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ステファン・ブルニエ指揮 読売日本交響楽団 (ヴァイオリン : ルノー・カプソン) 2018年 3月16日 サントリーホール

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この演奏会の記事の始まりは、あらかじめ決まっていた。それは、「今回読売日本交響楽団 (通称「読響」) に登場した指揮者には、なんと、名前がないという。いや、正確には名無しである。もっと正確にいうと、ナナシという名前なのである」というもの。1975年ハンガリー生まれのヘンリク・ナナシという指揮者が登壇するはずであったからだ。いやもちろん、その名前が日本語で若干奇異に響くからといって、指揮者としての能力にいささかの関係もあるわけではない。現在ベルリン・コーミッシェ・オーパー (もうすぐ面白そうな「魔笛」を持って日本公演を行う) の音楽監督の地位にあるというこの指揮者に、期待を持っていた。ところが、つい最近になって、何やら体調不良とかで来日中止。そして登場したのは、これもまた未知の指揮者、1964年にスイスのベルンに生まれた、ステファン・ブルニエという人だ。
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マンハイム歌劇場やダルムシュタット州立歌劇場のポストを経て、2008年から 2016年まではボン市 (もちろんベートーヴェンの生地である) 音楽総監督を務めたという。オペラ、コンサートの両面で、主にドイツで活躍しているらしく、バイエルン放送響、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管、あるいはハンブルク歌劇場やフランクフルト歌劇場で指揮を採り、昨年はベルリン・ドイツ・オペラで、R・シュトラウスの「サロメ」で好評を得たという。また、日本では 2016年に京都市響の年末の第九を振ったりもしているようである。今回が読響との初共演とのことだが、その主要レパートリーは、ブゾーニ、ツェムリンスキー、シュレーカーといった 19世紀末から 20世紀にかけての作品で、現代作品も積極的に採り上げているという。うーむ、なるほど。これはなんとも最適な代役が見つかったものだ。なぜなら、今回もともと予定されていた曲目は以下の通りで、指揮者の変更にもかかわらず、曲目の変更はなかったからだ。
 モーツァルト (ブゾーニ編) : 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」序曲
 ブゾーニ : ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品35a (ヴァイオリン : ルノー・カプソン)
 R・シュトラウス : 交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」作品30

最後の「ツァラトゥストラ」はともかく、前半の 2曲をレパートリーとしている指揮者はそうそう多くないだろう。そもそも、ここで編曲者・作曲者として名前が出ているブゾーニとは何者か。それは、イタリア生まれの作曲家、フェルッチョ・ブゾーニ (1866 - 1924) だ。
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イタリア人でありながらドイツで半生を過ごした人で、バッハ作品の校訂でも知られるが、日本ではあまりなじみのない名前かもしれない。かく言う私にとっても決してなじみの作曲家ではなく、ムーティが録音している「トゥーランドット」組曲などの管弦楽曲をいくつかと、オペラ「ファウスト博士」、それから、大規模なピアノ協奏曲くらいしかイメージがない。だが、今回最初に演奏された「ドン・ジョヴァンニ」序曲の彼による編曲版は過去に実演で 2度聴いている。1度目は、このブゾーニのピアノ協奏曲が 2001年にマルク=アンドレ・アムランによって日本初演されたときのコンサートで、沼尻竜典指揮東京フィルで。2度目は、2016年のズービン・メータ指揮のウィーン・フィルで。こちらの演奏はこのブログでも採り上げた。この版は、終結部に騎士長の登場の音楽と、オペラの終曲を足してある。このオペラでは、最後に主人公ドン・ジョヴァンニの地獄落ちがあって、そのあとに若干取ってつけたように明るく道徳的な六重唱が続くのであるが、ブゾーニが活躍していた頃は、その六重唱がカットされて上演されることが普通であったところ、彼は序曲にそれを継ぎ足して、ある意味の原点主義を示したわけである。今回のブルニエの指揮は、充分な迫力と曲想の変化への対応を示すもので、なるほど、ドイツでの活躍もよく分かる気がした。

さて、2曲目のブゾーニのヴァイオリン協奏曲であるが、これは私もなじみがないものの、確かどこかに CD があったはずと思って探してみると、ありましたありました。だがそれは大変古いもので、ジークフリート・ボリスのソロと、セルジュ・チェリビダッケ指揮ベルリン・フィルによる 1949年の録音。最近の録音がどのくらいあるのか知らないが、演奏頻度は大変低いことは間違いがない。今回、そんなマニアックな曲を演奏したのは、1976年生まれのフランスの名手、ルノー・カプソンである。
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彼の演奏は以前も採り上げたことがあるが、フランス人らしく大変に美麗な音を鳴らす人である。今回のこの珍しいレパートリーでもそれは変わらず、特に冒頭など、本当に美しい音色を聴かせてくれた。このコンチェルトは単一楽章の 25分ほどの曲で、決して難解な音楽ではないが、やはり少し渋い曲ではある。曲想には、ときにベートーヴェンのコンチェルトやチャイコフスキーのコンチェルトを思わせるものが瞬間的に出て来るが、そのような瞬間を含め、この曲ならではの蛇行性といったものを、カプソンのヴァイオリンがよく紡ぎ出していて、なかなか説得力のある演奏であった。ブルニエの伴奏も、この曲を熟知しているのだろう、読響の力を充分に出しながら、ソリストに華を持たせていたように思う。大変貴重な経験をさせてもらった。アンコールとしてカプソンが弾いたのは、グルックの「精霊の踊り」であったが、大変ゆったりとしたテンポであったので、この曲であると理解するには少し時間がかかった。ホールの発表によると、これはカプソン自身の編曲によるもの。なるほど、独自の美意識によるグルックであった。

休憩後のメインは、これはよく知られたリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラ」である。そもそもブゾーニとシュトラウスは同世代 (シュトラウスが 2歳上)。ブゾーニのヴァイオリン協奏曲が 1897年の作であるのに対し、この「ツァラトゥストラ」は 1896年の作と、ほぼ同時期。つまり今回の演奏会では、19世紀末の雰囲気がぷんぷん漂っていたわけである。ブルニエはかなり恰幅のよい人だが、その身振りにはおよそ無駄がない。この複雑なスコアを見事に整理して、有名な冒頭部分の迫力から、精緻な音、叙情的な音、追い込みをかける音などを引き出していた。金管も概して好調で、ダイナミックであった。ただ、時に通常よりも少し早めの箇所もあり、若干の慌ただしさを感じる場面はあったが、そこには恣意性はあまり感じられず、指揮者の美感に基づく演出であったと思う。今回のコンサートマスターは日下紗矢子であったが、いつもの通り、過剰な表情づけを避けながらも、スタイリッシュな音で鮮やかなソロを聴かせた。
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このように、突然の代役による初顔合わせの指揮者との演奏は、なかなかの充実ぶりであった。これぞまさしくプロの技。同じホールで連続して外来の名門オケを聴いた身でも、読響の個性を味わうことができて、嬉しく思ったものである。意欲的な曲目を含め、今後も読響の活動には注目したい。

by yokohama7474 | 2018-03-17 02:52 | 音楽 (Live) | Comments(2)  

トゥガン・ソヒエフ指揮 トゥールーズ・キャピタル国立管弦楽団 (フルート : エマニュエル・パユ) 2018年 3月15日 サントリーホール

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2日続いたニューヨーク・フィルの演奏会に続き、しかも同じ音楽事務所 KAJIMOTO の主催により、今回サントリーホールのステージに登場したのは、フランスのトゥールーズ・キャピタル国立管弦楽団と、その音楽監督、北オセチア出身のトゥガン・ソヒエフである。一般的な知名度からすればもちろんニューヨーク・フィルには遠く及ばないオケではあるが、私にとってはこれは必聴のコンビである。そして、まずは結果から書いてしまうと、今回のコンサート、それはもう本当に素晴らしい内容で、改めて、このコンビの演奏を数年に一度は聴くことができる我々東京の聴衆は幸せなのであると、実感する機会となった。2日前のニューヨーク・フィルのコンサートと同様、今回も作曲家タン・ドゥンの姿を会場で見かけたが、きっと彼もこのコンサートを楽しんだことであろう。

まず指揮者について簡単に触れると、1977年生まれで現在 40歳のトゥガン・ソヒエフは、2008年以来このオケの音楽監督で、私も過去に何度もこのコンビでの来日公演を聴いてきたし、このブログではまた、NHK 交響楽団やベルリン・ドイツ交響楽団を指揮した演奏会を採り上げ、その中で、いかに私がこの指揮者に心酔しているかを述べた。指揮者で 40歳と言えば、まさにこれからという年代であるが、彼は既にそのスタイルを確立しており、その音楽の説得力は極めて高い。シカゴ響、フィラデルフィア管、ロンドン響、ウィーン・フィル、ベルリン・フィルといった世界トップクラスのオケとも定期的に共演しており、文字通り世界で最も活躍している中堅指揮者のひとりである。このトゥールーズ・キャピタルのポスト以外に、昨年までベルリン・ドイツ響の首席指揮者を務め、また、日本では未だにオペラの実演に触れる機会がないが、2014年からはモスクワのボリショイ劇場の音楽監督でもある。
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彼と手兵トゥールーズ・キャピタル国立管の演奏会では、ロシア物とフランス物がいつも中心になっているが、今回の来日でも、5公演で用意されたプログラムは 2種類 (そのうち 4公演が今回と同じプログラム)。すべてロシア物かフランス物である。今回のサントリーホールでの演奏会はその最初のもので、曲目は以下の通り。
 グリンカ : 歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲
 ハチャトゥリアン (ランパル編) : フルート協奏曲 (フルート : エマニュエル・パユ)
 チャイコフスキー : バレエ音楽「白鳥の湖」から

まず最初の「ルスランとリュドミラ」からして、その音色の美しいことに驚く。ソヒエフのテンポは中庸のものであり、この急速に駆け抜ける爽快感が際立った名曲に向き合っても、決して鬼面人を驚かす演奏を指向することはない。その一方で、疾走感は充分であって、目まぐるしく代わる主役の楽器も、まさに弾けるような喜びに満ちている。ここに我々が聴き取ることができたのは、美しく個性的な音色を大事にしながら鍛錬を重ねたオケと、その特性を充分に発揮する術を心得た指揮者の幸せなコンビネーションである。つまり、一部の通だけが分かる演奏ではなくて、聴いている誰もが、「ああ美しい」「ああ楽しい」と思うことのできる演奏であった。

そして 2曲目にソリストとして登場したのは、ベルリン・フィルの首席フルートとして同楽団の顔でもあるスイス人フルーティスト、エマニュエル・パユである。若い頃からイケメンの天才という印象であるが、既に 48歳。外見も渋みを帯びてきた。
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ここで彼が披露した驚異の演奏は、ハチャトゥリアンのフルート協奏曲。アルメニア出身の作曲家ハチャトゥリアンは、誰もが知る「剣の舞」で有名であるが、彼がフルート協奏曲を書いているとは、聞いたことがない。それもそのはず、この曲は、もともと彼のヴァイオリン協奏曲をフルート用にアレンジしたもの。私はこのヴァイオリン協奏曲は結構好きで、第 1楽章冒頭の、まるで馬に乗ってひたすら駆けて行くかのようなワイルドな音楽や、第 3楽章の、今度は馬が上下に飛び跳ねるような音楽を、知らず知らず口ずさんでいることがある。いや、正確には胸のうちで口ずさんでいるだけで、声に出して歌うことなど、できるわけもない (笑)。そんな曲をフルートで吹く??? 誰がそんな無謀なことを考えたのか。その犯人 (?) は、20世紀最高のフルート奏者であったフランスのジャン=ピエール・ランパル (1922 - 2000) である。
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実は私の手元には、このランパルの大規模なアンソロジー CD がある。3セットに分かれていて、合計 53枚に上る。これはこの偉大なフルーティストの全貌に迫りたくて購入したものだが、残念ながら未だに封も切っていない (笑)。この機会にそのセットを調べてみると、ありましたありました。ランパル自身のフルート、ジャン・マルティノン指揮のフランス国立放送管の演奏で、このコンチェルトの録音が。それは改めて聴いてみたいが、いやそれにしても今回のパユである!! 低めの音で民俗的な旋律を唸るように歌う箇所から、まるでピッコロのように高音を空気に突き刺す箇所まで、自由自在。聴衆は皆あっけにとられて呆然自失である。これは見事としか言いようがない。ソヒエフとトゥールーズ・キャピタルの伴奏がまた、無類のニュアンスに富んだ、これまた変幻自在なもの。この曲の持つエネルギーと抒情性を、隈なく表現しきった。これは大した聴き物であったが、ひとつ不思議なことがあった。今回パユは、譜面台にタブレットを置いて、それを見ながら演奏していたが、そのタブレットに触れる気配が一切ない。実際に視線はかなりの時間タブレットに行っていたので、見ていたことは間違いないのだが、一体どのようにして譜面を見ていたのか。実はその謎はあとで解明したので、しばらくご辛抱を。パユはアンコールとして、ソロ・フルートの定番、ドビュッシーの「シリンクス」を演奏したが、これもニュアンスあふれるものであった。

