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マルク・ミンコフスキ指揮 レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル 2018年 2月27日 東京オペラシティコンサートホール

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フランスの指揮者、55歳のマルク・ミンコフスキについては、過去にこのブログでも、東京都交響楽団を指揮した演奏会や、オーケストラ・アンサンブル金沢を指揮した「セヴィリアの理髪師」の演奏会形式上演などで紹介し、その手腕を絶賛した。今回の公演は、そのミンコフスキが自ら 1982年、なんと 19歳のときに設立した古楽アンサンブル、レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルとのものである。この楽団は、録音では「ルーヴル宮音楽隊」という日本語名称が通常であると思うが、何か少しぎこちない響き (私の勝手なイメージでは、ルーヴルというロイヤルな響きと「ブレーメンの音楽隊」のようなメルヘン調の響きの意味不明の混合だ) であるので、このようにオリジナルのフランス語名称を使用するというのは一見識であろうかと思う。このミンコフスキ、録音の上でも、フランソワ=クサヴィエ・ロトやテオドール・クルレンティスらとともに、聴きなれたレパートリーを新鮮に響かせることでその名声をぐんぐん高めてきている人であり、過去に実演に接したことのある身としては、彼の演奏会には出掛ける価値が必ずあるのである。ちなみに上で名を挙げたほかの 2人の指揮者も、今年から来年にかけて、それぞれの手兵とともに来日する予定で、いずれもが必聴のコンサートばかりである。これがミンコフスキ。
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さて、2018年も最初の 2ヶ月が過ぎようとしているが、冷静に考えてみれば、このコンサートは、私が今年聴く未だ二番目の外来のオケなのである。ひとつめは室内オケのクレメラータ・バルティカで、ちょっと調べてみても、年初のニューイヤーコンサートの類や、日本で年を越したキエフ・オペラのオケを除けば、外来オケは、これもやはり室内オケの、スロヴァキア室内管くらいしか見当たらない。来月以降は超ビッグネームの来日も始まるので、これをもって今年は不調ということではないだろうし、正直、日本のオケをフォローするだけでもかなり大変なことになっていることもあり、これはこれで適正ペースだと考えておきましょう。そのペースに乗って (?)、今回のコンサート会場には、かなりの音楽通とお見受けする方々が多く集っておられたようで、私ごときがここで外来オケが云々と声高に騒ぐことでもないでしょう。ということで、今回のプログラムはオール・メンデルスゾーン。
 序曲「フィンガルの洞窟」作品26
 交響曲第 4番イ長調作品90「イタリア」
 交響曲第 3番イ短調作品56「スコットランド」

このオケのことを上で簡単に「古楽オケ」と呼んだが、古い音楽を演奏するという意味のこの言葉自体が、既に古臭くなってきている (笑)。最近の用語では、ピリオド楽器によるオケとでも言うべきなのだろうか。つまりは、作曲者が作品を書いた頃の音楽を再現する試みなのであるが、そしてその試みは、もともとバロックからせいぜいモーツァルトくらいまでの範囲であったものが、最近では 20世紀音楽にまで対象が広がっている。だがこのブログは、クラシック音楽になじみのない方にも読んで頂きたいので、引き続き「古楽」という分かりやすい言葉を使いたい。ところで、ここにはひとつのパラドックスがある。つまり、いわゆる「古楽」の対象となる 200年も 300年も前の時代の音楽を学術的に研究することと、それを実際に音にしてみる行為との間には、常に乖離があることだ。それは致し方ないことだと思う。だが、やはりどの世界も、トップクラスの人たちの能力は素晴らしく高い。多くの古楽演奏には、実は演奏する喜びが溢れていて、それはそれは本当に豊かな文化的成果なのである。そもそも、いかに学術的に当時の楽器や奏法を研究しても、その時代に演奏されていた音楽を実際に聴くことができない以上、必ずそこには想像力の助けが必要だ。一流の古楽演奏には、必ず豊かな想像力があるがゆえに、人々に感銘を与えるのである。要は、大事なことは演奏スタイルよりも、奏でられる音楽の内容なのである。このような流れにおいて、19世紀生まれのロマン主義の作曲家であるメンデルスゾーンを古楽で演奏することの意義は、どこにあるだろう。そう、ひとつは、メンデルスゾーンがユダヤ系であったがゆえに、戦後になるまで充分な研究がなされなかったという事情がある。古楽が隆盛し始めた 1980年代以降の研究成果が著しいと聞く。実際、今回ミンコフスキとレ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルが演奏した 3曲はいずれも、クリストファー・ホグウッド (もちろん、指揮者としても、モーツァルトやハイドンの演奏で素晴らしい業績を残した音楽学者) の校訂によるベーレンライター新版を用いている。38歳で世を去ったメンデルスゾーンの創作活動の様子が、最新の研究で明らかになってきたらしいが、楽々と名曲を書いた天才というよりも、ひとつひとつの作品に心血を注いだ真摯な作曲姿勢を貫いた人であったらしい。
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さて、ミンコフスキの指揮を、ちょっとコミカルに喩えてみたい。子供の頃、小学校に必ず一人はいた、太っているのに妙に運動神経のよい子供が、そのまま大人になったような、そんな感じ (笑)。実際、彼の指揮ぶりは大変に情熱的で、今回も、音楽が盛り上がる部分では指揮棒がしなるくらいに鋭く振り回し、リズミカルな箇所 (例えば「イタリア」の終楽章や「スコットランド」の第 1楽章) では、ときに指揮棒を持った右手の下を左手の掌で叩いたり、あるいは、指揮台に載った譜面を指揮棒でバシバシ叩いたりするのである。そのボディランゲージの語彙の豊富さに、気心の知れた手兵がよくついて行くのを目の当たりにするのは実に素晴らしい音楽体験だ。このオケは演奏開始前に、チューニングに大変な手間をかける。まずオーボエに始まり、その後低弦、それから高弦と移って行くのだが、コンサートマスターと第 2ヴァイオリンのトップは、楽員の間を歩き回って確認作業をする。そのあと、仕上げに全員で一斉にチューニングするのである。そのような長い儀式を経て、ミンコフスキが出てくるとすぐに演奏が始まり、楽員たちは音楽に没頭して行く。今回の使用楽譜は上に書いた通りだが、「イタリア」と「スコットランド」は、聴いていて通常の版と著しく異なる箇所はほとんどなかったが、ただ「フィンガルの洞窟」だけは、ロンドンでの初演のときの楽譜がもとになっているらしく、中間部は違う音楽になっていた。上記の通り、演奏は立派なものだとは思ったが、ちょっと気になったのは、特に「イタリア」ではやはり木管楽器において、近代楽器による華麗な音色に比べるとちょっと地味すぎて、その点は楽しめなかったことだ。それから、全体を通して、この楽団は決してバリバリの技術があるようには思われず、弦 (コントラバス 3本、チェロ 5本) にしても、「スコットランド」の盛り上がりなどのように素晴らしい箇所があった反面、「フィンガルの洞窟」では少し単調に過ぎたのではないだろうか。やはりロマン派の音楽になると、書かれた時代のオケの編成がどうであろうと、さらに大型にして豊かなニュアンスを出す方が、感動的ではないだろうか。そういうことを勘案すると、今回の演奏会は、総合点において、都響を指揮したものほどの激烈な感動はなかったというのが、私の感想である。だがもちろん、それは都響との演奏会が特別素晴らしかったのであって、今回も、このコンビならではの真実味溢れる表現に何度も触れることができた点、やはり得難い演奏会であったことには間違いがないだろう。

それからもうひとつの発見は、ミンコフスキは多分、いや間違いなく (笑)、多動のタイプの人だろうということだ。というのも、後半の「スコットランド」の演奏前に聴衆に向かって、指揮台から 2分くらいだろうか、フランス訛りの英語で聴衆に話しかけたのであるが (但し、始まりは「マダメ・エ・ムシュー。ボンソワー。コンバンワ」であったが)、その内容がかなりあちこちに話題の飛ぶものであったのだ。最初に、またこの素晴らしい響きのホールに帰って来ることができたことは嬉しいと言い、前回は「a lot of ハイドン」(これは 2009年来日時の話?) であったが、今回は「a lot of メンデルスゾーン」であること、これから朝まで彼の作品をずっと演奏してもよいこと (もちろん冗談だろう)、メンデルスゾーンはドイツの作曲家というよりは英国の作曲家であること、英国は大事な国であること (もちろん日本も大事であること)、この「スコットランド」交響曲はスコットランド旅行の際の BGM とすべきこと、エディンバラのホリルードハウス宮殿にはメアリー 1世の愛人が殺害されたあとを見ることができること、それから、この曲には様々なスコットランド情緒が出てきて、それは動物の声の模倣であったり最後に出て来るコラールであったりするが、時代錯誤を承知で言えば、そこには Jazzy な雰囲気がある。ところで先週亡くなったフランスの偉大なジャズ・ヴァイオリニストがいて、彼はステファン・グラッペリの弟子で、YouTube で沢山彼の音楽を視聴できるが、この演奏を彼に捧げます。ええっと、そろそろ演奏しましょうか。・・・こんな具合である。うーん、思い出して書いても、話題があちこち飛びすぎである (笑)。この多動性こそが、彼の音楽の原動力になっているのだろう。ここでの話題のうち、ホリルードハウス宮殿での私自身の経験については、昨年 12月17日のシャルル・デュトワ指揮 NHK 交響楽団の演奏会の記事で触れている (ところでこの演奏会と同一のプログラムを含むデュトワと N 響の昨年 12月定期の 3プログラムは、例のセクハラ騒動のせいで、放送されなかった。このままお蔵入りして幻の映像となってしまうのか・・・)。また、先週亡くなったフランスのジャズ・ヴァイオリニストとは、私も知らなかったが、ディディエ・ロックウッドという人らしい。62歳という若い死であったようだ。この人の奥さんは、ソプラノ歌手のパトリシア・プティボンであるとのこと。ご冥福をお祈りします。これがロックウッド。
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演奏会終了後のカーテンコール時に楽員の様子を見ていると、何やら譜面をめくっているので、アンコールが演奏されるように思われた。この流れなら、アンコールはもちろん、同じメンデルスゾーンの「夏の夜の夢」からスケルツォか夜想曲だろうと予想したのだが、ミンコフスキの指示でオケはそのまま解散、アンコールは演奏されなかった。今回彼らはアジアツアーを行っていて、日本では 前日の金沢とこの東京の 2回だけであったようだが、アジアのほかの都市への移動がこれからあるのか、あるいはほかの理由かは分からない。だが、コンサート本体だけで充分な内容であったので、アンコールをせがむ必要はなかったと思う。そうそう、金沢と言えば、同地にある優れた室内オケ、オーケストラ・アンサンブル金沢は、今年 3月に井上道義が音楽監督を退任したあと、9月からこのミンコフスキが新たに芸術監督に就任する。相変わらず最新ニュースに疎い私なので今回初めて知ったが、既に年初に発表されていたようだ。うーん、これは大変なことになった。また新幹線で頻繁に、大好きな金沢まで出掛けなくてはならないのか。いやいや、都内在住者には朗報がある。8/1 (水) に、以下のコンサートが開かれるのだ!! これは必聴だろうと思ってぴあで調べてみると、既に残り少なくなっている。本当に東京のコンサートシーンは油断できない。だが、ミンコフスキの指揮となると、やはり万難を排して馳せ参じるしかないのである。
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by yokohama7474 | 2018-02-28 00:49 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

