
コンサート通いの醍醐味は、名高い巨匠名匠の音楽に生で触れることだけではなく、未だ一般的な人気を獲得しておらずとも、なんとなくピンと来る若手演奏家の実演に触れて、新たな宝を発見することにもある。そのような体験がそれほど頻繁にあるわけではないが、私の場合、過去に何度かそのような機会に恵まれた。例えば、以前記事にも書いた、バーンスタインの代役として颯爽とロンドン響を指揮した大植英次。北欧の名門ストックホルム・フィルを引き連れて日本にやって来た、後のニューヨーク・フィルの音楽監督、アラン・ギルバート。トゥールーズ・キャピタル管弦楽団を率いて最高のニュアンスに富んだ演奏を繰り広げたトゥガン・ソヒエフ (彼については、ベルリン・ドイツ響との来日公演間近なので、近く記事でご紹介する)。そして、2009年、ロンドンの夏の音楽祭、プロムスで手兵バーミンガム市交響楽団を指揮して圧倒的な演奏を聴かせてくれた、このアンドリス・ネルソンス。

バルト三国のひとつ、ラトヴィアの首都リガ。一般の人たちには全くイメージないかもしれないが、クラシック音楽ファンにとってみれば、何人もの偉大な音楽家を輩出した街なのである。まず、あの大作曲家ワーグナーが、19世紀に宮廷楽長をしていた。現代では、ヴァイオリンのギドン・クレーメル、チェロのミッシャ・マイスキー、そしてこのネルソンスの師匠にあたるマリス・ヤンソンスがこの街の出身だ。ヤンソンスは、アムステルダムの王立コンセルトヘボウ管とミュンヘンのバイエルン放送響という偉大なオケのシェフとして君臨する現代屈指の名指揮者である。師ヤンソンスの明快で豪放な音楽作りが、このネルソンスに大きな影響を与えたことは一聴して明らかだ。指揮界の若きエースは、あのボストン響の音楽監督として、今後いかなる実績を積み上げて行くのであろうか。
この日の曲目は以下の通り。
セバスティアン・カリエール (1959年米国生まれ) : 管弦楽のための Divisions (分割) (2014年作、ニューヨーク初演)
ベートーヴェン : ピアノ協奏曲第 3番ハ短調作品37 (ピアノ : ラルス・フォークト)
ブラームス : 交響曲第 2番ニ長調作品77
米国の代表的なオーケストラは皆、このカーネギーホールで年に何度か演奏会を開き、その腕を競い合うのであるが、今回のボストンの演奏会は 3夜連続で、これが初日であった。翌日は、リヒャルト・シュトラウスの楽劇「エレクトラ」の演奏会形式、その次の日は、プロコフィエフの「アレクサンドル・ネフスキー」とラフマニノフの交響的舞曲という、なんとも多彩なプログラムで勝負をかけている。
1曲目の現代曲の作曲者は、初めて聞く名前であるが、地元ニューヨーク在住の中堅作曲家であるらしい (http://www.sebastiancurrier.com/)。この「分割」という作品は、昨年 2014年に、第一次世界大戦勃発百年を記念して書かれたもの。原題の Divisions は、もちろん主たる意味は分割なのであるが、調べてみると、軍隊の師団という意味もあるらしい。プログラムに作曲者自身が寄せた文章によると、第一次大戦を追想する音楽として何がふさわしいか、友人に尋ねたところ、「それは簡単なことだ。完全な沈黙だよ」と答えたとのこと。なかなか心に残る話だが、完成した音楽はもちろん完全な沈黙ではなく、暴力的な戦争の様子と、それに抗う人々の様子、そして抗争が沈静化して行く様子が描かれていると解釈できる。昨今の作曲界の風潮を反映して、前衛性はあまり感じられず、人間の感情に訴えかける音楽だ。そして、冒頭から明らかなのは、オーケストラの音色のビックリするような鮮やかさだ。あまりにキレイな木管の音に驚いて、その音の元を目で探すと、しわくちゃのお爺さんだったりするのが昔からの (少なくとも小澤時代からの) このオケの特徴であったが、その伝統を見事に継いでいることが確認された (笑)。
2曲目は、ピアノのラルス・フォークトが登場。1970年生まれのドイツ人。何度も来日しているし、着実な音楽性が世界で人気を博しているピアニストだ。



さて、少し長くなってしまっているが、せっかくの機会なので、カーネギーホールを訪れたことのない方々に少し雰囲気を知って頂くために、写真を掲載する。ホールに隣接したちょっとしたサロンに展示されている、カーネギーホールの歴史を物語る資料の数々。このホールは今年が125年目のシーズンとのことだから、1891年に開館していることになるが、そのこけら落とし公演に大物音楽家が登場している。この人だ。