後半に演奏された「白鳥の湖」は、つい先ごろも東京シティ・バレエ団の公演で大野和士指揮東京都響の演奏による全曲を経験したばかり。今年は近い時期に同じ曲目に接する機会が多い。だが今回はもちろん全曲ではなく、12曲を選んで演奏する 45分ほどのヴァージョン。誰の手による選曲であるのか明記はないが、ソヒエフは 2016年に N 響でもこのヴァージョンで演奏しているようなので、きっと彼自身による選曲なのであろう。実際のバレエの冒頭部の音楽で始まり、終結部の音楽で終わる、一種のシンフォニーのようにすら聴こえる音楽で、一部順序の変更はあるものの、おおむね原曲の順番に従っている。さて、この演奏をどのように表現しようか。指揮棒を使わず素手で指揮したソヒエフは、まさに魔術的手腕を発揮したとしか言いようがない。彼の指揮ぶりを見ていると、そこで実際に鳴っている音との密接な関連を見て取ることができるのだが、これは指揮者なら誰でも目指すものでありながら、実際に達成できる人はそうはいない。この旋律美とドラマ性に溢れた稀有なる名曲が、こんなに劇的に、こんなに楽しく、こんなに表情豊かに演奏されるとは。耳に残った個々の箇所を記憶で再現しようかとも思ったが、長くなるし、文章で書いても伝わらないと思うので、やめておこう。無限のニュアンスに満ちた音楽は、すべての人たちを魅了するものであった。アンコールには、「カルメン」前奏曲が演奏されたが、これはよくあるような派手な効果を狙った雑な演奏ではなく、実に丁寧で美しい演奏であった。そう、すべてはこの指揮者とコンビの美感が明確に現れた演奏で、揺るぎない個性がそこにはあった。そして、楽員たちの表情を見ていても、アイコンタクトがあったり笑顔があったり、あらゆる場所で実にスムーズなコミュニケーションがなされていた。ここで直前に聴いた、ヤープ・ヴァン・ズヴェーデンとニューヨーク・フィルの演奏と自然に比較してしまうのだが、そちらが究極のプロフェッショナルで強烈な演奏であったとすると、こちらは、表現力ではひけを取らないものの、もっと緩やかでハートウォーミングなもの。どちらがよいと一概に言えるものではなく、どちらも素晴らしいのだが、そのような違った個性の世界クラスの演奏をとっかえひっかえ楽しめる東京の聴衆は、本当に恵まれていると思うのである。

さて、実は今回、終演後に隣接の ANA インターコンチネンタルホテルで開かれたレセプションにこっそり忍び込んだ、あ、いや、そうではなくて、幸いなことに、正式に招待を受けて参加した。そこで、ソヒエフから興味深い話を直接聞くことができたので、ご紹介したい。まず、彼がほかの人との話が済んだところにすかさず入り込み、まずは「あなたの音楽の魔法を心から愛しています」と自己紹介。コイツ何者だ、と若干怪訝な顔をされたものの、このトゥールーズ・キャピタルやベルリン・ドイツ響、あるいはボリショイと、それぞれのオケの違いをどう考えているか訊いてみたところ、「それぞれのオケには個性があって、その違いが面白い」という、まあ予想通りの答えであったので、一歩踏み込んで訊いてみた。
私「NHK 交響楽団はどうですか」
ソヒエフ「(真剣な顔つきになって) NHK の素晴らしいところは、過去の楽団の歴史をそこに残しているところです」
私「それは、例えばドイツ音楽の伝統があって、そこにフランスの味が加わり、そしてさらにグローバルになっているということですか?」
ソヒエフ「(うなずいて) その通りなんです。実はそのような、楽団の歴史が音に残っているような例は、ヨーロッパでは減っています。N 響はその点、技術が高いだけではなく、自らの伝統に敏感である点、素晴らしいと思うのです」
私「最近では『イワン雷帝』、Enjoy しました」
ソヒエフ「(表情を輝かせて) ああ、聴いて頂いたのですね!! カタオカさんとの演奏!!」
私「そうです。アイノスケさん、よかったですね。ところでマエストロはマーラーは指揮されますか」
ソヒエフ「もちろん」
私「日本で指揮されたことは?」
ソヒエフ「(ちょっと考えて) うーん。ないと思います。やりたいですね」
私「是非是非!! 8番、やって下さい!!」
ソヒエフ (満面の笑み)

というわけで、N 響の関係者の方、もしこれをご覧になっていたら、私の方で勝手に曲目を決めさせて頂きましたので、あとはよろしくお願い申し上げます (笑)。

それから、またきっかけを見て今度はパユに接近。ちょっと割り込み気味に、タブレットを見ながら演奏していたのに、なぜ画面に触れていなかったのか、訊いてみた。答えは「ペダル」とのこと。なんと彼は、演奏しながら足でペダルを踏んで、タブレットに表示された譜面をめくっていたのである!! 足元までは見なかったので全く気付かなかった。そう言えば以前、神尾真由子がリゲティのヴァイオリン協奏曲を演奏したとき、演奏中にしきりに何か踏んでいるのを怪訝に思ったが、あれも同じだったのかもしれない。なるほど、そうするとそのうち指揮者も、譜面台に巨大タブレットを置いて、指揮台の上で時々ペダルを踏むような日が来るのだろうか。だがそうなると、ピアニストは不利だなぁ。ピアノのペダル以外にもう 1個ペダルがあると、技術的難易度は上がりますよね。・・・と、既に深夜に至っているのにくだらないことを書いているのはやめにして、このあたりで終わりにします。今回の演奏会、見たところ 7割かそれ以下の聴衆の入りであったが、このコンビの演奏は必聴であるということを、クラシックファンの方々には強く主張して、この記事の結びとしましょう。

by yokohama7474 | 2018-03-16 01:25 | 音楽 (Live) | Comments(2)  

ヤープ・ヴァン・ズヴェーデン指揮 ニューヨーク・フィル (ヴァイオリン : 五嶋龍) 2018年 3月14日 サントリーホール

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名門オーケストラ、ニューヨーク・フィルと、今年の秋から新音楽監督に就任するオランダ人指揮者のヤープ・ヴァン・ズヴェーデンの来日公演の東京での 2日目の公演。前日に続き、これも大変に興味深プログラムである。
 メンデルスゾーン : ヴァイオリン協奏曲ホ短調作品64 (ヴァイオリン : 五嶋龍)
 マーラー : 交響曲第 5番嬰ハ短調

今回のニューヨーク・フィルの日本での演奏会は全部で 4回。3/11 (日) 京都、3/13 (火)、14 (水) 東京、3/15 (木) 名古屋である。このうち、前回の記事でご紹介したユジャ・ワンが登場するものはその 1回のみ。また、マーラー 5番が演奏されるのはこの 3/14 (水) の演奏会 1回のみ。京都と名古屋では、「春の祭典」がメインで、最初にオランダの作曲家ワーヘナールの序曲「シラノ・ド・ベルジュラック」が演奏されるが、この曲は東京では演奏されない。そんなことで、4回の演奏会のうち 3回でメンデルスゾーンのコンチェルトを弾くのは、人気ヴァイオリニストの五嶋龍だ。子供の頃から活動しているが、今は 29歳。「既に」と言ってよいのか、「未だ」と言うべきなのか、ちょっと迷ってしまうのだが・・・。因みに今回がニューヨーク・フィルとの初共演だという。
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あの偉大なるヴァイオリニスト、五嶋みどりの弟というだけで、普通の人間ならそのプレッシャーに耐えられないくらいだと思うが、彼の場合は本当に、そんなプレッシャーを感じている気配はほとんど感じられない。実に自然に自分の音楽を追求してきていているのはもちろん、米国生まれの米国育ちだから当たり前かもしれないが、自分の言葉でしっかり意見を言うことを、なんら特別ではなく当然の行為として行うことのできる、素晴らしい好青年でもある。ちょうど先日、昨年 NHK の「日曜美術館」でアンドリュー・ワイエス (朝霞市での展覧会をこのブログでも採り上げた) を特集した番組の再放送を見て、改めてそのことを実感した。今回の演奏会に登場したのは、前日のユジャ・ワン同様、日本では未だ一般的な知名度が低いと思われる指揮者にも関わらず、絶対的な集客力のあるソリストであるからだろう。そして曲目は、決してリゲティやユン・イサンではなく (笑)、極めてポピュラーなメンデルスゾーンである。会場で販売されているプログラムに、この曲についての五嶋のこのような発言がある。

QUOTE
誰もが弾く名曲中の名曲というやつで、すぐに『またか!』と言われかねない。(中略) 僕も『ああ嫌だ、もう弾きたくない!』と思っていました。でも最近になって、20年間この曲の真意を理解していなかったことに気づいたのです。(中略) 初めて弾く曲のように、新鮮な眼差しで楽譜に向かってみたのです。クラシック音楽に対する自分の想いの原点のようなものに立ち戻ることができて、作品を演奏することの意味について色々考えることができました。
UNQUOTE

