増えており、今回のベートーヴェンでは、第1楽章の序奏から主部に入る部分、第3楽章冒頭、第4楽章の後半という盛り上がりでは立ち上がって指揮していたものの、それ以外は椅子に座った状態。また楽章間では(ほぼ続けて演奏された第3、4楽章間を除き)疲れた顔で「ちょっと休む」と小声で言いながら指揮台横の椅子に座り替えていた。その間客席は水を打ったように静まりかえり、まるで儀式のように次の楽章を待つこととなった。そしてオケの面々は、その沈黙を集中力の肥やしとして、指揮者の肉体を超えた音楽が世の中には存在しうるのだということを、身をもって証明したのである。
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終演後の万雷の拍手の中、小澤が客席に誰かを探すしぐさを見せたが、誰も客席からステージに上がって来ない。そして、主要奏者たちの間を回って握手を終えた小澤は、袖に引っ込むことなく早々にオケに解散を命じた。やはり何度もステージと袖の往復はできないのだろうかと思ったが、小澤の早々の退場に飽き足らない聴衆は、空になった舞台に対して総立ちの拍手となった。すると、オケの面々が再度ステージに登場し、続いて小澤が、既に私服に着替えていたファビオ・ルイージと手を取り合って登場した。どうやら先刻の動作は、ルイージが客席にいるものと勘違いして探したのであったようだ。前半も後半も素晴らしい内容の演奏会で、舞台と客席が一体となった至福の時間が訪れた。そして、二度ほど同じ情景が繰り返されたあと、ステージの袖に、小澤の娘である小澤征良の姿が現れた。その腕には小さな子供が。小澤が、まだおじいちゃんの職業が分かっていないであろう孫に、いとしげに額を摺り寄せるという微笑ましいシーンで、この素晴らしいコンサートは終わりを告げたのであった。小澤征爾という人の人間性、音楽性、築いてきた栄光の歴史、ステージマンとしての命を賭けた戦い。いろんなことを考えさせられたコンサートであった。私の近くに座っていた女性は、演奏の途中から口を両手で覆い、終楽章ではついに声を抑えて涙を流していた。その気持ちは分かるのだが、この音楽を聴いて泣くのはやめよう。また来年、このようなかけがえのない音楽をここ松本で聴けることを心から楽しみに、また1年間を過ごして行きたいと思う。

by yokohama7474 | 2016-08-18 23:47 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

セイジ・オザワ松本フェスティバル 公開リハーサル ファビオ・ルイージ / 小澤征爾指揮 サイトウ・キネン・オーケストラ 2016年 8月17日 キッセイ文化ホール

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今年もセイジ・オザワ松本ファスティバルの季節がやってきた。もともとのサイトウ・キネン・フェスティバル松本という名称を替えてから、今回が2回目の開催ということになる。総監督の小澤征爾の登場は、当初発表では、オーケストラコンサート2回における後半と、マーカス・ロバーツを迎えてのGigでの「ラプソディ・イン・ブルー」、そして小澤征爾音楽塾オケによるラヴェルの歌劇「子どもと魔法」を2回ということであったが、オペラについては早々に降板が発表され、オーケストラコンサートについても、8/5という2週間前を切るタイミングになってから、ブラームス4番からベートーヴェン7番に変更になると発表された。音楽祭のサイトによると、4月にヨーロッパから(ベルリン・フィルを指揮して)帰国した後、体重が減ってしまい、体力がもとに戻らないがゆえに、医師と相談して曲目変更を決めたとある。ブラームス4番は、意外にも未だ小澤とサイトウ・キネンが松本で演奏したことのない曲目であるらしく、昨年もプログラムに入っていたが、やはり体力的な問題で、ベートーヴェン2番に変更になってしまった。今年こそブラームスを聴けると楽しみにしてきた、私を含むファンにとっては大変残念なことだが、致し方ない。ただそれにしても、演奏時間45分程度のブラームス4番に対し、ベートーヴェン7番は35分程度。この10分の差がそんなに大きいのか・・・と思ってしまうのが人情。まあもちろん、長さ以上にブラームスの音楽にはエネルギーが必要とされることもよく理解できるが。ちなみに最近松本で撮られた小澤の写真は以下の通り。
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私は今回、このコンサートに出掛ける予定にしているが、実は今日、それに先立つ公開リハーサルがあり、幸運なことにそれに参加することができたので、その様子をリポートする。会場のキッセイ文化ホール(旧松本文化会館)の入り口は例年通り、あまり華美でない飾りつけ。
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今日のリハーサルは、実際には本番前の通し稽古、いわゆるゲネプロで、1階席の後半部分が座席指定されて聴衆に開放されて行われたが、そのスペースに聴衆はぎっしりだったので、総勢500名規模であったろうか。入場の際、皆さん興奮を隠せない様子。
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そして始まったゲネプロは、まずイタリアの名指揮者ファビオ・ルイージがオネゲルの交響曲第3番「典礼風」を、次いで小澤がベートーヴェンの交響曲第7番イ長調作品92を通しで演奏するというものであった。それぞれの演奏内容については、実際のコンサートを聴いてから感想を書くことにしたいので、今日のところはゲネプロの様子のみ書いておくこととする。

