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東京二期会公演 ワーグナー : 歌劇「ローエングリン」 (指揮 : 準・メルクル / 演出 : 深作健太) 2018年 2月24日 東京文化会館

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日系ドイツ人の名指揮者、準・メルクルは、先に東京都交響楽団 (通称「都響」) を初めて指揮したコンサートにおいて、大変充実の演奏を聴かせたことは以前の記事でも採り上げた。そしてこのコンビは、二期会の「ローエングリン」の上演に登場したのである。日本におけるワーグナー上演の歴史を刻んできた二期会であるから、「ローエングリン」も何度も上演しているのかと思いきや、なんと、今回が 2度め。しかも、前回は 1979年の若杉弘の指揮での上演というから、ほぼ 40年のブランクがあったことになる。今回の上演は 4公演で、私が聴いたのはその 3回目。二期会は、同会に所属している日本人歌手たちが出演するのであるが、今回もいつもの通り、キャストには 2組ある。実際のところ、2組の独唱者たちも合唱団も、オーケストラも、もちろん演出をはじめとするスタッフも全員日本人。指揮は半分日本人 (笑)。そこで示された演奏の水準には驚くべきものがあり、これは二期会のワーグナー上演の中でも記憶すべき名演奏になったのではないだろうか。

そうそう、演出の紹介を忘れていた。深作健太である。実は、メルクルの指揮、深作の演出の二期会上演というと、2015年10月に上演されたリヒャルト・シュトラウスの「ダナエの愛」がそうであり、このブログでもかなりの好感を持ってご紹介した記憶がある。今回はそれに続くこの指揮・演出コンビでの第 2弾ということになるわけである。今年 45歳の深作は、父欣二のイメージとはちょっと異なる、このように温和な外見の人で、今回会場でお見かけした印象も、こんな感じだった。
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それから、この上演と前回の「ダナエの愛」で共通するもうひとつの重要な要素は、双方で私の見た上演においては、テノールの福井敬とソプラノの林正子が共演したこと。前回はミダスとダナエ、今回はローエングリンとエルザである。そうそう、考えてみれば福井敬は、1997年の新国立劇場のオープニングシリーズでも、この「ローエングリン」を歌っていた (指揮 : 若杉弘 / 演出 : ウォルフガンク・ワーグナー)。それから 20年が経過しているわけであるが、55歳の福井の今回の歌唱は、記憶の中の以前の歌唱と比べても、全く衰えがないどころか、さらに進化したものであったと思う。惚れ惚れする美声に加え、ワーグナーのテノールに必要な劇性もあり、あれこれ必要とされる演技も堂に入ったもの。改めてこの人が日本を代表するテノールであることを思い知った次第。
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一方の林正子も、いつも通り幅広い表現力で、このエルザという単純そうでなかなか難しい役を説得力をもって演じていた。上背もあり、容姿も舞台映えするが、それだけではなくて、役柄の意味を充分理解しての演技であり歌唱であることがはっきりと伝わってくるようであった。
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歌手でもうひとり印象に残ったのは、オルトルートを歌ったソプラノの中村真紀。ハンガリーのリスト音楽院で学んだり、ボローニャに留学した経験もあるようだが、今回が二期会デビューとのこと。オルトルートは普通はメゾの役だと思うが、彼女の声の質なら、確かにこの役にも適性がありそうだ。片目に眼帯をして、悪役らしい悪役 (?) を素晴らしく演じていた。
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と、歌手陣も充実であったのが、私は本当に今回の上演のオーケストラパートには酔いしれてしまった。いつも書いている都響の芯のある音がここでも音のドラマに、筆舌に尽くしがたい迫真性を与えていることを聴くのはこの上ない喜びだったし、そのサウンドクオリティは、ドイツの本場の名門歌劇場のオケさながらのレヴェルである。何度も現れるバンダによるファンファーレも安定していて、この作品の個性の表出に大きく貢献した。加えて、冒頭の前奏曲に顕著に聴かれるキラキラした音での緩やかな起伏ある流れも、実に見事だったとしか言いようがない。もちろん、それを引き出すメルクルの手腕も大変鮮烈だ。メルクルと都響は、コンサートでもオペラでも、これから共演を増やして行ってくれないものであろうか。
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そして深作の演出は、今回もかなり凝ったもので、オペラの専門の演出家ではないにもかかわらず、オペラ演出としてはっきりメッセージのあるものであった点、評価したい。この演出のコンセプトは、ローエングリンを、彼に憧れたバイエルンのルートヴィヒ 2世 (もちろん、ワーグナーの大パトロンである) その人と重ね合わせるというもの。これが彼の青年の頃の肖像で、今回の演出でも小道具として使われている。
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冒頭の前奏曲の途中から、ローエングリン = 中年になったルートヴィヒとおぼしき人物が舞台におり、過去の思い出に耽っているのか、ドイツの神話に思いを馳せているのか、とにかく心ここにあらずで、敵の攻撃に立ち向かうためにドイツの諸国が団結しようという呼びかけにも反応しない。因みに、ここでドイツ王ハインリヒは、ちょうどルートヴィヒ 2世の治世の頃に頭角を現し、その後ドイツ統一の中心となるプロイセンのビスマルクの姿のようである。どこで分かるかというと、この兜を手に持っていることから分かるのである。
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ルートヴィヒは長じるに及んで容姿が崩れて行ったことは有名で、この演出では、この写真のような中年の (実年齢では死去したのはわずか 40歳のときなのだが) ルートヴィヒがローエングリンであるという設定だ。
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そして、少年 (これは魔法によって白鳥に姿を変えられていて、最後に人間の姿で戻ってくるゴットフリートである)、それから、銀の甲冑を身に着けた若き日のローエングリンも、ともに歌が (もちろんセリフも) ない演技だけの役として頻繁に登場する。つまり、ここではローエングリン = ルートヴィヒの若き日の姿が、現在の姿と循環しているのである。そう思うと、冒頭では舞台奥に設置されたデジタル時計が、0時00分から遡って行くのに対し、ラストでは時計が進み始めるのだ。現実世界では、時には不可逆性があり、時計は先にしか進まないのだが、ロマン主義の世界、伝説の世界、そしてルートヴィヒが住んでいて、そのことが現実としてワーグナーをして数々の偉大な作品を書かせしめるに至った、空想の世界では、時計は逆にも進むのである。このあたりのイメージは、なかなかに冴えたものがあった。但し、この設定には課題もいろいろあって、まずひとつは、禁忌をテーマとするローエングリンの聖性はあまり強調されず、ローエングリンをルートヴィヒに重ねることの意味に、多少こじつけめいたものが見えてしまったこと。もうひとつは、少年ゴットフリートをかなりの時間舞台に乗せていることの意味が明確ではなかったこと。それから、これは我々日本人には感覚的に理解しにくい国と国 (具体的にはバイエルンとプロイセン) との間の歴史的関係性を素材にすることに、ヨーロッパ人が持つであろう切実さが見られなかったこと。つまり、21世紀の東京で、なぜに 19世紀ドイツの状況を舞台に乗せる意味があるのか、ということになる。もっとも、ヨーロッパの演出家によるワーグナーには、うんざりするほど理屈っぽい演出や、過度に政治的な色合いを持つ演出なども多くあるので、それらに比べれば、今回の演出には、イメージ創出の点では見るものがあったと評価することは可能であると思う。もちろん、どのような演出であっても、オケと歌手陣 (あ、言い忘れていたが、合唱も出色の出来) の熱演が、すべてを飲み込んでいったことだろうと思うのであるが。

最近の東京では、たまたまなのか理由があるのか、同じ大作が違う演奏者で演奏されるケースがままある。この「ローエングリン」も、ほんの 1ヶ月少し後に、東京・春・音楽祭で、こちらは演奏会形式であるが、全曲の演奏がなされる。海外有名歌手を含むその演奏と、今回の純 (いや、指揮者に因んで「準」かな。笑)・日本プロジェクトとの違いを楽しみにしたい。

by yokohama7474 | 2018-02-25 02:17 | 音楽 (Live) | Comments(2)  

パーヴォ・ヤルヴィ指揮 NHK 交響楽団 (ヴァイオリン : 諏訪内晶子) 2018年 2月22日 サントリーホール

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今月の NHK 交響楽団 (通称「N 響」) の定期演奏会の 3演目め、サントリーホールでの公演である。今月の N 響定期は、世界で飛ぶ鳥を落とす勢いの首席指揮者パーヴォ・ヤルヴィのもと、大変に意欲的なプログラムが組まれているが、振り返ってみると、最初がマーラーの大曲第 7番。2つめは、珍しい曲を含むフランス音楽プロ。そして今回の演奏会は、ちょっとびっくりするような意外な組み合わせによってできている。
 武満徹 : ノスタルジア - アンドレイ・タルコフスキーの追憶に (ヴァイオリン : 諏訪内晶子)
 武満徹 : 遠い呼び声の彼方へ! (ヴァイオリン : 同上)
 ワーグナー : 楽劇「ニーベルングの指環」管弦楽曲集

うーむ。静謐で漂うような武満の曲を、しかも 2曲続けたあと、休憩を挟んで、ワーグナーの壮大な代表作を演奏する。これは非常に大胆な試みであるが、だがまあ考えてみれば、後半に「指環」の抜粋を持ってくる場合、前半には、大体 30分程度の作品になるだろうから、ワーグナーとは毛色の違った作品を置くという発想は、確かにあってもよいように思う。しかも今回面白いのは、その武満の 2曲にはいずれもヴァイオリンのソロが入り、そのいずれもを、諏訪内晶子が弾くということだ。
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諏訪内はもちろん日本を代表するヴァイオリニストで、このブログでも何度も彼女の演奏に触れている。ポピュラー名曲をこなす一方で、現代音楽にも積極的に取り組んでいる点、知名度に安住しない真摯な音楽家であると言ってよいだろう。今回演奏された 2曲は、いずれもオーケストラをバックにヴァイオリンが独奏を務める作品で、最初の「ノスタルジア」が 1987年の作品、次の「遠い呼び声の彼方へ!」は 1980年の作品。つまりは、1980年代、50代に入った武満が、あの夢の中を漂うような音楽のスタイルを確立してからの作品で、曲の持ち味には共通点がある。ただ違うのは、前者が小規模な弦楽合奏だけをバックにするのに対し、後者はフルオーケストラをバックにする点だ。オケの配置は、いつものヤルヴィ流のヴァイオリン左右対抗配置だが、ここでいつもと違ったのは、ヤルヴィが指揮棒を持たずに指揮したことだ。ヤルヴィは恐らく、日本で N 響を指揮する際に、この国が輩出した偉大なる作曲家の作品を演奏することをひとつの楽しみとしているのではないか。確かにこのような音楽には指揮棒なしという方法は意味があるように思う。諏訪内の、深く歌いまた舞い上がる、表現力豊かなヴァイオリンが、オケの流れるような音楽と一体になって、武満サウンドをホール内に響かせていた。そういえば、諏訪内は武満の「遠い呼び声の彼方へ!」を以前 N 響と録音していたことを思い出した。2001年に、このオケが世界的に売り出しをかけるために英国の名門レーベル、デッカに録音した、チャイコフスキー 4番をメインとした CD。指揮は・・・残念ながらまたその音楽を聴ける日が来るのか否か現時点では分からない、シャルル・デュトワであった。
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叙情溢れる 2曲のあとにはヴァイオリンのアンコールは演奏されず、そして休憩を経て、後半のワーグナーに入った。彼の超大作、4部からなる楽劇「ニーベルングの指環」については、このブログでも何度も触れてきたのであるが、とにかく日本では、世界のどこにも負けないのではないかと思われるほど、大変な人気なのである。今年は 4月にも、ピエタリ・インキネン指揮の日本フィルが、やはりこの「指環」の抜粋を演奏する予定になっているが、そちらは名指揮者ロリン・マゼールが編曲した版で、4部作の順番に沿って音楽をダイジェストにした、切れ目がないものになるはず。だが今回のヤルヴィ / N 響の演奏はまたユニークで、このような内容であったのである。
 1. 「ワルキューレ」から「ヴォータンの別れと魔の炎の音楽」
 2. 「ワルキューレ」から「ワルキューレの騎行」
 3. 「ジークフリート」から「森のささやき」
 4. 「神々のたそがれ」から「ジークフリートの葬送行進曲」
 5. 「神々のたそがれ」から「夜明けとジークフリートのラインへの旅」
 6. 「ラインの黄金」から「ワルハラ城への神々の入場」

