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世の中には、偽善者ならぬ偽悪者という人たちがいる。つまり、実はそんなに悪い人ではないのに、何かというと意地悪なことを言ったり、人に嫌われるようなことをしたりする人である。まぁ私自身もどちらかというと、偽善者であるよりむしろ偽悪者たれと、いつも自分に言い聞かせているような人間であるが (笑)、一旦他人から「コイツは悪い奴だ」と誤解されるとそれを解くのが大変なので、あまり偽悪者ぶることはしないようにしている (変な日本語ですな)。この映画についての記事でいきなりそのようなことを書いてしまうとネタバレになってしまうかもしれないが、ここで「最も残虐な悪」と称されている化物には、一言でそのように描写してしまうことを躊躇わせるような何かがあるわけだ。予告編でも散々流れていたが、まあそれはこんな感じで出て来る化物は、誰だって悪の権化だと思うだろう。
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このシーンでは、この化物に襲われる人が、「オ、オマエは誰だ?」と恐怖に突き動かされながら問うと、"We---- are----- Venom!!" と答えるのであるが、それを見た人は、主語が "I" ではなく "We" であることから、このヴェノムと名乗る化物の集団が地球に襲い掛かり、人類を危機に陥れていると思うだろう。だが、本編を見てみると実はそうではなく、ここで言う "We" とは、この化物の個体と、もう 1人の誰かのことなのである。つまりは、そのコンビが "We" だということが、このシーンから知れるのである。だがいずれにせよこの不気味極まりない化物は地球外生物であり、人間を襲うことは確か。劇中では、それをビジネスのネタにしようという輩がいて、彼の犯罪を追求する記者、そしてその恋人、というあたりが主要キャラクターなのである。私の感想を簡単に言ってしまうと、まずまず面白い映画だということになるだろう。ヌメッとしたヴェノムとその原型の CG は実に手が込んでいて、生理的になんとも気持ち悪いし、人間とヴェノムの関わり方にも、ありきたりのモンスタームーヴィーやパニックムーヴィーとは一味違う工夫がある。だがもともとこのキャラクターは映画のオリジナルではなく、マーヴェルコミック、しかもスパイダーマンの敵として登場するようだ。
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例によって私は、最近の日本のマンガにも疎く、ましてやアメリカン・コミックに関する知識はほぼゼロであるので、このキャラクターについての予備知識もゼロであった。だが、Wiki で「ヴェノム (マーベル・コミック)」を調べると、「そんなに詳しく書かなくてもいいよ」と思われるほど (笑)、事細かにこのキャラクターの「経歴」についての記述を見ることができる。私の考えるところ、そんな予備知識なしにこの映画を見ることには全く問題はないし、映画の最後に現れるアニメの意味が分からずとも、さほど気にすることはないだろう。ただ私がひとつ思うことには、この作品の成功には、とびきりの存在感を持つ俳優が必要であり、その俳優の出演によってこの作品が活き活きしたものになっている。今を時めく名優、トム・ハーディである。
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このブログでも何本かの映画 (メジャーなものからマイナーなものまで) の記事において彼の演技を称賛してきた私であるが、幅広い役をリアルに演じることができ、そしてどの場合にも必ずどこかに人間性を感じさせる人である。なるほど、この映画の主役にふさわしい俳優である。もしこの手の映画を子供だましだと思う方がおられれば、ここでトム・ハーディが披露している演技を、自分がその立場だったらという想像力を働かせて見てみるとよい。もちろん、娯楽作品であるから、「そんなバカな」ということがあちこちで起こることは間違いないのだが、極端で、それこそマンガ的な設定の中に、結構考えさせられる要素もあり、最終的にはかなりの爽快感 (意外だろうが) も感じることとなる。世界の終わりを声高に唱えて、あまり工夫のない映画よりは、よほどましである。いやいやトムさん、褒めているんだから、そんなに喚かないで。しかも、首のあたりから黒くなっているが、大丈夫だろうか?
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少し残念なのは、この主役以外の役者陣が、どうももうひとつであることだ。特に、主人公の恋人役のミシェル・ウィリアムズは、残念ながら今回も私はピンと来なかった。しかもなぜかミニスカートだったりして、どうも納得がいきかねる。やはりこのようなキャラクターの方が、よほどしっくり来ようというものだ。
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このヴェノムというキャラクター、コミックでは 30年ほど前から存在しているようだが、ある意味では、昨今のヒーロー物の行き詰まり感の産物とも思われる。このブログでもかつてそのことを論じたことがあるが、こういう時代になると、どこから見ても正義の味方というヒーローが、どこから見ても悪い奴という敵をバッタバッタとなぎ倒す映画は、なかなか観客の共感を得られない。悪の姿をした善、あるいは自らの行為を完全な善と認識することのできないヒーロー。そういったものが必要と思われているようだ。だがその中には、アンチヒーロー性だけに腐心して、全く面白くない作品になってしまったものもあるし、何もヒーローを殺してしまうことないじゃないのと思われる作品もある。そう考えるとこの映画には、いろいろと気が利いていると思われる箇所があると思う。まぁもちろん、マーヴェルの新作がこれ一本で完結ということはないだろうから、これからシリーズ化、あるいはスパイダーマンなど、ほかのマーヴェルのヒーローとの対決ということになって行くのだろうが、ちょっとどんな動向になるのか気になるところだ。

ところでこの作品の監督は、1974年生まれのルーベン・フライシャー。私は初めて聞く名前だが、2009年の「ゾンビランド」というデビュー作で注目された人であるという。ゾンビ物好きを自認する私であるが、この作品は恥ずかしながら知らなかった。曲者俳優のウディ・ハレルソン主演で、今やオスカー女優となったエマ・ストーンも出ている。この監督の次回作は、この「ゾンビランド」の続編というから、今からでもこの映画を見ておいた方がよいかもしれない。
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ともあれ、この映画の教訓は、人を見掛けや先入観で判断してはいけないということ。それから、偽善者に騙されることなく、偽悪者の本質を見抜く眼力を身に着けようということだ。・・・まぁ、そんな戯言は気にせず、偽善者の方も偽悪者の方も、ヒーロー物の変形としてご覧になればよいものと思います。

by yokohama7474 | 2018-11-30 01:07 | 映画

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もしかしたらこのブログには未だ書いたことがなかったかもしれないが、私はローワン・アトキンソンの大ファンである。もちろん「Mr. ビーン」に腹を抱えて笑ったことがきっかけであり、そのビーンの映画も、本作「ジョニー・イングリッシュ」シリーズも、欠かさず見て来ている。彼のおかしみを何と表現すればよいのだろう。ある意味では、実に英国らしいブラックな要素が多々あって、そこには毒もあるわけだが、そんなことを考えずとも、つまりは理屈を並べなくても、ただ可笑しい。言葉に頼らず、長い手足を使って体を張った演技をしているし、喜怒哀楽ははっきりしているし、ちょっとした意地の張り方や見てくれを気にする点にも、あるいは他人への些細な意地悪も、すべからく人間性満載である。彼こそが理想の人間像である、とまで言うつもりはないものの (笑)、結構それに近い感覚を持っている私なのである。これは「Mr. ビーン」の頃の、つまりは 20~25年ほど前の彼。
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年齢を調べてみると、1955年生まれで、今年 63歳ということになる。まぁ、トム・クルーズよりは年上だから、あれほどのアクションを披露しないことは道理である (笑) が、それでもこの映画では、まだまだ体の切れるところを見せてくれている。
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このようなシーンで人を笑わせるのは、簡単なようでいて、実は大変難しい。つまり、実際に体が動かなくてはならず、でもその表情は平然としているべきで、そして、演じているときに恥ずかしいと思った瞬間に手足がすくむだろう。高度な身体能力と無我の境地、そして集中力。まるで一流のアスリートのようではないか。そんなローワン・アトキンソンがこの「ジョニー・イングリッシュ」シリーズで演じているのは、英国のスパイで、その名もジョニー・イングリッシュ。2003年に 1作目、2011年に 2作目「気休めの報酬」、そして今回が 3作目の「アナログの逆襲」である。この映画でも、007や「ミッション・インポッシブル」シリーズ、「キングズマン」シリーズなどのスパイ物を採り上げてきているが、かつての東西冷戦の構図が崩れてしまっている現在、スパイを主人公とした作品の設定そのものが難しい。従って、それぞれに工夫を凝らした設定が見られるが、この映画では国対国ではなく、英国の諜報部員と、最先端の IT 犯罪との戦いが描かれている・・・などと真面目に書いているのも可笑しいが、ま、そんな設定ゆえに、デジタル時代に対抗するアナログのオッサンという構図が成立する。いつもの通りジョニーは、騒動を起こしながらも、なんだかよく分からないうちに最後には敵を片付けてしまい、かくして最後は一件落着となるのである。アナログの究極である中世の甲冑がよく似合う (?)。
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対する敵は、AI と相談しながら、神業のごときハッキングの手腕を発揮して、英国国家のみならず、世界の首脳が集う場を危機に陥れる。もちろん誇張はあって、こんなことは現実には起こらないが、それでも、嘘によってできる映画の設定としては、それなりに面白く出来ていると思う。VR をネタにした騒動も、なかなかに面白い。
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この種の映画では、共演者の質によって面白みが変わってくるものだが、「本物の」ボンド・ガールを演じたことのあるウクライナ出身のオルガ・キュリレンコは、適度なコミカル具合でよいと思う。先日見た「スターリンの葬送狂騒曲」における、ピアニスト、マリア・ユージナ役のシリアスな演技とは好対照。この写真、前に写っている人が邪魔だなぁ (笑)。
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それから、英国首相役はあのエマ・トンプソン。大真面目であることによってコミカルな味を巧みに出していて、さすがの演技だと思うが、見ている人たちにしてみれば、現実の英国首相のことを思い出すなという方が無理だろう。鋭く現代を切り結ぶ作品にふさわしい (?)。
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監督は、これが長編デビューとなるデヴィッド・カーという人。1967年生まれの英国人で、本国ではかなり知られたテレビのコメディ監督であるらしい。英国のコメディアンの多くが高学歴であることは周知であるが、この人も (自身コメディアンではないものの) ケンブリッジ卒。いやそれだけではなく、古典学を首席で卒業して、BBC でそのキャリアを始めており、シェイクスピアの「夏の夜の夢」を大胆にアレンジした演出なども手掛けているという。あの国にはこのような古典と前衛、シリアスとコメディ、アカデミズムとエンターテインメントの垣根を軽々と越える人たちがいて、文化の成熟度を思わざるを得ない。
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このように、デジタルづくめの現代人の抱えるストレスに対し、一服の清涼剤となる映画と言えるか否かはさておき、少なくとも誰もが何度かは笑うことは請け合いだ。その一方、私としてはどうしても 1作目の、アバの "Does your mother know" を使ったシーンでの大爆笑と、宗教に対する冒瀆とも受け取られかねないブラックな内容を忘れることができない。今回は、さすがにそれを越えることはなかったと思う。それでもやはりローワン・アトキンソン、只者ではない。このような素顔を見ると、さすがに 63歳、決して若くはないが、きっとこれからは BREXIT の中、彼の表現もますます磨きがかかって行くことだろう。ジョニー・イングリッシュは、まだまだ田舎で子供たちを教える平和な日を過ごしているわけにはいかないと思うのである。
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by yokohama7474 | 2018-11-29 00:03 | 映画

