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<   2016年 10月 ( 25 )   > この月の画像一覧

日本の各地にはそれぞれに興味深い文化遺産が存在している。細かく見て行くときりがない世界であり、なかなかそれらをことごとく踏破するのは難しいが、それでも少しずつ興味深い場所を探索して行きたいと考えている。そんなわけで今回の記事では、岐阜県を採り上げる。「またお寺の記事書いているの?」と家人がウンザリした顔をすると思うが、やはり文化の領域内でどこに行くか分からないのがこのブログ。ご興味おありの方はしばしお付き合い頂きたい。

まず訪れたのは、可児郡(かにぐん)というところにある願興寺。「かに」という地名からの連想で、蟹薬師とも呼ばれている。この寺にはなんと、24体もの重要文化財の仏像があるという。事前に電話連絡を入れ、ご住職のおられる時間帯に伺うこととした。
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この寺のある場所は、江戸時代に制定された中山道の御嶽(みたけ)という宿場であり、またもともとは8世紀に東山道(とうさんどう)という街道がここを通っていたとのことで、古代から人々の往来のあった場所であるらしい。
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寺伝によると、815年に最澄がこの土地に薬師如来を安置したのが起源とのこと。それ以来長い年月を経て来た古寺であり、度々の兵火を乗り越えて貴重な文化財を伝えている。まず、重要文化財に指定されているこの本堂を見てみよう。かなり巨大な堂であるが、錆びた金属製の屋根も痛々しく、つっかえ棒をしていたり、あちこちにいびつな柱があったりして、一種異様な迫力がある。
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実はこの本堂、1581年に庶民の手によって建立されたもの。それだけ霊験あらたかな蟹薬師への信仰が篤かったということであろう。ご住職は老齢ながら非常に快活な尼さんで、寺の歴史を詳しくご説明頂ける。その説明によると、この重要文化財の本堂は来年秋から10年をかけて解体修理する予定とのことで、檀家のない寺だけに浄財集めに奔走していると言っておられた。そのため中山道関連のイヴェント等でもこの寺の拝観を組み込むなどして、少しでも観光客を呼び込む努力が必要であるようだ。だがこの寺には観光客の興味を惹くものがある。それが、24体の重要文化財の仏像群だ。この収蔵庫に保管されている。
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中に入るとまさに圧巻。本尊蟹薬師は秘仏であるが、その他の平安から鎌倉にかけてと見られる仏像群は、地方色があるものも多いが、優美な仏様もおられる。このような四天王や十二神将の力強さはどうだ。
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優美なのは、釈迦三尊像や阿弥陀如来だ。
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最近では仏像に関する本も硬軟取り混ぜていろいろ出ているが、みうらじゅんが監修した「東海美仏散歩」(出版社はなんとあの、ぴあだ)にもこの寺の仏像があれこれ紹介されている。この寺のご本尊についてのページは以下の通り。写真では小柄にお見受けするが、ご住職によると、結構大柄の仏様とのこと。
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子年の4月に公開というから、12年に一度で、次回は2020年。よし、ちゃんと覚えておいて、お参りすることとしよう。実は徳川秀忠がこの仏様の前で泊まったことがあるという。それは、関ケ原に向かう途中、上田城で真田の激しい抵抗にてこずり、結局戦には間に合わなかったわけだが、中山道を上る際、途中でこの寺の本堂に泊まったということらしい。後に天下の第二代将軍となる秀忠、どのような悔しい気持ちでここに滞在したのだろう。またこの寺には、鐘楼を兼ねた門がある。大事にされて来た鐘は、戦時中も招集を免れたという。蟹薬師の名に因んで、上の方に金属製の蟹がはめ込まれている。
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このように貴重な文化財の宝庫である願興寺、本堂の解体修理がつつがなく行われることを願うとともに、もしこのブログで興味を持たれた方は、来年秋に修理が始まる前に是非一度足を運んで頂きたい。あ、必ず事前に電話で予約することをお忘れなく。