それから、ニ十世紀を彩る偉大な音楽家たちの足跡。これはアルトゥーロ・トスカニーニの演奏会のプログラムと、彼の指揮棒。左隣は、作曲家のジョージ・ガーシュウィンだ。ここでもなにやら写真にガーシュウィン直筆の書き込みが見える。




素晴らしいコンサートに心底感動して、その余韻を味わいつつ、ホールからホテルまで 20分ほどの道のりを歩いて帰ることとした。このような夜景が、悔しいけどカッコいいのです、この街は。



韓国のオーケストラ情勢に詳しいわけでは決してなく、これまでにソウルでオーケストラ公演やオペラに行ったことはあるものの、いずれも日本やロシアなど、韓国外の団体によるものであった。今調べてみると、このソウル・フィル (Seoul Phiharmonic Orchestra) は国内名称ではソウル市立交響楽団といい、これとは別に Seoul Philharmonic というオケもあるというからややこしい。ただ、今回来日したソウル・フィルこそが、韓国で最も古く由緒正しい楽団であるということだ。チョン・ミョンフンが 2006年から音楽監督を務めているらしい。
このオーケストラ、今回が確か 3度目の来日であると思うが、最初の来日に関して忘れられない思い出があるので、それは後で記すとして、まずはこの日の曲目から。
ブラームス : ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲イ短調作品 102
ブラームス : 交響曲第 4番ホ短調作品 98
堂々たるブラームスプログラム。二重協奏曲でソリストを務めるのは、ヴァイオリンが、チョンのもうひとつの手兵であるフランス国立放送フィルのコンサートマスターで、このソウル・フィルの客演コンサートマスターでもあるブルガリア人、スヴェトリン・ルセヴ。チェロが、韓国人ソリスト、ソン・ヨンフン。オケとの呼吸がぴったりの好演であった。



寄り道はともかく、このオーケストラ、さすがチョンが手塩にかけただけあって、合奏能力も優れているし、集中力も高い。日本のオケとどうしても比べてしまうが、場面場面では多くの日本のオケを上回るような深みの音を聴くことができた。ただ、特に交響曲では、やはり弦の情緒纏綿とした歌に管楽器が埋もれてしまうのはいかんともしがたい。まあ、これは日本人も近い感覚があるかと思うが、韓国人の情緒の表現には瞠目すべきものがあって、ブラームスの中でもこの 4番には適性があると思った。但しその意味では、フランス音楽の繊細なレパートリーなどはどうなるのかという気もしたものだ (確か前回の来日ではドビュッシーの「海」を演奏していると思うが、私は聴いていない)。しかしながら、オーケストラの持ち味をこのような形で表現したのだととらえれば、非常に聴きごたえのある音楽だったと思う。東京はソウルから近いのだから、日本のオケへの刺激という意味でも、これからも頻繁に来日して欲しいものだ。この日のアンコールは、同じブラームスのハンガリー舞曲第 1番。ブラームスの 4曲の交響曲の中で、この 4番だけが、打楽器にティンパニ以外の楽器が加わっていて、それは実はトライアングルなのだが、一連のハンガリー舞曲の中でも、この 1番はトライアングルがあれば足り、5番や 6番のようにシンバルは必要ないから、この日のアンコールとしては好都合であったろう (笑)。
さて、この演奏会から離れて、このオーケストラの初来日について書いておきたい。それは、2011年 5月10日。何かお気づきにならないだろうか。そう、東日本大震災からほんの 2ヶ月後だ。このときクラシック音楽界では、来日中、または地震直後に来日予定であった演奏家や団体が、次々と演奏会をキャンセルしたものだ。そんな中のひとつが、チェコ・フィルハーモニー。以下のチラシをご覧頂きたい。


そして、私は忘れない。演奏会が始まる前にチョンが英語で語った言葉を。「私はまず人間であり、次に音楽家であり、そして最後に韓国人だ。今日は人間としてここにいたいと思う」というようなものであった。そして、「我々のソリスト、サヤカさんを紹介しましょう」と言うと、庄司は人々を鼓舞するように、走って舞台に登場したのだ。実はこのときのメインの「悲愴」も、コントラバス 10本の編成であった。確か東京フィルのメンバーを交えた編成であったはず。音楽が人々に勇気を与えることができるという証明となったコンサートであった。ただその時も私は思ったものだ。「東京はソウルから近いのだから、このオケも、このような機会だけでなく、もっと気楽に頻繁にやって来て演奏してくれればいいのに」と。聴き手側も、欧米の有名オケだけではなく、また、震災後のような、あるいは国交 50周年というような、特別な機会だから聴くのではなく、ごく普通のコンサートとしてソウル・フィルを聴くべきだと思う。
ところで、いろんなご縁があるもので、ここで採り上げた 10月19日のチョンとソウル・フィルのコンサートでは、2011年にチェコ・フィルと演奏されるはずであったブラームス 4番が演奏され、たまたま今日 (10月28日) 聴いてきたコンサートでは、庄司紗矢香がそのチェコ・フィルとの日本での協演を果たしたのだ (指揮者と曲目は 2011年のものとは異なるが)。これについてはまた追ってアップのこととします。
2015年 10月 26日
大田区観光協会主催 東海道五十三次 品川宿~川崎宿




