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<   2019年 03月 ( 23 )   > この月の画像一覧

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東京都交響楽団 (通称「都響」) とその桂冠指揮者エリアフ・インバルによる、東京での 3種類目のプログラム。今回はこのような 2曲からなるものであった。
 ベートーヴェン : ピアノ協奏曲第 1番ハ長調作品15 (ピアノ : サリーム・アシュカール)
 チャイコフスキー : 交響曲第 5番ホ短調作品64

既に採り上げた 3月26日の東京文化会館でのこのコンビの演奏会では、メインはショスタコーヴィチ 5番であった。それに対して今回は、チャイコフスキー 5番。ロシアを代表する 2曲の第 5交響曲はいずれも大人気曲であり、特に今回は日曜日ということもあって、会場は大変な大入りだ。外では桜が満開だが、この週末の東京はどうにも天気が不安定。その点、インバルと都響であれば、その演奏は非常に安定していることが期待できようというものだ (笑)。いや、もちろんそれは、聴かなくても演奏の内容が分かるという意味ではなく、やはり何度聴いても素晴らしいという意味なのであるが。

今回は、メインのチャイコフスキーはもちろんだが、ベートーヴェン若書きのピアノ協奏曲第 1番も非常に楽しみであった。というのも、ソリストがサリーム・アシュカールであったからだ。1976年イスラエル生まれ。興味深いことに、前回のインバル / 都響の演奏会でチェロを弾いたガブリエル・リプキンも同世代で、1977年イスラエル生まれであった。もちろんインバル自身もイスラエル生まれであるから、前回・今回と、指揮者、ソリストともにユダヤ人の共演ということになる。これまで、メータ、バレンボイム、ムーティ、シャイーらの名指揮者と共演し、また、ウィーン・フィル、コンセルトヘボウ、シカゴ響などにソリストとして登場しているアシュカール。
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私はこのピアニストを以前聴いたことがあり、それは昨年の 6月15日、ピエタリ・インキネン指揮日本フィルの伴奏によるメンデルスゾーンの 2番のコンチェルト。その演奏会の記事に書いたことだが、このピアニストは、ただのユダヤ人でない。なんと、「パレスチナ系ユダヤ人」なのである!! 今回の都響の演奏会のプログラム冊子には説明ないものの、戦争地域や途上国の音楽家及び音楽団体をサポートする非営利団体「ミュージック・ファンド」の大使を務めているそうである。彼のピアノは、彼自身が経験してきたものを、音楽という純粋な喜びに昇華させていると思う。いや、もちろん、そんなことを知らずとも、彼のピアノの繊細なタッチにただ耳を傾けると、そこには何か特別な美があることを、誰しもが感じるであろう。ベートーヴェンの 1番のコンチェルトは快活な曲であり、ただ美しいというよりは、前に進む力とか、弾ける喜びという要素が必要だが、アシュカールの演奏は、線の太さこそないものの、この音楽の持つ楽しさを充分に感じさせるものであり、しかも聴き終わったあとにそこに残るのは「美」であったと思うのである。この見事なピアノを、インバルと都響ががっちりサポートして、そこにはベートーヴェンらしい重厚さも時に顔を出していた。もともとインバルは、小編成の曲をきっちりまとめるというタイプの指揮者ではないものの、やはり長い経験と都響との信頼関係によって、ピアノとうまく絡み合うオケの音を巧みにまとめていた。そしてアシュカールが弾いたアンコールは、前回の日フィルのときと同じ、シューマンの「トロイメライ」。深い感情が込められ、誰が聴いても懐かしいと思うであろうこの音楽は、人々の心に沁みたことであろう。

メインのチャイコフスキーは、これはもうインバル節炸裂である。譜面台も置かない暗譜での指揮で、もちろん椅子にも腰かけず、全曲 50分、立ったままである。冒頭こそ、木管と弦のバランスにちょっと課題があるかなぁと思ったものの、すぐにペースをつかんで、音楽がうねり始めた。そして今回のインバルは、この曲の全 4楽章を、ほとんど間を置かずに通して演奏することで、ひとつの大きな流れを作り出していたのである。その強烈な音楽の力から私が感じたのは、インバルはこの曲を世紀末音楽として表現しようとしているのではないかというもの。作曲されたのは 1888年であるから、これはまさしく世紀末の音楽なのである。そういえば彼が昔フランクフルト放送響とともにチャイコフスキーの 3大交響曲を録音した際、そのカップリングが話題になったものだ。この 5番はボリス・ブラッハーのパガニーニの主題による変奏曲という変化球だったが、6番「悲愴」は、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死であった。因みにこの 5番は、こんなジャケットであった。
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インバルはその後この曲を、今から 10年前にこの都響とともに再録音している。私はそれを聴いていないが、想像するに、今回の演奏はさらに音が練れていたのではないだろうか。以前も書いたことだが、インバルの場合には円熟という言葉は似つかわしくなく、あえて言えば進化という言葉を使いたい。80を超えてなお、これだけ力強い音楽を聴衆に向かって解き放つ、その魔術的な力量は、ちょっとほかにないのではないだろうか。都響との関係も極めて良好であることは、演奏後のインバルの表情を見ていても明らかだ。この指揮者の大作交響曲をこれからも聴くことができる我々東京の聴衆は、幸いであると思う。
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この指揮者は、来シーズンの都響の演奏会の前に、今からほんの 3ヶ月後に東京に戻ってきて、手兵であるベルリン・コンツェルトハウス管を指揮する。そこでの演目は、もちろんマーラー!! マエストロには是非体調管理を万全に行って頂き、あの「インバルのマーラー」のさらなる進化版を聴かせてくれるのを楽しみにしよう。

by yokohama7474 | 2019-03-31 20:39 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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新日本フィルハーモニー交響楽団 (通称「新日本フィル」) とその音楽監督、上岡敏之による定期公演、今月の 2つめのプログラムである。今回は大曲 1曲によるもの。
 マーラー : 交響曲第 2番ハ短調「復活」

この大曲はもちろんマーラーファンの大好物であり、かく言う私も、実演で聴くたびに鳥肌立つ思いをしている。東京の音楽界において、その個性で独自の地位を占めている上岡と新日本フィルの演奏については、度々このブログでも採り上げてきたが、この「復活」を採り上げるということで、今回も大変楽しみであった。以下、どんな演奏であったのかレポートしたい。
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さて、上で「独自の個性」などという極めて抽象的な表現を使ってしまったが、それを言葉で表現するとどうなるだろうか。私なりに整理してみると、この上岡という指揮者、通常の演奏と異なるテンポを取ったり、音楽の表情づけを行うことがままあるが、そのユニークさは常に、上岡自身の信じる音像を表している。つまり、時にエキセントリックに響くことがあっても、それは彼自身に内在するその音楽のあるべき姿の再現であるということである。派手に大向うを狙うことは皆無であり、流れに応じて音楽に細かい緩急をつけ、丁寧に音像を描いて行く。そして、どんな強烈な音響でも、叩きつけるような乱暴な音にはならない。そんな感じであろうか。今回の「復活」も、冒頭の弦の切れ込みは、多くの演奏にあるような鋭いものではなく、むしろ落ち着いた音色 (若干アンサンブルが乱れたのは惜しかったが)。だがその後のチェロの呻吟は、充分に深刻さのあるもので、決して軽い演奏ではない。この第 1楽章においては、大変に劇的な音楽的情景が描かれるのであるが、今回の演奏では、その音楽的情景には全く鬼面人を驚かすようなところがなく、いつものように実に丁寧な進行ぶりだ。このあたりには多少聴き手による好みもあるかもしれない。つまり、若いマーラーが書いたこの音楽には、ある種のこけおどし的要素もあって、クリアでパワフルな音質でグイグイ押して行く演奏が、意外と成功するのである。その意味では、今回の上岡と新日本フィルの演奏には、圧倒的な要素があまりなかったがゆえに、その点で評価が分かれるかと思う。

この演奏には合唱団と、ソプラノ、アルト (またはメゾ・ソプラノ) の 2人のソリストが入るが、今回の演奏では、第 2楽章と第 3楽章の間で、彼らとオルガン奏者が登場した。合唱 (栗友会合唱団) はステージ裏の P ブロックに陣取り、独唱者 2名はステージ上の最も奥、つまり合唱よりは低い位置ではあるものの、指揮者の近くではなく、合唱のすぐ前に陣取った。この登場のタイミングは、若干珍しいかと思うが、第 3楽章から第 5楽章まで続けて演奏するという作曲者の指示にも叶うものである。ただ、第 4楽章と第 5楽章は、通常は間髪を置かずに「それっ」と指揮者が指揮棒を振り下ろす箇所であるところ、今回上岡は、充分な間を置いていた。ここにも、音の強烈さで聴衆を圧倒しようという意思がないことが読み取れた。その関連で言うと、私が今回感心したのは、第 2楽章の優しさと、第 3楽章の諧謔である。どうしても両端楽章の迫力に中心を置く演奏が多い中で、「えっ、第 2楽章はこんなに優しい音楽だったっけ」とか「第 3楽章はやっぱり諧謔味いっぱいだなぁ」と思わせる演奏には、あまり出会うことはない。この点も今回の演奏のユニークな点として、記憶に値すると思う。新日本フィルの技術も安定していて、恐らくは指揮者の求める音像を十全に表現していたものと思われる。ただその一方で、特に両端楽章で音楽が進んで行く際に、ともすれば部分的にテンポを上げていた点には賛否があるだろう。これは上岡流の緩急ではあると思うが、聴きようによっては性急感がある。あまり「復活」の演奏では耳にすることのない表情であると思う。さて、そうは言いながらも、大団円ではやはり鳥肌立つような音響が渦を巻き、バンダ (舞台裏の別動隊) からホルン 4本がステージに出て来て、それまで舞台にいた 7本と合わせ、11本のホルンが咆哮するさまは、やはり壮観ではあった。合唱団は全員暗譜で堂々たる歌唱であったし、独唱者 2名も素晴らしい出来であった。まず、メゾのカトリン・ゲーリング。
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第 4楽章「原光」は通常もっと深々と歌われると思うが、彼女の歌唱は、現代的というか、一見さらりとしながらも歌詞の意味を考えさせるようなものだったと思う。上岡とはドイツでマーラー 3番、「パルシファル」のクンドリ、「ルル」のゲシュヴィッツ侯爵夫人などで共演し、2017年には初来日して、この上岡 / 新日本フィルとワーグナーの「ヴェーゼンドンク歌曲集」で共演した。上岡の好みとする声なのだろう。一方のソプラノは、森谷真理。二期会の歌手であり、このブログでも何度かその歌唱に触れてきた。この「復活」のソプラノではそれほど聴かせどころがあるわけではなく、むしろ合唱団の中から静かに響く声の清澄さが大事であるが、見事な歌唱であった。6月には二期会の「サロメ」で主役を歌うとのことなので、過酷なまでの絶唱は、そこで聴けることであろう (笑)。
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このような個性的な「復活」であり、賛否が分かれる点もそれなりにあったと思うが、何よりも、上岡という指揮者の誠意を感じることができる演奏であったことが嬉しい。彼と新日本フィルのコンビは、これからも是非聴いて行きたいと思うのであった。

