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準・メルクル指揮 東京都交響楽団 (チェロ : エドガー・モロー) 2018年 2月10日 サントリーホール

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この二週間近く、コンサートにはあまり行く機会がなかったので、私としても少々オケの音が恋しい (?) と思っていたのであるが、その渇を癒すには最高のコンサートに出かけることとなった。今回登場したのは、1959年生まれ、ちょうどこのコンサートの翌日に 59歳の誕生日を迎えるドイツの名指揮者、準・メルクルである。
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ドイツ人とはいっても、その名前と外見から分かる通り、ドイツと日本のハーフ。父がドイツ人、母が日本人である。このブログでは既に、彼の指揮するオペラやオーケストラコンサートの記事を何度か採り上げてきたが、今回は最近好調の東京都交響楽団 (通称「都響」) の指揮台にデビューを果たす。実はこの都響は通常、毎月のコンサートを 1冊のプログラムにまとめているのであるが、どうしたことか、今年は 1月と 2月で併せて 1冊になっている。1月の都響といえば、音楽監督の大野和士との組み合わせの演奏会をこのブログでも何度か紹介した通り、大変に充実した活動であったが、2月は 2月で、本来なら 1冊になるべきところ、何ゆえ 2ヶ月で 1冊なのであろうか。これは異例な事態。そもそも題名が「月刊 都響」なのに、これでは月刊にならないではないか。
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実はその答えは、都響の活動自体にある。このオケは今月後半、4/21 から 4回に亘り、東京二期会の公演でワーグナーの「ローエングリン」を演奏する。その準備に多くの時間を割かれるのであろう。実際に都響のサイトで今月の予定を見てみると、1度だけファミリーコンサートが入っている以外は、今回が唯一の演奏会なのである。メルクルとオペラを共演するにあたって、まずはオーケストラコンサートで顔合わせとは、賢明な方法である。しかも曲目がなかなかよい。
 メンデルスゾーン : 序曲「フィンガルの洞窟」作品26
 ドヴォルザーク : チェロ協奏曲ロ短調作品104 (チェロ : エドガー・モロー)
 シューマン : 交響曲第 3番変ホ長調「ライン」作品97

いわゆる、序曲、協奏曲、交響曲という、古典的な配列の曲目であり、いずれも天下の名曲。そして私が注目するのは、いずれも作品もプレ・マーラー時代のものであるということ。過去に何度か、このオケの最近の演奏がポスト・マーラーの交響作品に重点があるように思っていると書いた私としては、プレ・マーラー作品の演奏が、このオケのさらなる発展においては大事であろうと思うのである。その意味ではこの曲目を演奏するには願ってもない指揮者であろう。メルクルは、もちろんマーラーやフランス音楽や細川俊夫のような現代音楽も得意としてはいるが、そのレパートリーにおいて前期ロマン派は重きをなしているからだ。ドイツ人とは言っても、決して鈍重になることのない彼の指揮は、シューマンやメンデルスゾーンに適しているものと思う。

実際、その期待を十二分に満たす高水準の演奏を聴くことができ、素晴らしい体験となった。メルクルは日本では NHK 交響楽団や水戸室内管との共演が多いが、最近では新日本フィルや読売日本響も指揮しており、そして今回の都響に続き、3月には学生オケまで指揮することが決まっている。恐らくはそれだけ日本のオケの水準に満足していることと思うのだが、その彼にしても、今回の都響の反応は、かなり満足できるものであったのではないか。この種のレパートリーで重要な、中音域の充実と弦楽器の個々のパートのブレンド具合、また管と弦を問わず、曲想に応じて積極的に前に出て来る呼吸のよさなど、いずれも見事なものであった。例えば最初のメンデルスゾーンでは、気負いなく始まったスコットランドの寒風吹きすさぶ淋しい風景の描写に、徐々に情緒が加わって行くさまは、この作品が、ただ風景を音にしただけでなく、自然の中の人間の姿を描いているものであるという感慨を抱かせるものであった。これがフィンガルの洞窟であるが、私はこの場所に行くための船を予約し、埠頭まで辿り着いたのであるが、とある理由で船に乗ることができずに、大変悔しい思いをしたことがあることは、確か以前にも書いたので詳細は省略するが、やはり行ってみたい、フィンガルの洞窟。
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2曲目のドヴォルザークのコンチェルトでソロを弾いたのは、1994年生まれと未だ大変若いフランス人チェリスト、エドガー・モロー。2009年にロストロポーヴィチ・コンクールで「最も将来性のある若手奏者」賞、2011年のチャイコフスキー・コンクールでは 2位というから、10代から活躍しているわけだ。
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彼のチェロは、特別に個性的ということでもないのだが、なんとも言えない流れのよさを感じた。もちろんドヴォルザークのコンチェルトはチェリストにとっては主食のようなもので、隅々まで知り尽くしているであろうから、若いとは言っても演奏上の不安などかけらもない。郷愁をたたえたメロディを、過度に感傷的になることなく力強く弾き終えたこの若者は、やはり只者ではないだろう。アンコールはバッハの無伴奏組曲第 3番からのサラバンド。どんな若いチェロ奏者でも、この曲を弾くときには空気の凝縮度がぐっと締まるのであるが、今回ももちろん、心地よい緊張感であった。

後半はシューマンの「ライン」であるが、これもメルクルならではの透明感と推進力を併せ持つ名演となった。シューマンのシンフォニーは鳴りにくいとよく言われるが、実際に私も、有名な指揮者が振ってもうまく行かないケースを実演で何度か体験している。だが今回の演奏では、非常に丁寧な指揮ぶりでありながら、オケの主体性を邪魔しないメルクルの手腕が鮮やかに生きて、とても都響と初顔合わせとは思えない、息のあった演奏となった。例えば第 3楽章は、短い間奏曲のような楽章であるが、冒頭の木管からしてニュアンス豊かであり、弦が緩やかなリズムで進むところも、その牧歌性が巧まずして現れており、シューマン独特のロマン性が立ち昇るようであった。かと思うと終楽章では前に進む力も充分で、音が粘ることなく、シューマンなりのクライマックスを演出していた (だが実はこの曲のクライマックスは、マーラーの「巨人」のそれにヒントを与えたわけで、充分情熱的だ)。メルクルは、最初のメンデルスゾーンとこのシューマンでは譜面台も置かずに暗譜で指揮したが、決して力むことがないのがよい。楽章の間ではオケに向かって軽く礼をする点なども、半分日本人ということに由来する礼儀正しさかもしれないが (笑)、決して卑屈ではなく、自然な仕草で、これも気持ちのよいものであった。これは、この曲のタイトルとなっているライン川。もっともこれは標題音楽ではなく、「ライン」のあだ名も作曲者によるものではないようだが、やはりこの地域の街が持つ雰囲気に触発されて書かれたものだと言われている。
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さて、このように最初から相性のよいところを見せたメルクルと都響、果たして「ローエングリン」がどうなることか、楽しみである。

by yokohama7474 | 2018-02-11 00:50 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

チョン・ミョンフン指揮 東京フィル 2018年 1月28日 Bunkamura オーチャードホール

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このブログでは東京のオーケストラの活動について様々にレポートして来ているが、昨今のこの分野の充実ぶりを思うに、やはり競争原理が働いていることが大きな要因であることは間違いないだろう。そんな激しい競争のある東京の音楽界において、やはりこのコンビには一目おく必要がある。そう、韓国出身の稀代の名指揮者チョン・ミョンフンと、彼が名誉音楽監督を務める東京フィルハーモニー交響楽団 (通称「東フィル」) である。このブログでもこのコンビの演奏を数々紹介して来たが、改めて思うことには、彼らの演奏は東京の音楽界においても揺るぎない地位を保つに相応しいもの。今回 3回に亘って行われた同一プログラムによる演奏会の最後のものを聴けた私は、本当に幸運であったと思うのである。その曲目は以下のようなもの。
 モーツァルト : 交響曲第 41番ハ長調K.551「ジュピター」
 ベルリオーズ : 幻想交響曲作品14a

なるほど、アポロンの申し子モーツァルトの最後のシンフォニーと、フランス・ロマン派の寵児の爆裂作品、しかもいずれ劣らぬ西洋音楽屈指の人気曲の組み合わせである。だがそれにしてもその対照はかなりのもの。その対照的な曲を、いずれ劣らぬ見事な演奏で聴かせたチョンと東フィルのコンビには、心からの賛辞を捧げたい。これは昨年のこのコンビの演奏会終了時の様子。
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まず最初の「ジュピター」は、コントラバス 4本の小編成ながら、冒頭から重めの音が鳴る。チョンの指揮はいつも、決然たる部分は強く、柔和な部分は優しく響くのであるが、さしずめこの曲の冒頭などは、テンポまで含めたその対照の妙が際立つ音楽なのである。そうこうするうちに音楽は疾走を始め、そしていつものように熱を帯び始めた。このように書いていても、言葉が届かないもどかしさをどうすることもできないのだが、それは生演奏ならではのスリリングな瞬間の連続であり、耳を澄ますほどに、微妙なニュアンスがしっかりと音になっていることに感嘆する。このような古典派の音楽でもチョンは、毎度のことながらヴァイオリンの左右対抗配置は取らず、ヴィブラートも過度にならない程度にかけられている。そして、暗譜で、かつ指揮棒を持って指揮する彼の姿は、流行りのスタイルなど関係ない、確固たる彼自身の信念を示していて、実に清々しい。その一方で、両端楽章を含めたスコアの指定する反復を、多分すべて行っていたのではないだろうか (この点について確信のある方、この理解が正しいか否かご教示下さい)。これらの点はすべて、ただ教条的に原典主義を採るのではなく、音楽の流れや表現力に依拠した自然なものであり、素晴らしい説得力が感じられるものであった。この曲の終楽章のフーガは、聴くたびに本当に日常のストレスを忘れて蘇ったようになれる稀有なる名曲であるが、様々に入り組んだ音が絡み合い、しかも混沌とせずに秩序を常にたたえている演奏に巡り合うのは存外に少ないこと。今回のチョンと東フィルの演奏は、そのような稀有な演奏に分類できるものであった。

