井上章一著 : 京都ぎらい

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京都のイメージにぴったりの抹茶色のカバーに、デカデカと「京都ぎらい」と題名が書いてあり、しかも、「新書大賞2016 第1位」と謳い文句が出ている本が積んであるのは、書店を覗くといやでも目に付くものである。しかも副題が「千年の古都のいやらしさ、ぜんぶ書く」と、これまた刺激的。ここで「全部」という漢字ではなく、「ぜんぶ」とひらがなになっているあたりも、いかにも京都らしい柔らかさがあって、これはどうやら、京都人が自らの故郷を非難する本であろうと察しがつく。なんと言っても日本でいちばんの観光地であり、昨今では海外から旅行者の人気の的である京都に関して、一体何がそんなに問題であるのか。

実は私がこの本を手に取った理由は、キャッチーなこの装丁だけではなく、この著者の名に覚えがあったからだ。井上章一。この本における肩書は、「国際日本文化研究センター教授」とある。この教育機関のことはよく知らないが、調べてみると、哲学者の梅原猛が初代所長、心理学者の河合隼雄が第 2代所長を務めた機関で、日本文化の研究に携わる錚々たる研究者たちが顔を揃えているようだ。この井上氏は1955年京都府生まれ。京都大学工学部建築学科及び同大学院修士課程修了。もともとは建築の専門家であるが、これまでの著書には「現代の建築家」という専門そのままの本もあれば、「霊柩車の誕生」「美人論」から、果ては「阪神タイガースの正体」という本まで含まれる、熱狂的タイガースファンであるらしい。実は私は以前この人の著作を1冊読んでいて、それは「つくられた桂離宮神話」という本なのである。さらに言えばその本を読む前に、2冊ほど関連する別の本を読んでいた。今本棚からそれら3冊を出して来よう。
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桂離宮は、ほぼ同時期、17世紀前半に造営された日光東照宮の極めて高い装飾性との対照において、その簡素な精神性に日本美の極を見るとする論調が歴史的に主流である。この井上氏の著作では、その論調を作り出したドイツの建築家ブルーノ・タウトに異を唱え、そのタウトの考察が戦時体制においてナショナリズムの高揚に利用されたということが述べられている。私自身は、ブルーノ・タウトの名前と桂離宮神格化については、30年以上前、高校生の頃に読んだ、それこそ梅原猛の著作で知ったのだが、桂離宮を初めて参観したのはそれから10年以上経ってからだった。一方で、その頃には既にモダニズム建築に対する興味も芽生え、また外国人から見た日本文化にも興味があったので、自然にタウトの著作に親しむこととなった。そうなると今度はそのアンチテーゼとしての井上氏の本に興味が沸いた、という順番であったわけである。そうして読んだ井上氏の言説を、大変面白いと思ったのであった。実証的な論の展開は大方忘れてしまったが、あとがきに紹介されたエピソードが面白くてよく覚えている。引用しよう。

QUOTE
私は、桂離宮の良さがわからないと、正直にまず書いた。無理解を前提にしながら、仕事をすすめてきたのである。この態度は、しかし多くの同業者から、つぎのように批判されてきた。
「桂離宮がわからないようなやつに、建築史を研究する資格なんかない」
「桂離宮を語るのなら、美の本質に肉薄すべきだ。それをないがしろにするのは、邪道である」
いまでも、「井上です」と自己紹介をしたときに、からまれることがある。「君か、桂離宮がわからんなどという暴言をはくのは」、と。
UNQUOTE

