川沿いのラプソディ


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ピエタリ・インキネン指揮 日本フィル 2018年 4月27日 サントリーホール

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日本フィルハーモニー交響楽団 (通称「日フィル」) の今月の定期は、首席指揮者ピエタリ・インキネンの登場である。曲目は大変興味深く、オール・ワーグナーである。
 歌劇「タンホイザー」序曲
 歌劇「ローエングリン」から第 1幕、第 3幕への前奏曲
 言葉のない「指環」(マゼール編)

このインキネン、日フィルの首席指揮者として、9月でまる 2年になるし、その前は首席客演指揮者であったので、日フィルとの共演はますます深くなっているわけであるが、その彼がこのオケで採り上げてるレパートリーとして、ワーグナーはひとつの柱になっているようである。このブログでも既に、昨年 5月の「ラインの黄金」演奏会形式上演を記事として採り上げたことがある。だが今回の曲目は、ひとつのオペラ作品を通しで演奏するのとはまた違った難易度のあるものではないか。最初に置かれた「タンホイザー」序曲は、オペラの序曲としては異例に長い 15分ほどの曲である上、そのうねり上がる高揚感は並大抵のものではないし、「ローエングリン」の第 1幕の前奏曲にはキラキラした繊細な音が必要である一方、第 3幕への前奏曲には輝かしい爆発力が必要。そして、休憩を挟んで演奏されるのは、あの超大作「ニーベルングの指環」の抜粋で、休みなしの70分である。うーん、やはりきつい。「言葉のない『指環』」については、あとで述べる通り、編曲者のロリン・マゼール自身が 2012年に NHK 響で演奏したときは、それだけで当日のプログラムのすべてであった。なので、今回の曲目構成は多少強行軍であっても、それだけ、インキネンがこのオケにワーグナーを演奏させたいという意欲が強いということだろうか。
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彼の経歴を見ると、既に 2013年と 2016年にメルボルンで「指環」4部作を指揮しているほか、NAXOS レーベルのサイトにおけるインタビューでは、その年はワーグナー生誕 200年で (ということは、2013年だ)、パレルモのマッシモ劇場でも「指環」を指揮しているとある。な、なんということ。パレルモは言うまでもなくシチリアの都市で、あの「ゴッドファーザーパートIII」のクライマックスのロケ地として大変有名だし、実はワーグナー自身が、1881年から82年頃らしいが、この街に滞在していたことがある (ルノワールによる肖像画も、ここで描かれたらしい)。のみならず、グランドホテル・ワグネルなる、この作曲家に因んだ名を持つホテルのバーは、なんとなんと、あのヴィスコンティの「山猫」で撮影に使われたとのこと。うーん、無性に行ってみたくなってきたぞ、パレルモ。これが、若き日のルノワールが描いたワーグナー。
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例によって脱線しまくっていますが、ともあれ今回の演奏、ワーグナーに情熱を傾けるインキネンの思いは伝わってきたのだが、正直なところ私には、第一級のワーグナー演奏というには少し課題があるように思われた。まず全般的なことで申し上げると、これまでもインキネンの演奏会の感想で書いたきた通り、この指揮者は、強烈な音の威力で聴衆を圧倒するというタイプではなく、まずレパートリーとしてワーグナーに対する適性があるのか否かという疑問を、まず抑えることができない。それから、日フィルも、好調時には素晴らしい演奏をすることはよく知っているつもりであるが、やはり、今回のような演奏会には必要であろう、ワーグナー作品の全曲演奏の経験という点では、東京のほかのいくつかのオケと比べて、ハンディがあるように思う。例えば「タンホイザー」序曲は、15分の中に様々な要素が詰め込まれていて、そこにはこのオペラのテーマである、宗教性と官能性の対立といういかにもワーグナーらしいテーマもある。これは何より怪しい音楽であるがゆえに、華麗に、かつ強く演奏して欲しい曲。とにかく壮絶な音楽に至るラストは、美感が吹っ飛ぶくらいの、鳥肌立つ迫力で聴きたいものである。日フィルの金管は頑張っていたが、弦にはもっともっとうねり上がるしつこさが欲しいものだと思った。次の「ローエングリン」第 1幕前奏曲は美しい演奏で、名コンサートマスターである木野雅之のソロも素晴らしい。だが第 3幕への前奏曲では、やはりもっとぶっ飛ばすような力が欲しいと思ったものだ。ある意味で予想通りとも言えるのだが、ピンキネンの指揮の持つ美感は、ワーグナーの暴力的な部分とは少し距離があるというイメージを、今回も変えることができなかった。

後半は、超大作「ニーベルングの指環」4部作の音楽のダイジェスト版である、「言葉のない『指環』」である。これは、名指揮者として知られたロリン・マゼール (1930 - 2014) が 1987年に編曲し、ベルリン・フィルと初演・録音したヴァージョンだ。
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マゼールについては、クラシックファンは当然よくご存じなので、詳細をここで記すのはやめておくが、私がクラシックを聴き始めた頃には中堅どころのトップ指揮者のひとりとして活躍していて、そのまま、死ぬまでトップのひとりにい続けた人だ。とにかく何でもできる人だったし、若干奇をてらう癖の強いところもあったので、嫌う人も結構いたものだ。私にとっても、決して常に大好きな指揮者であったとは言えないものの、素晴らしい演奏を何度も聴いたものだし、冷静に考えてみると、やはりとてつもなく偉大な指揮者だったのだと実感できる、そんな人である。老年に至ってから突然作曲を始め、管弦楽曲や協奏曲、あるいはオペラ (ジョージ・オーウェル原作の「1964」をオペラ化したものを、私は作曲者自身の指揮でミラノ・スカラ座で見たこともある) まで、様々な作品を書いて、それらは結構面白いのである。この編曲も、いわば作曲活動の変形のようなものではないか。先日、パーヴォ・ヤルヴィと N 響が、やはりこの「指環」の抜粋を演奏したが、それは原作通りの曲順ではなかった。だがこのマゼール版は、忠実に原作の順番に従って音楽を抽出したもの。ちょっとふざけて言ってしまえば、長い映画のヴィデオを早送りしながら、いいシーンだけ見ては飛ばし、見ては飛ばししている、そんな感じである (笑)。「歌のない『指環』」とはよい題名で、ここでは歌手は登場せず、管弦楽曲として演奏される (一部、本来歌がついている箇所で、楽器で人の声を代用している)。もちろん、この 4部作における主要な管弦楽曲は、ほとんど網羅されているばかりか、通常は演奏会でオケによって演奏されることのない曲も含まれている。ただ私としては、「ヴァルハラ城への神々の入場」が含まれていないことと、「ワルキューレ」第 1幕の前奏曲が、壮絶な盛り上がり (ティンパニが雷を模して轟く箇所) の後からしか入っていないことが、残念と言えば残念であった。この 2曲は、いわば連続しているわけだから、その部分、合計 15分くらいを足してくれてもよかったのに、と思う次第 (笑)。さてこの演奏には、充実感と課題の双方を感じることになった。迫力という意味では、ここでも多くの箇所で金管は頑張っていたし、様々に活躍する木管陣も立派、ティンパニも万全。加えて、ソロ奏者の辻本玲を中心とするチェロの音の、素晴らしく充実していたこと!! だがその一方で、これだけ情景が移り変わる中での、大きな流れのようなものが、時に感じられなかったのはどういうわけか。前述のようなインキネンの豊富な「指環」経験を思うと、この曲は充分手の内に入っているはずだが、さらに強い集中力と前進力が欲しいと思った瞬間が、何度かあったように思う。大変負担の重いレパートリーであるがゆえに、このオケのオペラの演奏経験が増えてくれば、さらに音が練れてくるのかもしれない。2012年10月にマゼール自身が N 響でこの曲を演奏したときには私も聴いたが、詳細は既に忘れてしまったものの、マゼールらしい強い表現力に感動した記憶は残っている。インキネンと日フィルが、今後また違った個性によって、人々にさらに大きな感動を与えてくれることを期待しております。

さて、最後にまた、川沿い脱線タイム。マゼールはとにかく膨大なレパートリーを誇った人であったが、この「指環」全曲の録音は残していない。と思ったら間違いで、実は 1968年にバイロイトで行った演奏が、日本では新潮社のオペラブックの附属 CD (14枚組) として発売されたことがある。1997年のこと。
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私は新潮社のオペラブックは何冊か持っていて、必ず貴重なライヴ CD がついているのが有難かったが、この「指環」は、セット物で値段が高かったのと、どうせ録音が悪いだろうと思ったことで、結局購入しなかった。今では入手困難になってしまったが、機会があれば探してみたい。マゼールは 1960年に、「ローエングリン」を振って史上最年少の 30歳でバイロイトにデビューした人。その 8年後に「指環」ツィクルスを任されるという躍進ぶりであったわけだ。当時マゼール 38歳。ちょうど今のインキネン (37歳) と同世代であったということになる。今から半世紀前のこの録音を聴くことができる日が来れば、そんなことも考えながら聴いてみたい。そして、インキネンの次のコンサートにも期待しよう。

by yokohama7474 | 2018-04-28 00:33 | 音楽 (Live) | Comments(0)

ヘルベルト・ブロムシュテット指揮 NHK 交響楽団 2018年 4月26日 サントリーホール

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90歳の巨匠、ヘルベルト・ブロムシュテットと NHK 交響楽団 (通称「N 響」) との顔合わせによる定期公演の 3演目め。今月の定期公演のテーマであるベートーヴェンの作品による演奏会で、曲目は以下の通り。
 ベートーヴェン : 交響曲第 8番ヘ長調作品93
 ベートーヴェン : 交響曲第 7番イ長調作品92