まず、サイトウ・キネンの面々は、夏のことでもあり大変ラフな格好で、バミューダパンツにサンダルばきの人もいて、中には(ルイージのときには)サンダルを抜いて裸足になる奏者までいた。もちろん一流のプロの面々であるから、着ているものによって音の質が変わるということはありません(笑)。登場したルイージはポロシャツにスラックスで、30分程度のオネゲルの曲を、スコアをめくりつつ、最初から最後まで一気に演奏した。唯一、終楽章終結部近くの、フルートのソロにチェロのソロがかぶるところで、フルートのパートを大きく歌って強調していたくらいで、演奏を停めての指示は一切なし。全曲演奏が終わったあとも、同じフルートとチェロの絡みを繰り返したり、第1楽章の途中を少しさらったくらいで早々に練習は終了した (但し、トランペット奏者がドイツ語で何か質問したのに対してドイツ語で答えていた)。ステージから客席まで距離があり、背中をこちらに向けているので、喋っている言葉はほとんど聞き取れなかったが、最後にオケの演奏を"Excellent!"と誉めたあと、「次に皆さんと会うのは明日の夕方(本番前)ですね。トイ・トイ・トイ!!」と締めくくっているのは何とか聞き取れた。「トイ・トイ・トイ」はまじないの言葉であり、リハーサルのくつろいだ雰囲気をよく表していた。
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さてそれからステージの設定替え(ベートーヴェンはオネゲルよりも編成が小さいので)があったあと、いよいよ小澤の登場。チューニングの際には指揮台に腰をかけて待っていたが、上の写真でも分かる通り、また一回り小さくなったように見えて、ちょっと寂しかった。だが曲が始まるといつもの小澤の音楽で、気心の知れたメンバーとの息の合った充実の演奏が展開して行った。スコアは指揮台に置いているものの、手を触れることもない。身振りは本番よりは少し小さめと見受けられ、一度などは、テニスラケットをバックハンドで両手打ちするような珍しい動作も見せた。あまり考えたくないが、やはり自分のイメージ通りいかない体の動きを補強するための仕草だったのか・・・。第1楽章終了後は、ヴィオラセクションの前に置いた黒いチェアに腰かけて、水を飲んだ。ヴィオラのトップである店村眞積と何か喋っているが、ちょっとつらそうだ。そして、第2楽章を演奏したあと、どうやら小澤自身から申し出たように見えたが、15分間の休憩に入った。少しドキドキしながら15分が過ぎ、その後、第3、第4楽章がつつがなく演奏されたのだが、音楽に比類ない情熱をかけるあの小澤征爾のこと、通し演奏後に何か所かは指示が入るかと思いきや、全く何もなく、そのまま解散。つまり、このゲネプロを通して、指揮者からの指示は一切なしだ。これは演奏のクオリティが既に充分高いとして喜んでよいのか、それとも小澤の体力を心配すべきなのか。会場では撮影禁止のアナウンスはなかったので、1枚だけ遠慮しながら撮影したのがこの写真。
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ともあれ、まずは明日の演奏会が成功することを、少しドキドキしながらも、心から祈っております!!

by yokohama7474 | 2016-08-17 22:32 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

秋山和慶指揮 東京交響楽団 (トロンボーン : 中川英二郎) 2016年8月11日 ミューザ川崎シンフォニーホール

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つい4日前、8/7(日)に行われたラデク・バボラーク指揮日本フィルの演奏会についての記事で既にご紹介した通り、ミューザ川崎シンフォニーホールでは、7/23(土)以降、フェスタサマーミューザKAWASAKIと題して、一連のオーケストラコンサートが開催されてきたが、今日はその最終回。実はこのシリーズ、オープニングを飾ったのは、このホールを本拠地とする東京交響楽団(通称「東響」)とその音楽監督、ジョナサン・ノットの演奏であったが、最終回を飾るのもやはり東響で、指揮を執るのはかつて東響の音楽監督を実に40年務め、現在は桂冠指揮者の秋山和慶 (あきやま かずよし) だ。このブログでは何度となく私が熱烈な秋山信奉者であることを述べてきたが、秋山は今年75歳。まだまだ老け込む気配など微塵もないが、今や名実ともに日本指揮界の重鎮である。できる限り多くの機会に彼の音楽を聴きたいと思っているところ、今回は、先のバボラークと日フィルの演奏会同様、公開リハーサルを聴くこともできるとあって、期待もひとしおだ。
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今回の曲目は以下の通り。
 バーンスタイン : 「キャンディード」序曲
 シルクレット : トロンボーン協奏曲 (トロンボーン : 中川英二郎)
 ベートーヴェン : 交響曲第7番イ長調作品92