著作を世に問うに当たって、これほど正直に自らの立場を明確にできるとは、大変勇気のいることである。世の中には常識というものもあれば良識というものもある。実はそれらと、先入観、集団への帰属意識、他人から白眼視されることへの恐怖、といったものとの距離は、意外と近い場合もある。私はこの井上氏の「つくられた桂離宮神話」を読んで、やはり何事も自分の直感を大事にすべきであること、そしてごく自然な感性で物を見ること(つまり、他人がよいと言うからよいのではなく、自分がよいと思うからよいのだという素直な信念)を学んだのであった。もちろん、私自身が桂離宮を美しいと思うか否かとは別問題として(笑)。
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そんな中、久しぶりにこの著作家の本を読んでみたのだが、この語り口には覚えがある。いや、この本の方が格段に口語的で読みやすい。誰でもが読み通せるだけの平易な内容であるがゆえに、新書大賞なるものを受賞するのもむべなるかな。内容は要するに、洛西の嵯峨という京都「府」出身の自分が、実際に京都の中心である洛中生まれの人々から見れば「郊外」の生まれとしてしか扱われないことへの積年の恨みに端を発し、京都というこの複雑な土地柄における坊主と姫の歴史的関係(?)、訪問者を歓迎するために庭園を発達させた寺院の歴史的機能、初期の江戸幕府の寺院復興への貢献、足利尊氏の天龍寺創建は後醍醐天皇の霊魂の鎮魂のためである等々、聖俗取り混ぜたとりとめない京都論が展開する。ここに記載されている場所にイメージのある人なら、なるほどなるほどと思う箇所が多々あることだろう。また、引用されている実際の会話にかなり笑いを誘われることであろう。タブーを恐れずに歯に衣着せぬ論調の箇所もあり、さすが件の井上氏、勇気があるなぁと思ってしまうこと請け合いだ。このような飄々としたお方。
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一方、このような本の中には、笑いながらも日本人のイヤな部分が見えてくることも事実。ここに書かれたことを知らず、ただ純粋に京都に日本の歴史を感じ、桂離宮に簡素な日本美の極を感じていた方が、実は幸せかもしれない(笑)。読書経験をいかに実生活に活かすかは、読んだ人次第ということだろう。

# by yokohama7474 | 2016-07-28 22:42 | 書物 | Comments(2)  

アラン・ギルバート指揮 東京都交響楽団 2016年7月25日 サントリーホール

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7月も最終週に入り、そろそろ音楽シーズンも終わりかと思いきや、昨日まではチョン・ミョンフンが東京フィルで情念一杯の「蝶々夫人」を採り上げていたことは既にご紹介済であり、それに加えて、まだこの顔合わせ、アラン・ギルバートと東京都交響楽団のコンサートが残っていたとは!! 実は昨日、私が今年の1月に書いたこのコンビの前回の演奏会の記事に何十もアクセスがあって、どうしたことかと思いきや、私が昨日オーチャードホールでプッチーニの抒情に溺れていたちょうどその頃、サントリーホールではこのコンビのマーラーが鳴り響いていたわけである。昨日の演奏についての論評を知りたくて検索した結果、既に古新聞となった1月の、しかもやたら長い記事(笑)に辿り着いた方々には、大変申し訳ありませんでした。

アラン・ギルバートは日系アメリカ人で、天下のニューヨーク・フィルの音楽監督だ。つまりは昨日の記事の主人公、チョン・ミョンフンと同クラスの世界一流のステイタスを誇る指揮者である。東京はついに、このクラスの指揮者が同じ日に別の在京オケを振るような高い水準の音楽都市になったということである。この点はなんらの誇張もなく、事実と認識されたい。
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あ、それから、前回の記事で私が憤りを表明しておいた淋しい客席の入りであるが、今回はほぼ満席であったので、その点では大変嬉しかった(笑)。さてそれでは、そのギルバートが今回、東京都交響楽団(通称「都響」)との三度目の共演に選んだ曲目は何であったか。
 モーツァルト : 交響曲第25番ト短調K.183
 マーラー : 交響曲第5番嬰ハ短調

周知の通り、モーツァルトが生涯で書いた50曲ほどの「交響曲」というジャンルにおいて、短調の曲はたった2曲しかない。この25番と、それから有名な40番。どちらもト短調である。そして、その40番の方は、偶然ながらつい先日、7月21日にチョン・ミョンフンと東京フィルが演奏している。ついでながらチョンと東フィルは、今日のメイン曲目であるマーラー5番も、今年2月26日に演奏しているのである。いずれも人気曲なので、たまたまそういうことになっているだけであろうが、東京で鳴り響いている音楽の質の高さを、再度強調する理由づけにはなるだろう。また今日は、ギルバートと親しい友人である指揮者の大友直人の姿も客席にあった。これは今年の1月、大友が音楽監督を務める群馬交響楽団にギルバートが客演したときの様子。
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さて、私見ではニューヨーク・フィルは未だに世界でも最もプロフェッショナルなスーパー・オーケストラのひとつなのであるが、そこの音楽監督を務めるとなると、多様なレパートリーへの順応性が求められるに違いない。従って、ギルバートのレパートリーとしてモーツァルトがどの程度中核をなすものか分からないが、当然素晴らしい演奏を聴きたいし、実際私が以前ニューヨークで聴いた彼のハイドンなどは、小股の切れ上がったなかなかの秀演であった。今日のモーツァルトはどうであっただろう。正直私はここでは、手放しの絶賛は留保しておこうと思う。この曲らしい疾走感のある演奏ではあったが、弦を主体とするアンサンブルの、より精緻かつ有機的な音の絡みを聴きたかった気がするからだ。管楽器も、今の都響なら、もっともっとニュアンス豊かに演奏できるのではないだろうか。何もギルバートが大柄だから音楽もおおざっぱと言う気は毛頭ないが、期待が強かったせいか、全体的に平板なような気がしてしまったのである。うーん、聴き手の立場から気楽に発言するのは気が引けるが、音楽とは本当に難しいものである。