なるほど今回の演奏、この曲にありがちな感傷を排し、それこそごく自然に、音楽の流れを描き出したものだったと思う。美麗な曲想を過剰なヴィブラートで飾ることもなく、シンプルに弾き通したような印象で、もしかすると、ちょっとそっけないという感想を持った人もいたかもしれない。この曲は、同じくポピュラーなチャイコフスキーのコンチェルトに比べてもさらに、最初から最後までヴァイオリンが休む箇所がほとんどないほど忙しく演奏するのだが、あまり甘ったるく演奏すると、ちょっとうんざりしてしまうことになる。私の勝手な理解では、きっと五嶋が最近見つけたこの曲の真価はそこにあるのではないだろうか。素晴らしいと思うのは、いかに彼自身が様々な発見を経て演奏スタイルを決めたとしても、弾いている姿はごくごく楽し気であるというとだ。どうも我々の日常は、回りを気にしたり、何かをやっているふりをしたり、そんなことが少し多くはあるまいか。ある場合には忖度、ある場合には恫喝ということすら、社会生活には時に起こりうる。五嶋龍の演奏を聴いていると、ひと時そんなことを忘れて自由になることができる。今回のメンデルスゾーンからはそんなことを感じることができた。演奏終了後、アンコールをおねだりする聴衆の拍手に対して、ヴァイオリンをステージ袖に置いて出てきて、笑顔で両手を広げてみせた彼の姿には、忖度のソの字もなく、なんとも爽やかであったのである (笑)。ところで、今回は指揮者やソリストのサイン会はなかったのであるが、その代わり、休憩時間にアナウンスがあったことには、「終演後には五嶋龍のミート・アンド・グリートを開催します」とのこと。これ、もちろん「ミート」とは肉のことではなく、Meet & Greet、つまりはアーティストと会って話ができるということだ。そういう企画ならそういう企画と、アナウンスだけではなくて、会場内に表示をするとか、全員にチラシを配布するとか、そういった集客の努力をすべきではないか。ここで私が、記憶を頼りに書庫から持ってきたコンサートのプログラムが一冊。そこにはこのような好例を見ることができる。
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そう、これは、五嶋龍の姉、五嶋みどり (欧米ではただ Midori と呼ばれる) が、2006年 4月25日にニューヨークのカーネギーホールの小ホール (Zankel Hall) で開催したリサイタルのプログラムの 1ページ。このときの曲目はかなりハードな現代音楽であったので、保守的なニューヨークの聴衆層の集客を考えて、あえて小ホールでの開催であったと思うのだが、さすが細やかな気配りの Midori である。終演後に聴衆と会話をしたいということで、このような機会が設定されたのであろう。私も家人とともに彼女と言葉を交わすことができ、また、その場に五嶋龍 (当時 17歳) がいるのも確認した。もし彼が、姉のこのような方法に倣って今回の Meet & Greet を企画したのであれば、主催者側はもっと真剣にその趣旨を理解し、きっちりした説明をすべきであったと思う。もっとも、私は今回は時間がなくて Meet も Greet もせずに会場を辞したので、実際は何が起こったのか知らない。五嶋龍ほどの人気者なら、大した宣伝もなく黒山の人だかりになったというなら、話は別だが、どうだったのだろう。

さて、今回は休憩中に見かけた音楽家は、つい先日グルダの「コンチェルト・フォー・マイセルフ」の熱演を聴かせてくれたピアニストの小曽根真くらいであったが、会場はやはり満員。かなりの人のお目当ては、後半のマーラー 5番にもあったのではないか。そう、ニューヨーク・フィルには、作曲者自身に始まり、ブルーノ・ワルター、レナード・バーンスタインという指揮者たちがマーラーを演奏して来たという歴史がある。もちろんその後の歴代の音楽監督も、例外なくマーラーを演奏した。そんなニューヨーク・フィルを指揮してズヴェーデンが聴かせてくれたマーラーは、予想通り、かなり密度の濃いもので、これをバーンスタイン風と呼ぶとちょっと違うかもしれないが、あらゆる個所に仕掛けられたマーラー独特の音楽言語が、これだけ説得力をもって響くのも珍しい。それはやはり、歴史上初めてバーンスタインがこのオケと達成したものではなかったか。そもそも、冒頭のトランペット・ソロも、第 3楽章のホルンも、その安定感は素晴らしいもので、いかに日本のオケの質が向上しても、この金管のレヴェルはなかなか簡単には実現しないなぁ、と嘆息してしまった。つまりはそれだけオケの個々のパートの技量が高いがゆえに、指揮者がそれを自在にこねくり回して (言葉は悪いが、私の印象はそんな感じ)、ちぎっては投げ、ちぎっては投げという、勢いのある音楽が可能なのである。ズヴェーデンの解釈自体には奇抜なところはほとんどないのだが、それにもかかわらず、指揮者とオケの個性が、あらゆるところに横溢している。聴きごたえ充分である。そういえば、前回の記事にも書いた通り、私が以前聴いたズヴェーデンの指揮は、ロンドン・フィルとの 2008年の共演による、同じマーラー 5番であった。もちろん、音楽の印象をそうそう長く覚えているのは難しいが、今回の演奏を聴いて、そういえばロンドン・フィルともこのような演奏を展開していたような気がしてきた。私は持っていないが、そのライヴ録音が CD になっているので、ご興味おありの向きは、聴いてみられてはいかが。
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今回もアンコールにワーグナーが演奏されたが、今回は客席への語り掛けはなく、演奏されたのは「ローエングリン」第 3幕への前奏曲であった。アンコールとしてはポピュラーなものであり、もちろんここでもニューヨーク・フィルの金管が強い音で聴衆を圧倒したのである。

ヤープ・ヴァン・ズヴェーデンとニューヨーク・フィル。期待通り、強烈なコンビである。正直なところこのオケは、従来なかなか指揮者との相性が難しいとの印象であるが、もしかするとこのズヴェーデンとは、その強い表現力によって、クラシック音楽界に新たな旋風をもたらすかもしれない。
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by yokohama7474 | 2018-03-15 00:52 | 音楽 (Live) | Comments(2)  

ヤープ・ヴァン・ズヴェーデン指揮 ニューヨーク・フィル (ピアノ : ユジャ・ワン) 2018年 3月13日 サントリーホール

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さて、2018年も 3月の半ばに入って、いよいよメジャーな外来オケの登場である。米国きっての名門オケであり、その歴史と実績において、米国のみならず世界有数の存在である、ニューヨーク・フィル。今回の目玉はなんと言っても、今年の秋から新音楽監督に就任するオランダ人指揮者、ヤープ・ヴァン・ズヴェーデンであろう。彼の名前は、もちろん録音メディアでは 10年ほど前から、オランダ放送フィルを指揮したストラヴィンスキーなどで知られていたし、私は聴いていないが、ハーグ・レジデンティ管弦楽団との来日も過去にあったという。だが、今回はなんと言っても名門ニューヨーク・フィルの次期音楽監督としての顔見世。彼の真価を聴くには最適の機会となるだろう。1960年生まれの 57歳。
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私は以前何かの記事で彼のことを、ダラス交響楽団の音楽監督とご紹介したところ、コメントで、「香港フィルの音楽監督でもあることに触れないのはおかしい」とお叱りを受けたものであるが、その香港フィルとは、実は昨年来日公演があったのだ。だがどういうわけか、それは大阪公演だけで、東京にやってくることはなかった。私は香港には 20回やそこらは出張で訪れているが、かの地でオーケストラを聴いた経験は一度もない (し、聴こうと思ったことすらこれまでなかった) ので、日本で聴く機会を逸したのは大変残念であった。ただ幸いなことに、私は過去に一度だけこの指揮者を実演で聴いたことがあり、それは 2008年にロンドンで、ロンドン・フィルを指揮した演奏会。メインはマーラー 5番であり、イメージしていたこの指揮者の怪人ぶりを実感する凄絶な演奏であった。それゆえ、それから 10年を経た彼の現在を聴くのを楽しみにしていたのだ。

彼はもともとあの名門、アムステルダムのコンセルトヘボウ管でコンサートマスターを務めていた。しかも、1979年から 1995年までと、かなりの長期間である。実は彼は 19歳で当時の音楽監督ベルナルト・ハイティンクに才能を見込まれ、史上最年少でコンセルトヘボウ管のコンマスに就任。それだけでも充分すごいことだが、指揮者になったきっかけは、あのレナード・バーンスタインに「ちょっと振ってみろ」と言われてマーラーの「巨人」を振ってみると、「君は良いヴァイオリニストだが、もっと良い指揮者になれるだろう」と誉められたことだという。これは大変な話であるが、もしかしたら同じことを言われて大成しなかった人もいるかもしれないと思うと (笑)、やはりもともと、自らの音楽に信念を持った人であったのだろう。バーンスタインはコンセルトヘボウとは、ベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」やシューベルト、マーラーなどを録音していて、このズヴェーデンも彼のもとでかなり演奏経験を積んだのであろう。若い頃のこんな写真が残っている。
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さて、バーンスタインといえばニューヨーク・フィルである。そして今年はそのバーンスタインの生誕 100年。この記念の年にこのオケが、バーンスタインの薫陶を受けた次期音楽監督とツアーを行うのに、そのバーンスタイン自身の作品、例えば「キャンディード」序曲とか「ウエスト・サイド・ストーリー」のシンフォニック・ダンスとかを採り上げてもよいと思うが、今回はそれはない。恐らくその理由のひとつは、集客を絶対確実なものとする人気ソリストの起用であろう。この日のソリストは、このブログでは既に絶賛を何度も繰り返してきたこの人だ。
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そう、ピアニストのユジャ・ワンである。今回の衣装も、少なくとも生地はこの写真と一緒だったろう。彼女の弾いた曲を含めて、プログラムをご紹介しておこう。
 ブラームス : ピアノ協奏曲第 1番ニ短調作品15 (ピアノ : ユジャ・ワン)
 ストラヴィンスキー : バレエ音楽「春の祭典」

この曲目を知ったときの私の狂喜ぶりは大変なものであった。ユジャ・ワンがあの劇的なブラームスのコンチェルトを弾く!! これは聴いてみたい。というのも、私は去年のある演奏会の記事で、このブラームスの 1番のコンチェルトを弾いた女流ピアニスト (クリスティーナ・オルティーズ) の演奏に関連して、「それこそユジャ・ワンなどはいずれこの曲を弾くのではないか。そして、もし彼女がこの曲を弾いたら・・・」と書いていたからだ。もちろんその時点では、このニューヨーク・フィルとの来日公演については未だ全く知らなかった。
https://culturemk.exblog.jp/25681091/

文字通りスーパーなユジャのピアノなのであるが、実は、昨年ラトル / ベルリン・フィルと共演したバルトークの 2番のコンチェルトと少し共通する印象を、今日の演奏にも持つこととなった。つまり、技術的にはもちろん全く問題ないものの、私が彼女のこの曲の演奏に期待した「強烈な打鍵」という点では、もっとできるのではないかと思ったのである。これは少し残念。ズヴェーデン率いるオケは、期待通りの強い音で燃焼していたので、なかなかそれに対抗するのは難しいのかもしれない。だが、大音量の箇所でのわずかな不満以外に、素晴らしい美点も多々あって、例えば抒情的な第 2楽章。ここではピアノソロが孤独な歌を歌う箇所があり、だがこれはブラームス初期の作品であるゆえ、後年の作品ほど重々しくはない。いわば青春の憂鬱に打ちひしがれ、見上げると、若葉の影を通して木漏れ日が目に入る・・・というような情景をいつも勝手に想像をしてしまうのだが (笑)、今回の演奏ほどその情緒を、もったいぶらずに自然に表現した例は少ないのではないか。これは実に美しいと思った。聴いているうち、もしかするとユジャ・ワンのピアノは、少し内省を帯びてきているのではないかとふと思ったのであるが、それはアンコールにも表れていて、最初はおなじみのシューベルト (リスト編) の「糸を紡ぐグレートヒェン」という抒情的な曲。普段なら 2曲目に超絶技巧の曲を弾くのであるが、今回はメンデルスゾーンの「無言歌」から「失われた幻影」という、やはり静かな曲であったのだ。もしかすると、ズヴェーデンとニューヨーク・フィルのカロリーの高い音に対する気遣い (?) ということもあるのかもしれないし、多忙なツアーの連続による疲れも、さすがに全くないとは言えないかもしれない。いずれにせよ、このピアニストだけは、定期的に聴き続けて、その表現の推移を実際に体験する価値があるので、また次回を楽しみにしたい・・・というところで、今回知った朗報をお届けしよう。今年の 12月にまたユジャ・ワンが外来オケのソリストとして登場する。それはあの、ワレリー・ゲルギエフ指揮ミュンヘン・フィルで、曲目は 2種類。12/2 (日) にはお得意のプロコフィエフの 3番のコンチェルトだが、その前日、12/1 (土) にはなんとなんと、ブラームスの、今度は 2番のコンチェルトなのである!! これもまた必聴と言えましょう。

