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クワイエット・プレイス (ジョン・クラシンスキー監督 / 原題 : A Quiet Place)

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地球に隕石が衝突し、宇宙生物が地球に到着。宇宙生物の正体は不明だが、その「何か」は盲目である代わりに異常に敏感な聴覚を持ち、ほかの生物が音を立てれば最後、どこからともなくその「何か」が走り寄って来て、その生物は餌食となってしまう。既に大半の人々が犠牲となり、街はゴーストタウン。そんな荒廃した地球でサバイバルを続ける一家は、果たして生き残れるのであろうか。そのような内容の映画である。ストーリーとしてはもうそれ以上でも以下でもなく、至ってシンプル。上映時間も 90分と手頃である。なので、見たい人と見たくない人に明確に分かれる映画であろうと思うのだが、私の場合は、この手のホラーには目がない上に、やはりこの人が主演であることが、見に行こうと思った大きな理由であった。
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ここで子供たちに音を立てないように指示している母親役は、エミリー・ブラントである。このブログでも彼女の出演作を何本か採り上げてきているが、これからさらによくなる可能性を持った女優だと思う (この後には、あの「メリー・ポピンズ」のリメイク版の主役が控える)。本人いわく、これまで母親役を演じた記憶がないとのことであるから、これは彼女にとっても大きな挑戦であったろう。また彼女はこのようにも語っている。

QUOTE
わたしが映画鑑賞する時、もっとも目を引くシーンと言ったらセリフがないシーンだったりする。人と人の間で何があるのか、言葉で表されていない何かを見るのが大好き。気の利いたセリフがいっぱい詰まったシーンだから印象的になる、っていうわけではないの。
UNQUOTE

うむ、これは何か分かるような気がする一方で、私にとって映画とは、映像と音声のアマルガム。そこには映像があり音声があるからこそ、様々なドラマが生まれるのである。それなのに、セリフがない映画を見るなんて、なんと矛盾したことか。いえいえ、実はこの映画、セリフがないわけではない。それこそコソコソ話し合う家族の会話もあるし、大きな音のする滝の近くでは、普通の声でも会話ができる。それから、登場人物たちが自由に話せない分、観客は注意して耳を澄ますようになり、そうするとこの映画で再現されている、世界の中に満ちているささやかな音の数々が、どんどん耳を刺激するのである。おぉ、これぞ 20世紀の現代音楽界の風雲児、ジョン・ケージがあの有名な「4分33秒」で示した思想そのものではないか!! つまり、ステージ上で音楽家たちが楽器を演奏しない時間、聴衆はしきりに耳を澄ませ、世界に存在する様々な音に気がつくというもの。だがこの映画がケージの音楽 (としよう、一応) と異なるのは、ちょっとでも音を立てれば、こんな怪物が容赦なく襲い掛かってくるということだ。
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実際この映画の中で主人公一家は、もう見ていられないくらいの危機また危機に襲われる。そのあたりの作りはかなり巧妙で、一難去ってまた一難の設定は面白いし、それをまた凝ったカメラワークで見せるあたりも、監督の確かな手腕が感じられて、好感が持てる。ここで家族の絶体絶命の危機を描いている監督は、ジョン・クラシンスキーという人である。実はこの人、もともと俳優であって、この映画では脚本、監督、製作総指揮に加え、出演もこなしている。エミリー・ブラント演じるエヴリンの夫役。これだけの働きをすると、映画がヒットしたらかなり収入があるだろうなぁ。「しぃっ。黙らないと、せっかく稼いだ金をカミさんに持って行かれるではないか!!」 という意味ではないと思うが (笑)。
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などと軽口を叩いているにはわけがあって、実生活でのこの人のカミさんは、誰あろう、エミリー・ブラントだ。だから劇中のこういうシーンも、自然な親密さがにじみ出ているのである。
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このような夫婦の共演によって、なかなか見ごたえのある映画になっていることは確かである。そのことは大変結構なのだが、それでも私がこの映画の設定に疑問を持った点を 2つ、挙げておこう。ひとつは、劇中でこの夫婦に赤ん坊が生まれること。その設定によって、息詰まるサスペンスシーンがいくつもできてはいる (無力な赤ん坊に迫るおぞましい怪物という設定は、誰しも息が詰まるものだ) が、ちょっと待て。日常生活でちょっと音を立てるだけでも怪物の襲撃に怯え続ける家族が、子供を作るだろうか。親がどんなになだめても、赤ん坊の泣き声を止めることは絶対不可能だ。だから、よほど怪物退治の秘策があるか、さもなくば絶対安全な場所を確保するのでなければ、サバイバル生活を送る夫婦が、危険を顧みずに子供を作るわけはないと思うのである。それからもうひとつ、父親が子供を守るために随分と屋外を走るシーンが出て来るが、そこでの足音は、怪物に聞かれないのだろうか。足音というものは存外響くもの。こんな明確な獲物の動きをキャッチできない怪物は、生存競争に残っていけないのではないかと、ちょっと心配になってしまった (笑)。

いつも書いているように、映画とは嘘の連続でできているがゆえに、その映画の嘘が嘘と認識されるような映画には、やはり課題があるということだ。大きな流れにおいて結構いい線行っている映画だけに、この点については惜しいと思ったものである。「こらこら、黙らないと映画がヒットしないじゃないか!!」
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ともあれ、この設定は極端にせよ、人は生きていれば窮地に陥ることもあるものだ。そんな目に遭ったときには、この映画における登場人物たちの知恵と勇気を思い出して、生き残ろうではないか!!

by yokohama7474 | 2018-10-30 23:41 | 映画 | Comments(0)

内田光子 ピアノ・リサイタル 2018年10月29日 サントリーホール

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内田光子のピアノを聴く。これはやはり、現代音楽界のイヴェントとしては、特別なことなのである。このブログでも、2015年11月15日のリサイタルについての記事を書いたが、以来 3年ぶりのサントリーホールでの彼女のリサイタルを、聴き逃してなるものか。正直なところ、連日のオーケストラコンサートで若干の疲れはあったのであるが、まぁそれも誰に強制されたわけでもなし (笑)、ここはひとつ、オケの大音量ではなく、ピアノ 1台で紡ぎ出される音楽の深みを堪能したい。今回の内田のリサイタルは 2回で、いずれもシューベルトのソナタが 3曲ずつ演奏される。今回の曲目は以下の通り。
 ピアノ・ソナタ第 7番変ホ長調 D.568
 ピアノ・ソナタ第14番イ短調 D.784
 ピアノ・ソナタ第20番イ長調 D.959

