2017年 05月 31日
台北ストーリー (エドワード・ヤン監督 / 英題 : Taipei Story)






2017年 05月 30日
メッセージ (ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督 / 原題 : Arrival)




QUOTE
禅の権威だったりしない僕がこんなことを偉そうに言うのは気が引けるんですが、正直な話、僕自身、日本的なものや禅のデザインにとても強い感覚があると感じていて、その強さを今回、エイリアンの存在感にも持たせたかった。で、デザインに採り入れました。
UNQUOTE
ここで私が解釈するのは以下の二つの点。ひとつは、この映画においてはシンプルかつ神秘的なものに日本的要素を活用しようとしていること。もうひとつは、この監督は絶対に謙虚で性格のよい人ということだ (笑)。本作でアカデミー監督賞にもノミネートされた彼の名は、ドゥニ・ヴィルヌーヴ。1967年カナダのケベック生まれである。道理でフランス風の名前である。

予告編で明らかである通り、この作品の主人公は娘を亡くした女性言語学者、ルイーズ。世界の 12都市に同時に現れた (映画の原題は "Arrival"、つまりは「到着」だ)、巨大な石のような謎の飛行物体の中にいるエイリアンたちから発されるメッセージを読み解こうとする彼女が、自身について、また恐らくは世界の成り立ちについても、新たな発見をする物語。この作品は一貫して奇妙な静謐さに貫かれており、例えば空模様ひとつ取っても、きれいな青空の映像は皆無で、必ずどんよりと曇っているのである。それゆえ観客は、どうもすっきりと落ち着くことのない雰囲気の中で、ストーリー展開につきあわされることとなる。そして、実はここでのストーリーは、波乱万丈とか手に汗握るものにはなって行かない。「あれ? なんでだろう」という小さな疑問を持つことがあっても、充分な説明をそこで得ることはできず、「ま、いいか」と流して見て行くしかない。それを是とするか否とするかで、この映画に対する評価が変わってくるのではないだろうか。子を失った母の哀しみがずっと深いところを流れているとは言えるだろうが、ここで起こっているのは個人の悲劇ではなく、世界の危機である。しかも、どことは言わないがある大国などは、この飛行物体を排除するために核兵器攻撃まで検討するという、大変な事態まで起こってしまう。





最後にもうひとつ。ここでのエイリアンのペアは、アボットとコステロというあだ名をつけられるが、これは米国で 1940 - 50年代に活躍したコメディアンのコンビで、彼らの映画は日本では「凸凹 (でこぼこ) ○○」というタイトルで公開されたので、我々の世代にとってはテレビ放映などで、ある程度おなじみだろう。世界の終わりかもしれない状況でもこのようなふざけた命名をするという設定は、映画の静謐なトーンとは少し異なるが、設定上どうしても沸きあがってくる絶望感を回避するのに、役立っているように思う。米国人には、往々にしてそういう感覚があると言ってもよいかもしれない。

2017年 05月 29日
東京都 青梅・奥多摩 その 2 鳩ノ巣渓谷、高尾山



























2017年 05月 28日
東京都 青梅・奥多摩 その 1 武蔵御嶽神社、塩船観音寺、青梅市街、日原鍾乳洞



























再び神社の境内に戻ると、そこには犬連れの参拝客の姿もあり、ペットお守りなども売っている。我が家の愛犬は 1年半ほど前に天国に旅立ってしまったが、何やら我々夫婦と一緒にこの神社に詣でているような気がして、命の尊さを改めて実感した。もっとも犬たちにはそんな感傷はないと思うが (笑)。


さてそれからまた塩船観音寺に戻る途中、青梅駅周辺で道草を食った。我が家の場合、この道草を楽しむことが旅先では何より大事なのである (笑)。街のそこここに洋の東西を問わない古い映画のポスターをもとにした看板画がかかっており、なんともレトロである。昭和な博物館もいくつかあるが、やはり月曜で休館であった。猫による「東京物語」のパロディが楽しい。





