そして後半の幻想交響曲は一転して、怪奇な情念と皮肉な笑いが交錯する大曲。ここでチョンはコントラバス 10本という大編成を総動員して、最初から最後まで勢いの衰えない、骨太な音の絵巻を繰り出すことに成功した。そして興味深いことには、ここで彼は、前半のモーツァルト演奏と異なり、どの楽章でも繰り返しを行うことなくに突き進んだのである。以前も書いたことがあるが、この曲では第 1楽章の反復を省略するケースは昨今かなり少なくなっているように思うのだが、今回その反復がないことに、揺るぎない指揮者の確信を聴き取ることができたように思う。加えて、第 1楽章からアタッカで休みなく第 2楽章に続いたのを聴いて、より一層その思いを強くしたものである。ここで音楽は常に推進力を持って、音楽的情景を描いて行ったのである。そして、第 3楽章前半の野原の風景の清澄さから後半の不気味さに移るところも見事なら、第 4・第 5楽章での猛烈な追い込みもまた、チョンならではの、まるで焼けるような集中力を持ったもの。それにしても東フィルは、チョンのちょっとしたテンポの動きにも食らいついていくだけの技量のあるオケである。そう、この指揮者とオケならではの個性が刻印された、見事な演奏であった。

今回プログラムで、面白いことを 2つ知った。ひとつは、既に創立 100年を超えたこの東フィルが、これまでの歴史において、定期演奏会で演奏してきた曲としては、実はこの幻想交響曲が最多であること。そして、今回の対照的な曲目に、実は共通点があるということ。幻想交響曲の終楽章で鳴り響くのがグレゴリオ聖歌の「怒りの日」であることは音楽ファンにとっての常識であるが、実は「ジュピター」の終楽章で聴かれる、いわゆるジュピター音型 (モーツァルトが、交響曲第 1番をはじめ、若い頃から何度も使用した音型) も、グレゴリオ聖歌に由来するものとされているらしい。それは知らなかった。この 2曲においては、そのような原初的な神秘性が共通点になっているということであろう。西洋音楽の奥深さを実感する。これはグレゴリオ聖歌の譜面。
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さて、また冒頭の話題に戻るが、東京のオーケストラ界において確固たる地位を持つこのチョンと東フィルのコンビであるが、4月以降に始まる新シーズンにおいても、3つのプログラムが用意されている。だがこれは、ちょっと普通でないくらい豪華なラインナップだ。1つはベートーヴェンの「フィデリオ」の演奏会形式、2つめは、姉のヴァイオリニスト、チョン・キョンファとブラームスのコンチェルトで共演、そして 3つめは、マーラー 9番である。うーん。すごい。やはり東京におけるオケ同士の競争から、東フィルとしても、ちょっと思い切ったことをしてみようということになったものだろうか。ファンとしては嬉しい悲鳴なのであるが、聴く人たちの人生すら変えてしまうほどの名演を期待したいものである。
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by yokohama7474 | 2018-01-28 22:43 | 音楽 (Live) | Comments(5)  

秋山和慶指揮 東京ニューシティ管弦楽団 (ピアノ : 花房晴美) 2018年 1月27日 東京芸術劇場

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東京にはフル編成のプロのオーケストラが 9つもあって、それは間違いなしに世界一なのであるが、ただその中で、歴史や活動規模の観点から、メジャーな楽団とみなされるものは 7つ。このブログではその 7つのオケの演奏についてはあれこれ書き記しているのだが、残りの 2楽団について書く機会が少ないのは残念だ。東京の音楽文化を語るなら、そこまで含めて語るのでないといけない。そこで今回は、その「残りの 2楽団」のひとつ、東京ニューシティ管弦楽団の演奏会について書いてみたい。この演奏会の開演時刻であった 14時には、サントリーホールでは小林研一郎指揮の日本フィルが、ブルックナーの 7番をメインとした演奏会を行っていたのだが、私はそれを選ばず、この演奏会を選んだのであった。実はそのコバケンの演奏会、前日の同じプログラムによるコンサートのチケットを持っていたのだが、出張のためにあきらめざるを得ず、家人に託した経緯があったのである。私がこの東京ニューシティ管の演奏会を選んだ理由は 2つ。ひとつは、このブログで何度も敬意を表してきたマエストロ秋山和慶の指揮であること。もうひとつは、随分長く実演を聴いていないピアノスト、花房晴美がソリストを務めることである。さて、まずは秋山である。
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このブログではもう散々この指揮者のことを称賛してきているのであるが、ここで改めて賛辞を捧げよう。彼が長らく手塩にかけ、数々の意欲的なプログラムを採り上げた東京交響楽団は、今や英国の名指揮者ジョナサン・ノットを音楽監督に頂いている。そして、ある時期には世界の名だたるオーケストラの数々を振っていた秋山は、最近ではあまり海外に出掛けている様子はないように思う。国内で数々の地方オケのシェフを務め、学生オケを指導し、そして東京においては、この東京ニューシティ管にまで客演する。つまりは彼の活動によって、東京のみならず日本全国のオーケストラ音楽の質が向上しているということだ。実際、私が以前この東京ニューシティ管の演奏を聴いたのは唯一、この秋山の指揮によるもので、それは 2016年 3月21日の記事として採り上げた。既に 76歳になった秋山だが、その確かな手腕は、東京の音楽界になくてはならないものなのである。そして今回のソリストは、日本を代表するピアニストのひとり、花房晴美。
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女性の年を語ってはならないという風潮は未だにあるものの、社会システムにおいてここまで男女同権が進んだ現代においては、女性の年も貴重な情報と割り切って書いてしまおう。彼女は 1952年生まれ。つまり、既に 65歳ということになるから驚きだ。今回の演奏会は、上に掲げたチラシからも明らかな通り、彼女の日本デビュー 40周年を記念するものでもある。ここでわざわざ「日本デビュー」とあるからには、ほかの場所で既にデビューしてから日本楽壇に登場したものであろうか。もしそうであれば、デビューの地はパリであったのかもしれない。なぜなら彼女はフランスで頭角を現した人であるからだ。実は私にはひとつの思い出があって、まさに 40年ほど前、中学生のときに彼女のピアノを聴いた記憶があって、そのことはこのブログでも書いたことがある。そのときのプログラムは今手元で探しても見つからないので、きっとそうだったと記憶している伴奏のモーシェ・アツモンと東京都交響楽団の演奏記録を、ネットと手元の書物で調べてみたが、あろうことか、それらしい演奏会が見当たらない。これは私にとっては結構ショッキングな出来事。だがまあ、それは事実であるので、首をひねっても仕方あるまい。一方、こちらの記憶は間違いないと自信があるのは、花房晴美の名を明確に意識したのは、1980年の角川映画「野獣死すべし」におけるショパンのピアノ協奏曲第 1番の演奏であった。それも今となっては 38年前。つまりは彼女の日本デビューからそれほど経っていない頃の演奏であったわけだ。

既に前置きが長くなってしまっているが、今回の曲目は以下の通り。
 ドビュッシー : 牧神の午後への前奏曲
 ラヴェル : ピアノ協奏曲ト長調 (ピアノ : 花房晴美)
 チャイコスフキー : 交響曲第 1番ト短調作品13「冬の日の幻想」

せっかく花房の日本デビュー 40周年ということなので、ラヴェルのコンチェルトから書いてしまうと、さすがフランスものを得意とする彼女のこと、大変に洒脱な演奏を繰り広げた。この曲にはジャズのイディオムが使われているが、一方で第 2楽章では冒頭から延々とピアノ・ソロによる透明感溢れる美しい音楽が聴かれる。洒脱でありながら透明な抒情を出すのは容易なことではないが、苦労して弾いている様子が見えてしまうと興ざめだ。今回の花房の演奏、その第 2楽章のソロでは、よくありがちな過度の感傷には陥っておらず、むしろ力強いとすら言えそうなタッチを聴くことができ、またそこには華麗さへの指向も感じられて、これは一家言あるなと思った次第である。ただ、全体を通して、均一な粒立ちはあまり感じることができず、大柄に響き過ぎる箇所もあったような気がする。それゆえ、アンコールで演奏されたドビュッシーの前奏曲集第 2巻の「花火」の方が、より華麗な音楽である分、適性を感じさせたものである。それもこれも、40年の演奏歴による演奏家の個性であると思う。因みにこれが、上記の 1980年の映画「野獣死すべし」における花房。お変わりありませんね。80年代風ではあるものの (笑)。
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さて、最初の「牧神」と後半の「冬の日の幻想」は、いずれも大変安心して聴くことのできる出来であった。前者におけるフルートやオーボエのソロは称賛に価し、また、後者における劇的な部分や抒情的な部分の多彩な表現は大変楽しめるものであったのである。もちろん、最高の意味における職人性を持つ秋山の指揮が楽員に霊感を与えたものだろうとは思うが、それにしても、本当にこれだけきっちりした演奏ができるこのオケの実力も侮れないものである。つまりは東京のオケの水準はそれだけ高いということだろう。「冬の日の幻想」はチャイコスフキーが初めて書いたシンフォニーであり、彼の交響曲としては唯一、ニックネームを作曲者自身がつけている。ここには若きチャイコフスキーが既に、その後も続いていくことになる紛れもない個性を持った作曲家であったことが示されているが、特に第 2楽章のロシア的抒情は素晴らしい聴き物であり、私は大好きなのである。ロシア民謡風のテーマが盛り上がる箇所が聴きどころであるが、チェロの合奏がその旋律を纏綿と歌い、その少しあとには、ホルンの合奏が (あまり例のないことに) 同じテーマを朗々と歌うのであるが、いずれも惚れ惚れとする出来であり、胸が熱くなるのを抑えることができなかった。あえて課題を挙げるとすると、ちょっときっちりし過ぎかなということか。さらに音楽が練れてくれば、もっといい感じに崩れてきて、そこにはさらなる音楽の深淵があるものだと思う。だがいずれにせよ、名匠秋山の指揮のもと、東京ニューシティ管が達成した成果は素晴らしいものであったと思う。聴衆はあまり多くない演奏会であったが、やはり東京の音楽界の水準を知るには、このような演奏会に足を運ぶ必要があるなと再認識した次第。

by yokohama7474 | 2018-01-27 23:33 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

大野和士指揮 東京都交響楽団 2018年 1月20日 東京芸術劇場

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今年に入ってからの東京のオケの演奏会において、私が冗談半分に言ってきたことは、年明けからカンブルラン / 読響と、大野 / 都響の、一騎討ちの様相を呈しているということなのであるが、その伝で言えば、既に前者は 3公演をすべて体験し、今回の演奏会は後者の 3公演目。これはまたかなり気合の入った内容であるが、それは以下のようなもの。
 ミュライユ : 告別の鐘と微笑み ~ オリヴィエ・メシアンの追憶に (ピアノ : ヤン・ミヒールス)
 メシアン : トゥーランガリラ交響曲

