川沿いのラプソディ


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ヤクブ・フルシャ指揮 バンベルク交響楽団 2018年 6月29日 サントリーホール

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前日、サントリーホールで久しぶりに (?) マーラーの大曲交響曲を聴いたばかりだが、2日連続でマーラーである。前日は交響曲第 2番「復活」であったが、今回の曲目は、交響曲第 3番ニ短調。しかも、前日が読売日本交響楽団の現・首席客演指揮者のドイツ人、1980年生まれのコルネリウス・マイスターがその読響を振った演奏であったのに対し、今回は東京都交響楽団の前・首席客演指揮者のチェコ人、1981年生まれのヤクブ・フルシャが指揮をする、ドイツの楽団、バンベルク交響楽団である。この比較は実に興味深いし、ついでに言えば、2016年秋からフルシャが首席指揮者を務めるこの名門オケの前任者は、現在東京交響楽団の音楽監督の、ジョナサン・ノットである。このあたりからも、国際的に見た東京のオケのステイタスが分かろうというもの。音楽の世界には世界ランキング何位という制度はなく、それがまたよいところであるが、もし周りに東京のオケなんてどうせ大したことないんでしょという人がいれば、このような話をすれば少しは分かって頂けるのではないか。これが今年 37歳になるフルシャ。いかにも真面目そうな人である。
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上で書いたことは、このバンベルク交響楽団というオケの格と、そしてマイスターやノットやフルシャという指揮者の実力が分からないと周りの人たちに説明できないと気づいたが (笑)、まあそれは、ご存じない方はほかでいくらでも調べる手段があるので、ここでは割愛することとしよう。ただ少しだけ書いておくと、このバンベルク響は、ヨーゼフ・カイルベルト、オイゲン・ヨッフム、ホルスト・シュタインといった名だたるドイツの巨匠たちが戦後に育て上げた名オーケストラであり、本拠地が小都市なので、ツアーが多いことでも知られている。実はこのオケはもともとチェコからの移民によってドイツで結成されたものであり、その発祥にはチェコとの深い縁があるわけで、チェコ人であるフルシャにとってもそれが大きなモチヴェーションになっている模様である。尚このバンベルクの旧市街は世界遺産であるが、私も 2015年の夏、バイロイト滞在時に同地に出掛けたことがあるので、そのときの記事で、少しでもイメージを持って頂ければ。まぁ、バンベルク訪問時は二日酔い状態だったわけですけれども (笑)。

今回のバンベルク響の来日公演は、東京と横浜で合計 4回。今回の演奏会以外の 3回の曲目は、ユリアンナ・アヴデーエワをソリストに迎えてのブラームスのピアノ協奏曲 1番 (最近はブラームスのコンチェルトを女流ピアニストが弾くことが流行っているのだろうか?) と、ドヴォルザークの 8番または 9番を組み合わせたもの。マーラーの 3番は、この日 1回だけの演奏である。この曲は何度もこのブログで採り上げている通り、マーラーのシンフォニーでも最も長い、100分に及ぶ演奏時間を必要とする大作で、しかも、アルト独唱、女声合唱、児童合唱まで必要なので、演奏するにもコストがかかり、国内オケはもちろん、海外オケが採り上げるには結構なリスクがある。それゆえ、ある時期までは外来オケの演奏曲目にはなっていなかったが、もし私の記憶が正しいとすると、1986年の小澤征爾指揮ボストン響の来日公演が、外来オケによるこの曲の日本での演奏の最初ではなかったか。それ以来 30年以上を経て、もちろんこれまで数々の外来オケが演奏してきたとはいえ、やはり興行的なリスクは常にあるだろう。今回も残念ながら、ホールを埋めた聴衆は、半分とは言わないが、6割くらいだろうか、かなり淋しい入りであった。この点は、前日のマイスター / 読響の「復活」とは大変な違いであったと言わざるを得ない。だが、折しも関東甲信越地方ではこの日、史上初めて 6月に梅雨明けとなった。作曲者自身が当初は「夏がやって来る」という標題を第 1楽章につけたこの曲にふさわしいことであった。

今回のフルシャとバンベルク響の演奏であるが、ヴァイオリンの左右対抗配置を取り、指揮棒を持たずに指揮したフルシャの持ち味がよく出た演奏であったと思う。大見得を切るようなところがなく、飽くまで真摯にマーラーの音楽と向き合っていた点、大変に好感が持てた。簡単に前日のマイスター / 読響の「復活」と比べてみると、まず、テンポには焦ったところがなく悠揚迫らぬもの。それから、音の厚みというか、有機性に関しては、バンベルク響に軍配が上がるであろう。もっとも、読響の機能性にはかなりのものがあり、その点ではバンベルク響にもひけは取らないと思う。それどころか、バンベルク響の演奏には技術的なミス (例えば第 1楽章後半のトロンボーンソロとか、第 3楽章の舞台裏のポストホルンソロとか) も散見された。だが、音楽とは不思議なもので、技術的ミスを乗り越えて、何か切実なものが聴衆に迫ってくる場合がある。その点においては、やはりこのドイツの名門オケはさすがに懐が深い。例えば第 2楽章では木管やトランペットのソロにもうひとつ切れがないかなぁと思ったが、第 3楽章では堂々と各楽器が自己主張をするようなこともあり、そこには音楽の一回性が聴かれるし、そして何より、場面場面における説得力が大変なものなのである。もうひとつの例として、全曲の最後の感動的な 2対のティンパニを挙げよう。ここは遅いテンポであり、指揮者によっては大きく弧を描くように指揮するので、2人のティンパニの音がずれることがままある。以前、シャルル・デュトワが NHK 響を指揮した演奏では、この箇所でひとりのティンパニ奏者が、指揮者ではなくもうひとりのティンパニ奏者を見て叩いていた。そうすることで、2人の奏者の音はキッチリと合っていたわけである。だが今回はそのような方法は取られず、2人のティンパニ奏者はそれぞれに指揮者を見て演奏。いわば呼吸だけで見事に 2奏者はタイミングを合わせていたが、最後の方では、ほんの少しずれることとなった。だが、聴き手がそれをどのくらい気にするだろうか。大きな音のうねりに身を任せるという点では、多少の音のずれなど問題ではない。今回のフルシャとバンベルクの演奏に聴かれた人間性に、音楽の大事な要素が含まれていると言ってもよいように思う。
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今回の合唱 (東京混声合唱団の女声) と、ステファニー・イラーニというメゾソプラノ独唱 (もともと予定されていた歌手から急遽変更になった) は譜面を見ながらの歌唱、一方の児童合唱 (NHK 東京児童合唱団) は暗譜。子供たちの暗譜とはなかなかに大変なことであるが、「ビム・バム」という鐘の音を模した少年合唱を伴奏する鐘は、合唱団が陣取るステージ裏の客席 (P ブロック) の最上段に位置していたのも興味深かった。独唱・合唱は、曲の持ち味を素晴らしく表現していたと思う。上記のようなオケの人間的な熱演もあって、終楽章の感動的な音楽が盛り上がって行くときには、本当にガラガラのホールが、なんともったいないと感じられたことか!!

実はこのバンベルク響、カイルベルトに率いられての初の来日公演から、今年で 50年。来日は 15回目で、実は今回のサントリーホールでの公演が、日本でのちょうど 125回目の演奏会。過去に訪れた日本の都市は 40に上るという。一国でのコンサート数として、この 125という回数は、楽団史上 3番目に多いらしい。ドイツと日本の物理的な距離を思うと、それは大変なことである。そして今回は、フルシャとバンベルクの初の海外 (ヨーロッパ外ということであろう) ツアーであり、フルシャが考えたツアーの行き先は、迷うことなく日本であったという。我々はよくそのことを認識したいものである。今回の演奏会では、このフルシャと何度も演奏を重ねてきた、都響のコンサートマスター、矢部達哉の姿も見えたが、世界屈指のマーラー・オケである都響でも、このフルシャと演奏したマーラーは、1番「巨人」だけであるはず。彼はどんな気持ちで今回の演奏を聴いたのであろうか。多忙なスケジュールの中、フルシャがいつの日かまた都響の指揮台に帰ってきてくれる日に、マーラーを演奏してくれないものかと、ファンとしては期待が募るのであります。

by yokohama7474 | 2018-06-30 00:19 | 音楽 (Live) | Comments(2)

コルネリウス・マイスター指揮 読売日本交響楽団 2018年 6月28日 サントリーホール

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先週に続く、読売日本交響楽団 (通称「読響」) とその首席客演指揮者、コルネリウス・マイスターの演奏会。前回はオール・リヒャルト・シュトラウス・プロであったが、今回はそのシュトラウスの同時代人であり、若い頃には親しい友人であった、グスタフ・マーラーの作品が演奏された。それは、
 交響曲第 2番ハ短調「復活」
である。