これら 6曲は、切れ目なしに連続してではなく、1曲ごとに休止を置いての演奏であったのだが、このオペラをよく知っている人は、一目でこの選曲がユニークであることに気づくであろう。まず、演奏の順序が全曲の順序と違う。4曲の順番は、① ラインの黄金、② ワルキューレ、③ ジークフリート、④ 神々のたそがれ、である。だから、最後に「ラインの黄金」が来ていることだけでも、大変奇異なのである。だが、さらに注意深く見てみよう。この並びは決してバラバラではなく、②③④① というもの。つまり、① が後ろに回っているだけで、もしこれがグルグル循環して演奏されるなら、順番としてはおかしくないことになる。ライン川が最初と最後に出て来るこの 4部作、その意味では、水の流れのように果てなく続く循環構造に近いとも解釈できよう (実は前半の武満の 2曲も、水に関係するイメージを持っていて、その意味ではこのプログラムは非常に巧妙なもの)。だが、さらにさらによく見てみると、やはり妙な点がある。② の「ワルキューレ」から 2曲、④ の「神々のたそがれ」から 2曲演奏されているが、それぞれの楽劇の中では、これら 2曲の演奏の順番は逆である。つまり、「ワルキューレ」においては、「ワルキューレの騎行」「ヴォータンの別れと魔の炎の音楽」の順だし、「神々のたそがれ」においては、「夜明けとジークフリートのラインへの旅」「ジークフリートの葬送行進曲」の順なのである。そのように、この演奏における曲の組み合わせには、ちょっと特殊なものがあるかに思われたのだが、よく考えてみると、「指環」の中で、オーケストラコンサートのレパートリーとして知られる曲は、ほとんどこれで網羅されているではないか。ここにないのは、「神々のたそがれ」の終曲くらいかと思うが、実は、1曲目は「ワルキューレ」の、6曲目は「ラインの黄金」の、それぞれ終曲であるから、そこに「神々のたそがれ」の終曲まで入れてしまうと、4作のうち 3作のエンディングが入ってしまって、さすがにそれはちょっとバランスを欠いてしまうだろう (笑)。そして、実際に聴いてみると、この 6曲の流れは意外によくて、例えば、1 のあとに 2 を演奏するなんて、今まで考えたこともなかったけれど、ご存じの方は一度頭の中で音を鳴らしてみて頂きたい。結構いけますよ、これ。あるいは、4 と 5 を、原曲通り、5 - 4 の順で演奏すると、何か座りが悪くなってしまう気がするので、4 - 5 の順は意外とスムーズなのだ。それから、2 と 5 は、全曲の中では終結部はなく次の音楽に続くので、今回はオリジナルとは異なる終結部が演奏された。それによって、ここでのヤルヴィの意図が、4部作の抜粋を切れ目なしに延々と続けるのではなく、それぞれの曲を独立した楽章のように扱い、そのバランスと、音楽の推移を楽しむということにあったのだと気づくのである。
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演奏自体は、高い能力を持つヤルヴィと N 響のことだから、悪かろうはずがない。音のドラマとして、非常に充実したものであったことは間違いがない。だがその一方で、もし欲を言うなら、ちょっと洗練されすぎではないか、という気もしないではなかった。シュトラウスやマーラーを連続して演奏し、成果を挙げているこのコンビであるから、音響的には類似点の多いワーグナーでも成功すると思ったが、実のところワーグナーの音楽は、シュトラウスやマーラーに必要な洗練よりも、なんというか、より野蛮と言ってもよいような生命力が重要である。そう考えると、もっともっと極端な表情をつけ、さらに金管の炸裂を聴かせてくれる演奏の方が、よりワーグナーの神髄に近いのではないか、とも思われるのである。極端に言うと、オケの統制が乱れて崩れそうになるような、そんな暴力的なワーグナーに、人々は酔いしれるという要素があるように思うのである。だがそれは、好みの問題でもあるだろう。今回のヤルヴィと N 響の演奏が、高い水準のものであったことには間違いはないと思う。ところで今回 N 響は客演コンサートマスターを迎えていたが、それはブルガリア生まれのヴェスカ・エシュケナージ。なんとあの、アムステルダムの王立コンセルトヘボウ管のコンサートマスターで、時々 N 響に客演しているらしい。「森のささやき」では短いソロも披露したが、さすがのつややかさであった。このような人の客演が、N 響の演奏水準をさらに高めてくれることは確かだろう。
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今月のヤルヴィと N 響の 3種の定期公演は、こうしてすべて終了した。さて、これから一週間半ほどの間をおいて、このコンビはまた素晴らしいチャレンジを披露してくれる。それについて書くのは、私も楽しみなのである。そこに辿り着くまで今しばらく日数を要し、その間この川沿いブログでは、ほかのコンサートのラプソディがいくつか鳴り響くことになりますので、適宜お付き合いのほどを。

by yokohama7474 | 2018-02-23 00:38 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

ユーリ・テミルカーノフ指揮 読売日本交響楽団 (ヴァイオリン : レティシア・モレノ) 2018年 2月20日 サントリーホール

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ロシアの巨匠、現在 79歳のユーリ・テミルカーノフと読売日本交響楽団 (通称「読響」) のコンサート、これが今回の 3つのプログラムのうち最後のもの。このサントリーホールでの演奏のあと、2/21 (水) は大阪で、2/22 (木) は福岡で、同じ曲目による演奏会が開かれる。テミルカーノフのインタビューによると、彼は、30年間率いている手兵、サンクト・ペテルブルク・フィルとは大阪も福岡も訪れたことがあるらしく、「日本のコンサートホールはどこも演奏しやすいし、聴衆のみなさんも素晴らしいですね」と語っている。さしずめこれは、地方公演に先立つ東京での腕鳴らしだったのか。いやいやとんでもない、今回の読響は、いつもにもましてクオリティの高い演奏を披露し、私は痛く感動した。まず曲目を紹介しよう。
 グリンカ : 歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲
 プロコフィエフ : ヴァイオリン協奏曲第 2番ト短調作品63 (ヴァイオリン : レティシア・モレノ)
 ドヴォルザーク : 交響曲第 9番ホ短調作品95「新世界から」

なるほど。これは名曲プログラムだ。このようなレパートリーで胸のすく演奏を聴かせてくれるオーケストラは、本当によいオーケストラなのだ。まず最初の「ルスランとリュドミラ」序曲は、ロシア音楽の父と呼ばれるミハイル・グリンカ (1804 - 1857) の代表作であり、疾走する音楽にはオーケストラの醍醐味が詰まっている。今回の演奏では、すさまじいテンポで一気呵成に駆け抜けることで、この曲の持つ凄みを改めて実感することとなった。冒頭から一聴して読響の好調は明らかで、弦の各パートが隅々まで鳴り渡り、色分けも明確。また、木管、金管、ティンパニもそれぞれの持ち場を完璧にこなし、実に見事の一言。80歳目前にしてこれだけ疾走感のある音楽を作ることのできるテミルカーノフ、やはり只者ではない。
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2曲目のコンチェルトでソロを弾いたのは、スペイン、マドリッド出身のレティシア・モレノ。1985年生まれというから、ヴァイオリニストとして超若手という年齢ではないが、未だ若手のうちには入るだろう。
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私としては未知のヴァイオリニストであったが、あの稀代の名教師ザハール・ブロンに師事し、いくつかの国際コンクールで入賞を果たしているらしい。既にメータ、ゲルギエフ、ドゥダメル、サロネンらの名指揮者たちと共演があり、ドイツ・グラモフォンでのレコーディングもあって、そのひとつは、テミルカーノフ指揮サンクト・ペテルブルク・フィルとのショスタコーヴィチの 1番のコンチェルトである。これがその CD のジャケット。
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そのモレノが今回弾いたのは、プロコフィエフの 2曲のヴァイオリン協奏曲のうち、第 2番。いかにもプロコフィエフらしいモダン性と諧謔味、そして時には抒情も混じり合った面白い曲だ。演奏開始前に係の人が、ヴァイオリン用の譜面台をステージ前面に置いたので、もしかして譜面を見ながらの演奏かと思ったのであるが (私はロンドンで、とある有名なロシア出身の女流ヴァイオリニストが、やはりこのプロコフィエフの第 2コンチェルトを、譜面を見ながら弾くのを見て、驚いた記憶がある)、実際には譜面に手を触れることなく演奏された。やはりコンチェルトのソロ・パートは、よほどのことがない限り、暗譜で弾いて欲しいものであるから、それにはほっとしたのである。さてモレノの演奏自体は、特に大きな不満はないものの、逆に、どうしても彼女でないと出せない持ち味というものも、正直なところ、あまり感じることができなかった。ある意味で真面目な演奏で、真面目であって何が悪いという考えもあるだろうが、プロコフィエフのような複雑な作曲家の作品には、もっと屈折があった方が楽しめるのではないか、と思った次第。ところでこのコンチェルト、終楽章の舞踊風の音楽でカスタネットが鳴るのだが、今回初めて知ったことには、初演はなんとマドリッドでなされているらしい。プロコフィエフは 1918年にロシアを離れ、その後革命が起こったこともあって、1936年まで祖国に帰らなかったのだが、この曲はその国外生活の最後の方、1935年に書かれている。なるほど、スペイン製の協奏曲。それでカスタネットなのか。マドリッドで生まれた曲をマドリッド出身のヴァイオリニストが弾くとは、なかなか洒落た選曲だ。彼女はアンコールでバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第 1番の最初の楽章、アダージョを弾いたが、これは非常に内面的な素晴らしい演奏。今後またその表現を深めて行くことだろう。