会場で配布されたプログラムには、コンサート全体の副題として「華麗!豪快!爽快!」とある。最初の「キャンディード」序曲とベートーヴェン7番にはそれらの謳い文句があてはまるが、真ん中のシルクレットとは、なじみのない名前だ。いかなるトロンボーン協奏曲であるのか。その点の説明から始めよう。いや実はこのブログをやっていて、私はかなり頻繁に、この作曲家を知らない、この曲は初めて聴く、この演奏家はまだ聴いたことがない、と書きまくっているわけで、自分の無知をさらけ出してばかりで本当に恥ずかしい次第ではあるのだが、今回もこの作曲家シルクレットのことを微塵も知らなかったのである。今回初めて知ったことには、ナサニエル・シルクレット(1895-1982)はユダヤ系米国人、1930-40年代に映画音楽を手掛け、フレッド・アステアの主演作(「踊らん哉」とか「有頂天時代」・・・あ、原題では前者があの"Shall We Dance"、後者が"Swing Time"です)の音楽を作曲したほか、もともとはクラリネット奏者で、メトロポリタンオペラやニューヨーク・フィルの前身に所属したり、あの行進曲で有名なスーザのバンドにもいたらしい。また、RCAビクターの軽音楽部門の責任者として、多くの音楽家と交流を持ったということだ。このトロンボーン協奏曲は1945年の作品、初演したのは誰あろう、あのトミー・ドーシーとレオポルド・ストコフスキーだ。なかなかにダンディなシルクレットの肖像写真。
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指揮者のレオポルド・ストコフスキーは、そのけれんみたっぷりの魔術師的指揮ぶりに、保守的なクラシックファンからは未だにゲテモノ扱いされているきらいがあるものの、同時代の音楽にも極めて積極果敢に取り組んだ功績は音楽史上に輝くものであり、私は彼のCDをせっせと集めているが、なんということ、このシルクレットのトロンボーン協奏曲の初演の際の録音があるとは、これも全く知らなかった!!
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そしてこの初演者のトミー・ドーシーであるが、もちろんジャズのビッグネームである。私はジャズには体系的な知識があるわけでは全くないが、聴くのは結構好きで、特にこの時代のスウィングジャズは大好きである。若い頃からこんなCDを愛聴盤にしていて、トミー・ドーシー(4人のスウィングジャズの巨人たちのうち、右上の写真の人)の"On the Sunny Side of the Street"とか"I'll Never Smile Again"なんかは、時折口ずさんだりしている。
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そして、最近のこの曲の録音には、トロンボーンの超人クリスティアン・リンドベルイによるものがある。ジャケットでは、眼光鋭いストコフスキーが、くつろいだ雰囲気のトミー・ドーシーと向かい合っている写真が使われている。いい写真だ。
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そのような作品であるからして、このシルクレットの協奏曲には、ジャズの雰囲気がかなりあり(終楽章ではドラムも大活躍)、それと同時に昔の映画音楽のようなロマンティックなメロディー(チャップリンの「ライムライト」とショパンの「別れの曲」を足したような???)も、惜しげなく出てくるのである。トロンボーンとオケという本来のかたちでは今回の演奏が「おそらく日本初演」とのこと。そのような作品を演奏するには、相当腕の立つトロンボーン奏者が必要であろう。今回ソロを演奏したのは中川英二郎。
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1975年生まれ。トランペット奏者を父に持ち、5歳でトロンボーンを始め、高校在学中に初リーダー作をニューヨークで録音したとのこと。ジャンルを超えた様々な音楽に取り組んでいる音楽家だ。今回はリハーサルのときから全く譜面を見ることもなく、オケが途中で停まっても、指揮者のスコアをちょっと横から見るだけで完璧に曲の途中からでも演奏していたので、この曲が徹底的に頭に入っているのだなと実感された。実際のところ、親しみやすいようでそれなりに複雑な曲であると思うので、これだけ軽々と演奏できるトロンボーン奏者が、日本にそう何人もいるとは思えない。お見事だ。ところで秋山のリハーサルは、想像した通り大変効率的に進められ、要所要所でピアノだフォルテだ、クレッシェンドはどこからだ、ソロと金管楽器ではステージ上の距離のせいで若干ながら時差があるので注意せよ、等々、極めて実務的な指示が出るだけで、情緒的な説明は一切なし。また、この協奏曲の第2楽章では、初演曲であるせいだろうか、パート譜に音の誤りがあって、リハーサルの場で修正するなど、音作りの興味深い過程を見ることができた。

最初の「キャンディード」序曲は、これは私もよく知っている大好きな曲であるが、飛び跳ねるような曲想を自在に表現した名演で、このような演奏を聴くと、本当に秋山は万能の指揮者だなぁと思う。東響は管・弦ともに素晴らしい水準だ。だがそれにしてもこの曲、ミュージカルにしては技術的に難しすぎやしませんかね(笑)。せっかくだからバーンスタインの写真を載せておきましょう。
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メインのベートーヴェン7番は、この「華麗!豪快!爽快!」プログラムを締めくくるには最適の、リズムが全体を支配するスタンダードな名曲であるわけだが、実は私にはひとついやな思い出がある。もう10数年前であるが、同じこの秋山と東響のコンビでこの曲の実演を聴いたことがあるのだが、その時にどういうわけかトランペットにミスが頻出し、聴いていて落ち込んでしまったのだ。ベートーヴェンの時代のトランペットなど、パーッとかパッララパッパーッとか、全体の流れの中で、いざというときに音を華やかにする効果の音型を吹くために使われているに過ぎず、難しいソロがあるわけでもなんでもない。それゆえ、その日の演奏は私にとって大きなショックであったのだ。その頃既に、日本のオケの水準は上がって来ていると思っていただけに、やっぱりこんなものだったのか・・・と落胆してしまったわけである。だが今回は始まる前からそのような不安もなかったし、実際に鳴っていた音は、そのような過去を完全に忘れさせるようなもので、オーソドックスなベートーヴェンを堪能することができた。何か特別な趣向が凝らされているわけではないが、すべての声部があるべき力と美しさを持って演奏されていた。世の中にはもっと激しい7番もあるかもしれない。だが、ここにも充分な情熱があったことを聴き逃してはならない。素晴らしい演奏であった。