ふと思うと、たまたま前回の記事でもマーラーを話題にはしたものの、最近、マーラーの交響曲を生演奏で聴いた記憶がない。多分 4月に、この同じ読響が常任指揮者シルヴァン・カンブルランの指揮で演奏した第 9番を聴いて以来ではないか。まぁ考えてみればそれはほんの 2ヶ月前のことなので、「最近マーラーを聴いていない」ということでもないのだが (笑)、ともあれ、今回は独唱 2人と合唱団を含む絢爛たるシンフォニーで、素晴らしい才能を持つ今年 38歳の若手指揮者を聴くなら、これ以上の曲はないと思う。実は、上で掲げた写真は今回の会場であるサントリーホール入り口の掲示板から撮影したもので、それはなぜかと言えば、手元にこの演奏会のチラシがなかったからだ。それと言うのも、この演奏会は早々に売り切れになってしまったので、楽団としてもそれ以上宣伝の必要がなかったということだろう。それにしても、東京の聴衆の嗅覚はすごい。曲と指揮者の組み合わせによって、この演奏会の価値をすぐに認識し、チケットを買う人たちが、少なくともこのホールのキャパシティである 2,000人はいたということなのだから。このところマイスターの演奏に高い期待感を持って臨んでいる私としても、これはどうしても聴き逃すことのできないものであった。ところで、前回のこのコンビの演奏会では、サッカーのワールド・カップをネタとして取り入れたが、今回もその続きで言ってしまうと、マイスターの祖国ドイツは、韓国に劇的敗北を喫し、史上初の 1次リーグでの敗退という結果になってしまっている。それが彼の指揮に影響しなければよいが (笑)。
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今回の演奏について一言で感想を述べるなら、ストレートな表現力による高い水準の演奏であったがゆえに、さらにさらに細部の磨き上げが望まれる、そんな演奏であったのではないか。マイスターの指揮はいつもクリアな音を引き出すので、聴いていて安定感を感じるが、ただ今回の「復活」に関しては、細部において少しテンポが前のめり気味で、オケの乱れも散見された上に、若干ながら慌ただしい印象を覚えたのである。冒頭の低弦にはさらに深い音があってもよかったし、終楽章の舞台裏のバンダ (別動隊) に、さらに鋭い音があってもよかっただろう。ただその一方で、激しい盛り上がりにおいては迫力を欠くことはなく、表現力としては素晴らしいものがあったことを否定する気はない。マーラーの音楽には不思議なところがあって、いわゆる「マーラーらしさ」というイメージが、少なくとも私の中にはある。もちろん、それは一種の先入観であるから、そのイメージに合う音楽であるか否かは、多くの聴衆にとって説得力のある音楽であるか否かと、必ずしも同義ではない。だが、この強烈なマーラーの音楽を、日本の聴衆は既に超一級の演奏で、録音・実演双方で経験して来ている。そのような経験においては、この私ごときでも、それなりの蓄積があると思うので、今回の演奏においてもまた、読響の過去のマーラー演奏 (以前も触れたことがあるが) というテーマが、ふと脳裏をよぎるのを抑えることができなかったのである。東京には都響という素晴らしいマーラー・オーケストラがあり、知らず知らずのうちに両者の比較をしてしまっているという面もあるのかもしれない。全曲を聴き通す中で私は何度かそのような若干複雑な思いに囚われたが、しかしそれにしても、マイスターが楽章間で見せる集中力の持続には、今回も驚嘆した。特にこの曲は、第 1楽章終了時に作曲者自身が 5分間の休憩を取るように指定している。今回の演奏では、5分間ということはさすがになかったが、かなり長く感じる時間、正面に顔を向けながら指揮台で静止していた。その身じろぎもしない指揮者の姿に、客席の咳も静まり、ピンと張り詰めた緊張感が支配したのである。もうひとつ興味深かったのは、独唱も合唱も、全員譜面を見ていたこと。これは昨今の東京では珍しいことだと思うが、指揮者の指示なのだろうか。新国立劇場合唱団は、弱音での歌い出しには少し課題が残ると思ったが、盛り上がりの部分では素晴らしい出来。また、ソプラノのニコール・カベル (米国)、メゾ・ソプラノのアン・ハレンベリ (スイス) の両者とも、称賛すべき出来であったと思う。

さて、このマイスターと読響は、6/29 (金) には大阪のフェスティバルホールで、同じ「復活」を演奏する。きっとヴォルテージの高い演奏を披露することだろう。今シーズンの読響へのマイスターの客演はこれが最後だが、また来シーズンの登場に期待しよう。未だ 30代ということは、これからもその演奏スタイルが変わって行くことになるわけであろうし、この指揮者なら、今後のさらなる活躍が期待できると思うのである。
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by yokohama7474 | 2018-06-29 01:14 | 音楽 (Live) | Comments(0)

ファントム・スレッド (ポール・トーマス・アンダーソン監督 / 原題 : Phantom Thread)

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この映画において最も印象的な宣伝文句は、ダニエル・デイ=ルイス引退作というものであろう。過去 3度のアカデミー主演男優賞に輝く英国人の名優であるが、現在 61歳。まだまだこれから活躍できる年齢だと思うが、何事によらず、引き際は大事である。私は決して彼のファンというわけでもないものの、痩身でありながら独特のアクのある演技には、過去何本かの映画で印象づけられてきた。この映画での素晴らしい演技を見るにつけ、引退するとはなんともったいない、と思わざるを得ない。ここで彼が演じるのは、成功したファッションデザイナー、レイノルズ・ウッドコック。彼は常に独自の美学に裏打ちされたライフスタイルを貫くダンディな紳士であるが、仕事熱心なせいであろうか、未だ独り者である。
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この映画は、その芸術家気質の彼が、あるレストランのウエイトレスであったアルマという女性と出会い、そして彼女とパートナーとなり、結婚し、だが蜜月は長くは続かず、のっぴきならない夫婦間の緊張感の中で、彼らの間に新たな関係が生まれて行く・・・というもの。その内容を書くとネタバレになるので、ここではそれを避けることとするが、その内容には耽美性もあり、例えば谷崎文学との共通点も見出せるように思う。ただ、この作品の評価の分かれ目になりそうなこととして挙げたいのは、性的な描写が一切ないこと。私も別に映画で卑猥なシーンを見たいと言っているわけではなく (笑)、この内容なら少しは淫らなシーンがないと、生温い映画だと思われてしまうだろう。人間の本性を仮借なく描き出すべき作品であろうから、その点には少し不満が残ったことを記しておこう。それから、主人公レイノルズの前に言わば宿命の女、ファム・ファタルとして現れるアルマを演じるヴィッキー・クリープスというルクセンブルク出身の女優に、残念ながら魔性を感じることはない。申し訳ないが、この点はこの映画の内容にとってはかなり厳しいマイナスポイントと思わざるを得ないのである。もうひとりの重要な役柄、レイノルズの姉を演じるレスリー・マンヴィルという役者は、なかなかに硬質な演技で、この映画の彩りに貢献している。これが主人公たちの出会い。
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そしてこれが、最初の接近遭遇 (?)。
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多少抽象的な言い方で説明すると、ここで男と女は、運命的な出会いをするにも関わらず、生活をともにするうちに、人生において目指す方向なり、価値を見出す事柄に差異があることを認識し始める。それは例えば食べ物の好みであったり、その食べ物を食卓で食べるときの作法であったり、まあ言ってみれば些細なことが始まりなのである。だがその些細なことの果てに、女は男に復讐を思い立ち、それはうまく行ったかと思いきや、その復讐が男を変えてしまう・・・というもの。愛するがゆえに傷つけ合い、傷つけあうほどに愛が深まる。アルマはそのような二人の関係を、医者に対してこう語る。「彼に恋することで、人生は謎ではなくなるのよ」。なるほどこのように書いてみると、かなり怖い映画と思えてくる。だが、人間の本能に訴えるような怖さがこの映画にあるかと言うと、残念ながら私は否と言いたくなってしまうのである。そうそう、題名の「ファントム・スレッド」は原題も同じで、その意味は「幽霊の脅迫」であるが、ここで言う幽霊とは、私の解釈では、主人公の母親であり、その幽霊が何を脅迫するかというと、美的な生活を続けるべしということを、レイノルズに無言で訴えかけるのである。こう書くと、やはり怖い映画と思えてくる。だが残念ながら、決してそうではないのである。ダニエル・デイ=ルイスの演技には存在感があるだけに、全体としての出来が残念だと言わざるを得ない。