このブログで何度もご紹介して来た通り、1960年生まれの大野和士は現在、この東京都交響楽団 (通称「都響」) の音楽監督。東京の音楽都市としての顔のかなり重要な部分は、現在から近い将来にかけて、この人の双肩にかかっていると私は認識しており、それゆえにこそ、このような意欲的なプログラムを聴き逃すわけにはいかないのである。
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今回メインの曲目になっているメシアンの大作トゥーランガリラ交響曲は、20世紀最大の作曲家のひとり、フランス人のオリヴィエ・メシアン (1908 - 1992) の、文字通りの代表作。だが 75分という長さと、そのめくるめく音響の特殊さゆえに、実演で聴く機会は、少ないとは言えないが、さほど多くもない。大野自身も、随分以前の東京フィルの音楽監督時代に採り上げたことがあると記憶するが、日本での指揮はそれ以来ではないか。この曲は 10楽章から成っている長大なものであるが、実演では、ちょうど半分の第 5楽章が終わったところで休憩を取ることが多い。それは、その第 5楽章が凄まじい大音響で終結するため、ちょうど前半の終わりに相応しいからだろう。だが今回の大野 / 都響の演奏では、全曲が通して演奏された。いや、それのみならず、メインのトゥーランガリラ交響曲に先立って、4分ほどのピアノ・ソロの曲が演奏された。それは、1947年生まれのフランスの作曲家、トリスタン・ミュライユの「告別の鐘と微笑み~オリヴィエ・メシアンの追憶に」という曲で、1992年にメシアンの追悼として作曲されたもの。私がこのミュライユの名前を知ったのは、小澤征爾が京都市交響楽団を指揮して世界初演した「シヤージュ (航跡)」という作品によってである。これは 1985年、京都信用金庫創立 60周年を記念して、このミュライユとマリー・シェーファー、そして武満徹の 3人の作曲家に委嘱されたもの。その初演のライヴ CD は非売品として制作され、最近でも時折オークションを賑わせているようだ。私も実家に帰れば、この演奏の録画がベータテープに保存されているはず (古いなぁー。笑)。
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今回、ベルギーのピアニスト、ヤン・ミヒールスのピアノで演奏されたこの短い曲は、実にメシアン的な曲なのであり、実際にパリ国立高等音楽院でメシアンに師事した作曲者が感じたであろう、メシアンとの別離の深い悲しみを具現したような音楽。題名に含まれる「微笑み」とは、メシアン晩年の管弦楽作品のタイトルであり、また解説によると、メシアン初期の作品、前奏曲「苦悩の鐘と告別の涙」(1929年作) からの素材を利用しているらしい。ミヒールスはその研ぎ澄まされた感覚において、ただならぬピアニストと聴いた。尚、私の手元にはメシアンの全作品集という 32枚物のセット CD があり、フランス語の原題を頼りにその「苦悩の鐘と告別の涙」を聴いてみたが、21歳という若い頃から、メシアンサウンド全開である。これは今回のピアニスト、ミヒールス。
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さて、メインのトゥーランガリラ交響曲であるが、まさにその光彩陸離たる演奏は、期待通りの大いなる聴き物であり、コントラバス 10本の大編成の弦楽器が唸りを上げるさまは、まさにこのコンビならではの迫力であった。この曲ではオンド・マルトノという電子楽器が活躍するが、今回もこの楽器の世界における第一人者である原田節 (たかし) が担当し、全く譜面を見ずに全曲を演奏していた。実際のところ、彼がいなければ、これだけの頻度で日本でこの曲が演奏されることはなかっただろう。
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ここで全曲を聴いてみて理解できたことには、一体どこまで伸びて行くのかと思われる第 5楽章の大音響が終わり、瞑想的な第 6楽章に移行するところで、その対照に、この曲の持つ深い味わいが実感されるのだ。確かにこの間に休憩が入ると、緊張感が一旦途切れてしまうだろう。実際今回の演奏では、大野と都響らしい強い集中力が最初から最後まで一貫しており、それは大変に素晴らしいものであった。それから、今回の演奏で初めて気づいたことには、多くの打楽器が使われていて、打楽器奏者は 9人という異様な大所帯であるにもかかわらず、実は、この曲にはティンパニが含まれていないのである!! なるほど、ここで渦巻く音響には、東洋的な陶酔感もあり、キリスト教的な神のもとへの昇天あり。だが、調律をして演奏するティンパニのような打楽器、言ってみれば、規律の許す範囲で鳴り響く太鼓は不要であって、ただ神秘的な鐘の響きだけ、ひたすら鮮烈なリズムだけ、あるいはドンドンというパルス的な音だけを、作曲者は打楽器に求めたということであろう。今回の演奏では、最初の方で鐘の音が少し聴こえにくかったことを除けば、メシアンの頭の中で鳴っていた多彩な打楽器はこのようなものだったろうと思わせる、都響の面目躍如たるものがあった。これは、2日前に行われた東京文化会館での演奏の様子。
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だが、そのように高水準の演奏であったからこそ、私が多少残念に思ったことがある。それは、最近のこのコンビの演奏を採り上げる際に何度か書いてきた感想と同じなのであるが、芯のある音で強い推進力を発揮することは瞠目すべきなのであるが、その一方、弱音で、ある場合にはピンと張り詰めた緊張感、またある場合には、のんべんだらりと揺蕩う感じの音に、さらなる改善が期待できる気がするのである。今後の大野と都響の演奏においては、そのような課題がどのように克服されるかに、耳をそばだてたいと思う。その意味では、例えば、そうだなぁ、モートン・フェルドマンはやりすぎかもしれないが、ウェーベルンあたりを演奏して、感覚を研ぎ澄ましてもらえれば、何か発見があるのではないだろうか。余計なことかもしれないが (笑)。

さてここで、この曲の歴史的背景と受容史について書いてみたい。メシアンは第二次大戦中の 1941年、収容所で演奏するために、突飛な編成による「世界の終わりのための四重奏曲」を書いた。明日をも知れぬその過酷な環境で生まれたその曲は、今にも息が絶えそうな細々とした音が絡まっていて、聴く人をして心胆寒からしめるものなのである。だが、戦後になって、当時ボストン交響楽団の音楽監督であったセルゲイ・クーセヴィツキー (20世紀の多くの名作の生みの親である) の委嘱によって書かれたこの曲には、ある意味で東洋的、またある意味ではキリスト教の昇天を思わせる、豊麗でありながら浮遊感のある音響 (ティンパニを必要としない音響) に満ちている。1949年にこの曲をボストン響と世界初演したのは、そのクーセヴィツキーの愛弟子であった若き日のレナード・バーンスタインその人であった。残念ながらバーンスタインはその後この曲を採り上げることはなく、初演時の全曲のライヴ録音も残っていない。ただ、以前このブログでご紹介したことがあるが、バーンスタインによる初演のためのリハーサルの断片を、かろうじて録音で聴くことができるのみだ。さて、初演後のこの曲の演奏であるが、スタジオ録音としては、1961年のモーリス・ル・ルー盤が初めてであったと理解する。そして、世界で 2番目のこの曲のスタジオ録音は、1967年に小澤征爾がトロント交響楽団を指揮したもの。また小澤は、よく知られている通り、作曲者立ち会いのもと、NHK 交響楽団を指揮して、このトゥーランガリラ交響曲を 1962年に日本初演した人。この小澤と N 響による日本初演も、全曲録音が残っているとは聞いたことがなく、私の知る限り、随分以前にアナログレコードで発売された N 響のアンソロジーの中に、いくつかの楽章が収録されていたのみである。いずれ全曲が発売されることを期待したい (またここで、この曲を世に出したボストン交響楽団と小澤の長い関係を、思い出さずにはいられない)。だがこの小澤 / トロント盤以降、プレヴィン / ロンドン響盤しかスタジオ録音がない時代が続く。そしてこの曲が本当に 20世紀の名作の地位を獲得したのは、その後 1980年代から 1990年代にかけて、エサ=ペッカ・サロネン、サイモン・ラトル、チョン・ミョンフン、リッカルド・シャイーという 1950年代生まれの当時の若手指揮者たちが、相次いで録音を世に問うたことがきっかけではなかったろうか。例えば、彼らより一世代上で、メシアンの弟子でもあったピエール・ブーレーズは、メシアン作品の録音は小品だけで、このトゥーランガリラ交響曲を演奏したとは聞いたことがないし、あらゆるレパートリーを手掛けたロリン・マゼールあたりも、この曲を演奏したというイメージはない。従ってこの曲は、20世紀の終わりにかけて、若手指揮者によって急速にその評価を高めたものであるわけで、時代の指向について面白い示唆を感じることができる。

そうして、日本でも岩城宏之や秋山和慶、井上道義らがこの曲を手掛けるようになったが、私がここで触れたいのは、若杉弘である。既に 1月11日付の、やはり大野和士指揮東京都交響楽団の演奏会についての記事に、彼がこの都響の音楽監督として残した大きな足跡をご紹介したが、このトゥーランガリラ交響曲も、当然のことながら採り上げている。それは、1986年 2月14日、東京文化会館での演奏。私はそのときの第 5楽章の終わりの大音響を、今でも鮮烈に覚えているのだが、今回引っ張り出してきたその演奏会のプログラムには、若杉と、それから、そのときピアノを弾いていたミシェル・ベロフのサインが入っている。そしてオンド・マルトノはもちろん、今回と同じ原田節なのである。
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私はよく思うのであるが、やはり都響の今があるのは、この頃の若杉の冒険的な取り組みがひとつの出発点になっているのではないだろうか。そして私は、記憶の中にあった大変興味深い写真を、ちょっと頑張って探してみて、なんとか手元に持って来ることができたのである。
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これは、1988年 5月 4日、フランスのディジョンという街でのショットで、当時の音楽監督、若杉弘のもとで都響がヨーロッパツアーを行ったときの一コマ。写真は左から、当時の都響の楽団長であった今村晃、そして若杉弘、それから当時のコンサートマスター古澤巌、そして右端が、若き日のマエストロ大野和士なのである。1988年というと、28歳の大野は、ちょうどザグレブ・フィルの音楽監督に就任した年。前年にトスカニーニ国際コンクールで優勝したばかりの頃である。私は今回この写真を見つけてきて、何やら胸が熱くなるのを抑えることができない。29年前の撮影当時、大野が将来都響の音楽監督に就任すると知っていた人は誰もいないわけであるが、その後楽団は曲折を経て、東京でもトップを争うオケに成長しており、当時若杉が組んでいたのと同様の凝ったプログラムを、今は大野が組んでいるのである。それから、この写真が撮られたときには未だ長引いた計画でしかなかった新国立歌劇場の芸術監督としても、大野は若杉の後継者ということになるわけだ。東京には東京の、音楽の醍醐味が存在する。私はただの一聴衆に過ぎないが、せっかくブログという手段で様々な人たちにメッセージを発することができるので、そのような意識を東京の音楽ファンの方々と共有できることを、大変に有難く思うのである。

by yokohama7474 | 2018-01-21 00:33 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