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これはすこぶる奇妙な映画である。それゆえに、好む人と好まない人が明確に分かれるであろうが、既に封切後 1ヶ月以上経過しているにもかかわらず、渋谷の小劇場、アップリンク渋谷で週末に見ようとすると、満席になっている。こういう話は、自分で書いていてもなんだか楽しい。やはり私は、王道を行くメジャーな映画だけでなく、このようなマイナーな映画を見ることで、幸せになる人間なのである。と言いながらも私はこの監督の名前を今回初めて耳にした。デイヴィッド・ロバート・ミッチェル。1974年生まれだから、今年 44歳。決して若手というわけではなく、既に中堅である。
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この一見してオタクの雰囲気を漂わせる監督は、この映画では脚本・製作を兼ねている。彼の前作であるホラー映画「イット・フォローズ」(2014年) はクエンティン・タランティーノに絶賛され、日本でも一部で熱狂的に支持されているらしい。この映画を見損ねた私は、自らの不甲斐なさに我慢ができないのであるが、ともあれ、今回この映画を見ることができてラッキーであった。映画の宣伝では、「新感覚ネオノワール・サスペンス」と謳われているが、これでは正直、何のことやらさっぱり分からない。なのでこの記事では、この作品について知識のない人が、なるべくイメージを持てるように書いて行きたい。まず紹介すべきは主演俳優であろう。
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最近の映画では「ハクソーリッジ」で鬼気迫る演技を見せ、このブログでも絶賛したアンドリュー・ガーフィールドである。もともと「アメイジング・スパイダーマン」2作で世に出た彼が、この映画の中ではそのコミックの原作を読んでいたりして、なかなかに遊び心溢れる出来である。そしてここで彼は「ハクソーリッジ」とは全く異なる意味で極めてリアルな演技を披露しながら、いわば捨て身の思い切ったシーンも演じている。これを見るにつけ、日本ではこのような素晴らしい俳優がこのような下劣なシーンでの演技をすることは、全くあり得ないと思ってしまうのである。

映画のストーリーは単純で、このガーフィールド演じる主人公サムが、隣のアパートに住む女性サラに恋してしまうものの、そのサラが突然姿を消してしまい、彼女を追い求めてあの手この手を尽くすというもの。単純なストーリーの割に、140分という長い上映時間の作品である。なので、繰り返しだが、この映画のテイストを気に入らない人にとってこの映画は駄作であろうし、ただ徒らに長いだけ、という評価になるだろう。実際この映画の設定は、スマホがあることから推して現在であろうが、随所に 1990年代のテイストが入る。そして、現実と妄想、事実と空想が入り交じって、さながらサムの脳髄の迷宮を彷徨い歩くような作品である。そしてここには、様々なサブカルチャー由来の暗号がひしめいているようだ。正直私も、その種のオタクではないので、分からないことがほとんどだが、この映画のプログラムに掲載されている様々なネタを見ると、なるほどねと思わせるものが沢山ある。これが劇中に登場する架空のバンド。いかにもでしょう (笑)。
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この作品の舞台になっているのはロサンゼルスで、登場人物たちの一部はハリウッドに関わっている。この地域を舞台にした映画はこれまでに数多く作られていて、一般庶民から見るセレブたちの華やかな生活に対する憧れが、その理由として説明されうるであろう。だがこの浮世の栄光は、何か退廃的なものと紙一重であり、デイヴィッド・リンチの「マルホランド・ドライブ」という不気味な映画もあった。また、映画の題名にあるシルバー・レイクとは、実際にハリウッドの近くに存在する土地であるようだ。このようなサイトで、その雰囲気を知ることができる。
私の思うところ、この映画に込められたメッセージは決して分かりやすくはないものの、以下のようなものが含まれるであろう。
・人間には誰しも夢がある。その夢が破れてしまうとその人は、悲しいかな、どこかに仮想の敵を作り出して自分を正当化したくなるものである。
・夢破れたときには、そこから立ち直れるのか否かが重要。自分が立ち直るために、たまには憎い存在をメチャクチャにしたくなるときもある。
・1990年代にオタク文化は世界に発信された。これは今や、年間 2000万以上の人たちが海外から訪れる現代日本が形成される、きっかけのひとつと評価されるのではないか。
・この映画では、明確には描かれないものの、主人公は明らかに妄想・空想の世界に浸っていて、その中の情景が演じられる舞台は、自由自在に変転する。これは、まるで夢のように、現実と虚偽の間が曖昧になっていると解される。ここにおいては、何が事実で何が虚偽かであるかは重要ではなく、ただ映画の嘘に身を委ねるべき。例えば、いたずら少年たちに傷つけられたはずのサムの車が、続くシーンでは傷を負っていないことは、何を意味するだろうか。また、主人公の友人は本当に自殺したのか。あるいは本当に実在したのか。同様に、フクロウの仮面をかぶった全裸の女は、殺人を犯したのか、はたまた実在するのか。主人公が解き明かす曲に隠された暗号は、陰謀論にありがちなこじつけではないか・・・等々の疑問が生じるが、細かい整合性を気にせずに楽しめばよいと思う。
・成熟した社会には必ず終末感がある。この映画では、ある種の宗教的な事柄がそのような終末感を和らげることが描かれている。極端ではあれ、人間の弱さがよく描かれている。
・そして、終末感漂う世界では、人間は神を殺してしまうものである。

ただ惜しむらくは、主役以外の俳優陣の演技がそれほど印象的でない。サラを演じるライリー・キーオ (過去の出演作には「マッドマックス 怒りのデスロード」や「ローガン・ラッキー」を含むらしいが、残念ながら覚えていない) は、大詰めのシーンは結構よいと思ったが、主人公サムが入れあげるほどの魅力があるかどうか。
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私としては、この映画のテイストは嫌いではない。なので、話題の前作「イット・フォローズ」に大変興味がある。ちょっと怖そうだけれども (笑)。
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by yokohama7474 | 2018-11-27 23:27 | 映画

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ズービン・メータとバイエルン放送交響楽団による日本公演も、サントリーホールの 2公演を残すのみ。上のチラシにもある通り、この 2公演には現代最高のピアニストのひとり、ロシア出身のエフゲニー・キーシンがソリストとして登場する。彼のリサイタルについては先に記事で採り上げたが、2回のリサイタルが全く同じ曲目だったくらいだから、2日連続で弾くコンチェルトが同じ曲であっても、驚いたり嘆いたりしてはいけない (笑)。今回の演目は以下の通り。
 リスト : ピアノ協奏曲第 1番変ホ長調 (ピアノ : エフゲニー・キーシン)
 リヒャルト・シュトラウス : 交響詩「英雄の生涯」作品40