私がこの映画を残念に思うもうひとつの理由は、音楽である。ジョニー・グリーンウッドという作曲家は、この映画の監督、ポール・トーマス・アンダーソンと何度も共同作業を行っているらしく、ここでも、オリジナル曲に加えて、フォーレ、ドビュッシー、シューベルトなどを使っている (それから、晩餐会のシーンでは、ほとんど聴こえないくらいの小さな音量で、ベルリオーズの「幻想交響曲」の第 1楽章が流れていて、謎めいていた)。ただ、それがちょっとうるさい。美学を貫く主人公を描く映画としては、無音の部分で人間の感情が動くこともあるということを、もっと意識すべきではなかったろうか。そうそう、音楽に話が及んだついでに書いておくと、アルマという女性は音楽ファンにとってはもちろんおなじみで、それは作曲家グスタフ・マーラーの妻の名である。マーラーにとってはミューズでもあった彼女はしかし、世紀末のファム・ファタルの一人ともみなされ、奔放で不貞な妻ということではないにせよ、少なくとも自分の感情に素直に生きた人であると思うし、彼女の個性に翻弄されて煩悶したマーラーは、それを創造の原動力にしたのであろう。この映画では必ずしもマーラーを思い出す必要はないと思うが、主人公のミドルネームは、字幕には "J" としか出ていないが、劇中の言葉から聞き取ったところによると、「ジェレマイヤ」である。これは英語読みであり、我々日本人になじみの発音では、「エレミア」となる。もちろんこれはレナード・バーンスタインの交響曲第 1番の副題であり、ユダヤの預言者の名前である。なのでこの主人公はユダヤ人。それが分かると、やはりユダヤ人であったマーラーのことを思い出さずに映画を見るのが、難しくなるのである。これがアルマ・マーラー。
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だが、別にマーラーのことを考えずとも、男女の愛のいびつな形を感じることができれば、この映画の本質を理解することができるだろう。ひとつ言えることは、この映画にはかなり一貫した趣味性があるということで、それもそのはず、監督のポール・トーマス・アンダーソンはここで、製作や共同脚本のみならず、撮影まで担当しているのである。この監督はこれまでに 8本の映画を撮っているが、私が見たのは「マグノリア」のみ。なるほど、あれも癖の強い映画で、様々な登場人物の姿を見て結構楽しんだ覚えがあるが、この作品のように少ない登場人物の内面に迫るという作りになると、少し課題があるかなぁというのが正直な感想。1970年生まれなので、未だ若いと言える年齢である。
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ただ少し感じるのは、現代においては、倒錯した愛の形を描くなどというと、あまり世間の評価は高くないのかなぁということ。だからこの映画のように、内容のドロドロ感を覆い隠すような美しい衣装が、言い訳として必要なのかもしれない。実際、この映画はアカデミー衣装賞を受賞したらしいが、ファッションデザイナーが主人公の映画で、衣装賞って・・・(笑)。それはちょっと反則なのではないか、という思いも禁じ得ないが、ま、それはそれとして、志向する内容自体にはかなり芸術性があるものの、表現の面では課題の多い出来となった、私にとってはそんな映画として、記憶にとどめることになるだろう。
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by yokohama7474 | 2018-06-28 01:39 | 映画 | Comments(0)

ゲティ家の身代金 (リドリー・スコット監督 / 原題 : All the Money in the World)

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米国の大富豪、ジャン・ポール・ゲティの名を私が初めて知ったのは、確か「ゴルゴ 13」のいずれかの挿話であったと記憶する。彼の名を冠した美術館が紹介されていたように思う。かつて大量の冊数を所有していたこの劇画は、以前引っ越しの際にすべて処分してしまっており、手元で確認することはできないが、私はその後、ジャン・ポール・ゲティ美術館についての書物を購入することとなった。今手元に引っ張り出してきたその本は、これだ。
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1998年 2月号の「芸術新潮」誌である。もう 20年も前のことになるが、なぜにこのときこの美術館の特集が組まれていたかというと、そのほんの数ヶ月前、正確には 1997年12月16日に、この美術館がロサンゼルスのサンセット大通りにオープンしたからであった。山全体に展開する数々の建物は、現代を代表する建築家リチャード・マイヤーの設計によるもので、美術館のみならず、美術の研究所などもある文化複合施設である。
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そして私がこの場所を実際に訪れることができたのは、2006年 4月。その広大さとコレクションの質の高さに驚愕したが、私の記憶が正しければ、入場料は無料であったと思う。また、ここがオープンする前、1974年から使われていた美術館は今では「ゲティ・ヴィラ」と呼ばれていて、そちらは古代美術を展示しているようだが、私は行ったことがない。だが、芸術新潮誌にも掲載されているこのような、いかにも古代ローマのヴィラのような中庭が素晴らしい。私が最初にこの美術館を知った「ゴルゴ 13」でもこの庭園が描かれていたと記憶する。
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なぜにこんなことを長々書いているかというと、この作品はその題名のごとく、このような大美術館を可能にした莫大な資産を持っていた石油王 J・ポール・ゲティが晩年に遭遇した実際の事件を題材にしているからである。それは、1973年に起こった、ゲティの孫、ジャン・ポール・ゲティ 3世の誘拐事件である。これは予告編でも映像が流れていたのでネタバレにはなるまいが、17歳の孫の身代金の要求が犯人からあったとき、当の大富豪は、「身代金などビタ一文出さん!!」とマスコミのカメラの前で言い切ったのである。誘拐された青年ポールの母、つまり大富豪の息子の嫁は、その状況を打破し、愛する息子をなんとか取り返そうとする。この映画はその母の奮闘を中心に描いたものである。まあ世の中、金持ちは大抵ケチであると言ってしまうとさすがに語弊があるかもしれないが、だが、本人が無駄と思うことには一切浪費をしないから資産家になれる、という面が全くないとは言えないだろう。どうやら J・ポール・ゲティはそのような人であったようだ。この映画でも描かれているが、欲しいと思った美術品を手に入れるには大金を払い、常に原油価格を気にしながら、本当は可愛いはずの孫の誘拐にも、ほとんど興味がないようにすら見える。これがその大富豪の晩年の肖像。
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この映画は、実話に基づいてはいるものの、その細部には想像によるフィクションを交えて描いている。誘拐犯の様子もかなり克明に描かれており、大富豪とその義理の娘の対立、交渉代理人の海千山千の駆け引きや、財団の人々の慇懃無礼ぶりなど、なかなか多彩な人間性が描かれていて興味深い。ただ、全体を通して見れば、少し流れが悪いかなと思わる箇所もあり、本当の意味で心に残る衝撃のシーンもそれほどないので、誰もが見るべき大傑作とまでは思わない。だがやはり、映画好きであれば見ておいた方がよいと断言できるのは、これがあの名匠リドリー・スコットの作品であるからにほかならない。今年実に 88歳という高齢にもかかわらず、近年も大作を数々仕上げていることはまさに驚異的。実際、この映画の映像にはかなり迫真的なものがあり、ローマをはじめとするロケ地での撮影も、かなりハードであったと思うので、今回もまた、同い年 (1930年生まれ) のクリント・イーストウッドと並ぶ現代の長老映画監督は、すこぶる健在であるということは言えるだろう。現場でのこんな熱血指導の様子は、とてもそれほど高齢の監督とは思われない。
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そして、高齢と言えば、役者陣で私が拍手を捧げたいのは、主役の憎たらしい大富豪のジジイを演じた、クリストファー・プラマーなる俳優である。1929年生まれで、撮影時やはり 88歳!!
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彼はこの演技でアカデミー賞助演男優賞にノミネートされ、同賞の演技部門でのノミネートにおける最高年齢記録を塗り替えたらしい。ところが、そこには信じられない背景がある。実はこの映画、ケヴィン・スペイシー主演で撮影され、ほぼ完成に至った時点で、スペイシーのセクハラ疑惑が持ち上がり、映画の公開が危機にさらされたため、急遽このプラマーを代役として、ゲティの出演シーンをすべて撮り直したというのである!! しかも、それらはすべて 9日間で完了したというから驚きだ。プログラムに載っている本人のインタビューによると、「撮影日数は限られていたが、ありがたいことに私は記憶力が良く、次から次へと撮影を進行してくれるので、連続して演技ができ、役も撮影に合わせて自分で育て上げていくことができた」と語っている。実にプロフェッショナル。吝嗇さを嫌らしく見せながら、時にどこか憎めない純粋さも覗かせるゲティの人間像を、素晴らしく演じ上げていたと思う。こんな素晴らしい役者がこれまでに何をやっていたかというと、「人生はビギナーズ」という映画で既にアカデミー助演男優賞受賞という経歴はあるものの、もともとブロードウェイで活躍したらしく、映画の世界ではあまりなじみのある出演作はない。・・・と思ったら、ひとつだけあった。これだ。
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おぉ、これは、ジュリー・アンドリュース主演の「サウンド・オブ・ミュージック」のトラップ大佐ではないか!! これは 1965年の映画であるから、既に映画の世界でも半世紀以上のキャリアなのである。おみそれ致しました!! ほかにも、マーク・ウォルバーグがいつもながらにいい味出しており、一方、誘拐された息子を取り返すために奔走する母は、「グレイテスト・ショーマン」でヒュー・ジャックマンの妻を演じたミシェル・ウィリアムズ (実生活ではあのヒース・レッジャーの子供を設けている) であったが、残念ながら私は、今回もこの女優にはもうひとつ感情移入できないものがあった。