と書いて〆ようと思ったのだが、なぜだか急に思い出したことがあるので書いておこう。SF 作家の中で伝説的な地位を持つフィリップ・K・ディックの作品の中に、この「復活」の楽器編成について書かれたものがあった。あれは一体なんだったろう・・・と思い、手元にある何冊かのディックの作品 (私は決してその道のマニアではないので、それほど多くディック作品を読んでいるわけではない) を調べて、判明した。「聖なる侵入」という作品だ。その中で、この曲の楽器編成の詳細が述べられ、ルーテという言葉に言及されたときに警官が「それは何だ」と訊く。それに対する答えは、「ルーテは文字通り鞭 (注 : 私の所有する本には「苔」とあるが、「コケ」のようなのでこの字を使う) のことだ。藤製の鞭だ。大きなブラシ、あるいは小さなほうきに似ている。これをバス・ドラムにつかうんだ。モーツァルトもルーテのための曲をつくっている」というもの。なるほど、ルーテとはこれである。シャンシャンシャンという音が鳴る、あれである。
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そういえばマーラーはこのルーテを、2番だけでなく 3番とか 6番でも使っている。ディックの作品でモーツァルトも使っていると言っているのは、「後宮からの誘拐」などのトルコ風の音楽のことだろうか。マーラーの巨大な音響の中で、このルーテが重要な役割を果たしているということを、ディックに教えてもらいましたよ。

by yokohama7474 | 2019-03-31 10:56 | 音楽 (Live) | Comments(2)

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以前も何度か述べたことがあるが、私の場合、ある映画がどこかで賞を取ったということは、事前情報としては有用でも、見に行く映画の選定にはあまり関係がない。見たい気が起こらない映画には出掛けないので、そこで見損なっている面白いものもきっとあるだろうと思いつつ、この発想は変えられようもない。そんなわけで、今年のアカデミー賞で作品賞、助演男優賞、脚本賞を取ったこの映画も、受賞作だから見に行ったのではなく、何か私の気を引くものがあったから、見に行ったのである。ストーリーは予告編で充分明らかだ。1960年代、ニューヨークに暮らす黒人ピアニストが、人種差別が色濃く残る米国南部への演奏旅行に出るにあたり、がさつなイタリア系男性を運転手兼ボディガードとしてつける。2人が旅先で経験することは・・・というもの。題名のグリーンブックとは、黒人が利用できる宿や店などを記載した黒人向けガイドブックで、1936年から 1966年まで発行されていたという。因みに本作の設定は (このピアニストと運転手が南部にツアーに出たという事実に基づき) 1962年。作中では、2人は確かにこのようなガイドブックを見ながら旅をしている。
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最近のアカデミー賞では、マイノリティ擁護の風潮が強く、実はこの映画で助演男優賞を受賞した黒人俳優マハーシャラ・アリは、2年前にも「ムーンライト」で同じ賞を受賞しているが、そちらも (私は見ていないが) やはりマイノリティを題材にした映画であった。ただ、世の中はそれほど単純ではない。この「グリーンブック」の作品賞受賞には、様々な異論があるようだ。例えば、黒人映画をひたすら撮り続けてきたスパイク・リーは、彼自身の作品 (現在日本でも公開中の「ブラック・クランズマン」) も作品賞にノミネートされていたが、この「グリーンブック」の受賞がアナウンスされたときに、人種差別に一石を投じる、いわば共通の視点を持つこの映画が認められたことを祝福するどころか、席を蹴って会場を後にしたという。どうもこの映画、人種を超えた男たちの友情とか信頼関係とかいうものへのポジティブな評価と同じほど、やはり白人の視線で描かれている、という非難を受けているようだ。最近の造語で "Whitesplaining" というものがあるようだが、これは「白人が (上から目線で偉そうに) 説明する」という意味で、この映画などまさにそのようなものだというトーンの非難があるらしい。これが作品賞受賞の際の写真。高々とオスカー像を掲げるのは、監督のピーター・ファレリーであろう。
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さて、このような事情は正直我々日本人には分かりにくい面があり、関連情報を目にしても、「なるほど、そういうことになるわけか」と思うくらいが関の山なのであるが、ただ、映画を見るときに、そんなことをあれこれ考える過ぎる必要はないだろう。以下ざっと私の感想を述べて行きたい。まず、主役の 2人は大変よいと思う。ピアニスト役のマハーシャラ・アリの相棒、トニー・"リップ"・バレロンガを演じるのはヴィゴ・モーテンセン。作中の設定はイタリア系米国人だが、実際にはデンマーク系。但し、幼少の頃にベネズエラに住んでいたことからスペイン語ができ、それだけではなくて、デンマーク語、そしてなぜかフランス語とイタリア語も流暢だという。なので、イタリア語も多く出て来るこの役には最適の人選であったのだろう。過去の映画では、「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズにおけるアラゴルン役で知られるが、今回はこの役を演じるために 20kgも増量したという。これが「ロード・オブ・ザ・リング」における彼。
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そして本作での彼。もちろん経年もあるが、その役作りは非常にプロフェッショナルだ。
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一方のマハーシャラ・アリは、つい先日も「アリータ バトルエンジェル」の記事でその名を出したが、その作品における中途半端な悪役よりも、この役の方がずっとよいと、私は思う。実在したピアニスト、ドン・シャーリーについては私は全く知識はないが、この時代にあのような活動をした黒人音楽家として、なんとなくイメージできるようなものを、ここではうまく表現している。つまり、作品のひとつの前提は、ニューヨークで盛名を馳せる黒人音楽家が、彼が何者かも知らないがさつなイタリア系白人に対し、自らの持つ音楽的才能や教養全般を盾として、過剰な干渉を許さないという態度を取るということであり、その点におけるアリの演技は完璧であろう。2人の出会いの場では、彼はこのような恰好で王座にような椅子に座っている。場所はニューヨーク、カーネギーホールの上層階にあるアパートである。史実でもドン・シャーリーはカーネギーホールと契約を持っていて、その上層階に暮らしていたようだ。やはりニューヨークは米国の中でも特別な街で、黒人であっても、実力があって要領がよければ、音楽の世界では成功することができたということか。
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この映画の面白い点は、この 2人の微妙な距離感から、長い道のりを一緒に旅し、様々なトラブルに見舞われながらもお互いを徐々に理解しあい、そして信頼しあうようになる、その過程である。これは、このように文章で書いてもあまり切実感を伴わないが、実際に映画で体験すると、かなりの説得力を感じることになる。そもそも 1960年代の米国では、黒人が入れない場所というものもあったわけで、だからグリーンブックが存在したわけだ。また、オバマ大統領が就任時に、自分の祖父の頃にはレストランにも入れなかった、そんな黒人が今や大統領になる時代なのだ、と演説していたことを思い出す。特にこの映画では、もともと人種差別の激しい南部に演奏旅行に行くという設定であるから、その苦労たるや、想像にあまりある。物語では、このピアニスト、ドン・シャーリーがなぜに南部を目指すのか、多くを語ることはないのであるが、見て行くうちに観客には、時には笑わせられながら、ドン・シャーリーの屈折ぶりの中にある何かとてもシャイでピュアなものに感情移入して行くことになるのである。一方のトニー・リップは、もともと黒人への明確な差別・偏見はあるものの、それは当時に白人として通常レヴェルであったのだろう。勤務先のキャバレーが閉鎖され、金欲しさに運転手の職にありつくわけだが、旅を続けるうちにその素晴らしいサヴァイヴァル能力を随所で発揮、コンビの間には何か特別な信頼関係が築かれて行く。人間ドラマとして素晴らしい出来であると思う。
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さぁ、これをもって、白人の上から目線の映画と断じてしまうことが適当だろうか。ネタバレを避けるためにここには書けないラストシーンなど、Whitesplaining との批判を受けるものかもしれないが、私は結構感動して、涙腺もちょっと危なくなってしまうほどであった。1960年代の現実と、映画としての流れからして、このラストは充分感動的であると思うし、それが白人至上主義の表れと言ってしまうと、ちょっともったいないように思うのである。実はマハーシャラ・アリがインタビューで面白いことを言っている。この作品の監督ピーター・ファレリー (「ジム・キャリーは Mr. ダマー」や「メリーに首ったけ」というコメディで知られる) は白人であるが、観客の中には、例えばスパイク・リー監督作品を最初から見に行かないという人もいるのが現実。そういう人たちもピーター・フェレリーの映画なら見に行き、笑って見ているうちに、思いもしなかったことを考えることになるかもしれない。「そこには価値があると僕は思う」とアリは言っているのだが、この態度には極めて現実的なものがあり、この作品に対する自信のほども伺える。