それから私は、大地の歴史を遥か遡る旅に出た。可児郡から少し西に行ったところにある瑞浪市(みずなみし)というところに、地下トンネルを利用した施設があると聞いたからである。そうして辿り着いたのは、瑞浪市民公園。
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実はこの場所はもともと化石がよく取れるらしく、このような石碑が立っている。
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ところが今ある施設は少し様子が異なる。戦時中ここには、戦闘機を製造するための地下工場が作られ、そのために中国人・朝鮮人の捕虜が強制労働に駆り出されたというのだ。この看板にあるように、相当な規模である。
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このブログでも松本にある地下工場(公開していないので全貌は不明だが)を採り上げたし、同じ長野県の松代では、大本営を移築するために作られた地下施設を見学したこともある。こうした戦争の傷跡を残す負の遺産も、正しい歴史認識のための保存が必要であろう。上の写真の通り、ほとんどのトンネルは封鎖されているが、一部は研究や見学のために有効活用されている。これはなかなか意義深い試みだ。これが地球の歴史を展示している地球回廊という施設。中は涼しくて、展示物も結構手が込んでいて、ちょっとお化け屋敷風で楽しかったですよ。
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それから、トンネルそのものに入って行って、そこに残されている化石を見ることができる場所もある。なかなかワイルドだ。
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また、ここで発掘された化石を展示した博物館もある。かなり大きいものも出ているようだ。
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また、ビカリアという巻貝の化石が、月のおさがりという名前で、お守りとして尊重された例についての展示もあって興味深い。
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そして、さすが陶磁器作りが盛んな場所だけに、ここには登り窯があって、現在も友の会が使用中(笑)。
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それに、ほかのところから移築してきた古墳まであるのである。
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このような悠久の歴史を辿る瑞浪公園、市民の方々の憩いの場になっているようであった。そして私は、次の目的地である多治見市の永保寺(えいほうじ)に向かうこととした。ここには有名な国宝建築が二つもあり、以前から行く機会を伺っていたのである。車を降りて寺に向かうと、堂々たる石灯篭が道の両脇に立っている。これは立派である。
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歴史探訪者たるもの、こういうところで手を抜いてはいけない。早速近づき、素性を確認すると、武州増上寺とある。もちろん、あの芝の増上寺であろう。とすると、将軍家に関連のものであろうか。
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それぞれ、「有章院」「惇信院」尊前とある。帰宅して調べると、前者は第7代徳川家継、後者は第9代徳川家重のことと分かった。きっと増上寺にあって戦争で焼けてしまったこれら将軍の廟の前に立っていたものであろう。これは家継の廟の戦前の写真に色をつけたもの。残っていれば国宝及び世界遺産は間違いなかったろうが・・・。歴史の荒波を越えて岐阜県多治見市で余生を送るこれらの石灯篭は、言葉を喋らないが、その存在感に人は打たれるのである。
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さて、永保寺である。この寺は珍しく、入り口から坂道を下って行ったところに境内がある。そのような寺は全国にどのくらいあるだろうか。今思いつくのは、京都の泉湧寺くらいである。坂道を下るにつれ、よく知られた天下の国宝、観音堂が段々その姿を現すのだ!!境内はちょっと銀閣寺を思わせるものもあるが、いずれにせよ素晴らしいワクワク感がここにはある。
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観音堂の前には池があり、橋が架かっている。紅葉すればまさに観音浄土そのものだろう。お堂に近づいて行ってみよう。
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この凛とした佇まいに、静かに心を打たれる。あいにくの雨であるが、私はしばしその雨の中で立ち尽くす。尋常ならざる美しさである。通常は内部の拝観は叶わないが、写真が掲示してある。
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池を回り込んでみても、その姿は美しい。
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坂道を降りて境内に辿り着くと書いたが、境内のすぐ裏はこのような川になっている。今でも修行道場となっている永保寺は、決して観光にうつつを抜かしている場所ではないのだ。
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そしてこの寺のもうひとつの国宝、開山堂。なるほど、観音堂よりは小ぶりであるが、これも奇跡の建物だ。よくぞ今日まで残ったもの。ここにも内陣の写真が掲示されている。
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多分このような場所であろうかと想像していたそれ以上に厳しい美に触れることができる場所、永保寺であった。心が洗われた気がする。

さてこの多治見市は陶器で有名なのであるが、私が見たかったのはもうひとつの全く異なった場所。それは多治見修道院だ。
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オーストリアあたりの修道院を思わせるこの建物は、1930年に創立されたバロック建築。うーん、これはヨーロッパそのものの雰囲気ではないか。その証拠に、周りにはブドウ畑があり、この修道院でワインを作っているらしい!!ええっと、Tajimi Shudouin Winery、なるほど、多治見修道院ワイナリーか。私が訪れた月曜日はあいにく定休日でワインは買えなかったものの、素晴らしい人間の営みを見た気がする。
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岐阜県にはまだまだ面白いものが目白押しだ。またご紹介申し上げたいと思う。