さて、今回の会場には、ちょうど現在東京を訪れている音楽家たち、例えばヴァイオリンのルノー・カプソンとか、作曲家のタン・ドゥンの姿が見え、興味深かった (それら音楽家についてはまた記事を書くことになるでしょう) が、そのような人たちを含む満員の聴衆の前で後半に演奏されたのが、ズヴェーデンが録音でも名を上げた、あの「春の祭典」であった。この指揮者には得体の知れないパワーがあって、この曲の土俗性には大変適性があるだろう。私にとってはなじみ深いニューヨーク・フィルの個々のパートの自発性が炸裂し、それをズヴェーデンが焚きつけるような演奏で、ここで音たちは軽々と宙を舞うのではなく、重量を持ってロケットのように火を吹きながら飛んで行くという印象。私の好みから言えば、もう少し鋭利な演奏の方がよいのだが、しかしこの演奏には、好き嫌いを超えた迫力がある。ストラヴィンスキーが幻影として見た太古のロシアの風景とは、こんなものであったのかもしれない。極めてプロフェッショナルな名人オケも本気になる、次期音楽監督との白熱の演奏であった。ズヴェーデンはそして、数度のカーテンコールに応えてオケのメンバーを立たせたのち (ホルンの起立を忘れて、反省のあまり頭を抱えるシーンもあったが 笑)、客席に向かって「ヴァーグナー」と言うと、響いてきたアンコールはなんと、「ワルキューレの騎行」であった。なるほど、演奏開始前に一部金管がこの曲を練習していたので、まさかとは思ったが、「ハルサイ」のあとにこう来たか!! これはまた一弾と密度の濃い表現によるワーグナーで、指揮台にしっかりと足を踏ん張って指揮するズヴェーデンのからだ全体から、エネルギーが迸っていた。ズヴェーデンは香港フィルを指揮してワーグナーの「指環」4部作を NAXOS レーベルに録音中らしい。うーん、香港フィルの「指環」かぁ・・・。ちょっと興味あります。
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さて今回は、このズヴェーデンとニューヨーク・フィルによる新譜 CD を会場で販売していて、それを購入すれば指揮者のサイン会に参加できるということであった。その新譜とは、ベートーヴェンの 5番と 7番。これはユニバーサル・ミュージック・クラシックスがニューヨークを拠点に新たに立ち上げたレーベル、「デッカ・ゴールド」からのリリースで、このスヴェーデンとニューヨーク・フィルとは長期に亘る録音契約が結ばれているという。この CD、ライヴではなくセッション録音だが、実は 2014年と 2015年という、少し前の時期のもの。
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サイン会の様子と、私がもらったサインは以下の通り。タン・ドゥンがズヴェーデンと一緒に出てきて、扉を固定するのを手伝ったり、やたらサイン会の写真を撮っているのは少し面白かった。またズヴェーデンは、サインしたあとに客の目を見ることもなく、Thank you とも言わない、その媚びない不愛想さが、野性溢れる芸術家の風格抜群でしたよ!! (笑)
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そして、次回の記事へ続きます。

by yokohama7474 | 2018-03-14 00:54 | 音楽 (Live) | Comments(6)  

アンドレア・バッティストーニ指揮 東京フィル (ピアノ : 小曽根真) 2018年 3月11日 オーチャードホール

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東日本大震災から 7年後のこの日、東京での午後のコンサートには選択肢があった。サントリーホールでは私の好きな指揮者、フィンランド人のサカリ・オラモが手兵の BBC 響とマーラー 5番を演奏する。しかも前座は、小菅優を迎えてのラフマニノフの第 2ピアノ協奏曲である。そのコンサートには、できれば本当に行きたかったのであるが、このアンドレア・バッティストーニと東京フィルハーモニー交響楽団 (通称「東フィル」) の演奏会は、同じプログラムで 3回の演奏会が開かれたにもかかわらず、ほかの予定との兼ね合いで、私が行けるのはこの日のみ。そんなわけで、震災の犠牲者は心の中で追悼しながらも、マーラーの耽美なアダージェットではなく、内省とバカ騒ぎの組み合わせによるこちらを選んだ私であった。それだけ私はこのコンサートの曲目と演奏者に対する期待が大きかったわけである。曲目は以下の通り。
 グルダ : コンチェルト・フォー・マイセルフ (ピアノ : 小曽根真)
 ラフマニノフ : 交響曲第 2番ホ短調作品27

そう、たまたま上に思い付きで、「内省とバカ騒ぎの組み合わせ」と書いたが、そう、人間の人生に必要なことは、暗い内省だけということもなければ、明るいバカ騒ぎだけということもない。様々な要因でそれらが入れ替わり、時間が過ぎて行く。だから内省とバカ騒ぎをともに聴くことには、何か人生の深い意味を知るきっかけがあるのだろうと思う。今年未だ 31歳というイタリアの若手俊英指揮者、この東フィルの首席指揮者であるバッティストーニには、是非そのような人生の機微に気づかせてくれる演奏を期待したい。
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さて、ここで私が語るべきは、最初の曲「コンチェルト・フォー・マイセルフ」の作曲家フルードリヒ・グルダ (1930 - 2000) である。ピアニストとして 20世紀有数の存在であったグルダはしかし、ただの偏狭なクラシックのピアニストではなく、若い頃からジャズに手を染め、自ら軽妙な音楽を作曲した人であった。私がクラシックを聴き始めた 1980年頃には、「ウィーン三羽烏」という表現でまとめられた 3人のウィーン出身のピアニストの一人という位置づけであった。因みにほかの二人、パウル・バドゥラ=スコダ (1927年生まれ) とイェルク・デームス (1928年生まれ) で、90歳前後となった今でも、なんと二人とも現役であるはずだ。それに引き替え、3人の中で最も若かったグルダは、21世紀の到来を待たずして早々にこの世から退場した。
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グルダはウィーンのピアニストとして、ウィーン人から慕われ、また疎まれる存在であったようで、音楽の都などという美辞麗句ではとても表現しきれないこの魔力を持った街は、グルダの中にこそ体現していると私は思っている。私が人生で最初に聴いたベートーヴェンのピアノ協奏曲全集は、彼がホルスト・シュタイン指揮ウィーン・フィルと共演した録音 (当時最高の名盤と言われた) だったし、また、クラウディオ・アバド指揮ウィーン・フィルと共演したモーツァルトの 20・21・25・27番という 4曲のピアノ協奏曲は、今でもこれらの曲の私にとってのベストの演奏である。その一方、バッハの平均律は甘ったるくて聴けたものではなく、アナログレコードで聴いたアンソロジー「グルダ・ワークス」のごった煮ぶりにはちょっと拒否反応を覚えたし、「遥かな惑星の歌」などのジャズアルバムやチック・コリアとの共演も、あまりクールだとは思わなかった。ところが、彼がハインリヒ・シフのために書いたチェロ協奏曲は、とにかく面白すぎて、学生時代のこの上ない愛聴盤であったし、彼が息子のために書いた小品「パウルのために」「リコのために」も、私にとっては大事な宝物なのである。さて、そのような多面的な音楽家を実際のステージで聴くことができたのは 1993年。私が出掛けたのは、グルダ自身が新日本フィルを相手に弾き振りを務めたモーツァルトの 20番のコンチェルトと、自作の「コンチェルト・フォー・マイセルフ」であった。これが当時のチラシとプログラム。
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そう、今回バッティストーニと東フィルが採り上げた「コンチェルト・フォー・マイセルフ」は、私にとってそのような思い入れの強い曲。上記の日本での 1993年の自作自演を聴くよりも前から、1988年のミュンヘンでの世界初演の録音に加え、天下のウィーン・フィル、ベルリン・フィルを指揮して行った演奏も、FM からエアチェックしてよく聴いていたものである。バロックか古典派のような、いやそれらよりもチープに響く、でも大変に晴朗な曲想に始まり、エレクトリック・ベースとドラムを交えて音楽は時に楽しく突っ走り、特に内面的に沈静する。そう、まさにバカ騒ぎと内省が交錯する曲だ。題名の通り、以前の妻や自分自身をテーマにしているようだが、そのようなテーマを気にせずとも、人生の様々な局面の代用としての音楽に、ただ身を委ねるだけで心地よい。そしてこれはピアノ協奏曲であるからして、ソロ・ピアノが必要なのであるが、通常のクラシックのピアニストの手に余る点があるだろう。その点において、今回の人選は万全だ。クラシックもかなり弾いてはいるものの、もともとジャズ・ピアニストである小曽根真 (おぞね まこと)。
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私は以前、彼の演奏するモーツァルトなどのピアノ協奏曲を聴いたことがあるが、正直なところ、あまりピンと来なかった。その点今回は、音の進め方が遊び心と自信に満ち、エレクトリック・ベース (ポーランド人ロバート・クビスシン) やドラムス (米国人クラレンス・ベン) との呼吸も大変によく、聴いていて本当に楽しいと思ったものだ。バッティストーニも指揮棒を使わずに素手で伴奏して、ただ明るいだけでも暗いだけでもないこの曲の持ち味を、よく出していたと思う。アンコールにはピアノとエレクトリック・ベース、ドラムスの 3人で、小曽根自身の "My Witch's Blue" という曲が演奏され、喝采を受けていた。このタイトル、ひょっとしたらひょっとして、マイルス・デイヴィスの有名な "Bitches Brew" のパロディなんでしょうか。私だってこのアルバムくらいは持っていますよ。いわゆる一般常識として。
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そして後半は、このところ演奏頻度がやたら高い、ラフマニノフの 2番である。バッティストーニの熱いパッションを堪能するには恰好の曲であろう。演奏は期待通り、冒頭の低弦の蠢きから、光彩陸離の終楽章のフィニッシュまで、実に豊かな表情で展開する、誠に素晴らしいもの。指揮ぶりも大きく情熱的で、それを見ているだけでも胸が高まるのであるが、既にバッティストーニの音楽との相性のよさを獲得している東フィルのことであるから、指揮者の求める音の動きをそれぞれの奏者が自発的に解き放っていて、申し分ない。この演奏には、このコンビの個性が間違いなく刻印されていたし、オケの方々もそれを誇りに思ってしかるべきレヴェルの音楽であったと思う。ただ、もし今後さらなる高みに達すれば、バッティストーニがある瞬間に身振りを小さくすると逆に音量が大きくなるような、そんな演奏になるのではないか、と勝手に夢想してしまった (笑)。尚、これだけダイナミックな音が迸っているのに、弦楽のサイズを見ると、コントラバスは 7本である。チェロを見ると 8本、ヴィオラは 9本と、大変に変則的。それで、普段はそこまでしないのだが (笑)、行きがかり上ヴァイオリンを数えると、第 1ヴァイオリン 14、第 2ヴァイオリン 12であった。つまり、高音から低音まで順に書くと、14・12・9・8・7。通常この曲なら、16・14・12・10・8 になると思うだが、それよりも少し小型なわけである。私の勝手な理解は、この東フィルは新国立劇場でも頻繁にオペラを演奏しているので、そちらに出ているメンバーもいるからなのではないか。帰宅して調べると、この日は新国立劇場でのオペラ上演はなかったが、前日の 3/10 (土) までは「ホフマン物語」、そして 3/14 (水) からは「愛の妙薬」が演目となっていて、いずれもこの東フィルが演奏する。もともと 2つの楽団が合併してできたこのオケには、メンバーを分割した活動ができるわけで、なるほどこれが、オペラとコンサートを車の両輪とする東フィルの、日常なのである。そう思うと、今回のラフマニノフ演奏の情熱が、いっそう好ましいものと思われたことであった。

さて、東フィルの新たなシーズンは 5月から。開幕はチョン・ミョンフン指揮のベートーヴェン「フィデリオ」で、それも大変楽しみだが、バッティストーニも引き続き意欲的なプログラムの数々を指揮する。中でも 11月のボーイトの「メフィストフェーレ」は必聴だろう。彼の熱い音楽は、東京の音楽シーンに不可欠なものになっているのである。

by yokohama7474 | 2018-03-11 22:54 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