さて、実際この事件では、誘拐された青年ポールは、5ヶ月を経て何とか解放されるのであるが、いくらでも金があるはずなのに、身代金を出そうとしないゲティの態度に腹を立てた犯人たちが、ポールの耳を切り取って新聞社に送り付けたことがきっかけとなって、ようやく事態が進展したもの。上記の「芸術新潮」誌には、耳を切られたポールの痛々しい写真が載っている。
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そしてこの青年ポールは、事件によるショックなのか、その後ドラッグ中毒によって重度の障害を抱えるようになり、54歳で死去したという。それ以外にもゲティ家には数々の不幸が見舞っており、人間の幸せとは一体なんだろうと考えさせられる。原題の "All the Money in the World" とは、ゲティが手にしたいと思っていた、そして、それを趣味のために使おうとしていたもの、ということだろうか。劇中で、確か "All the Space (?) in the World" だか何かの表現が出て来たが、果たして本当に Space であったか否か記憶が曖昧だ。いつかまたこの作品を見る日が来たら、確認したいと思っている。

そして最後にもうひとつ。この映画は既にどの劇場でも上映終了してしまっているが、私がどうやら見に行けそうだと思った頃には、ほとんどのシネコンでは既に終了しており、唯一、都心の劇場としては TOHO シネマズ日比谷だけが、やはりその映画的良心によるものか、結構頑張って上映してくれていた。だが、同劇場でも 6/21 (木) には上映終了。そこで私は、残された可能性を調べ尽くし、最後に発見した唯一のスロットは、6/22 (金) のレイトショー。場所は、舞浜のシネマイクスピアリという劇場であった。駅前に映画館があるのも知らなかったが、スクリーン数も多く、なかなかよい映画館であった。終映後、23時過ぎにも関わらず、舞浜駅は、ちょうど東京ディズニーリゾート帰りの人々で混雑していて少し驚いたが、なんとかラストチャンスでこの映画を見ることができた幸運を感じることで、混雑もあまり気にならなかった。東京で様々な文化に触れるには、時間のやりくりと根気が必要であることは、言うまでもない。

by yokohama7474 | 2018-06-27 00:41 | 映画 | Comments(0)

オンドレイ・レナルト指揮 プラハ放送交響楽団 (ピアノ : ヴァディム・ホロデンコ) 2018年 6月24日 サントリーホール

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よくクラシック音楽は、何を聴けばよいのか分からないという声を聴く。なんとかの何番とか何調という能書きが親しみにくいという意見も多く、私も音楽の専門家ではないから、その点はよく分かるのである。そんな私は、クラシック音楽として何を最初に聴けばよいかという質問に、しばしばこう答える。「それはやはり、ドヴォルザークの『新世界』でしょう!!」と。それは、この「新世界」、いや、正式には英語で "From the New World" だから、「新世界より」または「新世界から」と呼ぶべきであるのだが、この交響曲には親しみやすいメロディと劇的迫力が同時に存在しているからだ。かく言う私も、小学生のときに最初に全曲に親しんだ交響曲は、この「新世界」であった。日本では年間に何度この曲が演奏されるのか知らないが、6月下旬から 7月上旬にかけて、青森から鹿児島まで、全国で 13公演開かれるプラハ放送交響楽団の演奏会では、その 13公演すべて、メインがこの「新世界」なのである (時には前座にベートーヴェンの 5番や 7番を置いて) !! このオーケストラは、同じプラハに本拠地を置くチェコ・フィルほどの国際的知名度はないものの、間違いなくチェコを代表するオーケストラのひとつ。1926年に設立され、数々のチェコの名指揮者の薫陶を受けてきた。そしてそのオケの現在の首席指揮者は、1942年生まれで現在 75歳のオンドレイ・レナルト。出身はチェコではなく、今は隣の国になっているスロヴァキアである。
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彼の名前が東京の聴衆にとって近しいのは、彼が以前、新星日本響の首席指揮者を務めていたことによる。そのオケはその後東京フィルに吸収合併され、その関係でレナルトは未だに東京フィルの名誉指揮者のひとりであるが、どうだろう、最近の東フィルの指揮台に彼が頻繁に立っているとは思えない。私がこの演奏会を聴きに行こうと思ったのは、職人的手腕が期待できるレナルトが、現在の手兵を前に、きっと充実した演奏を展開するだろうとの予測によるものだった。チラシには、「プラハ放送響との最後の来日」とあり、その詳細はどこにも説明がないが、もしかすると任期満了が近いのかもしれず、であればなおさら貴重なコンサートである。この日のプログラムは以下の通り。
 スメタナ : 交響詩「モルダウ」
 ラフマニノフ : ピアノ協奏曲第 2番ハ短調作品18 (ピアノ : ヴァディム・ホロデンコ)
 ドヴォルザーク : 交響曲第 9番ホ短調作品95「新世界から」

チェコ音楽の代表作に、同じスラヴ系のロシアの超メジャー協奏曲を組み合わせたもので、会場はまるでウィーン・フィルかベルリン・フィルの演奏会にように満席だ。プログラムに掲載されているレナルトの言葉によると、彼が初めて来日して新星日響を指揮したのは 1978年、つまり今から 40年前のこと。それ以来、実に 55回来日しているという。日本では庭園や文化遺産を見て、最後に大好きな「トンカツ」を食べるのを楽しみにしているという。なるほど、その発言からも、この指揮者の人間的な側面が伺い知れるが (笑)、実際に彼の円熟の指揮ぶりには、人間性が強く感じられ、誰もが好感を持つことだろう。私の聴くところ、このオケの水準はそれこそウィーン・フィルやベルリン・フィルのような世界のトップクラスというわけではない。だがそれでも、特に自分たちに流れる血を意識して演奏しているからだろうか、その音楽にはなかなかの説得力があって、聴いていて本当に楽しめる。それをもって、古いチェコの伝統が音に出ているとまで言ってよいのか否かは分からないが、少なくとも、最高度の洗練よりも、懐かしく温かい響きを聴かせるオケであると思う。「モルダウ」は美しくドラマティックだったし、「新世界」においても、もう何百回演奏したか分からないレパートリーであろうのに、深い感情と高い集中力を込めて曲の持ち味を浮き彫りにしている点は見事だと思った。レナルトの指揮も、想像通り職人性を感じさせるものではあったが、ここぞという時にはオケを纏綿と歌わせ、その統率ぶりは筋金入りだ。今どきの 75歳は未だ老け込む年ではなく、レナルトの場合も熱い情熱をもって音楽と向かい合っていること、本当に素晴らしいと思う。アンコールには、予想通りドヴォルザークのスラヴ舞曲を、しかも 2曲演奏した。穏やかな作品 72の 2と、元気のよい作品 72の 7である。満員の客席は大いに盛り上がった。

さて、真ん中で演奏されたラフマニノフの 2番のコンチェルトにおいてピアノを弾いたのは、1986年ウクライナ生まれの、ヴァディム・ホロデンコ。
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私は彼を初めて聴いたのだが、恐ろしく正確なタッチと、オケに全く負けない打鍵の強さ、そして、感傷に溺れすぎることのないストレートな表現力を持つ、素晴らしいピアニストである。経歴を見ると、モスクワ音楽院に学び、仙台を含む幾つかのコンクールで優勝したあと、2013年にヴァン・クライバーン・コンクールで優勝したとのこと。その年にサンクト・ペテルブルクのマリインスキー・コンサートホールの座付きピアニストに就任し、音楽監督ゲルギエフからも高く評価されているらしい。なるほど、このブログでも、実に多くのロシア人またはロシアで学んだピアニストをご紹介して来たが、そのリストに、またひとり素晴らしいピアニストが加わったこととなる。彼は、素晴らしい協奏曲の演奏のあと、同じラフマニノフの小品を 2曲演奏した。それは、前奏曲作品 23の 5と、それから作品 23の 3である。これらも美しい音ながら感傷的ではない音楽で、聴き終えたあとにはある種の爽快感があった。

