デヴィッド・リンチ : アートライフ (ジョン・グエン、リック・バーンズ、オリヴィア・ネールガード=ホルム監督 / 原題 : David Lynch : The Art Life)

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デヴィッド・リンチ。この名前を聞いて気持ちがゾワゾワとする人は、私のお仲間である。知らないなぁという人は、多分最初からこの記事を読まないだろう (笑)。なのでここでは、私のお仲間のリンチ好き、あるいは多少なりともリンチがどんな映画を撮っている人であるかを知っている人を対象に、書き進めたい。この映画は、1946年米国生まれ、現在 72歳の映画監督、デヴィッド・リンチの素顔に迫るドキュメンタリーである。リンチ好きには説明不要だろうが、Wiki の説明文の冒頭部分から引用すると、彼は「低予算映画『イレイザーヘッド』で有名となり、『カルトの帝王』と呼ばれることもある」人であって、この映画ではその強烈なデビュー作「イレイザーヘッド」が生まれるまでの半生を、本人が語り、貴重なリンチ家のホームムーヴィーや、アーティストでもある彼の作品の中で、彼の語るストーリーとイメージにおいて共通点のあるようなものが、映像で登場する。また、リンチがアート作品を制作しているところもバッチリ映っている。つまりは一言、リンチ好きにとっては必見の映画なのである。ただこの中でリンチがのべつまくなしにタバコを吸っているのは、今日びちょっと珍しい光景だ。ま、スクリーンの向こうから煙が物理的に漂ってくることはないと、リンチ好きの人間ならば許してしまうしかないでしょう。
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私にとってデヴィッド・リンチは、数々の謎めいた作品、しかも人間の感性や本能の深いところを刺激する作品の作り手であり、現代人の画一性に対して鋭い警鐘を鳴らす、真摯なアーティストである。最近作品を見ないと思ったら、あの 1990年代に大ヒットしたテレビシリーズ「ツインピークス」の続編「ツインピークス The Return」全 18話が昨年制作されたらしい。日本でも既に WOWOW では放送されているようだが、自宅で映像作品を見なくなって久しい私は、それを見ていない。それでもリンチ好きか!! というお叱りもあろうが、本当のことだから仕方ないと割り切って、この映画に戻るとしましょう。この映画、監督には 3人の名前がクレジットされていて、それは結構異例の事態だと思うが、もともとインタビュー嫌いで知られたリンチに対して、「ドキュメンタリー映画を撮らせてほしい」と依頼したのは、ジョン・グエン。グエンはもちろんヴェトナム系の名前である。
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彼はこの作品に先立ち、やはりリンチのドキュメンタリーである「リンチ 1」「リンチ 2」に関わっているようだ。この映画はその延長上にあるらしい。また、もうひとりの監督としてクレジットされているオリヴィア・ネールガード = ホルムはオランダ人女性で、本作の編集も手掛けている。面白いのはもうひとりの監督、リック・バーンズだ。プログラムにはこのような人を食った写真 (サングラスは明らかにあとから加えたものだし、髭はつけ髭、髪はきっとズラだろう) が載っていて、「名前は偽名で、正体は明かせないという」とある。ネットでこの名前を検索すると、なぜかバスケの監督がヒットする (笑)。
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ともあれこの映画は、謎めいた作品を作り続けてきたデヴィッド・リンチの内面に迫るドキュメンタリーであり、リンチ好きには本当に興味尽きない内容。私の最初の感想は、あの変態的映画で知られるデヴィッド・リンチは、両親の愛に恵まれた幸せな家庭に育っており、本人は極めてまっとうな人だということだ。これは、以前からの私の持論を裏付けるもの。つまり、映画監督であれ作家であれ画家であれ、異常なものを作る人は、必ずしも異常な人でない、いや、大抵の場合は普通の人だということだ。ここには人間の精神作用の単純さが見られる。異常でない人は、異常なものに憧れるものなのである。ただもちろん、その単純さの裏には、極めて複雑な人間心理の深奥があるのだと思うが。この映画では、リンチの幼少時からの軌跡を辿って行くのだが、そこで本人が語る来歴は、アート好きの青年が夢を抱き、また失望感も経験して成長して行くという、ごくごくまっとうなもの。これはホームムーヴィーの中の、少年リンチ。ボーイスカウト?
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ただ、彼がいくつかのエピソードで語る日常における奇妙な実体験が、まさに彼の映画に出て来るような不条理感を伴っていること、興味深い。例えば、子供の頃に住んでいた家のお向かいの家から、全裸の女性が出て来たという話は、そのまま彼の映画に出て来るようなシュールさである。一方、若い頃の進路の悩みや、女性との同棲、そして最初の娘ができたこと、その家に父親が訪ねてきたことなどは、どこにでもある青春ストーリーである。そして、アート作品を動かしてフィルムに収め、そこから結果的にアニメーション動画の世界に入っていくあたりも、特に異常な動機は見出せない。そうすると、映像作家デヴィッド・リンチの誕生には、さまざまな偶然の積み重なりがあったのだということだろう。これは映像作品を作り始めた頃のリンチ。
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リンチのアート作品にも、様々なヒントが見出せる。やはり彼が映像にしているものは、彼の内面で実際に見えているものなのだろう。その映像を造形化することは、彼が生きていることと同義なのだと思う。そこには、内面の欲求に素直に従うアーティストの姿があり、「なんとなくこんなのを作ったら、回りからグロテスクとか気持ち悪いって言われちゃったよ」と首をかしげる自然な姿がある。これは「火をともす少年」という彼の作品で、ここにはグロテスクさはないものの、少年の腕の長さはきっと、リンチ自身に見えているものなのではないだろうか。
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本作で最後にリンチが語るのは、出世先「イレイザーヘッド」の制作がいかに楽しかったかというノスタルジーである。人によっては生理的に受け付けない可能性もある、このカルトな作品は、全く陰鬱でないワイガヤの雰囲気の中で作られたようだ。これは意外だし、リンチというアーティストの内面を理解するヒントになろう。
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この映画の舞台はフィラデルフィア。私はその街は 2回しか訪れたことはないが、米国独立初期の頃の首都であったという歴史は立派であるものの、街の雰囲気自体は、若干荒んだものを感じたのである。リンチは、このフィラデルフィアの荒廃がこの作品の背景にあると語っていたのは覚えていて、てっきりリンチはこの街出身かと思ったのだが、実際には幼少時には米国内の様々な場所に移り住み、フィラデルフィアでは美術学校に通ったということらしい。この「イレイザーヘッド」の制作は 1976年。その頃のフィラデルフィアというと、音楽ファンにとってはもちろん、ユージン・オーマンディ指揮のフィラデルフィア管弦楽団のゴージャスこの上ないサウンドを思い浮かべることになる。私はちょうどその少しあと (1980年頃) からクラシックを聴き始めた人間であるが、フィラデルフィアは米国で最も古く由緒正しい街であり、そこの富裕層の保守性が、そのようなゴージャスなサウンドを育んだという解説を読んで、分かったようになっていた。そうそう、当時はこのようなジャケットの 1,300円の廉価版アナログレコードが売られていて、このジャケットのゴールドが、このコンビのゴージャスサウンドのイメージと一致したものだ。その思いは今も変わらないがゆえに、米国の光と影を一層実感することができる。
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この映画についての最後の感想は、実は最初の感想と同じなのだが (笑)、デヴィッド・リンチは実は愛情にあふれた人なのだということである。本作に出て来るこの小さな可愛らしい女の子は、リンチの孫ではなく、娘なのだ。このような姿に人間リンチを感じるがゆえに、久しぶりにまた、彼のカルトな映画を見て、そこに愛を見出したいと思うようになった。
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そして本作は、出世作である「イレイザーヘッド」の制作で終わっている。ということは、きっとまたその後の創作活動についてのドキュメンタリーが作られるのではないだろうか。そうであれば、期待感が膨らむのを抑えることができない。まぁ、過度な期待は避けるにせよ、ともあれ本作はリンチ好き以外にはお薦めしないが、逆に言うと、何度もしつこく申し上げるが (笑)、リンチ好きには必見の映画であると思います。