さて、そこから商店街を抜けて、鷺 (おおとり) 神社へ。それほど古い神社ではなく、江戸時代の創建らしいが、昔から酉の市 (とりのいち) が有名らしく、今でも大賑わいになるらしい。





もうひとつこのお寺で見るべきは、この阿弥陀様だ。

さて次に向かったのは、磐井神社。実に貞観元年 (859年) 開創という古い神社で、その際、武蔵の国の八幡社の総社に定められたという。江戸時代には将軍も何度も参拝したらしい。



それからまた第一京浜に沿って歩き出すことになったが、上記の通りそのあたりはいわゆる大森海岸。明治の頃には花街となり、芸妓を置く大きな料亭が立ち並んでいたらしく、それは昭和まで存続した。この写真は、その中のひとつ、料亭 福久良 。なんという規模!!

















東京には東海道の面影はほとんど残っていないことを再確認することにはなったものの、土地の記憶は確実に消えずに残っていて、人々がそれを守ろうとしていることに感銘を受けた。特に街道は、人々が行き交う場所であっただけに、人の息吹が活き活きと感じられることを実感した。美原通りなどは、特に目的なくぶらぶらしても面白そうだ。また天気のよい日に散策することとしよう。今回は負傷もなく、無事帰還しました!!

さて、この日のチェロ独奏は、6月13日の記事でも、やはりコバケンと東フィルとの協演を採り上げた、上野 通明 (みちあき)。まだ 20代の若さで、桐朋のソリストディプロマコース全額免除特待生とのこと。昨年、オーストリアのペルチャッハで開催されたブラームス国際コンクールで優勝しており、既に日本の数々のオーケストラとの協演を果たしている俊英だ。生まれがパラグアイで、幼少期をバルセロナで過ごしたという。

聴いていて思い出したことがある。コバケンは伴奏も多く手掛けていて、非常にうまく独奏者を盛り立てるのであるが、私が生まれて初めて生で聴いたコバケンの演奏は、このドヴォルザークのチェロ協奏曲であった。もし、意地悪のように私のブログを読み込んでおられる方がいて、「ウソつけ、6月13日の記事で、『チャイコスフキー 4番が最初に生で聴いたコバケン』と書いていただろう」と思われるとしよう。そんな方はおられないかもしれないが (笑)、もしおられた場合のために、その演奏会のプログラムをここに掲載しよう。


さて、この日のメイン、天下の名曲、チャイコフスキー 5番である。コバケンのレパートリーの中核をなす曲と言ってもよいであろう。冒頭のクラリネットが素晴らしい。よく考えるとこの日、前半のドヴォルザークでも、第 1楽章と第 2楽章は木管で始まり、後半のチャイコフスキーの第 1楽章もそうであったわけで、東フィルの木管楽器奏者のレヴェルに瞠目した。コバケンはよく、助走するように少しテンポを落としてから、盛り上がりに向けてダッシュするように指揮棒を細かく振ってオケを煽るが、その呼吸にうまくついて行かないと、音がバラバラになってしまうリスクがあると思う。その点この日の東フィルは心得たもので、指揮者のアクセルとブレーキによくついて行って、輝かしい名演をなし終えた。ただ、75歳を迎えた指揮者としては、その音の「熱」には未だに陰りがなく、換言すると、円熟というイメージとは程遠い。でもそれが、この指揮者の持ち味なのであろう。若い上野について書いたと同様、老齢であるから音楽が枯れなくてはならないという法はない。もちろん、音楽の深みは自然と出てくるものであろうが。