謙=デイヴィッド・マズア指揮 読売日本交響楽団 (ヴァイオリン : アラベラ・美歩・シュタインバッハー) 2018年 3月10日 東京芸術劇場

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今回の読売日本交響楽団 (通称「読響」) の演奏会の出演者には、大変興味深い共通点がある。それは、指揮者、ソリストともドイツ人の父と日本人の母の間に生まれたということである。ここで面白い比較の対象は、先月東京都交響楽団 (通称「都響」) の指揮台に登場した準・メルクルである。彼もまた、ドイツ人の父と日本人の母の間に生まれた人。だがメルクルは 1959年生まれであるのに対し、今回の指揮者マズアは 1977年生まれ。ソリスト、シュタインバッハーは 1981年生まれと、一回り以上下である。だが彼らはそれぞれに国際的な活躍をしている音楽家であり、言ってみれば半分日本人の音楽家の世界レヴェルの演奏を、ここ東京で期待できることになる。まず指揮者のマズアは、もうその名前から明らかなように、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管、ロンドン・フィル、フランス国立管、そしてあのニューヨーク・フィルといった名だたるオケを率い、この読響においても名誉指揮者であった、あのクルト・マズアの息子なのである。このブログでは既に、昨年 10月 1日付の記事で、夏目漱石の小説を原作とする長田原作曲のオペラ「夢十夜」の指揮をご紹介したことがある。だがそこでは正直なところ、指揮者の力量が分かるほどの情報もなかったというのが正直なところ。それにひきかえ今回は、堂々たるドイツ・ロマン派プログラム。以下のようなものだ。
 ウェーバー : 歌劇「オイリアンテ」序曲
 メンデルスゾーン : ヴァイオリン協奏曲ホ短調作品64 (ヴァイオリン : アラベラ・美歩・シュタインバッハー)
 シューマン : 交響曲第 3番変ホ長調作品97「ライン」

なるほどこの、序曲、協奏曲、交響曲という伝統的な構成によるプログラムには、最近接したような気がする。そう、それは、上で名前を挙げた準・メルクルが都響にデビューした今年 2月10日、つまりこの演奏会よりもちょうど 1ヶ月前のコンサートである。ともに東京で充実の活動を繰り広げる読響と都響が、ともに日本とドイツのハイブリッドな血を持つ指揮者のもとで繰り広げたこれらの演奏会、しかもメインはともに同じシューマンの「ライン」というのも、たまたまの偶然なのか、どちらかの楽団がわざとぶつけて来たのか分からないが、聴き手としては興味津々である。これが今回の指揮者、今年 41歳になるマズア。読響との共演は今回が二度目で、それ以外の日本のオケでは、日本フィルと広島響と共演しているらしい。
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さて、以前も書いたことだが、私は彼の父クルト・マズアに関しては、それほど熱狂的な思いは持っていない。読響以外にも、ニューヨーク・フィルとの演奏を、東京及び現地ニューヨークで聴き、また、ロンドン・フィルとの演奏もロンドンで聴いたことがあるが、残念ながらそのもっさりした感じには、心から感動したことはないのが正直なところ (FM を含む放送では、手兵のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管とかボストン響との名演を聴いた記憶はある)。だが今回その指揮ぶりに接した息子、謙=デイヴィッドは、若々しくニュアンス溢れる音楽を奏でて、本当に素晴らしいと思ったのである。考えてみれば、父親が高名な指揮者だったからといって、その息子の奏でる音楽には父とは全く異なる要素があることは、むしろ当然のことなのである。最初の「オイリアンテ」序曲は、いかにもドイツロマン派の香り漂う名曲であるが、冒頭でオケの疾走感を全開にしておいて、ヴァイオリンが絶妙の呼吸で歌う次の主題も実に見事。このメリハリには当然オケの高い技量も大きく貢献しているが、マズアの瑞々しい感性がそれを主導したことであろう。そして 2曲目に大人気曲、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を演奏したのは、今や現代を代表する女流ヴァイオリストのひとりであるアラベラ・美歩・シュタンバッハーである。
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彼女は録音も数多く、世界一流のオケや指揮者と共演しているが、今回調べて分かったことには、メジャーなコンクールの優勝歴はなさそうである。その点からも、幅広い聴衆から愛されていることが分かる。今回のメンデルスゾーンは、大変オーソドックスな演奏であったと思うが、その音色の美しさには魅了された。だがその一方で、終楽章のクライマックスではかなり大胆な表情づけを行っていて、型にはまらずに音楽の生命力を追求するヴァイオリニストなのだと実感することとなった。マズアの伴奏も大変丁寧で、ここにもやはりドイツ・ロマン派らしい香りが感じられて、大変好感を持つこととなったのである。シュタインバッハーはアンコールとして、定番であバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第 3番の第 3楽章ラルゴを演奏したが、これもまた、厳粛なだけのバッハではなく、スタイルをしっかりと持ちながらも人間性を感じさせるものであった。

さて、そしてメインの「ライン」であるが、ここでも、これまで述べてきた通りのロマン派の香りが、巧まずして立ち昇り流れて行くといった風情。すべての声部が晴朗さを伴って鳴っており、実に気持ちのよい演奏であったと言えるだろう。しっかりと楽譜を見ながら、また父と異なり指揮棒を持って、ヴァイオリンの左右対抗配置も取らないという、ある意味で保守的な指揮ぶりであったが、やはりこのようなロマン派の演奏には、そのスタイルが好ましいように思われた。よい演奏というものは、その演奏の個性をあれこれ語るよりも、「いい曲だなぁ」と思わせてくれるというのが私の持論なのであるが、今回はまさにそのような演奏であったと言えるだろう。オーケストラを聴く醍醐味がそこに感じられた点、大音響で聴衆を圧倒するような曲目ではなかったがゆえに、このマズアのまっすぐな音楽性を物語るものであったのではないか。今回の読響との共演は、このプログラムによる 2度の演奏会だけのようだが、是非またその清々しい音楽を聴かせて欲しいものである。
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by yokohama7474 | 2018-03-11 00:41 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

バーンスタイン : 「ウエスト・サイド・ストーリー」(演奏会形式) パーヴォ・ヤルヴィ指揮 NHK 交響楽団 2018年 3月 4日 オーチャードホール

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この演奏会の記事については、3/4 (日) の鑑賞後にその「予告編」だけアップしたが、私がしばらく留守にしている間に、なんと 100以上のアクセスを頂いた。せっかく記事を楽しみにアクセス頂いた方には、裏切りにも近い内容 (?) の記事であったことを、この場でお詫び致します。ここに改めてこの演奏会の感想を思いつくままに記そうと思う。さてこの演奏会、上のチラシにもある通り、20世紀最大の音楽家の一人、レナード・バーンスタイン (1918 - 1990) の代表作のひとつ、ミュージカル「ウエスト・サイド・ストーリー」の全曲の演奏会形式上演である。素晴らしい指揮者として知られたバーンスタインはまた、作曲家でありピアニストであり教育者であった。今年はそのバーンスタインの生誕 100年にあたり、様々な催しが開かれるのであるが、これはその中でもかなり注目度の高い演奏会であった。これが、若き日のバーンスタインがピアノに向かって作曲しているところ。
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この演奏会が注目に値するというのは、2月定期の意欲的な 3演目をこのブログでもご紹介した、パーヴォ・ヤルヴィと NHK 交響楽団 (通称「N 響」) による演奏であるからだ。ヤルヴィの世界各地での活躍ぶりには目を見張るものがあるが、もともとエストニア出身の彼は、父がやはり著名な指揮者であることを除くと、いかなる音楽教育を受けたのであるかについてあまりイメージがなかったのである。そこで調べてみるとカーティス音楽院 (フィラデルフィア) を卒業後、ロサンゼルス・フィルのサマーコースでバーンスタインについて学んだという。今回のプログラムには、当時の写真が掲載されている。うん、鼻のかたちが確かにパーヴォである (笑)。
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それから、やはりプログラムに掲載されている今回の会場である Bunkamura のあいさつによると、「1990年 7月12日、バーンスタインはここ Bunkamura オーチャードホールでロンドン交響楽団とベートーヴェンの交響曲第 7番などを演奏、これが最後の日本公演となったのです」とのこと。このバーンスタインのロンドン響との最後の来日については、私にとっては、サントリーホールでの、当時無名の若手指揮者であった大植英次との出会いとなった演奏会が忘れ難く、そのことは、随分以前に当時の新聞記事とともにご紹介したことがある。私はそのときのオーチャードホールでの演奏会には行かなかったが、手元にある当時のプログラムの写真をここに掲げておこう。バースタインの死の 3ヶ月前のことであった。
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さて、今回の「ウエスト・サイド・ストーリー」である。このオーチャードホールにはいつも、入ってすぐのところに開演時刻、休憩時間、終演時刻の表示があるが、今回は第 1幕 60分、その後休憩 30分を経て、第 2幕は 35分とある。むむ、この作品はこんなに短かったっけ・・・と思うと、実はこの上演、セリフをカットして音楽のみを演奏する (但し、セリフに音楽がかぶる箇所は例外) 方法が取られていたのであった。そういえばヤルヴィは以前、ドイツ・カンマー・フィルとの来日公演におけるベートーヴェンの「フィデリオ」で、やはりセリフをカットして演奏していたことがあったが、あのときは俳優が語りをするという変わった方法を取っていた。今回は本当に音楽だけであり、この作品のストーリーを知らない人にとっては、ちょっとなじみにくいものであったかもしれない。だが、もちろん有名な映画にもなっている作品のこと、ストーリーを知らない人はあまり多くなかったであろうから、ひたすらバーンスタインの音楽と向き合うという意味では、このような方法も一見識かもしれない。あ、そうそう、演奏会形式であるゆえ、映画や舞台で見られるこんなダンスシーンも、今回はありませんでした。
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何でもうまくまとめる手腕を持つヤルヴィのもと、高い演奏技術を磨き上げている N 響のことだから、演奏は悪かろうわけもなく、ミュージカルにしては多分異様に難しいと思われるこの曲を、歌手も含めて全員で活き活きと再現したことは間違いないと思う。特に私が楽しんだのは、「アメリカ」とか「はいはい、クラプキー巡査」などのノリのよい曲で、ここでは歌手たちの熱演とともに、明らかにオケの高い能力も充分に発揮されていたと思う。だがその反面、例えば冒頭間もない箇所でトランペットが不安定であったり、「マンボ」あたりはちょっと真面目すぎるかなぁという思いを抱いたりして、細部における彫琢には、さらなる改善の余地があったような気もする。それから、歌手たちが出入りする舞台前面には何本かマイクが並んでいたが、PA の効果はあまり感じられず、その点がミュージカルとしてはちょっと残念なような気がした。オケの配置は、いつものヴァイオリン左右対抗配置はなく、また、チェロ 8本に対してコントラバス 4本 (通常なら 6本であるべきところ) で、軽さと敏捷さを目指したものかと理解したが、それでも時に歌手の声を飲み込んでしまっていたように聴こえた。歌手陣は、主要な役はほとんど外国人で、オペラとミュージカルの双方で活躍する人たちが多かったようだ。マリアのジュリア・ブロック、トニーのライアン・シルヴァーマン、アニタのアマンダ・リン・ボトムスら。トニー役は正直、少し不調だったようにも思われたのだが、昨年、ヤニック・ネゼ=セガン指揮フィラデルフィア管のこの曲の演奏会形式上演でも同じ役を歌った実績のある人らしい。
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ヤルヴィはインタビューの中で、「名曲ぞろいの中でも核になるのは『サムウェア』だと僕は思うので、あの曲に向かっていく感情の高まりもていねいに演奏したい」と語っているが、確かにそれはよく分かる。悲惨な現実を離れたどこか違う場所で、新しい生き方 (a new way of living) や許し方 (a way of forgiving) を見つけようというこの歌 (第 2幕の真ん中あたりで歌われる) は感動的であり、「ロメオとジュリエット」に想を得たこの作品の中において、燃え立つ憎しみを浄化するという意味合いがある。これはバーンスタイン自身が生涯を通じて表現した世界愛であり、確かに全曲の核と言ってよいだろう。私の感じた課題を上に書いたものの、でもやはりこの「サムウェア」を聴くと、胸が熱くなるのを抑えることができないのだ。だがもちろん、バーンスタインはただ優しいだけの平和主義者ではなく、冷徹なリアリストの面もあれば、かなり皮肉屋の面もあるのだ。例えばそれは、この感動的な「サムウェア」の少しあとに、不良たちの生活環境や両親の堕落、貧困というテーマを面白おかしくノリノリに歌う「はいはい、クラプキー巡査 (Gee, Officer Krupke)」が歌われることにも表れているではないか。悲惨なことを楽し気に歌うという感性は、どこかグスタフ・マーラーに通じるところがあり、それこそがバーンスタインの神髄でもあるということを、今回も思い知った次第。指揮者としての偉大な業績のみならず、昨今は作曲家としての業績がかなり評価されてきている感のあるバーンスタインは、紛れもなく 20世紀を代表する音楽家であるのだ。これは、私も若い頃に夢中になって聴いたウィーン・フィルとのベートーヴェン全集に使われていた写真。この人の人生が滲み出た、いい写真であると思う。
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今年はこれからも、バーンスタイン生誕 100年を記念する催しがいくつか予定されている。東京にいながらにして、作曲家バーンスタインについて様々に考える機会が得られるとは、なんとも素晴らしいことではないでしょうか。

by yokohama7474 | 2018-03-10 11:06 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