終演後にサイン会があるというので行ってみると、指揮者は出て来ず、ピアニストだけであった。19時に始まったコンサートの終演は 21時半を過ぎていたので、ちょっと待ちくたびれた様子ではあったが (笑)、快くサインをしてくれた。
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このように、日曜の夜のなかなか楽しい演奏会であったが、さて、その後指揮者レナルトは、トンカツを食べに出掛けたのでしょうか。まだまだツアーは続く (全 13公演のうちこれが 4公演目) ので、ガッツリ食べて、全国の音楽ファンを楽しませて欲しい。

by yokohama7474 | 2018-06-25 23:57 | 音楽 (Live) | Comments(0)

秋山和慶指揮 東京交響楽団 (ピアノ : マルカンドレ・アムラン) 2018年 6月23日 サントリーホール

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私の敬愛する秋山和慶が、自ら桂冠指揮者を務める東京交響楽団 (通称「東響」) を指揮する。当然のことながら、このコンサートを聴き逃すわけにはいかない。そして今回のプログラムは、なかなかに面白いのである。
 クララ・シューマン (グリム編) : 行進曲変ホ長調 (1879年作)
 シューマン : 交響曲ト短調「ツヴィッカウ」(1832 - 33年作)
 ブラームス : ピアノ協奏曲第 1番ニ短調作品15 (1854 - 58年作、ピアノ : マルカンドレ・アムラン)

ここでオケの演奏についてまず述べておくと、手堅くも自由な秋山の指揮のもと、東響の自発性溢れる推進力が素晴らしかった。まさに期待通り、ロマン派の音楽の広がりをまざまざと見せてくれた演奏であり、いつもながら、本当に秋山と東響のコンビを聴く喜びを充分に感じさせてくれたのである。
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今回むしろ採り上げたいのは、このプログラミングの妙である。クララ・シューマン (1819 - 1896) は言うまでもなく、大作曲家ロベルト・シューマン (1810 - 1856) の妻であり、また自身が作曲家・ピアニストとして重きをなしていた人。彼女の小品を最初に演奏し、その次に、夫君であるシューマンの未完の交響曲を演奏し、そして休憩後のメインの曲目として、シューマンが世に紹介し、師に対する尊敬とともに、その妻 / 未亡人であったクララへの思慕の情を抱きながら終生独身を貫いたヨハネス・ブラームス (1833 - 1897) の若き日の情熱溢れる協奏曲を演奏する。このようなお互いに縁のあった作曲家たちの作品であるが、作曲年代は、1830年代、1850年代、1870年代と、長い期間に亘る。つまりこの演奏会、ロマン派音楽の歴史の半世紀をざっと見渡す試みでもあるわけだ。

最初のクララ・シューマンの「行進曲」は、もともとピアノ曲であり、ユリウス・オット・グリムという作曲家 (1827 - 1903) がオーケストラに編曲したもの。ファンファーレで始まり、同じ主題が繰り返し出て来るが、それは勇壮なもの。途中にはクラリネット二重奏という、おっと思う瞬間もあると思うと、次の瞬間には木管アンサンブルになっているという、なかなかに意表を突くオーケストレーションである。この曲はクララが友人夫婦の金婚式のために作曲されたらしい。当時クララは、作曲はあまり行っておらず、ピアニスト及び指導者としての活動が主であったようで、これは久しぶりの作品であったようだ。尚ここでは、亡き夫シューマンの歌曲「家族の肖像」のメロディが使われているらしい。いろいろな想像力を掻き立てられる逸話である。これがシューマン夫妻の写真。
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2曲目に演奏されたシューマンの「ツヴィッカウ」交響曲は、実はシューマンが最初に書いた交響曲で、このツヴィッカウとは、シューマンの生地であり、この曲が初演された場所の名前。まず第 1楽章だけが初演され、その後第 2楽章が作曲されたが、そこで中断してしまったらしい。この曲の第 1楽章の初演は 1832年で、シューマンは弱冠 22歳。実はこの曲が初演された演奏会の主役は、当時天才少女として知られていた 13歳のクララ・ヴィークのピアノ演奏であったらしい。もちろん、その後 2人が結婚することになろうとは神のみぞ知るということであったわけだが、実はシューマンの母はクララに対し、「あなたはいつかロベルトと結婚してくれなくてはなりません」と話しかけたらしい。なるほど、運命の巡りあわせであったわけだ。ところでこの「ツヴィッカウ」交響曲はほとんど演奏されないが、シューマンの 4曲の交響曲に付随した録音もある。私もこの演奏会の前に、確かどこかにこの曲の CD があったはずと思って探したところ、ありましたありました。最近購入した、ネヴィル・マリナーがシュトットガルト放送響時代に残した録音のアンソロジー (15枚組) の中に入っていた。
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この曲、一聴してシューマンらしい陰鬱なロマン性が明らかで、さすが、栴檀は若葉より芳し、というところであるが、ただ、同じ主題が行ったり来たりして、情熱だけが先走っているような印象は否めない。なので、シューマンという作曲家の内面とか、クララとの縁という要素に思いを致すことで、曲の価値は何倍にも水増しされるものであろう。だが、上記の通り、秋山と東響による真摯な演奏には、好感を持つことができた。

さて、この日のメインは、交響曲ではなく、協奏曲である。このパターンは少し珍しいが、最近も佐渡裕指揮ウィーン・トーンキュンストラー管と、鬼才ピアニスト、ヴァレリー・アファナシエフの共演でも同様のケースがあった。そのときのメインはブラームスの 2番のコンチェルト。それに対して今回は 1番のコンチェルトである。ソロを弾くのは、私の見るところ、アファナシエフに優るとも劣らない鬼才、1961年カナダ生まれのマルカンドレ・アムランである。
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彼の名前はマルク=アンドレ・アムランという表記でなじみがあるが、今回のプログラムではファーストネームは「マルカンドレ」となっていて、Wiki を見ると、この表記の方が実際の発音に近いようだ。因みに Wiki には、「以前は眼鏡をかけていたが、レーシック手術を受けて以降は外している」という、音楽には全く関係ない記述も見られるが (笑)、今回の演奏では眼鏡をかけていた。老眼鏡かもしれないが、まあそんなことはどうでもよい。私はこのピアニストには少し思い入れがあって、1999年の来日時には、それまで CD で親しんでいた、フレデリック・ジェフスキーの「不屈の民」変奏曲の驚愕の実演を聴きに行ったし、2001年には、異端の大作であるフェルッチョ・ブゾーニのピアノ協奏曲の日本初演を聴きに行った。それら以外に CD では、彼が得意とするレパートリーである超絶技巧を駆使したニコライ・メトネルのピアノ・ソナタ全集 4枚組も聴いている。彼はピアニストの王道とは少し外れたところで、たったひとりの王国を築いている芸術家だというイメージがある。以前リサイタルで感じたことは (実は昨年アファナシエフの記事を書いたときに同じ比喩を使ったが)、「明日世界が終わるとしても、つまり、一人の聴衆もいないとしても、ずっとこのように弾き続けるのではないかというような印象の音楽」なのである。だが、今回久しぶりに彼の実演に触れてみて、少し違う印象を持った。ダイナミックレンジが広く、強い音でも濁らない高い技術は相変わらずだが、その表現自体は大変オーソドックスではなかっただろうか。ブラームス若書きの、青春の情熱溢れる名曲が、その持ち味を充分出して演奏されているのは、少々意外であったとも言える。私が特に素晴らしいと思ったのは、第 2楽章でピアノが孤独な呟きをもらす箇所であり、これはもはや、世界の終わりではなく、彼を聴きたいと思う聴衆が集っている場で説得力を持つ音楽であったと思う。但し、もちろん迫力に不足することはなく、素晴らしい演奏であったことは間違いない。だが、彼がアンコールとして弾いたシューベルトの 4つの即興曲作品 142 (D.935) の第 2曲では、晩年のシューベルトの超自然的な夢の雰囲気を出し切っており、まさにこれは、世界の終わりに歌う歌であったように思う。そうするとやはり、彼の本当の凄まじさはリサイタルで発揮されるのかもしれない。東京でも是非、リサイタルを開いて欲しいものである。

そんなわけで、ロマン派音楽の神髄に触れる演奏会であったのだが、プログラムには、ブラームスのピアノ協奏曲第 1番に関して、私の知らなかった面白いエピソードが記されているので、ご紹介したい。この曲は、構想の何度かの変更を経て、1859年に作曲者自身のピアノ、彼の友人として知られたヨーゼフ・ヨアヒム指揮により、ハノーファーで初演されている。ブラームスが尊敬する師であったシューマンは 1856年に死去していて、当初スケルツォが予定されていた第 2楽章が緩徐楽章に変更になった理由は、シューマン追悼のためだとも言われているらしい。だが、その楽章について、ブラームスからクララへの手紙では、「あなたの穏やかな肖像画を描きたいと思って書いた」と記されているという。いずれにせよこの曲には、ブラームスのクララへの恋慕が、強く影を落としていることは明らかであろう。そして、面白いエピソードというのは、失敗に終わった初演のあと、この曲が歴史上 2度目に演奏された機会である。それは 1861年。指揮を取ったのは作曲者自身。そしてピアノはなんと、クララ・シューマンであったのだ!! 以前も何度か書いた通り、ブラームスのピアノ協奏曲は、今日でも女流ピアニストがあまり採り上げないレパートリー。それを弾いたクララの演奏とは、一体いかなるものであったのか。もしタイムマシンがあれば、本当に見てみたい光景である。若い頃のブラームスは、こんな目を見張る美青年であったわけで、一方のクララも絶世の美女。ロマン派の鼓動を想像したい。
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by yokohama7474 | 2018-06-24 00:33 | 音楽 (Live) | Comments(0)