そして、意外なことにアンコールが演奏された。同じベートーヴェンの歌劇「フィデリオ」から、第1幕でドン・ピツァロが登場するシーンでの行進曲。単独で演奏されるほど名曲とも思えないが、このミューザ川崎でのフェスティヴァルの締めくくりに、ベートーヴェンの小品をという意図であったろうか。そういえばフェスティヴァルのオープニングでのジョナサン・ノット指揮東響の演奏会も、メインはベートーヴェンの「田園」であった。改めて考えてみるに、この川崎の素晴らしいホールで日本のオケが腕を競い企画を競い、大変充実した演奏会を繰り広げるこのフェスタサマーミューザ川崎は、ほかでは聴けない面白い内容のものであった。この秋も、ヤンソンスとバイエルン放送響や、メータとウィーン・フィルがここで演奏を繰り広げる。迎え撃つ日本勢も、もうベートーヴェンでトランペットが外しまくることはない。秋以降のシーンが楽しみだ!!
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by yokohama7474 | 2016-08-11 23:08 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

ワレリー・ゲルギエフ指揮 PMFオーケストラ (ヴァイオリン : レオニダス・カヴァコス) 2016年8月9日 サントリーホール

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この日、8月9日(火)の東京は、うだるような暑さであった。会社からほとんど外に出ることがないようにし(面談相手にはこちらのオフィスに来てもらうようにして 笑)、外気に触れることは極力避けていたが、昼や夕刻に建物から出ると、直射日光の当たらない庇の下を歩いていても、そのムワッと押し寄せる熱気が、まさに東南アジアの雰囲気だ。都心でも38度を記録したという。フェーン現象だかなんだか知らないが、こんな気候でも真面目に仕事している日本人は、どうかしていると思うときがある。ただ最近ではクールビズもかなり定着し、この季節にネクタイ・上着を見ることは稀になった点は有り難い。

さて、毎年この時期に恒例のPMFオーケストラの東京公演である。PMFとはPacific Music Festivalの略で、世界の若手演奏家たちが、第一線で活躍するプロの音楽家の指導を受け、その成果を披露する。故レナード・バーンスタインの提唱によって、札幌を舞台として1990年に始まった音楽祭だが、登場する音楽家たちの顔ぶれは文句なしに一流で、非常に成功している音楽祭であると言えるだろう。毎年、学生たちの修練の最後の仕上げとして東京で演奏会を開いており、昨年のコンサートもこのブログで採り上げた。今回も指揮を執るのは、昨年からこの音楽祭の芸術監督に就任したロシアの巨匠、ワレリー・ゲルギエフ。相変わらず世界で最も多忙な指揮者のひとりと言えるだろう。
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彼の音楽はいつも熱いので、この炎暑に聴くには少しばかりきつい(?)という気もするものの、いやいや、やはりこの人の音楽を聴きたいのである。さて、注目すべきは曲目だ。
 メンデルスゾーン : 交響曲第4番イ長調作品90「イタリア」
 ブラームス : ヴァイオリン協奏曲二長調作品77 (ヴァイオリン : レオニダス・カヴァコス)
 ショスタコーヴィチ : 交響曲第8番ハ短調作品65

えっ、これって1回の演奏会ですか?! だって、通常のコンサートは正味1時間半程度。そこに休憩と楽員の入退場、場合によってはアンコールなどを含めて、大体2時間前後に収まるのが相場である。だが、この演奏会はどう見てもそれを遥かに超過している。前の2曲の組み合わせでは若干だが短い。後の2曲の組み合わせでも、既にして通常より長い。そうだ、強いて言えば、最初の曲と最後の曲を組み合わせるのが、普通の長さであると言えるだろう。そう思って上記のポスターを見ると・・・あっ、なんということ。ここではまさに、1曲目がメンデスルゾーンの「イタリア」、2曲目がショスタコーヴィチ8番と書いてある。ということは、最初の予定では普通の長さの演奏会であったものが、そこに40分を超えるブラームスのコンチェルトが加わって、なんとも盛り沢山なものになったということだろう。この炎暑にゲルギエフのショスタコーヴィチとは、毒を食らわば皿までと割り切って、出かけようではないか。