神聖ローマ皇帝 ルドルフ 2世の驚異の世界展 Bunkamura ザ・ミュージアム

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神聖ローマ皇帝ルドルフ 2世 (1552 - 1612) の名前は、澁澤龍彦や荒俣宏の著作に親しんでいる人にとっては、既におなじみのものであろう。珍奇なものを集めたヴンダーカマー (驚異の部屋) は当時ヨーロッパで流行したが、ルドルフ 2世が、当時ハプスブルク帝国の首都であったプラハに造営したものが、その代表と言われている。ルネサンスは人文科学や自然科学の発展の時代となったが、当時のヨーロッパ人たちが見つけ出した様々な未知の事柄に、多分に想像力も加わって、そのまま近代に突入する素地が出来上がって行ったわけである。そこには、近代の先駆けとしての理知的な面と、それから、想像力なしには生きられない人間という存在に立脚する、中世以来の文化的伝統を感じさせる面がある。それがヴンダーカマーの性質なのであろうと私は考えている。この展覧会は、その歴史上有名なルドルフ 2世のヴンダーカマーとはいかなるものであったのかに、様々な側面から迫るという意欲的な展覧会である。日本では古今東西の美術品や歴史遺産の展覧会が開かれており、まさに枚挙のいとまがないという表現がぴったりであるが、私の場合は、もうよく知っている画家の展覧会には、最近あまり足を運ばなくなっている傾向がある。もちろん、行ってみれば新たな発見はあるのであろうが、物理的な時間の制約もあり、できれば、これまで知らなかったものを見たいと思う。この展覧会 (3/11 まで開催中) などは、そのような例の典型と言ってよいと思う。但し、期待通りに目からうろこの驚愕の展覧会であったか否かは、また以下で書いて行きたい。

さてこれは、近年発見された、30歳頃のルドルフ 2世の肖像 (1580年頃作)。なるほど、髭を生やして落ち着いて見えるが、血色もよいし、若々しい肖像である。この時代の彼の肖像画はほかにないらしい。ちょうどプラハ遷都前後。これからヴンダーカマーを作ってやろうという野心を、そこに見ることができるかどうか (笑)。
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これはアドリアン・フリースという彫刻家の手になるルドルフ 2世の胸像。1607年に作られたオリジナルを 1964年に複製したもの。当時 55歳。ハプスブルク家特有の突き出た下あごがリアルで、きっとこんな顔の人だったのだろうと思う。この像の下部の裏側には、当時オスマン・トルコに勝利したことを記念して、トルコを象徴する蛇を、ハプスブルクを象徴する鷲が踏みつけているところが表されている。
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さて、現在のチェコ共和国の首都プラハについては、以前記事を書いたこともあるが、中世の街並みを残す素晴らしい場所である。その文化的な雰囲気は、ルドルフ 2世が文化・芸術を奨励したことによってもともと育まれたもの。この作品は、そんなプラハを舞台に、17世紀初頭に描かれた「ネボムクの聖ヨハネの殉教」。プラハを流れるヴルタヴァ (モルダウ) 川に投げ込まれて殉教した聖人の姿であるが、背景が大理石を模した模様になっているのが面白い。
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これは、上に掲げたルドルフ 2世の肖像を描いたとされるルーカス・ファン・ファルケンボルフという画家の作品、「バベルの塔の建設」(16世紀前半作)。バベルの塔といえば、昨年日本でも展覧会が開かれたブリューゲルの作品が有名であるが、この時代にはかなり頻繁に絵の題材となっていた。人間の不遜な行いへの教訓ではあるものの、もしかすると、人間の能力への賛歌という隠れたテーマがあれば面白いなぁと思うのは、私のようなひねくれものだけだろうか。
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さてこの展覧会には、ルドルフ 2世の宮廷で活躍したルーラント・サーフェリー (1576 - 1639) という画家の作品が多く並んでいる。これは、「村の略奪」(1604年作)。一見してこの群衆はブリューゲル風だが、実際にこのサーフェリーは、「ブリューゲル風の」画家としてプラハに招かれたのだという。
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これはまたルーカス・ファン・ファンケンボルフの「飲用療法中のルドルフ 2世」(1593年頃)。皇帝が鉱泉を飲むところを描いたもののようだ。貴族たちとともに、右手前には農民たちも描かれており、ちょっと不思議な作品だ。
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この絵の中でルドルフは、中央に並んだ 3人の真ん中に描かれており、左右は弟のエルンストとマティアスであるそうだ。
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さて、展覧会では、ルドルフ 2世が力を入れた天文学についての資料があれこれ並んでいる。彼のもとにいた天文学者として知られるのは、まずティコ・ブラーエ (1546 - 1601)。デンマーク出身だが、1599年にプラハの宮廷に迎えられた。この肖像画は 1596年の作というから、プラハ入りの少し前のものであるが、髪を右半分だけ剃っているのは奇妙である。また、決闘によって傷んだ鼻を隠すために付け鼻をしていたというが、よく見ると確かに鼻の横に何やら線が見える。
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そのティコ・ブラーエが率いてプラハで開始した天体観測の成果のひとつがこれである。1742年に出版された「最新天文図帳」。天体観測をしても、結局はギリシャ・ローマ神話から取った星座名を使うあたりに文化度の高さが伺える。
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そのブラーエの弟子筋にあたるのが、ケプラーの法則で有名なヨハネス・ケプラー (1571 - 1630) である。これはケプラー作成のその名も「ルドルフ表」に付属した世界地図。なるほど、ハプスブルクは空の上だけでなく、地表も観察していたわけだ。なにせ世界に植民地を持っていたので当然と言えば当然か。ここに見える双頭の鷲は、いうまでもなくハプスブルク家の象徴である。
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さてこのように、ルドルフ 2世の宮廷では自然観察が盛んに行われたわけだが、それゆえに博物学が発達して、それが絵画作品にも反映されて行く。これは再度登場、ルドルフ 2世に仕えたルーラント・サーフェリーの「大洪水の後」(1620年頃)。もちろんノアの箱舟の物語であるが、ここでは青空をバックに多くの動物たちが描かれている。だが興味深いことに、箱舟自体は見ることができず、画家の興味が、動物を描くことであったことが分かる。
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これも同じ画家の「鳥のいる風景」(1622年作)。同じようにここでは、様々な鳥を描くことを目的としているのであろう。自然観察の目があって初めて可能な表現である。
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これも同様趣旨のサーフェリーの作品、「動物に音楽を奏でるオルフェウス」(1625年作)。ええっと、オルフェウスはどこに? (笑) 大変小さくて分かりづらいが、中央右手あたり、白馬の隣にいることはいる。だが、ほとんど申し訳程度で、画家の関心は動物を描くことであることは明らかだ。それにしてもこのサーフェリーという画家、かなりコントラストの強い色彩でダイナミックな作品を描いているが、正直、画格がそれほど高いとは思われない点は少し残念だ。
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だがこのサーフェリーという人は、かなり真面目な人であったと見えて、この展覧会でも動物の素描が沢山展示されている。これはなかなか興味を惹くものだ。例えばこの象やライオンは、実際に目にしたことがあったのか否か分からぬが、大変リアルである。
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そのような自然観察に秀でたサーフェリーの作品として、以下は大変見事であると思う。「花束」(1611 - 12年頃作) である。宗教的な寓意も含まれているようだが、その点を覗いて純粋に絵画表現を鑑賞してみても、ネーデルラントの静物画よりも、不気味なまでの生命力を感じさせると思う。
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これもルドルフ 2世の宮廷で働いたフランドルの画家、ヨーリス・フーフナーヘルの「人生の短さの寓意」の二連画のうちの 1枚 (1591年作)。ドクロやコウモリの羽やカタツムリなどの不気味なものと、下の方に見える毛虫と蝶からは、変容を読み解くべきであるようだ。
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そしてここであの画家の登場だ。変容と言えばこの人。ジュゼッペ・アルチンボルド (1526 - 1593) である。彼もまた、ルドルフ 2世に仕えた画家のひとり。これは「ウェルトゥムヌスとしての皇帝ルドルフ 2世像」(1591年作)。アルチンボルドが故郷のミラノに帰ってから制作され、ルドルフ 2世に進呈されたものらしい。ウェルトゥムヌスとは、物事の変転を司る神のことであるらしく、ここでは実に 63種類の野菜と果物で、皇帝の顔を作っている。なおこの作品は現在、スウェーデンのスコークコステル城というところが所有しているが、その理由は、スウェーデンが 1648年にプラハを攻略したことにある。海洋の民であるスカンディナヴィア人が、内陸のプラハを攻めたとは意外だが、三十年戦争の最後の戦いであろうか。
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ルドルフ 2世はまた、ドイツ・ルネサンスの巨匠アルブレヒト・デューラーに魅了されていて、自身の宮廷にもデューラー様式での作品制作を命じたという。これはその一例で、ハンス・ホフマンというドイツ人画家の「キリストの嘲弄」(1590年代初頭作)。うーん、ちょっとというか、かなりというか、デューラーには負けていると言わざるを得ないが、それでも、キリストの周りの人々の不気味な様子には独特の迫力がある。
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それに比べると、こちらは優雅な作品。これもドイツ人画家であるハンス・フォン・アーヘンの「パリスの審判」(1588年作)。トロイ戦争の発端としておなじみの、ギリシャ神話の逸話である。なかなか構図がよろしいですな。
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これは皇帝自身が発注した作品で、ディルク・ド・クワード・ファン・ラーフェステインという画家の「ルドルフ 2世の治世の寓意」(1603年作)。右端に横向きに立っている軍神マルスが、当時トルコを破ったルドルフの肖像画であるらしい。
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かと思うと、ボス風のおどろおどろしい作品もある。ペーテル・ステーフェンス 2世という画家の「聖アントニウスの誘惑」(1595 - 1605年作)。
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図録からの撮影なので、間にどうしても線が入ってしまって見にくいが、この異形のイマジネーションはなかなかのもの。左側に渦を巻いて空中に立ち昇っているのは何だろうか。何やら奇妙な鳥の尾のようであるが、とにかく長い。また、聖アントニウスは恐怖のあまりだろうか、青白いを通り越して、モノクロになってしまっている (笑)。
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展覧会の最後に、例のヴンダーカマー (驚異の部屋) についての展示がある。これはナポリの薬剤師のコレクション (「博物宝典」、1599年作) だが、ヴンダーカマーの典型的なイメージである。ところ狭しと並べられた標本や書物。特に天井のワニがなんといっても目立っているではないか。
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最後に、ルドルフ 2世の驚異の部屋に実際にあったか、あるいはそれに近いと思われる工芸品を 2点。これは作者不詳の「貝の杯」(1577年作)。これも上のアルチンボルドの作品と同じく、現在ではスウェーデンのスコークロステル城の所有であるが、巨大トカゲと兵士の対決とはまた無骨な装飾であって、面白い。
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これはエラスムス・ビーアンブルンナーという人の「象のかたちをしたからくり時計」(1580年頃)。現在ではエステルハージー財団 (もちろんハイドンを雇ったあの貴族の末裔による財団だろう) の所有。今は壊れているらしいが、もともとは自動機械であった。これも見事なもので、象を操るのは異国の人である。
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ほかにも数多くの出展品があり、ここではほんの一部をご紹介できたに過ぎないが、これまでにない切り口での展覧会なので、発見が多々あるのである。その一方で、果たしてルドルフ 2世のヴンダーカマー自体をもう少し体系的に再現するような試みがあれば、もっとよかったと思う。それから、宮廷で活躍した画家としては、アルチンボルドは特別な才能を持っていたが、ほかの画家たちにはそれほどワクワクするものを感じられないのが、残念なところ。天才とはそうそう輩出するものではないのだなと再認識した次第。でも、プラハを文化都市としたルドルフ 2世の業績には、やはり歴史に残る意義があることは間違いないだろう。

by yokohama7474 | 2018-02-26 23:35 | 美術・旅行 | Comments(0)  