音楽ファンは先刻ご承知の通り、日本のオケはマーラーの演奏頻度が高く、中でも都響は、歴代のシェフにマーラーを得意とする指揮者が多かったこともあり、そのマーラー演奏には定評がある。若杉弘、ガリー・ベルティーニ、エリアフ・インバルのもとで何度もマーラーの交響曲全曲演奏に取り組んで来た実績は、他の在京オケと比較しても冠絶している。特にインバルとの最新のマーラー・ツィクルスはすべて録音され、音楽評論家も(先般亡くなった辛口評論家、宇野功芳ですら)唸る名演揃いであった。その意味で、都響は間違いなく日本を代表する世界的なマーラー・オーケストラである。だが、ちょっと待て。歴史的背景を含めた世界有数のマーラー・オーケストラを挙げるとするなら、ギルバートが音楽監督を務めるニューヨーク・フィルは必ずその筆頭に挙げられる存在だ。なにせ、作曲者自身、作曲者の弟子であるブルーノ・ワルター、そして20世紀にマーラー・リヴァイヴァルを成し遂げた立役者レナード・バーンスタイン、それから、やはり20世紀の最高のマーラー解釈者となったピエール・ブーレーズらが歴代の音楽監督を務めているわけであるからだ。そう思うと、19世紀以来の歴史における世界有数のマーラー・オーケストラの音楽監督が、21世紀に世界に認められる実績を作った日本のマーラー・オーケストラを指揮するこの機会に、興奮を禁じ得ないのである。これは1910年、死の前年にニューヨークを歩くマーラーの姿。
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さて、この曲の冒頭のソロトランペットのファンファーレは、指揮者によってきっちり振る人と、キューだけ出して奏者に任せる人がいるが、今回のギルバートは前者。ソロとはいえ、細かい表情づけを目指したものと思われた。だがしかし、ファンファーレの後のトゥッティが、意外と決まらない。それに続く葬送行進曲は、テンポはしっかりしているものの、どういうわけか、あまりギリギリと心に迫ってくる感じがない。マーラーには独特の音楽との一体感が必要であると私は思っていて、以前同じ曲でチョン・ミョンフンの熱演にごくわずかな違和感を覚えたのも同じ感覚なのであるが、今日のギルバートも、例えば同じオケでインバルが何度も聴かせてくれた、あたかもマーラー自身が呼吸をしているような一種の夢幻的な感覚(オケが鳴るとか鳴らないとは違う感覚)までは、残念ながら感じることはできなかった。部分部分には、都響の素晴らしいソノリティに耳が刺激される瞬間もあったものの、マーラーの表現している、したたかな演技をも含んだ世界苦は、なかなか立ち現れて来なかったと思う(もちろん私の主観なので、違う感想を持たれた方も大勢おられよう)。第2楽章、第3楽章も、素晴らしい音が鳴ったときもあれば、第3楽章のホルン合奏の一部のように、あまりキレイでない音が鳴ったときもあり、正直なところ、もうひとつ乗り切れないと思っていたのだが、音楽とは面白いものだ。第4楽章アダージェットの後半、弦楽器が大きな盛り上がりを見せる場面で、突然私の胸に何かがググっと迫ったのである。そして音楽はそれから終楽章のロンドに入り、きれいごとでは済まされないオケの献身的かつ攻撃的な演奏によって、ついに大きな視野が開けた気がしたのである。終わってみれば素晴らしい感動。本当にライヴは面白い。聴く側の体調や心理的な面も影響しているだろうが、私としては今日の演奏は、あのアダージェットの最後の部分で何かが変わったように思われたのであった。鳴っていた音楽の印象としては、例えば同じマーラーのクック編曲による第10番全曲版の終結部に出て来る、あの世界の終わりのような絶美の弦の上昇シーンが、早くも5番に立ち現れたようなイメージであった。今でもあの音が耳に残っている。