そしてメインは、天下の名曲「新世界」である。これはまた、実に惚れ惚れするような彫りの深い、また迫力に満ちた名演で、読響としても、ベストの範疇に入る充実した演奏であったのではないか。テミルカーノフの指揮ぶりは、いつもの通り、ほとんど不愛想と言ってもよいもの。あまり表情を見せずに淡々とステージに登場すると、コンサートマスターと握手をすることも笑顔を交わすこともなく、やおら譜面を開き眼鏡をかけて、そして素手を伸ばして空中で一度双方の掌を合わせてから、ぐいっと音を引き出し始める。右腕はほとんど上下運動を続け、時折左手で宙をぐるっと掻いてアクセントをつけるものの、音楽自体が停滞することは決してなく、タメも比較的少ない。だが、そこで鳴る音の分離は驚くほどよく、またなんと充実感のあること。これは読響との相性の良さや信頼関係があって初めて可能になるのだろうが、聴いていて大変にエキサイティングである。第 1楽章の提示部を反復しない点も、推進力を重視した結果であると思うが、その一方で第 2楽章では、イングリッシュ・ホルンによる「家路」のメロディが終わり、弦楽器だけで深い抒情を醸成する部分では、指揮者ははっきりと唸り声を上げていた。これこそまさにテミルカーノフの本領発揮である。ただ疾走する迫力ある音楽を鳴らすだけではなく、心に深く訴える抒情性も一級品であり、その表現の幅こそが、彼を巨匠たらしめているのだと思うのである。第 3楽章、第 4楽章での金管の鳴りも見事で、大詰めの手前では、大いなる盛り上がりで珍しく少しテンポを落とし、そして終結部の遠くに消えて行くような音を、必要以上に伸ばさずにきっぱりと打ち切って、過度の感傷性なく、颯爽と全曲を終了した。繰り返しだが、天下の名曲「新世界」を、まさに堂々と面白く聴かせてくれるのは、本当に能力のある指揮者とオーケストラしかできないこと。テミルカーノフと読響は、その高い実力をいかんなく聴衆に示したのであった。この名演奏が、大阪と福岡の聴衆にも届けられるとは、本当に素晴らしいことである。なおテミルカーノフは、Mirare レーベルに、サンクト・ペテルブルク・フィルと、この曲を 2011年にライヴ録音している。会場でこの CD も販売されていて、私は購入はしなかったが、いつか聴いてみたいものだと思う。
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さて、私にはひとつの予想があった。今回の演奏会は定期公演ではなく名曲シリーズだし、翌日からの地方公演に備えるものであるから、きっとアンコールがあるのではないか。そう思って終演後の楽員の様子を見ていると、あ、やはり、譜面をめくって、次の曲の準備をしている。「新世界」のあとのアンコールと言えば、もちろん同じドヴォルザーク作曲のスラヴ舞曲から 1曲と、相場は決まっている。だが、鳴り始めた音を聴いてびっくり。それはスラヴ舞曲ではなく、ドヴォルザークを世に出したブラームスの、まさにスラヴ舞曲のお手本となったハンガリー舞曲から、第 1番であったのだ!! ちょっと驚いたが、マエストロ・テミルカーノフの意向なら、もちろんそれもありでしょう!!

終演後もあまり余韻なく、指揮者はオケに解散を命じ、人々は会場を後にした。実は前半でソロを弾いたレティシア・モレノが、後半の「新世界」を客席で聴いているのに私は気づいていたが、派手な服にコートをはおり、一般の聴衆に交じってホールの出口に向かっているのを発見。その途中で足を停めて、CD 売り場 (きっと上に写真を掲げた彼女自身の CD もあったはず) を興味深そうに覗いているのも、気取りのない若手演奏家の素顔が見えて、微笑ましかった。こうして充実のコンサートは終了。人々は、真冬に比べると少し寒さの和らいだ、春の予感を孕んだ空気の中、それぞれに家路に向かったのであった。そう、中には、先刻聴いたばかりの、ドヴォルザークの「家路」のメロディを口ずさんでいた人もいたことだろう。

by yokohama7474 | 2018-02-21 00:11 | 音楽 (Live) | Comments(2)  

細川俊夫 : 歌劇「松風」(指揮 : デヴィッド・ロバート・コールマン / 演出 : サシャ・ヴァルツ) 2018年 2月18日 新国立劇場

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細川俊夫は、このブログでも何度もその名に言及している、現代日本を代表する作曲家であるが、この作品はその細川の 2011年の作品であり、今回が日本初演となる。細川は 1955年広島生まれの 62歳。ドイツで学んだ人であり、その作品は広く世界で演奏されている。この「松風」はもともと、ブリュッセルのモネ劇場、ベルリン国立歌劇場、ポーランド国立歌劇場、ルクセンブルク歌劇場の共同依頼によって書かれたもので、初演はモネ劇場でなされている。
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細川の精力的な作曲活動において、オペラはひとつの柱をなしているように思われる。というのも、この「松風」は彼の 3作目のオペラであるが、その後も既に 3本を作曲、そして現在は 7作目のオペラに取り掛かっており、今年の 7月にシュトゥットガルトで初演予定であるとのこと。これらはいずれも例外なく海外からの委嘱作であり、海外で初演されている。ということはもちろん歌詞は日本語ではなく、確認したわけではないが、恐らくはいずれも今回の「松風」同様、ドイツ語によるものであろうか。
1. リアの物語 (1997-98)
2. 斑女 (2003 - 04)
3. 松風 (2010)
4. 大鴉 (2011 - 12)
5. 海、静かな海 (2015)
6. 二人静 - 海から来た少女 (2017)
7. 地震・夢 (2017 - 18)

芸術音楽の作曲はグローバルな活動であり、海外でのオペラ公演が多いことは誠に結構なのであるが、やはり日本の作曲家の作品を日本の聴衆が聴くチャンスもあるべきであろう。なので今回の「松風」の日本初演は、私としては大変に楽しみなものであった。上記の通り、もともと 4つのオペラハウスからの委嘱であるので、それらの劇場では既に上演されているのはもちろん、ベルリンやブリュッセルやワルシャワでは初演後に何度も再演されているし、同じプロダクションが香港やフランスのリールでも上演されているのに加え、違うプロダクションが既に 2つあって、ひとつは米国ニューヨークとチャールストンで、もうひとつはドイツのキールで上演されている。初演後 7年でこれほど多く上演されている現代オペラも、ほかにそうそうあるものではないと思う。そのひとつの理由は、題材が極めて日本的で、外国人から見てエキゾチックだということもあるだろう。この作品は、題名の通り、能の演目「松風」の翻案なのである。これが能の「松風」の舞台写真。在原行平を恋い慕う亡霊の姉妹、松風と村雨の姿だが、手前にあるのは、海から汐を汲むための車であるようだ。
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私は残念ながら能でこの演目を見たことはないのだが、世阿弥が父、観阿弥のオリジナルに手を入れて完成したと言われているらしい。つまりは 600年ほど前の作品ということになる。オペラはちょうど歌舞伎と同じ頃、17世紀初頭に発生した舞台芸術であるが、能はさらにそれより 200年も先立つものであり、その幽玄さには、世界中の人たちが魅せられるのもよくわかる。だが細川はこの「松風」の初演時に、能に関してこのようなことを言っている。

QUOTE
私は能の根本的な思想に深く興味を持っている。しかし現在日本で上演されている能は、そうした深い思想を隠し持っているにもかかわらず、かなり硬直した伝統の様々な習慣のなかで、その深い「いのち」が実現されていないのではないか。今般、世阿弥の最も優れた作品のひとつである「松風」を原点に持ち、新しくその台本を再構築し、音楽を作曲し、また新しい演出によって、現代に生きる能を基盤とした新しいオペラを創りあげてみたい。
UNQUOTE

正直なところ、これはかなり大胆な発言だと思う。日本での能の上演が、伝統のせいで硬直的になっているという指摘が正しいか否かは、私にはよく分からない。もちろん、伝統芸能であるから柔軟性のない要素もそれはあるだろうし、既に昭和の時代から、観世栄夫のような人が能の外の世界で暴れる (?) ようなことがあったのは、能の閉鎖性を逆に証明する事柄であろうかとも思われる。だが、能の上演自体には古式ゆかしい様式が維持されているので、きっとその点では室町時代以降、その上演方式はあまり変わっていないのではないか。もしそうなら、現代人の時間感覚と合わないことはむしろ当然だろうし、能という特殊な様式美を持つ芸能には、例えば西洋音楽に比べれば、普遍性がないということは言えるだろう。それゆえ、西洋音楽のスタイルで、現代に能の翻案による新たな作品を世に問うという意欲は、理解はできるのである。日本で生まれた芸能をもとに日本人が作曲したドイツ語のオペラが、この日本の地で、外国人指揮者、外国人演出家、外国人歌手たちによって上演されたわけである。休憩なし、上演時間 1時間半の公演であった。

まず結論を急いでしまうと、この作品をオペラと呼ぶ必要があるのだろうかというのが、私の最初の感想。歌手は 4人で、それは、旅の僧と、彼が宿を借りようとする須磨の漁師 (行平と二人の姉妹の悲しい過去を説明する)、そして、松風・村雨の姉妹である。だがそこに、7人の合唱団 (ギリシャ神話のコロス的役割を担う) と 14人のダンサーが舞台で入り混じる。つまり、総勢 25名が舞台でパフォーマンスを繰り広げるのだが、ストーリー展開が遅いので、そのパフォーマンスの密度は非常に濃くなってくる。まず驚きは、松風 (ベルギー人ソプラノ、イルゼ・エーレンス) と村雨 (スウェーデン人メゾ・ソプラノ、シャルロッテ・ヘッレカント) の二人は、粗い紗幕を張った向こうで、空中からゆっくりと下りてきて、かなり長い間、その状態で歌いながら、体を動かすのである。このシーンは、誰もがはっとするほど見事。
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オペラであるから、歌手たちの歌唱はある。だがそれは、予想通り陰鬱な語りに近いもので、優美でも甘美でもなく、聴かせどころのアリアなど、あるわけもない。では詩的なものは? ある。平安時代の歌人、在原行平 (ゆきひら。在原業平の兄) の、「立ち別れ いなばの山の みねにおふる まつとし聞かば 今帰り来む」。これは百人一首にも入っている有名な歌で、「まつ」は「松」と「待つ」をかけてあるのだろう。つまり、因幡の山に生える松に託して、あなたが待っているならまた帰って来ようという意味だ。こんな歌を、いにしえの時代にとっくにこの世から姿を消してしまったはずの若い姉妹が口にすると、それはもう不気味なことこの上ないことは事実だが (笑)、そこにはなんとも言えない深い情緒があることも確か。これは能の本質に通じる性質だ。だが能と違うのは、群舞である。舞台装置 (美術はドイツ人のピア・マイヤー=シュリーヴァーと塩田千春) はシンプルながら、歌手を含め、舞台に最大 25名が乗ることになるので、その動きはかなり複雑。視覚的な刺激は充分だ。
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上の写真でも分かる通り、能と違うところは、舞台に出ている人の数だけではなく、人の動きの多様性とその速度という点にもある。常に緩慢な能の動きとは全く異なり、ここでは、何組かのダンサーや歌手たちが、あるときはドッペルゲンガーのように他人の姿勢を模倣して分身し、またあるときにはいとしい恋人の姿を取り、そしてまたあるときには、恋い焦がれる感情を抽象的に表現する。このパフォーマンスは、例えば山海塾や大駱駝艦の暗黒舞踏 (私は大好きなのである) を思わせる面もあり、そこには、日本古来の土俗的なものすら感じさせる。だがこのオペラの演出家は日本人ではない。ドイツ人振付家のサシャ・ヴァルツ。現在 54歳で、ピナ・バウシュ亡きあとのドイツ・コンテンポラリー・ダンスを背負う人材であるらしい。
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このヴァルツの振付の面白さに目を取られると、音楽をじっくり聴くのが難しくなってくるほどだ。それだけ、ダンスとして面白いのである。そう思うと、冒頭や最後の海鳴りや風の音は、明らかに録音であった (ピチャピチャ鳴る水の音は、実際の音を PA で拡大?)。正直なところ、これはオペラの生演奏では反則であると思う。なぜなら、それは効果音にほかならず、作曲家の創作ではない以上、ダンスの雰囲気作りのみに貢献するものであるからである。私が上で書いた、この作品をオペラと呼ぶ必要があるのかという感想は、この点にもよっている。結局 1時間半の上演中、歌手たちの延々続く歌唱と、小編成のオケ (英国のデヴィッド・ロバート・コールマン指揮の東京交響楽団) の奏する暗い音たちの点描をバックとしたコンテンポラリー・ダンスによって、古来日本文化によくある死者と生者の交わりの感覚、それから、後半の方では、多少抽象化されてはいるものの、男女の性愛も、テーマとして描かれていたと思う。これはこれで、美的には優れているし、見ていて退屈することはなかったが、オペラならではの感興はほとんど感じられず、その点には少し違和感があったと正直に書いておこう。