ここで思い出してみたいのは、前回のこのコンビによる演奏会の曲目は、ピアノのマリア・ジョアン・ピリスを迎えて、同じベートーヴェンのピアノ協奏曲第 4番作品58と、交響曲第 4番作品60であった。その演奏会の記事に書いた通り、この 2曲は作品番号が 2つしか違わず、しかも 1807 年の同じ演奏会で初演されている。そして今回の 2曲も、連続した作品番号から分かる通り、ほぼ同時期に書かれたものであり、初演は 1年違い (7番が 1813年、8番が 1814年。そう言えば前者は、戦争交響曲「ウェリントンの勝利」と同じ演奏会で初演されたことは有名で、ということはつまり、ナポレオン率いるフランス軍が英国軍に敗れた直後の頃である)。今回の演奏会で、番号の若い 7番が後に来ている理由は、ひとえにコンサートのトリを飾る盛り上がりは、なんと言っても 7番の方が 8番よりも上であるからだろう。
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音楽ファンはもちろんこの 2曲を熟知しているのであるが、西洋音楽史上抜群の人気曲である 7番に比べて 8番は多少地味な印象があることは事実であるものの、だがその 8番も、実は偉大なる交響曲なのであるということもまた事実なのである。序奏なしにいきなり流れ出す勢いのよい旋律は極めて印象的だし、曲想の鮮やかな変化はワクワクするようなものであり、時にはポコポコというとぼけた味わいがあるかと思うと、盛り上がってくると滝のように音が次々と押し寄せてくる。第 2楽章は当時発明されたばかりのメトロノームへの皮肉のようであり、牧歌的なトリオを持つ緩やかな舞曲である第 3楽章も、そして、仕掛けとユーモアあふれる第 4楽章 (私は随分以前に学生オケでこの曲を聴いたとき、終結部でティンパニが忙しく叩いた挙句、バチがヒューンと飛んで行ったのを見たことがあり、まさにこの曲のユーモアを体現した演奏と聴いたものだ。笑) も、楽しい。本当の意味での緩徐楽章がなく、リズムが重要な意味を持つという意味では、この 8番は 7番と共通点があり、それゆえこの 2曲を続けて聴くことには意味があると思うのである。

さて、今回の演奏を表現してみると、90歳という年齢が信じられないような活力溢れる演奏と言ってもよいかもしれないが、私としてはそれよりも、巨匠指揮者が、その実年齢はともかく、長い時間をかけて追求して来たベートーヴェンとの対峙方法に、N 響が素晴らしい反応を示した演奏であったと表現したい。編成は予想通りコントラバス 6本で、木管楽器もスコアの指定通り。そして、いつものようにヴァイオリンの左右対抗配置を取り、指揮棒なし、椅子を使わずに立ったままでの、暗譜による指揮であった。今回の 8番と 7番の演奏には共通点があり、それは、いずれも第 1楽章の (と、7番では終楽章も) 反復を励行していたことと、第 1楽章と第 2楽章を続けて演奏していたことだ。このことによって、この 2曲の共通点と相違点が浮き彫りになっていたような気がする。驚くべきはそのテンポで、実にきびきびとしたもの。特に 8番はかなり速めのテンポであり、老齢の指揮者のリズムやテンポが硬直することはむしろ当然であることを思うと、驚異的なことであると言ってよいだろう。8番はここで、古典的なフォームを保ちながらも、ベートーヴェンの音楽の持つ人間くささを明らかにしていたとするなら、7番の方は、よくあるバリバリと弾き飛ばす演奏ではなかったがゆえに、音楽の起伏がよく見える演奏になっていたと考えたい。あるいは、8番の音楽にユーモラスさとともに凶暴さもあることを感じる一方で、7番にはリズムだけでは表しきれない音楽の劇性を認識した、と申し上げようか。そこには、N 響の高い技量が活かされていたことを忘れてはならない。象徴的であったのは 7番の終楽章で、もちろんここではヴァイオリンの対抗配置は著しい効果を上げていたのだが、コンサートマスターを務めた篠崎史紀以下の弦楽器奏者たちは、熱狂に浮かれて音楽にのめり込むというよりは、極めてプロフェッショナルに、またクールに、お互いによく聴きあいながら、音を捌くという印象であった。それによって、この楽章がただリズミカルに熱狂するだけの音楽ではなく、低弦のオスティナートが練り上がって行くことで、音そのもののドラマが生まれるのだということを再認識することになった。ブロムシュテットの取っているスタイルは、昨今の古楽器演奏の成果を反映していることは確実で、例えば速いテンポなどはその表れだろうが、大事なことは、その音楽が説得力をもって聴衆に感動を与えるか否かである。今回の音楽は間違いなく感動的であった。東京でこのようなヨーロッパ音楽の神髄を聴くことができるとは、我々はなんと恵まれていることだろうか。

このブロムシュテットは、最近もライプツィヒ・ゲヴァントハウス管とベートーヴェン全集を録音しているが、私などは若い頃、名盤とされていたシュターツカペレ・ドレスデンとの全集 (1975 - 1980年録音だから、未だ東ドイツ時代である) を聴いていたものだ。ふと思い立ってその CD を引っ張り出してきて、7番と 8番を少し聴いてみると、それは今回の演奏とは全く違うスタイルの演奏で、決して重々しすぎることはないが、やはり旧来のドイツ的な音楽という表現で呼びたくなるもの。少なくとも 8番のテンポは今回の演奏よりも遅いし、7番の第 1楽章提示部の反復は省略している。それゆえ今回の演奏は、この名指揮者のベートーヴェン探訪の成果であると思うのであるが、だが音楽の面白いところは、かといってこの古い全集の価値が減じたかと言えば決してそうではなく、これはこれでやはり、優れた演奏なのである。この 5枚組の CD、3,000円ほどで手に入る。なんと有難いことだろう。
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さて、今回のブロムシュテットと N 響の一連の演奏は、今回と同じプログラムによる 4/29 (日) のオーチャードホール定期で終了であるが、ふと思い出したことがある。そう言えば、N 響とバンベルク交響楽団の共同企画で、ブロムシュテットのベートーヴェンの交響曲ツィクルスが進行中という情報が、以前あったはずだ。記事に書いた記憶があったので、今回調べてみた。2016年11月 4日の記事 (バンベルク響との「田園」その他のプログラム) から、一部抜粋しよう。

QUOTE
因みにプログラムによると、バンベルク響とN響の共同で東京においてベートーヴェンの交響曲ツィクルスが進行中とあり、なに、そんな話聞いていないなと思いながら、近年(2010年以降)のブロムシュテットの東京でのベートーヴェン演奏を、ちょっと調べてみた。尚、N響に関しては定期演奏会だけしか調べていないので、それ以外のコンサートで演奏されている場合はここから抜けていることになる。
 2010年 : 3番(N響)
 2011年 : なし(N響への登壇はあり)
 2012年 : 3番、7番(バンベルク響) (N響への登壇はなし)
 2013年 : なし(N響への登壇はあり)
 2014年 : なし(N響への登壇はあり)
 2015年 : 1番、2番、3番(N響)
 2016年 : 5番、6番(バンベルク響)、9番(N響、12月の予定)
ツィクルスの始まりがいつであるのか分からないが、仮に前回のバンベルク響の来日公演の2012年とすると、残るは4番と8番だけとなる。3番「英雄」だけは、既に3回演奏されているのだが。
UNQUOTE

なるほど、今回ブロムシュテットと N 響は、4番も 8番も演奏したので、これでツィクルス完了である。誠にご苦労様でした。そのブロムシュテット、今年はまた 10月に、ということはわずか半年後だが、N 響の指揮台に帰ってくる予定である。10月のプログラムにはブルックナー 9番やマーラー「巨人」というヘヴィーな作品も入っていて期待されるが、実はベートーヴェンも、6番「田園」が含まれている。あ、ちょっと待て。上のリストをよく見てみよう。この中で N 響ではなくバンベルク響が演奏していたのは、5・6・7番である。今回彼らは 7番を演奏し、10月に 6番を演奏すると、あとは 5番さえ演奏すれば、N 響単独で、ブロムシュテットとのベートーヴェン交響曲の全曲演奏が達成されることになるのである。・・・と書きながら、実は私は知っている。ブロムシュテットと N 響、既に度かベートーヴェン 5番を演奏していることを。一度は、先にご紹介した、ピリスとの共演によるモーツァルトのピアノ協奏曲第 17番が演奏された 1992年11月。その後も、手元ですぐ分かるところでは、1996年 9月に演奏している。ついでに言うならば、今回演奏された 7番や 8番も、過去に演奏歴がある。だが、上記に見た通り、彼は近年ベートーヴェン演奏のスタイルを変えてきているわけで、そのような長年の探求の末に辿り着いたスタイルでの全曲演奏には、やはり大きな意味があると思う次第。この巨匠が、これからもまだまだ東京で素晴らしい音楽を聴かせてくれることを、願ってやまない。
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by yokohama7474 | 2018-04-27 00:30 | 音楽 (Live) | Comments(0)

ヴァレリアン 千の惑星の救世主 (リュック・ベッソン監督 / 原題 : Valerian and the City of a Thousand of Planets)