下野竜也指揮 日本フィル (チェロ : ルイジ・ピオヴァノ) 2018年 3月 2日 サントリーホール

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これは大変楽しみにしていた演奏会だ。日本の中堅指揮者として大いに気を吐いている下野竜也が、日本フィルハーモニー交響楽団 (通称「日フィル」) を指揮する定期演奏会。このブログでは彼の指揮した演奏会を記事として採り上げたことは未だなかったはずで、唯一は、黛敏郎の「金閣寺」における指揮だけだったと思う。だが私は基本的に彼にはかなり好感を持っていて、過去に体験した彼の演奏会で、失望したことはまずないのである。そんな彼が今回日フィルで採り上げる曲目が、なんともふるっている。
 スッペ : 喜歌劇「詩人と農夫」序曲
 ユン・イサン : チェロ協奏曲 (チェロ : ルイジ・ピオヴァノ)
 マクミラン : イゾベル・ゴーディの告白
 ブルックナー (スクロヴァチェフスキ編曲) : 弦楽五重奏曲ヘ長調より アダージョ

最初に感想を述べておくと、これは期待通りの大変素晴らしい内容で、クラシックの名曲に飽き足らず、何か未知の音楽による刺激を欲しいという人は、3/3 (土) の 14時からサントリーホールで、同じプログラムによる2度目の演奏会があるので、そちらに足を運ばれることをお薦めしよう。下野は現在 48歳、現在の国内でのポストは広島交響楽団の音楽総監督である。鹿児島出身で、現在放送中の大河ドラマ「西郷どん」のテーマ曲も、彼の指揮する NHK 交響楽団によるものだ。
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今回のプログラムで、一般によく知られているのは、最初の「詩人と農夫」序曲だけだろう。プログラムに記載のある下野のインタビューによると、前半に演奏されるこの「詩人と農夫」とユン・イサンのチェロ協奏曲との共通点は、ともにチェロが活躍すること。だがその相違点は、前者の伸びやかで美しいチェロに対し、後者では悶え苦しむチェロであるということ。これについてはまた後述しよう。また、後半の 2曲にも共通点と相違点があって、非常に刺激的なのだが、これも後述。

冒頭の「詩人と農夫」序曲であるが、昨年もコルネリウス・マイスター指揮の読売日本響の胸のすく快演を聴いた。今回の演奏も、弦の勢いや全体が盛り上がる部分には、下野らしい活気ある音楽が聴かれたが、私が気になったのは、冒頭の金管による静かな部分での呼吸である。日本のオケでは時々このような箇所に課題を残すことがあるような気がするが、今回もそれを禁じ得なかった。だがそれを除けば、なかなかに楽しい演奏であった。

そして 2曲目、ユン・イサン (尹伊桑 1917 - 1995) のチェロ協奏曲。この作曲家は韓国生まれであるが、ドイツに帰化したので、ヨーロッパ風に名前・苗字の順で、「イサン・ユン」と呼ばれることもあり、彼の生前にはドイツの作曲家という位置づけが多かったので、その呼び方の方がなじみがあるとも言える。彼は名実ともに 20世紀を代表する作曲家のひとりであり、かなり情念をあらわにした激しい音楽も書いているが、一方で、いかにも東アジア的な、延々と旋律が伸びて絡んで行くような曲も書いている。私にはこの作曲家に関して、ひとつの思い出がある。それは、サントリーホールの開場記念として、武満徹の監修のもと、国際作曲家委嘱シリーズと銘打って武満自身を含む 5人の作曲家の新作が委嘱・初演された際のことだ。ユンもその 1人に入っていて、交響曲第 4番「暗黒の中で歌う」が、岩城宏之指揮東京都交響楽団によって世界初演された。私はそのコンサートに出掛けたのはもちろん、事前に開かれたユンのレクチャーにも参加して、このようなサインをもらったのである。1986年11月11日のこと。
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この写真、白く塗りつぶしたところには、実は私の名前が漢字で記されている。そう、ユンは日本統治下の韓国で育ち、音楽教育は日本で受けているので、70歳近い当時でも流暢な日本語を話し、わざわざ私の名前を漢字でどのように書くかを、尋ねてくれたのである!! もちろん、この世代の人たちが日本語を話すことには、日本人としては過去の不幸な歴史についての複雑な思いを抱かざるを得ないのだが、それにしても、歴史に残る偉大な作曲家と直接日本語で言葉を交わし、名前まで書いてもらったことは、やはり私にとって一生の宝なのである。さて、ユン・イサンの経歴の中で常に触れられるのは、その過酷な運命である。彼は 1960年代に北朝鮮を訪れたことがきっかけで KCIA に逮捕され、北のスパイとの認定のもと、拷問の末に死刑宣告を受ける。だがそれに対して 200名の世界的な音楽家たちが助命嘆願運動を起こし、その甲斐あって 1969年に特赦によって解放。その後彼はドイツに移ったのであった。そのような過酷な試練に遭った人間が表現活動を行うとはいかなることか。彼の音楽を必要以上に政治的に聴く必要はないと思うが、そのような歴史的背景はやはり知っておく方がようだろう。これがユン・イサン。
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今回、1曲目と 2曲目の間に指揮者の下野がマイク片手にステージに出て来た。実はユンのチェロ協奏曲では、オーケストラの配置について指定があるとのことで、ヴァイオリンを左右対抗配置にし、指揮者の正面にヴィオラ、向かって右手奥にコントラバスで、なんとチェロは使われていないのである。そのような配置に転換する間、少し時間を要するので、どうしても話がしたくて出て来たようだ。「定期演奏会なので、このようなことを嫌がる人もいるかもしれませんが」との前置きに続いて語られたことには、今回下野は日フィルを久しぶりに指揮するが、このオケを振る際にはなぜか珍しい曲を採り上げることが多く、今回もそうである。その珍しい曲目の割にはお客さんがよく入って頂いていて、嬉しい (実際には、どうだろう、6割程度の淋しい入りだったのだが・・・)。最初の 2曲はチェロつながりと、それからもうひとつ。ユンが日本で音楽を学んだときには、きっとこの「詩人と農夫」でのチェロのような美しい音楽を沢山聴いていたはず。その彼がその後の運命によって、このチェロ協奏曲のような激烈な曲を書くことになった、そのギャップを是非感じてほしい、とのことであった。今回チェロのソロを弾いたのは、イタリア人のルイジ・ピオヴァノ。ローマのサンタ・チェチーリア音楽院管の首席奏者であるらしい。
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このチェロ協奏曲は 1975 - 76年の作で、まさに激烈な音楽だ。作曲者の言によると、「チェロは私自身でありオーケストラは私を取り巻く環境であり、悪と善がからみ合う "社会” であり個人の運命を左右する大きな "世界" である」とのこと。その言葉の重みは測り知れないが、強い集中力で 30分を弾き通したピオヴァノには感嘆した。そして彼はアンコールにはなにやら郷愁を誘うメロディを弾き、最後には歌まで歌っていた。これは、イタリアのアブルッツォ地方の子守唄で、作者不詳の曲である由。調べてみるとアルブッツォ地方とは、イタリア中部の東側、アドリア海に面した場所で、実は、ピオヴァノの生まれたペスカーラという街は、この地方で最大の都市であるようだ。イタリア人ソリストが、ドイツに渡った韓国出身の作曲家の手になる情念の表現のあとに、自らの出自に基づくノスタルジーを、日本で歌う。音楽とはなんとユニヴァーサルなものであることか。

そして後半の 2曲も、大変興味深い。実は会場配布のプログラムには紙が挟まっていて、指揮者の意向によってこの 2曲を続けて演奏するので、途中で拍手をするなという指示である。そしてその通り、切れ目なしに演奏されたこの 2曲は、深い感銘を聴き手に与えたのだ。まず作曲のジェームズ・マクミランであるが、日本での人気はさほど高くないかもしれないが、1959年生まれの 58歳、既にサーの称号を受けており、本国英国 (スコットランド出身である) での高い評価が伺われる。
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今回演奏された「イゾベル・ゴーディの告白」は、1990年に書かれた彼の出世作。私は今回初めて耳にしたが、その題材といい音響といい、私の好みにはぴったりだ。というのも、題名のイゾベル・ゴーディとは、17世紀にスコットランドに実在した自称魔女。もちろんヨーロッパ中世には陰湿な魔女狩りが横行し、それに関連した展覧会も、随分以前にこのブログでご紹介した。だがこのイゾベル・ゴーディのケースで特異なのは、自分で警察に自首して来て、自らの魔女としての悪行を告白したという。これは 16世紀の版画による魔女のイメージ。
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この曲、面白いのは、冒頭は大変美しく抒情的な音楽で始まるのである。印象としては、例えばブリテンの「ピーター・グライムズ」の最初の間奏曲と共通する透明感がある。ところがその後音楽は徐々に狂乱を始め、とんでもなく荒れ狂うのである。そしてクライマックスでは、全オーケストラが 13回に亘って強烈な和音を奏する。これは 13人の魔女集団を表すようだ。だがその後また音楽は冒頭の雰囲気に戻ったかと思うと、最後は長い長いクレッシェンドで、激烈な大音響に達して果てるのである。全曲 20分ほど。私が面白いと思ったのは、弦楽器は最初、スムーズに流れるような音楽のみを奏するが、管楽器が強烈なくさびを音楽に打ち込むと、徐々に弦楽器も鋭角的になってきて、そして全オケが強烈な音響に至ると、その誘惑に負けるように、弦もジグザグの音楽を奏でる。だが最後に正気に戻ってまた流れる音楽となるが、悪魔的な力で空中に引っ張られて四散する。そんなイメージである。ここでの下野と日フィルは、曲の面白さを極限まで引き出してみせたと思う。そして、そのまま始まった最後の曲は、ブルックナーの 1879年の作、弦楽五重奏曲の第 3楽章アダージョの弦楽合奏版。この作曲年代は、交響曲でいうと 5番と 6番の間である。鋭利なブルックナーで日本の聴衆にもおなじみだった名指揮者、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキの手になる編曲。この曲、大変深々とした歌が聴かれる 15分ほどの曲だが、耳を澄ませるとあちこちに、5番や 6番や 7番のシンフォニーの断片が聴こえるように思われる。ここでも日フィルの弦が豊かな表情で、熱を帯びた音を出して一本の大きな流れを作り出していて、下野の指揮らしい恰幅のよさが感じられた。このマクミランとブルックナーの連続演奏は、清らななものと邪悪なもののせめぎあいと、そしてその向こうにある天国的な安らぎを聴かせてくれたと思う。それは、実は前半の 2曲が表した対照的な音響世界にも通じるものがあり、全体としてのプログラミングの妙を感じることができたわけである。