さて、最後に、音楽に関するネタを 2つ。この黒人ピアニストは劇中で、ツアーで田舎町に行ってもスタインウェイのピアノしか弾かない契約としている。弾いているのはジャズ風の音楽で (チェロとベースを伴奏として連れている)、クラシックではないのだが、もともとクラシックを学んだことから、ピアノの選択には強いこだわりがあるようだ。言うまでもなスタインウェイの本社はニューヨーク。今はどうか知らないが、その場所はカーネギーホールからは通りを挟んだ反対側だ (昔、グレン・グールドのドキュメンタリーで、グールドがここを訪れるところが紹介されていた)。ところが、ツアーの途中で、音楽のことなど何も分からないはずのトニー・リップから賛辞の言葉を受けながらも、差別に遭って傷心のうちに安酒場に行くシーンで、彼はそこにあるピアノ (調律もいい加減な、いわゆるホンキートンクという奴だろう) で、ショパンのエチュード「木枯し」を弾いて、人々を感動させる。これはいいシーンであった。ところが演じるマハーシャラ・アリは、実際に鍵盤を叩いているのでもともとピアノが弾けるかと思えばさにあらず、数ヶ月は練習したものの、演奏は「ふり」だけで、映画の中の音は別人が出しているらしい。うーん、それにしても器用だ。これが実在のドン・シャーリー。
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実際にドン・シャーリー (1927 - 2013) は、9歳のときにレニングラード音楽院に入学、18歳でアーサー・フィードラー指揮のボストン・ポップス管弦楽団と共演した神童であったらしい。そしてあのストラヴィンスキーも、そのピアノを神業と称えたという。映画で描かれている通り、ノーブルで教養もあり、でも心の中に屈折を抱えている人だったのだろうか。がさつ者のトニーが家族にたどたどしい手紙を書くのに耐えられず、口述でそれを直して行くのだが、その中に面白いシーンがある。
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手紙の最後に P.S. をつけ、子供への愛を表明しようとするトニーに対してドンは、「交響曲のあとに余計な音を足そうというのか!!」と非難するのだが、字幕には「交響曲」となっているが、セリフでは "Shostakovich 7" と言っていた。これはもちろん、ショスタコーヴィチの交響曲第 7番「レニングラード」のこと。この曲は、ドイツによってレニングラードが包囲される危機的な状況の中、1941年に初演されているのだが、なぜここで言及されているのだろうか。私の勝手な解釈では、上記の通りドンはレニングラードに留学しており、それは 1936年頃のこと。すると、まぁ戦争前には本国に帰っていただろうが、包囲された街レニングラードには思い入れがあるのだろう。ただ、そのことをトニーに説明しようとはしない。このさりげないセリフひとつにも、ドンの性格が表れていると思うのだが、どうだろう。

ほかにも語りたいシーンはいろいろあるが、この辺でやめておこう。差別問題という社会性ある観点を離れて見ることはできないにせよ、人間を描いた映画として面白いというのが、私の感想である。

by yokohama7474 | 2019-03-30 17:39 | 映画 | Comments(0)

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この映画はどうやら英国王室の話であることは明らかであり、レイチェル・ワイズとかエマ・ストーンが出ているというので、ちょっと見たいなと思ったのだが、題名が「女王陛下のお気に入り」? うーん、これはコスプレ・コメディだろうか。どの女王の話か知らんが、私も決して暇な人間ではないし、ま、他愛ないほのぼのコメディならパスしようかな、と思っていた。ところが、一応どんな映画だろう、と思って調べてみると、ひとつ分かったのは、これはアン女王に関する話。アン女王と言えば、あのロンドンのセントポール大聖堂の前に彫像が立っている (つまりそれは確か、この大聖堂が今のかたちで建設された時の王であったからと記憶するが)、あの女王である。もちろん、エリザベス 1世やヴィクトリア女王のようなよく知られた女王ではないが、一応知っている名前である。単なる架空の王朝コメディではないということだ。そして、おっ、監督のなんとかティモスって聞いたことがあるぞ。そう、あの怪作「聖なる鹿殺し キリング・オブ・セイクリッド・ディア」の監督、ヨルゴス・ランティモスではないか。そうなれば話は別。ちょっと見に行ってやるか、と思って劇場に足を運んだのである。監督のランティモスは 1973年生まれのギリシャ人。
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そして、私は今申し上げたい。映画という表現手段の持つ強烈な力を感じたければ、是非この作品を見るべきだ。但し、出演している女優たちが、昔の「ハムナプトラ」シリーズのレイチェル・ワイズだとか、ましてや「ラ・ラ・ランド」のエマ・ストーンだと思ってはいけない。この映画における彼女たちは、世代は異なれども、ともに映画という芸術分野に深く貢献する、そしてそれだけの自覚と決意を持った表現者として、スクリーンの向こうにいる。残念ながら日本ではこんな映画、到底期待できないと思う。

ストーリーは単純と言えば単純。主人公のアン女王 (1665 - 1714) は、ステュアート朝最後の王であり、その在位中の 1707年にイングランドとスコットランドが合併して、グレートブリテン王国が成立した (現在の連合王国となったのは、1801年にさらにアイルランドを併合してから)。物語は、そのアン女王と、彼女の幼なじみで、事実上王宮を牛耳る存在であるレディ・サラ、そして、サラの従妹で、父親のギャンブル好きのおかげで貴族社会から転落し、召使として王宮にやってくるアビゲイル、この 3人が織り成す、激しいドラマである。サラ役のレイチェル・ワイズがインタビューで面白いことを語っている。3人の女性を主役にする映画は珍しいし、その 3人の関係も普通ではない点に興味を惹かれた。そして、「3人が競い合い、愛し合い、妬み合い、敵対し合うところがおもしろい」とのこと。そうそう、まさにこの 3人の関係、なんだかよく分からない複雑な様相を呈するのである。紋切り型の権力争いや、表面上の媚びへつらいとか、そういった次元の話ではない。何かもっと人間の根源的な弱さとか醜さを、仮借なく描いているのである。その一方で、今度はアビゲイル役のエマ・ストーンのインタビューから引用すると、「脚本が本当にすばらしかった! 複雑な 3人の女性キャラクターがとてもよく描かれていたの。コメディだし、読みながらも笑ったわ」とのこと。いやいや、私は上で、これはコメディではないと書いた。それをコメディだと言いきってしまうあたりに、この女優の侮れない個性が見て取れる。さぁこの 2人、どちらが勝つのだろうか。
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そう、普通の意味ではこの映画は断じてコメディではなく、人間の汚い面を赤裸々に描いた、あまり愉快な映画ではないのだが、その細部を思い出して行くと、今度は人間のしぶとさにも思い当たるわけで、そう思った瞬間、いろんなことが可笑しく感じられるから面白い。ネタバレせずに説明するのは難しいが、一国 (未だ世界に冠たる大英帝国ではないにせよ) の君主がこれだけ人間的な弱みを抱えていて、いとも簡単に操られるかと思うと、意外としっかりした面があって、突然自らの意思で命令を発し始める。あるいは王宮を牛耳る存在である女性が、年少の従妹の策略にかかってひどい目に遭うことは、小気味よくもある。さらにその年少の従妹は、うまい具合に男を利用して成り上がるが、男のあしらいはなんともぞんざいで、結婚初夜も例外ではない。それらは結構笑える内容になっているのである。物語はそのような様々なピースによって成り立っているが、その積み重ねから何度か笑いを感じるうち、気がつくと背筋が凍るような人間の真実に直面する。そんな作りになっている。これは家族みんなで見に行くようなタイプの映画ではないが、大人であれば、ストーリーを追うだけで充分楽しめると思うのである。

さて、肝心の主役についてまだ何も語っていなかった。アン女王を演じるのは、オリヴィア・コールマンという女優。本作でアカデミー主演女優賞を受賞した。私にとってはなじみのない顔であるが、英国では実績のある女優のようである。実在のアン女王は病気がちで、また大変な肥満であったというが、17回妊娠して、ひとりの子供も育たなかったという個人的悲劇にも見舞われた人でもあったという。自分勝手で淋しがりで、でもどこか憎めない女王役を、見事に演じている。上で触れた、セントポール大聖堂の前に立つアン女王の彫像の写真もここに掲げておこう。
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ヨルゴス・ランティモスの演出は、「聖なる鹿殺し」に続いて、ここでも大変に冴えている。役者たちから恐ろしいような表現を引き出したのも、彼の手腕であろう。実は今回共演しているオリヴィア・コールマンとレイチェル・ワイズは既にこのランティモスの「ロブスター」という映画に出演した実績がある。3人の女優の中で唯一米国人であるエマ・ストーンも、本作への出演を決意したのは、まずはこの監督の作品であることが理由だったという。今後の作品から目が離せない監督である。彼の演出の一例として、本作の宮廷内のシーンでは魚眼レンズを多用していたことが挙げられるが、それなどは、普通なら段々辟易としてきてもおかしくない、単調さに堕する危険がある方法だろう。だが、画面の情報量もストーリーの情報量も多いこの映画では、非常に効果的であったと私は思う。
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この作品、アン女王はもちろんのこと、サラもアビゲイルも、実在の人物であるという。もちろんこのストーリー自体はフィクションであるが、史実からヒントを得た作品ということになる。ところでこのサラ、旦那の名前はジョン・チャーチルという。そう、もちろんあのウィンストン・チャーチルの祖先である。本作の最初の方で、アンがサラに対して、ジョンの軍功を称えて宮殿をプレゼントすると言って模型を見せるシーンがあるが、もちろんその宮殿は、(このブログでも映画のロケ地として何度か言及した) 世界遺産、ブレナム宮殿で、ウィンストン・チャーチルの生地である。言ってみればこの映画、20世紀英国の英雄チャーチルの祖先を、かなりひどく描いているとも言えるわけで、その意味でも英国風仮借なさを感じるわけである。もちろんその仮借なさは、過去に実在した女王の描き方にもあてはまるわけであるが (笑)。

因みにこの映画の王宮のシーンは明らかにセットではなくロケだと思ったら、ハットフィールド・ハウスで撮影したとのこと。ロバート・セシル (初代ソールズベリ伯) の館であったが、あのエリザベス 1世が幼少の頃を過ごした場所として有名である。私もその場所を訪れたことがあって、そのあたりの展示を沢山目にしたものだ。もちろん英国にはこの手の屋敷 (今でもソールズベリ侯爵 = 保守党の政治家でもある = の自邸だが) は多く残っているが、やはりこのような映画のロケには最適である。
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最後に音楽について。この映画では、既成のクラシック音楽が数ヶ所で印象的に使われていて、その中のバッハやパーセルというバロック音楽は、時代の雰囲気を盛り上げるという目的が明確であるが、それ以外に、劇中の登場人物の心理を深く反映するような音楽がある。ひとつは、シューマンのピアノ五重奏曲変ホ長調作品44の第 2楽章。もうひとつは、シューベルトのピアノ・ソナタ第 21番変ロ長調D.960の、やはり第 2楽章だ。この 2曲が使われている箇所 (前者は確か 2回使用されていたと記憶する) では、何か衝撃的なことが起こるのだが、音楽はひたすら淋しい。「聖なる鹿殺し」に続き、ランティモス監督の音楽のセンスには感心した。

このような次第であるので、映画を選択するときには、邦題で内容に対して先入観を持たず、作り手についての情報を充分得てからにしたいと、再認識した。あ、あと、たまたまこの作品の Wiki を見てみたが、そこには「歴史コメディ映画」とある。いやいや、とんでもない。あなたがエマ・ストーンでもない限り、この映画をコメディなどと呼んではいけない!!

by yokohama7474 | 2019-03-28 21:33 | 映画 | Comments(0)