キーシンのリサイタルに記載されていたところによると、彼はこのコンチェルト (演奏時間 20分ほど) を最近レパートリーとしたらしく、このところ集中的に採り上げているようだ。そして、メータとの共演は日本では初めてということである。貴重な機会となった。
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このピアニストがいかに特別な存在であるかについては、既によく知られていることでもあり、またこのブログでも、先のリサイタルの記事で書いたのでここでは繰り返さないが、その音の輝き、表現の深さ、そして抒情性や推進力といった面のどれを取っても一級品である。かつての天才少年が天才となり、もともと成熟していたその音楽に、より一層深みが増してきているような気がする。リストの 2曲のピアノ協奏曲 (あ、実はもう 1曲あるらしいが、私は聴いたことがない) はいずれも、それなりの演奏頻度はあるものの、正直なところ、とびきりの名曲というイメージは私にはない。だが今回のような実に鮮烈な演奏で聴くと、この短いコンチェルトの音響にはあれこれ工夫が凝らされているのだということがよく分かる (トライアングルが後ろの方ではなく、弦楽器群の中で演奏するという配置も、ひとつの工夫であったろう)。キーシンの選ぶ曲は、いずれも彼自身が納得して弾いてみたいと思うものばかりなのだろうが、これだけの腕前であれば、誰も知らない秘曲を発掘して世の中に紹介するということをやってくれれば、それはそれで面白いだろう。だがそれにしてもこの人の演奏姿には相変わらず、芸術家の孤独な闘いというよりは、ごく自然な表現意欲を感じる。普通はどんな天才でも、あれこれ壁に当たって悩んだりするものだろうし、スランプもあると思うのだが、この人ばかりはその種の深刻さを感じさせない。もちろんそれは、人一倍努力しているからであることも、一方で事実だと思うのであるが。今回はアンコールとしてまず、「チャイコフスキーノ、メディテーションヲ、キイテクダサイ」と客席に語り掛け、そのチャイコフスキーの「18の小品」作品 72の第 5曲「瞑想曲」を弾いた。私もなじみのない曲だが、そこに漂う深い情緒はただものではない。YouTube を調べると、キーシンの演奏によるこの曲の動画を見つけることができるが、これは 2015年10月、アラン・ギルバート指揮ニューヨーク・フィルと共演して、カーネギーホールでチャイコフスキーのピアノ協奏曲第 1番を演奏したときのアンコールであるようだ。そして今回はアンコールをもう 1曲、「ドビュッシーノ、ケークウォークヲ、キイテクダサイ」と言って弾き出したのは、もちろんドビュッシーの「子供の領分」から「ゴリウォーグのケークウォーク」である。キーシンのドビュッシーはあまり聴いた記憶がないが、この曲の軽妙さを強調し過ぎることない、テンポ感のよい演奏で、「トリスタン」のパロディも、それほど粘ってみせることはない。だが、音にきっしり中身が詰まっているので、このような曲を聴いてもその音のクオリティは変わらない。相変わらず脱帽ものののキーシンのピアノであった。

さて、メータである。今回も足の状態は変わらずで、ステージ袖からステッキを持ち、介添人が後ろをついてゆっくりと歩いて指揮台に向かう。先に見た東京芸術劇場でもミューザ川崎でも、指揮台の上に足を乗せる台が設置されていたが、それぞれ違う台であった。今回の台はまた違うもので (それぞれホールで用意しているのだろうか?)、指揮台と同じ赤いカーペットの生地が貼られている。その点では統一感はあるものの、ただ少し面積が小さかったような気もする (笑)。そして、協奏曲の演奏では、ほとんどの指揮者は譜面を見て指揮するのだが、今回は譜面台も置かれていない。それゆえ、前回の記事で書いた通り、やはりメータは前のめりの姿勢も苦しくて、譜面台を使わずに暗譜で指揮するのだと勝手に思い込んでいたのだが、なんのことはない。今回は、指揮台のストゥールに腰かけてからスタッフを呼びつけ、譜面台を持って来させたのだ。それを見て、ははぁと思い、帰宅してから調べてみたところ、やはり今回のアジアツアーにおいて、コンチェルトの演奏はこのコンサートが初めてである。スタッフも、指揮者が譜面台を使用するか否か、明確には把握していなかったことになる。これだけ大規模なツアーになると、スタッフの苦労も何かと多いことは容易に想像できるが、これなどはその一例だろう。
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さてそんなメータであるが、準備が整って響き渡ったリストの冒頭の重厚な音を聴いて、その好調ぶりには改めて驚いた。そしてその驚きは、休憩を挟んで演奏された「英雄の生涯」でさらに大きなものとなった。もともとこのメータという人は、リヒャルト・シュトラウスを大得意にしていて、中でもこの「英雄の生涯」のゴージャスな音響は、彼の特質が遺憾なく発揮されるものである。それはもともと知っていた。だがそれにしても、今回聴いた演奏をどのように形容しようか。例えば、冒頭の低弦を中心とした唸りからメインテーマが跳ね上がるあたりでは、多くの演奏が胸をワクワクさせてくれるものだが、その直後の「英雄の敵」で、英雄が敵たちから嘲笑を受ける場面がこんなに鮮やかに響いた例は、ほかにあるだろうか。ここには曲想にギャップがあるからこそ、50分に及ぶこの大作の演奏の成否がかかるような面がある。超一級の技術を持ち、シュトラウスの出身地ミュンヘンを本拠地とするオケと、この曲を振らせたら世界屈指の存在である指揮者であるから、その後もどのように迫真の「英雄の生涯」が描き出されたか、多言は要すまい。コンサートマスターのソロも極めてあでやかであったし、渦巻く音響に、あるいはむせるような情緒に、ただただ圧倒され、感服し、感動した。アンコールには、先に「巨人」のあとに演奏したのと同じ、ヨハン・シュトラウスの「爆発ポルカ」が演奏され、会場を一層盛り上げた。

今回 3回に亘ってメータとバイエルン放送響の演奏会を堪能したわけだが、このブログをご覧頂いている方には、記事のトーンから感傷性がどんどん減ってきているのがお分かりになるだろう。足が悪くても、この名指揮者の表現力にはいささかも衰えはないどころか、むしろオケが、そのハンディを補うだけのすごい音を出して応えるということがあるのだと実感した。足が悪いと長旅は苦痛かもしれないが、是非また日本に還って来てくれると思うので、その日を心待ちにしたい。

さて最後に、メータの病気について。先の記事にも書いた通り、日本ではその内容について書かれた報道を見つけることができなかったが、英語では少し情報があったので、ご参考までにここに書いておきたい。まず、休養に入った当初は「肩の手術」と発表されたが、実は癌であったそうだ。英語では "Cancerous Tumour" とあって、これは「癌性の腫瘍」ということである。どの部位であったかは明らかではないが、カリフォルニアにおいて、化学療法で治療を受けたとある。今年の 10月に復帰した際には、インタビューした記者に対して、「6歳のときに脳膜炎を患って以来、一切病気なんてしたことなかったからね。医者と家内から、絶対治ると随分励まされたよ。医者によると、もう癌はないそうだよ」と語っている。また、先に述べた、今年 10月 4日にテル・アヴィヴで復帰後初めてイスラエル・フィル (1968年から音楽顧問、1981年からは終身音楽監督の地位にあったが、先頃、2019年10月での退任を発表した) のリハーサルに登場した際の映像があるので、勝手ながらここにリンクを貼らせて頂くこととする。

ご覧頂ければお分かりのように、冒頭でオケの金管部隊がファンファーレで歓迎する中、メータはゆっくりとだが自力で歩いて登場する。この点が現在の状況と異なるところです。彼が語っている内容は以下の通り。「しばらく皆さんに会えずに残念でした。以前顔合わせしたのはカーネギーホール (注 : 調べてみるとこれは 2017年10月のこと) でしたから、随分前ですよね。ずっと家にいて、大変よくなりました ("Feeling very well" と言うと、オケから盛んな拍手)。体重は 20kg減って、10kg取り戻しました。インド料理を食べてね。こんなに長く家にいたことはない。8ヶ月ですよ!! 沢山の演奏をキャンセルしたことは本当に残念。特に「ばらの騎士」。ところで、あななたちの演奏のことはすべて聞いていますよ。ラハフ (注 : ラハフ・シャニ。もともとこのイスラエル・フィルの副指揮者だが、29歳の若さで次期首席指揮者に内定しており、今年からはロッテルダム・フィルの首席も務める。この映像では本人も登場) のロッテルダムでの新たな仕事についても。ダニエル (注 : これは当然、親友であるダニエル・バレンボイムのことだろう) が 2時間前に電話してきたところによると、ピアニストとして共演したら素晴らしかったということです。本当に嬉しいことです。私は (勇退について) 正しいときに決めたし、あなたたちがラハフを正しいときに選んだのです」メータの表情は明るく、病気から快復した喜びがにじみ出ている、素晴らしいシーンであると思う。調べてみると、癌の化学治療の副作用として歩行に問題が生じることがあるという記述も見かけたが、今のメータはそれなのかもしれない。ただ、不幸中の幸いは、腕が大丈夫であることだ。今回のアジアツアーを完遂してもらって、多少自愛してもらいつつ、世界のファンの期待に応えて欲しい。大病の克服には、もちろん大変な精神力を要することだろう。だがそれが、彼の音楽をさらに素晴らしいものにしてくれることを、願ってやまないのである。

by yokohama7474 | 2018-11-27 01:07 | 音楽 (Live)

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82歳のズービン・メータが指揮するバイエルン放送交響楽団の演奏会。前回ご紹介した池袋の東京芸術劇場でのコンサートの翌日には、同じ内容で西宮でコンサートを開き、1日オフを挟んでの川崎公演である。今回の曲目は以下の通り。
 シューベルト : 劇付随音楽「ロザムンデ」序曲
 シューベルト : 交響曲第 3番ニ長調
 ストラヴィンスキー : バレエ音楽「春の祭典」