だが、いずれにしても、この作品の日本初演は画期的な出来事。是非ほかの細川オペラも見てみたいものである。今回の作品のように、能をテーマとして、その本質の再現と新たな手法を模索することは大いに結構だが、西洋音楽としてグローバルに意義を持つ作品が、7作品のうちにはあるはずだ。次回はそのようなものを期待したいと思う。

by yokohama7474 | 2018-02-19 22:31 | 音楽 (Live) | Comments(2)  

パーヴォ・ヤルヴィ指揮 NHK 交響楽団 (ヴァイオリン : 樫本大進) 2018年 2月17日 NHK ホール

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NHK 交響楽団 (通称「N 響」) とその首席指揮者パーヴォ・ヤルヴィによる今月の定期演奏会の 2演目めである。N 響は時折、定期演奏会用にもチラシを作ることがあるが、今回がそのケースで、上で見る通りの、花をあしらった、カラフルだが決して派手ではないものが作成された。ここには、「飛翔と安らぎのためのフランス音楽」とある。そう、今回のプログラムはすべてフランス音楽である。詳細は以下の通り。
 デュリュフレ : 3つの舞曲作品 6
 サン=サーンス : ヴァイオリン協奏曲第 3番ロ短調作品61 (ヴァイオリン : 樫本大進)
 フォーレ : レクイエム作品 48

うーん、これはなかなかに凝った曲目である。だが NHK ホールの客席は、いつにも増して混雑している。これはなかなかに素晴らしいことではないか。もしかすると、ベルリン・フィルのコンサートマスターであり、一般の知名度も上がってきている樫本大進がソロを取ることがその一因であったかもしれないが、彼が弾いたコンチェルトの前後には、ドビュッシーやラヴェルとは異なる持ち味の作曲家の作品が配されている点、ヤルヴィの工夫が見られたと思う。
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そういうことなので、まずは樫本の弾いたサン=サーンスのコンチェルトについて語ろうと思う。カミーユ・サン=サーンスはもちろんフランスの大作曲家だが、以前も書いた通り、その幅広い作曲活動の全体像を我々がよく知っているとは言い難い。つまり、交響曲、管弦楽曲、ピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲、室内楽、オペラとそれぞれの分野で、少数の作品が知られているだけで、しかも、必ずしもそのクオリティが常に高いという評価になっているとは思われない。だがそれでも何曲かは音楽史上に残る傑作とされていて、ヴァイオリン協奏曲ではこの第 3番のみがそれにあたる。大変ドラマティックで、ヴァイオリンの華やかな技巧を楽しむことのできる名曲だと思う。あの「ツィゴイネルワイゼン」の作曲者として有名な 19世紀の大ヴァイオリニスト、パブロ・サラサーテのために書かれ、彼に献呈されている。さて今回の樫本のソロは、ひとつひとつの音に確信を持って、太い一筆書きのように前に進んで行くような印象だ。情熱の表出はもちろん充分であるが、そこにはまた、音楽的情景の移り変わりを巧まずして描き出すだけの計算もあったように思う。やはりこの人は、あの天下のベルリン・フィルのコンサートマスターとして日々研鑚を積むことで、その結果をうまくソロ活動に活かしているように思われる。ただ正確に弾く、あるいは美麗な音で弾くということではなくて、どうすれば曲の持ち味を聴衆に伝えることができるか、そのことを常に考え、自然にからだが動くようになっているように思う。なのでこのように時折日本の舞台でソロ活動を展開してくれることは、我々日本の聴衆にとっても意義深いことだと実感するのである。今回彼はアンコールを弾かなかったが、それも一見識であると思う。

さて、そのサン=サーンスの前後に演奏された曲であるが、最後のフォーレのレクイエムは有名曲であるものの、最初のデュリュフレの曲を知っている人がどのくらいいるだろうか。かく申す私も、今回演奏された 3つの舞曲という曲は、全く未知であった。調べてみると、かつてジャン・フルネがオランダ放送フィルを指揮した録音が出ていたようだ。私はそのコンビでのフランス音楽の CD を何枚か持っているので手元で調べてみたが、この CD は所有していないことが分かった。現在入手困難。ほかの収録曲は、イベールの「寄港地」と、ドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」による交響曲である。
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モーリス・デュリュフレ (1902 - 1986) という作曲家、一般にはそれほど知られていない名前かもしれないが、彼の代表作はレクイエム。そのレクイエムが有名であるのは、同じフランスの先輩作曲家であるフォーレのそれと近い楽器編成、曲の構成を持っており、そして古雅な雰囲気でも共通するからである。そう、今回のヤルヴィと N 響の演奏会の最初と最後の曲目は、その点でつながりがあるわけだ。これがデュリュフレの肖像。
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この人はもともとオルガン奏者で、実はプーランクのオルガン協奏曲の初演者でもある。生涯で出版された作品はたったの 14曲であるが、レクイエム以外の作品の演奏を聴くことは極めて稀だ。今回演奏された 3つの舞曲も、上記の通り録音も少なく、私自身も今回初めて聴いた。文字通り 3曲の舞曲からなる 20分ほどの曲であるが、レクイエムの静謐なイメージからはかなり異なるもので、特に 3曲めではタンブーランという太鼓が活躍し、そのリズミカルな音型が楽しいし、またサクソフォーンまで入るというモダンぶりなのである。この作曲家の知られざる一面を知ることとなったわけだが、N 響の、特に木管楽器は、この耳慣れない作品を見事な緊密度で音にしていて、素晴らしいと思った。

そして、最後は名曲、フォーレのレクイエム。ここではヴァイオリンや管楽器の活躍は非常に限られていて、オケにおいては中音域から低音域の弦楽器が多くの場面で音楽を牽引する。また、デュリュフレのレクイエムも同じなのであるが、ここには通常のレクイエムでは劇的に盛り上がる「怒りの日」が含まれていない。それだけ静かで古雅なレクイエムであるということである。ヤルヴィと N 響はここでも曲の持ち味にふさわしく、決して前のめりになることはない美しい音と絶妙の呼吸をもって、この美しい曲を演奏した。だが、若干残念であったのは、合唱と独唱。合唱は東京混声合唱団 (今回は児童合唱やボーイソプラノはなし) であったが、弱音の美感には、さらなる改善が可能ではなかっただろうか。ソプラノの市原愛、バリトンの青山貴も、危なげはないものの、心の奥まで染み渡る声という次元には、残念ながら至らなかったと思う。実はこの日のバリトンは、アンドレ・シュエンというイタリア人歌手が予定されていて、この人は 2014年にニコラウス・アーノンクールがウィーンのアン・デア・ウィーン劇場でモーツァルトのダ・ポンテ三部作を演奏した際にすべて出演し、フィガロ、ドン・ジョヴェンニ、グリエルモを歌った人だというので楽しみにしていたが、どうやら前日の演奏会では歌ったものの、この日は体調不良で突如キャンセルしたようだ。実際、コンサート会場で配られたプログラムにも、代役を示す紙片は挟まっておらず、会場に表示があったのみ。つまりはそれだけ土壇場でのキャンセルであったのだろう。実は私も演奏前にはそれを知らず、歌手が舞台に登場したのを見て、どうもバリトン歌手がイタリア人には見えないなぁと首をかしげたものであった (笑)。それから、もうひとつ個人的な感想を述べると、合唱・独唱の中で、譜面を見ながら歌ったのは、急遽代役で登場した青山のみ。だが、このような静謐な宗教曲は、やはり譜面を見ながらの歌唱がふさわしいのではないか。つまり、オペラであれば舞台で暗譜は当たり前であり、その延長で考えれば、宗教曲であっても、人間的なドラマ性に溢れた曲なら (例えばベルリオーズとかヴェルディのレクイエム)、暗譜でもよいかもしれない。だがこの曲には激性はなく、ただひたすら奏者自身の内面と向き合うような要素によって成り立っている。何も暗譜で歌う必要はなかったのに・・・というのが、私の率直な感想である。

だが、ともあれこのような意欲的なプログラムをどんどんこなしているヤルヴィと N 響には、今後も大いに期待が募る。あ、そうそう。今回のプログラムが凝っているという点をもうひとつ挙げよう。デュリュフレとフォーレが、レクイエムという共通項でつながるのは上述の通り。では、サン=サーンスとデュリュフレは? 実は、デュリュフレがパリ音楽院でオルガンを習ったのは、サン=サーンスの弟子であるユジェーヌ・ジグーという人。つまりデュリュフレはサン=サーンスの孫弟子ということになる。それでは、サン=サーンスとフォーレは? 実は 1871年、ともにフランス国民音楽協会の設立メンバーなのである (年は、サン=サーンスが 1835年生まれ、フォーレが 1845年生まれと、10歳差)。それだけではない。なんと、ともにパリのマドレーヌ寺院のオルガニストを務めているのである (サン=サーンスが 1858年から 1877年まで。フォーレは 1896年から 1905年まで)!! このマドレーヌ寺院では、フォーレのレクイエムの最初の版が初演されている。なるほど今回の演目には、そのような相互のつながりがあったのか。マドレーヌ寺院は、もともとはナポレオンの命によってフランスの戦没者を悼む建物として造営されたギリシャ神殿様式の教会。パリでは結構素通りしてしまうことが多いが、次回訪れたときには、この場所でフランス文化史に思いを馳せてみたいと思う。
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by yokohama7474 | 2018-02-18 22:34 | 音楽 (Live) | Comments(2)  