実は今日のプログラムを読むと、曲目解説の箇所にわざわざ、「今回の演奏では、アラン・ギルバートとニューヨーク・フィルのボウイングを使用します」と書いてある。ボウイングとは、弦楽器の弓の上げ下げのこと。よくコンサートマスターが決めると聞くが、ここでわざわざこの断り書きを入れた理由は、これまでこの曲の演奏で都響が採用してきたボウイングとは違うものだったのだろう。それも演奏には何らかの影響があったかもしれない。それから、これは大変面白いのだが、ステージに向かって右側の席にいた私には、ハープ奏者を斜め横から見ることになったのだが、その横顔が、どうも日本を代表する世界的ハーピスト、吉野直子に似ているような気がして仕方なかったのだ。もちろん都響にも専属のハーピストはいるだろうし、さすがにここに吉野直子が登場するのは変だと思っていたのだが(サイトウ・キネンの演奏会ではあるまいし)、プログラムのメンバー表を見ると、なんとハープ奏者名の記載はないのだ。だが、ソリストを招聘しているとの記載もない。そこで帰宅してから都響のフェイスブックを見たところ、なんとなんと、やっぱり本当に吉野直子なのであった!! これは驚きだ。でもなんでプログラムに記載がないのだろうか。世界的名手に失礼ではないか?!
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まあそんなわけで、図らずも東京のコンサート事情の侮れなさを再認識する結果となったが、以前も書いた通り、ニューヨーク・フィルを退任したあとのアラン・ギルバートには、少しでも多く来日の機会を作ってもらって、都響との関係を深めてもらいたいものだ。余談だが、彼の後任として2018年からニューヨーク・フィルの音楽監督に就任するのは、オランダ人のヤープ・ヴァン・ズヴェーデン。もともとヴァイオリニストで、オランダの名門、コンセルトヘボウ管のコンサートマスターだ(記憶違いでなければ、バーンスタインがこのオケを指揮したベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」の録音でソロを弾いているのが彼であったと思う)。現在はダラス交響楽団の音楽監督という、正直それほどメジャーではないポストにいるので、天下のニューヨーク・フィルに栄転とは、ギルバート抜擢時に続く、これまたビックリの大抜擢なのであるが、実は私は彼の生演奏を一度だけ聴いたことがあって、それはロンドン・フィルを指揮した、やはりここでもマーラー5番!!だったのだ。それは実に鳥肌立つような個性的かつ壮絶な演奏で、これはすごい指揮者だぞと思ったものである。その意味では、ニューヨークの音楽界は今後、この小柄な怪人指揮者によって刺激的になるものと思う。東京も負けてはいられませんね!!
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# by yokohama7474 | 2016-07-25 23:31 | 音楽 (Live) | Comments(4)  

プッチーニ : 歌劇「蝶々夫人」(演奏会形式) チョン・ミョンフン指揮 東京フィル 2016年7月24日 オーチャードホール

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東京フィルハーモニー交響楽団(通称「東フィル」)の今月の指揮台には当代一流の名指揮者チョン・ミョンフンが立つことは、既に7/21(木)の演奏会の記事でご紹介した。その際にはあえて詳細は記さずにいたのだが、今回チョンが2度に亘って指揮した作品は、プッチーニのあの名作オペラ「蝶々夫人」だ。東フィルは今月のチョンの演奏会を1枚のチラシにまとめているが、前回同様、今回も完売御礼だ。チョンはオペラの経歴も豊富な指揮者であるが、日本で彼のオペラを聴く機会は存外に少ない。3年前には、ヴェネツィアのフェニーチェ歌劇場を率いて「オテロ」を上演したりもしているが、その後彼のオペラを日本で聴くことができたであろうか。会場には今回のリハーサルの写真も展示されており、現在のチョンと東フィルの充実ぶりを知る身には、期待感満点なのである。
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今回のプログラムには、今年3月のフェニーチェ歌劇場によるチョンのインタビューが記載されている。

QUOTE
私たちが偉大な作曲家の作品を演奏するとき、すべては楽譜に書かれていて、われわれ音楽家は、そのメッセンジャーにすぎません。私にとって「蝶々夫人」はまだほとんど学生の頃に手掛けた初めてのオペラで、人生のほとんどをこの作品とともに過ごしてきました。しかし、それでも、楽譜からすべてを引き出すことは、常に真剣に取り組むべき困難な仕事なのです。
UNQUOTE