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フランス人映画監督リュック・ベッソンは、私に複雑な感情を抱かせる監督である。カッコよい「ニキータ」(1990) あたりで注目され、文句なしの傑作「レオン」(1994) を撮りながら、その次の「フィフス・エレメント」(1997) ではガクッとその映画的高揚感を下げてしまい、続く「ジャンヌ・ダルク」(1999) も決して万人を感動させる内容ではなかったと記憶する。それから私にとっては彼の作品から疎遠な日々が続き、ようやく「LUCY/ルーシー」(2014) で久しぶりに再会したのだが、広げた風呂敷をどうやって畳もうかともがいている作品のように見えた。そして今回の「ヴァレリアン」である。一時期劇場ではこの作品の予告編が頻繁に流れていたが、緩やかに流れる音楽をバックにしたその映像はなかなかゴージャスであることは分かったし、ピーター・ジャクソンらの賛辞の言葉も興味深いものであった。やはり彼は、未だに注目すべき監督のひとり。この作品は見ておいた方がよいと考えた。ベッソンは 1959年生まれの 59歳。随分と恰幅よくなったものだ。
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さて、この作品の感想を一言で述べるなら、映像の情報量にクラクラするものの、なかなかに楽しめる映画であり、一見の価値はある。映像美はもちろんこの映画の大きな特色で、子供の頃「スター・ウォーズ」の 1作目を見たときに感じたような映像の魔術性が、21世紀の今日に甦った感すらある。その意味するところは、宇宙船やコロニーの壮大なリアリティと、それと対照をなす手作り感満載のクリーチャーたちの両立と言えばよいだろうか。もちろん、「スター・ウォーズ エピソード IV」の時代には影も形もなかった CG がふんだんに使われているわけであろうが、ポイントは、その CG に依拠し過ぎない姿勢ではないか。見ている人たちが共感できるヴィジュアルには、必ず人間的なものが必要であり、この映画の成功はまずその点にあると思う。そう、その点に関して是非言っておきたいのは、主人公たち、若い男女のヴァレリアンとローレリーヌが最初に登場するシーンが象徴的であるということだ。この 2人は連邦捜査官なのであるが、コンビを組んで活動しており、既に恋仲、いや、映画の冒頭では未だそうでないかもしれないが、数々の冒険を通じて恋仲になっていく男女である。冒頭でこの 2人は、仮想の砂浜でくつろいでいるのである。というよりまぁ、ヴァレリアンがローレリーヌを頑張って口説いていて、スルリとかわされているのだが (笑)。
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このシーンがなぜに象徴的であるかというと、この 2人の使命は、広大な宇宙の平和を守ることであり、そこでの極めて危険な任務の数々においては、生命体としてはなんともちっぽけな存在。そんな彼らのちっぽけな肉体にこそ、広大な宇宙においても限りない重みを持つ「いのち」が宿っていることを実感できるからだ。実際、彼らの任務はこんな格好で遂行されるのが通常だ。ここでは生身の肉体はほとんど感じることができない。
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ここでごく自然に描かれた「いのち」という存在が、この映画のテーマになって行くことは、おいおい分かって行くのだが、考えてみれば、私がかつて全く評価できないと思った「フィフス・エレメント」も、実は同様のテーマであったのかもしれない。そうであれば、過去 20年の間に、リュック・ベッソンの手腕は上達したと誉めてやってもよいのではないか (笑)。もちろんそのような感慨を抱くことができるのも、主役の 2人、つまりはヴァレリアン役の米国人デイン・デハーン (1986年生まれ。過去の出演作には「アメイジング・スパイダーマン 2」のグリーン・ゴブリンが含まれるが、全く覚えていない) と、ローレリーヌ役の英国人カーラ・デルヴィーニュ (1992年生まれ。もともとモデルであるらしいが、「アンナ・カレーニナ」「スーサイド・スクワッド」などで映画出演歴を持つ) が、大変に好感を持てる役者たちだからだろうと思う。ヴァレリアンは精悍ではあっても、どこか憎めない三の線も持ち合わせ、ローレリーヌはじゃじゃ馬ながら、その意志の強さが美しさに直結している。よくこんな素晴らしいコンビを発掘してきたものだと感心する。尚このカーラ・デルヴィーニュ、ロンドンでふなっしーとも共演 (?) している。
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この映画のもうひとつの美点は、テンポのよいこと。導入部で時の経過を表し、舞台設定を説明する箇所で、ルトガー・ハウガーが政府役人として語っているシーンがあるのも嬉しい。また、ジャズの巨人ハービー・ハンコックが嬉しそうに国防長官を演じているし、クライヴ・オーウェンやイーサン・ホークもいい味出しており、また、これは、ジャバ・ザ・ハットならぬアイゴン・サイラスというクリーチャーだが、見ての通り (?) 声を演じているのはジョン・グッドマンだ。
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それから、中国資本も入っているので中国人が登場しているのも理由があるし、予告編でもナース姿への変身が鮮やかだったこのバブルという役は、リアーナという歌手が演じている。
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このような多士済々の顔ぶれが生きてくるのは、繰り返しだがその鮮やかなヴィジュアル性によってである。これも予告編で印象的であったミュールという惑星のシーンは、極めて美しいし、そこに住むパール人たちは、頭の形や目と目の間の距離など、実際の人間の姿に手を加えているのであろうが、大変よくできている。
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ほかにもこのようなクリーチャーたちが出てきて、さながら現代のヒエロニムス・ボスかと思われるような想像力である。
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登場キャラクターに命を吹き込むのはクリエーターの仕事であり、この映画でリュック・ベッソンは見事にその責務を果たしたと言えると思う。尚この作品、原作はフランスのコミックであるらしい。題名は「ヴァレリアンとローレリーヌ」というらしく、なんと 1967年の作品であるそうだ。実は「スター・ウォーズ」のヴィジュアルにはこのコミックからの影響があるというから、面白い。今回の映画のイメージが「スター・ウォーズ」に似ているのは、ある意味では至極当たり前であったわけである。
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このコミックは、ピエール・クリスタンという人が物語を作り、ジャン=クロード・メジエールという人が絵を描いているという (上の写真の上部左右に、彼らの苗字が記されている)。この 2人、なんと未だ健在で、撮影中にリュック・ベッソンを訪れている。楽しそうですなぁ。
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このように様々な要素が一体となって、大変に見ごたえのある映画に結実している。これもフランス文化の豊かさの一端であろうから、それに触れることのできたのは幸運であったと思う。こうなると、リュック・ベッソンの次回作も楽しみになろうというものだ。その期待を込めて、劇場に展示してあったポスターに書かれた彼のサインを撮影しましたよ。
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by yokohama7474 | 2018-04-24 00:34 | 映画 | Comments(0)

上岡敏之指揮 新日本フィル (ピアノ : アンヌ・ケフェレック) 2018年 4月22日 横浜みなとみらいホール

新日本フィルハーモニー交響楽団 (通称「新日本フィル」) とその音楽監督、上岡 (かみおか) 敏之の演奏会は、このブログでも何度にも亘って採り上げ、素晴らしい演奏、課題の残る演奏、私なりにそれぞれ率直な思いを記してきている。このコンビは先週サントリーホールで定期演奏会を開いているが、私は所用があってそれには行けず、残念な思いをしていたところ、横浜みなとみらいホールで同じ内容の特別公演があると知って、そちらに出掛けることとした。ただ、私の手元にはこのコンサートのチラシはなく、直前までその存在を知らなかったのである。東京では、コンサートの度に大量のチラシが配られる。私のようにそれなりの頻度でコンサートに出かける人間にとっては、そのほとんどは既におなじみのものなのだが、一応一通り見て、見覚えのないチラシを数枚だけ抜き取って、あとは処分するのである。大量のカラー印刷であるから、あれは地球環境上はあまりよいことではない (それとも、回収したチラシは再利用されているのだろうか) と思いつつも、やはり信頼できる情報ソースとして重宝している。ところが今回のみなとみらいホールでの新日本フィルの演奏会は、チラシを見た記憶がなかったのである。そのせいであるか否かは分からないが、会場の入りは、このコンビの真価を知る者にとってはかなり淋しいもの。何か、宣伝をもう少し工夫した方がよかったのではないだろうか。
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ともあれ、今回の曲目は以下の通り。
 モーツァルト : ピアノ協奏曲第 24番ハ短調K.491 (ピアノ : アンヌ・ケフェレック)
 ブルックナー :交響曲第 6番イ長調

最初のモーツァルトの 24番のコンチェルトは、彼のピアノ協奏曲の中で、短調で書かれた 2曲のうちのひとつ。もうひとつの短調協奏曲である第 20番ニ短調K.466とともに、貴族を聴衆として想定していた当時の器楽曲としては異例の、悲劇的な音響を持つ。だがもちろん、最初から最後まで短調であるわけもなく、穏やかな長調の箇所もあって、その表情の変化こそが素晴らしい曲なのである。今回ピアノを弾いたのは、フランスの女流、アンヌ・ケフェレック。私が学生の頃から、随分と息の長い活躍をしている人で、日本でも、ラ・フォル・ジュルネに何度も出演していておなじみであろう。今年 70歳である。
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とにかくこのような曲目であるから、デリケートな曲想の変化を、その一瞬一瞬で美しく聴かせて欲しいのであるが、その点、このケフェレックと上岡 / 新日本フィルの伴奏は、ともにデリカシー溢れる美しい演奏であり、実に素晴らしいものであった。このピアノをフランス風のギャラントなものと呼んでよいものか否か分からないが、何よりも音色の美しさが際立っていて、悲劇性すらもその美しさのひとつのありようという印象であった。物語性や起承転結ではなく、瞬間瞬間の音の煌めきにこそ、この日のピアノの持ち味があったものと思う。何気ないようでいて、モーツァルトをこのように演奏するのは、なかなか簡単なことではないであろう。ケフェレックが息長い活動によって聴衆に愛される理由が分かるような気がした。また、新日本フィルはもともと木管の上手いオケであると私は思っているのだが、ピアノの音をよく聴いて反応していることが感じられた。終演後は客席からは (多分おひとりだけだったと思うが) 大きなブラヴォーもかかり、アンコールとして演奏されたのは、ヘンデルのメヌエット (ケンプ編)。この曲は、孤独感と繊細な美感を兼ね備えるという意味で、モーツァルトの 24番のコンチェルトと共通点もあり、もともとバロックということを感じさせないロマン的な演奏には、深い感情が込められていた。オケの面々も静かに聴き入っていたのが印象的であった。