絹谷幸二 天空美術館

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現代日本を代表する洋画家、1943年生まれの絹谷幸二 (きぬたに こうじ) については、このブログでは、昨年 11月 23日の記事で、京都国立近代美術館で見た個展の様子をご紹介した。今その記事を自分でも見返してみて、その鮮やかな色彩と、仏像をモチーフにしたダイナミックな造形に、彼の芸術のよい意味での大衆性というものを改めて実感する。その彼の個人美術館が大阪の中心部に存在することを、一体どのくらいの方がご存じであろうか。2016年のクリスマスシーズンにオープンしたというから、未だ開館 2周年にも至っていない、新しい美術館なのである。場所は、これもこのブログで随分以前 (今調べると、2015年 7月なので、この美術館のオープン前である) に採り上げた、大阪駅から徒歩圏内にある、空中庭園で有名な梅田スカイビルの中。私がここを訪れたのは今年の 3月であったが、なかなか記事として採り上げる機会がないままであった。折しも 6/18 (月) に震度 6の大地震に見舞われ、痛ましい死者も出てしまった大阪へのエールの意味を込めて、この美術館をご紹介したい。

さてこの美術館、「天空美術館」という名称の通り、ビルの 27階という高い場所にある。
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展示室内は写真撮影禁止であったので、あまり場内の様子についてヴィジュアルな情報をお伝えできないのは残念だが、まずお伝えしたいのは、入り口を入ってすぐのところに、3D によって絹谷作品の中に入って行けるようなコーナーがあって興味深いということだ。これが、上に掲げたチラシに記載のある、「世界初! 絵の中に飛び込む 3D 映像体験」という宣伝文句の対象である。昨年京都で見た展覧会でも、彼の作品をモチーフにした動画を上映していたが、それは 3D ではなかった。その点ここでは、風神と雷神の迫力ある映像をはじめ、圧倒的な迫力で 3D映像による絹谷ワールドを楽しむことができて、なかなかの見ものである。以前書いたことがあるのだが、私は通常の映画に関しては、3Dにはほとんど価値を見出さない人間で、それは、90分も 120分も、あるいはそれ以上あるような映画作品においては、ストーリーや映像の必然性の観点から、3Dの特性を表現できる部分はどうしても限られてしまうからである。その点、この美術館のように、要するに一定の時間における一定のイメージを強烈に表現するツールとして 3Dを活用することは、大いに意味のあることであり、しかもそれが、絵画作品の作者自身がクオリティコントロールできるという点、ここで見ることのできる映像は、まさに世界でもユニークなものであろう。これは一見の価値ありである。ここでは、借りてきた画像でイメージを持って頂こう。あっと驚く観客の様子が、ちょっとわざとらしいのだが (笑)。
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この美術館の所蔵品は、絹谷の作品をよく知っている人なら嬉しくなるような、またそうでない人には、新たな発見のある、そんな彼らしい作品が並んでいる。ここではあまりご託を並べることなく、そのイメージを並べて行きたい。まずこれは、入り口を訪問客を迎えてくれる大作、「祝・飛龍不二法門」(2013年作)。解説にはないが、2013年に富士山を描いて、「祝」ということは、世界文化遺産への登録を祝して描かれたものだろうか。
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イタリアで制作された、緑も鮮やかな「緑色大地」(1980年作)。
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絹谷作品に時々登場する過去の美術のイメージは、フレスコの技法とよく合っている。「日月天馬飛翔」(2005年作)。
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「春風ボッチチェリ・ヴィーナス誕生へのオマージュ」(2015年作)。もちろん、ボッティチェリの有名な絵画に登場する風の神ゼフュロスと春の女神フローラが、風力発電に一役買っているところなのか、あるいは何か現代文明への警鐘という意味があるのだろうか。
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「竜と闘う聖ゲオルギウス パウロ・ウッチェロへのオマージュ」(2015年作)。ウッチェロは私も大好きな初期ルネサンスのイタリアの画家だが、ここでは軍艦や戦闘機が描かれていて、聖ゲオルギウスと龍の戦いを通して、現代の戦争が暗示されているのだろうか。
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これは、この天空美術館の開館を記念して制作した「大阪城満開日乃出」(2016年作)。日の出を描いているにもかかわらず、月も未だ併存している点に、時間の流れが感じられる。歴史ある大阪の街への絹谷の敬意が感じられ、見ていると元気が出て来るような作品である。
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これも同趣向の作品で、「祝・世界遺産 黄金光日月春々湖上不二 (おうごんひかりにちげつしゅんしゅんこじょうふじ)」(2016年作)。ここにははっきりと「祝・世界遺産」とあるが、描かれたタイミングから言えば、富士山の世界遺産認定というよりも、この美術館の開館を祝っているように思われる。
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「波乗り七福神」(2011年作)。なんとも砕けた作風だが、もともと有難い宝船に乗っている七福神が、何人かずつに分かれて水上スクーターに乗ってもよいではないか。愉快な気分にさせてくれる。
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とまあ、ご託はやはり少し並んでしまったが (笑)、いずれも個性的な作品であり、ほかにも多くの絹谷作品が並んでいるが、もうひとつ面白いことに、ここにはアトリエもあるのである。運が良ければ、ここで絹谷が制作しているところを見ることができるのだろうか。また、子供が参加できるワークショップも時折開かれるという。ただ完成作を鑑賞するだけでなく、絵画の制作過程にも立ち会え、自ら経験できるという個人のアーティストによる美術館が、世の中にそうそうあるとは思えない。
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そして壁には、多くの色の岩絵具が。このあたりが、日本の洋画家らしいとも思うが、彼の使うフレスコ画 (本人に言葉ではアフレスコ) の技法にこの絵具が合っているということだろう。そうするとこれはもしかして、ただの展示ではなく、実際に制作に使う絵具???
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そしてこの美術館、天空にあるため、このような景色を見ながらゆっくりとコーヒーなど楽しむことができるのである。気が利いていることには、その日の日没時刻を示す表示まで、そこにはあるのである。
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このような大変ユニークな美術館であるので、美術好きの方には是非一度は見て欲しい場所である。願わくば、大阪やそれ以外の土地に、これ以上の地震の被害がありませんように!!

by yokohama7474 | 2018-06-23 11:15 | 美術・旅行 | Comments(0)

アベンジャーズ インフィニティ・ウォー (アンソニー & ジョー・ルッソ監督 / 原題 : Avengers ; Infinity War)