というわけで困難な仕事に真剣に取り組むチョンであるが、オペラの全曲を演奏するのに、オーチャードホールの舞台には譜面台はなく、暗譜による演奏だ。魂を削って音楽するようなチョンが人生のほとんどを過ごしてきたというこの作品。一体どんな演奏になるのか。
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オペラを演奏会形式で聴くことには独特の意味がある。その最大のものは、作曲家が工夫を凝らして書いたオーケストラパートをよく聴くことができることである。プッチーニは1858年生まれ。マーラーよりほんの2年、リヒャルト・シュトラウスより6年上であるだけで、これら後期ロマン派の作曲家たちと完全に同世代である。実に精緻に書かれたオーケストラパートは、まさに音楽を聴く醍醐味に溢れている。凄まじい表現力。
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うーん。それにしても素晴らしい。何かというと、今回の演奏、指揮者だけでなく、すべての独唱者から合唱団に至るまで、全員が暗譜である。ということは、本当にそのままオペラの舞台に乗せてもよいような公演であるのだ。このような演奏が素晴らしくないわけがない。今回主役の蝶々さんを歌うのは、韓国出身のヴィットリア・イェオ。
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往年の名ソプラノ、ライナ・カバイヴァンスカの弟子であり、イタリアで研鑽を積んでいる。昨年はムーティ指揮の「エルナーニ」でザルツブルク音楽祭にもデビューしているという。対するピンカートンは、1991年生まれ、弱冠25歳のイタリア人、ヴィンチェンツォ・コスタンツォ。
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こんなに若いテノールではあるが、バッティストーニがジェノヴァで「マクベス」を振ったときに主役を務め、このピンカートン役も既にフィレンツェ、ヴェネツィア、ナポリでも歌っているのである。これはリハーサルのときの一コマ。
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だが正直なところ、このコスタンツィオの声は綺麗ではあったものの、もうひとつ突き抜けたところがなく、能天気さを発散すべきピンカートンとしては課題が残ったと思う。その反面、タイトルロールのイェオは強い声で終始一貫して素晴らしい出来であった。この蝶々夫人、ヨーロッパ人から見た日本女性の小柄で一途な面を誇張して表していると思うが、この役柄を歌うには、ただ可愛らしいだけでは全く話にならず、緊張感溢れるリリコ・スピントでなければ。その点でイェオの声は見事であった。このオペラを代表するアリア「ある晴れた日に」は、情念だけでなく、背筋が伸びるような矜持をたたえた歌として、傾聴に値するものであった。後半に向けて会場ではハンカチを手にする人の姿が増えて行ったものだ。

うん、ここでもう一度思い出そう。この音楽の素晴らしいこと。チョンはいつものことながら指揮棒を鋭く空間に突き刺したり、グルグルと円を描いたり、ドンと足を踏み鳴らして音を煽ったり。そして東フィルの素晴らしい演奏能力が彼の身振りを音に化して解き放つのだ。なんという高水準の音楽。もともとこのオケのコンサートマスターを長らく務めた荒井英治をゲストコンサートマスターに迎えたオケは、甘く切ない思いから命を絶つ決意の思いまで、余すところなく表現した。本当に素晴らしい。
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そして大変印象に残ったのが、シャープレスを演じた甲斐栄次郎だ。二期会所属なので、その名をよく目にするが、なんと2003年から10年に亘ってウィーン国立歌劇場専属であったという。この作品では領事シャープレスが上手でないと全体が締まらないのであるが、甲斐の歌唱は申し分のないもので、今日会場で流された涙のある部分は、彼の巧みな歌唱によるものであったと言えるのではないか。
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今回の上演は演奏会形式なので、演技は最小限なのであるが、男性陣が皆タキシードであるのに引き替え、女性陣はそれぞれの衣装を身に着けていた。と言ってもこのオペラに出てくる女性は3人のみ。主役の蝶々夫人以外には、侍女のスズキと、米国女性ケイトだけだ。このうちケイトは出番も少なく、西洋のドレスであったが、蝶々夫人とスズキは東洋風の衣装。だが、髪型を含めて完全に日本風ではなく、いわば汎東アジア風とでも言おうか。この作品はたまたま日本が舞台になっているものの、そこで表現された人間の感情は普遍的なもの。音の大伽藍さながらに鳴り響くクライマックスでの蝶々夫人の姿は、西洋でも東洋でもない、人間の生きる姿そのものであった。

チョンの指揮する東フィルの演奏、前回に続き今回も瞠目すべきものとなった。また9月に来日してベートーヴェンを聴かせてくれるチョンには、もっともっと東京の指揮台に立ってもらえることを期待しよう。駒鳥が巣を作るまで待っています!!
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# by yokohama7474 | 2016-07-24 23:04 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