そしてメインのブルックナー 6番も、上岡と新日本フィルらしい、隅々まで神経の行き届いた名演であった。冒頭の弦によるリズミカルな音型は、通常よりもさらに弱音で奏されていたと聴こえたし、そのあとでオケが壮大に鳴り響くところでは、楽員の力を最大限に引き出す上岡の指揮に勢いを感じた。この曲はブルックナーの交響曲としては必ずしも人気のある方ではないのだが、激的迫力に満ちたダイナミックな曲であり、私は結構好きである。だだもちろん、さすがに 7番以降の大傑作交響曲群に比べると、心の奥底にまでズシンと来るほどの感動までは覚えない作品であるとも言えるだろう。それゆえにこそ、演奏する側としては、面白く聴かせようとしてうまく行く場合と、そうでない場合が出てきてしまうのだと思う。ブルックナーを積極的に手掛ける指揮者でも、この曲を敬遠する傾向があるのは、そのあたりにも理由があるのかもしれない。上岡は、決してブルックナーのスペシャリストというわけではないが、新日本フィルと継続的にこの作曲家を採り上げてきており、その壮大な音響世界の描き方には、独自のものを感じさせる指揮者である。すなわち、自らの感性を信じて、時にそれがほかの指揮者たちと異なるテンポやバランスであっても、堂々と描き上げるのである。そんな指揮に対して、弦楽器はいつものように全身全霊で貢献し、ここでもまた木管楽器 (この曲でもやはり木管は重要である) がそれぞれの持ち場でうまく音楽の流れに乗っていて見事であった。金管も輝かしく、ティンパニ (こんなにティンパニが重要なブルックナーの交響曲はほかにあるだろうか!!) も十全の演奏ぶり。約 60分の大シンフォニーを、強い一体感を持って演奏し尽したのは、素晴らしいことだ。プログラムの解説によると、今回上岡が完全暗譜の指揮によって採り上げた版は、通常のハース版 (1937年) やノヴァーク版 (1951年) ではなく、それより前の時代 (1927年) に出版されたヨーゼフ・フォン・ヴェスという人の校訂による版であった。そもそもこの曲は、5番と同じく、作曲者自身による改訂がないので、原典版としてはこれらの楽譜の間には、それほど大きな違いがあるわけではないようだが、それでもこのヴェス版には、細部においては、速度指定や強弱などの表情づけに、かなりの独自性があるらしい。そう言われてみれば、つなぎの部分などにちょっと耳慣れない箇所があったように思う。いずれにせよ、確かに細部の表情づけには大変に神経を使った演奏であったと思ったら、版の選択に既にそれが表れていたわけである。これこそまさに、上で触れたような上岡のこだわりであろう。これは、このコンビの、このみなとみらいホールでの過去の演奏会から。
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終演後、ちょっと所用があったので早々に席を立って退出すると、ロビーに出たところで、ホール内のモニターから、モーツァルト 29番の終楽章が流れてきた。おっと、アンコールがあったのか。一旦出てしまうと客席には戻れないので、涙を呑んで会場を後にしたが、ブルックナーを演奏した編成 (コントラバス 8本) で、あの颯爽と駆け抜ける古典音楽を演奏したのだろうか。これは大変に惜しいことをした。そもそも、通常の定期公演ではアンコールは演奏されないもの。今回はみなとみらいホールでの特別演奏会であったがゆえのことであったのだろう。実はこのホールでのシリーズにはちゃんと名前がついていて、「サファイア」という。因みにこのオケの定期には 3種類あって、トパーズ、ジェイド、ルビーだ。そこに加えてこのサファイアシリーズが今シーズン (2017年 9月開始) から始まっているのである。このシリーズは、サントリーホールでのジェイドシリーズの一部の演奏会を、場所を変えて繰り返すもので、 上岡の説明によると、基本的にブルックナーとマーラーのシリーズをメインにしているという。なるほど、そういうことだったのか。昨年 9月にはマーラー 5番。今回はブルックナー 6番。そして今年 9月開始の新シーズンの予定を見ると、このサファイアは、ブルックナー 9番、マーラー 2番と続く。それ以外にも、既にツェムリンスキーの「人魚姫」が演奏されているし、新シーズンにはワーグナー特集もあって、なるほど、ブルックナーとマーラーの周辺まで含めて、充実の内容である。なので、是非楽団にはこのサファイアシリーズも、チラシを作成してもっと宣伝して欲しいものであります!! 尚、このオケの新シーズンのメインの 3通りの定期公演においても、注目の指揮者を多く含む多彩な曲目が予定されていて、目移りしてしまう。ちょっと指揮者陣に触れてみようか。上岡以外に、ペトル・アルトリヒテル、ハンヌ・リントゥ、ローレンス・フォスター、ヒュー・ウルフ、レオポルト・ハーガー、フィリップ・ヘレヴェヘ、ベルトラン・ド・ビリーといった具合。ちょっと渋いかもしれないが、いずれも期待できる名指揮者たちである。このようなパンフレットで、どのコンサートに出かけるか、じっくりと検討してみたい。
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by yokohama7474 | 2018-04-22 22:31 | 音楽 (Live) | Comments(0)

ヘルベルト・ブロムシュテット指揮 NHK 交響楽団 (ピアノ : マリア・ジョアン・ピリス) 2018年 4月21日 NHK ホール

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90歳にして、矍鑠という言葉すらも必要ないほど活発な指揮活動を続けているヘルベルト・ブロムシュテットが指揮する NHK 交響楽団 (通称「N 響」) の 2つめの定期公演のプログラムである。N 響の桂冠名誉指揮者であるブロムシュテット自身が語る通り、今回彼が振るのはベートーヴェンをテーマとしたプログラムばかり。前回は若干変化球であったが、今回はこのような真っ向勝負である。
 ベートーヴェン : ピアノ協奏曲第 4番ト長調作品58 (ピアノ : マリア・ジョアン・ピリス)
 ベートーヴェン : 交響曲第 4番変ロ長調作品60

なるほど、4番 + 4番と来たか。しかも作品番号は 2つしか違っていない。それもそのはず、実は私も今回知ったことなのであるが、この 2曲は同じ演奏会で初演されているのである。それは、1807年 3月、ベートーヴェンのパトロンであったロプコヴィッツ侯爵邸でのこと。因みに同じ演奏会では、「コリオラン」序曲も初演されている。これはすごいことなのだが、実は私は、そのロプコヴィッツ侯爵の子孫と知り合いであったのだ。ここで過去形を使わざるを得ないのは、ニューヨークに住んでいた彼は、65歳という若さで、昨年のクリスマスに突然逝去してしまったからだ。葬式には 1,000人以上が参列したと聞いた。私は彼とは仕事上のつきあいしかなかったが、いつか訊いてみたかった、ベートーヴェンのパトロンの子孫とはどういう気持ちかという質問は、永遠にできなくなってしまった。これがその私の友人の先祖である、フランツ・ヨーゼフ・マクシミリアン・フォン・ロプコヴィッツの肖像。そのパトロネージュによって、ベートーヴェンから多くの作品を献呈されている。
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この演奏会の注目はなんと言っても、ソリストであろう。ポルトガルの名ピアニストで、今年いっぱいで引退を表明しているマリア・ジョアン・ピリスである。N 響のプログラムでの表記は「ピレシュ」となっているが、それが原語の発音に近いのであろうか。
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まさに練達のピアノと指揮である。その期待感によるものであろう、NHK ホールは文字通りの超満員。ここでのブロムシュテットは、指揮棒なし、ヴァイオリン左右対抗配置はいつもの通りであるが、指揮台もなく、ステージの床に立っての指揮である。ピリスのリサイタルに関しては、東京で開かれた 2回の演奏会について既にレポートしたが、感傷を排して音楽そのものに語らせようという彼女のスタイルは、予想通りここでも同じであり、さすがに筋の通った演奏姿勢を再認識することができたのである。この協奏曲の特色は、まず第 1楽章ではピアノがモノローグのようにソロで語り始め、第 2楽章ではその逆で、オケが重々しい音を奏してからピアノの孤独な呟きに耳を傾けるという、その相互関係なのである。そして最終楽章ロンドでは、弾けるような喜びが走り回り、ここで初めてティンパニが入る。今回の演奏は、様々に移り変わるピアノとオケの会話が大変に濃く、音楽的情景の推移が明確に感じられるようなものであったし、何よりも人間の呼吸を感じさせるような自然さが素晴らしい。ピリスのピアノは相変わらず美しく、それに呼応するオケが、第 1楽章から徐々に深い音の世界に入って行くのを聴くのは、まさに音楽の醍醐味であった。終楽章でほんの僅かなもつれはあったものの、ピリスのピアノは技術を遥かに超えたもの。彼女とブロムシュテットの協業は、ベートーヴェンの音楽の力強さと美しさを、ともに明らかにしたと思う。そして、拍手に応えてピリスが弾いたアンコールは、4/12 (木) のリサイタルと同じく、「6つのバガテル」作品 126の第 5曲。ここではまた、先日と同様、ベートーヴェン晩年の不思議な浮遊感が立ち現れたのである。これが私にとってピリスの生演奏を聴く最後の機会だということも当然思い起こしたのであるが、感動はあっても感傷はなく、後味のよい演奏であった。ところで今回の会場には、ピリスによる "Creative Journey" なるアプリの宣伝が、名刺大の紙に印刷されて置いてあった。このアプリ自体の内容はよく分からないが、ここに記されているピリスの言葉を、例によって私が勝手に翻訳してみよう。