QUOTE
4月定期でマーラーの「嘆きの歌」全曲版を日本初演した小林研一郎が、シーズン冒頭に登場してスラヴの大作 2作という、月並みのようでいて実はかなり思い切ったプログラムをとり上げる。(中略) 小林のチャイコフスキーの「第 4交響曲」は、彼のはげしい情念的なかたまりが、作曲者の奔放ともいえる楽想と結びつき、白熱的な好演が望まれる。
UNQUOTE
幾つか興味深い点がある。ひとつは、小林がマーラーの「嘆きの歌」全曲を日本初演したこと!! この曲はマーラーの初期の作品で、民族説話による悲劇性や物悲しい情念という点で、マーラーの音楽が志向する要素をあれこれ持った曲ではあるが、未だにそれほど演奏頻度が高いとは言えない。それをこの、保守的なレパートリーを持つ指揮者が初演していたとは驚きだ。また、いみじくも今回の演奏会と同じ「スラヴの大作 2作」が採り上げられ、この評者自身、「月並みのようでいて」と失礼なことを書きながら (笑)、まあ実際そのように思っている様子がある。でも、最後の一文は、今でもそのまま使えるものではないか。まさに「炎のコバケン」はこの頃からのイメージであったわけだ。
私はコバケンの、短めだがしっかりした指揮棒が好きである。上の写真のように、加速してクライマックスに向かうには、この指揮棒でビートを作り出し、そこに彼言うところの「魂」を吹き込まねばならない。これから、どこまでこの変わらない情熱が昇華して行くか、オケさながらに歯を食いしばってついて行きたいと思う。
2015年 10月 19日
FLUX Quartet 現代を生きる音楽 2015年10月17日 神奈川県民ホール小ホール



曲目がこれまた、渡辺さんもびっくりするくらい過激だ。あ、もちろんそれは渡辺さんが現代音楽マニアではないという前提でだが。
ジョン・ケージ : スピーチ (1955)
一柳慧 : 弦楽四重奏曲第 3番「インナー・ランドスケイプ」(1994)
黛敏郎 : プリペアド・ピアノと弦楽のための小品 (1957)
コンロン・ナンカロウ : 弦楽四重奏曲第 1番 (1945)
ジョン・アダムス : フリジアン・ゲート (1977-78)
エリオット・カーター : ピアノ五重奏曲 (1997)
ジョン・ゾーン : デッドマン (1990)
最初の「スピーチ」がどんな作品かというと、時間の指定に基づいてランダムにラジオの音声を流し、舞台にいる人物が適当に新聞を読むというもの。開演時刻前にふと舞台を見ると、プロデューサーの一柳が舞台にいて、講演台のようなものを前に腰かけている。そして、天気の話や TPP の話や、マイナンバーを巡る厚生労働省の汚職のニュースを断片的に読み上げるのだ。いわゆる音楽は一切なし。でも、これは非常に面白かった。上述の「4分33秒」と同じく、演奏の最中に聞こえる音や、単なるオブジェと化したラジオの音声や、問題山積のはずの現代日本のニュースですら、あたかも空間を包む壁紙のように無機的に聞こえるから不思議だ。初めて聞く一柳の声はいささか甲高く、「ああやっぱり老人の声だな」という感じであった。プログラムを見ると、一柳は「友情出演」とある。ノーギャラにもかかわらず、渾身の熱演 (?) だ。
その他の曲は、おしなべてそれぞれの作曲家の個性がよく出ていた。一柳自身の曲は意外と抒情性があった。黛はやはりジョン・ケージの影響を大きく受けており、ピアノ線に消しゴム等を挟んで、ポロンポロンという音を出すプリペアド・ピアノを使った曲は、いかにも 1950年代、前衛が未だ元気であった頃の作品だ。ナンカロウは、自動ピアノのための作品で知られる作曲家であるが、この弦楽四重奏曲は、確か以前クロノス・クァルテットが録音していたものではあるまいか。錯綜する声部に耳が痛くなる曲だ。その点、後半の最初を飾ったジョン・アダムスのピアノソロのための曲は、彼特有のミニマル調が耳に心地よい。エリオット・カーターは 2012年に104歳で亡くなった作曲家だが、私も 2006年だったか、彼の作品の幾つかをニューヨークで聴き、ストラヴィンスキーの「兵士の物語」の語り手として登場したのを見たが、ここでの作品は立派に前衛している。89歳のときの作品とは!! そして最後のジョン・ゾーンであるが、いわゆる芸術系の現代音楽の作曲家とは異なるマルチな音楽家で、私も昔、近藤譲の著作など読んで、CD を買ってみた。それはもう、通常の音楽の範囲を超えていて、今回の作品も、弦楽器がバリバリと異様な音をたてまくるファンキーなものだ。
このクァルテットの技術はそれは大変なもので、それなくしてはこれらの現代音楽は成り立たないだろう。鮮烈な日本デビューであり、これからも時々日本でパフォーマンスを見せて欲しい。
さてここでまた、一柳慧である。私にはひとつ、とっておきの面白いネタがあるのだ。数年前に古本屋で、大変昔の「音楽之友」誌が何冊かまとめて売られていたので、買ってみた。その中の 1冊、1950年新年号。今から 65年前のものだ。硫酸紙でカバーされているので、ちょっと見にくいが、もちろん表紙は楽聖ベートーヴェンだ。