1980年代にモーツァルトで名を上げた内田は、以来ドイツ・オーストリア系のレパートリーを中心とした活動を展開してきており、シューベルトもまた、彼女が心血を注いで取り組んでいる作曲家である。2017/18 シーズンにはそのシューベルトのソナタ 12曲を世界各地で演奏しているらしく、今回東京ではその半数の 6曲が披露されることになる。そもそもシューベルトのピアノ・ソナタは、晩年の作品以外にはそれほど一般的なレパートリーとして人口に膾炙しているとは言えず、番号でいうと一応 21番まであるが、欠番あり未完ありで、なかなかその全容は掴みにくい。私も、随分以前にアンドラーシュ・シフの連続演奏会の FM 放送をエアチェックして頑張って聴いたこともあるし、ウィルヘルム・ケンプのドイツ・グラモフォン全録音 34枚組をすべて聴き通したときにも、やはりシューベルトのソナタ全集が含まれていたはずだ。だがやはり、今回の曲目の前半、つまり 7番と14番にはあまりなじみがない。いや実は、手元にあって、これも以前確かに聴いたはずの内田によるシューベルト作品集 8枚組 (ソナタは 12曲含まれているが、今シーズン内田が世界で演奏している 12曲と同じなのだろうか) には、7番も14番も入っているのだが、恥ずかしいことに、あまり覚えがないのである。
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そのように、私にとっては、曲によるなじみにばらつきのある曲目であったのだが、それにしてもこの人のピアノには、曲にかかわらず、何度聴いても特別な味わいがある。表現する言葉を見つけるのが難しいが、例えば、音楽における技術の重要性を感じさせない演奏、とでも言おうか。つまり、ピアニストの中にはひたすら高い技術を誇示する人もいれば、とにかく華麗に弾きこなすことを身上とする人もいる。それぞれにタイプというものがあるので、私はそのようなピアニストを否定する気は毛頭ないが、しかし内田のピアノを聴くと、音楽の持つ真実の美は、このような演奏の中から立ち現れるのではないかと思われてくるのである。それをもって不要な精神論を唱える気はさらさらなく、音という物理現象に虚心坦懐に耳を傾けることこそが重要であると思う。そうすると、上に書いたことと矛盾するかもしれないが、内田の持つ超一級の技術に段々と気づかされるから不思議である。シューベルトの音楽には歌が満ちているものの、その歌はともすると大変なナイーヴさに遮られてしまい、例えば最近の内田がレパートリーとはしていないショパンなどと比べると、気の利いた作りにはなっていない。でもそのような音楽の機微を、様々に表情を変えながら聴衆に伝えることは、超一級の技術なしにはできないことではないだろうか。もちろん今回の曲目にも、14番の終楽章のように、ただ美しいだけでなくスピード感や音量が必要な音楽が含まれているのだが、美感を保ちながら進んで行く音楽には、よく聴くと素晴らしい美が常に存在している。そう、帰宅してからこの 14番の CD をもう一度聴いてみたが、この 2000年の録音よりも今回の演奏の方が、より曲想のコントラストが大きいような気がする。この見事な演奏を、シューベルト自身が聴いたら何と言うであろうか。
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さて、内田は 2011年に、シューベルトの最後のソナタ 3曲、つまりは第 19・20・21番を一晩で演奏したことがあるようだ。そう言えばそうだったが、私はその時にはそのプログラムではなく、ハーゲン・クァルテットとの共演でベートーヴェンの弦楽四重奏曲 14番とブラームスのピアノ五重奏曲という演目を選んだのであった。今回の 20番を聴いてみると、その時の 3曲を聴き逃したことが悔やまれる。晩年には音楽が巨大化して行き、同時に死への憧れを感じさせるようになったシューベルトだが、その音楽は時に、ぞっとするような深淵を覗かせる。この 20番においても、何か空元気のような装った広壮さを持つ第 1楽章から、部屋にこもってひとりで歌っているような第 2楽章に入ると、ぐっと孤独感が募るのだ。音楽はその後高揚も見せるものの、そこにある壮絶な孤独こそ、晩年のシューベルト特有のものであり、内田がピアノから紡ぎ出すこの音楽の神髄なのである。今回のプログラムに、2011年の演奏会の前に内田が「シューベルトを語る」という会で喋った内容として、この 20番のソナタの第 2楽章アンダンティーノを、「もっとも地獄に近い音楽」と表現したとある。さもありなんである。実は今回も、このコンサート前日に同様のスペシャルトークがあったようで、いかなる内容であったのか興味が募る。もともとこの人は、日本語であれ英語であれ、語ることにも重きを置いている音楽家であり、私はその姿勢を常々尊敬しているのである。これは 2013年のスペシャルトークの様子。
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このようなシューベルト・リサイタル、大きな拍手に応えて演奏されたアンコールは、意外なことにシューベルトではなくモーツァルトだ。ピアノ・ソナタ第 10番 K.330 の第 2楽章アンダンテ・カンタービレ。これもまた、モーツァルトのピアノ音楽の中では深い孤独を宿したもの。いつもの通り決して安っぽい感傷には陥らない内田の素晴らしいピアノが、しっかりと音を紡ぎ出して、音楽の奥深さを雄弁に語ったのである。客席はすぐにスタンディング・オベーションとなり、この偉大なピアニストを称えたのであった。

さて最後に余談だが、内田が「もっとも地獄に近い音楽」と称したこのシューベルトのピアノ・ソナタ 20番の第 2楽章を使った素晴らしい映画があった。それはトルコ映画で、2014年のカンヌ映画祭パルムドールに輝いた「雪の轍」という作品。私も 2015年 7月25日付の記事で採り上げているので、ご興味ある向きは是非ご一読を。DVD にもなっているので、お薦めしておこう。
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by yokohama7474 | 2018-10-30 00:40 | 音楽 (Live) | Comments(2)

大野和士指揮 東京都交響楽団 2018年10月28日 新宿文化センター

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今月の 3種類の定期演奏会の様子を既にレポートした、東京都交響楽団 (通称「都響」) とその音楽監督大野和士の演奏会の、4つめのプログラム。その 4つのプログラムのうち最初の 2つはフランス音楽。そして、前回のシュレーカーとツェムリンスキーはウィーンの音楽。今回はそれに続くドイツ音楽であり、待望のオール・ワーグナー・プログラムである。以下のような曲目であった。
 歌劇「タンホイザー」序曲
 楽劇「トリスタンとイゾルデ」から前奏曲と愛の死
 楽劇「ワルキューレ」第 3幕第 3場

このところ連日コンサートに通っている私であるが、これまでの数回のコンサートのそれぞれが、不思議とそれに先立つコンサートと共鳴していることを見てきた。そして今回も、前日に開かれたコンサートの作曲者ブルックナーが崇拝したワーグナーの音楽という点につながりがあるし、そしてまた、前回の指揮者上岡敏之は今回の指揮者大野和士とは、湘南高校 - 東京藝大とつながる 1年違いの後輩 (但し大野は早生まれで、2人はともに 1960年の同年生まれ) であるのである。これも何かのご縁だろうか。大野の場合は、この都響の音楽監督に加えて、つい先ごろから新国立劇場の芸術監督も務めており、まさに東京の顔。これからオリンピックに向けて盛り上がっていくはずのこの街を、音楽の面でリードすべき存在なのである。
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日本にはもともとオペラハウスがなかったので、しばらく前まで日本の指揮者の多くは、そのキャリア形成においてオペラ経験にどっぷり浸かるチャンスはあまりなかった。だが大野は、ドイツやフランスやベルギーで、筋金入りのオペラ経験を積んだ人である。そしてワーグナーは彼のオペラへの情熱の重要な部分を占めている作曲家に違いない。大野のワーグナーとして忘れられないのは、彼が 2010年に新国立劇場で指揮した「トリスタンとイゾルデ」である。その、命を削るかのような鬼気迫る音は、今も耳の底にこびりついているようだ。そんな大野と都響のワーグナー。新宿文化センターという若干異例な会場でのコンサートであったせいか、少し空席も見えたのだが、東京の音楽ファン必聴の素晴らしい演奏となったのである。

「タンホイザー」序曲を聴くと、その高揚感にいつも胸が高鳴る私なのであるが、大野と都響の演奏は、冒頭の巡礼の音楽からして、神秘感と明晰さを併せ持った音であり、それから 15分の間、めくるめく音響の渦がストレートに耳に飛び込んできて、圧巻であった。聴いているうちに、「タンホイザー」の全曲を見たくなってきた。件の新国立劇場では、トルステン・ケールの題名訳、アッシャー・フィッシュの指揮で、来年 1月から 2月にかけて上演される。うーん。見に行くこととするか。そして 2曲目の「トリスタン」の前奏曲と愛の死も、大野と都響の紡ぎ出す音響には官能性があって、実にワーグナーらしい。このブログでは過去に何度もワーグナー作品を紹介し、その重厚で長ったらしいオペラの数々を異様に好む日本の聴衆を、ド M などと揶揄したものであるが、このような演奏を聴いていると、ド M も悪くないなと思われてくるから不思議である (笑)。

休憩のあとに演奏されたのは、「ワルキューレ」の最後の場面。最愛の娘ブリュンヒルデを岩山に眠らせ、その周りに炎を配したヴォータンが深い感情を歌う場面である。ここでブリュンヒルデとヴォータンを歌ったのは、ともにリトアニア出身の歌手、ソプラノのアウシュリネ・ストゥンディーテと、バリトンのアルマス・ヴィルパ。実はこの 2人、つい先頃の大野 / 都響によるツェムリンスキーの抒情交響曲でも揃って歌っていた人たちだ。
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その抒情交響曲の記事では歌手のことはほとんど触れなかったが、ストゥンディーテは大野のもとでショスタコーヴィチの「ムツェンクス郡のマクベス夫人」を歌ったり、メータの指揮で「フィデリオ」を歌ったり、あるいはコルンゴルトの「ヘリアーネの奇蹟」、シュレーカーの「烙印を押された人々」なども歌っているというから、ブリュンヒルデ歌いとしては恰好の人材である。一方のスヴィルパの方は、チューリヒ歌劇場を経てバーデン州立歌劇場に所属していたというから、一時期このオペラハウスの音楽監督であった大野とは、その頃に共演しているのだろうか。ここでの 2人の歌手たちの歌唱は、いかにもこのワーグナー畢生の大作の盛り上がりにふさわしいもので、特にストゥンディーテの声量は圧倒的だ。実は私はこの演奏を聴く前に、このシーンではブリュンヒルデが岩山で眠ってからヴォータンが長いモノローグを歌うので、女性ソリストは男性ソリストよりも歌う量はかなり少ないものと思っていた。そして実際、帰宅してこのオペラの台本を見てみると、歌詞の長さという点ではヴォータンの方がブリュンヒルデよりも長い。だが、コンサートにおいてより印象に残ったのは、ブリュンヒルデの歌唱なのである。これは興味深いことであった。ともあれ、大野と都響のニュアンスに富んだ伴奏をバックに朗々と歌われたワーグナーはやはり、そこに毒を持っていた。ワーグナーの神髄はその毒にあることを再度実感したものである。
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音楽監督大野和士が次に都響の指揮台に還ってくるのは、来年 1月。そして来シーズンは、シーズン冒頭の 2019年 4月。その後は 9月、そして 2020年 3月である。ますます激化する東京におけるコンサートの競争の中で、このコンビの占める位置がどのようになるのか、そのコンサートを聴き続けることで確かめることとしたい。

by yokohama7474 | 2018-10-28 23:02 | 音楽 (Live) | Comments(4)