このオーケストラはミュンヘンに本拠地を置く世界屈指の名オーケストラであるが、旧西ドイツの放送交響楽団であるから、その発足は第二次大戦後の 1949年と、ヨーロッパの名門オケとしては大変に若い。だが、初代のオイゲン・ヨッフムに始まり、なんと言ってもこのオケの繁栄を築いたラファエル・クーベリック、そしてコリン・デイヴィスにロリン・マゼール、現在のマリス・ヤンソンスに至るまで、歴代の名指揮者たちの薫陶によって、その高い水準を維持してきている。日本でも大変な人気のヤンソンスは、(先日の NHS BS プレムアムで放送された通り、今夏のザルツブルク音楽祭ではチャイコフスキーの「スペードの女王」を指揮していたが) 感染症によって残念ながら来日を断念。代わって登場したのがあのズービン・メータということで、これは期待するなという方が無理というもの。
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ところが今回日本の聴衆の前に姿を現わしたメータは、前回の記事にも書いた通り、ほとんど歩行が叶わない痛々しい姿である。昔から彼の豪快な音楽を楽しんできた聴衆の誰もにとって、その姿は衝撃的であるはずだ。だが私は今回、そのような感傷を排して記事を書いてみたい。というのも、たまたま我々は日本で彼の姿を見ているわけだが、調べてみるとこれは日本だけではなく、アジア地域におけるバイエルン放送響のツアーである。実は日本に来る前に既に 4回、台湾 (高雄 1回、台中 1回、台北 2回) での演奏会を済ませており、さらに日本のあと、ソウルで 2回のコンサートが予定されている。そのすべてをメータが指揮をする。足が不自由ではあっても、彼の音楽に対する情熱は全く衰えていない。それを再確認するコンサートであったと言ってよい。

今回は本番前のリハーサルを見学することができたので、そのことから書いてみたい。18時からの本番に先立つ 16時から 1時間弱のリハーサルは、今回のメインの曲目である「春の祭典」に絞って行われた。メータにとってこの曲は、最初のロサンゼルス・フィルとの録音から既に 50年以上演奏して来た自家薬籠中のレパートリー。このようなアナログレコードのジャケットが懐かしい。
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だが今回のアジアツアーの曲目を見ると、未だこの曲はツアーで演奏されてはいない。つまり今回の川崎が、このツアーにおける「春の祭典」の最初の演奏であったわけである。リハーサルであるから楽員も指揮者もカジュアルな恰好で、メータは本番とは異なり、ステージ上に車椅子で現れ、介添人の手を借りて指揮台のストゥールに腰かけた。また足置きも、前回の池袋のときのものよりも安定感のあるものに変わっている。今回のリハーサルでは、第 1部と第 2部はそれぞれ、ほとんど続けて演奏され (例外は、第 2部の開始間もないタイミングで演奏し直したことのみ)、その間メータはオケを止めることはせず、また言葉もほとんど発しない。だが、冒頭のファゴットソロからしてさすがにバイエルンである。輝きと力のある音を終始奏で続け、指揮者の身振りが小さくとも、この永遠の難曲を完璧に音にした・・・。いや、トランペットは 1箇所、入りを間違えたし、ヴァイオリン奏者で一人先走った者もいた。だが、これが一流オケのリハーサルかという高次元の内容であり、そのまま本番でも全く問題なかったろう。本番と異なる点のひとつは、メータが指揮台に譜面を置いていたこと。だがリハーサル中にはそれに触れもせずに暗譜で指揮をし、第 1部と第 2部が終わったそれぞれのタイミングで (オケへの賛辞を叫んだのち) ようやくスコアをパラパラとめくり、ドイツ語で指示をしながら、何か所かをさらってみるのみだ。一部は分奏もあれば、ティンパニ奏者との会話もあったが、概してつつがなくリハーサルは終了した。

今回の曲目の前半ではもともと、ドヴォルザーク 7番が予定されていた。この曲はメータのレパートリーにも入っていて、録音もあるのだが、今回はそれを演奏せず、シューベルトの序曲と交響曲に置き換えられた。これは私の勝手な解釈だが、病後であるメータは、今回のメインの曲目には心血を注ぐ代わりに、前半の曲は少しカロリーの低い曲にしたのではないだろうか。今回日本ではこれが唯一の演奏となったシューベルトの「ロザムンデ」序曲と交響曲 3番。本番ではやはりメータは譜面台も置かない完全暗譜。この指揮者はもともと、曲によってスコアを見ながら指揮するか暗譜かを決めているようだが、実は今回の演奏を聴いて気づくのは、今のメータは上半身をかがめることも難しいらしく、どのみち譜面を見ながらの指揮はできないようだ。そうであれば、この海千百千の名指揮者が自信を持って暗譜で披露してくれる曲に身を委ねようではないか。最初の「ロザムンデ」序曲はコントラバス 4本による演奏。この曲の主部は大変に愛らしく軽快だが、その序奏は何やら重々しい音楽。これはまさにメータにぴったりの雰囲気だ。その重々しさゆえに、主部の軽妙さが際立ち、名人揃いのオケの面目躍如である。そして、足が不自由になってしまったメータは、ステージ袖に引っ込むことなく 2曲目のシンフォニーに入って行った。注目すべきは、その間に弦楽器奏者たちがゾロゾロ退場し、この交響曲第 3番は、コントラバス 2本の小編成になったことだ。これは先日の「ジュピター」と同じ。そもそもヴァイオリンは左右対抗配置だし (それは「春の祭典」でも)、この編成は一見オリジナル楽器風である。だが、やはりメータはメータである。このシューベルトは、全く痩せた音のしない芳醇なもの。上体しか動かないメータはそれでも、音楽の愉悦感を充分に表現していた。これが彼のシューベルト全集の中の 1枚の、これまたアナログレコードのジャケットである。
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後半の「春の祭典」は、これまた驚くべきことに、小さな棒の動きを感じさせない、メータ特有のダイナミックな演奏であり、大変な迫力である。リハーサルで既に見事であったが、さすが名オーケストラ、本番ではさらにそれを越えるクオリティを聴かせた。リハーサルの傷はここでは全くなく、私が気づいた些細なミスは、ホルンが 1箇所、フレーズ冒頭を絞り出すのに失敗したくらいだろう。メータにとってこの曲は長年のレパートリーであったとは上に書いたが、彼のこの曲の指揮ぶりは、例えばブーレーズとか、あるいは小澤のようにはシャープなものではなく、もっと骨太なもの。今回の演奏では、そんな彼の持ち味が存分に発揮されたものになっていたと思う。メータはこのオケとは 1960年代からのつきあいというが、同じミュンヘンに本拠地を持つほかの 2つのオケ、つまりバイエルン国立管とミュンヘン・フィルの双方から名誉指揮者の称号を得ていることに比べれば、このオケとの演奏頻度はそれほど高くないものと思われる。それにもかかわらずこれほどにヴォルテージの高い演奏が可能とは、さすがに名指揮者と名オーケストラである。これはメータがニューヨーク・フィルと録音した 2度目の「春の祭典」。懐かしいジャケットであり、中学生時代の胸の高まりを思い出す。
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そして、メータがコンサートマスターに確認したアンコールは、本人の口から「チャイコフスキー!!」と紹介された。演奏されたのは「白鳥の湖」第 1幕のワルツ。これは本当に楽しくまた抒情的な曲で、そして・・・聴いていると本当に胸が熱くなった。素晴らしい音楽、素晴らしいオーケストラ、そして素晴らしい指揮者!! 感動的である。そして私がまたも思い出したのは、このようなジャケットであった。
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いやいや、感傷的になる必要はない。ステージの上で指揮棒を振るったメータは、40年前から私の知っているメータであり、終演後の充実した笑顔、そして合掌による挨拶も、私がよく知っているメータである。ここから先、さらに音楽の深みを聴かせてくれるであろう巨匠指揮者の姿が、そこにはあった。

by yokohama7474 | 2018-11-25 23:32 | 音楽 (Live)

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日本フィルハーモニー交響楽団 (通称「日フィル」) の前首席指揮者で、現在は桂冠指揮者兼音楽顧問であるアレクサンドル・ラザレフは、今年 73歳になるロシアの指揮者。日フィルの指揮台には今でも頻繁に登場し、その爆発力のある精力的な音楽を聴かせてくれている。その彼が今回指揮した第 342回横浜定期演奏会の曲目は、以下の通り。
 チャイコフスキー : ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品35 (ヴァイオリン : 小林美樹)
 プロコフィエフ : バレエ音楽「ロメオとジュリエット」(ラザレフ版)

私にとっては、ラザレフ / 日フィルの「ロメオとジュリエット」と言えば、忘れられない思い出がある。それは 2011年 3月11日のこと。ラザレフと日フィルはサントリーホールでこの曲を演奏した。私もチケットを持っていた。だが私は会場に辿り着くことができなかったのだ。なぜならそれはまさに東日本大震災の日。交通機関が麻痺して、ほとんどの人は私と同じように、サントリーホールに辿り着けなかったことだろう。だが、あとで聞いた話だが、数十人の聴衆を前に、コンサートは開かれたということだ。プロの音楽家にとっては、コンサートはまさに命を賭けた表現の場。 "The show must go on." なのである。今回はそれから 7年半を経て、同じ曲を 3連休の中日に横浜でゆったりと味わうことのできる、素晴らしい機会。だが待て。今回はそのメインの「ロメオとジュリエット」の前に、おなじみのコンチェルトが演奏される。そう、チャイコフスキーの名作、ヴァイオリン協奏曲である。ソロを弾くのは、1990年生まれで今年弱冠 28歳の小林美樹。
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私は彼女の名前は聞いたことはあるが、その演奏は未だ聴いたことがない。若い未知の音楽家を聴くことは、音楽ファンにとっては心躍ること。一体どのような音楽を奏でてくれるのかと期待して行ったところ、その演奏は期待以上の出来で、この曲の持つ力を最大限に発揮したと言ってもよいと思う。その音には常にしっかりとした芯があり、浮ついたところがない。ただそれでいて、この曲の華やかな面の表現においても何か思い切りを強く感じさせる。これは非凡なヴァイオリンである。彼女の経歴を見てみると、2006年のモーツァルト国際ヴァイオリン・コンクールでギドン・クレーメルから審査委員特別賞を受賞。2011年にはポーランドで行われたヴィエニャフスキ・コンクールで 2位。マキシム・ヴェンゲーロフからも高く評価されているという。もともと米国生まれで、桐朋学園の特待生を経てウィーンで学んでいるとのこと。間違いなく大器である。聴き慣れたチャイコフスキーのコンチェルトを、全く飽きることなく聴けることだけでも、本当に得難い経験であった。そして、ラザレフ指揮の日フィルによる伴奏も、大変美しい。第 2楽章冒頭の、まるでロシアの雪景色のような抒情的な音楽も、木管が極めて美麗であった。そして演奏終了後、小林が何度も舞台に登場してから、聴衆の「おねだり」に応えて弾いたアンコールは、バッハの無伴奏パルティータ 3番の終楽章ジーグ。短い曲である。もちろん安定した演奏ではあったが、私の見るところ、彼女はコンチェルトに没頭するあまり、アンコールを弾く余裕はあまりなかったのかもしれない。もちろん、聴衆の期待に応えることは、若手演奏家にとっては必要なことではあるのだが、とにかく、これからの長い道のり、自分に正直な音楽を奏でて行って欲しい逸材である。