# by yokohama7474 | 2018-02-22 01:01 | 映画 | Comments(0)  

ユーリ・テミルカーノフ指揮 読売日本交響楽団 (ヴァイオリン : レティシア・モレノ) 2018年 2月20日 サントリーホール

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ロシアの巨匠、現在 79歳のユーリ・テミルカーノフと読売日本交響楽団 (通称「読響」) のコンサート、これが今回の 3つのプログラムのうち最後のもの。このサントリーホールでの演奏のあと、2/21 (水) は大阪で、2/22 (木) は福岡で、同じ曲目による演奏会が開かれる。テミルカーノフのインタビューによると、彼は、30年間率いている手兵、サンクト・ペテルブルク・フィルとは大阪も福岡も訪れたことがあるらしく、「日本のコンサートホールはどこも演奏しやすいし、聴衆のみなさんも素晴らしいですね」と語っている。さしずめこれは、地方公演に先立つ東京での腕鳴らしだったのか。いやいやとんでもない、今回の読響は、いつもにもましてクオリティの高い演奏を披露し、私は痛く感動した。まず曲目を紹介しよう。
 グリンカ : 歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲
 プロコフィエフ : ヴァイオリン協奏曲第 2番ト短調作品63 (ヴァイオリン : レティシア・モレノ)
 ドヴォルザーク : 交響曲第 9番ホ短調作品95「新世界から」