シルヴァン・カンブルラン指揮 読売日本交響楽団 (ヴァイオリン : イザベル・ファウスト) 2018年 1月19日 サントリーホール

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年始から聴いてきたシルヴァン・カンブルランと彼の手兵、読売日本交響楽団 (通称「読響」) の 3種目の演目である。このコンサート、何やらかなりの人気で、早々にチケットは売り切れ。以前も書いたことがあるが、読響はまず上のような地味なチラシを作成したあと、ちょっと凝ったさらにカラフルなチラシを用意するのが通例だが、このコンサートに限っては、上のような、写真以外はモノクロのパターンしか見かけることがなかった。恐らくはフルカラー版を印刷する前に完売になってしまったものであろう。会場であったサントリーホールの入り口にも、やはりモノトーンのポスターが貼られていた。私には、なぜにこのコンサートがそんなに高い人気であったのかはもうひとつ理解できないが、チラシにある通り、「ドイツ 3大 B」が効いたのであろうか。曲目は以下の通り。
 ブラームス : ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品77 (ヴァイオリン : イザベル・ファウスト)
 バッハ (マーラー編) : 管弦楽組曲から第 2、3、4曲
 ベートーヴェン : 交響曲第 5番ハ短調作品67

なるほど。生年順に、バッハ、ベートーヴェン、ブラームスがドイツ 3大 B であり、ここではこの 3人の作品が演奏される。今月のカンブルランと読響のこれまでの 2つのプログラムでは、まずは凝った組み合わせのニューイヤーコンサート、ブリテンと現代音楽の日本初演にブルックナーと来て、最後にドイツ 3大 B というオーソドックスなものに行き着いたわけである。指揮者とオケの実力が試されるプログラム。
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だが私が今回のコンサートでまずに称賛を捧げたいのは、ブラームスのコンチェルトを弾いた 1972年ドイツ生まれのヴァイオリニスト、イザベル・ファウストである。
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このブログでは以前、ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団のバックによるベートーヴェンのコンチェルトを採り上げ、そこでも、知的でありながら澄んだ音色による強い表現力のある彼女のヴァイオリンを絶賛したのだが、期待通りに今回のブラームスも実に素晴らしい演奏。この曲の冒頭は、朝焼けのような広がりのある音楽からすぐに情熱的に盛り上がり、そしてソロ・ヴァイオリンの登場となるわけだが、最初からおやっと思うほどの快速テンポで進んで行ったファウストのソロはしかし、古楽器風の響きはあるにせよ、理屈っぽかったり、線の細いものではなく、かといってがむしゃらに激性を強調するタイプのものでもなく、音の流れは極めて自然であり、聴いているうちに、そこに込められた無限のニュアンスにどんどん魅せられて行ったのである。推進力は強く、いわば曲がった道のりでも臆することなく信念を持って着実に進んで行くような音楽には、思い切りと爽快さがあり、思わず身を乗り出して聴き入ってしまうほどのものであった。これは、ただ技術だけでも、美意識だけでも達成できない高度な音楽であると思う。面白かったのはカデンツァで、始まった瞬間に、「あ、これは聴いたことのないものだな」と思うと、ティンパニが入ったのである。ヴァイオリン協奏曲でティンパニ入りのカデンツァというと、ベートーヴェンでは聴いたことがある。実際にこのファウストが一昨年弾いたベートーヴェンのコンチェルトがそうであった。だがブラームスでティンパニ入りとは、聴いた記憶がない。そう思っていると、なんとそこに今度は低弦が入り、徐々に高音のセクションに広がって行き、その音色にはちょっと不思議な浮遊感が漂った。カンブルランは、このカデンツァだけ別の譜面を見ながら指揮していた。帰宅して調べたところ、どうやらこれはブゾーニによるものらしく、ファウストは既にダニエル・ハーディング指揮マーラー・チェンバー・オーケストラと 2010年に録音している。
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そのような圧倒的な演奏のあとでアンコールとして彼女が弾いたのは、ありきたりのバッハの無伴奏ではなく、何やら音で細い線を何本か描くような、シンプルで短い曲。もちろん古典ではなく現代音楽だと思ったが、これはジェルジ・クルタークの「サイン、ゲームとメッセージ」から「ドロローソ」という曲であったらしい。クルタークはハンガリーの作曲家であり、私もそれなりにイメージは持っている人だが、この曲は知らなかった。調べてみると、何種類か全曲の録音もあるようだ。まだまだ知らない曲は無限ですなぁ。ところでこのクルターク、1926年生まれで、91歳の今も健在なのである。
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休憩のあとに演奏されたのは、バッハの管弦楽組曲の第 2番と第 3番から、マーラーがおいしいところだけを選んで編曲したもの。但し、全 4曲のところ、演奏時間の関係だろうか、第 1曲を除く 3曲のみの演奏であった。この曲の存在を私が初めて知ったのは、1984年。小澤征爾指揮新日本フィルの演奏会においてであった。そのときはルドルフ・ゼルキンの来日が中止になって急遽曲目が変更されたのであったが、全く予備知識なしに会場に行って、「へぇー、マーラーがこんな編曲をしているのか」と驚いたことをよく覚えている。その後、ヘスス・ロペス=コボス指揮ベルリン放送響 (当時) による 1975年の世界初録音 (以前採り上げたことのある、マーラーの交響詩「葬礼」とのカップリング) を入手し、よく聴いていたものだ。今回のカンブルランと読響の演奏は、その当時の感覚よりもバロック音楽の特性に近い響きになっていたとは思うものの、ただ清冽なだけではなくニュアンス豊かな演奏であったので、安心して聴くことができた。

そしてメインのベートーヴェン 5番も、カンブルランと読響ならこうなるだろうという予想通りの演奏。テンポは速く、タメはほとんどないが、個々のパートをよく鳴らすことで、純音楽的な仕上がりになっていたと思う。特に両端楽章では畳み込むような音楽を特徴とするこの曲では、この方法は説得力があり、私自身としては、これが必ずしも最高のベートーヴェンとは思わないものの、聴いていて充実感を感じたことは間違いない。現代におけるベートーヴェン演奏は試行錯誤の連続であるが、とにかく疾走感のある演奏に出会えば、かなり楽しめることが多い。もちろん、時にはもっとズッシリとした目のつんだ音 (昔、楽員が全員男性であった頃の読響の響きとして覚えているのは、そのような音だ) が鳴って欲しいと思うこともある。だが、とりわけこの常任指揮者との組み合わせであれば、このスタイルでどんどん駆け抜けて行って欲しいものだ。その意味では、欲張りなようだが、演奏の多様性という観点からは、分厚い音を持つベテラン指揮者がもう少し頻繁にこのオケの指揮台に立つと、もっと面白いのになぁなどと、勝手なことをつらつら考えていた。

ともあれ、今回カンブルランが振った 3つのプログラムをすべて聴くことができて、大変に幸運であった。カンブルランはまたすぐ、4月に再来日予定で、いよいよ読響常任指揮者として最後のシーズンに臨む。ベートーヴェンの、今度は 7番を採り上げるほか、クラリネットの名手ポール・メイエとのモーツァルトやドビュッシーに「春の祭典」、そして、アイヴズの「ニューイングランドの 3つの場所」とマーラー 9番という、またまた聴き逃せない曲目が目白押しなのである。そのうちいくつ聴くことができるか現時点では不明だが、カレンダーを睨みつつ、できるだけ頑張りたい。

by yokohama7474 | 2018-01-20 00:58 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

ニューイヤーコンサート 2018 大野和士指揮 東京都交響楽団 2018年 1月14日 サントリーホール

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今年に入ってから私が体験しているコンサートは、あたかもシルヴァン・カンブルラン指揮の読売日本交響楽団と、大野和士指揮の東京都交響楽団 (通称「都響」) との一騎打ちのような様相を呈している (笑)。実はこの日とその前日は、山田和樹と日本フィルが、バーンスタイン生誕 100年記念の演奏会を開いていて、私としては相当に迷ったのであるが、いっそ上記の一騎打ちを楽しむかと思い、そちらを諦めてこの演奏会に行くことに決めたのだ。今回の大野と都響の演奏会は、ニューイヤーコンサートと銘打たれているが、日本赤十字社の献血チャリティ・コンサートでもある。かくして会場で幾ばくかの金銭を寄付した私は、いかなるニューイヤーコンサートになるのかと期待しながら、サントリーホールの席についたものである。今回の曲目は以下の通り。
 ヨハン・シュトラウス : 喜歌劇「こうもり」序曲
 ヴェルディ : 歌劇「椿姫」から「乾杯の歌」「ああ、そはかの人か」~「花から花へ」
 ビゼー : 歌劇「カルメン」から前奏曲、「恋は野の鳥」(ハバネラ)、「ジプシーの歌」
 プッチーニ : 歌劇「ラ・ボエーム」から「冷たき手を」「私の名はミミ」「愛らしい乙女よ」
 ストラヴィンスキー : バレエ組曲「火の鳥」(1919年版)

なるほど、前半にはオペラの序曲や超有名なアリアを並べ、後半はごく短い近代のバレエ組曲で〆るというわけである。侮れない知恵者の大野のこと、ありきたりなウィーンの猿真似のニューイヤーコンサートになるわけもない。
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このコンビの充実ぶりは既に何度もこのブログで書いてきているので、今更何を書こうかと思うくらいだが、それでもやはり、最初の「こうもり」序曲がずっしりとした音で、しかも勢いよく走り出した瞬間、やはりその充実感には圧倒される。これはいわゆるウィーン風のシュトラウスではなく、ただ新年にふさわしいフレッシュな音楽なのである。もちろんウィーンにはほかにない素晴らしい流儀があることは当然だが、かの地から遠く離れたこの東京でも、作曲者の頭の中で鳴っていたであろう音に迫るプロたちがいる。それでこそ西洋音楽は世界で演奏されるのである。喜悦感、疾走感、そして劇的な要素まですべて鳴り響いた「こうもり」序曲であった。