そして、メインの「ロメオとジュリエット」である。この曲は最近もジャナンドレア・ノセダ指揮 NHK 交響楽団で聴いたばかりだが、その演奏が 12曲で、演奏時間が 45分程度であったのに対し、今回の「ラザレフ版」は 10曲で、演奏時間は 40分弱である。いつものように指揮棒を持たず、素手で指揮するラザレフ。
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この演奏、最初の「モンタギュー家とキャピュレット家」の冒頭からして、気合充分だ。ラザレフの非凡なところは、オケから力強い音を引き出しながらも、そこには緻密な音響設計があること。この「モンタギュー家とキャピュレット家」において不協和音が炸裂する箇所では、まるで音が噴き出して来るかと思われるほどの強烈な力の入り方である。これは、やみくもに強い音を出そうとしても出て来ない音であると思う。これだけで聴衆は一気に音楽の世界に引き込まれてしまう。その後の足取りも大変に着実なものであり、音楽の配列は原曲と全く異なるものの、いずれも有名曲。それぞれの性格の違いをくっきりと描き出した。例えば「情景」における洒脱な音の遊びに続く「ジュリエットの墓の前のロメオ」の透明感ある悲劇性への移行は、極めて鮮烈。そして最後は「タイボルトの死」の強烈な盛り上がりで締めくくる。上記のノセダと N 響の演奏では、この曲をラストには持って来なかったことは以前述べた通りだが、このあたりにノセダとラザレフの個性の差があるように思う。この「タイボルトの死」は、確かに盛り上がるものの、その音楽は大変に悲劇的。これをクライマックスに持ってくることには、ある種のリスクがあるように思う。その後味が必ずしもよくないからだ。そこで成功する方法はただひとつ。圧倒的な演奏を披露することだ。そして今回のラザレフと日フィルはまさに圧倒的な演奏を繰り広げたのである。あの震災の日に鳴り響いたのも、このような音楽であったのだろうか。実はその震災の日に演奏されたこのコンビの「ロメオとジュリエット」はライヴ録音として市販されている。これはやはり、聴いてみないといけないだろう。
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終演後のラザレフはオケへの最大限の賛辞を表し、客席に対しても、「こんなに立派なオケなんですよ。皆さんもっともっと拍手して!!」というポーズで煽り立てた。そうして演奏されたアンコールは、同じプロコフィエフの交響曲第 1番「古典交響曲」の第 3楽章ガヴォット。言うまでもなくプロコフィエフが「ロメオとジュリエット」の中で、客人たちの退場の音楽として引用した曲である。「古典交響曲」の作曲は 1917年。一方「ロメオとジュリエット」は 1938年の初演。20年間の間にロシア革命があり、第一次大戦の終結があり、そしてスターリン時代の始まりがある。この優雅なガヴォットは、激動の歴史を越えて、愛らしく響くのである。実はラザレフは、このアンコールの最初の方で客席に向かって指揮をした。どうやら聴衆に拍手を求めたように思われるが、拍手が習慣となっている「ラデツキー行進曲」ではないし、決してノリノリのアップテンポな曲ではないので、残念ながら誰も拍手しなかった (笑)。次回は是非。

考えてみれば、このラザレフの前後に、ロシアの名指揮者が相次いで日本を訪れる。テミルカーノフの来日はあいにく中止となってしまったが、アレクセーエフという優れた代役が登場した。12月に入れば、あのゲルギエフがやってくるし、その後には、最長老であるフェドセーエフも指揮をする。様々に個性的なロシアの演奏家も堪能できる東京である。

by yokohama7474 | 2018-11-25 00:56 | 音楽 (Live)

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フランツ・ウェルザー=メスト指揮によるウィーン・フィルの演奏会、私が聴く今回 3つめのプログラム。今回の来日公演における 6つの演奏会の中でも、この曲目の演奏はこの日一度だけ。大曲一曲によるプログラムである。
 ブルックナー : 交響曲第 5番変ロ長調

このブログではこの壮大なシンフォニーの演奏を過去何度か採り上げ、その度に率直な感想を記してきた。この曲の完成は 1878年で、その頃ブルックナーはウィーンで教鞭を取っていた。もちろんその地の宮廷オーケストラをその起源とし、その頃既に自主的な活動を展開していたウィーン・フィルは、この作曲家と深い関係があったわけで、1番、2番 (作曲者指揮)、3番 (作曲者指揮)、4番、6番 (マーラー指揮)、8番を初演している。だがこの初演リストには 5番は含まれない。というのもこの曲は、当時演奏不能とされたらしく、ウィーンでまずは 2台ピアノ編曲版の演奏があったあと、作曲者自身が、実際にオーケストラで演奏してもらおうという努力をしなかったとされる。実際この曲の終楽章のラストは、あたかもアルプスの高峰が連なるように、延々と巨大な音響が続く。きっとこれは作曲者の頭の中で鳴っていた、神の栄光に捧げる音の大伽藍であって、19世紀のオーケストラの技術では、なかなかに実現が難しいものであったことは、容易に想像できる。だが、21世紀も 1/5 近く過ぎた現在 (この曲の完成からちょうど 140年後)、ウィーンを遠く離れた極東の地で、完成当時は演奏を躊躇したであろうそのウィーン・フィルが、これだけの素晴らしい名演を聴かせているわけである。もし作曲者が知ったら、一体何と言うだろうか。そんな凄演を指揮した W=メスト。
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今回の演奏前にステージを見ると、通常なら奥の真ん中に陣取るティンパニがいない。いやいや、よく見るとステージに向かって左側、第 2ヴァイオリンの後ろあたりにいる。つまり、ステージの最奥部に横にずらりと並んだのは、すべて金管楽器である。この配置に、既にして W=メストのこの曲への意気込みが見て取れる。いかにウィーン・フィルと言えども、あの壮絶で鳥肌立つようなラストを、破綻なく完璧に演奏するのは容易ではないはず。継続する金管のフォルテシモを高い密度で実現するために、このようなずらりと並ぶ楽器配置を採ったものだろう。そして実際に鳴っていた音は、紛れもないウィーン・フィルの美感を備えながらも、輝かしい力に満ちたもの。それは本当に、ほかのオケでは考えられないような、美と力の奇跡的な両立であったと思う。冒頭の低弦のピツィカートから名演の予感充分であったが、75分の演奏を経てこのオケは、自らの存在の特別性を東京の聴衆に改めて示したのである。前回のブラームスの演奏で私は、W=メストの呼吸がさらに深ければよかったのにと書いたものだが、今回のブルックナーも、いわゆる深々と停滞して唸るタイプの演奏ではなく、W=メストらしく明快でテンポ感のある演奏であった。だが、今回の表現力は全く十全なものであると感じた。もしかするとここに、ブラームスとブルックナーの資質の違いを見てもよいかもしれない。一音一音の美感が重要なブラームスと、音自体のクオリティよりも没入感が大事なブルックナー。今回のブルックナーを聴くと、このコンビによる 7番や 8番を聴いてみたくなる (9番は以前日本でも演奏している)。弦楽器のつややかさは言うまでもなく、そして木管の得も言われぬニュアンスも言うまでもないが、それらにも増して今回素晴らしかったのは、金管である。迫力に不足することは全くない一方で、上記のようなずらりと並んだ編成において、そのパースペクティヴの奥深さ、そして正確さには舌を巻く。W=メストの流麗な音楽には、その表面のクールさに似合わぬ情熱がある。それゆえ、世界に類を見ない伝統を持つこのオケが、彼の指揮のもとで一丸となって突き進んだのであろう。そして、実は前回のこのコンビの演奏の記事の最後で触れていた、アンコールがあるか否かという問題を忘れてはならない (笑)。これまでの 2回におけるワルツ + ポルカというパターンのアンコールは、結局今回は演奏されなかった。これは私としても、事前の予想通り。崇高なブルックナーの 5番を聴いたあとには、いかなるアンコールも不要であると思うのである。この老いた作曲家の内面に鳴り響いていた音楽を想像するとき、もはやそれは究極の音の連続であって、ほかのどんな音楽も寄せ付けない。
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以前も記したことがあるが、W=メストはオーストリア人で、生まれはリンツである。実はブルックナーの故郷は、そのリンツ近郊。その意味では、ほぼ同郷と言ってよい指揮者が、作曲者の活動に密接な関係を持っていた伝統のオケと奏でるブルックナーは、やはり特別なはずである。と書いていて考えてみた。このウィーン・フィルを指揮して、かつてこのブルックナー 5番を録音した指揮者が何人いただろうか。もちろん、クナッパーツブッシュの名が最初に挙がるだろう。そして、若き日のマゼールの個性的な演奏。それからハイティンク。アーノンクール。アバド。あと、クレンペラーのライヴもあった。この陣容は極めて個性的。だが、ここでさらに考えてみる。上で見た通り、この作曲家と大変近い関係にあったウィーン・フィルは、ひとりの指揮者のもとでブルックナー全集を作ったことが、これまでにあったろうか。私の記憶では、それはないはず。そうなると、この W=メストあたりは今後その可能性を持った指揮者であると考えたい。現在のところ彼がレパートリーとしているブルックナーは、4、5、7、8、9番というポピュラーなものばかり。手兵クリーヴランド管との演奏は、その 5曲の映像も出ている。
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未だ 50代の W=メストが、今後もさらにその音楽を深化させて行くことは間違いないと思う。その持ち味を変えずに、さらなる高みに達するのを聴いてみたい。

by yokohama7474 | 2018-11-24 01:54 | 音楽 (Live)