なるほど。これは名曲プログラムだ。このようなレパートリーで胸のすく演奏を聴かせてくれるオーケストラは、本当によいオーケストラなのだ。まず最初の「ルスランとリュドミラ」序曲は、ロシア音楽の父と呼ばれるミハイル・グリンカ (1804 - 1857) の代表作であり、疾走する音楽にはオーケストラの醍醐味が詰まっている。今回の演奏では、すさまじいテンポで一気呵成に駆け抜けることで、この曲の持つ凄みを改めて実感することとなった。冒頭から一聴して読響の好調は明らかで、弦の各パートが隅々まで鳴り渡り、色分けも明確。また、木管、金管、ティンパニもそれぞれの持ち場を完璧にこなし、実に見事の一言。80歳目前にしてこれだけ疾走感のある音楽を作ることのできるテミルカーノフ、やはり只者ではない。
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2曲目のコンチェルトでソロを弾いたのは、スペイン、マドリッド出身のレティシア・モレノ。1985年生まれというから、ヴァイオリニストとして超若手という年齢ではないが、未だ若手のうちには入るだろう。
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私としては未知のヴァイオリニストであったが、あの稀代の名教師ザハール・ブロンに師事し、いくつかの国際コンクールで入賞を果たしているらしい。既にメータ、ゲルギエフ、ドゥダメル、サロネンらの名指揮者たちと共演があり、ドイツ・グラモフォンでのレコーディングもあって、そのひとつは、テミルカーノフ指揮サンクト・ペテルブルク・フィルとのショスタコーヴィチの 1番のコンチェルトである。これがその CD のジャケット。
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そのモレノが今回弾いたのは、プロコフィエフの 2曲のヴァイオリン協奏曲のうち、第 2番。いかにもプロコフィエフらしいモダン性と諧謔味、そして時には抒情も混じり合った面白い曲だ。演奏開始前に係の人が、ヴァイオリン用の譜面台をステージ前面に置いたので、もしかして譜面を見ながらの演奏かと思ったのであるが (私はロンドンで、とある有名なロシア出身の女流ヴァイオリニストが、やはりこのプロコフィエフの第 2コンチェルトを、譜面を見ながら弾くのを見て、驚いた記憶がある)、実際には譜面に手を触れることなく演奏された。やはりコンチェルトのソロ・パートは、よほどのことがない限り、暗譜で弾いて欲しいものであるから、それにはほっとしたのである。さてモレノの演奏自体は、特に大きな不満はないものの、逆に、どうしても彼女でないと出せない持ち味というものも、正直なところ、あまり感じることができなかった。ある意味で真面目な演奏で、真面目であって何が悪いという考えもあるだろうが、プロコフィエフのような複雑な作曲家の作品には、もっと屈折があった方が楽しめるのではないか、と思った次第。ところでこのコンチェルト、終楽章の舞踊風の音楽でカスタネットが鳴るのだが、今回初めて知ったことには、初演はなんとマドリッドでなされているらしい。プロコフィエフは 1918年にロシアを離れ、その後革命が起こったこともあって、1936年まで祖国に帰らなかったのだが、この曲はその国外生活の最後の方、1935年に書かれている。なるほど、スペイン製の協奏曲。それでカスタネットなのか。マドリッドで生まれた曲をマドリッド出身のヴァイオリニストが弾くとは、なかなか洒落た選曲だ。彼女はアンコールでバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第 1番の最初の楽章、アダージョを弾いたが、これは非常に内面的な素晴らしい演奏。今後またその表現を深めて行くことだろう。

そしてメインは、天下の名曲「新世界」である。これはまた、実に惚れ惚れするような彫りの深い、また迫力に満ちた名演で、読響としても、ベストの範疇に入る充実した演奏であったのではないか。テミルカーノフの指揮ぶりは、いつもの通り、ほとんど不愛想と言ってもよいもの。あまり表情を見せずに淡々とステージに登場すると、コンサートマスターと握手をすることも笑顔を交わすこともなく、やおら譜面を開き眼鏡をかけて、そして素手を伸ばして空中で一度双方の掌を合わせてから、ぐいっと音を引き出し始める。右腕はほとんど上下運動を続け、時折左手で宙をぐるっと掻いてアクセントをつけるものの、音楽自体が停滞することは決してなく、タメも比較的少ない。だが、そこで鳴る音の分離は驚くほどよく、またなんと充実感のあること。これは読響との相性の良さや信頼関係があって初めて可能になるのだろうが、聴いていて大変にエキサイティングである。第 1楽章の提示部を反復しない点も、推進力を重視した結果であると思うが、その一方で第 2楽章では、イングリッシュ・ホルンによる「家路」のメロディが終わり、弦楽器だけで深い抒情を醸成する部分では、指揮者ははっきりと唸り声を上げていた。これこそまさにテミルカーノフの本領発揮である。ただ疾走する迫力ある音楽を鳴らすだけではなく、心に深く訴える抒情性も一級品であり、その表現の幅こそが、彼を巨匠たらしめているのだと思うのである。第 3楽章、第 4楽章での金管の鳴りも見事で、大詰めの手前では、大いなる盛り上がりで珍しく少しテンポを落とし、そして終結部の遠くに消えて行くような音を、必要以上に伸ばさずにきっぱりと打ち切って、過度の感傷性なく、颯爽と全曲を終了した。繰り返しだが、天下の名曲「新世界」を、まさに堂々と面白く聴かせてくれるのは、本当に能力のある指揮者とオーケストラしかできないこと。テミルカーノフと読響は、その高い実力をいかんなく聴衆に示したのであった。この名演奏が、大阪と福岡の聴衆にも届けられるとは、本当に素晴らしいことである。なおテミルカーノフは、Mirare レーベルに、サンクト・ペテルブルク・フィルと、この曲を 2011年にライヴ録音している。会場でこの CD も販売されていて、私は購入はしなかったが、いつか聴いてみたいものだと思う。
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さて、私にはひとつの予想があった。今回の演奏会は定期公演ではなく名曲シリーズだし、翌日からの地方公演に備えるものであるから、きっとアンコールがあるのではないか。そう思って終演後の楽員の様子を見ていると、あ、やはり、譜面をめくって、次の曲の準備をしている。「新世界」のあとのアンコールと言えば、もちろん同じドヴォルザーク作曲のスラヴ舞曲から 1曲と、相場は決まっている。だが、鳴り始めた音を聴いてびっくり。それはスラヴ舞曲ではなく、ドヴォルザークを世に出したブラームスの、まさにスラヴ舞曲のお手本となったハンガリー舞曲から、第 1番であったのだ!! ちょっと驚いたが、マエストロ・テミルカーノフの意向なら、もちろんそれもありでしょう!!