ミハイル・プレトニョフ指揮 東京フィル (ピアノ : 牛田智大) 2018年 2月25日 オーチャードホール

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東京フィルハーモニー交響楽団 (通称「東フィル」) とその特別客演指揮者であるロシア人のミハイル・プレトニョフの演奏会である。このコンビの演奏会は過去に 2回、2016年 4月と 2017年 2月に記事にしていて、今自分で確認してみると、どちらも彼のことを「もともとはスーパーなピアニスト」と表現している (笑)。実は今回も同じ表現で始めようと思ったのだが、年に 1回とは言え、3回も同じ表現を使うのはいかにも工夫がない。なので、今回はそれはやめておこう。もう遅いか (笑)。
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上のチラシに、「北欧紀行」とある通り、この日は北欧の音楽。いや、より正確には、ほとんどがシベリウス (フィンランド人) の音楽に、1曲だけグリーク (ノルウェイ人) の音楽が入っているというもの。
 シベリウス : 交響詩「フィンランディア」作品26
 グリーク : ピアノ協奏曲イ短調作品16 (ピアノ : 牛田智大)
 シベリウス : 組曲「ペレアスとメリザンド」
 シベリウス : 交響曲第 7番ハ長調作品105

ここで先に、共演したピアニスト、牛田智大 (ともはる) について触れておこう。彼はテレビ出演も多いので、一般にもそれなりに知られているかと思うが、そこでのイメージは、本当に利発そうな少年というものであるだろう。こんな感じ。
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だが彼は 1999年生まれで、既に 18歳。最近は、このような立派な青年になっているのである。現在はモスクワ音楽院ジュニア・カレッジに在籍中とのこと。
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クラシック音楽の世界では、神童は時折登場する。だがその神童が年齢に応じてうまく名演奏家に成長して行くか否かは、なかなかに難しい問題がある。途中で本当に挫折してしまう人もいれば、本人は充実した演奏活動を続けていても、幼少時にはアイドルのようにチヤホヤしたマスコミが取り上げなくなる場合もあるだろう。私の持論は、神童や天才は大いに結構だが、年とともにその表現が変わり、常にその時々の真実の音楽を聴かせてくれるような演奏家をこそ尊敬するというもの。牛田のケースは、幸いなことに素晴らしいピアニストに成長していると思うのだが、それについては以下でまた触れよう。

今回は本番に先立って行われる最終リハーサルを見学することができたので、その様子を少し書いておきたい。15時からが本番であったところ、リハーサルは 12時からで、まず 30分、その後 10分程度の休憩を挟んでさらに 30分というものであった。演奏者たちはラフな格好であり、また、このプログラムは既に 2日前にサントリーホールで一度演奏していることもあってか、開始時点の雰囲気は比較的和やかなもの。最初はシベリウス 7番であったが、冒頭、指揮者の開始指示をティンパニ奏者が見落としていたらしいハプニングもあったが、笑いの中で再度スタートした音楽は、いやこれは実にニュアンス豊かな素晴らしいもの。結局プレトニョフは、途中オケを停めたのはほんの数回のみであり、一部の箇所でのアクセントを確認する程度で全曲をスムーズに演奏し終えた。そして、コンサートマスター (三浦章宏...この人は三浦文彰のお父さんなんですね!!) の提案で、アンコールを練習した。今回聴衆に開放された席は 1階後方で、ステージ上の言葉はほとんど聞こえなかったが、この「アンコール」という言葉ははっきりと聞こえた。なんとこの日は定期演奏会なのに、アンコールがあるのか。そして始まった練習で演奏され始めたのは、なんとも楽しい曲。恐らくはシベリウスの音楽のようだが、聞き覚えのない作品であった。アンコールだからもちろん短い曲で、ここでは全曲の通し演奏のあと、終結部の着地をもう一度確認していた。そして休憩後のグリークのコンチェルトの練習は、第 1楽章 (今回はティンパニも大丈夫) と第 3楽章のほとんど。もともとスーパーな (あ、言わない約束でしたが、まあいいか) ピアニストであるプレトニョフは、何度か牛田に確認を求め、若い牛田は、練習中は譜面を見ていないものの、ちゃんとピアノの中にそれを置いていて、プレトニョフから問いかけがあるたびに慌てて譜面を取り出しては該当箇所をチェック、何やら書き込みをしていた。リハーサルはそれから、「ペレアスとメリザンド」の一部をちょっとさらっただけで終了した。

さて本番である。まず最初の「フィンランディア」はもちろん、シベリウスの全作品の中でも恐らく最も有名なものであろう。1900年に初演されている。この曲の冒頭は重く暗い音楽だが、それは当時フィンランドを支配していたロシアの圧政を表しており、曲はフィンランドの人たちの闘争と最後の勝利を描いている。ロシア人であるプレトニョフがロシアの圧政からの独立を描く曲を指揮するというのは、その点だけ取ってみれば奇異かもしれないが、これは 100年以上前の作品で、特定の場所での出来事と切り離して、名曲を名曲として味わえばよい。この演奏、冒頭部分が通常よりもかなり遅いテンポで重苦しく演奏され、曲調が明るくなっても、それほど疾走感はなかったが、常にヒューマンな味わいが継続し、音楽的ドラマをダイナミックに演出していた。

そして牛田をソロに迎えてのグリークのピアノ協奏曲であるが、これもまた素晴らしい演奏。そもそもこの曲は、少しムード音楽風に受け取られているきらいはないだろうか。だが私は、未だに聴くたびにその素晴らしい北欧の空気感と、純粋に音楽的なドラマ性に感動するのである。そして今回の牛田の演奏は、打鍵の力強さが際立つ美しい演奏で、緩急は自在だし、叙情と迫力が両立していて、本当にいつまでも耳を傾けていたいようなものであった。上で神童云々と言ったが、今回の牛田の演奏で感じたことには、彼はきっと世間のプレッシャーをむしろ楽しむくらいの自由さを持つ人であり、こういう人は立派に神童から天才に脱皮するのだと思う。例えば、第 1楽章最後にカデンツァがあるのだが、その部分はまるでジャズを聴いているかのような気がしたものだ。ジャズとはもちろん、孤独ではあるがまた自由でもあることにその価値があるわけで、クラシックの音楽家にとっても学ぶところが多々あるはず。主張のはっきりした今回の牛田の演奏を聴いていると、例えばこれから世界的なコンクールの制覇を目指したりなどするよりは、このまま地道に、聴衆にストレートに訴えかける音楽を続けてくれる方がよいように、私は思うのだがいかがだろうか。そして彼が弾いた抒情的な音楽は、これもやはりシベリウスの「もみの木作品75-5」。叙情的ないい曲で、しっかりしたタッチの素晴らしい演奏だった。この曲は確か以前、舘野泉の録音で聴いたことがある。フィンランドのイメージのジャケット。
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次の「ペレアスとメリザンド」は、もちろんあの世紀末ベルギーの象徴派詩人メーテルリンクの戯曲を音楽化したものである。ドビュッシーのオペラ、フォーレの劇付随音楽 (による組曲)、シェーンベルクの交響詩と、名作曲家たちに様々な形態で採り上げられたが、このシベリウスのものは、劇付随音楽をもとにした組曲。知名度はともかく、決して演奏頻度が高い曲とは言えないが、プレトニョフと東フィルは、実に丁寧に美しく全 9曲を演奏した。1曲あたりの演奏時間は短いので、曲間を空けずに続けて演奏していたが、後半になるとプレトニョフは指揮棒を置き、素手での指揮に切り替えた。そしてオケはそれに敏感に反応し、本当に繊細で流れのよい音楽を奏でたのである。これは、原作の「ペレアスとメリザンド」の挿絵から、有名な泉の場面。
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そして最後のシベリウス 7番であるが、このような音楽をどのように表現すればよいのか。20分ちょっとの単一楽章の交響曲であるが、そこに盛り込まれた驚くべき音の多様さを、美しくも力強く表現し尽した名演であった。これはシベリウスの書いた最後の交響曲で、作曲者渾身の傑作であることは確かだが、よく知られている通り、シベリウスはこの曲を発表した 59歳の時点から、ほとんど作曲をせずに優に 30年以上を生きたのである。その沈黙は音楽史上の謎とも言われるが、たった 20分と少しの長さの曲に、万華鏡のように色彩豊かな音を凝縮して散りばめることができたのだから、もうこれ以上やることはないと思っても仕方ないのかもしれないと、今回の演奏を聴きながら考えていたものだ。これは晩年のシベリウスの肖像。
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そして、プレトニョフの聴衆へのアナウンスのあと、予定通りアンコールで演奏されたのは、やはりシベリウスの「ポルカ」で、これは「かわいらしい組曲」という曲集の中の 1曲であるらしい。弦楽合奏にフルート 2本の演奏だが、弦楽器群は、滔々と旋律を弾くと思えばピツィカートでリズムを刻んだり、結構忙しい。コンマスの三浦さん以下、楽しそうに演奏して、リハーサルで繰り返していた最後の着地も見事でしたよ。シベリウスは、有名な数々の交響詩以外にも夥しい数の管弦楽曲を作曲しており、それらの多くは私にとって未知の曲。まだまだ奥深いクラシック音楽の世界なのである。BIS レーベルの大シベリウス全集のうち、Vol. 8 の管弦楽曲集 (交響曲、交響詩は除く) は 6枚組。うーん、いつかは買いたいが、今じゃないな。
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このような充実の演奏会を堪能したわけであるが、このところの東フィルの演奏レヴェルには本当に感心するし、今後も楽しみだ。一方のプレトニョフは 6月に手兵のロシア・ナショナル管を連れて来日し、これまた珍しいチェイコフスキーの歌劇「イオランタ」の演奏会形式上演を行う。私はたまたまこの曲はロンドンで、ウラディーミル・ユロフスキ指揮のロンドン・フィルで聴いたことがあるが、感動的な名曲である。今回はプレトニョフの大いなる冒険であるが、私はその日は別のコンサートに行くことになる予定で、その演奏会には残念ながら行けないのである。だが、ご興味おありの方のために、チラシを掲載しておこう。
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そのユニークな活動ぶりが東京の音楽シーンに欠かせないものとなっているプレトニョフの、スーパーな指揮ぶりに、今後も期待である。

by yokohama7474 | 2018-02-26 01:10 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

東京二期会公演 ワーグナー : 歌劇「ローエングリン」 (指揮 : 準・メルクル / 演出 : 深作健太) 2018年 2月24日 東京文化会館

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日系ドイツ人の名指揮者、準・メルクルは、先に東京都交響楽団 (通称「都響」) を初めて指揮したコンサートにおいて、大変充実の演奏を聴かせたことは以前の記事でも採り上げた。そしてこのコンビは、二期会の「ローエングリン」の上演に登場したのである。日本におけるワーグナー上演の歴史を刻んできた二期会であるから、「ローエングリン」も何度も上演しているのかと思いきや、なんと、今回が 2度め。しかも、前回は 1979年の若杉弘の指揮での上演というから、ほぼ 40年のブランクがあったことになる。今回の上演は 4公演で、私が聴いたのはその 3回目。二期会は、同会に所属している日本人歌手たちが出演するのであるが、今回もいつもの通り、キャストには 2組ある。実際のところ、2組の独唱者たちも合唱団も、オーケストラも、もちろん演出をはじめとするスタッフも全員日本人。指揮は半分日本人 (笑)。そこで示された演奏の水準には驚くべきものがあり、これは二期会のワーグナー上演の中でも記憶すべき名演奏になったのではないだろうか。