ユーリ・テミルカーノフ指揮 読売日本交響楽団 (ピアノ : ニコライ・ルガンスキー) 2018年 2月16日 サントリーホール

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ロシアの巨匠、ユーリ・テミルカーノフが指揮する読売日本交響楽団 (通称「読響」) の 2演目めを聴く。現在読響の名誉指揮者を務めるテミルカーノフは、今年 80歳という高齢でありながら、依然として精力的な活動を行っていて、今回も、3つのプログラムで 7回のコンサートを開くのであるが、先に 2/11 (日) のコンサートをご紹介した、ラフマニノフ 2番をメインとしたプログラムは、東京と横浜で計 3回演奏された。そして、2/20 (火) 以降に演奏される、ドヴォルザークの「新世界より」をメインとしたプログラムは、東京・大阪・福岡でやはり計 3回の演奏。それらにひきかえ今回のプログラムは、ただ 1回だけの演奏なので、大変貴重なのである。私がこのコンサートは必聴だと思ったのは、何よりもその素晴らしい曲目。
 チャイコフスキー : 幻想曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」作品32
 ラフマニノフ : パガニーニの主題による狂詩曲作品43 (ピアノ : ニコライ・ルガンスキー)
 ラヴェル : 組曲「クープランの墓」
 レスピーギ : 交響詩「ローマの松」

ロシアとラテンの、色彩豊かなプログラムである。いずれの曲も、私が日常生活の中で時々無意識に口ずさむことがあることを知って、読響のスタッフが組んで下さったものだろうか (笑)。様々なクラシック音楽のコンサートがあるが、これほど隙のないものも少ないだろうと思う。何がどうすごいのか、イメージのない方もおられようから、以下簡単に曲の概要と感想を記したい。
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テミルカーノフの芸風については、これまでに採り上げたこのブログでの記事で明らかなように、ある場合には途方もない大音響による、いわゆる爆演を展開することもあれば、またある場合には、叙情的なメロディを心行くまで歌い抜く、温かくヒューマンな音楽を紡ぎ出すこともある。奇をてらったことは何もしないが、指揮台で眼鏡をかけ、スコアを見ながら指揮棒なしで音楽を導く彼の姿には、筋金入りの職人の要素がある。愛想笑いをするでもなく、淡々とした表情で舞台に登場するが、一旦指揮台に立つと、その動作は機敏であり、オケを自在に操る手腕には誰もが驚嘆する。そのような指揮者なのである。

最初の曲、チャイコフスキーの「フランチェスカ・ダ・リミニ」は、ダンテの「神曲」に登場する逸話に基づく、20分強の曲である。チャイコフスキーの管弦楽曲はいずれも名曲揃いであるが、その中でも最もドラマティクな曲がこれであろう。冒頭の不気味な音楽では、詩人ヴェルギリウスの先導のもとにダンテが下って行く地獄の風景が目に見えるようだ。そして嵐が吹き荒れ、絶望の叫びが沸き起こり、渦を巻く。その後恋人たちを表す陶酔感溢れるロマンティックなメロディは纏綿として流れ、戻ってくる嵐と、交互に人々の耳を翻弄。そして最後は、地獄の風に吹き上げられ、主人公の女性リミニは中空に消えて行く。この激情と情緒の交錯こそ、テミルカーノフにふさわしい。特に、弦楽器の強い表現力には驚くべきものがあり、嵐や激情から、愛に満ちた深い歌まで、実に多彩。金管の迫力も申し分なく、楽員たちの指揮者への尊敬がそのまま音となって迸るような、圧倒的な凄演であった。これは、ウィリアム・ブレイクの「神曲」の挿絵から、フランチェスカ・ダ・リミニのシーン。
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2曲めは、前回と同じピアニストのニコライ・ルガンスキーがソリストとして登場、ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」を弾いた。このブログでも何度もご紹介しているが、パガニーニの「24 の奇想曲」の中の悪魔的なテーマを利用した、ピアノとオケによる自由な変奏曲であり、特に第 18変奏はしばしばテレビなどでも使われている美しい音楽で、誰しもが陶然とするようなもの。ルガンスキーは、前回のチャイコフスキーにおいて聴くことのできた鮮やかなテクニックを今回も披露しつつ、より指のリズムが際立つ洒脱な演奏であったのではないか。その有名な第 18変奏は、あたかもジャズを弾くように、タッチはクリアでありながらも、時にタメを作ってはまた走ってみるというような自在な節回しで、決して曲の美しさには耽溺していないと思った。今回もアンコールはラフマニノフの前奏曲で、今回はト長調作品 32-5。ここでも右手が浮かび上げる旋律は、ほとんど切れ切れになりながらも、透明な叙情が素晴らしいと思ったものである。
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さて、前半はテミルカーノフの祖国ロシアの作品であったが、後半では、フランスとイタリアの作品が演奏された。実は当初の発表では、後半の曲目はレスピーギのいわゆるローマ三部作から、「ローマの噴水」と「ローマの松」の二作という内容であったが、前者がラヴェルの「クープランの墓」に変更になったという経緯がある。実は、今回のプログラムに掲載されているテミルカーノフのインタビュー (聞き手は読売新聞モスクワ支局長) に、気になる箇所があるので引用しよう。

QUOTE
Q : マエストロといえばロシアの作品が得意なイメージがあります。レスピーギは珍しい曲目のように思いますが。
A : 私がよくロシアのクラシック作品を演奏するのは、海外公演に頻繁に出かけるからです。そこではロシアの楽曲を演奏することが求められます。ですが、レスピーギやブラームスを演奏する機会があるときは、いつでも喜んで演奏しますよ。
UNQUOTE

正直なところ、この質問はマエストロに対していささか礼を失してはいないだろうか。そして、それに対するマエストロの大人の回答に感心する。ロシアの代表選手として、もちろんテミルカーノフにはロシア音楽への深い愛はあるだろうし、世界各国でロシア音楽の演奏を期待されるという事情はあるだろう。だがそれをもって、「ロシアの作品が得意」というロジックがどのように成り立つものか、私には理解できない。それは、あくまで極端なたとえであることを承知で申し上げれば、日本の指揮者に対して、「あなたは武満徹が得意ですが、なぜベートーヴェンを演奏するのですか」と質問するのに近い。別の例として、あるときフィンランド人指揮者のオッコ・カムがやはり日本でのインタビューで、「シベリウス以外にどんな作曲家が好きですか」と訊かれて、「おや? 私がシベリウスが好きと、いつ言いましたか? (笑)」と返事したのを読んだこともあるが、ジャーナリストにしてこのようなレヴェルの質問をしているようでは、マスコミの画一的な「本場物信仰」は、いつまで経っても変わらないと思うのである。そのような画一性は、音楽の聴き方を矮小化してしまう。実際には、ロシア人指揮者による素晴らしいラヴェルやレスピーギがこの日鳴り響いたことを、そしてそれを東京の聴衆が楽しんだのだということを、マスコミがきっちり報道する義務があるように思うのだが、いかがであろうか。

すみません、この種の事柄は以前から私の問題意識の中にあるので、少し過剰に反応してしまったかもしれないが、気を取り直して残りの 2曲に触れたいと思う。この 2曲にはある共通項がある。それは、過去へのノスタルジーである。ラヴェルの「クープランの墓」はフランソワ・クープランに代表される 18世紀フランスバロック音楽へのオマージュとして作曲された自作のピアノ曲をオーケストラ版に編曲したもの。一方の「ローマの松」は、古代ローマに思いを馳せる内容である。もちろん、繊細で洒脱な音響で構成された前者と、古代の果てないロマンが現代の情景にオーヴァーラップするような幻想的で力に満ちた後者とは、曲の内容は全く対照的である。だが、私が上で書いたことをそのまま繰り返すと、「ある場合には途方もない大音響による、いわゆる爆演を展開することもあれば、またある場合には、叙情的なメロディを心行くまで歌い抜く、温かくヒューマンな音楽を紡ぎ出すこともある」テミルカーノフを聴くには、これほどふさわしい組み合わせはないだろう。当初予定されていた「ローマの噴水」も (三部作の残る一曲、狂乱的な「ローマの祭り」とは大いに異なり)、繊細な持ち味が聴かれる曲であるが、やはりここは「クープランの墓」を聴くことができて本当によかったと思う。この「クープランの墓」においては、木管、特にオーボエが終始活躍して、ほかの木管との絡みもなかなか大変な曲である。今回の演奏は、もちろんさらなる緊密な音響の演奏も世界には存在するとは思うものの、充分に曲の古雅な持ち味を味わうことのできるものであった。そう、時々無意識にこの曲の、例えば第 3曲メヌエットなどを口ずさむことのある私としては、円熟の巨匠がオケから引き出す音の流れに強い共感を覚え、「なんといい曲だろう」と思ったものである。この感覚こそが、音楽を聴く喜びであろう。これがピアノ版の初版の表紙。モノトーンの硬質さが曲の内容にふさわしい。
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また「ローマの松」は、深い弦の音がドラマを主導し、実に見事。最初の「ボルゲーゼ荘の松」は派手な大音響に始まるが、それもピタリと決まっており、また、2曲めの「カタコンブ付近の松」では静かで神秘的な表情を、また 3曲めの「ジャニコロの松」で鳥の声のテープが流れる前のクラリネットは、ある種極限的な緊張感を出す必要があるが、今回、それらの箇所の雰囲気は、満点の出来だったと思う。最後の「アッピア街道の松」では、古代ローマの進軍の様子が眼前に浮かぶような大迫力であったが、そこはやはり経験豊富な老巨匠のこと、大きな身振りでオケを煽るのではなく、むしろ音響の肥大化に反して身振りは段々小さくなって行ったのが印象的。オルガンや、ステージ奥、P ブロックの左右に登場した金管のバンダを含む大オーケストラが大爆発を起こすクライマックスでは、鳥肌が立ったものである。これぞまさにテミルカーノフの見事な手腕としか言いようがなく、彼がロシア人であろうと何人であろうと、その瞬間そんなことは関係がない。純粋に音響に身を委ねることこそが、音楽の喜びなのだ。これが、終曲の舞台であるアッピア街道。
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非常に素晴らしいプログラムによる素晴らしい演奏会。マエストロ・テミルカーノフと読響には、最大限の敬意を表したいと思う。

by yokohama7474 | 2018-02-17 09:21 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