まず指揮については、テンポ感のしっかりしたワーグナーであったとでも言おうか。このブログでこれまでインキネンの演奏会を採り上げた際には、激しい音楽での熱狂感に私は若干の留保をしてきているが、今回もその傾向は同じで、作品の特性から言って、さらに暴力的に鳴らしてもよいのではと思う部分が何度かあった。例えば、ファフナーがファゾルトを殺すシーンのティンパニの鋭さや、終曲の「ワルハラ城への神々の入場」の高揚感には、課題があったと思う。だが、非常に丁寧にオーケストラをリードするインキネンを見ていると、これはこれでなかなかに優れた指揮であろうという気がしてきた。それは、このオペラの千変万化のオーケストラ・パートを描き出すに際し、次にやってくるうねりに備えるというか、着実に音の線を描き出すことができていたからではないだろうか。そもそもこの曲は、暴力的に鳴らすだけではどうにもならないわけで、このようにテンポ感がしっかりしてこそ、ドラマ性が活きてくると思う。なので、インキネンの音楽性はよく発揮された演奏であったと言えるのではないかと思う。
歌手陣では、ヴォータンのユッカ・ラジライネンと、アルベリヒのワーウィック・ファイフェが印象に残った。前者はフィンランド人でヴォータン役を得意としており、東京の新国立劇場のツィクルスでもその役を歌っている。後者はオーストラリア人で、上述のメルボルンでのインキネン指揮の「指環」で同じ役を歌っている。特にアルベリヒのファイフェは、冒頭のラインの乙女にからかわれる惨めさから、ニーベルハイムでは一転して独裁的権力を握る人物としての冷酷さと重厚さをうまく出していた。外人勢ではほかにフリッカ役のリリ・パーシキヴィも安定していた。この人もフィンランド人で、エクサン・プロヴァンス音楽祭でのサイモン・ラトルとベルリン・フィルによる「指環」にもこの役で出ているという実績の持ち主。そしてなんと驚いたことに、フィンランド国立歌劇場の芸術監督なのだそうだ。多彩な人である。それから、ローゲのウィル・ハルトマンはドイツ人で、ウィーンやミラノでも活躍している人。実はこの前日の同じ曲目の演奏会では体調不良で降板した (西村悟が代役を歌ったようだ) が、今回の公演では、演奏開始前に日フィルの常務が舞台に出てきて説明したことには、未だ体調は万全ではないが、是非皆さんに自分の声を聴いてほしいと志願しての出演であったようだ。実際、時に声が若干かすれたり、自分が歌わないところでは咳をしていたが、ローゲらしい策士ぶりをうまく表現しており、体調不良を技術でカバーしたというところか。日本人歌手はいつものようにみな二期会の人たちで、それぞれに健闘であったと思う。その中で私の印象に残ったのは、フライアの安藤赴美子。少ない出番ながら、強い声で表現力豊か。そう言えばこのブログでも、アンドレア・バッティストーニ指揮のヴェルディのレクイエムにおける彼女の歌唱について述べたことがある。主役で聴いてみたい人である。

2017年 05月 27日
特別展覧会 海北友松 京都国立博物館

まず、会場の京博に掲げられていた看板をご覧頂こう。上に掲載したポスターの図柄と同じ龍の絵であるが、右後ろには現在閉館中の本館 (重要文化財) がチラリと見えている。なお、今回の展覧会場は、新しい平成知新館。

























さて、前置きが長くなってしまったが、今回の主役ハインツ・ホリガーは、一般的な知名度はどうか分からないが、クラシック音楽の世界ではまさに知らぬ人のない、オーボエという楽器の神に等しい存在だ。1939年生まれだから今年 78歳になる。

スカルダネッリ・ツィクルス (1975 - 91年作)
指揮 : ハインツ・ホリガー
フルート : フェリックス・レングリ
ラトヴィア放送合唱団
アンサンブル・ノマド
私がこの演奏会に興味を持ったのは、これが実に 2時間半の大作で、しかも休憩なしに演奏されるということを知ったからであった。それだけの長時間連続して行われる演奏に立ち会うことで、聴衆は何か特別なものを感じることができるのはないかと思ったからである。もちろん、通常のコンサートで、2時間半休憩なしということはまずない。ただ珍しい例としては、先般私がどうしても行くことができなかったアンドラーシュ・シフの来日リサイタルは休憩がなく、たくさん弾かれたアンコールまで含めるとそのくらいの時間であったというし、ワーグナーの「ラインの黄金」は、この作曲家にしては異例に短い作品だが (笑)、やはり 2時間半休憩なしだ。だがそれらは例外的で、普通のコンサートには休憩が入るものである。とはいえ、映画では 2時間半の大作も決して少なくなく、それらを見ている自分としては、膀胱破裂のリスクもそれほどあるとは思えない。頑張って聴いてみようではないか。
無駄口はこのあたりにして、作品について少し語ってみたい。題名の「スカルダネッリ」とは、ドイツ・ロマン派の詩人、フリードリヒ・ヘルダーリン (1770 - 1843) が署名時に使用した架空の人物名のこと。おー、ヘルダーリンか。もちろん名前は知っている。だが恥ずかしながら作品を読んだことはない。唯一思い出すのは、ブラームスの「運命の歌」の歌詞がこの詩人によるものだということだ。その作品を含むヘルダーリンに因む作品を集めた演奏会を、クラウディオ・アバドがベルリン・フィルで行ったことも知っているが、私の知識はその程度だ。これが彼の肖像。