終演後もあまり余韻なく、指揮者はオケに解散を命じ、人々は会場を後にした。実は前半でソロを弾いたレティシア・モレノが、後半の「新世界」を客席で聴いているのに私は気づいていたが、派手な服にコートをはおり、一般の聴衆に交じってホールの出口に向かっているのを発見。その途中で足を停めて、CD 売り場 (きっと上に写真を掲げた彼女自身の CD もあったはず) を興味深そうに覗いているのも、気取りのない若手演奏家の素顔が見えて、微笑ましかった。こうして充実のコンサートは終了。人々は、真冬に比べると少し寒さの和らいだ、春の予感を孕んだ空気の中、それぞれに家路に向かったのであった。そう、中には、先刻聴いたばかりの、ドヴォルザークの「家路」のメロディを口ずさんでいた人もいたことだろう。

# by yokohama7474 | 2018-02-21 00:11 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

細川俊夫 : 歌劇「松風」(指揮 : デヴィッド・ロバート・コールマン / 演出 : サシャ・ヴァルツ) 2018年 2月18日 新国立劇場

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細川俊夫は、このブログでも何度もその名に言及している、現代日本を代表する作曲家であるが、この作品はその細川の 2011年の作品であり、今回が日本初演となる。細川は 1955年広島生まれの 62歳。ドイツで学んだ人であり、その作品は広く世界で演奏されている。この「松風」はもともと、ブリュッセルのモネ劇場、ベルリン国立歌劇場、ポーランド国立歌劇場、ルクセンブルク歌劇場の共同依頼によって書かれたもので、初演はモネ劇場でなされている。
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細川の精力的な作曲活動において、オペラはひとつの柱をなしているように思われる。というのも、この「松風」は彼の 3作目のオペラであるが、その後も既に 3本を作曲、そして現在は 7作目のオペラに取り掛かっており、今年の 7月にシュトゥットガルトで初演予定であるとのこと。これらはいずれも例外なく海外からの委嘱作であり、海外で初演されている。ということはもちろん歌詞は日本語ではなく、確認したわけではないが、恐らくはいずれも今回の「松風」同様、ドイツ語によるものであろうか。
1. リアの物語 (1997-98)
2. 斑女 (2003 - 04)
3. 松風 (2010)
4. 大鴉 (2011 - 12)
5. 海、静かな海 (2015)
6. 二人静 - 海から来た少女 (2017)
7. 地震・夢 (2017 - 18)

芸術音楽の作曲はグローバルな活動であり、海外でのオペラ公演が多いことは誠に結構なのであるが、やはり日本の作曲家の作品を日本の聴衆が聴くチャンスもあるべきであろう。なので今回の「松風」の日本初演は、私としては大変に楽しみなものであった。上記の通り、もともと 4つのオペラハウスからの委嘱であるので、それらの劇場では既に上演されているのはもちろん、ベルリンやブリュッセルやワルシャワでは初演後に何度も再演されているし、同じプロダクションが香港やフランスのリールでも上演されているのに加え、違うプロダクションが既に 2つあって、ひとつは米国ニューヨークとチャールストンで、もうひとつはドイツのキールで上演されている。初演後 7年でこれほど多く上演されている現代オペラも、ほかにそうそうあるものではないと思う。そのひとつの理由は、題材が極めて日本的で、外国人から見てエキゾチックだということもあるだろう。この作品は、題名の通り、能の演目「松風」の翻案なのである。これが能の「松風」の舞台写真。在原行平を恋い慕う亡霊の姉妹、松風と村雨の姿だが、手前にあるのは、海から汐を汲むための車であるようだ。
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私は残念ながら能でこの演目を見たことはないのだが、世阿弥が父、観阿弥のオリジナルに手を入れて完成したと言われているらしい。つまりは 600年ほど前の作品ということになる。オペラはちょうど歌舞伎と同じ頃、17世紀初頭に発生した舞台芸術であるが、能はさらにそれより 200年も先立つものであり、その幽玄さには、世界中の人たちが魅せられるのもよくわかる。だが細川はこの「松風」の初演時に、能に関してこのようなことを言っている。

QUOTE
私は能の根本的な思想に深く興味を持っている。しかし現在日本で上演されている能は、そうした深い思想を隠し持っているにもかかわらず、かなり硬直した伝統の様々な習慣のなかで、その深い「いのち」が実現されていないのではないか。今般、世阿弥の最も優れた作品のひとつである「松風」を原点に持ち、新しくその台本を再構築し、音楽を作曲し、また新しい演出によって、現代に生きる能を基盤とした新しいオペラを創りあげてみたい。
UNQUOTE