QUOTE
芸術や音楽は、人間の魂の最も深い表現であり、また、私たちが暮らす世界を直接映し出すものです。どんな人でも芸術家として生まれついていて、芸術は地球上の誰とでも共有できるものだと思っています。
UNQUOTE
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そして後半に演奏されたベートーヴェン 4番は、実に活き活きとした推進力に満ちた名演で、相変わらずブロムシュテットという指揮者の紡ぎ出す音楽の純粋なことに、大変深く心を打たれたのである。この曲では、ファゴットをはじめとする木管楽器がかなり重要な役割を果たし、今回の N 響の木管が最初から最後まで完璧だったかと言えば、ほんの少しの傷があったことを思い出さざるを得ない。だが、音楽の神秘は、音が正確か否かなどという次元を遥かに超えて、そこに立ち現れる音響空間の説得力にこそある。ここで鳴っていた音楽は決して重くないが、確かにドイツの伝統の響きがしたのである。つまりは、指揮者とオケのそれぞれの持ち味がうまく表れていたと思う。ブロムシュテットが N 響と取り組み、ほかでもないこの東京で達成している成果は、それを聴いたことがあるか否かで、その人の音楽人生に影響するほどのものではないだろうか。折しも今日の東京は、夏のような気温ながら、空気が乾燥して大変気持ちよい気候。聴衆は皆幸せな気分で家路についたことだろう。

さてここでまた、私の脳髄が疼き出す。確か、ピリスがソロを弾き、ブロムシュテットと N 響が伴奏した演奏会が随分以前にあったはず。そして、今回配布されたプログラムをよく読むと、ピリスの N 響との共演は今回が 3回目で、前回は実は 1992年のモーツァルトのピアノ協奏曲 17番であった由。なるほど。今回もまた、自宅のアーカイブを探してみて、やはり出てきました。1992年 11月 5日に生放送された演奏会から、何枚か写真をご覧に入れよう。
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これがピリスと N 響の 2回目の共演。せっかくなので、こうなると最初の公演も知りたいもの。調べてみて判明したことには、それは、1983年 1月、岩城宏之指揮で演奏したモーツァルトの 26番、27番であった。つまりピリスは N 響とは 35年来のつきあいということになる。今回、四半世紀を経ての日本での共演であったブロムシュテットとピリスであるが、ピリスの引退によってこれが最後の顔合わせになることは残念ではある。だがピリスの言う通り、芸術とは誰とでも分かち合えるはずのもの。この共演は、後世に語り継がれて行くことだろう。

by yokohama7474 | 2018-04-21 23:24 | 音楽 (Live) | Comments(2)

シルヴァン・カンブルラン指揮 読売日本交響楽団 2018年 4月20日 サントリーホール

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フランスの名指揮者、シルヴァン・カンブルランが読売日本交響楽団 (通称「読響」) の常任指揮者として臨む最後のシーズン、この演奏会が今シーズン初の定期演奏会になる。曲目が大変意欲的である。
 アイヴズ : ニューイングランドの 3つの場所
 マーラー : 交響曲第9番ニ長調

言うまでもなくマーラーの 9番は、この作曲者が完成させた最後の交響曲で、その内容は極めて重い。また、演奏時間も 80分に及ぶため、この曲がコンサートの曲目になる場合には、単独でその日のプログラムを占めることも多い。だがもちろん、そうばかりではなく、15分程度の曲を前座に持ってくることもある。ただそれにしても、前座に演奏するのが、例えばモーツァルトの短い交響曲などではなく、アイヴズだという点にまず、カンブルランの指向する音楽のイメージが沸いてこようというものだ。つまり、20世紀初頭にあって、それから過去に向かうロマン的なマーラーではなく、未来につながる現代性を纏ったマーラーであるということだ。これはカンブルランという指揮者の特性を考えると充分理解できること。読響との最後のシーズンにノスタルジーに浸るのではなく、複雑な音の錯綜を捌いて、このオケと築き上げてきたものを聴衆に問うものとなるだろうと思って、期待を持って出掛けたのである。
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マーラーのファンなら、彼がニューヨークでアイヴズの作品のことを知り、自ら演奏することを希望したという話を聞いたことがあるだろう。チャールズ・アイヴズ (1874 - 1954) はニューヨークに暮らした極めてユニークな作曲家で、現代音楽の先駆者であるが、その作品の特徴は、ひとつは米国の民衆音楽の断片をその素材として使っていること。もうひとつは、全く異なる要素の音楽を意想外な方法で組み合わせることである。これらの点に、マーラーの交響曲との共通点 (民俗的な要素を使ったり、神聖さと俗っぽさが瞬時に入れ替わったりという意味で) があるとは言えるであろうから、晩年に活動の場をニューヨークに移したマーラーが、このアイヴズに興味を持ったことは理解できるのである。そのアイヴズ、保険会社に勤務する傍らで作曲を行い、また作風があまりに前衛的であったせいで、ある時期までは全く音楽界から無視される存在であったようだが、レオポルド・ストコフスキーやユージン・オーマンディ、またレナード・バーンスタインらが積極的に採り上げ、今では米国の音楽史になくてはならない存在になっている。だが、日本ではその管弦楽作品が演奏される機会はそれほど多くない。恐らくは、技術的には難易度が高い割に、曲の内容にはとりとめのなさが残るので、演奏効果の点に難があるということだろうか。今回演奏された「ニューイングランドの 3つの場所」は彼の代表作のひとつで、文字通り米国東海岸のニューイングランド地方の 3つの場所を題材にしている。演奏時間は 20分弱で、作曲には 1908年から 1923年までという長い年月を要している (3曲別々に作曲されたようだが)。様々な音が混淆するその音響は、まさにアイヴズの世界。今回のカンブルランと読響の演奏は、予想通り大変にクリアな音像を提供してくれたが、ただこうして生演奏で聴いてみると、そのごった煮感を楽しめるか否かで、随分と聴き手側の受け止め方が変わってくるという思いを抱いてしまう。つまり、マーラーのような、様々な要素が組み合わさっていても聴き手を飽きさせないプロフェッショナルな音楽とは、少し違うということだろう。私は第 2曲「コネティカット州レディングのパトナム将軍の兵営」が好きで、時々冒頭部分などを無意識に口ずさむことがあるが、今回面白かったのは第 3曲「ストックブリッジのフーサトニック川」である。ここではなんと、オルガンまで使われていて、イングリッシュホルンが抒情的な旋律を吹くかと思うと、いつの間にか、まるでメシアンのように浮遊感のある音楽に変容して行く。豊かな自然に恵まれたニューイングランドの夕焼けのような音楽であり、郷愁すら覚えたのであった。ところで、ニューヨークで作曲され、やはりイングリッシュホルンで有名な曲がなかったか。そう、ドヴォルザークの「新世界から」である。この曲の初演は 1893年。アイヴズがこの曲を作曲し始める、ほんの 15年前なのである。ドヴォルザーク - アイヴズ - メシアンの系譜は、なんとも面白いではないか。そうそう、そう言えば、アイヴズと同じく、保険屋でありながら創作活動に勤しんだ芸術家がもうひとりいる。それは言うまでもなくフランツ・カフカ。アイヴズより 9歳下で、両者に交流があったとは思えないが、カフカは奇しくもドヴォルザークと同じチェコの人。それから、マーラーも、現在のチェコの地で生まれている。奇妙な連鎖を思う。これは老年に至ってからのアイヴズのカラー写真。
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さて、メインのマーラー 9番であるが、これもある意味では予想通りの演奏スタイルであったと言えようか。つまり、感傷を排し、冷徹なまでにリアリティを持つ音響世界である。激しい箇所での燃焼度に不満があるわけではなく、終結部の静寂にも聴くべきものは大いにあったと思う。決して凡庸な演奏ではない。だが、全体を通して、もっと深い呼吸で音楽が息づけば、もっとよかったのにと思う。冒頭部分から、管楽器の弱音にはいつもながら課題を感じ、激しい不協和音で音楽が大きく展開する箇所では、弦にもさらに深い表現力を求めたいと思ったのだが、結局その印象が多かれ少なかれ、最後までつきまとってしまった感がある。多分、あと何度かこのコンビでこの曲を演奏すれば、呼吸が深まってくるのかもしれないが、今回のプログラムは 1回のみである。その点は多少残念な気がした。思い返してみると、このオケは以前に、ハインツ・レークナー、ゲルト・アルブレヒトという指揮者とこの曲を演奏し、録音も残っているが、いずれも似たようなタイプの演奏であったように記憶する。このスタイル自体を否定するつもりは毛頭ないが、このような底知れぬ深い世界を抱える曲の演奏には、いかに一流の指揮者と一流のオケであっても、様々な試行錯誤の繰り返しが必要なのかもしれない。恐ろしい曲なのである。