無伴奏混声合唱のための「四季」
スカルダネッリのための練習曲集 (フルート・ソロ、磁気テープと小管弦楽のための)
フルート・ソロのための「テイル」
これらは 1975年から 1991年までの間に、ワーク・イン・プログレスとして 1曲ずつ作曲されたものがまとめられている。この 3曲は合計で 22の部分から成り、以前は一定の条件のもと、演奏者が曲順を自由に設定できたが、2014年にルツェルン音楽祭で改訂版が初演されたときに、各部分の演奏順序が決められたらしい。全体は 3つに大別され、それぞれの中で「四季」が一巡する中、ほかの曲も適宜挿入されて演奏されて行く。ヘルダーリンの詩は「四季」の歌詞として使われているのだが、そこでは、春夏秋冬、ドイツ語で Der Frühling (フリューリンク)、Der Sommer (ゾンマー)、Der Herbst (ヘルプスト)、Der Winter (ヴィンター) のそれぞれの題名を持った詩が、3部を通して演奏されることにより、合計で三巡することになる。面白いのは、指揮を務める作曲者のホリガー自身が、それぞれの曲の最初に該当する季節を大きな声で唱え、合唱が歌い終わったあとに、ヘルダーリンが署名している部分もまたホリガーが唱えるのである。いわく、「1758年 5月24日 スカルダネッリ」「1842年 3月15日 スカルダネッリ」「1940年 3月 9日 スカルダネッリ」等々。だがこれは妙だ。ヘルダーリンは 1843年に死んでいるので、1940年はありえないはず。だがそれこそ架空の人物スカルダネッリによる日付なのである。
この 2時間半の超大作においては、大音響が聴かれることは皆無。ひたすら静謐で拍節感のない音が流れて行く。それはもちろん、ワーグナーの楽劇のようなドラマティックなものとは大違いである。だが、なぜか客席でうたた寝している人は少ないように見えた。そのひとつの理由は、様々に工夫された斬新な音響ではないだろうか。第 1部では 3つの異なる大きさの寺の鐘 (りんというのだろうか) がごーんごーんと響く。かと思うと途中でガサガサ合唱団 (20名) がステージから去るので何かと思えば、2階客席の左右奥とホールの真ん中あたりに陣取って歌い、その一方で、舞台では 4人がワイングラスに水を注いでそのふちを指でこする。いわゆるグラスハープである。ここではイメージを拝借する。

演奏に関しては、現代音楽の専門集団、アンサンブル・ノマドも見事なら、2014年の初演時にも合唱を担当したラトヴィア放送合唱団も見事。だが中でも素晴らしかったのは、フルート奏者のフェリックス・レングリ。スイス人で、往年の巨匠フルーティスト、オーレル・ニコレの弟子である。恐らくは、同じ木管楽器であるオーボエの超絶的名手であるホリガー自身が、奏者の生理をよく理解した上で曲を書いていることも関係していよう。見事な演奏であった。



2017年 05月 25日
ピーター・トライアス著 : ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン (中原尚哉訳)