上岡敏之指揮 新日本フィル 2018年10月27日 サントリーホール

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昨今の充実ぶり著しい新日本フィルハーモニー交響楽団 (通称「新日本フィル」) とその音楽監督、上岡敏之による注目のコンサートである。曲目は以下の通り。
 ブルックナー : 交響曲第 9番ニ短調 (ハース/オーレル版)
 ブルックナー : テ・デウム ハ長調

今月の東京では、ブルックナー最後の、そして未完の交響曲、第 9番が 3つの異なる顔合わせで演奏されることは以前にも書いた。すなわち、ピエタリ・インキネン指揮の日本フィル、ヘルベルト・ブロムシュテット指揮の NHK 交響楽団、そしてトリを務めるのがこの上岡 / 新日本フィルなのである。今回の曲目には大きな特徴がある。それはつまり、ブルックナー 9番がコンサートの締めくくりではなく、まずその曲が演奏された後に、神を称える宗教曲、テ・デウムが演奏されること。これはクラシックファンにとっては常識に属することであるが、晩年のブルックナーは第 9交響曲のフィナーレを完成できないことを悟り、フィナ-レの代わりにこのテ・デウムを演奏するようにという言葉を残している。つまり今回の演奏会は、そのブルックナーの遺言通り、9番のフィナーレ代わりにテ・デウムを演奏するというもので、当然ながら休憩なしの 90分間、通しでの演奏である。
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もちろん、作曲者自身の遺言による曲目編成であるから、このような方法で 2曲を演奏する例は、これまでにもないではない。だが、実はここには少し面倒な問題がある。交響曲 9番は当然オーケストラだけによる演奏だが、テ・デウムには、オケに加えて 4人の独唱者と合唱団が必要だ。完成された第 3楽章までで 1時間を要するこの 9番である。その間、独唱者と合唱団がステージで待機するというわけにもいかないだろう。もちろん、同様の例にベートーヴェンの第九があるが、第九の場合には独唱 / 合唱が入るまでの時間がもう少し短いところ、昨今の演奏では、最初から独唱 / 合唱がステージにいるケースはほぼ皆無。そのような観点から、今回の演奏で独唱 / 合唱がいつ入ってくるかを興味を持って見ていたのだが、合唱団は第 2楽章が終わったところで、ステージ裏の P ブロックに登場。一方独唱者たち (とオルガン奏者) は、第 3楽章、つまり 9番の全曲が終わったところで登場した。曲の緊張感を維持する工夫であったろうが、聴衆も心得たもので、場違いな拍手をすることもない。因みに、ブルックナーの権威であった朝比奈隆も、9番とテ・デウムを同じ演奏会で採り上げたことがあったが、その場合には、コンサート前半にテ・デウム、後半に 9番という順番であった。確かにこのブルックナー 9番は、作曲者の白鳥の歌の趣きが強く、深い流れの最後に静かに消えて行く第 3楽章でコンサートを終えることも素晴らしい。だが作曲者自身は、9番を未完成に残すことが残念であったに違いなく、たまにはこのように、終楽章代わりにテ・デウムを演奏するというスタイルも面白い。

今回の演奏であるが、まず、上岡と新日本フィルの演奏は、いつもの通り美しい。だがその美しさは通り一偏のものではなく、徹頭徹尾、上岡の個性が刻印されているのである。まず冒頭の神秘性であるが、これはまさしく一級のもの。ピアニシモは実に絶妙で、これから始まる音のドラマに対する期待を、否が応でも盛り上げる。だが、その後金管が音楽に広がりをもたらしても、上岡は過度に音楽の密度を上げることはせず、淡々と流して行く。そしてついに現れる主題は、言ってみれば闇夜の中から巨大な山か、あるいは怪物が姿を見せるといった趣きなのであるが、ここでも上岡は音楽を煽ることは一切しない。その流れには、だが、指揮者の並々ならぬ決意が聴いて取れる。細部のニュアンスは限りなく繊細なものであり、フレーズフレーズに、聴衆に媚びることのない真実が宿っている。そんなことを思って聴いているうち、滔々と流れる音のドラマは千変万化し、遅めのテンポが実は流れのよさに貢献していることに気づく。なんという美しい音楽だろう!! そして第 2楽章スケルツォは、これはまたなんと野蛮な音楽。上岡はここでも、音楽的情景の場面場面を強調することもなく、一定のペースで音楽を流して行くが、そこに込められた熱はどんどん上がって行く。これみよがしなところは全くないが、これこそがブルックナーのスケルツォであろう。第 3楽章冒頭では、ここぞとばかりに指揮棒を振り下ろす指揮者が多い中で、上岡はやはり大仰な身振りなく、ごく自然に音楽に入って行く。この音楽は、何か現世を超えた不思議さ、さらに言えば、調性を失って宙に漂い始める現代音楽のような雰囲気を持っているのだが、ただ美しいというだけでなく、そのような神秘性を巧まずして表現できる上岡と新日本フィルは、なんという高度な表現能力を持っていることか。そして、その余韻も冷めやらぬうちに始まったテ・デウムは、崇高であり劇的なその持ち味が存分に発揮された演奏で、新国立劇場合唱団の力強い合唱と、二期会の歌手たち (山口道子、清水華澄、与儀巧、原田圭) の独唱は、ブルックナーが夢想した神の世界への賛美を思わせるものであった。ブルックナー 9番とテ・デウムが連続して演奏される意義を実感できる演奏会であった。尚、先日引退したはずのフルートの白尾彰が早速OB として何事もなかったかのように(笑)第一フルートを吹いていて、安定した演奏を聴かせていた。
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今後の新日本フィルのプログラムを見ていると、ヨーロッパでも活躍を続ける上岡が、頻繁にこの手兵との共演を繰り広げてくれることが分かる。次は年明け 1月、そして 3月、5月、7月という具合で、しかもその曲目の充実していること!! このコンビがこれからどこまで個性的な音楽で人々に感動を与えてくれるのか、大変に楽しみである。

by yokohama7474 | 2018-10-27 23:43 | 音楽 (Live) | Comments(2)

鈴木雅明指揮 読売日本交響楽団 2018年10月26日 サントリーホール

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このブログでは、たまたま東京のクラシックコンサートの紹介が多くなってしまっているのだが、その中で私が伝えたいと思っているのは、ただどんな演奏がよかったとかイマイチであったとか、そんなことではなくて、私たちが暮らしているこの東京という街では、いかに高度な文化イヴェントが連日行われているかということこそがメインなのである。その意味で、今回のコンサートなどは、私が是非とも紹介したいような内容であると、最初に断じてしまおう。読売日本交響楽団 (通称「読響」) の定期演奏会であるが、指揮台に立ったのは、バッハの文字通り世界的な権威である鈴木雅明。現在 64歳、読響には 15年ぶりの登場である。
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ここで、前々回の記事から前回の記事にかけての展開を思い出してみると、それらの記事で採り上げた演奏会では、シュレーカーとステンハマルという、同世代の作曲家が近い時期に書いた対称的な作品が日を接して演奏されていた。そして前回の記事と今回の記事の共通点を探してみると、それはスウェーデンである。前回の演奏会の指揮者ブロムシュテットも、彼が採り上げた作曲家ステンハマルも、スウェーデン人。そして今回の演奏会の最初に演奏されるのも、スウェーデン人の作品なのだ。その名はヨーゼフ・マルティン・クラウス (1756 - 1792)。この生没年で明らかな通り、彼はモーツァルトの同時代人。いやそれどころか、同じ年に生まれ、弱冠 36歳で、つまりはモーツァルトよりもたった 1年後に亡くなっている。スウェーデンのモーツァルトと呼ばれているらしい。
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この 3日間の都響、N 響、読響の演奏会には、普通の意味では連続性は全くないにも関わらず、このような隠れた共通点があるという点、本当に面白いと思うのである。だが、実のところ今回の演奏会の主役は、このスウェーデン人作曲家ではない。以下のような、実に凝った曲目であった。
 クラウス : 教会のためのシンフォニア ニ長調
 モーツァルト : 交響曲第 39番変ホ長調K.543
 メンデルスゾーン : オラトリオ「キリスト」作品97
 メンデルスゾーン : 詩篇第 42番「鹿が谷の水を慕うように」作品42