正直なところ、これはかなり大胆な発言だと思う。日本での能の上演が、伝統のせいで硬直的になっているという指摘が正しいか否かは、私にはよく分からない。もちろん、伝統芸能であるから柔軟性のない要素もそれはあるだろうし、既に昭和の時代から、観世栄夫のような人が能の外の世界で暴れる (?) ようなことがあったのは、能の閉鎖性を逆に証明する事柄であろうかとも思われる。だが、能の上演自体には古式ゆかしい様式が維持されているので、きっとその点では室町時代以降、その上演方式はあまり変わっていないのではないか。もしそうなら、現代人の時間感覚と合わないことはむしろ当然だろうし、能という特殊な様式美を持つ芸能には、例えば西洋音楽に比べれば、普遍性がないということは言えるだろう。それゆえ、西洋音楽のスタイルで、現代に能の翻案による新たな作品を世に問うという意欲は、理解はできるのである。日本で生まれた芸能をもとに日本人が作曲したドイツ語のオペラが、この日本の地で、外国人指揮者、外国人演出家、外国人歌手たちによって上演されたわけである。休憩なし、上演時間 1時間半の公演であった。

まず結論を急いでしまうと、この作品をオペラと呼ぶ必要があるのだろうかというのが、私の最初の感想。歌手は 4人で、それは、旅の僧と、彼が宿を借りようとする須磨の漁師 (行平と二人の姉妹の悲しい過去を説明する)、そして、松風・村雨の姉妹である。だがそこに、7人の合唱団 (ギリシャ神話のコロス的役割を担う) と 14人のダンサーが舞台で入り混じる。つまり、総勢 25名が舞台でパフォーマンスを繰り広げるのだが、ストーリー展開が遅いので、そのパフォーマンスの密度は非常に濃くなってくる。まず驚きは、松風 (ベルギー人ソプラノ、イルゼ・エーレンス) と村雨 (スウェーデン人メゾ・ソプラノ、シャルロッテ・ヘッレカント) の二人は、粗い紗幕を張った向こうで、空中からゆっくりと下りてきて、かなり長い間、その状態で歌いながら、体を動かすのである。このシーンは、誰もがはっとするほど見事。
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オペラであるから、歌手たちの歌唱はある。だがそれは、予想通り陰鬱な語りに近いもので、優美でも甘美でもなく、聴かせどころのアリアなど、あるわけもない。では詩的なものは? ある。平安時代の歌人、在原行平 (ゆきひら。在原業平の兄) の、「立ち別れ いなばの山の みねにおふる まつとし聞かば 今帰り来む」。これは百人一首にも入っている有名な歌で、「まつ」は「松」と「待つ」をかけてあるのだろう。つまり、因幡の山に生える松に託して、あなたが待っているならまた帰って来ようという意味だ。こんな歌を、いにしえの時代にとっくにこの世から姿を消してしまったはずの若い姉妹が口にすると、それはもう不気味なことこの上ないことは事実だが (笑)、そこにはなんとも言えない深い情緒があることも確か。これは能の本質に通じる性質だ。だが能と違うのは、群舞である。舞台装置 (美術はドイツ人のピア・マイヤー=シュリーヴァーと塩田千春) はシンプルながら、歌手を含め、舞台に最大 25名が乗ることになるので、その動きはかなり複雑。視覚的な刺激は充分だ。
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上の写真でも分かる通り、能と違うところは、舞台に出ている人の数だけではなく、人の動きの多様性とその速度という点にもある。常に緩慢な能の動きとは全く異なり、ここでは、何組かのダンサーや歌手たちが、あるときはドッペルゲンガーのように他人の姿勢を模倣して分身し、またあるときにはいとしい恋人の姿を取り、そしてまたあるときには、恋い焦がれる感情を抽象的に表現する。このパフォーマンスは、例えば山海塾や大駱駝艦の暗黒舞踏 (私は大好きなのである) を思わせる面もあり、そこには、日本古来の土俗的なものすら感じさせる。だがこのオペラの演出家は日本人ではない。ドイツ人振付家のサシャ・ヴァルツ。現在 54歳で、ピナ・バウシュ亡きあとのドイツ・コンテンポラリー・ダンスを背負う人材であるらしい。
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このヴァルツの振付の面白さに目を取られると、音楽をじっくり聴くのが難しくなってくるほどだ。それだけ、ダンスとして面白いのである。そう思うと、冒頭や最後の海鳴りや風の音は、明らかに録音であった (ピチャピチャ鳴る水の音は、実際の音を PA で拡大?)。正直なところ、これはオペラの生演奏では反則であると思う。なぜなら、それは効果音にほかならず、作曲家の創作ではない以上、ダンスの雰囲気作りのみに貢献するものであるからである。私が上で書いた、この作品をオペラと呼ぶ必要があるのかという感想は、この点にもよっている。結局 1時間半の上演中、歌手たちの延々続く歌唱と、小編成のオケ (英国のデヴィッド・ロバート・コールマン指揮の東京交響楽団) の奏する暗い音たちの点描をバックとしたコンテンポラリー・ダンスによって、古来日本文化によくある死者と生者の交わりの感覚、それから、後半の方では、多少抽象化されてはいるものの、男女の性愛も、テーマとして描かれていたと思う。これはこれで、美的には優れているし、見ていて退屈することはなかったが、オペラならではの感興はほとんど感じられず、その点には少し違和感があったと正直に書いておこう。

だが、いずれにしても、この作品の日本初演は画期的な出来事。是非ほかの細川オペラも見てみたいものである。今回の作品のように、能をテーマとして、その本質の再現と新たな手法を模索することは大いに結構だが、西洋音楽としてグローバルに意義を持つ作品が、7作品のうちにはあるはずだ。次回はそのようなものを期待したいと思う。