ちなみに、園部三郎という評者の論評は以下の通りで、手厳しいながらも将来を嘱望する様子が伺える。文字づかいは原文のママ。
QUOTE
ピアノ・ソナタでは、私は二位になった中田喜直氏 (注 : これはあの「ちいさい秋みつけた」「めだかの学校」「夏の思い出」等の童謡で知られる、あの中田喜直だろう!!) の作品を一番いいと思った。一位の一柳慧氏はなかなか才能のある人のようだが、まだフランス音樂の温床の中にいて、彼の若さにもかかわらず、上手に作品をまとめあげさせたというだけだ。ドゥビュシーのシュークト・ベルガマスク (注 : 有名な「月の光」を含むベルガマスク組曲のことだろう。Suite をシュークトと発音するとは思えないが) が顔を出したり、その他の近代作曲家の幾人かがきき手の頭をかすめるが、それはともかくとして、和聲法の薄弱さが、ふんい氣の近代性にもかかわらず、この人の作品を至極子供っぽいものにしている。しかし、この人が身につけている作曲するための「手」は、なかなか非凡なものだとおもう。
UNQUOTE
興味深いのは、器楽の演奏と作曲とが同じコンクールの別部門となっていることだ。作曲とはそれだけ当時の音楽の聴き手にとって身近なものであったということか。それにしても、ドビュッシーは 1918年死去だから、この文章が書かれた 32年前までは生きていたことになる。そう思うと、過去から現在、未来と連綿と続く人間の文化活動には、切れ目がないのだなぁと改めて思い知る。ただ、この幼い少年が、その後数年でジョン・ケージだフルクサスだという、最先端の前衛活動に身を投じようとは、この園部という評論家も予想しなかったのではないか。もちろん、私の知り合いの渡辺さんにも想像できなかったであろう (笑)。
そんな中、一柳の名を冠した新たな賞が今般創設される。対象は作曲だけではなく、演奏や評論も入るらしい。

2015年 10月 18日
宮川香山 眞葛ミュージアム



日本人はもともと、自分たちの持っている実力について客観的な評価を下すことを得意としていないように思う。しばらく前に「日本辺境論」という本を読んだことがあるが、日本人はその長い歴史の中で、他国を牽引するような発想を持たずに、何かほかの中心的な存在から離れたところにいるという感覚で暮らしてきたという趣旨の本で、大変興味深かった。外圧を受けると恐れおののき、外国から見ても恥ずかしくないものを作ろうとする、そのようなメンタリティーが日本人には宿っているような気がする。日本の芸術もしかり。浮世絵の価値が海外で認められると分かると、それまで国内では見向きもされなかった浮世絵が、世界の芸術になる。黒澤明がヴェネツィアで賞を取ると、突然世界のクロサワになる。長らく海外で活躍していた小澤征爾がウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任すると、あるいは、大江健三郎がノーベル賞を取ると、慌てて文化勲章を授与する (あ、大江健三郎は拒否したのでしたね)。なんとも可笑しい限り。自分たちのやっていることを自分たち自身で評価できない、憐れな日本人。
明治時代は確かに、日本が海外に目を開き、がむしゃらに先進文明に追いつこうとした時代。そんな頃、欧米で数年おきに万国博覧会が開かれ、日本政府も国の威信をかけて美術・工芸品を出品した。その流れがあるのか否か、同時代の素晴らしい工芸品の数々が輸出用に作られ、国外で評価を高めることとなった。この宮川香山は、そのような時代に活躍し、空前絶後の作品を数々作った人だ。もともと京都の生まれで、若い頃は絵を描いていた。池大雅の弟子の息子に学んだとのことで、このような文人画を描いているが、題材は中国の陶磁器窯だ。若い頃から窯に興味があったものであろうか。















マイルスとコクトーの接点についてはすぐには思い当たらなかったが、なるほど、「針とアヘン」、つまりドラッグだ。この作品、1949年に米国人マイルスがパリに出て人気を得、歌手のジュリエット・グレコと恋に落ちたことと、同じ年にフランス人コクトーがニューヨークを訪れ、LIFE 誌の取材を受けたりした、それら歴史的事実に、カナダのケベック州から傷心のままパリに来てテレビ ? のナレーターを務める俳優ロベールの、まるでドラッグ中毒のような幻想を織り交ぜた、極めて夢幻的な作品だ。登場人物はほぼ 2名で、白人と黒人だが、そのうち黒人の方は、マイルスのイメージを演じるだけで台詞はなく、喋るのは専ら白人俳優のみ。もともと1993年に上演された独り芝居であったものを、最新の映像技術を駆使して再構成したものだということらしい。
まず舞台には立方体を斜めに切った半分、つまり 3つの面がそれぞれ垂直に交わっている構造体があって、結局すべてはそこで進行する。最初にアヘン中毒のときのコクトーの自画像を思わせる光の線の往復が男の上に走り、コクトーの米国訪問に関する独白が始まる。