クレメラータ・バルティカ (ヴァイオリン : ギドン・クレーメル / ピアノ : リュカ・ドゥバルグ) 2018年 2月14日 サントリーホール

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バルト三国のひとつ、ラトヴィア出身のヴァイオリニスト、もうすぐ 71歳になるギドン・クレーメルは、言うまでもなく、しばしば「巨匠」よりも「鬼才」と称される偉大なる演奏家である。このブログでも確か過去に 2度、彼の演奏を記事にしたことがあり、そのうちひとつは協奏曲、もうひとつはピアニストとのデュオ・コンサートであった。ここで私のクレーメル体験を滔々と語る気はないが、もちろんその活動には常に注目をしてきているヴァイオリニストである。多分私にとっては、世界のどのヴァイオリニストよりもその動向が気になる人と言ってもよいかもしれない。というのも、彼は通常のレパートリーを繰り返し演奏するのをよしとせず、常に新たなレパートリーの開拓に熱心であって、しかもその際、決して大衆性を忘れた高踏的な音楽に走ることもない。いわゆる一般的なクラシックのレパートリー以外の録音が大変多いのもその証左といえ、21世紀のヴァイオリニストたるや、一体どのような活動を行えばよいのかという点について、これほど刺激的な答えをくれる人もいないのである。今回は、彼が 1997年に設立した室内オーケストラである、クレメラータ・バルティカとの共演である。
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この室内オケの名前の前半は、もちろん「クレーメル」に因むもの、後半は「バルティック」である。つまり、バルト三国、エストニア・ラトヴィア・リトアニアの若者たちを集めて結成されたことによる。クレーメル自身がラトヴィア出身であるから、これは、ロシアでもない、スカンディナヴィアでもない、バルト三国の音楽文化を世界に伝えることをその使命としている。いや、そんな堅苦しい表現はやめよう。バルト三国出身の大変腕のよい若者たちが、古典から現代作品までを楽しんで演奏する団体、それがクレメラータ・バルティカと言ってしまおう。というのも、私自身、クレーメルとクレメラータ・バルティカの演奏を、数々の CD と実演でこれまで何度も楽しんできたからである。実は今回の来日公演は、この三国の独立 100周年を記念するものでもある。100周年? ということはつまり、独立は 1918年。第一次世界大戦中であり、ロシア革命の 1年後だ。激動の歴史を辿ってきた三国にはしかし、音楽という文化の共通項があるがゆえに、このような室内オケの活動が継続できるのであろう。会場にはこのように、民族衣装を来た現地の方々が、バルト三国の観光パンフレットを薦めていた。この地域には私は行ったことがないので、いつの日か訪問を具体化させるべく、パンフレットをいくつも頂いてきた。また会場には、各国の日本各地の名誉領事の方からの花輪なども飾られ、なかなか華やかな雰囲気だ。
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ただ、会場に入って気づいたことには、ステージ裏の、いわゆる P ブロックには聴衆が入っていない。これは若干奇異な感じがしたのだが、そのうちに理由が判明した。会場に到着したときから気づいていたが、今回は VIP がおいでになるようだ。通常、コンサートホールでのこのような警備の対象は皇族だが、案の定、関係者の人たちの会話の中に「皇太子さま」という言葉が聞き取れたので、そうだろうと思ったのだが、それにしても、普段皇族の方がおいでになるコンサートでは、RB ブロックが使われるので、P ブロックを空けておくことはない。だが、コンサート開始前、楽員たちがステージに現れるより先に会場から拍手が起こり、人々が立ち上がったと思ったら、なんと皇太子ご夫妻は、2階のセンターブロックに登場され、その 1列目に着席されたのだ。これは意外。東京文化会館では 2階センターが皇族の方たちの席であるのは何度も見ているが、サントリーホールでは初めてである。なるほど、そうすると、ちょうど真正面に当たる P ブロックに客を入れることには保安上の理由があるということなのだろう。そして、皇太子夫妻に拍手をした私はそのとき、客席にもうひとり興味深い人物がいることに気がついた。それは、NHK 交響楽団首席指揮者のパーヴォ・ヤルヴィ。彼はちょうど 1ヶ月以上に亘る N 響との共演のために東京滞在中であるのだ。以前、バレンボイムとシュターツカペレ・ベルリンのブルックナー連続演奏会に姿を見せていた彼のことに触れたことがあるが、このクレメラータ・バルティカの演奏会に足を運ぶとは面白い。それは、世界トップクラスの指揮者が東京の音楽文化を楽しんでいるということであるし、また、バルト三国のひとつであるエストニア出身の彼にとって、やはりこのオケの活動は気になるものであるからだろう。

そんなわけで、前置きがまた長くなっているが、曲目を紹介しよう。
 ベートーヴェン (マーラー編) : 弦楽四重奏曲第 11番ヘ短調作品95「セリオーソ」
 モーツァルト : ヴァイオリン協奏曲第3番ト長調K.216 (ヴァイオリン : ギドン・クレーメル)
 モーツァルト : ピアノ協奏曲第 12番イ長調K.414 (ピアノ : リュカ・ドゥバルグ)
 モーツァルト : セレナーデ第 6番ニ長調「セレナータ・ノットゥルナ」K.239

おっとこれはどうしたことか。かなり大胆な曲目で知られるクレーメルとクレメラータ・バルティカが、ベートーヴェンとモーツァルトというウィーン古典派だけのプログラムで演奏会を開く。なんとも意外ではないか。実際のところ、いやさすがにクレーメル。一筋縄ではいかない、でも大変楽しめるコンサートになったのである。
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まず今回のオーケストラ編成であるが、基本的に第 1ヴァイオリン、第 2ヴァイオリン各 6、ヴィオラ、チェロ各 4、コントラバス 2というもの。そこに、最初の「セリオーソ」以外は、オーボエとホルン、そしてティンパニが入る場合があるが、実はヴァイオリン協奏曲で入るフルート 2本は、いずれも若い日本人女性であった。彼女らはどう見てもバルト三国出身ではないだろうから (笑)、日本公演でのエキストラということだろう。まず最初の「セリオーソ」は、ベートーヴェンの中期の弦楽四重奏曲で、演奏時間も 20分程度と手頃。ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の弦楽合奏版といえば、トスカニーニがレパートリーにしていた 16番や、プレヴィンが録音している 14番があり、この 2曲はまたバーンスタインも、ウィーン・フィルと絶美の録音を残している。だが、11番の弦楽合奏版とは聴いたことがない。この曲の題名「セリオーソ」とはシリアス、つまりは「厳粛な」という意味であるが、4つの楽章にはいずれも厳粛な要素がある。解説を読むと、当時 40歳で独身のベートーヴェンが 18歳の少女に恋をしたことが作曲の背景があるらしく、恋愛感情を言い訳がましく (?) 厳粛な音楽に託すあたりにこの作曲家の不器用さと、意外な可愛らしさを感じるが、音楽を鑑賞する際にはそんなことを忘れてよいだろう。あの、やはりシリアスな作曲家であったマーラーの編曲という点も面白い。クレメラータ・バルティカは今回、クレーメルの参加なし、指揮者なしでこの曲を演奏したが、決してシリアスになりすぎない洗練された演奏であったと思う。

2曲目にはクレーメルが登場、モーツァルトの 3番のコンチェルトを弾いた。彼は随分以前にニコラウス・アーノンクール指揮のウィーン・フィルと、また最近はこのクレメラータ・バルティカと、モーツァルトの 5曲のコンチェルトをすべて録音しているが、今回はきっちり譜面を見ながらの演奏だ。ここでのクレーメルはまさにクレーメルらしいとしか言いようのない演奏を聴かせてくれた。つまり、わざと情緒的な演奏、あるいはテクニックに依拠した美麗な演奏を封じ込め、喩えてみれば、宙に漂う音の糸を器用に操るようなモーツァルトではなかったか。古典を演奏してこんな変化球を多用する人は、ちょっとほかにいないだろう。それでいて、作為的であったり衒学的であったりすることもなく、きっちりモーツァルトを聴かせてくれるのだから、やはり大したものである。余人には真似のできない高度な演奏と言えるのではないか。

後半にソロ・ピアニストとして登場したのは、リュカ・ドゥバルグ。1990年生まれのフランス人で、未だ 27歳。
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2016年10月に行われた彼とクレーメルのデュオ・リサイタルの様子はこのブログでもレポートしたが、このドゥバルグは、もちろん幼時からピアノをやっていて、数々のコンクール歴もあるとはいえ、ある時期はピアノを弾かずにインターネットで膨大なピアノ音楽を聴いていたというユニークな人で、とかく練習練習という音楽界の鉄則から外れる発想の持ち主であるようだ。今回のモーツァルトでは、気負いも衒いもない、大変自然体で自由な音楽を聴かせてくれ、さすがであった。これは、クレーメルとスタイルは異なるものの、やはり誰もが真似しうる音楽ではない点で、2人の間には共通するものがある。12番という、モーツァルト円熟期の前の素朴な作品であったが、今日はこう弾くけど、明日はまた違った弾き方をするかもね、と言わんばかりの、ある種の即興性すら感じる演奏であり、耳が洗われるような気がしたものだ。アンコールのスカラッティのソナタ ニ長調K.491 も、華麗になりすぎないが透明感のある音楽であった。このピアニストには、このまま自由な演奏活動を続けて欲しいものである。

そして最後の「セレナータ・ノットゥルナ」には実は仕掛けが一杯で、古典プログラムの最後に、これは一本取られた!! という印象である。この曲は、弦楽合奏 + ティンパニと、弦楽四重奏 (但し、チェロの代わりにコントラバスが入る) とに分かれて演奏するが、かなり目立つソロを弾く第 1ヴァイオリンはクレメラータ・バルティカのコンサートマスターが担当し、クレーメルは第 2ヴァイオリン。演奏は、ここでも美麗を極めるというよりも、その時点その時点で鳴っている音の愉悦感に依拠したようなもの。いわゆるオーソドックスなスタイルとは微妙に違うかもと思いながら、確たる違和感は、ティンパニが最初の方で、バチではなくなんというのか、ポピュラー音楽のドラムで使うような金属でできたハケのようなものを使っていたことくらいだった。だが、終楽章のロンドには驚きが待っていた。まず途中でコントラバスが突然激しくゴシゴシやったかと思うと、なんと、「上を向いて歩こう」を演奏しだしたのだ!! その後、ヴィオラは「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」を転調したような音楽 (?) を演奏し、ティンパニはまさにドラムさながらの見せ場を作り、ヴァイオリン 2丁は同時にキュンキュン唸ったかと思うと、クレーメルがチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の第 1楽章のメインテーマに入るあたりを纏綿と弾く。いわばカデンツァというか、むしろバンドでそれぞれの楽器の見せ場を作るような雰囲気で、これは楽しいことこの上ない。やはりクレーメル、ただ古典を弾いて満足する人ではなかったが、聴いている方が楽しめる演奏であったことが、彼の真に非凡なところであろう。