尚、このマクミランの「イゾベル・ゴーディの告白」は、今回初めて聴いたと書いたが、何やら脳の奥で記憶がムズムズするので、帰宅して CD 棚をチェックすると、お、ありましたありました。コリン・デイヴィス指揮ロンドン響の録音が。すっかり忘れていた。
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もう 1曲のブルックナーのアダージョは、これは決定盤が手元にあることをもともと認識していて、実は今回久しぶりにこのセットを取り出し、事前に予習した。編曲者スクロヴァチェフスキ指揮ザールブリュッケン放送響 (当時の名称) による全集の中に入っている。
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天下の名曲ももちろん結構だが、このように意欲的なプログラムによる演奏会も、東京の文化の重要な一面だ。今回の下野の慧眼と熱意に、心からの敬意を表したい。あと、そういえば、ジェームズ・マクミランではもう 1曲、「ヴェニ、ヴェニ、エマニュエル」という曲が知られていて、随分以前に、耳の聞こえない女性打楽器奏者として有名なエヴェリン・グレニーが、秋山和慶指揮の東京交響楽団 (だったと思う) をバックに演奏した実演が実に面白かったことを思い出した。そのグレニーが演奏した CD も手元にあることを、芋づる式に (?) 思い出したので、久しぶりにそれでも聴いてみようかなと思い始めた次第。いろいろなきっかけを得て、生活の文化度を上げて行きたいものであります。

by yokohama7474 | 2018-03-03 01:23 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

マルク・ミンコフスキ指揮 レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル 2018年 2月27日 東京オペラシティコンサートホール

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フランスの指揮者、55歳のマルク・ミンコフスキについては、過去にこのブログでも、東京都交響楽団を指揮した演奏会や、オーケストラ・アンサンブル金沢を指揮した「セヴィリアの理髪師」の演奏会形式上演などで紹介し、その手腕を絶賛した。今回の公演は、そのミンコフスキが自ら 1982年、なんと 19歳のときに設立した古楽アンサンブル、レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルとのものである。この楽団は、録音では「ルーヴル宮音楽隊」という日本語名称が通常であると思うが、何か少しぎこちない響き (私の勝手なイメージでは、ルーヴルというロイヤルな響きと「ブレーメンの音楽隊」のようなメルヘン調の響きの意味不明の混合だ) であるので、このようにオリジナルのフランス語名称を使用するというのは一見識であろうかと思う。このミンコフスキ、録音の上でも、フランソワ=クサヴィエ・ロトやテオドール・クルレンティスらとともに、聴きなれたレパートリーを新鮮に響かせることでその名声をぐんぐん高めてきている人であり、過去に実演に接したことのある身としては、彼の演奏会には出掛ける価値が必ずあるのである。ちなみに上で名を挙げたほかの 2人の指揮者も、今年から来年にかけて、それぞれの手兵とともに来日する予定で、いずれもが必聴のコンサートばかりである。これがミンコフスキ。
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さて、2018年も最初の 2ヶ月が過ぎようとしているが、冷静に考えてみれば、このコンサートは、私が今年聴く未だ二番目の外来のオケなのである。ひとつめは室内オケのクレメラータ・バルティカで、ちょっと調べてみても、年初のニューイヤーコンサートの類や、日本で年を越したキエフ・オペラのオケを除けば、外来オケは、これもやはり室内オケの、スロヴァキア室内管くらいしか見当たらない。来月以降は超ビッグネームの来日も始まるので、これをもって今年は不調ということではないだろうし、正直、日本のオケをフォローするだけでもかなり大変なことになっていることもあり、これはこれで適正ペースだと考えておきましょう。そのペースに乗って (?)、今回のコンサート会場には、かなりの音楽通とお見受けする方々が多く集っておられたようで、私ごときがここで外来オケが云々と声高に騒ぐことでもないでしょう。ということで、今回のプログラムはオール・メンデルスゾーン。
 序曲「フィンガルの洞窟」作品26
 交響曲第 4番イ長調作品90「イタリア」
 交響曲第 3番イ短調作品56「スコットランド」

このオケのことを上で簡単に「古楽オケ」と呼んだが、古い音楽を演奏するという意味のこの言葉自体が、既に古臭くなってきている (笑)。最近の用語では、ピリオド楽器によるオケとでも言うべきなのだろうか。つまりは、作曲者が作品を書いた頃の音楽を再現する試みなのであるが、そしてその試みは、もともとバロックからせいぜいモーツァルトくらいまでの範囲であったものが、最近では 20世紀音楽にまで対象が広がっている。だがこのブログは、クラシック音楽になじみのない方にも読んで頂きたいので、引き続き「古楽」という分かりやすい言葉を使いたい。ところで、ここにはひとつのパラドックスがある。つまり、いわゆる「古楽」の対象となる 200年も 300年も前の時代の音楽を学術的に研究することと、それを実際に音にしてみる行為との間には、常に乖離があることだ。それは致し方ないことだと思う。だが、やはりどの世界も、トップクラスの人たちの能力は素晴らしく高い。多くの古楽演奏には、実は演奏する喜びが溢れていて、それはそれは本当に豊かな文化的成果なのである。そもそも、いかに学術的に当時の楽器や奏法を研究しても、その時代に演奏されていた音楽を実際に聴くことができない以上、必ずそこには想像力の助けが必要だ。一流の古楽演奏には、必ず豊かな想像力があるがゆえに、人々に感銘を与えるのである。要は、大事なことは演奏スタイルよりも、奏でられる音楽の内容なのである。このような流れにおいて、19世紀生まれのロマン主義の作曲家であるメンデルスゾーンを古楽で演奏することの意義は、どこにあるだろう。そう、ひとつは、メンデルスゾーンがユダヤ系であったがゆえに、戦後になるまで充分な研究がなされなかったという事情がある。古楽が隆盛し始めた 1980年代以降の研究成果が著しいと聞く。実際、今回ミンコフスキとレ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルが演奏した 3曲はいずれも、クリストファー・ホグウッド (もちろん、指揮者としても、モーツァルトやハイドンの演奏で素晴らしい業績を残した音楽学者) の校訂によるベーレンライター新版を用いている。38歳で世を去ったメンデルスゾーンの創作活動の様子が、最新の研究で明らかになってきたらしいが、楽々と名曲を書いた天才というよりも、ひとつひとつの作品に心血を注いだ真摯な作曲姿勢を貫いた人であったらしい。
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さて、ミンコフスキの指揮を、ちょっとコミカルに喩えてみたい。子供の頃、小学校に必ず一人はいた、太っているのに妙に運動神経のよい子供が、そのまま大人になったような、そんな感じ (笑)。実際、彼の指揮ぶりは大変に情熱的で、今回も、音楽が盛り上がる部分では指揮棒がしなるくらいに鋭く振り回し、リズミカルな箇所 (例えば「イタリア」の終楽章や「スコットランド」の第 1楽章) では、ときに指揮棒を持った右手の下を左手の掌で叩いたり、あるいは、指揮台に載った譜面を指揮棒でバシバシ叩いたりするのである。そのボディランゲージの語彙の豊富さに、気心の知れた手兵がよくついて行くのを目の当たりにするのは実に素晴らしい音楽体験だ。このオケは演奏開始前に、チューニングに大変な手間をかける。まずオーボエに始まり、その後低弦、それから高弦と移って行くのだが、コンサートマスターと第 2ヴァイオリンのトップは、楽員の間を歩き回って確認作業をする。そのあと、仕上げに全員で一斉にチューニングするのである。そのような長い儀式を経て、ミンコフスキが出てくるとすぐに演奏が始まり、楽員たちは音楽に没頭して行く。今回の使用楽譜は上に書いた通りだが、「イタリア」と「スコットランド」は、聴いていて通常の版と著しく異なる箇所はほとんどなかったが、ただ「フィンガルの洞窟」だけは、ロンドンでの初演のときの楽譜がもとになっているらしく、中間部は違う音楽になっていた。上記の通り、演奏は立派なものだとは思ったが、ちょっと気になったのは、特に「イタリア」ではやはり木管楽器において、近代楽器による華麗な音色に比べるとちょっと地味すぎて、その点は楽しめなかったことだ。それから、全体を通して、この楽団は決してバリバリの技術があるようには思われず、弦 (コントラバス 3本、チェロ 5本) にしても、「スコットランド」の盛り上がりなどのように素晴らしい箇所があった反面、「フィンガルの洞窟」では少し単調に過ぎたのではないだろうか。やはりロマン派の音楽になると、書かれた時代のオケの編成がどうであろうと、さらに大型にして豊かなニュアンスを出す方が、感動的ではないだろうか。そういうことを勘案すると、今回の演奏会は、総合点において、都響を指揮したものほどの激烈な感動はなかったというのが、私の感想である。だがもちろん、それは都響との演奏会が特別素晴らしかったのであって、今回も、このコンビならではの真実味溢れる表現に何度も触れることができた点、やはり得難い演奏会であったことには間違いがないだろう。

それからもうひとつの発見は、ミンコフスキは多分、いや間違いなく (笑)、多動のタイプの人だろうということだ。というのも、後半の「スコットランド」の演奏前に聴衆に向かって、指揮台から 2分くらいだろうか、フランス訛りの英語で聴衆に話しかけたのであるが (但し、始まりは「マダメ・エ・ムシュー。ボンソワー。コンバンワ」であったが)、その内容がかなりあちこちに話題の飛ぶものであったのだ。最初に、またこの素晴らしい響きのホールに帰って来ることができたことは嬉しいと言い、前回は「a lot of ハイドン」(これは 2009年来日時の話?) であったが、今回は「a lot of メンデルスゾーン」であること、これから朝まで彼の作品をずっと演奏してもよいこと (もちろん冗談だろう)、メンデルスゾーンはドイツの作曲家というよりは英国の作曲家であること、英国は大事な国であること (もちろん日本も大事であること)、この「スコットランド」交響曲はスコットランド旅行の際の BGM とすべきこと、エディンバラのホリルードハウス宮殿にはメアリー 1世の愛人が殺害されたあとを見ることができること、それから、この曲には様々なスコットランド情緒が出てきて、それは動物の声の模倣であったり最後に出て来るコラールであったりするが、時代錯誤を承知で言えば、そこには Jazzy な雰囲気がある。ところで先週亡くなったフランスの偉大なジャズ・ヴァイオリニストがいて、彼はステファン・グラッペリの弟子で、YouTube で沢山彼の音楽を視聴できるが、この演奏を彼に捧げます。ええっと、そろそろ演奏しましょうか。・・・こんな具合である。うーん、思い出して書いても、話題があちこち飛びすぎである (笑)。この多動性こそが、彼の音楽の原動力になっているのだろう。ここでの話題のうち、ホリルードハウス宮殿での私自身の経験については、昨年 12月17日のシャルル・デュトワ指揮 NHK 交響楽団の演奏会の記事で触れている (ところでこの演奏会と同一のプログラムを含むデュトワと N 響の昨年 12月定期の 3プログラムは、例のセクハラ騒動のせいで、放送されなかった。このままお蔵入りして幻の映像となってしまうのか・・・)。また、先週亡くなったフランスのジャズ・ヴァイオリニストとは、私も知らなかったが、ディディエ・ロックウッドという人らしい。62歳という若い死であったようだ。この人の奥さんは、ソプラノ歌手のパトリシア・プティボンであるとのこと。ご冥福をお祈りします。これがロックウッド。
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演奏会終了後のカーテンコール時に楽員の様子を見ていると、何やら譜面をめくっているので、アンコールが演奏されるように思われた。この流れなら、アンコールはもちろん、同じメンデルスゾーンの「夏の夜の夢」からスケルツォか夜想曲だろうと予想したのだが、ミンコフスキの指示でオケはそのまま解散、アンコールは演奏されなかった。今回彼らはアジアツアーを行っていて、日本では 前日の金沢とこの東京の 2回だけであったようだが、アジアのほかの都市への移動がこれからあるのか、あるいはほかの理由かは分からない。だが、コンサート本体だけで充分な内容であったので、アンコールをせがむ必要はなかったと思う。そうそう、金沢と言えば、同地にある優れた室内オケ、オーケストラ・アンサンブル金沢は、今年 3月に井上道義が音楽監督を退任したあと、9月からこのミンコフスキが新たに芸術監督に就任する。相変わらず最新ニュースに疎い私なので今回初めて知ったが、既に年初に発表されていたようだ。うーん、これは大変なことになった。また新幹線で頻繁に、大好きな金沢まで出掛けなくてはならないのか。いやいや、都内在住者には朗報がある。8/1 (水) に、以下のコンサートが開かれるのだ!! これは必聴だろうと思ってぴあで調べてみると、既に残り少なくなっている。本当に東京のコンサートシーンは油断できない。だが、ミンコフスキの指揮となると、やはり万難を排して馳せ参じるしかないのである。
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by yokohama7474 | 2018-02-28 00:49 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