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マーヴェル社の「アヴェンジャー」シリーズは、と書いてしまうが、一般には「マーベル社の『アベンジャー』シリーズは」という表記がなされるかもしれない。ただこのブログでは、V の音はなるべく「ヴィ」と表記することにしているので、そんなことになるのだが、ともかく、既に様々な映画を世に送り出している。このブログでも過去にこのシリーズの作品を採り上げ、ある場合には厳しいことを書き、ある場合には絶賛を浴びせてきたわけであるが、ここにまた、とてつもないスケールの作品が登場した。上のチラシにある通り、ここでは最強が終わり、アヴェンジャーズが全滅するという。予告編でも明白であったことには、世界を救うヒーローたちであるアヴェンジャーズの前に、最強の敵が立ちふさがり、世界が危機に瀕するという設定である。今世紀最初の年に起こった同時多発テロ以降、ある時期は世界の終わりというような設定の映画は作られていなかったと記憶するが、ある意味でこの映画の臆面もない終末感の表出には、あの忌まわしいテロから 17年を経過した今、観客 (ハリウッド映画であるから、その想定は米国の観客であろう) に対して容赦ない恐怖心を煽る時代に戻っているのだなと実感する。そしてこの映画を見て感じたこととしては、まず、1話で完結しない話はちょっとフェアではないし、これでは、風呂敷を広げ過ぎて収集がつかなくなったという見方も出てきてしまうだろうということ。それから、そのような思いにも関わらず、これだけ豪華な俳優陣を起用し、CG もふんだんに使うことで、見ごたえ自体にはなかなかのものがあるということ。そして、もう単独のヒーロー物はできないのではないかという、多少なりとも悲観的な思いである。まあなにせ、ここに出て来るヒーローたちはこんなに沢山いるのである。
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面白いのは、今回この「アヴェンジャーズ」シリーズに、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」のキャクターが参加していることだ (グルートは成長している。笑)。スパイダーマンは「シビル・ウォー / キャプテン・アメリカ」から参戦しているし、その作品で初登場したブラックパンサーについては、単独映画に続いてここでも重要な役を果たしている。また、最近単独映画で登場したドクター・ストレンジは、ここでは主要な役のひとりなのである。あ、それから、キャプテン・アメリカはここでは終始素顔を見せているが、それも「シビル・ウォー / キャプテン・アメリカ」での設定を引き継いだものであろうか。これが本作に登場するヒーローたちのイメージ。あらら、アイアンマンのロバート・ダウニーJr. の姿はここにはない。
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そして、並み居るアヴェンジャーズをものともせず、世界を破滅へと向かわせる最強の敵、サノス。
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私はこの役を演じる役者をてっきりミッキー・ロークかと思い、「仕事があってよかったねぇ」という余計な思いまで抱いたのであるが (笑)、実はそれは間違いで、演じるのはジョシュ・ブローリン。実は調べてみて分かったことには、このサノスというキャラクターは、既に過去何本かの「アヴェンジャーズ」シリーズに出ていて、そこでこの役者が演じていたのである。彼は、現在上映中の「デッドブール 2」にも敵役として出演しているようだ。
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さて、そのように見どころは満載と言ってよいし、壮大なスケールの作品なので、これを見て不満を覚える人はあまりいないのではないだろうか。また、特に「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」のメンバーの登場シーンでは、かなり小ネタのきいたところがあり、これなども大変面白い。と書きながら、やはり私は自問する。昔はヒーローたるもの、少し不利な形勢に陥っても、知恵と勇気と体力で、最後には敵をやっつける存在であった。いや、今でも基本的にはそのような設定の映画が多い。だがここでのヒーローたちの苦戦ぶりは、一体なんだろう。こんなに悲惨な設定にする必要が、どこにあるのだろうか。上記の通り、この作品は 1作では完結せず、ストーリーが途中で終わっているので、きっと次の作品では、ヒーローたちの知恵と勇気と体力と、そしてきっとチームワークで、悪者サノスを成敗するのであろう。だが、そんなことをしないと観客が満足しない時代になっているのかと思うと、かなり複雑な気持ちになるのである。因みに本作の監督は、過去に「キャプテン・アメリカ / ウィンター・ソルジャー」や「シビル・ウォー / キャプテン・アメリカ」を監督したアンソニーとジョーのルッソ兄弟。この 2作と同様、なかなかの手腕で大作をまとめているとは思う。
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プログラムによると、2008年の「アイアンマン」以来、今年の「ブラックパンサー」まで、過去 10年の間にマーヴェルが制作した映画は 18本とのこと。これはなかなかの数字であり、すべて見ている人もそれなりにいるだろう (今数えてみると、私が見たのはたったの 11本だ)。大変ダイナミックな活動であると思う。だがその一方で、過去の作品を見ていないとストーリー展開のフォローに苦しむケースも多々あるはず。そうなると、新作ができても敬遠するケースもありうるのではないか。ゆえに、よほど興行成績に自信がないと、このような大々的な展開は難しいと思うわけである。そこには明らかなチャレンジがある。そしてそのチャレンジが、映画という表現分野の将来に対して、いかほどの意味を持つのか、私には現時点では答えがない。ともあれ、この作品の続編が公開されれば、また見ざるを得ないのである。しょうがない、過去の「アヴェンジャー」シリーズも、見てみるかなぁ。・・・かくして私は、まんまとマーヴェル社の戦略に飲まれて行くのであった。

by yokohama7474 | 2018-06-22 01:32 | 映画 | Comments(0)

いぬやしき (佐藤信介監督)

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まず一言、この映画の感想を述べておこう。面白い。これもまた、これまで何度このブログでご紹介したか分からないほど頻繁なパターンである、マンガを原作とする映画なのであり、原作マンガを全く知らない私などは、映画の出来しか分からないのだが、繰り返しだがこの映画は面白い。簡単にストーリーをご紹介すると、会社でも家庭でも居場所のない、痛いサラリーマンの犬屋敷壱郎 (いぬやしきいちろう) が、医者から余命僅かとの宣告を受けるのだが、家族の誰もその深刻な事態に耳を傾けようとしない。唯一は、外で拾ってきた犬だけが話し相手なのであるが、夜中にその犬とともに公園で、訳ありげな高校生の若者と出会う。そしてこの 2人に異常な体験が起こり、超人的能力が突然身に着く。さて、それから始まるジジイ対高校生の対決。まずは役者がよい。ジジイ役に木梨憲武、高校生役に佐藤健 (たける)。これが原作のキャラクターとの対比。
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この映画のよいところは、このジジイと高校生に何が起こったかについての、下手な説明がないこと。理由はよく分からないが、この 2人は一夜を境に、善と悪とに分かれて闘う運命なのだ。いや、さらに正確に言うと、何が善で何が悪なのかについては、様々な意見があるだろう。一応、高校生の獅子神は悪者なのであるが、なぜにダークサイドに墜ちてしまったのか、よく分かる流れになっている。だが、やはり観客としては、ジジイである犬屋敷に対する感情移入の方が大きいだろう。だってオヤジたるもの、こんなシーンを見て平気でいられるわけがない。
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実際の木梨は 1962年生まれなので、未だジジイであるわけもない。でも、ここでの彼の演技は、「ジッジイ!!」と言いたくなるほど情けなく、だが開き直って男らしくなるジジイのイメージを、実に切実に演じている。対する高校生の獅子神は、こんな感じで、とても朝ドラでシャイな青年を演じている役者とは思えない。実は私は、以前も書いたことがあると思うが、「るろうに剣心」シリーズにおける佐藤の凛々しい演技を素晴らしいと思っているので、ここでは、悪役もさまになっているなぁと感心した次第。ただ、インターネットを通じて無差別殺人を行う設定には、さすがに無理があるなぁと感じたのであるが (笑)。ばんっ!!
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ほかにも様々な役者が出ている映画だが、主役の 2人以外に素晴らしい演技を披露しているのは、もちろんこの天才女優だ。
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二階堂ふみ。私は、彼女は言ってみれば第二の大竹しのぶになるだろうと思う。ちょうど私がこの映画を見たタイミングは、彼女が大河ドラマで奄美の女性を演じて、「やってくりしょり」などと言っていた頃で、そのキャラクターのあまりの違いに、たまりがど (注釈 : 奄美言葉で「びっくりした」)。いやそれにしても、ここでの彼女の演技は、役柄の意味を完全に理解して、しかも自然体でそのキャラクターを演じている点、実に驚くべきである。一途で、でも不器用で、自分に正直で、それゆえに自らの身に起こる悲劇も甘んじて受ける。こんなキャラクターは、例えばハリウッドにはあまりないだろう。ええっと、あれだけいろんなキャラクターが出ている「アベンジャーズ」シリーズにこんなキャラクターがいるだろうか。これは世界に誇ってよい、日本映画の成果ではないだろうか。

それから、私がいつも唱えているのは、CG は要するに手段であって目的ではないということ。つまり、ストーリーの流れや、キャラクター設定の極端さを表すために CG を使うというのが本来あるべき姿であり、CG があるからこんな映像を作ろうと考えるのは本末転倒である。それゆえ私は、この映画において新宿副都心を舞台に展開されるバトルにおいて、CG を手段として使っているということには、本当に心から快哉を叫びたいのである。ここではジジイ役の木梨も、そのオーバーアクションを喜んで披露していて、それが嫌味にならないという点は、この映画のクオリティを語っていると思う。何より、随所に見られる遊び心が素晴らしい。これはそのシーンのイメージ。やっぱり、面白そうでしょう???
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このジジイと高校生がいきなり超能力を身に着けると上に書いたが、その弱点についても、あまり説明はない。だが、説明はなくとも、心地よい唐突感を感じることができるのも、映画ならではの「ウソ」の世界である。このようなウソをうまく表現するのは存外難しいのであるが、私がこの映画を見る前から何かある予感があったのは、監督が佐藤信介であることによる。このブログで絶賛した「アイアムアヒーロー」が、私にとっては、彼の手腕を如実に示す作品であった。これから公開される彼の監督作では、「Bleach」(これもマンガの映画化のようである) が面白そうだ。そして、彼の「GANTZ」シリーズを見ていないのが残念だ。
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この映画によって、全国のジジイ及びその予備軍が、どの程度勇気づけられたかは分からない。そんな無粋なことに考えを巡らせるのではなく、映画表現の多様化のひとつがここで実現していることにこそ、この映画の価値を見出したいと思う。佐藤のこれからの活動に注目だ。

by yokohama7474 | 2018-06-21 00:21 | 映画 | Comments(0)

