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ダウンサイズ (アレクサンダー・ペイン監督 / 原題 : Downsizing)

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地球上の人口が過多となったとき、何か抜本的な対策があるだろうか。もちろん昔から、他の星に移住するという設定の SF 作品は数々あった。確かにそれは、費用もかかりリスクもあるが、発想としては自然である。だが、それ以外に何か策はないだろうか。あるある。地球にスペースがなくなったということなら、スペースを作ればよい。いや、それはおかしい。スペースがないから問題なのではないか。スペースを作ることなどできない。そうだ、人間がそのままの大きさである限り。つまり、人間のサイズを小さくすれば、問題解決ではないか!! というわけで、この映画はそのような設定になっている。どのくらい小さくするかというと、1/14。よって、180cmの人であれば、上の宣伝文句にある通り、身長約 13cmになるというわけである。そうなってしまうと、狭い自宅の土地も夢のような広さ。一般庶民がいきなり大富豪である。こんな結構な話はない・・・と本当に思うかどうかは別として、この映画はつまり、今目の前にある世界とは別の世界に入って行く勇気を持つことで、これまでの生活における不満から脱却することを目指す人々の物語である。主演はこの人、マット・デイモン。一足先に小さくなった友人と真剣に話しております。
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このように突飛な設定の映画であるから、深刻さはあまりなく、コメディ映画と言ってもよいだろう。その証拠として、マット・デイモンの妻の役を演じるのクリステン・ウィグは、米国ではかなり有名なコメディエンヌらしい。リメイク版の「ゴーストバスターズ」などに出演していたらしい。だがこの映画での演技自体はそれほど大げさではなく、こんな状況ならこんなパニックになるかもしれないといったレヴェル。このシーンは、小さくなることを決意した 2人が、現在の生活で大事にしているもの (お互いの結婚指輪とか) を収めた箱を持って出かけるところ。
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設定はなかなかよく考えられていて、人間の細胞は小さくできるものの、人工物はそうはいかないから、人工関節を入れている人は小さくなれない。だが、例えば歯の詰め物であれば、すべて除去した上で小さくなり、そちらの世界でまた詰め直すといる段取りとなる。全身の毛を剃られ、こんな感じで小さくなるのである。
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人類縮小計画は、希望者だけに対して実行され、実用化されて何年も継続するうちに、既にかなりの実績が上がってきているという設定。からだが小さくなっても、こんなミニチュアの街ができていて、虫や動物が入ってこないよう、上空は密閉されている。ほほぅ、これはやはり、快適なユートピアでしょうかね。
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と、ここまで時に妙な距離感を込めて文章を書いているのは、正直なところ私はこの映画を、そもそもの着想以外には、あまり面白いと思わなかったからである。つまりここには、「人が小さくなる」という特異な設定をどのように使ってストーリーを紡ぎ出そうかという工夫が、あまりあるようには思えない。もちろん、あるドラマが起こる設定にはなっていて、その前提は、本来なら自らの意思でダウンサイズする人たちばかりであるはずが、実はそうではないという事実が発覚することである。だが、そのドラマが一体どれほどの人に強く訴えかけるだろうか。誰にでも分かることには、この映画には悪役は一切登場しない。よくありがちな、自らの利権に目がくらんだ巨大企業の陰謀や、地球の制服を目論むマッドサイエンティストは出て来ない。カーチェイスもなければ銃撃戦もない。知恵と体力の限りを尽くす「ジェイソン・ボーン」シリーズのような肉弾戦もない。その意味では今どき珍しいタイプの映画であり、もしかするとそこに、通俗的な娯楽映画とは異なる、なんらかの社会的メッセージを読み取るべきであるのかもしれない。だが私には、そこも今一つピンと来なかった。もともとブラックコメディの要素を追求するなら、それにふさわしい役者を配し、もっと意外な事態の展開を描くべきだったろう。ここには、過酷な運命のどうしようもない強い力によるドラマ性は感じられない一方で、北欧の自然を通した何かスピリチュアルなものへの指向は明らかである。そこに、環境問題、移民問題、家庭の問題、そのような現代のヴィヴィッドな問題の数々は結局、この地球自体が堕落しているから起こっているのだという諦観を感じるのは私だけだろうか。もしそうなら、この描き方では、そもそもの地球の問題点が仮借なく迫って来ないし、悪人が出て来ない点による力点の不足があるように思う。それだけではなく、ここでの役者たちは、主演のマット・デイモンを除くと、どうも印象に残らない。いつもながら奇妙な笑顔のクリストフ・ヴァルツとか、ちょっとだけ出ているローラ・ダーンなどはともかく、ヴェトナム人家政婦という役のホン・チャウなどは、その東南アジア英語を含め、私としては苦手なタイプ。ここにアジア系移民についての何かのメッセージがあるのかもしれないが、映画のドラマ性という点では、残念ながら彼女はそれほど貢献していたとは思えない。ただ、ひとつ明確なメッセージとして受け取ったのは、マット・デイモン演じるポール・サフラネックは、ダウンサイズする際には、ある種の裏切りに遭ってしまうわけだが、この映画のラストでは、同じ裏切りに再度苛まれることはない。ここには、運命を克服する善き人間が描かれている、ということは言えるだろう。未だダウンサイズを決意する前の善き人の姿。
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この映画の監督アレクサンダー・ペインは、製作と脚本にも参画している。この名前にはなじみはなかったが、「サイドウェイ」「ファミリー・ツリー」という 2本の映画 (ともに監督も兼任) でアカデミー脚本賞を受賞しており、カンヌ国際映画祭の審査員にも選ばれているらしい。ふーん、それは大した実績だ。ではこれに懲りず、今後に期待することとしよう。
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とりあえず、人間が今のままのサイズで繁栄を続けんことを。

by yokohama7474 | 2018-03-31 21:32 | 映画 | Comments(0)  

15時17分、パリ行き (クリント・イーストウッド監督 / 原題 : The 15:17 to Paris)

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たまたましばらく前の「The Beguiled / ビガイルド 欲望のめざめ」の記事でもその名に触れたクリント・イーストウッドであるが、そこで紹介した 1971年の映画「白い肌の異常な夜」(うーん、何度見ても異常な邦題だ) に出演した彼は、それまでのマカロニ・ウエスタンからハリウッドに進出し、その「白い肌の異常な夜」と同じ年に同じ監督の手によって作られた「ダーティハリー」で大ブレイクしたわけである。その後の彼の活動は、文字通り映画史に残る偉大なものであり、実に 87歳に至った今日でも、コンスタントに作品を世に問うていることは、まさに人間技を超えている。前作「ハドソン川の奇跡」も実話に基づくハードな内容であったが、今回はさらに意欲的な作品になっている。ここでは、アムステルダムからパリに向かう列車の中で、テロリストに立ち向かい、大量虐殺を未然に防いだ若者たちの物語が語られる。だが、ここで驚くべきは、その英雄的なことを成し遂げた若者本人たちが、ここで自らの役を演じていることだ。こんな映画、前代未聞であろう。
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主人公は、白人 2人に黒人 1人の 3人組。彼らはカリフォルニア、サクラメント出身の幼なじみ。このような写真を見ると、役者ではなく、本当に一般人であることが分かる。
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事件が起こったのは 2015年 8月21日。米国からヨーロッパに旅行に来て、アムステルダムからパリに向かう途中の列車の中。銃を持ったテロリストがその列車の中で大量殺戮を目論んだが、たまたま乗り合わせた彼らによって阻まれることとなった。ということは、つい 2年半ほど前の話であるのだが、これほど最近の事件をこのように迫真の映像で撮った映画がかつてあっただろうか。イーストウッド自身の「アメリカン・スナイパー」や「ハドソン川の奇跡」、あるいはキャスリン・ビグローの「ハート・ロッカー」や「ゼロ・ダーク・サーティ」に比べても、より生々しい題材であるのだ。80代後半に至った監督の心意気たるや、恐るべし。実際ここでは、隅から隅まで、実にリアルに物事が展開して、眩暈がするようだ。但し、主人公 3人の少年時代を除いて。さすがにこの少年たちと、その母親は、役者が演じているのである。これらが、実際にトラブルを経験した本人たちと、その少年時代を演じる子役である。なかなかうまい子役を探してきたものだ。
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ただ、ここで予告編での謳い文句と本編の違いを述べるとするなら、予告編では、ごく普通の青年たちがテロを防いだように見えたものだが、実際には軍隊でテロ対策及び人名救助の訓練を受けた人が、勇気ある行動を示したのである。そうでないと、こんな風に狙われて、
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こんな風に反応できませんよ。
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まあ実際ここにはラッキーな要素もあったのだが、それにしても、敵に立ち向かう青年の勇気には、本当に感銘を受ける。もし自分がその立場にいれば、たとえ訓練を積んでいたとしても、果たして同じことができるであろうか。そして大変興味深いことに、ここで命をかけてテロを防いだ青年、スペンサー・ストーンは、画面を見る限りどうやら、多少コミュニケーション障害のようにも見える。その生々しさは、ちょっとほかの映画で見たことがないようなものである。それから、これは多少ネタバレかもしれないが、青年たちと一緒に列車の中で被弾した人を助ける医師 (であるか否かすら、劇中では明らかにならないのであるが)、そしてその被弾した人も、本人役を演じているのである。これは実に呵責ないことである。つまり、テロリストに撃たれ、実際に生死の境をさまよった人が、そのようなシーンを再現するのであるから。もし私がそのような経験を持っていたら、もう思い出すのもいやになるはず。それから面白かったのは、これらテロを防いだ功労者たちが叙勲されるシーン。ここでは、本物かと見まがうばかりのオランド元首相を演じる役者が出ているのである。ええっと、これは多分、本物の叙勲時の写真。映画をご覧になった方は、是非映画の中のシーンと比べてみて頂きたい。あれっ、これが映画の中のシーンかも (笑)。
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もちろんこの映画の趣旨は、実際の事件に遭遇した本人たちの勇気を称えることにあるにせよ、その一方で、現代世界のリアルな姿を、切実感をもって描いているとも思う。例によって多くを語り過ぎないイーストウッドの演出は、何よりも事件の当事者を使って衝撃的な事件を再現することにより、有無を言わせぬ迫力を作り出したのである。若者らしく、チャラチャラしていてもよい。いざというときに人生の真価が試されるのである。衝撃の事件を経験して、若者たちの人生の年輪が増えることに、ポジティブなものを見たいと思う。そう、あのクリンント・イーストウッドとお近づきになれるなんて、普通ではありえないことだ。
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クリント・イーストウッド。老境に及んでなお、まさに映画の地平を広げつつある偉大な存在なのである。

by yokohama7474 | 2018-03-28 00:28 | 映画 | Comments(0)  