ミハイル・プレトニョフ指揮 東京フィル (ピアノ : 牛田智大) 2018年 2月25日 オーチャードホール

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東京フィルハーモニー交響楽団 (通称「東フィル」) とその特別客演指揮者であるロシア人のミハイル・プレトニョフの演奏会である。このコンビの演奏会は過去に 2回、2016年 4月と 2017年 2月に記事にしていて、今自分で確認してみると、どちらも彼のことを「もともとはスーパーなピアニスト」と表現している (笑)。実は今回も同じ表現で始めようと思ったのだが、年に 1回とは言え、3回も同じ表現を使うのはいかにも工夫がない。なので、今回はそれはやめておこう。もう遅いか (笑)。
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上のチラシに、「北欧紀行」とある通り、この日は北欧の音楽。いや、より正確には、ほとんどがシベリウス (フィンランド人) の音楽に、1曲だけグリーク (ノルウェイ人) の音楽が入っているというもの。
 シベリウス : 交響詩「フィンランディア」作品26
 グリーク : ピアノ協奏曲イ短調作品16 (ピアノ : 牛田智大)
 シベリウス : 組曲「ペレアスとメリザンド」
 シベリウス : 交響曲第 7番ハ長調作品105

ここで先に、共演したピアニスト、牛田智大 (ともはる) について触れておこう。彼はテレビ出演も多いので、一般にもそれなりに知られているかと思うが、そこでのイメージは、本当に利発そうな少年というものであるだろう。こんな感じ。
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だが彼は 1999年生まれで、既に 18歳。最近は、このような立派な青年になっているのである。現在はモスクワ音楽院ジュニア・カレッジに在籍中とのこと。
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クラシック音楽の世界では、神童は時折登場する。だがその神童が年齢に応じてうまく名演奏家に成長して行くか否かは、なかなかに難しい問題がある。途中で本当に挫折してしまう人もいれば、本人は充実した演奏活動を続けていても、幼少時にはアイドルのようにチヤホヤしたマスコミが取り上げなくなる場合もあるだろう。私の持論は、神童や天才は大いに結構だが、年とともにその表現が変わり、常にその時々の真実の音楽を聴かせてくれるような演奏家をこそ尊敬するというもの。牛田のケースは、幸いなことに素晴らしいピアニストに成長していると思うのだが、それについては以下でまた触れよう。

今回は本番に先立って行われる最終リハーサルを見学することができたので、その様子を少し書いておきたい。15時からが本番であったところ、リハーサルは 12時からで、まず 30分、その後 10分程度の休憩を挟んでさらに 30分というものであった。演奏者たちはラフな格好であり、また、このプログラムは既に 2日前にサントリーホールで一度演奏していることもあってか、開始時点の雰囲気は比較的和やかなもの。最初はシベリウス 7番であったが、冒頭、指揮者の開始指示をティンパニ奏者が見落としていたらしいハプニングもあったが、笑いの中で再度スタートした音楽は、いやこれは実にニュアンス豊かな素晴らしいもの。結局プレトニョフは、途中オケを停めたのはほんの数回のみであり、一部の箇所でのアクセントを確認する程度で全曲をスムーズに演奏し終えた。そして、コンサートマスター (三浦章宏...この人は三浦文彰のお父さんなんですね!!) の提案で、アンコールを練習した。今回聴衆に開放された席は 1階後方で、ステージ上の言葉はほとんど聞こえなかったが、この「アンコール」という言葉ははっきりと聞こえた。なんとこの日は定期演奏会なのに、アンコールがあるのか。そして始まった練習で演奏され始めたのは、なんとも楽しい曲。恐らくはシベリウスの音楽のようだが、聞き覚えのない作品であった。アンコールだからもちろん短い曲で、ここでは全曲の通し演奏のあと、終結部の着地をもう一度確認していた。そして休憩後のグリークのコンチェルトの練習は、第 1楽章 (今回はティンパニも大丈夫) と第 3楽章のほとんど。もともとスーパーな (あ、言わない約束でしたが、まあいいか) ピアニストであるプレトニョフは、何度か牛田に確認を求め、若い牛田は、練習中は譜面を見ていないものの、ちゃんとピアノの中にそれを置いていて、プレトニョフから問いかけがあるたびに慌てて譜面を取り出しては該当箇所をチェック、何やら書き込みをしていた。リハーサルはそれから、「ペレアスとメリザンド」の一部をちょっとさらっただけで終了した。

さて本番である。まず最初の「フィンランディア」はもちろん、シベリウスの全作品の中でも恐らく最も有名なものであろう。1900年に初演されている。この曲の冒頭は重く暗い音楽だが、それは当時フィンランドを支配していたロシアの圧政を表しており、曲はフィンランドの人たちの闘争と最後の勝利を描いている。ロシア人であるプレトニョフがロシアの圧政からの独立を描く曲を指揮するというのは、その点だけ取ってみれば奇異かもしれないが、これは 100年以上前の作品で、特定の場所での出来事と切り離して、名曲を名曲として味わえばよい。この演奏、冒頭部分が通常よりもかなり遅いテンポで重苦しく演奏され、曲調が明るくなっても、それほど疾走感はなかったが、常にヒューマンな味わいが継続し、音楽的ドラマをダイナミックに演出していた。

そして牛田をソロに迎えてのグリークのピアノ協奏曲であるが、これもまた素晴らしい演奏。そもそもこの曲は、少しムード音楽風に受け取られているきらいはないだろうか。だが私は、未だに聴くたびにその素晴らしい北欧の空気感と、純粋に音楽的なドラマ性に感動するのである。そして今回の牛田の演奏は、打鍵の力強さが際立つ美しい演奏で、緩急は自在だし、叙情と迫力が両立していて、本当にいつまでも耳を傾けていたいようなものであった。上で神童云々と言ったが、今回の牛田の演奏で感じたことには、彼はきっと世間のプレッシャーをむしろ楽しむくらいの自由さを持つ人であり、こういう人は立派に神童から天才に脱皮するのだと思う。例えば、第 1楽章最後にカデンツァがあるのだが、その部分はまるでジャズを聴いているかのような気がしたものだ。ジャズとはもちろん、孤独ではあるがまた自由でもあることにその価値があるわけで、クラシックの音楽家にとっても学ぶところが多々あるはず。主張のはっきりした今回の牛田の演奏を聴いていると、例えばこれから世界的なコンクールの制覇を目指したりなどするよりは、このまま地道に、聴衆にストレートに訴えかける音楽を続けてくれる方がよいように、私は思うのだがいかがだろうか。そして彼が弾いた抒情的な音楽は、これもやはりシベリウスの「もみの木作品75-5」。叙情的ないい曲で、しっかりしたタッチの素晴らしい演奏だった。この曲は確か以前、舘野泉の録音で聴いたことがある。フィンランドのイメージのジャケット。
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次の「ペレアスとメリザンド」は、もちろんあの世紀末ベルギーの象徴派詩人メーテルリンクの戯曲を音楽化したものである。ドビュッシーのオペラ、フォーレの劇付随音楽 (による組曲)、シェーンベルクの交響詩と、名作曲家たちに様々な形態で採り上げられたが、このシベリウスのものは、劇付随音楽をもとにした組曲。知名度はともかく、決して演奏頻度が高い曲とは言えないが、プレトニョフと東フィルは、実に丁寧に美しく全 9曲を演奏した。1曲あたりの演奏時間は短いので、曲間を空けずに続けて演奏していたが、後半になるとプレトニョフは指揮棒を置き、素手での指揮に切り替えた。そしてオケはそれに敏感に反応し、本当に繊細で流れのよい音楽を奏でたのである。これは、原作の「ペレアスとメリザンド」の挿絵から、有名な泉の場面。
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そして最後のシベリウス 7番であるが、このような音楽をどのように表現すればよいのか。20分ちょっとの単一楽章の交響曲であるが、そこに盛り込まれた驚くべき音の多様さを、美しくも力強く表現し尽した名演であった。これはシベリウスの書いた最後の交響曲で、作曲者渾身の傑作であることは確かだが、よく知られている通り、シベリウスはこの曲を発表した 59歳の時点から、ほとんど作曲をせずに優に 30年以上を生きたのである。その沈黙は音楽史上の謎とも言われるが、たった 20分と少しの長さの曲に、万華鏡のように色彩豊かな音を凝縮して散りばめることができたのだから、もうこれ以上やることはないと思っても仕方ないのかもしれないと、今回の演奏を聴きながら考えていたものだ。これは晩年のシベリウスの肖像。
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そして、プレトニョフの聴衆へのアナウンスのあと、予定通りアンコールで演奏されたのは、やはりシベリウスの「ポルカ」で、これは「かわいらしい組曲」という曲集の中の 1曲であるらしい。弦楽合奏にフルート 2本の演奏だが、弦楽器群は、滔々と旋律を弾くと思えばピツィカートでリズムを刻んだり、結構忙しい。コンマスの三浦さん以下、楽しそうに演奏して、リハーサルで繰り返していた最後の着地も見事でしたよ。シベリウスは、有名な数々の交響詩以外にも夥しい数の管弦楽曲を作曲しており、それらの多くは私にとって未知の曲。まだまだ奥深いクラシック音楽の世界なのである。BIS レーベルの大シベリウス全集のうち、Vol. 8 の管弦楽曲集 (交響曲、交響詩は除く) は 6枚組。うーん、いつかは買いたいが、今じゃないな。
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このような充実の演奏会を堪能したわけであるが、このところの東フィルの演奏レヴェルには本当に感心するし、今後も楽しみだ。一方のプレトニョフは 6月に手兵のロシア・ナショナル管を連れて来日し、これまた珍しいチェイコフスキーの歌劇「イオランタ」の演奏会形式上演を行う。私はたまたまこの曲はロンドンで、ウラディーミル・ユロフスキ指揮のロンドン・フィルで聴いたことがあるが、感動的な名曲である。今回はプレトニョフの大いなる冒険であるが、私はその日は別のコンサートに行くことになる予定で、その演奏会には残念ながら行けないのである。だが、ご興味おありの方のために、チラシを掲載しておこう。
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そのユニークな活動ぶりが東京の音楽シーンに欠かせないものとなっているプレトニョフの、スーパーな指揮ぶりに、今後も期待である。

by yokohama7474 | 2018-02-26 01:10 | 音楽 (Live) | Comments(0)