今年の 4月28日付の記事で、フィリップ・K・ディックの古典的名作「高い城の男」をご紹介した。私はその記事で、そのディックの小説を読みたいと思った理由をほのめかした。そしてここで約 1ヶ月を経過して明かされる真実。・・・と言っても全く大したことのない話だが (笑)、私はこの最新の小説を読みたくて、その前に是非とも「高い城の男」を読みたかったわけである。なぜなら、その 2作には共通する設定があるからだ。この小説の題名、「ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン」とは、要するに現実世界での United States of America のことだが、第二次世界大戦の末期に日本が米国に原爆を落として、枢軸国が連合国に勝利したという架空の世界を舞台にしているために、この名称になっているもの。なるほど、それは分かった。だが、上に掲げたこの本、ハヤカワ文庫の上下巻の表紙は一体何なのか。何やら巨大なロボットのようなものが二体、向かい合っている。よく見ると下巻の帯に、「『高い城』& 『パシフィック・リム』の衝撃!?」とある。この最後の感嘆詞「!?」から、「エヘヘ、ちょっと言い過ぎかなぁ」とい照れが見えるような気がする。だが、読んでみると確かにこのコピーは言いえて妙なのである。もし映画「パシフィック・リム」をご存じない方がおられるといけないので、そのイメージをここで掲げておこう。もっとも、この映画に対する私の評価は、決して高くはないのであるが。

ストーリー自体はかなりシンプル。戦争に負けたかつてのアメリカ合衆国は、東側をナチス・ドイツに、西側を皇国日本に占領されている (この設定は「高い城の男」と同じ)。そんな中、"USA" なるゲームが流行する。これはなんと危険なことに、戦争で米国が勝って、繁栄を謳歌するという、皇国的にはありえない筋書き。それとともに、ジョージ・ワシントン (GW) 団と名乗る組織が、皇国日本に反逆する活動を行う。主人公の石村紅功 (べにこ) は、特高に属する筋金入りの皇国主義者、槻野昭子とともにある人物を抹殺しようとするが、敵味方入り乱れて、波乱万丈の成り行きの中に身を投じることとなるのだ。ちなみに物語は主人公の両親が戦後をどのように過ごしたかという 1948年の情景に始まる。そこでは主人公の両親は、生まれてくる子供が女の子と信じて、「べにこ」という女の名前をつけるのであるが、実際に生まれてきたのは男の子。ゆえに、「紅功」なる奇妙な名前の男が出てくるのである。物語は主として 1988年の米国西海岸を舞台としているが、回想シーンでは、その 10年前、1978年のサンディエゴ (カリフォルニア州に実在) での悲惨な出来事が重要な意味を持つ。メインの舞台が 1988年になっている理由はどこにも明記がないが、私の思うところ、インターネットが普及した時代では設定が難しくなるからではないか。ここで描かれる 1988年の世界では、各自が「電卓」(この言葉も、もう死語ですなぁ・・・) を持っており、そこから通信やハッキングができるような設定だ。なるほど、これも気が利いている。つまり、ここでの架空の世界にある種のリアリティを与えているのである。それに、描かれた街の情景には、あの「ブレードランナー」を思わせることもあり、ここでもフィリップ・K・ディック (「ブレードランナー」の原作はディックの小説「アンドロイドは電子羊の夢を見るか?」である) とのつながりを感じさせるのである。さらに感心するのは、様々な設定をばら撒いてヴィジュアルな要素を重視しながらも、小説ならではの衝撃性を組み込んだり、登場人物のキャラクター付けを入念に行っていることであり、この小説が SF 物であろうと何であろうと、人間という存在の強さと弱さをかなり仮借なく描いている点、作者の非凡な手腕を垣間見る思いである。こんな面白い小説を書いたピーター・トライアスは、1979年生まれ、サンフランシスコ在住の韓国系米国人。

上記の通り、この小説の舞台は主として米国西海岸なのであるが、サンディエゴ (LA の南 200km) という街で起こる出来事が、小説において非常に重要な意味を持つ。私はサンディエゴは二度出張で訪れているが、あるとき、お客さんと一緒に少しだけ街を見る機会があった。街の北東部にバルボア・パークという広大な公園があり、そこは今から 100年少し前、1915年に世界博覧会なる大規模な催しが開かれた場所なのであり、いまバルボア・パークに残る多くの建物はそのときのもの。今では博物館や美術館として賑わっている。なのでこの小説でも、作者と同じ西海岸の人たちが読むと、サンディエゴという地名から必ずや一定のイメージを得るものと思う。その施設の一部をご紹介すると、これはなんと、「ミンゲイ・ミュージアム」。そう、柳宗悦らが主張した「民芸」に属する美術作品を展示している。そしてなぜか、ニキ・ド・サンファルの彫刻作品が。




2017年 05月 24日
スプリット (M・ナイト・シャマラン監督 / 原題 : SPLIT)










2017年 05月 22日
カフェ・ソサエティ (ウディ・アレン監督 / 原題 : Café Society )