エリアフ・インバル指揮 東京都交響楽団 (ピアノ : アレクサンドル・タロー) 2018年 3月26日 サントリーホール

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東京都交響楽団 (通称「都響」) とその桂冠指揮者、エリアフ・インバルによる演奏会。先の記事でご紹介したショスタコーヴィチ 7番「レニングラード」の爆裂的名演に続く今回も、そのコンビの真価を大いに発揮することとなった。曲目は以下の通り。
 ショスタコーヴィチ : ピアノ協奏曲第 2番ヘ長調作品102 (ピアノ : アレクサンドル・タロー)
 ベルリオーズ : 幻想交響曲作品14a

今年 82歳という年齢が信じられない活動ぶりのインバルであるが、ショスタコーヴィチの小規模なコンチェルトはともかく、彼が得意とする爆裂的音楽である「幻想」がメインと来れば、桜が咲き誇るこの季節にふさわしく、ほのかに狂おしい、いや、強烈に狂おしい音楽を期待したい。これは、会場であるサントリーホールの裏側の道路脇に咲いた桜の花を、コンサート前に私が撮影したもの。この桜のワクワク感が、インバル / 都響の「幻想」への期待につながって行く。
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最初の曲、ショスタコーヴィチの 2番のピアノ・コンチェルトは、演奏時間 20分ほどの可愛らしい曲。もしよろしければ、この記事の右側の下の方に出ているブログ内検索機能を使って、映画「ブリッジ・オブ・スパイ」の記事を検索して頂きたい。なぜならば、この曲はその映画で印象的に使用されていたからで、1957年という時代の状況と、ショスタコーヴィチという作曲家の活動についてイメージがないと、そこに込められたスピルバーグ監督の意図を充分読み取ることは難しいかもしれない。ソ連の政治情勢に翻弄されながらもしたたかに作曲を続けたショスタコーヴィチが、息子マクシム・ショスタコーヴィチのために書き、彼が 19歳のときに初演された曲が、このピアノ協奏曲第 2番である。これがショスタコーヴィチ父子。この曲の初演よりはあとの頃の写真だろう。
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このマキシム・ショスタコーヴィチはその後指揮者として活躍し、父の交響曲の録音などもあったが、最近はどうしているのだろうか。実は私が初めてこのショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第 2番を聴いたのは、1980年代、そのマキシムが指揮した演奏の FM 放送のエアチェックであった (今手元にそのカセットが出て来ないが、おぼろげな記憶では、確かピアノはピーター・ドノホー、オケは BBC ウェールズ響だったのでは???)。その後、バーンスタインがラヴェルのコンチェルトとともに弾き振りした録音で親しむこととなったこの曲は、賑やかな両端楽章の間にロマンティックな緩徐楽章が挟まれた構成であり、その緩徐楽章には、ちょっと映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」で使われた「アマポーラ」を思わせるような、揺蕩う抒情的な雰囲気があって、誰でも親しめる曲である。だがその割には実演で耳にすることは少なくて残念なのである。そんなコンチェルトのソロを今回取ったのは、フランスのピアニスト、アレクサンドル・タロー。細身で、大変若く見えるが、1968年生まれの 49歳とのこと。
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因みに日本人はこの人の名前を聞くと、どうしても「タロー = 太郎」と思ってしまうが (笑)、このタローさんのタローは、Taro ではなく Tharaud と綴るし、そもそも、名前ではなくて姓なのである。私は今回初めて生で聴いたが、フランス人らしい、洒脱できらきらしいピアノを弾く人だ。この曲にはぴったりのソリストであったと思う。冒頭の「ちょっと歌ってみようかな」というようなそっけない雰囲気から、段々その気になって、タッタカタッタカタッタッタッタと駆け足になる部分も自然で面白く、第 2楽章の抒情にも、耽溺しないクールさがあったし、そしてまた第 3楽章の悪ふざけ (ただ、作曲者のことを知っていると、ただ楽しいだけと聴いてよいのか否か分からない、謎めいた部分もあるのだが) も聴き物であった。インバル指揮の都響は、ここでもいつもの通り弦楽器が自由自在に流れを作り出し、終結部のプチ狂乱 (?) でも、実に懐の深い音楽を聴かせて見事であった。アンコールには同じ曲の第 2楽章が繰り返され、もしこの曲になじみのない聴衆がいても、その美しさを実感することができただろうと思う。

さぁ、そして後半の「幻想」である。まず、驚いたことがひとつ。普段なら、寝ていても指揮できるのではないかと思うほど知り尽くしているはずのマーラーの交響曲であれなんであれ、スコアをめくりながら指揮をするインバルが、今回は譜面台すら置かない暗譜での指揮である!! 彼はいつもステージに指揮棒を 2本携えてきて、そのうち 1本は予備なのであろう、譜面台に置いて指揮しているのであるが、今回は譜面台がなかったので、予備の 1本はあらかじめ、指揮者に向かって右手のチェロ奏者の譜面台と楽譜の間に刺してあった。これは昔、朝比奈隆も使っていた方法だ。いやそれにしても、80を超えて譜面を使うようになった小澤征爾のような人もいれば、このインバルのように、同世代でありながらその逆に、譜面を使わなくなる人もいるわけだ。もっとも、彼にとってそれだけこの幻想交響曲が特別親しいレパートリーで、曲の持ち味を出すには自由に振れる暗譜の方がよいという発想でも、もともとあったのだろうか。
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ともあれ今回の幻想は、まさにインバルと都響の神髄を聴かせる凄まじい演奏となった。冒頭から少し早めのテンポであるが、その流れは決してよくなく、むしろ淀み気味と言ってもよい印象。これこそまさに、美的に表面をとりつくろうことのない、狂気に囚われた若き芸術家の心のうちを表す音楽ではなかったか。最初の方こそ、第 1楽章のティンパニの響きに少しシャープさを欠いたのと、第 2楽章の冒頭近くでハープが埋もれてしまっていたのは少し残念な気がしたが、それでもやはり、この集中力は尋常ではない。当然のように第 1楽章の提示部は反復されず、そして第 1楽章と第 2楽章は続けて (アタッカで) 演奏されて、音楽の勢いは、いや増して行く。第 3楽章に入る際には少し間を置いたものの、劇的な流れは維持されていて、孤独なイングリッシュホルンも不気味なティンパニも、その流れを次へと推し進めて行く。そして第 3楽章以下は続けて演奏され、ついに悪魔の饗宴へ。インバルならこのくらいやってくれるだろうという予想はあったものの、その畳みかけるような、まさに悪魔的な表現力は、鳥肌ものであった。この爆裂的演奏には、本当の意味での「知性の眠り」、つまり、以前もこのブログでご紹介したことのあるゴヤの版画を思わせる、高い知性にのみ許された野性といったものを感じることとなった。
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そういえば、私は以前もインバルの指揮でこの曲を聴いたことがある。それは、鎌倉芸術館で、読売日本響を指揮したもの。そのときも、当時の読響の常任指揮者ゲルト・アルブレヒトのような抑制を是とするタイプではなく、このように解き放つ指揮者の方が読響に合っていると思ったものだ。それから歳月を経て、一時期は手兵として手塩にかけた都響を、譜面を離れて自由に指揮して、より一層のパワーを解き放つようになったこのインバルは、改めて考えると、東京の音楽界に非常に大きな足跡を残しつつあるわけである。この指揮者の演奏は、これからも極力聴いて行きたいと思った次第である。

ところでこの幻想、今年は東京のオケで頻繁に演奏される。1月にはチョン・ミョンフンと東フィル、今月は既に小林研一郎と読響が採り上げており、それに今回のインバルと都響。そして来月には、ブロムシュテットと N 響という注目の組み合わせが、この曲を演奏する。お世辞にも上品で高踏的な作品とは言えないが、そこに込められた熱狂には、抗しがたい魅力があることは確かである。桜の下で聴くベルリオーズ。心の毒を浄化するのではなく、そのまま絞り出すと言えようか。ときにはそんな時間があってもよい。
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by yokohama7474 | 2018-03-27 00:27 | 音楽 (Live) | Comments(2)  