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本当を言えばこの記事は、このオケの歴史への言及から始まり、指揮者交代や曲目変更について、若干面白おかしく、でも期待を込めて綴ってみたいと思っていた。だが、実際にコンサートを体験して、そのプランを変更することとした。なぜなら、ステージ上に見えたのはこのような光景であったからである。
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指揮台の上にはストゥールが据えられ、舞台から指揮台までの僅かな段差には (よく見ると通常のステップの上に) スロープが設けられている。しかも、指揮台から見て左手、第 1ヴァイオリンとチェロの間の部分に大きなスペースが空いている。これは明らかに指揮者が通る道だろうが、車椅子が通れるほどの広いスペースとなっている。このコンサートの指揮者は、1936年インド生まれのズービン・メータ。恐らくは現代活躍している指揮者の中でも、最も知名度の高いうちの一人であろう。
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現在 82歳のメータは、度重なる来日でもおなじみだし、私にとっても、クラシックを聴き始めた中学生の頃から 40年に亘って、録音でも、国内外のコンサートやオペラの実演でも、最も親しんできた指揮者のひとりである。その演奏のすべてが超絶的な名演ではなかったかもしれないが、しかし私はそれでも、何度も忘れられないコンサートを経験したし、また何度も彼の音楽に勇気づけられてきた。これは、ほかの多くの日本人についてもそうであろう。彼の音楽に取り組む姿勢には、常に社会のリアルな問題と向き合う勇気があり、イスラエル・フィルとの長い関係は本当に特別なものだし、ユーゴ内戦時にはサラエヴォの廃墟でモーツァルトのレクイエムを演奏した。また日本でも、2011年の東日本大震災発生時にはフィレンツェ歌劇場との来日公演中であったが、イタリア政府の命令で公演を中止して帰国せざるを得なかった。だが、ほかの演奏家たちが次々と日本公演をキャンセルする中、彼だけは 1ヶ月後に単身再来日して、N 響とともにベートーヴェンの第九を演奏したことを、私は決して忘れない。そのメータは、恰幅のよい体格で堂々と指揮をするのが特徴で、80を超えてもおよそ変わらぬ指揮ぶり。2016年 4月のムンバイでの 80歳記念コンサートの映像は、いかにもメータのイメージ通りの逞しさだし、同じ年の 10月にウィーン・フィルと来日した際の公演は、このブログでも採り上げた通りの充実ぶりで、またサントリーホール開館 30周年記念コンサートでは、長年の友人である小澤征爾とこんな光景を繰り広げていたものだ。
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私のメータに対する思い入れを書き連ねると、まだまだ長くなってしまうのでこのあたりにしておくが、ここで私は、今回のコンサートに触れなくてはならない。なんということか、今回指揮台に登場したのは、ステッキをつき、介添人とともに一歩一歩、弱々しくゆっくりとしか前に進むことのできないメータであった。それでも、プライドがあるのだろう、歩くときには介添人の手はかかっておらず、自力である。だが、スロープを使って指揮台に上り、ストゥールに座る際にはさすがに介添人の手を借り、副コンサートマスターが譜面台のところで預かっていた指揮棒を受け取って、ようやく指揮の準備が整うのであった。正直、このようなメータを見たこともないし想像もしていなかったので、なんとも衝撃的で、それだけで胸が熱くなってしまった。実はメータは、今年の春にウィーン・フィルとの北欧ツアーを断念、続いてイスラエル・フィルとの来日もキャンセルになってしまったので、健康上の問題があることは分かっていたが、年齢を考えればそれも無理ないことか、くらいにしか思っていなかった。なので今回、ミュンヘンに本拠地を置く名門オーケストラであるバイエルン放送交響楽団の来日公演において、首席指揮者マリス・ヤンソンスに代わってこのメータが指揮すると聞いたときも、「やはりメータは元気で、病気からもすぐに快復したのだな」と勝手に思い込んでいたである。なんと浅はかなことであったのか。

ともあれ、体調万全とはとても見えないメータは、また来日してくれた。バイエルン放送響とのコンサートは、今回を初回に、西宮、川崎、そして東京と、合計 5公演。もともと今回はマーラーの 7番が予定されていたが、以下の通りに変更になった。
 モーツァルト : 交響曲第 41番ハ長調K.551「ジュピター」
 マーラー : 交響曲第 1番ニ長調「巨人」(花の章つき)

メータはキャリアの初期からマーラーを得意にする指揮者であり、この 7番も録音している。だが、なんと言っても彼の場合には、1、2、3、5番あたりの演奏頻度が図抜けていて、今回は病後ということもあって、より指揮しやすいレパートリーに変更したということだろう。そう言えば彼は、1996年に N 響でマーラー 3番を採り上げる予定であったときも、父親の看病で来日が遅れるということで、歌曲集「亡き子をしのぶ歌」と、この「巨人」に変更になったことがあった。充分に手の内に入ったレパートリーということだろう。客席には、メータ夫人と思われる髪の長い女性がいたが、休憩中にそこに挨拶に行っているのはなんと、先にリサイタルを開き、来週このオケと共演するピアニスト、エフゲニー・キーシンではないか。ヤンソンスのキャンセルと、演奏頻度の低いマーラー 7番からの曲目変更のせいもあってか、少し空席はあったものの、満席に近い客の入りである。

今回メータは、譜面台も置かない全くの暗譜で、モーツァルトもマーラーも、ヴァイオリンは左右対抗配置。「ジュピター」はモーツァルト最後のシンフォニーであり、輝かしく劇的な箇所もあるが、コントラバス 2本という、メータのイメージにそぐわない小編成だ。全体を通した印象を書いてしまうと、世界トップクラスのオケであるバイエルン放送響の高い能力によって、メータの (本来のものではない) 小さめの動きによく反応した音が鳴っていたとは思うが、ただ、例えばイスラエル・フィルや、現在同時期に来日中のウィーン・フィルであれば、共演実績も多い分、さらにクオリティの高い音になったのかもしれないなぁと思ったことも事実。メータはもともと上体ががっしりした人で、今回指揮している後ろ姿を見ると、上体はそれほど衰えを感じなかったものの、問題は足である。ストゥールに腰掛け、台の上に靴を乗せられるようになっていたのだが、ほとんど動かない両足の、なんと細いこと。舞台への入退場でも明らかな通り、どうやらメータは、脚力が著しく衰えてしまったように見える。彼本来のダイナミックな指揮ぶりは、がっしりと指揮台を踏みしめた両足が支えないとできない動作であることが、今回よく分かった。先にも述べた通り、衰えたメータの姿自体に衝撃を受けた私は、その後鳴り始めた音楽を聴きながらも、常にその衝撃を抱え続けていたような気がする。だがもちろん聴いているうちに、そこには紛れもないメータの音楽が鳴っているように思われたし、フルートなどの優れたソロに惚れ惚れすることで、音楽自体に没入できる瞬間もあった。そして、そもそも指揮者とは、何も大きなそぶりがなくとも素晴らしい音楽を鳴らすことができることは知っているつもりなので、今のメータはちょうどそんな状態になっていて、円熟の指揮はこれからが聴き物だろうと思うようになった。何より、歩行さえ困難になってでも、情熱をもって音楽に対峙するメータの姿勢には、やはり大変感動的なものがある。終演後も袖に引っ込むことなく楽員を立たせるメータには痛々しさを感じざるを得ないが、そのまま再度ストゥールに座り、客席に向かって「ヨハン・シュトラウス、ポルカ "Explosion"」と題名を告げて演奏したアンコール「爆発ポルカ」の勢いに、また感動を覚えることとなった。そしてメータはステージから引き上げ、楽員たちが気を遣ってすぐに解散したあと、鳴りやまぬ拍手に応えて再度姿を見せた彼は、既に車椅子の人であった。やはり痛々しいのだが、その笑顔は我々のよく知っているメータである。残る公演も無事に振り終えて欲しい。これは 2015年、ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートを指揮するメータ。
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ひとつ補足すると、事前の発表にはなかったと思うが、今回の「巨人」の演奏は、「花の章」入りの 5楽章版であった。実はメータは時々この版を採り上げていて、上記の 1996年の N 響との共演では通常の 4楽章版であったが、私が 1987年にザルツブルク音楽祭で聴いたイスラエル・フィルとの演奏 (強烈なもので、今でも鮮明に記憶している) は「花の章」入り。また録音でも、手元で調べのついた限りでは、4楽章版が 1974年 (イスラエル・フィル)、1980年 (ニューヨーク・フィル)、2000年 (フィレンツェ五月音楽祭管)。5楽章版が 1986年 (イスラエル・フィル)、2013年 (オーストラリア・ワールド・オーケストラ) と、まちまちなのである。この「花の章」のノスタルジックな雰囲気にはなかなかに捨てがたいものがあるので、第 2楽章として挿入されるのを聴くのは楽しい。それから、最後のホルンの起立も励行していたが、今回はホルン 7人のみ (トランペットやトロンボーン奏者は加わらず) で、コーダ手前で着席するスタイルであった。実は今年は、残る期間にも何度も「巨人」の実演を聴くことになるので、そのあたりの比較も楽しみである。