この記事を書くに当たり、昨年のPMFの演奏会について書いた自分の記事を読み返してみたのだが、なんだ、その感想がそのまま今回の演奏にもあてはまるではないか(笑)。ひとつ訂正は、私はてっきりこの音楽祭に参加する若者たちは環太平洋地域(つまりは日米、東アジア、東南アジア、オーストラリア)から来ていると思っていたところ(確か当初はそうだったと記憶する)、今回のメンバー表を見ると、フランス、スペイン、ドイツやUKなど欧州から、あるいは中南米、ロシア、イスラエルからの参加者もいるのである。つまり、本当に国際的なメンバーが集まっているということになる。音楽は国境を越えるとは言い古された言葉だが、ここでは肌の色も言葉も宗教も違う若者たちが、ともに音楽を奏でるわけで、世界各地で現実に起こっている悲劇的な出来事を考えると、なんと意義のあることだろう。実際にこのような世界的な音楽活動が日本で25年以上行われていることは、一般にもっと注目されてもよいのではないか。これは札幌でのピクニックコンサートの模様。おー、まさに日本のタングルウッドだ。素晴らしい解放感。
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演奏に関しては、メンデルスゾーンとショスタコーヴィチをまとめて語ろう。昨年の感想同様、この若いオケには渋みやコクを求めるのではなく、ひたすらキレのよい躍動感をこそ求めたい。だがその意味で言えば、メンデルスゾーンの爽やかなシンフォニーのイメージを伝えるにはもう一歩。特に、弦のがんばりに比して、木管がもう少し前に出てきてもよいように思った。終楽章の疾走感は聴きごたえがあったものの、全体を通して、明朗な音の張りのようなものがあればもっとよかったのにと思う。その点、指揮者ゲルギエフの適性もあるのだろう、ショスタコーヴィチの陰鬱で長くて謎めいた第8番は遥かに成功していたと思う。この曲は戦争中の1943年に書かれているが、伝統的な交響曲の楽章構成を取らず、全体の作りが非常にアンバランスなのである。時に激しく咆哮するかと思うと、ほとんど沈黙してしまう箇所もあり、最後は諦観なのか平和への祈りなのか、よく分からない静けさの中に消えて行く。ここでも音の厚みとか爆裂する部分には課題が残ったが、ただ、大変真剣に音楽に没入するメンバーたちの姿が感動を呼んだことも事実。若さの特権は確実にあって、プロのオケのような出来上がった演奏ではなかった点、むしろ好感が持てたものである。それから、ゲルギエフは今回最初から最後まで指揮台を使用していなかった。同じロシアの先輩、ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー(85歳だが、来月読響を振りに来日する!!)を思わせたが、何か意図があったのであろうか。

この2曲に比べ、私の耳をより魅了したのはなんといっても、レオニダス・カヴァコスの弾くブラームスであった。このカヴァコスは、長身長髪のギリシャ人。1967年生まれなので、今年49歳になる。
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私は以前ロンドンでこの人の生演奏に何度か接して、その素晴らしい音楽性に仰天したものである。こういう人を天才というのであろう。もちろん天才にもいろいろあるが、ヴァイオリンという、歌うことに長けたつややかな音色の楽器を手にしながら、そこで実際に聴こえてくる音以上のものを聴かせてしまうという点で、彼は天才なのである。多分、彼の音楽を聴いたことのない方にはなんのことやらサッパリだと思うが(笑)、技術のあるヴァイオリニストなら、その技巧をひけらかし、華麗に音楽を奏でたいという欲望に抗うのが難しいであろうところ、彼は禁欲的に音楽の本質に迫って行く。その姿に人々は大きな感動を覚えるのである。ブラームスのコンチェルトはもちろん名曲中の名曲であるのだが、カヴァコスの手にかかると、初めて耳にするような新鮮さをもって響く。暗い音楽にはなっていない。だが、破裂する歓びでもない。音の線を情緒的にならずに、集中力をもって紡いで行くうち、作曲者が創造したかったであろう、厳しくも純粋な音楽が響き出すのだ。凡庸な才能がこの方法を真似ると、多分聴くに堪えないものになるであろう。このような演奏を聴くと、音楽の本当の深みというものを思い知るのである。私の知る限り、ニコライ・ズナイダーという、カヴァコスより少し若いデンマークのヴァイオリニストも、彼に近い音楽性を持っているように思う。彼らのような音楽家が21世紀を作って行くのである。また今回のカヴァコス、興味深かったのは、第1楽章でも第2楽章でも、自分のソロが始まるまでは指揮者の隣でオケの方を向き、じっとその演奏を見守っていたことで、第2楽章で有名なソロを吹くオーボエ奏者の女性などは、緊張してしまうのではないかと思ったが、素晴らしく伸び伸びと吹いていた。これもカヴァコス流のオケとの一体感の成果なのかもしれない。一方で、アンコールで演奏したバッハの無伴奏ソナタ2番のおなじみのアンダンテ楽章では、古雅な響きの中、孤独と向き合う強い個が感じられた。これはリーダーとしての資質とも言えるのではないか。つまり、最近彼が行っているという指揮活動にも活きるものではないかと思った。もっとも、率直なところ、ヴァイオリン主体で演奏活動を続けて欲しいと思いますが。指揮者は既に沢山いるので(笑)。