上岡敏之指揮 新日本フィル 2016年7月23日 すみだトリフォニーホール

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このブログでも過去に何度か触れているが、新日本フィルハーモニー交響楽団(「新日本フィル」)は、新たなシーズン、つまりは今年の9月から、上岡敏之(かみおか としゆき)を新音楽監督に迎える。2013年に前音楽監督クリスティアン・アルミンクが退任してから3年の空白はあったものの、その間にインゴ・メッツマッハーやダニエル・ハーディングのもとで充実した演奏活動を繰り広げたこのオケが、遂に才能ある新音楽監督を迎えて新たな時代に入って行く、そんな期待が高まるのである。これは、音楽監督就任発表の記者会見時の写真。彼にしても、日本で手にする最初のポスト?ではないだろうか。
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今回の曲目は以下の通り。
 シャブリエ : 狂詩曲「スペイン」
 ビゼー : 「アルルの女」第1組曲
 リムスキー=コルサコフ : スペイン奇想曲作品34
 ラヴェル : スペイン狂詩曲
 ラヴェル : ボレロ

うぉー、これはなんと楽しい。既に夏休みに入っているということで、誰もが楽しめるポピュラーな曲目で、秋からのシーズンに先立つ肩慣らしを行うという、そういった位置づけであろう。上のポスターにもある通り、「真夏のスペイン・ラプソディー」である。あ、もちろん、ラプソディは、私自身もこのブログのタイトルに使っているくらいなので思い入れがあり、私の人生これすなわちラプソディのようなものなのであるが(笑)、この言葉は日本語では「狂詩曲」。思いつくまま気の向くままに奏でられる曲のことを指し、まさに話題が二転三転ととりとめない、このブログにはぴったりだと思っているのである。これらの曲も、何々の第何番何々調という作品ではなく、気ままに楽しめる曲ばかり。ただ、上記の曲目を見て、「へぇー、狂詩曲スペインと、スペイン狂詩曲があるのか」と思う方もおられるかもしれない。そうなのである。南欧スペインは、他のヨーロッパ諸国から見ると、以前イスラム教徒の支配下にあったこともあり、陽光溢れるエキゾチックな国。ここに並んだフランスやロシアの作曲家が、勝手気ままにスペインをイメージして書いた名曲の数々だ。なので、狂詩曲スペインとスペイン狂詩曲は、違う曲なのであります。但し、正確には「アルルの女」だけは舞台はスペインではなく南仏。同じビゼーの曲では、歌劇「カルメン」はスペインのゼヴィリアが舞台となっている。ただ、ここで2曲目に「カルメン」を入れてしまうと、ちょっとうるさすぎる(?)との配慮だろうか、「アルルの女」の2つある組曲のうち、派手に盛り上がる有名な「ファランドール」を終曲とする第2組曲ではなく、穏やかな曲も含む第1組曲を採り上げて、変化を持たせようという意図ではないだろうか。また、ファリャとかロドリーゴとか、あるいはクリストバル・ハルフテル(ちとマイナーか?笑)のようなスペインの作曲家による作品は含んでおらず、いわゆる「スペイン情緒」のある名曲に絞っているようだ。