そうそう、演出の紹介を忘れていた。深作健太である。実は、メルクルの指揮、深作の演出の二期会上演というと、2015年10月に上演されたリヒャルト・シュトラウスの「ダナエの愛」がそうであり、このブログでもかなりの好感を持ってご紹介した記憶がある。今回はそれに続くこの指揮・演出コンビでの第 2弾ということになるわけである。今年 45歳の深作は、父欣二のイメージとはちょっと異なる、このように温和な外見の人で、今回会場でお見かけした印象も、こんな感じだった。
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それから、この上演と前回の「ダナエの愛」で共通するもうひとつの重要な要素は、双方で私の見た上演においては、テノールの福井敬とソプラノの林正子が共演したこと。前回はミダスとダナエ、今回はローエングリンとエルザである。そうそう、考えてみれば福井敬は、1997年の新国立劇場のオープニングシリーズでも、この「ローエングリン」を歌っていた (指揮 : 若杉弘 / 演出 : ウォルフガンク・ワーグナー)。それから 20年が経過しているわけであるが、55歳の福井の今回の歌唱は、記憶の中の以前の歌唱と比べても、全く衰えがないどころか、さらに進化したものであったと思う。惚れ惚れする美声に加え、ワーグナーのテノールに必要な劇性もあり、あれこれ必要とされる演技も堂に入ったもの。改めてこの人が日本を代表するテノールであることを思い知った次第。
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一方の林正子も、いつも通り幅広い表現力で、このエルザという単純そうでなかなか難しい役を説得力をもって演じていた。上背もあり、容姿も舞台映えするが、それだけではなくて、役柄の意味を充分理解しての演技であり歌唱であることがはっきりと伝わってくるようであった。
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歌手でもうひとり印象に残ったのは、オルトルートを歌ったソプラノの中村真紀。ハンガリーのリスト音楽院で学んだり、ボローニャに留学した経験もあるようだが、今回が二期会デビューとのこと。オルトルートは普通はメゾの役だと思うが、彼女の声の質なら、確かにこの役にも適性がありそうだ。片目に眼帯をして、悪役らしい悪役 (?) を素晴らしく演じていた。
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と、歌手陣も充実であったのが、私は本当に今回の上演のオーケストラパートには酔いしれてしまった。いつも書いている都響の芯のある音がここでも音のドラマに、筆舌に尽くしがたい迫真性を与えていることを聴くのはこの上ない喜びだったし、そのサウンドクオリティは、ドイツの本場の名門歌劇場のオケさながらのレヴェルである。何度も現れるバンダによるファンファーレも安定していて、この作品の個性の表出に大きく貢献した。加えて、冒頭の前奏曲に顕著に聴かれるキラキラした音での緩やかな起伏ある流れも、実に見事だったとしか言いようがない。もちろん、それを引き出すメルクルの手腕も大変鮮烈だ。メルクルと都響は、コンサートでもオペラでも、これから共演を増やして行ってくれないものであろうか。
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そして深作の演出は、今回もかなり凝ったもので、オペラの専門の演出家ではないにもかかわらず、オペラ演出としてはっきりメッセージのあるものであった点、評価したい。この演出のコンセプトは、ローエングリンを、彼に憧れたバイエルンのルートヴィヒ 2世 (もちろん、ワーグナーの大パトロンである) その人と重ね合わせるというもの。これが彼の青年の頃の肖像で、今回の演出でも小道具として使われている。
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冒頭の前奏曲の途中から、ローエングリン = 中年になったルートヴィヒとおぼしき人物が舞台におり、過去の思い出に耽っているのか、ドイツの神話に思いを馳せているのか、とにかく心ここにあらずで、敵の攻撃に立ち向かうためにドイツの諸国が団結しようという呼びかけにも反応しない。因みに、ここでドイツ王ハインリヒは、ちょうどルートヴィヒ 2世の治世の頃に頭角を現し、その後ドイツ統一の中心となるプロイセンのビスマルクの姿のようである。どこで分かるかというと、この兜を手に持っていることから分かるのである。
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ルートヴィヒは長じるに及んで容姿が崩れて行ったことは有名で、この演出では、この写真のような中年の (実年齢では死去したのはわずか 40歳のときなのだが) ルートヴィヒがローエングリンであるという設定だ。
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そして、少年 (これは魔法によって白鳥に姿を変えられていて、最後に人間の姿で戻ってくるゴットフリートである)、それから、銀の甲冑を身に着けた若き日のローエングリンも、ともに歌が (もちろんセリフも) ない演技だけの役として頻繁に登場する。つまり、ここではローエングリン = ルートヴィヒの若き日の姿が、現在の姿と循環しているのである。そう思うと、冒頭では舞台奥に設置されたデジタル時計が、0時00分から遡って行くのに対し、ラストでは時計が進み始めるのだ。現実世界では、時には不可逆性があり、時計は先にしか進まないのだが、ロマン主義の世界、伝説の世界、そしてルートヴィヒが住んでいて、そのことが現実としてワーグナーをして数々の偉大な作品を書かせしめるに至った、空想の世界では、時計は逆にも進むのである。このあたりのイメージは、なかなかに冴えたものがあった。但し、この設定には課題もいろいろあって、まずひとつは、禁忌をテーマとするローエングリンの聖性はあまり強調されず、ローエングリンをルートヴィヒに重ねることの意味に、多少こじつけめいたものが見えてしまったこと。もうひとつは、少年ゴットフリートをかなりの時間舞台に乗せていることの意味が明確ではなかったこと。それから、これは我々日本人には感覚的に理解しにくい国と国 (具体的にはバイエルンとプロイセン) との間の歴史的関係性を素材にすることに、ヨーロッパ人が持つであろう切実さが見られなかったこと。つまり、21世紀の東京で、なぜに 19世紀ドイツの状況を舞台に乗せる意味があるのか、ということになる。もっとも、ヨーロッパの演出家によるワーグナーには、うんざりするほど理屈っぽい演出や、過度に政治的な色合いを持つ演出なども多くあるので、それらに比べれば、今回の演出には、イメージ創出の点では見るものがあったと評価することは可能であると思う。もちろん、どのような演出であっても、オケと歌手陣 (あ、言い忘れていたが、合唱も出色の出来) の熱演が、すべてを飲み込んでいったことだろうと思うのであるが。

最近の東京では、たまたまなのか理由があるのか、同じ大作が違う演奏者で演奏されるケースがままある。この「ローエングリン」も、ほんの 1ヶ月少し後に、東京・春・音楽祭で、こちらは演奏会形式であるが、全曲の演奏がなされる。海外有名歌手を含むその演奏と、今回の純 (いや、指揮者に因んで「準」かな。笑)・日本プロジェクトとの違いを楽しみにしたい。

by yokohama7474 | 2018-02-25 02:17 | 音楽 (Live) | Comments(2)  

パーヴォ・ヤルヴィ指揮 NHK 交響楽団 (ヴァイオリン : 諏訪内晶子) 2018年 2月22日 サントリーホール

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今月の NHK 交響楽団 (通称「N 響」) の定期演奏会の 3演目め、サントリーホールでの公演である。今月の N 響定期は、世界で飛ぶ鳥を落とす勢いの首席指揮者パーヴォ・ヤルヴィのもと、大変に意欲的なプログラムが組まれているが、振り返ってみると、最初がマーラーの大曲第 7番。2つめは、珍しい曲を含むフランス音楽プロ。そして今回の演奏会は、ちょっとびっくりするような意外な組み合わせによってできている。
 武満徹 : ノスタルジア - アンドレイ・タルコフスキーの追憶に (ヴァイオリン : 諏訪内晶子)
 武満徹 : 遠い呼び声の彼方へ! (ヴァイオリン : 同上)
 ワーグナー : 楽劇「ニーベルングの指環」管弦楽曲集

うーむ。静謐で漂うような武満の曲を、しかも 2曲続けたあと、休憩を挟んで、ワーグナーの壮大な代表作を演奏する。これは非常に大胆な試みであるが、だがまあ考えてみれば、後半に「指環」の抜粋を持ってくる場合、前半には、大体 30分程度の作品になるだろうから、ワーグナーとは毛色の違った作品を置くという発想は、確かにあってもよいように思う。しかも今回面白いのは、その武満の 2曲にはいずれもヴァイオリンのソロが入り、そのいずれもを、諏訪内晶子が弾くということだ。
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諏訪内はもちろん日本を代表するヴァイオリニストで、このブログでも何度も彼女の演奏に触れている。ポピュラー名曲をこなす一方で、現代音楽にも積極的に取り組んでいる点、知名度に安住しない真摯な音楽家であると言ってよいだろう。今回演奏された 2曲は、いずれもオーケストラをバックにヴァイオリンが独奏を務める作品で、最初の「ノスタルジア」が 1987年の作品、次の「遠い呼び声の彼方へ!」は 1980年の作品。つまりは、1980年代、50代に入った武満が、あの夢の中を漂うような音楽のスタイルを確立してからの作品で、曲の持ち味には共通点がある。ただ違うのは、前者が小規模な弦楽合奏だけをバックにするのに対し、後者はフルオーケストラをバックにする点だ。オケの配置は、いつものヤルヴィ流のヴァイオリン左右対抗配置だが、ここでいつもと違ったのは、ヤルヴィが指揮棒を持たずに指揮したことだ。ヤルヴィは恐らく、日本で N 響を指揮する際に、この国が輩出した偉大なる作曲家の作品を演奏することをひとつの楽しみとしているのではないか。確かにこのような音楽には指揮棒なしという方法は意味があるように思う。諏訪内の、深く歌いまた舞い上がる、表現力豊かなヴァイオリンが、オケの流れるような音楽と一体になって、武満サウンドをホール内に響かせていた。そういえば、諏訪内は武満の「遠い呼び声の彼方へ!」を以前 N 響と録音していたことを思い出した。2001年に、このオケが世界的に売り出しをかけるために英国の名門レーベル、デッカに録音した、チャイコフスキー 4番をメインとした CD。指揮は・・・残念ながらまたその音楽を聴ける日が来るのか否か現時点では分からない、シャルル・デュトワであった。
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叙情溢れる 2曲のあとにはヴァイオリンのアンコールは演奏されず、そして休憩を経て、後半のワーグナーに入った。彼の超大作、4部からなる楽劇「ニーベルングの指環」については、このブログでも何度も触れてきたのであるが、とにかく日本では、世界のどこにも負けないのではないかと思われるほど、大変な人気なのである。今年は 4月にも、ピエタリ・インキネン指揮の日本フィルが、やはりこの「指環」の抜粋を演奏する予定になっているが、そちらは名指揮者ロリン・マゼールが編曲した版で、4部作の順番に沿って音楽をダイジェストにした、切れ目がないものになるはず。だが今回のヤルヴィ / N 響の演奏はまたユニークで、このような内容であったのである。
 1. 「ワルキューレ」から「ヴォータンの別れと魔の炎の音楽」
 2. 「ワルキューレ」から「ワルキューレの騎行」
 3. 「ジークフリート」から「森のささやき」
 4. 「神々のたそがれ」から「ジークフリートの葬送行進曲」
 5. 「神々のたそがれ」から「夜明けとジークフリートのラインへの旅」
 6. 「ラインの黄金」から「ワルハラ城への神々の入場」