そして、メジャーなオペラ 3曲の中のいちばんおいしい部分を味わうこととなった。今回登場した歌手は 3人。まずはソプラノの大村博美。フランスをメインの舞台として活躍している歌手である。
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「椿姫」と「ラ・ボエーム」で彼女と組むテノールは、笛田博昭。堂々たる体躯で、イタリアで数々の入賞歴のある人だ。
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そして「カルメン」を歌うメゾ・ソプラノは脇園彩。先にやはり大野 / 都響の第九の記事でも言及した通り、名指揮者ファビオ・ルイージの指揮のもとで、メルカダンテの「フランチェスカ・ダ・リミニ」の世界初演に参加したほか、既にミラノ・スカラ座の舞台にも立っている。
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この 3人の歌はいずれも素晴らしく、聴きなれたはずのこれらの名曲に、「あぁー、やっぱりオペラはいいなぁ」と思わせてくれる出来栄えであった。特に、私は「ラ・ボエーム」には滅法弱く、今回演奏された第 1幕の後半のシーンではいつも、涙腺が緩まないように自分に気合を入れる必要があるのだが (笑)、今回もその気合がなければ、オイオイと泣いてしまったかもしれないほど感動的であった。日本人はそもそも、体格的にオペラ歌手としてはハンディがあるという事実はあると思うのだが、それでもやはり、優秀な若手は自然と世界で活躍の道を見つけるのである。世界的に見てもオペラ界では、絶対的なスターの数は減っていると思うので、優秀な若手歌手には、是非臆せず世界で活躍して欲しいものである。そして時折故郷である日本で、その成果を聴かせてくれればありがたいと思う。今回の一連の曲を聴いていて、今年 9月から新国立劇場の芸術監督に就任する大野のさらなる活躍が本当に楽しみになった。というのも、今回の歌手 3人は、大村が二期会、笛田が藤原歌劇団、脇園がフリーと様々。もちろん二期会も藤原歌劇団も充実した活動を展開しているが、国内の歌手の世界もいろいろしがらみがあって大変であると聞く。これまで海外で活躍してきた大野が芸術監督に就任することで、新国立劇場では、海外からやってくる優れた歌手たちと、日本の優れた歌手たちがさらに自由に共演できるようになればよいと思う。今回のコンサートは、ごくシンプルなオペラ抜粋であったとはいえ、実は今後の東京での活動を見据えた大野のしたたかな実験の場であったのではないだろうか。

そして休憩後の「火の鳥」は、期待通りに色彩渦巻く演奏となった。但し、今回も感じたこのコンビの課題は、弱音部の色気ではないだろうか。強い音で推進力を出す部分に比べて、ゆっくりした場所での微妙なニュアンスには、このコンビであればさらにさらに豊かな表現が可能であると思うのである。尚、今回は「美しく青きドナウ」や「ラデツキー行進曲」がアンコールで演奏されることもなく、これもいかにも大野らしくて私は好感を持った。

さて、もう一度大野のオペラについて考えてみよう。私は彼の指揮するオペラ公演やオーケストラ公演を、海外でも何度か聴いているが、ここではそのうち 2つをご紹介する。ひとつは 2007年10月20日、メトロポリタン歌劇場でのヴェルディ「アイーダ」。もうひとつは 2009年 5月 2日、リヨン歌劇場でのベルク「ルル」。いずれも忘れがたい舞台である。
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ヨーロッパの昔ながらの指揮修業のスタイルは、歌劇場での練習ピアニスト、いわゆるコルペティトールとして様々なオペラ公演の舞台裏に接することである。これには当然言葉の壁もあり、なかなかに厳しい鍛錬であろうと思うのだが、その経験は血となり肉となって、その指揮者の音楽性の根幹をなして行くものだと思う。ところが、指揮者コンクールで優勝することでキャリアを始める人が増えてくると、なかなかそのような経験に恵まれないことも多いだろう。だが幸いなことに (と言ってよいのか否か分からないが)、現代指揮界で活躍する指揮者には、コンクールではなく、たたき上げで頂点に至った人もいて、その典型はクリスティアン・ティーレマンであろう。日本人にはそのようなキャリアはかなりハードルが高いのは自明だが、大野の場合は、コンクール歴はあるが、若い頃からコルペティトールの経験もあって、それが、欧米各国でのオペラ指揮に役立っているのだと思う。音楽家として世に認められるには様々な要素があるとはいえ、これから日本で上演されるオペラの質を高めているには、大野ほどの適任者はいないだろうと思うのである。オペラとは実に厄介なもので、余談としてその一例を挙げると、今回の演奏会で一部が演奏されたオペラ、「こうもり」「椿姫」「カルメン」「ラ・ボエーム」はいずれも、超のつく有名作品ばかりであるが、これまでに活躍した一流指揮者で、この 4曲すべての録音を残した人がどのくらいいるだろう。まず、カラヤンを挙げよう。そして・・・レヴァインは、もちろんいずれも指揮しているだろうが、「こうもり」全曲の録音はあるのだろうか。ショルティは? やはり「こうもり」が欠けているのでは? アバドはそもそもプッチーニを振らなかったし、ムーティもプッチーニは「トスカ」だけのはずで、「カルメン」も「こうもり」も、きっと振っていないのではないか。小澤が「椿姫」を指揮したとは、少なくとも近年は聞いたことがない。マゼールですら、この 4作の録音は揃わないし、メータもしかり。以上は私が今の理解の中で書いているので、調べれば間違いもあるかもしれないが、いずれにせよ、この 4作品の録音を残したメジャー指揮者として、カラヤン以外は思いつかない・・・と思っていたら、もうひとりいた。自分の気に入った作品しか指揮しない、極めてレパートリーの狭い指揮者で、よく本番直前に緊張のあまり (?) キャンセルすることが多かった変わり者の指揮者。そう、カルロス・クライバーである。なるほど、それなりにクラシック音楽の録音・録画が頻繁になされてきた時代でも、この超メジャー作品すべてを記録として残すには、世界楽壇の帝王か、孤高の天才指揮者でなければならなかったわけだ (笑)。オペラの面白さや奥深さは、こういうところにもあると思うので、是非マエストロ大野には、そのようなオペラの尽きせぬ面白さ・奥深さを、東京の聴衆に存分に表現して欲しいと思う次第である。

by yokohama7474 | 2018-01-15 00:24 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

シルヴァン・カンブルラン指揮 読売日本交響楽団 (クラリネット : イェルク・ヴィトマン) 2018年 1月13日 サントリーホール

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先にニューイヤーコンサートの様子をレポートしたフランスの名匠シルヴァン・カンブルランと読売日本交響楽団 (通称「読響」) の、今年 2回目のコンサートである。読響はご覧の通り、時々カッコいいチラシを作るのであるが、今回のものも、なかなかにスタイリッシュ。だが、そこで謳われているコピーは、必ずしもプログラムとの関連性が明確でないこともある。なになに、今回は「私は孤独で、こんなにも愛されている」ですと??? なんだか分かったような分からないような (笑)。まぁ今回の曲目で言えば、1曲目は孤独と関係するものであり、写真の中の鬱陶しい天気の様子からも、その線が濃厚かとも思われる。そうそう、このコンサートは大変に凝った曲目ゆえ、集客は今一つではあったが、私の見るところ、これは東京の音楽ファン必聴の素晴らしいプログラムであり演奏であったと思う。曲目は以下のようなものであった。
 ブリテン : 歌劇「ピーター・グライムズ」から 4つの海の間奏曲
 ヴィトマン : クラリネット協奏曲「エコー=フラグメンテ」(クラリネット : イェルク・ヴィトマン、日本初演)
 ブルックナー : 交響曲第 6番イ長調

これらの曲目の間には特に共通点が見当たらないようでいて、こうして並べてみると、独特の色合いを感じることができる。そのことを実感した私の思いが、拙い文章で伝わるか否か心もとないが、以下に感想をつれづれに綴ることとする。この演奏会、私の見間違えの可能性も否定できないものの、2階センターの最前列に、指揮者の下野竜也、評論家の長木誠司、作曲家の細川俊夫 (か、もしかするとそのそっくりさんたち???) が集うほどの注目度の高いものであった。だがマエストロ・カンブルランは、飽くまでくつろいでおられる (笑)。
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まず、最初の「ピーター・グライムス」の 4つの海の間奏曲の冒頭が鳴り響いた瞬間、カンブルランと読響の広く深いメシアン体験を実感することとなった。これは陰鬱さと表裏一体の美しさがありながら、それだけではなく、何か近代的な精神がピンとそこで張っているような音楽。まさにオケの力量を試されるような曲なのであるが、この鋭い感性と高音の浮遊感の両立は、なかなかに大変なことであるに違いない。この曲はブリテンのオペラの代表作である「ピーター・グライムス」の間奏曲を 4曲集めたもの。オペラのストーリーは、英国の田舎の漁村における少年殺しがテーマになった陰鬱なもので、主人公ピーター・グライムスの孤独はこのオペラのそこここを支配し、英国特有の暗い空とあいまって、このオペラに深い陰影を与えている。この 4曲の間奏曲にはそれぞれ異なった個性があるが、カンブルランと読響はそれを鮮やかに描き分けて実に見事であった。また終曲では、音が海さながらに激しくうねるのであるが、ティンパニの表現力には素晴らしいものがあった。