このオケは開演前にホールのホワイエで曲目解説をしたり、場合によっては楽員が室内楽を演奏するなどして、聴衆を飽きさせない工夫を以前からしているが、今回も、スペインという国について、また今回の曲目についてのレクチャーがあった。スペイン人のクラリネット奏者(後半の曲目に登場)が喋り、楽団のインテンダント(いわゆる運営責任者)として、最近一般からの公募で選ばれた井上貴彦氏(確か会計士出身の方と記憶)が通訳方々、周辺の話をされていた。
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さて今回の演奏であるが、両者未だに探り合いという感じも残ったものの、まずは指揮者とオケの個性がうまく調和した演奏であったと思う。上岡の指揮の特色は、昨年暮れの読響を指揮した第九でも触れたが、全く彼独自の音楽観に基づいた音色やテンポを身上とする。場合によっては一般的な演奏とはかなり異なることもあり、実際に聴いてみるまで分からない、スリリングな指揮者だ。今回のようなポピュラーな曲目でも、手抜きは一切なし。時にオケとの間に距離を感じさせる瞬間もあったように思うが、それこそが指揮者とオケの顔合わせの妙である。最初からすべてうまく行くようでは面白くない。そもそも、上岡がこれまで日本で披露して来たレパートリーは、やはりドイツのたたき上げ指揮者という彼の経歴からして、どうしてもドイツ物が多かった。そして実際、9月以降の新シーズンの定期演奏会で彼の振る曲目を見ても、ほとんどドイツ物である。その意味ではこのスペイン・ラプソディ・プログラムは若干異色。だが今後の新日本フィルの活動を占うには、このような曲目での充実が欲しいところである。
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前半の3曲は、とにかく明るく楽しく鳴ってもらえればそれでよく、爆発的な演奏には至らなかったものの、安心して聴くことができた。課題はやはり、後半のラヴェルではなかったか。オケの技術的水準には不満はないが、時折もっと立体的に響いて欲しい瞬間があったように思う。そもそも前半と後半を比べてみると、ラヴェルが求める音の精妙さは、それはそれは大変なレヴェルのものであることが、よく分かる。もちろん彼がシャブリエやビゼーやR=コルサコフよりも後の世代であることにもよるが、このクリスタルのような繊細な音の景色は、まさに天才が創り出した業であり、その再現には細心の注意と大胆さが必要だ。例えば「スペイン狂詩曲」の冒頭は、聴こえるか聴こえないかという弱音が棚引いているのだが、ここで上岡が要求した最弱音をオケはかなりがんばって実現していたものの、このコンビがこれから関係を進めて行けば、より精緻なものになって行くと思う。ボレロも、冒頭の小太鼓を弱音のピツィカートで伴奏する弦の一部が、指揮者の要求するニュアンスを出していて見事ではあったものの、もっともっと神秘的に響くようになって行って欲しいという将来への期待を抱かせた。もちろん曲が進むにつれ、熱狂は徐々に沸き起こり、音楽への没入は感動的なものではあったが、それだけに、今後このコンビが切り拓いて行ってくれるであろう長い道のりにも思いを馳せることになった。

そしてアンコールに、「アルルの女」の「ファランドール」が演奏された。推進力のある切れ味よい演奏で、真夏のスペイン・ラプソディは幕を閉じた。なるほど、そういう趣向でしたか。

会場には、このオケのコンサートマスターである崔 文洙と上岡のコンビで録音したCDが売られていた。ここでは上岡は指揮者ではなくピアニストとして、バッハとシューマンのヴァイオリン・ソナタの伴奏をしている。上岡のピアノは本格的で、何年も前に、あろうことか、歴史上で最も難しいと言われるラフマニノフの3番のコンチェルトのソリストを務めたこともあり、チケットは完売で私はそれを聴けなかったが、いつか彼のコンチェルトも聴いてみたい。また、崔は最高のコンサートマスターであり、素晴らしいヴァイオリニストなので、このような共演(デュオリサイタルも開いたことがあるようだ)によっても、オケと音楽監督の関係は深まって行くものと期待される。
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私は新日本フィルの新シーズンの会員にはなっていないが、面白そうなコンサートがいくつもあるので、適宜選んで聴きに行きたいと思う。上岡さん、期待していますよ!!

# by yokohama7474 | 2016-07-24 02:00 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

レジェンド 狂気の美学 (ブライアン・ヘルゲランド監督 / 原題 : Legend)