コルネリウス・マイスター指揮 読売日本交響楽団 (チェロ : 石坂団十郎、ヴィオラ : 柳瀬省太) 2018年 6月19日 サントリーホール

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読売日本交響楽団 (通称「読響」) の首席客演指揮者、ドイツの俊英コルネリウス・マイスターの登場である。おりしもこの日、サッカーワールドカップの日本の初戦、対コロンビア戦が 21時からということもあってか、サントリーホールのあるアークヒルズは全く閑散としており、ホールの中も、このコンビの演奏会としては信じがたいほどの空席 (半分くらいの入りであったろうか)。思えばマイスターはなんと真面目な指揮者であることか。彼の祖国ドイツは初戦でメキシコに敗れ、彼が今回日本に滞在しているうちにスウェーデン戦と韓国戦がある。集中力を必要とする指揮者という職業の人にとっては、なかなかに厳しいスケジュールではないだろうか (笑)。

このような軽い話題のあとには、そのワールドカップ開催地であるロシアから、悲しい話題を。このブログでも、2016年、2017年という最近の演奏会をご紹介した、この読響の名誉指揮者のひとり、ゲンナジー・ロジェストヴェンスキーが、去る 6月17日に、87歳で世を去った。ロジェストヴェンスキーは、私がクラシックを少しかじりはじめた小学生のときに、我が家にあったクラシックレコード名曲集のようなアナログ LP のセット物のうち何枚かで指揮をしていた人。長じてからは、主としてこの読響との共演を何度も聴いて、その長い指揮棒から繰り出される分厚い音に魅了されたものであった。会場には、この名指揮者を偲ぶ遺品の数々が展示されていた。
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演奏会に先立って、ロジェストヴェンスキー追悼として、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」から「情景 / 冬の松林」が演奏された。これは第 1幕の大詰めで演奏される音楽で、決してしんねりむっつりした暗い曲ではなく、雪の降る冬の情景を彷彿とさせる、なんとも懐かしい抒情を湛えた美曲であり、打楽器も入って盛り上がる部分もある。これは、最後まで感傷とは無縁の職人性を持ち続けたロジェストヴェンスキーを偲ぶにふさわしい曲。暗譜で指揮をするマイスターに応えるオケも大熱演で、聴いているうちに胸が熱くなるのを禁じ得なかった。私の近くの席の女性は、「いろいろ思い出しちゃって」と連れの人に語りながら、オイオイと泣いていたし、場内ではほかにも、ハンカチで目を拭う人たちの姿が見られたものだ。巨匠よ、安らかに。日本の聴衆は決してあなたを忘れませんよ。
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さて、気を取り直してコンサートに戻るとしよう。私はこのプログラム、本当に素晴らしいと思うし、東京のオケの日常はこのレヴェルに達しているということを理解する一助となろう。オール・リヒャルト・シュトラウス・プログラムである。
 交響詩「ドン・キホーテ」作品35 (チェロ : 石坂団十郎、ヴィオラ : 柳瀬省太)
 歌劇「カプリッチョ」から前奏曲と月光の音楽
 歌劇「影のない女」による交響的幻想曲

最初の「ドン・キホーテ」は、作曲者がキャリア前半に書いた様々な傑作交響詩のひとつであり、もちろんあのセルバンテスの「ドン・キホーテ」を音にしたもの。ドン・キホーテを表す独奏チェロと、その従者サンチョ・パンサを表す独奏ヴィオラが活躍する。ここでチェロを弾いたのは、日本を代表する若手奏者、石坂団十郎であり、ヴィオラの方は、このオケの首席である柳瀬省太であった。面白かったのは、通常ヴィオラ・ソロは立って演奏するものだが、今回は指揮台の左右にちょっとした台と椅子が置いてある。そう、チェロだけではなく、ヴィオラも椅子に座っての演奏。それには理由があって、オケの一員でもある柳瀬は、ソロの部分以外はオケのメンバーと一緒にヴィオラ・パートを演奏したのである。改めてその情景を見ながらこの音楽を聴いてみると、やはり独奏チェロの活躍がオケを引っ張っていて、独奏ヴィオラは多少なりとも従属的であることを実感した。いやもちろん、それでも、ソロを弾きながらオケのパートを弾くなどという離れ業は、なかなかできるものではない。また、石坂のチェロは、もう少し粘ってもよい箇所もあったかもしれないが、実にすっきりと洗練されたもの。この二人のソリストとともに読響も、この多彩な響きに満ちた複雑な曲を、マイスターのストレートな表現に従って堂々と再現した。この写真で、左が石坂、右が柳瀬。尚、柳瀬は、前半でこの曲を弾いたあと、後半では何食わぬ顔で (?) オケのトップを弾いていた。大したものである。
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さて、前半の「ドン・キホーテ」もさることながら、それ以上の聴き物は、やはり後半であったろう。シュトラウス最後のオペラ「カプリッチョ」の絶美の音楽と、その 30年近く前に書かれた、オーケストラ音楽の極致とも思われる「影のない女」から編曲された演奏会用の作品。正直なところ、オペラが日常的な存在であるはずのヨーロッパでは、このような曲目に対する聴衆の一定の理解はあるだろうが、日本ではなかなかなじみがないと言えると思う。それゆえに、若い頃からオペラ経験を積んでいて、今年の 9月からは (奇しくも読響の常任指揮者シルヴァン・カンブルランの後を継いで) シュトゥットガルト歌劇場の音楽監督に就任するマイスターを指揮台に迎えてこのようなレパートリーを演奏することは、読響にとっても大きなチャレンジであり貴重な経験であろう。尚マイスターは、「ドン・キホーテ」は何やら必要以上に部厚いスコアを見ながらの指揮であったが、後半の 2曲は完全暗譜による指揮。
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この「カプリッチョ」は、戦争中の 1942年に初演されている。台本を名指揮者のクレメンス・クラウスが書いていて、オペラにおいてセリフが先か音楽が先かという議論をするという、まぁそれはとてもとても戦時中に書かれたものとは思われない、浮世離れしたものなのであるが、その音楽はまた、とてつもなく素晴らしい。前奏曲は、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ各 2本ずつで演奏される。マイスターの取るヴァイオリン左右対抗配置では、ちょうど指揮者の左から右に向かって、1列目にいる奏者たち 6人が演奏することとなって、好都合であった。その前奏曲のあと、このオペラの終盤で登場する「月光の音楽」につながったのだが、これはカラヤンも晩年に録音を残しているような曲。本当に美しくて、深々と鳴る音に陶酔するような演奏。そして最後の「影のない女」であるが、私は上に、この曲が「カプリッチョ」より 30年近く前に書かれたと述べた。実際、このオペラの初演は 1919年 (これは第一次大戦終戦の年だ)。だが、この交響的幻想曲が作られたのは、「カプリッチョ」より後の 1946年。戦後の非ナチ化裁判に巻き込まれた作曲者は、一体いかなる思いで自身の大作をコンパクトな管弦楽曲にまとめたものであろうか。但し、作曲者自身による編曲では、オペラの編成よりも小さくされている (それによって演奏頻度を上げたいという思いだったのだろうか) ところ、今回の演奏では、作曲家ペーター・ルジツカ (1948年生まれ) が 2009年に編曲した大編成の版を使っている。ステージ上にはチェレスタが 2台並んでいるし、オルガンも入る。そして驚いたことには、終結部では、グロッケンシュピールの腹の部分を複数の奏者が弓で擦る奏法が使われていた。これは現代音楽では結構ある手法だが、シュトラウスのオリジナル・スコアにあるのだろうか。とにかく今回のマイスターと読響の演奏は、ダイナミックなシュトラウスの音楽に必要な推進力と、充分な音の重みが実現されていて、それは見事なもの。やはりこの指揮者とオケも、東京に新たな存在意義を生み出しているのだということを、再認識することとなった。

6月も終わりに近づき、そろそろシーズンを終えるオケもある (例えば N 響・・・但しこのオケは、ロジェストヴェンスキーより 1歳下であるだけの、つまりはもうすぐ 86歳の!!、ウラディーミル・フェドセーエフと 7月に九州各地で演奏会を行う点、注目される)。だが、この読響をはじめとして、まだまだこれから充実のプログラムを組んでいるオケもあるのである。このマイスターも、もうひとつ絶大なる期待を持てる曲目が用意されている。願わくば、マイスターの集中力が、ワールドカップの行方によって左右されませんように。

by yokohama7474 | 2018-06-20 00:23 | 音楽 (Live) | Comments(0)


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