







2016年 07月 28日
井上章一著 : 京都ぎらい

実は私がこの本を手に取った理由は、キャッチーなこの装丁だけではなく、この著者の名に覚えがあったからだ。井上章一。この本における肩書は、「国際日本文化研究センター教授」とある。この教育機関のことはよく知らないが、調べてみると、哲学者の梅原猛が初代所長、心理学者の河合隼雄が第 2代所長を務めた機関で、日本文化の研究に携わる錚々たる研究者たちが顔を揃えているようだ。この井上氏は1955年京都府生まれ。京都大学工学部建築学科及び同大学院修士課程修了。もともとは建築の専門家であるが、これまでの著書には「現代の建築家」という専門そのままの本もあれば、「霊柩車の誕生」「美人論」から、果ては「阪神タイガースの正体」という本まで含まれる、熱狂的タイガースファンであるらしい。実は私は以前この人の著作を1冊読んでいて、それは「つくられた桂離宮神話」という本なのである。さらに言えばその本を読む前に、2冊ほど関連する別の本を読んでいた。今本棚からそれら3冊を出して来よう。

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私は、桂離宮の良さがわからないと、正直にまず書いた。無理解を前提にしながら、仕事をすすめてきたのである。この態度は、しかし多くの同業者から、つぎのように批判されてきた。
「桂離宮がわからないようなやつに、建築史を研究する資格なんかない」
「桂離宮を語るのなら、美の本質に肉薄すべきだ。それをないがしろにするのは、邪道である」
いまでも、「井上です」と自己紹介をしたときに、からまれることがある。「君か、桂離宮がわからんなどという暴言をはくのは」、と。
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2016年 07月 25日
アラン・ギルバート指揮 東京都交響楽団 2016年7月25日 サントリーホール






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私たちが偉大な作曲家の作品を演奏するとき、すべては楽譜に書かれていて、われわれ音楽家は、そのメッセンジャーにすぎません。私にとって「蝶々夫人」はまだほとんど学生の頃に手掛けた初めてのオペラで、人生のほとんどをこの作品とともに過ごしてきました。しかし、それでも、楽譜からすべてを引き出すことは、常に真剣に取り組むべき困難な仕事なのです。
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というわけで困難な仕事に真剣に取り組むチョンであるが、オペラの全曲を演奏するのに、オーチャードホールの舞台には譜面台はなく、暗譜による演奏だ。魂を削って音楽するようなチョンが人生のほとんどを過ごしてきたというこの作品。一体どんな演奏になるのか。





うん、ここでもう一度思い出そう。この音楽の素晴らしいこと。チョンはいつものことながら指揮棒を鋭く空間に突き刺したり、グルグルと円を描いたり、ドンと足を踏み鳴らして音を煽ったり。そして東フィルの素晴らしい演奏能力が彼の身振りを音に化して解き放つのだ。なんという高水準の音楽。もともとこのオケのコンサートマスターを長らく務めた荒井英治をゲストコンサートマスターに迎えたオケは、甘く切ない思いから命を絶つ決意の思いまで、余すところなく表現した。本当に素晴らしい。


チョンの指揮する東フィルの演奏、前回に続き今回も瞠目すべきものとなった。また9月に来日してベートーヴェンを聴かせてくれるチョンには、もっともっと東京の指揮台に立ってもらえることを期待しよう。駒鳥が巣を作るまで待っています!!