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1960年代ロンドン。人々がビートルズに熱狂した時代。ジェームズ・ボンドが活躍した冷戦の時代。今やノスタルジーをもって語ることしかできないそんな時代のロンドンで、双子のギャングが幅を利かせていた。この映画はその双子のギャングを主人公としている。兄のレジナルド(レジー)は切れ者でカリスマ的。演じるのはトム・ハーディだ。
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そして弟のロナルド(ロン)はカミングアウトした同性愛者で、カッとなると手の付けられない乱暴者だ。演じるのはトム・ハーディだ。
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あ、あれっ。私は今、何か変なことを言ってしまっただろうか。この兄弟、双子とはいえ別々の人物であり、このような共演シーンもあるというのに、演じるのは同じトム・ハーディだというのか。同姓同名か?
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いやいや、そんなわけはなくて、ここで私が一人でボケとツッコミをやらずとも(笑)、今や飛ぶ鳥を落とす勢い、このブログでも過去の出演作を大絶賛してきた絶好調のトム・ハーディが、一人二役でとことん双子のギャングを演じてみせるのだ。まずこの点がこの映画の最大の売りであることは間違いない。この二人の「共演」シーンには、取っ組み合いの喧嘩まであるという念の入り用だ。トム・ハーディの役作りは明確で、まずレジーを演じるときには、ある意味快活で、表情自体をめまぐるしく替え、恋人の前ともなると、時にはこのような笑顔も見せる。もちろん、獣のように豹変する瞬間はかなり怖いが。
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一方のロンを演じるときには一貫して陰気で、口の中に詰め物をしているのであろう、顎の線にシャープさがないし、モゴモゴと不明瞭に喋り、口を開いても下顎の歯がほとんど見えない。彼はこのままの表情で平然と殺人を犯すのだ。
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このような対照が全編にこの映画独特の色合いを醸し出しており、それは見事なものだ。時代の空気が伝わってくる。実在のクレイ兄弟はこんな感じで、まあこの種の映画では、必ずしも本物ソックリな映像を作ることが重要だとは思わないが、多分演じている役者たちが、実物に近いことによってリアリティを出したいという心理的効果はあるだろう。うーん、確かにこの実物、今回のトム・ハーディの役作りと近い雰囲気がある。本当に双子でも顎の線が違いますな(笑)。ただ、強いて言うとレジーは実物の方がさらに線が細いようにも見える。
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一人二役も、今日技術的にはそれほど難しくないだろうが、本作の撮影方法を調べてみると、ごく素朴な方法がメインであったことが分かる。つまり、双子が共演するシーンでは、トム・ハーディのそっくりさんを代役に立てて芝居をしたとのことだ。だが、その代役はただのそっくりさんではない。ジェイコブ・トマリというスタントマンで、「マッドマックス 怒りのデスロード」や「レヴェナント 蘇りし者」でもハーディのスタントを務めたとのこと。ハーディは様々なインタビューでこのスタントマンをジェイコブと名前で呼んで感謝の意を表明しているらしい。うーん、男っぽい。
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レジーの恋人フランシスを演じるのは、オーストラリア出身のエミリー・ブラウニング。決して素晴らしい美形というわけではないが、なかなかに表情豊かであり、等身大の女性を自然に演じてみせた。
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彼女はどこかで見たことあると思ったら、ザック・スナイダー監督の佳作「エンジェルウォーズ」の主役でした。そうでしたそうでした。昔「ゴーストシップ」にも子役で出ていたらしいが、それは覚えていない。あ、あと、「ポンペイ」か。なるほど。こんな感じでした。
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その他の出演者ではデイヴィッド・シューリスが最も知名度が高いとは思うが、私としてはやはり、あの「キングスマン」で颯爽と主役を務めたタロン・エガートンの姿を見ることができて嬉しい。ただ、ロンの愛人役という役どころだが・・・。
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そんなことで、役者陣の充実は大したもの。あとは、時代の裏側を駆け抜けた双子のギャングを巡る物語が、どういった現代的な意味を持ちうるかということであるが、この点については若干課題が残ったのではないか。これは「ゴッドファーザー」でもなければ「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」でもない。特徴的であるのは、一人称で物語を語るのがレジーの恋人のフランシスであるということ。これによって特にレジーの人間的内面を描くことはできたと思うものの、ギャング同士の抗争の中で、いかに二人が策略や蛮勇をもってのし上がって行ったかという点の迫力には、いささか不足していたように思う。もちろん抗争のシーンや警察を手玉に取るシーンも少しはあるが、物語を大きくうねらせるようなものではなかった。社会の激動の中で、彼らが何を見てどこを目指して活動したのかを、さらに実感をもって感じられればよかったのにと思う。この作品の脚本・監督を務めるブライアン・ヘルゲランドは、あの素晴らしい「L.A.コンフィデンシャル」とか「ミスティック・リバー」、「ボーン・スプレマシー」等の脚本を書いた人らしいので、もうひとつ、ひねりが欲しかったという気がする。

ところでこれは、カラーで残っている実際のクレイ兄弟とフランシスの写真。上のモノクロの写真もそうだが、どうも彼らは自らを被写体として意識しているのではないだろうか。まるで映画のワンシーンのような写真である。
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事実は小説よりも奇なり。最近の映画は実話に基づくものが多く、それはそれでよいのだが、純然たるフィクションが荒唐無稽になりすぎて、想像力の翼を気持ちよく広げることができない場合が多い。それゆえに、この映画のような事実に基づくもの、しかも実在の人物たちがそれなりの情報を残してくれている場合には、時代と正面から切り結ぶようなリアルな社会性が欲しいと、私は考えるのであります。

# by yokohama7474 | 2016-07-24 00:27 | 映画 | Comments(0)