これら 6曲は、切れ目なしに連続してではなく、1曲ごとに休止を置いての演奏であったのだが、このオペラをよく知っている人は、一目でこの選曲がユニークであることに気づくであろう。まず、演奏の順序が全曲の順序と違う。4曲の順番は、① ラインの黄金、② ワルキューレ、③ ジークフリート、④ 神々のたそがれ、である。だから、最後に「ラインの黄金」が来ていることだけでも、大変奇異なのである。だが、さらに注意深く見てみよう。この並びは決してバラバラではなく、②③④① というもの。つまり、① が後ろに回っているだけで、もしこれがグルグル循環して演奏されるなら、順番としてはおかしくないことになる。ライン川が最初と最後に出て来るこの 4部作、その意味では、水の流れのように果てなく続く循環構造に近いとも解釈できよう (実は前半の武満の 2曲も、水に関係するイメージを持っていて、その意味ではこのプログラムは非常に巧妙なもの)。だが、さらにさらによく見てみると、やはり妙な点がある。② の「ワルキューレ」から 2曲、④ の「神々のたそがれ」から 2曲演奏されているが、それぞれの楽劇の中では、これら 2曲の演奏の順番は逆である。つまり、「ワルキューレ」においては、「ワルキューレの騎行」「ヴォータンの別れと魔の炎の音楽」の順だし、「神々のたそがれ」においては、「夜明けとジークフリートのラインへの旅」「ジークフリートの葬送行進曲」の順なのである。そのように、この演奏における曲の組み合わせには、ちょっと特殊なものがあるかに思われたのだが、よく考えてみると、「指環」の中で、オーケストラコンサートのレパートリーとして知られる曲は、ほとんどこれで網羅されているではないか。ここにないのは、「神々のたそがれ」の終曲くらいかと思うが、実は、1曲目は「ワルキューレ」の、6曲目は「ラインの黄金」の、それぞれ終曲であるから、そこに「神々のたそがれ」の終曲まで入れてしまうと、4作のうち 3作のエンディングが入ってしまって、さすがにそれはちょっとバランスを欠いてしまうだろう (笑)。そして、実際に聴いてみると、この 6曲の流れは意外によくて、例えば、1 のあとに 2 を演奏するなんて、今まで考えたこともなかったけれど、ご存じの方は一度頭の中で音を鳴らしてみて頂きたい。結構いけますよ、これ。あるいは、4 と 5 を、原曲通り、5 - 4 の順で演奏すると、何か座りが悪くなってしまう気がするので、4 - 5 の順は意外とスムーズなのだ。それから、2 と 5 は、全曲の中では終結部はなく次の音楽に続くので、今回はオリジナルとは異なる終結部が演奏された。それによって、ここでのヤルヴィの意図が、4部作の抜粋を切れ目なしに延々と続けるのではなく、それぞれの曲を独立した楽章のように扱い、そのバランスと、音楽の推移を楽しむということにあったのだと気づくのである。
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演奏自体は、高い能力を持つヤルヴィと N 響のことだから、悪かろうはずがない。音のドラマとして、非常に充実したものであったことは間違いがない。だがその一方で、もし欲を言うなら、ちょっと洗練されすぎではないか、という気もしないではなかった。シュトラウスやマーラーを連続して演奏し、成果を挙げているこのコンビであるから、音響的には類似点の多いワーグナーでも成功すると思ったが、実のところワーグナーの音楽は、シュトラウスやマーラーに必要な洗練よりも、なんというか、より野蛮と言ってもよいような生命力が重要である。そう考えると、もっともっと極端な表情をつけ、さらに金管の炸裂を聴かせてくれる演奏の方が、よりワーグナーの神髄に近いのではないか、とも思われるのである。極端に言うと、オケの統制が乱れて崩れそうになるような、そんな暴力的なワーグナーに、人々は酔いしれるという要素があるように思うのである。だがそれは、好みの問題でもあるだろう。今回のヤルヴィと N 響の演奏が、高い水準のものであったことには間違いはないと思う。ところで今回 N 響は客演コンサートマスターを迎えていたが、それはブルガリア生まれのヴェスカ・エシュケナージ。なんとあの、アムステルダムの王立コンセルトヘボウ管のコンサートマスターで、時々 N 響に客演しているらしい。「森のささやき」では短いソロも披露したが、さすがのつややかさであった。このような人の客演が、N 響の演奏水準をさらに高めてくれることは確かだろう。
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今月のヤルヴィと N 響の 3種の定期公演は、こうしてすべて終了した。さて、これから一週間半ほどの間をおいて、このコンビはまた素晴らしいチャレンジを披露してくれる。それについて書くのは、私も楽しみなのである。そこに辿り着くまで今しばらく日数を要し、その間この川沿いブログでは、ほかのコンサートのラプソディがいくつか鳴り響くことになりますので、適宜お付き合いのほどを。

by yokohama7474 | 2018-02-23 00:38 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

デヴィッド・リンチ : アートライフ (ジョン・グエン、リック・バーンズ、オリヴィア・ネールガード=ホルム監督 / 原題 : David Lynch : The Art Life)

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デヴィッド・リンチ。この名前を聞いて気持ちがゾワゾワとする人は、私のお仲間である。知らないなぁという人は、多分最初からこの記事を読まないだろう (笑)。なのでここでは、私のお仲間のリンチ好き、あるいは多少なりともリンチがどんな映画を撮っている人であるかを知っている人を対象に、書き進めたい。この映画は、1946年米国生まれ、現在 72歳の映画監督、デヴィッド・リンチの素顔に迫るドキュメンタリーである。リンチ好きには説明不要だろうが、Wiki の説明文の冒頭部分から引用すると、彼は「低予算映画『イレイザーヘッド』で有名となり、『カルトの帝王』と呼ばれることもある」人であって、この映画ではその強烈なデビュー作「イレイザーヘッド」が生まれるまでの半生を、本人が語り、貴重なリンチ家のホームムーヴィーや、アーティストでもある彼の作品の中で、彼の語るストーリーとイメージにおいて共通点のあるようなものが、映像で登場する。また、リンチがアート作品を制作しているところもバッチリ映っている。つまりは一言、リンチ好きにとっては必見の映画なのである。ただこの中でリンチがのべつまくなしにタバコを吸っているのは、今日びちょっと珍しい光景だ。ま、スクリーンの向こうから煙が物理的に漂ってくることはないと、リンチ好きの人間ならば許してしまうしかないでしょう。
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私にとってデヴィッド・リンチは、数々の謎めいた作品、しかも人間の感性や本能の深いところを刺激する作品の作り手であり、現代人の画一性に対して鋭い警鐘を鳴らす、真摯なアーティストである。最近作品を見ないと思ったら、あの 1990年代に大ヒットしたテレビシリーズ「ツインピークス」の続編「ツインピークス The Return」全 18話が昨年制作されたらしい。日本でも既に WOWOW では放送されているようだが、自宅で映像作品を見なくなって久しい私は、それを見ていない。それでもリンチ好きか!! というお叱りもあろうが、本当のことだから仕方ないと割り切って、この映画に戻るとしましょう。この映画、監督には 3人の名前がクレジットされていて、それは結構異例の事態だと思うが、もともとインタビュー嫌いで知られたリンチに対して、「ドキュメンタリー映画を撮らせてほしい」と依頼したのは、ジョン・グエン。グエンはもちろんヴェトナム系の名前である。
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彼はこの作品に先立ち、やはりリンチのドキュメンタリーである「リンチ 1」「リンチ 2」に関わっているようだ。この映画はその延長上にあるらしい。また、もうひとりの監督としてクレジットされているオリヴィア・ネールガード = ホルムはオランダ人女性で、本作の編集も手掛けている。面白いのはもうひとりの監督、リック・バーンズだ。プログラムにはこのような人を食った写真 (サングラスは明らかにあとから加えたものだし、髭はつけ髭、髪はきっとズラだろう) が載っていて、「名前は偽名で、正体は明かせないという」とある。ネットでこの名前を検索すると、なぜかバスケの監督がヒットする (笑)。
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ともあれこの映画は、謎めいた作品を作り続けてきたデヴィッド・リンチの内面に迫るドキュメンタリーであり、リンチ好きには本当に興味尽きない内容。私の最初の感想は、あの変態的映画で知られるデヴィッド・リンチは、両親の愛に恵まれた幸せな家庭に育っており、本人は極めてまっとうな人だということだ。これは、以前からの私の持論を裏付けるもの。つまり、映画監督であれ作家であれ画家であれ、異常なものを作る人は、必ずしも異常な人でない、いや、大抵の場合は普通の人だということだ。ここには人間の精神作用の単純さが見られる。異常でない人は、異常なものに憧れるものなのである。ただもちろん、その単純さの裏には、極めて複雑な人間心理の深奥があるのだと思うが。この映画では、リンチの幼少時からの軌跡を辿って行くのだが、そこで本人が語る来歴は、アート好きの青年が夢を抱き、また失望感も経験して成長して行くという、ごくごくまっとうなもの。これはホームムーヴィーの中の、少年リンチ。ボーイスカウト?
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ただ、彼がいくつかのエピソードで語る日常における奇妙な実体験が、まさに彼の映画に出て来るような不条理感を伴っていること、興味深い。例えば、子供の頃に住んでいた家のお向かいの家から、全裸の女性が出て来たという話は、そのまま彼の映画に出て来るようなシュールさである。一方、若い頃の進路の悩みや、女性との同棲、そして最初の娘ができたこと、その家に父親が訪ねてきたことなどは、どこにでもある青春ストーリーである。そして、アート作品を動かしてフィルムに収め、そこから結果的にアニメーション動画の世界に入っていくあたりも、特に異常な動機は見出せない。そうすると、映像作家デヴィッド・リンチの誕生には、さまざまな偶然の積み重なりがあったのだということだろう。これは映像作品を作り始めた頃のリンチ。
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リンチのアート作品にも、様々なヒントが見出せる。やはり彼が映像にしているものは、彼の内面で実際に見えているものなのだろう。その映像を造形化することは、彼が生きていることと同義なのだと思う。そこには、内面の欲求に素直に従うアーティストの姿があり、「なんとなくこんなのを作ったら、回りからグロテスクとか気持ち悪いって言われちゃったよ」と首をかしげる自然な姿がある。これは「火をともす少年」という彼の作品で、ここにはグロテスクさはないものの、少年の腕の長さはきっと、リンチ自身に見えているものなのではないだろうか。
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本作で最後にリンチが語るのは、出世先「イレイザーヘッド」の制作がいかに楽しかったかというノスタルジーである。人によっては生理的に受け付けない可能性もある、このカルトな作品は、全く陰鬱でないワイガヤの雰囲気の中で作られたようだ。これは意外だし、リンチというアーティストの内面を理解するヒントになろう。
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この映画の舞台はフィラデルフィア。私はその街は 2回しか訪れたことはないが、米国独立初期の頃の首都であったという歴史は立派であるものの、街の雰囲気自体は、若干荒んだものを感じたのである。リンチは、このフィラデルフィアの荒廃がこの作品の背景にあると語っていたのは覚えていて、てっきりリンチはこの街出身かと思ったのだが、実際には幼少時には米国内の様々な場所に移り住み、フィラデルフィアでは美術学校に通ったということらしい。この「イレイザーヘッド」の制作は 1976年。その頃のフィラデルフィアというと、音楽ファンにとってはもちろん、ユージン・オーマンディ指揮のフィラデルフィア管弦楽団のゴージャスこの上ないサウンドを思い浮かべることになる。私はちょうどその少しあと (1980年頃) からクラシックを聴き始めた人間であるが、フィラデルフィアは米国で最も古く由緒正しい街であり、そこの富裕層の保守性が、そのようなゴージャスなサウンドを育んだという解説を読んで、分かったようになっていた。そうそう、当時はこのようなジャケットの 1,300円の廉価版アナログレコードが売られていて、このジャケットのゴールドが、このコンビのゴージャスサウンドのイメージと一致したものだ。その思いは今も変わらないがゆえに、米国の光と影を一層実感することができる。
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この映画についての最後の感想は、実は最初の感想と同じなのだが (笑)、デヴィッド・リンチは実は愛情にあふれた人なのだということである。本作に出て来るこの小さな可愛らしい女の子は、リンチの孫ではなく、娘なのだ。このような姿に人間リンチを感じるがゆえに、久しぶりにまた、彼のカルトな映画を見て、そこに愛を見出したいと思うようになった。
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そして本作は、出世作である「イレイザーヘッド」の制作で終わっている。ということは、きっとまたその後の創作活動についてのドキュメンタリーが作られるのではないだろうか。そうであれば、期待感が膨らむのを抑えることができない。まぁ、過度な期待は避けるにせよ、ともあれ本作はリンチ好き以外にはお薦めしないが、逆に言うと、何度もしつこく申し上げるが (笑)、リンチ好きには必見の映画であると思います。

by yokohama7474 | 2018-02-22 01:01 | 映画 | Comments(0)  