上記の通り最初の曲の作曲家クラウスは、モーツァルトの同時代人ということであるが、私も全く知らない作曲家である。この「教会のためのシンフォニア」は 1789年にスウェーデン国会の開会式のために書かれた曲とのこと (開会式は大聖堂で行われたために、この題名になった)。興味深いことに、2曲目に演奏されたモーツァルト 39番はその前年、1788年と、これらも (シュレーカーの室内交響曲とステンハマル 2番のように) 同時代の音楽なのである。だが、率直なところ、この 2曲を並べてみると、モーツァルトがいかに飛び抜けた天才であったかを思い知る。演奏時間 10分程度のクラウスの曲は、序奏部分はちょっともってりした感じ。その後の主部は疾走感もあって、楽しめることは楽しめるが、ある意味でこれは、あくまで時代様式の制約の中になる音楽だという気がする。但し、その意味ではモーツァルトとても、時代の制約に囚われている部分は当然あるのであり、このような知られざる同時代音楽を耳にすることで、天才モーツァルトとても同時代のほかの音楽から刺激を受けたことが分かって、面白い。いつもの通り指揮棒を持たずに情熱的に指揮をする鈴木が、客演コンサートマスター日下紗矢子率いる読響から、その時代の音を見事に引き出していたと思う。

2曲目のモーツァルト 39番は、いわずと知れた天下の名曲のひとつ。この作曲家が晩年に書いた、楽器編成も持ち味もそれぞれに大変異なり、その初演機会すら明らかになっていない 3大交響曲、39・40・41番の中で最初のもの。オケのチューニングでは、通常のオーボエではなくクラリネットが最初に音を発したが、それもそのはず、第 3楽章に 2本のクラリネットの聴かせどころのあるこの曲には、オーボエは使われていないのである。今回の鈴木の演奏は、さすがバロックの専門家らしく、古楽スタイルのものであり、第 1楽章序奏部分とか第 3楽章のテンポは、尋常でない速さである。だがその一方で、第 1楽章主部をはじめとする多くの部分では、通常の演奏とそれほど変わらないテンポ。これは読響もなかなか大変であったかと思うが、ファゴットのちょっとしたミス以外は、ここでも見事に鈴木の指示を音にしていた。その一方、これまでの人生であまりにもロマン的な解釈に浸ってきた耳には、やはりモーツァルトでもこのシンフォニーほど表現力豊かな曲になると、何かじっくりとした味が欲しいと思うのも事実。そのあたりが評価の分かれ目であるだろう。

さて、実はこの演奏会のメインは、メンデルスゾーンである。この初期ロマン派の作曲家の作品は、古楽演奏家がその活動を広げる範囲には入っているので、鈴木がここで採り上げることにあまり意外性はない。だが、プログラム冊子に掲載されている鈴木のインタビューによると、これまでメンデルスゾーンに興味を持ちながらも、なかなか演奏の機会がなかったとのこと。おぉ、ということはこれは、バッハの世界的権威が、そのバッハのマタイ受難曲を復活上演したメンデルスゾーンの作品に、もしかしたら初めて取り組む機会であるのかもしれない (少なくとも詩篇 42番は、今回が初めてと鈴木は語っている)。そして私が、恥ずかしながら今回現地に到着してから気づいたことには、合唱団はあの RIAS 室内合唱団なのだ!!
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音楽ファンなら先刻承知の通り、RIAS とは第二次大戦後のベルリンで、米国占領地域にできた放送局 (Radio In American Sector)。因みに同じ地区のオーケストラが、現在ベルリン・ドイツ交響楽団と称しているオケで、最初の首席指揮者、故フィレンツ・フリッチャイ (私が深く尊敬する偉大なるハンガリー人指揮者) のもと、RIAS 交響楽団として発足している。それから時代は移り変わったが、この世界的合唱団だけは、未だに RIAS の名前を維持しているのである。今回の来日では、この読響演奏会のほかに、合唱団としてのリサイタルが東京で行われ、加えて大阪や金沢でも演奏会に登場する。このうち金沢では、同じ鈴木雅明の指揮で、オーケストラ・アンサンブル金沢とともに、同じ曲目 (但しそこでは、モーツァルトの 39番ではなく 40番が演奏される) を歌う。

メンデスルゾーンのオラトリオ「キリスト」であるが、これも私が今回初めて知った曲。宗教曲でキリストの名を冠した曲としては、ベートーヴェンの「橄欖山上のキリスト」や、リストの大作「キリスト」なら知っているが、メンデルスゾーンに「エリヤ」と「聖パウロ」以外にオラトリオがあったとは知らなかった。しかも、普通オラトリオと言えば、一晩のコンサートをすべて占めるような大曲である。それが、4曲のうちの 1曲だなんて (笑)。実はこの曲、メンデスルゾーンが 3曲目のオラトリオとして構想しながらも、結局 2曲を作曲したにとどまった未完の作品 (1847年の作曲者の死後、1852年に初演)。演奏時間は 20分ほどである。その 2曲とは、キリストの誕生 (東方三博士の礼拝) と、それからキリストの受難 (ピラトによる裁判)。つまり、キリストの生涯の最初と、ほぼ最後のシーンである。一方の詩篇 42番は、旧約聖書の詩篇に題材を取った 25分ほどの曲で、1837年に作曲されている。これがメンデルスゾーンの肖像。裕福なユダヤ人家系に生まれた彼は、その育ちのよさが、顔にも音楽にも出ていると思う。
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この 2曲はいずれもなかなかに美しい音楽で、「キリスト」においては、さすが作曲者晩年の作、かなり広い音響表現の幅が聴かれる。キリストが裁判にかけられるシーンは、メンデルスゾーンが復活上演したバッハの「マタイ受難曲」の同じシーンを思わせる部分もあるが、当然ながら劇性はこちらが優っている。そして詩篇 42番は、この作曲者らしい旋律美に溢れた名曲である。やはり鈴木の手腕は、これらの未知の作品の持つ力を存分に引き出す優れたもの。明快でいて共感に満ちた演奏であった。男性 17名、女性 19名からなる RIAS 室内合唱団は、ステージ裏の P ブロックではなく、ステージ上のいちばん奥に横長に並んでの歌唱であったが、特に静かな部分における宗教性には、実に素晴らしいものがあったと思う。大変感動的な演奏であった。

さて、もうひとつ私が思ったことには、「キリスト」の第 1曲の終結部に似た音楽を、どこかで聴いたことがないだろうか。それは、ワーグナーの「ローエングリン」である。そのキラキラとした音響は、重厚なドラマが展開するワーグナーの劇場音楽作品群の、実はもうひとつの側面なのであるが、そこにはメンデルスゾーンの影響があるのだろうか。周知の通りワーグナーは反ユダヤ主義者であり、著作の中で、ユダヤ人メンデスルゾーンを非難しているようだが、その一方で、メンデルスゾーンの代表作のひとつ「フィンガルの洞窟」を聴いて、この作曲家のことを「一流の風景画家」と称賛したという話も伝わっている。年代的には、「ローエングリン」は 1850年の作で、「キリスト」初演よりも早いので、ワーグナーが音を聴いて影響を受けたということにはならないが、そもそも 4歳上の同時代人であるメンデルスゾーンの作風自体から影響を受けたということは、充分ありうるだろう。西洋音楽の歴史には、様々な作曲家の間の影響関係がある。知れば知るほど面白いとはこのことであり、連日のコンサートにおいて、そのような西洋音楽の歴史に思いを馳せることができる東京は、やはりすごい街なのである。

by yokohama7474 | 2018-10-27 00:37 | 音楽 (Live) | Comments(2)

ヘルベルト・ブロムシュテット指揮 NHK 交響楽団 2018年10月25日 サントリーホール

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ブロムシュテットと NHK 交響楽団 (通称「N 響」) との共演による今月の定期演奏会の 3演目め。今回もまた、以下のように大変興味深い内容である。
 ベートーヴェン : 交響曲第 6番ヘ長調作品68「田園」
 ステンハマル : 交響曲第 2番ト短調作品34

ブロムシュテットのベートーヴェンは、この N 響との共演で聴くことが多い。以前、N 響とバンベルク響共同でブロムシュテットのベートーヴェン・ツィクルス進行中と読んだので、そのように書いた記憶があるが、そのことについてはあまり世の中で話題に上がることはないようだ。今年 4月の共演でもベートーヴェンの 4、7、8番を N 響と採り上げたブロムシュテットは、今回 6番を採り上げ、あと 5番さえ採り上げれば、N 響ともベートーヴェンの交響曲全曲を演奏したことになる (いや、実は随分前にブロムシュテットは N 響と 5番も演奏していた記憶はあるので、近年に限って言えば、の話)。もしご興味おありの方は、本年 4月27日付の記事をご覧下さい。
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そのようなブロムシュテットと N 響の共演による「田園」について、何か批評めいたことを喋る必要があるだろうか。本当にこの人の指揮には作為がないし、その意図をよく知っている N 響は、懐の深い音でその意図を実現する。ここでは時間は均一に流れており、あえて極端な言い方をするなら、宗教儀式のごとく、厳粛さと明朗さを保ちつつ、その場にいる演奏者も聴衆も、気持ちがひとつになる、そんな体験であったと言えようか。およそミスのない N 響の音が、よしんば世界最強オケのレヴェルにごくわずか及ばない点が部分的にあったにせよ、しかしこれは充分に世界的なレヴェルである。演奏終了後の拍手も、騒ぎ立てることのない穏やかなものであり、東京の聴衆がこの演奏を充分に堪能したことが、それだけでも明らかであったものだ。