2016年 07月 24日
上岡敏之指揮 新日本フィル 2016年7月23日 すみだトリフォニーホール


シャブリエ : 狂詩曲「スペイン」
ビゼー : 「アルルの女」第1組曲
リムスキー=コルサコフ : スペイン奇想曲作品34
ラヴェル : スペイン狂詩曲
ラヴェル : ボレロ
うぉー、これはなんと楽しい。既に夏休みに入っているということで、誰もが楽しめるポピュラーな曲目で、秋からのシーズンに先立つ肩慣らしを行うという、そういった位置づけであろう。上のポスターにもある通り、「真夏のスペイン・ラプソディー」である。あ、もちろん、ラプソディは、私自身もこのブログのタイトルに使っているくらいなので思い入れがあり、私の人生これすなわちラプソディのようなものなのであるが(笑)、この言葉は日本語では「狂詩曲」。思いつくまま気の向くままに奏でられる曲のことを指し、まさに話題が二転三転ととりとめない、このブログにはぴったりだと思っているのである。これらの曲も、何々の第何番何々調という作品ではなく、気ままに楽しめる曲ばかり。ただ、上記の曲目を見て、「へぇー、狂詩曲スペインと、スペイン狂詩曲があるのか」と思う方もおられるかもしれない。そうなのである。南欧スペインは、他のヨーロッパ諸国から見ると、以前イスラム教徒の支配下にあったこともあり、陽光溢れるエキゾチックな国。ここに並んだフランスやロシアの作曲家が、勝手気ままにスペインをイメージして書いた名曲の数々だ。なので、狂詩曲スペインとスペイン狂詩曲は、違う曲なのであります。但し、正確には「アルルの女」だけは舞台はスペインではなく南仏。同じビゼーの曲では、歌劇「カルメン」はスペインのゼヴィリアが舞台となっている。ただ、ここで2曲目に「カルメン」を入れてしまうと、ちょっとうるさすぎる(?)との配慮だろうか、「アルルの女」の2つある組曲のうち、派手に盛り上がる有名な「ファランドール」を終曲とする第2組曲ではなく、穏やかな曲も含む第1組曲を採り上げて、変化を持たせようという意図ではないだろうか。また、ファリャとかロドリーゴとか、あるいはクリストバル・ハルフテル(ちとマイナーか?笑)のようなスペインの作曲家による作品は含んでおらず、いわゆる「スペイン情緒」のある名曲に絞っているようだ。
このオケは開演前にホールのホワイエで曲目解説をしたり、場合によっては楽員が室内楽を演奏するなどして、聴衆を飽きさせない工夫を以前からしているが、今回も、スペインという国について、また今回の曲目についてのレクチャーがあった。スペイン人のクラリネット奏者(後半の曲目に登場)が喋り、楽団のインテンダント(いわゆる運営責任者)として、最近一般からの公募で選ばれた井上貴彦氏(確か会計士出身の方と記憶)が通訳方々、周辺の話をされていた。


そしてアンコールに、「アルルの女」の「ファランドール」が演奏された。推進力のある切れ味よい演奏で、真夏のスペイン・ラプソディは幕を閉じた。なるほど、そういう趣向でしたか。
会場には、このオケのコンサートマスターである崔 文洙と上岡のコンビで録音したCDが売られていた。ここでは上岡は指揮者ではなくピアニストとして、バッハとシューマンのヴァイオリン・ソナタの伴奏をしている。上岡のピアノは本格的で、何年も前に、あろうことか、歴史上で最も難しいと言われるラフマニノフの3番のコンチェルトのソリストを務めたこともあり、チケットは完売で私はそれを聴けなかったが、いつか彼のコンチェルトも聴いてみたい。また、崔は最高のコンサートマスターであり、素晴らしいヴァイオリニストなので、このような共演(デュオリサイタルも開いたことがあるようだ)によっても、オケと音楽監督の関係は深まって行くものと期待される。

2016年 07月 24日
レジェンド 狂気の美学 (ブライアン・ヘルゲランド監督 / 原題 : Legend)











ところでこれは、カラーで残っている実際のクレイ兄弟とフランシスの写真。上のモノクロの写真もそうだが、どうも彼らは自らを被写体として意識しているのではないだろうか。まるで映画のワンシーンのような写真である。

2016年 07月 23日
帰ってきたヒトラー (デヴィッド・ヴェンド監督 / 原題 : Er Ist Wieder Da)

だが、もし現代の街中に、アドルフ・ヒトラーがいたらどうしよう。これはちょっと見てみたいし、おそるおそる蹴ってみたり、冗談でハイル・ヒトラーの敬礼をして自尊心をくすぐってみたり、同盟国日本のことをどのくらい知っていたかについて日本語で問いかけてみたい。だがそれは、私の生きている時代も場所も、ヒトラーが生きていたところから遠く離れているから言えることだ。現代ドイツにおいては未だに、ヒトラーの存在がいかに複雑な影を投げかけていることか。本当に深いところは私には知る由もない。ただ、2008年、ということは終戦後60年以上経過したつい最近オープンしたばかりのベルリンのマダム・タッソー蝋人形館において、展示されたヒトラーの蝋人形の首が、早々にして執拗に何度も折られたという事件を聞いたときに、未だ消えることのない歴史の闇に震撼としたものだ。だがこの映画はあろうことか、お膝元のドイツにおいて現代にタイムスリップした本物のヒトラーが、物まね芸人として絶大な人気を博するという話。なんという大胆な企画。原題の"Er Ist Wieder Da"は、第2外国語がドイツ語であった私にとっては簡単だ。「彼がまたそこにいる」という意味だ(なんでもネットで調べられる便利な時代になったものだ 笑)。もともと小説としてベストセラーになったものの映画化である。これはヒトラーが現代に甦る瞬間。