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東京都交響楽団 (通称「都響」) の桂冠指揮者、イスラエル生まれのエリアフ・インバルは、日本でも長くおなじみの指揮者である。1936年生まれであるから今年実に 83歳なのであるが、その活動は未だ非常に精力的である。最近も、今年の 8月から台湾の台北市立交響楽団の首席指揮者に就任すると発表された。日本でポストを持っているのだから、ちょっと台湾まで足を延ばせばよいという考えもあるかもしれないが (笑)、それにしても、ヨーロッパの指揮者が日本と台湾でポストを持つということの物理的なハードルも大変なものだと思うのだが、若い指揮者ならいざしらず、それを 83歳にしてやってしまうこの人は、やはり何か怪物めいた活力の持ち主であると思うのである。ブルックナー、マーラー、ショスタコーヴィチなどの大作交響曲をレパートリーの中心に据えているのも相変わらずであり、過去に同じ曲の演奏を聴いていても、この人が指揮するとなると、やはりまた聴きたくなってしまう。独特の魔力を持った指揮者である。今回インバルが東京で指揮するプログラムは 3種類。そのうち最も注目が高かったであろうブルックナー 8番 (しかも、これまで彼が採り上げてきた第 1稿 1887年版ではなく、第 2稿 1890年版による演奏) を聴けなかった私は、そのことを大変残念には思っているが、ここは気を取り直して、それ以外のプログラムを楽しみにしよう。そして私が出掛けたこの東京文化会館での定期公演のプログラムは、以下の通り。
 ブラームス : 悲劇的序曲作品81
 ブロッホ : ヘブライ狂詩曲「シェロモ」(チェロ : ガブリエル・リプキン)
 ショスタコーヴィチ : 交響曲第 5番ニ短調作品47

これは全体的に悲劇的トーンの漂う、引き締まったプログラム。しかも、作曲者の出身国はドイツ、スイス、ロシアと別々ながら、序曲・協奏曲・交響曲という、伝統的なコンサートスタイルになっている。実は今回、インバルと都響は、東京での公演に加えて、福岡と名古屋でも公演を行っていて、その 2都市では、このプログラムの真ん中の曲を、よりポピュラーなチャイコフスキーの「ロココの主題による変奏曲」に入れ替えられていた。なので、「シェロモ」はこの東京での定期においてのみ演奏されたことになる。
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冒頭の「悲劇的序曲」はいかにも都響らしいズシリとした音を、インバルの、決して器用ではないがはったりもない指揮が、うまくかき混ぜる (表現としては適当でないかもしれないが、私のイメージはそんな感じ)。名曲を聴いて、あぁいい曲だなぁと思うことは、音楽の醍醐味であると思うのだが、まさにそんな印象のブラームスであった。

2曲目の「シェロモ」は、スイス出身のユダヤ人作曲家、エルネスト・ブロッホ (1880 - 1959) の代表作である。この作曲家はジュネーヴに生まれ、ブリュッセルやフランクフルトで教育を受けたが、36歳で米国に渡り、そこで生涯を終えた人。作品としてはこの「シェロモ」以外はほとんど知られていないが、ユダヤ色豊かな作品群を残した人で、この「シェロモ」も例外ではない。そもそもこの題名はソロモン王のヘブライ語読みであり、ここでは独奏チェロがそのソロモン王の呟きを奏する。そこで聴かれる音響は、まさに古代イスラエル王国の栄華と、ソロモン王の孤独を思わせる大変にドラマティックなもので、文句なしの名曲と言ってもよいだろう。私の場合は、若い頃にロストロポーヴィチとバーンスタインの録音で親しんだが、それよりも前に、ストコスフキーがシンフォニー・オヴ・ジ・エアを指揮したレコード (チェロはジョージ・ナイクルグという人) を聴いていた。だが実はこのストコフスキーは、その録音よりも前、1940年にフィラデルフィア管を指揮してこの「シェロモ」を世界初録音した人で、そのときのチェロは、伝説的チェリスト、フォイアマンであった。聴いてみたいなぁ・・・。とまぁ、昔の録音の話はさておいて、今回の演奏に戻ろう。チェロ独奏は 1977年イスラエル生まれのガブリエル・リプキン。15歳でズービン・メータ指揮イスラエル・フィルと共演し、世界に活躍の場を広げたが、2000年から 3年間、小村に居を移し、自身の精神を高めるためのサヴァティカル休暇に入ったという。活動再開後は、通常の演奏活動に加え、現代作曲家との共同作業など、チェロの新たな可能性を追求しているようだ。その外見も、どこかストイックなイメージの人である。
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この「シェロモ」というユダヤ的作品を、ユダヤ人でないと共感を持って演奏できないというものでもないと思うが、今回のように、指揮者、ソリストともにユダヤ人の演奏を聴くと、やはり何か特別なものを感じてしまう。このリプキンのチェロの響きは非常に神秘的かつ思索的であり、弱音から大きなうねりまで、全く教科書的ではない自由度を持って弾きこなすので、そこから立ち昇る音楽の実在感に、心を打たれるのである。そのチェロに触発されたのか、情熱的な主題で盛り上がる箇所での都響の響きは、実に劇的で、鳥肌立つほどだ。眼前に古代ユダヤ神殿が立ち現れるかのような思いに囚われる。これを機会に、もっとブロッホの音楽を聴いてみたいと思わせるような演奏であった。これは、英国のエドワード・ジョン・ポインターというラファエル前派の画家による、ソロモン王に謁見するシバの女王。
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メインのショスタコーヴィチ 5番は、ちょうど前日にウルバンスキ指揮東響の演奏で聴いた 4番と異なり、この作曲家の代表作にして、誰もが認める 20世紀の交響曲の一大傑作である。もともとインバルという、音楽に内在するある種の狂気を解き放つような指揮をする人には、このショスタコーヴィチの屈折した音楽はよく合っていると思うのであるが、別に何か変わったことや特別気の利いたことをするわけでもないのに、聴くたびにその音楽の説得力に打たれてしまう。第 1楽章と第 2楽章の間では指揮棒を下ろすことなく続けて演奏し、第 3楽章と第 4楽章はもちろんアタッカであるから、全曲は大きく 2部に分かれたように演奏された。悲劇の予感をはらんで徐々に盛り上がる第 1楽章後半の悠揚迫らざるテンポ、第 2楽章冒頭のド迫力に代表される、ギスギスした音の耳障りなこと、第 3楽章の静謐な透明感の表出、そして第 4楽章の「強制された歓喜」(これもヴォルコフの「ショスタコーヴィチの証言」にある、衝撃的なこの曲の解説だ) の白日夢のような不気味な熱狂。かなり以前に聴いたこのコンビでのこの曲の演奏も、確かこんな印象ではなかったか。インバルには、中途半端な円熟よりも、ひたすら音楽の力を解き放つことを期待したいし、今回の演奏はその期待に見事に応えてくれたものだったと思う。恐るべき 83歳である。

4月から始まる都響の来シーズンの予定 (小冊子の見開き 2ページにすべて収まってしまう) を眺めていると、音楽監督大野和士、首席客演指揮者アラン・ギルバート、終身名誉指揮者小泉和裕に加えて、このインバルの名前もある。次回来日は 11月で、またショスタコーヴィチの 11番、12番や、チャイコフスキーの管弦楽曲などが含まれている。加えて、マルク・ミンコフスキの再登場と、フランソワ=クサヴィエ・ロトの登場があり、これらは今から興奮を禁じ得ない。東京の音楽界はいよいよ熾烈な競争に入って行くわけである。

by yokohama7474 | 2019-03-27 22:21 | 音楽 (Live) | Comments(2)

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クシシュトフ・ウルバンスキは 1982年生まれのポーランドの若手指揮者。彼が、以前首席客演指揮者を務めた東京交響楽団 (通称「東響」) の指揮台に戻ってくる。私は過去に何度か彼の指揮を経験しているが、なかなかに硬派な指揮者であって、強烈な表現力を伴う能力の高さは疑いがないゆえ、このコンサートを楽しみにしていた。彼の過去のコンサートで忘れられないのは、ポーランドの作曲家キラールの「クシェサニ」という交響詩。未知の作曲家の未知の曲を、それはもう快刀乱麻の遠慮のない (?) 指揮ぶりで、聴衆を圧倒した。そのあとには庄司紗矢香のソロでドヴォルザークのコンチェルトが演奏されたのだが、ドヴォルザークの地味なコンチェルトが吹っ飛んでしまうような、そんな強烈なキラールの演奏であった。それをきっかけとして私は、映画音楽 (例えばコッポラ監督の「ドラキュラ」など) を含むキラールの CD を何枚か購入したものだった。あれは 2014年 10月のことであったから、既に 4年半も経っているわけで、その間にウルバンスキ自身の活躍の場も広がっている。2017年には首席客演指揮者を務める NDR エルプフィルとともに来日したが、残念ながらそれは聴けなかったので、今回は特に楽しみだ。
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彼は一見端正でスマートな佇まいを持ちながらも、上の写真でもその片鱗が見えているが、音楽の根源的な力を引き出す底知れぬヴァイタリティこそが持ち味である。現在のポストは、上記の NDR エルプフィルの首席客演指揮者のほか、インディアナポリス交響楽団の音楽監督であるが、既にベルリン・フィル、シュターツカペレ・ドレスデン、ロンドン響等と共演していて、今シーズンはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管とパリ管にデビューするというから、まさに世界の一線で活躍の場を広げているわけである。そのうちメジャーオケのシェフの地位に就くに違いないと私は思う。そんな彼の指揮するプログラム、これがまた今回の大きな期待を抱かせるもの。
 モーツァルト : ヴァイオリン協奏曲第 5番イ長調K.219「トルコ風」(ヴァイオリン : ヴェロニカ・エーベルレ)
 ショスタコーヴィチ : 交響曲第 4番ハ短調作品43

ショスタコーヴィチの問題作、交響曲第 4番は、演奏に 1時間を要する大作で、彼の 15曲のシンフォニーの中でも、最も狂乱的な強音が暴れまくる曲。自宅で CD を聴くときには、近所迷惑にならぬよう、ヴォリュームには気を付ける必要があるので (笑)、コンサートホールでオケが渾身の力で演奏するのを実体験することこそ、この曲を楽しむ最上の方法である。過去の経験から、この曲はウルバンスキの持ち味にぴったりであると思うので、これはやはり、この春の東京における音楽イヴェントとして大いなる注目に値する演奏会なのである。