準・メルクル指揮 音楽大学フェスティバルオーケストラ 2018年 3月25日 ミューザ川崎シンフォニーホール

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今年の冬は結構寒かったと思うが、桜の開花は通常より少し早めで、場所によってはもう満開となっている。いよいよ春なのである。そんなタイミングで、この桜色のチラシとは、実にタイムリー。この音楽大学フェスティバルオーケストラとは、東京の 9つの音楽大学のメンバーに、今年は名古屋 2大学からのメンバーを迎えて結成された学生オケ。その 9つの音楽大学とは、50音順に、上野学園大学、国立音楽大学、昭和音楽大学、洗足学園音楽大学、東京音楽大学、東京藝術大学、東邦音楽大学、桐朋学園大学、武蔵野音楽大学。そして名古屋の 2大学とは、愛知県立芸術大学と名古屋芸術大学だ。このような選抜メンバーによる演奏会は、もともと 2011年に初めて開かれる予定であったが、東日本大震災のために中止。その翌年、2012年からは毎年開かれ、今回が 7回目。これまで指揮台に立った指揮者は、外山雄三、秋山和慶、ラドミル・エリシュカ、ユベール・スダーン、尾高忠明、高関健と、なかなかの顔ぶれである。そして今回指揮を取るのは、日系ドイツ人の準・メルクル。このブログでは既に何度か彼の演奏会を採り上げているが、日本でも活躍の場を広げている世界的名指揮者である。日本では、プロのオケの数々との共演機会を広げるのみならず、国立音楽大学の招聘教授という立場で、後進の育成にも当たっている。
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この音楽大学フェスティバルオーケストラ、私は 2013年に秋山和慶の指揮により、マーラー 5番をメインとする演奏会を聴いた記憶があるが、学生オケながら、音楽の専門教育を受けている人たちの選抜による団体であるから、かなりの熱演を楽しむことができたことを覚えている。今回、メルクルのような世界で活躍する指揮者のもとで演奏できる学生さんたちは、必ずやそこから多くを学ぶ機会になるであろう。メンバーは総勢 162名とのことで、管楽器は曲によって担当が異なるので、多くの学生がこの貴重なチャンスに自己表現の機会を持つことになる。演奏会は 2回開かれ、前日の東京芸術劇場に続いて、ミューザ川崎でのものに私は出掛けたのである。学生オケとはいえ、S 席がたったの 2,000円とはお値打ちものだ。これは学生たちにとってのみならず、聴衆にとっても、大変貴重な機会なのである。そして曲目は、ちょうど桜の季節にふさわしい、だがかなりハードな (笑)、以下のようなもの。
 ドビュッシー : 交響組曲「春」
 シューマン : 交響曲第 1番変ロ長調作品38「春」
 ストラヴィンスキー : バレエ音楽「春の祭典」

すべて春に因む曲でありながら、作曲者の出身が、フランス、ドイツ、ロシアと様々。求められる音楽的内容もそれぞれに異なるという、大変意欲的なプログラムである。メルクル自身の言を引用しよう。

QUOTE
私は、いつも若い音楽家との出会いを大切にしています。
この度、音楽大学フェスティバルオーケストラを指揮出来ることを非常に嬉しく思います。
今回のテーマは「春」。音楽的には挑戦的で、入念な準備が必要です。
(中略)
多くの才能ある音楽家との、素晴らしいコレボレーションを楽しみにしています。
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これはシンプルなメッセージでありながら、メルクルのストレートな感情の発露であると思うし、今回の演奏は、そのような彼の期待に違わない、熱気に満ちたものとなった。編成はいずれも大きく、前半の 2曲はコントラバス 8本、後半は実に 10本であった。これは、多くの学生が参加するという点で意味のあること。メルクルはまた、前半 2曲では譜面台も置かない暗譜で、後半の「春の祭典」はきっちりスコアを見ながらの指揮であった。これは数年前の国立音楽大学オケとのリハーサル。
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さて今回の演奏であるが、どの曲でも、特に弦楽器の強い表現力には驚きを禁じ得ないものがあった。このメンバーの中には、卒業すればオーケストラのプレイヤーになる人たちも多くいると思うが、現在の日本のオケのクオリティは、学生時代からのこのような経験に依拠しているのだと思うと、実に心強い気持ちになったのである。もちろん、弦楽器だけでなく管楽器にもそれぞれの持ち味があって、木管は臆せず堂々とソロを取っていたし (例えば「春の祭典」の最初のファゴットから、それに続くイングリッシュホルンやクラリネットへのパス回しは見事であった)、金管も、ここぞというときに炸裂して、月並みな表現かもしれないが、若さの特権を感じさせる、大変に気持ちよい演奏であったと思う。一方で、日本ではプロのオケでもよく課題になる、静かな部分の金管には、まだまだ改善の余地を残したと思うのだが、でも音楽というものは、個々の奏者の技術だけではなく、全体としていかに曲の持ち味を表現できるかによって、印象が変わってくるもの。メルクルの、ある意味で「容赦ない」指揮に食らいついていく若者たちの演奏には、その行為だけでも音楽の持つ素晴らしさを充分に感じさせるものがあり、大いに感動した。それから、メルクル自身が述べている通り、全然異なるスタイルの 3曲であったのだが、ドビュッシーにおける、東洋的旋律を前へ前へと進める推進力、シューマンにおける、微妙な呼吸による繊細さとドラマ性の両立、そしてストラヴィンスキーにおける、実にスリリングで鋭利な音の乱舞と、本当にスマートにそれぞれの曲の個性を表現した点、素晴らしい。プロならもっと遊びがあってもよいかもしれないが、学生オケの音楽への貢献は、真摯であることがまず大前提になるだろう。でも、音楽的に豊かな遊び心も、例えばシューマンの終楽章で、フルートソロが音楽の流れを一旦停滞させ、そこからクライマックスに向けてオケ全体が動き出す箇所などでは面白く聴かれ、音がヒラヒラと宙を舞っているようなイメージであった。最後の「春の祭典」の熱い最終音が響き渡ったあと、男性コンサートマスターは疲労困憊の様子であったが、それは充実感の表れであったろう。それぞれのメンバーたちの顔には明らかに充実感が漲っていたし、メルクルもオケの健闘を称え、実に嬉しそうであった。爽快な熱演を堪能させてもらいました。

私は、音楽を聴く際には、極力自然に楽しみたいと思っていて、それであるからこそ、このようなプロの技とは異なる学生の献身的な演奏ぶりにも、心を揺さぶられるのである。要するに曲のよさを楽しむことが大事なのであって、そこには権威主義的な発想は邪魔である。ベルリン・フィルを聴くのと同様の感性を持って、学生オケを聴くことで、いろいろなものが見えてくると思う。さて、メルクルの次の学生オケとの共演は、これである。国立音楽大学オケを振って、彼にとって重要なレパートリーである細川俊夫の「循環する海」と、マーラー 5番を演奏する!! 7/15 (日) という日程は、私自身にとってはあまり都合のよいものではないのだが、またまた熱演が期待されるので、アマチュアオケにあまりなじみのない方にもお薦めしておきたい。チケットは、一般 1,500円、学生 500円です!!
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by yokohama7474 | 2018-03-26 00:04 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

The Beguiled / ビガイルド 欲望のめざめ (ソフィア・コッポラ監督 / 原題 : The Beguiled)

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この白い色合いに女優が 3人。なんともエレガントのように見えるが、また少し嘘っぽいようにも見える。しかも、副題に「欲望のめざめ」などとあって、何やら怪しげで、あまり爽やかな感じはないのである。だが、映画に興味を持つ人はやはり、これを見るべきであろう。それは、この人が監督であるからだ。本作においては、製作と脚本も兼ねている。
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1971年生まれ、ということは既に 46歳ということになるが、現代における才能ある映画監督のひとり、ソフィア・コッポラである。言うまでもないが、あのフランシス・フォード・コッポラの娘である。監督作としてはやはり「ロスト・イン・トランスレーション」が印象深いし、役者としては何と言っても「ゴッドファーザー Part III」におけるアル・パチーノの娘役であろう。ところが彼女は実は、この「ゴッドファーザー」シリーズ 3作すべてに出演しているのである。いやいや、嘘でしょう。だった「ゴッドファーザー」の 1作目はいつの作品だったろうか。調べてみるとそれは 1972年。ということは、このソフィア・コッポラは当時、たった 1歳ではないか!! そう、劇中でタリア・シャイア (もちろん、フランシス・コッポラの実の妹だ) の息子であり、その兄、アル・パチーノ演じるマイケル・コルレオーネが名付け親となった赤ん坊、マイケル・フランシス・リッツィは、このソフィア・コッポラが「演じた」役だったのである。女の子が演じた男の子役。ということはソフィアは、生まれた頃からジェンダーには敏感であったのかもしれない。
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そんなソフィア・コッポラの最新作であるこの映画の題名 "Beguiled" とは、私もなじみのない言葉であるが、beguile (だます) という動詞の過去分詞なのである。ええっと、高校のときに習った英語では、過去分詞に the をつけると、そのような特色を持つ人を指す。つまりこの言葉の意味は、「だまされた人々」という意味になる。この映画の設定は 1864年。米国を二分した南北戦争のさなかである。南軍の支配地で女子だけが暮らす寄宿舎に、傷ついた北軍の兵士が匿われる。そこで、女教師とその助手、そして教え子の合計 7人が、何やら欲望をめざませる (?) ことになる、というお話。
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この写真で左右に立っている 2人と、真ん中に座っている 1人の合計 3人が、上のポスターにその姿を見せている 3人。年齢順に、ニコール・キッドマン、キルステン・ダンスト、そして、あの天才女優エル・ファニングである。この中で、キルステン・ダンストは私は以前から (「スパイダーマン」のヒロインを演じていた頃から) どうも苦手なのであるが、ほかの 2人は大ファンなのである。そういえばつい最近も、このニコール・キッドマンとエル・ファニングが共演した映画の記事を書いた記憶がある。残念ながらその記事のアクセスは非常に少ないので、ここでリンクを張っておこう。

https://culturemk.exblog.jp/26366560/


もう一度、この 3人の女優の写真を掲げておこう。本編にはこのようなシーンは登場せず、飽くまでイメージショットなのであるが。おっとここには、3人の女優以外に、右端に髭面の男が見える。

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そう、コイツが、女の園をかき乱す北軍兵士である。なにせあのエル・ファニングが、こんなことになってしまうのだ。こらこら、近い近い!!