by yokohama7474 | 2016-10-02 22:16 | 美術・旅行

奈良 西大寺

別項で採り上げた吉田裕史指揮ボローニャ歌劇場によるプッチーニの「トゥーランドット」は奈良の平城宮址における野外公演であったが、開場までに少し時間があったので、久しぶりに西大寺を覗いてみることにした。近鉄の大和西大寺駅(わざわざ「大和」とつくのは、岡山に有名な西大寺という寺及び駅があるからだろう)は、近鉄の乗り換え起点となる重要な駅であるが、西大寺というお寺は歩いてすぐだ。
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西大寺というからには、平城宮の西にあって、かつては東の東大寺と対になる巨大寺院であったわけであるが、今日ではごくわずかな建物が残っているに過ぎない。だが、鎌倉時代に興正菩薩叡尊(こうしょうぼさつえいそん)が復興し、真言律宗の総本山として今日までその法脈をつないでいる意義は大きい。また、巨大な茶碗でお茶を飲む大茶盛という行事でも知られる。境内にはその大茶盛のポスターが貼ってある。ちなみにその隣は、つい先日まで奈良国立博物館で開催されていた、僧忍性(にんしょう)の展覧会のポスター。北山十八間戸等の社会事業で知られる忍性は叡尊の弟子で、来年生誕800年。この展覧会はこれを記念したものであったが、和泉元彌主演の映画ももうすぐ封切される。
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この西大寺の境内、40年ほど前から景色は全く変わっていない。かつての栄華を偲ぶ遺構はわずかであるが、静かな境内を散策すると、気持ちが落ち着くのである。これは東塔の礎石。
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この寺は随分以前には、本堂のみが拝観可能であったが、その手前にある四王堂は非公開、また奥にある愛染堂は、秘仏である本尊愛染明王の開扉時のみ公開していたと記憶する(また、宝物館である衆宝館は春と秋の一定期間のみ公開)。だが今回訪れてみると、その四王堂にも愛染堂にも入ることができて有り難い。これが四王堂。
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実はまだ小学生の頃、当時非公開であったこの四王堂がたまたま専門家の調査だか何かで開いていることがあって、ドキドキしながらそこに紛れ込んだことがある。特に注意されなかったが、その内部に安置された巨大な仏像を見上げて圧倒された記憶がある。当時はこちらもチビであったし、暗い中で普段見られないものを見ているという高揚感もあり、そのゾクゾクする感覚は忘れられない。その後もこの場所に来たことは一度や二度はあったと思うが、その巨大な仏像が高さ6mの長谷寺式十一面観音であることはすっかり忘れていた。なんとも存在感があり、もう少し知名度が上がってもよい仏様である。平安時代作の重要文化財である。
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そしてこの堂の主役は四天王、いや、そこで踏みつけられている邪鬼なのである。この寺の拝観パンフレットは、私の覚えている限り、40年前からこの邪鬼だ(笑)。
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これが本堂。本尊は清凉寺式釈迦如来で、重要文化財。また、丈六の弥勒菩薩像(県指定文化財)と、文殊菩薩渡海像(重要文化財)がいずれも素晴らしい。しばし瞑想したくなるような厳粛な空間である。
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そして、境内奥に位置する愛染堂。本尊の愛染明王は公開していないが、中に入ることができ、しかも堂内の客殿では特別な展示がされているのである。
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西大寺中興の祖にして真言律宗の開祖、興正菩薩叡尊が生前に作らせた自らの肖像は、鎌倉肖像彫刻の傑作として知られるが、この春重要文化財から国宝に格上げになった。堂内の客殿に安置された像は誠に凛としており、そのお姿はリアルでありながら、なんとも澄み切った精神を感じさせる優れたもの。
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この寺にはほかにもいくつか素晴らしい文化財が残されており、さすがに歴史のある古寺である。また今度は衆宝館や愛染明王が公開されているタイミングで訪れたい。

by yokohama7474 | 2016-10-02 10:44 | 美術・旅行

前項の興福寺詣でのあと、午後に奈良のどこを見に行こうかと思案した。私のお気に入りである近場の福地院や十輪院で地蔵巡りもよいし、大安寺あたりも最近行っていない。あるいは、ちょっと足を延ばして法隆寺に行ってみようか。近くにある慈光院は、奈良には珍しく庭を楽しむところで、なかなかに楽しいのである。だが、なんの計画性もなく、即興性と道草精神でラプソディックに物事を考える私の頭に、ひとつのアイデアが浮かんだ。それは、大和郡山市。もちろん、金魚の養殖で有名な街であり、筒井順慶がいた城のある街である。実は私はこれまで行ったことがない。それは、見るべき仏像がないということもあり、城自体の遺構が残っていないことも理由であった。だが、それぞれの土地には歴史が宿っており、過去に城が栄えたなら、何か面白いものが残っているはず。そう思ってレンタカーを走らせたのであった。