後半は、一般的には若干珍しいレパートリーと言ってよいだろう。ヴィルヘルム・ステンハマル (1871 - 1927) の交響曲第 2番。この作曲家は、ブロムシュテットの祖国スウェーデンの人で、指揮者としても活躍し、20世紀初頭に、現在では名門になっているエーテボリ交響楽団の首席指揮者として功績を挙げた人である。
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私の場合、このステンハマルの 2番を初めて聴いたのは随分と以前で、今から 30年以上前の学生時代。かつて作曲者自身が首席指揮者を務めたそのエーテボリ響を、当時の首席指揮者であるネーメ・ヤルヴィが指揮した BIS レーベルのアナログレコードであった。こんなジャケットであったが、カップリングは「エクセルシオール!」という序曲で、当時この名前のコーヒーショップは日本にい未だなかったと思うので、むしろその後、コーヒーショップ名を見たときに、「ああ、ステンハマルのあれね」と思ったという妙な奴は、私です (笑)。
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いや、このように書いたからと言って、私がこのステンハマルの 2番を天下の名曲と認識して、その後頻繁に聴いてきたかというとそうではない。正直、長らく聴いていないので、どんな曲だか思い出せず、今回はそのネーメ・ヤルヴィによる CD (交響曲 1番と 2曲のピアノ協奏曲も含む) と、彼の息子パーヴォ・ヤルヴィがストックホルム・フィルを指揮した録音のふたつを新たに入手して、予習して行ったものである。結果として、今回のブロムシュテットの演奏がこの作曲家の日本での再評価に一気につながるかと言えばそうではないかもしれないが、そこで鳴っていた音の明晰さから、この作曲家が頭の中で描いていた音響世界を知ることができたのは、大変に興味深い体験であった。85歳のとき、ということは今から 6年前であるが、この曲をレパートリーにしたブロムシュテットは、最近世界各地でこの曲を採り上げており、来年の 5月にはベルリン・フィルでも採り上げるという。私が今回改めて思ったことには、ブロムシュテットの演奏は決して派手なことはなく、非常に堅実なのであるが、それはまた、地味であったり生命力がないということを意味するのでは全くない、ということだ。この曲には民俗的な要素も随所に聴かれ、その一方ではかなり分厚い管弦楽法もあって、演奏方法によってはしんねりむっつりしかねない。それを今回の演奏では、明るく明晰な音が気持ちよいように流れていったため、この曲になじみのない聴衆であっても、飽きるということはなかったはずである。なるほど (常套句です。笑)、ブロムシュテットが、あのいぶし銀の響きを持つ欧州きっての名門であるシュターツカペレ・ドレスデンのあと、米国西海岸のサンフランシスコ響に移り、そこでも成功を収めたのは、このような手腕があってのことだったのか。一見、変わったことは何もない指揮ぶりで、だが音楽の本質を描き出し、そこには常に前向きな生命力が宿る。それが彼の音楽なのである。

ここでもう一度、このステンハマル 2番について少し書いておきたい。ちょうど前日、大野和士と都響の演奏で、シュレーカーの室内交響曲を聴いたばかり。この曲は、1878年生まれのウィーンの作曲家による、1917年初演の作品。一方今回の曲は、1871年生まれのスウェーデンの作曲家による、1915年初演の作品。つまり、同世代の作曲家がほぼ同時期 (しかも両方とも第一次大戦中だ) に書いた曲である。その響きには、共通点もあるが相違点もある。共通点は、豊麗な響きが指向されている箇所が多いこと。相違点は、シュレーカーの作品が、豊麗さとは反する小規模編成のモダニズムに向かう過程と思われるのに対し、ステンハマルの場合には、北欧の民俗性を感じさせる雄大なものであるという点であろう。その違いのひとつの大きな理由は、これらの作曲家の文化的背景ではないか。シュレーカーの過ごしたウィーンは、崩壊直前のハプスブルク大帝国の首都。対するステンハマルは、ある意味でヨーロッパの辺境であるスウェーデンの出身。この違いを知ることで、この時代のヨーロッパ文化の爬行性に思いを馳せることができる。東京とは、そんな 2曲の演奏を立て続けに聴くことのできる、文化溢れる街なのであると、私はここで言いたいのである。

なお、先にご紹介したブロムシュテットの自伝の中に、彼のステンハマルに対する考えや、この作曲家との縁について記載されていて面白い。もともと彼は、このステンハマルはベートーヴェンと相性がよいと考えているとのことで、それが今回の演奏会の背景にあるのだろう。そして実際この自伝でも、ステンハマルに最も影響を与えた作曲家はベートーヴェンとシベリウスであると述べている。この 2番については、「とても繊細で、なんと言っていいか、スウェーデン風だと感じます」と述べている。そして、「スウェーデン人はとても恥ずかしがり屋ですが、内気さを克服するや、とてもあけすけで熱狂的になることがあります。なんだかそういったものがこの音楽にはひそんでいるのです」と述べて、うまく言い表せないが、郷愁を感じると続けている。うむ、なるほど。私がかつてビジネスでつきあいのあったスウェーデンの人たちにも、まさにそんなタイプの人たちが何人もいたので、これは大いに納得だ。このブロムシュテットもまた、そんなタイプのスウェーデン人のひとりなのであろう。だが彼は、生まれは米国のマサチューセッツ、幼時をフィンランドで過ごしたり祖国に還ったりしながら、その後はジュリアード音楽院でも学び、東ドイツで頭角を現しながらも、米国をはじめとする世界での活躍を続ける頃からはスイスに住んでいる。まさにコスモポリタンというべき人物である。その彼が今、スウェーデンについて語っているというのが面白い。自らの持つルーツを、いつどのようなかたちで認識するかは、人それぞれであろうが、芸術家の場合にはやはり、自分の内面と向き合う機会が多いせいか、郷愁を原動力にしているケースが多いと思う。その郷愁を、必ずしもそのまま共有できるわけもない我々日本人が彼の演奏に感動することこそ、ローカルなものから発した芸術に、実は普遍性があるという証拠であろう。これは、自伝に載っている 1945年 (ということは 18歳!!) のブロムシュテットの写真。いかにも彼らしく秀才風であるが、自分が 90を超えてなお、極東の聴衆を感動させることになろうとは、当時は夢にも思わなかったことだろう。
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次に予定されているブロムシュテットの N 響指揮台への帰還は、来年 11月。プログラムは未だ発表されていないが、大いに期待して待つこととしよう。

by yokohama7474 | 2018-10-26 01:45 | 音楽 (Live) | Comments(0)

大野和士指揮 東京都交響楽団 2018年10月24日 東京文化会館 

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東京都交響楽団 (通称「都響」) が今月、音楽監督大野和士と行う 3回目の定期公演。都響の定期公演は、ほかの多くの東京のオケと異なり、それぞれたった 1回だけの演奏のことが多く、聴き逃すと後悔することになる。特に今回は是非にも聴きたい内容であったので、私としても、ちょっと無理を押して出かけることにしたのである。今回の曲目は以下のようなもの。
 シュレーカー : 室内交響曲
 ツェムリンスキー : 抒情交響曲作品18