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この北軍兵士を演じるのは、これも名優であるコリン・ファレル。こらこら、髭を剃っても、近い近い!!

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この映画、見る人の人生が変わるほどの出来とは思わないが、ここでソフィア・コッポラが描きたかったことは、なんとなく分かる気がする。ひとつは、南北戦争。国が分断されたこの頃から、米国は栄光の歴史を刻んできたはずだが、昨今の情勢を見ると、果たしてそうなのか、ちょっと疑問に思うところもある。そのことに対する危機感があるだろう。そして、そのような国レヴェルではなく個人レヴェルで見たときに、女同士で起こる確執というテーマもあるに違いない。キリスト教の教えに基づいて敬虔で貞節な生活を送るべき寄宿舎の女性たちが、たった一人の男の存在によって、徐々にいがみ合うようになり、狂気すれすれの思い切った行動に出る。思い出してみれば、この作品の冒頭は非常に印象的なのであるが、それは、ひとりの少女の視点から森の中を見たもの。彼女は歌を口ずさみながら食糧になるキノコを採りに来て、そして傷ついた北軍兵士を見つけるのであるが、冒頭からのその流れは、何気ないものでありながら、純粋なものが汚されて行く序奏にふさわしく、イノセントでありながら黒い予感に満ちたもの。そしてこのキノコは、映画のクライマックスでまた重要な意味を持つのである。ソフィア・コッポラはこの映画の設定について、以下のように語っている。


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私は集団内での人間関係というものにずっと興味があるの。特に女性同士のね。女性同士が接する時の機微ってすごく微妙じゃない? 男性はもっとはっきりしてるけど。(中略) 今回は、人生のステージが異なる女性同士の関わり合いを描いてみたかった。

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なるほど、やはり彼女はジェンダーにもともと興味があって、ここではいわば、密室での実験をしているような感覚で映画を作っているのだろう。正直、女性同士の確執の行き着く末については、私としてはもっともっと呵責ないものを描いて欲しいと思ったのだが、とはいえ、そこに至る過程では、監督の目指すところはかなり明確に表現されていると言ってよいだろう。ところでこの作品には原作があって、それは、トーマス・カナリン (1919 - 1995) という作家 / 脚本家の手になるもの。実はその作品は、原作者が未だ生きていた頃、1971年 (ちょうどソフィアが生まれた年である) に映画化されている。この作品、原題は今回と同じ "The Beguiled" なのだが、邦題がすごい。「白い肌の異常な夜」というのである!! なんじゃそりゃ (笑)。その作品、北軍兵士を演じたのはクリント・イーストウッド。監督は彼の出世作「ダーティハリー」の監督であるドン・シーゲルだ。いやー、このポスターはほとんどポルノまがいではないですか。勘違いしてドキドキしながら劇場に向かった男性も多かったのでは?

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以前も書いたが、今年未だ 20歳というエル・ファニングは、やはり特別な才能を持った女優であると思う。実は、ソフィア・コッポラの父親であるフランシス・フォード・コッポラも、彼女を主役に映画を撮っているということをご存じだろうか。押しも押されぬハリウッドの大御所でありながら、最近その活動ぶりをとんと耳にしない彼の、現時点での最新作「Virginia / ヴァージニア」(原題 : Twixt) である。2011年の作品で、日本での公開は本当に細々としたものであったが、もちろん私は封切時に劇場に足を運んでその映画を見た。いかにも低予算ながら、ファンタジー溢れる佳作であったので、コッポラファンには絶対にお薦めである。これがその作品でヴァル・キルマーと共演するエル・ファニング。当時 13歳。

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そう、遠からぬうちに現代最高の女優になる可能性を秘めているエル・ファニングは、コッポラ父子の作品に出演することで、その階段を登りつつあるのである。これからも大注目であります。


by yokohama7474 | 2018-03-25 00:01 | 映画 | Comments(0)  

スリー・ビルボード (マーティン・マクドナー監督 / 原題 : Three Billboards outside Ebbing, Missouri)

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日々の生活の中で、はっとする偶然に出会うことがある。もちろん、例えば何かあることを考えているときに、それに関連するものが目に入ったりすると「すごい偶然だ」と感じるわけであるが、実際のところ、人の意識は常に流れていて、目の前にあるものは意識の中にあるものと関係ないことがほとんど。なので、たまには偶然、目の前にあることが自分が考えていたことと一致しても、ことさら不思議ではないと言えるのかもしれない。だが、文化の諸相において、奇妙な偶然はときにインスピレーションと呼ばれ、人間の想像力の源泉と考えられるものである。たとえ偶然であれ、人の内部で考えられることと、外部で発生することに因果関係があると捉えると、世界が広がるとは言えるだろう。・・・なぜにこんなことを書いているかというと、この記事を書き始めた 3/21 (水・祝) の夜、レイトショーである映画を見に行くために出掛けようとすると、書斎の床に置いてあるかなりの数の (ええ、かなりの数の!!) 未聴 CD の山の 1枚にちょっと足が触れて、蹴飛ばしてしまったのである。拾い上げてみると、それはソプラノ歌手キリ・テ・カナワの歌うカントルーブの「オーヴェルニュの歌」という歌曲集の CD だ。そのとき、稲妻のように私の脳裏に走るものがあった。実は、その直前にまさに記事を書き始めていたこの映画は、かなり以前に鑑賞したものなのであるが、その冒頭とラストに、どこかで聴いたことのある歌が使われていて、私はそれを確か、この「オーヴェルニュの歌」の中の 1曲ではなかったかなと思い、これは記事を書く前に確かめないといかんなと思っていたのだ。だが、その後の出張や、連日のコンサート通いとその記事の作成に追われ、なかなかこの映画の記事にまで至らなかった。そうこうするうちに時間が経って、アカデミー賞の発表があり、この映画でフランシス・マクドーマンドがアカデミー賞主演女優賞、サム・ロックウェルが助演男優賞を獲得するという事態も出来したが、それからでも随分と日数が経ってしまっている。そんな状態で、ようやくこの映画の記事を書き始めた。だが、冒頭がなかなかうまく行かず、何度か書いては消して、納得いかない内容でとりあえず下書き保存して、さてレイトショーに出掛けようと思った矢先、この CD を蹴飛ばしてしまったというわけである。ビビビと何かに撃たれた私は、レイトショーから帰ってきて、それまでに書いていたこの映画の記事の冒頭部分をすべて削除し、この話題から始めたというわけだ。

とまあ、書き出しが長くなってしまったが、奇妙な偶然に導かれて私が舞い戻ってきたこの映画。これは本当に素晴らしい作品である。一言で要約するならば、人生のエッセンスが、よいこと悪いこと、すべてぎゅっと詰まったような作品である。今年これまでで見た中では、間違いなくベストを争うものであろう。予告編で明らかになっていたストーリーは、中年女性が娘を殺されるという悲劇に出会うが、なかなか犯人が捕まらないことに業を煮やし、自宅近くの道路沿いに立っている大きな立て看板 (ビルボード) 3枚に、警察を非難する文章を入れる。それを見た警察との間にいざこざが起こり、やがて事態は思いもよらない方向へ。このような立て看板が、人々の運命を動かすことになるのである。
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それにしても、このストーリー展開は全く先を読ませない意外性を常にはらんでいて、画面を見ながら「あっ、そんな!!」とつい叫びたくなるような意想外の事態が矢継ぎ早に起こるのである。この映画には、いわゆる悪人は登場しない。だが、登場人物のそれぞれに、逞しく戦う姿勢と、人間としての弱さが同居していて、それらの要素が複雑に絡み合うことで、実に意外性に富んだ展開となって行くのである。主演のフランシス・マクドーマンドは、私が深く敬愛するコーエン兄弟の片割れ、ジョエル・コーエンの妻であり、コーエン兄弟のデビュー作「ブラッド・シンプル」以降、彼らの作品の数々に出演している。その中には例えば「ファーゴ」のような作品もあって、そこでは、悪気はないが要領の悪い男が、ちょっと嘘をついたばっかりに、どんどんどんどん取返しのつかない方向に運命の歯車が回り出すという設定が、ブラックユーモアを交えて描かれていた。実はこの「スリー・ビルボード」も、それに近いストーリー展開となっている。だが、「ファーゴ」に比べるとこの映画の方が、より救いのない内容であると思う。それというのも、登場人物たちの人間像に奇妙なリアルさがあるからではないか。もちろん主演のフランシス・マクドーマンドの演技は大変素晴らしい (もっとも、そのセリフには何度も 4文字言葉が飛び交い、決してお上品な役柄ではない)。彼女としても会心の演技であるだろう。そして、警察署長を演じるウディ・ハレルソン、その部下を演じるサム・ロックウェルも、それぞれ難しい役柄を、素晴らしく演じている。そう、アカデミー助演男優賞を獲得したサム・ロックウェルの演じる警官の、尊大でありながら実は愛情深く、その一方で自分の持つ権力に安住し、弱い者たちを攻撃するという複雑な性格は、この映画のドラマを大変深いものにしている。人間というものは弱い面が必ずあり、卑怯で臆病であるがゆえに威張りちらすことがある。だがその一方で、そのような人の心の底には、実は善が眠っているケースもあるのである。
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この映画は完全なフィクションであるが、奇妙なリアリティがあるのは、中西部の架空の街、ミズーリ州のエビングの様子がリアルに描かれているからだろう。この映画の原題は、「ミズーリ州エビング郊外の 3枚の立て看板」という意味であるが、田舎の街のそのまた郊外という設定の中に、米国の人たちのリアルな生活ぶりが透けてみえる。彼らはそれぞれに不安や不満を持って暮らしており、凶悪犯罪が起こりうる土壌もそこにある。もちろん人種問題は深い根を下ろしている。ここには今日の米国のリアルな病巣が描かれているのだろう。だがしかし、面白いのは、この映画の設定は、どうだろう、1990年代前半というイメージだろうか。携帯電話は未だそれほどポピュラーではなく、もちろんインターネットが人々の生活を支配しているということもない。私の見るところ、これには理由があって、主人公の女性が起こす大胆な行動は、ネット社会においては SNS で瞬時にして世界に発信されるであろうところ、この映画の設定では、そんな要素があると邪魔になるからだ。彼女は警察を非難するために、ネットで情報を拡散させることはなく、ただその場所を通った人たちだけが認識する郊外の立て看板を利用する。狭い街ゆえ、それは人々の噂として拡散する。そこにはまた、田舎街の人々の Society のあり方が反映されるだろう。かくして主人公の女性は、常にファイティングポーズを取り、真犯人の追求とは異なる次元での、切実なる空回りを演じることになるのである。これは笑えない。だが決して陰鬱なものでもない。人生とは、そのような複雑な要素のアマルガムであるのだ。
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ある意味でこの映画は演劇の脚本のようなイメージを持つ。それもそのはず、この作品の監督マーティン・マクドナーはもともと英国の劇作家で、本作においても製作・脚本を兼ねているからだ。1970年生まれの 47歳だが、既に人生の年輪を刻み込んだような味のある顔をしている。これは只者ではないだろう。この人の戯曲は是非読んでみたいものだが、調べたところ、日本で翻訳は出ていないようだ。今後の出版に期待したい。
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このように、複雑な人間群像をもって骨太のストーリーを鮮やかに演出した素晴らしい映画であるゆえ、人間の真実について考えたい人にはお薦めである。そして、冒頭に書いた通り、この曲の開始部分と終結部分に流れる美しい歌は、私が手元の CD で確認したことには、フランスの作曲家ジョゼフ・カントルーブ (1879 - 1957) の歌曲集「オーベルニュの歌」から、「バイレロ」という曲。実は、鑑賞時にエンドタイトルを見て、歌っている歌手は確認できていた。それはルネ・フレミング。この「夏のなごりのバラ」というアンソロジーに含まれている録音だろうか。赤裸々な人間の姿を描いた映画の中で、見る人にカタルシスを与える音楽であり、本当に気の利いた劇中音楽になっていると思うのである。
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by yokohama7474 | 2018-03-22 23:54 | 映画 | Comments(2)  