QUOTE
阿片を喫む者は、熱空気球 (モンゴルフィエール) のようにゆっくり上昇し、ゆっくり身体の向きを変え、ゆっくり死んだ月の上に降りる。一度降りてしまうと、月の引力が弱いながらも作用するので二度と上昇できない。立ち上がっても、ものを云っても、仕事をしても、交際をしても、外見上生活していても、その身振り、そのもの腰、その肌、そのまなざし、その言葉はすべて、別の薄明と別の重苦しさの法則に左右される生活の反映にしかすぎない。
UNQUOTE
この印象的な冒頭から、件の立方体の半分は、様々な場面の映像を照射され、またそれ自身が回転することで、まさに千変万化である。ドアやベッドも、90度回転してその姿を消したり現したりするのだ。これは、コクトーが窓から身を乗り出しているところ。







改めてコクトーのことを考えてみる。終生ダンディだった彼は、疑いのないマルチタレントであったが、その洒脱に見える作風の裏には、どうしようもない厭世観が存在しているように思う。戦争という社会的悲劇を体験し、最愛のラディゲを若くして失うという個人的悲劇を体験した近代人として、既に洒脱一辺倒では生きて行けなかった男の、複雑な心理によるものだろう。この芝居の中で、このようなシーンがある。多才ぶりを自ら揶揄するようなシーン。




ロシアの作曲家、アレクサンドル・ボロディン (1833 - 1887) は、19世紀ロマン派の時代に活躍した、いわゆるロシア五人組のひとり。五人組とは、このボロディン以外に、バラキレフ、キュイ、ムソルグスキー、そしてリムスキー・コルサコフだ。ほぼ同世代のチャイコフスキーが西欧的な洗練を目指したのに対し、よりロシア的な情緒を大事にした (とはいえ、チャイコフスキーだってロシア情緒溢れる曲も沢山あるわけだが)。五人組のもうひとつの特色は、もともと音楽の専門家ではないことで、武官だったり船乗りだったり数学専攻だったりと様々だが、中でもこのボロディンは、化学者兼医者という変わり種だ。特に化学者としては国際的な実績を残した人らしく、自らも「日曜作曲家」と称し、作品数はそれほど多くない。オペラの分野では、この「イーゴリ公」のみが知られるが、中でも、「ダッタン人の踊り」というバレエシーンの伴奏曲が非常に有名だ。サイモン・ラトルとベルリン・フィルの演奏はこちら。様々にアレンジされることもあり、誰もが聴いたことのある曲だと思う。
https://www.youtube.com/watch?v=Uq984sKqokI&list=RDUq984sKqokI#t=0
今回この公演に出掛けるに当たり、20年以上前に BS から録画したヴィデオテープから焼いたブルーレイ・ディスクを見た。演奏は、最近の記事で採り上げた、ベルナルト・ハイティンク指揮する英国ロイヤル・オペラだ。ディスクを再生しようとしてびっくり。なんとこの曲、4幕からなり、演奏に 3時間半近くを要する超大作なのだ!! うーん、随分以前のインタビューでハイティンクは、共感できない作曲家としてこのボロディンを挙げていたが (「タクトと鵞 (はね) ペン」という本に所収されているバーナード・ジェイコブスンによるインタビュー)、この演奏の頃までには考えが変わっていたものであろうか。
わざわざハイティンクの話を持ち出したのには意味があって、確かにボロディンの作品は、シンフォニーにしてもそうだが、ロシアの土臭い雰囲気をそのまま持っていて、恐らくロシア人以外にはとっつきにくい要素があるように思う。その点、今回来日したブルガリア国立歌劇場は、民族的にも歴史的にもこの作品の根源に近い (と言っては語弊があるかもしれないが、政治的な点を抜きにして考えればやはり事実であろう) だけに、ちょっと見てみたいと感じたものだ。
ところが会場に着いてプログラムを見ると、今回の演奏は 2幕構成で、演奏時間も正味 2時間半くらいになっている。これはどうしたことかと訝っていると、開演前にプレトークがあるという。出てきたのはオペラ研究家の岸 純信と、この歌劇場の総裁で演出家のプラーメン・カルターロフだ。