辿り着いた郡山城址、このような掘が今でも健在だ。石垣は建造当初のものであるという。淀んだ水だけでも、そこに留まる歴史の残滓に想いを馳せるには充分だ。
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再現された追手門に至る道はかなり狭く、ちょっと迷ってしまったが、辿り着いてみるとちゃんと駐車場もあり、門も櫓も、大変立派な佇まいである。
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さて、上に掲げた門の写真をよくご覧頂くと、豊臣家の桐の紋が見えることに気付かれることだろう。そうなのだ、戦国時代に一時この地を治めた筒井順慶が1584年に死去すると、筒井家は転封され、秀吉の弟である豊臣秀長が、大和・紀伊・和泉合わせて百万石の大名としてこの郡山城に入ったのである。従ってこの郡山城の本格的な造営は秀長によってなされたということになる。秀長については詳しく知るところではないが、戦国の世の安定に貢献のあった人物らしい。この城の運命はその後紆余曲折あるが、1724年に柳沢吉保の長男、柳沢吉里(よしさと)が入城、明治維新まで柳沢家が領主であった。天守閣は明治の頃に壊されて今はないが、ここは現在桜の名所として知られ、春には多くの人が訪れる市民の憩いの場所となっているようだ。だが、最近天守閣址の石垣に補修の必要が生じ、現在ではそこまでは入れないようになっている。でも、かつてそこにあった繁栄を偲ぶことのできる場所だと思う。もうすぐ補修作業が完了して、人々がその場所に戻ってくることだろう。
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城址の敷地内を進んで行くと、柳沢文庫の表示を見ることとなる。明治の頃に旧藩主柳沢氏の屋敷として建てられたもので、現在では地方史誌専門図書館となっている。
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私が訪問したときには、柳沢吉里が甲斐の国からどのように転封して来たかについての資料が展示されていたが、正直なところ、展示物よりも、なんとも落ち着いた佇まいの建物の方印象に残った。このような廊下を通り、ふすまを開けて展示室に入る。あー、なんともレトロ。
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奥には地方史誌が棚一面に並んでいる。古めかしいシャンデリアも明治の頃のものだろうか。
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ここを出て門の方へ戻ると、そこにも何やらいわくありげな古い建物が見える。
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これは銭湯ではありません(笑)。もともと明治41(1908)年、日露戦争の戦勝を記念して(古い!!)奈良公園内に建てられた奈良県立図書館だ。設計者は奈良県の技師であった橋本卯兵衛。
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人気がないのでおそるおそる近づいてみて、扉を開けたところ、どうやら週末には一般公開しているらしく、奈良市のお役人さんだろうか、年輩の案内の方に大変な歓待を受けた。この建物について、郡山城の歴史、郡山の見どころや駐車スペースに至るまで(笑)、実に詳しく教えてもらうこととなった。この建物を設計した橋本卯兵衛は、あの辰野金吾の手になる奈良ホテルの設計にも参画したとかで、窓の作り方などはそっくりであるそうだ。当時の紐で今でも窓が上下するらしい。
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古めかしい階段は、現在では使われていないものの、私が興味深そうにジロジロ見ていると、立ち入り禁止の綱を外して2階まで上がらせてくれた。
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郡山城の説明も大変興味深く聞いた。奈良は盆地であり、石を切り出せる山が少ないので、石垣を作るのに、古墳の石や石仏をかき集めてきているらしい。このブログでも、姫路城における古墳の利用や、安土城における石仏の利用をご紹介して来たが、いやこれだけ様々な石材を集めているとはなんとも面白い。天下人の弟、秀長の権力のなせる業なのであろうか。ここの館内には、天守閣の石組における転用石材が細かく表示してある。
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それから面白いのは、黄金の瓦が出土していることだ。出土品実物ではなく、復元品の写真だけの展示であったが、やはり豊臣の派手好きがここにも発揮されていたようで、なんとも興味深い。
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この施設、今は何に使われているかというと、登校拒否の子供たちの教育の場ということらしい。このような歴史的な環境に向き合って自分が何を勉強して社会とどう接して行くかについて子供たちが学ぶ場であるということであろう。帰りがけに玄関を見ると、卒業生の詩が飾られているのが目に入った。
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むむ、どうやら道草をしてよかったという内容である。人生の道草そのもののようなラプソディックなブログを書いている身としては、大いに賛同したくなるものではないか。特に次の一節。私の座右の銘にしたい。そうなのだ。道草こそが人生の醍醐味であり、知恵や勇気の源なのである。