# by yokohama7474 | 2018-02-19 22:31 | 音楽 (Live) | Comments(2)  

パーヴォ・ヤルヴィ指揮 NHK 交響楽団 (ヴァイオリン : 樫本大進) 2018年 2月17日 NHK ホール

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NHK 交響楽団 (通称「N 響」) とその首席指揮者パーヴォ・ヤルヴィによる今月の定期演奏会の 2演目めである。N 響は時折、定期演奏会用にもチラシを作ることがあるが、今回がそのケースで、上で見る通りの、花をあしらった、カラフルだが決して派手ではないものが作成された。ここには、「飛翔と安らぎのためのフランス音楽」とある。そう、今回のプログラムはすべてフランス音楽である。詳細は以下の通り。
 デュリュフレ : 3つの舞曲作品 6
 サン=サーンス : ヴァイオリン協奏曲第 3番ロ短調作品61 (ヴァイオリン : 樫本大進)
 フォーレ : レクイエム作品 48

うーん、これはなかなかに凝った曲目である。だが NHK ホールの客席は、いつにも増して混雑している。これはなかなかに素晴らしいことではないか。もしかすると、ベルリン・フィルのコンサートマスターであり、一般の知名度も上がってきている樫本大進がソロを取ることがその一因であったかもしれないが、彼が弾いたコンチェルトの前後には、ドビュッシーやラヴェルとは異なる持ち味の作曲家の作品が配されている点、ヤルヴィの工夫が見られたと思う。
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そういうことなので、まずは樫本の弾いたサン=サーンスのコンチェルトについて語ろうと思う。カミーユ・サン=サーンスはもちろんフランスの大作曲家だが、以前も書いた通り、その幅広い作曲活動の全体像を我々がよく知っているとは言い難い。つまり、交響曲、管弦楽曲、ピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲、室内楽、オペラとそれぞれの分野で、少数の作品が知られているだけで、しかも、必ずしもそのクオリティが常に高いという評価になっているとは思われない。だがそれでも何曲かは音楽史上に残る傑作とされていて、ヴァイオリン協奏曲ではこの第 3番のみがそれにあたる。大変ドラマティックで、ヴァイオリンの華やかな技巧を楽しむことのできる名曲だと思う。あの「ツィゴイネルワイゼン」の作曲者として有名な 19世紀の大ヴァイオリニスト、パブロ・サラサーテのために書かれ、彼に献呈されている。さて今回の樫本のソロは、ひとつひとつの音に確信を持って、太い一筆書きのように前に進んで行くような印象だ。情熱の表出はもちろん充分であるが、そこにはまた、音楽的情景の移り変わりを巧まずして描き出すだけの計算もあったように思う。やはりこの人は、あの天下のベルリン・フィルのコンサートマスターとして日々研鑚を積むことで、その結果をうまくソロ活動に活かしているように思われる。ただ正確に弾く、あるいは美麗な音で弾くということではなくて、どうすれば曲の持ち味を聴衆に伝えることができるか、そのことを常に考え、自然にからだが動くようになっているように思う。なのでこのように時折日本の舞台でソロ活動を展開してくれることは、我々日本の聴衆にとっても意義深いことだと実感するのである。今回彼はアンコールを弾かなかったが、それも一見識であると思う。

さて、そのサン=サーンスの前後に演奏された曲であるが、最後のフォーレのレクイエムは有名曲であるものの、最初のデュリュフレの曲を知っている人がどのくらいいるだろうか。かく申す私も、今回演奏された 3つの舞曲という曲は、全く未知であった。調べてみると、かつてジャン・フルネがオランダ放送フィルを指揮した録音が出ていたようだ。私はそのコンビでのフランス音楽の CD を何枚か持っているので手元で調べてみたが、この CD は所有していないことが分かった。現在入手困難。ほかの収録曲は、イベールの「寄港地」と、ドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」による交響曲である。
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モーリス・デュリュフレ (1902 - 1986) という作曲家、一般にはそれほど知られていない名前かもしれないが、彼の代表作はレクイエム。そのレクイエムが有名であるのは、同じフランスの先輩作曲家であるフォーレのそれと近い楽器編成、曲の構成を持っており、そして古雅な雰囲気でも共通するからである。そう、今回のヤルヴィと N 響の演奏会の最初と最後の曲目は、その点でつながりがあるわけだ。これがデュリュフレの肖像。
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この人はもともとオルガン奏者で、実はプーランクのオルガン協奏曲の初演者でもある。生涯で出版された作品はたったの 14曲であるが、レクイエム以外の作品の演奏を聴くことは極めて稀だ。今回演奏された 3つの舞曲も、上記の通り録音も少なく、私自身も今回初めて聴いた。文字通り 3曲の舞曲からなる 20分ほどの曲であるが、レクイエムの静謐なイメージからはかなり異なるもので、特に 3曲めではタンブーランという太鼓が活躍し、そのリズミカルな音型が楽しいし、またサクソフォーンまで入るというモダンぶりなのである。この作曲家の知られざる一面を知ることとなったわけだが、N 響の、特に木管楽器は、この耳慣れない作品を見事な緊密度で音にしていて、素晴らしいと思った。