さて、ここで一枚の写真をご紹介したい。不鮮明な古い写真だが、どうやら広い公園のようなところを、男性とその幼い娘が歩いているようだ。
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これは、グスタフ・マーラーその人と、その次女アンナ・ユスティーネ。歩いているのはニューヨークのセントラル・パークであり、1910年に撮影されたものである。彼の交響曲第 9番はまさにその 1910年、ニューヨークで浄書が完成したというから、ちょうどこの写真は、その頃に撮られたものであろう。マーラーはこの写真の 1年ほど後にこの世を去っている。第 9交響曲は彼の死後、ブルーノ・ワルターによって初演されているから、マーラー自身は実際にそれが音になったものを聴いていない。ということは、あの壮絶な音世界は、この時点では、この世界において唯一、マーラーの頭の中でしか鳴っていなかったことになる。一方、この頃アイヴズは保険稼業のかたわら作曲を続ける 36歳。時間はどの一瞬も停まることなく進み続けるが、もしかしたらこの写真が撮られたその瞬間、マーラーの頭の中には第 9番の音響が渦巻いており、同じニューヨークのその近隣では、アイヴズの頭の中で、「ニューイングランドの 3つの場所」が鳴り響いていたかもしれない。100年以上前の音響の混淆に思いを馳せると、この何気ない写真も、どこか切なく、だが高揚感のあるものに見えてくるのである・・・。

by yokohama7474 | 2018-04-21 01:57 | 音楽 (Live) | Comments(0)

マリア・ジョアン・ピリス ピアノ・リサイタル 2018年 4月17日 サントリーホール

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前回のリサイタルを既に採り上げた、現代最高のピアニストのひとりでポルトガル出身のマリア・ジョアン・ピリスの 2回目のリサイタルである。日本でのソロ・リサイタルとしては最後になるであろう今回の曲目は以下の通り。
 モーツァルト : ピアノ・ソナタ第12番ヘ長調K.332
 モーツァルト : ピアノ・ソナタ第13番変ロ長調K.333
 シューベルト : 4つの即興曲D.935

前回のリサイタルはオール・ベートーヴェン・プロであったが、今回は前半にモーツァルトの (中期の、と呼んでよいのだろうか、彼の作品につけられた K (=ケッヘル) 番号では真ん中あたり) ソナタ 2曲、そして後半にシューベルト晩年の作品を置いたもの。前回のベートーヴェン・プロでも、後半に置かれたのは彼の最後のソナタであったので、その意味では、お互いに類似点のあるプログラムであったと言えるであろう。名ピアニストが引退を控えて行うコンサートで、しかもドイツ・オーストリアの作曲家の晩年の作を演奏するとなると、聴く方もそれなりに身構えてしまうもの。だが、前回も書いたことだが、今回もピリスの演奏には感傷はなく、ただ音楽の純粋な美を追求した演奏に、静かな感動を覚えたものである。
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実は、前回のリサイタルを聴いたのは、ステージに向かって右上の RA ブロック。もちろんステージに近いのでよく聴こえたと思ったものの、今回違うブロックで聴いてみると、ピリスのピアノは意外と音量がある。やはり RA だと、ちょうどピアノに蓋がかぶさった状態で聴くことになるせいだろうか。ともあれ今回は前回以上に細かいニュアンスを聴き取ることができて、音楽を堪能することができた。モーツァルトのソナタは、耳には平易に響くものの、本当に美しく喜悦感をもって演奏するのは、それはそれは難しいことだろうと思うのであるが、ピリスの手によって、力みも気負いもなく、だが細心の注意を伴いつつもテンポ感よく流れる音楽は、やはり尋常のものではない。そしてそこには機械的なものは一切なく、ほんのわずかなミスタッチやテンポの乱れですら、耳につくことは全くないどころか、却って音楽における人間性を自然に感じさせる、そんな演奏であったと思う。ピュアなピアノの音は、人の心まで澄んだものにしてくれると思う。本当に、終わってしまうのがもったいなく、いつまでも響き続けて欲しいモーツァルトであった。

後半のシューベルトの「4つの即興曲D.935」は、死の前年、1827年に書かれたもので、文字通り 4つの曲からなる 40分ほどの曲。即興曲とは、シューベルトに何曲かの曲集がある以外は、ショパンにも少しはあるものの、それほどポピュラーな曲の形態ではない。文字通り即興的に自由に作曲されているという意味での命名だろうが、ピアニストが即興で演奏する曲ではない。4曲セットで、まるで 1曲のソナタとみなせるという説もあるようだが、自由に書かれた曲だから、聴く方も自由でよいのではないか。第 3曲が、有名な「ロザムンデ」の間奏曲がテーマとなった変奏曲であることもあり、親しみやすさが随所に聴かれる曲集であるが、そこはやはり晩年のシューベルトのこと。不思議な音響空間が現出する瞬間もあり、自由な感性を持つピアニストでないと、なかなか成功しない曲ではないだろうか。その点ピリスの演奏にはこの上ない自由さがあり、ここでもピュアな音が、説得力を持って響いていた。もっと輝かしい音を聴かせる人や、粒立ちにおいても、さらに繊細なものを持っている人はいるだろう。だが、ピリスという音楽家がそこにいてピアノを弾くだけで、音楽の純粋な美が立ち現れるという点に、彼女の非凡さがある。これを実演で耳にすることができた聴衆は幸せであった。今回もアンコールが演奏されたが、それは、同じシューベルトの「3つのピアノ曲 D.946」の第 2曲変ホ長調。これは、シューベルトの作品番号である D (= ドイチュ) 番号では「4つの即興曲」より少しあと、死の半年前の作品であって、これもまた即興曲を集めたものなのである。実は今回ピリスは、4/12 (水) の演奏会では、「テンペスト」の代わりにこの「3つのピアノ曲 D.946」を弾くと発表されていたが、曲目変更になったもの。当然ピリスのレパートリーには入っているのであろう。コンサート・プログラム本体に続いて同じシューベルトの即興曲が演奏されたわけで、大変に座りのよいアンコールであった。

こうしてピリスの日本でのソロ・リサイタルは終了した。残すは、ブロムシュテット / N 響と共演するベートーヴェンの 4番のコンチェルトと、弟子であるリリット・グレゴリアンとのデュオ・リサイタルのみである。私は幸いなことにコンチェルトを聴くことができるので、是非楽しみにしたい。ところで、これほどの名ピアニストが引退するに際し、何かコメントの発表はないのだろうか。会場では有料プログラムは販売されておらず、薄く小さな配布プログラムのみで、そこにはインタビューの類は掲載されていない。今年 1月の「音楽の友」誌で彼女の引退について特集が載っていたようだが、それは読んでおらず、ネットで情報を取ろうとしても無駄であった。そこで英語で探してみると、ひとつだけ、極めて簡略だが興味深いピリスの発言が見つかった。これは今年の 4月 4日付だから、かなり最近の、Rhinegold Publishing という、英国の音楽関連出版社のサイトに出ているものだが、もともとは Platea というスペイン語の雑誌に掲載されたインタビューのようである。"Platea Magazine" で検索すると、その雑誌のサイトが見つかり、ピリスのインタビューも読むことができる。・・・但しスペイン語が分かればだが。
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ここでは、上記 Rhinegold Publising のサイトにおける英語での一部引用から、私が勝手に訳してご紹介しよう。衝撃的発言である。

QUOTE
つまるところ、ピアノ自体が、私が引退する主な原因です。私はこれまで、決してピアノ ("him" と表現) とよい関係を築けたためしがありません。いや、もちろん、引退には複数の要因があります。自分自身のためにもっと時間が必要だし、コンサート活動に追われることのない人生も欲しい。でもやはり、ピアノという楽器自体が、決して私になじもうとはしてくれなかったことが、最大の理由なのです。
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これは一体どういうことだろう。世界が称賛するピアニストが、ピアノになじむ (原文では "adapt") ことができなかったとは・・・。私が上で記した感動は、一体なんだったのか (笑)。多分、全文を読んでみるともう少しピリスの意図が分かるのではないかと思うのだが。いつかピリスの引退を巡る発言がもう少し日本にも紹介されることを祈って、ここは一旦〆ることとしましょう。

by yokohama7474 | 2018-04-18 01:22 | 音楽 (Live) | Comments(0)

ヘルベルト・ブロムシュテット指揮 NHK 交響楽団 2018年 4月15日 NHK ホール

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NHK 交響楽団 (通称「N 響」) の定期公演である。あれ、そういえば先月は N 響の定期って聴いたっけな、と疑問に思って調べてみると、やはり 3月には定期公演はなく、月のはじめには、このブログでも採り上げた、パーヴォ・ヤルヴィ指揮による「ウェストサイド・ストーリー」の演奏会形式上演を済ませ、月の半ばと後半には、中国地方と東北地方に演奏旅行に出かけている。前者では、なんと先日読響を代役として指揮したステファン・ブルニエが 4公演で指揮を採り (N 響との地方公演終演後にちょうど読響の演奏会があるというグッドタイミングであった模様)、後者の指揮は尾高忠明であった。そうして N 響は、東京・春・音楽祭でワーグナーの「ローエングリン」を 2回演奏。定期公演はなくとも、充分すぎるほど多忙な日々であったわけである。どうやら近年の N 響の 3月は、毎年そのように、定期公演のない活動ぶりであるようだ。そして今月、2ヶ月ぶりの定期公演の指揮台に立つのは、桂冠名誉指揮者のヘルベルト・ブロムシュテット。あと 3ヶ月で実に 91歳 (!!) になる、文字通り現代指揮界の最長老である。
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このブログでは過去何度も彼の演奏会を採り上げてきたが、今回もこうして元気な姿を東京の聴衆の前に現してくれて、本当に嬉しいことである。今でも彼は、ステージの袖から指揮台まで何度も往復するし、何より、終始立ったまま精力的に指揮するのである。これは実に驚異的なこと。だが私は、演奏家の年が何歳であれ、よい音楽を聴かせてくれるかのみが、その演奏家を聴きたいと思う唯一絶対の理由なのだ。私がブロムシュテットのコンサートに行きたいと思うのは、そこでは素晴らしい音楽を聴くことができるだろうという期待があるからにほかならない。今回の N 響定期の 3つのプログラムは、指揮者いわく、ベートーヴェンをテーマにしたものらしい。だが待て。ほかの 2つのプログラムは文字通りベートーヴェンの曲ばかりだが、今回はそうではなく、以下のようなもの。
 ベルワルド : 交響曲第 3番ハ長調「風変わりな交響曲」
 ベルリオーズ : 幻想交響曲作品14a