上のチラシにある通り、これは「世紀末ウィーン 爛熟の美」という謳い文句が付されたコンサートである。世紀末ウィーンの音楽というと、なんといってもマーラー、リヒャルト・シュトラウス、それからシェーンベルク、その流れにおいてベルクやウェーベルンあたりがメジャーな名前である。今回の 2人の作曲家、音楽ファンにはそれなりに知られた名前ではあるものの、一般的な知名度は高いとは言えないだろう。だがこの演奏会には大きな意義がある。大野和士という聡明な音楽家の表現活動、そして、都響というオーケストラの演奏活動の双方の観点から、今このコンビを聴くには恰好の、充実したプログラムと言えるだろう。
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フランツ・シュレーカー (1878 - 1934) の名前を知ったのは、もう今から 20年以上前だろうか、デッカ・レーベルから「退廃音楽」というシリーズの CD が発売されたときである。これは、ナチス時代のドイツで、退廃音楽の烙印を押されて弾圧された作曲家たちの作品を集めた、大変に意欲的な企画であり、ブラウンフェルス、ウルマン、シュールホフ、クシェネクといった作曲家の中に、このシュレーカーも含まれていて、歌劇「烙印を押された人々」の全曲盤が発売された (この題名は、退廃音楽との関係では象徴的だ)。だが、実はそれ以前にもシュレーカーの作品は日本に紹介されている。それも、この都響によって。それは 1988年から 91年にかけて行われた、当時の音楽監督若杉弘によるマーラー・ツィクルスである。ここでは、マーラーの交響曲と組み合わせて、世紀末ウィーンにつながる作品群が演奏されたのである (因みにマーラーは全曲ライヴ録音されたが、前座の曲の録音は発売されていない)。そこには、ツェムリンスキーの交響詩「人魚姫」や「詩篇第23番」の日本初演とともに、3曲のシュレーカーの作品が含まれていた。それは「ある劇のための前奏曲」「永遠のいのちについて」「白鳥の歌」で、後ろの 2曲は、これまた日本初演であった。なんという意欲的な試みであったことか!! これがシュレーカー。
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この作曲家は、ツェムリンスキーより 7歳、シェーンベルクより 4歳下であるから、同時代人と言ってもよいであろう。ユダヤ人で、貴族の家柄の生まれらしい。ウィーンで勉強して作曲家になった人で、指揮者としては、上にも名前の出たツェムリンスキーの「詩篇第 23番」や、シェーンベルクの超大作「グレの歌」(!!) の世界初演を行っている。また私の手元には、彼が指揮者として残した録音 (自作のほか、グリーグの「ペール・ギュント」やビゼーの「アルルの女」などを含む) 3枚組 CD もある。彼は、56歳の誕生日を目前にして 1934年に亡くなってしまったのだが、もう少し長生きしていたら、さらに大きく歴史に名を残したかもしれないと思う。そんなシュレーカーの作品で、今回演奏された室内交響曲は、1916年の作品。この題名では、シェーンベルクが 2曲作曲しているし、その弟子のベルクも、室内協奏曲という作品を残している。後期ロマン派の膨張から、小編成のモダンな響きに移行する際に好まれたスタイルと言えようか。25分ほどの曲で、伝統的な交響曲の 4楽章制に擬することのできる 4部が続けて演奏されるもの。シェーンベルクの作品よりも後で書かれているものの、このシュレーカーの作品には、ロマン派的な、音楽としての豊麗さの感覚が未だ残っているし、ウィーンの作品らしいたおやかさもある。今回も大野と都響は、大変に明確な音のラインをもってこの曲の音響を描き出していて、素晴らしいと思った。大野の指揮ぶりを見ていると、作り出したい音の流れが視覚的にも連想され、実際に鳴っている音によってその流れが具現化しているように思われる。指揮者の能力とオケの性能が揃わないと、こうはいかないだろう。

今回のメインの曲目は、アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー (1871 - 1942) の代表作のひとつ、抒情交響曲である。これは 1922-23年に書かれた、男女 1名ずつの歌手を起用した演奏時間 50分ほどの交響曲で、7楽章からなるが、続けて演奏される。歌詞はインドの詩人タゴールによるものであり、東洋の詩ということで当然、多くの音楽ファンはマーラーの「大地の歌」を想起することになるが、私もこの曲を、ロリン・マゼールとベルリン・フィルの録音で初めて聴いたときには、冒頭からそう思ったものである。だが、漢詩を題材として人生の儚さや別れを歌った「大地の歌」と異なり、この抒情交響曲では、男と女のすれ違いがテーマとなっている。これが若き日のツェムリンスキー。
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実はこのツェムリンスキー、画家シントラーの娘であったアルマ・シントラーの音楽の教師であったが、その教え子と恋に落ちる。だが彼女はその後ツェムリンスキーを捨てて、マーラーと結婚してしまった。そう、あの、アルマ・マーラーその人である。どうやらその傷心の思いが終生作曲活動の原動力になったというから、よほどアルマが好きだったのか、ロマンティックな人だったのか (笑)。またこのツェムリンスキーは、妹がシェーンベルクを結婚している。従ってこの作曲家、音楽史においてマーラーとシェーンベルクの間をつなぐ存在ということになる。今回の抒情交響曲のソリストは、ソプラノがアウシュリネ・ストゥーンディーテ、バリトンがアルマス・スヴィルパという、いずれもリトアニア出身の歌手。
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これらの歌手はそれぞれに熱演ではあったと思うものの、久しぶりにこの曲を実演で聴いてみると、やはり、実に精妙にかつ豊麗に書かれたオーケストラ・パートに耳がそばだつ。この演奏会に向けて大野自身が語った記事を都響のサイトで見ることができるが、特に第 3楽章、第 4楽章では、「トリスタンとイゾルデ」のような情熱的な愛とその喪失が描き出されているという見解が示されている。確かにそうである。音の糸が絡まってチリチリと炎を出すような音楽であり、その表現力には圧倒される。都響の弦の深い響きはもちろん、木管ソロの絶妙な呼吸や金管の厚い響きなども、この曲も持ち味を描くには最適のものであった。「大地の歌」と異なる点のひとつは、終楽章ではバリトン独唱は比較的早く歌唱を終え、オケだけの部分が数分間続く箇所であるが、この部分も大変な聴きどころであり、改めてこの曲の面白さを感じさせてくれたものであった。そしてその面白さとはまた、爛熟したウィーン世紀末文化の面白さでもあるのである。その面白さを感じるということは、演奏者と曲目の組み合わせに、やはりただならぬ適性があるということである。この大野/都響の響きが、東京の音楽文化を代表するもののひとつであることは、間違いないだろう。

コンサート会場から出て空を見上げると、折しも満月がポッカリと中空に浮いている。世紀末ウィーンに思いを馳せるには、ちょっと出来過ぎた設定だなぁと呟いてしまいました。
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by yokohama7474 | 2018-10-25 00:25 | 音楽 (Live) | Comments(0)

ヴェルディ : 歌劇「アイーダ」(指揮 : アンドレア・バッティストーニ / 演出 : ジュリオ・チャバッティ 2018年10月21日 神奈川県民ホール

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東京フィルハーモニー交響楽団 (通称「東フィル」) の若き首席指揮者、イタリアの俊英であるアンドレア・バッティストーニが、「アイーダ」を振ると聴いて、期待が募らないわけがない。これは、神奈川県民ホールによるオペラ・シリーズであるが、このホール以外にも、札幌 (文化劇場 hitaru のこけら落とし)、西宮、大分で上演され、それぞれの会場の主催者陣ととの共同主催によるもの。また、ローマ歌劇場との提携公演であるらしい。オペラのように膨大な資金のかかる催しは、やはり各地の劇場の共同制作が効果的である。その場合のメリットは、ただ 1ヶ所の聴衆だけでなく、共同主催する複数の場所での上演も可能ということである。これにより、東京に一極集中しがちなオペラ上演を地方に普及させることができるという点、大いに意義があるものと思う。ただその場合に課題になるのはもちろん、上演の質である。東京での公演であれ地方でも公演であれ、その上演の質がよくないことには、聴衆に充分アピールすることはできないであろう。その点この公演は、実に素晴らしい演奏であり、これなら地方の聴衆の方々も、オペラの醍醐味を十二分に堪能することができるはず。
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この上演、この横浜では 2日間に分かって行われるが、キャストは 2組からなっていて、それぞれに 1人だけ海外からの招聘歌手がいるものの、残りはすべて二期会の歌手陣。合唱も二期会合唱団である。それもなかなかに興味深いことであって、このブログでも何度か見てきた通り、二期会の活動は、国内において非常に積極的で活発なものであるというだけでなく、海外のオペラハウスとも提携して、世界のオペラハウスとソフト面の共有ができるような状態にあるからだ。こんなオペラカンパニーが、世界にいくつあることだろうか。それにはやはり、歌手陣の充実が不可欠だろう。実際この日の公演では、アイーダの木下美穂子、ラダメスの城宏憲、アムネリスのサーニャ・アナスタシア (オーストリア出身)、アモナズロの上江隼人、いずれも見事な出来であり、これは世界に出して恥ずかしくない水準である。特に、急な代役で (もともとは端役の伝令役で出演が予定されていた) 城は、声量こそ大きくはないものの、大変に澄んだ美声で、終始安定した歌唱。このようにして若手がチャンスをつかんで、活躍の場を広げて行くのであろう。ダブルキャストのうち前日は、ラダメスに福井敬、アムネリスに清水華澄、ランフィスに妻屋秀和、エジプト国王にジョン・ハオと、二期会でもより名の知れた陣容であったが、聴衆としては、これまであまりなじみのない素晴らしい歌手を発見することはまた、何物にも代えがたい喜びだ。私は今回のキャストでこの公演を見ることができて、大変ラッキーであった。これが城。
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それから、バッティストーニと東フィルの演奏の素晴らしさにも、最大限の賛辞を捧げたい。テンポは概して速めで、第 1幕最後の儀式の場面とか、第 2幕の冒頭とか、ハープを伴うリズムによって通常はゆったりと歌われるような箇所でも、キビキビとしたテンポ運びで迷いがない。そして、ステージの左右で 6本のアイーダ・トランペットが鳴り響く大行進曲や、第 3幕の極めてドラマティックな終結部も、それはもう、切れば血の出るような壮絶な響きがホール内を満たしていた。かと思うと、冒頭の序奏や、終幕での哀しく抒情的なシーンにおいては、密度の濃い音で実に美しく、そして繊細であった。東フィルの状態はすこぶるよく、バッティストーニの指揮棒に食らいついていって、彼らの首席指揮者の音楽の持つ多様な表現力を、余すところなく音にしていたと思う。お見事。