だが、前半に置かれたのは、そのような大シンフォニーとは対照的な古典、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲だ。ここでソロを弾いたのは、1988年生まれのドイツの女流、ヴェロニカ・エーベルレ。私が彼女を聴くのは多分これが初めてだが、16歳の頃、2006年のザルツブルク復活祭音楽祭で、サイモン・ラトル / ベルリン・フィルとベートーヴェンのコンチェルトを弾いたという輝かしい経歴を持つ。その後もロンドン響やニューヨーク・フィル、バンベルク響等と共演し、日本でも N 響とは既に 2度共演しているし、リサイタルも何度も開いているようだ。
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今回彼女の演奏を聴いて、その美音には感心したが、正直なところ、もう少し自分の色があってもいいような気がした。モーツァルトであるから、オケとの自然な呼吸が大事であり、即興性すら欲しいところ。その点今回の演奏は、上手く歌ってはいたものの、聴いていて楽しくて仕方がないというところには至らなかったように思う。冒頭部分は弱音を非常に抑えて始まったこともあって、主部では対照的に疾走する感覚が心地よかったが、勢い余ってということだろうか、フレージングの着地がほんの僅か乱れたように聴こえた箇所が何度かあり、細かい点ではあるものの、絶美の音楽であるがゆえに、少し気になった。その点、アンコールで弾いたプロコフィエフの無伴奏ソナタの第 2楽章の一部は、エーベルレの技巧の冴えから、独特の孤独感のようなものも響いてきて、素晴らしいと思った。このエーベルレ、9月には大野和士 / 東京都響とともに、ベルクのコンチェルトを演奏するので、そちらがまた楽しみである。尚このモーツァルトの演奏において、オケはコントラバス 2本の極小編成 (より詳細には、第 1ヴァイオリン 8 : 第 2ヴァイオリン 6 : ヴィオラ 4 : チェロ 3 : コントラバス 2) であり、ウルバンスキも、長い指揮棒を持ちながらも指揮台を使わず、床にそのまま立っての指揮であった。ここでは牙を隠した (?) 模範的指揮ぶり。

さて、ショスタコーヴィチ 4番である。このブログでは、2017年 9月にヤツェク・カスプシク指揮読売日本響による演奏を採り上げたことがある。奇しくもそのときも今回も、ポーランドの指揮者による演奏なのであるが、そのカスプシクの演奏会も大変よかったが、今回のウルバンスキもそれにひけを取らないばかりか、その表現力の強烈さではさらに上を行ったかもしれない、大変な熱演であった。上記の通り、そもそもこの曲、いびつな 3楽章からなる 1時間ほどのシンフォニーだが、とりとめない音響が随所で炸裂するようなタイプの曲であり、ショスタコーヴィチは当時ソ連当局から睨まれていたために、1936年に完成したこの曲の初演は、スターリンの死後である 1961年まで実現しなかったという経緯がある。実際に今聴いても、決してなじみやすい曲ではなく、一般的にあまり人気がないのも理解できようというものだ。だが今回のウルバンスキと東響の演奏では、特に木管の各楽器がその持ち場持ち場で、曲想に合わせた多彩な音をクリアに発していて、聴いていて退屈するということには全くならなかった。ウルバンスキの指揮ぶりは今回もかなりハードなもので、曲を分かりやすく聴かせるというよりも、弱点まですべてそのまま再現するという態度であったように思う。そのフォルテシモの骨太で強烈なことは言うまでもないが、それだけではなく、多彩な音楽的情景に隅々まで光を当てるような印象であった。終結部で弦が執拗にリズムを刻みながらチェレスタが霧の中に消えて行くような場面では、そら恐ろしいような静寂がホールを満たした。ウルバンスキ、実に恐るべき若手指揮者である。東響との相性もよいと思うし、音楽監督ジョナサン・ノットとは異なる個性の持ち主であるので、彼との共演は、オケにとっても大きな刺激になるものと思う。今後も是非招聘を続けて欲しいものだ。

ところで、ショスタコーヴィチという作曲家、世界的に演奏頻度は増していることは確かではあっても、政治に翻弄されたその人生には、やはり見えにくい部分が依然として多々あり、その評価は今後も変わりうるだろう。今回の演奏会のプログラム冊子にはこの 4番のことを、ショスタコーヴィチなりにソヴィエトにふさわしいシンフォニーを真摯に模索した結果であると書かれていて、興味深い。つまり、マーラー的な音楽言語の多層性に加え、民衆的な音楽イディオムを取り入れることで、同時代的な社会性や美学的パトスを内包した「民主的シンフォニズム」が実現するという発想である由。この曲は、当局の非難を恐れてお蔵入りになった (リハーサルまで行われたが、当局の圧力もあって演奏会はキャンセルされた) という理解が一般的だが、実は音楽界はこの曲に期待していたし、作曲者にも期するところ大であったというわけである。これを読んで、ふと思い立って、随分以前に読んだ「ショスタコーヴィチの証言」(ソロモン・ヴォルコフ編) に何かヒントはないかと思って、久しぶりに書棚から引っ張り出してきた。この有名な書物の真贋については未だ曖昧な点が多いが、読んでいて面白いということでは無類である。私が持っているのはこの中公文庫 (1986年発行)。
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この本の第 4章「非難と呪詛と恐怖のなかで」の中に、第 4交響曲への言及がある。当局の非難を受け、自殺まで考えるほど追い込まれていた彼はしかし、ゾーシチェンコという、友人のユーモア作家の考えに救われ、「以前よりももっと強くなり、自分の力をもっと確信できる人間として危機をくぐり抜けることができた。敵対する勢力が、わたしにはもうそれほど全能とは思われなくなり、友人や知人たちの恥ずべき裏切行為も、以前ほど大きな悲しみを与えなくなった」。そして、「このような考えのいくつかは、もし望むなら、私の第四交響曲のなかに見いだせよう。正確にいえば、最後の部分で、このようなものがすべてはっきり表現されている」とある。そして、初演が遅れたことについて、「およそ、音楽作品を地面に埋め、時のくるのを待つという意見にわたしはあまり賛成できない。まったく、交響曲というのは中国の卵ではないのだから」と、ピータンを例に出したユーモアのある表現を使って、初演が作曲から 25年も遅れてしまったことへの不快感を表明している (笑)。うーん、このトーンからは確かに、同時代性を反映した交響曲を作曲したという意思が見える。ソ連の権力者たちが喜ぶような「社会主義的リアリズム」の作品とはとても思えないこの 4番だが、そもそもそのナンチャラリアリズムの定義自体が曖昧であったので、ショスタコーヴィチなりの表現を模索したということは言えるのだろう。ところで、そのショスタコーヴィチを勇気づけたというミハイル・ゾーシチェンコ (1895 - 1958) のユーモア小説は、日本でも翻訳が出ているようだ。今度、この 4番を BGM に、ちょっと読んでみるかな。霧の彼方に消えて行く神秘的エンディングは、敵対勢力を恐れない境地を表していると、感じることができるだろうか・・・。
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by yokohama7474 | 2019-03-26 23:09 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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今年も小澤征爾音楽塾の季節がやってきた。ロームをスポンサーとして、2000年から主としてオペラを採り上げてきたこのプロジェクト、今回が実に 17回目。今回の演目はビゼーの名作「カルメン」であるが、これはほんの 2年前、2017年に演奏されたものと同じである。演出も同じなら、主要 3役 (カルメン、ドン・ホセ、ミカエラ) も同じ歌手たちなのであるが、それでもチケットが完売になるのは、もちろん小澤征爾が心血を注ぐプロジェクトであることを聴衆もよく知っており、また自らも一部を指揮すると発表されていたからだ。一方、作り手の側から見ても、このプロジェクトの目的自体が、毎回毎回オーディションで選ばれる若い演奏家たち (オーケストラも合唱団も) が、プロの歌手たちとともにオペラを身をもって体験するということであれば、演目が 2年前と同じであることは何ら問題ではないばかりか、教える側からすればむしろ、経験の蓄積が生きる分、好都合かもしれない。そう考えると、オペラ上演がそもそも日常的に存在しなかったという日本の音楽環境を少しでも改善し、若い人たちに本物のオペラ体験を積ませることで、日本の西洋音楽レヴェルを上げようという小澤の意気込みを、改めて実感するのである。そのキャリアにおいて、西洋音楽界のまさに頂点に立った人であるからこそ、身に沁みてその必要性を感じているのであろう。今回のオーディションは日本のみならず、中国、台湾、韓国でも行われた由。つまりこれは今や、東アジア全体の音楽文化向上を目指す試みになっているのである。これがプログラム冊子に載っている、今回のリハーサル風景。
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だが、事前に発表があった通り、今回の東京公演では、小澤の指揮を聴くことは残念ながらできなかった。今回は京都で 2回、そして横須賀、東京という、合計 4公演であるが、最初の京都の 2公演では指揮したものの、その後小澤は気管支炎を患い、まず横須賀公演をキャンセル。その後、今回の東京での千秋楽では指揮するために体調回復に努めたが、最終的には、大事を取って休養となったもの。会場には、主催者による説明と、小澤本人によるコメントが掲示されていた。
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実は京都での初日のあと、NHK のニュースでこの公演を採り上げていたのであるが、そこでは小澤がリハーサルにおいて生徒たちを厳しく指導し、オペラを学ぶべきはまさに今であるということを力説し、"Not Tomorrow!! Now!!" と檄を飛ばすシーンが見られ、そして実際に京都での初日に第 1幕の前奏曲を指揮する様子が映っていた (なぜかピットの中で奏者たちは立って演奏していた)。そのニュースでははっきりと、「小澤さんが指揮するのは全 4幕のうち 1幕だけ」と言っていた。えっ、「カルメン」の第 1幕と言えば、多少セリフだけの箇所もあるが、50分ほどもかかる長さである。そんなに連続で指揮する体力が、今の小澤にあるのだろうか・・・。あるなら、こんな嬉しいことはないが・・・。と思っていたのだが、音楽塾のホームページにも、今回の会場での掲示でも、もともと「第 1幕の前奏曲」 (掲示には「序曲」とあったが、これは分かりやすさを優先した表記だろう) だけの指揮が予定されていたとある。前奏曲は、ほんの数分の曲である。第 1幕全体とはえらい違いで、つまり、「1幕のごく一部だけ」とせず「1幕だけ」としたNHK の報道は誤報。どうにも困ったものである。