もちろん後者はフランス・ロマン主義を代表する破天荒な作曲家の破天荒な曲で、かつ大人気のシンフォニー。今年に入ってからの東京でも、既に何度も熱演、名演、爆演が鳴り響いている曲である。そして前者、フランツ・アドルフ・ベルワルドは、もしかすると一般にはなじみのない名前かもしれないが、ブロムシュテットの祖国スウェーデンの作曲家 (1796 - 1868)。いわゆる初期ロマン派に属する作曲家で、ベルリオーズの 7歳上。つまりこの 2人は、国や作風は異なれど、ベートーヴェン (1770 - 1827) の影響下に創作活動を展開した人たちなのである。ベルリオーズもそうだが、ベルワルドも写真での肖像を残している。
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ベルワルドのシンフォニーは 4曲あるのだが、私は学生時代に、ネーメ・ヤルヴィ指揮エーテボリ交響楽団による 2枚組の全集で、ある程度親しんだものだ。「ある程度」と書いたのは、特に夢中になって入れ込んだということでもなかったからであるが (笑)、それでも、この第 3番 (今回は「風変わりな交響曲」となっているが、この CD では原題をカタカナで表記した「サンギュリエール」になっている) は、最初に収録されているので、何度かは聴いたものだ。それから、鬼才イーゴリ・マルケヴィチがベルリン・フィルと録音した 3番・4番もその後聴いているが、それが私の知っているベルワルドのすべてである。N・ヤルヴィの録音は、こんなジャケットだった。
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今回の第 3番の演奏は、ブロムシュテット自身が校訂した版による演奏であり、祖国の作曲家への彼の尊敬の念がよく分かる。今回の演奏では、後半の「幻想」も同じであったが、譜面台に小さなスコア (だと思う。まさかバイブルではないだろう 笑) を置いてありながら、全くそこに手をつけることもなく全曲暗譜で指揮した。そしてその音楽のなんと活き活きしていること!! 冒頭のウネウネする主題は、耳には残るがそれほど魅力あるものではない。だがブロムシュテットは、その冒頭部分から極めて真摯に音楽を解きほぐし始め、すがすがしい規律とでも言える流れを、巧まずして生み出していた。先日の「ローエングリン」に続いてライナー・キュッヒルをコンサートマスターに迎えた N 響は、今回も力強さと美しさを兼ね備えた素晴らしい演奏で、ブロムシュテットの期待に応えた。この曲の第 2楽章ではアダージョとスケルツォを組み合わせるというユニークな方法が取られているが、慣れない曲とは思われないような堂に入った進み方である。そして、終楽章である第 3楽章の、冒頭の力強さには驚かされた。そうそう、初期ロマン派の曲なのに、コントラバス 8本を使い、存分にオケを鳴らしているのである。ティンパニの打ち込みも強烈。このような演奏で聴くと、曲そのものが偉大に響く。これは得難い経験であった。

後半の「幻想」は、ブロムシュテットのレパートリーの中核をなすものとは思えないが、既にシュターツカペレ・ドレスデンを指揮したライヴ盤もあり、それは1978年と、40年も前の録音だし、2014年にベルリン・フィルでも指揮している (ちなみにベルリン・フィルとは、ベルワルドの 3番も、2016年に演奏している)。上記の通り暗譜で振り通したブロムシュテットの「幻想」、決して爆演ではなく、あえて言えば古典的な交響曲の様相を呈した、折り目正しい演奏であったと言えようか。そのひとつの証左は、第 1楽章はもちろん、第 4楽章でも、反復を励行していたことである。ここでの第 4楽章の反復とは、断頭台への行進曲が二度あるということだ (笑)。この曲のおどろおどろしい標題性を重視するなら、ここの反復は省略するであろうし、そのような演奏が多い。だが、この破天荒な曲にも古典派からロマン派への移行を読むとすると、楽譜の指定通り、反復を行うことに根拠はあるわけだ。このようなブロムシュテットの手にかかると、異端の作品である「幻想」ですら、純粋な音のドラマとなる。もちろん迫力に不足することもなく、聴いていて胸がスカッとするようであった。ここでもオケは大健闘。第 1楽章のラスト手前で木管にほんの少し乱れがあった以外は、自信に満ち、老巨匠の音楽の忠実なしもべたらんとする演奏態度に終始して、感動的であった。素晴らしい充実感であったのである。

そんなブロムシュテットは、動きを見ていると体調は全く万全であろうから、残る 2つのベートーヴェン・プログラムも楽しみなのである。さてここで、ひとつオマケネタ。今回の演奏を聴いているときに、何やら私の記憶の中で、以前ブロムシュテットが N 響でベルワルドの曲を指揮したことがあるのではないか、という思いが疼き出した。そこで帰宅して手元のアーカイブを調べて判明したことには、やはりあった。演奏したのは第 4番変ホ長調であり、1991年 3月20日の演奏が、当時生放送された。以下がその映像である。
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なるほど、ブロムシュテットは今でも異様に若いと思うが、これを見ると、27年前はやはり、もっと若い!! それから、今と違うのは、ヴァイオリンの左右対抗配置を取っていないことと、指揮棒を使っていること。そして、上の写真で明らかな通り、この時も暗譜による指揮であるが、今回と違って譜面台すら置いていない!! あ、それから、これは 3月に行われた定期公演だから、当時の N 響は 3月にも定期を行っていたことも分かりますな。うーん、東京の音楽シーンが侮れないのは、今に始まったことではないと、改めて感じる次第であります。

by yokohama7474 | 2018-04-16 01:00 | 音楽 (Live) | Comments(0)

ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団 2018年 4月14日 サントリーホール

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東京交響楽団 (通称「東響」) も、今月新たなシーズンを迎える。今回指揮台に立つのはもちろんこの人、英国の名指揮者であるジョナサン・ノットである。
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今回の曲目は、なかなかにハードなもので、以下の通り。両曲とも譜面台も置かない暗譜での指揮で、しかも指揮台には手すりもない。まさに指揮者のすべてがさらけ出されるような演奏会である。
 マーラー : 交響曲第 10番嬰ヘ長調から第 1楽章アダージョ
 ブルックナー : 交響曲第 9番ニ短調

クラシックファンなら一目瞭然であるが、この 2曲の共通点は、ともに未完成であること。しかも、作曲者の死がその完成を阻んだという点も同じである。シーズン最初の演奏会で、死によって中断された重い内容の未完成作を並べてくるとは、ノットの並々ならぬ意欲を感じることができるではないか。因みにブルックナーとマーラーは36歳違いと、親子ほども年が離れているが、この 2人は師弟関係にある。だが、ブルックナーの死は 1896年、マーラーの死は 1911年である。その差僅かに 15年。よって、今回の 2曲は、実は、ほとんど同時代音楽と言ってもよいほど作曲年代は近いわけである。このことは意外と認識されていないのではないか。だが時代はまさに大きな転換期。後期ロマン派の終焉、世紀末文化の終焉、大国ハプスブルクの終焉。そしてその後には、モダニズムと戦争の時代が迫っていたのであった。これは現在リンクと呼ばれるウィーンの環状道路 (もともとあった城壁を壊して造営された) の整備途中の写真。国会議事堂や、そのむこうに市庁舎が見える。現在ではリンクを彩る様々なスタイルの建物群の一部としてよく知られたこれらの建物は、ともに完成は 1883年だから、ブルックナーもマーラーも、このような光景を見たはずだ。
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さて、マーラーの 10番は、作曲者が生への憧憬と告別を壮絶な音のドラマに仕立てた第 9番の次に来るべき作品であった。私の以前からの解釈では、第 9番で現世に対する惜別を果たしたマーラーは、この第 10番ではついに、死後の世界に足を踏み入れようとしたのではないか。残されたかなりの量のスケッチをもとに全曲を復元した版もあれこれあり、それらはマーラーの手で完成されたものではないと分かっていても、この曲に憑りつかれた作曲家の姿が浮き彫りになっているので、本当に感動的なのである。それに対し、10番については、補完された完成版ではなく、作曲家自身の手になる第 1楽章アダージョだけしか採り上げない指揮者も多くいる。それは、この楽章だけでも充分コンサートでの演奏に耐える内容を持っているからだ。さて今回の演奏を聴きながら舞台を見渡していて気づいたことがある。この 30分弱の極めて美しい楽章においては、ティンパニは使われていない。それどころか、ホルンを除く金管楽器は、後半のクライマックスである強烈な不協和音が鳴り響く箇所にのみ参加。ということはこの音楽、その多くの場所において、拍節感もないまま、弦楽器が延々と音を紡いで行くという種類のものなのである。もちろん、木管楽器が死の舞踏のようなシニカルな情景を描き出す箇所もあって、それは実にマーラーらしい。そんな複雑な内容の曲であるが、ノットと東響の今回の演奏は、ロマン派の残滓というイメージよりも、20世紀の音楽につながるような先鋭的な要素を強調したものであったように思う。それだけに、例えば冒頭のヴィオラの諦観などにはもう少し暗い情念があってもよいように思ったし、全体的に、絶望による音の進みの力感はあまり感じられなかった。もちろん、音楽の表情の陰影の濃い点にはさすがのものはあったが、この曲の持つ本当の怖さには、今一歩肉薄しきれないもどかしさも感じた点は否めない。