・この作品は作曲者の死によって未完成に終わったものを、友人のバラキレフとリムスキー・コルサコフが断片を集めて完成させた。作曲者自身がいかなるエンディングを考えていたのか不明。
・主人公のイーゴリ公は実在の人物で (12世紀にモンゴル人と戦争をして、このオペラの筋書き通り捕虜になっている)、その手記が残っているが、それによると本人は、モンゴル人との戦争は感情に任せて鍛錬のできていない兵士を大量に投入し、多くの犠牲を出してしまったと後悔している。よって、通常の版における演出のように、彼を英雄視するエンディングには疑問がある。
・このオペラのテーマは異民族との友愛であり、有名な「ダッタン人の踊り」を婚礼の宴としてラストに持ってきて盛り上げることで、メッセージがより明確になる。
ということで、不要な 1時間をバッサリとカットし、後半の曲の順番を入れ替えた、新たな「カルターノフ版」をこの劇場では採用しているということらしい。なるほど、その成果やいかに。ところで、プレトークの進行役の岸さん、舞台上でこの「イーゴリ公」の大きなスコアを取り出し、「ではカルターロフさんにサインして頂きましょう」と言ってその場でサインをしてもらったので、てっきり終演後に抽選で聴衆にプレゼントかと思いきや、そんな話は微塵もなく、ちゃっかりご本人のコレクションに入った模様。先の通訳堂々巡りとあわせ、会場のそこここで聴衆のハテナマークがポコポコ浮かんでいたのが、5階客席にいた私からはよく見えた。
ところで、実はこの作品、驚くべきことに台本も作曲者自身が書いているのだ。なんと、ロシア版ワーグナーか?! ところが調子が悪いことに、明らかにドラマとしての流れが悪い。例えば悪漢として描かれる后妃の兄ガリツキー公。女を街から強奪するなど好き放題して、「がっはっは」と高笑いをしているところに「敵が攻めてきた」という知らせが入って、そして・・・そのまま出てこなくなるのだ。おいおいおい、悪い奴はどこかで成敗されるのがお決まりのパターンでしょう。これ、尻切れトンボです。きっとボロディン、化学者としての活動が忙しくて、悪い奴のキャラクターを描くのが面倒だったのではないか。写真は、戦に赴く前のイーゴリ公と、見かけ倒しの悪漢くずれ、ガリツキー公。


さて今回のカルターノフ版だが、まあ確かに最後にダッタン人の踊りを持ってくることで、大団円の盛り上がりにはなったものの・・・正直私にはしっくり来なかった。なぜならば、これはバレエ音楽なのだ。オペラなのに大団円がバレエということは、あまりオーソドックスとは思われない。つまり、少しお手軽に盛り上がりを演出したという印象を免れないのだ。たとえ粗削りではあっても、ドラマ構成やラストの説得力に問題はあっても、作曲者に近い人々がまとめた通常版を尊重するのが筋ではなかろうか。そのアマチュアリズムこそが、裏を返せばボロディンの魅力なのだと評価すべきではないか。実際、この大詰め以外の箇所についても、今回の再構成によって、ポンと膝を打つような流れのよさは実現されたとは思えず、やはり台本の弱さは覆いようもない。因みに大団円はこんな感じ。スキンヘッズ軍団がグルグル回ってオペラは終わる。



今回の演奏自体については、オケも歌手も、正直、それほど感銘を受けることはなかった。ただ、后妃ヤスラーヴナを歌ったガブリエラ・ゲオルギエヴァだけは、スラヴ人らしい力強い声に繊細さも持ち合わせていて、大器の片鱗を見せた。既にウィーンや MET やチューリヒで歌っているらしく、今後の活躍を期待しよう。