そして、最後は名曲、フォーレのレクイエム。ここではヴァイオリンや管楽器の活躍は非常に限られていて、オケにおいては中音域から低音域の弦楽器が多くの場面で音楽を牽引する。また、デュリュフレのレクイエムも同じなのであるが、ここには通常のレクイエムでは劇的に盛り上がる「怒りの日」が含まれていない。それだけ静かで古雅なレクイエムであるということである。ヤルヴィと N 響はここでも曲の持ち味にふさわしく、決して前のめりになることはない美しい音と絶妙の呼吸をもって、この美しい曲を演奏した。だが、若干残念であったのは、合唱と独唱。合唱は東京混声合唱団 (今回は児童合唱やボーイソプラノはなし) であったが、弱音の美感には、さらなる改善が可能ではなかっただろうか。ソプラノの市原愛、バリトンの青山貴も、危なげはないものの、心の奥まで染み渡る声という次元には、残念ながら至らなかったと思う。実はこの日のバリトンは、アンドレ・シュエンというイタリア人歌手が予定されていて、この人は 2014年にニコラウス・アーノンクールがウィーンのアン・デア・ウィーン劇場でモーツァルトのダ・ポンテ三部作を演奏した際にすべて出演し、フィガロ、ドン・ジョヴェンニ、グリエルモを歌った人だというので楽しみにしていたが、どうやら前日の演奏会では歌ったものの、この日は体調不良で突如キャンセルしたようだ。実際、コンサート会場で配られたプログラムにも、代役を示す紙片は挟まっておらず、会場に表示があったのみ。つまりはそれだけ土壇場でのキャンセルであったのだろう。実は私も演奏前にはそれを知らず、歌手が舞台に登場したのを見て、どうもバリトン歌手がイタリア人には見えないなぁと首をかしげたものであった (笑)。それから、もうひとつ個人的な感想を述べると、合唱・独唱の中で、譜面を見ながら歌ったのは、急遽代役で登場した青山のみ。だが、このような静謐な宗教曲は、やはり譜面を見ながらの歌唱がふさわしいのではないか。つまり、オペラであれば舞台で暗譜は当たり前であり、その延長で考えれば、宗教曲であっても、人間的なドラマ性に溢れた曲なら (例えばベルリオーズとかヴェルディのレクイエム)、暗譜でもよいかもしれない。だがこの曲には激性はなく、ただひたすら奏者自身の内面と向き合うような要素によって成り立っている。何も暗譜で歌う必要はなかったのに・・・というのが、私の率直な感想である。

だが、ともあれこのような意欲的なプログラムをどんどんこなしているヤルヴィと N 響には、今後も大いに期待が募る。あ、そうそう。今回のプログラムが凝っているという点をもうひとつ挙げよう。デュリュフレとフォーレが、レクイエムという共通項でつながるのは上述の通り。では、サン=サーンスとデュリュフレは? 実は、デュリュフレがパリ音楽院でオルガンを習ったのは、サン=サーンスの弟子であるユジェーヌ・ジグーという人。つまりデュリュフレはサン=サーンスの孫弟子ということになる。それでは、サン=サーンスとフォーレは? 実は 1871年、ともにフランス国民音楽協会の設立メンバーなのである (年は、サン=サーンスが 1835年生まれ、フォーレが 1845年生まれと、10歳差)。それだけではない。なんと、ともにパリのマドレーヌ寺院のオルガニストを務めているのである (サン=サーンスが 1858年から 1877年まで。フォーレは 1896年から 1905年まで)!! このマドレーヌ寺院では、フォーレのレクイエムの最初の版が初演されている。なるほど今回の演目には、そのような相互のつながりがあったのか。マドレーヌ寺院は、もともとはナポレオンの命によってフランスの戦没者を悼む建物として造営されたギリシャ神殿様式の教会。パリでは結構素通りしてしまうことが多いが、次回訪れたときには、この場所でフランス文化史に思いを馳せてみたいと思う。
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# by yokohama7474 | 2018-02-18 22:34 | 音楽 (Live) | Comments(2)  

ダークタワー (ニコライ・アーセル監督 / 原題 : The Dark Tower)