ともあれ、そもそも数年前からオペラの全曲を指揮する体力のない小澤のことであるから、ほかの指揮者と振り分けるのが、このところのこの音楽塾でも通例になっている。とはいえ今回、もともとほんの数分の前奏曲しか振る予定がなかったと知って、淋しい気持ちを抑えることはできない (なので、第 1幕全部を振るとしか解釈できなかった NHK ニュースの表現に、ぬか喜びしたのだ)。いやしかし、この公演の芸術監督として、彼は 3週間みっちりリハーサルに参加したということだし、上に書いた通りのこのプロジェクトの目的を考えれば、その公演の出来を楽しむのが、我々聴衆がすべきことであろう。上演前にわざわざプロデューサーが登場して、お詫びの挨拶をしたが、聴衆の拍手は温かいものであった。

そんなわけで、今回の上演で指揮をしたのは、クリスティアン・アルミンク。オーストリア生まれの 48歳である。日本では、新日本フィルの前音楽監督としておなじみだ。
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彼は小澤の弟子筋でもあり、このような機会に指揮を受け持つのも納得性がある。私自身は、過去に経験した彼の演奏がすべて素晴らしかったとは必ずしも思っていないものの、もちろんしっかりした手腕を持つ指揮者であり、コンサート、オペラの両面で経験を積み重ねているので、きっと若者たちをうまく率いてくれるだろうという期待があった。そして始まった前奏曲は、ここでもやはり奏者たち (弦楽器だけ? つまりはヴァイオリンとヴィオラということだが) は起立して演奏していたが、これは小澤の指示によるものであったのだろうか。いわゆるユース・オーケストラというものは概して、時に技術が第一級のプロには及ばずとも、その熱意や集中力で素晴らしい演奏を成し遂げる場合があり、そんなときの感動は独特のものがある。今回の演奏でも、確かに最初から最後まで完璧だったとは思わないが、アルミンクの個性もあるのだろう、前半では抒情的な部分が大変美しいと思っていたら、終幕の修羅場では、それはもう大変に劇的な音が容赦なく鳴っていた。オペラとは、舞台にいる生身の人間たちが歌ったり演技したりするところに、オーケストラが伴奏する芸術。いや、ある場合はオーケストラが先導することもある。呼吸を合わせ、他者の発する音を聴き、喜怒哀楽を表現するのは、音楽の醍醐味だ。聴いている方がそんなことを思うのだから、実際に演奏しているオケの若者たちにとってみれば、音とドラマがどんどん進んで行くときに、その重要なパートを自分たちが担うのだということを知る喜びは、また格別なものであろう。アルミンクの指揮ぶりは比較的クールだが、要所要所を抑えていて、若者たちのよきリーダーとして、素晴らしい役割を果たしていたと思う。

歌手陣では、やはりカルメンのサンドラ・ピクス・エディが、その舞台映えする容姿もあり、見事。
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ドン・ホセのチャド・シェルトンも、圧倒的ではないにせよ、この役の持ち味はうまく出していた。エスカミーリョのエドワード・パークスは、今回初登場だが、「闘牛士の歌」(声域が低いから難しいのだが) では少し声量不足かと思われたが、総じて立派な出来。ミカエラのケイトリン・リンチも、ただ可愛らしいだけではない強い表現もあり、本作におけるこの役の存在意義を示した。これらの歌手の経歴を見ていると、ほとんどが米国で活躍していることが多い。未だ若く、これからヨーロッパにも活躍の場を広げて行くのだろうか。そうすると彼らの履歴書には今後、「小澤征爾音楽塾で歌う」という項目が入り、それが経歴上の勲章になるのではないか。オペラの伝統のない日本でのプロジェクトが、若手歌手たちのキャリア形成に貢献するとは、考えただけでも素晴らしいことではないか。あ、それから、前回同様、児童合唱 (京都の小学生たち) も素晴らしい出来で、楽しかったですよ。

今回の演出は、この音楽塾をはじめ、小澤の指揮するオペラの多くを演出してきた米国人のデヴィッド・ニース。小澤とは実に 35演目以上をともに手掛けているというからすごい。メトロポリタン歌劇場の首席演出家であり、その演出には過激な要素は全くないが、作品の本質を嫌味なく舞台化し、音楽を邪魔することがないのがよい。だがよく見ていると、結構細かい箇所にも神経を配っていて興味深い。例えば第 1幕、ミカエラがホセを訪ねてきて母親からのメッセージを伝えるシーンでは、カルメンが煙草を吸いながらこっそりそれを盗み見している。その次のシーンは、カルメンと同僚の喧嘩であり、それがきっかけてホセはカルメンの監視役となるわけだから、もしかするとカルメンは、ミカエラを押しのけてホセの気を引くためにその騒動を起こしたのでは、と思わせるのである。あるいは第 2幕の最後で、ホセが上官と決闘になったあと、上官は山賊たちの囚われの身となって、彼らに同行することを渋々承諾させられ、それゆえに、次の幕にも (歌わないのに) 登場することがあるが、今回の演出では、決闘の騒動が一旦収まったあと、幕切れ間近で、ホセが彼を刺し殺すのである。これはうまい解決法 (?) である。また終幕で、地面に散乱した赤い紙テープがカルメンの血に変わるところも見事。非常に要領のよい演出である。なお、今回のプロダクションは、シカゴ・リリック・オペラのものとのこと。
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さぁ、千秋楽も無事終了し、賑やかなカーテンコール。そこで、私がそうあって欲しいと願ったことが、実際に起こった。小澤総監督が、その姿を見せたのである!! 普段着ではなく、ステージ衣装を身に着けて登場し、いつものようにおどけた仕草もまじえつつ、出演者たちの労をねぎらい、アルミンクとハグし、若いオケのメンバーの健闘を称えていた。かくして客席も沸きに沸いた、第 17回小澤征爾音楽塾公演であった。

来年の音楽塾は、ヨハン・シュトラウスの「こうもり」であると発表されている。これもまた、このプロジェクトではおなじみの演目だが、プロジェクトの意義を噛みしめながら、きっと来年も見に行くことになると思います。

by yokohama7474 | 2019-03-24 23:09 | 音楽 (Live) | Comments(2)

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フランスの名指揮者、シルヴァン・カンブルランの言葉の引用から始めたい。彼が、現在常任指揮者を務める読売日本交響楽団 (通称「読響」) のポストを今月で離れるに当たり、読響は彼にとってどんな存在であるかを質問されたことへの回答である。

QUOTE
私の人生における大きな贈り物であり、私の「今」の姿を表す存在です。読響とは 100%信頼を委ねられる関係が築けました。今は、私のあらゆる音楽作りに、皆が全力で応えようとしています。そうさせたのは「愛」。9年間、音楽の美しさ、音楽から得られる充実感を共有できたことは嬉しい限りです。
UNQUOTE

例えば 30年ほど前なら、国際的キャリアを誇る一流の外国人指揮者が東京のオケの常任指揮者、首席指揮者、音楽監督になることは稀であり、近い関係と言っても、せいぜいが名誉指揮者や、あるいは頻繁に登場する客演指揮者どまりということが多かった。それがある時期から、世界の一線級の指揮者たちが「本気で」東京のオケの活動に取り組むようになり、そして今日があるわけだが、それにしても上のカンブルランの言葉から、読響との活動への彼自身の満足感が感じられて、素晴らしい (まぁ、「愛」だけでオケとの関係は発展するとも思えないが、そこはフランス人特有の発想ということで・・・笑)。そして今回の演奏会、つまり、この 3/23 (土) と翌 3/24 (日) の 2回、東京芸術劇場で開かれるものが、常任指揮者としてのカンブルランと読響とのラストステージなのである。会場には、かつてこのオケで正指揮者を務めた下野竜也から、こんな花が届いていた。
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この「ラストコンサート」の曲目は以下の通り。
 ベルリオーズ : 歌劇「ベアトリスとベネディクト」序曲
 ベートーヴェン : ピアノ協奏曲第 3番ハ短調作品37 (ピアノ : ピエール=ロラン・エマール)
 ベルリオーズ : 幻想交響曲作品14

このプログラムの妙味は、カンブルランお得意のフランス音楽からベルリオーズを採り上げ、その作曲家の若き日の代表作をメインに、そして最後の作品の序曲を冒頭に持ってくる。その間には、やはりフランスの名ピアニスト、エマールを迎えて、ここだけはラヴェルとかサン・サーンスといったフランス物ではなく、ドイツ物、ベートーヴェンの短調のコンチェルトを演奏する。非常に引き締まったプログラムであるが、その構成は、序曲・協奏曲・交響曲という伝統的なものになっているのも面白い。
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さて、冒頭の「ベアトリスとベネディクト」序曲からして、各声部がよく鳴っていて非常にクリア。このコンビが 9年間築き上げてきた関係の成果であろう。以前も書いたことだが、何十年も前の読響は、楽員は全員男性で、力強い演奏が特徴というイメージであったが、それから時代を経て、様々な経験の蓄積と、歴代指揮者たちの薫陶によって、このような洗練が実現したということであろう。洒脱な部分もあり、またベルリオーズらしい熱狂も少し出て来る曲だが、聴いていて大変楽しかった。

そして、今回絶対聴き逃せないと思ったのが、ピエール=ロラン・エマールのピアノである。このブログでは、2016年のラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンで、メシアンの「鳥のカタログ」全曲を採り上げた 3回の演奏会を記事にしたことがあるが、私が彼の実演に接するのは、それ以来である。今回彼は、カンブルラン / 読響とは、3/19 (火) にもメシアンの「7つの俳諧」で共演しているが、私はそのコンサートは聴けなかったので、今回が楽しみであった。しかも、しつこいようだが、フランス物ではなく、ベートーヴェンである。エマールのベートーヴェンと言えば、アーノンクールと組んだ録音もあるが、あの知性溢れるクールなピアノが、この 3番のコンチェルト (5曲あるベートーヴェンのピアノ協奏曲のうち、唯一短調で書かれている) をどう表現するかを実演で聴けるとは。得難い機会である。
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聴いてみて、圧倒された。優れたピアニストは数々あれど、このピアノはちょっと格別である。タッチは常に澄んでいて、非常にクリアな音質なのだが、そこには作曲者が込めた情熱も充分なら、しばしの感傷も説得力があり、また、力強い疾走感も素晴らしい。なんと言えばよいのだろう、音を弾きこなしてそれらしい出来に揃えるようなピアノではなく、一音一音に命がある。そんな印象だろうか。現代音楽に定評のある人であるからこそ、このようなベートーヴェン演奏には大きな意味がある。真に偉大なピアニストなら、当然表現の幅も持っているはずで、その真価はあらゆる音楽に発揮されるはず。まさにエマールはそのような第一級のピアニストであることを、ここに再確認した次第である。実は、もしかするとカデンツァで突然メシアン風になるとか (笑)、そんなことがあっても面白いかな・・・とひそかに思っていたが、なんのことはない、作曲者による通常のカデンツァでした。カンブルランと読響の伴奏も、そんな一音一音に命が宿るピアノに巧みに絡んでいて、全体として非常にクオリティの高い演奏になっていた。