続く曲は、今回が日本初演であったヴィトマンのクラリネット協奏曲。私はあれこれ硬軟とりまぜた現代音楽を愛好する者であるが、寡聞にしてこの作曲家の名前は初めて聞いた。1973年生まれのドイツ人で、ヘンツェやリームに師事した経歴を持ち、今ヨーロッパで最も注目されている作曲家のひとりであるという。2004年にはザルツブルク音楽祭の、2009年にはルツェルン音楽祭の、それぞれアーティスト・イン・レジデンスを務めた経歴を持つが、一方でクラリネット奏者でもある。
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実は今回日本初演されたこのコンチェルトは、カンブルランの指揮、作曲家自身のクラリネットで 2006年に世界初演されている。オーケストラは当時のカンブルランの手兵であったバーデン・バーデン & フライブルク SWR 響と、フライブルク・バロック・オーケストラであった。ここで 2つの団体名を挙げているには理由がある。実はこの曲、2群のオケから成り、しかもそのうちひとつは現代楽器のピッチで調律されている一方、バロック・オーケストラはそれより低いピッチとなっている。解説でそれを読んだとき、では 1曲目と 2曲目の間では舞台上は大幅に変更されるだろうと思ったが、案の定、10人ほどの係の人たちが登場して、椅子や楽器の配置を大幅に変えた。演奏の準備をするだけでもかなり大変な曲なのだ。全曲 20分ほどなので、さほど長くはないのだが、そこで繰り出される音響の多彩さは、こればかりは聴いてみないと分からないだろう。管楽器を、吹くのではなく。口の部分や底の部分を手で叩いたり、ソロ・クラリネットも、時に音を出さずに楽器に息を吹き込んだりする。なかなか舞台で聴ける機会はない作品であろうし、視覚を伴う鑑賞では、面白い箇所も様々にあった。このヴィトマンはなかなかの才人であると思う。但し、このような創作態度の裏に、ただ音の美しさを追うだけでは新しい芸術音楽として存在を認められないという発想があるのなら、ちょっと心配だ。つまり、音楽たるもの、耳で聴いて感動するものであるべきだし、鳴っている音が面白くとも、果たしてそこにはどこまで表現としての切実さがあって、一般人にもその切実さが届くかということかと思う。

そしてメインはブルックナーであったのだが、彼の中期以降の交響曲としては最も演奏頻度の少ない第 6交響曲。このあたりもカンブルランの選曲のセンスが伺われて面白い。この 6番は、古いドイツの巨匠たちでブルックナーを頻繁に演奏した指揮者たち、例えばブルーノ・ワルターとかハンス・クナーパッツブッシュもレパートリーにはしていなかった。その一方、オットー・クレンペラーにはこの曲の録音があるし、ウィルヘルム・フルトヴェングラーも、残念ながら第 1楽章が欠損しているが、録音が残っている。ブルックナーのシンフォニーとしては異例なほど、揺蕩う部分が少なく、攻撃的と言いたくなるほどの運動性を持った曲と言え、私は昔からかなり好きな曲である。考えてみれば、そもそもカンブルランのようなフランスの指揮者がブルックナーを指揮すること自体、それほど多くはないわけで、今回はその意味でも興味深い機会であったのだ。蓋を開けてみれば、いかにもカンブルランと読響らしく、速めのテンポで粘らずに純粋な音響を紡いで行く演奏であり、これならブルックナーをあまり好きでない人でも、楽しめるのではないかと思った。そう、こういうブルックナーには、実はかなり説得力があるのだ。その代わり、音の流れに乗れなければ、空虚な音響になってしまう恐れがある。その点、やはりカンブルランは只者ではなく、実にきっちりとリズムを振り続けながら、ブルックナー独特の偏執狂的とすら言える音の流れを壮大に再現した。素晴らしい才人である。
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そういえば、今年生誕 100年を迎えたレナード・バーンスタインのことを考えると、今回の最初の曲、「ピーター・グライムス」の 4つの海の間奏曲は、彼がボストン響を指揮して生涯最後のコンサートで演奏した曲であり、またブルックナーは、正規録音では 2種の第 9交響曲しか残さなかったが、私は非正規版で、ニューヨーク・フィルを指揮したこの 6番を持っている。私の見るところ、バーンスタインほど栄光に飾られながらも実際には孤独であった人は、そうはいない。それを考えると、実はこの演奏会の隠れたテーマは、「私は孤独で、こんなに愛されている」と呟くバーンスタインであったというこじつけも、結構面白い説になるのではないか。いずれにせよカンブランと読響は、今こそ傾聴すべき高みに達している。彼が読響の常任の座から降りてしまうと、その後はどのくらい聴けるのか分からないので、今のうちにこのコンビをできるだけ聴いておきたいと思うのである。

by yokohama7474 | 2018-01-14 22:44 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

広上淳一指揮 NHK 交響楽団 (ヴァイオリン : 五嶋龍) 2018年 1月13日 NHK ホール

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今年、2018年は、あの偉大なる作曲家、指揮者、教育者であったレナード・バーンスタインの生誕 100年の年である。私のバーンスタインへの熱い思いは過去にもこのブログで何度も触れてきているが、指揮者としての輝きはもちろん、残された多くの録音や映像で充分に楽しむことができるのであるが、近年の傾向として、作曲家バーンスタインに対する評価が上がってきているような気がする。かく申す私も、彼の作品を聴き返してみて、なるほどそんな音楽だったのかと思うことがあり、例えばこのブログで採り上げた「ミサ曲」や「ウェストサイド・ストーリー」などがそうである。この演奏会もバーンスタイン生誕 100年を記念するもの。とは言っても特別演奏会ではなく、定期演奏会である。今回NHK 交響楽団 (通称「N 響」) を指揮するのは広上淳一。
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現在は京都市交響楽団の常任指揮者として知られる彼であるが、その小柄な体をフルに動かしての熱演で、東京の聴衆にも強く支持されている。大晦日にも東京フィルを振った東急ジルヴェスターコンサートで、ムソルグスキーの「展覧会の絵」の最後の 2曲でカウントダウンを行い、大いに客席を沸かせていた。その広上も今年はなんと還暦を迎えるという。思い返せば、アシュケナージがこの N 響にピアニストとして登場して協奏曲の夕べを開催した際に指揮者に指名したのがこの広上で、確か私は、そのときに彼の名を初めて知ったのだと思う (但しその実演には接していない)。このブログではおなじみの、「えっ、つい最近じゃないの?!」という決まり文句 (?) とともにここで明らかにしておくと、それは 1985年のこと。その前年にアムステルダムで開かれたキリル・コンドラシン指揮者コンクールでの優勝という話題をひっさげての登場であった。ただ、今回 N 響定期でバーンスタインを記念する演奏会を指揮するほど、広上がこの大指揮者と近かったという認識はないのだが、実は上記のコンクール優勝後、アムステルダムで研鑚を積んでいた 1980年代半ばにバーンスタンがコンセルトヘボウ管に客演した際、アシスタントを務めたのだという。それは知らなかったが、確かにバーンスタインとコンセルトヘボウは、ベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」や、2回目のマーラー全集における 9番、あるいはシューベルトの「未完成」「ザ・グレイト」などで素晴らしい成果を残しており、なるほど若き日の広上にはそれは大きな刺激になったことだろう。
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さて今回の曲目は以下の通り。
 バーンスタイン : スラヴァ! (政治的序曲)
 バーンスタイン : セレナード (プラトンの「饗宴」による) (ヴァイオリン : 五嶋龍)
 ショスタコーヴィチ : 交響曲第 5番ニ短調作品47

なるほど、バーンスタインの自作 2つに、後半は彼が終生愛してやまなかった交響曲から成る、興味深いコンサートである。まず最初の「スラヴァ!」であるが、これはバーンスタインの盟友でもあった稀代の名チェリスト、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチの愛称。彼が旧ソ連から米国に亡命し、1977年、ワシントン・ナショナル交響楽団の音楽監督に就任した際のお祝いで書かれた曲。イスラエル・フィルを指揮した自作自演の録音も残っている。
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これは 5分弱の賑やかな曲で、まさに広上の持ち味にぴったりだ。実は 70年代の米ソ間には多大な緊張があったはずだが、社会的意識の強い芸術家同士の交流では、政治も洒落のめす対象であったのだろう。皮肉の効いた面白い曲を、溌剌と面白く聴かせてもらった。尚、この曲のテーマはバーンスタインのほかの作品、つまりは「ペンシルヴァニア街1600番地」から採られているらしい。私はこの作品を、ケント・ナガノとロンドン響の演奏でロンドンで実演を聴いたこともあり、CD も持っているが、そうとは全く気づきませんでした。

次に演奏されたのは、実質的にはヴァイオリン協奏曲である「セレナード」。1954年の作で、今回ソロを弾いたのは、人気者の五嶋龍であった。現在 29歳だが、子供の頃から活動しているので、キャリアは既に長い。
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そういえばこの曲は、1986年、彼の姉である五嶋みどりが未だ 15歳にもならない頃、タングルウッド音楽祭において、作曲者の指揮のもとで演奏した際に弦が切れたのに、慌てず騒がずオケの奏者と楽器を交換して最後まで弾き終えたという逸話で有名である。この逸話は、米国では教科書にも載っていると聞いたことがある。余談ながら、実は今回初めて私は、このときの生々しい映像 (後年の本人へのインタビューつき) を YouTube で見ることができることを知った。弦は一度ならず二度切れ、最初はバーンスタインも指揮を停めるが、二度目はその必要もないくらい落ち着いて対応し、客席がどよめいているのが記録されている。ご興味のある向きは、「五嶋みどり タングルウッドの奇跡」で検索されたい。さてそれも今は昔の話。天才少年から本物の天才に脱皮しつつある弟の龍にしてみれば、姉の有名な逸話と自分の演奏は、全く無関係であろう。体でリズムを取り、オケに視線を向けて一体感を醸成しながら、切れのよいヴァイオリンを聴かせた彼も、やはり只者ではない。私はこの曲は、アイザック・スターン、ギドン・クレーメルがそれぞれ独奏した新旧の作曲者自作自演盤で親しんできたが、生で聴くのは初めてであり、実に不覚にも、管楽器なしの編成であることに今回初めて気づいたという体たらく。打楽器が多いので、すっかり幻惑されていましたよ。プラトンの「饗宴」に登場する賢人たちの名前が各楽章につけられているが、あまりそれを気にせずとも楽しめる曲である。作曲家バーンスタインの才気は、ここでも充分に感じられるので、このような演奏を通じて、彼の作品は今後一層ポピュラーになって行くのではないだろうか。