アラビアの道 サウジアラビア王国の至宝 東京国立博物館

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東京にいると、まあそれは本当にあらゆる美術展に触れる機会があって、誠に興味尽きないとともに、いつどこでどんな展覧会が開かれているかに注意していないと、新たな美術分野との出会いを逃してしまうことがある。その点この展覧会などは、なかなか類似の企画がないものであるところ、大人気であった「仁和寺と御室派のみほとけ」展とかなり会期が重なる時期に、同じ東京国立博物館で開かれていたおかげで、「へー、こんなのやっているんだ」と気づくことができた。だが、その「仁和寺と御室派のみほとけ」展の記事で既に述べた通り、その展覧会に最初に出掛けたときには、混雑のために観覧に予想以上の時間を要したために、こちらの展覧会を見ることができなかった。それゆえ、会期中にもう一度現地を訪問し、二度目の仁和寺展とともに、この展覧会を堪能したのである。但し、同じ東京国立博物館での開催とはいっても、仁和寺展の方は平成館、こちらは表慶館での開催であった。
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題名のごとくこの展覧会は、アウジアラビアの歴史遺産を紹介するものである。イスラム教の聖地メッカを擁するサウジは、当然典型的なイスラム国家として我々は認識しているのであるが、だが、実はイスラム教以前からも文明はあったわけである。中東地域はヨーロッパとアジアの中間であり、盛んな交易が行われた場所。また、文明発祥の地という意味では、エジプトもメソポタミアも、この中東地域かその近隣で興ったものであるゆえ、当然といえば当然だが、現在サウジアラビアと呼ばれる地域には、古い文明が重層的に存在した。だが、どうやらこの地域で考古学的調査が本格的に行われ始めたのは、せいぜい過去 40年くらいらしく、その全体像はようやく最近知られ始めたばかりのようだ。この展覧会では、未知のイメージと既知のイメージがからみ合う興味深い展示物と出会うことができたのであるが、嬉しいことに、全作品撮影可能であった!! なので、以下はすべて、私が現地でスマホで撮影したものである。これが建物に入ってすぐのロビーの様子。真ん中に見える、まるでクッキーのように可愛らしい彫刻は、紀元前 3500 - 2500年頃という古い時代の人形石柱で、目と鼻があるだけでなく、襟があり、何やら剣やベルトのようなものも見える。
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これも同じ頃のもの。おぉ、この人は右手を曲げていて、首を傾けて哀しそうな顔をしているではないか。このようなモニュメントは大抵、遊牧民の墓か祭祀施設に作られたものであるらしい。そうするとこの表情は、死者を悼んでいるのだろうか。
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展示コーナーの最初の方には石器の破片なども沢山並んでいたが、ひときわ目を引いたのは、この馬の彫刻である。新石器時代、紀元前 6500年頃のものというから驚く。ちゃんと馬の形をしています (笑)。
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タイマーという大オアシス都市の遺跡があって、そこは交易の十字路であったらしい。そこにはメソポタミア文明の影響力が強かった時代があったらしく、このような遺品が発掘されている。紀元前 5-6世紀の柱の台座または祭壇であるが、ここでは明確な太陽神のイメージと聖なる牛が描かれていて、大変神秘的だ。
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これもタイマー出土の男性頭部だが、これは紀元前 4-2世紀のもの。目の周りに隈取りがあるのが見えるし、その髪型はエジプトのイメージにも通じる。
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さて次が、私がこの展覧会で最も興味深いと思ったもの。堂々たる巨大な石像が 3体、並んでいる。高さは、手間のものから順に、185cm、256cm、230cm。紀元前 4-3世紀のもので、ダーダーンというオアシス都市からの出土。
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このダーダーン (現在名はウラーというらしい) は、上記のタイマーのライヴァルであったらしく、ともに旧約聖書 (!) にその名が登場し、両者間の争いもあったという。いやそれにしてもこれらの物言わぬ彫像は、実に逞しい体躯をしているではないか。城門や建物の守護神であったのか、あるいは、神格化された王の肖像であったものか。もちろん、巨像ならエジプトにはさらにすごいものがあるとはいえ、この未知の素朴さは何か心に残るものがあり、想像力を掻き立ててやまないのである。そうそう、昔、古代文明が巨大ロボットを作っていたというアニメなどもあったでしょ。子供心にその設定には神秘感を抱いたが、オッサンになってもそのような神秘への憧れは変わらないのである (笑)。
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もちろんこのダーダーンには巨像だけでなく、小さな彫刻もあって、これらはやはり、紀元前 4-3世紀の男性頭部。副葬品なのであろうか。どこか古代エーゲ文明を継承している雰囲気すらないだろうか。
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そう、もちろん、ギリシャ・ローマ時代には、この地域もそれらの文明の影響下に置かれることになる。以下の 2点はフレスコ画。上は紀元前 1世紀頃の、葬送を描いたもの。下は紀元前 3 - 紀元後 3世紀の、なんと高層建築を描いた絵画。そんな時代に高層建築があったとは!!
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これもフレスコ画で、1-2世紀頃のもの。饗宴を描いているが、ギリシャのディオニュソス神の図像の影響が明らかだ。
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このような小さな彫刻群も、ギリシャ風に、時にエジプトの要素がミックスされている。右端はもちろんヘラクレス。その左の小さいものはキューピッドのようだが、ハルポクラテスといって、エジプトのホルス神の幼時の像がギリシャ化したもの。ということは、それこそがキューピッドの図像の源泉なのかもしれない。その左も同じハルポクラテスで、姿がギリシャ風であるものの (写真ではよく見えないが) 表情は東方的。そして左端は一風変わっているが、壺を頭に乗せた女性像で、全体の色合いはギリシャ風だが、その姿にはエジプトの要素も伺える。
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面白い混合ばかりなのだが、これも面白い。エジプトのイシス神とヘレニズム世界で信仰されたテュケーという女神の混合したもの。だがこれ、聖母子像の原型のようにも見えないだろうか。
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これも、一度見たらちょっと忘れないだろう。男性頭部で、制作は紀元前 1-紀元後 2世紀頃とされている。もちろんこれは、もともとピカソのように造形されたものではなく (笑)、青銅による等身大の人物像の頭部で、顔がひしゃげてしまっているもの。すごい存在感だ。
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これも同様の青銅の男性頭部で、こちらはちょっと錆びてしまっているが、1世紀頃のもの。素晴らしい造形であると思う。
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金細工も出土している。これはテル・アッザーイルという 1世紀の墓から出土した副葬品で、金のマスクにペンダント、ブレスレッドや手袋まである。埋葬されていたのは 6歳ほどの少女であったという。大変裕福な家庭の墓所ということだろうが、幼くして逝った我が子を悼んで、せめてきれいに飾ってあげようという 2000年前の親の思いが伝わってくる。
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また、これは同じ墓から出た葬送用ベッドの足。素晴らしい彫刻である。
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現代のアラブ地域ではもっぱらアラビア語が使用されているが、古代のアラビア半島には様々な言葉が存在したらしく、各地から碑文が発掘されている。このユニークな石碑は、新バビロニアの支配地で国際共通語として使われていたアラム文字によるもの (紀元前 5-4 世紀)。いや、それにしてもこのデザイン、なんともスタイリッシュではないか。どの時代にも、先鋭的な感覚を持った芸術家がいるものだ。
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展覧会にはまた、古代からの様々な器も展示されていたが、この 9世紀の彩色杯はどうだろう。織部とは言わないまでも、まるで近世の日本の茶碗のようではないですか!!
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それから、イスラム教徒にとっては実に貴重なお宝も展示されていた。これは 17世紀、オスマン・トルコのスルタンによって寄進された、メッカのカーバ神殿の扉である。1930年代まで実際に使われていなかったもの。
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このように、イスラム教以前の古代からのサウジアラビアの文明の遺品に出会うことのできる、大変に貴重な機会であった。かの地までこのような遺品を身に出掛けるということもなかなかできないし、これだけ興味深いものが一堂に会するのは、現地でもそうはないのではないか。仁和寺展の、いい意味での余波を受けて、多くの人たちがこの貴重な機会を堪能されたことと思います。今度から東博に出掛けるときには、複数の展覧会が開かれているか否かを確認してからにしたい。

by yokohama7474 | 2018-03-21 17:17 | 美術・旅行 | Comments(0)  