最後にもうひとつ。今年の春にメータが体調不良でいくつもコンサートをキャンセルした理由について、なかなか情報がない。特に日本語ではその情報は皆無であったのだが、英語のメディアで探してみたところ、いくつか興味深いものを見つけたので、またの機会にご紹介したい。ここではひとつだけ。今年の 10月 4日に撮られたという、メータが復帰して初めてイスラエル・フィルのリハーサルに現れたときの動画を見たのだが、今からほんの 1ヶ月半前の、最新と言ってよいその映像では、今ほど足が悪くないように見えるのである。そう思うと彼の体調がまた心配にもなってくるのだが、とにかく、日本ツアーをつつがなく完遂してくれるよう、心から祈りたい。

by yokohama7474 | 2018-11-23 01:59 | 音楽 (Live)

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フランツ・ウェルザー=メストの指揮するウィーン・フィルの東京公演が始まった。先週の川崎でのコンサートの様子は既にご報告したが、今回のサントリーホールでの 3回のうち 1回は、その川崎での曲目と同じで、それはツアー最後の演奏会となる。そのほとんどがドイツ・オーストリア音楽で占められた今回の W=メストとウィーン・フィルによる一連の演奏会でも、この日はかなり正統派というイメージの曲目である。
 モーツァルト : 歌劇「魔笛」K.620序曲
 モーツァルト : ピアノ協奏曲第 24番ハ短調K.491 (ピアノ : ラン・ラン)
 ブラームス : 交響曲第 2番ニ長調作品73

いわゆる正統的なコンサートプログラムとは、序曲・協奏曲・交響曲という構成であるゆえ、今回はある意味で模範的とも言える曲目構成。演奏者の資質が真っ向から試されるような曲であるがゆえに、W=メストとウィーン・フィルの演奏会にはふさわしいとも言える。今回は皇太子もご臨席され、客席は (当日券はあったようだが) ほぼ満席である。演奏前の楽員たちの様子を見ても、もう東京は庭のようなものなのだろう、大変にくつろいだ雰囲気であった。

最初の「魔笛」は、予想通りと言うべきか、あちらこちらにウィーン・フィルの美感が溢れた、惚れ惚れするような演奏であった。W=メストの指揮ぶりはいつもながらのクールなものであり、何か変わったことをするではないのだが、弦の鳴り方管の響き方、耳を通り過ぎて行く音たちの優美にして質感に満ちていること。素晴らしい。もっと縦の線をきっちり揃える演奏もあるだろうし、さらに疾走感を強調した演奏もあるだろう。だが、モーツァルトに必要な音の呼吸というものがこれだけ感じられる演奏は、ウィーン・フィルならではだと思うのである。因みに前回も今回も、W=メストはヴァイオリンの左右対抗配置は取らず、きっちり譜面を見ながらの指揮である。これは、ウィーン・フィルの本拠地楽友協会大ホールでの W=メスト。
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2曲目は、モーツァルトが書いた 2曲の短調のピアノ・コンチェルトのうちの 1曲、第 24番である。ここで登場したのは中国出身の人気ピアニスト、ラン・ラン。ちょうど 1年ほど前のサイモン・ラトルとベルリン・フィルとの来日を腱鞘炎のためにキャンセルした彼であるが、今度はもう一方の雄、ウィーン・フィルとの来日とはさすがである。そう言えば私は彼のピアノを過去に、ベルリンでベルリン・フィルと (小澤指揮でメンデルスゾーン 1番)、ウィーンでウィーン・フィルと (メータ指揮でシューマン) 聴いたことがあるのを思い出した。1982年生まれなので、今年 36歳。若手から中堅に移りつつある世代だ。
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ラン・ランのピアノといえば、なんと言ってもそのきらびやかで、時にアクロバティックですらある超絶技巧を思い出す。これはただ難しい曲を弾きこなすということではなくて、曲の隅々まで神経の行き届いた完璧な演奏を聴かせるという意味である。喩えて言えば、左手の小指一本による打鍵でも、遥か彼方まで届くような輝かしい音を響かせるだけの技術を持ち、そこにはあたかも小鮎が跳ねるような活きのよさが常に存在しているのである。だが今回はモーツァルト。超絶技巧は必要ない。ラン・ランに対する先入観をなくして、虚心坦懐に楽しみたい。だが実は、私は聴いたことはないのだが、ラン・ランは既に故ニコラウス・アーノンクール指揮する同じウィーン・フィルと、このモーツァルトの 24番、並びに 17番のコンチェルトを録音している。
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そして今回のラン・ランの演奏は、彼ならば当然だが、超絶技巧などなくとも堪能できる素晴らしい演奏であったと思う。感傷的なところは微塵もなく、美感を大切にした演奏で、短調の悲劇性自体も過度に強調することはない。自然な流れがあって、オケとの呼吸が素晴らしい。また、やはりウィーン・フィルは普通のオケではないと実感するのは、例えばこの曲の第 2楽章での木管の揺蕩いぶりだ。普通のオケならさらに緊密な音を出そうと気負い込みそうな箇所でも、ごく自然に各パートが典雅に鳴っている。それを聴くのは本当に至福の時間である。ただ、もし今回の演奏に少し保留をするとすれば、内田光子とか、あるいは既に引退してしまったブレンデルのモーツァルトが耳の奥に残っていると、このラン・ランの音は、究極の粒立ちという点では未だ課題があるかもしれない。カデンツァでは一瞬ショパン風のロマン性が聴かれたような気がするし、やはり彼本来の音の輝きは、ロマン派の音楽において、より発揮されるのだろうか。その意味では、アンコールで弾いたシューマンの初期の作品「ダヴィッド同盟舞曲集」(第 14曲だったか?) での感傷性は、今回のモーツァルト演奏とは対照的であり、そこにこのピアニストの幅広い美感を聴いた思いがした。

そしてメインのブラームス 2番である。つい先日ローレンス・フォスター指揮新日本フィルで聴いたばかりの曲で、そちらも大変に好感の持てる充実の演奏であったが、さすがにウィーン・フィルともなると、やはりちょっと違う次元の音がする。冒頭は早めのテンポに対してほんのわずか、オケにもたつきがあったようにも聴こえたが、この第 1楽章は進んで行くほどに熱を帯びて行く音楽であり、気がつくとそれはもう、大変なことになっているのである (笑)。例えば第 1ヴァイオリンが高音で生命力溢れる歌を流れるように歌っているとき、低弦では豪放なオスティナートがそれを支えている。だが W=メストの指揮はその上下のパートのどちらでもなく、自分のすぐ右手にいるヴィオラに向かって、中音域でしっかりとしたリズムを刻むように指示する。視覚的にもそれは、あらゆるパートでの音楽の解放を思わせて、興奮を呼び覚ますようなものであり、この指揮者の音響設計の巧みさを実感させるような光景であった。両端楽章の提示部の反復は省略されており、そのあたりも教条的な原点主義とは異なる彼の姿勢を伺わせるものがあった。歌に溢れ自発性に富み、どこを取ってもウィーン・フィルの素晴らしい音を堪能できたのであるが、もしここでもひとつだけ保留をするとすれば、私の好みとしては、第 2楽章のような抒情性ある個所では、あるいは終楽章でも一部そうだが、さらに深い呼吸があればもっとよかっただろうと思う。きっと W=メストの理想とする音は私の好みと少し違うところにあるのだと思うし、全体としての演奏自体の充実ぶりには全く不満はないのだが、このような思いを抱くことこそ、音楽の奥深さであると考えよう。尚、最初の「魔笛」序曲でもそうだったが、コンサートマスターのフォルクハルト・シュトイデ (先にブラームスの二重協奏曲でソロを弾いていた人) のヴァイオリンの音が、かなり突き抜けて響いてきていたのが印象的であった。因みに、その二重協奏曲でチェロのソロを弾いていたペーテル・ソモダリの方は、今回のブラームス 2番の終了後に立ち上がって袖に下がって行ったので、弦でも切れたのであろうか。熱演の証拠かもしれない (笑)。これがシュトイデ。
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そして今回もアンコールは、前回同様、ウィーン名物のワルツとポルカの組み合わせ。ヨハン・シュトラウスの「南国のバラ」と、エドゥアルト・シュトラウス (ヨハンの弟) の「テープは切られた」であった。このワルツにおいてはさすがの W=メストも、ヴィオラにリズムの刻みを指示する必要もなく (笑)、奏者が体の動くに任せての演奏である。このウィンナ・ワルツにはもちろん優美さだけでなく退廃もあることは、先日パーヴォ・ヤルヴィと N 響が何曲かこの手の曲を採り上げたときに触れたことがあるが、考えてみればこの W=メストは、キャリアのかなり初期から、コルンゴルトとかシュレーカーとか、あるいはフランツ・シュミットなどを採り上げていた。オーストリア出身の指揮者として、世紀末ウィーンへの意識が高いということがあるのかもしれないな、とふと思ったものだ。それにしても、一般的には厳粛な作曲家と考えられているブラームスのあとに享楽的なヨハン・シュトラウスとは何事か、と思う向きもあるかもしれない。だが、この異なる作風の 2人の作曲家はお互い尊敬しあっていたとは有名な話だし、避暑地バートイシュルで撮影されたこの写真も、よく知られたもの。でも一体、どんな会話をしていたんでしょうなぁ (笑)。
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さて今回のアンコールはこのように、ワルツ + ポルカのパターンだが、次の東京の演奏会でも、果たして同じことが起こるだろうか??? これは大変興味のある疑問であり、またのレポートにご期待願いたい。

by yokohama7474 | 2018-11-21 01:19 | 音楽 (Live)