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我が道草人生を肯定されて、よい気分で(?)城を出て、郡山の街へ。この旧県立図書館で細かい街の地図などを頂いたが、その中で目を引いたのが、「金魚ボックス」。どうやら電話ボックスを水槽として利用して、そこに郡山名物の金魚を入れてある場所らしい。街の南の端あたりにある。これ、電話ボックスの隙間をパテで塞いでいるようだが、かつては人の声を運んだ受話器が、既にその使命を終えて水の中をひょろひょろ彷徨っているのが、なんとも面白い。
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この近くにはもと旅館があったり、ちょっと足を延ばすと町屋エステサロンなるものもある。街中には旧遊郭もあるらしく、郡山市のかつての繁栄を思わせる。あ、もちろん現在でも全国の金魚養殖の4割のシェアを持つらしく、繁栄はしているのだと思いますが。
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秀長が城下町を作る際に、各職業ごとに区画を分けたとのことで、現在でも茶町、雑穀町、豆腐町、錦町などの地名が残っていて風情がある。中でも紺屋町は、細い道のど真ん中に水路が流れていて、昔は藍染の水洗いをしたらしい。車の中からパチリ。
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またこの街には、見逃せない社寺がいくつかある。まず、源九郎(げんくろう)稲荷神社。ここで言う源九郎とは、歌舞伎・文楽の「義経千本桜」で有名な佐藤忠信、源九郎狐のことである。小さい神社だが、日本三大稲荷のひとつに数えられている。源九郎狐がある僧の夢枕に立ち、大和郡山に祀ってくれたら守護神になろうと言ったため、その僧の話を聞いた秀長の名によって創建されたとのこと。
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その由来から、歌舞伎役者も頻繁にここを訪れるらしい。何か不思議な力を感じるパワースポットである。
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そして、その隣にあるのが洞泉寺。
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秀長が三河の寺を移築してきたもので、本尊の阿弥陀三尊は快慶の作とも言われ、重要文化財である。厨子内のお姿を拝見するところ、快慶本人の作か否かは別として、鎌倉時代の慶派仏師によるものであろうとは思われる。素晴らしい出来で、しばし見とれてしまった。
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この寺にはもうひとつ面白いものがある。
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これは何かというと、お風呂である。天平の昔、光明皇后が病気の人の治療のために使用したもので、右側の高い部分に地蔵菩薩像を置き、そこからお湯を浴槽に流し入れたものという。1586年に、豊臣秀吉と洞泉寺の住職が同じ夢を見て、郡山城のある場所を掘れというお告げを聞き、掘ってみたところこの浴槽と地蔵菩薩像が出てきたという伝承があるらしい。これは大変に興味深い伝承である。というのも、光明皇后はもちろん、悲田院や施薬院という慈善施設を作ったと言われているし、らい病患者の膿を唇で拭ったところ、病人の正体は実は観音菩薩であったという伝説もあるくらい、慈善事業に力を注いだ人であったからだ。調べてみると、郡山城のあたりは奈良時代には薬園が営まれていたとのこと。もちろんこの出土品が本当に奈良時代に光明皇后が使ったものか否かは分からないが、この土地はそのような病気の治癒に特性のある場所であったのであろう。そのことを如実に示すもうひとつの興味深い場所がある。その名も、薬園八幡神社。
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実に「続日本紀」にもその名が見えるという古い神社で、本殿は重要文化財に指定されている安土桃山時代の華やかな建築だ。天平時代の瓦も展示されている。
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そしてこの神社では今でも、名前の通り薬草が栽培されていて、その種類は50にも及ぶ。太古の昔よりの土地の記憶を今に伝えているわけである。
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さてそこから丘陵地帯に移動し、最後の目的地として矢田寺を訪れることとした。あじさいで有名な寺であるが、大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)の開基になると伝えられる古刹である。実は私はこの寺をこれまで訪れたことがなかったのであるが、それは、それなりに重要文化財の仏像を所有するのに、それらを公開していないことであった。だが、古くからの信仰の場には何か感じるものがあるはずだ。これが本堂。
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丘の頂にある本堂まで車で来てしまったが、このように境内を見下ろすのも楽しい。
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重要文化財の春日社(室町時代)や、この地蔵の口の回りに味噌を塗ると味がよくなるという伝説のある味噌なめ地蔵(鎌倉時代)が、中世からの信仰のかたちを伝えている。
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そんなわけで、限られた時間ではあったが、大和郡山市、堪能しました。ほかにもいろいろ見どころがあるが、道が細かったり、名所と名所の距離が意外にあったりして、残念ながらメジャーな観光地という感じには至っていない。だが、城址あり明治建築あり寺あり神社あり、そして金魚ボックスあり(笑)と、その気になれば尽きせぬ魅力を見せてくれる街。通りいっぺんの奈良観光に飽きた方には、お薦めしておこう。