ユーリ・テミルカーノフ指揮 読売日本交響楽団 (ヴァイオリン : レティシア・モレノ) 2018年 2月20日 サントリーホール

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ロシアの巨匠、現在 79歳のユーリ・テミルカーノフと読売日本交響楽団 (通称「読響」) のコンサート、これが今回の 3つのプログラムのうち最後のもの。このサントリーホールでの演奏のあと、2/21 (水) は大阪で、2/22 (木) は福岡で、同じ曲目による演奏会が開かれる。テミルカーノフのインタビューによると、彼は、30年間率いている手兵、サンクト・ペテルブルク・フィルとは大阪も福岡も訪れたことがあるらしく、「日本のコンサートホールはどこも演奏しやすいし、聴衆のみなさんも素晴らしいですね」と語っている。さしずめこれは、地方公演に先立つ東京での腕鳴らしだったのか。いやいやとんでもない、今回の読響は、いつもにもましてクオリティの高い演奏を披露し、私は痛く感動した。まず曲目を紹介しよう。
 グリンカ : 歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲
 プロコフィエフ : ヴァイオリン協奏曲第 2番ト短調作品63 (ヴァイオリン : レティシア・モレノ)
 ドヴォルザーク : 交響曲第 9番ホ短調作品95「新世界から」

なるほど。これは名曲プログラムだ。このようなレパートリーで胸のすく演奏を聴かせてくれるオーケストラは、本当によいオーケストラなのだ。まず最初の「ルスランとリュドミラ」序曲は、ロシア音楽の父と呼ばれるミハイル・グリンカ (1804 - 1857) の代表作であり、疾走する音楽にはオーケストラの醍醐味が詰まっている。今回の演奏では、すさまじいテンポで一気呵成に駆け抜けることで、この曲の持つ凄みを改めて実感することとなった。冒頭から一聴して読響の好調は明らかで、弦の各パートが隅々まで鳴り渡り、色分けも明確。また、木管、金管、ティンパニもそれぞれの持ち場を完璧にこなし、実に見事の一言。80歳目前にしてこれだけ疾走感のある音楽を作ることのできるテミルカーノフ、やはり只者ではない。
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2曲目のコンチェルトでソロを弾いたのは、スペイン、マドリッド出身のレティシア・モレノ。1985年生まれというから、ヴァイオリニストとして超若手という年齢ではないが、未だ若手のうちには入るだろう。
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私としては未知のヴァイオリニストであったが、あの稀代の名教師ザハール・ブロンに師事し、いくつかの国際コンクールで入賞を果たしているらしい。既にメータ、ゲルギエフ、ドゥダメル、サロネンらの名指揮者たちと共演があり、ドイツ・グラモフォンでのレコーディングもあって、そのひとつは、テミルカーノフ指揮サンクト・ペテルブルク・フィルとのショスタコーヴィチの 1番のコンチェルトである。これがその CD のジャケット。
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そのモレノが今回弾いたのは、プロコフィエフの 2曲のヴァイオリン協奏曲のうち、第 2番。いかにもプロコフィエフらしいモダン性と諧謔味、そして時には抒情も混じり合った面白い曲だ。演奏開始前に係の人が、ヴァイオリン用の譜面台をステージ前面に置いたので、もしかして譜面を見ながらの演奏かと思ったのであるが (私はロンドンで、とある有名なロシア出身の女流ヴァイオリニストが、やはりこのプロコフィエフの第 2コンチェルトを、譜面を見ながら弾くのを見て、驚いた記憶がある)、実際には譜面に手を触れることなく演奏された。やはりコンチェルトのソロ・パートは、よほどのことがない限り、暗譜で弾いて欲しいものであるから、それにはほっとしたのである。さてモレノの演奏自体は、特に大きな不満はないものの、逆に、どうしても彼女でないと出せない持ち味というものも、正直なところ、あまり感じることができなかった。ある意味で真面目な演奏で、真面目であって何が悪いという考えもあるだろうが、プロコフィエフのような複雑な作曲家の作品には、もっと屈折があった方が楽しめるのではないか、と思った次第。ところでこのコンチェルト、終楽章の舞踊風の音楽でカスタネットが鳴るのだが、今回初めて知ったことには、初演はなんとマドリッドでなされているらしい。プロコフィエフは 1918年にロシアを離れ、その後革命が起こったこともあって、1936年まで祖国に帰らなかったのだが、この曲はその国外生活の最後の方、1935年に書かれている。なるほど、スペイン製の協奏曲。それでカスタネットなのか。マドリッドで生まれた曲をマドリッド出身のヴァイオリニストが弾くとは、なかなか洒落た選曲だ。彼女はアンコールでバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第 1番の最初の楽章、アダージョを弾いたが、これは非常に内面的な素晴らしい演奏。今後またその表現を深めて行くことだろう。

そしてメインは、天下の名曲「新世界」である。これはまた、実に惚れ惚れするような彫りの深い、また迫力に満ちた名演で、読響としても、ベストの範疇に入る充実した演奏であったのではないか。テミルカーノフの指揮ぶりは、いつもの通り、ほとんど不愛想と言ってもよいもの。あまり表情を見せずに淡々とステージに登場すると、コンサートマスターと握手をすることも笑顔を交わすこともなく、やおら譜面を開き眼鏡をかけて、そして素手を伸ばして空中で一度双方の掌を合わせてから、ぐいっと音を引き出し始める。右腕はほとんど上下運動を続け、時折左手で宙をぐるっと掻いてアクセントをつけるものの、音楽自体が停滞することは決してなく、タメも比較的少ない。だが、そこで鳴る音の分離は驚くほどよく、またなんと充実感のあること。これは読響との相性の良さや信頼関係があって初めて可能になるのだろうが、聴いていて大変にエキサイティングである。第 1楽章の提示部を反復しない点も、推進力を重視した結果であると思うが、その一方で第 2楽章では、イングリッシュ・ホルンによる「家路」のメロディが終わり、弦楽器だけで深い抒情を醸成する部分では、指揮者ははっきりと唸り声を上げていた。これこそまさにテミルカーノフの本領発揮である。ただ疾走する迫力ある音楽を鳴らすだけではなく、心に深く訴える抒情性も一級品であり、その表現の幅こそが、彼を巨匠たらしめているのだと思うのである。第 3楽章、第 4楽章での金管の鳴りも見事で、大詰めの手前では、大いなる盛り上がりで珍しく少しテンポを落とし、そして終結部の遠くに消えて行くような音を、必要以上に伸ばさずにきっぱりと打ち切って、過度の感傷性なく、颯爽と全曲を終了した。繰り返しだが、天下の名曲「新世界」を、まさに堂々と面白く聴かせてくれるのは、本当に能力のある指揮者とオーケストラしかできないこと。テミルカーノフと読響は、その高い実力をいかんなく聴衆に示したのであった。この名演奏が、大阪と福岡の聴衆にも届けられるとは、本当に素晴らしいことである。なおテミルカーノフは、Mirare レーベルに、サンクト・ペテルブルク・フィルと、この曲を 2011年にライヴ録音している。会場でこの CD も販売されていて、私は購入はしなかったが、いつか聴いてみたいものだと思う。
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さて、私にはひとつの予想があった。今回の演奏会は定期公演ではなく名曲シリーズだし、翌日からの地方公演に備えるものであるから、きっとアンコールがあるのではないか。そう思って終演後の楽員の様子を見ていると、あ、やはり、譜面をめくって、次の曲の準備をしている。「新世界」のあとのアンコールと言えば、もちろん同じドヴォルザーク作曲のスラヴ舞曲から 1曲と、相場は決まっている。だが、鳴り始めた音を聴いてびっくり。それはスラヴ舞曲ではなく、ドヴォルザークを世に出したブラームスの、まさにスラヴ舞曲のお手本となったハンガリー舞曲から、第 1番であったのだ!! ちょっと驚いたが、マエストロ・テミルカーノフの意向なら、もちろんそれもありでしょう!!

終演後もあまり余韻なく、指揮者はオケに解散を命じ、人々は会場を後にした。実は前半でソロを弾いたレティシア・モレノが、後半の「新世界」を客席で聴いているのに私は気づいていたが、派手な服にコートをはおり、一般の聴衆に交じってホールの出口に向かっているのを発見。その途中で足を停めて、CD 売り場 (きっと上に写真を掲げた彼女自身の CD もあったはず) を興味深そうに覗いているのも、気取りのない若手演奏家の素顔が見えて、微笑ましかった。こうして充実のコンサートは終了。人々は、真冬に比べると少し寒さの和らいだ、春の予感を孕んだ空気の中、それぞれに家路に向かったのであった。そう、中には、先刻聴いたばかりの、ドヴォルザークの「家路」のメロディを口ずさんでいた人もいたことだろう。

by yokohama7474 | 2018-02-21 00:11 | 音楽 (Live) | Comments(2)  

細川俊夫 : 歌劇「松風」(指揮 : デヴィッド・ロバート・コールマン / 演出 : サシャ・ヴァルツ) 2018年 2月18日 新国立劇場

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細川俊夫は、このブログでも何度もその名に言及している、現代日本を代表する作曲家であるが、この作品はその細川の 2011年の作品であり、今回が日本初演となる。細川は 1955年広島生まれの 62歳。ドイツで学んだ人であり、その作品は広く世界で演奏されている。この「松風」はもともと、ブリュッセルのモネ劇場、ベルリン国立歌劇場、ポーランド国立歌劇場、ルクセンブルク歌劇場の共同依頼によって書かれたもので、初演はモネ劇場でなされている。
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細川の精力的な作曲活動において、オペラはひとつの柱をなしているように思われる。というのも、この「松風」は彼の 3作目のオペラであるが、その後も既に 3本を作曲、そして現在は 7作目のオペラに取り掛かっており、今年の 7月にシュトゥットガルトで初演予定であるとのこと。これらはいずれも例外なく海外からの委嘱作であり、海外で初演されている。ということはもちろん歌詞は日本語ではなく、確認したわけではないが、恐らくはいずれも今回の「松風」同様、ドイツ語によるものであろうか。
1. リアの物語 (1997-98)
2. 斑女 (2003 - 04)
3. 松風 (2010)
4. 大鴉 (2011 - 12)
5. 海、静かな海 (2015)
6. 二人静 - 海から来た少女 (2017)
7. 地震・夢 (2017 - 18)