演出は、イタリア人であろうか、ジュリオ・チャバッティという演出家によるもの。内容はかなり保守的で、「アイーダ」らしく古代エジプトを舞台にしていた点は安心したが (笑)、刺激という点ではもう一歩か。ただ、これだけ素晴らしいオケと歌唱を聴くには、舞台上で余計なことをいろいろされてしまうと興ざめなので、このくらい、ある意味で控えめな演出がちょうどよかったとも思う。巨大な柱 6本と、神殿やそこにつながる階段などが可動式で、幕間の舞台転換の一部は、緞帳を下ろさず、ただ舞台を暗くしてスタッフが大道具を動かして行われていた。多くの劇場で使用するので、このような可動式な大道具になっているのであろうか。それはそれで効率的。最後の最後で、アイーダとアムネリスが閉じ込められた墓場の後ろから、にゅっとファラオ (?) の顔が出て来る点だけは、多少の意外性を伴っていて、面白く見ることができた。これが演出家チャバッティ。
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バッティストーニの出身地は野外オペラ「アレーナ・ディ・ヴェローナ」で有名なヴェローナであり、その野外オペラの演目としては、この「アイーダ」と「トゥーランドット」は 2枚看板だ。バッティストーニは東フィルでは既に「トゥーランドット」を採り上げていて、CD にもなっているが、今回の「アイーダ」も、それに劣らない凄まじい演奏であった。彼自身、今年のアレーナ・ディ・ヴェローナで既に「アイーダ」を指揮したということであったが、その指揮ぶりを見ていると、曲の隅々まで自家薬籠中のものとしていることが明白であった。プログラム冊子に掲載されている彼のコメントによると、自分は「アイーダ」をこれまで何度も指揮して来たが、指揮者の役割がとても重要なオペラであり、室内楽的な箇所もあるものの、やはり第 2幕の「力とエネルギーにあふれた音楽」が、指揮していていちばん楽しいとのこと。今回日本で「アイーダ」を指揮できるのは本当に嬉しい。「日本の北から南まで、劇場を熱狂で満たしたいと思っています」とのこと。実際この言葉の通り、神奈川県民ホールは熱狂に満たされた。残すは10/24 (水) の西宮・兵庫県立芸術文化センターと、10/28 (日) の大分 iichiko 総合文化センターの 2回。引き続いての熱狂、間違いなしだと思いますよ。

by yokohama7474 | 2018-10-21 23:02 | 音楽 (Live) | Comments(0)

ダン・エッティンガー指揮 東京交響楽団 2018年10月20日 サントリーホール

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本当は指揮者のことから書き始めようと思っていた。だが、このコンサートを聴いてしまった者としては、この日のメインの曲目、ベルリオーズの幻想交響曲の演奏について、興奮とともに真っ先に語らずにはいられない。この演奏会にはあれこれのユニークな点があったので、まずは思い出すままに、それらを列挙して行こう。
① 原点主義流行りの今日この頃、楽譜に指定のある反復を励行することが多いが、今回の演奏では、第 4楽章はもちろんのこと、第 1楽章でも反復はされていなかった。

ええっと、このくらいならそれほどユニークではないな。では、次はどうか。
② 終楽章で不気味に打ち鳴らされる大小の鐘は、本格的な西洋の寺院にあるようなタイプのもの (カリヨン) であり、舞台裏ではなく舞台上で朗々と打ち鳴らされた (以下はほかの演奏会の記事からお借りしてきたイメージ写真)。
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まあこれも、取り立てて言うほど珍しいことではない。ではこれはどうだろう。
③ 第 2楽章において、コルネット (小型のトランペット) が入っていた。
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いやいやこれも、最近ではあまりないかもしれないが、驚くには値しない。これはどうだろうか。
④ 全 5楽章のこの曲で、第 4楽章が終わったとき (曲の主人公が死刑宣告を受けたとき)、客席からひとりの人が大声でブラヴォーを叫んだこと。

うーむ、これも突発的な出来事だと整理できようか。よし、そうなると、以下のようなことは果たしてどうだろうか。
④ 第 2楽章冒頭で呼び交わすコールアングレ 2本のうち 1本は、通常は舞台裏での演奏であるが、今回はサントリーホールの 2階席奥の右側で演奏されていた。
⑤ この曲においてトロンボーンやチューバは、音楽が熱狂的に盛り上がる第 4楽章、第 5楽章でのみ使用されているので、最初の頃はステージにはおらず、第 2楽章終了時に初めて登場した。
⑥ 舞台前面の左右に 2台ずつ、計 4台のハープが並んでいて、まるで協奏曲のソロ楽器のよう。しかも奏者は、第 2楽章開始前にステージに現れ、その楽章終了後には下がっていった。

なんという大胆な演出であろうか。こんな凝りに凝った演奏を指揮したのは、1971年生まれで今年 47歳のイスラエルの指揮者、ダン・エッティンガーである。
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このツンツン頭の指揮者は、既に日本でもおなじみである。2010年から東京フィルハーモニー交響楽団の常任指揮者を務め、2015年からは桂冠指揮者を務めているからだ。だが正直なところ私は、この指揮者と東フィルの相性についてはよく分かっていない。過去に私が経験した何度かのこのコンビの演奏には、諸手を挙げて大感動ということではなかったからだ。また、普通あるオケの常任がそのポストを離れた場合、またそれなりの頻度でそのオケの指揮台に還ってくるものだろう。ましてや桂冠指揮者ならなおさらだと思うのだが、少なくともこの数年の東フィルにエッティンガーが登場したようには思えない。そんな中、今回彼が指揮するのは別のオーケストラ、東京交響楽団 (通称「東響」) である。エッティンガーはこのオケとは、2016年の新国立劇場での「サロメ」で共演しているというが、このオケのコンサートを指揮するのは初めてのようである。今回、興味深いことに、彼が以前常任を務めた東フィルのコンサートマスターである三浦章宏の姿を見掛けたが、彼はどのようにこのコンサートを聴いたであろうか。

さて、この日の曲目は以下の通り。
 ワーグナー : ヴェーゼンドンク歌曲集 (メゾソプラノ : エドナ・プロホニク)
 ベルリオーズ : 幻想交響曲作品14a

ワーグナーとベルリオーズの間には共通点があり、それはオーケストラを効果的に鳴らすということである。だが、面白いことに今回の前半の曲目、5曲からなるヴェーゼンドンク歌曲集には大音響の箇所はほとんどなく、その音色の微妙な移ろいと退廃的な響きは、滴るような情緒がある。それもそのはず、この曲は、ワーグナーが人妻マティルデ・ヴェーゼンドンクの詩を歌詞としながら、彼女との恋愛感情を作品に昇華したものであるからだ。このワーグナーという人は、人間的には最低であったとよく言われるが、ひとつのエピソードとしては、革命に身を投じて追われる身となった彼に救いの手をさしのべたスイスの富豪、オットー・ヴェーゼンドンクにかくまってもらいながら、その恩人の妻と恋愛関係に陥ってしまったことがある。全くひどい話だが (笑)、ミューズの神はよくそれを見ていて、その恋愛から音楽史上有数の革命的傑作「トリスタンとイゾルデ」が生まれ、またその副産物として、このヴェーゼンドンク歌曲集が生まれたのであるから。これがヴェーゼンドンク夫人の写真。ワーグナーより 15歳下である。
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今回この歌曲集を歌ったのは、やはりイスラエル出身のメゾソプラノ、エドナ・プロホニクである。ワーグナーを得意としているらしく、また新国立劇場でも、「こうもり」のオルロフスキー侯爵を歌ったこともあるようだ。
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さすがワーグナーに実績のある人だけあって、深々とした声が感動的。また、エッティンガーはもともとベルリン国立歌劇場でダニエル・バレンボイムの助手を務めていたので、ワーグナーに関しては隅から隅まで知悉していることだろう。オケへの指示も非常に細かく、実に繊細な起伏に富んだ音を東響から引き出していた。東響の弦も見事であったが、木管楽器も素晴らしいニュアンスで、今回もまた、首席オーボエの荒木奏美の音に惚れ惚れすることとなった。そしてプロホニクとエッティンガーは、アンコールを 2曲演奏した。最初は、これはそう来るでしょうという曲で、リヒャルト・シュトラウスの「献呈」。2曲めはシューベルトの「音楽に寄す」であったが、オーケストラへの編曲は、マックス・レーガーであった。いずれも深い感動を湛えた歌唱であった。