その点、後半のブルックナーの方が、強い説得力のある演奏だったのではないだろうか。ノットの演奏スタイル自体がもともとブルックナーに合っているというイメージはあまりないものの、ここでは隅々までクリアに音が鳴り渡り、音の進みに大変な切実感が感じられた。特に木管楽器の細かいニュアンスが随所において抜群であり、そこに弦や金管の深くかつ輝かしい音が相まって立ち昇る音楽の神々しさには、実に瞠目すべきものがあった。これは、スタイルがロマン的とか現代的とかいう問題を超えて、とにかく音楽それ自体に語らせたような演奏であり、それゆえに深く人々の心に残ったことであろう。ノットと東響も、いよいよ関係が深まってきて、お互いの呼吸がよく合ってきたということだと解釈したい。ここでふと思い立って、このコンビによる同じブルックナーの 8番 (ライヴ盤もリリースされている) を以前聴いたことを思い出し、自分の記事 (2016年 7月11日付) を読み返してみた。そこで私は、演奏の流れのよさには賛辞を捧げながら、いわゆるブルックナーらしい壮絶な神秘性には留保を残している。そう思うと、それから 2年弱の間にこのコンビはやはり関係を深めてきたからこそ、今回の 9番の名演を成し遂げたということであろう。演奏が終わったあとの静寂と、そこから嵐のような拍手が起こる間の、今度は聴衆の側の呼吸も素晴らしかった。今回の演奏は NHK が収録していたので、今回実演で聴けなかった方には是非放送で味わってほしいものである。

こうして東響の新シーズンが始まったわけであるが、今シーズンのプログラムを見てみると、例年にも増して意欲的な曲目が並んでいる。ノット自身は、エルガーのオラトリオ「ゲロンディアスの夢」や、ヴァレーズの「アメリカ」、シュトラウスの「英雄の生涯」などを採り上げ、その他、飯森範親、秋山和慶、ユベール・スダーン、ダン・エッティンガー、クシシュトフ・ウルバンスキらがそれぞれに個性的なレパートリーを演奏するので、どれも楽しみだ。音楽監督として 5年目を迎えたノットの言葉をご紹介しよう。

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世界はデジタル化が進み、テクノロジーは進歩していますが、演奏会での実体験はホールでしか味わうことができません。我々の演奏をもっと身近に感じて頂き、たくさんの音楽体験をより多くの皆様と分かち合いたいと考えています。演奏会でお会いできることを楽しみにしています。
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おっと、NHK の放送だけでは充分でないと、マエストロご本人が言っておられます (笑)。では是非この冊子で、今シーズンの東響の充実ぶりを予感して頂き、ホールに足を運んで頂ければと思います。東京の音楽文化の重要な部分をここに聴くことができるのは、間違いない。
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by yokohama7474 | 2018-04-15 23:20 | 音楽 (Live) | Comments(0)

オッコ・カム指揮 新日本フィル (フルート : 白尾彰) 2018年 4月14日 すみだトリフォニーホール

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まあこれは偶然と言えば偶然なのであるが、この記事の内容と直接関係のない前項の記事、つまり映画「トゥームレイダー ファースト・ミッション」に続いてここでも私が語り始めるのは、北欧についてなのである。そう、この日の新日本フィルハーモニー交響楽団 (通称「新日本フィル」) の演奏会では、指揮者も北欧の人なら、作品もすべて北欧のもの。まさに北欧スペシャルのこのコンサートを指揮したのは、フィンランド生まれの名指揮者、オッコ・カムである。
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1946年生まれなので今年 72歳になる。私の世代のクラシック・ファンにとっては、1969年の第 1回カラヤン指揮者コンクールの優勝者として認識されている指揮者である。だが彼のその後のほぼ半世紀に亘る活躍は、客演では様々な世界トップクラスのオケを指揮していながらも、現在のラハティ交響楽団の首席指揮者というポジションに至るまで、そのポストのほぼすべてが、母国フィンランドまたはスカンディナヴィア三国のいずれか、つまりは北欧内に留まっているのである。このブログでも、2015年11月にその手兵ラハティ響を指揮した驚くべき演奏会をご紹介した。その後カムは、神奈川フィルに客演した機会もあったが、私はそれを聴けなかった。なので今回、新日本フィルの定期に登場すると知って、これはなんとしても聴きたいと思ったのである。その曲目は以下の通り。
 サッリネン : 歌劇「宮殿」序曲
 ニールセン : フルート協奏曲 (フルート : 白尾彰)
 シベリウス : 交響曲第 2番ニ長調作品43

なるほど。サッリネンとシベリウスは、指揮者カムと同じフィンランド人。ニールセンはデンマーク人。因みに前項の「トゥームレイダー ファースト・ミッション」では、監督がノルウェイ、主演がスウェーデンだから、前回・今回の 2回の記事で、北欧の主要な国は揃ったことになる (バルト三国はここには登場しない)。だが、今回のようなコンサートを聴いていると、とにかくどの国で生まれた音楽であろうと、現代の日本に住む我々を感動させてくれるだけで、本当に素晴らしいことだ。まず最初のアウリス・サッリネン (1935年 - ) は、既に 80歳を超えているが、未だ現役の、現代フィンランドを代表する作曲家である。
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私は彼のシンフォニーや管弦楽曲を過去に聴いたことがあり、オペラも、「赤い線」という作品の映像を以前録画したことがある。その作風は大変穏健で、誰が聴いても楽しめるようなもの。今回演奏された曲は、1995年にフンランドの湖上の音楽祭として知られるサヴォリンナ音楽祭において、今回の指揮者オッコ・カムによって世界初演されたオペラの序曲。エチオピア皇帝とその周りの人々を描いたものというから、およそ北欧とは縁遠い物語であるが (笑)、音楽は大変平易であり、かつクリア。大変楽しめるものであった。それにしても、本拠地すみだトリフォニーホールで聴く新日本フィルの響きは、いつもながらに素晴らしい。このオケの発展において、このホールは欠かせないものであると再度実感するのである。
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2曲目は、このオケの首席フルート奏者であり、長年に亘って楽団の顔であり続ける白尾彰を独奏に迎えての、ニールセンのフルート協奏曲。
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カール・ニールセン (1865 - 1931) は、5曲の交響曲を中心として、私も大変好きな作曲家であるが、このフルート協奏曲は 1926年という晩年の作。2楽章からなり、第 1楽章ではフルートとオケの掛け合いに、果てしなくクリアな北欧の空を思わせる、ニールセン独特の音空間が広がる。さすがにこのオケの首席、白尾のフルートはオケとの調和は抜群で、真面目でありながらかつ自在なものであったと思う。実に素晴らしい演奏であった。

そして後半は、これぞ北欧作品の最高峰で、シベリウスの文字通りの代表作のひとつである交響曲第 2番だ。上で書いた通り、カムが活躍しているのは主に母国フィンランドとその周辺であるが、そんな彼が一歩国外に出れば、宿命的に演奏しなければならないのが、フィンランドの国民的作曲家であるシベリウスである。これまでのキャリアで彼は、何度この第 2交響曲を演奏して来たことであろう。だがそこはさすがにカムである。聴衆も既に馴染みがありすぎ、指揮者自身もうんざりするほど演奏した曲でありながら、北欧の澄んだ空と、作曲当時のロシアのフィンランドへの圧政という社会情勢を、ともに感じさせる要素のある演奏であったのではないか。ここで新日本フィルは、徒らに激することなく、極めてプロフェッショナルにカムの要請に応え、美しい演奏を成し遂げた。弦楽器の味わいもさることながら、緊密な木管、細かいニュアンスから延々と続くクライマックスでの炸裂まで、見事に演奏した金管も素晴らしかった。ただ、何度かの瞬間には音の美感に課題が残ることもあったのも事実。日本のオケがこれから本当に世界のトップクラスを目指すのであれば、このようなほんの些細な課題をひとつひとつクリアしていかなければなるまい。そんなことを思ったのも、この演奏の高いクオリティには、さらに高まる余地があることを思ったからである。そのためには、このカムのような優れた手腕を持つ指揮者との共演は、極めて意義深いことである。

さて、終演後にサイン会が開かれたので参加した。会場で販売していたカムの CD のうち、エーテボリ交響楽団を指揮したグリークの交響曲を購入したが、CD の解説にはサインをもらうのに適当な場所がなかったので、プログラムにサインをしてもらった。このときカムは、終演後さほど時間をかけずに登場し、係の人が慌ててテーブルと椅子を用意することになった。これがサイン会の様子と、私がもらったサイン。ちゃんと目を見ながら、"Great performance, Maestro!!" と声をかけると、"Thank you!!" と嬉しそうであったが、何人もの人たちが写真を撮り始めると、「パパラッチ!!」と冗談を言っていた。
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このように素晴らしい演奏会であったのだが、もし新日本フィルがまたこの指揮者を招聘するようなことがあれば、シベリウスではない、何か違ったレパートリーを指揮してくれないものだろうか。例えば、ブルックナーなんて面白そうではないですか。フィンランドの指揮者だからシベリウス、という看板はあってもよいだろうが、そこから外れたレパートリーに、実はカムの実力が発揮されるということもあるかもしれない。そのような演奏会を聴いてみたいものだ。

by yokohama7474 | 2018-04-15 00:23 | 音楽 (Live) | Comments(2)


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