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スティーヴン・キングは日本でも人気の、一般的にはホラー作家と呼ばれている人。過去 40年くらいの間、映画化作品が異様と言ってもよいほど多い作家であるが、1947年生まれであるから、実は未だ 70歳。まだまだバリバリの現役なのである。この作品はそのスティーヴン・キングの原作による映画であるが、正直なところ、私はその原作に関しては全く知識がない。もちろん私とても、キング作品自体を全然知らないわけではなく、リヴァー・フェニックスの演技が忘れがたい映画をヴィデオで見る前に夢中になって読んだ傑作、「スタンド・バイ・ミー」や、先般も映画化されて結構評価が高かった、単行本ハードカバー 2冊構成の「IT」、その他、短編集を含む数冊は読んでいる。だが、この作品の原作である「ダークタワー」シリーズが、1982年から 22年に亘って書き継がれた彼のライフワークであるとは、寡聞にして知らなかったのである。上記の通り、私はキングを「一般的にはホラー作家と呼ばれている人」と表現したが、その理由はやはり、本当に感動的な「スタンド・バイ・ミー」に見られる通り、何か人間の本質的な部分を抉り出す彼の手腕を知っているからで、この作家を「ホラー作家」と決めつけてしまうことで、随分と偏狭な見方に堕ちてしまうような気がしてならない。それはつまり、私が原作に何の知識もなくこの映画を見て、そこで扱われているテーマが、例えば「スタンド・バイ・ミー」と共通していることを感じたという事実だけによっても、証明できるような気がする。そのスティーヴン・キングはこんな人。ホラー作家という顔はしていないでしょ? (笑)
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この映画のストーリーは至って単純。少年が夢の中で、世界の中心に聳え立つタワーと、それを守る拳銃の名手 (ガンスリンガーと呼ばれ、本名はローランド) と、魔術をもってタワーを崩壊させようとする悪い奴 (ウォルター) が争っているのを何度も見る。少年は現実世界において敵に追われることになり、別の世界に入って行くと、そこには実在のローランドとウォルターがいて・・・というもの。要するに純然たるファンタジーであって、ホラー的な要素は全くない。この映画の原作は上記の通り、キングが 22年の長きに亘って書き続けた物語。日本語で手軽に手に入るのは新潮文庫だが、それはなんと全 16巻という、超がいくつもつく大作なのである。そうなるときっと、私が生きているうちに読み通すことはないであろうと確信するのだが (笑)、ではこの映画は 3時間も 4時間もかかる作品かというとそうではなく、実はたったの 95分なのである。ということは、原作がその長さにかかわらずエッセンスは単純であるか、またはこの映画が原作のほんの一部しかカバーしていないかのどちらかであろう。これが世界の中心に聳えるというダークタワー。
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さてここからは原作は忘れて、純粋に映画だけについて考察したい。一言、この映画は面白いか? 恐らくその答えは、昨今の、映像もストーリーも凝りに凝った映画に慣れていると、「否」になるのではないか。善と悪の対決は極めて単純だし、最後の決着も、「あれれ。これだけ?」という感想を抱くほどシンプル。なので、本当にこの映画だけ見ると、大して記憶にも残らない作品ということになってしまうかもしれない。だが、私にはなぜか、この映画のシンプルさが心地よく思えたのである。多分それは、夢見る少年が主人公で、彼の妄想が実際に存在していて、巨大悪と、それと闘う善がともに必死にしのぎを削っているという設定に、人間の想像力の原点を見るからではないか。その点において、上記の通りこの作品の精神は「スタンド・バイ・ミー」と共通するものであると思うし、そこに溢れるファンタジーこそ、何か人間の奥深いところに訴えかける切実さのあるものなのだと思う。うまく言葉にできないが、スティーヴン・キングがこれだけ世界中で多くの人々に愛されるのは、何かそこに、人間の本性の点で根源的なものがあるからであろうと思うのである。

そしてこの映画では、善玉悪玉、それぞれの役者がよい。実際、プログラムに掲載されている原作者キングのインタビューにおいて、二人とも絶賛されている。まず善玉ローランドを演じるのは、イドリス・エルバ。なかなか精悍な俳優で、ポスト・デンゼル・ワシントンの呼び声も高いという。
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調べてみて分かったことには、「マイティー・ソー」シリーズでヘイムダルという役を演じているらしい。役名だけではピンと来ないが、この役であれば、はいはい、よく分かりますよ。
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一方、悪役ウォルターを演じるのは、マシュー・マコノヒー。彼は多くの映画に出ている割には、もうひとつ代表作がないように思う。だが、「ダラス・バイヤーズクラブ」という映画でアカデミー賞を取っているし、最近で記憶にあるのは「インターステラー」の主役であろうか。ちょっと若い頃のクリストファー・ウォーケンを思わせるクールさで、このような悪役がよくあっているので、同様の役でまた見たい。
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ひとつ気づくのは、我々は最近の様々な映画で、強大な力を持つ悪役によって世界が崩壊に瀕するという設定にお目にかかるが、その多くは荒唐無稽なもの。その意味では、この映画におけるタワー崩壊の危機という設定も、やはりある種荒唐無稽ではあるものの、なぜそのタワーがそんなに大事であるのかは説明されず、それゆえにかえってファンタジーの世界で完結するゆえ、リアリティのなさによって観客がしらけるということにはならない。現実世界ではない、いわばパラレル・ワールドの危機であり、そこには自由なファンタジーがある。そのような遊び心が分かる人には、この映画は決してつまらないものではないだろう。

ここで脚本・監督を務め、スティーヴン・キングの長大な原作を凝縮して映画にしたのは、ニコライ・アーセルという 1972年生まれのデンマーク人。最近このブログでご紹介する映画には、北欧出身でハリウッド映画の監督を務めるケースがいくつもあるが、彼もそのひとり。これまでの監督作でメジャーなものはないが、スウェーデン映画「ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女」の脚本を務めているらしい (因みにその作品の監督は、先日記事を書いた「フラットライナーズ」の監督、やはりデンマーク人のニールス・アルデン・オプレヴだ)。今後の予定としては、マット・デイモンを主役として、ロバート・ケネディの伝記映画を撮るらしいので、注目だ。
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この記事を書いていたら、無性にスティーヴン・キングの小説が読みたくなってきた。我々に様々なファンタジーを提供してくれるその作家を、決してホラーだけの人と思わないことで、見えてくることが沢山あると思う。まあ、このように長い「ダーク・タワー」は、やっぱり読まないと思うが (笑)。でも人生何が起こるか分からない。もし読んだら、もちろん記事を書くこととします。
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# by yokohama7474 | 2018-02-18 00:32 | 映画 | Comments(0)