エリアフ・インバル指揮 東京都交響楽団 2018年 3月20日 東京文化会館

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東京都交響楽団 (通称「都響」) は今月初め、このブログでもご紹介した、音楽監督大野和士の指揮により、東京シティバレエ団の公演でチャイコフスキーの「白鳥の湖」を 3公演行った。その後は、都民芸術フェスティバルにて 1公演行ったのち、下旬に入って 3つのプログラムによる定期公演と、その 3つめの定期と同一演目による特別演奏会を開く。その、定期を含む 4公演を指揮するのは、このオケの桂冠指揮者、エリアフ・インバルである。
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マーラーをはじめ、ブルックナーやショスタコーヴィチの大曲を得意とするインバルは、我々にとって、過去 30年以上に亘る期間の様々な公演を通じて、既になじみの指揮者なのである。彼がプリンシパル・コンダクターを務めていた時代 (2008 - 14年) よりもさらにパワーアップしているのではないかと思われる今の都響を相手に、今回の 3プログラムでは、マーラー、ブルックナーこそないものの、自家薬籠中のレパートリーで、早春の東京の音楽シーンを熱く彩ってくれるであろう。そもそも、東京にいて実感できる世界指揮界の状況は、もちろん完全なものではないだろうが、それでも、いろいろとヒントを得ることができると思う。指揮者には長寿を全うする人が結構多いイメージだが、現代の最高齢指揮者は 1920年代生まれ。その世代をを見渡すと、異常に元気な1927年生まれのブロムシュテットを例外として、ハイティンク、ドホナーニ、プレヴィン という 1929年生まれの指揮者たちは (多分プレヴィン以外は未だ活躍しているのかもしれないが)、さすがに年を感じる状況である。その下の 1930年代生まれにはスター指揮者が多いのだが、既にマゼールとアバドが亡き人になっている。この世代では、(これも異常に元気な) 1932年生まれのフェドセーエフがいて、(こちらは頑張って欲しい) 1935年生まれの小澤征爾がいて、その 1つ下の 1936年生まれには、3人の名指揮者がいる。メータとデュトワと、そしてこのインバルである。このように見て来ると、今年 82歳になるインバルは、世界指揮界でもかなり長老の部類に入ることが分かるが、元気な点においては、上で「異常に元気」と書いた 2人 (と、残念ながら活動再開が見えない 1名) を除くと、メータと並ぶ存在と言えるのではないか。因みに今年の東京では、このインバルに加え、ブロムシュテットもメータも、聴くことができるのである。我々はなんと恵まれていることか。あ、それから、今調べて分かったことには、今年 7月にフェドセーエフは NHK 響を指揮するのだが、東京では公演がなく、なんと、九州での 5公演のみなのである!! 恐るべし。

そんなわけで、弱冠 (笑) 82歳のインバルと都響による演奏会。最初のプログラムは、以下の 1曲のみ。
 ショスタコーヴィチ : 交響曲第 7番ハ長調「レニングラード」

なるほど、インバル得意の大曲であり、これはやはり期待大なのである。この曲については、以前の記事でも書いたことがあるが、ナチス・ドイツによるレニングラード (現サンクト・ペテルブルク) 包囲中の 1942年に初演された。この悲惨なレニングラード包囲についても以前に記事にしたことがあるが、私自身、数年前にサンクト・ペテルブルクを実際に訪れてガイドからいろいろ話を聞いたことで興味を持ち、大部な書物も読んだものである。このように、この曲を聴くには未だに当時の戦争の状況を考えないわけにはいかないのだが、そろそろ純粋に音楽を楽しむという時代に入って行く必要があるかもしれない。だが、実はそのように考えた場合には、ショスタコーヴィチの曲の中には、本当に歴史に残る音楽だろうかといぶかられるものも含まれていて、ちょっと厄介である。この 7番の場合、いかにもこの作曲家らしい謎めいたメッセージ (第 1楽章の「戦争の主題」の奇妙な能天気ぶりを含め) もあって独特だし、また曲想そのものは、全曲が最初から最後まで必ずしも秀逸というわけではないと思う。それだけ曲の性格が複雑だと言えるだろう。インバルは、例えば彼のマーラーと同じく、曲のありのままの姿を聴衆の前にさらして、そのリアルさを追求するという姿勢で今回の演奏に臨んだ。今回も都響の芯のある音は全開で、いわば最初から最後まで、太い線の一筆書きのような雄渾な演奏であったと言えるのではないだろうか。彼の場合は、指揮ぶりも言ってしまえば単調で、何か特別なことをするではないのであるが、その凄みはますます増してきていると思う。大河のような流れの果てに大音響で全曲が終わったあと、かなり長い時間に思えたが、実際には 5秒くらいであったろうか、ほぼ満員の東京文化会館が静寂に包まれ、そして大きな拍手が沸き起こったのであった。終演後のカーテンコールでは、インバルもかなり上機嫌で楽員を起立させており、この百戦錬磨の名匠にして、それほど充実感溢れる演奏であったということだろう。このような演奏については、細部について語る気もしないし、語る必要もないだろう。今回のインバルと都響の組み合わせ、まずはそのような素晴らしい演奏で幕を開けた。残る 2つのコンサートが楽しみである。
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ところでこの写真は、独ソ戦において軍隊入りを志願したショスタコーヴィチが、義勇軍で消防団として働いていたときのものである。私の世代のクラシックファンは、ハイティンクによるこの「レニングラード」交響曲のジャケットに使われていたことを覚えているかもしれない。そこに掲載されていた柴田南雄の解説が滅法面白かったのだが、今回はそれを割愛し、この制服が妙に似合う (?) 神経質な作曲家の姿から、彼の思想をいろいろ想像してみるのも楽しいかもしれない。
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by yokohama7474 | 2018-03-21 02:03 | 音楽 (Live) | Comments(2)  

井上道義指揮 オーケストラ・アンサンブル金沢 (ピアノ : 反田恭平) 2018年 3月19日 サントリーホール

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オーケストラ・アンサンブル金沢 (OEK) は、その名の通り金沢を本拠地とする、日本を代表する室内管弦楽団である。以前も書いたと思うが、金沢は私が深く愛する情緒ある街であり、その文化都市にこんな優れた室内オケがあることは本当に素晴らしい。私は過去に東京で何度か OEK を聴いたほか、このオケを聴くためだけに新幹線で金沢との間を弾丸往復したことすらあることは、以前記事として採り上げた。1988年に設立され、初代音楽監督に岩城宏之を頂いて、設立当初から名門レーベル、ドイツ・グラモフォンと契約するなど、充実した活動を展開したが、2006年 6月に岩城が死去すると、2007年 1月からは井上道義が 2代目の音楽監督に就任。以来 11年間、両者は良好な関係を築いてきたのだが、実は彼は今シーズンで OEK の音楽監督を勇退。創立 30周年という秋からの新シーズンには、現代を代表する異才指揮者であるフランス人のマルク・ミンコフスキが新音楽監督に就任することは、以前も書いた。今回の井上と OEK の演奏会は、同じ曲目を 2日前に本拠地金沢で演奏したあと、東京で開かれたもの。音楽監督としての井上と OEK との、文字通り最後の共演となる。このブログで最近の井上の活動を可能な限り追いかけてきた私としては、これは是非とも聴いておく必要のある演奏会であった。曲目が大変興味深い。
 プーランク : オーバード (朝の歌) (ピアノ : 反田恭平)
 ハイドン : 交響曲第 6番ニ長調「朝」
      交響曲第 7番ハ長調「昼」
      交響曲第 8番ト長調「晩」