そして後半の幻想交響曲は、上に述べたような数々の珍しい趣向が凝らされた演奏であったが、何より素晴らしかったのはその演奏内容である。エッティンガーの指揮ぶりは、緩急と強弱を自由自在に操るもので、今どきこんなロマン的な解釈も珍しいだろう。東響も、冒頭の木管こそ、もうひとつ指揮者と呼吸が合わなかったきらいがあるが、それもほんの一瞬。エッティンガーの自在な指揮ぶりを見事に音として放射していたと思う。いやそれにしても、遅い部分はチェリビダッケばり、速い部分はミュンシュばり (笑) のエッティンガーは、なんという奔放な指揮者なのだろう。昨今の演奏では、ロマン派でも初期の音楽は、古典的な規律の中で演奏されることが多いと思うが、このエッティンガーの演奏は、まさにロマン的で、全く優等生風ではないのである。日本でも繰り返し繰り返し演奏されているこの曲であるが、これだけ強烈な表現力を持った演奏に巡り合うことは、そうそうないように思う。東響の現在の音楽監督であるジョナサン・ノットは、卓越した指揮者ではあるが、今回のエッティンガーの演奏のような悪童ぶりとは無縁である。これはこれで、オケの表現の幅を広げるという意味で、東響にとっても意味のある演奏であったと思う。両者の相性は結構よいと思ったので、また是非次の共演を期待したい。東響の来シーズン (2019年 4月から 2020年 3月) の演奏予定には彼の名前はないようであるが・・・。

このエッティンガー、現在はシュトゥットガルト・フィルというオケ (コマーシャリズムにはさほど乗っていないが、過去には数々の巨匠を客演指揮者として迎えた歴史があるようだ) の音楽監督を務めているので、いずれ来日公演も期待したい。最近の録音では、モーツァルトの 25番と 40番の組み合わせが出ているが、一体どんな演奏なのか興味がある。終演後のサイン会には参加できなかったので、次回は間近にこの「悪童」指揮者に接してみたいと思うのである。
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by yokohama7474 | 2018-10-21 01:53 | 音楽 (Live) | Comments(0)

ヘルベルト・ブロムシュテット指揮 NHK 交響楽団 2018年10年月20日 NHK ホール

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まずはこのコンサートの終演間近の情景の描写から始めよう。そこには、未だ 20代の作曲者が、青春の懊悩を爆発させる音楽が鳴っていた。その血気盛んな音楽は、様々な紆余曲折を経て (その冗長な紆余曲折が若気の至りだとして、この作曲家の作品を積極的に採り上げた指揮者で 93歳まで生きた朝比奈隆も、この曲だけは結局生涯演奏しなかったわけだが)、ついにクライマックスに到達し、ホルン奏者 8人と、そしてトランペット奏者とトロンボーン奏者が各 1人ずつが起立した。そして鳥肌立つ圧倒的な音量の中、彼らは曲が終わるまで起立したままであった。このような若々しい音楽を若々しく指揮した人は、やはり 20代であろうか。いやいや。この人である。
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91歳の指揮者、NHK 交響楽団 (通称「N 響」) の名誉指揮者である、スウェーデン出身のヘルベルト・ブロムシュテット。今回私が幸いにも聴くことができたのは、この老巨匠が指揮する N 響定期の 2つめのプログラム。内容は以下のようなものであった。
 ハイドン : 交響曲第 104番ニ長調「ロンドン」
 マーラー : 交響曲第 1番ニ長調「巨人」

なるほど面白い。これは、ブロムシュテットと N 響の前回のプログラム、すなわち、モーツァルト 38番「プラハ」とブルックナー 9番という組み合わせと非常に似ている。前半には古典派の 30分程度の曲、後半には後期ロマン派の 1時間程度の曲という点においてである。また、それぞれの初演年を比べてみると、初回プログラムの曲目は、モーツァルトが 1786または 87年 / ブルックナーが 1903年。今回のプログラムでは、ハイドンが1795年 / マーラーが 1889年。それぞれの 1曲目、それぞれの 2曲目は結構近い年代であり、その隔たりは約 100年。さらに面白いのは、モーツァルトはハイドンの弟子筋、マーラーはブルックナーの弟子筋であるにも関わらず、この 2つのプログラムにおいては、年長の作曲家の作品の方が年少の作曲家の作品よりも早く初演されている。さらに考えると、この 2つのプログラムが似て非なるものである理由は以下の通り。
① 今回のプログラムでは、交響曲の基礎を最初に作った作曲家の「最後の」交響曲と、交響曲の概念を最終的に打ち破った作曲家の「最初の」交響曲という、象徴性がある。
② 前回の 2曲はこの指揮者が繰り返し取り上げてきた曲であり、録音もあるのに対し、今回の 2曲は、私の知る限り、この指揮者による録音はない。つまり、90歳を超えてなお、これまでの経験をなぞるという安易な姿勢をこの指揮者は取らない。
③ それゆえであろうか、前回の 2曲は暗譜での指揮であったのに対し、今回はスコアを見ながらの指揮であった。
④ 2曲ともニ長調。

繰り返すが、91歳である。その年にして、ただこれまでの人生の繰り返しでなく、新たな挑戦を行っているこの指揮者は、まさに現代の奇跡以外の何物でもない。そして、鳴り始めたハイドンの「ロンドン」交響曲の冒頭の響きは、一般的な演奏ほど重々しくない。前回の表現と共通するが、強い布をさっと洗ったような新鮮かつ強靭な響き。これこそがブロムシュテットの音楽なのである。ただ、モーツァルトとハイドンもまた、似て非なるもの。前者においてはアポロ的な、喩えて言えば宙を舞うような響きが駆け巡るのに対し、後者にはさらに人間的なユーモアがある。今回聴いてみて分かったことには、ブロムシュテットの場合には、もちろんモーツァルトもハイドンも素晴らしい演奏だが、ハイドンの人間性よりもモーツァルトの天上性の方に、より適性があるかもしれない。だが、先日の記事でご紹介したブロムシュテットの自伝には何度かハイドンの名前が出て来ている。それは例えば、彼がライプツィヒ・ゲヴァントハウス管のカペルマイスターの地位をクルト・マズアから引き継いだとき、オケの音があまりにも重かったので、モーツァルトとともにハイドンも頻繁に演奏することで、表現の幅を広げたという逸話でも理解できる。なるほど。
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そしてメインの「巨人」であるが、これは実に流れのよい演奏で、老人めいた動脈硬化の一切ない音楽であった。当然ながら奇をてらった箇所は全くなく、マーラーの若書きの傑作を、まさに虚心坦懐に音にして行くイメージだ。スコアを見ながらでもブロムシュテットが真摯に音楽に対峙していることがよく分かったものである。そもそも私の記憶の中にあるブロムシュテットのマーラーは、サンフランシスコ響を指揮した 2番と、N 響を指揮した 4・5・9番くらいである。この 1番「巨人」はいつから彼のレパートリーであるのだろうか。上記の自伝によると、彼は既にドレスデン時代に、マーラーの 1番と 2番を指揮していたという。それは知らなかった。自伝からブロムシュテットのマーラーに関する言葉を引用しよう。

QUOTE
(「屋根の上のバイオリン弾き」の原作「牛乳屋のテヴィエ」を書いたユダヤ人のショーレム・アレイヘムという作家の全集がマーラーへの門を開いたとして) 最初はとくべつにマーラーが好きだったわけではありません。マーラーの音楽は理解できませんでした。(中略) いまでは私は、マーラーの音楽には深い感動があり、それはまったく真実のものだと感じています。マーラーの交響曲でははなはだしく極端なものが一体になっていますが、このようにさまざまな要素を大きな交響曲へと組み込むやりかたは、感嘆に値します。そのようなことは偉大な芸術家にしかできません。
UNQUOTE

なるほど。ユダヤ文化からマーラーに入ったブロムシュテットはしかし、この作曲家をことさらにユダヤ的に表現することはない。今回の「巨人」で聴かれたのは、無類なほど流れのよい音楽であったのだ。もちろん、自然な感情に任せて、ごくわずかテンポが上がったり下がったりすることはあったとしても、これはまさしく、清潔な布のようなピシッとした音楽。これはどう聴いても老人の音楽ではない。ブロムシュテットはまさに現代の奇跡なのである。だから私は、「巨人」のクライマックスに大いに感動した。これこそ東京に住む我々が心して聴くべき音楽であろう。指揮棒を持たない両手で、重量級の音楽を引き出すその手腕は、実に傾聴すべきものなのである。
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by yokohama7474 | 2018-10-21 00:03 | 音楽 (Live) | Comments(9)


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