さて、後半のショスタコーヴィチ 5番であるが、これは、バーンスタインが深い思い入れを持っていた曲。晩年には指揮することはなかったようだが、1979年の東京文化会館でのニューヨーク・フィルとのライヴ盤は凄まじい名演として知られている。その映像 (前座で演奏されたシューマン 1番とともに) を収めた市販のビデオテープも、今や貴重なもの。写真で一部お目にかける。
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それから私の手元には、同じバーンスタインとニューヨーク・フィルの 1959年の旧録音のアナログ盤がある。これはライヴ録音ではないが、その年にソ連ツアーを行ったバーンスタインとニューヨーク・フィルのかの地での大成功を記念して、このようなレコードが米国で発売されたものであろう。ジャケットの写真はそのツアーでのもので、作曲者もバーンスタインの横で嬉しそうだ。当時の冷戦状態を思うと、これがいかに大きなイヴェントであったかが分かる。もっとも、当時西側からはほかにも演奏家が結構ソ連を訪れてはいて、オーマンディとフィラデルフィア管、ミュンシュとボストン響、カラヤンとベルリン・フィルなどの同地でのライヴ録音も残されているが、ここではこれ以上深入りはやめておこう。
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このようにバーンスタインと因縁の深いこのショスタコーヴィチ 5番を、今回、広上と N 響はしっかりと強い音で演奏した。この曲全体の意味は、依然として謎めいたものではあるが (プログラムの解説によると、最近の説では、「カルメン」の引用によって、作曲者が当時恋い焦がれていた女性が暗示されているという)、それはそれとして、ここで鳴る様々にドラマチックな音の流れは、やはりこの作曲家の最高傑作の名に恥じないものであると、改めて認識する。広上の身上は、常に曲の劇性を生のまま抉り出すような情熱であり、それは今回も全開であったが、その一方で、当然のことながら、各パートの輪郭の描き方や、主役の楽器の交代などには、優れて職人的な手腕を見せる。端的な例が第 2楽章冒頭の低弦で、これはちょっとびっくりするほど思い切ったもので、迫力充分であった。第 3楽章と第 4楽章の間にもきっちり休止を取って、ただ勢い任せに第 4楽章を始めるのではなく、じっくりと腰を据え、力を解き放っていた。このように素晴らしい演奏であったとは思うのだが、但し、じっくり聴いて行くと、この曲の深層にある絶望的な深い屈折には少し届かない、ごくわずかなもどかしさを感じてしまったのも事実。平明で、誰でも感動できる音楽こそが彼の指揮の最大の長所であることを思うと、言い様のないほどの暗い闇を広上に求めるのは、場違いなのかもしれない。全体として素晴らしい表現力であったからこそ、些細な点が気になったともいえるかもしれない。

以前書いたことがあるが、昨今の東京のメジャーオケでは、日本人指揮者が定期演奏会を振るのはなかなかに狭き門である。還暦を迎えるというマエストロ広上には、ますます意欲的な活躍を期待したい。

by yokohama7474 | 2018-01-14 08:50 | 音楽 (Live) | Comments(2)  

大野和士指揮 東京都交響楽団 2018年 1月10日 サントリーホール

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私にとって 2018年の 2回目のコンサートは、大野和士と彼が音楽監督を務める東京都交響楽団 (通称「都響」) の定期公演である。このブログではこのコンビの演奏会を何度も採り上げ、その多くを高く評価して来たし、その中でも最近のものは、つい昨年末の第九なのであるが、今月このコンビは、3回の演奏会で、なかなかにハードな 2種類のプログラムを採り上げる。今回の曲目は以下の通りである。
 リヒャルト・シュトラウス : 組曲「町人貴族」作品60
 ツェムリンスキー : 交響詩「人魚姫」

うーむ、これは聴くべき内容であろう。その理由をまず述べたいと思う。そもそも生演奏でオーケストラを聴く醍醐味とは、どの音が正確だったとかきれいだったとかという点にのみあるわけではなく、また、ある演奏を評価するに際し、どこでミスがあったとか、どこの難所をうまく切り抜けたとか、そんなことばかりに気を取られていてはいけないと私は思っている。いやもちろん、このブログでもそのようなことを話題にすることもあるが (笑)、それでもやはり私は、東京で音楽を聴くことの意味を常に考えていたいと思っているのである。つまり、明治以来 150年、この国における西洋音楽の受容や、自らの手による表現も、既に長い歴史があるということであり、先人たちの様々な工夫や努力によって培われてきたことを今こそ実感したい。東京のオケは個性がないという評価がかつてはあったが、既にその時代は過ぎ、それぞれのオケにおいて、独自の歴史に依拠しながら個性が育っているものと思う。そんな大仰なことをここで書くのは、今回の大野と都響の 2つのプログラムから、かつてこのオケが急速に発展した時代のことを思い出すからだ。それは 1986年から 1995年までの、故・若杉弘が音楽監督を務めた時代である。ちょうど私が学生時代から社会人の初期の頃に当たるわけで、しかも時代はバブルを経験。世はマーラーブームなどとも呼ばれ、幾多のマーラーの名演奏が東京の舞台を賑わせた時代でもあった。若杉は大変知性に溢れた文化人であり、いわゆる職人性においては、さらに優れた指揮者はほかにもいたかもしれないが、その高い知性と音楽への深い愛に裏打ちされた貪欲な演奏姿勢は卓越しており、そんな彼を、私はいつも尊敬していた。都響時代に限らず、国内外でこの人が残した偉大なる業績は、いずれ正しく再評価すべき時が来ることは間違いないだろう。
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都響はこの時代のあと、存続の危機すら伴う相当の苦境も経験することにもなり、それを克服してこそ今があるわけだが、若杉時代に行った、ドイツ古典派からロマン派、フランス音楽や内外の現代音楽までの広いレパートリー、なかんずくワーグナー、マーラー、R・シュトラウスを中核としたその演奏活動がなかったら、今日の発展はなかったかもしれない。実は今月の大野と都響のプログラム 2種は、いずれも若杉が得意としたものであり、恐らくは新たな黄金時代を築きつつある大野 / 都響のコンビが、今改めて世に問う音楽は、楽団の歴史を振り返ることでもあるのだと思う。実際今回の 2曲、まるで若杉その人の演奏会の曲目のようではないか。そう思って手元にある過去の都響の演奏会プログラムを調べてみると、記憶にある通り、私はいずれの曲も、若杉 / 都響で生演奏を聴いているのである。「町人貴族」は 1994年10月25日に、「人魚姫」は 1989年10月 20日に。前者は定期公演で、もともとこの芝居に劇中劇として含まれていた歌劇「ナクソス島のアリアドネ」とともに。後者は大いに話題となったマーラー・ツィクルスの第 4回で、「巨人」のブダペスト初稿版とともに。実は後者は、この「人魚姫」と、それから「巨人」の初稿のダブル日本初演という貴重な演奏会であったのである。
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今回の演奏について少し述べよう。最初の「町人貴族」は非常に小さい編成であるので、指揮台は使用されず、楽器配置も、指揮者の向かって右側に管楽器と打楽器、向かって左側に弦楽器という変則だ。ここで大野は譜面を見ながら、この洒脱なバロックのパロディのような音楽を丁寧に描き出した。大野の指揮にはもともと、親しみやすいカリカチュア性とでもいうべき面があるといつも思うが、それはこのような曲には向いているものと思う。ただその一方で、やはり音楽の流れが速く強くなる場面、つまりシュトラウスのロマン性がより明確になる場面の方が、静かな場面よりも説得力があったのではないか。これはやはり楽団の持ち味ではないだろうか。表現の幅という意味では、都響といえども、まだまだ伸びる余地があるということかと思う。

メインの「人魚姫」であるが、この曲などは、まさに最近の大野 / 都響が指向するポスト・マーラー演奏における恰好のレパートリーであろう。作曲者のアレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー (1871 - 1942) はウィーン世紀末を語るには欠かせない名前であり、より正確には、マーラーとシェーンベルクをつなぐ重要な存在である。
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マーラーよりは 11歳下、シェーンベルクよりは 3歳上。彼の音楽は濃厚な後期ロマン派のスタイルで書かれていて、決して晦渋ではない。この「人魚姫」は、抒情交響曲と並んで彼の代表作とみなされている。アンデルセンの童話に基いているが、明るいメルヘンではなく、死の影に包まれた陰鬱さと、重厚な音響が交錯する 45分の大作だ。作曲されたのは 1903年で、まさに世紀末文化がモダニズムに移行する前の爛熟期。実は私は今回の演奏会のプログラムで初めて知ったのだが、この「人魚姫」は 1905年に作曲者自身の指揮で初演されているが、その同じ演奏会で、なんとなんと、シェーンベルクのやはり初期の濃厚なロマン的大作、交響詩「ペレアスとメリザンド」も、作曲者自身の指揮で初演されたそうである!! すごい演奏会もあったものだ。時代の空気が濃厚に感じられるではないか。だがシェーンベルクの「ペレアス」の方は、メジャー曲とは言わないまでも、その後も著名指揮者たちによって継続して演奏された (カラヤンも録音を残しているし、ベームも実演では採り上げ、メータやバレンボイムにとっては重要なレパートリーだ)。それにひきかえこのツェムリンスキーの「人魚姫」は、結局出版されず、スコアも散逸してしまったそうである。それが再発見されたのは 1980年で、その 4年後に蘇演を行ったのはペーター・ギュルケ (ベートーヴェンの楽譜の校訂で知られる人で、N 響で第九を振ったこともある)。だが、なんといってもこの曲が世間の注目を集めたのは、1986年に当時のベルリン放送響を指揮したリッカルド・シャイーによる世界初録音であったし、私もその演奏でこの曲に親しんだものだ。以来、それなりには聴かれるようになった曲だが、未だ人気曲とは言い難い。だがここで大野は、譜面台も置かずに暗譜で指揮をして、ダイナミックな曲の持ち味を充分鮮やかに描き出したのである。いつもの通り、マーラー・オケとしての実績を誇る都響の音にはずっしりと情報量が詰まっていて圧巻である。やはり前半のシュトラウスの小規模な曲よりもこちらの方が、格段に聴きごたえがある。私は、29年前に若杉と都響が行ったこの曲の日本初演の演奏についてはまるっきり覚えていないが、もちろん今回ほどのレヴェルには達していなかったであろう。このほぼ 30年間の間にこのオケが果たした躍進には、実に目覚ましいものがあると思うと、感慨もひとしおであった。
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実は私にはもうひとつの記憶があって、それは、随分以前に、この大野が N 響を振って同じツェムリンスキーの「人魚姫」を演奏した録画を見たということである。そこで帰宅して、ビデオテープからダビングして保存してあるブルーレイディスクを探し当てて見てみると、ありましたありました。それは 1995年 7月29日の演奏で、会場はやはりサントリーホールであった。せっかくなので、少し冒頭の方の映像をお見せしよう。この時から大野はこの大曲を暗譜で振っていたことが確認できる。やはり古い録画を取っておくと、いつかは役に立つものなのですな (笑)。
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かくして日本のオケの歴史は連綿と紡がれて行く。それを目撃できる我々は恵まれていると私は思うのだが、残念ながら今回の演奏会には、空席がかなり目立った。ツェムリンスキーの知名度は未だに低いということだろうか。実は大野と都響は来シーズン、10/24 (水) の定期演奏会で、この作曲家のもうひとつの代表作、抒情交響曲を採り上げる。これはマーラーの「大地の歌」がお好きな方はきっとお好きであろうから、是非多くの方に、会場の東京文化会館に足を運んで頂きたいものである。それからもうひとつ。若杉弘は 1935年生まれ (小澤征爾と同い年) であったので、都響の音楽監督であったのは、51歳から 60歳の頃。1960年生まれの大野和士は今年 58歳。ちょうど当時の若杉と同世代ということになる。その意味でも、巡りくる歴史に思いを馳せることができて面白い。今月のもうひとつの大野 / 都響のプログラムでも、そのあたりを考えてみることとしたい。

by yokohama7474 | 2018-01-11 01:08 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