以前何かの本で読んだか、あるいはテレビで見たのかもしれないが、早坂の早すぎる死を巡って、黒澤明と溝口健二の間で諍いがあったと記憶している。今、記憶を辿りつつ、西村 雄一郎の名著「黒澤明・音と音楽」や、黒澤、溝口それぞれの作品を紹介する本を書棚から持ってきてひっくり返しているのであるが、どうも該当の情報が見当たらない。黒澤の「七人の侍」が (ちょうど伊福部が音楽を担当した「ゴジラ」と同じ) 1954年の公開。黒澤の次作「生き物の記録」(1955) の制作途中で早坂は亡くなっているが、その前後に早坂は、溝口の映画では、「近松物語」(1954)、「楊貴妃」(1955)、「新・平家物語」(1955) と立て続けに担当している。確か黒澤が、「近松物語」で溝口が早坂を酷使したので早坂が死んでしまったとなじったという話ではなかっただろうか。もっとも、なじられた溝口自身も、早坂の翌年、1956年に世を去っているのであるが。
もしこれらの邦画にイメージのない方が読んでおられれば、チンプンカンプンの話かもしれない。その場合は、このように認識されたい。日本映画の黄金時代、天才監督に従って音楽・音響設計をしたこの作曲家は、映画音楽の一時代を築いたのみならず、絶対音楽の分野でも傑作を残したものの、結核に侵されて41歳でこの世を去ったのだと。また、この時代には、分野を超えた芸術家たちの高度な共同作業があったのだと。それから、日本が生んだ最高の芸術音楽の作曲家とみなされる武満 徹が、音楽を独学で習得したと言いながら、実は唯一師と仰いだのがこの早坂文雄なのだと。
この日演奏された曲目は、すべて早坂の作品で、詳細は以下の通り。
映画「羅生門」から 真砂の証言の場面のボレロ
交響的童話「ムクの木の話し」(アニメーション映像付き)
交響的組曲「ユーカラ」
最初の「羅生門」の音楽は、この映画を見たクラシックファンなら一度見れば忘れないと思う。You Tube にも音声のみながらアップされているので、ご興味ある方はご一聴を。明らかに、有名なラヴェルのボレロの模倣である (この頃、著作権は大丈夫だったのか???)。
https://www.youtube.com/watch?v=1y_-0r5cgBM
ご承知の通り、「羅生門」(1950) は黒澤の代表作のひとつで、真砂というのは、この映画で京マチ子の演じている役柄。こんな感じだった。


そして、この日のメイン、交響組曲「ユーカラ」。ユーカラとゆーからには、もとい、言うからには、早坂が幼少の頃を過ごした北海道におけるアイヌの伝説をテーマにしているのであろう。実際その通りなのであるが、そのような標題は実はあまり重要ではなく、この 50分を要する大作において渦巻く音響に虚心坦懐に耳を傾けることこそが重要だ。なにせ、冒頭のプロローグではクラリネットソロが 3分以上、全く無伴奏で演奏するという異例の事態に始まり、メシアンを思わせる神秘的な音響が随所に聴かれるのだ。この曲は 1955年に日比谷公会堂で、やはり上田 仁指揮の東京交響楽団によって初演されたらしいのだが、その演奏に聴衆として居合わせた武満徹は、「これは早坂さんの遺言のようだ」と言って、声を出して泣いたということだ。果たして、病弱な体をおして過酷な創作活動を続けた早坂は、その 5ヶ月後にこの世を去ることになる。
この「ユーカラ」、上記の通りの名曲で、何度も聴き返すだけの価値があると思うのに、なかなか演奏機会に恵まれない。ところが私は以前にも一度、この曲の生演奏を聴いていて、それは今ライヴ CD にもなっている、1986年の山田 一雄指揮日本フィルの演奏だ (前座でベートーヴェンの 5番が演奏され、山田が熱狂のあまり指揮台から平場のステージに落ちてしまったことを鮮明に覚えている 笑)。今回の演奏会前にその CD を引っ張り出して予習して行ったのだが、この録音時から約 30年、日本のオケの進歩は顕著であると、つくづく思う。今回の東響の豊麗な演奏を聴くと、山田のライヴ録音は、残念ながらどこかにすっ飛んでしまうと思う。指揮者の大友も、永遠の爽やか青年のようなイメージだが、これまでに何度も素晴らしい生演奏に接している私としては、さらにアグレッシヴな活躍を期待したいと思ってしまうのだ。




2015年 10月 16日
プラハ散策
今回、業界の国際会議 (Conference) に参加するためにこの街を久しぶりに訪れた。重要な打ち合わせがいくつも設定され、夜の会食もビジネスの機会。ホテルに帰ってからも、容赦なく入ってくるメールへの対応。年とともにひどくなる時差ボケに苦しみながらほぼ業務日程をこなし、最終日、余った 2時間ほどを利用して、同僚とともに街を散策した。プラハのランドスケープと言えば、まずこのカレル橋だろう。

https://www.youtube.com/watch?v=k0DjWBmsYPs
さて今回、私にはどうしても見ておきたい場所があった。それは、旧ユダヤ人墓地。前回の滞在では、定休日 (= ユダヤ教の安息日) である土曜日に当たったために見ることができなかった。そして今回は・・・残念ながらやはり Closed。なんでも、ユダヤ教の祝日に当たっていたようだ。よくよくついていない。ただ、鉄の扉に開けられたガラス窓から、写真だけは撮ることができた。この墓地は 15世紀にできたらしく、現在ではさすがに使われていないが、ユダヤ教では墓地の移転が認められていないことから、狭い敷地内に折り重なるように墓石が建てられたという。なんともすさまじい雰囲気だ。


そのようなプラハの雰囲気において欠かせない有名作家がいる。ほかでもない、フランツ・カフカだ。街中で彼の生家を見かけた。