このような盛り沢山の演奏会、終演時刻は開演から3時間後の22時であった。つまり、やはり通常のコンサートより1時間程度長かったことになる。PMFの一連のコンサートスケジュールを見てみると、8/4(木)には千歳で、8/8(月)には函館で、メンデスルゾーンとショスタコーヴィチだけで演奏会が開かれている。これは普通の演奏時間、つまりノーマル・ヴァージョンだ。では、ブラームスのコンチェルトの入ったロング・ヴァージョンが東京だけで演奏されたかというとさにあらず、8/7(日)のピクニックコンサート(上に写真を掲げた野外ステージが会場)では、12時から散々いろいろな曲が第1部で演奏されたあと、15時30分から第2部として、なんとこのロング・ヴァージョンのプログラムがまるまる演奏されたようだ。もちろんソリストはカヴァコス。大きな会場では彼のヴァイオリンの機微が充分聴き取れたか否か分からないが、まあいずれにせよ大変な体力を要するコンサートであったわけだ。超人的な音楽的体力を持つ芸術監督ゲルギエフに引率され、この音楽祭がますます発展して行くことを祈ろう。

そしてゲルギエフとは、10月のマリインスキー劇場の来日公演で再会の予定。今から体力を蓄えておかないと。
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by yokohama7474 | 2016-08-10 00:59 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

ラデク・バボラーク指揮 日本フィル (ピアノ : 仲道郁代) 2016年8月7日 ミューザ川崎シンフォニーホール

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8月である。夏である。猛暑である。こんな日にクラシックの演奏会なんて、昔はなかったと思う。ちょっと外を歩くだけで汗が噴き出し、意識が朦朧とする。絶えず水分を摂取しないと熱中症になってしまう。こんなときにオーケストラの音楽を聴くなんて、全く考えられない。特に日本はこの湿気である。湿気の少ない本場欧州では、大小様々な夏の音楽祭が開催され、メジャーどころでは、バイロイトとかザルツブルクとかルツェルンで世界の名演奏家が一堂に会し、紳士淑女が集って華やかな雰囲気である。だが日本の夏は全く音楽に適していないし、そもそも外出に適していない。ところがこのコンサートはどうだ。上のポスターの表示をご覧頂きたい。11:00開場、17:00終演予定とあるではないか!! 演奏会の所要時間は普通2時間程度なのに、開場から終演まで実に6時間とは、これは一体どういうことか。あまりの暑さに、主催者が間違った情報を掲載してしまったのか?!

JR川崎駅直結で交通至便のミューザ川崎シンフォニーホールは、日本でもトップクラスの音響を誇る素晴らしいホール。そこを本拠地としているのは、東京交響楽団(通称「東響」)だ。実は今そのホールに、東響以外にもすべての在京のメジャーオーケストラが入れ替わり立ち代わり演奏会を行うという大変な内容の音楽祭が開かれているのだ。題して、フェスタサマーミューザKAWASAKI2016。音楽都市を標榜する川崎市の主催によって、7月23日(土)から8月11日(木・祝)までの間に14回のコンサートが行われる。その中には、世界的な指揮者も出れば学生オケやジャズもあり、家族向けの映画音楽の演奏会もある。これはなんと意欲的な催しではないか。会場のミューザの入り口にはこのような表示が。暑い夏に爽やかな青が涼しげである。キャッチフレーズは、「最響(さいきょう)の夏!」というもの。しかもこのシリーズ、ほとんどのコンサートが最高席でも4,000円というリーズナブルな設定で、しかも小学生から25歳までは半額!とのこと。この価格設定なら、いくら外が暑くても、家族でちょっとオーケストラでも聴きに行こうかという気になるもの。リオ・オリンピックも、時差の関係で日本の昼間には生放送がないし(笑)。
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その音楽祭に今回登場したのは日本フィルハーモニー交響楽団(通称「日フィル」)。指揮台に立つのは、ラデク・バボラーク。そんな指揮者聞いたことないぞという方もおられるかもしれない。こんな人だ。
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おっと、ここでは指揮しているのではなく、ホルンを吹いていますね。そういえば、上に掲げたこのコンサートのポスターでも、ホルンを抱えた写真が使われている。そうなのだ、このバボラーク、もとベルリン・フィルの首席で、文字通り世界トップのホルン奏者。このブログでも、NHK交響楽団との協演や、サイトウ・キネン・オーケストラでの演奏をご紹介した。いや実際のところ、21世紀は始まってから未だ20年も経っていないが、恐らくこの人がこの21世紀を代表するホルン奏者としての評価を確立するのはほぼ確実であろうと既に思われるくらい、すごい人なのだ。だが今回は、ホルンを指揮棒に持ち替えての演奏。調べてみると、指揮活動もそれなりに行っているようで、故郷のチェコで自ら創設したチェコ・シンフォニエッタを定期的に指揮しているほか、2013年10月には水戸室内管弦楽団への客演で、既に日本で指揮者としてデビューしている。だが、今回のようなフル・オーケストラを指揮する機会はこれまでにどのくらいあったのだろうか。1976年生まれ、今年40歳と未だ若いバボラーク。今回の日フィルとの協演はこの日のみで、ちょっと調べた範囲では、日本の地方オケを振るとか、ホルンリサイタルを開く様子はない。ただ、今年もこのあと、セイジ・オザワ・フェスティヴァルにホルン奏者として出演するようなので、その前に早めに来日して、このような指揮活動の機会を得たということなのだろう。気になる曲目はこちら。