そしてアンコールの最初は、オケだけの演奏で、その前に一部が聴かれたかと思ったモーツァルトの有名な「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」の第 1楽章かと思いきや、1フレーズ終わったところでおっとどっこい、全く違うメロディに。その後は、原曲と、全く違う曲 (フォスターの歌曲風であったり、楽員が足を踏み鳴らしてのバグパイプ風音楽であったり、果ては「蛍の光」まで) とが交互に進んで行き、これまた人を食った曲の、楽し気でかつ、まじめな (?) 演奏であった。サントリーホールの表示によると、これはテディ・ボー博士の「Mc Mozart Eine Kleine Bright Moonlight Nicht Music」という曲である由。この曲の詳細は不明だが、私が思い出したのは、P・D・Q・バッハの「Eine Kleine Nicht Musik」である。これ、いわゆるパロディというか、冗談音楽であり、私は高校生の頃に FM で知って爆笑し、その後アナログレコードで何枚かのアルバムを愛聴したものだが、今でも CD で手に入るのだろうか。もしクラシックファンでこの音楽をご存じない方、あるいは今回の演奏会でこのアンコールを楽しんだ方、大変お薦めです。P・D・Q・バッハという怪しげなキャラクターの正体は、ピーター・シッケレという教授であり、私は 10年ほど前にニューヨークで、この人の冗談音楽の生演奏を聴いたことがあるが、未だ健在なのだろうか。まさかクレーメルの演奏会で、この人を思い出すことになろうとは (笑)。
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そしてクレーメルが登場、以下の 2曲を、追加のアンコールとしてオケとともに演奏した。
 梅林茂:夢二のテーマ
 ヴァインベルク:ボニファチオの休日

おお、この「夢二のテーマ」は、鈴木清順監督、沢田研二主演の映画「夢二」(1991年) のテーマ曲であるようだ。音楽はあまり覚えていなかったが、私としても結構好きな映画だったので、なんとも懐かしい。そして最後は、ショスタコーヴィチの軽音楽風の非常に楽しい曲だったが、まさかクレーメルが最近精力的に採り上げているヴァインベルクであったとは!! 恐れ入りました。

このように、相変わらずクレーメルのアイデアとドゥバルグの詩情、そしてクレメラータ・バルティカの水際立った技術が相まって、なんとも音楽の楽しさ一杯のコンサートとなった。皇太子ご夫妻も、きっと楽しまれたことでしょう!!

by yokohama7474 | 2018-02-15 01:04 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

小林研一郎指揮 フィルハーモニックアンサンブル管弦楽団 2018年 2月12日 サントリーホール

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日本を代表する指揮者のひとり、小林研一郎 (通称「コバケン」) は、77歳となった今日でも、非常に盛んな活動を行っていることは驚くばかり。ポピュラーな名曲を中心に、日フィル、東フィル、読響などと頻繁に共演しているのである。もちろんそれ以外にも、N 響、東響、都響、新日本フィルとも近年共演しているから、楽団による多少の頻度の違いはあれど、実に東京のメジャー 7楽団のすべての指揮台に立っているわけだ。日本に指揮者は数々あれど、そんなことができるのは唯一、彼だけではないか。かくいう私自身も、彼の音楽は大変好きで、このブログでも過去何度か彼のコンサートを採り上げてきたものである。だがこのところ、ある場合には出張で都合がつかなかったり、ある場合には思い立ってチケットを調べると売り切れだったりして、彼のコンサートに接する機会がなく、残念な思いをしていた。そんなところにこの演奏会である。実はこの演奏会、私は結構最近までその存在を認識していなかった。というのも、よくコンサート会場で配られる大量のチラシにもこのコンサートのものは含まれていなかったし、また、それ以外でも宣伝を見かけることはなかったからだ。だが何かのコンサートに出掛けた際、たまたまサントリーホールの 2階に貼ってある今後の演奏会のチラシの中にこれがあるのが目が留まったのであった。「フィルハーモニックアンサンブル管弦楽団」という聞き慣れない名称と、S 席 3,000円という価格設定から、きっとアマチュア・オケだろうと察しはついたが、知らないオケこそ聴いてみたい。しかも曲目が極めて意欲的だ。
 ベートーヴェン : 交響曲第 7番イ長調作品92
 ストラヴィンスキー : バレエ音楽「春の祭典」
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今日はちょうど 3連休の 3日目。ほかに予定もなく、朝のうちはピョンチャン・オリンピックを見るともなしに見て、ふらりと気楽に美術館などを覗いてから会場のサントリーホールに到着し、配布されたプログラムを見て知ったことには、このオケは 1976年に立教大学交響楽団 OB によって結成されたというから、既に 40年以上の歴史を持つのである。1979年に初の主催公演を開き、それ以来、一般の社会人オーケストラとして活動を展開してきているとのこと。今回の演奏会は 63回目のもの (特別公演や海外公演を除く) で、プログラムには過去の演奏会の内容がすべて掲載されていて興味深い。アマチュア・オケであるゆえ、年に数回だけの演奏会活動であるが、何度も海外公演を行っているのが注意を引く。しかも、ニューヨークのカーネギーホールや、ウィーンの楽友協会大ホール、ベルリン・フィルハーモニーホール、アムステルダムのコンセルトヘボウ、プラハのドヴォルザークホールなど、欧米の超一流ホールで演奏しているというから、驚くではないか。指揮者としては、故・小松一彦、大友直人、矢崎彦太郎らが頻繁に指揮台に立っているほか、このコバケンは、実は首席客演指揮者の地位にあり、海外公演を含めて何度も指揮している。これは 2009年にコバケンがマーラーの「復活」を指揮した演奏会の写真。音楽ファンなら誰でもすぐに判る通り、これは世界有数の名ホール、アムステルダム・コンセルトヘボウだ。
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会場はほぼ満席の盛況だが、一目見渡して気づくのは、外国人の姿がちらほら見えることだ。プログラムには、「今回も、2011年 3月の震災の影響で故郷を離れて東京周辺にお住まいの方々と共に、母国を離れて海外から留学されている皆様を招待させていただいております」とあって、いかなるルートによってか分からないが、特別招待を受けた人たちが、それなりにおられたようである。これは素晴らしいことではないか。プログラムを見る限り、企業のスポンサーがあるようには見えないので、このような意義深い活動を続けるスタッフや楽員の方々の苦労が偲ばれる。ステージに並んだメンバーを見渡すと、多分設立初期からのメンバーかとお見受けするかなりのベテランも数名おられたが、平均年齢は結構若く、男女のバランスもよいように思われた。コンサートマスターを、もと N 響の永峰高志が務めるほか、いくつかのパートでは、プロの指導を受けているようだ。ベートーヴェン 7番と「春の祭典」という、大変なリズムとエネルギーを必要とする 2曲が、コバケンのタクトの下でどう鳴り響くのか、楽しみであった。これがコンマスの永峰さん。
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最初のベートーヴェン 7番は、コントラバス 8本、ヴァイオリンの左右対抗配置なしで、管楽器は、木管がフルート 4本でほかは 3本ずつ、金管はトランペット 4、ホルン 6という、今どき珍しい大編成で、指揮者も暗譜での指揮。冒頭にまずドォーンと鳴り出す和音からして、迫力充分のコバケン風だ。序奏で聴かれるオーボエ、そしてフルートは、昨今の東京のプロのオケのレヴェルを思うと、緊密度においてさすがに若干の分の悪さを感じないでもなかったが、音楽が進むにつれ、指揮者の思い入れをがっしり受け止めての演奏であることが伝わってきて、期待が高まる。遅めのテンポでえぐりを効かせた誠実なコバケンの指揮ぶりには、好き嫌いを超えた説得力があるのはいつものこと。両端楽章での提示部の反復がない点も、昨今の原点主義の傾向からすると異例であるとも言えるが、それでも、鳴っている音の流れに説得力があればよいと思う。コバケンの堂々たる芸術を聴くことができるという体験は、プロのオケであろうとアマチュアのオケであろうと、同様に感動的なのである。その点においてやはりこの演奏、最初から最後まで素直に楽しめるものであったのがよい。第 3楽章スケルツォの中間部での粘りなどは、オケにとって決して楽ではなかったと思うし、余裕しゃくしゃくという感じでもなかったが、指揮者を信じての渾身の演奏は素晴らしいもので、その充実感がそのまま、終楽章の熱狂につながったのである。

一方、後半の「春の祭典」となると、これは技術面において、ただ気合だけで乗り越えられるような曲ではないので、オケの負担もさぞやと思うのだが、ここではきっちりスコアを見ながら指揮をするコバケンの要求に対して、オケの反応は非常に集中力の高いものであり、曲の持つ異様な迫力の表現という点では、これもまた記憶に残る名演奏となった。もちろん、世界最高クラスのオケによるこの曲の録音や実演の数々を楽しんで来た身としては、今回の演奏には、時折音質や楽器間のバランスの点で課題を認識することにもなったが、上にも書いた通り、音楽の面白さは、指揮者との共同作業の中でどこまで説得力を持って演奏できるかによっている。それゆえ、スリルに満ちたこの曲のスリルに満ちた演奏は、充分に音楽の面白さを教えてくれるものであったのだ。さらに言うならば、ルーティーンのないアマチュア・オケならではの真剣勝負は、何か特別なものを聴く人たちに届けてくれるものなのだ、と思い知ったのである。ティンパニのメインパートは若い女性が担っており、非常に切れ味鋭い演奏で感心したが、もうひとりのティンパニは、もしかすると、都響の久一忠之さんではなかったか。メンバー表にもその名前がなく、ネットで検索してもなんらの情報もないが、もし人違いだとすると、大変に似た人も、しかも同じティンパニ奏者でいるものだと不思議になってくる (笑)。ともあれ、全員一丸となっての熱演、お疲れ様でした。

いつものようにコバケンは、終演後に客席に向かって話しかけた。私の席はステージ奥に近い方だったので、はっきりとは聞こえなかったのだが、どうやら、西洋音楽史に燦然と輝くこの 2曲の演奏を、聴衆の後押しもあって立派に演奏し終えた。特に「春の祭典」は、昔はリハーサルに何日もかかる難曲であり、自分もなかなかスケジュールがタイトで、本番前のリハーサルをそう何度もできなかったが、このオケはその難曲を易々とこなしていた。どうぞフィルハーモニックアンサンブル管弦楽団をこれからもよろしく、という内容であった。一聴衆の感想として申し上げると、オケの頑張りはもちろん素晴らしいことだが、一回の演奏会の流れの多くは、指揮者に負っているものと思う。それゆえ、コバケンがこのように元気で指揮活動を続けてくれる限り、東京ではポピュラー名曲が常に熱いヴォルテージで鳴り響き、それは、この街のクラシック音楽ファンの裾野を広げるものであると思うのである。会場では、このコンビが 2012年にプラハで演奏したチャイコフスキー 5番 (コバケン得意のレパートリーだ) をメインとした演奏会のライヴ録音が売られていたので、購入した。
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この CD も楽しみであるが、実はこのオケ、矢崎彦太郎の指揮で、今年の 9月にまたプラハで演奏するらしい。前回がルドルフィヌムの中にあるドヴォルザークホールでの演奏であったのに対し、今回は市民会館の中にあるスメタナホールでの演奏であるようだ。アマチュアだからこそ表現できる音楽の素晴らしさを、音楽好きのプラハの人たちと、是非分かち合って欲しいものだと思います。

by yokohama7474 | 2018-02-12 21:37 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