フランス近代のプーランクと、ウィーン古典派、交響曲の父と呼ばれるハイドンの初期の交響曲の組み合わせはユニークである。前半にプーランクが演奏され、休憩のあとハイドンの 3作が演奏された。まずそのプーランクであるが、ヨーロッパにおける両大戦間のモダニズム文化に高い関心を持つ私としては、この作曲家を含むフランス六人組は当然、大のお気に入りなのであるが、特にこのプーランクは、その小粋な音楽に、若い頃から魅せられてきたものである。この写真が、彼らと非常に近い存在であった詩人のジャン・コクトーと六人組の写真。1951年のものであるから、既にそれぞれが大家になってからのものである。ピアノに向かっているのがコクトーで、プーランクは後ろの列の右から 2番目。
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この「オーバード」も、ガブリエル・タッキーノとジョルジュ・プレートルの録音などで、私にとってはそれなりには親しみのある曲で、洒脱で小規模なピアノ協奏曲だということは知っていたが、その作曲の経緯は全く知らなかった。今回、演奏開始前に井上がマイクを持って舞台に登場して語ることには、自分もコンサートで、曲目を見ないで聴いてから、あとで解説を見て、「なんだそうだったのか。早く言ってよ」と思うことがよくあるので、演奏前に自分が解説する方がいいでしょう、とのこと。実は今回の曲目には、ある共通点があるという。それは、プーランクの「オーバード」は、芸術愛好家のパトロン貴族の委嘱によって書かれたもの。ハイドンの「朝」「昼」「晩」は、有名なエステルハージ家の宮廷に入った若きハイドンが作曲したもの。芸術にとってパトロンは欠かせないが、今回のコンサートも、スポンサー企業の存在によって可能になったことへの謝意が表明された。確認すると、今回のコンサートは、レンゴーという会社がスポンサーである。大阪に本拠地のある板紙や段ボールを製造・販売する会社で、実は「段ボール」という名称は、明治の頃にこの会社の創業者がつけたものであるという。さらにプログラムをよく読むと、OEK はこのレンゴーから、1714年作のストラディヴァリウスの名器「Lang」を貸与されており、コンサートマスターが使用しているとのこと。それは素晴らしいことである。

さて、「オーバード」に話を戻すと、この曲は「朝の歌」とも呼ばれ、「ピアノと 18楽器のための舞踊協奏曲」という副題がついている。今回井上が説明したことには、パトロン (ノアイユ子爵) から、パーティで上演する、ダンサー 1人によるバレエ音楽を委嘱され、プーランクが考案したのは、月の女神であり狩の女神でもあるディアナを主人公に、駆け回る動物たちや、ニンフたちとともに目覚めるディアナを描き、最後にディアナは女神としての孤独を覚えるというもの。いつもの通り軽妙な語り口と軽やかなダンス (もう 70を超えているのですけどね!!) による井上の解説のあと、ピアノの反田 (そりた) 恭平をソリストに迎えて演奏が始まった。
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反田は今年未だ 24歳になるという若手で、随分以前にこのブログでも、アンドレア・バッティストーニ指揮東京フィルとの共演を記事にしたことがある。明るい音色で表現力豊かなピアノを弾く人で、今回のプーランクも才気煥発、大変鮮やかな演奏を聴かせてくれた。なおこの曲は、「朝の歌」とは呼ばれるものの、朝というよりも、未だ月が残っている (ディアナが登場するわけなので) 明け方を舞台にしているとのこと。また、プログラムによると、「オーバード」とは、日本語でいうところの、男女の後朝の別れの際に歌う歌というイメージであるらしい。井上はここで指揮台も使わずに、オケと同じ高さの床に立って指揮をしていたが、この曲のオケの編成には、実はヴァイオリンが含まれていない。もちろん各楽器のクオリティは高かったが、後半にヴァイオリンが入ってきて、ちょっとびっくりすることとなる。それはあとで触れるとして、ともあれ反田はアンコールに、シューマンの歌曲集「ミルテの花」の中の「献呈」の、リストによる編曲版を弾き、これも抒情的でよい演奏だった。但し、これはわざとなのだろうか、旋律線が、過度な情緒によってというべきか (?)、少し崩れているようにも聴こえた。私個人の好みでは、さらにくっきりと旋律が聞こえてきて欲しかったような気もした。

さて、後半のハイドン初期の 3曲でも、それぞれの曲の前で井上の解説が入った。エステルハージ宮廷の副楽長に就任した 29歳のハイドンが、1日の 3つの時間帯をテーマに書いた連作である (プログラムの解説によると、実は 4部作だったという説もある由)。例によって身振り手振りを交えて大変楽しい解説ぶりであったが、この 3曲、いや実に見事な演奏であった。私はハイドンが大好きで、番号つきだけで 104曲を数える彼の交響曲の全集を、ドラティ盤とアダム・フィッシャー盤の 2種類所有しており、前者は、随分以前だが、全 33枚をすべて聴いた (因みにハイドンは、ほかに弦楽四重奏曲とピアノ・ソナタも、各全集を踏破した)。また、こんな本も手元にあって、時々開いて見ている。各曲の解説は簡単ではあるが、ともすると数の多さに目がくらんでしまいそうになるハイドンのシンフォニーの、特にマイナーな曲に対してイメージを持つには、なかなかよい本である。
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だがまあ、お勉強はさておいて、喜悦感溢れる演奏でないと意味がないハイドンのシンフォニー、生で聴いて満足するのは意外と少ないことである。まずは弦楽器のニュアンスと、合いの手を入れる、いや時には喜々としてソロを取る管楽器の自発性が、高い次元で結びつかないといけない。その点、さすが井上と OEK、どの曲も表現力豊かで余裕のある仕上がりであった。弦楽器は、第 1ヴァイオリンと第 2ヴァイオリンを対抗配置とし、サイズは、第 1ヴァイオリン 8、第 2ヴァイオリン 6、ヴィオラ 4、チェロ 4、コントラバス 2。さてここで見事であったのは、コンサートマスターだ。このような大柄な女性で、その名をアビゲイル・ヤングという英国人。彼女が手に持つ楽器が、例の Lang であろうか?
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この人のソロは、その勢い、緩急、存在感、物理的な音量の幅、表現力の豊かさ、どれをとっても極上で、しかも、オケのリーダーとしての資質も充分。彼女に先導されて、全弦楽器が大きく共鳴して響き渡っているように聞こえた。岩城時代からのコンマスであるようだが、このような人をずっと中心メンバーとして持っている OEK は、素晴らしい団体であるわけである。「朝」「昼」「晩」のいずれも見事な演奏で、井上も、いつものように時にわざとだらけて、また時には強く集中して、曲想の変化を描き切った感がある。ただ、「晩」の最終楽章 (嵐の描写) の前に、「僕がやめるとなるとなぜか話が来るんです。次は嵐」とコメントしたが、一体どういう意味だったのだろうか。そこは謎だったが、ともあれ、大きな充実感を持って演奏が終わると、楽員から花束を贈呈された井上は、このようなふざけた格好で受領 (この写真は金沢での公演時のものをお借りしました)。
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そしてアンコール。井上が語るには、「ここはサントリーホールで、ほかのホールのことを喋るのは気が引けるけど、東京オペラシティのコンサートホールは、タケミツ・メモリアル。これは、皆さんご存じだと嬉しいんだけど、作曲家の武満徹さんに因んだものです。この武満さんの『ワルツ』を演奏します。この曲を演奏させたら、僕とアンサンブル金沢は、世界のどのオケよりもうまいんで」と。そして始まった、これも私が大好きな映画「他人の顔」のワルツは、これはもう、情感を込め過ぎてすすり泣きのように響く音楽。普通はもっと淡々と流す演奏が多いと思うが、これだけ思い切った表情をつけると、もともと退廃的なドイツ・ワルツであるから、それはそれはノスタルジックな響きが立ち昇り、旋律すら揺れてしまっていた (あ、ということは、前半の反田のアンコールは、このスタイルを先取りしたものだったのか!!)。私の隣の席の女性など、感極まってついに涙を拭き始めたが、そこは井上のこと、最後の和音とともに上着を脱ぐと、両袖に違う色の水玉模様をあしらい、背中にはカラフルな模様のついた、ド派手なシャツで、聴衆を爆笑せしめたのである。そんなおちゃらけで感傷を排除する井上も、今回がこのオケとのお別れということで、全楽員と握手する際には、さすがに感慨深げな顔をしていたのであった。

考えてみると、私がこの指揮者をテレビ番組「オーケストラがやってきた」で初めて知ってから、既に 40年ほど経っているであろうか。彼の活動は、近年いよいよ充実して来ていることを実感する。上で、ハイドンの交響曲の上質な演奏は難しいと書いたが、日本のオケで、そのハイドンの交響曲全曲演奏という偉業を達成したところがある。それは新日本フィルなのだが、その頃のこのオケの音楽監督が、ほかならぬこの井上道義であったのだ。例えばこれは、そのシリーズの第2回、1988年 (奇しくも今から 30年前、OEK 設立の年だ)2月14日に、当時お茶の水にあったカザルス・ホールのオープニング記念シリーズの一環として行われたコンサートのプログラム。このときは交響曲第 4・5・6番。つまり、3曲目は、今回も演奏された「朝」である。
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もちろん 30年前の演奏をつぶさに覚えているわけではないが、その音楽の自在度において、今回は前回を遥かに上回っていることは確かだろう。だが、今日の彼の演奏があるのは、そのようにコツコツ積み上げてきた彼のこれまでのキャリアがあるからだろうし、また、今こうして彼の音楽に感動している私の脳か心臓のどこかに、そのとき聴いた音の断片が未だに残っているものだと思う。だから、ある音楽家を聴き続けることは本当に大事だし、聴衆ひとりひとりのそのような音楽経験の重なりが、東京の文化の発展に寄与するのだろう。既に昨年大阪フィルの首席指揮者を退任し、今年また OEK をやめると、一旦どのポストからもフリーになるようであるが、さて、彼はこれからどこに向かって行くのだろう。そんなことを思うミッチー・ファンに、とびっきりの朗報がひとつ。今回の演奏会で配られた単色刷りの速報チラシに、彼が読売日本響と、なんとマーラーの超大作、交響曲第 8番「千人の交響曲」を指揮すると発表されている!! 期日は今年の 10月 3日 (水)。会場は東京芸術劇場。彼のこの曲は、数年前に名古屋でアマチュア・オケの混成部隊を指揮した演奏を聴いたことがあるが、正直、残念ながらあまり出来はよくなかった。今回こそ、この超ド級のシンフォニーの神髄に迫ってくれることだろう。期待しております!!

by yokohama7474 | 2018-03-20 00:48 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