そしてメインの幻想交響曲は、期待通り、瞠目の名演となった。冒頭、指揮者が指揮棒を構えたところで客席から咳が聞こえ、カンブルランは指揮棒をそのまま止めて、完全な沈黙が到来するのを待ってから音楽を始めた。これは冒頭の旋律を吹くフルート奏者をはじめとする木管の人たちにとっては、緊張の一瞬だったのではないだろうか。だが、このアクシデントによって、むしろ指揮者とオケの呼吸はぴったりと揃うこととなり、まさにカンブルラン自身の言葉にある通り、彼の音楽作りに楽員たちが全力で応えている。流れて行く音楽のどの場面を取っても、そこには音楽本来の力が漲っている。カンブルランはあまりタメを作る方ではないので、このエキセントリックな交響曲に含まれた狂気の圧倒的表出という感じにはならないが、その代わり、この音楽はこの鳴り方しかないという自信が溢れている。素晴らしい美感に溢れたベルリオーズではないか。これこそがカンブルランと読響の 9年間の共同作業の到達点であろう。弦楽器のうねりも、管楽器の自発性も、実に感動的であった。あ、それから、この曲にはよく知られている通りティンパニが 2組必要だが、そのうち 1つを叩いていたのは、都響の久一忠之のように見えたが、もしそうなら、強力な助っ人が入っていたことになる。この「幻想」、2009年にカンブルランが読響と初めて録音した作品であるらしく、今回の演奏には、この両者の歴史の原点を思い出すという意味もあったのだろう。そう思うと一層感動的な演奏であった。

会場では、4/10 発売予定のマーラー 9番の CD を先行発売していたので、購入した。この時のライヴについて私は、もう少し情念があった方がよいのでは、ということをこのブログで書いた記憶があるが、録音で聴いてみるとまた違った印象もあるかもしれないので、心して聴いてみたいと思う。
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来月から始まる読響の新シーズンでは、新常任指揮者のセバスティアン・ヴァイグレが早速彼の個性を打ち出す演目を並べていて、これはこれで楽しみだ。来シーズンの予定にはカンブルランの名前はないが、また遠からぬ時期に読響の指揮台に戻ってきてくれることを願ってやまない。

by yokohama7474 | 2019-03-23 21:20 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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このブログのクラシック音楽の記事を読んでおられる方は、これまでの流れから、この日 (3/22 (金))、私が出掛けるコンサートは当然、サントリーホールにおけるグスターボ・ドゥダメル指揮ロサンゼルス・フィルによるマーラー 9番であると思われたであろう。実際のところ、そのコンサートのチケットを購入していた。だが私にはどうしても行きたいと考える別のコンサートがあり、熟慮の末、そのチケットは処分し、そして出掛けたのがこのコンサートである。音楽監督上岡敏之が指揮する新日本フィルの演奏会で、以下のような曲目であった。
 モーツァルト : 交響曲第31番ニ長調K.297「パリ」
 ラヴェル : ピアノ協奏曲ト長調 (ピアノ : クレール=マリ・ル・ゲ)
 マニャール : 交響曲第 4番嬰ハ短調作品21

うーん、これをどのように評したらよいだろう。フランス音楽と、フランスにまつわる音楽? 上岡は長くドイツで活躍している人だけに、新日本フィルとのプログラムも、ドイツ物の比重がかなり多くなっているが、その彼が採り上げるフランス音楽となると、それだけでも興味深いのだが、いやいや、ことはそれほど単純ではない。そもそもメインのマニャールについて語ることができる音楽ファンが、日本に一体どれだけいるというのか。実は私がこのコンサートをどうしても聴きたいと思ったのは、このマニャールゆえであった。以前の記事にも書いたが、上岡は今シーズンの主たる内容の紹介の中でこのマニャールに言及し、「ドビュッシーやラヴェルと同時代に、全く違った音楽を書いた人がいたことを知って欲しい」と語っていた。そう、このマニャールについては、私は随分以前に、「フランスにもマーラー風のシンフォニーを書いた人がいた」という紹介のされ方がされているのを見て、ずっと興味を持ってきた。彼のシンフォニーは、手元に CD はあるものの、実演で聴く機会はそうそうあるものではない。それがこのコンサートを選んだ理由である。この上岡という指揮者の熱意と冒険心には、強い感銘を受ける。
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では順番に、ざっと演奏を振り返ってみよう。最初のモーツァルトの「パリ」交響曲は、文字通りパリで作曲されているわけであるが、よく解説には、「マンハイム楽派の影響が見られる」とある。要するに、ドイツのマンハイムの宮廷にはヨハン・シュターミッツを中心とした優秀な作曲家、演奏家が集まっており、古典派音楽の確立に貢献したところ、モーツァルトはそのマンハイムに滞在し、マンハイム楽派からの影響を大いに受けた、というもの。オケの編成はクラリネットを含む比較的大きなもので、これはパリの楽団の編成を前提にしているようだ。3楽章の活き活きとした交響曲であるが、スコアを譜面台に置きながらも全く手をつけずに、非常に丁寧な身振りで楽しそうに指揮する上岡に、オケが敏感に応える、いい演奏だった。もっと角の立った演奏もあるだろうが、このコンビではとげとげしい演奏には決してならないのである。それにしても、ドイツの音楽活動の影響が、パリで書かれたシンフォニーに表れているという点、ただ単にこの曲がフランス趣味であるということを超えた歴史的な意義があるわけだ。

2曲目のラヴェルのコンチェルトは、これはもう近代フランス音楽の王道を行く曲。ソロを弾いたのはフランスの女流、クレール=マリ・ル・ゲ。
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私も初めて聞く名前だが、既に幅広く活躍しており、リストやシューマン、モーツァルトや、面白いところではデュティユー、あるいは最近ではバッハを録音しているらしい。ちょっと名前が覚えにくい (マリ=クレールというファーストネームならよくあるが、彼女の名前はその反対だ) 点が難点だが、なかなかに素晴らしいピアニストである。私が感動したのは第 2楽章で、この透明な美しい音楽を、これみよがしに感傷的になるのではなく、比較的大きな音量で、明確なタッチで弾き進んで行くあたり、高い美意識を感じた。その点では、アンコールで弾いた同じラヴェルの「悲しい鳥」(「鏡」の第 2曲) も同様で、これを聴けただけでも価値がある。もちろん、コンチェルトにおける速いパッセージやジャズ風の箇所でも、技術は充分だがそれだけに依存しない走り方が、素晴らしい。新たなピアニストを知る喜びを感じたのである。尚、彼女は今回、ピアノの中にタブレットを入れ、やはりペダルでそのページめくりを操作していたようだ。これからはこのやり方が増えるかもしれない。

さて、アルベリク・マニャール (1865 - 1914) である。上で書いた通り、私が彼の名を知ったのは、「フランスにもマーラー風のシンフォニーを書いた人がいた」という表現をどこかで見たからである。その後、ステレオ初期に数々のフランス音楽 (とロシア音楽) を録音して一世を風靡したエルネスト・アンセルメとスイス・ロマンド管弦楽団が、このマニャールの 3番のシンフォニーを録音していることを知った。そして、私の敬愛するミシェル・プラッソンとトゥールーズ・キャピトル管弦楽団による 37枚組の CD において、マニャールの 4曲のシンフォニーがすべて含まれていることを知って、喜んだ。だが、それらの CD を聴き込んでマニャールについて何か語れるほどの知識・経験が私にあるかというと、残念ながらそういうわけではない。ただ、ひとつ言えることは、ドビュッシーとラヴェルに代表される近代フランス音楽においては、弦の合奏よりも管の漂うような感じが重要であったり、ソナタならソナタという既成の形式から自由である点に比較すると、このマニャールの曲は、それらとは全く異なり、ドイツの後期ロマン派に近い音がする。だからこのマニャールのシンフォニーは、上記のモーツァルトの場合と逆で、ドイツの影響を受けたフランスの音楽というわけだ。ただ、「マーラー風」と言っても、そのシンフォニーは 1時間半を要するわけではなく、声楽を導入しているわけでもなく、オーソドックスなものである。生年を見てみると、マニャールはドビュッシーよりも 3つ下、ラヴェルよりも 10歳上。ドイツ系の作曲家と比べると、マーラーより 5歳下、シュトラウスの 1歳下である。経歴を見ると、ヴァンサン・ダンディの弟子である。ダンディは言うまでもなくセザール・フランクの弟子であるから、ここにひとつのユニークな系譜があるとも言えるだろう。これが 35歳の頃のマニャール。
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実はこの作曲家、悲劇的な最期を遂げている。没年が 1914年とあるのを見て、はっはぁもしかして、第一次大戦で戦死したのかと思いきや、実はもっと悲惨で、自宅のあったバロンという小村に侵入して来たドイツ軍兵士と銃撃戦になり、そこで殺されてしまったのである。それだけではなく、自宅には火をかけられ、焼け跡から黒焦げの死体として発見されたという。戦争に関連した作曲家の死というと、我々はすぐにアントン・ウェーベルンを思い出すわけだが、そちらの方は戦後すぐの緊張状態の中での不幸な事故のようなものであり、このマニャールのように、勇敢に戦って死んで行った作曲家は、ほかにはいないのではないだろうか。実は私の手元には、この作曲家の室内楽全集という CD もあるのだが、このジャケットは何だろうと思ったら、自宅を防衛するマニャールの姿を描いたものであった。尚、この CD の解説書に、焼け落ちたマニャール邸の古い写真も載っているので、ここに掲げておこう。
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さて、前置きが長くなってしまったが、今回演奏された交響曲第 4番 (嬰ハ短調という珍しい調性は、マーラー 5番と同じ) は 1914年の作。つまり、彼の最晩年の作品ということになる (といっても僅か 49歳なのだが)。演奏時間 40分ほど、伝統的な 4楽章からなるが、第 2楽章以下は続けて演奏され、今回の演奏では、第 1楽章と第 2楽章の間でも、指揮者は指揮棒を下ろすことなく、ほぼ続けて演奏された。ここで聴かれる音響は確かに後期ロマン派風であり、迫力あるオーケストラの音が連続する。1914年と言えば、ドビュッシーは既に「牧神」はおろか、「ペレアスとペリザンド」、「海」、前奏曲集第 1集、そしてバレエ「遊戯」を書いている。ラヴェルはかなり年下だが、既に「マ・メール・ロワ」や「ダフニスとクロエ」を書いている。そんなときに、このようなシンフォニーを書いた作曲家は、やはり時代遅れと当時評されたのも無理はあるまい。だが、これは確かにマーラーやシュトラウスが好きな人間にとっては、なかなかに聴きどころの多い曲である (また、マニャールを「フランスのブルックナー」と称する向きもあるとか)。フランク譲りと言ってよいのか否か、循環主題も使っていて、散漫になりがちな印象を避けようとしているようだ。そもそも 19世紀末から 20世紀初頭にかけて、フランス音楽界にはワーグナーの影響が絶大で、特にドビュッシーなどはそれが顕著なわけであるが、ワーグナーと言っても、「トリスタン」とか「パルシファル」、あるいは「ジークフリート」の森の場面からの影響であって、重厚な音でぐいぐい進んで行くというワーグナー本来の側面に追随すると、このマニャールのシンフォニーにようになると考えればよいのだろうか。上岡と新日本フィルの演奏は、ここでも曲の隅々に神経を行き渡らせており、初めて実演でこの曲に接する聴衆にも、「ほら、こんな知られざる名曲があるのですよ」とストレートに訴えかけてくる。私は聴きながら考えていたのだが、例えばフランスにも、ショーソンとかデュカスの優れた交響曲がある。それらは、日本にフランス音楽の美を伝えてくれた指揮者ジャン・フルネが度々採り上げたことで、我々聴衆にもなじみができたという面がある。だがそのフルネも、マニャールを採り上げたとは聞いたことがない。その意味では、いかに東京が巨大な音楽市場ではあっても、演奏家の努力なしには聴衆は育たないんだなぁと思ったものだ。そうこうするうちに、アンコールが演奏された。あれ、この、ウェーバーとロッシーニを足してモーツァルトのフレーバーをまぶしたような音楽、なんだっけ。答えは、ボワエルデューの「白衣の婦人」序曲。おぉ、そうだったそうだった。これはフルネお得意の曲目。例えば東京都交響楽団とのこんな CD にも入っているし、なんとこのオペラの全曲も録音している。
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そんなわけで、一風変わった「フランス音楽」プログラム、様々なことを考えるヒントを与えてもらった。上岡と新日本フィルとのこのような試みには賛辞を捧げたいし、客席も、心配したほどガラガラではなくて、まずはよかったと思う。世界のメジャーオケの演奏ももちろん捨てがたいが、東京のオケの積極的な活動も、できるだけ体験したいと私は思うのであった。