この映画は、現実と虚構の入り子構造でできている。その意味では特殊な映画であって、決してテンポよい巧妙な演出とは思わない。だが、そのような演出であっても、題材によってこれだけの問題作ができてしまうのだ。ここには得体の知れない魔術がある。ヒトラー役を演じたオリヴァー・マスッチの言葉を借りよう。
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いい映画には、心を掻き乱す瞬間があると思う。笑えるけれど、その笑いが凍りつく瞬間が何度もあるんだ。
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上で何枚もヒトラー役の写真を掲げてきたこのマスッチの素顔はこれだ。

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(街中で撮影した際)僕がメイクをして衣装をつけた役者だということを完全に忘れている人たちもいて、彼らは真剣に僕に話しかけてきた。彼らとの会話で、人がいかに騙されやすいか、そして人がいかに歴史から多くを学んでいないかがわかったんだ。
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このようにして人間の歴史は行きつ戻りつするのだと思う。今日、移民問題やテロで揺れるヨーロッパに、もしヒトラーが再び現れたら何が起こるのだろう。それを考えると、ポケモンGOで街をほっつき歩く人々の生活は、平和なものなのだと思うのである。願わくば人々がゲームに夢中になるあまり、トラブルに巻き込まれないように。これは独裁者の扇動ではないので、自分の身は自分で守りましょう。
2016年 07月 23日
滋賀県旅行 その2 竹生島、彦根周辺 (佐和山城址、大洞弁天堂、龍潭寺、清凉寺、天寧寺、彦根城)

さて、辿り着いた彦根港の観光船乗り場。朝からそれなりに人数が集まっている。竹生島以外に、多景島 (たけしま) にも船が出ている。
















































天寧寺はこのように、井伊家の内部的な事情と関わる存在であるゆえ、直中以降の各藩主から愛されたようであるし、井伊直弼が大老として桜田門外で斃れたあと、血染めの遺品を目立たぬように持ち帰り、四斗樽の中に詰めて埋め、そこにこの供養塔を建てたという。















ここで私は白状しなければならない。なぜ今回彦根城に行きたかったのか。もちろん、井伊直弼の具現する日本の近代化の悲劇に想いを馳せるという意図もあった。だが、より直接的な理由は、我が家のガラクタ「世界遺産」コーナーに展示してあるガジェットの中で、国宝の城としては、姫路城、松本城、犬山城はあるのに、彦根城は未だなかったのである!! もちろん、最近国宝に昇格した松江城のガジェットもないが、以前未だ重文の頃に行ったきりなので、また次回訪問時に買えばよいと考えている。ところが彦根城は、昨年行ったばかりなのに、ガジェットを買い忘れてしまったのだ!! そんなわけで、今回無事、土産物屋が閉まる直前になんとかゲットすることができ、ほっと一安心だ。


2016年 07月 22日
滋賀県旅行 その1 石山寺、常楽寺、長寿寺、安土城址ほか


琵琶湖の南端近く、京都から遠からぬ場所にある石山寺には、これまでに4度ほど訪れているが、西国三十三か所の霊場としても知られ、由緒ある大変素晴らしいお寺である。月見の名所としても有名であり、紫式部が源氏物語の構想を練ったところでもある。現地に辿り着くと、件のご本尊の特別開扉についての各種表示が見られる。












常楽寺には素晴らしく堂々たる本堂と三重塔があり、ともに国宝。



一方の長寿寺であるが、こちらの本堂も国宝。常楽寺のものよりも小ぶりであるが、年代は少し遡るだろう。内部には重文の釈迦如来と阿弥陀如来が安置されている。またここで珍しいのは、池の中の小島に建てられた弁天堂。室町時代のもので重文だが、このような庶民信仰の対象がこのようなかたちで残っているのは貴重であろう。






























そして汗だくのまま車に乗って目指したのが、「安土城天主 信長の館」である。ここには、1992年にスペインのセヴィリアで開かれた万国博覧会の際に復元された安土城の天守閣の上層部の原寸大模型が保存されている。これは一見の価値ありだ。わずか3年しかこの地上に存在せず、永遠に失われてしまった特別な空間を、ここへ来れば体感することができるのだ。現地の、あのきつい山道を歩いてきたあとであれば一層、このきらきらしさが心に迫るはず。