by yokohama7474 | 2016-10-02 02:44 | 美術・旅行

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誰もが知る奈良観光の第一歩、法相宗(ほっそうしゅう)総本山の興福寺では今、特別な催しが開かれている(10月10日まで)。それは、ともに国宝に指定されている二つの塔、五重塔と三重塔の初層(1階のこと)の同時公開だ。この催しは東京でも広告を見ることができ、この寺が近年伽藍再建に力を入れていることをよく知っている身としては、是非ともこの催しに出かけて行って、少しでも伽藍復興が進むことに貢献できればよいと思い(まぁ、微々たる額ではあるが 笑)、9月中旬の三連休を利用して、出かけて行ったのである。

興福寺は藤原氏の氏寺として長い歴史を持つが、その堂塔は何度も火災に見舞われ、また明治の廃仏毀釈の頃には廃寺寸前になるなど、苦難の歴史を辿ってきた。だがそれでも、この2つの塔や東金堂、南円堂、北円堂という国宝・重要文化財が残されたし、阿修羅像をはじめとする天平時代の貴重な仏像の数々に加え、平重衡の南都焼き討ちからの復興の際、運慶一派によって制作された素晴らしい鎌倉彫刻の数々を現在に伝える。現在では奈良公園の一角として多くの人々に親しまれているが、寺域を示す塀もなければ門もない。いや、それどころか、中心となる本堂も存在しない。寺としてはその状況からの脱却を求めているらしく、昔日の威厳ある風景を取り戻すべく、中金堂の再建中である。将来的には回廊や中門も再建される予定であり、そのための浄財集めが必要とされている。近年行われて大活況を呈した阿修羅像を含む八部衆・十大弟子の東京での展覧会や仮金堂での展示は、いずれもその流れによるもの。今回の五重塔・三重塔の史上初の内部同時公開も、やはりそうなのであろう。ここで同時公開が史上初というのには理由があって、以前五重塔、三重塔それぞれの初層開扉は行われたことがあるからだ。五重塔の開扉は2000年のこと。私はそのときに見に行っており、写真集も購入した。塔の内部については、後でこの写真集掲載の写真をお目にかけることにしましょう。
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さて今回の興福寺訪問、あいにくの雨である。もう何十回も訪れていておなじみの、東金堂から望む五重塔。
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上記の通り中金堂を再建中である。平成30年落慶予定というから、ほんの2年後だ。さらにその後、手前の礎石の部分に回廊と中門が再建されることになるのであろう。だからこのような写真は、時を経ると貴重なものになるかもしれない。
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五重塔にはこのように観覧者の列ができている。この塔は室町時代、1426年頃の再建になるもので、高さ50.1m。日本の五重塔の中でも京都の東寺のそれに次ぐNo.2の高さであり、もちろん国宝だ。
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そしてこのような注意書きが。3点目を見て、「えっ、国宝の建物なのに、中にある置物は安物なのか!!」と一瞬思ってしまったが、それは私の勘違い。「安置物」は「やすおきもの」ではなく、「あんちぶつ」と読むのでした(笑)。
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この五重塔の初層部に安置された仏像は、塔の建設後まもなく作られたもので、もちろん安物であるわけもない。室町時代は既に仏教彫刻自体の需要が減っていた時代であるので、これらの仏像も、この寺にある鎌倉時代の仏像ほどの出来ではないにせよ、四方に薬師(東)、釈迦(南)、阿弥陀(西)、弥勒(北)のそれぞれ三尊像を配するのは奈良仏教(いわゆる密教到来前)の伝統であるそうで、貴重な作例である。では上記の写真集から、それぞれの三尊仏をご紹介しよう。心休まるお姿ではないか。
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続いて三重塔を見てみよう。こちらは鎌倉時代初期の建築で、現在残る興福寺の建造物の中でも、北円堂と並んで最も古いもののひとつで、もちろん国宝だ。高さ19mと、五重塔と比べると小ぶりであるが、優美な建物である。
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こちらは初層の内部に立ち入ることはできず、外からの拝観になる。内部には五重塔のようないわゆる塔本四仏はなく、肉眼では分からない板絵や、東側には弁財天が祀られている。もちろん内部は撮影禁止なので、私が撮ったものではなく、2011年の前回開扉時の写真を引用。
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彩色に関する資料も何点か掲示されている。
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実は後で知ったことには、凸版印刷がこの塔の彩色をヴァーチャルで見ることができるように復元し、ヘッドマウントディスプレイで360度体験できるらしい。場所はこの三重塔西側の興福寺会館前で、今回の五重塔・三重塔特別公開のチケットを購入した人の中で、各日先着250名とのこと。このヴァーチャル体験の期間はなぜか前期と後期に分かれていて、前期は8月26-31日、後期は今日10月1-10日とのこと。つまり、私が現地を訪れた9月はまるまるお休みだったことになる。な、なんで??? ちょっと悔しい。これはイメージだそうです。
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ところで興福寺の塔というと、明治の廃仏毀釈の際に両方とも売りに出され、25円とか50円とかの価格で買い手がついたという記述をよく目にする。当時この寺が存続の危機に立たされたことは確かなようであるが、寺のウェブサイトによると、塔の売却については「あくまでも伝承の域を出ない」とある。実際のところはどうだったのか分からないが、今日のように文化財保護という観点が未だ確立していなかった頃、貴重な建築物や彫刻工芸品の数々を守った人々の努力には、本当に頭の下がる思いである。そのような人々の努力の成果が、国宝館という名称で知られるこの寺の宝物館であると言えるだろう。私は子供の頃から40年くらいに亘ってなじみの場所であり、もう何度訪れたことか数えていないが、昔の展示方法に比べて今の展示方法は非常に質が高く(特にライティング)、今回改めて日本の至宝の数々を心行くまで堪能した。いかに優れた芸術作品でも、それを鑑賞する環境が整っていないとその真価を感得することはできない。その意味で、この興福寺国宝館の展示方法を、ほかの社寺や美術館にも見習って頂きたいものである。阿修羅を含む八部衆や十大弟子と、ガラスケースで隔てられることなく対面できる喜びは本当に大きい。このような奇跡的な造形をこれほどまでにじっくり鑑賞できる場所はそうそうあるものではない。
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国宝館以外で常時拝観できるこの寺の建物は、東金堂である。十二神将や維摩居士、文殊菩薩という国宝仏が見どころであるが、実はこの大きな本尊、薬師三尊像も味わい深い。明らかに銅像で白鳳時代の古い様式を示す脇侍、日光菩薩・月光(がっこう)菩薩に比べて、本尊の薬師如来は明らかに時代の降る室町時代のもの。もう何十年もおつきあいしているこのご本尊であるが、実に恥ずかしいことに今回初めて知ったことには、木造ではなく銅製なのである。してみると、もともと飛鳥の山田寺から運ばれてきた旧本尊と、この両脇侍に合わせて、木ではなく銅で制作されたということだろう。それから、これは調べればきっとどこかに書いてあるのであろうが、この仏様の台座は箱型をしていて、普通の蓮弁ではない。これはつまり、当初からその台座の中に何かを格納するという目的で作られたということではないだろうか。
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その「何か」とは明らかで、昭和12年にこの台座から発見された旧山田寺の本尊の頭部、いわゆる山田寺仏頭である。現在国宝館で見ることのできるこの素晴らしい仏頭は、白鳳時代の清新の気を見事に伝えている、やはり奇跡的な作品であるが、戦乱の中でこの尊い仏様の頭部を守ろうとする人たちがいて、それを永遠に保存するために現在の本尊の台座を作ったのであろう。だがそれが昭和の時代まで発見されなかったことはまた興味深い。廃仏毀釈の嵐も、この尊い仏頭に近寄ることなく過ぎ去って行ったわけである。
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奈良のよいところは、何度訪れても新たな発見があること。今回の興福寺訪問でも、そのような思いを新たにした。古いものであっても新鮮な思いで接することにより、未来につながる原動力になる。そのようなことを意識するとしないとでは、日常生活の過ごし方も変わってくるものだ。古い仏様からパワーをもらって、なんとか頑張って生きて行くことができるような気がしている。