 ウェーバー : 歌劇「魔弾の射手」作品77序曲
 クーラウ : ピアノ協奏曲ハ長調作品7 (ピアノ : 仲道郁代)
 ベートーヴェン : 交響曲第3番変ホ長調「英雄」作品55

これを見てすぐに思いつくのは、最初と最後にホルンが活躍する曲を選んだのだなということ。日フィルのホルン奏者の皆さんは、いかに腕に覚えがあっても、指揮台から見ているのがほかならぬホルンの超人バボラークだと思うと、さすがに緊張なさるのではないか(笑)。指揮棒を持ったバボラークの写真。
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そしてこの川崎での音楽祭には大変ユニークな点がある。それは、一部のコンサートで当日のリハーサルが公開されるということだ。今回はまさにそれ。なるほど、これで冒頭ポスター記載の開場時刻と終演時刻の謎が解けた。今回は、11:00に開場。リハーサルが11:30から始まり、13:30に終了。その1時間後、14:30に演奏会が開場し、15:00開演、終了が17:00頃ということだ(実際の終演は17:15頃になったが)。これはつまり、昼前から夕方までの半日、生の音楽を楽しめるということ。素晴らしい企画ではないか。当日のリハーサルなので、実際にはほぼゲネプロ(ゲネラル・プローベ=本番前の通し稽古)で、それを2時間も行うということは、これは聴衆にとっては、一日に同じ演奏会を2回行くのにほぼ等しい。ちょっと疲れてしまうが、音楽作りの過程を垣間見ることができて、大変興味深い経験である。

さてリハーサルは、最初の序曲と2曲目の協奏曲は全曲を通して演奏した後、ごく一部だけを確認の意味でさらってみるという感じ。メインの「エロイカ」はさすがに長いので全曲ではなく、各楽章の冒頭から始め、途中で割愛しながら進めて行くというスタイルで、この曲だけは同じ箇所を何度も繰り返して練習していた。自由席であったので、なるべく指揮者の言葉が聞き取りやすい席についたつもりだったが、バボラークの声は小さく、また、リハーサルとはそんなものなのだろう、聴衆に聴かせることを目的としていないので、ほとんど聞き取れない。だが、例えば「エロイカ」では、第1楽章では副声部のリズムの刻みを気にしたり、第2楽章葬送行進曲で、書いてある音符が少ない箇所でも同じテンポで通せ、そうでないと自然に遅くなってしまう、という指示をかなり執拗に行っていたので、バボラークの目指すベートーヴェンは、大交響曲の表現としてありがちな情緒的な側面の強調を避け、基本的にインテンポで進めるものなのであろうと想像できた。

さて、プログラム3曲のうち、どうしても最初に触れたいのは、中間に置かれたフリードリヒ・クーラウのピアノ協奏曲だ。私がこの演奏会に行くことを決めたとき、曲目に「クーラウ : ピアノ協奏曲」とあって、知らない作曲家の名前であったので、現代曲かと思っていた。するとなんとなんと、古典派から初期ロマン派に分類される、古い時代の作曲家であったのだ。これは珍しい。クーラウは1786年生まれで、プログラムには「ベートーヴェンとほぼ同世代の作曲家」とあるが、ベートーヴェンより16歳年下。もっと生年の近い作曲家はいないのかと思うと、これが、今日の1曲目の作曲家、ウェーバーが全く同い年だ。そうすると、この組み合わせもバボラークの考え抜かれた作戦だろうか。このクーラウ、ドイツ人だがのちにデンマークに居を移したという。10歳のときに井戸に落ちて片目を失明したそうだが、この肖像画を見ても、確かに隻眼だ。
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さてこのピアノ協奏曲、1810年の作というから、作曲者24歳の若書きである。どんな曲かというと、実はクラシックファンの方なら誰でも、冒頭を聴いた瞬間にアッと思うはず。ある有名なピアノ協奏曲にそっくりなのだ。それはほかでもない、上で名前の出たベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番 (1801年出版)。聴き進めて行くうちにビックリはさらに続き、第2楽章では、抒情的な導入部からクラリネットソロの表情もそっくり。第3楽章はピアノの舞曲風のソロで始まるところがそっくり。盗作かパロディではないかと思われるほどだ。こんな面白い曲、誰が見つけてきたのだろう。会場で配布されたプログラム(ペラペラの質素なものだが)には「日本初演!?」と書いてあって、本当にそうなのか否かは確認が取れていないのかもしれないが、その可能性はあるのではないか。今回ソリストを務めた仲道郁代の言葉が掲載されているので、一部引用しよう。