ところで、昔日本史の授業で、「コレジオ」「セミナリヨ」という言葉を習ったものだ。前者はもちろんCollegeという意味で、高等教育を行う場所。後者はSeminarで、こちらは初頭教育を行う場所だ。安土では文化施設にこのような名前をつけている。これ、安土以外でつけるとちょっと違和感ある名前ですけどね(笑)。






こうして充実感を覚えながらも今後の課題を胸に秘め、その日は大津まで戻って一泊したのでありました。
2016年 07月 22日
チョン・ミョンフン指揮 東京フィル 2016年7月21日 東京オペラシティコンサートホール

モーツァルト : 交響曲第40番ト短調K.550
チャイコフスキー : 交響曲第4番ヘ短調作品36
モーツァルトとチャイコフスキーとは、若干取り合わせが悪そうにも思えるが、数年前に老巨匠ヘルベルト・ブロムシュテットが N 響を指揮してモーツァルトの3大交響曲(39~41番)と、チャイコフスキーの同じく3大交響曲(4~6番)を組み合わせた3回の定期演奏会を開いたこともある。この40番と4番という組み合わせは、そのときのN響の演奏会とは違っているが、実際に聴いてみると意外に座りがよいので驚いた。そして結果的には、現在のこのコンビがなしうる最高の成果とも思われるような、誠に素晴らしい演奏会となったのである。



さて、後半のチャイコフスキー4番も、指揮者も暗譜なら、オケも技術的な傷の全くない堂々たる演奏で、聴衆を完全に打ちのめした。舞台に向かって左手にホルン、右手にその他の金管を並べ、その間には木管が並ぶ配置であり、冒頭からこの配置が強烈なコントラスト効果を発揮。左側から聴こえる冒頭のホルンのファンファーレは、よくあるようにブカブカとただデカい音で鳴り響くというのではなく、フレーズの中に実に細かいニュアンスの変化があって、最初から音楽の流れに深みがある。それに続いて右側から聴こえるトランペットやトロンボーンは、輝かしさを伴いながらも運命の過酷さを強調する。その後の沈黙の重さ。そしてそれから始まる音の奔流は凄まじい。弦楽器は、いかに音楽が熱を帯びようとも、乱暴に弾き飛ばすことは皆無で、チョンが体を揺すって扇動すればそれにのりかかり、一転して制止すれば見事に歩調を緩め、弱音の緊張感に万感の思いを込め、そしてまた息の長い盛り上がりの末に力を開放する。実に見事であった。第2楽章のうら悲しさ、第3楽章の諧謔と中間部の愉悦感、そして終楽章の嵐まで、この曲はもちろんロシア情緒を随所に含んでいるが、その感情のうねりには、東アジア人である我々にも大いに共感できる部分がある。聴いているうちに、この演奏は東アジア地区の音楽の特性を充分に発揮しているのではないかとも思えてきた。西洋音楽を演奏する韓国人指揮者と日本人楽団員たち。そこにはもちろんクリアすべきグローバルな水準があるわけであるが、音の個性という点では、ユーラシア大陸の東の端で西洋音楽が独自の鳴り方をしていても、何ら不思議ではない。いやそれどころか、そのような個性は、この地域の音楽家たちのたゆまぬ努力の賜物なのではないか。そう思うと、大団円で鳥肌立ちながらも、チョンと東フィルが、あるいは東アジアにおける音楽表現が、何か新たな次元に到達しつつあるのではないかという感動に駆られたものだ。
調べてみると、チョンは既に、15年務めたフランス放送フィルの音楽監督の座を降りている(後任は、最近あまり名前を聞かなくなったミッコ・フランク)。また、ソウル・フィルの音楽監督も、オケの内部問題に嫌気がさしたとやらで昨年辞任。そうすると今は、自ら結成したアジア・フィルと、首席客演指揮者を務めるシュターツカペレ・ドレスデンくらいしかポストがないということか。であれば、是非是非、東フィルを頻繁に指揮して欲しい。このオケはちょうど今、音楽監督不在の状態であり、楽団としても当然今後の運営を考えていることだろうが、チョン・ミョンフンとの関係が熟成して来ていることは確実で、今回のような素晴らしい演奏会を重ねて行けば、本当に東アジアからクラシックの新たな潮流を起こすことも夢ではないと思うが、いかがであろうか。
最後にひとつ疑問を。冒頭に掲げたポスターのように、今回は完売御礼であったはずが、会場にはところどころまとまって、かなりの数の空席があった。あれは一体どういうことなのであろうか。あの空席の数だけ、素晴らしい演奏を聴くことができる人がまだいたはずであると思うと、残念だ。演奏家たちの熱演に報いるためにも、なんとかして欲しいものだと思う。