by yokohama7474 | 2016-10-01 11:51 | 美術・旅行

オランダが世界に誇る最高峰のオーケストラ、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団に関しては、昨年11月の来日公演も2度に亘って記事にしたし、その2公演を聴いた者にしかわからない(?)ネタを含んだドキュメンタリー映画「ロイヤル・コンセルトヘボウ オーケストラがやって来る」も、今年2月7日付記事で採り上げた。ともかく、一般的な知名度の点ではベルリン・フィルやウィーン・フィルに劣っているかもしれないが、歴史的な位置づけでも現在のレヴェルにおいても文字通り世界のトップを伺う素晴らしいオーケストラである。また、この楽団の名称のもととなっているコンセルトヘボウとは、オランダ語でコンサートホールのことで、アムステルダムで1888年に建てられたそのようなシンプルな名前のホールを未だに本拠地としている点でも極めてユニーク。今回、仕事の都合でたまたまアムスに滞在することとなり、昼の業務を終えたあと、心の洗濯に向かったのがこのホールであった。
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実はこのロイヤル・コンセルトヘボウ管、この9月からの新シーズンで、首席指揮者が交代する。2004年からこのオケの人気と実力を支えてきた名指揮者、ラトヴィア出身のマリス・ヤンソンスが退き、イタリア人のダニエレ・ガッティが新たな首席指揮者に就任した。このオケのウェブサイトで確認すると、シーズン幕開けのコンサートは早くも8月下旬に、そのガッティ指揮で行われており、メインの曲目はブルックナー4番であったようだ。そして今回、9月28日から3日に亘って開かれたコンサートでは、前首席指揮者であるヤンソンスが登場した。
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その曲目は以下の通り。
 マーラー : 交響曲第7番ホ短調「夜の歌」

音楽好きの方は既にご存知の通り、このコンセルトヘボウ管は、マーラーが生きていた頃からこの作曲家と縁が深く、マーラー自身を指揮台に迎えてもいるし、このオケの基礎を築いたオランダの名指揮者、ウィレム・メンゲルベルクの手によって世界最初のマーラー音楽祭が1920年に開かれている。また歴代の指揮者陣もマーラーを得意としていた人たちばかりだし、20世紀におけるマーラー演奏の最大の立役者レナード・バーンスタインもこのオケでマーラーを録音している。なので、この由緒正しく音響効果も世界最高クラスのホールであるコンセルトヘボウで、ロイヤル・コンセルトヘボウ管の演奏でマーラーを聴けることは、音楽ファンにとっては誠に特別なイヴェントなのである。

私がこのホールで音楽を聴くのはこれが確か4回目であるが、いつ来ても本当に素晴らしいホールなのである。例えばウィーンの楽友協会大ホールは、もちろん同様に世界有数の名ホールであるが、音楽の都ウィーンであるだけに、観光客も結構多い。その点コンセルトヘボウは、アムスの人たちの日常生活の一部として定着していて、親子4人で来ている人たちもいれば、夫婦同僚友人、とにかく皆さん普段着で集まってきている。その気取りのなさが、我々アジアの果ての人間から見るとなんとも落ち着いて見えるし、ヨーロッパ文明の奥深さを感じさせるのだ。こればっかりはいくら説明しても充分に伝えることができず、実際にその場に行ってみるしかない。これが開演前の様子。このホールでは、ステージ奥に据えられたオルガンの向かって右手の赤絨毯を敷いた階段を下りて指揮者が登場する。また楽員は、ステージ両端の前面の階段から出入りするのである。
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会場内には様々な作曲家の名前が刻印されたプレートが貼ってある。中央に見えるのがマーラーの名前である。やはりこのホール及びこのオーケストラとの縁が深いせいであろうか。
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このホールでは、プログラムをバーカウンターで購入する。2.5ユーロと安いが、その代わり内容もスカスカだ(笑)。チケット自体は、昨今では普通であるように、ネット予約してE-チケットをプリントすればそれでよし。
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さてこのマーラー7番であるが、マーラーの交響曲の中でも最も人気のない曲であることは、大方どなたも異存のないところであろう。私も高校生の頃からいろんな演奏で聴いてきたが、何度聴いてもなじめない箇所がある。あの手この手で聴き手の耳を刺激するマーラーの作品としては、その点でいささかユニーク。6番に続いて使用されているカウベルや、この次の8番でも使用されるマンドリン、そしてギターといった楽器の特異な音色は面白いものの、肝心の両端楽章でしばしば聴かれる痙攣的な音楽は、一体何に由来するものであろうか。終楽章にはマーラーのバロック研究の成果が表れているという解説を読んだことがあるが、なるほど、そうかもしれない。だがその説明だけでは、マーラーの創作の深部に秘められた闇は見えてこないのだ。ここはやはり演奏によって何かを感じさせてもらう必要がある。