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さぁって、これは必聴のコンサート。東京フィルハーモニー交響楽団 (通称「東フィル」) を首席指揮者アンドレア・バッティストーニが指揮して、あのアリゴ・ボーイトの傑作オペラ「メフィストーフェレ」を指揮するのである。今このように書いているだけでも身震いするほど、これは期待の演目であった。もしこのオペラの作曲者であるボーイトを知らない人がいても、あのヴェルディ晩年の傑作「オテロ」や「ファルスタッフ」の台本を書いた人だと言えば、なるほどと思われるのではないか。かく申す私も、初めてボーイトの名前を知ったのは中学生の頃、「オテロ」のレコードの解説であった。カラヤンがウィーン・フィルを指揮し、マリオ・デル・モナコが主役を歌った録音で、当時のレコードの解説はやたらと詳しく書いてあったので、その「オテロ」という作品が完成するまでのボーイトの献身はよく分かったのであるが、その彼が有名なオペラを書いていることも、そこで知った。題名は「メフィストフェーレ」と書いてあったような気がするし、その名称が一般的だと思っていたのだが、今回の東フィルの演奏では、伸ばす音の箇所が違っていて、「メフィストーフェレ」となっている。口で発音してみると、やはり違和感を拭うことはできないのだが (笑)、ここでは楽団の表記を尊重して、「メフィストーフェレ」と呼ぶことにする。そして、メフィストフェーレ、もとい、メフィストーフェレ、あるいはメフィストもしくはメフィストフェレスと言えば、これはゲーテの「ファウスト」が原作であると、誰しもが分かるであろう。そう、このオペラは、「ファウスト」を原作としており、本来主役であるはずのファウスト博士ではなく、忌まわしい悪魔が主人公なのである。これはフランス・ロマン主義を代表するドラクロワが描いたメフィスト。
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アリゴ・ボーイト (1842 - 1918) は、イタリアの詩人であり作曲家。彼の残した作品としては、この「メフィストーフェレ」がほとんど唯一、今日のオペラハウスのレパートリーに残っている。このオペラは 1868年、ということは作曲者が弱冠 26歳のときに、あのミラノ・スカラ座で作曲者自身の指揮で初演された作品。当時のイタリア音楽界は停滞しているとみなされていて、あのヴェルディですら、「仮面舞踏会」や「シチリアの晩鐘」でフランス趣味に迎合していると考えられていたという。そんな中、理想に燃えるボーイトは、自ら台本をものして、これが当時絶大な人気を博していたワーグナーに対抗する唯一の手段であると考えたということらしい。1868年というとワーグナーは既に「トリスタンとイゾルデ」を完成させ、「ニュルンベルクのマイスタジンガー」を初演した年である。その 7年前に統一なったばかりのイタリア人たちには、燃えるような愛国心があったであろうが、そんな状況で書かれたイタリア・オペラが、自国の文学によるものではなく、ワーグナーの故国ドイツの作品である「ファウスト」を原作にしているとは、なんとも皮肉である。因みにゲーテのファウストが第二部まで出版されたのは 1833年。ということは、ボーイトがこのオペラを初演したときには、原作の発表からわずか 35年というタイミングであったわけだが、実は既にそのとき、同じ「ファウスト」を原作とした音楽作品は複数世に出ていた。シューマンの「ゲーテのファウストからの情景」(1862年初演) と、それからともにフランスの作曲家の手になる、ベルリオーズの「ファウストの劫罰」(1846年初演) とグノーのオペラ「ファウスト」(1859年初演) である。これは大変興味深い。ドイツ、フランス、イタリアというそれぞれの文化を持つヨーロッパ各国が、この作品に魅入られていたということだろう。若さを取り戻したい学者であるファウストと、その弱みにつけこむ悪魔メフィスト、純粋な愛によって罪を犯してしまうグレートヒェン = マルゲリータ。そして救済のテーマ。ここには何か、人間の根源的な欲求と、世の中のしがらみ、そして無垢なる魂の尊さなどを見ることができるような気がする。今回の会場には、以下のようなボーイトの自筆書簡が展示されていたが、これは指揮者バッティストーニの所蔵になるもので、当時有名だったある作曲家の追悼式典への招待をボーイトが断るという内容らしい。ボーイト、やはり硬骨漢だったのですな (笑)。
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前置きが長くなってしまっているが、このコンサートの意義を実感して頂くために、もう少し余談を続けることをご容赦願いたい。私がこの作品を初めて知ったのは、このレコードによってである。実はネットで写真を検索したが、CD はカップリングが違っているらしく、表記に問題があった。ゆえにこれは、私の手元にあるアナログレコードを引っ張り出してきて、そのジャケットを撮影したもの。
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バーンスタインが、ボストン響を指揮したリストのファウスト交響曲とのカップリングで、こちらはウィーン・フィルを指揮して「メフストーフェレ」のプロローグを録音したもの。これを聴いた私は唖然茫然。この素晴らしい曲をこんな素晴らしい演奏で知ることができた私は幸運である。またこのオペラの壮大なプロローグは、あのトスカニーニが戦後、1946年 5月に久しぶりに祖国に帰り、再建なったミラノ・スカラ座で指揮した歴史的な演奏会でも採り上げられた。これは私の手元にあるその演奏会のライヴ録音。
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それから、これは以前もどこかの記事で書いたことだが、私がこれまでに唯一体験したこのオペラの上演は、1995年 3月、そのミラノ・スカラ座でのもの。指揮は当時の音楽監督リッカルド・ムーティ。サミュエル・ラメイ、ヴィンツェンツォ・ラ・スコーラ、ミシェル・クライダーたちが歌っていた。
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さて、私にとってはそれだけ思い入れのある曲目、今回の演奏は、まさにバッティストーニの面目躍如であったと総括できるだろう。きっと本場イタリアでも、これだけの熱量を持った演奏にはそうは出会えないのではないかと思われるほどの出来であった。演奏会形式とはいえ、歌手たちは誰も譜面を見ることなく、それなりの演技も披露しながらの歌唱であり、素晴らしい。何人かは、前半では若干の不安定さを感じないではなかったが、いずれも後半に向けて調子を上げていったのは、いかにもライヴであった。ファウストを歌ったテノールのアントネッロ・パロンビは、キャンセルしたほかの歌手の代役として急遽登板したにもかかわらず、完全にこの役を手中にしていると思われたし、メフィストーフェレを歌ったバスのマルコ・スポッティも、憎々しい悪魔役を十全に演じていた。そして私が驚愕したのは、今回が初来日という 31歳のイタリア人ソプラノ、マリア・テレーザ・レーヴァである。彼女が第 3幕の冒頭で錯乱して歌ったアリア「あの夜、海の底に」は実に鬼気迫る出来であり、その強烈な Emotion は、このオペラより後の時代にやってくるヴェリズモ・オペラすら思わせるものであった。彼女の名前は覚えている価値があるように思う。
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もちろん、二期会の清水華澄と与儀巧も安定した出来であり、それから、何と言ってもこの作品で重要な役割を果たす合唱の素晴らしい出来を忘れてはいけない。新国立劇場合唱団が出演していたが、これだけできるのなら、その新国立劇場でこの作品が上演されても大丈夫だろう。そして、児童合唱は世田谷ジュニア合唱団であったが、驚くべきことに彼らは暗譜で歌っていた。実に恐るべし、日本の合唱の水準。そして、オケを含めたすべての演奏者に霊感を吹き込んだ、バッティストーニの情熱。
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このオペラには、その題名の通り、悪魔的な力が漲っている。そこには呪術的要素もあり、現実逃避的な古代への憧れもあり、ある意味で公序良俗に反する退廃性もある。だがしかし、人にはもともとそのような暗黒面に魅かれる要素があるからこそ、ゲーテの「ファウスト」が様々な音楽作品の題材となってきたのであろう。それは人間の神秘的な一面と言ってもよいかもしれない。プロローグの異常な盛り上がりで明らかとなる天国への憧れは、暗黒面を経た人間でなければ切実に抱くことがないものであろう。そしてそれを感じるのは、このボーイトのオペラにはそのような切実さが込められているからであり (終演後にバッティストーニはスコアを聴衆に対して掲げて、作品への敬意を表明した)、万全の演奏陣が渾身の力で作品の持つ切実さを描き切ったからだと思う。このブログで見てきている通り、東京のオーケストラにはそれぞれの個性が育っているわけだが、今回は、バッティストーニと東フィルでなければなしえない演奏であったろう。音楽の力に心底痺れる経験であった。

by yokohama7474 | 2018-11-20 01:29 | 音楽 (Live)