芸術音楽の作曲はグローバルな活動であり、海外でのオペラ公演が多いことは誠に結構なのであるが、やはり日本の作曲家の作品を日本の聴衆が聴くチャンスもあるべきであろう。なので今回の「松風」の日本初演は、私としては大変に楽しみなものであった。上記の通り、もともと 4つのオペラハウスからの委嘱であるので、それらの劇場では既に上演されているのはもちろん、ベルリンやブリュッセルやワルシャワでは初演後に何度も再演されているし、同じプロダクションが香港やフランスのリールでも上演されているのに加え、違うプロダクションが既に 2つあって、ひとつは米国ニューヨークとチャールストンで、もうひとつはドイツのキールで上演されている。初演後 7年でこれほど多く上演されている現代オペラも、ほかにそうそうあるものではないと思う。そのひとつの理由は、題材が極めて日本的で、外国人から見てエキゾチックだということもあるだろう。この作品は、題名の通り、能の演目「松風」の翻案なのである。これが能の「松風」の舞台写真。在原行平を恋い慕う亡霊の姉妹、松風と村雨の姿だが、手前にあるのは、海から汐を汲むための車であるようだ。
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私は残念ながら能でこの演目を見たことはないのだが、世阿弥が父、観阿弥のオリジナルに手を入れて完成したと言われているらしい。つまりは 600年ほど前の作品ということになる。オペラはちょうど歌舞伎と同じ頃、17世紀初頭に発生した舞台芸術であるが、能はさらにそれより 200年も先立つものであり、その幽玄さには、世界中の人たちが魅せられるのもよくわかる。だが細川はこの「松風」の初演時に、能に関してこのようなことを言っている。

QUOTE
私は能の根本的な思想に深く興味を持っている。しかし現在日本で上演されている能は、そうした深い思想を隠し持っているにもかかわらず、かなり硬直した伝統の様々な習慣のなかで、その深い「いのち」が実現されていないのではないか。今般、世阿弥の最も優れた作品のひとつである「松風」を原点に持ち、新しくその台本を再構築し、音楽を作曲し、また新しい演出によって、現代に生きる能を基盤とした新しいオペラを創りあげてみたい。
UNQUOTE

正直なところ、これはかなり大胆な発言だと思う。日本での能の上演が、伝統のせいで硬直的になっているという指摘が正しいか否かは、私にはよく分からない。もちろん、伝統芸能であるから柔軟性のない要素もそれはあるだろうし、既に昭和の時代から、観世栄夫のような人が能の外の世界で暴れる (?) ようなことがあったのは、能の閉鎖性を逆に証明する事柄であろうかとも思われる。だが、能の上演自体には古式ゆかしい様式が維持されているので、きっとその点では室町時代以降、その上演方式はあまり変わっていないのではないか。もしそうなら、現代人の時間感覚と合わないことはむしろ当然だろうし、能という特殊な様式美を持つ芸能には、例えば西洋音楽に比べれば、普遍性がないということは言えるだろう。それゆえ、西洋音楽のスタイルで、現代に能の翻案による新たな作品を世に問うという意欲は、理解はできるのである。日本で生まれた芸能をもとに日本人が作曲したドイツ語のオペラが、この日本の地で、外国人指揮者、外国人演出家、外国人歌手たちによって上演されたわけである。休憩なし、上演時間 1時間半の公演であった。

まず結論を急いでしまうと、この作品をオペラと呼ぶ必要があるのだろうかというのが、私の最初の感想。歌手は 4人で、それは、旅の僧と、彼が宿を借りようとする須磨の漁師 (行平と二人の姉妹の悲しい過去を説明する)、そして、松風・村雨の姉妹である。だがそこに、7人の合唱団 (ギリシャ神話のコロス的役割を担う) と 14人のダンサーが舞台で入り混じる。つまり、総勢 25名が舞台でパフォーマンスを繰り広げるのだが、ストーリー展開が遅いので、そのパフォーマンスの密度は非常に濃くなってくる。まず驚きは、松風 (ベルギー人ソプラノ、イルゼ・エーレンス) と村雨 (スウェーデン人メゾ・ソプラノ、シャルロッテ・ヘッレカント) の二人は、粗い紗幕を張った向こうで、空中からゆっくりと下りてきて、かなり長い間、その状態で歌いながら、体を動かすのである。このシーンは、誰もがはっとするほど見事。
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オペラであるから、歌手たちの歌唱はある。だがそれは、予想通り陰鬱な語りに近いもので、優美でも甘美でもなく、聴かせどころのアリアなど、あるわけもない。では詩的なものは? ある。平安時代の歌人、在原行平 (ゆきひら。在原業平の兄) の、「立ち別れ いなばの山の みねにおふる まつとし聞かば 今帰り来む」。これは百人一首にも入っている有名な歌で、「まつ」は「松」と「待つ」をかけてあるのだろう。つまり、因幡の山に生える松に託して、あなたが待っているならまた帰って来ようという意味だ。こんな歌を、いにしえの時代にとっくにこの世から姿を消してしまったはずの若い姉妹が口にすると、それはもう不気味なことこの上ないことは事実だが (笑)、そこにはなんとも言えない深い情緒があることも確か。これは能の本質に通じる性質だ。だが能と違うのは、群舞である。舞台装置 (美術はドイツ人のピア・マイヤー=シュリーヴァーと塩田千春) はシンプルながら、歌手を含め、舞台に最大 25名が乗ることになるので、その動きはかなり複雑。視覚的な刺激は充分だ。
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上の写真でも分かる通り、能と違うところは、舞台に出ている人の数だけではなく、人の動きの多様性とその速度という点にもある。常に緩慢な能の動きとは全く異なり、ここでは、何組かのダンサーや歌手たちが、あるときはドッペルゲンガーのように他人の姿勢を模倣して分身し、またあるときにはいとしい恋人の姿を取り、そしてまたあるときには、恋い焦がれる感情を抽象的に表現する。このパフォーマンスは、例えば山海塾や大駱駝艦の暗黒舞踏 (私は大好きなのである) を思わせる面もあり、そこには、日本古来の土俗的なものすら感じさせる。だがこのオペラの演出家は日本人ではない。ドイツ人振付家のサシャ・ヴァルツ。現在 54歳で、ピナ・バウシュ亡きあとのドイツ・コンテンポラリー・ダンスを背負う人材であるらしい。
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このヴァルツの振付の面白さに目を取られると、音楽をじっくり聴くのが難しくなってくるほどだ。それだけ、ダンスとして面白いのである。そう思うと、冒頭や最後の海鳴りや風の音は、明らかに録音であった (ピチャピチャ鳴る水の音は、実際の音を PA で拡大?)。正直なところ、これはオペラの生演奏では反則であると思う。なぜなら、それは効果音にほかならず、作曲家の創作ではない以上、ダンスの雰囲気作りのみに貢献するものであるからである。私が上で書いた、この作品をオペラと呼ぶ必要があるのかという感想は、この点にもよっている。結局 1時間半の上演中、歌手たちの延々続く歌唱と、小編成のオケ (英国のデヴィッド・ロバート・コールマン指揮の東京交響楽団) の奏する暗い音たちの点描をバックとしたコンテンポラリー・ダンスによって、古来日本文化によくある死者と生者の交わりの感覚、それから、後半の方では、多少抽象化されてはいるものの、男女の性愛も、テーマとして描かれていたと思う。これはこれで、美的には優れているし、見ていて退屈することはなかったが、オペラならではの感興はほとんど感じられず、その点には少し違和感があったと正直に書いておこう。

だが、いずれにしても、この作品の日本初演は画期的な出来事。是非ほかの細川オペラも見てみたいものである。今回の作品のように、能をテーマとして、その本質の再現と新たな手法を模索することは大いに結構だが、西洋音楽としてグローバルに意義を持つ作品が、7作品のうちにはあるはずだ。次回はそのようなものを期待したいと思う。

by yokohama7474 | 2018-02-19 22:31 | 音楽 (Live) | Comments(2)  

パーヴォ・ヤルヴィ指揮 NHK 交響楽団 (ヴァイオリン : 樫本大進) 2018年 2月17日 NHK ホール

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NHK 交響楽団 (通称「N 響」) とその首席指揮者パーヴォ・ヤルヴィによる今月の定期演奏会の 2演目めである。N 響は時折、定期演奏会用にもチラシを作ることがあるが、今回がそのケースで、上で見る通りの、花をあしらった、カラフルだが決して派手ではないものが作成された。ここには、「飛翔と安らぎのためのフランス音楽」とある。そう、今回のプログラムはすべてフランス音楽である。詳細は以下の通り。
 デュリュフレ : 3つの舞曲作品 6
 サン=サーンス : ヴァイオリン協奏曲第 3番ロ短調作品61 (ヴァイオリン : 樫本大進)
 フォーレ : レクイエム作品 48

うーん、これはなかなかに凝った曲目である。だが NHK ホールの客席は、いつにも増して混雑している。これはなかなかに素晴らしいことではないか。もしかすると、ベルリン・フィルのコンサートマスターであり、一般の知名度も上がってきている樫本大進がソロを取ることがその一因であったかもしれないが、彼が弾いたコンチェルトの前後には、ドビュッシーやラヴェルとは異なる持ち味の作曲家の作品が配されている点、ヤルヴィの工夫が見られたと思う。
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そういうことなので、まずは樫本の弾いたサン=サーンスのコンチェルトについて語ろうと思う。カミーユ・サン=サーンスはもちろんフランスの大作曲家だが、以前も書いた通り、その幅広い作曲活動の全体像を我々がよく知っているとは言い難い。つまり、交響曲、管弦楽曲、ピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲、室内楽、オペラとそれぞれの分野で、少数の作品が知られているだけで、しかも、必ずしもそのクオリティが常に高いという評価になっているとは思われない。だがそれでも何曲かは音楽史上に残る傑作とされていて、ヴァイオリン協奏曲ではこの第 3番のみがそれにあたる。大変ドラマティックで、ヴァイオリンの華やかな技巧を楽しむことのできる名曲だと思う。あの「ツィゴイネルワイゼン」の作曲者として有名な 19世紀の大ヴァイオリニスト、パブロ・サラサーテのために書かれ、彼に献呈されている。さて今回の樫本のソロは、ひとつひとつの音に確信を持って、太い一筆書きのように前に進んで行くような印象だ。情熱の表出はもちろん充分であるが、そこにはまた、音楽的情景の移り変わりを巧まずして描き出すだけの計算もあったように思う。やはりこの人は、あの天下のベルリン・フィルのコンサートマスターとして日々研鑚を積むことで、その結果をうまくソロ活動に活かしているように思われる。ただ正確に弾く、あるいは美麗な音で弾くということではなくて、どうすれば曲の持ち味を聴衆に伝えることができるか、そのことを常に考え、自然にからだが動くようになっているように思う。なのでこのように時折日本の舞台でソロ活動を展開してくれることは、我々日本の聴衆にとっても意義深いことだと実感するのである。今回彼はアンコールを弾かなかったが、それも一見識であると思う。