シルヴァン・カンブルラン指揮 読売日本交響楽団 (ヴァイオリン : 三浦文彰) 2018年 1月 6日 東京芸術劇場

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日本のクラシック音楽ファンの年明けも、まぁ人によって様々ではあろうが、多分ほとんどの人が元旦にすることがある。それは、ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートを生中継で見ることだ。このコンサートは毎年現地 11時に開始するのだが、それは日本時間では 19時。ちょうど元旦の一家団欒の時間帯であるので、普段家族にあまりサービスしていない (?) クラシックファンの方も、ここでは美酒を片手に、優雅なウィンナ・ワルツを堪能するのである。今年のウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートの指揮者は、おなじみのイタリアの巨匠、リッカルド・ムーティであったが、今やこのオケと最も長く近い関係という意味では世界で三本の指に入るマエストロの相変わらず真面目な指揮のもと、だがやはりウィーン・フィルは、世界にふたつとない紛れもないウィーン・フィルであった。ところで、このウィーンでのニューイヤー・コンサートの影響は多大なものがあって、ウィーンから遠く離れたここ東京においても、新年はウィンナ・ワルツを生で聴きたいという声が多いらしく、新年を寿ぐコンサートでは、ウィンナ・ワルツが定番となっている。私が今回、今年初めてのコンサートとして聴いたこのコンサートも、そのような内容のものである。昨年は例年にも増して意欲的な演奏が多かった読売日本交響楽団 (通称「読響」) が、音楽監督シルヴァン・カンブルランとともに行ったニューイヤー・コンサートである。内容は以下のようなもの。

 ヨハン・シュトラウス : 喜歌劇「こうもり」序曲
 ヨハン・シュトラウス : ワルツ「南国のバラ」作品388
 ラヴェル : 亡き王女のためのパヴァーヌ
 ヴィエニャフスキ : 華麗なるポロネーズ第 1番作品 4*
 デュカス : 交響詩「魔法使いの弟子」
 オッフェンバック : 喜歌劇「天国と地獄」序曲
 サン=サーンス : 歌劇「サムソンとデリラ」からバッカナール
 ワックスマン : カルメン幻想曲*
 ヨハン・シュトラウス : トリッチ・トラッチ・ポルカ作品214
 ヨハン・シュトラウス : ポルカ「雷鳴と電光」作品324
 ヨハン・シュトラウス : ワルツ「美しく青きドナウ」作品314
 * ヴァイオリン : 三浦文彰

なるほど、さすが才人カンブルラン。ただルーティーンで行うニューイヤー・コンサートではない。ここで気づくのは、ウィーンの音楽である J・シュトラウスが両端をサンドウィッチのように挟み、間にはフランス音楽が入っていること。もちろん、ヴィエニャフスキはポーランドの人であるが、パリで学んでいるし、ワックスマンももともとポーランド (現在はドイツ領) で生まれた人だが、ここで題材となったのはフランス・オペラの代表作であるビゼーの「カルメン」である。しかも、ここには様々なダンスがある。ワルツ、パヴァーヌ、カンカン、バッカナール、ハバネラやアラゴネーズ、ポルカといった具合。いや実に巧妙なプログラムではないか。しかも大変面白いのは、「カルメン幻想曲」(1946年作曲) を除いてはみな、1850年代から 1890年代、つまりは 19世紀後半に書かれた曲なのである。いかにも 20世紀然としたラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」ですら、1899年の作曲なのだ。このような小品であっても、最初から最後まで譜面を見ながらの丁寧な指揮であったカンブルラン。

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それから、曲の連続、または対照の妙も心憎いばかり。例えば前半最初の「こうもり」と後半最初の「天国と地獄」はともにオペレッタの序曲で好対照をなしている。また前半で言うと、シュトラウスが最初に 2曲続く間にも、「南国のバラ」の序奏に「魔法使いの弟子」の序奏を思い出す。そして、ウィーンの音楽とフランスの音楽の境界におかれたラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」は、一見奇抜な選曲でありながら、ちょうど、それぞれ違う世界同士の間の橋渡しのような、味わいのある音楽で、しかも旋律線のしっかりしたもの。例えばここで、より新年の賑わいにぴったりなシャブリエの狂詩曲「スペイン」であったらどうなったか。もしかすると、ちょっとうるさかったかもしれない。では、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」では? ちょっと官能的すぎる。その意味でも、淡い色彩感を持つ「亡き王女のためのパヴァーヌ」は、いわばお口直しとして絶妙の選択であったといえる。また後半では、「サムソンとデリラ」のバッカナールという中東風のエキゾチックな音楽から、イスラム教徒の支配を受けたスペインの情熱的音楽を利用した「カルメン」の旋律につながる。そして最後は、さながらウィーンでのニューイヤー・コンサートのように、ポルカのあとに「美しく青きドナウ」が来る。まぁそうなるとアンコールは知れたこと。ヨハン・シュトラウス父の作曲になる「ラデツキー行進曲」と、相場は決まっている。結果的にはその読みは当然正しかったのであるが、ただその前に Nice Surprise があったので、あとでご紹介する。

上に書いた通り、ウィーン・フィルによるウィンナ・ワルツによってクラシックファンの新年が明けるとはいえ、あの独特の引きずるようなリズムは、そのとろけるような音色とともに、絶対にウィーン・フィルしか出せないし、ほかのオケがそれを真似るのは愚の骨頂。だから、ウィーンとは縁もゆかりもない土地のオケがこのようなレパートリーを演奏するときには、ひたすら音楽に没頭してアンサンブルを整え、そして大いに歌えばよいものだと私は思っている。それから、軽めの音楽であっても、真剣に演奏することが求められる。そして今回のカンブルランと読響の演奏は、まさにそのようなもの。もともとこれまでこのオケを親しく指導してきた歴代の指揮者たちは、重厚なドイツ的音楽か、さもなくば切れ味鋭く推進力のある音楽を得意とする人たちばかり。ウィーン風にたゆたう優雅な音楽は、このオケの過去の経験の中ではさほど多くないように思う。だが、ヨハン・シュトラウスの音楽の持つ愉悦感は、きっちり演奏すれば、何もウィーン風でなくとも楽しめるのである。今回の演奏会では、コンサートマスターが小森谷巧、サブが長原幸太という強力コンビで、とにかく極上のアンサンブルを聴かせてくれたし、真面目な中にも、徐々に奏者の顔に笑みが沸き出てくるような自発性があって、これこそがまさにこのような音楽が求めるものであったと思う。
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ただ、もし欲を言うとするなら、ウィンナ・ワルツの場合にはさらに練った音があればよかったようにも思う。一方で、「魔法使いの弟子」の色彩感や、「サムソンとデリラ」のバッカナールの大詰めの盛り上がりなどには非凡なものがあり、そのあたり、やはり指揮者の音楽的指向が如実に表れたように思う。そのような上質な部分があったからこそ、「雷鳴と電光」で楽員が (確か 6名だと思ったが)、曲の内容に合わせて、傘を差して逃げ惑う人たちに扮したとき、一部の楽員さんに明らかな照れが見られた (当然ですよね。特にハープの方など。笑) にもかかわらず、客席から自然に手拍子が沸いたのであろう。さてそれから、このコンサートでのソリストを紹介せねば。

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ヴァイオリンの三浦文彰。1993年生まれだから、現在弱冠 24歳。2009年に 16歳でハノーファー国際コンクールで史上最年少で優勝した実績の持ち主。世界で活躍を始めているが、一般的にはなんと言っても 2016年の大河ドラマ「真田丸」のメインテーマの演奏で知られていよう。三浦のヴァイオリンは若者らしく勢いのあるもので、ともすると勢い余って音程が一瞬微妙になるようにも聴こえるのだが、それは自発性のなせるわざで、大変に結構なことではないだろうか。今回彼が弾いたヴィエニャフスキのポロネーズ 1番でも、舞曲らしい荒々しさをよく表現していたし、ワックスマンの「カルメン幻想曲」でも、その縦横無尽な音の流れは実に爽快であった。そしてこの演奏会が「美しく青きドナウ」(ちなみにこの曲は、ウィーンのニューイヤー・コンサートでは 1曲目のアンコールの定番で、最初の弦楽器のトレモロのところで聴衆が拍手で遮り、指揮者とオケが新年の挨拶をするのが恒例であるが、今回もトレモロのあとに (あらら) 拍手をした人が 1人だけいた) が終了したあと、さぁ、ラデツキー行進曲の小太鼓か!! と思いきや、カンブルランと一緒に三浦が登場。そして始まったのはこの音楽。

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このサービス精神に客席は沸き、それが最後のラデツキー行進曲につながった。実はこのラデツキー行進曲では三浦も演奏に参加。最初は最後列で遠慮がちに演奏していたが、そのうち前に繰り出してきて、長原幸太と椅子を分け合って演奏することに。そしてカンブルランは、この人らしく客席の拍手もきっちりコントロールして、新年のコンサートは大団円を迎えたのである。

今月カンブルランが読響で指揮するのは 3種類の演目。今回の盛りだくさんの演奏会も楽しかったが、さぁ、残る 2つも内容がギッシリだ。楽しみである。そんなわけで、私としてはなかなかに気分のよい初コンサートとなったのだが、また今年も元気に東京の文化を楽しみたいし、このブログをご覧頂く方々の健康を心から祈念します。あ、あとはもちろん、世界の平和なくしては文化活動も何もあったものではない。何よりも平和な社会を。


by yokohama7474 | 2018-01-06 23:24 | 音楽 (Live) | Comments(0)