ユーリ・テミルカーノフ指揮 読売日本交響楽団 (ピアノ : ニコライ・ルガンスキー) 2018年 2月11日 東京芸術劇場

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読売日本交響楽団 (通称「読響」) の指揮台に、名誉指揮者であるロシアの巨匠、ユーリ・テミルカーノフが帰ってきた。これは 2年半ぶりのこと。以前も何度か書いた通り、私はこの指揮者の大ファンなのであるが、なんと彼は、今年 80歳になる。この年でも日本で指揮活動を繰り広げてくれることは本当に有難いことだ。今回彼は読響と、3つのプログラムで 7回の演奏を行う。今回はそのうちの最初のプログラムで、以下のような堂々たるロシア物である。
 チャイコフスキー : ピアノ協奏曲第 1番変ロ長調作品23 (ピアノ : ニコライ・ルガンスキー)
 ラフマニノフ : 交響曲第 2番ホ短調作品 27
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そして、今回のマエストロ・テミルカーノフの 3種類のプログラムのうち 2つに登場するのは、現代ロシアを代表する名ピアニスト、ニコライ・ルガンスキーである。1994年のチャイコフスキー・コンクールで 1位なしの 2位。今回読響とは初共演になる。
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テミルカーノフとルガンスキーの共演であるから、最初の曲目であるチャイコフスキーが悪かろうはずもない。コントラバス 8本の大型編成のオケをものともしないルガンスキーの強いタッチには、毎度のことながら恐れ入る。それでいてこの人のピアノは不思議なことに、がさつな感じは一切ないのである。長身であるため、弾いている姿にも迫力があり、このチャイコフスキーのコンチェルトにはうってつけだ。タッチの正確さも特筆もので、曲の持ち味を充分に引き出す名演であった。それにしてもこの曲、人生で何度聴いてきたか分からず、もう大概聴き飽きそうなものだが、聴くたびにダイナミックな音の広がりに圧倒されるのである。今回の演奏で初めて気づいたのだが、序奏のあと、跳躍するピアノのバックでオケが演奏する華麗な旋律は、最初は第 1ヴァイオリンとチェロだけが弾いて、第 2ヴァイオリンは沈黙、ヴィオラ (と、コントラバスも?) はピチカートでリズムを刻むだけだ。だが同じ旋律が還ってくるときには、今度は弦楽器全部が堂々たる合奏をなして、全身全霊で旋律を弾くのである。さすが、オケを鳴らすことにかけては古今の作曲家の中でも図抜けた才能を持っていたチャイコフスキーならではの細かい工夫である。また、いつものようにきっちりスコアを見ながら、指揮棒なしに腕全体で指揮をするテミルカーノフは、間違いなく巨匠の技を見せてくれた。そしてルガンスキーはアンコールとして、ラフマニノフの前奏曲ハ短調作品 23の 7の、いかにも情緒溢れる演奏を披露し、音楽的な感興は大いに盛り上がったのである。

さて、後半はロシアの情緒満載のラフマニノフ 2番。この曲はこのところ演奏頻度が高く、今やポピュラー名曲の仲間入りしていると言えるだろうが、テミルカーノフの持ち味にはまさにぴったりの曲目だ。そして今回、我々の前で展開された演奏はまさに期待通りの、むせかえるようなロマンの香り溢れるスケールの大きい感動的なもの。冒頭、何か大きなものが動き出す予感から、それぞれのパートに分かれて多層的に歌う弦楽器の流れを経て、無限の憧れを秘めたような旋律が紡ぎ出される箇所には、実に纏綿たる情緒があって、理屈抜きに心に入ってくる音楽であった。私はいつも思うのであるが、このテミルカーノフの音楽には、このような抒情性が際立っていて、昨今ではなかなかほかに聴くことができない彼の個性に、本当に圧倒されるのである。第 2楽章の小股の切れ上がったリズム感、第 3楽章のとことん歌い抜く情緒、そして終楽章の山あり谷ありの旅路まで、本当に一時も聴き手を飽きさせることのない充実の音楽を聴くという体験は、本当に得難いもの。危うく目頭が熱くなるところであった。

さて、このテミルカーノフは、ロシアのサンクト・ペテルブルク・フィルの音楽監督の地位に、なんと 1988年以来あるのである。あの孤高の巨匠エフゲニ・ムラヴィンスキーの後任で、つまり今年は、マエストロの 80歳の年であるとともに、サンクト・ペテルブルク・フィルの音楽監督 30周年でもあるわけだ。実はこの日、2月10日に発売された 1冊の本がある。それは、「ユーリ・テミルカーノフ モノローグ」という自伝である。
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私は会場で早速この本を購入。未だ読み始めてはいないが、パラパラめくってみたところ、実に興味深い写真が満載だ。そもそも、ロシアという国は様々な要素が実に複雑にできていて、私のビジネス上の経験では、かの国で重要な地位を維持するには、それなりの知恵も人脈も必要であると思う。テミルカーノフのような芸術家が、政治的な動きをどのくらい得意としているのか分からないが、全く政治力ゼロでは、彼ほどの実績を残すことはできないだろう。これは 5年前、マエストロ 75歳の式典での一コマ。
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もちろん、この本の中には、様々な芸術家と一緒に写っているマエストロの写真が沢山あって、若い頃の渋さ (まるでヴァンサン・カッセルのようだ) もなかなかの見ものである。以下、エフゲニ・ムラヴィンスキー、ユージン・オーマンディ、ウラディミール・ホロヴィッツ、そして小澤征爾と。
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それから、今回会場で配られていた速報のチラシにおいて、今年の 11月にテミルカーノフが手兵サンクト・ペテルブルク・フィルと行う来日公演のプログラムが発表されている。ひとつは、度々共演している庄司紗矢香を迎えてのシベリウスのコンチェルトと、今回と同じラフマニノフ 2番。もうひとつは、プロコフィエフのオラトリオ「イワン雷帝」である。これらも是非聴いてみたいが、その前にまず、今回の読響との共演の残りの演奏会を楽しみにしたい。

by yokohama7474 | 2018-02-12 00:00 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

パーヴォ・ヤルヴィ指揮 NHK 交響楽団 2018年 2月10日 NHK ホール

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今月の NHK 交響楽団 (通称「N 響」) の定期公演には、首席指揮者パーヴォ・ヤルヴィが登場する。本当にこの人の幅広い音楽性と精力的な活動には敬服するが、今回の定期の 3つのプログラムも大変に多彩で、東京の音楽シーンの顔であるこのコンビの飽くなき挑戦は、本当に聴き物である。私は幸いにも今回、その 3種類の定期公演をすべて聴くことができる予定であるが、まず最初は、この演奏会だ。曲目はただ 1曲。
 マーラー : 交響曲第 7番ホ短調「夜の歌」

なるほど、ヤルヴィと N 響は、レコーディングではリヒャルト・シュトラウスのシリーズを続けていて、それはもともと伝統的にドイツ物を得意とする持ち味を持っていた N 響に、さらなる洗練を加えた演奏になっているが、その一方で、シュトラウスと並ぶ後期ロマン派の雄であるマーラーも、連続して演奏している。既に 1、2、3、6、8番を演奏し、この 7番で 6曲目。かなりのハイペースである。このコンビは実はブルックナーもシリーズで採り上げていて、ヤルヴィの描くオケの方向性が、そのような選択からも伺い知れる。もちろん、ただ大規模な後期ロマン派を響かせるだけではなく、私が勝手に想像するところ、徐々にハイドンやモーツァルトも増えて来るのではないだろうか。もちろん、フランス音楽やロシア音楽、北欧の音楽も彼の大事なレパートリーであり、それらも並行して演奏されるだろうから、それら様々なレパートリーを通しての、指揮者とオケのコンビの熟成がなんとも楽しみだ。
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そんなことを書くのも、今回のマーラーを聴いていて、このコンビならではの個性が音に刻印され始めたような気がしたからだ。この曲はそもそも一般的にはマーラーの交響曲の中で最も人気のないものと言われ、私自身も、この曲を知った頃には、どうもとりとめのない曲だと思っていた。従って、この曲で聴き手を唸らせる名演奏は、結構難しいという声もある。だが今回のヤルヴィと N 響の演奏では、この曲が人気があろうとなかろうと関係なく、彼らのスタイルで曲の隅々にまでライトを当てたような鮮烈さで、聴く者を圧倒したのである。今回のコンサートのプログラムによると、昨年パーヴォ・ヤルヴィはモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」を指揮してミラノ・スカラ座デビューを飾ったが、そのときにスカラ座フィルとのオーケストラコンサートも 3回開かれ、その曲目が今回と同じマーラー 7番であったとのこと。彼は語っている。

QUOTE
私自身、当初「第 7番」を分かりにくいと感じていました。しかし、風変わりで意外性に満ちたこの曲に整合性を求めることをやめ、音楽そのものに耳を傾けた途端、作品が自然と語りかけてくれるようになりました。今ではもっとも愛着あるマーラー作品のひとつです。
UNQUOTE

なるほど。これはよく分かるような気がする。マーラーが湖でボートを漕ぎ出したときに頭に浮かんだという冒頭の引きずるようなテーマから、ギターやマンドリンを含む奇妙な音響を経て、バロック音楽の研究の成果と言われる終楽章のロンドの高揚感まで、この異形の交響曲が、作曲者のイメージするままに再現されていたのではないだろうか。これは、夏の作曲小屋を持っていたトブラッハで、妻アルマと歩くマーラー。1909年の写真だから、死の 2年前ということになる。
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それにしても N 響の、ことにチェロを中心とする弦の雄弁さは特筆すべきもので、決して鈍重になることなく疾走感を維持したまま、旋律を謳い上げるさまには圧倒される。何より、ヤルヴィの指示に対して極めてプロフェッショナルに洗練された音で応じる N 響のメンバーたちには、21世紀の東京で鳴り響く音はこれなのだという自信が感じられるのがよい。それゆえだろう、聴いて行くうちに、そういえばこの音は、既にこのコンビで何度も聴いてきているなという思いを抱くこととなったのである。ここには紛れもないヤルヴィと N 響ならではの個性がある。我々東京の聴衆は、これからも様々なレパートリーで、この音を聴いて行くことができるのだ。なんと恵まれていることか。

ヤルヴィは 3ヶ月後の 5月にもまた N 響の定期に帰ってきて、シベリウスやストラヴィンスキー、ブルックナーなどを演奏する。さらにその次は 9月。N 響にとってはシーズンの幕開けであるが、ヨハン・シュトラウスにマーラーの、今度は 4番を演奏するのに加え、シベリウスの大曲クレルヴォ交響曲、そして、私が勝手に演奏頻度が増えると予想しているハイドンも、プログラムに入っている。来シーズンはさらに、2019年 2月と 6月の登壇も予定されていて、そこにはストラヴィンスキー・シリーズの続きやまたまたブルックナー、そしてなんと、メシアンのトゥーランガリラ交響曲までもが含まれている。さらなる快進撃が楽しみなヤルヴィと N 響なのである。

by yokohama7474 | 2018-02-11 10:41 | 音楽 (Live) | Comments(2)