by yokohama7474 | 2019-03-23 10:58 | 音楽 (Live) | Comments(2)

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この演奏会の休憩が終わって後半が始まる前、ホールのスタッフが私の席の近くにやってきて、周辺の聴衆に対して注意事項を語りかけた。どうせ携帯電話を切ってくれということだろうと思ったら、なんと、「音楽に合わせての体の揺れは、お近くのお客様のご迷惑になるので、おやめ下さい」とのこと。あらら、この東京では遂に、ノリノリの音楽に合わせてリズムを取ることもできなくなってしまったのか (笑)。まぁ、そのような他人のノリノリぶりを迷惑だと感じる人の気持ちも分からないではないが、でもこういうコンサートでは、そのくらい許されてもよいのではないだろうか。というのも、このコンサートは、映画音楽の巨匠として知られるジョン・ウィリアムズの音楽を、ハリウッドのお膝元に本拠地を擁する名門ロサンゼルス・フィルが、英名高いその音楽監督、グスターボ・ドゥダメルの指揮で演奏するという、特別なものなのであるから。上に掲げたポスターの通り、これは NHK 音楽祭 2018 の中の「特別公演」。ほかの 3公演は昨年 9月から 11月までの間に終了しているが、このコンサートだけが今年にずれ込んで開催されることとなった。ともあれ、会場である NHK ホールの入り口にはこのようなセット (?) が作られ、ホール内のロビーもなぜか、赤い照明になっていた。
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今回のドゥダメルとロス・フィルの日本公演は、前日が、前回の記事でご紹介したマーラーの「巨人」をメインにしたもの。そしてこの日のジョン・ウィリアムズ・プログラムを挟んで翌日が、マーラーの、今度は 9番である。このスケジュールはなかなかにチャレンジングではあると思うのだが、私としては、真ん中に挟まったこのジョン・ウィリアムズ・プログラムにも、是非足を運びたいと思ったのである。それは上記の通り、このオケの本拠地はハリウッドがあるロサンゼルスであり、その地のオケとして、このようなプログラムを演奏するには最適の存在であるからだ。音楽には、それぞれの土地の個性が刻まれている。その意味で、ジョン・ウィリアムズ (1932年生まれで現在 87歳!!) の作品のような良質な映画音楽の世界を、良質な演奏で世界に届けるのは、このオケにとってのひとつの使命とも言えるのではないか。いや、もちろん、ロス・フィルとても、(夏のハリウッドボウルでの野外コンサートは例外なのかもしれないが) そのような活動を常に積極的に行ってきたわけでは、必ずしもない。やはりドゥダメル時代になってから、音楽の裾野をより広げるという目的が明確になったのではないだろうか。それから、このオーケストラが活動するホールの名前をご存じだろうか。それは、ウォルト・ディズニー・コンサート・ホール。その名の通り、ディズニーが建てたホールなのである。こんな奇抜な建物だが、私はこの建物の前までレンタカーを運転して行って、外からマジマジと眺めたことはあるものの、残念ながら中でコンサートを聴いたことはない。
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ディズニーの現代映画界における地位は非常に重要であり、今や「スター・ウォーズ」もディズニーによって製作されている。夢の工場ハリウッド、ディズニー、そしてジョン・ウィリアムズ。いずれも人をワクワクさせる名前であり、音楽ファンにとっては、そこにドゥダメルとロス・フィルの名をつなげることになんらの躊躇もないはず。そんなドゥダメルとロス・フィルによる今回のプログラムは、まず最初に「オリンピック・ファンファーレとテーマ」(1984年のロス・オリンピック用に作曲されたもの)。そして、以下の映画からの音楽であった。
 未知との遭遇
 ジョーズ
 ハリー・ポッター・シリーズ
 シンドラーのリスト (ヴァイオリン : 三浦文彰)
 E.T.
 = 休憩 =
 フック
 ジュラシック・パーク
 インディ・ジョーンズ・シリーズ
 SAYURI
 スター・ウォーズ・シリーズ

NHK ホールのロビーでは、10分間に亘るウィリアムズとドゥダメルの対談の映像が流れていて、これが大変面白かった。まず曲目については、オリンピック・ファンファーレで始めるのは、来年の東京オリンピックに対するエールであるとのこと。映画音楽については、まず「スター・ウォーズ」は作曲家と指揮者で意見が一致し、ついで、「E.T.」、「ジュラシック・パーク」、そして「ハリー・ポッター」というあたりが日本でも人気があるだろうということで、決まったとのこと。ドゥダメルは、この選曲による流れは素晴らしく、まるで大交響曲のようだと絶賛。ウィリアムズは、日本で演奏するのだから、日本料理のようにヴァラエティあるコースとして、甘いものも歯ごたえのあるものも含めるのがよいと思ったと発言。そのような会話に先だって、もともとジャズ・ピアノを弾いていたウィリアムズがいかにして映画音楽を手掛けるようになったかや、ロス・フィルとの過去の長い関係などにも言及されていた。

さて、ロス・フィルによる J・ウィリアムズ作品の録音というと、私の世代では、ズービン・メータ指揮による「スター・ウォーズ」と「未知との遭遇」のレコードが何と言っても懐かしい。当時中学生であった私はこの録音を聴いて (もちろん映画も見て)、「過去のクラシック音楽の中には、劇付随音楽とかバレエ音楽などで歴史に残っているものが多くあるわけだから、これからは映画音楽が独立して音楽として聴かれても、全く不思議ではない」と思ったことを、鮮明に覚えている。それから 40年を経て、そのあたりの状況が変わったかと言えば、さほどではないかもしれないが、それにしても今回のような演奏で聴くと、やはり J・ウィリアムズの音楽の持つパレットの豊かさ、人間の感情に訴える技術の高さ、そして音楽としての美しさに、改めて気づくのである。それにしてもロス・フィルのスタミナはすごい。最初から最後まで、その音は艶やかかつ強力で、ドゥダメルの洗練されたリードのもと、それぞれの音楽が、映像がなくとも、音楽として楽しめるということを証明した。選ばれた音楽は、それぞれの映画のメインテーマとは限らず (例えば「ジョーズ」は、有名なあの曲ではなかった)、聞き覚えのない曲もあったし、その一方で、誰でも知る曲も沢山含まれていて、まさに百花繚乱。それから、「シンドラーのリスト」を弾くだけのために、若手ヴァイオリニスト三浦文彰が登場したのも、実に贅沢。悲劇性を秘めた哀感溢れる音楽を、端正に弾いていて見事であった。
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アンコールは 2曲演奏されたが、そのうち、最後に演奏された 1曲は、既に開演前から明らかであった。それは、ホルン奏者が中間部のメロディを練習していたからだが (笑)、その曲は、私の大好きな「スーパーマン」のテーマであった。だがその前に演奏された、弦楽合奏だけによる抒情的な曲はなんだろう。答えは、「スター・ウォーズ エピソード 7 フォースの覚醒」の中の「アダージョ」であった。うーん、こんな曲、あったっけなぁ。非常に美しい曲で、やはり映画の中で流れる音楽と、純粋に音楽として聴くものとでは、受け取り方も違うのだと実感した。そう、いずれの曲も、ドゥダメルとロス・フィルならではの素晴らしい演奏であった。

実はこの指揮者とオケで、ちょうど J・ウィリアムズ作品集が発売されたばかり。ちょっと内容を確認しようと思ったら、なんと!! 今回のコンサートの内容と、最初から最後まで (アンコールを含めて)、全く同じである。ということは、やはりこの選曲、作曲者と指揮者が納得して録音し、それをツアーにも持って行くことになったものであるのだろう。日本料理のコースとの類似性は、この作曲者一流のリップサービスであったのかも (笑)。ともあれ、この CD があれば今回の感動を再度体験できるし、また、今回のコンサートは 5月 5日に NHK で放送予定とのことだから、それを見てもよし。J・ウィリアムズの音楽、これからも多くの聴衆を惹きつけることだろう。自宅なら、いくらノリノリで体を揺すっても、他人様の迷惑にはなりませんからね!!
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by yokohama7474 | 2019-03-21 23:03 | 音楽 (Live) | Comments(0)