マリス・ヤンソンスは1943年生まれ。このブログで採り上げるのは初めてであるが、もちろん世界最高の巨匠のひとり。若い頃から知っているとピンと来ないのだが、既に73歳!! にわかには信じがたい。この人のよいところは非常に明快な音楽性であり、しんねりむっつりしたところは皆無だ。本当にオーケストラの力を解き放つ名人で、それは70を越えた今となっても変わらない。ベルリン・フィル、ウィーン・フィルとも緊密な関係を保つ一方で、このコンセルトヘボウと、ミュンヘンのバイエルン放送交響楽団のシェフを兼任して来たが、今般コンセルトヘボウからは退任、バイエルンの方はまだしばらく続けるらしく、来月日本公演も控えている。
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今回のマーラー7番も、そのような彼の音楽性全開の、聴きごたえ充分の演奏であった。冒頭のテーマは、マーラーが湖で船を漕いだときに着想したと言われているが、不気味な中低音が、薄暮の湖面を横切る霧の広がりを表していて見事。ステージ右手前に陣取ったヴィオラの音がその動きを先導し、早くもこの曲の不思議な雰囲気を眼前に現した。それから始まった音楽は、上で書いた通り痙攣的なもので、盛り上がったと思うと沈み込む、なんとも流れの悪いもの。だが、一音一音が最高のクオリティで鳴るこのオケにかかると、その音の浮沈が、あたかも星の瞬きか、あるいは火山活動のようにも思われる。強音部も暴力的にはならないのがこのオケの美徳であり、その音の充実感は只者ではない。ヤンソンスはいつもの通り、スコアを見ながらの丁寧な指揮ぶりであるが、既に気心の知れたコンビのこと、必要な勢いとか力を欠くことは一切なく、まさに輝かしい音の織物を紡ぎ出して行った。全体を通して安定感を欠く部分はほとんどなかったが、ただ、終楽章では、最初のティンパニの連打から広がりのある旋律につながるあたりで、オケが慣性の法則に従って(?)前のめりとなり、ほんの一瞬ではあったが崩壊の予感を感じさせた。実は以前、マゼールとニューヨーク・フィルでこの曲を聴いたときにも同じような現象が起こったことを記憶している。腕に自信の名指揮者と名人オケであればこそ危機が潜む、かなりの難所なのであろう。今回、ヤンソンスは慌てず騒がずしっかりと棒を振って、崩壊を未然に防いだのはさすがであった。また、これは日本のオケでもかなりありがちなのであるが、終楽章の大団円直前でトランペットがタータラタタタターと高音に駆け上る箇所で、見事に外してしまっていた。これだけのレヴェルのオケでもこういうことは起こるのである。生演奏は一度一度が大勝負。翌日以降の演奏ではどうなったことであろうか。

これは終演後の様子。ヤンソンスも満足そうだし、客席もすぐにスタンディングオベーションとなった。
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嬉しかったのは、帰ろうと思ってロビーに出たところ、なんとワイングラスが沢山並んでいるではないか!!
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後日聞いたところでは、この終演後のフリードリンクがこのホールのしきたりらしい。私は今回初めて知ったが、なんとも粋な計らいではないか。だが、タダ酒だからと言ってお客が殺到して取り合いになるような品のない事態は発生しない。そのまま帰宅する人たちも多くいるし、タダ酒を楽しむ人々も、くつろいだ様子で数人で語らいを楽しんでいる。一杯目を一気飲みして二杯目に手を付けるという品のないことをしているのは、周りを見渡す限り、私だけでした(笑)。また、15分ほどするとスタッフが片付け始めるので、グデングデンに酔っぱらうこともなく、さすが文化都市アムステルダムと感心することしきりでした。もうちょっと飲みたかったなぁ・・・。

コンセルトヘボウ管の新しい首席指揮者、ダニエル・ガッティとの演奏会は、10月30日に NHK BS プレミアムでも放送が予定されているようなので、楽しみにしよう。私自身はガッティに関しては、ちょっとクエスチョンマークがつくような経験もしているのであるが、なんにせよ名門オケの新たな時代の門出を楽しみたいと思う。また、ヤンソンスのバイエルン放送響との来日も楽しみだ。

by yokohama7474 | 2016-10-01 01:25 | 音楽 (Live)