小澤征爾音楽塾 ラヴェル : 歌劇「子どもと魔法」/ プッチーニ : 歌劇「ジャンニ・スキッキ」(指揮 : デリック・イノウエ & ジョセフ・コラネリ) 2018年 3月18日 ロームシアター京都

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過去 2回の公演、すなわち 2016年の「こうもり」と 2017年の「カルメン」をこのブログでもご紹介してきた小澤征爾音楽塾のオペラ・プロジェクトは、日本だけでなく中国や韓国からも選ばれて参加する若者たちのオーケストラが、プロの奏者の指導を仰ぎながら、国内外から集まるプロの歌手たちの伴奏として、オペラを演奏するというもの。2000年に始まり、今回がその第 16弾。今回は 1時間前後の短いオペラが 2本、すなわち、ラヴェルの「子どもと魔法」とプッチーニの「ジャンニ・スキッキ」が上演される。今回私は、東京公演の日程には既に予定が入っているので、日曜日に京都までこの上演を見に行くこととした。このプロジェクトのスポンサーであるロームは京都の企業であり、そのロームが近年、もともとあった京都会館という収容人員 2,000人ほどのホールを改修し、ロームシアター京都と改名、2016年からはこの小澤征爾音楽塾のオペラ公演は必ずこのホールで 2回、東京と名古屋で各 1回ずつ、計 4公演ということになっている。もともとの建物の設計者は、ル・コルビュジェの弟子で、東京文化会館などの設計で知られる前川國男である。私としては今回が初めての訪問だ。
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だが、内容に触れる前に書いておかなくてはならないことには、肝心の主役であるマエストロ小澤は、3月 2日に医師から大動脈弁狭窄症と診断され、1ヶ月の入院治療を行うこととなったため、予定していた「子どもと魔法」の指揮から降板することが、既に発表されている。これはもちろん、どの聴衆にとっても残念なことであり、チケットの払い戻しがないことに対する不満の声も聞いたことがあるが、だが、病気とあれば致し方ないし、プロジェクト全体は既に小澤の意向によって動いてきたはずだから、誰の指揮であっても、その成果に期待しながら、マエストロの復帰を待つというのが、ファンたるものの務めだと思う。ただ、主催者側も今回は気を遣って、通常 2,000円もする公演プログラムを無料配布するほか、このような小澤の手書きのメモのコピーまでが会場で手渡された。さすがにここまでされれば、怒る人もいないだろう。なによりも、降板をいちばん悔しがっているのはマエストロ自身であることが、分かろうというものではないか。
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本来小澤が指揮するはずであったラヴェルの「子どもと魔法」は、小澤にとっては、キャリアのごく初期に指揮したオペラのひとつ。1979年にパリ・オペラ座でのことであった (因みに同時上演はストラヴィンスキーの「エディプス王」)。また近年では、この音楽塾でも 2015年に、今回と同じデヴィッド・ニースの演出で採り上げているほか、サイトウ・キネン・フェスティバル松本 (現・セイジ・オザワ松本フェスティバル) でも 2013年に指揮して、そのライヴ盤がグラミー賞を受賞したのも記憶に新しい。それから今年の 1月には、久しぶりにベルリン・フィルの定期に登場してこの曲を振る予定であったが、そのときも体調不良で果たせず、フィンランド人指揮者ミッコ・フランクが代役として指揮した。そのように、小澤にとっては思い入れの深い曲であるには違いないが、もうひとつ現実的な要因としては、非常に精緻にできている作品なので、大きな身振りが必要なく、体力的にも無理がないということもあるのだろう。さて、今回の 2演目、「子どもと魔法」「ジャンニ・スキッキ」の順に上演されたが、前半の「子どもと魔法」で小澤の代役として指揮を採ったのは、デリック・イノウエ。1956年生まれの日系カナダ人である。
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私は随分以前に新日本フィルを指揮するのを聴いた記憶があり、その手腕は信頼できるという印象である。今回も、小澤の急な降板によって急遽カナダから呼び出されたわけではなく、プログラムを見ると、もともとこの演目と「ジャンニ・スキッキ」の双方で副指揮者としてクレジットされているので、プロジェクトの準備段階から深く関わってきたのであろう。その意味では、代役としては最適の人物であったと思う。実際彼の指揮には安定感があり、硬質な木管の音から軽快な曲調や諧謔味、そして最後に少年が「ママ」という魔法の言葉 (コレットのよくできた台本のテーマはこれだろう) を呟くに至る精緻な抒情感まで、このオペラの雰囲気をうまく引き出していたと思う。若者たちのオケの紡ぎ出す音には、よい面もあれば課題もあったと思うが、それでこそ音楽塾の公演である。いつも思うことだが、このようなかたちでオペラの上演に関わることのできる若者たちは、素晴らしい体験をしていることは間違いないだろうし、それが日本を含む東アジア地域での今後の音楽面でのさらなる発展を促すことになれば、それこそ小澤が心血を注いできたこのプロジェクトには大いに意味があるということだろう。それから、この「子どもと魔法」の歌手陣であるが、まぁ、曲の性格上、朗々たるアリアがあるわけではなく、目が覚めるような名唱が聴かれるということではなかったにせよ、少年役のエミリー・フォンズ、母親役 (兼、中国茶碗とトンボ) のマリアンヌ・コルネッティをはじめ、そつなくこなしていた。

後半は、前半の子供が主人公のファンタジーとは全く対照的な、大人たちがエゴ剥き出しでいがみ合うコメディ、プッチーニの「ジャンニ・スキッキ」。これは今からちょうど 100年前、1918年にメトロポリタン歌劇場で初演された彼の三部作の中のひとつ (ほかには「外套」と「修道女アンジェリカ」) であるが、ソプラノの有名なアリア「私のお父さん」(あるいは「お父様にお願い」ともいう) によって、そしてまた、古都フィレンツェを舞台に展開するその才気煥発なストーリーによって、広く知られている。富豪が死去して、集まった家族たちは、遺産がそのままでは修道院に寄付されてしまうのをよしとせず、知恵者であるジャンニ・スキッキという人物に相談。彼はそれを見事に解決し、そして自分がちゃっかり最も価値ある遺産を手にする、というブラックな内容。これは本当によくできたコメディで、笑いの中に人間心理の彩をよく描き、音の流れに乗せている。このオペラには疾走する部分もあれば、結構な音量でオケが鳴る場面もあるので、残念ながら今の小澤では指揮するのが難しいのかもしれないが、実は私は幸運なことに、彼の指揮によるこのオペラの実演を聴いている。それは 2004年 3月、パリ・オペラ座 (通常オペラ公演が行われるバスティーユ・オペラではなく、あの美麗な建物、ガルニエ宮であった) にて。小澤が「子どもと魔法」を最初に指揮した場所だが、私の聴いた「ジャンニ・スキッキ」は、ラヴェルのもうひとつのオペラ「スペインの時」との組み合わせで上演された。両曲とも、譜面台はあってもスコアすら置いていない、完全暗譜による公演であったことを鮮やかに覚えている。
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やはりこの小澤征爾音楽塾は、今や自身で振ることが叶わぬにせよ、小澤自身が実際に指揮した経験のある作品が対象に選ばれているようである。今回その「ジャンニ・スキッキ」を指揮したのは、ジョセフ・コラネリ。生年は調べても判明しなかったが、ニュージャージー出身で、かつてはニューヨーク・シティ・オペラ (今はもうなくなってしまったが) の指揮者を務め、1998年からは MET にも頻繁に出ているらしい。
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初めて聴くこの指揮者であったが、その指揮ぶりはかなり練達のもので、多くの登場人物が入り乱れる慌ただしさの中、巧まぬユーモアが随所に聴かれるこの難しいオペラを鮮やかに捌き、オケも自発性溢れる音でそれに応えていた。歌手陣 (主役はロベルト・ディ・カンディア、娘ラウレッタはサラ・タッカー) は、経歴を見ると、やはり MET をはじめ各地で活躍する人たちばかりで、安定したレヴェルであったが、その一方で、飛び抜けた存在もいないように思われた。だがそれは、オペラの世界全般に言えることかもしれず、それをもってこの公演に満足しなかったとまでは言うつもりはありません。このデイヴィッド・ニースの演出は、(「子どもと魔法」とは異なり) 今回は新演出のようだが、作品の持ち味をうまく使って、さほど過激にならずにまとめあげた、彼らしいものであった。ただ、亡くなったブオーゾ・ドナーティの死体にダンスをさせるところは、彼にしては結構ブラックだったかも (笑)。

会場には、これまでの小澤征爾音楽塾の歩みを示すパネル展示があって、感慨深く見入ってしまった。
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今回の小澤の入院は 1ヶ月ということで、5月に予定されるマルタ・アルゲリッチとの水戸及び別府での共演 (ベートーヴェンのピアノ協奏曲 2番) までには復帰してくれることを切に願いたい。それから、例によって最新情報に疎い私は、今年のセイジ・オザワ松本フェスティバルの演目が発表になっているのも、今になって知った。小澤はベートーヴェンの 5番を 3回指揮するが、それぞれの演奏会でのそれ以外の曲は、指揮者なしが 1回、秋山和慶指揮が 1回、ディエゴ・マテウス指揮が 1回となっている。また、オペラ公演は、今回「子どもと魔法」を指揮したデリック・イノウエが、今度は「ジャンニ・スキッキ」を振る予定である。小澤征爾という求心力が、日本の音楽文化をますます発展させていることは、前日の新日本フィルの演奏会で、タン・ドゥンからも彼の名が出たことでも分かる。まずは焦らずに治療に専念して頂き、またその姿を聴衆の前に見せて頂くことを心待ちにしております。

by yokohama7474 | 2018-03-19 00:40 | 音楽 (Live) | Comments(4)