さて、そのサン=サーンスの前後に演奏された曲であるが、最後のフォーレのレクイエムは有名曲であるものの、最初のデュリュフレの曲を知っている人がどのくらいいるだろうか。かく申す私も、今回演奏された 3つの舞曲という曲は、全く未知であった。調べてみると、かつてジャン・フルネがオランダ放送フィルを指揮した録音が出ていたようだ。私はそのコンビでのフランス音楽の CD を何枚か持っているので手元で調べてみたが、この CD は所有していないことが分かった。現在入手困難。ほかの収録曲は、イベールの「寄港地」と、ドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」による交響曲である。
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モーリス・デュリュフレ (1902 - 1986) という作曲家、一般にはそれほど知られていない名前かもしれないが、彼の代表作はレクイエム。そのレクイエムが有名であるのは、同じフランスの先輩作曲家であるフォーレのそれと近い楽器編成、曲の構成を持っており、そして古雅な雰囲気でも共通するからである。そう、今回のヤルヴィと N 響の演奏会の最初と最後の曲目は、その点でつながりがあるわけだ。これがデュリュフレの肖像。
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この人はもともとオルガン奏者で、実はプーランクのオルガン協奏曲の初演者でもある。生涯で出版された作品はたったの 14曲であるが、レクイエム以外の作品の演奏を聴くことは極めて稀だ。今回演奏された 3つの舞曲も、上記の通り録音も少なく、私自身も今回初めて聴いた。文字通り 3曲の舞曲からなる 20分ほどの曲であるが、レクイエムの静謐なイメージからはかなり異なるもので、特に 3曲めではタンブーランという太鼓が活躍し、そのリズミカルな音型が楽しいし、またサクソフォーンまで入るというモダンぶりなのである。この作曲家の知られざる一面を知ることとなったわけだが、N 響の、特に木管楽器は、この耳慣れない作品を見事な緊密度で音にしていて、素晴らしいと思った。

そして、最後は名曲、フォーレのレクイエム。ここではヴァイオリンや管楽器の活躍は非常に限られていて、オケにおいては中音域から低音域の弦楽器が多くの場面で音楽を牽引する。また、デュリュフレのレクイエムも同じなのであるが、ここには通常のレクイエムでは劇的に盛り上がる「怒りの日」が含まれていない。それだけ静かで古雅なレクイエムであるということである。ヤルヴィと N 響はここでも曲の持ち味にふさわしく、決して前のめりになることはない美しい音と絶妙の呼吸をもって、この美しい曲を演奏した。だが、若干残念であったのは、合唱と独唱。合唱は東京混声合唱団 (今回は児童合唱やボーイソプラノはなし) であったが、弱音の美感には、さらなる改善が可能ではなかっただろうか。ソプラノの市原愛、バリトンの青山貴も、危なげはないものの、心の奥まで染み渡る声という次元には、残念ながら至らなかったと思う。実はこの日のバリトンは、アンドレ・シュエンというイタリア人歌手が予定されていて、この人は 2014年にニコラウス・アーノンクールがウィーンのアン・デア・ウィーン劇場でモーツァルトのダ・ポンテ三部作を演奏した際にすべて出演し、フィガロ、ドン・ジョヴェンニ、グリエルモを歌った人だというので楽しみにしていたが、どうやら前日の演奏会では歌ったものの、この日は体調不良で突如キャンセルしたようだ。実際、コンサート会場で配られたプログラムにも、代役を示す紙片は挟まっておらず、会場に表示があったのみ。つまりはそれだけ土壇場でのキャンセルであったのだろう。実は私も演奏前にはそれを知らず、歌手が舞台に登場したのを見て、どうもバリトン歌手がイタリア人には見えないなぁと首をかしげたものであった (笑)。それから、もうひとつ個人的な感想を述べると、合唱・独唱の中で、譜面を見ながら歌ったのは、急遽代役で登場した青山のみ。だが、このような静謐な宗教曲は、やはり譜面を見ながらの歌唱がふさわしいのではないか。つまり、オペラであれば舞台で暗譜は当たり前であり、その延長で考えれば、宗教曲であっても、人間的なドラマ性に溢れた曲なら (例えばベルリオーズとかヴェルディのレクイエム)、暗譜でもよいかもしれない。だがこの曲には激性はなく、ただひたすら奏者自身の内面と向き合うような要素によって成り立っている。何も暗譜で歌う必要はなかったのに・・・というのが、私の率直な感想である。

だが、ともあれこのような意欲的なプログラムをどんどんこなしているヤルヴィと N 響には、今後も大いに期待が募る。あ、そうそう。今回のプログラムが凝っているという点をもうひとつ挙げよう。デュリュフレとフォーレが、レクイエムという共通項でつながるのは上述の通り。では、サン=サーンスとデュリュフレは? 実は、デュリュフレがパリ音楽院でオルガンを習ったのは、サン=サーンスの弟子であるユジェーヌ・ジグーという人。つまりデュリュフレはサン=サーンスの孫弟子ということになる。それでは、サン=サーンスとフォーレは? 実は 1871年、ともにフランス国民音楽協会の設立メンバーなのである (年は、サン=サーンスが 1835年生まれ、フォーレが 1845年生まれと、10歳差)。それだけではない。なんと、ともにパリのマドレーヌ寺院のオルガニストを務めているのである (サン=サーンスが 1858年から 1877年まで。フォーレは 1896年から 1905年まで)!! このマドレーヌ寺院では、フォーレのレクイエムの最初の版が初演されている。なるほど今回の演目には、そのような相互のつながりがあったのか。マドレーヌ寺院は、もともとはナポレオンの命によってフランスの戦没者を悼む建物として造営されたギリシャ神殿様式の教会。パリでは結構素通りしてしまうことが多いが、次回訪れたときには、この場所でフランス文化史に思いを馳せてみたいと思う。
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by yokohama7474 | 2018-02-18 22:34 | 音楽 (Live) | Comments(2)  

ダークタワー (ニコライ・アーセル監督 / 原題 : The Dark Tower)

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スティーヴン・キングは日本でも人気の、一般的にはホラー作家と呼ばれている人。過去 40年くらいの間、映画化作品が異様と言ってもよいほど多い作家であるが、1947年生まれであるから、実は未だ 70歳。まだまだバリバリの現役なのである。この作品はそのスティーヴン・キングの原作による映画であるが、正直なところ、私はその原作に関しては全く知識がない。もちろん私とても、キング作品自体を全然知らないわけではなく、リヴァー・フェニックスの演技が忘れがたい映画をヴィデオで見る前に夢中になって読んだ傑作、「スタンド・バイ・ミー」や、先般も映画化されて結構評価が高かった、単行本ハードカバー 2冊構成の「IT」、その他、短編集を含む数冊は読んでいる。だが、この作品の原作である「ダークタワー」シリーズが、1982年から 22年に亘って書き継がれた彼のライフワークであるとは、寡聞にして知らなかったのである。上記の通り、私はキングを「一般的にはホラー作家と呼ばれている人」と表現したが、その理由はやはり、本当に感動的な「スタンド・バイ・ミー」に見られる通り、何か人間の本質的な部分を抉り出す彼の手腕を知っているからで、この作家を「ホラー作家」と決めつけてしまうことで、随分と偏狭な見方に堕ちてしまうような気がしてならない。それはつまり、私が原作に何の知識もなくこの映画を見て、そこで扱われているテーマが、例えば「スタンド・バイ・ミー」と共通していることを感じたという事実だけによっても、証明できるような気がする。そのスティーヴン・キングはこんな人。ホラー作家という顔はしていないでしょ? (笑)
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この映画のストーリーは至って単純。少年が夢の中で、世界の中心に聳え立つタワーと、それを守る拳銃の名手 (ガンスリンガーと呼ばれ、本名はローランド) と、魔術をもってタワーを崩壊させようとする悪い奴 (ウォルター) が争っているのを何度も見る。少年は現実世界において敵に追われることになり、別の世界に入って行くと、そこには実在のローランドとウォルターがいて・・・というもの。要するに純然たるファンタジーであって、ホラー的な要素は全くない。この映画の原作は上記の通り、キングが 22年の長きに亘って書き続けた物語。日本語で手軽に手に入るのは新潮文庫だが、それはなんと全 16巻という、超がいくつもつく大作なのである。そうなるときっと、私が生きているうちに読み通すことはないであろうと確信するのだが (笑)、ではこの映画は 3時間も 4時間もかかる作品かというとそうではなく、実はたったの 95分なのである。ということは、原作がその長さにかかわらずエッセンスは単純であるか、またはこの映画が原作のほんの一部しかカバーしていないかのどちらかであろう。これが世界の中心に聳えるというダークタワー。
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さてここからは原作は忘れて、純粋に映画だけについて考察したい。一言、この映画は面白いか? 恐らくその答えは、昨今の、映像もストーリーも凝りに凝った映画に慣れていると、「否」になるのではないか。善と悪の対決は極めて単純だし、最後の決着も、「あれれ。これだけ?」という感想を抱くほどシンプル。なので、本当にこの映画だけ見ると、大して記憶にも残らない作品ということになってしまうかもしれない。だが、私にはなぜか、この映画のシンプルさが心地よく思えたのである。多分それは、夢見る少年が主人公で、彼の妄想が実際に存在していて、巨大悪と、それと闘う善がともに必死にしのぎを削っているという設定に、人間の想像力の原点を見るからではないか。その点において、上記の通りこの作品の精神は「スタンド・バイ・ミー」と共通するものであると思うし、そこに溢れるファンタジーこそ、何か人間の奥深いところに訴えかける切実さのあるものなのだと思う。うまく言葉にできないが、スティーヴン・キングがこれだけ世界中で多くの人々に愛されるのは、何かそこに、人間の本性の点で根源的なものがあるからであろうと思うのである。

そしてこの映画では、善玉悪玉、それぞれの役者がよい。実際、プログラムに掲載されている原作者キングのインタビューにおいて、二人とも絶賛されている。まず善玉ローランドを演じるのは、イドリス・エルバ。なかなか精悍な俳優で、ポスト・デンゼル・ワシントンの呼び声も高いという。
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調べてみて分かったことには、「マイティー・ソー」シリーズでヘイムダルという役を演じているらしい。役名だけではピンと来ないが、この役であれば、はいはい、よく分かりますよ。
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一方、悪役ウォルターを演じるのは、マシュー・マコノヒー。彼は多くの映画に出ている割には、もうひとつ代表作がないように思う。だが、「ダラス・バイヤーズクラブ」という映画でアカデミー賞を取っているし、最近で記憶にあるのは「インターステラー」の主役であろうか。ちょっと若い頃のクリストファー・ウォーケンを思わせるクールさで、このような悪役がよくあっているので、同様の役でまた見たい。
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ひとつ気づくのは、我々は最近の様々な映画で、強大な力を持つ悪役によって世界が崩壊に瀕するという設定にお目にかかるが、その多くは荒唐無稽なもの。その意味では、この映画におけるタワー崩壊の危機という設定も、やはりある種荒唐無稽ではあるものの、なぜそのタワーがそんなに大事であるのかは説明されず、それゆえにかえってファンタジーの世界で完結するゆえ、リアリティのなさによって観客がしらけるということにはならない。現実世界ではない、いわばパラレル・ワールドの危機であり、そこには自由なファンタジーがある。そのような遊び心が分かる人には、この映画は決してつまらないものではないだろう。

ここで脚本・監督を務め、スティーヴン・キングの長大な原作を凝縮して映画にしたのは、ニコライ・アーセルという 1972年生まれのデンマーク人。最近このブログでご紹介する映画には、北欧出身でハリウッド映画の監督を務めるケースがいくつもあるが、彼もそのひとり。これまでの監督作でメジャーなものはないが、スウェーデン映画「ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女」の脚本を務めているらしい (因みにその作品の監督は、先日記事を書いた「フラットライナーズ」の監督、やはりデンマーク人のニールス・アルデン・オプレヴだ)。今後の予定としては、マット・デイモンを主役として、ロバート・ケネディの伝記映画を撮るらしいので、注目だ。
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この記事を書いていたら、無性にスティーヴン・キングの小説が読みたくなってきた。我々に様々なファンタジーを提供してくれるその作家を、決してホラーだけの人と思わないことで、見えてくることが沢山あると思う。まあ、このように長い「ダーク・タワー」は、やっぱり読まないと思うが (笑)。でも人生何が起こるか分からない。もし読んだら、もちろん記事を書くこととします。
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by yokohama7474 | 2018-02-18 00:32 | 映画 | Comments(0)