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クーラウの作品は、「ソナチネ」など子どものための曲集では有名ですし、私も弾いたことがありますが、演奏活動を始めてからは彼の作品に取り組む機会はありませんでした。ですから、今回オファーをいただいた時は、クーラウがピアノ協奏曲を書いていたことを知らなかったこともあり、とても驚きました。(中略) どうにか手に入れた楽譜を見てみると、さらにビックリすることが起こりました。ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第1番」のアイディア、調性の変化など、今の時代だったら「真似した」と思われてもおかしくないほどに似ているのです! (中略) 弾いていると思わずベートーヴェンの協奏曲にスイッチしてしまいそうなほど似た部分だらけなのですが、テクニックそのものはかなり違うと思います。クーラウの協奏曲はとても軽やかな作品です。(後略)
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その後の仲道の発言は、ベートーヴェンには頑固なところがあるが、クーラウは自然に流れて行くという違いがあるという点にも触れている。私はこの人のピアノをいつも素晴らしいと思っているのだが、彼女の強みのひとつは、このような平易な語り口ではないだろうか。ベートーヴェンの後期のソナタなどは当然のようにシリアスに弾ける人でありながら、一方で、多くの人に親しみを与えつつ音楽の間口を広げる活動も続けていることは素晴らしい。
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そして今回のクーラウの演奏。協奏曲でありながらピアノの前に譜面を置き、譜めくり担当者までつくという異例の事態ではあったものの、大変に溌剌とした涼やかな演奏であった。見ていると両手の交錯もあり、ピアノの華やかな効果をまさに「自然に」発揮するような曲であり演奏であったと思う。仲道はまた、リハーサル時には冒頭のオーケストラの序奏部分もピアノでなぞっており、本番の際にはそれはなかったが代わりにピアノの前で指揮するような身振りを見せ、オケとの一体感を自ら作り出していたと思う。来年、なんとデビュー30周年ということで(女性に対して年齢の話は失礼とは言うものの、昔から本当にお変わりなく、とても私より2つ年上とは思えないですな!)、これからも沢山のコンサートを開いて行くようだが、日本の中だけではなく海外でも積極的に活動して欲しい。

さて、そんなことで、珍しい協奏曲を知った嬉しさに駆られて、帰宅してから調べてみると、数は少ないがいくつかは録音もあることが判明。もう一度自宅で聴き直し、クーラウのベートーヴェンへの思いを追体験することとしたい。私はピアノは弾けないが、曲を口ずさんでいるうちに、自然とベートーヴェンの曲にスイッチするかもしれない(笑)。

バボラークの指揮ぶりについて少し語ろう。リハーサルで「魔弾の射手」序曲が始まったときにすぐ思ったのは、大変どっしりと構えて丁寧に音を紡いで行くタイプだなということであった。初顔合わせの日フィルの面々も、非常に繊細に指揮に反応し(もちろん昨日までにも練習所でリハーサルをしているはずだし)、普段あまり演奏する機会のないホールでの素晴らしい音響を楽員たち自身が楽しむような印象であった。序奏のすぐあとに出てくるホルンは、リハーサルでは冒頭だけ少し危なげであったが、本番ではバッチリ決まって、バボラークもこれなら満足だろう。ドイツの深い森を思わせるこの曲の魅力を再認識させるような美しい演奏であったが、惜しむらくは、終結部手前で一旦オケが沈黙してから一気に雪崩れ込む直前で数人、フライングの拍手が出てしまったこと。日本の聴衆の質は非常に高いのだが、曲の終わりに自信のない方は、周りを見てから拍手するようにしましょう(笑)。

メインの「エロイカ」だが、一家言のある演奏であったことは確かだが、一方で課題も感じた。テンポはかなり遅めで、全体としては昨今流行りの古楽風の疾走感はない。ヴァイオリンの対抗配置も取らず、第1楽章提示部の反復もない。そして、これは最近ではかなり珍しいことだと思うが、第1楽章終結部手前の例のトランペットの「行方不明」の箇所(本来高らかに英雄のテーマを吹き鳴らすはずのトランペットが途中で沈黙してしまう)では、昔の演奏さながら、トランペットは行方不明にはならず、堂々とテーマを吹いていた。リハーサルで見た通り、バボラークは過分にロマンティックな表情づけを行わないものの、一方では無機質な硬直した音楽を避けるべく、各楽器同士の絡み方には繊細さを求めていて、音楽の盛り上がりにも敏感な指揮ぶりであった。だが、オケと初顔合わせということもあり、融通無碍とは言えなかったように思う。以前にも書いたことだが、ベートーヴェンの演奏で「静かだな」と思うと、大抵は失敗した演奏になるのだが、今日は何度か静かな瞬間があったと私は思う。音そのものの精度は高かったが、全体の流れの中で、指揮者の目指す独自のベートーヴェン像がそこに立ち現れたかというと、残念ながらそうではなかったと思う。だが、人間の営みである音楽では、もちろんこのようなことも起こるわけで、またバボラークの指揮を聴いてみたいと思う。あ、それから、是非ホルンの演奏活動もアグレッシブに続けて行って頂きたい。この写真のように、二刀流で(笑)。
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冒頭に述べた通り、欧州ではバイロイトやザルツブルクやルツェルンで音楽祭が開催されているこの夏の時期、本来ならそれらの音楽祭に参加していても何の不思議もない大ホルン奏者が指揮棒を持って炎暑の東京(正確にはその近郊だが 笑)で音楽を奏でているとは、思えば大変なことである。川崎市には、また来年も面白い企画をお願いしたいものであります。知られざる作品にも大いに興味ありです。

by yokohama7474 | 2016-08-07 23:54 | 音楽 (Live) | Comments(0)